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女同士の義理立たぬ

〜「心中天網島」をかぶき的心情で読む・その1


1)男の一分

『福徳に。天満(あまみつ)神の名をすぐに天神橋と行き通 ふ。所も神のお前町営む業も神見世に。紙屋冶兵衛と名を付けて、ちはやふる程買いにくる。かみは正直商売は、所がらなり老舗なり。』

「中の巻・紙屋冶兵衛内の場」は このような文章で始まります。『かみは正直商売は』というのは、紙と神とを掛けておりまして、紙商売を正直に営んでいるという意味に「正直の頭に神やどる」の諺を重ねています。上の巻に引き続き、ここでも紙と神が重ねられてドラマが展開します。(別稿「たがふみも見ぬ恋の道」をご参照ください。)紙屋店に兄と叔母がやって来て、小春が請け出されるという噂があるがそれはお前なのかと文句を言いに来ます。これを聞いて冶兵衛は、これはまったく迷惑である ・自分はあれ以来ぜんぜん外に出ていないと言います。これは事実その通りで、冶兵衛は内心はともあれ・小春と縁を切るという約束は守っているわけです。それで兄も叔母も安心して「誓紙書かすが合点か」と言います。

『「何がさて千枚でも仕らふ。」「いよいよ満足すなはち道にて求めし」と孫右衛門懐中より。熊野の群鳥比翼の誓紙引き替へ。今は天罰起請文小春に縁切る思ひ切る。偽り申すにおいては上は梵天帝釈下は四大の文言に。仏ぞろ神そろへ紙屋冶兵衛名をしっかり。血判を据えて指出す。』

これは神に対して大変なことを冶兵衛はしているわけです。もちろん冶兵衛はそれも覚悟の上のことでしょう。自暴自棄になっていたのかも知れません。上の巻において、冶兵衛は小春と二十九枚の起請文を交わしていることが述べられています。もちろん小春との愛を確認し、それを破るなら神罰を受けても構わぬという誓文です。それとはまったく逆のことを冶兵衛は誓紙に書いて血判まで押すわけです。近松は、これから 何か不吉なことが起きるに違いないという不安を観客のなかに起こさせます。事実、この後からドラマは急転換していきます。

兄・叔母が帰っていった後、冶兵衛は炬燵に入って布団のなかですすり泣きます。これを見ておさんが冶兵衛の未練をなじります。「女房の心には鬼が住むか蛇が住むか・・」というおさんの口説きはあまりにも有名です。これに対して冶兵衛は「女には未練がないが、太兵衛に悪口を言われて生き恥をかく、それが口惜しい無念だ」というのです。

『「太兵衛めがいんげんこき(高慢ぶる奴)。冶兵衛身代行きついての、かねに詰まってなんどと、大坂中をふれ廻り、問屋中の付合(つきあい)にも。面をまぶられ生恥かく胸が裂ける身が燃へる。 ええ口惜しい無念な熱い涙血の涙。ねばい涙を打越え、熱鉄の涙がこぼるる」とどうと伏して泣きければ』

ここで冶兵衛が訴えているのは「男の一分(いちぶん)」ということです。太兵衛は冶兵衛と小春を張り合っていたわけですから、小春を身請けすれば ・太兵衛は「冶兵衛は金に詰まった」などと大坂中を触れ回るだろう・そうなれば大坂の問屋仲間で冶兵衛は笑い者になってしまう、それは自分にとって生き恥だという わけです。それほどに当時に大坂町人にとって「男の一分」・「男が立つ」ということは大事なことでありました。

もちろん冶兵衛の心のなかに小春への未練が全然ないとは言えません。冶兵衛の『「たとえこなさんと縁切れ。添はれぬ身になつたりとも。太兵衛には請出されぬ、もし金堰(かなぜき)で親方からやるならば。物の見事に死んで見しよ」と。たびたび詞(ことば)を放ちしが、これ見や退(の)いて十日もたたぬうち・・・』の言葉には、小春に裏切られた口惜しさが滲み出ています。しかし、他の男ならともかく も・よりによって太兵衛に請け出されるのが冶兵衛にとっては問題です。

ところがおさんは冶兵衛の言葉を聞いて、意外な反応を示します。『はっとおさんが興さめ顔、ヤアハウそれならばいとしや小春は死にやるぞや。』 もちろん冶兵衛にも何のことか分かりません。『ハテサテなんぼ利発でも、さすが町の女房なの。あの不心中者、なんの死のう。』 冶兵衛はそう言って一笑に伏すのですが、そこでおさんは一生言うまいと思った秘密を夫に打ち明けるのです。このままでは冶兵衛が死ぬと見たおさんは小春に手紙を書いて、「女は相身互いごとだから・思い切れないところを思い切って・夫の命を助けてくれ』と訴えたのです。その手紙を読んだ小春が「身にも命でも代えられない大事の人だか・引くに引かれぬ義理から思い切る」と返事をよこしたのです。その小春が金づくで太兵衛に請け出されようとされているなら・きっと小春は死ぬに違いないとおさんは直感したのです。


2)おさんの心情

ここでおさんが『悲しやこの人を殺しては。女同士の義理立たぬ。まずこなさん早う行て・どうぞ殺してくださるな』と言い始める心理が「どうもよく分らん」と言われるところです。妻の座にいるおさんが憎んでも飽き足らない遊女のことなど気に掛けることはないじゃないか、というのが現代人の思うところかも知れません。しかし、これはこのように考えればいいと思います。冶兵衛が「男の一分」を大事にしているように・おさんにも「女の一分」があるのです。「女同士の義理」とは何でありましょうか。「女は相身互いごとだから・思い切れないところを思い切ってくれ」と必死で頼んだ・ 自分の訴えを聞いてくれた人であるから・その人がまさに死のうとしている危機を自分は見過ごすことはできない、ということです。この理屈からは妻と遊女という立場の違いはすっ飛んでいます。おさんは、小春と女対女の対等の関係に立っているのです。

このような場面でおさんが「女同士の義理」ということを急に言い出すのは登場人物の心理に義理の論理を無理矢理こじつけているようで不自然に見えるかも知れませんが、そうでは ありません。このことは義理というものを「かぶき的心情」において考えないと理解ができません。義理が社会から(つまり外部から)強制されるものではなくて、自分自身の内部から自発的 に湧き出てくるものであることを理解せねばなりません。つまり、それは理屈からくるものではなく・心情から生じるもので、そのために直情的であって・損得勘定ではない・ひたすらに無私な心情なのです。(別稿「かぶき的心情とは何か」・「かぶき的心情と社会・世間」をご参照ください。)

「義理が立つ・立たぬ」という心情を当時の男も女も同じように持っていたと言うことです。 太兵衛に小春が請け出されると聞いて「ええ口惜しい無念な熱い涙血の涙。」と言って冶兵衛が口惜し泣きするのは、大坂商人としての冶兵衛の面目が立たないということでした。金がなくてライバルに身請けされるということは個人の 面子であるというより・大坂商人としての冶兵衛の面子なのでした。

ご注意いただきたいですが、これは「恥の問題」ではないかと思われる方もいらっしゃるでしょうが、むしろアイデンティテイーの問題であると考えるべきです。冶兵は「面をまぶられ生恥かく胸が裂ける身が燃へる」と言っていますが、元禄の大坂商人道は今から見れば「任侠道」に近いところがあって・突っ張るところは突っ張る・張り合うところは張り合う、というところがあるのです。それが大坂商人の意気地というものです。「商人としての一分」が立たなければ大坂で商売をやっていけないのです。そこに商人のアイデンティティーが掛かっていて、それが行動の原動力になっているのです。 このことが分らないと、「冥途の飛脚」でどうして忠兵衛が熱くなって金子の封印を切ってしまうのか・「曽根崎心中」で どうしてお初が「この上は徳さまも死なねばならぬ」と叫ぶのかも理解ができません。おさんの心情も同様です。

おさんが小春に書いた手紙の文面については詳しいことは分かりませんが、おさんは『こなさんがうかうかと(ふらふらと心迷い)死ぬる気配も見えしゆえ「女は相身互ごと。切られぬ所を思ひ切り、夫の命を頼む頼む』と書いたと言っています。恐らく冶兵衛はほとんど商売は手付かず だったでしょうから老舗の紙屋の経営も危うくなっていたに違いありません。おさんは小春に対して「私の夫を返してくれ」と訴えたのではなく、「このままでは大坂商人・紙屋冶兵衛が立たぬ」と書いたであろうと思います。だから小春は『身にも命にもかへぬ大事の殿なれど。引かれぬ義理合。思い切る』と書いたのです。そう考え れば、おさんがなぜ小春と対等な関係に立つのかが分るはずです。 おさんは商人の女房ですから当然、商人の価値観を持っています。そのおさんの訴えを聞き入れた小春は、遊女と言えども・おさんにとって同じ価値観を持つ・対等な人間と見なされるのです。ふたりは 「大坂商人・紙屋冶兵衛」を介して立っているわけです。

小春がおさんの訴えを聞き入れて身を引いたからには、小春が死ぬかも知れぬという窮地に立っている今・これを見過ごすことはおさんにはできません。だから、『悲しやこの人を殺しては。女同士の義理立たぬ。まずこなさん早う行て・どうぞ殺してくださるな』ということになるのです。小春を救うのは、言うまでもなく・太兵衛より先に冶兵衛が小春を身請けすること 以外に方法がありません。普通ならば妻と遊女は対等ではあり得ないでしょう。しかし、「女同士の義理」ということになれば、おさんはその矛盾を乗り越えなければな らないのです。

「そうは言っても小春を身請けする金がどこにあろうか」と思案する冶兵衛の前で、おさんは「ノウ仰山な、それで済まばいとやすし」と言ってその場に新銀四百目を投げ出して夫を驚かせます。さらに「箪笥をひらり」と開けて鳶八丈などの着物を取り出します。ここでのおさんは、夫の恥をすすぐのと・女同士の義理を果たすということで一種の躁状態になっています。それが「箪笥をひらり」という描写に表れています。恐らくおさんはその時に冶兵衛との夫婦の絆を確認したような気分になっているのかも知れません。しかし、箪笥を開けて家族の着物を取り出しながら・じつは「家の崩壊」がどんどん始まっているのです。

『(小春を)請け出してその後・囲うておくか、内へ入るにしてから、そなたは何とすることぞと、言われてハッと行き当たり、アツアさうじゃ・ハテなんとせう、子供の乳母か・飯炊か、隠居なりともいたしませう、わっと叫び、打ち沈む』

冶兵衛に問われて、おさんはハッと我に返ります。しかし、ここまで運命の独楽が回り出せば夫婦はもう後戻りはできません。おさんの覚悟は決まっています。思わず冶兵衛が女房に手を合わせると、おさんはこう答えます。

『あまりに冥加恐ろしい。この冶兵衛には親の罰・天の罰・仏神の罰は当らずとも、女房の罰一つでも将来はようないはず・許してたもれと、手を合わせ、口説き嘆けば、勿体ない・それを拝むことかいの。手足の爪を放しても・みな夫への奉公。紙問屋の仕切銀・いつからか、着類を質に間を渡し・私が箪笥はみな空殻。それ惜しいとも思ふにこそ・何言うても跡偏(あとへん)では返らぬ・サアサア早う小袖も着替えて・にっこり笑うて行かしやんせと・下の郡内、黒羽二重、縞の羽織に、紗綾(さや)の帯・金拵(ごしら)への中脇差、今宵小春が血に染むとは、仏や知ろしめさるやん。』

ここでおさんは「勿体ない・それを拝むことかいの。みな夫への奉公。」と言っております。これを義理の論理にこじつけた「貞女の鑑」・「出来過ぎた女房」というイメージに読んでしまうと、おさんの行為は 不自然なものにしか見えませんし・近松のドラマにも共感できないでしょう。しかし、かぶき的心情で読めば、おさんは世間的に夫の下に従属してただ奉仕して・耐え忍ぶ女房なのではなく、精神的に自立して・夫と対等に立つ女房であることが分か るはずです。その自立した女房が、自分のことは何にも言わず・ただニッコリと笑って「男を立てて来い」と言って夫を送り出しているのです。

別稿「たがふみも見ぬ恋の道」において、「紙屋商売をないがしろにした冶兵衛が因果の果てに心中する」というイメージを近松は文中に何度も繰り返し書き込んでいることを考えました。 もしそれだけで終るならば、おさんも冶兵衛も小春も・因果の律にただ操られている木偶の如きものなのでありましょう。 しかし、近松は木偶のドラマを書いたのではなく・人間のドラマを書いたのです。因果の律に縛られる構造を描き出しながら、その枠組みのなかで懸命に「自分を立てようと(つまり自分のアイデンティティーを守ろうと)」する人間の必死のあがき・能動的なドラマ を近松は描いているのです。

しかし、そこへ舅五左衛門が現れて夫婦の必死の工作も水泡に帰してしまいます。思えば冶兵衛が小春を身請けし・おさんが乳母で同じ家に住むなどということで世間が通るわけがないのです。結局、おさんは五左衛門に連れ戻されて、冶兵衛は自分自身でこの結末を付けねばならないことになります。

(H16・6・6)


 

 

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