仇討ち物の論理〜四十四年ぶりの「岡崎」
平成26年12月国立劇場:「伊賀越道中双六」
二代目中村吉右衛門(唐木政右衛門)、五代目中村歌六(山田幸兵衛)他
1)仇討ち物の論理
別稿「返り討物の論理」で触れましたが、歌舞伎の仇討ち物というものは、実は返り討物とでも呼んだ方がふさわしいくらいのものです。敵を追い求める側(善人側)がどれほどの辛酸を舐めるかが、芝居の核心となっています。敵に兄が返り討ちされれば、弟がまたこれを追う。仲間が殺されれば、別の仲間がまたこれを追う。こうして返り討ちされた者の怨念の力を受け継ぎながら、追う側の怨念がさらに強さを増していきます。このような苦難の果てでなければ大望成就の喜びは許されないかの如く、戯作者は作中の主人公にさまざまな苦難を仕掛けます。そこが仇討ち物の見どころとなるのです。
敵討物には苦労の果てに敵をついに仕留める・その過程に予祝性が意識されています。民俗学的に云えば、これは通過儀礼の物語であると見ることもできます。通過儀礼というのは人類学者のアーノルド・ファン・ゲネップが提唱した概念で、人生の節目に訪れる危機を安全に通過するための儀式のことを言います。これを無事に通過すれば、その人物にふさわしい新しい身分や社会的役割が与えられるということです。これについては別稿「吉之助流・仇討ち論」の一連の論考がありますから、それをご覧ください。
江戸期というと敵討ちというイメージがあるようです。確かに江戸期は敵討ちが多かったようですが、どうして江戸期になると敵討ちが増えるのかは、かぶき的心情ということを考えなければよく分かりません。それは敵討ちという行為のなかに、「一分がたつ」・「意地が立つ」という形で、個人の強烈な自己主張が絡んでくるからです。もちろん当時の日本人に個人対社会・組織・あるいは世間の対立構図などという明確な観念があったわけではありません。個人の問題はまだモヤモヤとした鬱屈か憤懣みたいなものでしか意識されてはいませんが、間違いなく原初的な観念とでも云うべきものがそこにあります。江戸期になって、身分制度・社会組織が固まってくると、とたんに窮屈になってくる。そのなかで個人のアイデンティティと折り合いを付けつつ・次第に固まっていく社会組織のなかで自分という個人はどう生きて行くかということが、現実として切実な問題となってきます。そういうなかで旗本奴や町奴の争い事が起きるし、心中事件も頻繁に起きるのです。そして敵討ちというものは、個人に降りかかった最も過酷な試練というべきものです。松平信綱が熊沢蕃山に次のように尋ねたことがあります。「主家の用で使いに出向く途中、親の仇に出会ったらどう対処すべきであろうか」 蕃山の答えはこうでした。「親の仇を持つ身であれば、奉公などせぬものです。」 仇討ちが馬鹿馬鹿しいことくらい、当時の人でも、思慮ある人ならばそんなことは当然気が付いていたはずです。
だから歌舞伎の仇討ち物が問いかけるものは、実は討った討たれたというところにないのです。仇討ち物の主人公が観客に問いかけることは、どうして俺はこんなことをしなけりゃならないのかということです。主人公は「どうして俺はこんな 馬鹿なことをしなけりゃならないのか」と自分自身に問いつつ、それでも艱難辛苦に耐えてひたすら敵を追うのです。そんな下らないこと、やめちゃえばいいじゃないの。いっそのこと、町人になってどこかで慎ましく暮らせばいいじゃないの。意地と体面を捨てれば楽になる。そういうことは誰だって考えることだけれど、それでもやっぱり彼は敵を追うのです。それはなぜでしょうか。敵を追うのをやめたらば、自分は自分でなくなっちゃいそうだと思うからです。自分が「○家に奉公する何の何兵衛」だということが、彼にとってとても大事なことです。そしていつしか敵を追うことが、彼の生きる目的となってしまうところまで行ってしまう。彼は必死で自己実現を目指し、そこで何かが起きます。
ですから、仇討ち物では「社会のなかで自分という個人はどう生きて行くか」ということが、究極の状況において問われているのです。このような問題は現代においては無縁なことでしょうか。時代遅れの・古くさくて、現代人にまったく関係のない問題なのでしょうか。そうお考えになる方は、忠義とか封建主義とか・そういうシチュエーションの枝葉しか見ていないのです。仇討ち物が「社会のなかで自分という個人はどう生きて行くか」というドラマだと考えるならば、実はこの問題は、現代においてはますます複合化して深刻なものとなっていることが分かります。たとえば過労死の問題を見てください。仕事だけが人生じゃない。そんなことは分かっているのに、やっぱり無理をして身体を壊してしまう・あるいは精神を病んでしまう。あるいは子供の虐待死の問題を見てください。あるべき親という役割のなかにひとり閉じ込められて誰にも相談できなくて苦しんでいる人たちもいるのです。まあそれだけが理由ではないかも知れませんが、個人対社会・組織という問題は、現代においてますます個人に重くのし掛かって来る深刻な問題なのです。
「伊賀越道中双六」を書いた近松半二は、儒学者穂積以貫の次男として生まれました。儒学者は浄瑠璃など芸能を嫌った人が多いのですが、以貫は竹本座と関係が深く、著書「浄瑠璃文句評注難波土産」のなかで近松門左衛門の「虚実皮膜論」を記録していることでよく知られています。だから以貫は儒学者としては相当さばけた人だったと思いますが、その息子の半二が浄瑠璃作家になってしまったのです。ということは、半二の作品のなかに、儒教の道徳観・倫理観が強く反映しているということは、大いにあり得ることだと思います。たとえば「本朝廿四孝」を見ればそれが分かります。別稿「超自我の奇蹟」をご参照ください。当然、「伊賀越道中双六」もそうなのです。半二が仇討ち物で描いたものは何であったのでしょうか。本稿ではそのことをちょっと考えてみます。(この稿つづく)
(H26・12・7)
2)「莨切り」の場について
「伊賀越道中双六・岡崎」は、通称「莨(たばこ)切り」と呼ばれます。戸外に雪中で凍え死にしそうな妻子がおり、政右衛門がそれを知りながら助けることが出来ない苦しさを押さえつけて莨を刻む場面がこの芝居のクライマックスだからです。
このことについて七代目中車が政右衛門を勤めた時の芸談があります。中車が政右衛門を初めて演じたのは明治28年11月歌舞伎座のことで、この時の幸兵衛は九代目団十郎でした。この舞台は良かっただろうと想像しますが、中車は政右衛門を演じるに当たり、老舗の莨屋に行って莨の切り方を教わったのだそうです。吉之助は莨を嗜みませんけれど、莨というのは細かく刻むほど味が良くなるそうです。莨は生(なま)の葉っぱではなくて・干して乾燥した葉っぱですから、ただ押し板を左の手で押さえて・右手の包丁で刻むという感じでは、莨は刻めないのです。手元に視線を落としつつ右手の包丁に体重を乗せて、手で刻むのではなく身体で莨を刻むのです。これはとても神経を使う作業なのです。他の役者はそういう風にやらないけれども、自分は莨屋で学んだことをその通り舞台でやっているということを中車は言っています。なるほど莨切りというのはキャベツの千切りみたいな感じではいかないのです 。
そこでここからは吉之助の想像ですが、「岡崎」で莨切りをするのは日本史上名だたる剣豪(実説・荒木又右衛門)です。その政右衛門が日本刀を莨切りの包丁に持ち替えても、そこに日頃の剣術の修練の業(わざ)が見えなければならないと思うわけです。剣豪の莨切りとはどんなものになるか。多分、トントントンという包丁が俎板を打つ音の強さとリズムがきちんと揃っていて、神経の乱れを見せないものとなるに違いない。無類の剣豪の莨切りならそうなると想像したい。ところが「岡崎」の莨切りでは政右衛門が予期しないことが起きるのですね。戸外に雪中で凍え死にそうな巡礼姿の女房がおり・その呻き声が聞こえるなかで、政右衛門は莨を切らねばなりません。当然、政右衛門は平静でいられるはずがない。だから包丁が俎板を打つ音に乱れが生じますが、政右衛門は今こことで自分の正体を明かすわけにいかない。だから心の乱れを押さえつけ、必死で平静を装いつつ、政右衛門は全身で莨を切るのです。包丁に全神経を集中して政右衛門は妻子のことを忘れようとします。しかし、できない。だとすればトントントンと俎板を打つ音は、時にリズムが乱れ・あるいはフッと止まり、またリズムを刻み出すという風な感じで、揺れる様相を呈することになる。だから包丁が俎板を打つ音に政右衛門の苦悩・哀しみが表現されるであろう。
「岡崎」の莨切りにそのような情景を想像したいのは、この場面は心理的なクローズアップが利いていると吉之助には思われるからです。義太夫の詞章は戸外で寒さに凍える女房お谷のことだけ描写しています。しかし、実はその詞章は内で莨を必死で刻む政右衛門の神経をかき乱すために使われているのです。また当然のことですが、トントントンと俎板を打つリズムは、義太夫が描写する戸外の女房お谷の詞章の足取りと一致せねばならない。このことも大事なことになります。たとえば映画で政右衛門の表情・手先だけを撮ってみれば、とても印象的なシーンに仕上がると思います。だからこそこの場が「莨切り」と通称されると思います。
しかし、これは結局、吉之助の想像に過ぎないのです。実際に劇場で莨切りをそのようにやろうとすると、政右衛門の動きは極度に少なくなるし、遠くの席からは包丁の音も聞こえない。政右衛門の心理の綾 がなかなか感知できません。だから実際の舞台では、遠くからもはっきり分かる動きで、政右衛門の心の揺れ・苦悩を見せなければならないことになります。これは仕方ないことですが、吉之助には文楽でも莨切りでの政右衛門は動き過ぎる気がします。もっと内省的な・極度に動きを抑えた心理描写を求めたいと感じるのは、吉之助の思い入れが強過ぎるせいでありましょうか 。
先に「仇討ち物というものは実は返り討物と呼んだ方がふさわしい」と書きましたが、このような主人公に課せられた苦しみは、状況からの返り討ちと言って良いものです。そのような苦しみの果てでないと大願成就の喜びは得られないのです。「岡崎」の政右衛門には、作者によってこの後に更なる試練が用意されています。(この稿つづく)
(H26・12・14)
3)追い込まれる政右衛門
「岡崎」は政右衛門が我が子を殺してしまう悲劇が眼目ですが、そこに至るまでにちょっと考えておきたいことがあります。それは政右衛門が幼名庄太郎と云っていた少年時代に、孤児同然だった庄太郎を育て・武術の指南を授けてくれた師匠である幸兵衛のことです。ひょんなことで互いを知ったふたりは思いがけない再会を喜び合いますが、ここで政右衛門は娘婿の股五郎への助力を頼まれます。政右衛門にとって幸兵衛夫婦はなんと敵側であったわけです。しかし、この時点で幸兵衛夫婦は庄太郎が政右衛門であることをまだ知りません。政右衛門は素性を隠して夫婦の申し出を承知します。このことの意味をよく考えて置きたいと思います。
政右衛門が頼みを受けたのは、もちろん敵である股五郎の所在を知るためです。政右衛門は「いかにも助太刀仕らう。ササこの上は沢井殿の隠れ家へご案内」と急き立ちますが、これに対し幸兵衛は「股五郎殿の行方は知らぬナ」と言って所在を明かしません。この場面を見ると、駕籠のなかに眼八が潜んで話を聞いていることに幸兵衛は気付いたので、この場では行方を明かさないように見えますが、実はそれだけではないのです。眼八だけのことなら始末してしまえば済むことです。後半の幸兵衛の述懐を聞けば、「(庄太郎に)頼めば早速承知しながら、股五郎があり家を根を押して、聞きたがるは心得ずと思いしが・・・」とあります。つまり幸兵衛は、庄太郎が政右衛門かとは思っていないけれども、庄太郎が股五郎の行方を急いて聞きたがることに何となく不信感を持ったのです。事実、幸兵衛は庄屋宅から戻った直後、「最前頼んだこと、異変はないの」と改めて政右衛門に念を押しています。幸兵衛の不信感は依然消えていません。
そこで股五郎に加勢してくれとの幸兵衛夫婦の頼みを政右衛門が受けたということは、どういうことを意味するでしょうか。敵である股五郎の所在を知る為に嘘で受けたというのはもちろん分かりますが、これは育ての親であり師匠である幸兵衛を欺く行為だということです。後の場面で政右衛門は、幸兵衛が人質を取ろうとしたことについて「人質をとって勝負する卑怯者と、後々まで人の嘲り笑い草・・」と言っています。それを言うならば、育ての親・師匠を欺いて・その絆を利用して敵の行方を聞き出そうとする行為も、後々まで卑怯者と人の嘲り笑い草になる行為のはずです。幸兵衛が全然縁も由縁もない人物であるならば、政右衛門は幸兵衛を欺くことに良心の呵責を感じる必要はないでしょう。しかし、相手である幸兵衛は誰より恩義がある人間ですから、これを欺くことは義にもとることになるので絶対許されないことです。相手が自分を弟子だ我が子同然だと心を許しているのに、そこに付け込んで相手を欺くことは卑怯千万の行為です。
大事なことは政右衛門はそれが卑怯な行為だということを自身でよく分かっているということです。そこに政右衛門の負い目があります。分かっているけれども、敵股五郎の所在が一刻も早く知りたい、それほどに政右衛門にとって仇討ちの道中が辛いのです。だから政右衛門は股五郎の所在を急いて聞きたがるのです。そこを幸兵衛に見咎められます。
助太刀の意思を再確認する幸兵衛に対し、政右衛門は「これはまたお師匠とも覚えぬくどいお尋ね。心もとなう思召すなら、鈍刀(なまくら)でない魂を。ただいま金打(きんちょう)」とまで言います。金打とは、武士が約束にたがえぬことの誓約に互いの刀の鍔をガチャガチャと擦り付ける行為です。時代を下っては、簡略化されて自分の大刀の刀身を小柄でチーンと叩く形式ともなり、「岡崎」の舞台ではそのやり方です。いずれにしても、武士の魂である大刀をそのように扱う誓約は、これを破れば死なねばならぬという重い誓いです。育ての親・師匠に対して偽りの金打をしてまで敵の所在を知ろうとするのは、どう考えても政右衛門は相当に焦っているとしか思えません。舞台を見ればその直前の政右衛門は「莨切り」の女房お谷の一件などで相当神経的に参っています。
「ただいま金打」と言って敵股五郎の所在をさらに問い詰めようとする政右衛門に対し、幸兵衛は「何のそれに及ぶこと」と言って応えません。ここに至って政右衛門はもう万事窮すなのです。さすがは武術の達人である幸兵衛、生半可なことでは股五郎の所在を明かしません。もしかしたら自分の素性に師匠は疑いを持ったかも知れないという思いも、政右衛門の脳裏をかすめます。自分の素性を明かしてしまえば、師匠と決闘をせねばならない。こうなれば正面突破で師匠の懐に飛び込み、自分の熱い心情で以て師匠の固い心の扉を開くのでなければ、敵股五郎の所在を聞き出すことはもはや叶わない。そのような絶体絶命の窮地に政右衛門は追い込まれています。そこへ運が悪いことに幸兵衛女房おつやが赤子を抱いてやって来ます。(この稿つづく)
(H26・12・20)
4)かぶき的心情の行為
別稿「特別講座・かぶき的心情」にかぶき的心情のバリエーションとして、自ら命を捨てる覚悟を示すことで・その思いの強さによって相手の心を変えようという行為を挙げました。アイデンティティーの主張の対象が自分自身よりも・相手の方にやや比重が移行しており、自分の正当な位置(アイデンティティー)の実現を相手に要求するのです。たとえば命を捨てる覚悟で主人を杖で打つ弁慶(「勧進帳」)も、このパターンです。
この場合、それが劇として成立する為に必要な案件というのがいつくかあります。ひとつは、自分にまったく私心のないこと・損得勘定がないこと・自分の心情の純粋なことです。それがなければ、いくら心情が熱くとも、相手の心を変えることはできません。「・・だから相手は自分を受け入れるべきだ」という論理展開なのです。次に彼がその要求を突きつける相手は、本来最も彼の信頼に足る人物であり、彼の要求に最も応えてえてもらいたい人物でもあります。しかし、何かの理由でその相手は彼に応えることができない状況に置かれています。もうひとつは、彼が自ら命を捨てる覚悟を示せば相手はそれに応えねばならないのだけれど、その時にはその相手も命を捨てる覚悟をせねばならないということです。「勧進帳」の場合でも、死を覚悟して主人を杖で打つた弁慶を止めた富樫はやはり切腹する覚悟でこれを止めたということです。(別稿「勧進帳についての対話」をご参照ください。)
「岡崎」の政右衛門が我が子を殺してしまう行為を検証する前に、その前後の状況を確認しておきます。まず敵討ちをするのは志津馬であって・政右衛門は助っ人ではあるのですが、追っ手側のリーダーです。ここに至るまでに辛酸を舐めつくしており、政右衛門は復讐の鬼と化しています。彼は何としても敵・股五郎を草の根を分けて探し出し・これを討とうとしており、いつしか敵を追うことが彼の生きる目的となってしまっています。これは南北作品ですが、「絵本合法衢」のなかで合邦は「いずれ敵に出会う日は、討つても死ぬる、討たいでも死ぬると覚悟もきわめている」と言います。政右衛門もこれを同じ気持ちなのです。生きるということが、宿願を遂げる(敵を討つ)という目的と一体化しているということです。この点において政右衛門は無私であると云えます。(別稿「返り討ち物の論理」を参照ください。)
次に幸兵衛ですが、孤児だった庄太郎(後の政右衛門)を育ててくれた恩人であり・武術を授けてくれた師匠です。政右衛門が最も尊敬する人物であり、幸兵衛の言うことならば何でも聞かねばならぬほどの義理ある人物です。しかし、再会した時には、幸兵衛は敵方の人物であったのです。幸兵衛の娘お袖の許婚が股五郎であったのです。しかも幸兵衛は政右衛門が一番知りたいこと(股五郎の在所)を知っています。本当は政右衛門は真相を話して聞きたいところだが、それが出来ないのです。それでは幸兵衛が許婚である股五郎を裏切ることになって、幸兵衛の義理が立たないからです。もちろん幸兵衛が話すはずもないことです。政右衛門にはそれが分かっています。どうやって幸兵衛から股五郎の在所を聞き出すか、政右衛門は難しい立場に立たされます。
そこで政右衛門はまずは、股五郎の助っ人になってくれと幸兵衛夫婦に頼まれてこれを受けるのですが、政右衛門が気が急いたとは云え、これは大変にまずいやり方でした。これは自分を信頼している師匠を騙して敵の在所を聞き出すことであり、卑怯千万、後々まで人の嘲り笑い草の行為です。政右衛門はそのことが分かっていますが、政右衛門も長い追っ手の旅で神経消耗して参っていたし、そうせざるを得なかったのでしょう。このことは政右衛門には師匠に対する負い目となっています。事実、「最前頼んだこと、異変はないの」と幸兵衛に改めて念を押されると、政右衛門は憤然とした調子で「これはまたお師匠とも覚えぬくどいお尋ね。心もとなう思召すなら、鈍刀でない魂を。ただいま金打」と答えます。これは明らかに政右衛門は師匠を騙していることの罪の意識でズキズキしているのです。師匠を騙している負い目があるから、「それならば金打」と強がってしまう。ここで刀にかけて誓約するのは、政右衛門はますます卑怯の上塗りです。政右衛門は焦っているのです。しかし、政右衛門が急き込んで股五郎の在所を聞くものだから、幸兵衛の方はますます疑念を抱いてこれを明かしません。
ここにおいて政右衛門はもう万事窮すです。さすがは武術の達人である師匠。助太刀を買って出て師匠を騙して股五郎の在所を聞き出すことはもはや叶わぬ。こうなったら自分の命を捨ててでも正攻法で自分の心情の熱さで、師匠に股五郎の在所を教えてもらわねばならない。股五郎の在所を知る方法はそれしかない。絶体絶命の窮地に政右衛門は追い込まれます。そういうところに運が悪いことに幸兵衛女房おつやが赤子を抱いてやって来るのです。
「岡崎」のドラマは、政右衛門が自分の一番大切なもの(赤子の命)を差し出して、師匠に敵の在所を問うた、師匠幸兵衛がそれに応えたということですが、幸兵衛は政右衛門に応えたことで何か失ったでしょうか。これは「岡崎」のラストを見れば明らかです。幸兵衛の娘お袖が出家し尼となります。股五郎の許婚であった愛娘をそのような境遇に追い込んでしまうことで、師匠も弟子の熱いかぶき的心情に殉じたということです。(この稿つづく)
(H24・12・24)
5)究極の状況下での子殺し
仇討ちの旅というのは、筆舌に尽くし難い苦難の旅です。風雪に打たれ病苦に耐え、山野を巡らなければならないのです。路銀の工面も必要になります。資金が尽きれば、渡り中間(ちゅうげん)や日雇人足になったりして仇の行方を探さねばなりません。乞食になって仇を追い求めた例もあったと言います。政右衛門の仇討ちの旅がどうだったか分かりませんが、同じようなものだと考えて良いと思います。これは巡礼に身をやつした女房お谷を見ても想像ができます。「そんな下らないこと、やめちゃえばいいじゃないの」と誰もが思うところですが、大願成就の喜びだけを頼りに彼は仇討ちの旅を続けます。逆に言えば、その日の喜びのことを思わなければその場に倒れそうなほど、仇討ちの旅が辛いのです。政右衛門が師匠幸兵衛に「ササこの上は沢井殿の隠れ家へご案内」と急き込むのは、敵を目前にして政右衛門は居ても立っても居られないからです。無双の剣豪政右衛門でさえ冷静でいられないほど彼にとって仇討ちの旅が辛いのです。政右衛門は一刻も早くこの旅を終わらせたい、それがどういう結果であってもです。政右衛門は死に向かって突き進んでいます。
ハンナ・アーレントは著書「エルサレムのアイヒマン」のなかで、こんなことを書いています。ナチスの死刑執行人とされたアイヒマンは、実は平凡実直な官僚であり、普通の市民であり、家庭においては優しい父親であり、決して悪魔ではなかったのです。このような平凡な人間がどうしてそのような恐ろしい行為に手を染めてしまうのか。彼らは自分たちの行為が犠牲者に与えた苦痛と死をはっきり自覚していました。それでは恐ろしい行為に耐えるために、彼らはどういう心理回路でこれを切り抜けたかということです。
『自分は人々に対して何と恐ろしいことをしてしまったのか!」と言う代わりに、殺害者たちはこう言うことができたのだ--自分は職務遂行の過程で何と恐ろしいことを見なければならなかったことか。その任務は何と重く私にのしかかってきたことか!』(ハンナ・アーレント:「エルサレムのアイヒマン」)
*ハンナ・アーレント:イェルサレムのアイヒマン―悪の陳腐さについての報告
これは彼らが言い逃れをしているのではありません。彼らは他人に苦痛を与えるという重荷を引き受けることでその職務にかろうじて耐えるのです。そうでなければ真人間はこのような異常な状況に耐えられないのです。倒錯感覚によって彼らは引き裂かれています。アーレントは、悪魔だけが恐ろしいこと(ご大層な悪)をする のではない、これは誰もが起こしかねない恐ろしいこと(実につまらない悪)だと言っているのです。アーレントは、このことを「悪の陳腐さ」と呼びました。
ここで赤子を殺してしまう政右衛門の心理を考えなければなりません。絶体絶命の窮地に追い込まれた政右衛門の傍に、幸兵衛女房おつやが赤子を抱いてやって来ます。ここで自分の正体がばれると、ここまでの艱難辛苦がすべて水泡に帰すことになります。それのみか自分と師匠が敵同士の関係であることが明らかとなり、師弟の関係までも崩壊することになります。ここに来て政右衛門は衝動的に赤子を引っ掴んで殺してしまいます。これは錯乱状態と言って良いものですが、アーレントの著作がそのヒントを与えてくれます。政右衛門の悲痛な叫びはこうです。「私は仇討ち遂行の過程で何と恐ろしいことをせねばならなかったことか!その任務は何と重く私にのしかかってきたことか!職務遂行のために私は鬼となるのだ!」ということです。「岡崎」でのこの場面の政右衛門の台詞を見てみます。
「ム、ハヽヽヽヽヽ。この倅を留め置き、敵の鉾先を挫かふと思召す先生の御思案、お年の加減かこりやちと撚(より)が戻りましたな。武士と武士との晴れ業に人質取つて勝負する卑怯者と、後々まで人の嘲り笑ひ草。少分ながら股五郎殿のお力になるこの庄太郎、人質を便りには仕らぬ。目指す相手、政右衛門とやらいふ奴。その片割れのこの小倅、血祭に刺し殺したが頼まれた拙者が金打」
実に凄まじい鬼気迫る台詞です。政右衛門は「自分は股五郎の助太刀を仕る所存である」という主張をどこまでも突っ張って、「だから自分に股五郎の居所を教えよ」と師匠に迫ります。逆に云えば政右衛門はもう幸兵衛を騙すことができないことが分かっているのです。ですから「武士と武士との晴れ業に人質取つて勝負する卑怯者と、後々まで人の嘲り笑ひ草」という言葉の裏側に、「俺は断じて卑怯者じゃないぞ」という政右衛門の叫びがあるのです。そして 政右衛門は「ここまでして見せたぞ、股五郎の居所を教えてくれ」と叫んで師匠に向かって迫ります。これはもう理屈ではない。理屈はもう破綻してしまっています。心情の強さだけで政右衛門は師匠の意志を変えようというのです。 そして政右衛門は「その任務は何と重く私にのしかかってきたことか!」と叫んで、我が子を殺す辛さにかろうじて耐えるのです。
これは「勧進帳」の弁慶も同じです。舞台を見ると金剛杖を振り上げた弁慶は「申し訳ありません」と頭を下げてポーズで主人を打っているかに見えますが、これでは到底富樫を納得させることはできません。富樫が制止しなければ、弁慶は義経を打ち殺していたでしょう。それほどの剣幕であるから富樫は思わず「御待ち候へ・・」と 言ってしまいます。これはかぶき的心情の行為なのです。
実は吉之助は本論考の標題を「仇討ちの陳腐さについて」としたかったのですが、標題だけでは言いたいことが俄かに理解されないだろうと思ってやめたのです。敵討ちというものは、江戸時代においては、平凡な個人の誰にでも降り掛かる可能性があった最も過酷な試練でした。ですから仇討ち物では「社会のなかで自分という個人は如何にして生きて行くか」ということが、究極の状況において問われているのです。無双の剣豪政右衛門でさえ錯乱してしまうほどの究極の状況です。(この稿つづく)
(H27・1・1)
6)究極の選択の試練
実説の荒木又右衛門には二人の実子がいました。ひとりは長男三十郎、もうひとりは長女おまんといいました。また、又右衛門には河合武右衛門・岩本孫右衛門という二人の門弟がいした。彼らは若党のように仕えていましたが家来ではなく、以前から又右衛門について武芸の指南を受けて修行をつづけてきた者たちです。又右衛門が伊賀の上野に又五郎の一行を迎え撃った時の、門弟二人の活躍は目覚しいものものでした。しかし武右衛門はこの闘いで致命傷を得て、仇敵又五郎を討ち取った後 に命を落とします。まさに最後と見えた武右衛門の枕元で又右衛門は次のように言いました。「汝の一子平之丞を娘おまんの婿として、我が家を継がせ、荒木の家のある限り、汝の義死を後世に伝えよう」
仇討ちの4年後(寛永15年)に鳥取藩に引き取られた又右衛門は鳥取に到着後18日後に突然死んでしまいました。又右衛門の死の原因はよく分かっていません。毒殺説もある そうです。しかし、荒木家はその後、又右衛門の言葉通りに娘婿の平之丞を後継ぎとして届け出たので、これは当時の鳥取藩でも大変な話題になったそうです。立派な長男三十郎がいるにもかかわらず、これを廃嫡して娘婿平之丞を後継ぎにしたというのは、又右衛門は息子を殺したようなものです。近松半ニはこのことを知って「岡崎」に使ったのでしょう。
「岡崎」は政右衛門が赤子を殺す筋が残酷だという批判があります。残酷だというのは当然のことですが、政右衛門は言い訳はしないと思います。厳粛に罪を受け入れたでしょう。「岡崎」という芝居の核心は、残酷なことをしなければならなかった政右衛門の悲劇的状況にあるのです。半二はまったく意地悪な作者です。「岡崎」の筋のすべてが政右衛門を痛めつける為に仕組まれています。女房への情愛や師弟の絆さえも、この芝居では政右衛門を苦しめるための材料です。苦難が襲い掛かるほど、追っ手の怨念は高まり・研ぎ澄まされます。「おのれ、今に見ておれ」という風に。このような苦難の果てでなければ大望成就の喜びは決して得られないのです。「岡崎」に見られる悲劇は、状況が追っ手に対して仕掛ける究極の返り討ちなのです。
さて歌舞伎で「岡崎」が上演されるのは実に四十六年ぶりとのことです。昭和45年9月国立劇場での二代目鴈治郎(政右衛門)・十三代目仁左衛門(幸兵衛)の「岡崎」の舞台は吉之助も記録映像でしか知らず、生(なま)では見ていません。正直言うと、吉之助はもう歌舞伎で「岡崎」が上演されることはないだろうと諦めていました。実際、吉之助が今回の舞台(平成26年12月国立劇場)を観た時も「残酷な芝居だなあ」と言うお客さんの声を周囲で聞きました。まあそういう声が出るのも無理ないことです。いろいろ言われかねない「岡崎」を上演決意してくれた吉右衛門と歌六に感謝したいと思います。
さて今回の舞台(平成26年12月国立劇場)について触れておきたいと思います。歌六の幸兵衛に関しては、まったく申し分のない出来だと思います。失礼ながら吉之助はもしかしたらスケールがちょっと小振りの幸兵衛になるかなと心配しましたが、まったくそんなことはありませんでした。台詞に気迫がこもって斬れが良く、実に素晴らしい幸兵衛です。これからの平成の歌舞伎のなかで歌六はますます貴重な役者になっていくでしょう。
吉右衛門の政右衛門については、若干申し上げたいことがあります。「岡崎」と言う芝居は、型ものと言えるほどまでに演出・手順が練り上げられていない芝居です。政右衛門についてもこういう性根でやるべしという決定的な型がなく、その時々の役者の試行錯誤によるところが多いようです。「岡崎」が残酷な芝居だという批判は必ず出ます。だから吉右衛門も用心しながら・観客に納得される役作りをしなければならない。その辺にご苦労があっただろうとお察ししますが、吉右衛門の政右衛門は莨切りからかなり泣きが強いと思います。戸外で女房お谷が苦しむ声を聞きながら、もういたたまれなくてボロボロ泣きながら莨を切っています。女房への情の狭間で揺れる政右衛門なのです。ここでボロボロ泣いて身体を大きくよじらせる政右衛門に、この後非情な赤子殺しができるとは、吉之助は到底思えません。政右衛門がグッと感情を抑え込む形にならぬので、緊張の糸がブツブツ切れてしまいます。莨切りの場面の政右衛門では、鬼だと言われようが何しようが・泣きを最小限に抑えなくては、後の場につながりません。政右衛門は辛抱立役であると心得たい。緊張感を赤子殺しの場面で最高潮に持って行くように、それまでの段取りを構築せねばなりません。残念ながら舞台がそのように仕上がってはおらぬので、強烈な辛子を口に含まされたようなツーンと全身を貫く非情さが伝わって来ません。赤子を刺殺した後の幸兵衛への長台詞は残念ながら息が持たず台詞がブツ切れます。ここは一気にまくし立てないと。吉右衛門は多分こうしたいのであろうなあという気持ちは見ているこちらには分かりますけれども、政右衛門の悲劇が腹にグッと来るところまで行かなかったのは残念でした。
現代の観客の共感を得ることがほとんど絶望的な赤子殺しの芝居を演じるのですから、情の方向へ行かざるを得ない苦しい事情を吉之助ももちろん理解しています。しかし、このような究極のシチュエーションにおいては、そのようなあらぬ方向へ芝居の視点を逸らせてしまうことが、どれほど近松半二の作意を損ねるものか。質や程度の差はあれども、このような究極の選択の試練が平凡な個人の誰にでもいつでも降り掛かる可能性があるということ、つまり状況のなかで自分という人間はどう生きるべきか、それでも人は生きねばならぬのか、そのような厳しい問題提起を半二は観客に突き付けているのです。「岡崎」をそう読まなければ、政右衛門の赤ちゃんは浮かばれないのじゃないでしょうか。
(H27・1・12)