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吉之助の雑談36(令和元年5月〜12月)


○令和元年5月前進座公演:「佐倉義民伝」・その1

瀬川如皐の「東山桜荘子(ひがしやまさくらそうし)」が四代目小団次によって初演され大当たりを取ったのは嘉永4年(1851)江戸中村座でのことでした。ただし「東山桜荘子」は惣五郎伝説をそのまま劇化したわけではなく、題名から分かる通り世界を東山に採 り・つまり室町時代に仮託した時代物で、如皐はこれを柳亭種彦の合巻「偐紫田舎源氏」をないまぜにしたお芝居に仕上げました。現行の印旛沼渡し・宗五内は如皐の筆によるものです 。さらに文久元年(1861)8月守田座で再演(外題は「桜荘子後日文談」)された時に、小団次の要望で黙阿弥 によって、田舎源氏の筋を抜き仏光寺光然(こうぜん)和尚の祈りから入水を加えるなどの大改訂が施されました。また大切に佐倉宮祭礼の所作を加えました。これが現在の「佐倉義民伝」の原型になるものです。

重税にあえぐ農民の窮状を見かねて奔走し、最後は自らの命どころか家族の犠牲さえ厭わず将軍への直訴を敢行する義民・宗五郎は、前進座の演し物として長年練り上げられてきたものです。前進座に「義民伝」は良く似合います。幸い吉之助は昭和56年(1981)8月国立劇場での前進座公演で三代目翫右衛門の宗五郎を見ることが出来ました。(この時のおさんは六代目芳三郎でした。) 様式のなかにも鋭いリアルな感覚が胸をうつ翫右衛門の宗五郎は、今も吉之助の記憶に鮮やかに残っています。ただしこの時は門訴は出ましたが、印旛沼渡し・宗五内子別れ・直訴までの半通し上演で、仏光寺が出ませんでした。今回は三幕六場でほぼ 完全な通し狂言となっており、前進座でもこの形では約51年ぶりの上演になるそうです。

現行歌舞伎での「義民伝」上演は、ほぼ印旛沼渡し・宗五内子別れ・直訴の三場仕立てが通例です。もちろん芝居のエッセンスはこれで十分分かりますが、子別れが主体になると、将軍直訴のため江戸に向かおうとする宗五郎の行動を後ろへ引っ張るベクトルが異様に強く見えて来ます。だから大いに泣かせる芝居に出来るわけです(ここでの如皐の脚本は実によく書けています、切られ与三より数段良いですねえ)が、宗五郎が別れ の辛さを熱演し過ぎると、本心では直訴に行きたくないみたいに見えかねません。

それは一般的な歌舞伎の図式であると世話(人情)と対立するのが時代の論理(政治)ということになるわけですが、重の井子別れなら確かにそう読めますが、宗五内子別れではその読み方が取れないからです。子別れ(愛する妻子と別れたくない宗五郎の気持ち)は人情に違いないですが、飢えに苦しむ人たちを助けなければならない・そのためには我が身を犠牲にしてでも将軍直訴を結構せねばならないという宗五郎の気持ちはもっともっと深くて広い無償の愛なのですから、これこそ究極の世話だと云えそうです。だから、これは決して単純な世話と時代の対立構図で読めないのです。(これについては別稿「子別れの乖離感覚」で論じましたから、そちらをご覧ください。)

だから宗五郎の気持ちを直訴へ駆り立てる前向きのベクトルを観客に強く意識させるために、門訴の場を付けることは、とても役に立ちます。吉之助としては通例の上演形態(三場)にさらに門訴の場を加えて、少なくとも四場仕立てとしていただきたい。その方が宗五郎の心情が、ツーンと胸に突くようにはっきり見えて来ると思います。(この稿つづく)

(R1・5・18)


○令和元年5月歌舞伎座:「勧進帳」・その3

もうひとつ気になるのは、これは今回(令和元年5月歌舞伎座)の海老蔵に限ったことではなく、近年の弁慶はみんなそうなのですが、勧進帳読み上げの弁慶の居所(立ち位置)がほとんど舞台中央であることです。これは舞台中央(松羽目の松の樹の根元辺り)を空けて、弁慶と富樫が等距離に立つのが正しいはずです。山伏問答の熱が次第に上がって行くなかで互いににじり寄り、ジリジリ中央に近づいて行くのが正しい動きだと思います。今回の海老蔵の弁慶の場合であると、富樫ばかり激してにじり寄り、弁慶はほとんど動かず・冷静にこれを受けているように見えて妙チクリンな感じがします。市川宗家としてここは正してもらいたい。

中央を空けて弁慶と富樫が等距離に立つべきことは、ドラマ的に弁慶と富樫に等分の重さを持つことで明らかだと思います。或いは舞台中央は神に捧げる神聖なポジションであり、ここを空白に保つことが日本古来の美学に通じるものだと考えても良いでしょう。これは昭和55年11月歌舞伎座での、二代目松緑の最後の弁慶の記憶(吉之助はこの舞台は生で見ました)を手元の映像で再確認してもそうなっています。

勧進帳読み上げ弁慶が中央寄りに居所するようになったのは、いつ頃のことか誰がどうしたか検証しても仕方ないことですが、恐らく平成に入ってからのことに違いありません。別稿「四代目猿之助の弁天小僧」で型の崩れが危惧される人気演目のひとつが「勧進帳」、もうひとつは黙阿弥の「弁天小僧」だと書きましたが、頻繁に上演されて「誰もが知ってるつもり」の演目が一番怖いのです。弁慶が次第に中央寄りの居所になっていくのは、「この芝居では俺(弁慶)が主役」だと誰もが思っていることの積み重なりから来るのです。確かに仕事として一番大変なのは弁慶だけれど、ドラマとしては義経・弁慶・富樫が等分の重さなのです。そういえば弁慶との兼ね合いもあるかも知れないが、今回の山伏問答時の義経(菊之助)の居所もちょっと中央に寄り過ぎたように思われますね。これも正して欲しい。

ところで役者海老蔵の武器が目力(めぢから)であることは、誰もがそう感じていると思います。前回(平成26年5月歌舞伎座)での弁慶はやたらいきり立って目力を乱用し過ぎでした。今回はこれをかなり抑えて、ここぞと云う時にカッと目を見開くように変えたことは、これは大きな進歩でした。これもここぞと云う時にやるから威力を増すわけです。吉之助の周囲のお客さんは弁慶がカッと目を見開くと「ヨオ待ってました」と云う感じでジワ来るみたいに唸ってました。「瘧(おこり)が落ちる」成田屋の目力の威力は絶大です。古の元禄歌舞伎の荒事の心が共有された思いがしました。延年の舞を終えて笈を背負って立ち上がる前にしっかり富樫に礼を執ったのも近頃感心なことでした。近年の弁慶はここがぞんざいな人が多いですね。そういうわけで、今回の「勧進帳」はまだまだ課題はあるけれども、来年の十三代目団十郎襲名の「勧進帳」に向けての布石として見るべきものはあったと思います。来年の舞台を期待したいですね。

(R1・5・15)


○令和元年5月歌舞伎座:「勧進帳」・その2

発声はだいぶ安定してきたとは書きましたが、勧進帳読み上げから山伏問答まではまだまだ不満が大きい。ここが本作で七代目団十郎が荒事の台詞術を誇示しようとした大事の箇所なのですから、心してもらいたいと思います。これは松緑の富樫にも云えることですが、台詞にリズム感とテンポ設計がありません。海老蔵も松緑も台詞の末尾を引き延ばす、しかもも変な抑揚が付く傾向があります。末尾を引き延ばすとそこで終息してしまって、対話がそこでぶつぶつ切れてしまいます。富樫は問いを投げかけて弁慶の答えを息を詰めて待つ、弁慶は足下に応えて富樫の反応を息を詰めてうかがう、ということはどういうことかと云えば、末尾を引き延ばさずリズムを断ち切って相手の台詞を待つ、身体のなかにリズム感を保持せねばならないはずです。相手が台詞を言う時に息を詰めていなければならないのです。(注:息を詰めるということは呼吸を止めるということではありません。別稿「息を詰むということ」を参照ください。)今回の舞台では、富樫も弁慶も台詞の末尾が伸びちゃってますから、緊迫した問答のやり取りになるはずがありません。

山伏問答については、問答半ばから熱気が急激に増して、「出で入る息は」、「阿吽の二字」で頂点に達する、それが台詞のテンポ設計に現れます。多くの弁慶・富樫役者が誤解していると思いますが、ここは次第に声を次第に大きくしていくのではありません。 次第にテンポを上げていくアッチェレランドのテンポ設計が必要なのです。(別稿「勧進帳は音楽劇である」を参照のこと。テンポをリードするのは、これは富樫の役割です。)ただし声を大きくしなくても、語気を強めることで、熱気を上げる・緊迫感を増すことは出来ます。それはリズムの打ち込みを意識的に深く取ることです。最近の誰の「勧進帳」の舞台でも山伏問答でこれが出来ているのをほとんど聞いたことがありません。海老蔵もどうも声の通りを良く聞かせることは声を大きくすることだと思っている風がありますが、これが分かれば荒事の「しゃべり」の解決法が自ずと見えて来るのではないでしょうかね。(この稿つづく)

(R1・5・12)


○令和元年5月歌舞伎座:「勧進帳」・その1

つい最近のことですが、或る方が「海老蔵が来年(2020年)団十郎を襲名すると聞いて、それなら歌舞伎でも見てみるかと切符を買おうとしたら、2月も3月も4月も海老蔵は歌舞伎座に出てないじゃないか、海老蔵はどこに出てるのか」と言うのです。座組みはかなり以前に決まるもの ですから、襲名が発表されてもいきなり顔ぶれ・演目を変えるわけに行きませんが、それにしても どうもこのところ観客が求めるものと歌舞伎座で掛かるものとの間にズレが生じているように思われます。これは海老蔵が出ないことだけを言うのではなく、全体的に顔ぶれに厚みがなく、見物がこれは見逃せないとワクワクする演目が少ないようです。そのせいかこのところの歌舞伎座は空席が結構目立ちます。ここ三か月を見るとオリンピック・イヤーの団十郎襲名披露に向けて歌舞伎が 着実に盛り上がっている雰囲気に見えないことは確かです。そう思って今月(5月)団菊祭の演目を見ると、昼の部の「勧進帳」はもちろん成田屋にとって最重要の演目に違いないが、これは来年の襲名興行で絶対やるものだし、吉之助としては「勧進帳」よりは今見るならば海老蔵の将来の気構えを占う演目が見たかった。(吉之助の希望は、海老蔵が得意にするとは云えない義太夫狂言でしたが。)一方、夜の部はその他大勢で海老蔵がどこにいるのか分からない。せめて菊之助の歌舞伎座での初の「娘道成寺」に海老蔵が押し戻しで付き合うくらいのセールスポイントを付けても良いのではないか。梨園にどういう政治力学が働いているのか知りませんが、歌舞伎の人気回復に向けて一致団結してもらいたいものです 。

そこで海老蔵の「勧進帳」のことですが、前回(平成26年5月)歌舞伎座での「十二代目団十郎一年祭」の舞台は当時の海老蔵の精神状況が察せられる少々危なっかしい弁慶で ありました 。あれから約5年の歳月が経ちました。その間にも海老蔵の身辺には更なる試練が襲ってきて、舞台を見た感じでは海老蔵は未だ安定した芸境を見出せていないのが現状です。その危なっかしさ・未完の大器の粗削りが海老蔵の魅力だということも云えますが、四十過ぎればそう悠長なことも云っていられません。そこで現在の海老蔵に求められるのは、これまでに演じた役・特に古典を練り上げ確実に自分のものに仕上げること だろうと思います。本年1月演舞場での「俊寛」を見れば、海老蔵の覚悟も決まったたことは察せられます。先ほど「勧進帳」なら来年見られると書いたけれども、今「勧進帳」を見るならば今しか見れない、未来の団十郎への ポジティヴな展望が見える弁慶を見たいと云うことで、今回は歌舞伎座に行った次第です。

この数年の海老蔵の大きな課題が発声にあるのは、衆目の一致するところだと思います。台詞が明瞭でない、声が客席によく通らないと云うような点です。今回の弁慶も能掛かりを志向しているのか謡う感じが強いように思いますが、これは恐らく声の通りを良く聞かせるため の彼なりの工夫なのでしょう。確かに場面によって声が通ったり通らなかったりするようなことはなく、前回(平成26年5月歌舞伎座)よりもずっと安定して聞こえました。まだ発展途上の段階にあるにしても、荒々しさがアンバランスに聞こえた前回よりも、ずっと落ち着いた古典的な印象の弁慶に見えたことは進歩であると、まずは言っておきたいと思います。危なっかしい印象の弁慶ではなかったところに、海老蔵の覚悟の程も見えました。

それを認めたうえで今後の課題を挙げたいですが、「勧進帳」は能取り物(松羽目物)であるから謡う感じの台詞廻しもまああり得ることかも知れません(そういう感じの先輩もいらっしゃいます)が、この弁慶の台詞廻しで他の歌舞伎十八番、助六や鎌倉権五郎も行くつもりなのかねと聞きたいですねえ。「勧進帳」のことだけ考えていてはいけないと思います。荒事の台詞術は、ツラツラと言葉をまくし立てて行く「しゃべり」の芸なのです。能取り物ならばどうして七代目団十郎はこの狂言の題名を「安宅」にしなかったのか、どうして題名が「勧進帳」なのかと云うことも考えて欲しいと思います。それは弁慶の勧進帳読み上げこそ、元禄歌舞伎の「暫」の大福帳読み上げのツラネの伝統を引き継ぐ「しゃべり」の芸を見せる場面、これが芝居の眼目だと云うことを示しているのです。だからもう一度申し上げると、弁慶だけのことを考えるなら謡う感じの台詞廻しで行っても結構、しかし、それでは荒事の総本寺・市川団十郎の台詞廻しにはなりません。現在はまだ声の通りを気にしているようですが、今後はもっと一音一音を明瞭に発声する訓練を考えてもらいたいものです。(この稿つづく)

(R1・5・10)


○平成31年4月歌舞伎座:「源平布引滝〜実盛物語」・その4

有名な「物語」に先立つ「某もとは源氏の家臣なれど、ゆえあって平家に随い・・・」は、実盛の負い目を示すものですから、この台詞は低く抑えて、しかし暗過ぎないように、気品を以て言わねばなりません。「さてはその方達が娘よな、不憫なことをいたしたり」も同様で、そこに「済まないことをしてしまった・・」と云う実盛の悔恨と負い目から来る苦渋(それはあの場面では仕方がなかったのだ)が漂わねばならぬわけで、これも低く抑えて出るべき台詞です。

実盛が琵琶湖船上で小万の腕を切り落とした経緯を回想する物語も、丸本には「涙交じりの物語」とあります。それは実盛の「物語」を陰惨に暗く語れば良いと云うことでは ありません。時代物として華やかさは必要です。しかし、決して華やかさ一方ではないのです。床の三味線が作り出す派手なリズムは、軽快で心地良く聞こえるかも知れませんが、それはここでは強制された心地良さです。これは本作の大事な点ですが、実盛が「あの腕は俺が切り落としたものだ」と気が付いても、知らぬ振りしてひた隠しにしていれば、実盛は二十八年後に太郎吉に殺されなくて済むわけです。ならば黙っていればよいのに、誰に指摘されたわけでもないのに、どうして実盛は真相をすべて物語ってしまうのでしょうか。結局、それは内面から強制されたように実盛の口から出てしまうのです。それは実盛の負い目が為せるものです。それは「またしても」実盛にそのことを思い出させます。だから実盛の「物語」の見掛けの華やかさと、彼がそこで語ることの陰惨さとの間には、大きなギャップ(乖離)がある。そこ を気が付かせて欲しいわけです。

仁左衛門の実盛は、これらを高調子に歌うように語っています。確かに華やかかつ爽やかですが、そこに実盛の負い目を暗示するものが聞こえて来ません。贅沢な不満のようですけれど、仁左衛門の「物語」の高調子、滑らかさ・スマートさが、このギャップ(乖離)を感じ取りにくくさせています。義太夫のトーンとしては高調子に過ぎるのです。巷間あまり指摘されないようですが、これは仁左衛門の丸本時代物の役々に共通する弱点だと思いますねえ。この為に、例えば仁左衛門の一條大蔵卿は、カッコ良過ぎて「お前たちには分からないだろうが、実は俺には考えがあるのだよ」という感じに見えて、作り阿呆を装って平家横暴の世に背を向けることの悲哀が見えて来ない。大蔵卿の負い目を気付かせてくれない不満があります。これは実盛の不満とまったく同じです。仁左衛門の「物語」は、台詞を低調子に出し言葉を噛み砕いて出すことを心掛ければ、これで印象がずいぶん変わって来ると思います。ホンのちょっとの違いです。でもホンのちょっと変えただけで素晴らしい実盛に出来るのです。

他の役に触れませんでしたが、歌六の瀬尾は最初登場した時には重量感に不足するように感じましたが、全体としては台詞に手強さがあって手堅い出来でした。再登場して娘小万の遺骸を蹴飛ばす場面では台詞に涙を含ませ過ぎでここは抑えた方が良いけれども、それにしてもこのところの歌六は丸本物で得難い位置を担っていますね。結局、瀬尾にも負い目があったわけです。

(R1・5・8)


○平成31年4月歌舞伎座:「源平布引滝〜実盛物語」・その3

杉山其日庵の「浄瑠璃素人講釈」にある挿話ですが、三代目越路太夫が「実盛物語」(文楽では「九郎助住家の段」と云います)を勤めることになり、師匠に聞いてもらおうと摂津大掾の元を訪ねたところ、大掾が怒ってこう言ったというのです。「なぜもっと早く来ぬのじゃ。この段は今云うて、今語れるような(易しい)ものじゃないわい。今はそのまま遣っときなはれ。役が済んだら、何時でも聞くわい。」 このため越路太夫はこの段を大掾に教えてもらう機会を逃がしてしまい、「私はえらい不調法をいたしました」と其日庵に嘆息するのです。

杉山其日庵:浄瑠璃素人講釈〈上〉 (岩波文庫)

それではこの段のどこが難しいのかということです。実盛を爽やかに面白く語るのであれば、それほど難しくはないでしょう。しかし、実盛の晴れやかさのなかに潜む負い目、彼が向き合いたくなかった「またしても」と云うものを描き出そうとすれば、それは決して生易しいものではないのです。人は生きている限り、なにがしかの柵(しがらみ)に縛られ、そこから決して逃れることは出来ません。(これは現代においても、そうです。)そのような柵のなかでも、人は潔く覚悟を決めることができる。実盛が教えてくれるものは、そういうことです。後世の武士たちが「あの実盛のように死にたいものだ」とした理想の死に潜む、もののあはれを描き出さねばなりません。

そこで今回(平成31年4月歌舞伎座)での仁左衛門の実盛のことですが、颯爽とした生締めの風情において、仁左衛門の右に出る役者はいません。そのことを認めた上で憎まれ口を書きますが、葵御前が「げにその時にこの若が、恩を思ふて討たすまい」と言いますが、28年後にホントにそうなっちゃいそうな実盛なのです。こんな良い人は討っちゃイカンんよと観客が思う実盛なのです。実盛は晴れやかな恰好良さを見せる 生締めだから、役者の華を見せればそれで良いんだと云う感じに見える実盛なのです。吉之助にはそこが引っ掛かりますねえ。ちょっとスマート過ぎるのじゃないの。

前月(3月)の「盛綱陣屋」では、仁左衛門は盛綱の論理にこだわり過ぎて演技が説明的に陥っていました。心情において行き詰まった論理を一気に捨て去り「褒めてやれ」でパッと扇を掲げるならば、すべて帳消しに出来ます。歌舞伎では良い意味において役者の華がすべてを許すという場合が確かにあるでしょう。しかし、ここでまったく逆のことを書くように聞こえるかも知れませんが、「実盛物語」の場合には、実盛の晴れやかさは もちろん必要ですが、それだけではまだまだ不足なのです。 幕切れの花道の馬上でパッと扇を掲げれば、それで良いわけではないのです。なぜならば「実盛物語」は、実盛の葛藤(負い目)を匂わせるだけで、はっきり描いておらぬからです。 そこが本作の弱いところかも知れませんが、それは当時の民衆が「平家物語・篠原合戦」の挿話を承知していることを前提に芝居が作られているからです。観客がこのことを 知っていれば、「若君ともろともに信濃の国諏訪へ立越え、成人して義兵を挙げよ。その時実盛討手を乞受け、故郷へ帰る錦の袖ひるがへして討死せん」という実盛の台詞で、「 ああなるほどそういうことか」と「実盛物語」の論理構造がピーンと通るのです。だから舞台前半において、作者が匂わせるだけ に済ませた箇所を、現代の上演ではしっかり描き出さねばそこは通じません。有名な実盛の「物語」は、そのような大事の場面なのです。(この稿つづく)

(R1・5・6)


○平成31年4月歌舞伎座:「源平布引滝〜実盛物語」・その2

現在の自分は本来在るべき自分を裏切っていると云う実盛の負い目が、「源平布引滝」でどのような形で現れるでしょうか。それは有名な実盛の「物語」で現れます。(別稿「実盛物語における反復の構造」を参照ください。)これについてはジャック・ラカンがセミネールで語っていること も参考になります。ラカンの難しい用語なんて無視して、次の文章を詩のようにお読みください。ラカンは詩のように読むのが一番良いのです。

『・・時とともに、わたしはそのことについてもう少し語れることが分かりました。そして、私の歩みを運んでいたものが、わたしはそのことについて何も知りたくない(je n'en vuex rien savoir)の類いのことだと知りました。それは恐らく、時とともに、またしても(encore)わたしをここにいさせ、あなた方をもまた、ここにいさせているものです。わたしはいつもそれに驚かされます・・・またしても(encore)。』(ジャック・ラカン:「アンコール」・1972年11月21日のセミネール)

ジャック・ラカン:アンコール (講談社選書メチエ)

実盛の「物語」の反復構造、それは実盛が向き合いたくなかったもの(負い目)を思い起こさせる、またしても・・ということです。琵琶湖船上での実盛は、小万の腕を切りたくて切ったわけではありません。源氏の白旗を平家に奪われまいための、やむを得ない仕儀でした。しかし、実盛は心ならずも同じことを繰り返したことになります、またしても。「物語」に先立ち実盛は、このことを明確に吐露しています。この台詞はとても重いものです。

『某(それがし)もとは源氏の家臣なれど、ゆえあって平家に随い、清盛の禄を食むと言えども、旧恩は忘れず、今日の役目乞い請けたも、危うきを救わんため』

その負い目が時が移っても、またしても実盛をこの場にいさせ「物語」を語らさせ、舞台上の葵御前・九郎助一家をも(そして芝居を見る観客をも)、ここにいさせているものです。しかも、反復はこのままでは終わりません。後半、葵御前が赤子(後の木曽義仲)を産み、太郎吉のために瀬尾が死ぬ意外な展開を見せて、ヤレこれで目出度く芝居が終わるかと思ったところで、太郎吉が「サアこれからおれは侍。侍なれば母様の敵、実盛やらぬ」と詰め寄ります。それはまたしても実盛を追い駆けて来るのです。

もしこの場で実盛が何も言わずに立ち去り、この28年後・寿永2年、越前・篠原の地で手塚太郎(後の太郎吉)に討たれるのであれば、ここで実盛は「またしても 」自分が見たくなかった負い目の恐ろしさを否が応でも思い知ることになるでしょう。しかし、実盛はそうはさせなかったのです。

『ホホあっぱれ。さりながら四十に近き某が、稚き汝に討たれなば情と知れて手柄になるまい。若君ともろともに信濃の国諏訪へ立越え、成人して義兵を挙げよ。その時実盛討手を乞受け、故郷へ帰る錦の袖ひるがへして討死せん。まづそれまではさらばさらば。』

この台詞によって実盛は自分の意志で28年後の死を指定します。因果や負い目に追い回されて死ぬのではない。実盛は主体的に自らの死を選び取るのです。だからこれはもはや「またしても」ではない。それを吹き飛ばしたのは実盛自身です。幕切れの実盛の晴れやかさ・爽やかさは、そこから来ます。(この稿つづく)

(R1・5・3)


○平成31年4月歌舞伎座:「源平布引滝〜実盛物語」・その1

平治元年の平治の乱で源義朝が平清盛に敗れ、もともと源氏方に付いていた関東の多くの有力武士たちは「いとま給わり」・つまり契約解除される形となって所領に戻り、その後 長く平家の勢力下で禄を食まざるを得ませんでした。しかし、21年後の治承元年、義朝の遺児・長男である頼朝が平家討伐に決起しました。この時、関東武士のなかでは源氏方に付く者が続出しました。当時の武士には江戸期のように主従関係に絶対的な重きを置く考え方はまだ強くなかったので、勢いが強い方に付くのは当たり前のことでした。

「平家物語・巻7・篠原合戦」に拠れば、木曾義仲(源義仲)との合戦の直前、斎藤別当実盛は仲間を呼び集めました。彼らはすべてかつて平治の乱では源氏方に付いて今は平家の禄を食む仲間同士で した。実盛は仲間と酒を酌み交わしながら、こんなことを言い出します。「このところの情勢を見れば、源氏の勢いはますます盛んで、平家は敗色濃厚だ、ここは源氏である木曽殿に付こうではないか。」 実はこれは実盛が仲間の覚悟を試す為のものでした。翌日、俣野五郎景久が実盛にこう返事をしました。

『さすがわれわれは、東国では人に知られて、名ある者でこそあれ、吉について、彼方(あたな)へ参り此方(こなた)へ参らんことは見苦しかるべき。(中略)景久に於いては、今度平家の御方で、討ち死せんと思ひ切って候ぞ』

これを聞いて実盛も本心を打ち明け、実は自分も同じ覚悟であると伝えました。この場に居合わせた二十数名は後の越前・篠原の戦いで全員討ち死にすることになります。「今度北国にて一所に死にけること無慙(むざん)なれ」と「平家物語」は伝えています。ちなみに上記逸話の俣野五郎景久は、歌舞伎の「石切梶原」に登場するあの俣野です。芝居での俣野は梶原平三をあざ笑 って思慮が足りない粗忽者に描かれていますが、史実の俣野はそうではなくて、「名を惜しむ」ことを知る立派な武士なのです。この頃から「名を惜しむ」ことが武士の理想の振る舞いだという気風が生まれ ています。

篠原合戦で戦死した武士たちの気持ちのなかに、源氏に恩義がありながらも・その後心ならずも平家の禄を食まざるを得なかったことの不本意さと云うか負い目が感じられます。ただし本来はこれをあまり強く読むべきではないと思いますが、江戸期の「実盛物語」を読む場合にはこの視点が絶対に必要になります。さらに実盛にはもうひとつ個人的な事情がありま した。実は義仲の父義賢が同じ源氏の甥義平(頼朝の兄)に殺された時(久寿2年)に、まだ2歳であった幼い義仲をかくまって、木曾の中原兼遠(義仲の養父となる)に送り届けたのが実盛 であったのです。だから実盛の場合、源氏に心を寄せる気持ちが人一倍強いわけです。しかし、現在の実盛は理由はどうあれ平家の家来ですから、その場その場の風向き次第で強い方に付くような見苦しい様は名のある武士として見せられません。そこに実盛の引き裂かれた状況がありました。(別稿「実盛の運命」を参照ください。)

このように江戸期の「源平布引滝」の主人公斎藤実盛には、現在の自分は本来在るべき自分(アイデンティティ)を裏切っていると云う負い目の気持ちが非常に強いわけです。実盛の心は源氏方にありました が、平家に従属せざるを得なかったのは、生き抜くために仕方がないことでした。だから ここでの実盛の心情は、「今現在の自分は本来の在るべき自分を裏切っている、今の自分がやっていることは本当に自分が望んでいることではない」と云うことになります。これは「鬼一法眼三略巻」の一條大蔵卿も同様です。(別稿「二代目吉右衛門の大蔵卿」を参照ください。)とてもかぶき的な心情なのです。(この稿つづく)

(R1・5・1)


 

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