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吉之助の雑談36(令和元年5月〜12月)


○平成31年2月新国立劇場:歌劇「紫苑物語」・その7

本年(平成31年)2月の新国立劇場での歌劇「紫苑物語」の初演の際には、舞台脇の字幕スーパーで、日本語と英語の歌詞が同時表示されました。近年はZDF(ドイツ公共放送)が放送する(つまりドイツ人向けの)ワーグナーのオペラにドイツ語の字幕が入り、RAI(イタリア国営放送)が放映する(つまりイタリア人向けの)ヴェルディのオペラにイタリア語の字幕が入 ります。あちらのネイティヴでももはや歌詞が完全には聴き取れない状況みたいです。日本語オペラの歌詞を日本人のために日本語表示するのも、音楽を聴く以前に歌詞を聞き取ることで疲れてしまうよりは、ずっと良いことです。確かにオペラは歌手がどんなことを歌っているか大体のところが掴めれば、グッと面白さが増すものです。オペラ鑑賞のために、字幕スーパーはとても有用なのです。

ところで吉之助は歌舞伎とオペラの関係に思いを馳せる人間であるので(別稿「歌舞伎とオペラ〜新しい歌舞伎史観のためのオムニバス的考察」を参照ください)、歌劇「紫苑物語」を聴きながら 、先日ムーティが「ヴェルディはまるで台詞をしゃべるかのように歌を書いているんです」と言ったことをここでふと思い出したのです。そのような感じに日本語オペラが生まれるのならば幸福なことだと思うのです。それにしても正直に申せば、吉之助には字幕スーパーの助け無しでこの歌劇「紫苑物語」を聴き通す自信が持てません。西村朗と日本語との格闘の厳しさをひしひしと感じます。だから門外漢が分かったような甘っちょろい事を書くのも気が引けますが、観劇随想をせっかく書き始めたことでもあるから、思ったことをちょっとだけ記しておきます。

まず歌劇「紫苑物語」の歌唱は、前項で指摘した通り、頭打ちのアクセント(言葉の一字目にアクセントが来る)が多いようです。早いテンポでの頭打ちの歌はどこか聴く者を急き立てる非人間的な効果があ って、これが主人公が真理を追い求める焦燥感を表しています。またそれが現代が持つ、或る種の切迫感・余裕の無さと強く関連して来ることを吉之助は認めないわけではありません。しかし、「台詞をしゃべるように歌が生まれる」という状況を理想 とするならば、やはり日本語の歌は、日本語伝統の「二字目起こし」(二字目にアクセントが付く)の原則に沿って作ってもらいたいと思うのです。(西村朗は大阪府の出身の方ですから、上方アクセントの二字目起こしは当然お分かりのはずです。)例えば 第2幕で魔の矢を会得した宗頼が

「山へ行くのだ、山へ」(マエイクノダ●マエーー」

と叫ぶ歌詞を、頭打ちで畳み掛けるように棒に歌われると、吉之助には「ヤマ」が山に聞こえないのです。歌唱が痩せて聴こえます。「ヤマ」がただの記号にしか聴き取れません。だがこの「ヤマ」は、宗頼が平太と宿命の対決をする大事な場所のことではないのでしょうか。大事な言葉は、観客の注意を喚起するように膨らませて歌われなければなりません。(これは歌舞伎の台詞でもまったく同じことです。)ここは

マァーエイクノダ●マァーエ」

と歌って欲しいのです。二字目にアクセントを付けて、「マ」を長く引っ張る。そうすると「マ」の母音(ア)が生まれます。これを転がせば、高くも張れるし、 二倍でも三倍でもいくらでも長く引っ張れます。しかも「山」の語感は崩れません。 この点が二字目起こしの原則の大事なところです。しかも言葉の引っ張り・転がしのニュアンスで、それが故郷の懐かしい山であるのか、厳しい対決の場となる 岩山であるのか、その違いを描き分けることさえ可能です。この微妙な綾を五線譜に表現することは出来ないと思いますが、歌唱だけがその描き分けを可能にします。

これは邦楽では、産み字と云います。義太夫節でも長唄でも、みんなこの原則に則っています。歌劇「紫苑物語」の歌唱では、
二字目の産み字を引き伸ばして転がす場面がないようです。大抵は台詞の末尾の引き伸ばし、或いは「ああ・・」・「おお・・・」という感嘆詞の引き伸ばしです。歌唱の旋律が何となくオケ主導の発想で単調に感じられるのは、そのせいです。歌唱がオケの伴奏に寄り添ってしまっているわけです。(それはそれで面白い ものなのですがね。)吉之助としては歌唱はオケの作り出す縛りにもっと反発してもらいたいのです。二字目の産み字での引き伸ばしを試みれば、歌唱は もっと自然なものに出来るのではないかと思います。(ただし歌唱を変えればこれに対応してオケの動機を変えざるを得ない場面が出て来るでしょう。)

二字目引き伸ばしの効果は、 これだけではなさそうです。言葉にニュアンスを加え、(音程もリズムも)意識的に音楽をズラせることが出来ます。山田耕作は團伊玖磨に「オペラってのは拡大するんだ」と云うことを語ったそうです。この山田耕作の発想は、日本語オペラのために示唆があるものだと思います。ここから山田耕作が芝居(明治の感覚ではまだまだ芝居=歌舞伎の時代でした)をよく研究していたことが察せられます。(別稿「音楽と言葉」〜その15・拡大する言葉」を参照ください。) 例えば黙阿弥の「月も朧に白魚の、篝も霞む春の空・・・」という台詞を想像してみてください。

「月も朧に白魚の、篝も霞む春の空・・・」
(ツモオボロニ/シウオノ/カリモカスム/ハノソラ)

二字目はまさに 音が虚空に伸びて行く箇所であり、ここにこそ言霊が潜んでいると感じるのです。歌劇「紫苑物語」の歌唱は技巧的な印象が優先しており、言霊が動き出す印象を醸し出すのにはいま一歩であると感じます。言霊が動き出す歌唱こそ日本語オペラの理想だと吉之助は思うのです。(この稿つづく)

(R1・7・7)


○平成31年2月新国立劇場:歌劇「紫苑物語」・その6

昭和30年(1955)3月に武智鉄二が関西歌劇団の歌劇「夕鶴」(團伊玖磨作曲・朝比奈隆指揮)を舞台演出した時のことです。舞台稽古を聴いていると主役の与ひょうが、「畦に鶴が降りて来てよ、矢を負うて苦しんどったけに、抜いてやったことがあるわ」という歌詞があって、これが

ゼニ、ルガ、リ テキテヨ、オオッテ、ルシン、ドッターケニ」

と云う風に一字目が伸ばして歌われている。(赤字をアクセントとお読みください。)武智はゼニ、ルガ」と「テキ、イ ッセイ」(鉄道唱歌)が重なり合ってどうしても割り切れない思いがしたそうです。そのことを朝比奈隆に話したら、朝比奈が簡単に「それじゃあ直しましょう」と云って、「アゼニ、ツルガオリテキヨ、ヤヲオッテ・・・」と聞こえるように楽譜を直してしまったので、それで公演をやったそうです。ところが後日、團伊玖磨から管弦楽が提示している主題旋律と合わないので音楽上大変に困るとの強烈な抗議が来て、「言葉と音楽の問題はなるほど難しいものだなあ」と思ったと後年武智が回想しています。

テキ、イ ッセイ」は一字目にアクセントが来ているわけです。つまり頭打ちのアクセントで、日本語伝統の「二字目起こし」(二字目にアクセントが付く)の原則に沿っておらぬのです。歌劇「紫苑物語」を聴くと、これも全体的に早めのテンポで頭打ちになっていて、 とても気になります。武智がこれを聴いたら頭を抱えるだろうと思いました。ただし、オケの伴奏の早めの急き立てるリズムが異様な雰囲気を醸し出しており、宗頼の混沌として持って行き場の無い気持ちをよく表現して いて、これはなかなか悪くありません。頭打ちのアクセントの歌唱もこれに連動して出て来るわけで、音楽的必然があるわけです。もっとも旋律が言葉が本来持つ抑揚から発する感じはありませんが。第1幕の宗頼とうつろ姫の婚礼の場での歌唱を例に取ります。

(うつろ姫)
「馳走などは いくらでも」(ソウナドワ●/クラデモ●」
「鼻から煙が出るほどに」(
ナカラ/ムリガ/ールホドニ)
「欲しいだけの 残り飯」(
シイダケノー/コリメシ)
「あるだけ食べさせ」(
ルダケ/ベサセ)
「欲しいだけの残り酒」(
シイダケノ●/コリザケ●」
(女性合唱)
「めでたやそうろう まいってそうろう」(
デタヤウロウ/イッテウロウ)
「天下泰平 富貴繁昌」(
ンカイヘイ/ウキンジョウ)
「今宵は喜びの舞いなれば」(
ヨイワヨロコビノイナレバ)
「鶴と亀との舞い踊り」(
ト/メトノ/イオドリ●)

タタタタ・・・と早めの急き立てるリズム・オケの動きは、現代の気忙しい・非人間的な気分に相通じて、なかなか興味深いことを吉之助も認めます。歌唱の基本リズムは、アタリ・裏アタリの早い二拍子(割れば四拍子・八拍子ということ)になっています。例えば 「デ/タヤ/ウ/ロウ/イ/ッテ/ウ/ロウ」。頭打ちのアクセントで言葉を平坦に連ねる歌唱が、どこか非人間的な・異様な感情に聞こえる効果がありそうで、そこが現代オペラとして面白い。だから吉之助も断言するのを躊躇するところがありますが、ただ台詞が平坦になってしまって生きた日本語に聞こえないということは言えそうです。これが外国語のオペラならば絶賛しちゃうのだがなあ・・などと思ってしまうのです。そこがちょっと気になるところではあります。これは日本語オペラに共通した課題なのかも知れませんねえ。(この稿つづく)

(R1・7・2)


○平成31年2月新国立劇場:歌劇「紫苑物語」・その5

歌劇「紫苑物語」を聴きながら吉之助が妄想したことは、この見事に揃った演奏に感嘆しながらも、ところどころ要所で、日本語による歌唱とオケの間で音程が微妙にズレて来る・或はリズムが微妙にブレて来る、そういう場面が欲しいということ でした。(当然ですが、ずっとズレっぱなしではなくて、どこかでズレを修正して元に戻る。)そこにどこか邦楽(声楽)と洋楽との絡み合いの軋みみたいなものが表現できないものかということです。別に具体的なアイデアがあるわけではないので、戯言と聞き流して下さい。日本語歌唱がオケとビッタリ揃うと、吉之助にはなんだか窮屈でどことなく居心地が宜しくない瞬間が時々あるのです。クラシック音楽を50年聞いていて西洋音楽に慣れているはずの吉之助でもそうなるのです。クラシック音楽と云うのは一種の建築物で、基本的には縦横の線がびったり決まることを作曲家も演奏家も目指すものなので、ここで吉之助が書いていることは見当違いに聞こえるかも知れませんが、西村朗も大野和士も「日本的なオペラを創る」という課題のなかで苦闘してきたわけであるから、吉之助が言いたいことの雰囲気くらいは分かっていただけるかなと思うのです。(付け加えますが、本稿では日本語オペラの宿命的な問題を考えているので、歌劇「紫苑物語」だけを対象にその良し悪しを論じているのではありませんので、そこのところご理解ください。)

世界各地に様々な形態の民族音楽が存在しています。邦楽を含めてそれらは地域限定の当然マイナーな存在ですが、現在世界を席巻している西欧音楽(正確に云えば平均律で五線譜に記載される音楽)も、数多い民族音楽の一形態に過ぎないのです。西洋音楽があたかもグローバル・スタンダートみたいになっていること自体が、異様なことなのかも知れません。バルトークの民族音楽もシェーンベルクの無調音楽も、西欧音楽体系の黄昏・綻びみたいな観点から語られることが多いですが、実は五線譜が拾い上げ切れなかった 繊細な民族的な感性や情感があるわけで、そのような人間の欲求・揺り返しからバルトークやシェーンベルクなどが必然的に生じて来たという見方も可能ではないかと思うのです。

明治頃の日本人は洋楽を聞くと、「頭が痛くなる」とか「歯が浮く」とか言ったそうです。当時は「唱歌校門を出ず」と世間では言われていました。尋常小学校で教える唱歌は学校で教えるから仕方なくやるけれども、校門を出れば「あれは我々の音楽ではない」と云うことであったのです。当時の日本人にとって我々の音楽と云えば、当然ながら、それは民謡だったり小唄端唄・長唄や義太夫節でした。そういう状況から日本の洋楽は始まって今日に至るわけです。

昭和21年(1946)12月に美空ひばり(当時9歳)がNHK「のど自慢素人音楽祭」(現在の「NHKのど自慢」)に出演して歌を歌いましたが、「大人の歌を子供が歌うのは影響が良くない」として審査員が鐘を鳴らさなかった(つまり 審査に落ちた)そうです。ひばりのデビュー直後には詩人のサトー・ハチローがこんなことを書いています。

『やり切れなくなった。消えてなくなれとどなりたくなった。吐きたくなった。いったいあれは何なのだ。怪物・バケモノのたぐいだ。(中略)ボクの小さい時に九段の祭りの熊娘、クモ男、ろくろ首などというものがあった。あれとどれだけの違いがあるというのだ』(サトー・ハチロー:東京タイムズのコラム ・昭和25年)

これは理屈ではないところの嫌悪感なのです。現代の人々が聞くと先見の明なし・偏見・無知の極みのように受け取ると思いますが、この時代には「唱歌校門を出ず」の感覚がまだ まだ根強く残っていたのです。これは日本人のなかに微かに残った民族的音感から発するアレルギー反応です。つまりまれびと(洋楽)に対する「もどき」の反応です。そう考えればひばりを 落とした審査員やサトー・ハチローの気持ちが少しだけ理解出来るかも知れません。(逆に考えれば、西洋音楽の音感を備えた美空ひばりは、まさに当時の音楽的な「未来人」であったわけです。)びったり揃った洋楽の日本語歌唱に居心地がどことなく悪くなる吉之助の場合も、まあそんなところ かも知れませんねえ。(この稿つづく)

(R1・6・29)


○平成31年2月新国立劇場:歌劇「紫苑物語」・その4

残念ながら吉之助はこれまで現代日本音楽にあまり関心がなかったので、西村朗の音楽にきちんと向き合ったのは今回が初めてです。歌劇「紫苑物語」での管弦楽(まず管弦楽のことだけ書いておきたいのだけど)が、響きの力強く雄弁なことに感心させられました。第一幕が開 くと管弦楽だけの部分がプロローグの形でしばらく続きます。西村の音楽は予期していたよりはるかに聴きやすく、主人公宗頼の苦悩や不安など感情の微妙な変化がよく伝わって来て引きこまれました。大野和士指揮の東京都交響楽団も最後まで高い緊張感を維持して見事なものです。

この雄弁な管弦楽に乗って繰り広げられる歌唱が、音程と云いリズムと云いビシッと揃って正確なもので、これがまた見事なものです。主人公宗頼役の高田智宏も見事な歌唱ですが、バリトンはやや声質の印象が地味だし、歌詞もどちらかと云えば理屈っぽくて暗い(だからバリトンなのだろう)ので若干損な役回りかも。一方、音楽に華を添える二人の女声歌手、うつろ姫を歌う清水華澄・千草を歌う臼木あいが素晴らしく印象に残ります。現代日本音楽界が西洋と遜色ない水準に達していることに改めて気付かされたのは、まったく吉之助の不明を恥じる思いでした。「世界に誇れる日本オペラを世に出 してみせる」という大野の願いは立派に実現されたと断言して良いのではないでしょうか。

ただ吉之助はこの歌劇「紫苑物語」を聴こうと思ったのはもともと歌舞伎との関連であるので、本曲が「日本的なもの」であるのかどうかについては、ちょっと結論を先送りしたいと思います。そもそも本曲は西洋音楽の技法で日本の題材を描いたものですから、 音楽が日本的なものでなければならない必要など最初からないかも知れません。そういうことを考えること自体が吉之助の臍曲りなのかも知れません。西洋人はプッチーニの「蝶々夫人」を日本的なものだと信じていますし、それならば 本曲は十分過ぎるほどに日本的だと思います。海外オペラ公演で本曲を持っていけば、海外でも文句なく評価されると思います。だから「日本的なる音楽」の定義が問題になって来ますが、吉之助が感じたところを述べておきたいと思います。

以下は師匠武智鉄二の説の吉之助的理解です。安土桃山期に三味線という新しい楽器が(武智はスペインのフラメンコ・ギターから来たとする)紹介されたことで、邦楽は根本的な変化を迫られました。それは三味線が音程(ツボ)を持つ音程楽器であるということ、もうひとつは三味線の打楽器的性格から来るものです。三味線の導入によって、邦楽は明確な音程と拍(リズム)の概念と対峙させられることになるのです。音程と拍が明確であると、音楽は或る意味で分かりやすくなります。「計りやすくなる」・「割り切れる」と云う表現の方がより的確かも知れません。ところがそれ以前の邦楽においては音程と拍の概念が、それほど厳密なところにありませんでした。

江戸期の三味線音楽(云うまでもなくそれはほとんど声楽を伴うものです)は、その後興味深い進展を示しました。三味線導入以前の邦楽は音程と拍の概念が曖昧であったので、 歌声を三味線と無理に合わせようとすると音程が微妙に合わないし、リズムも微妙に合わない。そのような苦労が江戸初期に長く続いて、元禄頃になってやっと歌声が三味線と何となく 寄り添うようになって来ました。そこまでに百年くらいの歳月掛かってい るのです。それでも微妙なところで三味線と歌声の押し引きが続いて、これは現在も続いています。

例えば日本舞踊にはチントンシャンで決まる場面がありますが、このような決まる間は先行芸能の能や狂言にはないそうです。たまに何かの拍子で動きが定間に入ってしまうと、怒られたものだそうです。逆に云うと、三味線以前の邦楽の感覚では定間にはまるのは「イヤなこと」なのです。(別稿「間について考える」を参照ください。)あるいは義太夫の太夫の語りは三味線が示す 「フシ落チ」の手と違う音程で出るという原則がありますが、これも見方を変えれば、太夫が三味線の誘導に素直に従わない・合わせることを拒否すると云うことなのです。これは折口信夫流に見立てれば、海の向こうからやって来たまれびと(翁)を三番叟が「もどく」(拒否する・まぜっかえす)行為にも似ます。そこに洋楽に対する日本人古来の身体感覚の密かな抵抗が続いているが如 きに感じます。だから武智の考え方に沿えば、「邦楽と洋楽とは本来的に相いれないところがある、その相克を示すのが江戸期の三味線音楽だ」という結論になるかも知れません。

武智は「邦楽には調性がなく、和声がなく、リズムもない、倍音がないからハーモニーもない、だからアンサンブルもない」とよく云いました。こういう武智の説明は、厳密に云えば多少誤解を招くところがあるかも知れませんが、普段西洋音楽を聴きなれた人間にとっては、何となく感覚的に理解できるものです。中学時代から洋楽に親しんだ武智少年は、バルトークの民族音楽やシェーンベルクの無調音楽に初めて接した時に、ここに邦楽と一脈通じるものを聴き取りました。この衝撃から武智の民族音楽の関心が始ま りました。(武智のエッセイ「現代音楽愛好者の弁」・昭和30年などをご参考にお読みになれば良いです。)現在でも邦楽の歌声は、三味線が先導する音程とリズムから外れて、微妙に揺れて聞こえることがあります。吉之助はそういう時に頭がフッと無重力状態に陥ってしまう気がして、そういうところに邦楽の何とも言えない魅力があると思います。だから吉之助にとっても、 武智同様、義太夫も長唄も現代音楽みたいなものなのです。

そこで話を歌劇「紫苑物語」に戻しますが、明治以降に日本に流れ込んできた西洋音楽についても、この約百数十年、同じような歴史が再び繰り返されていると感じるわけです。吉之助が本曲が「日本的なもの」であるか結論を先送りしたいと思うのは、実は管弦楽と歌唱が、音程と云いリズム感と云い、縦と横の線で見事にビシッと揃っていると感じることです。「まったく吉之助は何を考えているのだろうね」と言われそうです。西洋音楽的に見れば、まったく技術的にも相当に水準の高い作品であり、 歌唱・演奏であることは明らかなのです。ただねえ、吉之助が聞いていると、音楽が割り切れてしまっているみたいに聞こえる時があるのですよ。それが聴きやすい音楽と云う印象に通じていることも確かなのですが、割ってみて時々多少の余りか・不足が出る瞬間がある方が、吉之助は何となく「日本的な音楽」を聴いた気分になるのです。意識が中空に飛ぶような瞬間が欲しいわけです。そこに日本語の歌詞をどのように西洋音楽に乗せるかという問題で苦しんで来た 山田耕作や團伊玖磨と同様、西村朗も格闘を重ねて来たのだということを思うわけです。 もちろんこのような問題に軽々に結論が出せるはずもありません。そのような洋楽の管弦楽と日本語歌唱との間に生まれる宿命的なズレ・微妙な乖離をどうしたら表現できるか、そもそもそれは意図して楽譜に表現できる類のものか、或いはそれは演奏の領分であるのか、吉之助にも目算があるわけではないのですがね、まあそんなことを考えながら音楽を聴く吉之助みたいなのもいるってことです。(この稿つづく)

(R1・6・21)


○平成31年2月新国立劇場:歌劇「紫苑物語」・その3

石川淳の原作と出来上がった歌劇「紫苑物語」とを比べると、登場人物の比重が若干変わっています。口の悪い方は、名作文学のオペラ化はしばしば原作の陳腐化で原作を凌ぐことが滅多にないとよく云います。 しかし、小説と音楽とでは得意とする表現領域が異なります。小説をオペラ化する 場合、演劇的・音楽的な要請から、同じ題材を扱っても描かれる様相が変わって来ることは、仕方がないことです。

原作はどちらかと云えば全体に男性的な色調が強いようです。一方、歌劇「紫苑物語」の場合は、声質に変化を与える必要から、女性(ソプラノ・パート)の役割が意図的に強化されており、ここから二組の対立するカップルを浮かび上がらせています。まず元は宗頼に射られた狐で・その後恨みを晴らすため妖術で陥れようと宗頼に女に姿を変えて近付いた千草と云う狐の化身が 、主人公宗頼と組み合わされて、第一のカップルに仕組まれます。宗頼の妻であり・淫蕩な性格を持つうつろ姫が原作よりもずっと重い、宗頼と真っ向対立する存在に仕立てられてれています。またこれに伴 って国守の座を狙ってうつろ姫に近づく藤内と云う男の比重が重くなって、このふたりが俗世に於ける宗頼を脅かす第二のカップルになります。

第1幕では原作にはない宗頼とうつろ姫の婚礼の場面があって、うつろ姫が大活躍します。しかし、原作を読むと、うつろ姫も藤内も、それほど重要な意味を持つ人物に思われません。仏頭を射た宗頼が破滅する余波に巻き込まれて消え去る小者に過ぎないのです。これは大野和士の強い希望で、これまでの日本オペラで試みられたことがなかった四重唱を実現するための処置 だろうと思います。音楽的スペクタクルを加味するうえでも、これはまあ納得出来る改変ではあります。(四重唱については後述します。)

しかし、このため原作で主人公宗頼と対比さるべき位置にある平太の比重が軽くなってしまったようです。と云うことは宗頼が岩山上の仏像を弓で射るという行為の必然が十分描かれていないと云うことになるので、この点は議論されるべきところです。弓矢の道にのめり込む主人公宗頼の、悩み・苦しみ・葛藤がどれだけ描けているかというところに若干の不満が残ります。だから平成31年 (2019年)という今の時代になぜ石川淳の「紫苑物語」かというところが、今ひとつ明確に見えて来ません。

しかしまあ難しいところですが、演劇的・音楽的スペクタクルを追求するのであれば、この程度の改変は仕方ないと云うか、オペラは結局そう云うものということになるのかなと思います。こう書くと「オペラとはその程度のものだ」という風に聞こえるかも知れないので、若干気が引けますけれど(そこは吉之助が40年来のオペラ・ファンだと云うことでお許しいただきたい)が、観念的な駆け引きはオペラが苦手とするところです(ワーグナーはそこを長ったらしい対話の応酬で解決しようとしました)。むしろオペラは感情のひたむきさ・熱さみたいなものを観客に対して感覚的に突き付けることが出来れば、それで十分役割を果たしているのかも知れません。小難しい理屈は、オペラを見た後に観客が 人それぞれに考えればそれで良いことなのです。ここは小説とオペラはまったく別の作品だと割り切る必要があるかも知れません。(この稿つづく)

(R1・6・15)


○平成31年2月新国立劇場:歌劇「紫苑物語」・その2

もうひとつの注目点は、オペラの原作として石川淳の短編小説「紫苑物語」を取りあげたことです。無頼派の作家と云うと、吉之助の場合はもっぱら太宰治と坂口安吾 ということになりますが、残念ながら石川淳にまで 手が出ませんでした。「紫苑物語」(昭和31年・1956)という作品を今回初めて知りましたが、短編ながら石川淳の代表作とされるものだそうです。

主人公の宗頼は国の守ですが、和歌の家に生まれ・恵まれた才能にも関わらず、和歌の世界を飛び出して弓矢の道にのめり込み、遠国に赴任して「知の矢」と「殺の矢」を習得し、さらに「魔の矢」を会得するに至ります。宗頼は自らの行く手を阻む者を容赦なく次々と射殺しては、遺体の傍に紫苑の 花(忘れな草)を植えさせて、自らはますまず悪霊の如き存在になって行きます。そんな宗頼が一人の男と出会います。平太は岩山に独り住まい、岩肌に仏の像を刻み付けることを続ける男です。宗頼は断崖に立ち、岩山の仏像の頭部に向けて矢を放ちます。第一の矢と第二の矢は岩に当たって砕けましたが、第三の矢・魔の矢 が仏の頭部を射削りました。「確かに射たぞ、平太よ」と叫ぶと同時に、宗頼の足元の岩が崩れ、宗頼は深い谷底にまっさまさかに落ちて行きます。その後、岩山の麓には紫苑の花が咲き乱れ、人々は「鬼の歌」が聞こえると噂するのでした。

これが小説「紫苑物語」の粗筋ですが、読後感は錯綜して ・なかなか重苦しいものです。(個人的な感想です。)弓矢の名人の話と云うと中島敦の「名人伝」を思い出しますが、吉之助には「紫苑物語」のなかに宗頼の成長過程が見えないと云うか(苦しみ葛藤があることは分かるのだがねえ)、恐らく宗頼 には弓矢の神髄を追求しつつも・ますます魔道に堕ちて行く感があるので、吉之助は主人公にあまり共感できないですねえ。 真理を追究しているうちに悪魔に魂を売ってしまう男という感じがします。ファウスト博士みたいな者であろうか?知の矢・殺の矢・魔の矢と云うのも、分かりやすいようでいて観念的に過ぎて吉之助には何だか意味不明なのです(これは何かの段階を示しているのかな)が、しかし、まあ名作と云うものはどんな読み方も許してくれるものですから、人それぞれの思い入れで読めばそれで宜しいのだろうと思います。

ところで小説を読めば、平太は宗頼の分身と云うか、宗頼の悪魔性に対して平太の聖性が対比されていることは、すぐ分かります。しかし、この小説の結末は、宗頼が勝ったと云うわけではなく、平太が勝ったわけでもない、 それでは引き分けなのかと云うと、そうでもないのです。理論物理学の世界では、物質と反物質が衝突すると、対消滅を起こして、質量がエネルギーとなって放出されてしまい、反応前の物質と反物質は消滅して、後には両者の質量に相当するエネルギーがそこに残る と云うことです。この当時最新の理論物理学のイメージを石川淳は作品に取り入れたのだろうと思いますねえ。宗頼の居館が突然燃え上がり、宗頼に関連するすべてのものが焼き尽くされたと云うのが、これに当たります。悪魔性と聖性の衝突が生みだしたエネルギーがすべてを焼き尽くし、あとに紫苑の花(忘れな草)だけが咲き乱れます。それだけがかつて宗頼という男がこの世にいたということの名残りなのです。

以上が吉之助が小説「紫苑物語」から読み取ったことの一端ですが、これを大野和士・西村朗以下プロジェクトの面々がどのように新作オペラに仕上げて行ったのか・これを想像してみることはとても贅沢なお愉しみではあります。(この稿つづく)

(R1・6・12)


○平成31年2月新国立劇場:歌劇「紫苑物語」・その1

本稿で紹介するのは、本年(平成31年)2月に新国立劇場での歌劇「紫苑物語」の世界初演の映像です。歌劇「紫苑物語」を取り上げるに当たり、吉之助のことを云えば、吉之助はクラシック音楽を聴き始めてもう50年 を越えましたが、サイト別館「クラシック音楽雑記帳」をご覧になればお分かりの通り、範囲は狭くてほぼウイーン古典派(ハイドン・モーツアルト)から後期ロマン派(マーラー、R・シュトラウス)までが中心で す。現代音楽には疎くて、日本オペラはほとんど聴いていないので、歌劇「紫苑物語」の音楽的なところは吉之助の論じるところではないですが、恐らく話が自然に歌舞伎に絡んで行くであろうと云う目算のもとに書いていますが、さてどうなりますかねえ。

新国立劇場は東京・初台にある、日本のオペラ・演劇の発信拠点です。オペラ部門においては、昨年9月から始まる今年度はヨーロッパの歌劇場で活躍した大野和士が芸術監督に就任し、その大野が初めてオケ・ピットに入って振るのが、ワーグナーでもヴェルディでもなくて、日本人による日本語オペラ、しかも大野自身のプロデュースによる新国立劇場委嘱作の世界初演と云うことで、恐らく日本音楽界においては今年最大の話題と云えるものです。原作は石川淳の短編小説「紫苑物語」(昭和31年・1956)で、これを詩人の佐々木幹郎が台本化し、作曲は西村朗、演出は笈田ヨシ、これに指揮の大野和士が何度もディスカッションを重ねて、綿密な協同作業により世界に誇る日本のオペラを発信しようという意欲的なプロジェクトです。

明治維新の後、西洋音楽が日本に流入して、日本語を西洋音楽にどう乗せるかと云うのは、歴代の日本の作曲家がずっと苦闘し続けて来た課題でした。日本語によるオペラも山田耕作以来、かなりの数が書かれていますが、吉之助はほとんど耳にしていません。義太夫や長唄ならば全然気にならない吉之助が、日本語オペラに二の足を踏んでしまうのは、抑揚・アクセントが不自然 な感じがして日本語を聞いた気がしないという経験を何度かしたせいだろうと思います。しかし、考えてみれば、吉之助がヴェルディを聴く時にイタリア語を分かって聴いているわけではないのだから、そう大きなことは言えません。先日ムーティの「リゴレット」リハーサルを聴講しましたが、ムーティは歌手の実に些細なイントネーションを指摘して修正してました。これは吉之助が義太夫狂言で東京の役者の大阪弁のイントネーションを気にするのと似 ているみたいですが、ムーティの場合は、イタリア語ネイティヴとしてフィーリングでそう言うのではなくて、作曲者が書いた音符が歌詞のイントネーションを自然に反映しているという明らかな文献的根拠がある のです。ヴェルディはまるで台詞をしゃべるかのように歌を書いているのです。吉之助もイタリア語が分からないなりに、リブレットを追って時折口ずさんでみたりしますが、音楽の深い理解のためには台本に立ち戻らないわけには行きません。(この経験が吉之助が歌舞伎の台詞廻しを考察する時の基礎になっているわけです。)

オペラの場合は、何と言ってもイタリア語が音楽に一番良く乗りますねえ。ドイツ語だと論理性が強くなるようで、これはオペラよりはリート(歌曲)向きかなとは思う。(個人的な感想です。ワーグナーには大変申し訳ないと思っています。)英語の場合だとオペラよりミュージカルの方が似合う気がするのは、どうしてでしょうかね。( これも個人的な感想です。ガ―シュインやブリテンには 申し訳ないと思います。)日本語の場合も、オペラと相性がどうも宜しくない気がします。やっぱり義太夫や長唄・清元の方がしっくり来ます。( これも個人的な感想です。山田耕作や團伊玖磨には大変申し訳なく思います。)もっとも日本語オペラの場合には、西洋文化という・伝統日本の文化とまったく異質なものを如何に受容するかという課題が密接に関連します。これはオペラという台木に、日本語という植物を接ぎ木するのに等しい行為なのかも知れませんねえ。だからと云って吉之助は日本語オペラの創造が無意味なことだとはまったく思っていません。 恐らくそこに何らかの「異化」が生じるであろう。それを期待しないのであれば、日本語オペラの創作に挑戦する意味はないことになります。日本語とは何かという問題にもっとも困難な分野において立ち向かったと云うことで、まったく大変な難題に取り組んだものだと先人たちの努力に頭が下がる思いがしますねえ。そう云うわけで、今回歌劇「紫苑物語」に興味を抱いたのは、現代において日本語オペラはどこまで来たのかということが、まず興味の第一でありました。(この稿つづく)

(R1・6・10)


○令和元年5月歌舞伎座:「御所五郎蔵」・その4

五條坂仲之町での五郎蔵と土右衛門の出合いは、小団次が初演した時(元治元年)は子分も含めて双方全員が傘を差して登場したものだそうです。傘には鎌倉の大名の紋どころを描きました。五代目菊五郎は二回目まではこのやり方で演じ、三度目から現在のやり方に変えたとのことです。なぜ菊五郎が変えたのか理由は分かりませんが、多分「弁天小僧」の稲瀬川勢揃いにツクのと、仲之町の舞台では 大時代に過ぎる印象があるせいだろうと思います。しかし、本作は「鞘当」を擬しているわけですから、大時代の印象になるのは当然です。五郎蔵が古風な車鬢のカツラを付けるのも、そういうことです。視覚面をこのように大時代に仕立てておいて、演技面では世話に砕くのです。この対照が小団次ー黙阿弥の仕掛けです。そうでないと世話の「鞘当」の趣向が生きて来ないことは、明らかです。現行の仲之町の舞台を見れば(今回の舞台もそうですが)台詞を時代っぽくダラダラ調の七五でやって面白くなろうはずがありません。

今回(令和元年5月歌舞伎座)の舞台を見ると、松弥の五郎蔵は見掛けは悪くありませんが、台詞が妙に力んで流れがギクシャクして聴き辛い。自然にやれば上手い台詞を喋れる役者なのに、様式的に節を付けて歌おうという意識が却って悪い作用をしているようです。「黙阿弥の七五調は歌うもの」なんてことを云う 方がいるからいけないのです。台詞が導く抑揚に従って言葉を自然に転がせば、リズムは自然と七五のリズムに乗る、そのように黙阿弥がご親切に台詞を書いてくれているですから、そのようにやれば良いことです。

彦三郎の土右衛門も台詞も、リズムがセカセカする感じで余裕がありませんねえ。彦三郎の台詞は歯切れ良く声が通るので、吉之助も評価している役者です。この彦三郎の歯切れ良い台詞は、二拍子を基調にする新歌舞伎であれば活きます。しかし、黙阿弥でこの台詞廻しだと二拍子のリズムが強く出過ぎて、急き立てる印象になってしまいます。黙阿弥の七五調と云うのは、自然な抑揚のなかにゆるやかな緩急の流れがあるものです。これを二拍子で強引に割ろうとするから、言葉が後ろから押す印象になって来ます。もっと言葉をゆったりと自然に流す。そのような滔々たる流れが音楽的な印象を生むのです。

ですから五條坂仲之町の出合いを様式美を見せる時代世話の場面だと思うところに大きな誤解があるわけで、視覚面ではバッチリ大時代に決めても、演技・台詞は写実に生世話に砕く、そのギャップこそが、小団次ー黙阿弥の歌舞伎の面白さなのです。意図的に世話に崩していくことをしないと、小団次劇の面白さは出て来ません。活きの良い人間を描くことこそ、小団次の狙いです。そこを様式的に納めてしまったら、生きた人間を描いたことにならないじゃアありませんか。残念ながら、明治以降の「御所五郎蔵」はそんな感じになってしまいました。吉之助はそこに明治維新が歌舞伎にもたらした 伝統の断絶の大きさを思うのです。

(R1・6・3)


○令和元年5月歌舞伎座:「御所五郎蔵」・その3

時系列を整理すると、「御所五郎蔵」初演が元治元年(1864)2月、小団次が 亡くなったのが慶応2年(1866)5月、王政復古の大号令が慶応3年(1867)12月のことでした。小団次ー黙阿弥の歌舞伎の流れがぶった切られて続かなかった背景には、明治維新を境にした世相の激変が明らかに関係しています。これは明治維新が世間のみならず・歌舞伎にもたらした衝撃が想像以上に大きかったことを示すものです。

同じように日本人の感性に衝撃を引き起こした由々しき事態と云えば、近いところでは昭和20年8月15日の太平洋戦争敗戦があります。戦後処理や戦犯裁判など、どのような過程で日本が泥沼の戦争にはまりこんで敗戦に至ったのかは様々な議論・批判がされたと思いますが、それは大抵直近10年だか20年のところでなされました。歴史的な視点からすれば、もっとはるか昔の明治の日清・日露戦争辺りにも根本要因が潜んでいそうですが、そういうことはほとんど論議されませんでした。議論の仕様がなかったとも云えます。

歌舞伎にとっての明治維新も、まあそんなところです。当時は「天保人」という言葉が侮蔑的に使われた時代でした。開化開化で、江戸のすべてのものが議論抜きで何でも悪いとされました。演劇改良運動で、旧態依然とした歌舞伎の権化として真っ先に槍玉に挙げられたのが、黙阿弥でした。はっきり云えば、それは小団次ー黙阿弥の歌舞伎のことで した。荒事の初代団十郎や近松や出雲など伝統歌舞伎が槍玉に挙げられたわけではなく、直近の小団次の歌舞伎が江戸の旧弊の象徴として否定されたのです。

黙阿弥はなおも歌舞伎に踏みとどまり、苦渋を舐めつつも、遂に名誉回復の機会を得ることが出来たのは幸いなことでした。しかし、 維新前に亡くなった小団次には名誉回復は訪れませんでした。明治14年(1881)に新七から黙阿弥に号を改めた時、黙阿弥は「以来何事にも口を出さずにだまって居る心にて黙の字を用いたれど、又出勤する事もあらば元のもくあみとならんとの心なり」と自分の気持ちを書き残しています。「黙」の字には様々な思いが込められているでしょうが、そこに黙阿弥の小団次への思いが含まれていな かったはずがありません。晩年の黙阿弥は自身の快心作として「三人吉三」(安政7年初演)を挙げたそうですが、これは小団次との提携作でありました。

ですから明治維新によって小団次の歌舞伎の流れは一旦断ち切られた、これ以後も引き続いて上演された「三人吉三」にせよ「十六夜清心」にせよ、元の小団次ー黙阿弥の歌舞伎とはちょっと異なる感覚で処理されて来たのかも知れぬと云うことを考えてみなければならないのです。但し書きを付けますが、これは明治の歌舞伎を引き継いだ九代目団十郎・五代目菊五郎が先輩小団次を裏切ったということではなく、明治の世に在ってはそのような形でなければ小団次の歌舞伎を残すことは出来なかった、そう云う事情があったのかな、それほど明治維新が歌舞伎にもたらした衝撃は大きかった、そう云うことを吉之助は想像するのです。

明治の役者から見れば、「御所五郎蔵」などつい 20年か30年そこら前の芝居であるはずですが、それは彼らにとって精神的に最も遠い芝居になっていたのです。こうして芝居が写実(リアリティ)から遠のいてしまいました。大正期になってみれば、前節で引用した三宅周太郎が書いた通り、小団次の歌舞伎は「歌舞伎劇の幻想と、グロテスクな様式美とを以て作られた超現実的な物」であったのです「御所五郎蔵」が時代世話だと云う認識は、そう云うところから出て来るのです。(この稿つづく)

(R1・6・1)


○令和元年5月歌舞伎座:「御所五郎蔵」・その2

例えば映画に背景音楽がなければ、どれだけドラマが詰まらないものに見えるか想像してみれば良いと思うのですが、小団次ー黙阿弥劇での下座音楽の多用も、結局、写実の芝居を如何に陰翳深く見せるかというところに掛かっているのです。音楽的表現それ自体は写実から遠のくものです。しかし、下座音楽が作り出す情緒に寄り掛って、役者の演技までが様式的になってしまっては元も子もありません。これはむしろその逆で、役者の演技が写実に向くことで、下座音楽が志向するベクトルとの対比を際立たせることによって、感情の彫りがより深くなり、人情の機微が描ける。小団次ー黙阿弥が目指したものは、そう云うことではないでしょうか。

通常黙阿弥の「曾我綉侠御所染」は時代世話であると認識されているようです。これにはもちろん理由がないわけではありません。本作は柳亭種彦の小説「浅間嶽面影草紙・前編・後編」(出版は文化6年〜文化9年)から取材したものですが、 これは種彦が元禄の絵入り狂言本「けいせい浅間嶽」(つまり歌舞伎にとって昔から馴染みの題材です)からアイデアを得て書いたものだそうですから、随分起源が古い御家騒動物なのです。 黙阿弥の芝居の筋は錯綜しているので説明しても仕方ないですが、これは六幕十二場の長い狂言で、たまに「時鳥殺し」の場面が出ることもありますが、現在ではもっぱら「御所五郎蔵」の件のみが見取りで上演されています。

五郎蔵と土右衛門が出合う五條坂仲之町と云うのは、実はこれは 種彦の原作と同じく場所は京都なのですが、黙阿弥は「筑波なれえを吹き返す」などとすっかり江戸の吉原のつもりで書いています。これは浅間家の後室百合の方という悪女が殿寵愛の妾時鳥を嬲り殺しにする「時鳥殺し」の筋(その後時鳥は怨霊と化し数々の怪異を引き起こし芝居全体の骨格を成す)を一番目(時代狂言)に見立て、「御所五郎蔵」の筋を二番目(世話狂言)に見立ているのです。したがって五條坂を江戸吉原に見立てることで、五郎蔵の件を世話に砕いているのです。この辺のセンスがとても大事なことで、五郎蔵の件は時代物の骨格を持っていても、中身は完全に世話なのです。京都での出来事だけれど、芝居は江戸吉原のことだと割り切って楽しむ。五郎蔵のカツラも車鬢などと云う古風なものを付けていても、この場はあくまで世話である。それでないと芝居のアクセントが付かないのではありませんか。

しかし、明治以降現在までの「御所五郎蔵」を見れば、これは明らかに時代世話として、つまり音楽美と様式美が入り混じった世話物として上演されて来たことは明らかです。三宅周太郎が六代目菊五郎の五郎蔵についてこんなことを書いています。

『「御所五郎蔵」の芝居の如きは、黙阿弥の前期の作に属する共通性の、歌舞伎劇の幻想と、グロテスクな様式美とを以て作られた超現実的な物である。さすがに(六代目)菊五郎もこの狂言では写実を加えない。あるいは彼自身の新解釈を加えては忽ち破綻を生じるくらいの、歌舞伎味の濃い作であるのを知っていると見える。それだけに彼は不承不承に型を辿るだけで、その役が生理的にも、技芸的においても自己の領分でないのが分かっていると見えて、熱もなければ、型を優秀な技術たらしめようともしない。ただ型を一通り繰り返しているだけである。ゆえに我々が観賞上から批判を下せば、菊五郎の御所五郎蔵くらい稚拙な物は珍しいとさえ云える。』(三宅周太郎・「演劇往来」〜「羽左衛門と菊五郎の世話物」・大正11年)

三宅周太郎が嫌味を交えてここまで役者をこき下ろすのも珍しいと思いますが、それは兎も角、吉之助には六代目菊五郎の気持ちが何となく分かる気がするのですがねえ。菊五郎は天性のセンスで、「御所五郎蔵」 で人間を描く為にホントは何が必要かちゃんと分かっていたに違いない。しかし、周囲が時代で演技しているなかで自分だけが写実に強引に押したら全体が分解してしまうことが明らかなので、自分の芝居を投げちゃった、そう云うことだと思います 。まあ役者としては、確かにしちゃいけないことではあるのですがね。(この稿つづく)

(R1・5・30)


○令和元年5月歌舞伎座:「御所五郎蔵」・その1

吉之助も四十数年歌舞伎を見て来て、「御所五郎蔵」を何度見たか・数えたことはないけれど・まあそれほど多いわけではないですが、しかし、それにしてもこの芝居を面白いと思ったことは一度もない気がしますねえ。何と云えば良いかな、もうちょっと面白い芝居に出来そうなのに、何だか様式美に寄り掛ってどうも具合が良くないねえ、「御所五郎蔵」ってのはこんな芝居なのかねえ・・みたいなことしか考えたことがない気がします。今回(令和元年5月歌舞伎座)の舞台も例外ではないのですが、いい機会なので、ちょっとこの芝居について考えてみたいと思うのです。

黙阿弥の「曾我綉侠御所染」(通称・御所五郎蔵)は元治元年(1864)2月江戸中村座の初演。初演の五郎蔵は名優・四代目小団次、土右衛門は三代目関三十郎でした。ちなみにこの時期は小団次と黙阿弥の提携時代のほとんど終わりに近い時期に当たります。小団次と黙阿弥との深い関係は、安政3年(1854)3月の「都鳥廓白浪」(忍ぶの惣太)に始まり、慶応2年(1866)3月小団次の 突然の死によって終わりを告げます。ところで小団次との関係から生みだされて、現在でも歌舞伎の人気レパートリーになっている作品は、「宇都谷峠」・「十六夜清心」・「三人吉三」など数多いのですが、小団次の芸風を 以後にその通り引き継いだ役者がおらず、明治以降にこれらの作品を引き継いだ五代目菊五郎、あるいはその後の六代目菊五郎・十五代目羽左衛門らの芸風が、良くも悪くも、小団次のそれとは微妙に異なるために、これらの作品は小団次が初演した時とはまったく違った印象で現在まで受け継がれて来た、したがって、現代の舞台から小団次時代の黙阿弥を想像すると若干の齟齬が生じると云うことを想像します。前述の通り、現代の「御所五郎蔵」は何だか様式美に寄り掛ってどうも具合が良くないと感じるのは、その辺に原因があるのではないかと思うのです。

例えば歌舞伎研究者からは、小団次との提携によって黙阿弥の芝居は竹本・清元などの下座音楽の多用、よそ事浄瑠璃・割り科白・七五調の科白など、音楽的・情緒的 な表現に傾斜し、江戸歌舞伎の写実劇の伝統を見失ってしまったと云うことがよく言われます。これは現行歌舞伎での「御所五郎蔵」の五條坂仲之町の舞台を見れば、その指摘もなるほどと思わなくもない。様式美( と云うことでしょうか)と、タラタラとした音楽的流れに頼り切ったダルい台詞廻し。まるで生きた人間が描かれている気がしません。

それにしても、ホントにこのようなダルい舞台が小団次ー黙阿弥の提携の行き着いた所なのでしょうか。吉之助には大いに疑問に思われるのです。「これ以後は色気なども薄く、なるたけ人情に通ぜざるように致すべし」という御達しをお役所から受けて、「これじゃあこの小団次を殺してしまうようなものだ」と言って憤死したほどの小団次が、江戸歌舞伎の写実の伝統を歪めたなんてことがあるのでしょうか。決してそんなはずはないと思います。(別稿「小団次の西洋」をご参照ください。)それならば小団次が初演した「御所五郎蔵」というのは、一体どんな感触であったのでしょうか、そんなこともちょっと考えてみたいと思うわけです。(この稿つづく)

(R1・5・29)


○令和元年5月歌舞伎座:「京鹿子娘道成寺」

菊之助が歌舞伎座で「娘道成寺」を踊るのはこれが初めてだそうです。果たして期待通り、素晴らしい踊りを見せてくれました。かつきりと折り目正しい踊りと云う印象には、どこか祖父・七代目梅幸に通じるところがあります。梅幸はふっくらした味わいがしましたが、菊之助の場合はもう少し理智的と云うか・怜悧な美しさがしますが、これもまた良しです。踊りの色の変わり目をきっちり見せています。だからついつい時を忘れて踊りに引き込まれて、次々と場面が展開していく流れが実に愉しいのです。こういう愉しい「娘道成寺」はずいぶん久しぶりだなと思いました。

吉之助は十代目三津五郎の「道成寺」の観劇随想のなかで、初代富十郎が創始した「道成寺」を立役のイメージで想像したいと云うことを書きました。真女形が踊る「娘道成寺」は、艶やかではあるが・嫋々とした方向に傾いて、凛としたところが見失われがちです。菊之助はこのところ立役に傾斜してはいますが、目下のところは女形と云うべきでしょうですから、これは三津五郎或いは十七代目勘三郎のような加役の白拍子花子とまったく違った印象になって当然です。菊之助の「道成寺」には女形らしい艶やかさが十二分にありますが、決して嫋々としていません。凛とした要素が理想的なバランスで立っています。祖父梅幸と同様、規範や伝統への信頼に裏付けされた折り目正しい芸と云う印象がします。

しかも今回の菊之助の白拍子花子に痛感することは、この点では梅幸よりも強くそれを感じるのですが、「道成寺」説話(安珍清姫)のストーリーが強く意識されていると云うことです。つまり鐘に対する強い思いと云うことです。もちろんこれは口伝としてあることで、どの踊り手であっても鐘に対する思いは必須のものですが、菊之助の場合は、これが踊りの流れの組み立てに特に強く作用していると感じます。このことは「道成寺」前半の金冠辺りであると(恐らくは意識的に)あまり強く出 して来ませんが、後半の「恋の手習」のクドキから次第に表に出始めて、鞨鼓の踊りではそれがメラメラ燃え上がるように表出される、そのような踊りのストーリー(設計)が意識されていると感じます。したがって今回の「道成寺」では前半がやや抑え気味に推移して、後半の「恋の手習」から次第に目が離せないほど 踊りの面白さが増して行きます。そこに「道成寺」説話のストーリーが脳裏に浮かび上がって来る気がするのです。だから最後に花子が蛇体になって鐘の上に上がると、「納得、これで腑に落ちた」という気分にさせられました。まったく真女形が踊る「道成寺」は、こうでなければならぬなあと思います。

(R1・5・28)


○令和元年5月前進座公演:「佐倉義民伝」・その3

前進座の芝居を見ていつも感心するのは、アンサンブルの良さです。前進座では主役だけが突出して見えることはありません。どの役も芝居が求めるサイズでそのような芝居が出来ています。すべての役者が同じ方向を向いているので、「義民伝」のような民衆劇では特にその良さを実感します。松竹歌舞伎を見慣れた方には、もしかしたらアッサリ風味で・もう少し濃い味付けが欲しいように見えるかも知れませんが、「歌舞伎らしさ」にドップリ浸かっていない演技が吉之助には新鮮に見えますねえ。台詞が七五のダラダラに陥らないし、台詞の末尾を長く伸ばして転がす役者もいません。これは写実を旨とする生世話では、大事なことなのです。

芳三郎の宗五郎はスッキリした風姿で、心の清く美しい人物像を素直に描き出せています。吉之助の記憶に残っている翫右衛門の宗五郎はもっと線が太かったし、演技に緩急を付けて感情の揺れを強く出しました。子別れの場面は素晴らしいものでした。その点では芳三郎はやや線が細い感じがしてアッサリ風味で、人によっては歌舞伎味がちょっと薄いと感じる方も居られるでしょう。 それは台詞・演技のほんの僅かな緩急の付け方(息の取り方)に弱いところがあるせいです。演技がトントンと定間で進むからです。(ほぼ同じことが国太郎の女房おさんについても云えそうです。) このため子別れで引き裂かれるアンビバレントな感情が胸にツーンと来るというところまでには至っていないのだけれど、代わりにこの人の宗五郎は殉教者のような無垢な清らかさがありますねえ。だから描きたいものは確かに伝わって来ます。こういう宗五郎もあって良いと思いますし、回を重ねて行けば子別れの悲痛さがもっと出て来るでしょう。翫右衛門の貴重な映像が遺っているのですから、それを見て研究してもらいたい ですね。大切の印旛沼湖畔の場で芳三郎と国太郎が旅芸人の二人連れで登場したのには、救われる思いがします。これは堀田の殿様の寝所に宗五郎夫婦の怨霊が現れて芝居が終わるよりも、ずっと後味が良い終わり方です。

(R1・5・26)


○令和元年5月前進座公演:「佐倉義民伝」・その2

文久元年の再演(「桜荘子後日文談」)のために黙阿弥が書き下ろした仏光寺祈念の場は、今では滅多に上演がされません。しかし、この場はとても興味深いものです。仏光寺住職光然は宗五郎一家の助命を祈って三七日(みなのか)の行を続けていましたが、駆けつけた百姓十作が一家の処刑の情景を詳しく語ります。これを聞いた光然は憤怒の余り数珠を切りお経を引き裂 いて、せめて彼らの遺骸を奪い取り自分の手で葬ろうと決死の覚悟で刑場へ向かいます。さらに次の場で光然は印旛沼に入水してしまいます。光然は宗五郎一家処刑の不当を強く叫び、荒事の要素も加わって観客 を怒りの感情で激しく揺さぶります。この時代にここまでのものがよく書けたものだと驚いてしまいます。

現代の我々からすると過激な内容に見えますが、当時のお上がこの芝居を上演差し止めに しなかったことは、とても大事なポイントです。何故かと云うのは、簡単です。お上はこの芝居を幕府を批判した・封建制度の在り方を糾弾したと見なさなかったからです。将軍が慈悲の心を以て宗五郎の死を賭した訴えを取り上げて、暴虐な領主の振る舞いを糺したことで、お上の慈悲と度量の大きさが芝居のなかで十分示されているからです。 悪いのは領主だけです。憐れみを以て慈悲を与えるのは、為政者が特に好むポーズなのです。これが当時の芝居が持つ世界観でした。

明治の世に入ると宗五郎は宗五郎は命を賭けて民を守り・身分制度の不当を訴えた人物として、自由民権運動のシンボルに祀り上げられて行きます。そのような要素は「義民伝」のなかに内在するもので、これを延長すれば、確かにこれは社会批判の方向へ向かうものです。しかし、江戸時代の庶民の感覚にはまだそれは 存在しないものでした。当時はまだ人権とか・四民平等なんて概念がなかったからです。だからここでは宗五郎の気持ちのピュアなところを芝居から読みたいと思います。そこに見える宗五郎の気持ちとは、「悪いことをせず・たたひたすら真面目に・誠実に生きている庶民が、平和に安穏に暮らせる世の中で在って欲しい、 強く願うことはただそれだけ」ということです。そして、民衆のささやかな願いを踏みにじる理不尽なものに対して宗五郎は憤りを発するのです。

今回(令和元年5月前進座公演)では、大切の印旛沼湖畔の場がエピローグとして良く出来ていました。これは宗五郎一家刑死の翌年春のことでしょうかね。宗五郎の願いが聞き届けられて年貢は軽減されました。人々は宗五郎に感謝を捧げ、志を受け継いで強く生きて行こうと誓い合い、ささやかな祭礼を宗五郎に捧げます。前場(仏光寺の場)で観客が感じた救いようの無さ、ムラムラと湧き上がる憤りが、穏やかで澄んだ感情に浄化されていく気分がしました。おかげで、静かな気分で劇場から出ることが出来ました。しかし、芝居のなかで宗五郎が提示した「これでいいのか」という疑問は観客の胸のどこかにしっかり残り、いつか大きな意味を持つことになるでしょう。宗五郎が生きた時代から恐らく三百年以上の歳月が経っているわけですが、現代の我々は宗五郎が望んだような世の中に出来ているのだろうか、そう云うことも考えて見なければならないことですね 。(この稿つづく)

(R1・5・24)


○令和元年5月前進座公演:「佐倉義民伝」・その1

瀬川如皐の「東山桜荘子(ひがしやまさくらそうし)」が四代目小団次によって初演され大当たりを取ったのは嘉永4年(1851)江戸中村座でのことでした。ただし「東山桜荘子」は惣五郎伝説をそのまま劇化したわけではなく、題名から分かる通り世界を東山に採 り・つまり室町時代に仮託した時代物で、如皐はこれを柳亭種彦の合巻「偐紫田舎源氏」をないまぜにしたお芝居に仕上げました。現行の印旛沼渡し・宗五内は如皐の筆によるものです 。さらに文久元年(1861)8月守田座で再演(外題は「桜荘子後日文談」)された時に、小団次の要望で黙阿弥によって、田舎源氏の筋を抜き仏光寺光然(こうぜん)和尚の祈りから入水を加えるなどの大改訂が施されました。また大切に佐倉宮祭礼の所作を加えました。これが現在の「佐倉義民伝」の原型になるものです。

重税にあえぐ農民の窮状を見かねて奔走し、最後は自らの命どころか家族の犠牲さえ厭わず将軍への直訴を敢行する義民・宗五郎は、前進座の演し物として長年練り上げられてきたものです。三階出身の役者たちが団結して出来た前進座に「義民伝」は良く似合います。幸い吉之助は昭和56年(1981)8月国立劇場での前進座公演で三代目翫右衛門の宗五郎を見ることが出来ました。(この時のおさんは六代目芳三郎でした。) 様式のなかにも鋭いリアルな感覚が胸をうつ翫右衛門の宗五郎は、今も吉之助の記憶に鮮やかに残っています。ただしこの時は門訴は出ましたが、印旛沼渡し・宗五内子別れ・直訴までの半通し上演で、仏光寺が出ませんでした。今回は三幕六場でほぼ完全に筋を通す形となっており、前進座でもこの形では約51年ぶりの上演になるそうです。

現行歌舞伎での「義民伝」上演は、ほぼ印旛沼渡し・宗五内子別れ・直訴の三場仕立てが通例です。もちろん芝居のエッセンスはこれで十分分かりますが、子別れが主体になると、将軍直訴のため江戸に向かおうとする宗五郎の行動を後ろへ引っ張るベクトルが異様に強く見えて来ます。だから大いに泣かせる芝居に出来るわけです(ここでの如皐の脚本は実によく書けています、切られ与三より数段良いですねえ)が、宗五郎が別れ の辛さを熱演し過ぎると、本心では直訴に行きたくないみたいに見えかねません。

それは一般的な歌舞伎の図式であると世話(人情)と対立するのが時代の論理(政治)ということになるわけですが、重の井子別れなら確かにそう読めますが、宗五内子別れではその読み方が取れないからです。子別れ(愛する妻子と別れたくない宗五郎の気持ち)は人情に違いないですが、飢えに苦しむ人たちを助けなければならない・そのためには我が身を犠牲にしてでも将軍直訴を結構せねばならないという宗五郎の気持ちはもっともっと深くて広い無償の愛なのですから、これこそ究極の世話だと云えそうです。だから、これは決して単純な世話と時代の対立構図で読めないのです。(これについては別稿「子別れの乖離感覚」で論じましたから、そちらをご覧ください。)

だから宗五郎の気持ちを直訴へ駆り立てる前向きのベクトルを観客に強く意識させるために、門訴の場を付けることは、とても役に立ちます。吉之助としては通例の上演形態(三場)にさらに門訴の場を加えて、少なくとも四場仕立てとしていただきたい。その方が宗五郎の心情が、ツーンと胸に突くようにはっきり見えて来ると思います。(この稿つづく)

(R1・5・18)


○令和元年5月歌舞伎座:「勧進帳」・その3

もうひとつ気になるのは、これは今回(令和元年5月歌舞伎座)の海老蔵に限ったことではなく、近年の弁慶はみんなそうなのですが、勧進帳読み上げの弁慶の居所(立ち位置)がほとんど舞台中央であることです。これは舞台中央(松羽目の松の樹の根元辺り)を空けて、弁慶と富樫が等距離に立つのが正しいはずです。山伏問答の熱が次第に上がって行くなかで互いににじり寄り、ジリジリ中央に近づいて行くのが正しい動きだと思います。今回の海老蔵の弁慶の場合であると、富樫ばかり激してにじり寄り、弁慶はほとんど動かず・冷静にこれを受けているように見えて妙チクリンな感じがします。市川宗家としてここは正してもらいたい。

中央を空けて弁慶と富樫が等距離に立つべきことは、ドラマ的に弁慶と富樫に等分の重さを持つことで明らかだと思います。或いは舞台中央は神に捧げる神聖なポジションであり、ここを空白に保つことが日本古来の美学に通じるものだと考えても良いでしょう。これは昭和55年11月歌舞伎座での、二代目松緑の最後の弁慶の記憶(吉之助はこの舞台は生で見ました)を手元の映像で再確認してもそうなっています。

勧進帳読み上げ弁慶が中央寄りに居所するようになったのは、いつ頃のことか誰がどうしたか検証しても仕方ないことですが、恐らく平成に入ってからのことに違いありません。別稿「四代目猿之助の弁天小僧」で型の崩れが危惧される人気演目のひとつが「勧進帳」、もうひとつは黙阿弥の「弁天小僧」だと書きましたが、頻繁に上演されて「誰もが知ってるつもり」の演目が一番怖いのです。弁慶が次第に中央寄りの居所になっていくのは、「この芝居では俺(弁慶)が主役」だと誰もが思っていることの積み重なりから来るのです。確かに仕事として一番大変なのは弁慶だけれど、ドラマとしては義経・弁慶・富樫が等分の重さなのです。そういえば弁慶との兼ね合いもあるかも知れないが、今回の山伏問答時の義経(菊之助)の居所もちょっと中央に寄り過ぎたように思われますね。これも正して欲しい。

ところで役者海老蔵の武器が目力(めぢから)であることは、誰もがそう感じていると思います。前回(平成26年5月歌舞伎座)での弁慶はやたらいきり立って目力を乱用し過ぎでした。今回はこれをかなり抑えて、ここぞと云う時にカッと目を見開くように変えたことは、これは大きな進歩でした。これもここぞと云う時にやるから威力を増すわけです。吉之助の周囲のお客さんは弁慶がカッと目を見開くと「ヨオ待ってました」と云う感じでジワ来るみたいに唸ってました。「瘧(おこり)が落ちる」成田屋の目力の威力は絶大です。古の元禄歌舞伎の荒事の心が共有された思いがしました。延年の舞を終えて笈を背負って立ち上がる前にしっかり富樫に礼を執ったのも近頃感心なことでした。近年の弁慶はここがぞんざいな人が多いですね。そういうわけで、今回の「勧進帳」はまだまだ課題はあるけれども、来年の十三代目団十郎襲名の「勧進帳」に向けての布石として見るべきものはあったと思います。来年の舞台を期待したいですね。

(R1・5・15)


○令和元年5月歌舞伎座:「勧進帳」・その2

発声はだいぶ安定してきたとは書きましたが、勧進帳読み上げから山伏問答まではまだまだ不満が大きい。ここが本作で七代目団十郎が荒事の台詞術を誇示しようとした大事の箇所なのですから、心してもらいたいと思います。これは松緑の富樫にも云えることですが、台詞にリズム感とテンポ設計がありません。海老蔵も松緑も台詞の末尾を引き延ばす、しかもも変な抑揚が付く傾向があります。末尾を引き延ばすとそこで終息してしまって、対話がそこでぶつぶつ切れてしまいます。富樫は問いを投げかけて弁慶の答えを息を詰めて待つ、弁慶は足下に応えて富樫の反応を息を詰めてうかがう、ということはどういうことかと云えば、末尾を引き延ばさずリズムを断ち切って相手の台詞を待つ、身体のなかにリズム感を保持せねばならないはずです。相手が台詞を言う時に息を詰めていなければならないのです。(注:息を詰めるということは呼吸を止めるということではありません。別稿「息を詰むということ」を参照ください。)今回の舞台では、富樫も弁慶も台詞の末尾が伸びちゃってますから、緊迫した問答のやり取りになるはずがありません。

山伏問答については、問答半ばから熱気が急激に増して、「出で入る息は」、「阿吽の二字」で頂点に達する、それが台詞のテンポ設計に現れます。多くの弁慶・富樫役者が誤解していると思いますが、ここは次第に声を次第に大きくしていくのではありません。 次第にテンポを上げていくアッチェレランドのテンポ設計が必要なのです。(別稿「勧進帳は音楽劇である」を参照のこと。テンポをリードするのは、これは富樫の役割です。)ただし声を大きくしなくても、語気を強めることで、熱気を上げる・緊迫感を増すことは出来ます。それはリズムの打ち込みを意識的に深く取ることです。最近の誰の「勧進帳」の舞台でも山伏問答でこれが出来ているのをほとんど聞いたことがありません。海老蔵もどうも声の通りを良く聞かせることは声を大きくすることだと思っている風がありますが、これが分かれば荒事の「しゃべり」の解決法が自ずと見えて来るのではないでしょうかね。(この稿つづく)

(R1・5・12)


○令和元年5月歌舞伎座:「勧進帳」・その1

つい最近のことですが、或る方が「海老蔵が来年(2020年)団十郎を襲名すると聞いて、それなら歌舞伎でも見てみるかと切符を買おうとしたら、2月も3月も4月も海老蔵は歌舞伎座に出てないじゃないか、海老蔵はどこに出てるのか」と言うのです。座組みはかなり以前に決まるもの ですから、襲名が発表されてもいきなり顔ぶれ・演目を変えるわけに行きませんが、それにしても どうもこのところ観客が求めるものと歌舞伎座で掛かるものとの間にズレが生じているように思われます。これは海老蔵が出ないことだけを言うのではなく、全体的に顔ぶれに厚みがなく、見物がこれは見逃せないとワクワクする演目が少ないようです。そのせいかこのところの歌舞伎座は空席が結構目立ちます。ここ三か月を見るとオリンピック・イヤーの団十郎襲名披露に向けて歌舞伎が 着実に盛り上がっている雰囲気に見えないことは確かです。そう思って今月(5月)団菊祭の演目を見ると、昼の部の「勧進帳」はもちろん成田屋にとって最重要の演目に違いないが、これは来年の襲名興行で絶対やるものだし、吉之助としては「勧進帳」よりは今見るならば海老蔵の将来の気構えを占う演目が見たかった。(吉之助の希望は、海老蔵が得意にするとは云えない義太夫狂言でしたが。)一方、夜の部はその他大勢で海老蔵がどこにいるのか分からない。せめて菊之助の歌舞伎座での初の「娘道成寺」に海老蔵が押し戻しで付き合うくらいのセールスポイントを付けても良いのではないか。梨園にどういう政治力学が働いているのか知りませんが、歌舞伎の人気回復に向けて一致団結してもらいたいものです 。

そこで海老蔵の「勧進帳」のことですが、前回(平成26年5月)歌舞伎座での「十二代目団十郎一年祭」の舞台は当時の海老蔵の精神状況が察せられる少々危なっかしい弁慶で ありました 。あれから約5年の歳月が経ちました。その間にも海老蔵の身辺には更なる試練が襲ってきて、舞台を見た感じでは海老蔵は未だ安定した芸境を見出せていないのが現状です。その危なっかしさ・未完の大器の粗削りが海老蔵の魅力だということも云えますが、四十過ぎればそう悠長なことも云っていられません。そこで現在の海老蔵に求められるのは、これまでに演じた役・特に古典を練り上げ確実に自分のものに仕上げること だろうと思います。本年1月演舞場での「俊寛」を見れば、海老蔵の覚悟も決まったたことは察せられます。先ほど「勧進帳」なら来年見られると書いたけれども、今「勧進帳」を見るならば今しか見れない、未来の団十郎への ポジティヴな展望が見える弁慶を見たいと云うことで、今回は歌舞伎座に行った次第です。

この数年の海老蔵の大きな課題が発声にあるのは、衆目の一致するところだと思います。台詞が明瞭でない、声が客席によく通らないと云うような点です。今回の弁慶も能掛かりを志向しているのか謡う感じが強いように思いますが、これは恐らく声の通りを良く聞かせるため の彼なりの工夫なのでしょう。確かに場面によって声が通ったり通らなかったりするようなことはなく、前回(平成26年5月歌舞伎座)よりもずっと安定して聞こえました。まだ発展途上の段階にあるにしても、荒々しさがアンバランスに聞こえた前回よりも、ずっと落ち着いた古典的な印象の弁慶に見えたことは進歩であると、まずは言っておきたいと思います。危なっかしい印象の弁慶ではなかったところに、海老蔵の覚悟の程も見えました。

それを認めたうえで今後の課題を挙げたいですが、「勧進帳」は能取り物(松羽目物)であるから謡う感じの台詞廻しもまああり得ることかも知れません(そういう感じの先輩もいらっしゃいます)が、この弁慶の台詞廻しで他の歌舞伎十八番、助六や鎌倉権五郎も行くつもりなのかねと聞きたいですねえ。「勧進帳」のことだけ考えていてはいけないと思います。荒事の台詞術は、ツラツラと言葉をまくし立てて行く「しゃべり」の芸なのです。能取り物ならばどうして七代目団十郎はこの狂言の題名を「安宅」にしなかったのか、どうして題名が「勧進帳」なのかと云うことも考えて欲しいと思います。それは弁慶の勧進帳読み上げこそ、元禄歌舞伎の「暫」の大福帳読み上げのツラネの伝統を引き継ぐ「しゃべり」の芸を見せる場面、これが芝居の眼目だと云うことを示しているのです。だからもう一度申し上げると、弁慶だけのことを考えるなら謡う感じの台詞廻しで行っても結構、しかし、それでは荒事の総本寺・市川団十郎の台詞廻しにはなりません。現在はまだ声の通りを気にしているようですが、今後はもっと一音一音を明瞭に発声する訓練を考えてもらいたいものです。(この稿つづく)

(R1・5・10)


○平成31年4月歌舞伎座:「源平布引滝〜実盛物語」・その4

有名な「物語」に先立つ「某もとは源氏の家臣なれど、ゆえあって平家に随い・・・」は、実盛の負い目を示すものですから、この台詞は低く抑えて、しかし暗過ぎないように、気品を以て言わねばなりません。「さてはその方達が娘よな、不憫なことをいたしたり」も同様で、そこに「済まないことをしてしまった・・」と云う実盛の悔恨と負い目から来る苦渋(それはあの場面では仕方がなかったのだ)が漂わねばならぬわけで、これも低く抑えて出るべき台詞です。

実盛が琵琶湖船上で小万の腕を切り落とした経緯を回想する物語も、丸本には「涙交じりの物語」とあります。それは実盛の「物語」を陰惨に暗く語れば良いと云うことでは ありません。時代物として華やかさは必要です。しかし、決して華やかさ一方ではないのです。床の三味線が作り出す派手なリズムは、軽快で心地良く聞こえるかも知れませんが、それはここでは強制された心地良さです。これは本作の大事な点ですが、実盛が「あの腕は俺が切り落としたものだ」と気が付いても、知らぬ振りしてひた隠しにしていれば、実盛は二十八年後に太郎吉に殺されなくて済むわけです。ならば黙っていればよいのに、誰に指摘されたわけでもないのに、どうして実盛は真相をすべて物語ってしまうのでしょうか。結局、それは内面から強制されたように実盛の口から出てしまうのです。それは実盛の負い目が為せるものです。それは「またしても」実盛にそのことを思い出させます。だから実盛の「物語」の見掛けの華やかさと、彼がそこで語ることの陰惨さとの間には、大きなギャップ(乖離)がある。そこ を気が付かせて欲しいわけです。

仁左衛門の実盛は、これらを高調子に歌うように語っています。確かに華やかかつ爽やかですが、そこに実盛の負い目を暗示するものが聞こえて来ません。贅沢な不満のようですけれど、仁左衛門の「物語」の高調子、滑らかさ・スマートさが、このギャップ(乖離)を感じ取りにくくさせています。義太夫のトーンとしては高調子に過ぎるのです。巷間あまり指摘されないようですが、これは仁左衛門の丸本時代物の役々に共通する弱点だと思いますねえ。この為に、例えば仁左衛門の一條大蔵卿は、カッコ良過ぎて「お前たちには分からないだろうが、実は俺には考えがあるのだよ」という感じに見えて、作り阿呆を装って平家横暴の世に背を向けることの悲哀が見えて来ない。大蔵卿の負い目を気付かせてくれない不満があります。これは実盛の不満とまったく同じです。仁左衛門の「物語」は、台詞を低調子に出し言葉を噛み砕いて出すことを心掛ければ、これで印象がずいぶん変わって来ると思います。ホンのちょっとの違いです。でもホンのちょっと変えただけで素晴らしい実盛に出来るのです。

他の役に触れませんでしたが、歌六の瀬尾は最初登場した時には重量感に不足するように感じましたが、全体としては台詞に手強さがあって手堅い出来でした。再登場して娘小万の遺骸を蹴飛ばす場面では台詞に涙を含ませ過ぎでここは抑えた方が良いけれども、それにしてもこのところの歌六は丸本物で得難い位置を担っていますね。結局、瀬尾にも負い目があったわけです。

(R1・5・8)


○平成31年4月歌舞伎座:「源平布引滝〜実盛物語」・その3

杉山其日庵の「浄瑠璃素人講釈」にある挿話ですが、三代目越路太夫が「実盛物語」(文楽では「九郎助住家の段」と云います)を勤めることになり、師匠に聞いてもらおうと摂津大掾の元を訪ねたところ、大掾が怒ってこう言ったというのです。「なぜもっと早く来ぬのじゃ。この段は今云うて、今語れるような(易しい)ものじゃないわい。今はそのまま遣っときなはれ。役が済んだら、何時でも聞くわい。」 このため越路太夫はこの段を大掾に教えてもらう機会を逃がしてしまい、「私はえらい不調法をいたしました」と其日庵に嘆息するのです。

杉山其日庵:浄瑠璃素人講釈〈上〉 (岩波文庫)

それではこの段のどこが難しいのかということです。実盛を爽やかに面白く語るのであれば、それほど難しくはないでしょう。しかし、実盛の晴れやかさのなかに潜む負い目、彼が向き合いたくなかった「またしても」と云うものを描き出そうとすれば、それは決して生易しいものではないのです。人は生きている限り、なにがしかの柵(しがらみ)に縛られ、そこから決して逃れることは出来ません。(これは現代においても、そうです。)そのような柵のなかでも、人は潔く覚悟を決めることができる。実盛が教えてくれるものは、そういうことです。後世の武士たちが「あの実盛のように死にたいものだ」とした理想の死に潜む、もののあはれを描き出さねばなりません。

そこで今回(平成31年4月歌舞伎座)での仁左衛門の実盛のことですが、颯爽とした生締めの風情において、仁左衛門の右に出る役者はいません。そのことを認めた上で憎まれ口を書きますが、葵御前が「げにその時にこの若が、恩を思ふて討たすまい」と言いますが、28年後にホントにそうなっちゃいそうな実盛なのです。こんな良い人は討っちゃイカンんよと観客が思う実盛なのです。実盛は晴れやかな恰好良さを見せる 生締めだから、役者の華を見せればそれで良いんだと云う感じに見える実盛なのです。吉之助にはそこが引っ掛かりますねえ。ちょっとスマート過ぎるのじゃないの。

前月(3月)の「盛綱陣屋」では、仁左衛門は盛綱の論理にこだわり過ぎて演技が説明的に陥っていました。心情において行き詰まった論理を一気に捨て去り「褒めてやれ」でパッと扇を掲げるならば、すべて帳消しに出来ます。歌舞伎では良い意味において役者の華がすべてを許すという場合が確かにあるでしょう。しかし、ここでまったく逆のことを書くように聞こえるかも知れませんが、「実盛物語」の場合には、実盛の晴れやかさは もちろん必要ですが、それだけではまだまだ不足なのです。 幕切れの花道の馬上でパッと扇を掲げれば、それで良いわけではないのです。なぜならば「実盛物語」は、実盛の葛藤(負い目)を匂わせるだけで、はっきり描いておらぬからです。 そこが本作の弱いところかも知れませんが、それは当時の民衆が「平家物語・篠原合戦」の挿話を承知していることを前提に芝居が作られているからです。観客がこのことを 知っていれば、「若君ともろともに信濃の国諏訪へ立越え、成人して義兵を挙げよ。その時実盛討手を乞受け、故郷へ帰る錦の袖ひるがへして討死せん」という実盛の台詞で、「 ああなるほどそういうことか」と「実盛物語」の論理構造がピーンと通るのです。だから舞台前半において、作者が匂わせるだけ に済ませた箇所を、現代の上演ではしっかり描き出さねばそこは通じません。有名な実盛の「物語」は、そのような大事の場面なのです。(この稿つづく)

(R1・5・6)


○平成31年4月歌舞伎座:「源平布引滝〜実盛物語」・その2

現在の自分は本来在るべき自分を裏切っていると云う実盛の負い目が、「源平布引滝」でどのような形で現れるでしょうか。それは有名な実盛の「物語」で現れます。(別稿「実盛物語における反復の構造」を参照ください。)これについてはジャック・ラカンがセミネールで語っていること も参考になります。ラカンの難しい用語なんて無視して、次の文章を詩のようにお読みください。ラカンは詩のように読むのが一番良いのです。

『・・時とともに、わたしはそのことについてもう少し語れることが分かりました。そして、私の歩みを運んでいたものが、わたしはそのことについて何も知りたくない(je n'en vuex rien savoir)の類いのことだと知りました。それは恐らく、時とともに、またしても(encore)わたしをここにいさせ、あなた方をもまた、ここにいさせているものです。わたしはいつもそれに驚かされます・・・またしても(encore)。』(ジャック・ラカン:「アンコール」・1972年11月21日のセミネール)

ジャック・ラカン:アンコール (講談社選書メチエ)

実盛の「物語」の反復構造、それは実盛が向き合いたくなかったもの(負い目)を思い起こさせる、またしても・・ということです。琵琶湖船上での実盛は、小万の腕を切りたくて切ったわけではありません。源氏の白旗を平家に奪われまいための、やむを得ない仕儀でした。しかし、実盛は心ならずも同じことを繰り返したことになります、またしても。「物語」に先立ち実盛は、このことを明確に吐露しています。この台詞はとても重いものです。

『某(それがし)もとは源氏の家臣なれど、ゆえあって平家に随い、清盛の禄を食むと言えども、旧恩は忘れず、今日の役目乞い請けたも、危うきを救わんため』

その負い目が時が移っても、またしても実盛をこの場にいさせ「物語」を語らさせ、舞台上の葵御前・九郎助一家をも(そして芝居を見る観客をも)、ここにいさせているものです。しかも、反復はこのままでは終わりません。後半、葵御前が赤子(後の木曽義仲)を産み、太郎吉のために瀬尾が死ぬ意外な展開を見せて、ヤレこれで目出度く芝居が終わるかと思ったところで、太郎吉が「サアこれからおれは侍。侍なれば母様の敵、実盛やらぬ」と詰め寄ります。それはまたしても実盛を追い駆けて来るのです。

もしこの場で実盛が何も言わずに立ち去り、この28年後・寿永2年、越前・篠原の地で手塚太郎(後の太郎吉)に討たれるのであれば、ここで実盛は「またしても 」自分が見たくなかった負い目の恐ろしさを否が応でも思い知ることになるでしょう。しかし、実盛はそうはさせなかったのです。

『ホホあっぱれ。さりながら四十に近き某が、稚き汝に討たれなば情と知れて手柄になるまい。若君ともろともに信濃の国諏訪へ立越え、成人して義兵を挙げよ。その時実盛討手を乞受け、故郷へ帰る錦の袖ひるがへして討死せん。まづそれまではさらばさらば。』

この台詞によって実盛は自分の意志で28年後の死を指定します。因果や負い目に追い回されて死ぬのではない。実盛は主体的に自らの死を選び取るのです。だからこれはもはや「またしても」ではない。それを吹き飛ばしたのは実盛自身です。幕切れの実盛の晴れやかさ・爽やかさは、そこから来ます。(この稿つづく)

(R1・5・3)


○平成31年4月歌舞伎座:「源平布引滝〜実盛物語」・その1

平治元年の平治の乱で源義朝が平清盛に敗れ、もともと源氏方に付いていた関東の多くの有力武士たちは「いとま給わり」・つまり契約解除される形となって所領に戻り、その後 長く平家の勢力下で禄を食まざるを得ませんでした。しかし、21年後の治承元年、義朝の遺児・長男である頼朝が平家討伐に決起しました。この時、関東武士のなかでは源氏方に付く者が続出しました。当時の武士には江戸期のように主従関係に絶対的な重きを置く考え方はまだ強くなかったので、勢いが強い方に付くのは当たり前のことでした。

「平家物語・巻7・篠原合戦」に拠れば、木曾義仲(源義仲)との合戦の直前、斎藤別当実盛は仲間を呼び集めました。彼らはすべてかつて平治の乱では源氏方に付いて今は平家の禄を食む仲間同士で した。実盛は仲間と酒を酌み交わしながら、こんなことを言い出します。「このところの情勢を見れば、源氏の勢いはますます盛んで、平家は敗色濃厚だ、ここは源氏である木曽殿に付こうではないか。」 実はこれは実盛が仲間の覚悟を試す為のものでした。翌日、俣野五郎景久が実盛にこう返事をしました。

『さすがわれわれは、東国では人に知られて、名ある者でこそあれ、吉について、彼方(あたな)へ参り此方(こなた)へ参らんことは見苦しかるべき。(中略)景久に於いては、今度平家の御方で、討ち死せんと思ひ切って候ぞ』

これを聞いて実盛も本心を打ち明け、実は自分も同じ覚悟であると伝えました。この場に居合わせた二十数名は後の越前・篠原の戦いで全員討ち死にすることになります。「今度北国にて一所に死にけること無慙(むざん)なれ」と「平家物語」は伝えています。ちなみに上記逸話の俣野五郎景久は、歌舞伎の「石切梶原」に登場するあの俣野です。芝居での俣野は梶原平三をあざ笑 って思慮が足りない粗忽者に描かれていますが、史実の俣野はそうではなくて、「名を惜しむ」ことを知る立派な武士なのです。この頃から「名を惜しむ」ことが武士の理想の振る舞いだという気風が生まれ ています。

篠原合戦で戦死した武士たちの気持ちのなかに、源氏に恩義がありながらも・その後心ならずも平家の禄を食まざるを得なかったことの不本意さと云うか負い目が感じられます。ただし本来はこれをあまり強く読むべきではないと思いますが、江戸期の「実盛物語」を読む場合にはこの視点が絶対に必要になります。さらに実盛にはもうひとつ個人的な事情がありま した。実は義仲の父義賢が同じ源氏の甥義平(頼朝の兄)に殺された時(久寿2年)に、まだ2歳であった幼い義仲をかくまって、木曾の中原兼遠(義仲の養父となる)に送り届けたのが実盛 であったのです。だから実盛の場合、源氏に心を寄せる気持ちが人一倍強いわけです。しかし、現在の実盛は理由はどうあれ平家の家来ですから、その場その場の風向き次第で強い方に付くような見苦しい様は名のある武士として見せられません。そこに実盛の引き裂かれた状況がありました。(別稿「実盛の運命」を参照ください。)

このように江戸期の「源平布引滝」の主人公斎藤実盛には、現在の自分は本来在るべき自分(アイデンティティ)を裏切っていると云う負い目の気持ちが非常に強いわけです。実盛の心は源氏方にありました が、平家に従属せざるを得なかったのは、生き抜くために仕方がないことでした。だから ここでの実盛の心情は、「今現在の自分は本来の在るべき自分を裏切っている、今の自分がやっていることは本当に自分が望んでいることではない」と云うことになります。これは「鬼一法眼三略巻」の一條大蔵卿も同様です。(別稿「二代目吉右衛門の大蔵卿」を参照ください。)とてもかぶき的な心情なのです。(この稿つづく)

(R1・5・1)


 

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