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四代目猿之助の弁天小僧

平成31年3月歌舞伎座:「弁天娘女男白浪」(奇数日)

四代目市川猿之助(弁天小僧)、十代目松本幸四郎(南郷力丸)、二代目松本白鸚(玉島逸当実は日本駄右衛門)


1)「浜松屋」の危うさ

伝言ゲームをやったことがある方はご存知と思いますが、或るメッセージを次から次へと口伝で渡していくと、最後の人に渡った時にはそれがとんでもなく変形してしまうものです。それほど人の記憶と云うのは頼りないものです。また意図的でなくてもいろんな段階で自然と情報にいろんなバイアス(偏り)が掛かって、情報は変形します。このことを伝統芸能に当てはめてみると、毎年何度も掛って多くの役者が手掛ける人気狂言ほど、仕勝手で崩れていることが多いものです。人気狂言は先輩の舞台を見て学ぶ機会が多いはずだから崩れが少なくなりそうなものですが、現実はまったく逆です。却って何十年に一度なんて云う珍しい芝居の方が崩れが少ないのです。だから人気狂言ほど気を付けないといけません。このことは伝言ゲームの原理を知っていれば、なるほどと理解できると思います。そういうわけで、型の崩れが大いに危惧される人気演目のひとつは「勧進帳」、もうひとつは黙阿弥の「弁天小僧」だと思います。

そこで黙阿弥のことですが、黙阿弥ものは歌舞伎の基礎と云うべきものです。七五調の台詞のリズムのことだけを云うのではなく、江戸の民衆の生活の匂い・つまり江戸のリアリティを濃厚に伝えるのが、黙阿弥ものです。しかし、実際のところ歌舞伎で一番危機に瀕しているのは、黙阿弥ものかも知れませんねえ。これは致し方ないところがあります。現代人からすると江戸の民衆の生活の匂いなんてものは、既にリアリティを失っているからです。リアリティがないものを演じるのは大変です。それはニュアンスみたいなフワフワしたものですから、教えることが難しい。だから役者の想像力(イマジネーション)でそこを補っていくしかありません。

今回(平成31年3月歌舞伎座)の浜松屋ですが、最近の浜松屋は「何だか面白くないなあ・・」と感じることが多いですが、今回は特に前半に江戸の生活感が感じられなくて、気が滅入りました。どの役者もやっている手順はいつもと同じだけれど、演技がまったく型(ルーティーン)に陥っています。魂が入っていないということです。匂いが消し飛んでしまっている。浜松屋は型ものだと信じて疑わないみたいな印象です。そうではなくて、浜松屋は世話物ですから写実の芝居です。当然演技は自然なリアリティを伴う生きたものでなくてはなりません。だからこそ想像力が大事なのです。これは芝居のアンサンブルなんてことを言う以前だなと思いながら舞台を見ていましたが、兎も角も黙阿弥の世界の人間になっていたのは、白鸚の玉島逸当だけでしたね。(この稿つづく)

(H31・4・8)


2)四代目猿之助の弁天小僧

弁天小僧の長台詞(浜の真砂と五右衛門が・・)やお嬢吉三の長台詞(月も朧に白魚の・・)をツラネと呼ぶことがあります。ツラネとは本来荒事の主人公がしゃべる様式的な長台詞のことを指 しますが、その延長線上で、世話物で美文調の縁語や掛け詞を並べ立てた台詞を独特の抑揚を付けて云うのもツラネと呼ぶことがあるのです。それらは厄払いの様式から発する様式的な台詞だからです。そこには場面から切り離された静止した時間があります。ブレヒト流に云うならば、劇中の独立したソングです。

しかし、同じ黙阿弥の七五調の長台詞でもどれもこれもツラネと呼ぶわけではありません。弁天小僧やお嬢吉三のツラネは、黙阿弥ものの長台詞のなかでも特異なものかも知れませんねえ。多分それには理由があると思います。どちらの役も悪婆を半男女物にしたところから発想されています。(別稿「四代目源之助の弁天小僧を想像する」を参照ください。)ツラネを高らかに詠い上げるのは本来立役がすることで、女形にあるまじき行為です。そのようなあられもない行為を敢えて行う ことのミスマッチが、弁天小僧やお嬢吉三の面白さなのです。だから当然そこに慎みと云うか恥ずかさの感覚がどこかに必要です。そうでないと「悪婆は改めて自分の本質が善人であるという意識に立ち返る」ことにならないわけです。だから弁天小僧もお嬢吉三も、決して露悪趣味に陥ってはなりません。

そこで今回(平成31年3月歌舞伎座)の猿之助の弁天小僧のことです。猿之助が同世代のなかで技芸が突出した役者であることは認めますが、猿之助の良くないところは、「どうだい俺は上手いだろ」というのが鼻につくことです。それでも例えば昨年の「法界坊」は亡くなった勘三郎張りにやらかすかと思ったら意外と抑えた演技であったので、猿之助も変わって来たかなと思いましたが、今回の弁天小僧は露悪趣味が強くて、これはいけません。まあ猿之助らしい弁天だなとは思いますけどね。弁天小僧という芝居も長年多くの役者が手掛けて手垢にまみれて、多少の刺激では観客は喜ばないと思っているのかも知れませんが、「こうやりゃもっとお客に受けるんだよ」というところから、芸の規範は簡単に崩れてしまうのです。

まず猿之助の弁天小僧の長台詞ですが、七五調の様式感覚を無視して、大きく緩急を付けた崩れた台詞廻しです。例えば「ねんき●つとめの」、「まくら●さがしも」で小休止を入れるのは一体どういうことでしょうか。これでは七でなくて八になってしまいます。緩急はつけているけれど、これは恐らく二拍子に息を揃えようとしたダラダラ調のバリエーションですね。一体これのどこが「小耳に聞いた音羽屋の声色」なのか教えてもらいたいものです。ここには黙阿弥の様式感覚が見えない、と云うよりも、そういうものを受け継ごうという気が見えません。吉之助が不快に感じるのは、猿之助が大先輩の現・菊五郎の弁天を知らないはずがないわけで、要するに知らないから出来ないのではなく、知っていてわざと崩しているのが明らかだからです。これが幕末の不良少年の名乗りだと云うのならば、写実のはき違えも甚だしい 。

猿之助の弁天は揚幕から登場した時から崩れて、臭みが強い。最初から底を割った行き方で、まあこれは考え方次第ですが、冒頭の「知らざあ言って聞かせやしょう」や末尾の「菊之助たアおれがことだ」も男声を大きく張り上げて伸ばした大見得で、これではまるで時代物ですね。この崩れたところが幕末の退廃趣味だと云うのならば、吉之助としてはもう寂しく笑うしかありませんね。香辛料をたっぷり効かせた猿之助の弁天小僧と比べると、幸四郎の南郷の方は拍子抜けするほどアッサリ風味で存在感が薄くて、これにも問題があります。吉之助も浜松屋はいろいろ見て来ましたけどね、これではちょっと寂しいですな。

ところで先日、東京・春・音楽祭でリッカルド・ムーティが「イタリア・オペラ・アカデミー」を開講し、歌劇「リゴレット」を材料にヴェルディ・オペラの奥義を伝授するというので、ちょっとリハーサルを覗かせてもらいました。いろいろ収穫があったのですが、ムーティが言うには、巷間ヴェルディのオペラで、歌手が曲芸のように楽譜の指定を無視して最高音を出したり・声を長く引き延ばすことがほとんど慣例化(伝統化)してしまっている、また観客もこれをイタリア的だ・オペラティックだと喝采する風潮がある、これに対しムーティは、モーツアルトやワーグナーでそういうことをしないのに、どうしてヴェルディだけがそうなるのか?と異議を申し立てるのです。ところで、これは歌舞伎の、いわゆる「歌舞伎らしさ」にも似たようなところがありますね。「いつだって俺たちはこうやってきた、こうやったら歌舞伎らしくなるんだよ、お客の拍手がもらえるよ」と云う役者の仕勝手が、正しい伝承を阻害しているのです。

『慣習(伝統)には良いこともある。しかし、自分の快楽や観客の拍手を求めて、作曲者の指定を無視して、勝手に高い音を出したり・長く引き延ばしたりするのは間違いであるし、作曲者に対する冒涜だ。オペラはサーカスではない。イタリアは芸術と科学の国だ、ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロ、ダンテを生んだ国だ。イタリアはピッツァとパスタだけの国だと思って欲しくない。』(これはムーティが言ったことをまとめて吉之助が再構成したものです。)

ムーティは、そのようないわゆる「イタリアらしさ」を作曲者に対する冒涜であると糾弾し、このような風潮と断固戦うと宣言します。ただし、彼はこれは多分勝ち目のない戦いだとも言っていますが。好きだ嫌いだを云うならば、いろいろ議論は出来ると思います。しかし、ムーティが言いたいことは、実はただひとつ、「作者に対する敬意、作品に対する謙虚な態度を常に持ちなさい」と云うことだけです。歌舞伎でも同じことだと思いますね。

(H31・4・12)



 

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