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二代目吉右衛門の「日向嶋景清」

令和元年11月国立劇場:「孤高勇士嬢景清」

二代目中村吉右衛門(悪七兵衛景清)、五代目中村雀右衛門(娘糸滝)、五代目中村歌六(源頼朝・花菱屋長・二役)、三代目中村又五郎(左治太夫)他


1)景清物の系譜

令和元年11月国立劇場の「孤高勇士嬢景清」(ここうのゆうしむすめかげきよ)を見てきました。これは当代吉右衛門が「松貫四」の筆名で書き下ろした「日向嶋景清」(ひにむかうしまのかげきよ・歌舞伎座では平成17年・2005・11月に上演)をベースとして、「日向嶋」の前段に国立劇場文芸研究会が歌舞伎・浄瑠璃の既存作を参照しながら三幕を付け加えて、四幕仕立ての通し狂言としたものです。上演外題が食指をそそらない感じで、もう少し工夫が欲しいところです。別に「娘景清八嶋日記」で構わなかった気がしますが、多分浄瑠璃既存作との混同を避けたかったのでしょう。ドラマの核心は「日向嶋」にあり・この場だけの上演でも筋は完結しますが、「鎌倉大蔵御所」・「東大寺大仏供養」・「花菱屋」の三幕が「日向嶋」の前段に付くことで景清の置かれた状況・歴史的背景が説明されて、景清のドラマがより立体的に分かりやすくなりました。前半三幕に大したドラマはなく・説明的に終始するので退屈するかなとも思いましたが、意外とそんな感じがなかったのは、役者もみんな頑張って筋がトントン運んだからです。ただし幕間の三回の休憩時間が長くて、その度に芝居が冷えてしまいます。これで休憩含む3時間40分は、ちょっと長く感じられる。ここは第1幕と第2幕をもう少し切り詰めてひとつにまとめて・全体を三幕構成にすれば、もう少し密度が高くなって芝居が引き締まる、それならば今後の通し狂言として定本化して歌舞伎座での上演も可能だと思います。「日向嶋」の場に関しては、これは十分見応えのあるものに仕上がっています。

ところで平家の侍大将・悪七兵衛景清は、能・幸若・浄瑠璃・歌舞伎などにたびたび取り上げられて「景清物」という一大ジャンルが出来るほど多くの作品がありますが、「平家物語」のなかでは屋島合戦での三保谷との錣引(しころびき)のエピソードくらいしか目立った活躍がなく、さほど重要な人物とされてません。史実の景清は壇ノ浦合戦後に源氏方に投降したが、源氏の禄を食むのを潔しとせず絶食して果てたと伝えられます。だから源平合戦後に景清が単独で頼朝暗殺を企んで大仏供養の折にこれを襲ったとか、両目をくり抜いて日向に流されたとかの話はまったくの作り話です。景清がどのような経過で庶民のヒーローに祀り上げられて、それが浄瑠璃の「娘景清八嶋日記」のような筋に変容していったか。そのプロセスを解き明かすことは容易ではありませんが、一端については別稿「出世景清はなぜ画期的作品なのか」のなかで触れました。ただし近松門左衛門の「出世景清」は頼朝の前で景清が自らの両眼を潰し・日向の地を拝領して当地へ向かう(五段目)までで終わるので、ここに「日向嶋」の場面がありません。また上述の論考は景清の愛人・阿古屋の子殺し(四段目)のドラマ考察を主眼にしたものでしたので、本稿では「その後の景清」についてもう少し考えてみたいと思います。(この稿つづく)

(R1・11・24)


2)景清と日向

景清の生涯は諸説紛々で、どこまでが事実か判然としません。史実の景清は壇ノ浦合戦後に源氏方に投降したが、源氏の禄を食むのを潔しとせず絶食して果てたと伝えられています。しかし、景清ほどの人物が、そうやすやす降参したり・自害したりするはずがないと、民衆は考えたのでしょう。こうして、景清が生き延びてなお執念深く頼朝の命を狙い続けるというイメージが形成されて行きます。

能「景清」(作者不詳)は、娘の人丸(歌舞伎では「糸滝」となっている)が日向に父景清が盲目の身をなって流されていると聞き、彼の地を訪ねます。景清は盲目の身で、初めは現在の境遇を恥じて名乗りません。しかし、里人にとりなされて・やっと親子は涙の対面をします。景清はかつての錣引きの武勇伝を語り、娘に自分が死んだ後の供養を頼むという筋です。能の修羅物は武将の亡霊が登場して生前の戦物語をして修羅の苦しみを語り、旅の僧の回向によってやがて成仏すると云う筋が多いのはご存じの通りです。景清が生きている身で戦物語するところが異色です。妄執を断ち切れない景清の性格がそこに表れています。能の景清はなお修羅道にあって、救いが訪れるかは分かりません。

景清が盲目の身となって日向に流されると云う話は「平家物語」にはなく、何を根拠にしているか分からないそうです。しかし、能「景清」にその話が出て来るということは、既に室町前期にはそのような話が民間に広く流布していたと思われるのです。もう少し後の成立となる幸若「景清」になると、景清は鎌倉方に捕らえられて六条河原で斬られますが、清水観音が身替わりとなって助かります。この奇跡に感服した頼朝が景清を許し、景清は報恩の念を断つため両目を抉(えぐ)り、与えられた日向宮崎に下るということになっています。幸若では景清は日向に「流される」のではなく、頼朝から日向を知行としていただくと云う違いがあります。(近松の「出世景清」は幸若の流れを引いています。)ですから景清説話の流れはどうやらひとつではなさそうで、細かいところで色々相違があるようです。

盲目の景清が日向の地と結び付いたことは、伝承芸能としてとても重い意味を持ちます。現在の宮崎県宮崎市には生目神社(いきめじんじゃ)という神社があって、景清が両目を抉った・その目玉をこの地に埋めたという伝説が残っています。生目神社は平安中期には既にあった神社なのですが、「日向の生目様」と呼ばれて、昔から眼病に霊験あらたかな神社とされて来ました。盲目の景清説話を全国に語り広めたのは遊芸民です。そこで調べてみると、景清が「平家物語」の原作者だとする説があったそうです。例えば相国寺の僧瑞渓周鳳(ずいけいしゅうほう)の日記「臥雲日軒録抜尤」(がうんにっけんろくばつゆう)・文明2年(1470)正月4日の項に、琵琶法師の薫一が語った景清平家物語創始説が書かれているそうです。つまり平家物語を民間に広めた盲目の琵琶法師たちの間に、景清のことを頼もしく力強い盲人の護り人だと崇め、景清が平家物語を創始し自分たちがその流れを受け継いでいると自負する考えが、いつの頃からかあったのです。恐らくそれは鎌倉末期か室町前期に成立したものでしょう。能「景清」の根拠がその辺りにあったのです。そう云えば、「日向」(日に向かう)と云う地名は光を連想させます。琵琶法師たちは日向の地名に「救い」のイメージを見出したのです。(この稿つづく)

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3)「日向嶋」の世界構造

吉之助は「日向嶋」のドラマをギリシア悲劇的な風格で理解したいと思います。ここで吉之助が思い浮かべるのは、ソポクレスの「コロヌスのオイディプス」です。本作と「日向嶋」を比べるともちろん相違はたくさん見付かりますが、大まかなところで似ている点は、まず第一にオイディプスも景清も自らの意志において我が目を潰して・放浪の果てに最後の地(オイディプスはアテナイの郊外コロヌス、景清は日向)に辿り着くと云うことです。ふたりが自らの目を潰す動機には、共通したものが見られます。オイディプスは「目が見えるなら、ハーデース(冥界)へ行ってどのような目で父を見、惨めな母を見れば良いか。(中略)この人たちをまともに見られるはずだったとでも言うのか」と自害することも拒否し、我が目を潰して盲目の身で生き続けることを選択します。(ソポクレスの「オイディプス」の台詞、別稿「等身大の悲劇」を参照のこと。)景清は大仏殿で源頼朝を襲おうとして・逆に情けを掛けられて復讐を断念しますが、頼朝の姿を見るとなお恨みの一念が湧き上がってしまう、頼朝の情けを受け入れ・かつ平重盛以外の主君に仕えるつもりはないと云う気持ちを貫くため自らの目を潰すのです。そして景清はなおも生き続けます。

二つ目は、芝居のなかで彼らの娘の存在がドラマに陰影を与えていることです。オイディプスではアンティゴネ、景清では糸滝です。アンティゴネはオイディプスの死に立ち会うことは許されませんが、彼女の嘆きがオイディプスが肉親の情けを受けるに値する人物であることを教えてくれます。糸滝もまたそうです。糸滝の父親に対する情の強さが、頑(かたく)なに心を閉ざす景清の心を和らげ、結果的に景清を頼朝との和解へと導きます。

 三つ目は、これがとても大事なことになりますが、最終的に彼らは神々と合意をするということです。オイディプスは神々と和解しコロヌスの杜に消えます。景清は頼朝と和解し船に乗せられ鎌倉へ向かいます。この場合、頼朝は作品の「世界」を司(つかさど)る存在として神々と同じ位置にあることは明らかなのです。

「日向嶋」の世界構造について、もう少し考えてみたいと思います。「日向嶋」で娘糸滝が身売りをしたと聞いて景清は驚愕し、出て行った船を返せ戻せと狂気の如く泣き叫びます。この場面について三宅周太郎が次のようなことを書いています。景清が取り乱し泣き叫ぶ姿を、里人実は鎌倉からの隠し目付けである天野土屋の両人が見ている。で景清はそれが分かると、「ああ恥ずかしや、歎きに本心を見とがめられし此のうえは兎も角も・・」と云って改心してしまう、三宅は「これが面白い」と云うのです。

『喜怒哀楽を謹むべき武人が、思わず人として、あるいは親として愚に返った以上、またそれを人に知られた以上、何となく気が折れると云うのは、英雄的ではないが、人間的、実に浅薄でない人間的な見方であると思う。しかも「頼朝公に御見方」は景清自身の言葉でない。天野土屋の二人の口から「頼朝公に御見方」を云わせている。景清は、もうなすがままにまかせた形で、船に乗り、果ては自分が祭っていた位牌を海へ流してしまうのも、如何にも気の折れた人らしくて面白い。』(三宅周太郎:「娘景清八嶋日記」劇評・「演芸画報」昭和4年8月号、吉之助が若干文章を切り詰めました。)

三宅周太郎は吉之助も日頃参考にさせてもらっている大正〜昭和の偉い劇評家ですが、この劇評はまったくいけませんねえ。こういう戯曲の読み方では、浄瑠璃の「世界」の理解を問わねばなりません。恥の観念に囚われ過ぎで世界構造が見えていないようです。まず申し上げたいですが、ここまで頑なに頼朝を拒否してきたはずの景清が突然和解に至る件を、娘が身売りしたと聞いて取り乱し泣き叫ぶ浅ましい姿を他人に見られて「恥ずかしくて気が折れた」とすることは、吉之助は断じて納得できませんねえ。これで「人間的なドラマ」と云えるのでしょうか。だとすれば随分と詰まらぬことです。三宅のこの解釈では景清が悲劇の人物としてまったく立たぬと思います。

確かに景清は「ああ恥ずかしや、歎きに本心を見とがめられし此のうえは兎も角も・・」と言っています。しかし、これは景清が恥の概念でやむをえず考えを変えた、気が折れたと云うことではありません。これまで景清は、源氏だ平家だと過去の怨念に固執して心を閉ざし、生き別れしていた愛しい娘に呼びかけられても頑なな態度を取り続け、人間的な感情の一切を押し殺して来ました。ところが、娘が身売りしたと聞いて驚愕し狂気の如く泣き叫び、ここで初めて景清は、これまで固く閉ざしていた心の扉を開いて、父親としての熱い感情を迸らせました。つまり景清は生きた人間としての感情を取り戻したのです。それは確かに恥ずかしい・浅ましい姿です。しかし、そんな恥ずかしい姿になって景清が改めて気が付いたことは、源氏だ平家だと過去の怨念に固執して来た自分の愚かさなのです。「恥ずかしや」と云うのは「気付き」の言葉です。その気付きから景清の転機が開けます。ですから「ああ恥ずかしや、歎きに本心を見とがめられし此のうえは兎も角も・・」と云う台詞は、生身の人間の感情を取り戻したからには、もはや頼朝を拒否する理由も何もない。景清は平家が滅びた事実を受け入れて、これを弔う安らかな気持ちになった、だから景清は「此のうえは兎も角も・・」と云うのです。こうして景清は「平家物語」の大きな歴史の律を背負い、悲劇の人物として立つわけです。

三宅は「取り乱してしまって恥ずかしいから景清が気が折れる(頼朝を拒否する気持ちが失せる)」とするので、他人・隠し目付の天野土屋の両人に「見られる」ことをことさら重視しているようですが、これもおかしなことです。景清は人間的な感情を取り戻し、士官を勧めてくれた頼朝を受け入れ、素直に平家を弔う気持ちになった。これを舞台上で形にしてみせることは、盲人であり動けない景清には出来ないことです。だから天野土屋のふたりが景清の代わりに段取りするだけのことです。天野土屋のふたりは、形式上の神(デウス・エクス・マキーナ)であるからです。「日向嶋」の世界を司る頼朝から差し向けられた使い(使徒)ですから、ここでは世界を体現する神です。

ですから景清に代わり天野・土屋のふたりが「頼朝公に御見方」の台詞を云う時、両名は里人の仮の姿ではなく、本来の武家装束に衣装を改めるべきです。衣装が替われば役の性根が替わることは、歌舞伎の約束事です。衣装を替えることによって、「日向嶋」のドラマの局面が替わったことを視覚的にはっきり観客に示すのです。ところが、今回(令和元年11月国立劇場)の「日向嶋」では天野・土屋のふたりは里人の姿のままです。これはいけませんねえ。昭和34年(1959)4月に新橋演舞場で2日間だけ行われた八代目幸四郎(初代白鸚)・八代目綱太夫が共演した歴史的な「日向嶋」公演では、天野・土屋のふたりが武家装束に衣装を改めました。この時土屋を勤めたのは若き日の吉右衛門だったのですから、これは覚えているはずです。この場で天野・土屋のふたりが衣装を替えるのは理屈としておかしいなどと考えるのならば、そのこと自体がおかしいのです。ここでデウス・エクス・マキーナが本来の姿で登場してドラマの局面が切り替わるのです。

したがって景清が娘の身売りを嘆いて泣き叫び地面を転げまわる時、天野土屋のふたりが景清の傍にいてこの有様をしっかり見ていなくてはならないなんて理屈は、まったくおかしなことなのです。第一それでは役者が衣装を改める時間がないじゃないの。衣装を改めるためにも、天野土屋はここでいったん舞台を引っ込む必要があります。これは理屈ではなく、「日向嶋」の「世界」を明確にするための歌舞伎の定石なのです。(この稿つづく)

(R2・2・3)


4)吉右衛門の景清・雀右衛門の糸滝

吉右衛門はこのような時代物の役をやらせれば重厚さ・骨太い筆致において比類ありません。今回(令和元年11月国立劇場)の景清も文句の付けようがない出来ですけれど、ひとつだけ申し上げれば、景清の化粧はもっと写実に徹した方が良いと思いますねえ。第2幕「大仏殿」での景清の化粧は、景清が自らの目を潰して血が流れるということで途中で顔に手を入れますが、これが荒事風の隈取りの赤と区別がつかず、流れる血が全然目立ちません。「歌舞伎らしい」化粧にしようとして、かえって陳腐なパターンに落ちています。しかもこれが芝居全体の写実の様式と全然マッチしていません。

下の写真は国立劇場チラシ(部分)の景清です。左が大仏殿での景清、右が日向嶋での景清。ただし吉右衛門は化粧については日々試行錯誤を繰り返したようです。(NHKで放送された平成17年の「日向嶋景清」制作ドキュメンタリーでも、吉右衛門が景清の化粧に日々悩む場面がありました。)このチラシを見た時には「まったくイカんなあ」と思いましたが、吉之助の見た日の化粧はチラシと若干異なっており、日向嶋の景清の化粧は写実に近いものに変えていました。大仏殿の景清の隈取りも、紅の一本隈に青く筋を入れたシンプルなものに変えていましたが、目を潰す場面は血の滴(したた)りが隈取りの紅と区別が付かず・まったく映えませんでした。一階席前方に座っていた吉之助にさえ、景清が目を潰したように見えませんでした。したがって本稿では「大仏殿」での景清の化粧のみを問題とします。

そもそも歌舞伎には、無双の剛力・勇者→荒事だ→隈取だとする安直思考があって、どんな芝居でもそう云う人物は顔を赤く塗ったり隈取りの化粧にしたがる癖があるようです。どうしてこの写実の芝居に隈取りが出て来るのかと思う芝居がいくらもあります。多分、こういうのが「歌舞伎らしい」化粧だと信じているのでしょうねえ。ましてや景清と云えば歌舞伎十八番にもあるキャラクターですから、これが隈取りなくて何とせんと云うことでしょうかね。しかし、隈取りと云うのは様式化の手法です。つまりリアルから遠ざかる技法なのです。もちろん歌舞伎十八番ならそれで良いですが、様式感覚が異なる芝居でこれをやられるとドラマが浮いてしまいます。吉之助が思うには、人形浄瑠璃オリジンの芝居で隈取りのキャラクターが成功しているものは、「車引」を除けばほとんどないと思います。「車引」はまったく例外中の例外と云うべきですね。同じ「菅原」でも「賀の祝」での松王・梅王の隈取りは違和感が強くて、いつまでこういうのが残っているのだろうと思います。今回の「孤高勇士嬢景清」も全体が写実を志向した芝居なのですから、化粧も写実を徹底してもらいたいと思います。

ところで話が変わりますが、本稿冒頭にも書いた通り、今回上演は吉右衛門ファミリーと云える面々で固めているので、役者がみんな同じ方向(ベクトル)を向いて頑張って筋がトントン運ぶので小気味が良い出来ですが、糸滝を勤める雀右衛門にだけは、ちょっと注文を付けたいですねえ。雀右衛門の糸滝は娘役は得意な人ですから、出過ぎたところのない無難な出来だとも云えますが、まさにそこが物足りないと感じるところです。糸滝は廓で身を売ることを考えるくらいの年頃ですが、歌舞伎では昔から糸滝を子役に演じさせることが少なくありません。(能の「景清」でも娘人丸を子方が演じることがあります。)平成17年5月こんぴら歌舞伎金丸座での「日向嶋景清」でも糸滝を隼人(当時11歳)が演じました。糸滝と云うのはそういう役なので、目を潰して年老いた父親へのけなげな愛情を見せれば十分だと云う考え方だってあるわけなのです。しかし、当年64歳の雀右衛門が糸滝を演じるならば、これで良いはずがありません。そこを「無難」なんて感じさせる演技で満足されては困るのです。糸滝にこんな積極的な側面があったのかと驚かせるくらいの演技をしてもらいたいのです。

見方を変えれば「日向嶋景清」は糸滝の芝居だと云っても良いほどではないでしょうか。浄瑠璃の「娘景清八嶋日記」という外題は、このことを暗示しているようにさえ思われます。なぜならば景清が人間的な感情を取り戻し・平家が滅びた事実を受け入れる気持ちに変ったきっかけは、糸滝が作ったのです。糸滝がいなければ日向嶋のドラマはないのです。「花菱屋」で糸滝は次のように言っています。

『たとへ海山を隔て、住むとてもひもじい目寒い目させませず、せめて御恩の片端も報じたや送りたや。金がな欲しやと心付き、(中略)日向にござんす盲目の父上に官をさせまし、一生養ひ殺す程と、今生で父のお顔一目拝んで帰るその間のお暇・・』

この糸滝の気持ちに左治太夫が感銘を受けて、糸滝に協力して彼は日向の地までも付き添います。左治太夫がそこまでするのは親切心だけでは説明が付きません。糸滝の話を聞いて花菱屋の女郎たちも深く同情します。金に意地汚い花菱屋女房おくまでさえ態度をコロッと変えてしまいます。まるで糸滝は周囲の人たちの気持ちをみんな変えてしまう・不思議な力を持っているようです。それは糸滝が父を思う気持ちが単に健気だとか・可哀そうだと云うレベルをはるかに越えて真剣であるからそうなるのです。周囲が糸滝を応援してやらねばと思わせる・とても熱い激しい感情が糸滝にはあるのです。多分、これはアンティゴネが持っているものと同じだと思われます。それがソポクレスのギリシア悲劇「アンティゴネ」に描かれるものです。雀右衛門が糸滝を演じるならば、そういうものまでも描いてもらいたいですねえ。雀右衛門はそろそろ父(先代・四代目雀右衛門)が或る意味長い雌伏の時期を終えて頭角を現わし始めた時期(昭和60年代)に近づいてきたわけです。雀右衛門はもう内向きの芸の殻を破るべき大事な時期に差し掛かっている、そう思いますがねえ。

(R2・2・7)



 

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