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吉之助の雑談38(令和2年7月〜12月)


〇上方芸能の伝承の在り方・その4

四代目坂田藤十郎が亡くなった時の関係者のコメントとして「上方歌舞伎の復興に力を尽くした方」と云う言葉がテレビ・新聞などで出ましたが、別にこれに異議を申し立てるつもりもないですが、これは若干ニュアンスが違うだろうという気がします。藤十郎自身としては「芸は教えるもんやおまへん、自分で工夫しなはれ」と云う・上方の芸の伝承スタイルを踏襲していたと思います。三代目鴈治郎が四代目坂田藤十郎を襲名したのは、平成17年(2005年)12月京都南座でのことでしたが、ちょうどその時の歌舞伎学会の「坂田藤十郎の再発見」と題されたシンポジウム(注:この場合の藤十郎はもちろん初代を指す)でのオフレコ発言ですが、個人的に藤十郎(もちろん四代目のこと)をよく知る権藤芳一先生が、(藤十郎は実にきままな生き方をしてきた人だから・藤十郎が上方歌舞伎の復興のために何かするということは)「自分は全然期待していない」という趣旨のことを仰ったのです。会場は大爆笑でありました。とは云っても(それまで)近松座を主催して近松作品の復活上演なんて努力も新・藤十郎は続けて来たわけです。だからこれからも「何もせんこともあるまい」と、その時の吉之助は思ったのです。しかし、あれから振り返ってみれば、襲名してから亡くなるまでの(約15年の)藤十郎は、権藤先生の予言通り上方歌舞伎の復興のため何もしなかったように思われます。吉之助としては、藤十郎襲名後は、もう少し上方演目を意識的・かつ集中的にさらって見せて欲しかった、そこに(息子たちを含めた)若手連中を巻き込んで、上方芸の引き継ぎを試みてもらいたいという思いがあったのですが、これは本人にとって見ると藤十郎襲名のタイミングがちょっと遅過ぎたということかも知れませんが、それにしても残念なことではあります。

藤十郎自身は、父(二代目鴈治郎)から上方式に「自分で工夫しなはれ」と突き放された育て方をされて来ただろうと思います。しかし、幸いにも藤十郎は武智歌舞伎に参加して、いわば「手取り足取り」の英才教育を受けることができました。そう云うことからすると、藤十郎は上方出身の役者ではあるけれども、純粋な意味からすると、上方の芸の伝承スタイルのなかから生まれた役者ではなかったわけなのです。この点は、今後藤十郎の芸を論じる時の大事なポイントになると思います。

藤十郎の芸には、在来の上方芸が持つ「だだこしい」感覚、「だだこしい」とは大阪でも死語になりかけているかも知れないが、そのようなゴチャゴチャと未整理で猥雑な感覚を保持しつつも、そこに理性に制御されたすっきりした感覚が加わって来ます。両者は一見すると相反する要素であるはずです。しかし、藤十郎の芸では「かつきり」とした印象があるところで、ふたつの相反する要素が同居します。これは藤十郎が「だだこしい」感覚を、フィーリングというような曖昧な状態ではなく、はっきり技芸として捉えていたということであろうと思います。これが武智歌舞伎から来るノイエザッハリッヒカイトの感覚なのです。(別稿「伝統における古典(クラシック)〜武智鉄二の理論」をご参照ください。それにしても巷間の藤十郎追悼の記事での武智への言及は少なすぎるように感じますがね。)誤解がないように付け加えますが、藤十郎の出発点に武智歌舞伎があるわけですが、それは昭和24年から27年の3年程度のことであるので、その後の藤十郎は「自分で工夫して」役者として成長して行ったのです。しかし、武智歌舞伎の「きっかけ」は実に大きかったはずです。もちろん武智鉄二その他の先生に大いに感謝をしただろうが、そこの「幸運」ということを藤十郎本人がどう感じていたのかなということを思いますねえ。藤十郎はその「幸運」を積極的に次世代にお裾分けして欲しかったと思うのです。

吉之助が思うところは、現代においては上方の芸というのは、「芸は教えるもんやおまへん、自分で工夫しなはれ」と突き放したところで伝承することは、もはや到底無理だということです。それが上方の芸の伝承の本来のスタイルではあろうけれど、それだと数世代で絶えてしまう。現在の上方歌舞伎は、既にそういう状況にあるわけなのです。上方歌舞伎は、たとえ江戸歌舞伎に接ぎ木した形であったとしても、残ってもらわなければなりません。したがって、不本意ではあろうが、上方歌舞伎においても東京の芸の伝承スタイルを取り入れて、教える側から積極的に理屈で教えて、「手取り足取り」して渡さねばならぬ。というところで藤十郎に期待されるところはとても大きかったと思うのですがねえ。藤十郎が亡くなった今となっては、それを云っても・もう遅いことかも知れませんが。

(R2・12・22)


〇上方芸能の伝承の在り方・その3

『最近ではそういうことはだんだんなくなって行きましたが、日本の師弟関係はしきたりがやかましく、厳しい躾(しつけ)をしたものでした。まるで敵同士であるかのような気持ちで、また弟子や後輩の進歩を妬みでもしているかのようにさえ思われるほど厳しく躾していました。(中略)それはある年齢に達した時に通らねばならない関門なのです。割礼を施すということがかなり広く行なわれていたユダヤ教信仰が、古代にも、それが俤を見せていますでしょう。あれなども受ける者たちにとっては、苦しい試練なわけです。(中略)子供または弟子の能力を出来るだけ発揮させるための道ゆきなのです。それに耐えられなければ死んでしまえという位の厳しさでした。』(折口信夫:座談会「日本文化の流れ」・昭和24年12月)

芸道の師弟関係を考えると、試練を与える者(師匠)と・その厳しい試練に耐えようとする者(弟子)との関係があり、試練を通じて両者は合体するということなのです。そこに無慈悲に怒る神(父)と・それに黙って従う無辜の民衆(子)の関係が重ねられています。(別稿「折口信夫への旅・第1部」をご参照ください。)だから芸の師弟関係は、例え血の繫がりはなくとも・擬似的な父子の関係であると考えられますが、上方の芸の伝承の場合はそれに加えて、「耐えられなければ死んでしまえ」というほどの厳しさがそこに付きまといます。このことは分野が全然異なりますが、例えばプロ野球の阪神タイガースの負けが込んでくると、大阪の熱狂的なファンが豹変して監督や選手を「辞めてしまえ」とか口汚く罵倒し始めるのにもよく似ています。これは熱い「タイガース愛」の裏返しであるとも考えられますが、上方の芸の伝承の観点から見ると、深層的なところでそれは関西人気質に繋がっているということです。

ここで大事なことは、このような考え方を延長していくと、伝承の世界に家系・家元とか「一子相伝」という考え方は到底生れて来ないなと思われることです。「自分の地位を継ぐ者があるとすれば、それは最も技芸のある者が継ぐべきだ」という考え方にならざるを得ないはずです。血縁に関係なく・最も実力ある者が芸を引き継ぐのが正しいのです。願わくば・それが自分の息子であってもらいたいものですが、DNAは継いでいても・芸の才能を継げるかは、これはまた別の問題です。芸の伝承に血縁関係を持ち込むことは、不純な考え方なのです。「継げる者がいないならば、潔く滅びればよろし」というのが、本来的な芸の世界の考え方であろうと思います。上方の名優の家系が三代目くらいで途切れてしまった例が多いのは、そのせいです。伝統工芸など職人芸の世界では、厳しい世界ですから自分の子供に跡を継がせることもなかなか難しいという事情もありますけれど、血縁関係にこだわらず、例え外国人であっても、師匠に必死で付いてくる意欲ある若者には自分の持てるものを惜しみなく教え授けようという気風が残っているようです。

ですから伝承の世界に家元制や「一子相伝」という概念が生まれて来る背景には、どこかに一門の既得権益を護ろうとする権威主義的な考え方があるように思われます。家元制の図式は、恐らく江戸期に入って固まったものでしょう。武家の長子相続の考え方を真似ているのです。家元制と云うのは、これを述べると長々しいことになりますが・簡単に云えば、「次代を引き継ぐのは最も実力ある者を定める」という決まりであると「家元を継ぐに相応しい者は俺だ」と主張する高弟が何人も出て来て・流派が分裂して・お家騒動になってしまうので、これを回避するために生まれたようなものなのです。「次の家元を継ぐのは家元の子供とする」と決めてしまえば、とりあえずお家騒動は起きようがありません。だから家元は一門のなかで技芸がトップである必要は必ずしもないわけなのです。何が正しくて・何が違っているか、遺された口伝や作法を受け継いでしっかり知っていさえすれば、家元はそれで役目を十分果たしているのです。踊りの世界では実力ある高弟が独立して流派を別に立てる場合がありますが、これもお家騒動回避策のひとつです。

家元制の話はこれくらいで置きますが、以上のことを考えれば、家系や口伝・型に重きを持つ江戸歌舞伎の芸の伝承の在り方は、上方歌舞伎のそれと比べると、権威主義的であり(別の意味で云えば商業主義的であり)、芸の活力から見れば、江戸歌舞伎の芸は上方歌舞伎のそれよりも脆弱であると云えます。上方芸の在り方の方が創造的に思われます。折口信夫はこれを大阪人の野性味と呼びました。(これについては別稿「大阪人の野性味」をご参考にしてください。)これは「型」の論議のところでも触れましたが、型とは「そのようにしなければ歌舞伎にならない、とりあえずそれを守ってさえいれば歌舞伎に見える」というようなものです。そもそもこう云う型の考え方は、芸の創造力という観点からみれば、脆弱で後ろ向きな考え方ではなかろうか?そういうことをチラッとでも考えてみた方が良いのです。しかし、現在となってみれば、江戸の歌舞伎は残ったが、上方歌舞伎は事実上消滅したということ、この事実も厳粛に受け止めなければなりません。脆弱でも残った方が良いか、潔く滅んだ方が良いかという議論にもなりかねませんが。(この稿つづく)

(R2・12・16)


〇上方芸能の伝承の在り方・その2

前章で書いた通り上方の芸の伝承は「芸は教えるもんやおまへん、自分で工夫しなはれ」というものでした。芸風あるいは型というものを息子に伝えようとする意識がほとんどないようです。一方、江戸の場合は、どちらかと言えば家系を大事にするところがあって、芸風あるいは型を息子に伝えようとする意識が割合とあるようです。

上方の役者は自分の子供に非常に厳しく接して、芸の面での許容性がとても狭かったのです。しかし、役者の血筋であるからと云って、子供も役者に向いているわけでは必ずしもありません。そういうことで歌舞伎の歴史を見れば、上方の役者の家系はほとんど三代目くらいで途切れてしまった家が多いのです。例外と言えるのは、片岡仁左衛門家くらいのものです。演技の型も、先代と当代の間でブツブツ途切るものが多く、いろいろ雑多なものが入り込んでうまく整理が出来ません。上方の芸は学術的に型の系譜を揃えることは困難です。

一方、江戸の役者の家系は、上方に比べれば代数が長いものが多いようです。もっとも「元禄の世から綿々と続く市川宗家の伝統」などとマスコミは言いますが、実は市川宗家でも血筋はブツブツ切れており・現在の市川家は十一代目から数えてせいぜい五・六十年ということなのですが、いちおう名跡としては元禄から続いています。芸風や型についても、当代はこれを次代である息子に渡し・息子はこれを受け継ぐという考え方も、江戸には確かにあったようです。だから型の系譜も割合整理ができます。江戸の歌舞伎は、そう云うことを大事にしてきたのです。

このような江戸と上方の芸の伝承に対する考え方の違いは、現在となってみれば、江戸の歌舞伎は残ったが、上方歌舞伎は事実上消滅したという決定的な結果となって現れたのです。これは江戸の伝承の考え方が正しかったということなのでしょうか。上方の芸の伝承の考え方が間違っていたということなのでしょうか。この問いは、現代における伝承芸能の在り方を考える場合には、一応検討してみる価値がありそうです。

しかし、よくよく考えてみると、「自分で考えて・自分の個性を生かして・自分の解釈で・自分なりの型を作り出す・それは誰から受け継いだものでもないし・誰に伝えるものでもない」という考え方は、西欧芸術ならば至極当たり前の考え方なのです。西欧では、生徒が先生のやるのをそのまま演じようものなら、「先生の真似をしては駄目です・自分でしか出来ないオリジナルな表現を自分で考えなさい」と怒られます。西欧の伝統というのは、先人の業績の変革と破壊の歴史であったとも言えます。

とすれば上方歌舞伎の芸の在り方は、西欧のそれに近いと言えると思います。ですから「自分の芸は自分の代限りのもの・受け継ぐものではなく・誰に伝えるものでもない」と云う考え方は、実は洋の東西・時代を越えた普遍的な考え方であると吉之助には思えるのです。

(R2・12・15)


オンライン講座のことなど

寒くなって全国的にコロナ感染が三たび増加しているようで、心配なことです。人前でマスクをするのと・手洗い励行・三密を出来るだけ避ける、出来るのはこれくらいしかないですが、まずはコロナ感染防止の為、これをキチンと守るしかないですね。出来るだけ早いワクチンの実用化に期待しています。

ここ4日間くらいサイトに新しい記事をアップしていませんでした。実は来月(1月)に神奈川大学市民講座で行なうオンライン講座・「歌舞伎の台詞のリズム」・全2回講座のビデオ映像の仕上げをしておりました。吉之助も人前で歌舞伎のお話しをすることが多々あるので、そんな感じでしゃべっているところをビデオ・カメラで撮って編集すればポンと出来上がりくらいに気楽に考えてましたが、いざやってみると、教室での対面授業とビデオ講座ではたいぶ勝手が違っていて、大いに戸惑いました。対面授業だと気にならなそうな些細なことがやたら気になる。伝えたいことがうまく伝わらないことなどが分かって、ビデオ製作にえらく難儀しました。現在でも首都圏の大学では対面講義を再開できておらず・オンライン授業を続けているところが多いと思いますが、どの教授先生も映像授業は大変ご苦労されているだろうと思います。感覚的にですが、ビデオ講座の準備はいつもの対面講義の準備よりも、はるかに時間が掛かって気苦労が多い。まあこういうこともやってみなければ分からないことです。

ともあれビデオ映像の準備は出来ました。自分で云うのも何ですが、試行錯誤して・工夫したかいあって、まずまず役に立つものに出来たかなと思います。尚神奈川大学でのオンライン講座は全国どこからも視聴できます。映像は2週間くらい・ご都合に合わせて何度でもご覧いただけますから、吉之助ってどんな奴?と思っていらっしゃる方も是非この機会にご覧ください。

オンライン講座の準備のせいもありますが、11月はウィーン・フィルの来日公演決行四代目藤十郎さんの逝去など、吉之助にとっては不意打ちの出来事がありました。そちらに神経が向かった為に、当初じっくり腰を据えてかかる予定であった三島由紀夫没後五十年記念企画の方に、十分な時間を割けなくなりました。連載状態でまだ完結していない文章が、現時点で三本ほどあります。もしかしたら年内完結できず・年越しになるものがあるかも知れませんが、これはゆっくりマイペースで仕上げていきます。その他、いくつか書くつもりにしていた題材がありましたが、これも追々取り組む予定です。そんなこんなでコロナ騒ぎで過ぎた2020年も残すところ3週間ほどですが、年が変れば「歌舞伎素人講釈」も21年目に入ることになるので・新たな段階へ飛躍する(?)ことになればいいのですが。

(R2・12・9)


 〇上方芸能の伝承の在り方・その1

令和2年11月12日に四代目坂田藤十郎が亡くなりました。追悼記事は別に書きましたので、本稿では別視点で上方芸能の伝承についてちょっと書きたいと思います。

上方の芸の伝承と云うのは、「芸は教えるもんやおまへん、自分で工夫しなはれ」というものです。だから初代鴈治郎は、息子(二代目鴈治郎)に全然教えようとしなかったそうです。或る方がちょっとは教えてやったらどうかと忠告したところ、「そないなことをしたら、鴈治郎の偽物が出来るだけだす」と云って取り合わなかったそうです。だから二代目鴈治郎の芸は父(初代)の芸を素直に継いだものではなく、二代目延若の芸の影響を多分に受けたものであると云われています。幸い吉之助も二代目鴈治郎の舞台を生(なま)で目にすることが出来ました。それでも二代目鴈治郎の芸には父(初代)への憧憬があったと思いますねえ。直接に教わらなかったにしても二代目鴈治郎は「父ならばここはどうするだろう?・・」ということをずっと考えていただろうと思います。そういう思いだけが伝統を受け継ぐ者の気持ちを浄化します。二代目鴈治郎の芸談に拠れば、「河庄」の治兵衛の型を学ぶために自分は花道真下の奈落に控え、花道を歩く父の治兵衛の歩みで板がミシミシ鳴る音を聞きながら・これに合わせて自分も奈落を歩く、父が止まれば自分も止まる、そうやって「魂抜けてとぼとぼ・・」の治兵衛の出を学んだのだそうです。そのような苦労をしながら、二代目鴈治郎は父の偽物(コピー)ではない「二代目鴈治郎の芸」を作り上げていったわけです。

そういうことであるから二代目鴈治郎も、息子(四代目藤十郎)に対し「芸は教えるもんやおまへん、自分で工夫しなはれ」という態度で臨んだと思います。しかし、幸いなことに、若き藤十郎は武智歌舞伎に参加して、武智鉄二や山城少掾・八代目三津五郎(当時は蓑助)や能の片山九郎右衛門などの教えを受け、今考えればホントに贅沢な仕込みを受けることが出来ました。これが四代目藤十郎の息が詰んだ・かつきりした芸風の基礎にあったものですが、結果として、それは祖父(初代鴈治郎)とも父(二代目鴈治郎)ともちょっと異なる芸の感触になったと思います。「河庄」の治兵衛にしても・「沼津」の十兵衛にしても、四代目藤十郎のそれらは、吉之助が覚えている二代目鴈治郎のそれらとはちょっと異なる感触でありました。まあ四代目藤十郎の場合は、かつきりした分、やや型っぽい感触があったかも知れませんねえ。二代目鴈治郎ならば、世話と時代の押し引きはずっと柔軟な印象でした。しかし、吉之助はどちらが良かったとか・悪かったとかを言いたいわけではありません。「どちらも良くて・正しかった」のです。大事なことは、そこに祖父→父→息子と確かに繋がっている感覚が確かにあったということです。世代が違うんだもの、感触の違いなんて当然のことで、そんなことは大したことではない。「切れているけれども、繋がっている」、これが上方芸能の伝承の在り方なのです。これは東京(江戸)の芸の伝承の在り方とは、全然異なります。(この稿つづく)

(R2・11・30)


○追悼・四代目坂田藤十郎・その3

吉之助にとって思い出深い舞台をひとつ挙げるなら、それは昭和57年(1982)5月国立小劇場での近松座旗上げ公演「心中天網島」の紙屋治兵衛ということになると思います。近松門左衛門の作品を年に1・2作ずつ上演していこうということで藤十郎(当時は扇雀)が立ち上げたプロジェクトでした。一俳優の演劇運動としては、大正期の二代目左団次の自由劇場以外に比較できるものはないでしょう。吉之助は仕事の関係で近松座の前半期にしか立ち会えませんでしたが、演劇運動としての近松座の成果については多少議論があるところかも知れませんけど、昭和62年(1987)8月国立大劇場での初代坂田藤十郎の代表作である「けいせい仏の原」復活上演などを通じ、恐らく扇雀の近松座の目的のひとつであったと思われる藤十郎襲名への地盤固め(扇雀と云えば近松・藤十郎だというイメージ戦略)をしっかり果たしたと思います。近松座がなければ藤十郎襲名は実現し得なかったと思います。願わくばこうした近松座の試みのなかから歌舞伎座本興行のレパートリーへ昇格・定着する演目があったならばと思いますが、そこは藤十郎の力の及ぶところではなかったかも知れませんが、昨今の歌舞伎の上演で近松物があまり出ない現状を見ると寂しいことではあります。

  

*近松座第1回公演:「心中天網島」と第6回公演「けいせい仏の原」のチラシ

旗上げ公演の「心中天網島」の舞台は、もちろん気合いが入った良い出来でした。この時の脚本は従来の改作本に拠るものではなく、改作で間延びしてしまった台詞を丸本を参照して原作の簡潔な形に戻してテンポ感のある芝居に仕上げたものでした。何しろ40年前のことゆえ吉之助も細かいことが思い出せませんが、よく覚えているのは、吉之助は花道すっぽん傍の席であったので、「魂抜けてとぼとぼ・・」で登場した治兵衛の足元を至近で観察出来たことです。花道での治兵衛の歩みは、型としては従来の「河庄」と違っていたわけではないですが、印象に残っているのは藤十郎が呼吸する息の深さです。深くゆっくり息を最後まで吐き切って・しばらく長い間を置いて(脱げた草履を足先で探してトンと)・そしてまたゆっくりと呼吸を開始する、演技の息の詰め方と呼吸の深さです。そこに治兵衛の深い憂鬱が表れていて、熱に浮かされてえらく具合が悪そうな感じがして、吉之助は思わず花道上の治兵衛の顔を見上げてしまったのですが、それがすなわち「芸」でしたねえ。あの時の藤十郎の呼吸の音は、今も鮮明に思い出されます。ご冥福をお祈りします。

(R2・11・25)


○追悼・四代目坂田藤十郎・その2

吉之助が歌舞伎を見始めた昭和50年代は、藤十郎(当時は二代目扇雀)が女形から立役へ大きくシフトした時期に当たります。治兵衛(天網島)も十兵衛(沼津)も、初役はこの頃であったと思います。そのせいか吉之助には藤十郎と云うと立役のイメージの方が強いのです(人間国宝も歌舞伎立役での指定でした)が、マスコミ各紙の追悼記事などを見ても、世間的には藤十郎はやはり扇雀・つまり女形の印象が強いかも知れませんねえ。まあそれも当然のことだろうと思います。

このことは別稿「二代目扇雀の美しさ」あるいは「美しいものは見た目も美しくなければならぬのか」で詳しく触れたのでそちらをお読みいただきたいですが、藤十郎の女形はもちろん美しかったけれど、どちらかと云えば女優的な生(なま)な美しさであったと思っています。実は吉之助は、武智理論のストイックな女形のイメージと扇雀の生身の女のイメージとの間に齟齬がある感覚をずっと持って来ました。武智鉄二は、女形にまつわりついた虚飾の技術、グニャグニャした身振りなどを嫌いました。武智は古典的なスッキリしたイメージを女形に求めたのです。武智の理論からすると、女形が素材として美しいかどうかということは本来必要条件でないはずです。吉之助も武智の弟子ですから、これが吉之助の女形の根本イメージなのです。ところが味付けを抑えたシンプルな料理では素材の良し悪しが料理の出来を左右するように、虚飾の要素を剥ぎ取ったシンプルな女形の技芸では、むしろ役者の素材としての「見た目の美しさ」が大事な要素となってクローズアップされてしまう。結局、「女形は見た目が良いに越したことはない」という結論になってしまう、藤十郎の女形を見ると、こう云うパラドックス的な思考が吉之助の頭のなかで駆け巡ってしまうわけです。こう云うこんがらかったことを考えさせる女形は、藤十郎しかいませんでしたねえ。他の女形ではそういうことをあんまり考えたことがない気がします。言い換えれば、それだけ藤十郎の技芸が武智仕込みでかつきり折り目正しかったから、藤十郎の素材としての生(なま)な美しさとの齟齬が吉之助には余計に目に付いたということだろうと思っています。

したがって吉之助から見て藤十郎の女形で点が入るのは、近松物で云えば、旧来の道徳観念のなかに収まってしまう小春やおさん(天網島)ではなくて、やはりお初(曽根崎心中)ということになるでしょう。つまり「男勝り」とも云うべき熱さを前面に押し出して、男をリードする役どころです。昭和28年「曽根崎心中」幕切れでお初が徳兵衛の手を引っ張って花道を駆けると云う、既成の歌舞伎の常識(こういう場合には立役が女形をリードするのがそれまでの通例でした)を壊したところに藤十郎の天才があり、それは戦後日本の女性の社会的意識の向上と密接に重なるものでした。藤十郎は歌舞伎にまったく新しい女形の在り方を提示したのです。時代物であれば、政岡(先代萩)・戸無瀬(九段目)・定高(吉野川)あたりであろうと思います。グロテスクな印象に陥ることを恐れもせず・太い男の声で核心の部分を押し通す女形の図太さです。藤十郎はそこに武智から学んだものをしっかり生かしたわけです。(この稿つづく)

(R2・11・24)


○追悼・四代目坂田藤十郎・その1

四代目坂田藤十郎が、昭和24年(1949)から昭和27年頃にかけて武智鉄二が主宰した歌舞伎再検討公演(いわゆる「武智歌舞伎」・これはマスコミが勝手につけた呼び名ですが)出身であることはよく知られています。藤十郎(当時は中村扇雀)と五代目富十郎(当時は坂東鶴之助)は、武智歌舞伎から出た二大スターでした。二人のかつきりとして折り目正しい芸風・明瞭な発声などを思い出せば、当時の武智歌舞伎の雰囲気がほんのりと想像出来るだろうと思います。

武智は、八代目三津五郎(当時は蓑助)や能の片山九郎右衛門らの協力を得て、扇雀をたっぷり時間を掛けて根気良く訓練しました。日経新聞の「私の履歴書」(2005年1月)のなかで藤十郎は九郎右衛門宅で来る日も来る日も畳の縁をすり足で歩く練習ばかりさせられたと思い出を書いていました。実際・藤十郎はよく武智歌舞伎の話をしますし、そこに自分の原点があるということを感じていたようです。こうして藤十郎は昭和28年8月新橋演舞場での宇野信夫版「曽根崎心中」の初演で大ブレークを果たすことになりました。

武智の述懐によれば、武智歌舞伎当初の扇雀(=四代目藤十郎)は下手でどうしようもなかったそうです。一方、大部屋・舞踊その他のジャンルから参加してきた人は、もともと芝居が好きで自発的に飛び込んで来た人たちですから器用で、教えたことはすぐ取ったそうです。ところがそういう器用な人たちは「この役はこうでなければならない」、「ここはこういう声を出さなければこの役にならない」という肝心なところで反応しない。逆に不器用だった扇雀は最初はどうなることかと心配していても、 口伝という言葉にピーンと反応して、苦労しながらでも遂にはものにしたといいます。

『こんな下手な役者(扇雀のこと)、どうなるかなと思いながら教えていると、急所、この役はこうでなければいけない、ここはこういう声を出さなければいけないというところは、遂に覚えるんですね。大部屋から来た人たちは、ここはこうでなければならないというところに反応しないんですね。これはやはり家庭教育というものは大変なものだと思いましたね。つまり(扇雀など名門の御曹司の家庭の)環境が歌舞伎になっているということですね。どうしても(歌舞伎の)外から来た人というのは、ここはこうでなければいけない、ここはこうやらねばいけないんだというノルム、規範という考え方が欠けるみたいですね。だから風(ふう)だとか音遣いなんて、覚えられっこないですよ。ともかくこれは永木振りでなきゃならないとか、ここは仲蔵振りでなきゃいけないとか、染太夫風でないといけないんだというと、どうしてそれでなきゃいけないのか、俺はもっと楽に効果のあがるやり方でやっとくということになってしまうんですね。』武智鉄二・八代目坂東三津五郎との対談:芸十夜

そんな口伝がホントに残っているのか?そもそもそれは守らねばならぬものか?その口伝は正しいのか?どういう根拠があるのか?なんてことが疑問として湧いてくるのは分からなくはないですが、そういうことは実はどうでも良いことなのです。過去(先人)を信じる気持ちこそが、大事なのです。それは信仰の如きものです。歌舞伎役者であれば、「これは口伝である」・「これは昔からの型だ」という言葉に、神の言葉を聞いたかの如く、無条件でピーンと反応してくれなければ困るのです。ひたすら信じて、苦しみながらでも・泣きながらでも付いて来れば、彼はいつか何かをつかむ。言い方を変えれば、実は「指導している俺(武智)を信じて黙って付いて来い」ということでもあるわけですがね。

令和2年11月12日に、俳優協会会長でもある藤十郎が亡くなりました。唯一無二の芸であったとか、これほどの役者は二度と出ないだろうとか、藤十郎の芸についての讃辞は数多く限りなく出ると思いますが、われわれが藤十郎から一番学ばねばならぬことは、上記のこと、過去(先人)を信じる気持ち・態度です。伝統芸能である歌舞伎にとっては、今それがとても大事なことになっていると思います。(この稿つづく)

(R2・11・19)


〇令和2年11月国立劇場:「平家女護島〜俊寛」・その2

我が妻への愛に殉じた無の俊寛ということは、主人公である俊寛がひとり内面的な領域に入り込んでいくということです。そうなると「平家女護島」に見える時代物の構図は薄らいで、ドラマは世話物的な、等身大の悲劇の様相を呈することになるでしょう。これは確かにひとつの問題点で、吉之助のような原典主義者にはちょっと気になるところはあるのですが、吉右衛門がここまで突き詰めなければならなかったことも吉之助にはよく理解出来るのです。幕切れの吉右衛門の俊寛の表情を見れば、清盛への憎しみさえも消え、俊寛は絶対の孤独のなかで自らの内面に対しています。吉之助は前回(平成30年9月歌舞伎座)の吉右衛門の俊寛を「世話の俊寛」と形容しました。今回(令和2年11月国立劇場)ではさらに深化して、吉右衛門は世話の俊寛の究極のところを見せてくれました。

ところで今回の「俊寛」には、序幕として清盛館が付いています。東屋が清盛の情けを受けることを拒否し・俊寛への貞節を貫いて自害する経緯が描かれます。実はこの後の場面に清盛に息子の教経が自害した東屋の首を見せて諌言する件があって、本来はこちらが序幕のドラマの芯なのですが、そこがばっさりカットされています。せっかく吉右衛門が清盛を勤めたのにもったいない、これで「清盛と俊寛」の対立構図が明確に出来るのにと思うところはありますけれど、それは兎も角、そう云う不満はあるとしても、ここで東屋の死の経緯を見せたことで、鬼界ヶ島の場で妻の死を知った時の俊寛の悲嘆が具体的になったと思います。まあ今回はこれで十分なのでしょう。おかげで、時代物の「清盛と俊寛」の対立構図とは異なるところの、「東屋と俊寛」という新たな世話のドラマ視点を打ち出せて、これで吉右衛門の俊寛の幕切れの感動が一層深いものになったと思います。

余談ですが、この吉右衛門の世話の俊寛であれば、瀬尾を殺す大義についても、もう少し補強を施した方が更に良くなるかなという気がしました。瀬尾は情けがない嫌な奴ですが、規則を規則通りに扱う実直な官僚に過ぎず、俊寛から恨みを受けて殺されねばならないほどそこまで悪い人物には思えないからです。それでも「清盛と俊寛」の対立構図が強ければ、俊寛は清盛に見立てる心で瀬尾を殺したという理屈が成り立つと思います。しかし、吉右衛門ほどに世話に徹した俊寛となると、瀬尾を殺す大義が弱く見えてしまうきらいがあります。「千鳥を船に乗せてくれ」という懇願をにべもなく撥ね付けた瀬尾の後ろ姿をキッと睨みつけた吉右衛門の目付きの鋭さにはハッとさせられました。しかし、ここで俊寛に殺意が兆したとしても、瀬尾を殺すための大義の裏打ちがもう少し欲しいのです。なにしろ床は「瀬尾受け取れ恨みの刃」と語っているのですから。恐らく前進座の三代目翫右衛門もその辺を悩んだのだろうと想像するのですが、前進座台本では、瀬尾が東屋が首討たれた経緯を詳しく語り、「洛中に潜んでいた東屋を探し出して清盛に差し出したのはこの自分だ 」と俊寛に毒突く入れ事がされました(注:丸本を読むと、東屋を清盛に差し出したのは瀬尾ではなく、三位の中将重衡です。)この入れ事ならば、俊寛は妻の仇を討つということになり、瀬尾個人を殺す大義が強化されます。これで我が妻への愛に殉じた俊寛」の世話のドラマ視点が多少でも強化できるのではないでしょうかね。

今回も播磨屋ファミリーと云うべき役者たちが周囲を固めて、吉右衛門の俊寛の写実の演技をよく引き立てました。

(R2・11・17)


〇令和2年11月国立劇場:「平家女護島〜俊寛」・その1

「俊寛」の幕切れは役者によって色々な工夫があり、未来に希望を託する俊寛、諦観の情を見せる俊寛、絶望を見せる俊寛、なお生きることの執着を断ち切れないでいる俊寛など様々な感情表出があり得るわけで、どの解釈がいいとか悪いではなく、そのどれもがそれぞれ味わい深いものを見せてくれます。俊寛は吉右衛門の当たり役であるし、吉之助も何度も見ましたけれど、それにしても今回(令和2年11月国立劇場)の吉右衛門の幕切れの俊寛は、これまでの舞台とも色合いがまた異なり、いちだんと静かな無の境地に達したと思われて、ひときわ感慨深いものがありました。こう書くと他の俊寛が無の境地に達していなかったように読めるかも知れませんが、この感動には他の舞台を比較する意図は一切なく、吉之助は今回の吉右衛門の幕切れの俊寛はホントに無に還ったことをただ言いたいのみなのです。

俊寛はひとり島に残ることを決意し・替りに千鳥を乗せた今、彼には生への未練は一切ないのです。覚悟は出来ています。しかし、何とはなく人恋しさと云うか・ツンと来る寂しさが募ってきて、自然に足がツツ・・と動いてしまうのです。そこが人間の哀しいところです。しかし、決して生への未練を見せているのではないと云う感じですかねえ。「オーイ、オーイ」と船に向かって手を振っていても、別に「その船に乗せてくれ」と云っているわけではない。岩へよじ登る動きもバタバタする感じは一切なく、何だか影が動くような淡い印象がします。詞章には「思い切っても凡夫心・・」とありますけれど、そういう印象は淡くなっています。吉之助は吉右衛門の力の抜けた動きを見て一瞬驚いたのですが、幕切れの俊寛の無の表情を見て心底納得が出来ました。吉右衛門は筋書の演者の言葉のなかで、

『赦免船を見送った後の幕切れで、実父(初代白鸚)から「石になれ」と教わりました。俊寛は全てを忘れて身も心も天に委ねたのではと考えております』(中村吉右衛門:当月筋書の演者の言葉)

と書いています。その通りの幕切れでしたねえ。今回の「俊寛」は、この幕切れの感動に成果があったと思います。ただし先ほど「思い切っても凡夫心・・」という印象は淡くなったと書きましたが、これほど無の境地に達した俊寛であると、幕切れからさかのぼって、たとえ「自分の替わりに千鳥を船に乗せてやりたい」という意図があったにせよ、それが瀬尾を殺してしまう(丸本を見ると俊寛は瀬尾の首を斬り落とすことまでするのです)強い殺意が、この無の境地の俊寛から引き出されるものだろうかと云う疑問が生じるかと思います。結論から云えば、俊寛の瀬尾への殺意は、多分、俊寛がこの絶海の孤島に在っても片時も忘れることが無かった妻・東屋が京都で死んだことを知らされた絶望から来るのでしょう。吉右衛門の俊寛は、そこのところを一段と重く見ているのです。その箇所を床本で見ますと、

「アヽこれ船に乗せて京へ遣る、今のを聞いたか、わが妻は入道殿の気に違ふて斬られしとや。三世の契りの女房死なせ、何楽しみにわれ一人、京の月花見たうもなし。二度の嘆きを見せんより、われを島に残し、代りにおことが乗つてたべ」

ですから動機に順番を振るのも何ですが、妻・東屋が京都で死んだと知って・もう京に帰る希望がなくなった・それならば替わりに千鳥を船に乗せてやろう・だから自分は島に残るということです。亡くなった愛妻への思いがすべての起点です。つまり吉右衛門の俊寛は「我が妻への愛に殉じた」ということになりましょうか。(この稿つづく)

(R2・11・14)


〇令和2年11月国立劇場:「彦山権現誓助剣・杉坂墓所〜毛谷村」

仁左衛門の六助は、平成28年4月歌舞伎座以来のことで、東京では二度目になります。前回の仁左衛門の六助については、やや辛目に書きました。仁左衛門が六助の人柄を良さを出そうとする意図か、台詞の調子(キー)を明るく高く取っているせいです。今回も杉坂墓所(はかしょ)を含めて前半がどうも落ち着きません。仁左衛門の台詞が高調子なのは、これは持ち味と云うべきですが、義太夫狂言では必ずしも向きとは申せません。三味線の導くところに合わせて・もう少し声の調子を低く取らないと、特に世話場では感触が水っぽくなります。

それとこれは六助だけのことではないですが、前半が全体の段取りが心なしか慌ただしく急いた感じなのは何故ですかねえ。鄙びた田舎での出来事なのですから、もう少しゆったりとした芝居を心掛けてもらいたいものです。前半は六助にとって解せぬことが次々起こりますが、そこを六助は「まっええわい」という感じでゆったり受ける、それで六助の大きさが出るのでしょう。「毛谷村」で芝居のテンポが早くなるのは、六助が微塵弾正の企みに気付いて本気で怒って以後のことです。そこまでの芝居の段取りはもっとゆったりと、ゆったりと。

しかし、仁左衛門の六助は、お園が登場して以降は持ち直しました。これは孝太郎のお園との声のバランスを意識して、仁左衛門が台詞の調子を低く抑えたからでしょう。前半と比べると後半の六助は、はるかに台詞が聞きやすくなりました。でんでん太鼓を打ちながらの物語も落ち着いて、ここは前回(平成28年)よりもずっと良い出来になりました。これをみても義太夫狂言では台詞の調子を低めに抑えることが大事なのが分かると思います。芝居の上手い方ですから、幕切れはカッコよく締めてくれます。それだけに前半の出来がちょっと惜しかったですね。

孝太郎のお園は、前回(平成28年)も良い出来でしたけれど、今回はカラミを使ったクドキの出来が一段と良くなりました。(これはカラミを勤めたやゑ亮のおかげでもあります。)お園がクドキで語る内容は、敵(かたき)に父が討たれ・妹も返り討ちにあったという経緯を語る悲惨なものです。そんな愁嘆をカラミを使って華やかに女武道を見せながら語るわけで、形態的にはまことに歪(ひず)んだ手法なのです。と同時に怪力の女が愁嘆を語りながら大の男を手玉に取って弄ぶ、そこが滑稽で愉快な場面でもあるのです。今回のお園のクドキの場面では、コロナ対策でそう大きくはなかったけれど、女性客のクスッと笑う声が各所で聞こえました。確かにこの場面はそうやって笑って見るべき場面だなと思います。今回の「毛谷村」では、ここが一番愉しかったですね。

孝太郎のお園は七代目芝翫から習ったそうですが、よく頑張っていたと思います。ちょっと付け加えると花道の虚無僧姿でのお園の出では、もっと外股に思い切って「男」を出しても良いかな。弥三松の着物が掛かっている時にチラッと「娘」を見せて、またサッと「男」に戻る、そこのところの息が芝翫のお園は鮮やかであったと思います。

(R2・11・12)


〇三島由紀夫没後50年

作家三島由紀夫が、今から50年前の、昭和45年(1970)11月25日に、盾の会メンバー三人と共に市ヶ谷の自衛隊駐屯地(現・防衛省本庁)に乗り込んで自決という衝撃的な死に方をしたことは、御存知の通りです。吉之助は当時中学生でしたが、その時のことはよく覚えているつもりでしたが、調べてみると三島が自決したのは午後0時半ばのことであったようです。そうすると吉之助が学校から家に帰ってテレビを見て事件を知った午後3時過ぎには、もう事件は終わっていたはずですが、多分、報道が相当混乱錯綜していたのでしょうねえ、当日のテレビ報道では何が起こって現在はどういう状況なのかさっぱり分からず、吉之助にはテレビで同時進行で事件の推移を見たような感覚が依然として残っています。当時の吉之助は作家・三島の名前は知ってはいましたが、事件の時点ではまだその作品を読んだことはなかったと思います。事件の後に「仮面の告白」・「潮騒」」・「金閣寺」など代表作を次々と読みました。本サイトを見ればお分かりの如く、吉之助にとって三島は非常に重要な作家ではあるのですが、あの自決事件が吉之助にとってどういう意味を持ったかは、50年経ってもまだうまく説明が出来ません。現時点ではただ重い印象を受けたとしか申せません

「歌舞伎素人講釈」に三島由紀夫に関する記事は多くありますが、三島未亡人によって公開差し止めがされて長らく確認出来なかったため、従来フルトヴェングラー指揮だとされていた映画「憂国」の背景音楽「トリスタンとイゾルデ」の音源が、正しくは、レオポルド・ストコフスキー指揮フィラデルフィア楽団による、1932年RCA録音のストコフスキー編曲による管弦楽版「Symphonic Synthesis」(「交響的統合」 とでも訳しますかね)から拝借したものであることを、音楽評論家山崎浩太郎氏のご協力を得て同定確認できたことは、これは一応、「歌舞伎素人講釈」の成果として自慢して良いことかなと思っています。(別稿「妻麗子の幻影」をご覧ください。なお本件については山中湖畔にある三島由紀夫文学館の研究室だよりのなかでも紹介されています。)

ところで、三島は「椿説弓張月」(昭和44年11月国立劇場初演)など歌舞伎作品を8本書きました。三島は中学生(13歳)の時に初めて歌舞伎を見て以来、歌舞伎に親しみ・歌舞伎に造詣の深い作家であることは良く知られていますが、恐らく作劇だけではなく小説においても、三島のなかで歌舞伎が作品に及ぼしている影響は想像以上に濃いと思っています。このことに関しては、吉之助も公開されている創作ノートなども調べて長年考えてはいますが、文献的には多分立証出来るものは少ないと思います。しかし、吉之助の心証としては、三島作品での歌舞伎からの影響はかなり見られそうです。それは深層心理的に深いところで、感性でつながっているものです。(そもそも昭和45年の自決自体がかぶき的行動ですが)一例を挙げれば、遺作「豊穣の海」四部作は、三島自身は「浜松中納言物語」からインスピレーションを受けたと書いてはいますが、吉之助は意外と鶴屋南北の「桜姫東文章」との関連が深いものと考えています。(これについては別稿「桜姫という業(ごう)」あるいは「三島由紀夫と桜姫東文章」をお読み下さい。)

なお三島由紀夫没後50年企画として、「獣の戯れ」とベートーヴェンの歌劇「フィデリオ」について論考を書きましたが、もう一編、三島が昭和23年(1948)に書いた短編「サーカス」と歌舞伎との深い関連についての論考が、近いうちに連載予定であることを付記しておきます。

(R2・11・6)


〇令和2年10月歌舞伎座:「双蝶々曲輪日記・角力場」・その2

「角力場」の上演で放駒長吉と山崎屋与五郎を二役分けて演じるのと・二役を兼ねるのは、上演記録を調べると、だいたい半々くらいの頻度のようです。二役を兼ねるのが如何なる経緯で始まったかよく分かりませんが、この仁(ニン)がかけ離れた二役を演じ分けるのは、結構難しいと思いますねえ。体つきもちょっと太目でふくよかな方が二役を演じやすいと思いますが、これを最初に試みた役者はなかなかの名手であったでしょう。しかし、二役を兼ねられる役者は相当限られると思います。個人的には長吉と与五郎は役者を分けて演じるのが、正しいやり方であろうと思います。

今回の勘九郎の二役挑戦はどんなものかと期待しましたが、前述の通り脚本の関係で角力場前のワクワクした気分がまるでないままで・いきなり登場ということになるので、長吉に関してはずいぶん損なことになりました。そのせいも大きいですが、勘九郎の長吉は愛嬌がちょっと勝ち過ぎているようです。確かに濡髪長五郎と比べれば長吉は格下の小者に違いないですが、そんなところばかりを強調している印象があります。これは誰がやってもそんなところがありますが、それだと長吉の人物が小さく見えてしまいます。しかし、長吉は後に濡髪に見込まれて義兄弟の契りを交わすことになる男です。当時の相撲取りは誰でも侠客みたいな気分を持っており、曲がったことは大嫌いで、嫌だと思えば梃でも動かず、思い込んだら命懸け。長吉はそんな気風が良く・直情的な熱さを持つ男なのです。そこに濡髪も惚れ込む長吉の男の魅力があるわけです。そういう要素は勘九郎の仁(ニン)にあるものだと思いますがねえ。勘九郎は、もっとそこを生かすべきではないでしょうか。

仁からすれば勘九郎のものと思える長吉に関してはいささか期待外れな出来でしたが、今回は与五郎の方が意外と良いと感じました。もちろん上方和事にはなっていない(これは致し方ない)けれども、意外と身体の柔らかさが出ていて、これならば木更津海岸の羽織落としの与三郎ならば出来そうな感じではありました。しかし、茶屋主人とのやり取りで・台詞を言って自分でエヘッと今にも吹き出しそうなのはイケマセンねえ。これでは串田歌舞伎のノリです。上方和事では、滑稽とシリアスは裏表一体です。客を笑わせるために滑稽があるのではありません。そこに与五郎の真摯さ・一途さが表出されなければなりません。(十八代目は一度しかやらなかったようですが、十七代目勘三郎が得意にした)「廓文章」の伊左衛門を、もし勘九郎がやる機会があるならば、そこのとこは必須なのですから心して欲しいと思います。(別稿「和事芸の起源」を参照ください。)

白鸚の濡髪は出て来た姿は立派で申し分ありませんが、おそらく相撲取りの柄の大きさを出そうとする意図でしょうが、台詞廻しがもっさりし過ぎていて・発声が明瞭でなく聞き取りにくい。そのため濡髪の大きさが空虚なものになっていました。そこに改善の余地があります。そういうわけで、今回の「角力場」は、脚本演出も含めて、総体として満足というレベルにいまひとつ到らなかったのは、残念なことでした。

(R2・11・3)


〇令和2年10月歌舞伎座:「双蝶々曲輪日記・角力場」・その1

先月(9月)の「引窓」でも感じたことですが、近頃丸本世話物の生活臭がどんどん消えて無色無臭になっている感じがしますねえ。「六段目」や「鮓屋」などは頻繁に上演されて・こちらも感覚が慣れていますし、時代物のなかの世話場ですから・まあこれでも我慢できるところがありますが、純世話物になるともういけません。しかし、考えてみると丸本純世話物で比較的上演されるのは「引窓」か「夏祭」・「封印切」くらいのもので、最近は「野崎村」さえあまり出ません。「堀川」や「帯屋」は久しく見たことがない。昔はまあまあ出たものですが、近松の世話物も最近はあまり出ません。これで歌舞伎は良いのだろうか。ツマラン新作をやるくらいならば、こちらをやって欲しいと思うのですがね。

丸本世話物の生活臭が消えて行くというのは、吉之助が関西出身だからイントネーションが気になるということはもちろんありますが、東京の役者がやるのだから・そこは目を瞑(つぶ)ることにします。百歩譲って江戸世話物みたいになっても良いから、生きた人間の息吹きを感じさせてもらいたいのです。何だか演技が硬くぎこちない感じがしますね。これは先月の菊之助もそうでしたが、今月の勘九郎もそんな感じです。これは普段丸本世話物をやりつけていないせいですが、脚本や芝居全体が醸し出す雰囲気作りも大きく影響しています。

例えば今回の「角力場」は、コロナ下の特殊事情で、上演時間を1時間内に収める・出勤人数は制限・身を寄せ合っての演技を回避という自主ルールがあることは承知していますが、冒頭部がカットされているから角力場前の雰囲気がまるで無し、「長吉勝った、長吉勝った」で相撲見物が小屋からずらずら飛び出す場面もカット、与五郎と茶屋主人との花道上のじゃれ合いもカットになるなど、これだけ脚本をぶった切って、これで上演時間45分というのでは、もう「角力場」の魅力は半減と言っても良いです。「角力場」の魅力は、「場」が持つ雰囲気です。これではいくら主役級が頑張っても、どうしようもありません。コロナ仕様の脚本の問題は、歌舞伎座が8月に再開して以後の他の演目にも多かれ少なかれあることですが、今回の「角力場」ではちょっと目に余ります。観客は正直なもので、このやり方じゃあ料金に見合わずコスパが悪いということで、客足も良くありません。

コロナ下でこの方法でしか上演が出来ないと云うのならば、いっそのこと「角力場」は取り上げない方が良いです。過去の、例えば戦時中や占領下の検閲で脚本がカット修正されて、それ以後脚本がそのまま踏襲されている事例は、細かいところで沢山あるそうです。これが当たり前だの感覚になって歌舞伎の感触がだんだん変ってしまいます。今回の「角力場」も、これで通用したから以後もこの脚本で行くなんてことにならないようにお願いしたいと思いますね。(この稿つづく)

(R2・10・24)


〇令和2年10月歌舞伎座:「梶原平三誉石切」・その3

梶原・大庭・俣野の三人は、かつては源氏方であり、不本意ながら今は平家に仕える身です。そんな彼らが、頼朝が平家追討に決起の報を聞いて、心穏やかで居られるはずがありません。だから鶴ヶ岡八幡宮の参詣において、彼らはいつもと変わらぬ態を見せながら、実は互いに肚の内を探り合っているのです。俣野がやたら梶原に突っかかって行く理由も、そんなところにあります。結果として、大庭・俣野は「名を惜しみ」あちらに付き・こちらに付きということはしないと決めて平家に留まりました。梶原は源氏方に寝返ったわけですが、決して他人に本心を明かせません。しかし、表面を取り繕っている梶原も、思わず生(なま)の感情を垣間見せてしまう場面があります。それが前章に挙げた三つの台詞なのです。

仁左衛門の梶原は、颯爽たる生締めの風情において並ぶ者がいません。声良し・台詞良し・姿良し、決めるところはかっきりリズムに決まり、間然とするところがありません。そのことを認めたうえで申し上げますが、仁左衛門の梶原の台詞は、どこもかしこもノリ地みたいに聞こえますねえ。イヤ流れるように見事な台詞廻しです。その歌う台詞廻しは、表面を装って本心を明かさぬ梶原には、確かに相応しい。しかし、取り繕った心の殻を破るように、梶原の源氏への忠誠心が、思わず迸(ほとばし)る、そう云う瞬間があるはずです。その時、梶原は冷静では居られぬはずです。

そこに梶原の「実(じつ)」の瞬間が、聞こえねばなりません。残念ながら、台詞が全編ノリ地の如く聞こえる仁左衛門の梶原からは、そのような瞬間がよく聞こえません。そこに画竜天晴を欠きます。前章に挙げた三つの台詞を「実」の台詞として、梶原の源氏への忠誠が裂け目から熱く飛び散る瞬間を感じさせて欲しいのです。そこはノリ地で云うべき台詞ではないと思います。台詞の調子を変えて欲しいのです。全体のノリ地の流れが、そこで破綻せねばならない。つまり吉之助のささやかな不満は、仁左衛門の梶原は優美過ぎるということなのです。そのホンのちょっとしたところを改善できれば、仁左衛門の梶原を天下一品と認めて良いのですが。

(R2・10・24)


〇令和2年10月歌舞伎座:「梶原平三誉石切」・その2

歌舞伎の魅力は役者の魅力だというのは、確かにひとつの真実です。名優たちが繰り返し演じるなかで、「石切梶原」の梶原はだんだん爽やかに描かれるようになり、逆にサプライズの構造は次第に忘れ去られることになったのでしょう。

梶原は今は平家に仕える武士ですが、かつては源氏方であり、現在平家に仕えることの不本意(負い目)を感じ続けている人間です。平治の乱で源氏方は敗れバラバラとなり、「平家にあらずんば人にあらず」と云われた時代においては、生きるためにやむを得ず平家に仕えた源氏方の武士が数多くいたのです。これは梶原だけのことではなく、大庭も俣野もかつては源氏方の武士でした。(別稿「梶原景時の負い目」をご覧ください。)そのようななかで彼らは本心を隠し、場面によっては表面を取り繕って生きねばなりませんでした。こうして今では平家方の武士としてそれなりの地位を得ています。

「石切梶原」において、大庭・俣野の面前で、梶原は始終落着き払った態度を見せていますが、それは今は体制側である平家方の人間としての態度です。つまり梶原は表面を取り繕っているのです。舞台には見えませんが、今まさに頼朝が平家追討に決起し、世のなかは騒然としつつあります。元源氏方の人間ならば心穏やかで居られるはずがないのに、まるでそのことが眼中にないかのような、平和な鶴ヶ岡八幡宮の参詣の場です。このことの、時勢と舞台面のギャップをここで感じてください。実はこの時勢下にあってこの場で彼らは互いの腹を探り合っているのです。ところがその梶原が一瞬落着きをかなぐり捨て、生(なま)の感情を垣間見せる場面が少なくとも三つ見えます。

ひとつは俣野は二つ胴を試そうと立ち上がったのを梶原が鋭く制止する台詞、この台詞は長いですが、特に大事なのは、最後の「近頃もって無礼でござろう」という箇所です。ここでの梶原は必死です。ここで俣野に二つ胴を試させたら六郎太夫は死んでしまいます。六郎太夫を救うために、何としても自分が二つ胴をやらねばならぬのです。何故梶原は六郎太夫を救おうとするのか?それは刀の目利きの時に六郎太夫が源氏に由縁の者だと知ったからです。

二つめは、大庭・俣野が立ち去る際に刀を鈍物(なまくらもの)とあざ笑わったことを恥じて自害しようとする六郎太夫を梶原が制する台詞、これも長い台詞ですが、特にその冒頭「かほどの業物(わざもの)を切腹に穢さんとは、恐れあり恐れあり」の箇所が大事です。

三つ目は梶原が源氏(頼朝)への忠誠をはっきり吐露する台詞、これも長い台詞ですが、そのうち「佞人讒者(ねいじんざんしゃ)と指差され死後の悪名受けるとも(仁左衛門はここまでを床に取らせて・以後を梶原の台詞に取ります)いつかな厭わぬわが所存」の箇所が核心です。この台詞はカットされることが多いものですが、「梶原さまは平家方のお侍」となおも心を許さぬ六郎太夫を納得させるための大事な台詞です。

少なくとも上記三つの台詞を、梶原の「実(じつ)」の台詞として押さえておきたいと思います。(この稿つづく)

(R2・10・22)


〇令和2年10月歌舞伎座:「梶原平三誉石切」・その1

「石切梶原」は、よく舞台に掛かる人気演目です。配役バランスが良いのでプログラムに組み込みやすいこともあるでしょうが、やはり主役が演じて気持ちが良いというのが一番の理由でしょうねえ。生締めの梶原は刀を振り回してカッコいいし・情理豊かな人物に描かれており、他の時代物の主役に付き物の悲壮感をあまり感じません。そこがまたいい。というわけで長く演じられていくなかで、歌舞伎の梶原は、だんだん爽やかで・機嫌の良い役どころとして固められて来ました。もちろんそれは作品のなかにそうなる理由があって・そうなって来たわけです。

ところで吉之助は臍曲がりだからこういうことを考えるのですが、文楽・歌舞伎での梶原平三景時は、義経としばしば反目し・頼朝にこれを讒言するなど大抵腹黒い悪役として描かれて来ました。ほとんど唯一「石切梶原」においてのみ、梶原は思慮深い正義の侍として描かれます。ということは、本作での梶原は、「モドリ」の役というほど鮮やかなドンデン返しではないにしても、「あの悪人梶原がここでは意外や正義の侍なんだ」という軽いサプライズが当初の趣向としてあったに違いないのです。本作のルーツになる「三浦大助紅梅靮}(みうらだいすけこうばいたづな・享保15年・1730・大坂竹本座初演)も、観客が持つ悪人梶原のイメージを前提に書かれているのです。このことは「よしそれゆえに世に疎まれ、佞人讒者(ねいじんざんしゃ)と指差され、死後の悪名受けるとも、いつかな厭わぬわが所存」という義太夫の詞章を見れば明らかです。佞人讒者の梶原のイメージは、もちろん「平家物語」に綴られる義経との確執から来ます。ただし未来のことです。頼朝の石橋山での挙兵(治承4年・1180)直後の梶原に本来このイメージはないはずです。ところが「石切梶原」の梶原は、未来の佞人讒者のイメージを纏うのです。佞人讒者は梶原が意志的に選び取る未来であり、未来がこの「石切梶原」においても付きまとう。これが時代物の構造です。(詳しくは別稿「梶原景時の負い目」をご覧ください。)

吉之助は現行歌舞伎の「石切梶原」の梶原が爽やかに描かれることが悪いと言っているのではありません。そうなっていくのには、役者からの要請か・観客からの要請か、いずれにせよ何かしらの必然があるのです。多分そこに慰みとしての歌舞伎の本質があるのでしょう。それも大事なことです。ただし梶原をあまり爽やか一方に描かれると、ちょっと物申したくはなります。「あの悪人梶原がここでは意外や正義の侍なんだ」という軽いサプライズ・意外性が、本来この「石切梶原」の肝であるはずです。サプライズが軽いということは時代物の構造が弱いということではなく、むしろ背後に控える未来が重いのです。(これは「実盛物語」でも同じことです。)軽くてもそこが大事なところで、そこを思い出させて欲しいのです。そのためには梶原の「実(じつ)」がチラッとでも見えなければなりません。そうでないとサプライズの構造になりません。梶原の爽やかさは、ホントはそのサプライズから生まれるものだと思うのです。(この稿つづく)

(R2・10・16)


〇令和2年9月歌舞伎座:「双蝶々曲輪日記〜引窓」・その6

菊之助の初役の与兵衛は、品行方正で素直な孝行息子と云う印象が強い。これは与兵衛の性根として間違っていないし、菊之助の仁(ニン)とも云うべきで・これを基に役を作り上げて行けばいいです。しかし、「濡髪長五郎と云う者、そなたよう見知ってか」とお幸から問われて「色里で・・」と正直に答えかけて「・・イヤ参ったなァ」と口ごもるような余計な思い入れはせぬことです。自分の女房だって色里から連れて戻って来てるのじゃないか。そこはサラッと行けばよろしい。

帰宅してからの与兵衛のお早・お幸とのやりとりは、歌舞伎では本文にかなり入れ事がされています。与兵衛の台詞に世話と時代を交錯させる工夫が施され、家族の和やかな雰囲気を描写すると共に、大坂時代に遊び慣れた与兵衛の粋でさばけた人柄を表わすところですが、ここでの世話と時代の切り替えは和事が上手くないと、熟練の役者でもなかなか難しいところがあります。世話と時代の切り替えには、演技の「しなり」が必要です。世話の演技をする時に時代への要求が強くなり、時代の演技をする時には世話への要求が強くなるのです。ここでの世話と時代の切り替えは、チャンネルを切り替えるようにカチャカチャと行くわけではない。大蔵卿の正気と阿呆の切り替えとは違います。菊之助にはこの芸の「しなり」がまだ足りません。本稿冒頭で「頭脳プレイだけでは追っつかない」と書いたのは、そこのところです。

したがってここを世話と時代の振幅をあまり付けずサラッと行く菊之助のやり方も、始めのうちはそう悪くないように感じますが、ここまでで世話と時代の交錯のリズムが付かないから、与兵衛の一番の聞かせ所とされている「両腰差せば十次兵衛」を時代に重く・「丸腰なれば今までのとほりの与兵衛」で急に世話に砕ける箇所が、わざとらしく・臭い演技に感じられて、この場面だけが浮いて見えます。歌舞伎の入れ事もやはりそれなりの意図があって段取り付けているのだと云う当たり前のことが、菊之助の与兵衛を見ると良く分かります。「河内ヘ越ゆる抜道は、狐川を左に取り、右へ渡って山越えに」の台詞も、時代に張り過ぎて大仰な感じがします。これは時代というよりも「実(じつ)」の台詞だと思いますねえ。まあ今後に向けてそういう課題はあるにもせよ、菊之助の真摯な与兵衛は「引窓」後半で生きて来るようです。

吉右衛門の濡髪は期待しましたが、柔い印象で意外と生彩がありません。どうやら母親の情・与兵衛の情の板挟みとなって苦しむ濡髪という解釈のようで、それで人物が小さくなっています。しかし、濡髪という役には、関取らしいどっしりした重さと強さが欲しいのです。濡髪は実母に会った後に自首して縄に掛かるという覚悟が当初からあるわけで、「捕縛」の覚悟については一貫して揺るぐところがありません。揺るがぬ覚悟のうえで世間的な義理の論理を一貫して主張するのが、濡髪なのです。

雀右衛門のお早・東蔵のお幸は一応の出来ですが、前半で「欠碗で一杯ぎり。ついたべて帰りましょ」と濡髪が云って二階にあがる時、二人は濡髪の言に何か不吉なものを感じ取るという思い入れが欲しい。この伏線が効かないから、二人が後で与兵衛と二人侍との会話を盗み聞きすることの段取りが付きません。まあ確かに歌舞伎の「引窓」は入れ事が多くて具合が良くないところが確かにあるのだが、お月さまに急に厚い雲がかかるように、幸せに見えた家族に急に不安の影が差し始める瞬間、ここが「引窓」のドラマの序の要(かなめ)であると心得て欲しいですね。

(R2・10・10)


〇令和2年9月歌舞伎座:「双蝶々曲輪日記〜引窓」・その5

以上の通り「引窓」での与兵衛の人情とは、濡髪を捕縛することで母お幸に悲しい思いをさせたくないということに尽きます。逆に濡髪を逃がせば、与兵衛は郷代官としての職務にもとることとなり・それは父から受け継いだ南方十次兵衛としてのアイデンティティを裏切ることになる、これが与兵衛の義理です。どちらも与兵衛の倫理感覚のなかから出ます。どちらを選択してもそれは人として正しい選択なのですが、互いに背反するものだから、容易に選択が出来ません。

それで与兵衛の感情は義理と人情の狭間を揺れ動くわけですが、この隘路を抜け出て・ひとつの選択を行なうためには、「エイヤッ」という思い切りが必要になります。この思い切りは重いこともあれば、軽いこともあります。時代物の場合は、主人公が命を投げ出して自ら決着を付けることが多い。世話物ではそれは軽い感触になることが多いのですが、思い切りが軽いから無責任だということにはなりません。これはむしろ逆でしょう。「この思い切りを軽い」と思い込むところに、与兵衛が感じている選択の重さを読むべきでしょう。「これは軽い選択なんだ、その程度のことだ」と思い込むことで、与兵衛はこの選択の重さから逃がれようとしているのです。そこに与兵衛の苦しみを見るべきです。

「女房どももう何時」 「されば夜中にもなりましょか」 「たわけ者めが。七つ半は最前聞いた。時刻が延びると役目が上がる。縄先知れぬ窓の引縄、三尺残して切るが古例。目分量にこれから」とすらりと抜いて縛り縄、ずっかり切ればぐゎら/\/\。さし込む月に「南無三宝夜が明けた。身どもが役は夜のうちばかり。明くればすなはち放生会。生けるを放す所の法。恩にきずとも勝手においきやれ」(「引窓」床本)

時刻が真夜中(九つ=午後12時)であるのを、与兵衛はもう明け6つ(午前6時)だと決め付けます。夜が明ければ自分の仕事は終了だ。これは与兵衛が嘘の理屈で無理やり言いくるめたのではありません。その証拠には、引窓から差し込む光で、室内が早朝のように明るいではありませんか。だから与兵衛は確かに真実を語っているのです。多分、お月さまも与兵衛の選択を祝福しています。これが放生会の慈悲の心だ、与兵衛はそう感じているはずです。

引窓のドアが開閉し、それにつれて室内が明るくなったり・暗くなったりします。ただし実際に舞台の光量は変わりませんから・そこは観客が汲み取らねばなりませんが、実はこれは「二極を揺れ動く」という感覚によって、「引窓」の与兵衛の心の「揺れ動き」を象徴するものです。ただし引窓の開閉は、最初のうちはただ与兵衛の感情をかき乱すだけの働きしかしません。最後の最後に、引窓の開放が、与兵衛の感情と一致します。月の明るさを知る人だけが、「引窓」のドラマを理解することが出来ます。(この稿つづく)

(R2・10・8)


〇令和2年9月歌舞伎座:「双蝶々曲輪日記〜引窓」・その4

「引窓」終わり近く、お幸が濡髪の前髪を剃り落とし、与兵衛の投げた銀の包みでホクロも消された、サアこれで濡髪は逃げるのかと思いきや、濡髪はまたもや「自分は与兵衛に捕えられるべきだ」と話を蒸し返します。「さうのうてはこなた(母者人)、未来の十次兵衛(あの世にある先代十次兵衛・つまりお幸の亡き夫・与兵衛の父)に(義理が)立つまいがな」と諭されて、お幸はハッとして次のように言います。

「長五郎。よう云ふてくれたな。アいかさま思へば私は大きな義理知らず、まことを云はゞわが子を捨てゝも、継子に手柄さするが人間。畜生の皮被り、猫が子を銜へ歩くやうに、隠し逃げうとしたはなにごと。とても遁れぬ天の網一世の縁の縛り縄。」(「引窓」床本)

「罪を犯した実子(濡髪)をかばうのは、猫が子を咥え歩くように、盲目的な母親の情に負けた畜生がすることだ、義理をわきまえた真(まこと)の人間がすることでない。私は何と義理知らずの愚か者だったんだ」というわけです。まあ確かにそういう理屈もあるでしょう。しかし、ここでお幸がどういう気持ちでこの台詞を言っているのかを、よく考えてみて欲しいと思います。お幸は濡髪の言に理性では納得しています。しかし、そこは人間ですから、内心から湧き出る母親としての感情には抗し難い。だからお幸は上掲の台詞を言いながら必死で自分を得心させようとしています。「そうじゃないんだ、息子を逃がそうなんて愚かなことを考えてはいけないんだ」と思い込むことで、母親の情を打ち消そうとしているのです。それがここでのお幸の気持ちです。

ここで吉之助が問題提起したいのは、罪を犯した我が子をかばうのは盲目的な母親の情に負けた浅ましい畜生の行為であると、ホントにそのように丸本作者が考えているのか?ということです。結論から先に申し上げれば、そんなことは絶対にありません。時に道理を見失って取り乱すことがあったとしても、それも含めてこれが母親の真実の情愛の有様なのです。それは真に有難い美しいものであるとしているのです。このように丸本作者が考えている証拠を挙げておきます。例えば「千本桜」の源九郎狐がこう言います。

「ヤイ畜生よ野良狐と人間では仰れども。鳩の子は親鳥より枝を下がつて礼儀を述ぶ、烏は親の養ひを育み返すも皆孝行。鳥でさへその通り、まして人の詞に通じ人の情も知る狐、なんぼ愚痴無智の畜生でも、孝行といふ事を知らいでなんと致しませふ。」(「義経千本桜・川連法眼館」床本)

鳥でさえ親は子を慈しみ・子は親を敬う、これが肉親の情と云うものです。鳥でさえ、狐も知っていることです。ましてや人間ともあろう者が、母親の情を本能から出た・愚かな畜生の情だとこれを切り捨てて良いはずがありません。これこそ真の人間の美しい感情です。だからこそ源九郎狐の台詞を聞いて義経も静御前も涙するのでしょう。もうひとつ「忠臣蔵・九段目」の戸無瀬の台詞を挙げておきましょう。戸無瀬が小浪を斬ろうとした時、どこからか虚無僧の尺八が聞こえて来ます。曲名は「鶴の巣籠り」と云います。松の木に巣を作った鶴の夫婦はヒナをかえすために雄雌交代で卵を温めると云う。そのような仲睦まじい夫婦を愛でるのが「鶴の巣ごもり」です。

 「コレ小浪。アレあれを聞きや、表に虚無僧の尺八、鶴の巣籠り。鳥類でさへ子を思ふに、科もない子を手にかけるは、因果と因果の寄合ひ」(「仮名手本忠臣蔵・九段目」床本)

このように鳥類でさへ子のことを思うのに、我が子のことを思わない親があろうかと、戸無瀬は云うのです。「鶴の巣籠り」を奏でる虚無僧の正体は、本蔵でした。本蔵もこう言っています。

「義にならでは捨てぬ命。子故に捨つる親心。コレ/\推量あれ由良助殿」(「仮名手本忠臣蔵・九段目」床本)

「忠義のために命を捨てるべきこの本蔵が、恥ずかしながら娘のために命を捨てる、この親の気持ちを分かってくだされ、由良助殿」というのです。「双蝶々曲輪日記」は寛延2年(1749)、つまり「千本桜」の2年後・「忠臣蔵」の翌年に、同じ合作者(二代目竹田出雲・三好松洛・並木千柳)によって書かれたのです。「引窓」でも、まったく同じことです。濡髪手配の絵姿を売ってくれとお幸に云われた与兵衛は、或る事をハタと思い出してこう言います。

「母者人二十年以前に御実子を、大坂へ養子に遣はされたと聞いたが、なんとその御子息は今に堅固でござるかな。(中略)鳥の粟を拾ふやうに溜め置かれたその銀。仏へ上げる布施物を費しても、この絵姿がお買ひなされたいか」(「引窓」床本)

ここでの与兵衛の台詞は、歌舞伎では「母者人、あなた何故ものをお隠しなされまする、私はあなたの子でござりまするぞ」なんて入れ事がされるので、まるで与兵衛が老母を責め立てるように見えかねません。おかげでこの場面での与兵衛の気持ちを「実子のアイツがそれほど大事か・継子のオレを愛してないのか」と誤解する方が出て来ます。しかし、丸本を正しく読むならば、様相が全然異なることが分かるはずです。お幸にとって、人殺しの罪人であろうが長五郎は私の子、出世した継子の与兵衛も等しく私の子です。ふたりの息子に分け隔てはありません。別稿「与兵衛と長五郎・運の良いのと悪いのと」をご覧ください。)

義理の申し訳なさでガチガチになっている継母の気持ちを解きほぐすように、与兵衛がお幸に優しく語り掛けるのが、上掲の台詞なのです。与兵衛は母親の愛とはこういうものかと深く感動しています。これは「継母さん(お幸)はこれまで継子のボク(与兵衛)を大事に育ててくれた。そんな優しいお母さんだもの、実子に対する気持ちはどれほどに深いものか、ボクには想像が付かなかった。自分は本当のお母さんを早くに失って・実の母の愛を知らずに育って来たが、子供を思う母の愛というものはこんなにも深いものなのだ。それなのに継母さんは継子のボクにも変わらぬ愛を注いでくれた。有難いことだ。実に有難いことだ」ということなのです。(この稿つづく)

(R2・10・6)


〇令和2年9月歌舞伎座:「双蝶々曲輪日記〜引窓」・その3

与兵衛の人情とは何かを考える前に、検討しておかねばならないことが、いくつかあります。例えば「放生会」(ほうじょうえ)のことです。放生会とは、仏教の五戒のひとつである・生き物を故意に殺してはならないという「殺生戒」(せっしょうかい)の思想に基づいて行われる宗教行事です。捕獲した魚や鳥獣を慈悲の心を以て再び野に放ち、殺生を戒めました。日本では神仏習合により神道にも古くから取り入れられ、もう1000年以上の長い歴史があるものです。昔は旧暦8月15日に行われたもので、京都府八幡市の石清水八幡宮の放生会がよく知られています。

「引窓」はこの石清水八幡宮の放生会を背景にしています。場所はまさに八幡の里、時も夜が明ければ明日は放生会のお祭りだと云う前日の・8月14日の夜に設定されています。今まさに捕縛されんとする濡髪を与兵衛が再び野に放つドラマが、放生会の思想と重ねられていることは、誰の目にも明らかです。ですから与兵衛の行為は、放生会の慈悲の心で以て行われるものです。「引窓」の幕切れを参照しておきます。

「女房どももう何時」 「されば夜中にもなりましょか」 「たわけ者めが。七つ半は最前聞いた。時刻が延びると役目が上がる。縄先知れぬ窓の引縄、三尺残して切るが古例。目分量にこれから」とすらりと抜いて縛り縄、ずっかり切ればぐゎら/\/\。さし込む月に「南無三宝夜が明けた。身どもが役は夜のうちばかり。明くればすなはち放生会。生けるを放す所の法。恩にきずとも勝手においきやれ」(「引窓」床本)

時刻は真夜中(九つ=午後12時)、これは14日目の月(明日の夜は中秋の名月ですから・ほとんど満月に近い)が最も高いところにある時刻です。それを与兵衛は「七つ半(午前5時)だと最前聞いた」と言い張ります。与兵衛の理屈では、現在はもうすぐ明け6つ(午前6時・つまり夜明け)になります。与兵衛は引窓の綱を切る、引窓がガラガラと開く、すると最も高いところに位置する・つまり最も明るい月の光が差し込んで室内がパッと明るくなる、「・・・南無三宝夜が明けた」。この瞬間、放生会の慈悲の心が、与兵衛の気持ちとぴったりと一致するのです。月の光の「明るさ」が、このことをはっきりと教えてくれます。実際には「引窓」の舞台の明るさは全然変わりませんが、江戸期の観客にはこの明るさが見えたはずです。舞台が一瞬明るくなったように感じたでしょう。芝居を心で見るならば、必ずそうなるはずです。

『世界がまだ若く、5世紀ほども前の頃には、人生の出来事は今よりももっとくっきりとした形を見せていた。悲しみと喜びの間の、幸と不幸の間のへだたりは、私達の場合よりも大きかったようだ。すべて、人の体験には、喜び悲しむ子供の心に今なおうかがえる、あの直接性・絶対性がまだ失われていなかった。(中略)夏と冬との対照は、私達の経験からはとても考えられないほど強烈だったが、光と闇、静けさと騒がしさとの対照も、またそうだったのである。現在、都市に住む人々は真の暗闇・真の静寂を知らない。ただひとつまたたく灯、遠い一瞬の叫び声がどんなものかを知らない。』(ヨハン・ホンジンガ:「中世の秋」)

電燈やLEDの明るさに慣れてしまった現代の我々は、もはや月の光の「明るさ」を感じ取ることが出来なくなってしまいました。しかし想像力さえあれば、江戸の昔の観客の気持ちに寄り添うことが出来るのです。芝居を心で見るならば、それが可能です。それが出来れば、濡髪を逃す与兵衛の行為が継母への義理なんぞで行なわれるものではなく、与兵衛の慈悲の心で行われることがはっきりと分かるはずです。

もうひとつ考えて欲しいのは、「慈悲の心」とは何かということですねえ。慈悲は英語であると、多分「mercy」と訳されるでしょう。憐れみ、憐憫、慈しみという意味合いですが、これを主体が上位にあって憐れみを下に垂れるような感じに受け取ると、仏教の慈悲とニュアンスが全然違ってしまいます。仏教の教えでは、一切の生命は平等である。他者の苦しみと同化し・自らもその苦しみを供にする時、他者に対する最も深い理解・慈悲の心が生じるとするのです。したがって与兵衛が濡髪の手を取り「さらばさらば」と言い合う時、濡髪だけが解き放たれているのではないのです。与兵衛もまた何かの苦しみから解き放たれたがっているのです。恐らくここで与兵衛の心のなかに、(先に全然伏線として利いていないようだと書いた)あの「殺し徳」がさりげなく、実にさりげなくリフレインされて来るに違いありません。(この稿つづく)

(R2・10・5)


〇令和2年9月歌舞伎座:「双蝶々曲輪日記〜引窓」・その2

世話物のドラマの面白さは、主人公の義理と人情の揺れ動きにあります。それでは「引窓」における与兵衛の義理とは何か、人情とは何なのか、そこを正しく見極めなければ「引窓」のドラマを読み間違えることになりますね。

与兵衛は郷代官(南方十次兵衛)に取り立てられたことが誇らしくて嬉しくて、それを女房にも母にも喜んでもらいたいと、心の底から思っている素直な孝行息子です。郷代官になりたての与兵衛に、お殿様から早速依頼が舞い込みます。それが濡髪捕縛の仕事であったのです。初めての任務で功を挙げようと張り切る与兵衛ですが、後で気が付くことですが、濡髪は継母お幸の実子であったのです。それで与兵衛は思い悩んだ末、任務を諦めて・濡髪を逃がしてやると云うわけです。以上の経緯で、与兵衛の義理とは何で・人情とは何でありましょうか。与兵衛は次のように言っています。

『「日のうちはあの方(平岡・三原両名)より詮議せん。夜に入ってはこの方(十次兵衛)より隅々まで詮議しなにとぞ搦め捕って渡せ、国の誉」とあっての(殿様から十次兵衛へ直々の)お頼み。イヤモ一生の外分。(濡髪を)召し捕って手柄の程をみせたらば、母人にもさぞお悦び』

濡髪捕縛の功を挙げれば、殿様は「国の誉」と喜んでくれる・母者人もよくやったと喜んでくれるはずだと言っています。「最初の任務で功を挙げてみんなに喜んでもらいたい」というのは、与兵衛の素直な気持ちでしょう。しかし、濡髪が継母お幸の実子であることに思い至った時から、この気持ちは「濡髪を捕縛せねばならない・これは郷代官としての職務である・これを疎かにすることは先代から受け継いだ十次兵衛としての本分を裏切ることである」という義理の論理となって与兵衛を強く縛り付けることになるのです。しかし、この義理の論理がどのような様相で与兵衛を縛るのかが、ここで問題になって来ます。

まずここで考えなければならぬことは、濡髪を逃がしたことを与兵衛一家が周囲に黙ってさえいれば、誰にも分かることではないということです。与兵衛が「夜中一生懸命探索しましたが、濡髪を見つけることが出来ませんでした」と報告すれば、殿様は「左様か、残念なことであった」とは仰せになるでしょうが、それで済んでしまう問題なのです。バレなければ与兵衛が責められることはありません。それでは与兵衛は何をそんなに悩み苦しむのかと云うと、下手人を逃すことは郷代官としての職分を裏切ることになるから・自分で自分が許せないということに尽きます。職務に全力を尽くすところに十次兵衛のアイデンティティが掛かっている、アイデンティティを裏切ることは自己否定だからです。義理の縛りは与兵衛の外から来るものではなく、縛りは与兵衛の心の内にあるのです。

それと、もうひとつ考えねばならぬことがあります。「黙ってさえいれば誰にも分かることではない」と先に書きましたが、そんなトンデモナイ理屈があるかと驚く方がいるかも知れませんけど、これは「引窓」ではまさしくそうで、実際与兵衛には隠している罪が別にあるからです。それは女房お早が言っている「殺し徳」のことです。三冊目「新町揚屋」で与兵衛が佐渡七を殺してしまい・その罪を権九郎になすりつけて・現在自分は知らぬふりをしているということです。(詳しくは別稿「与兵衛と長五郎・運の良いのと悪いのと」をご覧ください。)濡髪がボソッと呟いた通り「同じ人を殺しても、運の良いの(与兵衛)と悪いの(濡髪)と・・」という対称関係が、ここで現われます。与兵衛だけが、この対称関係の重い意味を痛切に感じ取っているに違いありません。

「殺し徳」の伏線は、「引窓」だけを見取りで見る分には、まったく利いていないように見えます。しかし、もしこの伏線がなければ、与兵衛は濡髪を「情けで逃してやる」というところで濡髪に対し上から目線になってしまいます。これでは与兵衛と濡髪とが、正しい対称関係になりません。とするならば「明くればすなはち放生会。生けるを放す所の法」という与兵衛の幕切れの台詞は、濡髪に対してだけ言われたものではないかも知れません。職分に対する義理の縛りが心の内に強くあるからこそ、与兵衛の決断は一層苦渋に満ちたものになるのかも知れませんねえ。(この稿つづく)

(R2・10・4)


〇令和2年9月歌舞伎座:「双蝶々曲輪日記〜引窓」・その1

例年であれば歌舞伎座9月興行は、秀山祭と云うことで、初代吉右衛門所縁の演目が多く並びますが、本年はコロナ・ウイルス蔓延による数か月の休場から再開2か月目で興行形態がまだ元に戻っていないため変則的な4部制になっており、その第3部に「引窓」が出ました。今回は菊之助初役による南与兵衛が注目です。菊之助は岳父・吉右衛門の教えを受けて播磨屋型を学び、吉右衛門が濡髪長五郎に回ります。

このところ菊之助は義太夫狂言の大役の数々を初役で勤めて、それなりの成果を挙げてきました。感心することは、押さえるべきところをしっかり押さえて、初役でもこのくらいは出来て欲しいなと思うレベルには、きっちり仕上げて来るところです。要するに芸の筋目が良いということです。だから安心して舞台を見ていられます。もちろん将来へ向けての課題は、まだいろいろあります。丸本時代物では主人公の心情の根拠が、忠義とか名誉とか、行動論理が割合明確であるので、性根の把握が比較的容易です。だから解釈は役者によってそれぞれですが、そう大きな相違があるわけではない。しかし、「引窓」のような丸本世話物では、当時の庶民の生活感覚に深く根差しますから、より細やかな人情表現が必要です。そこでは役者の人間性が役に大きく影響します。些細な違いが、世話物の役の味わいの差になって現れます。だから世話物の役どころは、多分に役者の味がするものです。

菊之助は本年3月国立小劇場での、時代物の「千本桜」三役の標準問題からもう少し踏み込んで、世話物の「引窓」で応用問題に挑戦ということですが、「よく頑張っている」ことは認めたうえで申し上げますが、ちょっと気になるところがあります。このくらいの役の難易度になると、役の性根を正しく掴むという頭脳プレイだけでは追っつかないということです。何と言いますかねえ、自分の人間性を以て、もっと役に同化していかねばなりません。或る意味では役を自分の方へ強く引き寄せることが必要になります。そのためにはもっと人生経験を積まねばならぬということなのでしょうね。「千本桜」の三役のなかでは世話物のいがみの権太の出来がいまひとつであったのも、つまるところは同じ理由から来ます。

菊之助の初役の与兵衛は、品行方正で爽やかな印象が強い。郷代官に取り立てられたことが誇らしくて嬉しくて、それを女房にも母にも喜んでもらいたいと、心の底から思っている素直な孝行息子なのです。但し書きを付けておくと、それは与兵衛の性根として間違っていません。与兵衛の性根の根本のところは、もちろんそこにあるのです。またこれは、菊之助の役者の仁(ニン)からしても、まったく叶ったところです。だから与兵衛の性根の把握には、まったく問題はありません。菊之助は確かによく頑張っています。けれども菊之助の与兵衛は、「人情の機微」の表出というところで物足りない。与兵衛の陰影の表出が物足りないのです。それは役の解釈からではなく、役者の味から出るものなのです。そこが今後の菊之助の課題になるでしょう。

時代物においては、例えば「熊谷陣屋」では、熊谷直実が主筋の身替わりとして最も大事な息子小次郎を殺します。「主筋のために何もかも犠牲にして忠義を尽くすのが武士の勤めである」とするのが、忠義の武士の論理です。もうひとつ、傍に「最愛の息子を殺すのは親としては出来ない」という人情の論理があります。これら忠義と人情の、ふたつの論理の狭間で揺れるのが時代物のドラマであるわけですが、ここでの忠義は、私(自己)に向かって襲い掛かって来る論理です。それは圧倒的な存在で、個人には抗しようがないほど重いものです。だから私(自己)から見た場合、忠義を「他者」の論理、自己と対立する論理であると見なすことが出来ます。まあこれは多少の無理が生じることもありますが、大抵の場合、時代物のドラマをこのように解釈して的を大きく外すことはありません。

一方、世話物の場合も、義理と人情の揺れ動きでドラマを読むのはもちろんです。しかし、世話物での他者と自己の対立関係は、時代物ほどに明瞭かつ強固なものではないことに注意せねばなりません。世話物での義理の論理は、真綿で首を絞めるような緩慢な感覚で個人を責めます。義理と人情が、どちらも自分のなかに共存して両者を別つことが難しいから、そうなるのです。

例として「新口村」の孫右衛門を挙げておきます。孫右衛門は罪を犯して逃げて来た実の息子(忠兵衛)に一目会いたい。これが孫右衛門の実の親としての人情です。ところが忠兵衛を養子に出した先の養い親が連座して牢に入れられています。養い親の災難を思えば、忠兵衛に会って親としての情に浸っているわけには行きません。だから孫右衛門は息子に会おうとしません。これが孫右衛門の義理です。そこで梅川の配慮で、これならば養い親への義理も立つでしょうということで、結局、孫右衛門は目隠しされて忠兵衛に会うわけです。この後梅川が目隠しを取っちゃうので、親子は抱き合って泣きますが、人里離れた田舎の一軒家で・誰も見てもいないのに、そんなわざとらしい・作為的なことをしなくても、最初から大っぴらに息子と抱き合って泣けば良いじゃないか、誰にも知れることじゃないと思うのは、現代人の考えです。縛りは自分のなかにあるのです。息子への愛を思えば思うほど、孫右衛門のなかで養い親に対する申し訳なさが募る。養い親に対して申し訳なく・息子のことを思い切ろうとすれば、息子への愛がまた募る。孫右衛門の身体のなかに義理と人情の論理が強く共存するから、このようなドラマになるのです。これが当時の大坂町人の倫理感覚でした。つまり世話物においては、義理と人情は背反しますが、必ずしも真向対立しているわけではない。どちらも彼の人間としての誠実さから発するもので、表裏一体で別ち難いものです。以上のことを踏まえて、「引窓」における与兵衛の義理とは何か、人情とは何かを考える必要があります。(この稿つづく)

(R2・10・1)


〇コロナ以後の生活・その8

今年・令和2年(2020)も残すところあと3ヶ月ほどになりました。新型コロナウイルス蔓延のため、今年は、年頭にまったく想像も出来なかった様相になってしまいました。長い自粛生活で、人によって・或いは世代・ご職業によってもご感想はずいぶん異なると思いますが、吉之助の場合には、何年後かに振り返って見た時、恐らく令和2年は真っ白く空白にぽっかり抜けて見えるだろうという気がしますねえ。事実手帳のスケジュール表をみても真っ白なわけなのだが、令和2年は実に奇妙で理不尽な年だったということで終わりそうです。来たる冬季のコロナ感染もどうなるか不安な要素が多いので、これからも油断せずコロナの脅威がいつでもそこにあるということを意識して三密回避で生活して行きたいものです。

話を歌舞伎に戻しますが、いわゆる人間国宝クラスのベテラン役者さんたちにとっては・これからの残りの人生・一日一日が大切なわけで、これだけ長い自粛生活が続くと、貴重な残り時間がむしり取られる気分で、ホント精神的にキツかろうとお察しいたします。吉之助の場合はまだそれほどの歳でもないわけですが、それでもこの数か月については同じような感覚を持ちました。先日の吉右衛門さんのオンラインの舞台「須磨浦」では、吉右衛門さんの舞台に掛ける意地を見せつけられて頭が下がる思いがしました。この時期に上演される舞台がどんなものでも「憤(いきどお)り」を孕んでなくてはならぬと云うわけではありません。いつもの舞台をいつも通りに淡々と勤めてみせるということもまた「憤り」のひとつの形ではあるわけで、いろんな形を取るものです。ただ吉之助としては、芝居を見ることがsomething special(何かしら特別なもの)であることを、この機会に再認識させてくれる舞台であって欲しいと思います。そういう様相は、やはりベテラン役者の舞台の方が色濃く出るものであろうと云う気はします。そういう切迫感が吉右衛門さんの「須磨浦」にはありました。(若手の舞台がそうでないと言っているわけではないので、そこは誤解しないでいただきたい。しかし、まあそういう意味では、若手の舞台の方が心安く見られますねえ。)

そんなことを考えながら、今月(9月)歌舞伎座の、玉三郎さんの第4部「映像X舞踊 特別公演」を見たわけです。正直申しあげると、玉三郎の「鷺娘」は現在は止め狂言になっていますが・吉之助は往時何度か見たし、映像主体で・部分的に玉三郎さんが生(なま)で踊るという企画が中途半端に思えて今回はパスするかとも考えました。ところが実際見てみると、この特異なコロナ状況下に玉三郎さんが歌舞伎座でお客様をおもてなしすると云う心遣いが随所に感じられて、それがsomething specialな感覚を醸し出していて、興味深く見させてもらいました。「憤り」が玉三郎さんらしい真摯な形を取って出ていたと思います。佇まいは静かであるけれども、ちょっとピリピリした感覚がある。そこが玉三郎さんらしいところで。映像X舞踊のコラボですが、演目全体の流れのなかで落差が極力露わにならない工夫がされていたので、心配したほど気になりませんでした。吉之助の見た日(千秋楽)の観客は多分かなり興奮していたと思います。掛け声が禁止されていなければ掛け声も凄かったに違いありませんが、ただ拍手だけ御行儀良く鳴り続けていたこともsomething specialな雰囲気を醸し出していました。最後の5回目のカーテンコールで花道七三辺りまで来た時やっと緊張がほぐれたか玉三郎さんが笑顔になったので、客席がどっと沸きました。吉之助は歌舞伎のカーテンコールは好きではないのですが、玉三郎さんの場合は何だか似合います。

(R2・9・28)


〇コロナ以後の生活・その7

新型コロナウイルス蔓延のため歌舞伎興行も苦しい対応を強いられるなか、幸四郎・猿之助を中心としたオンライン配信の図夢(Zoom)歌舞伎など無観客公演の試みもいくつか始まりました。しかし、こういう試みはIT分野に抵抗感が少ない若い世代ならではのことで、コロナ感染で重症化のリスクが高いとされる高齢ベテラン役者はさぞかし歯がゆい思いであろうが、いましばらくはじっと我慢の時だと思っていました。そんなところに、吉右衛門が無観客の一人芝居の映像をオンライン配信するというニュースを聞いた時には、吉之助もちょっとビックリしました。吉右衛門さん意外とそういう方面にお強いのかも知れませんが、それよりむしろ吉之助は、コロナに一切の表現行為を封じられたこの理不尽な状況に対して、一個人として精一杯抗ってやるという吉右衛門の意地を見せつけられた気がしました。能舞台で(歌舞伎座の舞台でなく)、素顔のままで(舞台化粧もせず)、袴姿で(鎧甲冑など一切着けず・刀など小道具も持たず、馬は出て来たけど)、一人芝居で勝負したと云うことは、つまりそういうことだと吉之助は理解をしました。歌舞伎役者としてと云うよりも、素の一個人としての強い思いと云うことです。その舞台「須磨浦」については、別稿の観劇随想をご覧ください。

芸能エンタテイメント関連だけでなく、いろんな職種において・あるいは個人において、「これで終わってなるものか」と云うコロナ状況に対する必死の抵抗が続いています。もちろん状況への抗し方は各人各様です。かくいう吉之助の場合もいろいろありますが、例えば毎月主催している私的な勉強会「講話会」を、先日はオンライン(Zoom)開催に切り替えました。(その6をご覧ください。)こういう勉強会は対面で和気藹々やるのが楽しいものと吉之助も思ってましたし、いま巷で流行っているオンライン飲み会というのも・それってどんなものかね?といささか懐疑的でありましたが、やってみると案外これはこれで楽しいものなんだと云うことに、いま頃になって気が付きました。もちろん対面の場合とは違った・ちょっとした工夫が必要にはなりますが。この機会にZoomのスキルをもうちょっと磨いて行けば、「歌舞伎素人講釈」にも新しい可能性が開けてくるかも知れませんねえ。

ところで吉之助は神奈川大学の市民講座で歌舞伎の講座を持っていますが、これもコロナ問題のため3月からは休止となっています。神奈川大学に限らず・全国の大学が現在はオンライン授業で対応せざるを得ない状況で、学生さんの苦境はもちろんですが、先生方のご苦労が察せられます。オンライン授業では、教室での講義とはまったく次元が異なるプレゼンテーション・スキルが求められるからです。神奈川大学の市民講座も、この秋からオンライン授業での対応がされることになりました。吉之助も打診を先日受けて、何も経験がないので・ちょっと思案をしましたが、「まずはやってみなければ何も始まらない」ということで、歌舞伎の講座を持つことに決めました。

神奈川大学のオンライン市民講座:歌舞伎の見方〜台詞のリズム 全2回講座
来年(2021)1月に開講予定
募集要項は、神奈川大学のサイトをご覧ください

対面授業であると、横浜みなとみらいの教室までご足労いただかなくてはなりませんが、横浜までは遠くて行けなかったと云う方も、今回はオンライン講座なのでお気軽にご利用いただけます。日本全国どこからでもいいわけです。また授業映像は1週間何度でも繰り返し見直せると聞いていますので、各人のご都合に合わせてご利用いただけます。これも対面授業とは異なる新しいアドバンテージです。内容詳細については現在鋭意準備中です。と云うわけで、吉之助の、初のオンラインによる歌舞伎講座、ご興味ある方は是非受講してみてください。

(R2・9・6)


〇コロナ以後の生活・その6

暑い日が続きます。実は吉之助は夏が大の苦手。気温が30度を超えると、筆がぱったり進まなくなります。ところで吉之助は毎月「講話会」という私的な勉強会を限定人数で主催しています(現在は新たな募集をおこなっていません)が、このところ外出が危険なほどの猛暑が続いているのと、東京のコロナ感染が未だ安心できる状況ではないので、身の安全確保のために、昨日(23日)の講話会は、初めてのオンライン(Zoom)開催に切り替えをしました。何せ初めての試みなので不手際も多々あったかと思いますが、やってみると老体の身でも「これは意外と使えそうだ」という手応えがあって安心しました。今回はやむを得ず使ってみたオンライン会議ですが、こういうのを尻込みしないで積極的に利用しないといけない時代になったんだなあと痛感しました。毎朝郊外から満員電車に揺られて都心のオフィスに通うようなことも、テレワーク時代の到来で次第に減って行くのでしょう。

それにしてもこの10年くらいのインターネット環境は凄い進歩を遂げたものですね。吉之助が本サイトを立ち上げたのは2001年(平成13年)1月のことでしたが、あの当時にはまだFacebook(2004年開始)もYoutube(2005年開始)もTwitter(2006年開始)もなかったのです。ネット会議は吉之助もビジネスマン時代に多少の経験はありますが、あの頃のネット会議は今回のZoom(2011年開始)みたいに快適なものではありませんでした。吉之助が20年前のネット意識に留まっているうちに、時代はどんどん先を行ってしまったようです。とは云え吉之助はFacebookもTwitterも今後もやるつもりはないですが、もう文章をシコシコ書いてサイトにアップしているばかりの時代ではない(らしい)ことは何となく分かって来ました。文章をじっくり読み込んで時間をかけて物を考えるという時代ではなくなったようです。必要な情報だけお手軽に検索してサッと入手して(出来ればタダで)ハイさよならという風潮をインターネットは現出したようです。それが良いか悪いかはまた別の問題ですが、情報の価値が相対的に低下したことは確かだと思います。書籍はますます売れなくなっています。物書きにとってはつくづく厳しい時代になりました。しかし、今がそういう時代であるならばそれなりに表現者も心してこの時代に対さねばならないと思います。

今月26日から松竹が歌舞伎の公式の舞台映像のオンデマンド配信を開始するそうです。コロナ自粛中の4月に、中止になった公演(3月歌舞伎座・国立劇場など)の舞台映像が無料でネット配信されましたが、そりゃあタダなのはファンとっては有難かったけれども、まああれは危急の処置でした。無料のネット配信は興行の相対的価値を下げるだけです。やはり映像情報に対する適切な対価をファンは払うべきであるし、興行者はファンにそれをお願いすべきです。今回の公式オンデマンド配信がビジネスとしてすぐ軌道に乗るとは思いませんが、長い目で見てベルリン・フィルのデジタル・コンサートホールのような一大アーカイヴを形成できるように頑張ってもらいたい。松竹がそこまで大局的な見地に立って事を進めてくれることを期待したいですね。これが定着してくれば歌舞伎の鑑賞スタイルも次第に変わって来るかも知れません。

(R2・8・24)


〇コロナ以後の生活・その5

7月の東京の天気はグズついてましたが、8月1日に梅雨明け宣言が出たら急に暑くなりましたね。歌舞伎役者にとって8月1日は、忘れられない日になったかも知れません。3月以来コロナ感染対策で休場(間に当初から予定されていた内部改修のための2か月休場を含む)していた歌舞伎座が、八月花形歌舞伎で、実に5か月ぶりに興行を再開しました。吉之助は昨日(3日)、第3部「吉野山」・第4部「源氏店」を見てきました。築地界隈を歩き回って・そのまま歌舞伎座に入ろうとしたら、熱波で思いのほか額の表面温度が上昇していて入り口の検温であやうく引っ掛かりそうになりました。盛夏で熱中症が心配されるなか、まず地下の木挽町広場で身体を少し冷やしてから、歌舞伎座にお入りになることをお勧めします。

このところ東京のコロナ感染者また増えて心配なことです。吉之助ももう若いわけではないし・呼吸器系に若干弱いところを抱えているのでコロナにかかれば・いちコロと覚悟しています。しかし、このようなサイトを主催しているからには、歌舞伎座再開となれば歌舞伎応援のため行かないわけにいかないじゃアありませんか。もちろん三密回避・あっちこっち色んなところを触らない・マスクと頻繁な手洗いは励行しています。

久しぶりの歌舞伎座はいつもとちょっと違った雰囲気で、いろんな場面でお客を迎える側の緊張がピリピリ伝わってくる感じでした。そういう点では劇場も役者も気にし過ぎるくらいコロナ対策してる感じでしたが、それでも何かあったら大変ですからねえ。舞台のことは観劇随想で別に書く予定にしていますが、「吉野山」の清元・竹本連中が飛沫防止のため特殊な黒いマスクをしていたのは秘密結社のメンバーが後ろに居並んでいるようで異様であったし、「源氏店」幕切れで再会した与三郎(幸四郎)とお富(児太郎)がヒシと抱き合うと思いきやソーシャル・ディスタンスをしっかり守って終わったのはご愛嬌でしたが、こういうコロナの歪んだ非日常が一日でも早く終わって、また「普通に」芝居が出来るようになることを願わずにはいられませんでした。しかし、まだしばらくはこういう状況が続きそうです。

(R2・8・4)


〇コロナ以後の生活・その4

芸術・エンタテイメント関係でもコロナ以後の模索はいろいろされているようですが、ひとつ所に大勢の人間を集めるということになると当然「密」は避けられないわけで、これはという決定的な対策が見当たらないのが頭痛いところです。

このようななか、東京交響楽団が現在イギリスで待機中の音楽監督ジョナサン・ノットとリモート指揮で共演すると云う試みをして、先日(25日)のサントリホールでの演奏会ではその4回目の試みだったそうですが、ベートーヴェンの第3番「英雄」を見事に演奏したそうです。まあ確かに指揮というのはその場にいてオケと心を一体にして行なうものかも知れませんが、コロナによる渡航規制で物理的に来れないのじゃ仕方がない。そこでどうやったのかと云うと、吉之助はその現場には居合わせませんでしたが、聞くところでは、イギリスにいるノットがあらかじめ指揮した録画映像に合わせてオーケストラが演奏するというものです。楽団向きに(つまり客席とは反対向きに)大型テレビを三台設置し、オーケストラは画面に映った指揮者を見ながら演奏する。客席向けにはもう一台テレビを設置するという形だったそうです。実際にライヴ通信でノットが現地で音を聴きながら指揮をする手法を模索したが、距離によるタイムラグを技術的に解決できず断念して、録画映像となったそうです。リハーサルではあらかじめノットの細かい指示が伝えられて、何度か録音をノットと交換して、修正を掛けたそうです。ノットは「ベートーヴェンは第九番初演の時、耳が聴こえなかったが、指揮が出来たではないか」と語ったそうです。なるほどねえ、吉之助は指揮というのは一種の「こっくりさん」みたいなものだと思っていますが、全員の「念」が一致するならば「奇蹟」は起きると思います。

幸四郎が図夢(ずーむ)歌舞伎・全五回のオンライン公演を先日(第5回目は25日)無事やり切って、「こんな形でも歌舞伎は成立するんだ」と感涙極まったそうですが、その気持ちは良く分かります。

(R2・7・30)


〇コロナ以後の生活・その3

コロナ疲れと・このところの天候不順で体調がいまひとつです。5月25日に新型コロナ緊急事態宣言が全国レベルで解除されて、長い自粛引きこもり生活にも疲れてきたところでもあり、ヤレヤレこれで少しずつ日常が戻ってくるかと期待しましたが、このところの状況を見ると日毎に感染者が増えて来たようで、どうやら感染第二波がやって来たのかも知れませんねえ。もうすぐ久しぶりの歌舞伎座8月興行が始まると云うタイミングでのコロナぶり返しには気が気でありません。歌舞伎座8月興行はコロナウイルス感染防止対策により四部制ということで、演目はそれぞれ1時間前後の一幕物の舞踊や芝居となっています。観客席は密集状態を避ける観点から前後左右を空席にする・いわゆる市松模様の席割りで、と云うことは収容人数が半分以下になるということなので、採算面でもなかなか厳しい再スタートということになります。吉之助も見に行く予定にしていますが、何とか無事に再開に漕ぎつけてもらいたいということで、先日銀座に寄った時に歌舞伎座稲荷に祈願して来ました。

欧米音楽界を見ても、6月中旬ごろから演奏会は徐々に再開の動きになっていますが、オーケストラは密集状態を避けるために各奏者の座席位置を離し、特に管楽器は飛沫飛散のリスクがあるので・もっと距離を取るという対策が取られています。オケは配置が変わると、音が伝わる時間が変るのでアインザッツを合わせるタイミングが微妙に変わって来ます。再開直後の演奏会では、ベルリン・フィルやウィーン・フィルでも音量や響きの調整に苦労していたようです。この配置だとマーラーやブルックナーなどの大編成の作品は無理がありそうで、プログラムはロマン派中期辺りまでの小規模編成のものが多くなっています。特に声楽合唱・裏方さんまで伴う歌劇場は再開の見込みが未だ立っていないところが多そうです。元通りになるのには、かなり時間が掛かりそうです。

コロナによる経済面の影響はいろんな方面に出ていますが、芸術・エンタテイメント関係にこれほど深刻な影響を及ぼすとは想像だにしませんでしたねえ。早くコロナが終息して、安心して演奏会や芝居に行ける環境に戻って欲しいものです。

(R2・7・24)


〇コロナ以後の生活・その2

今新型コロナウイルス感染防止の観点から3月以降の歌舞伎興行が軒並み中止になってしまいましたが、3月分については国立小劇場を始めとして・歌舞伎座・京都南座での無観客上演映像が期間限定で公開されたのは、大変有難いことでした。芝居というのは生(なま)で見るのが本来に違いないですが、特に3月は菊之助の「千本桜」三役挑戦・大顔合わせの「新薄雪」・白鸚が一世一代としていた「沼津」の平作など意欲的な演目が並びましたし・今後同じ形での再演は難しいだろうと思われるので、例え無観客上演であっても、これらの舞台が映像で残せた意義はとても大きいと思います。(これら一連の舞台の吉之助の観劇随想はこちらでお読みいただけます。)

ただしYoutubeでの各演目での再生回数を見た感じでは、例えば国立の「千本桜」だとAプロの「渡海屋」はまあまあの回数だが・Bプロ「鮓屋」・Cプロ「四の切」になるにつれて再生回数が極端に落ちて行く。これは歌舞伎座の「新薄雪」通しでも同じ傾向で、「花見」はまあまあの数字だが「詮議」・「合腹」になると・これも再生回数が極端に落ちて行く。どんなものかとYoutubeの映像をチラと覗いてはみたが・何だこんなものかと云うところで終わって・その後の回への興味が続かなかった方が、相当な割合でいらっしゃったということです。この結果は役者や関係者には衝撃ではなかったかと思いますねえ。少なくとも吉之助にとってはショッキングな結果でした。お客は歌舞伎に何を求めているのですかねえ?「新薄雪」は確かによく知れた演目でないかも知れませんが、やはり大顔合わせの「合腹」をこそ見てもらいたかったと思います。事実それだけの出来栄えでしたからね。これは現代の歌舞伎はお客が期待するものを提供できていないということか?それとも世間への歌舞伎の啓蒙を相当頑張らないといけないということか?と考え込んでしまいました。

そりゃあ確かに芝居は生で見るのが本来で・無観客上演映像なんて気の抜けたビールでまともに見る対象にならないと云う考え方もあるでしょうが、吉之助が見る限り、今回の無観客上演映像を取り上げた劇評も、紹介記事的なものはありましたが、まともなものは渡辺保先生のサイトでの「詮議」・「合腹」評くらいしか見当たらないというのも寂しいことでした。歌舞伎コンテンツとしての映像は、芝居の世界ではまだまだ受け入れられないみたいですね。

ところで幸四郎・猿之助らが中心になって図夢(ずーむ)歌舞伎と云う、インターネットの会議プレゼン・ツール(Zoom)をイメージした「忠臣蔵」を映像で再構成した新しい試みをしている最中です。これは全五回の試みで・本日時点では三回目(六段目)まで終了ですが、進物場では別取り映像を組み合わせて本蔵と師直(どちらも幸四郎が演じる)が同時登場、喧嘩場では平身低頭する師直を判官からの視線で映してみせるなど、現実の劇場では実現不可能な映像を試みました。次回(第4回)の七段目では祖父・初代白鸚の由良助の過去映像と組み合わせて・現在の幸四郎の平右衛門が同じ画面で共演するそうです。これは普段では出来ない気楽な「お遊び」として楽しめればそれで十分ですし、ここに新しい歌舞伎表現の可能性があるかもなんて身構える必要は全然ないですけれど、しかし、まずは試みてみないことには何も始まりませんね。

(R2・7・13)


〇コロナ以後の生活

今回はホントの雑談です。本年年頭の「雑談」で「節目の2020年」と書きました。あれは五月から始まる予定であった十三代目団十郎襲名興行のことを書いたつもりでしたが、新型コロナウイルス感染防止の観点から襲名興行は延期になってしまいました。吉之助も二月初旬の歌舞伎座での観劇以来、都内に出るのを自粛して引きこもり生活に入り、以来芝居にもコンサートにも行けていません。CDとビデオ映像で渇を癒すという状況です。本日現在(7月2日)、歌舞伎座は8月から興行を再開するという明るいニュースも入って来ましたが、観客席は前後左右を空ける・いわゆる市松模様の座席になるようで、これは収容人数が半分になると云うことだから、まだ日常に戻ったと言えない状況です。演劇関係はこれからも苦しい状況が続くでしょう。年初にはこういう状況になると想像だにしませんでしたねえ。改めて2020年は、歌舞伎だけでなく・いろんな場面で、コロナ以前とコロナ以後の大きな節目の年になりそうです。ただし今は節目の真っ最中ですから、以後がどう変わるかは皆目分かりません。

昨年10月渋谷シアターコクーンで海老蔵が「オイディプス」を演じましたけれど、この時のイギリスの演出家マシュー・ダンスターのコンセプトが、古代ギリシアの悲劇を近未来に置き換えたものでした。疫病が蔓延するテーバイの街は、大気が病原菌で汚染されているので分厚いシェルターに守られています。換気扇の低い機械音が耐えず響いており、街外へ出る人はみなさん物々しい防護服とマスクを着用しています。街に入る人はゲートでシャワーで除染・消毒をして防護服を脱いでから舞台中央に登場します。為政者は直接人民に語り掛けるのではなく、カメラに向かって「にこやかな」笑顔を作り、大テレビ画面でリモート演説するという具合でした。半年後にこれとそっくりの場面が現出するとは。今時この舞台を出したら「ワル乗りし過ぎだ」と怒る人がいるかも知れませんねえ。これはまあダンスターの慧眼であったと言って置きましょうかね。しかし、今思えばあれはなかなか暗示的であったなと云う気がします。この世界に在って・これまで見えてこなかった歪みがいろんなところで顕在化して来そうです。

ところで別稿「語り物演劇の系譜」でも触れましたが、近頃吉之助は文楽床本を朗読することを始めました。自粛生活を続けて数か月も外出を控えていると、体力も落ちるし、他人と会話する機会がめっきり減ったせいか、しゃべっていて言葉がどうもスムーズに出てこないもどかしさを感じることが多くなりました。歳のせいかボケが兆して来たのかも知れません。吉之助は人前で歌舞伎の話をすることもあるので、これでは困る。そこで脳の訓練のために床本を朗読することを始めたわけです、義太夫語りを学ぶわけではないので節附けは加えず、いわゆる朗読ごっこに過ぎませんが、これがなかなか役に立ちます。床本朗読はまだ始めたばかりですが、ここから「歌舞伎素人講釈」の新たな記事が生まれるかも知れません。

(R2・7・2)


 

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