吉之助の雑談37(令和2年1月〜6月)
二か月くらい前ですが、NHK・Eテレ「にっぽんの芸能」で特集「六代目中村歌右衛門の名舞台」を放送しましたが、ご覧になりましたか。幸い吉之助は歌右衛門の当たり役と云われるものは一通り生(なま)で見ることは出来ましたけど、この機会に映像を見返して大変懐かしく思いました。詳しいことは別の機会にでも観劇随想で論じたいと思いますが、本稿でちょっとだけ歌右衛門のことを考えたいと思います。番組でも歌右衛門の演技が丁寧だ・演技が緻密だと云うことは指摘されてましたけど、印象としてはそういうことでしょうけど、大事なことはそう云う印象がどこから出るのかと云うことです。それは息を詰めたところから出ているものです。
「息を詰める」と云うことは、説明が難しいのだけれど、「呼吸をしない」ことだと勘違いしてる方が少なくないようです。そうではなくて、腹に息を貯め込むイメージで・横隔膜を下げた状態で呼吸を最小限のレベルに抑えることです。マニュアル車の運転経験がある方なら、坂道途中で半クラッチでエンジンをウンウン唸らせながら車を停止状態に保つのを想像してもらえれば良いです。この場合、アクセルとクラッチの状態を上手くバランスさせないと、車は前に進んでしまうか・坂をズルズル下ってしまうか・そのどちらかになってしまいます。だから神経を足先に集中させてペダルの振動を感じ取らないといけません。これが「息を詰める」ことの最も具体的なイメージです。だから「息をしない」のではなく、呼吸は最小限に保っている(エンジンはウンウン動いている)のだけれど、神経が極度に緊張した状態です。
歌右衛門は、この「息を詰める」状態を保つ名人でした。歌右衛門の舞台を見ると、その一挙手一投足が何だか「運命的な動作」のように重いものに思えて・ちょっとした動きでも見逃すことが出来ない緊張に襲われたものでした。見ている時はこちらも息を詰めて見るものだから確かに疲れるし、「長いなあ・・」と感じることもありましたねえ。見ているこちらが息が保てなくて苦しくなることもありましたが、それは要するにこちらが負けてるわけです。だから修業・修業・・と思って見たものでした。私の持ち場においては、私が今感じていることをとことん描き出さずにおくべきか・・と云うような感じでした。見ている方に緊張を強いる点では群を抜いた役者でありました。
例えば番組で取り上げられた「娘道成寺・恋の手習い」(吉之助はこの舞台は生で見ました)を見ると、それがよく分かると思います。今の役者の身体の使い方と印象が異なることが歴然としています。美の尺度は当然時代に拠って変化するものですが、今の役者は、身体の置き方が伸びやかですね。陽性で、屈託がない、無理な力を入れない自然な身体の置き方です。逆に云えば、身体から緊張感が抜け落ちているように感じます。腹に力が入っていない、息が詰められてないからです。歌右衛門の踊りと比較すれば、その違いに驚くと思います。歌右衛門は、動作のすべてを内輪・内輪に置いて、身体を虐めぬいています。ここで歌右衛門が「息を詰めている」ことが、はっきり分かります。ネガティヴに云えば、卑屈で陰気な印象がするほどです。もちろん艶やかで美しいのだけれど、どこか陰な美しさなのだな。それが昔の女形の感触でした。古い映像を見直すと、昔の舞台で見た印象を今そこで見るように鮮やかに脳裏に蘇らせることが出来ます。
(R2・6・6)
〇令和2年3月歌舞伎座:「伊賀越道中双六〜沼津」・その2
幸四郎の十兵衛は二回目になりますが、叔父吉右衛門の十兵衛を細部までよく写して感心しました。特に平作内後半・お米が十兵衛の印籠を盗もうとして見つかる件から、平作が実の父親でお米が妹であることを悟り、自分が息子であることを明かさないまま逃げるように内を去るまでの心理描写が丁寧で、今の段階でこれだけ出来れば申し分ないと思います。今後のために申し上げれば、幸四郎は小揚げを含めた前半の十兵衛に和事味と云うか・柔らか味を出そうとして台詞のトーンをやや高めに置こうとする意図が感じられます。このため前半の十兵衛が作り物っぽく柔い印象がしますねえ。ここは確かに吉右衛門にもその気配がないわけではありません。しかし、これは吉右衛門のニンだからこれでちょうど具合が良くなるのであって、幸四郎は叔父よりも描線が細く・和事も似合うニンなのですから、幸四郎の場合はむしろ描線を太く取ることを意識した方が良いのです。その方が十兵衛の性根に一貫性が出ます。幸四郎は地声のトーンがやや低めですから、低めのトーンを基調に取った方が十兵衛の心情に真実味が出るはずです。後半がなかなか良い出来でしたから、そこは惜しかったですね。
上方役者が演じる十兵衛は和事味が強くて・東京の役者が演じる十兵衛は辛抱立役の味が強いとよく云われるけれど、近年の舞台で見る十兵衛は、細かい段取りは兎も角、上方と東京でそれほどの印象の差は感じられないようです。それは戦後昭和の十兵衛役者であった二代目鴈治郎の影響かなと思います。現行の十兵衛は、誰でも和事味を基調にしているように感じます。これは分からなくもない。鴈治郎の十兵衛は前半がとても明るくて楽しかったからです。以後十兵衛を演じる役者にとって多分その印象が強いのでしょう。しかし、鴈治郎の十兵衛の真骨頂は、千本松原の悲壮感にあったと思います。「沼津」のやり方は上方風・東京風いろいろあろうと思いますが、十兵衛はクライマックスを千本松原に置いて、シリアスを基調に演じてもらいたいと思います。(千本松原での鴈治郎の十兵衛については別稿「世話物のなかの時代」で触れましたから、そちらをご参照ください。)
孝太郎のお米は、後半「お米はひとりもの思い・・」以降夫の傷回復のため十兵衛所持の秘薬の印籠を盗もうとする心情に哀切さがあって、現在のうらぶれた姿のなかに・思いがけなく仇討ち騒動の渦中に巻き込まれたか弱い女の境遇が浮き彫りにされて、これもなかなか良い出来でした。
(R2・5・22)
〇令和2年3月歌舞伎座:「伊賀越道中双六〜沼津」・その1
本稿で取り上げるのは、令和2年(2020)3月歌舞伎座での「伊賀越道中双六〜沼津」の無観客上演舞台の映像です。注目は白鸚が初役で演じる平作であろうと思います。ご本人もインタビューで「今回だけは一世一代と言って構わない」と張り切っていたようです。新型コロナ感染防止で公演が中止になってしまったのは残念なことでしたが、無観客でもなんとか映像に残せたことはせめてもの幸いと云わねばなりません。調べてみると高麗屋にとって「沼津」は、あまりご縁がなかった演目のようです。初代白鸚も十兵衛を三回勤めたきりであるし、二代目も昭和62年(1987)4月金丸座で十七代目勘三郎の平作を相手役に十兵衛を勤めたのがこれまで唯一のことでした。幸四郎の十兵衛は昨年(令和2年)9月歌舞伎座で吉右衛門病気休演した時に3日間代役で演じたのが初役になりますから、今回が二度目です。今回は平作・十兵衛を実の親子で演じると云う点でも話題の舞台でした。
白鸚の平作は型としては十七代目勘三郎が下敷きになっていると思います。勘三郎の平作は愛嬌があったし世話の味わいが濃くて哀れさが立ったのをよく覚えていますが、細身の白鸚であると実直さの方が強く出るようです。そこは時代物の大役を数多く演じてきた白鸚のニンならではと云うべきですが、芝居のなかに時代の論理が顔を出し始めると、白鸚の平作が俄然良くなって来ます。だから白鸚の平作は、後半がグッと良くなります。お米が十兵衛の印籠を盗もうとした事情を察して肚で泣きながら十兵衛の手前お米を強く叱るフリをする芝居が丁寧で、ここから千本松原で平作が十兵衛の脇差を取って自らの腹に突き立てるまでのドラマが自然です。
「沼津」を見ると平作が実の親子の確認をこういう形でしか取れなかったことは悲しいことだなあと云う思いに誰しも捉われると思います。もっとましな手段は他になかったものかと暗然たる気分に襲われます。しかし、多分、平作にはこういう手段しか思い浮かばなかったのです。平作を絡め取る時代の論理の重さが痛感させられますが、これは仇討ちのことだけを云うのではありません。我が子を二つの歳に養子にやり・もはや赤の他人と思うている・そのように割り切ることが「人の道」であると平作が堅く信じているからです。
「ハテお前様、一旦人にやつたれば捨てたも同然。わが子ながらも義理あるもの。今その粋が身上が良いとて、尋ねに往て箸片端貰うては、人間の道が済んませぬ。今出逢うても赤の他人。子といふはハイ、このお米一人でござります」(平作内)
親子の情は本来自然な感情でドラマで云えば普通は世話の要素であるはずですが、ここではこれが時代の要素の如くに作用しています。親子の情が強くなればなるほど、平作の感情に強い自己規制が掛かります。加えて平作は十兵衛が信用を重んじる商人であることを知っています。敵沢井股五郎の紋が入った印籠を持っているとなれば十兵衛がどのような立場にある人物かは明白です。お互いの立場(仇討ち関係)を知ってしまったからには、親子の情を交わすなんてことが許されるはずがありません。だから平作は仇討ちを口実にしなければ、決して親子の名乗りを言い出せないと云うことなのです。逆に云えば、それほどまでに平作のなかに親子の情が強いということです。平作の行動はこのことを承知したうえでの、発作的に見えるけれども、実は覚悟の上での、平作なりの論理的な行動だと云うことです。そのような状況を白鸚の平作は見事に描き出してくれました。かぶき的心情を持つ人間は死によって自分の心情を相手に問い、これにかぶき的心情で答えるならば、問われた者もまた死なねばならぬと云うことです。(この稿つづく)
(R2・5・14)
〇令和2年3月歌舞伎座:「高坏」
本稿で取り上げるのは、令和2年(2020)3月歌舞伎座での舞踊「高坏」の無観客上演舞台の映像です。「高坏」は、昭和8年(1933)東京劇場での六代目菊五郎の太郎冠者により初演されました。当時流行したタップダンスを踊りのなかに取り入れて、一見すると松羽目舞踊の仕立てですが、実は歌舞伎オリジナルです。背景の松羽目が桜に置き換わっているのは多分その申し訳でしょう。しかし、春風駘蕩たる気分のこの舞踊には桜の背景がよく似合います。
そう云うわけで「高坏」は狂言ダネではないのですが、意図して松羽目舞踊の様式を模しているわけですから、ここはむしろ大真面目に狂言の品格を以て演じてもらいたいのです。近年の歌舞伎の松羽目の舞台はどうも本行に対するリスペクトが足りなくて、笑いが生(なま)なのが多い。今回(令和2年3月歌舞伎座)の幸四郎の太郎冠者による「高坏」も例外ではありません。狂言の笑いと云うものは「イデ笑おう、ワハハ・・」という大らかな笑い・おかしみなのですから、足取りにも会話にも、ゆったりした間合いが欲しいのです。狂言の様式を表面的に取っているだけで、狂言の間合い・つまり息の取り方の根本的なところが分かっていないなあと感じます。サッパリ過ぎなのです。もうちょっと間合いを以て相手の演技を受ける、もっとリズムをしっかり打ち込む、そう云うことが必要なのです。それはホントに0.1秒になるかならないくらいの・ほんのちょっとの差です。だけどそのちょっとの差で舞台にゆったりとした気分が生じるはずです。そこの違いが分かって欲しいと思います。逆に云えば、そのほんのちょっとの息を持ち切れていない(息が浅い)ということなのです。
現代人の生活はいろんな雑事に日々分刻みで追われて気忙しく、どうしても呼吸が浅くなりがちなものです。そのような日常を送っている現代の観客に、息を深くとることの大切さ、我々が生活のなかで元々持っていたはずの人間的な生活リズムに気付かせてくれるのが、現代が伝統芸能に求める最重要の役割であると認識してもらいたいと思うのですがねえ。現代人が古典に接することの意味がそこにあるのです。そのためには伝統芸能者(歌舞伎役者)自身が息の深さを体現出来なくてはなりません。それにしても伝統芸能者も現代に生きていますから、必然的に現代のテンポ感覚に影響を受けざるを得ないわけで、意識して息の深さを思い出す努力をしないと、どんどん古典の規格が崩れて行くことになります。歌舞伎の舞台を見て、そのような危うさを感じることが多い昨今です。
テンポ感覚の問題は役者だけのことではありません。今回の「高坏」は舞踊ですから、全体の流れを支配する地方(長唄)の責任もとても大きいです。長唄のテンポが早い感じでセカセカして聞こえます。このテンポでは春風駘蕩たる気分にさせてくれません。何だか後ろから煽られる気分がしますねえ。この早いテンポは役者からの要請から来るのか、長唄連中の方々は本当にこのテンポで良しと感じているのか、そこのところを問いたいですねえ。吉之助の感覚では、今回の上演時間はほぼ30分ですが、これは34・5分で上げるくらいでちょうど良いのではないかと思います。本作の呼び物である太郎冠者のタップも、この早いテンポで幸四郎がタップを綺麗に踏めているならば見事なものですが、残念ながらタップのリズムがまくれています。綺麗にタップを踏めないのならばテンポを落とせばいいだけのことです。テンポをちょっと落とせば、全体の踊りの振りも余裕を以てもっと大きく踊れるはずです。そうすれば舞台の感触がずいぶん変わって来ると思うのですが。
(R2・5・6)
〇令和2年3月京都南座:スーパー歌舞伎U「新版 オグリ」・その5
平成29年(2017)11月新橋演舞場でスーパー歌舞伎U「ワン・ピース」を見た後のことでしたが、遅ればせながら吉之助は2.5次元ミュージカルなるものがあることをテレビで知りました。2.5次元ミュージカルとは、二次元の表現である漫画・アニメ・ゲームなどを、3次元の現実(つまり役者による舞台)へ移し替えた、そのような現実との中間を狙った舞台表現手段を2.5次元と呼ぶのだそうです。テレビのドキュメンタリーで2.5次元ミュージカルの制作風景を見たのですが、派手な衣装の若い俳優たちがダイナミックに振り回して派手な立ち廻りをするのを見て、「ワンピース」にも似たような立ち廻りがあったけれども、スーパー歌舞伎はスピード感・キラキラ感・ワクワク感に於いて2.5次元ミュージカルに到底太刀打ち出来ないなあと思いました。残念ながら、現代の若者はスーパー歌舞伎よりもこちらの方にかぶいた感覚を感じるだろうと思います。こちらの方が今風に「カブキ」なのです。そのくらい役者の動きの活きが良いのです。しかも、これは結構大事なことですが、2.5次元ミュージカルでは俳優がいくらでも別の活きがいいのに取り替えが利くのです。その時の絶好調の役者を起用しながら、舞台の新鮮さをずっと維持できるわけです。確かに歌舞伎は江戸時代創業の老舗かも知れませんが、スーパー歌舞伎Uが同じような方向で対抗しようしても、これでは負けてしまうと思います。しかし、吉之助としては個人的な好みですがやっぱり歌舞伎の方を応援したいのですがねえ。
今回の「新版 オグリ」の第2幕で小栗とその仲間たちが地獄の閻魔の場で大暴れする場面もを見ても同じことを思わざるを得ませんでした。こう云う場面で2.5次元ミュージカルと張り合おうとしないで、歌舞伎は自分の本来の領分で勝負すれば良いのです。歌舞伎役者は自分の普段やっている芝居(歌舞伎座でやってる古典)にそんなに自信が持てないだろうのかと疑問に思いますねえ。古典にいくらでももっと面白いものがあるのじゃないの。
それと「ワンピース」の時の観劇随想には「主役が出っ張らず、多くの役者に見せ場を作ってどの役者にも遣り甲斐を与える、これならば猿之助を慕う若手が出てくるのは当然」と書きましたが、今回の「新版 オグリ」では少し様相が違っていて、歌舞伎畑でない外部の役者を多用しているのが気になります。それが良いか悪いかは議論のあるところだと思いますが、猿之助が一体この「スーパー歌舞伎U」で目指すものが何なのか、舞台を見ていて訳が分からなってしまいました。猿之助は新しい歌舞伎を作りたいのではなくて、面白いエンタテイメントが出来ればそれで良いと云うことなのでしょうか。あくまで歌舞伎に主軸を置く考えならば、ここは陣容を歌舞伎役者で固める方が得策ではないでしょうかね。
吉之助は亡くなった十八代目勘三郎存命中に同じようなことを書きましたが、歌舞伎役者はいつでも歌舞伎座に戻って古典が出来ねばなりません。歌舞伎役者にとっては古典が本分です。既成概念に捕われない新しい歌舞伎も古典も両方きっちり勤めますと云うスタンスで、相反する要素を同時に追おうとすると、結局、どちらもうまく行かなくなるのです。あの天才・勘三郎でさえそうなったと云うことを、猿之助もチラッと考えて欲しいですね。吉之助は「この水が大海に注ぐか、沼に入って淀むか」と云う問いをずっと持ちつづけていたいと思います。
脚本に関しては前章でちょっと触れた通り、第2幕で小栗とその仲間が閻魔の裁きに反発して・地獄で大暴れして地獄を破壊して・娑婆に戻ると云う筋が、第3幕で小栗が餓鬼阿弥として再生する件に、論理的・思想的に正しく繋がらず、作品が破綻しているとしか見えません。本稿では第3幕の小萩の道行きを褒めましたが、見るべきところはそこだけです。全体の出来としては、古(いにしえ)の説教「をぐり」の世界を新しい形で現代に蘇らせたとは、とても申せません。このためには脚本家は何を変えてはいけないか、どこを変えれば良いのか、思想的或いは論理的に原作の世界を正しく理解して、これを見極めなければなりません。日本芸能の技法である本歌取りの態度と云うものは、そういうものなのです。
演出面で云えば、立ち廻り場面以外では舞台をフルに大きく使うことをせず、背景に黒の遮蔽幕を張って舞台の前部分だけでスポット照明だけで芝居をするのが、とても気になります。説経は暗い迷信の世界だと云う固定観念があるのでしょうねえ。登場人物が横一列に並んで、みんな観客の方に正面に向いて自分の台詞を云う場面が多い。割台詞でもしているつもりなのか、しかし、どことなく小学校の学芸会を思い出しますなあ。前章でも触れましたが、江戸の感性と云うのは明晰なものです。「イヤ現代から見るとまだまだ暗い」と感じるかも知れませんが、古典歌舞伎の舞台面を見るならば、歌舞伎の舞台は明るいものだということは理解されると思います。舞台に影が出来なくて、まったく平面的に見せるほど明るい、特殊な照明技法なのです。これが歌舞伎の美学なのです。(別稿「舞台の明るさ・舞台の暗さ」をご覧ください。)少なくとも歌舞伎内部にいる人は、このことを正しく認識して欲しいと思います。つまり江戸の明晰な感性は、現代に先駆けていると云うことなのです。歌舞伎の新作を作る時、この認識が有効な取っ掛かりになると思います。だから外部のジャンルの方が歌舞伎の題材を取り上げて暗い舞台を作りたくなるのはそれは分からないことはないですが、歌舞伎サイドの人間が新作を演出するであれば、当然その舞台は明晰なものとなるべきです。ましてや中世期の説教「をぐり」のような題材を取り上げるならば、なおさらのことです。だから明るい舞台でなければ、厳密な意味において「かぶき的」な舞台面だと言えないわけなのです。そう云うことをちょっと考えてみたら如何でしょうか。
(R2・5・1)
〇令和2年3月京都南座:スーパー歌舞伎U「新版 オグリ」・その4
「新版 オグリ」では、小萩(照手)は関ケ原付近で危うくならず者に狼藉を受けそうになったところを三河万歳の旅芸人に救われます。この時、彼の思い付きで小袖と笹の枝をもらって、小萩は狂女の成りをしてその後の道行の歩みを進めることになります。梅原猛はまったく上手い段取りを考えたものですね。小袖と笹の枝の小道具を得て、これで小萩の道行きは風狂の趣を呈することとなり、それは芸能の始原を想わせました。それは説経浄瑠璃の世界へ、さらに延長すればかぶきの世界へ通じるものです。しかし、残念なことに「新版 オグリ」の舞台では、道行の場面を膨らませることが十分に出来ず、これをほのめかすだけの段階で終わってしまっています。大津までの道行を、小萩が「えいさらえい」と囃しながら、地元の衆を熱狂に巻き込んで、華やかに進めることが出来れば、大いに映える場面に出来たのですがねえ。古(いにしえ)の説経「をぐり」の世界が舞台に現出することになったであろうに。
「新版 オグリ」では、この三河万歳の旅芸人は、小栗をこの世に送り返した閻魔大王が成り代わったもので、閻魔は小栗の行く末を見守っていたのであると云う設定になっているようですが、しかし、実際の舞台を見るとこの伏線は利いていないようです。それは第2幕からの筋の繋がりが悪いせいです。それに関ケ原の場が終わって暗転する直前で小萩が土車の綱を取ってポーズを決めるところがありますが、この時、小萩が片手に笹の葉を持っていないのはいけませんねえ。これでは梅原猛の意図が正しく印象付けられません。新悟の小萩(照手)は真摯な演技で小萩の清らかな気持ちがよく伝わってくる好演であっただけに、この点は残念なことでした。
もうひとつの演出上の大きな問題は、小萩の道行きのシーンをすべて暗い舞台面で処理したことです。背景に黒の遮蔽幕を設置して人物だけを照らし出す手法です。このため舞台が暗く湿った感触で迷信に縛られた中世期の説教のイメージに凝り固まってしまいました。しかし、説経の道行きの感覚は、本来明るいものです。説経の道行の明晰さは未来に通じ、後の近世江戸の芸能の道行を準備するものです。説経「をぐり」から道行の場面を引きます。
『古き烏帽子を申し受け、さんての髪に結びつけ、丈と等(ひと)せの黒髪をさつと乱いて、面(おもて)には油煙の墨をお塗りあり、さて召したる小袖をば、すそを肩へと召しないて、笹の葉にしでを付け、心は物に狂はねど、姿を狂気にもてないて、「引けよ引けよ子供ども、物に狂うて見せうぞ」と・・』(説教「をぐり」)
ここで顔を墨で塗りたくり・髪を乱して狂女の成りをした小萩の、常軌を逸した高揚感が描かれます。同時に「心は物に狂はねど、姿を狂気にもてないて」とあるように、小萩は狂気に身をやつしながら、心はますます冴え渡って行くのです。それは小萩のなかに救い(熊野での餓鬼阿弥の再生)が明確に予感されているからです。この明晰な感覚が説経の暗みのなかで小萩の道行のシーンをひときわ明るいものにします。「引けよ引けよ子供ども、物に狂うて見せうぞ」と乱れ狂う小萩の姿から、「この世は夢ぞ、ただ狂へ」と踊り狂う江戸初期の出雲のお国へ辿り着くのは、それほど遠いものではありません。近世の芸能である歌舞伎の道行きは明るいものです。このことは例えば「千本桜」の「吉野山」或いは「忠臣蔵」の「落人」の舞台面が持つ明るさを思い出してもらえば分かると思います。「スーパー歌舞伎」が伝統芸能(かぶき)を標榜するものであるならば、説経の世界を新たな感覚に作り変えるためには、小萩の道行きを明るい舞台に仕立てた方が数段良かっただろうと思います。(この稿つづく)
(R2・4・26)
〇令和2年3月京都南座:スーパー歌舞伎U「新版 オグリ」・その3
余談ですが、前章で梅原脚本の餓鬼阿弥の設定変更をよく出来たと褒めましたが、それは説教「をぐり」を芝居に移す為にやむを得ざる処置であるから褒めたのです。しかし、この変更によって説教「をぐり」の世界もいくらか様相を変えざるを得なくなります。このことの良し悪しも当然生じます。このことをちょっと寄り道して考えます。
説教「をぐり」の餓鬼阿弥は、目も耳も口もまったく利かず、手足もほとんど動くことさえ出来ず、知覚・思考能力が残っているのかさえ分からない存在でした。これを小萩(照手)を始め檀那衆が力を合わせて熊野に送り届けて再生させたわけで、餓鬼阿弥は自力で再生したのではなく、いろんな人々の助けによって「蘇らせてもらった」ということです。だから説教「をぐり」が描くのは、他力による救いです。民衆の祈りも大事なのですが、とりわけ妻(小萩)の愛の救いというところが重要な主題になって来ます。ここで云う小萩の愛とは、男女の愛情ことだけを云うのではなく・これも包含したところの、もっと深い慈悲の愛なのです。
一方、「新版 オグリ」では、餓鬼阿弥は明らかに知覚・思考能力を持ち、小萩が妻であることを認識するも・敢えて名乗ることをせず・自分の身の不幸を歎き苦しみ、身体不自由な身で苦難の道中を耐えながら・遂に再生の地熊野に至ります。その餓鬼阿弥(小栗)の塗炭の苦しみが、何やら再生を予期した通過儀礼の如く見えて来るのです。餓鬼阿弥が苦難試練を経て自力で復活したことになり、何やら貴種流離譚の様相を呈して来ます。この違いは、餓鬼阿弥の設定を変更したことによって起こった結果です。
恐らく原作者・梅原猛は小栗の復活を貴種流離譚であると理解したのでしょう。これについては「そう云う見方もあるかもね」と言っておきます。言うまでもなく貴種流離譚は、折口信夫の民俗学の重要な概念です。折口の「貴種流離譚」の初出は、大正13年に発表された論考「国文学の発生(第ニ稿)」とされていますが、実は大正7年にほとんど同じ概念で「貴人流離譚」という言葉を用いて論考「愛護若」が発表されています。(なお現行の折口信夫全集に所収の「愛護若」で「貴種流離譚」となっているのは全集収録時に改訂されたもので、雑誌発表時の原稿では「貴人」となっていました。)このことを吉之助が重要であると考えるのは、これより後の論考になる大正15年、説教「をぐり」を取り上げた「餓鬼阿弥蘇生譚(正・俗)のなかで、折口は「貴種流離譚」という用語を一度も使っていないからです。「餓鬼阿弥蘇生譚」で折口が関心を以て語るのは、小栗が一旦死んで、三年という異様に長い時を経て、閻魔大王の計らいでバラバラになった遺骸を以て生ける屍の姿でこの世に戻ったと云う、奇妙な餓鬼阿弥のイメージについてのみです。この折口の関心は、やがて後年の小説「死者の書」(昭和14年)に繋がる主題へと発展して行きます。折口はこれを通過儀礼と一度も書いていないことは大事なことです。このことは、折口信夫は説教「をぐり」を貴種流離譚だと解釈していないことを示す有力な証拠であると吉之助は考えます。やはり「をぐり」は蘇生譚として理解すべきだろうと思います。(詳しくは別稿「小栗判官とは何だろうか」をご覧ください。)
ただし吉之助は梅原猛が小栗の復活を貴種流離譚としたことを間違いだと云うのではありません。中世期の説教「をぐり」を、小栗の苦難試練(通過儀礼)を経ての再生(自力による再生)だと読み直したところに、「をぐり」の近世的な読み方があるのです。これによって薄暗い迷信の闇のなかにあった説教の世界は、いくらか意志的な明るみのなかに引き出されたことになります。云うまでもなく歌舞伎は近世的な芸能ですから、そうなることで「をぐり」は歌舞伎の題材として相応しいものに練り上げられることになるのでしょう。(この稿つづく)
(R2・4・21)
〇令和2年3月京都南座:スーパー歌舞伎U「新版 オグリ」・その2
スーパー歌舞伎と云うことは「歌舞伎を超えた歌舞伎」ということだから、かぶき的でない要素を取り入れつつ・なおかつかぶき的なものを維持するということでしょう。だから伝統的なものの何を受け継ぎ、何を切り捨てるかということが、大事なことになります。闇雲に現代の観客に受ける歌舞伎を志向するものではないだろうと思います。説教の精神世界をどのように芝居のなかに蘇らせるか、或いはそこに現代日本人が忘れてしまった大切な心があるか、これは吉之助が今回のスーパー歌舞伎U「新版 オグリ」映像を見るに当たり自分に課した課題ですのから、制作者のあずかり知らぬことです。しかし、今回の横内謙介脚本による「新版 オグリ」を見ると、アクションシーンなど派手な要素に関心が行っているようで、見る者を遠い昔の説教の精神世界へ誘ってくれる感覚があまりないようです。だから吉之助としては良い評価が出来ないと云うことになりますが、見るべき部分がないと云うわけでもありません。
本稿を書くに当たり梅原猛原作脚本を参照しておらぬので、横内脚本が梅原原作のどこをどう変えたかと云うところが書けませんが、ここでは置きます。吉之助が見たところでは、第3幕「小萩の道行」以外においては、全体的に梅原風味からかけ離れた印象がします。梅原風味と云うのは説明が難しいねえ、まあ観念的と云うか主人公が自分の内面を説明してちょっと理屈っぽいということですかねえ。ただし第3幕・餓鬼阿弥が小萩(照手)と出会い土車に乗せられて熊野へ向かう件については、ここは恐らく梅原風味をかなり残した箇所です。この「道行」には、説教「をぐり」に通じるものを確かに感じます。「をぐり」を知らない若い観客がここをどう感じたかは分かりません。颯爽とした小栗が出て来ないし、アクションシーンはないし、もしかしたらここをダレ場だと受け取ったかも知れませんが、説教「をぐり」ではこの場面((道行)こそが核心なのです。「新版 オグリ」も「道行」をクライマックスに持って行くように全体設計が出来れば良かったのにと思いますが、どうも横内脚本ではそうなっていないようです。ただし第3幕「道行」部分については見るべきものがあります。
「新版 オグリ」・第3幕(美濃の国近江屋〜関ケ原〜大津〜熊野湯の峰)について考えます。説教に出てくる餓鬼阿弥は、目も耳も口もまったく利かず、手足もほとんど動くことさえできない生きた屍に近い存在です。その身に知覚能力・思考能力が残っているのかさえ定かではありません。わずかに動くので「これは生きているものらしい」と分かる程度の存在です。だから餓鬼阿弥は小萩を妻(照手)と認識出来ないし、小萩も餓鬼阿弥を見てもそれが夫(小栗)だと気が付きません。二人は不思議な縁(えにし)で巡り合い、互いをそれと知らぬまま・わずか数日の時間を土車を曳き・曳かれの関係で過ごし、餓鬼阿弥再生の後に、また不思議な再会をするのです。
一方、「新版 オグリ」においては、餓鬼阿弥は目はうっすらだが見えているようだし、耳と口は利けて小萩と会話をしますし、熊野の場面では自分で山をよじ登ったりするので、身体は不自由なれども・動けないわけではないようです。そこに大きな違いがあるわけですが、この改変は芝居で「をぐり」をやるのならば仕方がない変更でしょう。主役の餓鬼阿弥が舞台で黙って物体みたいに転がっているだけでは、芝居にならず、慰(なぐさ)みにもならないからです。「新版 オグリ」では、何気ない会話のなかから餓鬼阿弥(小栗)は小萩が妻(照手)であると知りますが、しかし今の餓鬼阿弥の状態では自分が夫であることを自分から名乗りをすることが出来ません。餓鬼阿弥は自分の身の不幸を歎き、正体を小萩に明かさぬまま、小萩の曳く土車に乗せられて熊野への道を進めることになります。この改変は、とても良く出来ていますねえ。ここは多分梅原原作に拠るものでしょう。芝居に仕立てるのに必ずしも適さない説教「をぐり」の道行の設定を巧みに改変して、しかも餓鬼阿弥の小萩の不思議な縁を新たに構築し、新たなドラマを見事に生み出してくれました。この箇所は「当世流小栗判官」の怨霊譚への改変などよりも数段良いと褒めておきます。ここには説教の精神世界の片鱗が確かに見えます。(この稿つづく)
(R2・4・20)
〇令和2年3月京都南座:スーパー歌舞伎U「新版 オグリ」・その1
本稿で取り上げるのは、令和2年3月京都南座でのスーパー歌舞伎U「新版 オグリ」の無観客上演の舞台映像です。残念ながら本公演は新型コロナ感染防止対策により全日程が休演となってしまいましたが、大変有難いことに松竹が無観客上演による舞台映像をインターネット配信してくれましたので、これを見ました。なお配信された2本の映像のうち、猿之助主演によるフルヴァージョン映像版をメインとし、ハイライト版で配信されたダブルキャストによる隼人主演の映像を比較参考として取り上げることとします。
まずスーパー歌舞伎に対する吉之助のスタンスを明らかにしておきますが、別稿「四代目猿之助襲名のヤマトタケル」で書いたように、吉之助は昔はかなり熱心に猿之助歌舞伎を見たのですが、昭和63年2月新橋演舞場で初演されたスーパー歌舞伎「ヤマトタケル」(三代目猿之助主演)によるを見て以後、「猿之助のスーパー歌舞伎路線はもういいや」と云うことで、ずっとこれを敬遠しておったわけです。したがって吉之助はスーパー歌舞伎に批判的なわけではないですが、これを醒めて見る立場ではあります。スーパー歌舞伎・第3作にあたる「オグリ」初演(平成3年4月新橋演舞場)についてはこれを見ていませんので、今回の「新版 オグリ」に当たり、梅原猛・三代目猿之助によるオリジナル版(と云うか旧版と云うのか)のどこをどう変えたかと云うところが分からないので、今回の観劇随想はあくまで「新版 オグリ」についての観劇随想です。ただし今回は原作者とクレジットされている梅原猛の作意がどこにあったかを考えてみないと、やはり「オグリ(小栗判官)」を正しく論じたことにはならないでしょう。
「小栗判官」は説教「をぐり」に発し、日本芸能の大きな流れを成すものです。現代日本人には「をぐり」はほとんど忘れられたものとなっていますが、明治の初めくらいまでは、「小栗判官」は説教のみならず芝居・その他の芸能でも盛んに取り上げられました。小栗判官・照手姫と云えば、日本芸能史上最強のカップル・理想の夫婦像とされたものでした。詳しくは別稿「小栗判官とは何だろうか」で説教「をぐり」の世界を取り上げましたので、そちらをお読みください。説教浄瑠璃を考えることは、日本人の精神世界の源流を訪ねることであり、歌舞伎に関しては義太夫狂言(浄瑠璃)の源流を訪ねることです。「小栗判官」のみならず、例えば「摂州合邦辻」も説教浄瑠璃まで辿らなければ、その本当のところは分かりません。
それにしても江戸の感性から見ると、中世期の説教浄瑠璃は、どこか湿り気を帯びてカビ臭くて薄暗い迷信の世界のように見えているかも知れませんねえ。江戸の庶民の感性は、現代の我々から見るとそうは見えないかも知れませんが、意外と明晰かつ合理的なところがあります。説教に出てくる餓鬼阿弥と云うのは、目も耳も口もまったく利かず、手足もほとんど動くことさえできない生きた屍に近い存在だと思われます。ところが江戸時代の民衆には、この餓鬼阿弥となった小栗の姿がもうすでに想像が付きませんでした。江戸の民衆は、これを業病に侵された「摂州合邦辻」の俊徳丸のような姿で理解しました。だから当時の人々は「がきあみ」ではなくて、「がきやみ」(やみは病み)と呼んだのです。例えば「当世流小栗判官」ではお駒という娘が小栗に失恋して死んで怨霊と化し、小栗の面相を醜く変えてしまうという怨霊譚仕立てにされてしまいました。これは説教「をぐり」とは全然違う形になってしまいますが、そうすることで筋の合理化がなされたと云うことです。しかし、説教の世界から遠ざかってしまいました。そこが歌舞伎の限界と云うべきで、そこに中世と近世の精神的な断絶が現れているように思われます。(これを論じると話が横にそれるので、ここではひとまず置く。)
現代日本人にとって説教「をぐり」の世界は、江戸期の人々よりもさらに遠い存在です。だから梅原猛がスーパー歌舞伎で「をぐり」を取り上げるならば、説教の精神世界をどのように芝居のなかに蘇らせるか、或いはそこに現代日本人が忘れてしまった大切な心があるか、そんな思いを脚本のなかに込めたに違いないと吉之助は考えるのですがねえ。(この原稿つづく)
(R2・4・19)
ご心配なく、吉之助の体調は現在のところ問題ありません。ただちょっと鬱気味かな。新型コロナ感染の問題は世界中に拡散し、世界各地で劇場・コンサートホールの閉鎖が相次いでいます。こういう危機的状況に芝居や音楽どころかと云う向きもあると思いますが、不要不急の外出を控えねばならない生活ではメンタル管理は必須で、こういう時に音楽や演劇・芸能を愉しめることの有難さを改めて思いますねえ。
3月12日にベルリン・フィルハーモニー・ホールの閉鎖(現時点では4月19日まで)が決った時に、楽団は直ちに「12日夜に予定されていた演奏会を無観客で行ない、その模様をインターネットで世界に無料同時配信する」旨の声明を出しました。ベルリン・フィルは2009年1月から「デジタル・コンサートホール」というサイトを運営しています。ホールに映像収録・配信のための設備があって、定期公演のほとんどが収録されています。もう10年の歴史がありますから、アーカイヴの蓄積は既に膨大なものとなっています。ベルリン・フィルはこれで世界中から多くの年間会員(月単位会員もあります)を集めています。こういうことは超人気オケだから出来ることかも知れませんが、このように演奏活動が長期に渡って制限されて・楽団経営さえままならぬ状況が現出してくると、もちろん10年前に彼らがコロナのような状況を予見出来たはずはないですが、ベルリン・フィルの試みが、楽団維持の為・或いは表現活動の継続の為に、どれほど重い意味を持ってくるかは、論じるまでもないことと思います。(吉之助が10年前に書いた記事をご覧ください。)
現在各地の劇場・コンサートホールが閉鎖され、多くの音楽家・演劇人が表現機会を奪われているのみならず・収入の機会さえ絶たれています。この状況が何か月も続くならば、冗談ではなく、芸術・芸能の存亡にかかわって来ます。小規模な劇団などは生き残るのが大変です。行政から適切な支援が行なわれることを願いますが、まずは自助努力と云うことになれば、多くの人をひとつ場所に集めることが許されない現状では、その手段は上記ベルリン・フィルのデジタル・コンサートホールのようにITを活用して、映像コンテンツを配信して、少しでも日銭をコツコツ稼いで行くしかないのではないでしょうか。権利関係などクリアせねばならない問題もあるし、何よりも資金面で強力なスポンサーを得なければ実現しないと思いますが、劇団・ジャンルを超えて映像コンテンツを配信し、それなりの対価・或いは支援を募るサイトが存在するならば、これを見て少しでも力になりたいと思っている観客は大勢いるはずだと思います。そう考えるとベルリン・フィルには先見の明があったと思いませんか。演劇業界は遅まきながらそういうことを真剣に考えて、(資金的な問題については)スポンサーを募って、将来また何時起こるかも知れない危機に備えた方が良いと思いますねえ。確かに音楽も芝居も生(なま)の方が良いかも知れませんが、そう云うところに固執していてはリスクヘッジはままなりません。
コロナの現状下でライヴストリーミングで演奏を無料配信する試みがいくつか行われています。無料なのは我々は嬉しいし、こう云う機会に音楽の有難味を噛み締める機会にはなりますが、音楽家の生計の足しになりません。適切な対価ならばこちらは喜んでお金を払って見るし、カンパを募るのならば応援のために出来ることをしたいと思います。IT関係で儲かってる大きな会社(いろいろあるでしょ)は、こういう時に音楽や演劇の支援に名乗りをあげて欲しいものです。そう云う経営者は日本にはおらんのかね。
コロナウイルス問題に絡み行われたいくつかの音楽コンテンツ無料配信について記しておきます。3月12日・ベルリン現地時間7時(日本では翌日13日朝の4時)にライヴ配信されたサイモン・ラトル指揮ベルリン・フィルの演奏会はライヴで聞きました。おかげで睡眠不足が2日ほど残ってひどい目に遭いましたが。バルトークの管弦楽のための協奏曲は1944年の初演(クーセヴィツキー指揮ボストン響)です。若き日の吉之助が初めてこの曲を聴いた頃はまだ生乾きの現代曲の雰囲気を残していたものでした。しかし、このラトルの演奏で聞くともうすっかり古典になってしまったなあと云う感じがしますね。ただこれはラトルに対するささやかな不満だが、このコロナの惨状下において行なわれた演奏会にしては憤(いきどお)りや怒りのようなものがあまり感じられない演奏ではあったと思いますねえ。そういうものが古典的な趣のなかに収まっちゃってる感じです。しかし、この曲は第2次世界大戦中の作品なのですから、序奏などは、もっと軋(きし)み・叫び・唸(うな)っても良いと思いますがねえ。
これとは対照的に感じられたのは、同じく3月12日に米フィラデルフィアで無観客で行われたヤニック・ネゼ=セガン指揮フィラデルフィア管のベートーヴェンの交響曲第5番・第6番の演奏会でした。(Youtubeによるオンデマンド配信なのが有難い。)こちらは内にある怒り・憤りを前面に押し出した演奏でした。確かにこれは吉之助が好みにしている伝統的なドイツの重厚な響きとは全然違います。好みに拠りますが、キンキンして耳に痛い響きと云う感じもします。如何にもアメリカ的な響きなのだが、しかし、楽譜に書かれた音符がすべて思い切り鳴っていると云う爽快感がある。早いテンポでガンガン押しまくる粗削りの「運命」交響曲に鼓舞される思いがしたのは、このコロナという理不尽な状況ゆえです。奇しくも今年はベートーヴェン生誕250周年の記念すべき年なのですが、ベートーヴェンはホント凄い「意志の人」だなあと改めて思いました。それだけに「田園」交響曲の最終楽章の自然への感謝がひときわ心に沁みました。このような演奏会が拍手なしで終えざるを得なかったのは、ホントに悔しい思いがしますね。みんなが安心して演奏会に行ける状況が一日でも早く来ることを願わずにはいられませんでした。
別の趣のライヴストリーミングで心に残ったのは、3月14日に来日中のアンドラーシュ・シフが行ったトークとリサイタルです。シフの純朴で暖かい人柄が良く出たトークとピアノでした。メイン・プロはここでもベートーヴェンですが、ピアノ・ソナタ第26番「告別」はひとつひとつのタッチが、澄んだ清水のように心のなかに染み入る心持ちで、心底癒しの音楽でした。音楽を聴けることの有難さを今更のように噛み締めました。
(R2・4・1)
十三代目団十郎襲名披露興行(5〜7月歌舞伎座)の演目・配役の全容が、いつまで経っても明らかにならず、何でこんなに遅れるのかと心配してましたが、先日(20日)の「歌舞伎美人」サイトにひっそりと掲載されていました。本来こう云う時には興行は大々的にぶち上げて襲名ムードを盛り上けるものだ(何しろもう初日が約40日後に迫っているのです)と思いますが、生憎、新型コロナで3月歌舞伎興行が全休決定された(18日)直後で、気分がどん底に落ち込んでいる最悪のタイミングで、この点まったくツイてないとしか言いようがありません。現状ではお練りだって自粛せねばならないかも知れないし、ここから襲名ムードを盛り上げていくのはなかなか大変なことだと思います。
それにしてもコロナも一因には違いないですが、ここまで襲名ムードが盛り上がらないのには、現・海老蔵にも原因はありそうですが、何か他にも根深い問題が梨園に潜んでいそうに思います。襲名興行のラインナップを見ると、編成の方のご苦労が察せられます。まあ要らぬ詮索は止めときますが、それにしても陣形はそれなりに付いているけれども、通常月18千円(一等席)のところ襲名月23千円というお値段に見合う大顔合わせのワクワク感には、残念ながら乏しいと言わざるを得ない。これを見て感じるところは、団十郎襲名と云えども、もはや歌舞伎のそんなに特別なイベントではない、3ヶ月興行なのが目立つくらいと云うことですかねえ。昭和37年(1962)の十一代目団十郎・昭和60年(1985)十二代目団十郎の襲名はそれは豪華な印象でしたが、なまじっか吉之助の脳裏に在る華やかなイメージを期待してしまうものだから、今回は無難だけれども・ちょっと地味な感じに見えてしまいました。
歌舞伎のなかで市川団十郎家は特別な存在だとマスコミは囃しますけど、これはまあ議論があるところだと思います。十一代目・十二代目襲名の時だって、「団十郎と云ったって何が特別なんだい」と内心思っていた方は、多分梨園に少なからずいたと思いますし、それが普通だと思います。役者はそれぞれ一家言あるわけで、そういうプライドの持ち主ばかりです。ただし、あの頃は梨園に共通の「敵」が存在しました。それはつまり映画やテレビのことですがね、そう云う方面に客を奪われて歌舞伎は興行的に危機に瀕していたのです。だから団十郎ばかり特別扱いが気に入らなくても、とりあえず団十郎を旗頭にみんなで一致団結して共通の「敵」に対し歌舞伎を盛り上げていこうよと云うムードが確かにあったと思うのです。団十郎を盛り立てることが、歌舞伎を守ること、自分たちを守ることでもあったのです。令和2年(2020)現在には、そう云う雰囲気があまりないのでしょう。それにしてもせっかくの歌舞伎のお祭りなのだから「みんな一丸となって盛り上げようよ」という気運が梨園全体にもうちょっとあっても良いのにとは思います。戦後75年間のなかで、現在の歌舞伎の状況が、それだけ恵まれているということなのでしょうねえ。
演目は「助六・勧進帳・暫」と云うことで、団十郎ならばこれは当然出来てもらわねばならぬという演目で固めています。その意味では安定路線です。この機会に新たな領域(演目・役どころ)にチャレンジしてみても良かったのでは?と云う気もしますが、襲名とは歴代の芸のイメージのなかに自分の芸を重ねて行くことでもあるわけですから、そこのところを踏まえつつ謙虚な芸の精進の成果をみせてもらいたいと思います。
(R2・3・23)
(追記)新型コロナ感染問題により、本日(7日)政府により緊急事態宣言が発せられることが決まり、これを受けて上記・5〜7月歌舞伎座で予定されていた十三代目団十郎襲名披露興行は延期となりました。
(R2・4・7)
初代八重子と玉三郎・菊之助でそれぞれ別箇に観劇随想を書きましたけれど、実はこれらは相互に密接に関連ながらひとつの問題を追っていますので、その大筋の流れを説明しておきます。
別稿「初代八重子の稲葉家お孝」において、新派の稲葉屋お孝は、歌舞伎の女形と比べて、もうちょっとその先の、新しい感覚を行っている気がすると云うことを書きました。歌舞伎の女形から見ると、お孝の役はちょっとだけ「未来形」の女形であると思うのです。つまり、歌舞伎の女形よりも、ちょっとだけ尖がっている・ちょっとだけポジティヴな要素があると云うことです。どんな芸術でも、それが生まれた時代の空気と無縁なものは決してありません。女形でもその通りで、新派の女形は、それが生まれた時代・つまり明治末期から大正初期辺りに生きた女性の感覚・雰囲気を写しています。喜多村緑郎や花柳章太郎はそんな女形であったと想像するのです。
一方、歌舞伎にも新派と同時代に生まれた新歌舞伎というジャンルがあります。当然これも明治末期から大正初期辺りの感覚を反映しているはずです。しかし、新歌舞伎の時代背景は、すべて過去である江戸期の社会風俗・倫理観念です。だからどうしても新歌舞伎もそこに縛られてしまわざるを得ません。女形の伝統的技法が表徴する女性は、控えめな女性・出過ぎない女性・男性に対して常に一歩下がって自分を出すことをしない女性です。歌舞伎の女形には、常に「負」の印象が付きまといます。これが歌舞伎の女形の技法が表徴するものです。江戸期を背景とする以上、歌舞伎の女形はそのような表徴の束縛から抜け出すことが出来ません。
新派の女形が、歌舞伎の女形よりもちょっとだけ「未来形」であるのは、新派が背景とする時代(社会)が歌舞伎よりはいくらか「未来」(明治末から大正期)だということから来ます。(これも令和の現代では、すでに今は昔の感覚ではあるのですが。)つまり明治維新で民衆がチョンマゲと帯刀をとっくに捨てたのに、歌舞伎はこれらを捨てなかった(捨てられなかった)ところが、岐路になるわけです。明治維新の時点で歌舞伎の女形は進化を止めてしまったと云う歴史認識を、歌舞伎役者は持つことが必要です。そうでなければ、新しい感覚の歌舞伎の女形を創り上げる方法論を構築出来ないと思います。
そう考えれば、別稿「玉三郎の稲葉家お孝」で触れましたが、新派のお孝のような玉三郎の体質にピッタリした役を歌舞伎は十分提供できなかった、玉三郎の天才は歌舞伎と云う器に収まり切れなかったと吉之助が嘆息する気持ちは、ご理解いただけるだろうと思います。歌舞伎のなかで「玉三郎にあつらえたようにぴったりだ」と思える役は、実はそんなに多くはありません。その意味においては天才玉三郎でさえ、新しい感覚の女形の創造と云う仕事は途上で終えることになりそうです。玉三郎が演じたマクベス夫人以後、五十年近く玉三郎を追ってきた吉之助にとっても、これは大変残念です。
そこで話は菊之助のことに移りますが、新作歌舞伎「風の谷のナウシカ」の主人公ナウシカや「NINAGAWA十二夜」の琵琶姫(ヴァイオラ)を、菊之助が旧来の古典歌舞伎の女形の技法を使ってクネクネ・シナシナに仕立てて、作品が持つ時代(社会)と感覚がまったく合わないものになって行くのは、これは当たり前のことなのです。ホントはもっと尖がった・もっとポジティヴな感覚に仕立て上げる必要がある。しかし、歌舞伎の女形はもはやそう云うパワーを持ち合わせていないのです。菊之助のナウシカを見て、このことを痛切に思いました。
菊之助のナウシカには、これを見た若い観客から「違和感があり過ぎ」・「どうしてもナウシカに見えない」・「老けてみえる」とかの声がとても多い。それは人気漫画が原作のことだから、アニメ・ファンの主人公に対する頑固な思い入れがあるからそう感じると云うことではなく、作品が描く世界観と歌舞伎の伝統的な女形の技法との本質的な齟齬を、彼らは正確に感じ取っているのです。この点こそ今回の新作歌舞伎「ナウシカ」の一番大事な問題です。
令和の新作歌舞伎のために、女形の伝統的技法をポジティヴな方向へ向けてまったく新しい女形像を編み出して欲しいと思います。聡明な菊之助ならば、このことは分かると思います。女形の感覚がまず変わらなければ、歌舞伎は変わらないでしょう。
(R2・3・13)
〇令和2年2月歌舞伎座:「菅原伝授手習鑑〜筆法伝授・道明寺」
令和2年2月歌舞伎座「菅原」半通しは「筆法伝授」の出来が良く、「道明寺」がそれに次ぐ出来という感じでしょうか。「筆法伝授」は場面が細かく分かれるし・劇的なシーンがあるわけでもないけれど、舞台が引き締まって見えたのは、仁左衛門の丞相の優美さと梅玉の源蔵の実直さの対照がよく効いて、橘太郎の希世以下周囲も頑張って小気味良く芝居が運んだからです。バランスが良い出来でありましたね。
「道明寺」での仁左衛門の丞相はその気品と云い・優美さと云い、申し分ない出来です。吉之助の記憶には、「神品」とさえ云われた先々代(十三代目)仁左衛門の丞相の姿が今もはっきり刻まれていますが、当代仁左衛門の丞相は先々代に比肩する出来であると思います。吉之助は当代の丞相を見ながら先々代の口跡なども思い出しました。敢えて比べるならば、優美さにおいて当代の方が勝り、実直さ・素朴さにおいては先々代が際立つとも云えそうです。「道明寺」での「鳴けばこそ・・」の御歌では当代の台詞は流れるように滑らか、そこに丞相の神性が表れています。先々代の口跡はもう少し人間丞相・現人神としての丞相の方に寄っていたかなと思いますが、まあ印象のちょっとした差に過ぎず、そこは甲乙をつけ難い。
しかし、一点だけ申し上げておきたいと思うのは、「道明寺」幕切れの丞相名残りの足取りのことです。当代の丞相は足取りがスッスッと前に行く感じがしますねえ。吉之助の目には、あっと思うと丞相が先へ行っていた瞬間が二度ほどありました。ここは先々代の方が良かったと思いますねえ。丞相名残りは、後ろ髪を引かれる思いのなかで歩みを進めるものです。当代の丞相は前に進む気持ちが若干勝っていたように感じます。これは千之助の苅屋姫が身体を丞相の方へ押して行かないせいもありますが、苅屋姫が押すと丞相は一瞬身体を引き・一瞬の躊躇があって・視線を反らしつつ向きを変え・また足取りを進める、当代の丞相の足取りに、もう少し一瞬のタメが欲しいのです。そうすれば別れの哀切が増すことでしょう。
玉三郎の覚寿は平成22年(2010)3月歌舞伎座建て替えのさよなら公演の時が初役で今回が二回目になります。前回は初役で・しかも玉三郎にとって意外の老け役と云うことも意識して、役に対する気構えも普段と違っていただろうと思います。腰を落として背を低めていたし、台詞のトーンもいつもより低めに取っていたと記憶します。しかし、今回の再演では、初役の時の緊張感が乏しいように感じます。例えば奥の間からの「不幸者、どつちへ行く」の第一声、襖が開いた瞬間の姿に、若干の違和感を覚えます。しかし、まあ現実には声が高くて背がしゃんと伸びたお婆さんもいるわけですからそこはそことして見ることにしますが、玉三郎の覚寿は理が先立つように感じますねえ。性根としては正しいのかも知れませんが、何だか「立田殺しと木像の謎」事件推理のような感じに見えてしまうのです。この段は「道明寺縁起」の見立てなのですから、覚寿が自らの髻を切り落として言う「初孫を見る迄と、たばひ過した恥白髪。孫は得見いで憂き目を見る。娘が菩提。逆縁ながら弔ふこの尼」と云う台詞が大事だと思います。「道明寺」は覚寿の悲劇でもあるのです。
芝翫の輝国はこういう役は芝翫のニンにぴったりだけれど、覚寿が「輝国殿、目利きなされて下され」と頼んでいるのだから、あっちゃ向いてないで、上手障子内の丞相と下手の輿内の木像を見比べて「呆れ果てたるばかりなり」でオオッと驚き入るくらいの演技はしてもらいたいですねえ。輝国は道明寺の木像身替わりの奇跡を語り継ぐべき証人なのですから。
(R2・2・17)
〇令和2年2月歌舞伎座:「菅原伝授手習鑑〜加茂堤」
「加茂堤」はうららかな早春の一時(ひととき)。歌舞伎では省かれますが、「加茂堤」冒頭では松王・梅王が仲良く並んでうたた寝しています。醍醐帝病気の平癒祈願のため、今日は丞相、時平、斎世親王、全員が加茂神社に来ているのです。牛飼舎人の彼らにとって、主人が参拝している間が休息時間です。この仲の良い兄弟が敵味方となって反目し合うなんてことは、夢にも想像が出来ません。しかし、穏やかな春の日差しは暖かいけれど、顔を撫でる風はまだ冬の冷気を残してひんやり冷たい。そして春は、天候がコロコロ変りやすい。あんなに暖かだったのが一天にわかにかき曇り、急に雨が降り出したりするものです。「加茂堤」の春の日も、そういう日なのです。桜丸夫婦は斎世親王と苅屋姫を手引きして、シメシメ上手く行ったと喜んでいます。ところが現場を時平の家来三善清行に見つけられたことから、事態が一変するのです。左大臣菅丞相失脚という・予想もしなかった疑獄事件にまで発展してしまいます。原因を作ってしまったことを悔いて桜丸は後段「佐太村(賀の祝)」で切腹して果てることになります。
「加茂堤」を見る時、以上のことを押さえておきたいと思います。「加茂堤」は二組のカップルのほのぼのした色模様を見せて、立ち廻りもあり、コミカルな味わいの場に見えるかも知れませんが、後段のことを思えば、伏線として決しておろそかに出来ない大事の場なのです。これが「うららかな春の日」と云うことの意味です。ですから桜丸・八重の夫婦は、ふっくらとした美しさのなかに・どこか暗い不幸の翳が差している、そういう感じが欲しいのです。つまりもうすぐ散ってしまう花の儚いイメージです。ここは「佐太村」と同様に考えて欲しいと思います。
今回(令和2年2月歌舞伎座)の「菅原」半通しの「加茂堤」ですが、孝太郎の八重にはそのような感じが確かにあります。バランスが取れた良い八重ですね。一方、勘九郎の桜丸は、さっぱりとしたコミカルな印象がします。恋の取り持ちをする「真夏の夜の夢」の妖精パックみたいな軽い感じかな。まあそう云う側面もあるかも知れませんがね。まず登場した時の足取りが腰高に見えるのが、ちょっと気になります。台詞も高調子気味ですねえ。だからカラりと明るい感触の桜丸になってしまいました。これでもし後に「佐太村」が続くとしたら、この桜丸で一貫できるでしょうか?そういうことも考えてみて欲しいのです。憂いが強過ぎてはいけませんが、ここで引き起こした事の重大さが一番分かっているのは、桜丸なのではないでしょうか。
(R2・2・10)
例によってクラシック音楽の話から始まりますが、そのうち歌舞伎の話になりますから。吉之助の場合は歌舞伎を考える時にクラシック音楽から示唆を受けることがしばしばですから、これはどうにも分けられません。先日、メトロポリタンオペラのライヴビューイングでマスネの歌劇「マノン」(2019年10月26日の上演映像)を見たのですが、その時に騎士デ・グリューを歌ったマイケル・ファビアーノ(35歳)が幕間インタビューで、ファンからの質問に答えて、こんなことを語っていました。ファビアーノは現在オペラ界で人気急上昇のアメリカ出身のテノールです。質問は「学校でやるディベートの授業は、オペラをやる時に役に立ちますか?」と云うのです。これを質問したのは高校生かな?意表を突く質問で、吉之助も一瞬意図が分からずでしたが、これをファビアーノが即答で見事に切り返してみせました。
『大いに役に立つ。もし君が何かしようとする時、誰かに「こんな風にしてみたらどう?」とアドバイスされたら、とにかくやってみることだ。例え君が心のなかではそれに同意していなくても。』
さすが一流になる人の返答は違うものだと感心しきりでした。短いインタビューでも立派な芸談にしてしまうのですね。アメリカの高校でやるディベートの授業では、例えばこの事項に対して君は賛成か・反対か、それでは右半分の席の君たちは賛成の側、左半分の席の君たちは賛成の側ということで議論をやってみようか。それでしばらく自由討論をやってみて、しばらくしたら今後は立場をチェンジして議論を行なう、そう云うことをやるのです。そうすると或る考え方にも、立場によって見え方が変わる、どの立場にもそれなりの理屈があると云うことが、感覚で分かって来るわけです。日本人の場合はそのような訓練が出来ていないので、議論と云うとしばしば相手の揚げ足取りか・重箱の隅を突く些末論義、「その言い方は何だ」という言葉尻の非難、あげくの果てには「お前にそんなことを云う資格はない」という人格攻撃になる、まあ大体そんなところですかねえ。このところの国会議論など見ているとまさにそれです。
ところでオペラ歌手の場合ですが、或る曲・役どころに対して彼自身もそれなりの見解・意見を持っているものです。しかし、実際に歌劇場で歌う時は、演出家あるいは指揮者あるいは共演者の解釈によって必ずしも自分の見解に沿わないことをやらねばならぬことがしばしばあります。世界の歌劇場を渡り歩けば、同じ役でも様々な解釈と付き合わねばなりません。その場合でも彼は結果を出さねばならないわけです。そこで
自分の見解に固執していたのでは、良い結果は決して出せません。そういう時に学校でやったディベートの経験が必ず役に立つと、ファビアーノは言いたかったのだと吉之助は理解します。演出家や指揮者のアドバイスに沿って「とにかくやってみる」と、そこから自分が予想も付かなかった果実を得る場合がある、これが実に堪らない感動体験なのです。だから自分の見解に固執していたのでは、自己の成長はあり得ないと云うことです。つまり「形から入る」、そこから何かを得ることだって出来ると云うことなのです。これで吉之助が何を言いたいかお分かりになったでしょうが、
歌舞伎の「型」のことです。「型」と云うと、何かと「やらされている」感覚がつのる、自分の意志で演技するのでなく「無理にさせられている」ぎこちない感覚がつのる、そう云うことが現代に生きる歌舞伎役者には多いのだろうと思います。これは現代に生きているからこそそうならざるを得ないと云うことかも知れませんが、見方を替えてみると、これは「形から入る」ということの意味、とにかくやってみて・そこから型の心をつかむと云うプロセスの意味を、現代の歌舞伎役者はあまり分かっていないのだなあ、ファビアーノのような世界の歌劇場を渡り歩く一流オペラ歌手と比べると、ずいぶん甘っちょろいことだなあとも思うわけです。「形から入る」と云うことにもっと厳密さを求めるように自らを戒める必要があるようです。古典歌舞伎の舞台を見て、そう云うことを考えることがこのところとみに多くなりました。(R2・2・2)
〇令和2年1月歌舞伎座:「奥州安達原〜袖萩祭文」・その4
芝翫が時代物の「らしさ」を持っていることは大きな強みですが、このところ恵まれた風格に頼りすぎて演技がメタボ気味で、貞任の心情がいまひとつ迫って来ません。役の内面を細やかに掘り下げて欲しいですねえ。今回(令和2年1月歌舞伎座)の芝翫の貞任の問題は、貞任を如何にも四段目にありそうな・スケールの大きい国崩しみたいな役どころに捉えて、貞任のナイーヴな性格描写をおろそかにしている点にあります。教氏を人の良いお公家さんに仕立てたので、相対関係で貞任の位置付けを誤ってしまうのです。貞任は娘にすがり付かれれば取り乱し、自害した女房を見れば泣き叫ぶ、あまりに情が深過ぎる人物です。感情の揺れを押し殺して、鬼になって敵・義家に立ち向かおうとしたが、結局鬼になり切れなかったのです。このような貞任の家族に対する深い愛情を十分描き出してこそ、「安達三」は正しく三段目に出来るのです。
勘九郎の宗任は、「安達三」のなかでは唯一涙を見せぬ剛毅な役なので、勘九郎のストレートな演技が似合っています。しかし、時代物でのちょっと鼻に掛かってくぐもった発声は、父・十八代目勘三郎の同じく時代物での発声を思い出させて懐かしいのは事実ですが、これはあまり真似して欲しくありませんねえ。あの勘三郎の発声はあまり質の良くない義太夫語りの声色だと思います。勘三郎は世話物は兎も角、時代物では「らしさ」にこだわりが過ぎて・いまひとつ殻を突き破ることが出来ませんでした。それが出来ない勘三郎ではなかったろうに。まあそれだけ伝統の重圧が強かったと云うことですが、勘三郎は時代物では発声がネックでした。勘九郎は父とは異なる実事向きのニンなのですから、明瞭な発声を心掛けて欲しいと思います。
七之助の義家は風貌爽やかで悪くないですが、感触がちょっと冷たいかな。義家は役としては「熊谷陣屋」の義経と同様に、もののあはれを感じ取る・情けを解する男であると考えて欲しいのです。七之助はこれから義経を任される機会が多くなるだろうから、そこは心得て欲しいと思います。幕切れで義家が貞任を野に解き放つのは、これは「古今著聞集・衣のたて」の有名な逸話を趣向として作中に取り入れたものです。馬に乗って逃げる貞任に対して・追う義家が「衣のたてはほころびにけり」と呼び掛けると、貞任が「年を経し糸の乱れのくるしさに」と返した、これを聞いて義家はつがえていた矢をはずし貞任を追うのをやめた、これは天喜4年(1056)の出来事でした。貞任の情愛に感じ入って懐に入った窮鳥を解き放つ、ここはそのような気持ちなのですから、義家は「安達三」幕切れを締める大事な役どころなのです。
(R2・1・29)
〇令和2年1月歌舞伎座:「奥州安達原〜袖萩祭文」・その3
「安達三」での教氏と貞任との位置関係を考えてみます。まず教氏が障子屋体から登場して・自害した{杖・袖萩を見下ろしつつ言い放つ最初の台詞を見ます。
「貞任に縁組まれしご辺、所詮死なで叶はぬ命、袖萩とやらんも死なずばなるまい、健気なる最期の様子天聴に達し、申すべし」
読めば分かる通り、これが人の好いお公家さんの台詞であるはずがありません。普通のお公家さんなら血を見て「ヒェー」と叫んで卒倒しそうな凄惨な光景なのです。「袖萩・・」で言い淀み・そこに感情の揺れを表出する場面がちょっとありますが、{杖も袖萩も死なずばなるまいと一遍の同情もなく、氷の如く冷たく感情を押し殺した台詞です。この台詞を黒の衣冠束帯・紫の指貫の公家装束で言うところに、教氏と云う役の峻厳さを感じ取らねばなりません。つまり教氏は時代の位取りの重い役であると考える必要があります。一方、貞任はぶっかえって・勇ましく義家に戦いを挑み、如何にも時代物らしい重さがある役に見えるかも知れませんが、娘・お君にすがり付かれればオロオロ取り乱し、自害した女房・袖萩を見れば恥も外聞もなく泣き叫ぶ、生(なま)な感情起伏があまりにも激しい人物です。ここで役の大きさが損なわれています。つまり貞任は大時代の役という位置付けに完全になり得ないと云うことなのです。
このことはこの芝居が「安達三」・つまり三段目であることと深く関連するでしょう。時代浄瑠璃の三段目の位置付けは恋慕である・世話場であると云うことを考えれば、「安達三」が追求するものは、女房・娘と非情の別れをせねばならぬ貞任の嘆きだと云うことに気が付かねばなりません。ここに現行歌舞伎の「安達三」の型の、根本的な誤解があると言えそうです。御殿の舞台面で男たちが「互ひに勝負は戦場々々、まづそれ迄はさらばさらば」と丁々発止やるものだから、この見せかけで「安達三」を四段目みたいに勘違いしてしまっているのです。
この吉之助の推論は、「安達三」がぶっかえった貞任が衣装を直し・元の公家装束に戻って幕切れとなる(つまり教氏に戻る)ことで裏付けが出来ます。これは義家が貞任に「まづそれ迄は桂中納言教氏卿ご苦労ざふ」と呼び掛け・一旦この場を教氏として野に解き放つことにしたからですが、これで絵面として如何にも時代物らしい形に出来ます。つまりこのことで役として貞任より教氏の方が重い位置付けになっていることが明白なのです。しかし、あくまでこれは絵面上・見掛け上のことなのです。教氏はもう貞任の正体を顕わしてしまっている。いくら貞任が力んだところで流れる涙は隠されません。幕切れの詞章をご覧ください。「振り返り、見やる目元に一時雨(ひとしぐれ)、ぱっと枯葉のちりぢり嵐心弱れど、兄弟がまた、取り直す勇み声、よるべ、涙に立ち兼ねて・・」と、勇ましい舞台面とまったく裏腹です。つまり「安達三」の幕切れにおいて舞台面とドラマの実質が引き裂かれており、如何にも時代物らしい構図はここでは破綻しています。これが三段目の幕切れなのです。(この稿つづく)
(R2・1・26)
〇令和2年1月歌舞伎座:「奥州安達原〜袖萩祭文」・その2
今回(令和2年1月歌舞伎座)の「安達三」での芝翫の初役の貞任に対する不満は、前場面の「矢の根」がカットされていることも大きいのですが、「桂中納言教氏(かつらちゅうなごんのりうじ)実は安倍貞任」という役の、教氏と貞任の位置関係が曖昧であるということです。貞任は前九年の役で朝廷に反旗を翻した安倍一族の長であり、今は源義家の命を付け狙う、つまり典型的な時代物の大役です。当然のことながら芝翫は「俺のニンにピッタリの役だ」と云うことで、そこは一生懸命やっています。それは良いのだけれど、芝翫は教氏の位置をどう考えているのでしょうか、そこが問題です。教氏は奥州に流された則国(のりくに)の遺児で、大赦を得てこのたび父と同じ官職についたばかりです。(つまり京都朝廷に教氏を昔から知る者は誰も居らず、だから貞任は易々とこれに成り代わることが出来るわけです。)教氏は中納言であるから、お公家さんらしく・おっとり品よく勤めなければならないでしょう。そこに公家の気品が表れねばならぬ。教氏が本性を見顕わして・ぶっ返って貞任となって義家に激しく詰め寄る、教氏と貞任の変わり目をはっきり付けて(イメージの落差を付けて)この場面を時代物らしく・派手にカッコ良く決めたい。そういうことは誰しも考えることだと思います。そこで芝翫が教氏をどのように演じたかが問題になって来ます。
芝翫は、貞任は重い時代物の役であるから、教氏を軽めの感触に・つまり人の好さそうな品の良いお公家さんに仕立てて、貞任とのイメージの落差を大きく付けよう、その方が見顕わしが映えると考えたやに思います。その結果、吉之助の目から見ると教氏の印象が軽く薄っぺらになってしまいました。台詞の口調がいかにも嘘っぽい。最初の登場では「ハイみなさん、私は化けてるんだよ、もうお分かりでしょ」と言って・片目をつぶって舌を出しそうな教氏に見えますねえ。花道にかかって陣触れ太鼓が鳴るとギクリとして、オロオロと慌てる様が滑稽です。だから「何奴の・・仕業なるか」での貞任への変化が上手く決まりません。これは教氏と貞任の位置関係を見誤っているからだと吉之助は思いますね。
芝翫は吉右衛門から貞任の演技の指南を受けたそうです。吉右衛門の貞任については別稿「安達三の難しさ」で触れました。現行歌舞伎のもっとも安定した貞任役者が吉右衛門であることに疑問の余地はないですが、「何奴の・・仕業なるか」での変化は吉右衛門でさえやはり上手くは行っていない感じがします。しかし、吉右衛門はさすがに教氏が薄っぺらに見えることはありませんでした。そこはしっかり踏みとどまっていますが、この箇所はなかなか難しいのです。そう考えると現行歌舞伎の貞任の型は、ちょっとしたことで芝翫のようになってしまう危うい問題を孕んでいると言えそうです。このことが今回の芝翫の貞任を見てよく分かりました。そこで改めて「安達三」での教氏と貞任との位置関係を考えてみたいと思います。(この稿つづく)
(R2・1・25)
〇令和2年1月歌舞伎座:「奥州安達原〜袖萩祭文」・その1
今回(令和2年1月歌舞伎座)の「安達三」は、顔触れとして芝翫・雀右衛門・勘九郎・七之助などあと10年もすれば歌舞伎を第一線でリードしていく面々だけに期待して見ましたが、このくらい出来て欲しいと思うレベルから見ると、ちょっと残念な出来でありました。誰のせいと云うわけでもなく、何だか全体的によろしくないようです。要因はいくつか考えられますが、確かに「安達三」はバランスを取るのが難しい芝居で、大歌舞伎であまり出来が良い舞台を見ない気がします。袖萩と貞任を兼ねる小芝居的な行き方の方が似合うのかも知れません。(別稿「安達三の難しさ」をご参照ください。)実は現行歌舞伎の「安達三」は完全なものではなく、「袖萩祭文」の前に「敷妙使者」・「矢の根」と呼ばれる部分があるのですが、これらをカットするのが現行歌舞伎のやり方です。このため前半(袖萩の祭文)と後半(貞任の登場以後)にドラマの連関性が弱くなるのが大きな問題で、前半が暗くて辛気臭い分後半を派手にして盛り返そうとするせいか、現行歌舞伎ではとかく前半と後半の落差が大き過ぎます。今回もそこは例外ではありません。しかし、それよりも気になるのは、各々役者の演技ベクトル(方向性)がバラバラで・まあみんなそれぞれそれらしくやってはいますが、互いに演技が噛み合っていないと思えることです。「寺子屋」ならば作自体の出来が良いし段取りが出来上がっているから、それでもまあ見ていられます。しかし、「安達三」のようにバランスが悪い作だと、もうどうしようもありません。こういうところで第二世代の義太夫狂言の経験の足りなさがモロに露呈します。
それにしても義太夫狂言の場合は義太夫(竹本)という音曲の縛りがあるのですから、本来は義太夫が作る流れに役者が沿って行けば、自然と全体の形が付いて行くものなのです。義太夫狂言では三味線が音程とリズムを示します。だから役者がしゃべる台詞のトーンもリズムも、自ずと許容範囲が決まって来ます。どこで・どの高さで・どういう調子で台詞を切り出すべきかは、三味線を聞けば感覚的に分かるのです。だから竹本に沿って役者全員力を合わせて行けば、義太夫狂言はそれで恰好が自然と付くはずです。だから或る意味で生世話物より義太夫狂言の方が役者にとってやり易いだろうと考えるのが普通です。素人歌舞伎の演目で義太夫狂言が多くなるのも、そういうことなのです。しかし、現実の歌舞伎ではそうでないようです。義太夫狂言の方が危機的状況に瀕しているみたいです。これは不思議なことですねえ。これは何故かと考えてみるに、結局、役者が竹本を聞いていないせいだとしか思えませんねえ。竹本はト書きを語るもの、役者は自分の台詞をしゃべるもの、竹本は背景音楽だと割り切っているとしか思えません。だから役者は各々自分のしゃべりたいトーンとリズムで台詞を勝手にしゃべる、まあそんな感じですかね。しかし、歌舞伎で義太夫狂言の規格が崩れ始めたのは、そんなに昔のことではないと思います。昭和の大幹部が存命の頃まではそれなりに規格を保っていたと思います。それがボロボロ崩れ始めたのは、平成の半ば頃からだと思います。だから今回(令和2年1月歌舞伎座)の「安達三」の面々が特別悪いわけではなく、たまたま演目が難物だから目立つだけのことです。
これは昨今の義太夫狂言の舞台全般に共通して云える不満ですが、まず三味線が示導する音程より、台詞が高調子に外れて出るのを何とかして欲しいと思いますねえ。もっとキーを下げて欲しいのです。クラシック音楽で云えば、伴奏がハ長調でやっているのに、歌手がヘ長調やらニ長調など各々勝手な調性で歌っているようなものです。例えば「安達三」前半の「袖萩祭文」は、暗く陰惨な辛気臭い場面です。三宅周太郎はこの芝居で重要なのは「泣きつぶしたる目なし鳥」と云う文句で、「安達三」ほど泣いて泣いて泣き抜く作、これ位悲劇的に救われない作は珍しいとまで書いています。竹本によく耳を傾けることです。三味線が示導する音程をよく聞くことです。こう云う場面で役者が派手に高調子で台詞を切り出せるものでしょうか。笑三郎の浜夕も雀右衛門の袖萩も、吉之助から見るとキンキンした高調子に外れた台詞まわしです。もっと調子を低く取らないと、これではあはれのムードに浸るどころではありません。前半だけのことでなく、今回の「安達三」にはこういう場面があちこちで見られます。吉之助は舞台を見ていてだんだん頭が痛くなって来ました。
雀右衛門の袖萩は二回目ですが、祭文の時に顔を伏せてないで、しっかり観客に顔を見せて三味線を弾いて欲しいですねえ。盲目の女旅芸人が祭文を語るのですから、そうでないと哀れが効きません。若手が三曲頑張っているのだから、一曲くらいは頑張りましょう。雀右衛門は昨年11月の「日向島」の糸滝もそうだったけれど、このところ自己主張が乏しい芝雀時代に逆戻りしたかのような印象を受けます。これからは昭和30年代生まれの役者が歌舞伎を引っ張ってもらわないと困るんだから、同世代として一層の奮起を願いたいですねえ。(この稿つづく)
(追記)なお補足しておくと、昔の木造建物で生活していた時代と違って、現在のコンクリート造りの反響の良い建物で生活するようになって、日本人は昔より高調子でしゃべる傾向が強くなったと云われています。また世界的に見ても、例えばクラシック音楽でも、チューニングするからキーは揃うのですが、より華やかに響かせようと云う意図か、50年前と比べればチューニング・レベルを高めにする傾向があるとも云われています。したがって時代的な特性として高調子の問題がありそうだということも指摘しておきます。
(R2・1・21)
〇令和2年1月歌舞伎座:「鰯売恋曳網」
昨年は勘九郎が大河ドラマに出演で歌舞伎の舞台から遠ざかり、今回(令和2年1月)が久々の歌舞伎座出演ということです。昨今は歌舞伎の世代交代への動きが一段と活発ですから、この時期の長期のブランクは勘九郎にとって気が気でなかっただろうと思いますけど、まっそれは兎も角、復帰となって・これからの精進に期待したいと思います。ところで今回の復帰演目「鰯売恋曳網」ですが、東京では平成26年(2014)10月歌舞伎座・父である十八代目勘三郎三回忌追善興行以来のことです。故・勘三郎の記憶がまだまだ生々しい時期でありました。吉之助はこの時の舞台を見ましたが、これはまったく父親の完全コピーみたいな猿源氏でした。その意味ではなかなか頑張っていたし、客席は湧いていましたが、超人気者であった父親の呪縛は大変なものだと思ったことでした。この時期の観客は二人の遺児(勘九郎・七之助)を応援したい気持ちがいっぱいであったし、だから自然と父のイメージの再現を勘九郎に期待します。興行サイド(松竹)も、そう云う思惑で演目を組みます。父の当たり役(もしかしたら猿源氏は十本指に入るかも)を演じるとなれば、勘九郎もかなりのプレッシャーがあったに違いありません。だから猿源氏が父そっくりになることは或る時期仕方のないことですが、勘九郎はしばらく何の役を演じても・どこかしら父の面影がチラついて・もどかしい印象がありました。吉之助が思うには、十八代目勘三郎と勘九郎は親子だから当然いろんな場面でフッと父親を思い出させる場面(特に声ですねえ)があるわけだけれども、勘九郎は父親よりも生真面目な印象が強くて、芸質としては実事向きであるでしょう。ですから父親とは異なる中村屋の新たな領域へ芸の開拓を目指した方が良いとかねがね感じていたところです。そんなわけで今回の約6年ぶりの「鰯売」と聞いた時には、また父親の完コピにならないかと心配しましたが、それは杞憂に終わって、今回は父親の呪縛から脱して自分なりの猿源氏が作れていたと思います。この点が顕著な変化で、これからの勘九郎の変貌を大いに期待させるものとなりました。
十八代目勘三郎襲名披露の「鰯売」の舞台(平成17年・2005・3月歌舞伎座)を思い出しますが、客席は沸きに沸いていましたが、喜劇と云うより笑劇のイメージでした。この時吉之助の前の座席に座ったオバさんはけたたましく大声で笑って・拍手して、時折口を開けたままガバッとのけぞる、後ろの吉之助には喉の奥まで見えそうで恐れ入りました。要するに今風の漫才コントの芸なのです。三島由紀夫は「鰯売」初演(昭和29年11月歌舞伎座・十七代目勘三郎による)の出来にご不満だったようで、後の座談会で「僕がいくら擬古典主義的なことをやっても、新しいところが出て来る。そいつを隠してくれるのが役者だと思っているのに、向こうは逆に考えていて、ここは隠してほしいというところが彼らにとっての手掛かりになるんだな」 と語っています。十八代目勘三郎の猿源氏は十七代目に輪をかけた、「鰯売」の笑えそうな箇所・つまり三島が隠してほしいと思っている箇所をほじくり返して・それをいちいち拡大して見せたような猿源氏でした。あの猿源氏は、三島は決して認めなかったと思います。
一方、今回(令和2年1月歌舞伎座)の勘九郎の猿源氏は、これはもはや父親の真似ではなく、ちゃんと勘九郎の猿源氏になっていました。あの時に吉之助がちょっと嫌だなと感じたところ・つまり父親の呪縛が抜け落ちて、素朴な味わいの猿源氏に仕上がりました。ここでは勘九郎の生真面目な芸風がよく生きています。例えば猿源氏が傾城蛍火の前で必死で演じる魚尽くしの戦物語では、真面目に演じているから時代物の「物語」の骨格がしっかり見える、だから魚尽くしの戦物語のクスッと笑える面白さが自然に立ち現れるということなのです。もしかしたら父親の猿源氏と比べて地味で面白みに欠けると不満を云う方がいるかと思いますが、これで良いのです。この勘九郎の猿源氏ならば、三島もまあ満足すると思います。これを契機にブランク取り戻して頑張ってもらいたいですね。
七之助の傾城蛍火は悪くはないですが、こちらは若干注文を付けたいと思います。玉三郎の蛍火の呪縛を引きずっているようです。勘九郎の猿源氏が粘らず軽みのあるテンポで演技しているのに芝居の感触が異なる印象がします。七之助の蛍火だけでなく、笑也・笑三郎以下女形陣が重ったるくなる(特に台詞が)のは、とうが立った幕末歌舞伎の女形のテクニックで処理しているからです。「鰯売」で三島が想定しているのはそれよりもずっと以前の歌舞伎の感触なのですから、もっと素朴に・軽みを以て処理してもらいたいのです。東蔵の海老名なむあみだぶつ・男女蔵の六郎左衛門は、勘九郎の猿源氏と息が合ってよく出来ました。
(R2・1・14)
〇令和元年12月国立劇場:「近江近江源氏先陣館〜盛綱陣屋」・その2
このような解釈の相違が生じるのは、「盛綱陣屋」において近松半二がそれだけ意地悪でトリッキーな作劇をしているせいです。別稿「歌舞伎における盛綱陣屋」・「盛綱陣屋の音楽的な見方」など関連論考で触れた通り、半二の芝居は設定が極端なうえに、どちらとも取れる曖昧な書き方をしているところが多い。このため歌舞伎の「盛綱陣屋」の盛綱は過度に情に傾斜した印象となってしまっています。首実検の場面で、白鸚の盛綱は、首を見て・腹に刀を突き刺した小四郎を見て・怪訝な表情をし、また首を見直して・それからもう一度小四郎の方を見てアッそうかと驚く。二度も小四郎の顔を見直して偽証の覚悟を固めると云う、くどいほど説明的な演技です。背後の時政から見て盛綱が考えることがバレバレです。まあ芝居だからそうなりませんが、これでは盛綱の人物が何とも小さく見えてしまいます。しかしまあ現行の歌舞伎の「盛綱陣屋」の段取りでは誰が盛綱をやっても観客を心底納得させることは難しいでしょう。
それにしても実に白鸚らしい演技だと思いますねえ。吉之助はそこに白鸚の役者としての(或いは人間としての)真実があると理解しています。同時に現代に生きる歌舞伎役者の苦しいところが、そこに見えるとも感じています。例えば由良助では、仇討ちの本心を偽って祇園に遊ぶ偽りの演技においては、白鸚は上手さが際立つ役者です。必ずしもニンと思えなかった大蔵卿でも、平家追討の志を偽って作り阿呆を装うというところで、驚くほど線の太い演技でその本質を明らかにしてくれました。今月(令和2年1月歌舞伎座)の五斗兵衛なども、そうです。主君の恨みを晴らすとか・暴虐非道の政権に反抗するとか云う論理が、時代を超えて揺るぎない大義に根差しているからです。こういう場合、白鸚は自信を以て偽りの演技を打ち出せます。もともと技芸があるから偽りの芸が映えるわけです。
ところが例えば松王とか熊谷のように、主筋の若君を護るために我が子を身替わりに殺すとなると、大義が揺るがさるを得ません。それは封建社会の江戸期には確かに大義だったのですが、現代では基本的人権が保障され親と子は別箇の人格とされ、もはや身替わりを大義として現代人に強くアピール出来なくなってしまいました。何て残酷、かつ無意味なことかと云うことになってしまいます。だから我が子を犠牲にする親の苦しみ・葛藤をクローズアップし、封建社会の論理に強制されて・やむを得ず我が子を殺す悲劇ということにしないと、歌舞伎が時代に対応出来ません。この点が現代における歌舞伎の弱み、現代の歌舞伎役者が悩み苦しむところです。大っぴらに大義を主張できないわけです。こう云うところに現代人としての白鸚の感性が、他の役者よりも敏感に反応するのです。他の役者だと何気なくスルーしてしまうところを、白鸚はそのままに捨て置けないのだろうと思います。それは白鸚のこの時代に対する感性の鋭敏さから来るもので、白鸚はドラマと時代感覚のギャップに何とか折り合いを付けようともがきます。表現としては、声を籠らせたり・震わせたり、泣きが強く出て来ます。由良助や大蔵卿であれほど太い筆致の役作りをする白鸚がどうして?と思いますが、何だかセンチメンタルで描線が弱くなって来るのです。白鸚の三大首実検もの、松王・熊谷・盛綱は、どれもそんな感じなのです。これすべて白鸚の役者としての真実から発するものと考えます。
吉之助はこういう場合はあまり深いこと考えず、むしろ形から入って行った方が成功するのにと思うのです。考えなくて良いと云うのではなく、考え過ぎはいけないと云うことです。例えば初代吉右衛門の記録映画(昭和28年11月歌舞伎座)を見れば、時政が退場した後・小四郎を「褒めてやれ・褒めてやれ」と云って扇をパッと掲げる長台詞で、そこまでのモヤモヤをすべて吹っ飛ばして興奮の嵐に出来るのですから、そういうお祖父ちゃんの芸の素晴らしいところを見習って欲しいと思うのです。要は場の気分の切り替えということです。この場面の白鸚の長台詞は決して悪いわけではないけれど、前段の首実検の陰鬱ムードを引きずって、カタルシスまでに至りません。大事なことは、ここでの盛綱は極度の高揚状態にあるわけですから、これを台詞のトーン・リズムに反映させることです。声のトーンをやや高めに置いてリズムを前のめりに言葉を機関銃のように叩き出す、これで歌舞伎の「盛綱陣屋」はそこまでの欠点全部帳消しに出来ると思うのですがねえ。
(R2・1・10)
〇令和元年12月国立劇場:「近江近江源氏先陣館〜盛綱陣屋」・その1
白鸚が盛綱を演じるのは28年ぶりということで期待して舞台を見ました。白鸚の盛綱は「思案の扇カラリと捨て」の「カラリ」のところが素敵に上手い。「カラリと捨て」という詞章なのに、大抵の盛綱役者は扇を捨てると云うよりも「傍にそっと置く」という感じが多いのです。これでは全然「カラリ」に見えません。ところが白鸚の盛綱は考えに気が行く余り・ホントにカラりと扇を取り落とすのですね。その息・間合いが実に上手い。と一応褒めておきますが、その直前がいけません。白鸚の盛綱は「思案の扇」で何か思い付いたらしくアッと口を開けて、それで「カラリと捨て」となるのです。一体盛綱はここで何をアッと思い付くのでしょうか。その後の盛綱の行動を見ると、それは「可哀そうだが小四郎には死んでもらわねばならぬ、その手伝いを母上(微妙)に頼もう」という事に違いない。どうやら盛綱は「これから後捕虜小四郎をどう扱ったものか」と考え続けたあげく、アッと思い付いて「小四郎は死んでもらわねばならぬ」という結論に至ったと、そのように見えるのです。吉之助にはそれは随分軽い結論に思われますねえ。これでは小四郎があんまり可哀そうだと云うものです。
丸本の詞章では「軍慮を帳幕の打傾き思案の扇からりと捨て」と云います。盛綱は何をずっと考えていたのでしょうか。吉之助が思うには、盛綱の頭のなかには「可哀そうだが小四郎には死んでもらわねばならぬ」という結論がもう最初からあったのです。そこで盛綱が考えたことは、ホントにその結論で良いのかということです。何とかそれを回避する策はないか、何とか小四郎を助けてやる手段はないか、盛綱はあれやこれや考えます。しかし、どのような策を取っても結局小四郎は北条時政の手駒として使われてしまい・弟高綱が窮地に陥ることは逃れられぬ、万策尽きた・・そこで「思案の扇カラリと捨て」となるわけです。「可哀そうだが小四郎には死んでもらわねばならぬ」という結論は同じじゃないかと思うかも知れませんが、思考プロセスがまるで違います。結論は随分と気が重いものとならざるを得ません。「思案の扇」はアッと思い付いたアイデアではないのです。
このことは音楽的に見ても検証が出来ます。「盛綱陣屋」を初演(明和6年・1769・竹本座)したのは初代豊竹鐘太夫でした。「思案の扇カラリと捨て」と云う部分は、「思案の扇」でグッと息を詰めて・暫しの間があって「カラリと捨て」となります。通常の間より重めの間が入ります。文楽では、これを鐘太夫の捨て間と云うそうです。例えば同じく鐘太夫初演の「十種香」で八重垣姫が勝頼だと思って走り出たところを・あれは花作りの蓑作だとたしなめられて「フーン何と云やる」という場面も鐘太夫の捨て間で、「フーン」と云ってから・そこで一瞬の不審とああそうなのねと云う思い直しがあって「何と云やる」になる、その間のなかに八重垣姫の心理変化があるのです。「思案の扇」も同様で、何とか小四郎を助けたいと思ったが・・万策尽きた・・無念・・という間があって「カラリと捨て」となるのです。これが鐘太夫の捨て間と云うものです。(この稿つづく)
(R2・1・6)
サイト「歌舞伎素人講釈」は平成13年(2001)1月にひっそりと誕生しました。これでいよいよ20年目に突入することになります。だいたいこう云う場合は歳月を10年(decade)単位で測るものだそうで、そうすると現時点では19年を終わったところだから、「歌舞伎素人講釈・この10年」なんてことを書くのはまだ1年早いので、それは来年のお楽しみです。しかし、何となくここで節目が来たような気分がするのは、世間的には本年(令和2年)が東京オリンピック、歌舞伎にとっては十三代目団十郎襲名の年という大イベントがあるからでしょうか。
ところで前回・十二代目団十郎襲名は昭和60年(1980)4月歌舞伎座から始まったわけですが、この時は約1年前の昭和59年4月27日に襲名披露狂言発表、昭和59年10月27日に成田山新勝寺でのお練り、約半年前の昭和59年11月18日から襲名披露興行の切符前売り開始、11月26日襲名披露パーティなど、襲名ムード盛り上げのためいろいろ行事が組まれました。その合間に関係先・贔屓筋の挨拶回りがあるわけですから、忙しいことでした。一方、今年5月に迫った十三代目団十郎襲名に関して準備がどんな感じで進んでいるのか、たいした報道もなく、経過がいまいちよく分かりません。果たして襲名ムードは盛り上がっているのでしょうか。そんな感じに見えないのですが。吉之助は神奈川大学の市民講座で十三代目団十郎襲名便乗企画・「市川団十郎と家の芸」という講座を現在やっていますが、襲名披露で「勧進帳」と「助六」をやるのは当然のことだけども、「外郎売」も決まりだろうが、他の演目の選定については演者によって考えがあることでしょう、そこで襲名披露狂言発表が正式に決まるのを待っているのだけれど、未だに発表がないので、やきもきしてます。こういう細かい話題を小出しで積み上げながら襲名ムードが盛り上がっていくものだと思いますけどねえ。まあ商売上手の松竹さんのことだからその辺如才はないことと思いますが、もう十三代目団十郎襲名はすぐそこ(5月)に迫ってます。
幹部役者が70歳台半ばになって、歌舞伎の世代交代が現実のものになって来たのも、節目が来た気分にさせられる要因のひとつですねえ。直近の関心事としては十三代目団十郎襲名の「助六」で玉三郎が揚巻を勤めるのかということがあるわけですが、そういう心配をしなければならなくなりました。別稿「平成歌舞伎の31年」で書いたように、昭和歌舞伎から平成歌舞伎への世代間移行は割合スムーズに行ったと思います。それは現在の幹部役者が若かりし時・つまり昭和40年〜50年代の結構早い時期から主役級の舞台経験を積んでいたからです。十八代目勘三郎・十代目三津五郎の相次ぐ死(それに病気中の九代目福助)など本来現在の令和歌舞伎の中核に在るべき役者が欠けたことが非常に大きいですが、平成歌舞伎から令和歌舞伎への移行(この数年)は、恐らく落差が大きいものにならざるを得ないと思います。その先に何が見えて来るかですが、まだそれは見えていない。昨今の新作歌舞伎ブーム(と呼んで良いのか?)も、歌舞伎若手のそういう不安感のひとつの現れだと思えてなりません。個人的には「こういう時こそまず古典に帰れ」と云いたいところですが、歌舞伎界はますます逆の方向へ向かいそうです。・・年頭の雑談がどうも暗くなってしまっていけませんねえ。
ところで昨年の吉之助はちょっと目を悪くしまして、芝居を観る分には全然不都合はないのですが、パソコンで原稿を書くのが無理できないので自然とゆっくりペースになって、連載記事が3本越年したのは、そのせいがあるかも知れません。目が悪くてちょっと困るのは、書籍・資料を読むのが億劫になってきたことですねえ。しかし、ネタについては全然困っていません。書きたいことはいろいろあるんです。この歳になると身体のいろんなところにガタが来ますが、無理せず、しかし、着実に「歌舞伎素人講釈」の歩みを進めたいと思っています。そうすれば次の10年の展望も自然と拓けて来ると云うものです。
(R2・1・1)