初代八重子の稲葉家お孝〜「日本橋」
昭和49年10月国立劇場:「日本橋」
初代水谷八重子(稲葉家お孝)、二代目中村吉右衛門(医学士葛木晋三)、三代目市川翠扇(晋三の姉おしま・滝の屋清葉二役)、菅原謙次(五十嵐伝吉)、安井昌二(巡査笠原新八郎)他
1)女優と女形の感触の違いについて
「日本橋」は新派の人気演目ですが、原作は泉鏡花が大正3年(1914)9月に描いた小説で、翌年に舞台化されて大正4年(1915)3月本郷座で初演されたものです。この時脚色したのは真山青果でしたが、その後鏡花自身が戯曲に仕立てて、現在使用されている脚本はこちらの方です。初演の配役は、喜多村緑郎の稲葉家お孝・伊井蓉峰の葛木晋三・木村操の滝の家清葉と云ったメンバーでした。その後、お孝の役は、喜多村から花柳章太郎に引き継がれました。本稿で紹介する昭和40年(1965)10月国立劇場での「日本橋」映像は、初代八重子が初役で演じたお孝が眼目になります。それまで八重子がお孝を演じていなかったとは意外でしたが、新派では花柳のお孝に対し八重子が清葉を勤めるのが、ずっと長い間定番の組み合わせであったのです。花柳が昭和40年1月に亡くなったので、八重子がお孝を演じる機会がやっと巡って来たわけです。つまり新派ではお孝の役は、結果として喜多村緑郎から花柳章太郎へと、女形によって守られてここまで来たことになります。この事はもしかしたら大事なことを示唆するものかも知れません。なお八重子はこの後も何度かお孝の役を勤めています。
吉之助が初代八重子の稲葉家お孝の映像を見たかった理由はもうひとつあって、それは玉三郎のお孝と比較したかったからです。玉三郎はお孝を当たり役にして何度も演じていますが、昭和57年5月新橋演舞場の新派の舞台でもお孝を演じており、この舞台は映像が残っています。(もうひとつ注目される舞台に、昭和46年3月新橋演舞場での新派の舞台で六代目歌右衛門がお孝を演じた例がありますが、残念ながらこちらは映像が残ってないようです。)つまり女優のお孝と、女形のお孝との感触の違いを確かめておきたかったのです。どちらが良いとか悪いとかいうことではなくて、それによって女形芸を考える何かのヒントが得られればと云うことでした。
以下は女優と女形の感触の違いを確認しているのであって、芸の優劣を論じるのでないことを承知のうえでお読みいただきたいですが、前半の序幕(一石橋)や第2幕(稲葉家二階)においては、「やっぱり八重子のお孝はちょっと違うかなあ・・やっぱり清葉の方が似合いかな」という印象がしたことは確かです。しかし、後半の第3・4幕においては大いに盛り返して、ラストシーンでの八重子は真実味があるお孝を創り上げていたと思います。全体としては古典的に・しっとりした印象、しかし実のあるお孝に仕上がったと感じます。花柳のお孝の記憶がまだ鮮やかであった当時の新派のお客さんは八重子のお孝をどう見たでしょうか。新派が女形から女優の時代に移行したことに一抹の寂しさを感じたでしょうか。それともお孝のリアルな感触に新鮮な印象を受けたでしょうかねえ。
意気地を張る芸者の世界に生きる稲葉家お孝は、滝の家清葉と張り合って・清葉が振った男を次から次へとものにすることで優越感を得ていたようです。そうした男のひとりが五十嵐伝吉であり、葛木晋三であったのです。葛木は清葉に姉への思いを重ねて慕っていましたが、その間に割り込んだのがお孝でした。お孝は葛木と出会って、お孝は自分は初めて真実の愛に目覚めたと思ったわけです。しかし、そこから次第に歯車が狂って行きます。つまりお孝と葛木とは、どこかすれ違っている。二人とも「自分たちはこの愛に生きる」と思いながらも、どこか満たされず・すれ違うのです。
本稿ではこのことをお孝の側から考えたいのですが、鏡花の「日本橋」お孝は、同じ時代(大正初期)の気分をどこかに共有しています。花柳界を生き抜く芸者衆は、或る意味で当時の先端を行く自立した女性でした。お孝はキラキラ感覚を周囲に発散し、これが伝吉や葛木ら男たちを魅惑します。しかし、その感覚は当時の女性の意識がまだ十分なところまで行っていないわけですから、実は付け焼刃なのです。お孝もまだまだ自由意志で生きているわけではないのです。その背後にお孝の寂しさ・空虚感が隠れています。その空虚感からお孝は次から次へと男を取り替えるのです。別稿「玉三郎の稲葉家お孝」で触れた通り、玉三郎は、お孝のキラキラがまさに附け焼き刃で、その華やかさに実質がないことを見事に表現しています。ここで玉三郎の「しゃべりの芸」の軽やかさが生きて来ます。軽やかさは、裏返しすれば、薄っぺらさにも通じます。それは玉三郎が虚構に生きる女形であるからです。女形はどんなに美しくても華麗であっても、それは虚構の女性美であって、実質がありません。
吉之助には、「日本橋」前半の稲葉屋お孝は、明治維新の時点で進化を止めてしまった歌舞伎の女形と比べると、もうちょっとその先の、新しい感覚を行っている気がするのです。ちょっとだけなのだけれど、歌舞伎の女形から見れば、ちょっとだけ「未来形」の女形だと思うのです。つまり、ちょっとだけ尖がっている・ちょっとだけポジティヴな要素があるのです。それが新派の、喜多村緑郎や花柳章太郎の女形芸だったと思います。玉三郎のお孝には、その残照が感じられます。
ただし、現代人の女性感覚から見れば、これも所詮過去形ではあるのですがね。八重子がお孝を演じると、これは普通に当世的にリアルな感覚になります。これは女性の役を女性が演じるのだから、当たり前です。しかし、女形がお孝を演じた時の、尖がった雰囲気・ポジティヴな要素は消えてしまうのです。至極真っ当な感覚に落ち着いてしまうわけです。そこに吉之助にはちょっと拍子抜けの感じがあるわけなのです。これは別に八重子のお孝の出来が悪いと云っているのではないことをご理解いただきたいですが、「日本橋」前半のお孝については、鏡花はちょっとだけ女形の「未来形」を意識して書いたのかも知れないと吉之助は思うのです。ただし、「日本橋」後半のお孝についてはまた別です。(この稿つづく)
(R2・3・8)
「日本橋」前半と後半では、お孝と云う役の感触が、はっきり異なります。第3幕・一石橋の場では葛木の気持ちに揺れが生じますが、お孝はまだこのことに気が付いていません。しかし、第3幕・生理学教室の場でのお孝の感触は、それまでの虚飾の感触から現実の感触へ、役の様相が明確に変化します。女の憂い・哀しみと云うような実の要素の方に、性格描写の重点が移って行くのです。そうなると今度は女形よりも女優の方が有利になって来ます。これは生理学教室以降の玉三郎が良くないと云うことではないですが、第4幕・稲葉家の場での気を病んだお孝になると、今度は八重子のお孝の方がしっくり役になじんだ感触に見えてきます。狂女の役だから女形でも悪くはないのですが、多分お孝の狂った原因が女の誠と云う実の要素にあると云うことなのでしょうねえ、ここは八重子のお孝の方が実感を以て迫る気がするのです。
別稿「玉三郎の稲葉家お孝」でヴェルディの歌劇「椿姫」のヒロイン・ヴィオレッタのことを対照しましたが、ヴィオレッタと云う役もベルカントかヴェリズモかという議論になることがしばしばあります。これは性格が割れていると云うことではなく、役が持つ表現のダイナミクスがそれだけ大きいと云うことなのでしょう。しかし、役に統一性を持たせようとするとそこが苦労の種で、どちらの要素に重きを置くかによって役の様相が変わることになります。稲葉屋お孝についても、同じようなことが云えそうです。
ただし「日本橋」幕切れについては、互角だと思います。玉三郎のお孝の時の台本では、お孝が伝吉から刀を奪い取って伝吉を刺す・さらに揉み合ううちにお孝も刺されると云う結末(こちらが鏡花の原作小説の結末です・多分玉三郎に拠る改訂だと思います)になっています。こちらだと、お孝が最後の振り絞った怒りの力(=女形の力強さ)が実感されて、これは良いと思います。一方、新派台本であると、まずお孝が伝吉に斬られて・揉み合ううちに伝吉が刺される段取りになっていて・これだと順序が逆になりますが、なるほど八重子のお孝の場合ならば、この段取りの方が女の哀れ(=女優の実)が利いて、これもなかなか悪くないと感じるのです。
全体として八重子のお孝は、全体として古典的に・しっとりし落ち着いた印象を醸し出し、古き良き大正ロマンの雰囲気を漂わせています。ただし、これは戦後昭和の時代から過去を振り返って見た時の「懐かしの」感覚であるとは云えます。鏡花の小説の世界のなかにあったはずの・妖しいほどのめくるめく色彩・どろどろした情念の蠢きが遠のいて、それらが一葉のセピア色の古い写真のように見えて来ます。それが悪いと云うのではありません。これが女形から女優の時代へと移行した戦後昭和の新派が醸し出す感触なのです。ここから約半世紀が過ぎたところで振り返って見れば、この頃から新派ははっきり「過去形」の時代に入ったのです。
ところで今回(昭和49年10月国立劇場)の上演は川口松太郎による改訂本に拠るもので、序幕にプロローグの形で学生時代の葛木の姉の思い出を回想する「薬研堀の裏長屋」の場が付けられています。まあこれは親切だとも云えますが、舞台で見ると説明的に過ぎるようです。翠扇の姉おしまが葛木(吉右衛門)のおっかさんのように見えてしまうのが、損なところがあります。葛木の姉への思慕が利いて来ないのだなあ。しかし、吉右衛門は当時30歳ですが、立派な葛木を見せてくれました。台詞もリズム良く聞かせて、当時の吉右衛門の痩せた細身の姿が葛木にとても良く似合います。その他菅原の伝吉・安井の巡査など手揃いで見せてくれました。
(R2・3・9)