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吉之助が浄瑠璃をもう一度読む・T

「小栗判官」とは何だろうか〜説教「をぐり」の世界

*本稿では「吉之助が浄瑠璃を読む」というシリーズの第1編として説教「をぐり」を取り上げます。いくつかの浄瑠璃作品を逍遥するなかで、語り物(物語を説き聞かせる行為)としての浄瑠璃を考えることを目的としています。


1)餓鬼阿弥について

『世の中は推し移って、小栗とも、照手とも、耳にすることがなくなった。子供の頃は、道頓堀の芝居で、年に二三度見かけたのが、小栗物の絵看板であった。ところの若い衆の祭文と言えば、きまって「照手車引き近江八景」の段が語られたものである。芝居では、幾種類とある小栗物のどれにも「餓鬼阿弥」の出る舞台面は逃げていた。祭文筋にも、餓鬼阿弥の姿は描写していなかった。私どもも、私より古い人たちも、餓鬼阿弥の姿を想い浮かべる標準をば持たなかったのである。だから私どもは、餓鬼阿弥という構えすら、久しく知らずにいた。』(折口信夫:「餓鬼阿弥蘇生譚」・大正15年1月)

折口信夫全集 第2巻 古代研究 民俗学篇1 (「餓鬼阿弥蘇生譚」を所収)

「小栗判官・照手姫の物語」は明治半ばくらいまで民間によく知られたものでした。歌舞伎でも小栗判官の世界は題材としてよく取り上げられました。現在では「小栗判官」の物語を耳にしたり・目にする機会は滅多に ありません。吉之助も歌舞伎では澤瀉屋の「当世流小栗判官」しか見たことはありません。それにしても、あの舞台から遥か昔の説教「をぐり」の世界を遡って想像することは難しいと思います。これは別に猿翁(三代目猿之助)のアレンジを悪く言うのでは ありません。歌舞伎では説教の筋の大まかなところを採っても、「をぐり」の精神世界の奥深いところまでは描けなかったのです。そこに語りではなく・視覚で見せる芝居の限界がありました。舞台では餓鬼阿弥の姿になってしまった小栗判官をリアルに見せることはできません。それは毒酒で姿が変わってしまった俊徳丸(摂州合邦辻)の姿くらいにしかできませんでした。まあこれは仕方ないことです。

説教節は中世・室町期に興った語り物芸能です。仏教の唱導に発するものとされ、古くは「ささら」と云って・茶筅のように・竹の先を細かく割ったものを、棒でこすって「サッササラサラ」と音を出し・これを伴奏にして語ったもので、「ささら説教」と呼ばれました。近世になると三味線を伴った音曲となり、説教浄瑠璃とも呼ばれました。説教節としては「をぐり(小栗判官)」のほか、「山椒太夫」・「しんとく丸」などが有名です。(別稿「哀れみていたはるという声〜説教の精神的系譜」を参照ください。)

説教「をぐり」を見ると物語は二つの場面に分かれます。前半に描かれているのは傍若無人とも言えるスーパーマンとしての小栗の活躍。後半は餓鬼阿弥の姿に変わってしまった小栗に始まり・それが熊野権現の薬湯のおかげで元の姿に戻る過程が描かれます。有名な「照手車引き近江八景」の段というのは、水仕事女にまで身を落とした照手姫(ここでは常陸小萩と名乗っている)が、餓鬼阿弥が夫・小栗であるとは知らず、これを土車に乗せて引っ張って熊野への街道をひた歩く場面です。京都・大阪を経て熊野へ至る道のひとつは、説教にちなんで「小栗街道」とも呼ばれています。それほどまでに民間に膾炙した物語なのです。歌舞伎の「小栗判官」では横山館で鬼鹿毛という荒馬を颯爽と乗り回す碁盤乗りの場面が有名です。これは説教では前半に当たります。歌舞伎でも照手の車引きの場面はありますが、これを芝居のクライマックスに置いている感じはしません。見物はとっくに「をぐり」の筋はご存知のはずという前提に立っているとも云えます。それでも見物は十分満足したと思います。一方、説教「をぐり」は、いろいろな読み方ができると思いますが、大まかに言えば照手姫による小栗の救済と再生の物語なのです。つまり主題としては、後半の方に比重が掛かっていることになります。(この稿つづく)

(H27・8・12)


2)餓鬼阿弥について・続

昔から人々は餓鬼阿弥を「がきあみ」ではなくて「がきやみ」と読むことが多かったそうです。つまり人々は餓鬼阿弥の姿がまるっきり想像がつかなかった・あるいはその姿を思い描くのが怖かったかして、「病み」の状態で理解しようとしたのかも知れません。熊野で小栗判官が蘇生する奇蹟を、熊野本宮のつぼ湯の御利益で病気でただれた皮膚が回復するイメージで想像したようです。このことは歌舞伎の「小栗判官」の舞台からも窺えます。歌舞伎ではお駒という娘が小栗判官に恋するが失恋して死んで怨霊と化し・小栗判官の面相を醜く変えてしまうという怨霊譚仕立てになっており、その病いが熊野のつぼ湯の御利益で回復することになっています。そうすることで筋が合理化されて或る面分かりやすくはなっているのですが、説教「おぐり」の世界からは離れてしまうのです。

『陰惨な奇蹟芸の気分の古い纏わりから、朗らかで闊達な新浄瑠璃や芝居に移って行ったのが、元禄の「人寄せ芸」の特徴であった。主題としては本地物から鬱陶しい因縁ものを展開して行っても、態度として段々明るさを増して行った。これが餓鬼阿弥の具体的な表現を避けた原因である。』(折口信夫:「餓鬼阿弥蘇生譚」・大正15年1月、文章は少々吉之助がアレンジしました。)

説教節は中世の宗教観から発したもので、それは因果物語の・暗くて鬱陶しい気分を引きずっています。一方、義太夫節に代表される・江戸期の新浄瑠璃は、説教節の題材を継承しつつ、荒唐無稽の感もありますが・これを江戸期の新しい感性で、そして江戸の人々の当時の倫理感覚において、明るく論理的な形で処理しようとしたのです。

赤穂義士物と言えば現在は「仮名手本忠臣蔵」で・これは太平記の世界に仮託したものですが、実は「忠臣蔵」が決定版となるまでの義士物には小栗判官の世界に仮託したものが多くありました。例えば宝永7年に大阪・篠塚座で上演された吾妻三八作「鬼鹿毛無佐志鐙(おにかげむさしあぶみ)」がそうです。また延享4年京都・粂太郎座での「大矢数四十七本」(おおやかずしじゅうしちほん)は大岸宮内役の初代宗十郎の茶屋場遊びが評判で・これが「忠臣蔵・七段目」に取り入れられたものですが、これも小栗判官の世界でした。どちらも小栗の刃傷・切腹が発端になっていて、四十七人の家来たちが苦心の末に仇である横山殿を討つという忠義の物語です。

説教「をぐり」のなかに小栗の刃傷・切腹なんて話はまったくないのに、どうして「をぐり」が元禄赤穂事件と結びつくのかと言えば、それは「忠義・忠臣」というキーワードからです。説教「をぐり」では小栗と十人の家来は横山殿に毒殺されます。閻魔大王は小栗を地獄に落し・家来たちは娑婆(しゃば)に戻すと裁定しますが、ここで家来たちが大王に自分たちではなく主人小栗を娑婆に戻してほしいと直訴します。

『いかに大王様、われら十人の者共が娑婆(しゃば)に戻りて本望遂げやう事は難ひ事、あのお主の小栗殿をひとりお戻しあって給わるものならば、我らが本望までお遂げあらふは一定なり』(注:ここで云う本望とは横山殿の仇を討つことを指す。)

これを聞いて大王は「さても汝らは主に孝あるともがらや」といたく感心して、主人小栗を含めて全員を娑婆へ戻そうとするのですが、主人小栗は土葬されて身体は残っているが、家来たちは火葬されたため身体がなくて・娑婆へ戻そうにも戻れない。それで小栗判官だけが娑婆へ戻されました。

ここで「忠義・忠臣」というキーワードで説教「をぐり」と赤穂義士物が結びつくことになります。赤穂義士物では判官は切腹して・娑婆に残された家来が仇を討つ(その数も十人ではなくて四十七人になる)わけですから少々苦しいこじつけに思えなくもないですが、「忠義・忠臣」という・ただ一箇所の接点を基にして・ふたつの関係ない筋を結び付ける芝居の「世界」の理論構築は、実に興味深いものです。同時に説教「をぐり」では本来あまり重要とは思えない箇所を、江戸の感性においてクローズ・アップして筋を江戸の庶民感覚にぴったりするものに作り変えているのです。このようにして江戸期において民衆のなかの小栗の物語が次第に変質して行きます。(この稿つづく)

(H27・8・26)


3)魂の再生

本稿は歌舞伎の「小栗判官」ではなく、源流としての説教「をぐり」を考えています。そこで改めて餓鬼阿弥のことです。説教「をぐり」では毒殺された小栗は閻魔大王の判断により娑婆へ戻されました。しかし、土葬された身体はすでに朽ちて散らばっており(正本には「築いて三年になる小栗塚」とあります。蘇生までに異常に時間が経っているのです)、娑婆へ戻った小栗はとても想像がつかない不完全な形で蘇生しました。以前の颯爽とした小栗の面影はまったくなく、目も見えず・口も聞けず・ほとんど動けません。心さえも定かではありません。それが餓鬼阿弥となった小栗なのです。ただし閻魔大王自筆の「熊野本宮湯の峯に御入れあってたまはるものならば、浄土よりも薬の湯を上げべき」という御判が添えられました。餓鬼阿弥を発見した藤沢の上人は胸札に「この者を一引き引いたは千僧供養、二引き引いたは万僧供養」と書き添え、土車に餓鬼阿弥を乗せます。そこから 小栗再生の熊野への旅が始まります。

折口信夫は「餓鬼阿弥蘇生譚」のなかで、「小栗の蘇生が尋常な形ではなく・魂魄と身体とが融合するまでに手間取っている」として、同じく説教「愛護若」では愛護若の亡き母が娑婆へ戻るのに鼬(いたち)の骸(むくろ)を借りてくる場面があることを例にとって、説教「をぐり」が文字として定着する以前の形として小栗判官が他人の骸を借りて蘇生したのではなかったかと想像します。これは「をぐり」では主人土葬家来火葬とされていることの不自然さとも関係しますが、原型が推測の域を出ない以上、確たる証拠があるわけではありません。また折口は、餓鬼阿弥というのは実体のない幽霊の前身のような存在で、そこから近世の足のない幽霊のイメージが出てくるのだろうとも言っています。これは分かる気がします。ですから小栗の熊野への旅とは、餓鬼阿弥が解脱するための魂の旅なのです。

土車は元来土砂を運ぶためのもの。車輪を丸太の輪切りで作る簡単な荷車ですが、重心が低いので安定性が良く、歩行ができない乞食や病人などを乗せるのには好都合です。餓鬼阿弥になった小栗はこの土車に乗せられてはるばる熊野本宮まで運ばれるのですが、その車を誰が引いて熊野まで運んだかが問題です。最初は上野ヶ原で餓鬼阿弥を見つけた藤沢の上人が土車の綱を引きますが、それ以後は土地の檀那衆が引き継ぎます。実に多くの檀那衆の手によってリレーのように餓鬼阿弥は熊野まで運ばれます。(そのなかのひとりに常陸小萩・つまり照手姫がいるわけです。)説教の道行の詞章には、実に多くの地名が列記されています。これらはすべて藤沢の上人・つまり時宗のネットワークです。 出発点である藤沢の遊行寺は時宗の総本山です。「一引き引いたは千僧供養、二引き引いたは万僧供養」と、説教は時宗の修行の場をたどりながら餓鬼阿弥の懺悔供養の旅を描いていきます。

『檀那が付いてひくほどに、吹上六本松はこれとかよ。清見が関に上がりては、南をはるかにながむれば、三保の松原・田子の入り海、してしが浦の一つ松、あれも名所か面白や。(中略)車に情けを掛川の、けふは情けの掛川を「えいさらえい」と引き過ぎて、袋井畷を引きすぎて、花は見付の郷に着く。』

説教の詞章は一転してリズミカルとなり、餓鬼阿弥が辿る地名をひとつひとつ挙げながら、「吹上六本松はこれとかよ」・「あれも名所か面白や」などと、旅の喜びと楽しさに溢れています。それは再生に向けての力強い鼓動を感じさせます。そのような道行の過程で餓鬼阿弥の魂は再生に向けて清められ・高められ、同時に綱を引く檀那衆もまた功徳によって清められるのです。(この稿つづく)

(H27・8・29)


4) 回遊する物語

中世の説教節は遊芸民の芸能です。旅をして土地から土地へ渡り歩いて芸をして、その日の銭を稼ぎます。芸能が都市に定着して劇場に観客を呼び集めるという形は近世に入ってからの芸能形態で、中世にはまだありません。優芸人の果てしのない旅には悲しみが付きまといます。ですから中世の語り物芸には「道行」が付きものです。旅がひとつの様式となっていくのです。そこに遊芸民の人生が投影されているとも考えられます。遊芸民は旅をして土地を巡りながら、祝福して歩きます。だから道行の詞章のなかで各地の名を挙げていくことが祝福になるのです。この性格は語り物芸として近世の浄瑠璃にも引き継がれていきます。

たとえば説教「をぐり」では、小栗は大納言兼家を父に持ち京の都に生まれますが、その後、傍若無人な行動が父の怒りを買い常陸の国へ追放されます。小栗は武蔵相模の郡代横山殿の娘照手の美貌を聞き、屋敷に強引に乱入し契りを交わしますが、毒殺されます。横山殿は照手も殺そうとしますが、家来に助けられ、照手は転々と流浪して美濃の国で常陸小萩と名を改めて、水仕事に従事します。一方、閻魔大王の計らいで蘇った小栗は餓鬼阿弥と名付けられ土車に乗せられて熊野の地に向けて運ばれますが、途中の美濃の国で照手と出会います。照手は餓鬼阿弥が夫小栗の変わり果てた姿とはつゆ知らず、夫追善のために綱を引いて餓鬼阿弥を大津まで届けます。その後、小栗は熊野の湯で復活し、美濃の国に入った小栗はそこで照手と再会し、ふたりは常陸の国で夫婦栄華のうちに大往生します。その死後、小栗は美濃墨俣正八幡荒人神、照手は結ぶの神として祀られます。このように「をぐり」の物語は様々な土地を回遊し、それぞれの土地でドラマを生み落して行きます。このこと自体がそれぞれの土地への祝福となっているのです。物語は熊野信仰を背景としていることは明らかですが、熊野が終点ではありません。説教「をぐり」の冒頭には次のようにあります。

『そもそもこの物語の由来を、詳しく尋ぬるに、国を申さば美濃の国、安八の郡墨俣、たるいおなこことの神体は正八幡なり。荒人神の御本地を、詳しく説きたて広め申すに、これも一年は人間にてやわたらせたまふ。』

冒頭部が云うことは、説教「をぐり」は美濃国安八郡墨俣八幡神社のご神体である正八幡荒人神の本地(由来)を語り聞かせるものであるということです。しかも、その神様はかつては人間であったというのです。このような寺社神仏の由来を語るものを本地物(ほんじもの)と云います。本地物は神様がかつて人間であった時代にどんな苦労をしてきたかを語るものです。

これは大事なことですが、本地物というものは「神様は人間であった時にはこんなにも苦労して来た。神仏になるためには並大抵の苦労ではすまないぞ」という話ではないのです。当時の人々はそんな風には聞きませんでした。苦労さえすれば誰でも神様になれるものではないことは明らかなのです。神様は初めから神になるべく神性を備えて生まれてくるものです。そのような神性を備えた人だけが死後に神になれるのです。神性というものは、必ずしも人格が優れているとか・徳を備えているということではありません。小栗の場合も、性格は峻烈狭量で決して尊敬できるものではありません。小栗の持つ神性とは、何か超常的な能力です。それは説教「をぐり」前半においては、みぞろが池の大蛇と契るとか、人食い馬の鬼鹿毛を悠然と乗り回すという所に発揮されますが、それだけで神になれるわけではない。本地物で主人公が舐める苦労とは、神性を研ぎ澄ます為のプロセス・試練のようなものです。餓鬼阿弥は土車に乗せられ熊野まで運ばれながら、綱を引く土地の檀那衆の功徳を受けることで、その身の穢れが浄化されていきます。道行を通じて、主人公は人間としての俗な要素を削ぎ落し、その神性を研ぎ澄ませていきます。説教を聞く中世の民衆は、そのプロセスに現世の悲しみを感じて涙したに違いありません。(この稿つづく) 

(H27・9・1)


5)再び餓鬼阿弥について

ところで説教「をぐり」の餓鬼阿弥の物語を貴種流離譚の通過儀礼みたいだと感じる方もあるかも知れませんが、これはちょっと違うようです。貴種流離譚とは、本来は 高貴な身分にあるべき人が不幸な境遇に置かれ辛酸を舐めるが、そのなかで成長してあるべき位置に収まるという物語のことを云います。確かに似たような感じもありますが、小栗の場合はいったん死んでしまって、そこから蘇生・再生ということになるので、通過儀礼とは 若干様相が異なります。

一方、貴種流離譚と云えば折口学の重要概念ですが、折口は説教「をぐり」に関しては貴種流離ということを言っていません。「餓鬼阿弥蘇生譚」などの論考において、折口が毒殺された小栗の埋葬手法と蘇生の経過に特に強いこだわりを持って論じていることは注目すべきです。折口は日本古来の死生観に深く関連する題材として説教「をぐり」を見ているのです。だから餓鬼阿弥の蘇生ということがとても重い意味を持つことになります。

『彼の人の眠りは、かに覚めて行った。まっ黒い夜の中に、更に冷え圧するもののんでいるなかに、目のあいて来るのを、覚えたのである。した した した。耳に伝うように来るのは、水の垂れる音か。ただ凍りつくような暗闇の中で、おのずとと睫とが離れて来る。膝が、が、ろに埋れていた感覚をとり戻して来るらしく、彼の人の頭に響いて居るもの――。全身にこわばった筋が、僅かな響きを立てて、掌・足の裏に到るまで、ひきつれを起しかけているのだ。そうして、なお深い闇。ぽっちりと目をあいて見廻す瞳に、まずしかかる黒いの天井を意識した。次いで、氷になった岩牀。両脇に垂れさがる荒石の壁。したしたと、岩伝うの音。時がたった――。眠りの深さが、はじめて頭に浮んで来る。長い眠りであった。けれども亦、浅い夢ばかりを見続けて居た気がする。うつらうつら思っていた考えが、現実にって、ありありと、目にみついているようである。』(折口信夫:「死者の書」冒頭部・昭和14年)

折口信夫:死者の書・身毒丸 (中公文庫)

折口信夫の小説「死者の書」冒頭は、古代の死者(大津皇子)の霊が長い眠りから覚める場面から始まります。大正15年の「餓鬼阿弥蘇生譚」に折口が小栗の蘇生に強い関心を持っていることが分かれば、そこに「死者の書」発想の萌芽を見ることが出来ます。小栗は土葬された身体がすでに朽ちて散らばったかしてた為に実体のない幽霊のような存在として蘇生しました。古代の人々は人は肉体と霊魂から成ると考え、霊魂を「タマ(玉 ・魂)」と呼びました。死ぬことは肉体からタマが離脱することを意味しました。完全な蘇生にはタマがそこに戻るための完全な肉体が必要になります。小栗の場合は、肉体が揃っていないので蘇生として は不完全です。だから餓鬼になるのです。(ゾンビみたいなものを想像すれば良いかも知れません。)小栗の熊野への旅は、タマが居場所としての完全な肉体を探し求める旅とみなすことが出来ます。これが文字として固定する以前の、元々の「をぐり」の形であったと思われます。「死者の書」の大津皇子の霊はもっと獏とした存在で肉体を取り戻すことは ありませんが、冒頭部は「をぐり」を読み解くヒントを与えてくれているかも知れません。

恐らく現在我々が文献で読む説教「をぐり」は本来あるべき形から、筋を通す・辻褄を合わせるなどして、中世の仏教的な感性によって読み直しがされているのです。その分、古代の感性から離れて行きます。実は説教「をぐり」は説教「しんとく丸」の影響を部分的に受けています。「しんとく丸」では俊徳丸は癩病(ハンセン病)ということになっています。小栗の餓鬼阿弥が「がきやみ」として癩病人とみなされ熊野権現の霊験で病気平癒するように理解されたのは、この連想から来ます。同様に小栗の再生の旅を通過儀礼の如く読むことも「しんとく丸」のイメージから引き出されて来るものです。

『私には餓鬼阿弥の名が、当意即妙の愛嬌ある呼び名としての感じも伴うけれども、同時に固有名詞らしい気持ちをも誘う。即実際、時衆の一人に、そうした阿弥号を持った者があったか、遊行派が盛りに達したある時代に、念仏衆の中でも下級の一段に、餓鬼衆・餓鬼阿弥など総称せられる連衆があったかして、小栗浄瑠璃の根底をなす譚を、おのが身の上の事実譚らしく語って歩いた、懺悔念仏から出発しているのではあるまいか。(中略)餓鬼阿弥の懺悔唱導が、餓鬼阿弥自身を主人公とするものになるのである。説教類に多く、唱導者の名が、主要人物の名とな っていることへの理由がここにある。』(折口信夫:「小栗外伝」・大正15年11月)

折口信夫全集 第2巻 古代研究 民俗学篇1 (「小栗外伝」を所収)

「阿弥」とは法名で、時宗の僧の号のことです。鎌倉期に一遍上人が起こし念仏踊りで熱狂的なブームを巻き起こしたのが時宗でした。同朋衆と呼ばれる時宗信徒の集団は、鎌倉末期から南北朝時代にかけて武将に同行し従軍僧として働き、また戦さのない時には和歌や連歌・茶の湯などの雑役も従事しました。やがて同朋衆は室町幕府のなかで芸事などの職務を担当するようになります。同朋衆は能阿弥・芸阿弥・相阿弥などすべて阿弥号を持っていて、阿弥衆とも呼ばれました。

説教「をぐり」で藤沢の上人が蘇生した小栗に餓鬼阿弥の名を付けたのは、それが時宗らしい名前だというわけではなく、念仏衆の最下層に餓鬼衆とでも称する連衆があったのではないかと折口は想像します。社会の底辺に位置し遊芸民である彼らが小栗の物語をおのが身の上の事実譚として語って歩いたとするならば、そこからはるかに聞こえてくるものは日本土着の死生の感性の名残りであったかも知れません。(この稿つづく)

(H27・9・9)


6)魂の復活と救済の物語

折口信夫が説教「をぐり」を蘇生譚として関心を持ったということは、やはり「をぐり」は後半の土車に乗せられて熊野へ運ばれる蘇生への旅が重要だということです。餓鬼阿弥のことを中世の人々は癩病人のようにイメージしました。多分それしか餓鬼阿弥の様相を想像する手掛かりがなかったのです。しかし、正確に言うならば餓鬼阿弥は生ける死者・あるいは死せる生者のようなものです。ほとんど意識があるかないか分からぬような骨と肉の塊で、わずかに動くのでこれは生きていると分かるというようなものです。この世の業(ごう)を一身に背負ったような餓鬼阿弥の姿を見て人々は憐れみを覚え、生きることの無情を感じ、餓鬼阿弥を霊場である熊野へ運ぶために自分が微力でもボランティアで手助けができるならば、我が身の罪も少しは贖(あがな)われることになると考えたのかも知れません。説教の「一引き引いたは千僧供養、二引き引いたは万僧供養」というリフレインには、そのような中世民衆の魂の浄化と救済への強い願いが感じられます。現代人から見ればそれは哀しみを以て響きますが、そのリフレインは恐らく明るいのです。中世の民衆はそこに少なくとも一筋の光明を見ているのです。その光を頼りにして実に多くの人々が係って餓鬼阿弥は熊野へ運ばれて行きます。だから「をぐり」は 単に餓鬼阿弥のためだけのものではありません。人々にとっても魂の復活と救済の物語なのです。

吉之助は歌舞伎の「小栗判官」のせいか知りませんが、餓鬼阿弥の旅は照手が最初からずっと一人で熊野まで土車を引っ張っていたような思い込みをしていましたが、説教「をぐり」を読んでみるとそれはまったくの勘違いで、照手は美濃の国で水汲み女として働いていて、照手(常陸小萩)は主人に許しをもらって途中の五日間だけ土車を引くのです。照手は餓鬼阿弥の土車を引いた数多いボランティアのひとりに過ぎません。その後も、照手を引き継いでまた多くの人々がボランティアに参加して、遂に餓鬼阿弥は熊野へ運ばれます。しかし、もちろん照手のボランティアは多くの人々のなかでも特別な意味があります。照手があまたあるボランティアの代表として立つことを民衆は認めます。それは照手が小栗の妻であるからです。

しかし、照手は餓鬼阿弥が蘇生した夫・小栗であるとまったく知りませんでした。死んだ夫のことをふと思い出して、これが夫の供養になるならばと照手は土車を引くのですが、それだけのことです。餓鬼阿弥である小栗もほとんど知覚ができない状態ですから、土車を引いているのが照手であることを認識さえしていません。しかし、これを運命というべきか、何かここでふたりが引き合わされるものがあるからこそ、照手は会うべくして餓鬼阿弥と出会うことになるのです。やがて蘇生した小栗は美濃の国に出向きますが、この時も餓鬼阿弥の胸につけられた木札に記せられた常陸小萩に会いに行くのであって、それが照手だと知って美濃の国に出向くわけではないのです。こうして熊野の湯で復活した小栗は照手と思いがけない再会をすることになりますが、それはもちろん小栗と照手が宿命の夫婦であるからです。やはり小栗と照手には引き合う縁(えにし)があったということを、説教「をぐり」を聞く民衆は確信したに違いありません。

ある作家(名前は敢えて伏す)が、説教「をぐり」に描かれている小栗と照手には愛とか恋とかいうファクターはなく・そこには夫婦であることの大事さしかないということを書いていました。説教「をぐり」は「夫婦であることをまっとうした男女の物語」であって、「愛し合う男女の物語」ではないというのです。このような読み方では中世民衆の気持ちを理解することは到底不可能だと断言しておきます。古典を読む時には、作品を自分に引き寄せて読んだのでは、作品は何も語ってくれません。自分の方から作品のなかへ入り込んでいかねばならないのです。中世民衆が説教「をぐり」を聞く時に感じたことは、何かこの世を律する高いものの存在、それを神と呼ぶのならば、まさにそのようなものです。そのような精神的次元において、人々は夫が妻を思い・また妻が夫を思うということの不思議さを説教「をぐり」のなかに見るのです。それがまさに「愛」というものです。だから小栗と照手は日本芸能史上、最も重要な夫婦ということになるのです。このことを正しく感じ取らねばなりません。(この稿つづく)

(H27・10・27)


7)照手の慈悲の心

小栗判官と照手姫と云えば、日本芸能史においては筆頭に挙げても良いほどの重要カップルです。今では想像が付きませんが、明治の半ばくらいまでは説教「をぐり」は誰でも知っていたものでした。物語のクライマックスは今は常陸の小萩という水汲み女である照手が、餓鬼阿弥に変わり果てた小栗を土車に乗せて熊野へ向けて引っ張って行く場面です。「一引き引いたは千僧供養、二引き引いたは万僧供養」、説教の詞章は一転してリズミカルとなり、そのリズムは再生に向けての力強い鼓動を感じさせます。

ここで大事なことは、説教「をぐり」での照手は功徳を施す相手である餓鬼阿弥が夫小栗であることをまったく知らなかったということです。(注:歌舞伎の「小栗判官」では照手は餓鬼阿弥が小栗であることをはっきり承知しています。しかし、本稿ではその源流である説教「をぐり」のことを考えています。)照手は餓鬼阿弥の無残な姿を見て憐みを覚えて、(照手は小栗が死んだと信じていますから)せめて夫の供養にでもなるならばと照手は土車を引くのです。つまり照手は夫を再生させようとして熊野へ向けて土車を引くわけではないのです。照手の行為はまったく無償の行為です。何かの見返りを期待したものではありません。また照手の行為にはどこか憑かれた熱さと神ががり的な巫女の雰囲気が感じられます。それが結果として夫小栗(餓鬼阿弥)の再生の奇蹟を引き起こすのです。「をぐり」の物語を聴く民衆は、その奇蹟によって小栗と照手の夫婦の切れない縁(えにし)を再確認することになります。物語は常に民衆の倫理感覚の上に立っているのです。

だから小栗の復活は意図して起こされた奇蹟ではないのです。結果として夫小栗(餓鬼阿弥)の再生の奇蹟をもたらしたものは、照手の無償の愛・慈悲の心だということを「をぐり」を聴いた民衆は疑うことがなかったと思います。それは観音菩薩のイメージに通じます。餓鬼阿弥が小栗であることを照手がまったく知らなかったということが大事なのです。何かの見返りを期待したものでないからこそ照手の行為は崇高なものとなり、美しい。だから結果として照手は奇蹟によって報われることになるのです。この点を正しく認識せねばなりません。説教「をぐり」は夫婦であることをまっとうした男女の物語に過ぎないと仰る方は、原因と結果の論理関係を逆に読むという大きな間違いを犯しています。それは物語の正しい読み方ではありません。

『小栗殿をば、美濃の国安八(あんはち)の郡(こほり)墨俣(すのまた)、たるひおなことの神体は正八幡、荒人紙(あらひとがみ)とおいはひある。同じく照手の姫をも、十八町下(しも)に、契り結ぶのおいはひある。契り結ぶの神の御本地も語り納むる。所も繁盛、御代もめでたう、国も豊かにめでたかりけり。』

説教「をぐり」の末尾です。「をぐり」は美濃国安八郡墨俣八幡神社のご神体である正八幡荒人神の本地(由来)を語り聞かせるものだということです。このような寺社神仏の由来を語るものを本地物(ほんじもの)と云います。このような性格は後の江戸期の浄瑠璃にも引き継がれています。たとえば「道明寺」は道明寺天満宮の由来を語る本地物ですし、「菅原伝授手習鑑」全体が天神縁起のようなものです。「義経千本桜」だって見方によっては義経信仰縁起みたいなものだと言えます。信仰に根差した歴史観が時代物浄瑠璃の大きな枠組みとなっているのですが、それは中世期の説教に発しています。しかし、説教「をぐり」は宗教秘蹟譚の体裁を取ってはいますが、実は健気に生きる中世の民衆の心情を描いています。民衆は小栗と照手の物語のなかに魂の復活と救済の願望を託しました。そのような中世期の人間理解が近松門左衛門の世に至って近世浄瑠璃として花開きます。

照手が祀られている安八郡安八町の結神社(むすぶじんじゃ)は、ここで照手が小栗との再会を祈願したという由来が伝わっており、縁結びの神様として地元ではよく知られているそうです。(こちらのサイト参照

(参考文献)
岩崎武夫:さんせう太夫考―中世の説経語り
鳥居明雄:をぐり―再生と救済の物語

(H27・12・30)



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