「哀れみていたわるという声」
〜説経の精神的系譜
1)「説経」の世界
「説経」という芸能をご存知でしょうか。森鴎外の有名な小説「山椒太夫」は説経「さんせう太夫」を下敷きにして書かれたものです。「説経」と言いますのは、中世末期の民衆に発した語りものです。それは祭りの日などに寺社の境内・辻堂などで、流浪の民によって大道芸的に語られたもので、簓(ささら)を摺りながら語ることから「簓 説経(ささらせっきょう)」とも 呼ばれました。そのころの絵を見ていますと、往来でムシロを敷いて・そこで男が説経を語っている・まわりに男女が数人、ある者は首をうなだれ、ある者は泣きながら説経に聞き入っているという図を見ることがあります。
「ただ今語り申し御語り、国を申さば丹後の国、銕焼(かなやき)地蔵の御本地を、あらあら説きたて広め申すに、これもひとたびは人間にておはします。人間にての御本地をたずね申すに・・・」(「 せつきやうさんせう太夫」佐渡七太夫正本・明暦2年(1656)を分かりやすく漢字混じりに直しました。)
「さんせう太夫」は丹後の国の銕焼地蔵の由来を説き広めるものでした。こうした語り物は江戸時代に入って三味線と結びついた「浄瑠璃説経」が登場してからはそれにとって代わられ、さらには、義太夫節のような・題材も曲節も新しくて変化のある新しい語り物系浄瑠璃に押されてしまいました。
太宰春台(1680-1747)は江戸の儒学者ですが、春台は「独語」のな かで「今の世に淫楽多きなかに、うたひ物のたぐひには浄るりに過ぐる淫声はなし。」と書いています。浄瑠璃を「淫声」と非難しているのは、元禄年代ごろから浄瑠璃の曲節の調子が高くせわしなく、また派手になってきて、またその題材が俗になってこのごろ風紀が乱れてきたのは浄瑠璃のせいだと春台は言います。それだけ当世浄瑠璃が人々にとって魅惑的であったのでしょう。まあ、お堅い儒学者の言うことですから、そこのところは割り引く必要があるかも知れません。当世の流行歌の歌詞や風俗に顔をしかめるお年寄りはいつの時代にもいるわけです。
一方で、春台はひと時代昔の「説経」に触れ、「説経は淫声にあらず」としてこれを評価しています。
「昔より法師の説経に因果物語をするたぐひなり、その物語は俗説にまかせて確かならぬことも多けれども、詞は昔の詞にて賤しき俗語をまじへたるなかに、やさしきことも少なからず、(中略)その声もただ悲しきのみなれば、婦女これを聞きてはそぞろに涙を流して泣くばかりに、浄るりの如く淫声にはあらず、(中略)いはば哀れみていたわるという声なり」 (太宰春台:「独語」)
仏教説話的な善悪因果の題材を儒学者が評価している点はそれらしいところですが、「哀れみていたわるという声なり」という指摘などは説経の本質をよく突いた評だと思います 。
これは恐山のイタコの口寄せと同じようなものです。先日、作家の五木寛之氏がイタコについて書いているのを読みました。文が手元にないので記憶で引きますが、五木氏は自分の死んだ弟の霊をイタコに呼んで貰ったのだそうです。「九州育ちの弟が津軽弁で話すのには驚いた」が、「体を大事にしなよ」などと言われると素直に泣けたと書いておられました。 説経もまた同じような癒しの効果を聞く人に与えるのだと思います。説経を聞きながら人々は 主人公の苦難に涙し、その再生に癒されたのです。
「説経」の代表的な演目をあげれば、「さんせう太夫」・「しんとく丸」・「おぐり」・「かるかや」の四つです。これらの題材は説経師によって各地で語られ、民衆の涙を絞り・また語り継がれました。さらに他の芸能への題材にも取り上げられたりして、これらの物語は長く民衆の伝承として親しまれたのです。
「さんせう太夫」は、歌舞伎ではもはやあまり上演されませんが「由良湊千軒長者」という芝居になっています。「しんとく丸」は謡曲の「弱法師」の題材になっており、さらにこれは歌舞伎の「摂州合邦辻」に引き継がれています。「かるかや(刈萱)」の石童丸の物語は歌舞伎の「刈萱道心」、「 おぐり」は歌舞伎の「小栗判官車街道」などの題材になっています。石童丸や小栗判官の物語など は講談などでも取り上げられ、明治頃まで民衆には親しい物語でした。
説経の「さんせう太夫」と、これを近代的視点から捉えなおした森鴎外の「山椒太夫」を比べて見ますと、すぐに分かる大きな違いは、鴎外本では、厨子王が山椒太夫と和解して、山椒太夫は奴隷にしてこき使っていた人々を開放するという結末になっていることです。この部分は説経では、厨子王は山椒太夫の首を竹鋸で息子の三郎に引かせるという刑罰を与えるという非情な場面になっています。しかも、この場面は説経では重要な場面でして、これがなければ説経は完結しないと言ってもいいほどなのです。
「ひと引きひいては千僧供養(せんぞうくよう)、ふた引きひいては万僧供養(まんぞうくよう)、えいさらえいと、引くほどに、百に余りて六つのとき、首は前にぞ引き落とす」
山椒太夫が処刑されるこの場面はたしかに残酷ですが、「ひと引きひいては千僧供養」というようなお囃子のような調子がついていて、なにか開放されるような明るさがここにはあります。国分寺の庭で民衆が見守るなかで行われる処刑は、単なるお上の見せしめや威嚇だけではない、どこか祝祭的なものを感じさせます。山椒太夫はこれにより冥府へ(おそらく地獄へ)送られるわけですが、一方で、この処刑によって山椒太夫によって虐げられ・殺されていった人々の魂は癒されるということで もありましょう。
こうした感覚は近代人にはなかなか理解されにくい所です。鴎外は、説経「さんせう太夫」の支配する者とされる者の間に横たわる隔たりを「人権的な・法的な隔たり」と解釈していますから、どうしてもこの処刑の場面は納得できなかったのでしょう。しかし、 説経のなかにある支配者と被支配者の隔たりというのは絶対的なもので、互いに和解することなどないほどのものです。そこに説経を語り・諸国を流浪する芸人たちの(つまり被差別民としての)悲しみが重ね合わされます。
2)永遠に女性なるもの
その後、厨子王は追っ手を逃れて苦難の逃避行で足腰も立たないような病人になってしまって天王寺に送られるのですが、そこで奇跡が起こって高貴な身分に生まれ変わります。
ここで再生の場として「天王寺」が登場してくることも重要です。説経「しんとく丸」の舞台も同じく天王寺です。また「小栗判官」では熊野が再生の場として登場します。天王寺も熊野も、体を蝕まれた人々が最後にすがる霊場でありました。このように穢れた厨子王の身が天王寺で癒されて高貴な身に生まれ変わる奇跡が、 説経では重要な要素なのです。こうした部分も鴎外本では省かれています。しかし、本稿ではこの部分には深入りしないことにして、安寿にスポットを当ててみたいと思います。
安寿は厨子王が逃亡するのを手助けして、自分は火責め・水責めの刑にあって死んでしまいます。説経「さんせう太夫」を見ると、安寿の死というのは実に大きな意味を持っています。厨子王が逃げることができたのは、安寿の犠牲のおかげでした。しかし、 説経ではそれにとどまらず、安寿の死と引き換えに厨子王の再生・復活が行われたと言っていいほどの意味をドラマに与えているのです。このように説経ではつねに「生と死」が隣り合わせに・対照的に配置されて、我々自身の生の意味を問うています。
国司となって戻った厨子王は山椒太夫に「姉を返せ」と迫ります。厨子王にとっては安寿は誰よりも恋しい大事な存在なのです。説経の「さんせう大夫」においては安寿は母親よりはるかに重要な存在です。
「やあ、いかに汝ら、姉のしのぶ(安寿)をば何たる罪のありければ、責め殺してはありけるぞ、われをば誰とが思うらん、汝らが家にありたりし、わすれぐさ(厨子王)とはそれがしなり、姉御を返せ、太夫、三郎よ、さても汝は、死したる姉を返せと言うを無理なることと思うべけれど・・」
だから、山椒太夫の処刑の場面では何よりも、厨子王を助けるために死んでいった姉・安寿の魂が癒されていると思います。しかし、山椒太夫を処刑し、母親と再会した後も、厨子王の気持ちは安寿のことを思って晴れません。
「うれしきにも、かなしきにも、先立つものは涙なり。これにつけても安寿姫、浮世にながらえ有りならば、何しにものを思うべきと、あめやさめとぞ泣き給う。」
こうして厨子王は、安寿の菩提を弔うために丹後の国に銕焼地蔵の御堂を建立するわけです。その由来を語るという体裁をとっているのが 説経「さんせう太夫」なのです。
女性が自らを犠牲にして愛する者を救済し・再生に導くというストーリーは洋の東西を問わず数多いのですが、この「さんせう太夫」での安寿もそうです。 そこに慈悲深いお地蔵さま・あるいは観音さまのイメージが重なります。姉・安寿は厨子王にとって自らを守護し・導く 存在なのです。ゲーテの「ファウスト」第2部の有名な言葉を思い出します。「永遠に女性なるもの、われを高みに引き上げん」
説経にはこうした主人公に自己犠牲的な献身をする女性が他にも登場します。 例えば、「おぐり」に登場する照手姫、「しんとく丸」に登場する乙姫もそうです。乙姫はもともとしんとく丸の許婚なのですが、業病に冒されて追放されたしんとく丸にも乙姫は身分を捨てて(つまり、ある意味で「死んだ」ということです)献身します。そのことでしんとく丸は再生していくのです。このことを可能にしたのは、観音を担い、観音とともに歩いた巡礼姿の乙姫(=歩き巫女)でした。
岩崎武夫氏はその著書「さんせう太夫考」において、天王寺の縁の下にいて乙姫の救いを待つしんとく丸の姿と、近松門左衛門の浄瑠璃「曽根崎心中」の天満屋の場において、縁の下にひそんで遊女お初の足を押しいただく徳兵衛の姿との類似性を指摘しておられます。こういう発想は文献的には根拠が薄いかも知れませんが、非常に大事です。
徳兵衛は、お初の言葉に押されるようにして心中を決意します。つまり、新たなる生を獲得するために徳兵衛は動き出すわけですが、そのために も苦界に沈んだ女の献身が必要であったのです。お初はそのためにも遊女でなければならなかったのです。お初を観音と重ね合わせる「曽根崎心中」冒頭の観音廻りも、そうした中世的な呪術宗教的な精神的つながりのなかから発しています。近松の「観音廻り」は「お初観音縁起」というべき体裁をとっているのです。(別稿「曽根崎心中・観音廻りの意味」あるいは「色で導き情けで教え」をご参照ください。)
近松の浄瑠璃を読んでいきますと、意外なほど理性的で・人生を冷静に見つめる目を感じてびっくりすることがありますが、しかし、近松の浄瑠璃の近代人的な・理性的な構造のなかにも、じつは長い間に日本の民衆のなかに培われた精神土壌が脈々と生きていたというわけです。
ということで、歌舞伎・文楽の作品の奥深いものを知ろうとしていけば、先行芸能や説話などを通じて、その奥に潜む日本人の精神の水脈を必然的にたどらねばならないことになります。そうすることで我々はもっと豊かなものを手にすることができるかも知れません。
(H14・7・28)
(参考文献)
岩崎武夫:さんせう太夫考―中世の説経語り (平凡社ライブラリー)