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吉之助の雑談15(平成21年1月〜6月 )


○「身替座禅」の奥方

先日NHKで本年4月の香川県琴平町での「金比羅大歌舞伎」のドキュメンタリーをやってまして、これを見ました。吉之助も平成18年に金丸座での歌舞伎を見たことがありますので・舞台裏の紹介などとても懐かしく思いました。同番組ではいつくかの舞台を断片で見せてくれまして・いずれ全編の放送もあるでしょうから・それから書いても良いのですが、ちょっと「身替座禅」(勘太郎の右京・扇雀の奥方)について触れておきたいと思います。昨今の「身替座禅」のどの舞台にも感じるのは、松羽目(狂言オリジナル)の格調を踏み外して・笑劇に落ちたということです。つまりは恐妻家のドラバタ喜劇です。この舞台も例外ではないようです

まず勘太郎の右京の・花子との逢瀬から戻る花道の出ですが、ここは狂言では「うつつの出」と言ってとても重いところです。「うつつ」というのは夢か幻か・という意味 もありますが、右京は決して酔っ払っているのではありません。ホロ酔いですが・しっかり正気であって、愉しかったことをふっと思い出して・ちょっと嬉しくなってしまう・そのような状態なのです。この役には品格が必要です。その理由については別稿「もうひとつの身替座禅」をご覧ください。この場面の勘太郎の右京ですが、これはまさに酔っ払いの朝帰りです。上体がグラグラして・それで酔っ払っているのを表現しているつもりなのでしょうが、これはしこたま飲んだと見えます。それでなくても腰高の踊りなので・見ているこちらの方が悪酔いしたような気分になります。吉之助は下戸なもので、こういうの嫌なんですよねえ。上体・特に肩を揺らさないようにして・全身の線でホンワカした気分をさりげなく出して欲しいのです。稽古のシーンでは勘三郎がチェックしていたようですが、こういうところにダメ を出さないのですかねえ。扇雀の奥方には「呆れました」の一言です。「あの奥方なら隈取りをすればもっと観客が笑ってくれるだろう」と言いたくなるような奥方です。何か大きな勘違いしてませんか。

「身替座禅」を得意にした先代勘三郎の最後の舞台は・ちょっと品がないところがあって・残念な出来ではありましたが、その先代勘三郎のひとつ前の舞台だったと思いますが・珍しいことですが奥方を十七代目羽左衛門が勤めたことがありました。吉之助が見たなかでは・この時の羽左衛門の奥方が一番良ろしかったと思います。右京ももちろんですが、「身替座禅」では奥方の印象がとても大事なのです。最近の舞台を見ると奥方はメーキャップを強くして・ますます大仰に・怖さを強調する方向に行っていますが、これが「身替座禅」の品位を落としている一番の原因です。観客を笑わせようなんて小細工は一切なく、それでも自然に口元がほころんでしまうような「身替座禅」の舞台は見られないのでしょうかねえ。

(H21・6・20)


○本当の鑑賞への道

小説を読んでも・音楽を聴いても同じようなことが起こると思いますが、芝居を見ていて登場人物の行動がよく理解できない・「どうして彼はそういう行為に走るのかどうもよく分からない」と感じることがあると思います。そういう疑問は大事にしなければなりません。どうして登場人物はそのようなことを言うのか・どうしてそういう行動を取るのか、彼の立場になってその芝居を筋を何度も追ってみる、彼はこういう風に考えたのかなあ・それともこうかなあ、そういう風に後で芝居を何度も反芻してみること、それが芝居を観る目を養うことになるのです。そこが理解の取っ掛かりです。そこを突き抜ければ芝居が分かるようになってきます。だから「何故?どうして?」ということにこだわることが非常に大事で、むしろそここそ勘所であると言ってよいのです。ものを知る愉しみ・分かる愉しみというものはすべてそういうものです。始めからスンナリ理解できて・ああ愉しかったで終わるものだけが優れた作品だと思っているなら、それはお間違えというものです。

一番悪いのは、芝居を見ていて登場人物の行動がよく理解できないと・作品の出来が悪い・これは駄作だとすぐ決め付けることですね。作者の力量にイマイチ問題があるということもまああることかも知れません。しかし、作者が何を描こうとしているのか・何を訴えようとしているか・ 作者の態度が真摯であるならば(そうでなければもちろん問題外ですが)その意図を汲み取ってやることは、鑑賞者が作者に対して取らねばならない最低の「礼」というものです。その作業を納得できるまでした上で・なおかつその作品を駄作と感じるのならばそれはまあ良し。そういう場合も確かにあるで しょうし、そこに鑑賞者の視点もありましょう。しかし、吉之助がいろんな作品に接してきて感じることは、どんな芝居でも・小説でも・音楽でもある程度の時代の淘汰を経ているものは、作者は誰でも彼らなりに一生懸命・真面目に書いているということです 。

「登場人物の行動が理解できない」と感じるとしても、作者はある必然と流れを見ながら・登場人物の行動を書いているはずです。冒頭から結末まで何かの線がまっすぐに引かれています。そ の線が途中でぶっ切れたり、飛んだりすることは決してないのです。これは絶対にそうだと言い切れます。「登場人物の行動が理解できない」ならば、それは自分がまだ作品を十分に把握できていないからに違いない。作品が悪いからではない。そういうことを謙虚に認めるところから本当の鑑賞は始まると、吉之助は思いますねえ。

(H21・6・7)


世話物の根本は写実である

『世話物っていうものは人間描写なんでしょう。その面白さでしょう。だから僕は黙阿弥は世話物じゃないと思う。「三人吉三」なんか、時代物だな。「月も朧に白魚の・・」、人間がそこに出てませんよ。』(宇野信夫の対談:「世話物談義」・「演劇界」昭和57年7月号)

劇作家・宇野信夫氏は「昭和の黙阿弥」と呼ばれたものですが、どうもご本人は黙阿弥がお嫌いであったようです。宇野氏の黙阿弥論はここでは置くことにして(これについては別稿「写実の黙阿弥のために」をご参照ください)、「世話物っていうものは人間描写なんでしょう・その面白さでしょう」というのは宇野氏の 仰る通りだと思います。世話物の根本はシリアスな人間描写・写実(リアル)ということです。しかし、最近の歌舞伎はこのことを忘れているのではありませんか。最近の世話物を見れば・どこか芝居が滑稽に傾くものが多いようです。例えば「加賀鳶」の按摩道玄ですが、道玄だけではありません。「髪結新三」・「魚屋宗五郎」・「 筆屋幸兵衛」にしても・何と「十六夜清心」でさえ何だか滑稽に傾いてはいないか。昔が良かったなんて言うつもりはないですが、二代目松緑の道玄も・十七代目勘三郎の新三も確かに愛嬌の要素はあって客席は沸いてはいましたが、滑稽ではありませんでした。最近の歌舞伎の世話物では愛嬌と滑稽の区別がついていないような感じですねえ。

世話物における愛嬌とはどういう意味を持つものでしょうか。このことは別稿「和事芸の起源」において考察した「作り物語」であることの言い訳(逃げ)は滑稽味・諧謔味という形をとることが多いという折口信夫の説明とそっくり同じことが言えます。つまり舞台において真実を描写すること・シリアスになり過ぎるのをちょっと軽い調子で「いなす」・それが世話物の愛嬌なのです。とことんシリアスになり切れない・そこまで人間描写を徹底的に追求できない・そこに歌舞伎の世話物の限界はあるのですが、世話物の演技をどこにスタンスを置くべきかは明らかです。それは写実・シリアスの要素であるのは当然のことです。それが世話物というものなのです。まあそこのことは別の機会に詳しく論じることにします。

五代目菊五郎の道玄は愛嬌があったそうです。なるほど見た印象はそうであったかも知れません。しかし、五代目菊五郎の道玄の本領は決して愛嬌にあるのではありません。五代目菊五郎は「村井長庵のような悪人が演りたい」と言って黙阿弥にこの芝居を書いてもらったのです。人殺しの場面で犯人の人柄がユーモラスだと言って笑える道玄なんぞ・吉之助なら見たくはないですねえ。殺し場に道玄の愛嬌が見えるならば、それは極悪の余裕を気取った道玄の「いなし」なのです。そうやって凄惨な殺し場の緊張をふっと解く・その「いなし」の微妙な息つかいが世話の感触を生み出すのです。それが五代目菊五郎の芸なのです。舞台の表面の面白さばかりに目が行っていると、そういう当たり前のことが分からなくなってきます。いつの間にか愛嬌を見せることが芸の目的になってしまう。ついには滑稽なのが道玄という役だと思い込んでしまう。役者もそうだし、見る側・劇評家もそんな感じですねえ。世話物とは シリアスな人間描写・写実(リアル)に根差すものであるということを想起して欲しいと思います。このままだと遅かれ早かれ本物の世話物は消えていくでしょうねえ。

(H21・5・17)


○ドナルド・キーン先生

昨日NHKの番組「未来への提言」は日本文学研究ドナルド・キーン先生のインタビューでしたが、そのなかでキーン先生が「日本の方は日本文化は独特なもので・外国人には理解し難いものだと思いたいのでしょうねえ。日本 では日本人論の本がたくさん出てますが、アメリカでアメリカ人論・英国で英国人論なんて聞いた事がありません」というようなことを仰っていました。これだけ長く日本文化を研究されていても、やはりどこかで日本人は敷居が高い・ なかなか受け入れてくれないと感じることは多いのだろうなあとお察ししました。 いつぞやの対談でも「日本語で講演した直後でも・英語で話しかけてくる日本人ばかりで・・」と苦笑していらっしゃいました。それにしても日本文化はホントに世界に類例がない独特なものなのでありましょうか。今どき流行りの「グローバル化」などということを持ち出さなくても、そうした思い込みはもう捨てた方が良ろしいかなあと思いますねえ。人間の考えることなんて・古今東西そう大差はないと吉之助は思っています。

「歌舞伎素人講釈」では歌舞伎とオペラを関連付けた論考をいくつも出してますので・吉之助は比較文化をやっているとお思いの方が多いかも知れませんが、吉之助がやっていることは比較ではありません。成り立ちの違うものに差異があることは当然のことです。歌舞伎とオペラの違いなんて・挙げようと思えば、いくらだって挙げられます。そういうことには吉之助は興味ありません。吉之助は類似点に注目します。たまたま似ているように見えるその類似のなかに何かの必然・あるいは道理を導き出そうとするのです。言うなればこれは 「統合」でありましょうか。両者の類似する要素を見出して、そこから普遍的な人間認識を見出そうということです。これが吉之助の目指すところでして、「歌舞伎が分かればオペラが分かる・オペラが分かれば歌舞伎も分かる」というようになれば良いなあと思います。キーン先生の考え方はそれに近いものだと思います。キーン先生はどちらかと言えば歌舞伎より能狂言 の方に関心をお持ちかと思いますが、あれほどにオペラに詳しいキーン先生のことですから・歌舞伎についても興味深い見解が聞けると思うのですが、そういう御本を書いていただけないものでしょうかねえ。これから比較文化・比較社会学を志す若い方に強くお勧めしたいのは、類似項を出発点にして思考を展開していく態度です。そうすることで異文化の因数分解が可能になると思います。

ドナルド・キーンの音盤風刺花伝

(H21・5・8)


「阿吽の二字」

連載中の「アジタートなリズム〜歌舞伎の台詞のリズム・その14・荒事の台詞」において「勧進帳」の富樫と弁慶の山伏問答について考えました。そのなかで「山伏問答の最高潮は富樫「出で入る息は」・弁慶「阿吽の二字」の箇所であり、ここで最速ギアに入っていた問答が弁慶の甲高い大声で急ストップが掛かる・これがまさに荒事らしいアジタートな表現である」ということを書いたわけです。「阿吽の二字」で急ストップ・ということは「ニジッ」と強く言い切るということでして、「二ィジィー」と長く引き伸ばさないということです。

一昨日届いたばかりの歌舞伎学会誌「歌舞伎・研究と批評・42」を読んでましたら、次のような中村梅之助の発言が載っていました。梅之助の父・翫右衛門は富樫を得意としましたが、梅之助が弁慶を初めて勤めた時に「俺は弁慶をやっていないので・教えるわけにはいかないが・相手役の富樫の立場から見て弁慶の大事なところをこれから話す・・」と言って教えたそのなかで、「出で入る息は」・「阿吽の二字」と切るんだ、そうすると「そもそも・・」の前に息を吸えるんだ、「二字ー」と伸ばすと富樫が息を吸えなくなっちゃう・と翫右衛門は語ったということです。(中村梅之助:「前進座の戦中・戦後」)期せずして翫右衛門に吉之助の説を裏付けしていただいたわけで、心強いことです。吉之助は残念ながら梅之助の弁慶を見たことがありませんが、「阿吽の二字」を強く言い切った素晴らしい弁慶だろうと想像します。

「阿吽の二字」を強く言い切らねばならぬのは、荒事の台詞の基本イメージとして二拍子(細分化すれば四拍子)のリズムからすれば「アウ/ンノ/ニジ」となるのですから、「ニジ」を中途半端に伸ばせばリズムが余るし・「二ィジィー」と長く伸ばせば気が抜けることを考えれば、台詞を読めばそれは簡単に分かることだと思います。しかし、松竹の歌舞伎の方で「阿吽の二字」を言い切った弁慶を近頃は滅多に見ませんねえ。みんな「二ィジィー」と伸ばしています。ついでに言えば富樫の方も「出で入る息は」の末尾を「ワァー」と伸ばす感じ に聴こえます。そう聴こえるのはホントは弁慶は富樫の「息は」の「ワ」の母音に・「阿吽」の「ア」の母音をかぶせる感じで出なくてはならぬの に、弁慶がそうしないからです。こういうことも出来ていません。最近の「勧進帳」を見れば弁慶が「二字」を「二ィジィー」と伸ばすので・ここで緊張が緩んでしまって、「そもそも九字の真言とは・・」で富樫が弁慶ににじり寄る時に何だか富樫が妙にいきり立ち・しかもその興奮が空回りしているように見える舞台が多いと思います。例えば平成20年4月歌舞伎座での「勧進帳」の勘三郎の富樫がそのような感じでしたが、富樫がああいう風に見えてしまうのは、実は問答全体のリズム設計を維持できていない弁慶(仁左衛門)の方にも責任があるのです。

弁慶が「阿吽の二字」を前の富樫の台詞にかぶせるように出て・「二字」の末尾を強く言い切るということはどういう意味を持つでしょうか。弁慶は「長々しい問答など無用・何度質問したって俺は答えられるぞ」という感じで富樫の問いを強く遮るわけです。そう書くと「勧進帳をでっち上げることぐらい弁慶には簡単なことだ」と書いてある評論と吉之助は同じ意見だと思われるといけないので付け加えますが、実はその逆です。弁慶はこれ以上質問されてボロを出すと困るから早く問答を打ち切りたい・だからわざと高飛車に出ているのです。ここは弁慶絶体絶命という場面なのです。だから富樫は緊張を維持したまま畳み掛けるように「そもそも九字の真言とは・・」と早いテンポで弁慶を さらなる窮地へ追い込んでいかねばなりません。そのためにはその直前の「阿吽の二字」を「二ィジィー」と引き伸ばされたのでは緊張が緩んでしまうので富樫は困るわけです。翫右衛門は弁慶に「二字」を伸ばされると富樫が息が吸えないと言ったようですが、 「二字」を引き伸ばされると富樫が息をグッと詰めて「そもそも」をトップギアで一気に切り出す時のタイミングが不明瞭になるのです。ここは最高潮になったアッチェレランドを急スットプされた音楽がまた一気にトップスピードに入る・まさにここは急転直下急発進の波乱の音楽です。さあ弁慶はこのピンチを切り抜けられるか。だから最後の弁慶の長台詞が生きてきます。以上が山伏問答のドラマ面からのリズム解析ですが、大事なことは荒事の台詞の二拍子の基本イメージが山伏問答の背後にあるということです。弁慶・富樫は 二拍子の基本イメージを意識して問答をしてもらいたいと思うのです。

(H21・5・3)


○平成21年4月歌舞伎座:「伽羅先代萩」

別稿「引き裂かれた状況」において、「先代萩・御殿」で政岡の置かれた異常な状況と・その自虐的とも言える反応のメカニズムについて考えました。栄御前が退出した後、広間にただひとり残された政岡は我が子千松の死骸を抱きしめて、始めは「コレ千松、よう死んでくれた、出かしたナ、其方の命は出羽奥州五十四郡の一家中、所存の臍を固めさす誠に国の礎ぞや。」と言うのですが、やがて政岡から別の言葉が漏れ始め、「武士の胤に生れたは果報か因果かいじらしや、死るを忠義と云ふ事は何時の世からの習はしぞ」と言って政岡は千松の死を嘆きます。これは政岡の前半の台詞は建前からのもので・後半が母親としての政岡の心情を表すもので、封建主義の非人間的な建前の台詞を・やがて人間の肉声が否定し去っていくという風に一般的に解釈されています。吉之助の解釈は先にあげた論考をお読みいただくとして、現代人はどうしても個人と状況を対立的に見ますから・このような解釈になるのもよく理解できます。ただし、この解釈ではクドキのカタルシスが不足するのは致し方ないところです。

玉三郎の政岡ですが、とても理性的でコントロールが効いた政岡です。まず千松が八汐になぶり殺しにされる時の硬い表情にそれが現れます。また「コレ千松、よう死んでくれた・・・・誠に国の礎ぞや」の場面では政岡役者はふつう万歳をするように・両手を高く天に挙げて千松の行為を称えますが、玉三郎は完全に手を挙げないで・目線辺りの高さまでで止めて・手をそれ以上に高くは挙げないのです。その形に「天晴れだと言って千松を誉めてやりたい・しかし・我が子が死んで嬉しいとはやっぱり言えない」という 交錯した思いを込めたということだと思います。とても抑制が効いているのです。玉三郎は政岡の押さえるべき性根はしっかり押さえていて・その点に不足はないのですが、玉三郎の政岡の演技があっさりした感触に感じられるのはそのせいです。「飯炊き」がしっかりしているのもそのせいですが、近年の「先代萩・御殿」はどれも前半の方が良いようですね。 「忠義のためにひもじい思いをするのは何とつらいことか」という状況を確かに観客に納得させます。吉之助は歌右衛門の「飯炊き」は長いなあと思ったものでした。もちろんこれは歌右衛門なりの計算あってのこと ですが 、芝居は後半さえ良ければ・前半のことはチャラにできるのですから、やはり後半のクドキにカタルシスが欲しいと思います。 そうでなければ前半で描いた状況の様相が本当は生きてこないのです。やはり「御殿」の要はクドキなのです。

玉三郎の政岡は「・・・・とは言ふものの可愛やなア」から「死るを忠義と云ふ事は何時の世からの習はしぞ」のクドキの台詞が竹本のリズムから離れて・素の台詞に近い感触に思われます。これはおそらく意識的に肉声に近い感触を意図したようです。しかし、吉之助が思うには・このクライマックスにおいては竹本の音楽的効果を利用しない手はないのです。糸に乗れ(リズムに乗れ)というのではなく、逆に糸を後ろの方へ引っ張ってもらいたいのです。つまり、歌右衛門ほどではないにしても・台詞をもっと粘らせて・竹本を後ろに引っ張って欲しいのだなあ。そうすればもう少しバロック で濃厚な味わいが出ると思います。玉三郎のクドキは淡い感触でちょっともの足りない。だから何となく「実録先代萩」みたいな感じになります。そういえば御殿の後に続く「対決・刃傷」の方も・良し悪しは別にして実録めいた舞台であったと思いますが、これは現代での上演では致し方ないところなのでありましょうか。

(H21・4・23)


○太宰治生誕100年

本年(2009)は太宰治(明治42年・1909〜昭和23年・1948)の生誕100年だそうです。人気作家のことですから・今年は多くのイベントがあることでしょう。「富岳百景」(1943年)は吉之助の昔から気に入っている作品ですが、吉之助が太宰をさほど読まなかったのは・吉之助が三島のファンのせいでして、三島は太宰に「あなたの作品が嫌いです」と面と向かって言ったくらいですから・その影響もあって多分に喰わず嫌いのところがありました。良い機会なので・以前から太宰を読み直したいと思っていたこともあり、太宰の晩年の作品を中心にいろいろ読んでみました。感心するのは太宰は作品の書き出しがどれも巧いことです。「斜陽」(1947 年) は第2章まで実に素晴らしいと思います。ただ「斜陽」の場合・第3章で弟直治の日記辺りから転調が始まって・その後主人公かず子の上原への手紙辺りから文章の趣がかなり変ります。主人公の性格分裂が起きて ・太宰自身がちょっと顔を出している感じです。最後の「M・C マイ・コメディアン」は実に太宰らしいところですが 、吉之助にはちょっとねえ。若い時にこの小説を手に取った時・最後の「M・C」の文字を見て読むのをやめたことを思い出しました。三島ファンからすると不真面目という感じがしたのだなあ。全体の筋をそのまま最初の主人公の独白の調子で続けられぬものかなあと思案しましたが、多分この破綻が太宰の魅力なのです。まあこういうこと も冷静に味わえる歳になったということかと思います。

ところで「斜陽」と同年に書かれた短編「おさん」ですが・「心中天網島・紙屋内」に関連したもので、「天網島」に関する評論にも、この短編の文章を引用したものがいくつかあったのを思い出しました。引用されていたのはこの箇所ではなかったかと思います。

『あの昔の紙治のおさんではないけれども、「女房のふところには/鬼が棲むか/あああ/蛇が棲むか」とかいうような悲歌には、革命思想も破壊思想も、なんの縁もゆかりもないような顔で素通りして、そうして女房ひとりは取り残され、いつまでも同じ場所で同じ場所で同じ姿でわびしい溜息ばかりついていて、いったい、これはどうなる事なのでしょうか。運を天にゆだね、ただ夫の恋の風の向きの変るのを祈って、忍従していなければならぬ事なのでしょうか。』

しかし、これは吉之助ならば別の箇所を引用しますねえ。こちらの方が太宰の作意をよく表していますし、近松の「天網島」のおさんの行動もこちらの文章の方がぴったり来ます。 「天網島」のおさんを亭主にただ献身的に忍従する女房と考えるならば、「紙屋内」後半のおさんの行動は理解が違って来ると思います。

『他のひとを愛し始めると、妻の前で憂鬱な溜息などをついて見せて、道徳の煩悶とかをはじめ、おかげで妻のほうも、その夫の陰気くささに感染して、こっちも溜息、もし夫が平気で快活にしていたら、妻だって、地獄の思いをせずにすむのです。ひとを愛するなら、妻をまったく忘れて、あっさり無心に愛してやってください。』

紙屋治兵衛というのは・女房にこんなことを言われるみっともない男なのです。まったく女房の言う通り、治兵衛は明るく浮気すればあんなこと(心中する破目)にならなかったのです。ところが 残念ながら治兵衛はそんなことが出来る男ではありませんでした。そこに治兵衛という男の弱さと・優しさと・真実があったということです。近松の世話物に出てくる男たちと・太宰の「おさん」に出てくる亭主・あるいは「人間失格」(1948年)に出てくる葉蔵はその心情 ・感性が実によく似ているというわけです。近松の世話物に出てくる男たち・徳兵衛や忠兵衛などは生粋の大坂生まれではなく・地方出身者です。つまりアイデンティティーがそこ(大坂)にない・精神的な根無し草です。治兵衛は大坂生まれのようですけれど、大坂商人気質になじめないものがあるのでしょう。そこが終戦直後の日本の精神状況のどこかに似るのだろうと思います。そういうわけで近松研究のために太宰治を読むことはとてもヒントがあることだと思います 。

(H21・4・12)


○「世界」とは何か

メルマガ第247号「 世界とは何か」において「忠臣蔵」の世界・「仮名手本」だけではなく元禄赤穂事件を題材にしたものはすべて・その主題を負うのは由良助(=内蔵助)であり、由良助が登場しない幕においても由良助の存在がその劇空間を歪ませているということを考えたわけです。登場人物が始終気にすることは「由良助殿は何を考えているのか」ということです。彼らは由良助の態度が煮え切らないのにイライラして・その心中を憶測して、 勝手に喜んだり・ガッカリしたり・泣いたり・怒ったりしています。「仮名手本忠臣蔵」は「六段目」から「十段目」まですべてそういうドラマなのです。「元禄忠臣蔵」なら「第二の使者」から「南部坂雪の別れ」までがそういうドラマです。

吉之助は「十一段目(討ち入りの場)」が嫌いで、通し上演ならばせっかくの切符代がもったいないから途中で席を立つことはしませんが、正直申せば討ち入りの場は不要だと思っています。しかし、討ち入りの場を楽しみにしている方が多いことは承知しています。「忠臣蔵とは何か」をお書きになった丸谷才一氏は、「忠臣蔵」は討ち入りがないと格好がつかないと仰っています。吉田秀和氏も同じようなことをお書きになっていました。まあその気持ちも分からぬではないですがねえ。

丸谷才一:忠臣蔵とは何か (講談社文芸文庫)

元禄赤穂事件は、元禄14年3月14日(西洋暦では1701年4月21日)の江戸城刃傷に始まり・翌年元禄15年12月14日(1703年1月30日)の吉良邸討ち入りで一応終わるわけです。次いでに記しておくと大石内蔵助以下四十六名の切腹は元禄16年2月4日(1704年3月20日)のことです。事件を刃傷から討ち入りまでとすれば、史実では1年9ヶ月くらいの時間が掛かっています。これに対して「仮名手本忠臣蔵」は「大序」の季節を春とし・「十一段目」を冬に設定しており、そこにほぼ一年のサイクルを見ているわけです。ここには生と死の循環がイメージされており、雪の日の討ち入りに「再生」が予感されていることも確かなことです。これは「七段目」の由良助が「やつし」であることが分かれば、人類学者ファン・ゲネップが提唱した「通過儀礼」の概念で読み解けます。「通過儀礼」とは人生の節目に訪れる危機を安全に通過するための儀式のことを言います。無事に通過すれば、その人物にふさわしい新しい身分や社会的役割が与えられるのです。切腹後の四十六名が民衆にどのように受け入れられたかを考えれば、彼ら に与えられた新しい役割が何であったかは明白でありましょう。(これについては別稿「今日の檻縷は明日の錦」をご覧ください。)

丸谷才一氏の「忠臣蔵とは何か」は・吉之助にとって演劇における御霊信仰について目を開かせてくれた本ではあるのですが、申し訳ないですが・討ち入りはカーニヴァルで・王殺しがイメージされている云々あたりからは吉之助は意見を異にします。(別稿「忠臣蔵」は御霊信仰で読めるか」をご参照ください。)「忠臣蔵」のなかに御霊信仰が見られないわけではありません。判官が切腹の際に「恨むらくは館にて加古川本蔵に抱きとめられ、師直を討ちもらし無念、骨髄に通って忘れ難し。湊川にて楠正成、最後の一念によって生(しょう)を引くと言いし如く、生き替わり死に替わり鬱憤を晴らさん」と言う場面は明らかに自らを怨霊と化さんとする判官の意思がうかがえますの「アア仏果とは穢らわしい。死なぬ、死なぬ、魂魄この土にとどまって敵討ちの御共する」も同様です。それでも御霊信仰を「忠臣蔵」のライトモティーフとはしても・主題(メインテーマ)とするわけにはいきません。まあこのことはいずれ機会を見て・じっくり考えることにしたいと思います。今は江戸時代の人形浄瑠璃作品というものは、例えば「義経千本桜・大物浦」で知盛怨霊伝説を見事に解明して見せた如く、とても理性的・論理的に書かれたものであるということだけ申し上げておきます。その論理性こそ浄瑠璃・歌舞伎の「世界」観を構成する基盤なのです。

(H21・4・10)


○グレン・グールドについて

このところ「歌舞伎素人講釈」の記事でカナダの名ピアニスト:グレン・グールド(1932〜1982)のことを書くことが多いのですが、吉之助にとってグールドは好きなピアニストというわけではなく、彼はとても気になるピアニストなのです。吉之助にとって長い間グールドは疎遠な演奏家でした。それは別館「クラシック音楽雑記帳」を見ればお分かりの通り・吉之助が圧倒的にモーツアルト・ベートーヴェン以後からロマン派嗜好であるためで、グールドは何と言ってもバッハで定評が高く・逆にロマン派のレパートリーが非常に限られるため必然的に聞く機会が少なかったのです。現在の吉之助はバッハをあまり聴きませんが、その理由は「バッハは晩年の楽しみのために取ってあ る」と言うことにしています。これは半ば本音でありますが、実はグールドのバッハを聴いていると吉之助の頭のなかは数字や元素記号が飛び交うような感じがして長く聴いていられないのです。晩年の吉之助がバッハを楽しんで聴くならば、「平均律クラーヴィア曲集」はグールドでなくて・リヒテルの演奏を選ぶかも知れません。

吉之助が最近グールドを興味を持つようになったのは、吉之助にはグールドの演奏に対する姿勢(コンサート・ドロップ・アウトあるいは録音に対する考え方)がとても示唆あるように感じられたからです。例えば歌舞伎においても劇場での生の舞台と・ビデオ映像による鑑賞とをまったく差を付けない吉之助の考え方はクラシック音楽鑑賞の仕方に深く関連しているのですが、理論的にはグールドの考え方とまったく同じようです。しかし、だからと言って吉之助は劇場に行くのを完全にやめるつもりはない(と言っても現在は年に数回も生は見ない)ですし・真夏にマフラーや手袋をするグールドの真似はしませんが、吉之助とグールドとは芸術に対する考え方が似てるのかもなあと最近思うようになりました。グールドは聴き手に仕掛けてきますので・聴く側も心して聞かねばならぬので、吉之助はグールドを楽しんで聴くということはないのです。時間に余裕がないせいもありますが、目下のところ吉之助はグールドの演奏をぶっ続けで聴くことはなく・ほとんど楽章単位の細切れで、一楽章聴いたら・しばらく間を置いて・また次という感じです。気になる箇所があったら・プレーヤーを止めて・何分か戻してそこを聴き直す。場合によっては別のピアニストの同じ箇所を聴いて・また戻るという感じです。 つまり細切れ聴きでして、「あなたの録音をこうやって聴いてます」と言ったら多分グールドは目を細めて喜んでくれると思いますがねえ。実際歌舞伎の舞台ビデオを見る時の吉之助は しばしばこれに近いわけです。

ワーグナー:楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」前奏曲(グールドによるピアノ編曲・1973年CBSスタジオ録音)は実に興味深いものです。ひとつはグールドのピアノ編曲ではワーグナーの対位法的 構造がオリジナルの管弦楽版よりよく分かるということがあります。グールドは「音楽の横の線ではなく縦の和声関係がとても気に掛かる・ロマン派作品の演奏は響きの豊かさ・線の滑らかさに傾斜してこの点への意識がおろそかになっている」というようなことを言っていますが、 その要素を強調した編曲にはグールドの主張がよく出ています。それと興味深いのは中間部の愛の動機の絡み合いにまさしく「トリスタンとイゾルデ」だと感じさせる響きが現出することです 。音楽の縦の線が揺らぐのです。管弦楽の場合だとこの印象がこれほど明確に浮き上がってくることはないので、 これはハッとさせられます。その結果、愛の動機とマイスタージンガーの動機の交錯のなかに「マイスタージンガー」の喜劇的性格が明瞭に現れます。これは別稿「和事芸の起源」で触れた「誣(し)い物語 は滑稽味・諧謔味という形をとることが多い」という原則を思い起こさせます。「マイスタージンガー」の喜劇性というのは・ もちろんニュルンベルクの市民階級を笑いのめすというものではなく、ともすれば反社会性のなかに沈み込んでいきそうな主人公の感性を社会の規範の方へ引き戻すという健康的かつ快活な要素なのです。この点は別稿「宿命の恋の予感」が参考になるでしょう。このような曲の縦の構造をグールドの編曲は再発見させてくれました。 次いでに言いますと、このことはメルマガ第146号「世界とは何か」に書きました通り・鶴屋南北のパロディ性・諧謔性は実はその時代の精神の健康さから発するということの例証ともなり得るものです。

*上記録音とは別のものですが、Youtubeでのグールドの「マイスタージンガー」の演奏(1974年)映像をご覧ください。実に愉しそうにピアノを弾きますねえ。なお本稿は独立した記事として・その他のグールドの録音を折りにふれ追加していくことにします。

(H21・4・2)


○ベルリンの壁・911以後の唯物史観

1960年代後半から70年頃は大学紛争が盛んな時期で、1969年の全共闘と警官隊の東京大学安田講堂攻防戦など吉之助もテレビで見てよく覚えています。吉之助は それよりひと回り遅れた世代で・学生運動の体験はありませんが、まあ当時の学生なら一度は左翼思想にかぶれた時期があったと思います。しかし、吉之助は小説「収容所群島」を めぐる作家ソルジェニーツイン弾圧事件・さらにソルジェニーツインを擁護したことで迫害を受けて亡命を余儀なくされた音楽家ロストロポービッチの事件、あるいはヴォルコフ編による「ショスタコービッチの証言」などによって社会主義に対する強い幻滅を経験しました。 とどめはペレストロイカ(1986年)・ベルリンの壁崩壊(1989年)・ソビエト連邦の崩壊(1991年)という一連の事件でした。 さらに911テロ(2001年)によって・それが決して資本主義の勝利ではなかったことも明らかになりました。

そういうわけで吉之助はマルクスの唯物史観・階級闘争理論に強い関心を持って勉強しましたが、結局・それは真理ではなくて・ひとつの切り口に過ぎなかったということ を痛感しました。まあ支配する者と支配される者の対立構図というのは一番基本的な構造ではあるわけです。それは理論としてなかなかよく出来た視点で・それで芸術作品を読むと何となく 構造主義的に見えてインテリっぽい感じがするので・それで流行ったわけです。今読むとそういう唯物史観に立った批評はバランスがとても偏っていて、距離をちょっと置いて注意して読む必要があると思います。一方、ほとんど同時期に並行して・歌舞伎に大いに関連するところの江戸期の歴史研究分野では支配階級である武士が農民を一方的に搾取し・農民は隷属するままという江戸期のイメージはほぼ否定されましたし、江戸期は明治期に先立つプレ近代であるという位置付けが明確に現れてきました。このような最新の歴史研究の成果を歌舞伎批評はもっと積極的に取り入れていく必要があります。吉之助の見る限り歌舞伎を含む江戸文化研究全般でそういう感覚が未だ70年代で・チト遅れているように思われます。

例えば先日のメルマガ第246号「世界とは何か」(前編)に挙げた広末保先生の「四谷怪談」(岩波新書)です。これは結構影響力のある本で、この本の最終章「伊右衛門は死んだか」を契機に「四谷怪談」論を展開するのは最近でも見掛けます。伊右衛門を封建階級の論理に敢然と反抗する自由人と見る見方は切り口として確かに面白いところがありますが、『「四谷怪談」幕切れで伊右衛門が死んだということになれば、『「忠臣蔵」の義士・与茂七によって(伊右衛門は)否定され克服されたことになる。これでは何のための「四谷怪談」だったか・訳が分からない』という広末先生の見方は、吉之助には思想的フィルターが強く掛かっていて・そのように思いたいからこの作品をこう読むという態度にしか見えませんねえ。イヤその見方が間違っているというのでもないのです。解釈・切り口の可能性はいろいろあり得るからです。ただし、それはひとつの解釈にしか過ぎない。その解釈を起点にして・もう一度作品を読み返し、論理的な齟齬・構造的な破綻が出ないか検証を していく必要があると思います。そうすると結構ボロボロと破綻が出てくるのですねえ。このことは以後のメルマガの後段で論じていくことになるでしょう。ベルリンの壁崩壊以後の唯物史観・階級闘争理論は常にそのようなチェックを しながら・バランス感覚を以って利用していく必要があります。それならば唯物史観は今でも十分に役に立つ視点だと思います。これが吉之助がソルジェニーツイン事件からベルリンの壁崩壊までの経験から学んだことです。広末先生の著書「四谷怪談」には若き日の吉之助もお世話になりました。広末先生の時代はそうした左翼思想が全盛の時代であり・十分それで良かったわけですが、ベルリンの壁崩壊以後の我々はこれを再検証してバランス・チェックをかけてこの本を読む必要があるのです。そう読むならば広末先生の「四谷怪談」は今も立派に役に立つ本です。

広末保:四谷怪談―悪意と笑い (岩波新書)

これは吉之助の師である武智鉄二も同じで・一般に武智理論のひとつの側面が唯物史観であると理解されています。それはある意味では事実ですが、吉之助の場合は早い段階でこの方面での武智の影響から脱しました。これにはもちろんベルリンの壁崩壊に至る吉之助の思想的変化が関連しています。 吉之助の「四谷怪談」の見方は武智のそれとはかなり異なるものとなりました。別稿「伝統におけるクラシック〜武智鉄二の理論」に書いた通り・吉之助は武智理論の真髄は芸能の世界に「クラシック(古典)」という概念を持ち込んだことにあると考えており、弟子である吉之助はその意味において武智理論を受け継いでいると理解しています。

(H21・3・28)


○ルガノ音楽祭のアルゲリッチ

最近はネットで音楽が簡単に聴けますので、吉之助のようにCDやテープの置き場所に苦労している人間には有り難い時代になりました。別室サイト「クラシック音楽雑記帳」 でお分かりの通り・吉之助の音楽の趣味はロマン派の管弦楽とオペラに偏り気味ですが、歳を取りますと音楽もカロリー控えめが良ろしいようで、吉之助も意識して独奏曲・室内楽を聴くようにだんだんなってきました。「 ルガノ音楽祭」は毎年6月にスイスの保養地ルガノ市で行われる音楽祭で、マルタ・アルゲリッチが中心になって行うプロジェクトで 、室内楽が主体のプログラムです。アルゲリッチは同様のプロジェクトを大分県別府市でも行っていることはご存知の通りです。このルガノ音楽祭のサイトでは・有難いことに いろいろな演奏家の多くの録音がストリーミングで無料で聴くことが出来るので、大変重宝です。恐らく神経症的な問題があるのでしょうが・アルゲリッチがソロを弾かなくなって久しいですが、彼女が協奏曲や室内楽でその妙技を披露してくれることは嬉しいことです。

例えばアルゲリッチの弾く シューマンのピアノ協奏曲の演奏(2002年6月23日)です。アルゲリッチのリズムの 表現がちょっと激し過ぎるとお感じの方もいるかと思います。急に弱まったかと思えば・急に音量を増す、あるいは速度が遅くなったと思いきや・急にグッとアクセルを踏む感じのシューマンのアジタートな気分をよく表現した演奏だと思います。鋭角的な切れ味を感じさせ・ちょっとピリピリした感覚さえ伴いますが、とても刺激的です。この曲でアルゲリッチともっとも対照的な演奏をしているのはアバドと組んだマリア・ジョアン・ピリスでしょうか。(独グラモフォン録音)ピリスは古典的で落ち着いたタッチの独奏で・時にモーツアルトのような錯覚さえ起こさせて ・これも魅力的な演奏には違いありませんが、フォルム的にどちらが正しいかと言えばアルゲリッチだと断じざるを得ませんね。例えば第一楽章中間部の強く弱く・速く遅く ・気まぐれに揺れ動くアジタートな気分がアルゲリッチの演奏ではよく出ています。第2楽章でも物憂げなロマンティックな情感のなかに浸り切っていない感じがあります。 情感に完全に浸りきれない・どこかで醒めているという感覚がロマン派の場合はとても大事だと思います。 (ストリーミングにタイミングが表示されないので・その箇所を正確に示せないのが残念です。)

アルゲリッチとリリア・ジルベルシュタインとの連弾によるラフマニノフの組曲第1番「幻想的絵画」(2008年6月11日)も興味深い演奏です。ラフマニノフの作風は「遅れて来たロマン派」などと半ば揶揄を込めて言われたりしますが、とても鬱気質が強い作曲家です。 事実ラフマニノフは強度の神経衰弱に陥って治療を受けたりしていました。たとえば第1曲「舟歌(バルカローレ)」は月の光あるいは街の明かりがキラキラと川面に揺れて映えるようにも聴こえ ますが、さらにこのコロコロとした高音の動きがラフマニノフのいろいろな作品に半ば脅迫的によく出てくる鐘の音のイメージを思い起こさせます。このアルゲリッチらの連弾演奏を聴いていて感じるのは ・ふたつのピアノが渾然と溶け合って・揺れる音響の波のような感覚があって・それはそれで納得できるものですが、吉之助はもう少し主旋律をくっきり浮かび上がらせて欲しいと思 いますねえ。そうすると高音でコロコロと鳴り響く鐘の音(多分これがアルゲリッチのパートでありましょう)がメロディアスな主旋律をしきりに邪魔するように煩く動きまわる・つまり完全に情緒に浸らせないように・その高音のハエのような動きがとても緩慢なストレスに聴こえる だろうと思うのです。アジタートな感覚がさらに明確になると思いますね。第4曲「復活祭」(または光明の祭り)はガンガンと激しく鳴り響く鐘が全面的なモチーフになっています。これは確かに歓喜に違いありませんが、吉之助にはほとんど脅迫的な強制的な歓喜に聴こえます。 この第4曲はとてもバロック的な感じがしますが、1893年・ラフマニノフ20歳のロシアの状況にどんなことがあったのですかね。


(H21・3・23)


○ピアノとオーケストラの可逆的な関係

現在連載中の「アジタートなリズム」のなかで「装飾音はクラヴィコード(=ピアノ)という楽器自体の本来の要求である」というシェンカーの説を紹介しました。それはピアノだけが自分ひとりだけでその音楽世界を完結できるということです。このことはピアノがロマン的特性を持つ楽器であることを示していると思います。カナダのピアノスト・グレン・グールドは次のように語っています。

『私が日頃から抱いている確信は、重要な作曲家の大半にとってピアノは管弦楽の代替物であったということです。ピアノは本当は弦楽四重奏や合奏協奏曲の編成や大管弦楽などの形で演奏されるべき音楽を響かせるために存在してきたのです。脳裏に別の音響体系を持たずにピアノ曲を書いた作曲家に一流の人はほとんどいないと思います。』(グレン・グールド:1980年のインタビュ-・「グレン・グールド発言集」に収録)

グールドはベートーヴェン以後(つまりロマン派以後)のピアノ音楽はそのなかにオーケストラの響きがイメージされていると言っています。このことはピアノとオーケストラが可逆的な関係にあることを示しています。それは管弦楽曲を作曲するのにほとんどすべての作曲家がピアノを使った・ピアノなしで作曲ができないということによく現れています。19世紀には蓄音機がまだ存在していませんでしたから家庭で音楽を気楽に楽しむというわけにいきませんでしたから、管弦楽曲やオペラをピアノ(連弾を含む)用に編曲したもので音楽を身近に楽しむということがごく普通に行われたものでした。こうした編曲物は現代ではほとんど顧みられることはありませんが、例えばリスト によるベートーヴェンの交響曲9曲あるいはベルリオーズの幻想交響曲のピアノ編曲版などはピアニストとしてのリストがコンサートでその華やかな技巧と音色を誇示するということ以上に・恐らくリストのなかのピアノと管弦楽の音響イメージの可逆性を示してもいるのです。リストが交響詩など管弦楽に新しい領域を切り拓き・またワーグナーに重要な示唆を与えたことも、このことを考えれば 十分に納得できるところです。ですからピアノという楽器の機能発展とロマン派の管弦楽法の発展は密接にシンクロしているわけです。

このようにピアノとはロマン的特性を持つ楽器なのですが、同じインタビューでグールドはとても面白いことを言っています。「一般的にはピアノ曲のレパートリーはほぼ19世紀の作品で、モーツアルトの終わりかベートーヴェンの初期に始まり・ラヴェルとラフマニノフで終わるというところでしょうが、私のピアノに関する前提は反ピアノ的ですから、私にとっての最高のピアノ曲は16世紀のヴァージナル音楽です」というのです。実にグールドらしい見解ですね。

(H21・3・18)


○シューベルトの革命性

時と場所を隔てた全く別個の作家あるいは作品が視点を変えて見ると・ある関連を以ってひとつの線でつながっているのが見えることがあるものです。もっともそういうことは滅多に起こるものではないですが、そういう時には「ユウレカ・ユウレカ」という気分になるものです。ピアニスト園田高弘氏 と作曲家諸井誠氏との往復書簡を読んでいましたら、そこで園田氏がシューベルトとリストとの関連性について述べていました。リストにはシューベルトの編曲物が結構あって・例えば有名なものとしては「ウィーンの夜会」(シューベルトのワルツ・カプリース)などがありますが、吉之助はずっとそれらの編曲はピアニスト・リストのコンサート・レパートリー増強の一環あるいは余技みたいに思ってましたが、実はリストはシューベルトにとても強い関心があった ようです。リストは資料をかき集めて・シューベルトの伝記を書こうとしたことさえあったそうです。ここで園田氏はウィーンの名ピアニスト・パドゥラ=スコダの論文を挙げています。

園田高弘・諸井誠共著:ロマン派のピアノ曲―分析と演奏

パドゥラ=スコダは『「さすらい人幻想曲」の革命的な点は、後世における交響詩のようにすべての主題がひとつの指導動機から展開しているということのみでなく、アレグロ・アダージョ・スケルツオ・フィナーレという古典的な交響曲の楽章構成が、ソナタ形式の提示部・展開部・コーダに対応している新しい形式を作り上げたことに ある。「さすらい人幻想曲」は形式の点ばかりでなく、雄大な「オーケストラ的な」ピアノ曲の作曲法という点で未来を示唆しており、その点で同時代のあらゆるピアノ曲を凌駕している』と延べ、さらにリストがその作風においてシューベルトに多くを負っていることを指摘し、『リストの交響詩の形式も・三度関係にある調を親戚関係とみなす作風もシューベルトに直接的に影響を受けたものである』と指摘しています。(「さすらい人幻想曲」・ウィーン原典版の序文・音楽之友社・文章は若干吉之助がアレンジしました。)

この視点を以って・シューベルトの「さすらい人幻想曲」とリストの「ソナタ・ロ短調」を聴けば、なるほど園田氏の指摘する通り・その間に一本の線がはっきり見えてきます。このふたつの作品は親戚関係にあるわけだなあ。それにしても吉之助は近頃シューベルトの作品のなかに潜む「革命性」ということをつくづく思わずにいられません。これはウィーン体制以後のビーダーマイヤー時代のロマン的心情の発露ということに大いに関連する問題なのです。吉之助の最終目標はもちろん歌曲集「冬の旅」の読解ということにありますが、園田氏の指摘はそのためにとても役に立つものとなりました。これからシューベルトをこの視点で注意して聴いていきたいと思います。

(H21・3・14)


○イザナミ・コンプレックス

北山修・橋本雅之共著・「日本人の原罪」という本を面白く読みました。ここで両氏が提起する「見るなの禁止」を破ったことによる罪の概念は、「古事記」に出てくるイザナギ・イザナミ神話から引き出されたものです。イザナギは亡くなった妻を連れ戻すために黄泉の国までやってきます。イザナミは黄泉の国の神と帰還のための相談をするために本殿に戻り、その時に「内を見てはなりません」とイザナギに注意をします。しかし、イザナギはその約束を破って、火を灯して内を見てしまいます。そこには腐乱したイザナミの死体があり・それを見たイザナギは恐怖で逃げ出します。イザナミは「私に恥をかかせた」と怒り、黄泉の国の醜女にイザナギを追わせます。これはギリシア神話のオルフェウスとエウリディーチェの物語との類似がよく言われたりする話です。日本の神話論で従来論じられてきたのはもっぱら見られたイザナミの恥・悲しみの感情の方で、「見てはならならない」という約束を破った イザナギの罪についてはほとんど論じられなかったそうです。この点に着目して北山氏は、美しいものが実は醜かったという幻滅体験がまずあって・それが約束を破ったことの罪の意識に転化していくという心理過程を見出しました。このことを神話研究を専門とする橋本氏の論考と対談で・「鶴の恩返し」など民話などの例も挙げながら分かりやすく解説したのがこの本です。

北山修・橋本雅之:日本人の〈原罪〉 (講談社現代新書)

最晩年のフロイトに聖書に記述のないモーセ殺しの仮説を論じた「モーセと一神教」という本がありますが、ちょっとそれに似た知的冒険という感じがあって・なかなか興味深いものだと思います。ただ吉之助は 概念が十分に飲み込めていないのか・これを「日本人の原罪」というところまで位置付けできるものなのかまだ完全に納得が行っていないのですが、吉之助は「見るなの禁止」だけに係わらず(本書では神話を題材にしているので・そういう約束が対象になっていると思います)・相手との約束を破ったことに対する罪の意識ということならば日本人の心象のなかに「負い目」という形で出てくる行動はこの概念にぴったりはまるものだと思いますねえ。(注:北山氏は幻滅体験のところに重きを置いていると思うので、約束を破った行為の方に重きを置く吉之助の読み方は 多分主旨からそれてると思います。この点はもうちょっと時間を掛けてじっくり考えたいと思いますが、吉之助は本書の内容に「日本人の原罪」というタイトルが必ずしもしっくり来なかったことを一応記しておきます。)そう考えるとこの約束を破ったことによる罪の概念で歌舞伎のいろんな登場人物の心理・行動が検証できそうに思います。この点は本書も参考にしながら、いずれ「葛の葉」(芦屋道満大内鑑)などを・この視点で論考してみたいものです。それにしてもこの罪の概念にぴったりした呼び名(学名)を付けた方がヨロシイかと思いますねえ。 北山氏はそのつもりがないようですが、「イザナミ・コンプレックス」・・それでも良いのじゃないでしょうかね。

(H21・3・7)


歌舞伎の女形と宝塚

現代の歌舞伎ブーム・玉三郎人気が、宝塚の男役と歌舞伎の女形を混同したようなところから発しているのは事実かも知れませんねえ。それはそれで興味ある現象だと思いますけれど、吉之助は宝塚の男役と歌舞伎の女形は表現のベクトルが正反対だと考えますので、これを一緒に論じるつもりはまったくありません。

別稿「演劇におけるジェンダー」でも触れましたが、スティーヴン・オーゲルは「ヴァイオラあるいはロザリンドのような女性の異性装の場面から利益を受け・そこから力を与えられるのは女性の方である」と指摘しています。宝塚の男役(女優の男装)は観客に力を与えます。吉之助は歌舞伎の女形はそのようなポジティヴな力は持たないと考えます。あるとすればそれは「負」あるいは「虚」としての表現ベクトルです。これはフロイト理論などを持ち出すまでもなく・舞台を見れば実感できることです。それが意味するところは別稿「をむなもしてみんとて」辺りにそのヒントがあるかも知れません。

宝塚の男役と歌舞伎の女形を混同なさる方は、出雲のお国のかふき踊り以来歌舞伎が一様な形でずっと続いていると思っているのでしょう。実は出雲のお国の歌舞伎と・元禄以後の野郎歌舞伎は断絶しているのです。名前が同じですから受け継いでいる要素は確かにありますが、演劇形態として見た場合にそれはまったく別の芸能と考えて良いほどです。「女優を禁止された時に歌舞伎は一度死んだ」というのは「歌舞伎素人講釈」の重要な史観です。(別稿「歪んだ真珠」をご参照ください。)そこを考えれば出雲のお国の男装は歌舞伎の女形の表現ベクトルは正反対であることが容易に分かると思います。それは表面的な類似をサラリと撫でたくらいで論じられるものではなく、女形の問題は歌舞伎という演劇形態のなかで女形がどういう位置を占めるか・さらに江戸文化の全体のなかで女形がどういう意味を持つか(それは結局歌舞伎とは何かを考えるということなのです)・そこまで考えて初めて自分なりの結論が出せるほどの重い問題なのです。ヤマトタケルの女装・白拍子の男装・お稚児さんについても書きたいことがありますが、別の機会とします。

(H21・3・4)


○ヴェルデイのオペラにイタリア語の字幕

最近は海外でテレビ放映されたオペラの映像がインターネットで簡単に手に入るので・吉之助は結構見る機会があります。必ずというわけでもないと思いますが・最近はZDF(ドイツ公共放送)が放送するワーグナーのオペラにドイツ語の字幕が入り、RAI(イタリア国営放送)が放映するヴェルディのオペラにイタリア語の字幕が入ることがあるので驚きます。考えてみればワーグナーもヴェルディも100年以上前の作品ですから歌詞も古臭く感じられる言葉使いが多くなり、同じ言葉を使う国民でも分かりにくいところがあるのでしょう。たぶん我々日本人が尾崎紅葉か泉鏡花あたりを読む感じに近いものかと思います。歌だから聴き取りにくいということもあると思います。西欧でも若者のオペラ離れの流れは止められないようで、関係者はどこでもご苦労のようです。ですから日本でも文楽や歌舞伎に字幕を・・という声が出てくるのは無理からぬ話だと思います。

オペラの場合は音楽を聴いてどんな素晴らしい内容が歌われているのかと思いきや・歌詞を読んでちょっと興醒めということはよくある話です。また筋がいい加減なものも多いので・その点でも幻滅することがあるかも知れません。もちろんオペラは音楽だけで十分楽しめます。イタリア語がほとんど分からない日本人が楽しんでる位ですからね。しかし、やはりオペラというのは少なくとも大まかな筋は承知しているという状態で聴かないと、そのお楽しみは半減です。ですからイタリア人のためにヴェルデイのオペラにイタリア語の字幕が付くのもそれなりにお役に立つと思います。しかし、問題はそこからで、「このオペラは分かったからもういいや」と安直に分かった気分になられてしまうのが困るわけです。やっぱり苦労して身に付けたものの方が、結局血肉になるわけです。

「オペラというのは取っつきにくいと思ってたけど案外そうじゃないなあ」と感じた若者のうち・どの位が未来のオペラ・ファンとして定着していくのか・その辺の歩留まりが問題になってきますが、オペラというのは筋を理解するのが大事なのではない・その音楽が表出する心情を味わうことが大事なのだと気付くためには、まだまだ多くの演目を聴かねばなりませんし・同じ演目を何度も繰り返し聴き込む必要があります。そのために歌詞の内容がもっと知りたくなるし、関係文献を読んで見る必要性を感じるようになることでしょう。フリーク(オタク)になる必要はまったくないですが、一応のオペラ・ファンになる場合でもやはりひと通りの過程は経なければなりません。オペラに字幕を付けても付けなくてもオペラ好きになる人はなるし・ご縁のない方はハイそれまでよ・のことで結局歩留まりはさほど変わらないように思いますが、こればかりはまあやってみなけりゃ分かりません。ヴェルデイのオペラにイタリア語の字幕が果たしてイタリアの若年層にオペラ・ファンを増やすことができるか。今後を注目していきたいですね。

(H21・2・28)


○フロイトとユング

MBTI(Myers-Briggs Type Indicator)というのをご存知ですか。心理学者ユングのタイプ論をもとにして、内向/外交、感覚/直感、思考/感情、判断/知覚という指標で性格を16のタイプに分類する心理分析法で、アメリカではビジネスで「あなたはどのタイプ?」という会話がよくあるそうです。もっともMBTIは性格占いとは全然違うもので、内向タイプと判断される人でも・全然外交の要素がないわけではなく・時と場合によるわけですから、カウンセラーの指導の下じっくり自分と対話しながら・自分の行動パターンを見つめ直すためのツールなのです。しかし、実際には16のタイプ分類だけが安易に広まっている感じがしなくもないですが。実はMBTIの研修を受けた時に吉之助はその割り切り方に違和感ありまして、どちらかと言えばフロイト学派ジャック・ラカンの解析法が気に入っている吉之助にはやっぱりユングは合わないなあなどと思ったりしました。理論はなるほどと思うのですが、ここまで明快だとどうも釈然としません。ここはフロイトやラカンならどう考えるかなどと考えてしまいました。

ユングはもともとフロイトの弟子でしたが、次第に意見の相違が出てきて・喧嘩別れすることになりました。吉之助はユング関連の本ももちろん読んでますが・まだユングとフロイトの確執の本質を論じるには至りません。ところでアメリカのユング派の女性心理学者バーバラ・ロジャース=ガードナーの「ユングとシェイクスピア」(みすず書房)という本を見ますと、ユング学派の方はずいぶんとフロイト学派に敵対意識があるんだなあと思いました。ことあるごとに「フロイトならこう言うだろうが・ユングならこう読む」という表現が出てきます。ラカンのことなど「フロイト学派の文芸評論家」とまで書いています。たとえ主義主張が違おうが・同業者にこういう失礼な書き方をする女性は好きじゃないですねえ。それにしても吉之助がMBTIに何となく違和感を感じる如く、ユング学派がフロイト学派にいきり立つのはまあ分からぬことはありません。何か根本的なところに相違があるのでしょう。

ロジャース=ガードナー:ユングとシェイクスピア (みすずライブリー)

ロジャース=ガードナーの「ユングとシェイクスピア」は「ハムレット」の章を面白い逸話で始めています。ある人類学者がニューギニアの原住民と焚き火を囲んで「ハムレット」の話をしたのだそうです。ハムレットの前に 父親の亡霊が現れます。ニューギニアの人々は「亡霊は良くない。ハムレットは亡霊の言うことは聞くべきではない。」と口々に言いました。そしてハムレット以下主要な人物が死んで悲劇が終わると、酋長は「誰も彼もが死んじゃった。みんなハムレットが悪いんだ。亡霊の言うことを聞くからだ。」と言ったそうです。

ロジャース=ガードナーはこの逸話について「「ハムレット」がどのような文化圏でも通用するようなことはない ・この劇を心理分析的に読むのはひとつの可能性にすぎない」と書いています。「ハムレット」論冒頭を面白い逸話で始めておいて・こういうオチを付けるのは何とももったいないことです。 これではユング理論でシェイクスピアを読むことは何の普遍性を持たないと言っているのと同じです。もっと面白い文章展開が出来ると思いますけどねえ。吉之助はニューギニアの酋長は「ハムレット」をちゃんと理解していると思います。酋長は「ハムレットが亡霊の言うことを聞くからだ」と言っているじゃないですか。これは正しい。ハムレットは亡霊から自分の聞きたいメッセージだけを聞いたのです。そして自分でそのメッセージに内的に突き動かされて行動したのです。ラカン派文芸評論家吉之助ならばそう読みますねえ。

(H21・2・26)


「カラマーゾフの兄弟」続編のこと

ドストエフスキーの小説「カラマーゾフの兄弟」と言えば・世界文学の最高峰と言うべき古典ですが、最近は亀山郁夫氏の新訳本(光文社古典新訳文庫)がベストセラー中であることでも分かるように、ドストエフスキーとその時代に関する関心が高まっているようです。その雰囲気にどこか混迷した今の時代と似たところがあるのかも知れません。ところでドストエフスキーは主人公アレクセイ・カラマーゾフ(アリョーシャ)の一代記を書くに当たり・当初からこれを二部構成とするつもりで あり、小説「カラマーゾフの兄弟」は主人公の13年前に起こった出来事・青春のひとコマを描いた前編に当たるもので・さらに続編があるということを ドストエフスキーは第1部第1編冒頭で書いています。ところがドストエフスキーは「カラマーゾフの兄弟」完結後わずか三ヶ月後・1881年1月28日に他界してしまいました。結局その続編は手がつけられることなく・創作メモも残されていません。そのためいくつかの証言と・第1部である「カラマーゾフの兄弟」分析からその続編を想像するしかないわけです 。この難しい仕事に亀山郁夫氏が取り組んだ新書『「カラマーゾフの兄弟」続編を空想する』(光文社新書)は知的推理を楽しませてくれる興味深い本です。この本は地元ロシアでも大変な話題になったようで、「日本人が「カラマーゾフの兄弟」続編を書いた」という誤報(デマ)まで出たそうですが、昨年に亀山氏がロシアを訪問し講演を行った時も現地の反応は好意的であったようです。

亀山郁夫:『カラマーゾフの兄弟』続編を空想する (光文社新書)

「カラマーゾフの兄弟」続編についてはほとんど物証はないので・どのように内容を推理しようがその正解は分からない(正解はない)わけですが、むしろそこに第1部たる「カラマーゾフの兄弟」をどう読むかという問題が色濃く反映されてくることが興味深いのです。続編についてはアリョーシャがロシア皇帝暗殺事件の首謀者となって死刑となるという 筋書きだという説があり・これはかなり有力な説として昔からあるものです。亀山氏は続編についてアリョーシャが皇帝暗殺事件に関与して逮捕される・しかし減刑されてシベリアに流されるという筋を想像していますが、主筋もさることながら筋の枝葉のところが重要で・そこに亀山氏の独自の視点があります。亀山氏は「カラマーゾフの兄弟」の詳細な分析から論理的に推論を展開して説得力ある想像をしています。

ところで吉之助はアリョーシャが皇帝暗殺事件に関与するというのはとても悪魔的で魅惑的な想像だと思いますが、どうも釈然としないものがあって・まだ別の可能性があるのではないかと思ったりもします。もっともそれでは吉之助は続編をどう考えるかと言われても困りますがね。吉之助が釈然としないのは、「カラマーゾフの兄弟」中もっとも重要なエピソードである「大審問官」話(第5篇「プロとコントラ」)のことです。ここでイワンは自らの無神論として「大審問官」話をアリョーシャに語ります。この話のなかで最後にキリストは大審問官に無言でキスしてその場を去ります。この行為はさらにこの後・イワンはアリョーシャに返答を求め、アリョーシャはイワンで無言でキスする場面で繰り返されます。吉之助が引っ掛かるのは亀山氏がこの「大審問官」でのキリストのキスを「承認」としていることです。もっとも亀山氏はロシアでの講演でも・当然のことながら自らの「大審問官」話・キリスト承認説に言及していますが・これに対して特に反論も出なかったようですから、現地ロシア・欧米でも「大審問官」はそういう風に受け取られているのでしょうかね。 吉之助にはこれが不思議でなりません。ちなみに吉之助の「大審問官」のキスの解釈は「あなたはそれほどまでに苦しんで神を求めている・そのようなあなたに幸いあれ」という「祝福」なんですがね。吉之助は学生時代にこの小説を初めて読んだ時以来ずっとこの読み方です。「大審問官」の解釈が異なれば・たぶん「カラマーゾフの兄弟」続編の想像の様相が全然変って来ると思います。

もうひとつ吉之助がアリョ−シャの皇帝暗殺事件関与説に釈然としないことの根拠として、1880年6月8日(つまり「カラマーゾフの兄弟」脱稿の直前)にモスクワのプーシキン記念像の除幕式典でドストエフスキーが行った講演を挙げておきたいと思います。講演はプーシキンの「エウゲニ・オネーギン」に関することが主で・「カラマーゾフの兄弟」への言及は一切ありませんが、この講演は聴衆に熱狂的な感銘を与え・聴衆は「あなたは私たちの聖人です・予言者です」と口々に叫んだということです。この講演はドストエフスキー研究にとってとても重要なものですが、この講演でドストエフスキーが強調した「ロシア的な魂」という要旨はアリョ−シャの皇帝暗殺事関与説とちょっと相容れないもののように吉之助には思えます。「ロシア的な魂」という言葉はタチアーナだけでなくアリョーシャにとっても結構重要なキーワードじゃないかと思うのです。

まあそれはともかく名作の続編をいろいろと想像してみるというのは愉しい知的遊戯ですね。「大審問官」話やドストエフスキーの「オネーギン」解釈については機会があれば別に触れたいと思いますが、本稿は「雑談」ですので・ここでは問題提起に留めます。

(H21・1・15)


○芸術家の人間的なエピソード

吉之助が音楽を聴き始めた頃(1970年前後)はモーツアルトで定評があったのは大編成オケで演奏したブルーノ・ワルターの録音でした。吉之助より上の世代のクラシック・ファンの場合は大抵そうだと思います。これはいわゆる「神童モーツアルト」のイメージに沿ったもので、ゆったりと微笑を絶やさないロココ調の優美なモーツアルトです。しかし、その後・神童モーツアルト像の見直しの動きが音楽界に始まりました。75年頃に「レコード芸術」誌に連載された石井宏 :「素顔のモーツアルト」などはその奔りであったかも知れませんが、オシッコ・ウンコを連発して下品なことを言って大笑いするモーツアルトは当時の吉之助にはえらいショックでもあり・その作品を考えさせるきっかけになったとは思います。そうなると今度はワルターの演奏が何だかぬるくて・物足りなく感じられるようになってきて、吉之助はワルターのモーツアルトとはかなり長い間疎遠になってしまいました。やがて小編成や古楽器オケでのモーツアルト演奏が全盛になり・大編成のモダンオーケストラのモーツアルトは時代遅れみたいな感覚になりました。この流れは今も続いており・吉之助も一時期はそちらへ関心が寄ったのですが、この歳になると・やっぱりワルターの暖かいモーツアルトが一番だと思うようになりました。やっぱり吉之助にとってモーツアルトは神童なのです。

石井宏:素顔のモーツァルト (中公文庫)

まあモーツアルトのような天才がオシッコ・ウンコを連発して下品なことを言うのは何だか「人間的」でもあり・神童よりも近づき易いかも知れません。そういうなかに名曲の秘密が何かあるのか・・・あるのかも知れませんねえ。しかし、長く音楽を聴いていれば結局そういうことは曲がすべて教えてくれるもので、「人間的なエピソード」は芸術作品を味わうことに直接的にさほど役立たないことも分かってきます。(全然役立たないわけでもないのですが、吉之助の経験では当たりが少ない感じですねえ。)吉之助もそういう真理に至るまで20年ちょっと掛かりました。寄り道をしたようでありますが、もちろん吉之助はそういう過程を教えてもらったことでも石井宏氏の本には大変感謝しています。例えば同じくモーツアルトをテーマにしたピーター・シェーファーの戯曲「アマデウス」(映画化もされました)を見れば分かります。最初に主人公サリエリが憤慨して神に怒りの言葉をぶつけるのは「あんな下品な男があんなに美しい音楽を書く」ということでした。しかし、途中でサリエリは気が付くのです。モーツアルトがまさしく「アマデウス(神に祝福されし)」であることに気が付くのです。そこからサリエリは奇妙に捻れた行動に走ることになります。芝居をご覧になればサリエリの行動の裏にあるのはモーツアルトへの無限の愛であることがお分かりになるでしょう。幸四郎が演じるサリエリは素晴らしかったですね。ですからシェーファーの「アマデウス」の目的は神童モーツアルト伝説の解体にあるのではなく、その逆なのです。もちろん石井氏の「素顔のモーツアルト」もそうです。しかし、世間の興味はともすればオシッコ・ウンコ連発のモーツアルトの方に行き勝ちです。

ところで話が変わるようですが・「クラシック・ジャーナル」(アルファ・ベータ社発行)という雑誌をご存知ですか。この雑誌は変な雑誌で・クラシック音楽の雑誌のくせに「オペラより歌舞伎」という歌舞伎時評みたいな座談会の連載コーナーがあるのです。こちらの方が新生「演劇界」の記事よりずっと面白いですから・是非ご覧ください。しかし、クラシック・ジャーナルのどれくらいの読者がこの連載を楽しみにしているのか・ちょっと心配ではあるのですが、続いているということはそれなりのニーズがあるのでしょう。このクラシック・ジャーナルの編集長が中川右介という方です。その中川氏が「団十郎と歌右衛門」という本という本を出しました。これは戦後歌舞伎を背負ったふたりのスター、十一代目団十郎と六代目歌右衛門をめぐる歌舞伎界のなかでの野望と嫉妬・権謀術数の数々を描いた(新書の触書に拠る)ものです。いわば戦後歌舞伎をジャーナリステイックな側面から斬ったものです。

中川右介:十一代目團十郎と六代目歌右衛門―悲劇の「神」と孤高の「女帝」 (幻冬舎新書)

ここで話がまた戻りますが、中川氏は昨年「カラヤンとフルトヴェングラー」・「カラヤン帝国興亡史」という2冊の新書も出しておられます。カラヤンに関して言えば・吉之助はその晩年の20年(カラヤンは1989年没)を同時代で体験していますが、先輩指揮者のフルトヴェングラーとの確執・その権力志向と政治的駆け引き・華やかなゴシップなどこの種の話は同時代で飽きるほど 耳にしており、これもその蒸し返しに思えます。昨年のカラヤン生誕100年関連の雑誌特集や書籍の大半は・生前に書かれてきたこととほとんど変わりなく、そういう意味で出版界も活力がないことだなあとガッカリしました。むしろ吉之助は若い音楽ファンに先入観を持たない立場でカラヤンを聴いてもらいたいと思っていますが、そういう書き手が現れませんねえ。まあ中川氏はカラヤンに関して悪意的に書いているわけではありませんし、こういう話はジャーナリスティックに面白いのは確かです。カラヤンを同時代的に知らない若い音楽ファンはこの本をどう読むのでしょうかね。

吉之助は新著「団十郎と歌右衛門」に関しても同じような危惧を持たないわけではありません。確かによく調査なさっていて戦後歌舞伎の資料としてとても役に立つと思います。しかし、若い歌舞伎ファンの団十郎・歌右衛門の芸の理解の直接的な助けにはあまりならないかも知れません。この本を芸の理解の糧にするにはちょっと違う読み方をする必要があります。中川氏は後書きで「歌右衛門の生い立ちの問題に触れないで・歌右衛門の政岡を論じられるのか」と書いておられます。これは難しい問題です。もしかしたらそうなのかも知れませんけれど、吉之助にはどうでも良ろしいことだと思いますねえ。なぜならば吉之助は歌右衛門が演じる政岡を見たのであって、政岡を演じる歌右衛門を見たわけではないので。それがモーツアルトで20年ちょっと寄り道してまたワルターに戻ってきたことで吉之助が学んだことですかねえ。

(H21・2・8)


○間(ま)と速度感

武満『日本でよく言われている間(ま)、特に日本の芸で言われている間のことですね。それは実際にいろいろな形で日本の芸能とか・文化と言ってもいいけれど、それを特色づけていると思うんです。例えば能において囃子方の鼓の音はその打たれる鼓の音自体は音と音との間のためにあるという美学があるわけです。そうした考えは江戸時代の邦楽のなかにもあって、いま僕が接触している邦楽の演奏家たちも、すぐ間ということを言います。ただ僕はいつもそういう話を聞いて半ば忌々しく思うのは、間は大事なんだけど、つまり間のなかに自分が打ったり・吹いたりした音よりももっと沢山の音を感じさせるだけの音というのがなくて、ひたすら形の上で間をつくるということが・・・』
吉増『間を待っちゃうんだな。それじゃあ、駄目だ。』
武満『吉増さんは、スピード、速度ということを言われたけれど、大事なのは速度感だと思うのです。いまや、間をあけるということはとてもやさしいのだけれど、間を詰めることの方が難しいのですね。ひとつの音が万物と拮抗できるだけの、もし、強い音であるように発せられているなら、間をあけていくということはとっても苦しいことなんですよね。しかも、間を詰めるということはもっと苦しいことになってくる。』(作曲家・武満徹と詩人・吉増剛造との対談:「音楽現代」1976年5月号)

武満徹対談選―仕事の夢 夢の仕事 (ちくま学芸文庫)

武満徹は琵琶と尺八を管弦楽に組み合わせた「ノヴェンバー・ステップス」(1967)に代表されるように西洋音楽に邦楽を融合させることに意欲を燃やした作曲家でした。その武満が仕事で接触する邦楽家たちが「間」を待ってしまう・「間」を金科玉条のように言う人たちが形だけで「間」を作ってしまうということを指摘しています。こうした現象はメトロノーム的・器楽的なリズムで「間」を無意識に感じてしまうという西洋音楽の悪影響であると受け取る方が多いかも知れません。そういう面もないわけではないと思いますが、素人さんではなく・しっかりした技能を持つ邦楽のプロがそうなるとするならば・吉之助は問題は別のところにあると思います。それはある一定のユニット感覚をもって・それを拍子で空間を詰めていくというという風に「間」を考えないから だろうと思います。例えば九代目団十郎は踊りの「間」について・六代目菊五郎に次のように教えたということです。

『一尺の寸法を十に割って、一寸つづ十に踊れば一尺になる。それは極まっている定間のことだが、これを八寸まで早くトントンと踊り込んで、残った二寸をゆっくり踊って、一尺に踊り課せばそのところに面白さが出るのだ。』 (六代目尾上菊五郎:「芸」)

ここで吉之助はユニットと言いました。西洋音楽では「小節」あるいは複数の小節がまとまったところの「中小節・大小節」でもよろしいのですが、要するにユニットを 拍子(リズムの打ち)で詰めていく行為でして・それが拍子でぴったり割り切れるならば音楽としての形式感がぴったりと決まるのです。この点で邦楽と西洋音楽に何ら違いはありません。ユニットが意識されていない「間」なんてものは存在しないのです。武満は作曲家の視点からこのことを「大事なのは速度感」と言いました。 拍子の・その間隔が「間」だと思い込んでいる方には「大事なのは速度感」という忠告は効果があるだろうと思いますね。

(H21・2・1)


我々を騙さない神

折口信夫の最初期の著作に「言語情調論」という論考があります。これは折口が国学院大学国文科を卒業した時(明治43年・1910)の卒業論文です。これを読むと 後年の折口の文体に親しんだ読者には読みにくい 文体なのでちょっと驚きます。後年の芸能関係の折口の文体は情感が先に立つと言いますか・どちらかと言えば非論理的で曖昧なところが魅力のように思われていますが、「言語情調論」の 文体は論理的・科学的に分析しようという姿勢が前面に出ていて・若さゆえの生硬さが若干感じられるようです。しかし、折口の著作群を読むと・吉之助が感じるのは感性でワープ してしまうので傍目には非論理的に見えるけれども・本人は結論へ向けてまっすぐな線が見えていて・そこへまっすぐに進んでいるところの科学性です。このことが原点としての「言語情調論」では素直に出て おり、折口という人は意外と理系思考の人だなあと思うわけです。(同じことは夏目漱石の「文学論」についても言えます。 漱石も理系思考ですねえ。漱石は英文学をやる以前は建築家になりたかったそうです。)

折口信夫:言語情調論 (中公文庫) ・ 夏目漱石:文学論〈上〉 (岩波文庫)

折口信夫の「国文学の発生(第三稿)」の雑誌「民族」への掲載を柳田国男が拒否したのは、折口が論証のプロセスを経ずに・いきなり結論に入るような論文に不快を感じたことが原因と言われています。ふたりの方法論が異なっていたのです。一般的に歴史学・民俗学などの論文は例証を提示して・その積み重ねのなかで 推論を積み上げていく方式が取られます。折口信夫は感性の飛躍が出来る人でしたから、例証がなかなか取れない場合・その溝を感性のワープで飛び越えていくのです。これは柳田から見ればルール違反と感じられたと思います。 柳田は「十分な論理的手順を取らないで、どうしてそんなことが簡単に言えるんだ」と怒ったのでしょう。しかし、折口にしてみれば彼のなかでごく自然に彼なりの科学的手続きを踏んでいるわけです。これは分かりにくいかも知れませんが、折口の或る確信(信仰心と言っても良いもの) に裏付けされているのです。次のジャック・ラカンの文章をご覧ください。

『皆さんが人間の思想の発展の、まさにこの現代の時点に生きているという事実、それだけで皆さんはデカルトの思惟のなかではっきりと厳格に述べられている事柄、つまり「我々を騙すことはあり得ない神」という考えから逃れることは出来ないのです。このことは、まったくの真実なので、あのアインシュタインほどの明晰な人物でさえ、その象徴的次元のことを取り扱っている際に、神のことを頭に浮かべていたのです。彼はこう言っています。「神は意地が悪い。しかし、神は裏切らない」と。現実はそこに入り込むことが如何に困難であるとは言え、私たちを裏切ったり、故意に私たちに一杯食わせることはないという考え方は科学の世界の構成にとって欠く事のできないものです。』(ジャック・ラカン: 「騙さない神・騙す神」〜「精神病」)

ジャック・ラカン:精神病〈上〉

ラカンは「我々を騙さない神」という信仰が科学の基礎だと言っています。神がわざと実験を駄目にしたり・機械を故意にいじって我々を混乱させることなど決してありません。結果は確かにそのようになるのです。この信仰が大事なのです。誤解ないように付け加えますが・それはキリスト教(一神教)信仰の 考え方だろうと言う人がいると思いますが、それは大きな誤解です。多神教の場合でもこの信仰が科学の基礎になります。それは科学思想史の本でも読めばお分かりになるはずです。18世紀頃までの科学的水準は西洋と東洋とはほぼ同等レベルであり、分野によっては東洋の方が先んじているくらいでした。西洋科学が飛躍的に進歩するのは18世紀末頃に 「我々を騙さない神」という信仰が啓明思想と結びついてからのこと(つまりほぼ産業革命と同時代のこと)ですが、むしろこちらの方が歴史的に特異な現象と言えます。話を戻しますと、折口の場合は(もちろん多神教の意味合いですが)「我々を騙さない神」という確信があると思います。このことが折口信夫の「科学性」と言う問題に密接に絡んできます。(別稿「科学的な歌舞伎の見方」をご参照ください。)本稿は「雑談」ですので問題提起に留めますが、「歌舞伎素人講釈」では「我々を騙さない神」ということを折に触れて考えていきたいと思います。

(H21・1・29)


○「音楽を通して語る」ということ

『私たちの西洋音楽ですが、人間の声を犠牲にして楽器を強調したために、音楽として語るという私たちの感性はほぼ消し去られていますね。しかし、実際、語られた言葉こそがどんな時でも音楽、純然たる音楽なのです。それは歌の形式です。嘘だと思うならどの時点でもいいから話す速度を遅くしてみれば良い。自分が歌っているのが分かるでしょう。その一瞬に持続するどんな言葉も歌なのです。これは明らかなのですが、過去四・五世紀に渡り、私たちの西洋音楽では、いくつかの効果を加速させて、通常の語りのレヴェルをはるかに凌駕してしまいました。独奏の効果を発揮する場面で名人芸的な楽器を際立たせたことは、アラビア人や中国人が夢にさえ見ない行為でした。彼らはあらゆる音楽的効果を日常の話言葉に従属させたがりますから。そして今、西洋世界の私たちは、むしろそういう方向に動いていると思うのです。シェーンベルクの業績はその方向における大きな一歩です。』(マーシャル・マクルーハン:グレン・グールドとの対話「メディアとメッセージ」・1965・「グレン・グールド発言集」に収録)

マクルーハンはメディア理論で知られるカナダの文明批評家です。同じくカナダのピアニスト・グールドとの対話のなかで、マクルーハンは独自のメディア論を展開しており・その発言はIT時代の現代においてこそ一層興味深いものです。 引用したなかでマクルーハンが『語られた言葉こそがどんな時でも音楽、純然たる音楽なのです。嘘だと思うならどの時点でもいいから話す速度を遅くしてみれば良い。』と言っていることは非常に重要です。お芝居の台詞のことを考える場合、もうひとつ・先日の雑談で取り上げたカラヤンの発言とも併せて ・このことを考えてみたいと思います。つまり「さあ、好きなように演奏していいですよ。ただし4/4拍子でね。みなさんは音楽の内容を非常に深く感じているので5/4拍子で演奏しています。そこで感じ方の方はそのままにして、演奏の方は逆に正確にしてみてください」ということです。台詞の速度を意識的に落として・ゆっくりと言葉が持つ抑揚を感じ取ってみることです。そこでトチッたり・詰まるようだったら、それは 台詞の息の置き方が間違っているのです。同時にそこに近松ならば近松の・黙阿弥ならば黙阿弥の様式があることも自然に体得できると思います。

歌舞伎の台詞は音楽的であるとしばしば言われます。そのこと自体はもちろん正しいのですが、その「音楽的」という言葉を我々はどういう意味で使っているのでしょうか。もしかしたら「音楽を通して語る」という本来の意味をうっかり忘れて・器楽的な意味で「音楽的」という表現を使ってはいないか。そういうことを考えてみる必要があると思います。上記でマクルーハンの言っているように・これは19世紀西洋音楽のちょっと行き過ぎた面であるわけですが、「歌舞伎の台詞は音楽的である」と言う時・うっかりそういう感覚で歌舞伎の台詞を受けて取っていないかということです。

例えば別稿「左団次劇の様式」(その2)で二代目左団次の台詞回しについて 折口信夫が「左団次式な対話も・独白も、左団次式になればなるほど現実離れの激しくなっていることが感じられた。生きた人間のする発声法でなかったことは確かである」と指摘したことに触れました。二代目左団次の台詞の様式が「強/弱」(trochiaic)の二拍子にあることは論考で述べた通りですが、 左団次の様式が陥り易い最大の欠陥がそこにあります。この落し穴に落ちないようにするには、二拍子のリズムの根本を維持しつつ・息に余裕を持たせる・つまり言葉に応じて多少の緩急を持たせる技術が必要です。この点で二代目左団次の台詞回しに多少不器用なところがあったこと も事実だろうと思いますし、またそれが折口信夫の指摘するところでもあります。ただし左団次弁護のために付け加えれば、左団次の場合は急き立てる感情表現のためにわざと意識的にそうやっているというところもあるのです。そこにちょっぴり西洋的な要素を加えて新歌舞伎の新鮮な感覚を訴えてもいるのです。

ところが現代での左団次劇の台詞は七五調的に処理されて・その様式が崩れてしまっています。そのことは論考「左団次劇の様式」でも触れました。現代の歌舞伎役者は七・五の枠のなかで台詞を杓子定規に切って考え勝ちです。しかも、それを器楽的な二拍子のリズムにはめようとするから・しばしばダラダラ調に陥ります。 確かに二拍子はわらべ唄にもある日本伝統のリズムではありますが、これは「音楽的」という概念を器楽的に捉えて・言葉から抑揚を発想しようとしないから ダラダラ調になるのです。既に予告している通り・近日に「歌舞伎の台詞」についての論考を連載予定していますが、まず「台詞における音楽性とは何か」をいうことを考え なければならないなあと思っています。

(H21・1・20)


○クラシック音楽における伝統

クラシック音楽は伝統芸能ではないですが、ある限定された範囲内でのフォルム(作曲家の意図)を追うという意味では伝統芸能に似た雰囲気があります。オーケストラの場合も構成メンバーは常時入れ替わるわけですが、ベルリン・フィルならばこうという伝統のイメージは明確にあります。 それは時代が変っても・指揮者が変っても簡単に変るものではないようです。ベルリン・フィルはビューローに始まり二キシュ・フルトヴェングラー・カラヤンという名指揮者を冠して・独墺系オーケストラの雄ということですが、その響きのイメージは・吉之助にとっては低音の効いた重心の低い渋い響きです。戦後のカラヤン時代のベルリン・フィルの響きは戦前のフルトヴェングラーの時代から大きく変化したとよく言われます。確かにフルトヴェングラーの頃より音色のパレットの色数は増えて・艶やかさは増したと思いますが、カラヤン時代のベルリン・フィルも低弦セクションは分厚くて・とても強力なものでした。吉之助が聴いた84年10月来日公演でのR.シュトラウスの響きなどは重厚で渋くて、これはまさにドイツのオケだということを痛感させるものでした。 この点でカラヤンはベルリン・フィルの響きを何も変えなかったと断言できます。

カラヤンの後を受け継いだクラウディオ・アバド(在任期間1990年〜2002年)は、ベルリン・フィルの伝統を受け継ぐテーマをもらって非常に苦労したと思います。ベルリン・フィル時代のアバドの世間の評判はちょっと評価の分かれるところ かも知れません。70年代のアバド(ロンドン響やミラノ・スカラ座時代)は早めのテンポで・造型がシャープな演奏をしたものでした。ベルリン・フィル時代のアバドは造型が太めに・響きが重厚になって・巨匠然とした感じに変化してしまいました。1997年(ブラームス没後200年)の時のブラームスの演奏などは響きのところどころで吉之助はカラヤン時代の響きを思い出して懐かしかったのですが、これはオケの個性にやむなく妥協したという厳しい見方もできないこともないわけです。ベルリン・フィルのポストを離れた後のアバドはルツェルン 祝祭管弦楽団などを振って・10年は若返ったかと思うような引き締まった演奏を展開しています から、まあこの見方にも一理はあるかも知れません。アバドにとってのベルリン・フィル時代をどう位置付けるかは今後を待たねばなりませんが、しかし、指揮者はオケの響きを自分の好みに強引に塗り替えるのが決して良いわけではなく、素材としてのオケを生かしつつそのなかで好ましい響きを共に探って行くのが本来の指揮者のあるべき姿なのです。その意味ではアバドもまたベルリン・フィルの響きを変えなかったわけです。

さて現在の音楽監督のサイモン・ラトル(在任2002年〜)ですが、吉之助はラトルとベルリン・フィルがどのような関係を目指しているのか・そのイメージが未だによく分からないでいます。確かに現代音楽や珍しい曲・ 編成を変える・古楽器奏法などの面白い試みをしていますが、どれもちょっと小手先の感じがするのですねえ。ジルベスター・コンサートでガーシュインねえ・まあそれもいいんだけどねえ・・という気がします。40年来のベルリン・フィル・ファンとしてはやはり音楽監督たるもの独墺系のスタンダードな作品でどれだけのものが聴かせられるかなのです。先日(1月6日)のインターネット生中継のブラームス・交響曲第1番もラトルのブラームスとして確かに優れたものであるのですが、しかし、これがベルリン・フィルのブラームスか・・と 問われるとちょっと首をかしげざるを得ません。低音の効いた重心の低い響きではない。オケの連中はベルリン・フィルをこ ういう軽い響きに変えたいと本気で考えているのかなあと疑ってしまいます。むしろ吉之助の場合は目下のところメータやハイティンクが振った時の方がベルリン・フィルを聴いたという満足度が高いのが正直なところです。やっぱり伝統というものは大事じゃなかろうかと思うのですねえ。ラトルは伝統を踏まえたベルリン・フィルの響きをまだつかみ切っていない 印象を吉之助は持つのです。

しかし、ラトルと楽員との関係は非常に良好のようであるし、ラトルがベルリン・フィルをどのように変えていくか・あるいはラトルがどのように変化していくか・今後を見守って行きたいと思います。その兆しは確かにあります。これまでラトルの演奏するマーラーにはいまひとつ納得がいきませんでしたが、昨年リリースされたマーラーの交響曲第9番はコントロールが行き届いた実に素晴らしい演奏でありました。吉之助は「ついにラトルはベルリン・フィルを掌握したなあ」と感嘆しましたが、こういう演奏が増えることを期待したいですねえ。

マーラー:交響曲第9番:ラトル指揮ベルリン・フィル(2007年10月録音)

(H21・1・16)


○インターネットによる演劇鑑賞

今は存在しないオーケストラですが、その昔・アメリカのNBC放送がトスカニーニのために編成したNBC交響楽団という物凄い高性能オケがありました。それは1937年から1954年までのことで、毎週日曜日のトスカニーニ・アワーでのラジオ生中継をアメリカの音楽ファンは心待ちにしていたものでした。NBC放送の首脳がトスカニーニにこのオケの常任指揮者就任を依頼に訪れた時のことですが、トスカニーニはすでに高齢でもあり・最初はこの提案にあまり乗り気でなかったのです。そこで NBC首脳はこう説得したそうです。トスカニーニの指揮した演奏会のラジオの生中継を聴いて・鳥籠のカナリアがその音楽に合わせて歌ったのだそうな。この感動的な話でも分かるように・ラジオの電波によってカーネギー・ホールに行けない地方の音楽ファンにも広くあなたの音楽を届け・音楽の素晴らしさで人々に幸せにすることが出来るのです。これは 実に素晴らしいことではないですか。この発言を聞いてトスカニーニはNBC交響楽団を振ることを決意したそうです。

2009年1月6日にサイモン・ラトルとベルリン・フィルの演奏会がインターネットで世界同時中継されるという試み(デジタル・コンサート・ホール)がスタートした時に、トスカニーニの逸話を思い出しました。既にインターネットのなかでは音楽が盛んに飛び交っています。海外の話題の公演が有難いことに翌日にはネットで見られるということも珍しくありません。(著作権の問題はちょっと置く。)2年前にはNYメトロポリタン歌劇場 (MET)がやはりインターネットでのオペラ公演を特定の中継地で映画のように同時公開で見せる試み(オペラ・ビューイング)を始めました。今回の試みの味噌は何と言っても世界同時に・しかも自宅にいながらにして・感動体験を共有できると言うことにあります。残念ながらベルリン現地時間20時開演ということで は・日本では時差の関連で同時体験というわけにはいきません(夜更かしするなら別ですが)ので・吉之助は土曜日に演奏会のアーカイヴを見ましたが、音質・画質とも素晴らしいものでした。さらにアーカイヴの蓄積によって・音楽体験はより平坦化された・時間の軸を喪失したものになっていくでしょう。インターネットはいろんな可能性とともに問題も孕んでおり・しかもその社会的影響はまだ十分に検証されてはいませんが、これは少なくとも音楽体験ということならば・吉之助は決して悪いことではないと思っています。この試みはここ数年のインターネットで始まったことではなく・1937年に既に始まっていたものなのですね。

歌舞伎の場合はそうした時代がすぐ来るとは思いませんが、採算性の問題がクリアになればいろんな場面で劇場公演のインターネット生中継がこれから出てくるかも知れません。まあ演劇の場合は音楽よりもさらに生信仰が根強いのは確かですから、劇場体験がそういうものに入れ替わるのに抵抗感ある人が多いと思います。音楽ファンだって40年前にはレコード音楽を軽蔑する人が少なくありませんでしたが、現在はそういう方はほとんどいないでしょう。もう音楽体験はレコード(CD)あるいはインターネットなしで成り立たないのです。演劇においてもそう言うものが崩れるのは時間の問題だと吉之助は思います。

インターネットではありませんが、9日にNHKが伝統芸能アーカイヴの映像のいくつかを放送してくれました。過去の名人の舞台を断片で見ただけでも・そのインパクトは確実に伝わってくるでしょう。かなりの時代の開き(時間差)があるからこそ・その時代と現代を結んだ線上においてはっきりと見えてくる何ものかがあります。それは現在の歌舞伎が悪いということではなく、歌舞伎を伝統芸能たらしめるために過去が必要だということを・昔の映像は再認識させてくれると言うことです。NHKオンデマンドという試みも始まっていて・まだコンテンツは非常に貧弱(伝統芸能関連は今のところなし)で・更なる工夫が必要だと思いますが、NHKさんが巧いこと企画構成をやれば材料は豊富に持っているのですから・いい商売になると思います 。

(H21・1・13)


歌舞伎の台詞の正しいフォルム

『ベートーヴェンの第7番・第4楽章のようにテンポの速い曲の場合は音符のひとつひとつが明確に表現されないと切れ味がなくなってしまいます。私がドイツでまだ指揮者として若かった頃は、その終楽章を現在よりずっとゆっくり指揮したものでした。そうするのは間違っているとは分かっていたものの、どうしてももっと速いテンポでは指揮できなかった。また当時どうしてそんなことができたでしょう。そのうちに、ついにふたつのこと、つまり正しいテンポと内容とがひとつに結ばれました。ロマン派の作品を指揮する時など、私はときどきオーケストラに言ったものです。「さあ、好きなように演奏していいですよ。ただし4/4拍子でね。みなさんは音楽の内容を非常に深く感じているので5/4拍子で演奏しています。そこで感じ方の方はそのままにして、演奏の方は逆に正確にしてみてください」とね。』(ヘルベルト・フォン・カラヤン:リチャード・オズボーンとの対話)

ベートーヴェンの交響曲第7番についてのカラヤンの談話です。その第4楽章(アレグロ・コン・ブリオ)はワーグナーが「舞踏への聖化」とも呼んだ・リズムを主体にした熱狂的な終楽章です。この楽章をもっと早く演奏すべきだと分かっていたけれども・若い時はそれがどうしてもできなかったとカラヤンは言います。これは当時(第2次大戦前)のオーケストラの質が全般的にまだ良くなかったという風に読めなくもないですが(そういう事実が全然ないわけでもないですが)、カラヤンが言っているのはそういう意味ではありません。若い頃の自分はまだ未熟で・自分の内面にあるテンポと表現をひとつのものにする技術を会得できていなかったということです。それほどに息を保つということは難しいのです。それができないのならば例え不本意なテンポであったとしても・むしろテンポを落として息使いを正しく取った方が良い・そのことを若いカラヤンが分かっていたということも凄いことです。リハーサルにおいてカラヤンは速いパッセージをわざと倍にゆっくりとオーケストラに演奏させることがしばしばありました。そうやってまずひとつひとつの音のニュアンスを入念に磨き上げた後で「感じ方はそのままに・2倍の速さでやってみましょう」とオーケストラに言うのです。だからどんな速いパッセージにおいても 息の深さが保たれ、その演奏は音符のひとつひとつが粒が立っていて・形が崩れることがなく、リズムはしっかりと打ち込まれていて・前のめりになることがありません。結果として音楽の正しいフォルムが描かれることになります。

速いパッセージにおいて・いかにも勢い良く演奏しているようでいて、実はリズムが前のめりになっていて・十分に打ち込まれておらず・音符の刻みが崩れていて・旋律の歌いこみが不足する演奏にしばしば出くわします。それは上記のような訓練が十分でないのです。誰の演奏とは言いませんが、現代はそれが全体的に増える傾向にあるようです。しかもそうしたセカセカした演奏に聴き手が急き立てられた気分になるのか・その演奏が勢いがあって 生気があって良い・興奮させられると感じる方もあるようで・まあ感じ方は人それぞれですからそれはそれで結構なのですが、吉之助には何だかこれは現代的な症候のように思えなくもありません。 正しいテンポというものは本人のなかにあるもので、それはメトロノームで計るような物理的な速度を言うのではありません。それは呼吸の深い・浅いに関係するもので生理学的な問題を孕んでおり、時代的気質の考察対象にもなるものです。ただしどの時代にもテンポの速い演奏者と遅い演奏者がいますので、その考察は個々の演奏を取り上げてデータ統計を取って みてもどうにもなりません。おおまかなイメージで全体の流れを俯瞰する必要があります。クラシック音楽の場合は1920年代頃から次第にテンポが速くなる傾向があり、50年〜60年代に最も早く、70年代半ば以降にだんだんテンポが遅くなる傾向があり、最近はまたちょっとテンポを速い方へ戻す傾向があるように吉之助は感じています。まあその辺は人によって捉え方は変るかも知れません。

ともあれ音楽の基本は「作曲者が指定した通りの長さで音符を正しく保っていられるかどうか」ということなのです。実は芝居の台詞や・踊りの振りでも同じことが言えるのですが、歌舞伎の世界ではそのことが 意外とおろそかにされていると思います。吉之助が歌舞伎を本格的に見始めた昭和50年代の黙阿弥の七五調はかなり間延びしていたということは別稿「写実の黙阿弥のために」でも触れました。おそらく当時の幹部連中は菊吉ら先輩たちの台詞まわしを気分のなかで受け継ぎ・その気分を丁寧に追っていくうちに自然と台詞のテンポが落ちていったという風に吉之助は考えています。これは 芸の受け継ぎの手法として決して間違いではないのですが、次の段階での「感じ方はそのままにして・もっと早くやってみましょう」というところが十分でなかったのです。あるいはこの世代の息の保ち方 が先代と比べれば多少浅い傾向があったということも推論としては考えられます。現代の役者の黙阿弥の場合は父親たちの間延びした台詞の反省からか・今度はテンポだけを速くしようとして、結果的に感じ方の方をなおざりにしています。そのために黙阿弥のフォルムがすっかり崩れてしまいました。ですから黙阿弥の正しいフォルムを考えるには目の前の舞台で見る個々の役者の台詞回しを取り上げて・それが良いの悪いのを論じてみても仕方ないのです。歌舞伎の時代の大きな流れを感じながら・黙阿弥の正しいフォルムを想像してみる必要があります。近いうちに「歌舞伎の台詞」について考察を行う予定にしていますので、ご期待ください。

(H21・1・10)


好きな歌舞伎20選

昨年(平成20年)末に松竹が募集した「好きな歌舞伎20選」の結果が発表されました。一応覚え書きとして・それを記しておきますと、1:勧進帳、2:義経千本桜、3:京鹿子娘道成寺、4:仮名手本忠臣蔵、5:白浪五人男、6:助六、7:桜姫東文章、8:源氏物語、9:連獅子、10:恋飛脚大和往来、11:菅原伝授手習鑑、12:三人吉三、13:阿古屋、14:俊寛、15:伽羅先代萩、16:暫、17:女殺油地獄、18:里見八犬伝、19:曽根崎心中、20:元禄忠臣蔵 ということでありました。

お馴染みの演目が挙がっていますが、それにつけても相変わらず「勧進帳」人気は健在です。ざっと見渡したところ・演目的にはかなりバラけていて・ここから現代の観客の嗜好傾向を読み取ることはできませんが、8位に「源氏物語」があるのは昨年が源氏物語千年紀であったせいか・あるいは海老蔵人気の反映でありましょうか。13位の「阿古屋」はちょっと通っぽいですが、これはちょうど9月の歌舞伎座で玉三郎の阿古屋の上演があったせいでしょうねえ。20位内のなかに三大丸本歌舞伎は入っていますが、これは「六段目」とか「寺子屋」とか段別に分けての投票だったらどうなったでしょうか。そう言えば「一谷嫩軍記」が30位内 にも入っていないのが意外に思います。「熊谷陣屋」での投票ならそうならなかったような気もしますが、全体的には義太夫狂言の人気が低いのが個人的にちょっと気に掛かるところです。

義太夫狂言というのは丸本というしっかりした基盤がありますから、守るべきもの・崩してはならないものの線引きが割合に明確なのです。義太夫狂言以外のジャンルはそういう規格が甘い面があって・役者の仕勝手が罷り通るところがあります。ですから歌舞伎を立て直していくためにはまずは「型もの」としての義太夫狂言から手をつけなければなりません。そのためには観客もまた義太夫狂言に対する鑑識眼を養う必要があるわけですが、その辺どんなものでしょうか。その昔・三島由紀夫が
福田恆存との対談のなかで「(歌舞伎の衰退現象のなかで)ただひとつ希望があるとすれば・古典文学全集を持って歌舞伎を観に来る観客が少しづつ増えているということかな」という発言をしておりました。これは結構大事なことだと吉之助は思っています。歌舞伎を役者本位に見るのではなく・作品本位に見る態度がこれからの歌舞伎には望ましいと思うのです。三島の発言は確か昭和30年代半ばのものですが、そういう観客はその頃よりも現代は増えているのでしょうか。

(H21・1・4)


○かぶき的感性の明晰さ

別稿「歌舞伎の平面性〜次元の乖離」において・かぶき的感性の明晰さについて考えました。「歌舞伎素人講釈」ではこれまでも 「科学性」とか他の言葉で何度か同様なことを取り上げていますが、「明晰さ」という言葉を使ったのは今回が初めてであったかも知れません。「夏祭浪花鑑」が描くところの「強烈な太陽光線・いらだつような暑さ」は団七九郎兵衛が状況から抜け出そうと必死であがいているのに・理不尽にも彼の願望を邪魔するものを明確に照らし出しています。それはドラマ上では義父・義平次という形で現れています。団七にとって義平次が自分にまつわりつく嫌な奴だから殺した・正義の邪魔をする悪い奴だから殺した・男の生き面を割ったから殺したというのはドラマの筋としては確かにそういうことですが、もっと深い意味で義平次は団七にとっての暗喩なのです。団七はそれが身分社会・差別社会の閉塞した状況から来るという明確な社会的視点を持っているわけではありません。そういう視点は江戸の庶民には残念ながらまだないのです。それは明治以後のことになります。しかし、団七は自 らの上昇願望を理不尽に邪魔して・自分の足を引っ張る障害が存在していることをはっきりと意識しています。それはイライラ・鬱憤という形で団七のなかに実体をなさないまま に渦巻いています。その鬱憤が義平次という攻撃目標を暗喩として捉えるのです。そうでなければ団七が義平次を殺すことは決してできません。対象は明確に見据えられています。それはいつの日かかぶき者たちが手に入れることになる社会的視点の萌芽です。「夏祭」の明晰さはそこから来ます。

串田版の「夏祭・義平次殺し」で暗がりのなかから義平次の顔が面明かりで鈍く照らし出される・その光景は深層心理の闇の奥から亡霊が手を伸ばしてくるようで・それはそれで興味深いものです。しかし、この感覚はある意味で「怪談」風です。それは既に社会的視点を手中にした側から見た「夏祭」の解釈としてあり得るものです。そちらの側から見れば身分社会・差別社会の閉塞した状況はどろどろとした底なしの闇に見えるでしょう。しかし、 それはかぶき的感性からするとちょっと様相が異なるものです。かぶき者から見ればそれはある種の「壁」なのであって・壁の向こうに明るいものが意識されているのです。それをぶち壊せばその向こうに明るいものがあると見えるのです。それがかぶき的感性の明晰さとなって現れるものです。ですから歌舞伎の様式としては「義平次殺し」は明るい舞台で行われるのがふさわしいと吉之助は思います。このことは巷間十分に理解がされていないと思います。「四谷怪談」や「累(かさね)」にしても近代的感性が入り込んで演出が混乱しています。歌舞伎の明晰さはこれから十分に検討されねばならない課題だと思います。(このことはいずれ別の機会に考えます。)

昨今は江戸ブームということが言われますが、江戸文化研究はそれを明晰さの面から捉えることと、暗い面というとちょっと語弊がありますが・どちらかと言えばドロドロとした暗く湿った草双紙趣味から捉えるのととふたつの行き方があると思います。しかし、 昨今の江戸の文学・演劇研究は後者の側面にやや偏り過ぎている印象を吉之助は受けます。江戸文化の明晰さのことをもっと考えつつ・バランスを取っていく必要があると思います。江戸を草双紙趣味で捉えることは懐古趣味としては面白いですが、 現代の我々にとって前向きで未来志向的な意味を持たないと思います。江戸のかぶき的心情の明確さということが分かれば、「夏祭」をニューヨークやベルリンの観客にも「団七は我らの同時代人」と感じさせるものがあることが分かってくるはずです。団七の視点は未来に向いているのです。

(H21・1・1)


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