歌舞伎の平面性〜次元の乖離
平成20年(2008)5月・ベルリン・平成中村座:「夏祭浪花鑑」
十八代目中村勘三郎(団七九郎兵衛)、三代目中村橋之助(八代目中村芝翫)(一寸徳兵衛) 、笹野高史(義平次)
串田和美演出
1)歌舞伎の平面性について
別稿「舞台の明るさ・舞台の暗さ」において歌舞伎の照明のことを考えました。現行の歌舞伎の舞台を見ると・影を消してしまう特殊な照明が施されており、役者の立体感が意識的に消されています。これは電気照明だからこそ可能になった技術で、もちろん江戸時代にはあり得なかったもので した。ならばホントの歌舞伎は蝋燭照明だった江戸時代の陰影がある舞台にあり、現行の影のない歌舞伎の舞台はウソだということでしょうか。舞台は明るければ良いという単純な考えでいるうちに、いつの間にやら役者の影を消してしまって・次いでに江戸時代の芝居のニュアンスも消してしまったということでしょうか。それは違うと吉之助は思いますねえ。
このことを考えるには江戸時代の芝居絵・つまり浮世絵を見れば良いのです。浮世絵には影がまったく描かれていません。当時の劇場の自然光や蝋燭による照明では役者の影を消すことは不可能であり、舞台に陰影があったことは確実です。それでは浮世絵師たちは嘘を描いたのでしょうか。そうではないでしょう。絵師たちは彼らの眼に映った真実を絵に描いているのですから。「あまりに真を描かんとて・・」と評された写楽でさえ役者絵に影を描いていません。このことは非常に重大なことだと吉之助は思います。ならば絵師たちが見た歌舞伎の真実とは何か・ということを考えなければなりません。そこから次のように言えると思います。浮世絵師たちが真実を描いたのならば、江戸時代の蝋燭照明では実現しようとして出来なかったものが・電気照明の発展によって初めて可能になったということです。歌舞伎の真実が現代の電気照明によって遂に視覚的に明らかになったということです。歌舞伎の照明が完成したのはついちょっと前・そんな昔のことではないわけです。
歌舞伎では電気照明によって役者の影が消され・役者の立ち姿の視覚的な立体感が消されることは、歌舞伎の平面性が歌舞伎の真実に大きく係わっていることを示しています。もちろん役者はアニメーションではありませんから・ 現実に平面ではあり得ません。陰影を消されることで・舞台面において視覚的に平面的な印象に変えられるということです。舞台における「平面性」とは何でありましょうか。立体性を持つ物体が陰影を持つことは自然なことです。ですから影を持たない物体は不自然であるということになるでしょう。つまり歌舞伎の舞台においては三次元空間に視覚的に二次元的な役者が存在するという不自然な事態が現出することになります。そこに次元の乖離感覚があるのです。この乖離感覚こそが歌舞伎の真実に係わるものです。
乖離感覚は実は歌舞伎の至るところに見られるものです。見得とは役者の動きにストップモーションを掛けることで、その感情表現に強烈なズレを生み出そうとするものです。隈取りとは化粧に人工的な彩色を施すことで、役者の風貌に自然ではあり得ない強烈な印象を加えるものです。人形振りとは役者が普段の人間に見られない機械的な動きをすることで、人間を背後から操る強力な存在があることを観客に悟らせるものです。荒事で役者が声を高く張り上げる誇張された発声はこの世のものとは思えない圧倒的なパワー(御霊)の存在を感じさせます。ですから我々がそれが歌舞伎的なものだと感じ・歌舞伎と新劇とを分けていると感じる演劇的な要素はすべて乖離感覚に関連するものです。これらすべてが二次元的な感覚であることが言えます。
例えば見得が二次元的な技法であることはロシアの映画監督エイゼンシュタインが「歌舞伎の見得は映画で言えばクローズ・アップだ」と言ったことを考えればよく分かります。(別稿「見得〜クローズアップの技法」をご参照ください。)カメラが被写体にググッと近づいていくと、被写体の背後の風景は次第に失われていくことになります。つまり画面の奥行き(立体感)は次第に失われます。さらにカメラが近づけば被写体で画面は一杯になり・被写体の立体性 も失われ、画面は違う有様(ありさま)に変貌していくことになります。映画のクローズアップで表現されるものは感情の視覚的な実現であって、それは二次元的な感覚なのです。歌舞伎の見得も同様であると看破したエイゼンシュタインはやはり只者ではありません。
隈取り・人形振り・荒事の発声が二次元的な技法だということは・その演技が不自然であるという意味を観念的に考えてみれば分かります。自然という印象は曲線的で滑らかであり・ある幅の揺らぎと散らばりを持つものです。不自然で人工的なものはその反対の印象で、直線的で鋭角的であり・局所的な一点にパワーが集中するものです。直線(不自然なもの)は曲線(自然なもの)に対して・横の軸はあるが縦の軸がないことで分かるように、不自然なものは自然なものと並べた場合に次元が欠落した印象を見る者に与え ます。つまり隈取り・人形振り・荒事の発声という不自然な技法には次元が欠落した感覚があるのです。それは自然な演技と並べたところで提示された時に初めて意味を持つものですから・そこに次元の乖離感覚があるということが演劇的にとても重要になるわけです。(この項つづく)
(H20・11・20)
2)歌舞伎の平面性〜次元の乖離
歌舞伎の平面性とは厳密に言うならば「欠落感覚」であると言えます。しかし、見得や隈取り・荒事の発声など表現はそれぞれ独自の座標を持っており・次元が微妙に異なるものですから、これらの欠落感覚をひとつのイメージで括るならば・立体(三次元)的な世界に対する平面性(二次元)の乖離だということになります。これが歌舞伎の表現の本質であり・歌舞伎らしさの根源です。
しかし、歌舞伎的な表現の次元の欠落は三次元的な演技(まあ自然な写実の演技と考えてよろしいでしょう)と並列的に提示されて初めて観客はその乖離性を感知できるのです。見得の本質はその形を見ているだけではその平面性の十分な理解ができません。ドラマのなかで・その見得の前後の演技の流れのなかで捉えなければ見得の本質は見えてこないのです。見得は前後の演技の流れの上でこそ平面性を以って屹立するとも言えますし、見得の平面性を際立たせるために前後の演技の段取りをそのように構築していかねばならないとも言えます。そうした歌舞伎の平面性がどういう意味を持つかは今後の機会に考えたいと思います。本稿においては歌舞伎の舞台面の視覚的な立体性が歌舞伎の持つ平面性の本質にどのような影響を及ぼすかを考えます。
実際、舞台の印象は照明によってかなり大きく左右されるものです。例えば本年(2008)8月の北京オリンピックでのチャン・イー・モウ監督演出による開会式式典は実に素晴らしいものでしたが、あれは照明の特殊効果なしで成立しないものでした。昼間の自然光線のなかであの式典を見たならば・その印象は随分と違ったものになったでしょう。これはイーモウ監督の演出を貶めているのではなく・その演出コンセプトのなかの照明の比重がもう半分以上だと思えるほどでした。現代演劇において照明が持つ表現の可能性はそれほど大きなものです。
古典歌舞伎の舞台をちょっと見ただけでは・ただ舞台を明るくして役者の影を消しているだけで・何かしているように見えないでしょう。しかし、実は陰影を消すことで・舞台面は視覚的に平面的な印象に変えられているのです。つまり、江戸時代の自然光や蝋燭照明ではあり得なかった・舞台の視覚的な平面感覚の表現が現代の電気照明で可能になったのです。歌舞伎独特の照明によって・あの奥行きがなくて平べったい定式の舞台装置あるいは歌舞伎役者の表現の本質がより鮮明に浮かび上がってきます。江戸時代を遠く離れて歌舞伎の表現が次第に風化して行くことは時間の必然のように我々は思い勝ちですが、いや実は現代の方が歌舞伎の表現が進化した要素だってあるわけです。
古典歌舞伎に舞台装置の立体性を持ち込んだ場合にどうなるかを考えてみます。「忠臣蔵」四段目の城明け渡しの場面の引き道具で城門がずっと奥に引かれると、歌舞伎座ってこんなに広いんだなあと改めて驚きます。しかし、こうした奥行きのある舞台を見ると、どこかいつもの歌舞伎ではない新劇的な感覚に違和感を感じてしまいます。これは明治30年(1897)6月歌舞伎座「裏表忠臣蔵」で九代目団十郎が由良助を演じた時の演出が残ったもので、実録風「忠臣蔵」を目指したところから発想されたものでした。明らかに明治の近代演劇の思想から来たものです。
しかし、奥行きのある舞台で由良助が主人の血の付いた九寸五分を手にして「血に染まる切っ先を打守り・拳(こぶし)を握り・無念の涙はらはら・判官の末期の一句五臓六腑にしみ渡り・・・」と 号泣する場面を見れば 背景の城門は観客の脳裏から消し飛んでしまい、由良助の無念さ・怒りだけが迫ってくるでありましょう。普段とは違う写実感覚のある舞台に・歌舞伎の様式的な演技が全然負けていません。むしろ立体性のある舞台の上で由良助の演技が浮き上がるように・その表現の独自性を主張しています。この乖離感覚こそが歌舞伎の本質です。ちなみに昭和3年(1928)8月に二代目左団次がモスクワで歌舞伎を演じた演目のなかに「忠臣蔵・大序〜四段目」があってエイゼンシュタインはこの舞台を見ています。この門外での由良助の演技は見得というものとは違いますが、しかしそれが観客に与える心理的効果は見得とまったく同じです。「歌舞伎の見得は映画で言えばクローズ・アップだ」と言ったエイゼンシュタインの言葉を聞けば・彼が由良助の演技のなかにも平面性を感知したことは明らかなのです。(この項つづく)
(H20・11・22)
3)硫黄島での「俊寛」
歌舞伎は巡業でさまざまな場所で上演を行い・花道のない場所で興行を行うこともしばしばで・そのせいか段取りをその場に合わせて適当にちょこちょこ変えることに対する抵抗が歌舞伎役者にはあまりないようです。悪く言えば型(演出)に対して厳格でなく・いい加減である。良く言えば柔軟性・適応性があると言うことです。歌舞伎の場合は能狂言のように舞台の規格にこだわるということがありません。そう考えれば明治に入って西洋演劇思想の洗礼を受け・時代遅れの遺物と揶揄されながら・歌舞伎が定式の平面的な舞台装置をここまで守ることが出来た方が奇蹟のように思います。それは結局、定式の装置でなければどうも「歌舞伎らしく」見えないという・その一点にあったと思います。明治以降の観客は歌舞伎がリアルな舞台になるのを拒否したのです。そこに歌舞伎の美学があるわけです。どうして「・・らしく」見えないのか・「・・らしい」とはどういうことなのか・そういうことを考えてみる必要がありそうです。
ところで平成8年(1996年)5月に鹿児島県の硫黄島の浜辺で勘三郎(当時は勘九郎)が「平家女護島・俊寛」を演じたことがあり・テレビでもその模様が放映がされました。平成中村座・コクーン歌舞伎などを始める以前の勘三郎の挑戦でした。俊寛僧都が流された因縁の地で・自然のなかで近松のドラマを演じるのは勘三郎にも万感の想いがあったようです。上演は日が暮れてから行われたので自然光ではなく・ライトアップされたために背景の自然感が減殺された面があって、せっかく硫黄島の荒々しい岩肌の絶壁が背景にあったのに・それが見えなかったのはとても残念でしたが、野外芝居の感触を多少は感じることが出来ました。下手に海岸があるために演技の手順は変わるところがありましたが・全体として現行と同じ型で演じられました。赦免船が遠ざかっていくあたりはリアルそのものでしたが、その光景もまったく 不自然に見えませんでした。印象的であったのは自然のなかでも歌舞伎の演技が負けることなく・その様式性がよく映えたことです。ライトアップされているためにその辺が確認しにくいのですが、役者が自然の光景に溶け込むということがなく・ドラマの輪郭が浮き上がって見えてきます。
このことは吉之助にとても良いヒントを与えてくれました。結局、歌舞伎の様式性は反自然を指向しているということです。創設期の歌舞伎は写実を指向したわけですが、幕府の規制により女優は奪われ・さまざまな制約を受けて・歌舞伎はその理想を自ら裏切る形で様式化していきます。その相反した表現ベクトルに歌舞伎のバロックな面があるのです。反自然とは・先に触れた通り・自然に対する欠落感覚・つまり表現の平面性を指向するものです。江戸時代の自然光あるいは蝋燭の照明による上演においては立体性(影はそれが立体であることの証なのです)を取り去ることは不可能でしたから、視覚的な面において平面性(反自然)を実現することはなかなか困難なことでした。ですから歌舞伎の平面性は舞台面においては奥行き・高さのない定式の舞台装置に現れたのです。演技面においては平面性は見得・隈取りなどに最初に現れました。そのような平面性の世界のなかで写実(世話)の表現を絡ませることで芝居が生きてくる・写実の表現を生かすために歌舞伎の世界はあらかじめ歪んでいると言うことです。
以上のことから吉之助は次のように考えています。歌舞伎が立体性を持った写実の舞台装置で上演されることはそれはそれでも別に良いのです。しかし、立体性のある舞台のなかで写実の演技を指向したのではそれは新劇と変わらないものになってしまいます。歌舞伎が歌舞伎らしくあり続けるためには、歌舞伎役者の演技は意識的に様式性を強める必要があります。そうでなければ「・・らしさ」は失われてしまうのです。歌舞伎の欠落感覚・平面性をどこかに強く保持しなければなりません。それが歌舞伎の「・・らしさ」の根拠であるからです。(この項つづく)(H20・11・30)
4)再び・歌舞伎の平面性について
本年(2008)5月・ベルリンで行われた平成中村座での串田和美演出・勘三郎の「夏祭浪花鑑」の映像を見ながら・舞台の平面性を考えてみます。芝居が始まる前から 祭礼気分で観客席通路を役者たちが歩き回り・時には観客と談笑したりするのは・コクーンなどでもおなじみの趣向ですが、歌舞伎が初めてのドイツ人にとって異国の江戸の雰囲気に引き込まれる効果があって・それは楽しいものであったでしょう。額縁に囲まれた舞台を観客席から切り離されたところからご拝見するような芝居では、このような親近感は生み出せません。日本人は今も紙と木で作った家に住んでいて・男はサムライみたいなカッコして・女はゲイシャガールのカッコして・・・と思っている方が西洋にはホントに多いです。ベルリンにはソニー・センターがありますから日本のビジネスマンを見る機会は多いはずですが・西洋人にはこっちの方が案外イメージ通りで・親しいかも知れません。まあ日本は友達・ずっと昔の江戸も友達という感覚も悪くはありませんが、しかし、役者の平面性は失われてしまいます。吉之助の考えでは、芝居の始まる前は役者が通路を歩き回るお祭りの趣向は大変結構だと思いますが、芝居が始まって役者が舞台に上がったら・次元が変わったことを役者ははっきり 示さねばならぬと思います。これは演じる場所がベルリンだろうが・渋谷であろうが関係ないことです。
串田演出の「夏祭」は・同じ串田演出の「法界坊」なども同様ですが、ある場面においては「コメディー・お江戸でござる」を思い出させます。「お江戸でござる」をご存知ですか。1994年から2004年にかけてNHKで放送された時代劇バラエティーです。誤解がないように・吉之助は馬鹿にして言っているのではありません。「お江戸でござる」は肩の凝らない楽しく良く出来た娯楽番組で した。しかし、歌舞伎役者が演じる「夏祭」が「お江戸でござる」と同じ感触では困ると思いますねえ。串田・勘三郎の主張は舞台に居る人間も観客の私たちと同じ人間だということだと思います。その意図を理解しないわけではないですが、しかし、「歌舞伎は友達・江戸は友達」という感覚は観客席の空間との亀裂を埋める働きをします。そのために歌舞伎の平面性は失われ・結局江戸風俗の新劇と言うのと大して変わらない印象になってきます。そうならないためには、いったん舞台に上がったら・役者は 通路で観客と談笑していたのとは全然違う演技をせねばなりません。「オッ舞台に上がったらあいつらは違う」という感じを観客に与えなければなりません。さすが伝統演劇は違うということを見せなければ・歌舞伎じゃないと思います。
例を挙げれば三婦内の場において・義平次が琴浦を預かると言って駕篭屋を連れてきたということを三婦女房が団七に言う場面です。勘三郎の団七は「義平次」という名前が出た時点で扇子の手を止め・「あっ」という表情をして・さらに「・・しもた」という表情をして落ちつかず・もう後の話が聞いていられないという感じです。まあ確かにリアルな写実の演技であると言えます。しかし、これでは新劇役者が着物を着て時代劇しているのとまったく変わりがありません。化粧が違う・着物の着こなしが巧い下手という・そういう次元の違いでしかない。ここは三婦女房が台詞を言い終わるまで・団七は扇子を扇ぎながら「暑いな・暑いな・・」とやっていて、台詞が終わってから「エッ・・」という表情で反応を示せば歌舞伎の演技になるのです。そういう時間的に乖離したリアルでない演技を見せることで・ドラマの局面の変化がはっきり見えてくるのです。団七にとってその存在を脅かす大変なことが起きかかっているということです。この印象から団七の演技はこの後の通路での決まり(通常は花道七三で行う)へ向けて構築されていくのです。団七の見込んだ先に「破滅」が見えなければなりません。
「長町裏へ・・」で団七が駆け出して・行く手を見込んで通路で決まるその形・踏み出す時の脚の使い方は勘三郎は力感があって実に素晴らしく・さすが天才だと唸らせます。それは確かにそうなのですが、それまでのリアルな写実の演技の流れのなかで・この形はドラマとしてどういう意味を持つのでしょうか。「さあこれが歌舞伎だぞ」と言わんばかりの形(見得)です。「これはもともとが人形芝居だったんだって。なるほどそんな感じだねえ」などとドイツ人も感心しそうな動きですが、吉之助にはその見得が見得のための見得としか見えませんねえ。見得をするからこの芝居は歌舞伎だというための見得だと思います。芝居の次元の亀裂というのはそこに在るというものではありません。最初に身体に感知されない微振動としてあり・さらに鯰が暴れだすような不穏な予兆としてあり・そして地面を揺るがす大振動としてあり・その結果が地面がパックリと割れる亀裂となって現れるのです。さらに言えば・それは亀裂だけで終わるのではなく・何度かの余震(振動)も伴うものです。ですから次元の乖離 は現象としてではなく・動きあるいは流れのなかで捉えなければなりません。見得はその前後にその段取りが取れていることで・ドラマの流れのなかに位置付けられるのです。これが見得という技法の正しく近代演劇的な理解であるべきです。ですから・見得に入る以前のドラマの流れをどう構築していくかが大事です。その流れの構築のための ひとつの方法が団七の扇子の件です。
写実の演技に亀裂を入れる方法は実は些細な工夫で済むことで、別にこうやらねば歌舞伎にならぬという決まった手法があるわけではありません。ちょっとした様式的な仕草を入れるだけで・演技の印象は全然変わってきます。そこは役者の工夫次第です。ちなみに昭和55年9月歌舞伎座での先代勘三郎の「夏祭」(吉之助は生の舞台を見ましたが)この映像が手元にあるので・これを見比べてみると、先代は先ほど吉之助が先ほど言ったような扇子の使い方はしていません。全体の段取りとしては先代と当代はあまり違わないようです。先代も当代よりは抑えた演技ですが、三婦女房の台詞の途中で扇子を止めて・表情を変えています。しかし、見た印象はかなり違います。これは舞台装置とか・相手役との兼ね合いもあります。団七だけの問題ではありません。当代の「夏祭」の場合は舞台装置に立体感があるもので・芝居全体が写実めいているので、役者の動きに平面感が出てこないのです。こういう場合は勘所では演技に様式による切れ目を普段よりも強く意識しなければ演技に乖離した印象が出てきません。定式の舞台ならば先代のような演技がその写実味が十分良い感じになるのです。しかし串田演出の奥行きのある舞台装置ならば・同じ段取りを取ったのでは環境に演技が減殺されます。三婦女房の台詞の途中で扇子を止めるくらいの様式的な要素を入れて・バランスがちょうど良くなるのです。そうすることで芝居は様式の方へ引き戻され・そこに乖離感覚が生まれて・演技はぐっと歌舞伎らしくなってくるし、「長町裏へ・・」での見得がドラマの流れのなかへ自然と位置付けされていくことにな ります。要するに歌舞伎を現代に生かすために・変えても良いところはどんどん変えても良いのですが、歌舞伎が歌舞伎であり続けるためにどこを頑固に変えないか・どこを守らねばならないか・さらに歌舞伎であることをどのように逆主張していくべきか・そこのところの方法論が、串田・勘三郎の舞台は甘いと吉之助は思います。そういう目で見るならば、些細なところで気になるところが随所にあります。(この項つづく)
(H20・12・7)
5)様式的な演技の意味
ご存知の通り・歌舞伎は閉鎖的な世界でして、約束事や文献的知識も必要な歌舞伎において部外者が演出することは至難なことです。歌舞伎の世界で平気で演出ができた部外者は武智鉄二くらいのものです。それも手放しで受け入れられたわけではありません。また定式の舞台装置で演技手順の些細な部分を手直しすることはかえって仕勝手の横行を許すようなことになりかねないので十分な注意が必要です。別稿「空間の破壊」において触れましたが、部外者が歌舞伎を演出して勝負するならば一番勝ち目のある方法は舞台空間を破壊し・まったく新しい舞台装置で演出することです。装置を一新してしまえば・当然演技手順は変えざるを得ません。それは自分の領域に敵を引き込む戦法です。歌舞伎の空間を破壊さえすれば部外者にも勝機はあるのです。ですから串田氏が平成中村座やコクーンの舞台に立体性・写実性を持ち込むのは当然のことです。例えば「三人吉三」の終幕「火の見櫓の場」のシンプルな装置 とスピード感ある演出はなかなか新鮮なものでした。舞台は絵面ではないけれど・かぶき的なエネルギーが出ていたと思います。それが舞台を確かに歌舞伎にしていました。
今回の串田演出「夏祭」の「九郎兵衛宅の場」では下手から強い照明を当てて・家の奥に強い西日が射し込む感じを巧く出しています。この照明は観る者をハッとさせます。通常の歌舞伎の照明であると・季節が夏であることが舞台面から感じにくいからです。役者が眩しそうに上をちょっと見上げて・扇子を掲げながら歩く演技は夏の強い太陽光線を表現するものですが、空調の効いた観客席ではそれがどうもピンと来なくなっています。串田演出の照明はそういうことを思い出させます。それは悪くないのですが、この奥行き(立体性)と写実性が出た舞台面で役者をどう動かすかが問題になると思います。
「九郎兵衛宅の場」で徳兵衛がある意図を以ってわざと団七女房に言い寄り・団七がそれに怒って喧嘩になろうとするところへ・三婦が止めに入る場面を見てみたいと思います。ここで三人は絵面に決まり・リズミカルな長台詞の啖呵を吐く歌舞伎らしい様式的な場面です。この場面で串田氏は西日の照明をそのままにして・さらに正面から強い照明を加えます。それまでの西日の写実の印象を犠牲にした・この処置は何を意味するのでしょうか。正面から照明を当てることで・役者の影は消されて舞台面は平面的になってきます。「三人の役者の演技により強いインパクトを与えるため」かも知れません。しかし、これは吉之助から見れば真相は逆で・そう串田氏が説明するかどうかは分かりませんが、串田氏は意識するか・しないかは別にして・この場面での役者の演技に歌舞伎らしいインパクトが足りないと感じたから・正面から照明を当てる処置をしたのです。吉之助が見るに・この場面での勘三郎らの演技は侠客 (正確には市井のならず者であり侠客とはちょっと違いますが)の荒々しい気風と迫力を出そうとする余り・台詞が崩れて正しい発声のリズムになっていません。勢いはあるけれど、唾が飛びそうな写実の台詞回しです。その表情も眼を吊り上げ・眉を動かし過ぎです。要するにこれは歌舞伎というよりは・歌舞伎風味の新劇的な演技なのです。だから西日が射した写実味がある舞台面との乖離とインパクトが足らぬことになる。つまり歌舞伎らしい感じがしない。それで串田氏は当初のコンセプトを修正して・正面から照明を当てる応急処置をしたと推察します。
役者の立場から見れば・舞台面は写実がコンセプトなのだから・普段の演技よりも写実性を少し加えればちょうど様式的に良いだろうという感覚があるのかも知れません。しかし、それでは新劇役者の時代劇とあまり変わらぬことになってしまいます。それでは歌舞伎役者がそれをやることの意味がありません。定式の歌舞伎の舞台ではあり得ない奥行き(立体性)を持った舞台では、役者は普段よりもっと強い様式性を意識した演技をせねば写実の舞台に負けてしまいます。そこに乖離感覚・すなわち歌舞伎らしさが出てこないのです。三人が絵面で決まるまでの様式的な段取りを慎重に積み上げていかねばなりません。恐らく部外者のこうした演技の段取りや台詞回しの細かい指図は歌舞伎の世界ではアンタッチャブルで・串田氏にはできないでしょう。そこは勘三郎が仕切らねばならぬ仕事であるはずです。
「夏祭」に様式的な演技が出てくることの「不自然さ」ということを考えてみます。「夏祭」は世話物ですから写実を志向するものです。人形浄瑠璃原作ですからその音楽的な様式を引き継いでいますが、地狂言にするならば本来そういう要素は捨て去っても良いものです。こうした様式的な表現を歌舞伎の「夏祭」が後生大事に保持していることには重要な意味があります。団七・徳兵衛たちを取り巻く社会の義理とか意地とか言うものは、彼らの行動をがんじがらめに縛るものです。それは 確かに非人間的な要素である・と同時に彼らの「男」はそれによって成り立ち・それによって鼓舞されるものでもあるのです。それは常々吉之助がかぶき的心情と呼んでいるもので、「それこそが俺が俺であることの証だ」と感じさせるものです。写実であるべき世話物「夏祭」に出てくる様式的な不自然な表現はそのような背景から出てくるものです。ですから「九郎兵衛宅」においてもこれが歌舞伎であることを誇示するかのように三人が絵面で決まり・様式的に台詞を言うというのではなく、「登場人物の心情において彼らは様式的に極まる」と観客に感じさせる演技でなくてはなりません。それが歌舞伎らしさということです。(この項つづく)
(H20・12・14)
6)思い出したくない「過去」
串田版「長町裏・義平次殺しの場」は感心する部分とそうでない部分があって評価がなかなか難しいところです。まず感じることは串田版は泥田を本格に作り・義平次に笹野高史を起用して・これは徹底した写実を指向するのかと思いきや、これに反して殺し場を暗闇にして・黒衣が面明かりを持ち出しておどろおどろしい雰囲気を出し、さらに義平次を殺した後・バッと舞台を明るくして・祭囃子が近づいてくるという風で・その場その場の効果はなかなか巧いものですが、演出コンセプトとして一貫性に欠けるように思えることです。殺しの段取りは従来の歌舞伎とさほど変わるわけでもなく、その辺の細かいところは勘三郎にお任せをして・照明効果で変化を付けたということかと思います。まあいつもの歌舞伎と違うものを見せようとしているわけですから目くじら立てるのも野暮ですが、黒衣の面明かりも含めて・この照明は手法としてシュールなものでかぶき的とはちょっと言い難い感じがします。いや歌舞伎の技法というのは確かにシュールな一面を持っており・その点に共通項がないわけではないので、串田氏の照明技法も義平次殺しの暗いドロドロした情念を巧く表現したと好意的な評価ができないことはありません。そのため吉之助はこれを歌舞伎でないと断定するのは躊躇しますが、しかし、吉之助は歌舞伎のシュールは明晰なもので、ドロドロしたものではないと思っています。
義平次殺しは前場「三婦内」に「早暮れ近く」という文句があり、そこからさほど時刻は経っておらぬので・夕方のことです。夏の夕方のことですから・周囲はまだ明るいと考えて良いです。だから西日の明るいなかで殺しが行われるのが本来であるし、この後で宵の祭囃子が来ることを考えても・殺し場を漆黒の闇にしてしまうことは写実とは言えません。しかし、義平次殺しは明るい舞台で行われるのがふさわしい・そのように作者は芝居を書いていると吉之助が考えるのは別の理由に拠ります。
団七はもともと浮浪児で・それがいかさま師の老輩義平次に拾い上げられて育てられて・そこの娘と出来てしまい、肴のふり売りしていたものが喧嘩で名を売って、色町で武家奉公人を斬って入牢したという設定になっています。また徳兵衛も備中玉島を脱走して一時は非人の群れに入った喰いつめ者で、喧嘩の尻押しに買われたり・いかさま師です。義平次から見ると団七は浮浪児であったのを拾い上げてやったことでもあるし・娘の連れ合いでもあるし、団七を応援してやればよさそうなものですが、これが全然そうではないのです。この根性の捻じ曲がった老人は「お前ばかりにいい目見させてたまるか・格好付けやがって・誰の世話になったんじゃい」という感じで団七の足を引っ張り続けます。義平次には底辺を這いずり回った人間の強烈な僻みと妬みと醜さがあり、そこから抜け出そうとする団七を邪魔することしか考えていません。そのしがらみが結局、団七を絡め取ることになるわけです。
団七から見ると義平次は自分の過去を握っている男です。団七は義平次に恩義がありますが、それは団七にとって一番思い出したくない過去です。その忌まわしい過去が自分を襲ってきます。つまり団七がここで向き合っているのは義平次であると同時に・向き合いたくない自分の忌まわしい過去なのです。消し去らねばならないものが団七に目の前にありありと見えています。だから団七は義平次を殺すのです。義平次殺しが明るい場所で行われなければならない理由はそこにあります。鳴り響くお囃子のリズムはそれが公然の場所で行われている・いつ誰が来てもおかしくない場所で行われていることを示しています。しかし、この時の団七にとってもうそんなことはどうでも良い・消さねばならぬと見込んだものは消し去らねばならない・殺すべき対象は明確である・お囃子のリズムさえ自分をけしかけているようにさえ感じられる・義平次殺しはそういう場なのです。推理小説には功なり名遂げた人物が自分の忌まわしい出目だか過去だかを知っている人物に脅され・これを殺すという設定のものが数多くありますが、義平次殺しもまたそうです。
このことは状況は異なりますが・ビゼーの歌劇「カルメン」最終場面を思い出させます。「カルメン」最終場面は吉之助の知る限りほとんどの舞台で「自分と一緒に暮らしてくれ」とホセがカルメンに迫り・カルメンがこれを撥ね付けて・指輪を投げ捨てる場面で、闘技場から勝利した闘牛士を称える合唱が聞こえてきますが・舞台上には 主役ふたりしか登場しません。ホセがカルメンを殺して「俺を捕まえてくれ」と叫ぶと急にぞろぞろと野次馬が出てきて・ホセを取り囲みます。考えればこれはちょっと奇異なことで、実際のことならば闘技場の周囲は物売りとか子供とか・最初から人間で溢れているはずです。ホセのカルメン殺しは本当はそういう公衆の場で行われているはずなのですが、殺しの場面においては周囲が消えています。ホセにはカルメンしか見えていません。カルメン殺しにはスペインのギラギラとした太陽の輝きと・強烈なリズムという明晰な印象が必要です。なぜならばホセの殺したカルメンはホセのすべてであり ・これまでの堕落した過去のすべてであり、つまりこの場でホセが向き合っているのは明確に自分自身にほかならないからです。
このような類似は決して偶然ではありません。「カルメン」の19世紀西欧の浪漫的心情と・「夏祭」での団七の義平次殺しのかぶき的心情はまったく同じバロック的な感性から発するものだからです。だから義平次は自分にまつわりつく嫌な奴だから殺した・自分の正義の邪魔をする悪い奴だから殺した・男の生き面を割ったから殺したというのは実は表面的なことで・もし団七が裁判で殺しの正当性を主張するならばそういうことを言うでしょうが、この芝居の題名の「夏」というものが示すイメージ・「強烈な太陽光線・いらだつような暑さ」が示すものはそれとはまったく異なるものです。団七の殺すべき対象は日に照らされたように明確に見定められています。義平次は明るい場所で殺されてこそ歌舞伎にふさわしいと吉之助は思います。
義平次殺しの場面を明るくすべきか・暗い方が良いかと言うことはどちらが正しいとか・間違っているとかいう問題ではありません。それは手法の相違と言うべきですが、まあこの点で串田氏と吉之助とは歌舞伎のイメージに違いがあることは確かですねえ。 ここにも立体性と平面性の問題が絡んできます。「強烈な太陽光線・いらだつような暑さ」を考えれば・ここでは逆に平面性の方が歌舞伎のリアルさを持つのです。串田版を見ていると・暗がりのなかで面明かりでボーッと照らされた義平次の表情が深層心理の闇のなかから浮き上がってくる亡霊のようにも見え、それが歌舞伎の何ものかを表現して興味深いことを吉之助は認めないわけではありません。それは表現者としての串田氏の立場からすれば当然あり得ると思いますが、様式からみればそこには明晰さ がなく・ドロドロと粘った感触に感じられます。これは 江戸のかぶき的感性から遠いもののように吉之助には思われます。乖離した感性のザラザラとした粗い感触を見せてくれるものではなく、やればやるほど歌舞伎のリアルさから離れていく感じがします。むしろ義平次に留めを差した後・黒幕が落ちて・舞台がパッと明るくなり・祭連中がなだれ込んで来る場面に明晰さとかぶき的な感触が満ち溢れています。(この項つづく)
(H20・12・21)
7)ベルリンの「壁」
毎回話題になる串田・勘三郎の「夏祭」の幕切れは、今回は捕り手に追われた団七(勘三郎)と徳兵衛(橋之助)があちこち逃げまわり・やがて高い壁に行く手を阻まれて 逃げ場を失い万事休すとなったところで・「まず今日はこれ切り」という形でした。これはベルリンの壁のことを指しているのでしょう。自由を求めて生きるかぶき者を阻むものを指しているとも考えられます。
吉之助がベルリンを訪問したのは1979年3月のことでした。当時は米ソ冷戦時代でしたから、東西ベルリンは壁で分断されていました。ベルリン訪問の目的はベルリン・フィルを聴くこともありましたが、もちろんベルリンの壁を見ることでした。行ったのはチェック・ポイント・チャーリー(米軍が管理する東西ベルリンの関所のあだ名)に程近いフリードリッヒ通りの壁であったと思います。あれは「壁」とひと言で言いますが、(場所にもよると思いますが)むしろ堤防だか橋頭堡の感じでありました。高い壁の向こうの多分100メートル近くコンクリートで固められたただの平地で、あちこちに鉄条網が転がされていました。さらに向こうにも高い壁がありました。監視台には兵士がいて、脱走者を見つければ機関銃で撃つという態勢です。それでも脱走を試みる者が絶えなかったというのだから驚きです。しかし、吉之助が行った日はのどかなもので、展望台から手を振ると・向こうで銃を肩にした東ドイツの兵士が手を振って応えるみたいな風景でした。国境というものが海の上にしかない日本人にはこれは想像を絶する光景です。「何だ、これは。何が同じ人間を隔てているんだ」という言いようのない怒りが腹の底から涌いてくるようでした。のんびりした光景だけに・余計にその理不尽さが身に沁みました。しかし、ベルリンが「のんびり」というのは表面上のことで、ベルリン・ドイツ・オペラを観た後、吉之助が夜道をホテルへ帰る途中でしたが、暗い路上で吉之助の足音を聴いて数名の人間がワッと蜘蛛の巣を散らすように逃げたのにはこちらの方が襲われるかと思ってビックリしました。どうやら彼らは共産主義のプロパガンダ・ポスターを貼っていて慌てて逃げたのです。ドーベルマンを連れた警官たちがクーダム(西ベルリン繁華街)の店をガサ入れしているにも出会いました。ベルリンはやっぱり東西陣営がパチパチと火花を散らす最前線であったわけです。
1963年6月26日、西ベルリンを訪問したケネディ米大統領は「自由を求める者は皆、ベルリン市民である。私も一人のベルリン市民である(Ich bin ein Berliner )」と演説しました。吉之助がベルリンに行った1979年には、10年後にこの状況が解消するなどとはとても想像が出来ませんでした。当時ベルリンの壁は決して越えることのできない障害や永遠になくなることのない大きな障害のたとえとしてしばしば使われたものです。1979年に伝説的なロック・グループ・ピンク・フロイドが発表したアルバムに「ザ・ウォール」というのがあります。学校教育や社会の中での抑圧・疎外感を「壁」に例えています。「壁」はいろんな観点から冷戦時代を考えるキーワードでした。
冷戦時代にあって「壁」にはふたつの意味がありました。ひとつはネガティヴな意味ですが・個人を引き裂き・分け隔てる非人間性としての「壁」です。そこには圧倒的な力を持つ存在があって、それが個人を抵抗しようもない力で抑圧します。これは個人から見れば抵抗・反抗・反体制の象徴です。もうひとつはポジティヴな意味で・いつかはこれを乗り越えてみせるという「壁」の存在があるから、自分もこれに対抗する形で・自分のなかの力を高めていけるというものです。
1989年のベルリンの壁崩壊は予想も付かない形で起こりました。非常に幸運なことでしたが、一滴の血も流さずにベルリンの壁は崩壊しました。このことは良い意味においてベルリンの壁をベルリン市民に記憶させています。それは「ついに乗り越えたもの・自由の信念においてついに崩壊させた無用の長物」なのです。この勝利の余韻は未だ続いており、現在のベルリンは建設ラッシュが続く・ヨーロッパのなかで最も活気のある街です。
そう考えれば串田・勘三郎のベルリン版「夏祭」のエンディングは、ベルリンっ子にその意味はもちろん分かるでしょうが・30年前ならいざ知らず・インパクトが足りなかったと思います。現在のベルリンっ子にとっての「壁」という意味を正しく体現できていないのであるなあ。このなかにかぶき者の精神と共通したものがあるのではないでしょうか。「壁」とは場における乖離そのものであり、歌舞伎はそれと明晰に対峙せねばなりません。万事休して逃げるのを諦めるということはあり得ないのです。逃げ切るか・そうでなければぶちあたって死ぬしかない・それがかぶき的心情です。吉之助ならツルハシ持ち出して壁をぶっこわして・団七と徳兵衛は壁の向こうに逃げちゃうエンディングにしたいと思いますねえ。かぶき者は規制や柵をぶっこわして・自由を求めて明日に向かってひた走る。それが今のベルリンにふさわしいエンディングであったと思います。
(H21・12・23)
(後記)別稿「雑談」での「かぶき的感性の明晰さ」も併せてお読みください。
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写真 c松竹、2012年5月、平成中村座、髪結新三