与兵衛と長五郎・運の良いのと悪いのと〜「引窓」の人物関係
昭和43年9月国立劇場:通し上演「双蝶々曲輪日記」〜「浮無瀬・難波裏・引窓」
二代目中村鴈治郎(南与兵衛後に南方十次兵衛)、三代目実川延若(濡髪長五郎)、二代目中村霞仙(母お幸)、二代目中村扇雀(四代目坂田藤十郎)(女房お早・藤屋都、山崎与五郎二役)、六代目沢村田之助(藤屋吾妻)他
*本稿は別稿「「引窓」の様式〜二代目鴈治郎の南与兵衛」と対になっています。
1)運のよいのと悪いのと
「引窓」で主筋のために殺人を犯した濡髪長五郎が母親お幸を頼って八幡の家にやってきます。濡髪は遊女時代のお早(都)と顔馴染みで・再会を喜び合いますが、この時、二人は妙な会話を始めます。
「都殿。これはしたり。さては願ひのとほり与兵衛殿と夫婦になってか」
「マア悦んで下さんせ。わしを請け出した権九郎は根が贋金師で牢へ入る。殺された幇間は、盗人の上前取りで追剥になって殺し徳。なんの気がゝりなう添ふてゐやんす」
「ソレハ幸なこと。同じ人を殺しても、運のよいのと悪いのと、ハテ幸なことぢゃの」
(「引窓」床本)この会話はこれ以上進まないし・そもそも「引窓」だけだと観客は事情が呑み込めないので、何気なくスルーしてしまいそうな箇所ですが、「殺し徳」とは聞き捨てならない。そこで何かと思って調べてみると、これは確かに由々しいことです。三冊目「新町揚屋」の場で与兵衛は太鼓持ち(幇間)の佐渡七に襲われますが、腕の立つ与兵衛は逆に佐渡七を殺してしまいます。この時佐渡七が与兵衛の左手の小指を喰いちぎってしまいました。これを知った都はかねて自分に横恋慕していた手代権九郎になびくと偽って受け出されて・心中を見せよと欺いて権九郎に小指を切らせます。それで権九郎は佐渡七の犯人と間違われて役人に連れて行かれます。そのおかげで都は与兵衛と一緒になることが出来て、今彼女は堅気の女房お早となっているのです。(注:「揚屋」の件は昭和43年9月国立劇場での通し上演では一冊目「浮無瀬」の場と絡めて台本がアレンジされました。以後の「浮無瀬」上演ではこの版が使われています。)
お早が云う「殺し徳」とは、この事です。何より驚いてしまうのは、「引窓」の与兵衛は小指が欠けているらしい(?)ということです。南方十次兵衛の辞令を受けに役所に出頭した与兵衛に小指がないのを見て役人は驚かなかったのかと、余計な心配をしたくなります。普通の浄瑠璃であれば「因果が巡り来る」展開になるはずだから、この後に与兵衛とお早夫婦にも因果の火の車が回って来るのであろうか・・とそんな結末までも想像してしまいます。しかし、結局、「双蝶々」丸本をざっと見たところでは、そう云う面倒な事態は起らぬようです。与兵衛に小指が欠けていることは何の伏線にもなっておらず、その後の与兵衛の人生に何の影響も与えません。どうやら浄瑠璃作者自身がいつの間にやらこのことを忘れてしまったようですねえ。「引窓」での与兵衛は小指が再生したと、まあそう考えても別に不都合はなさそうです。
しかし、濡髪が思わず口に出す「運のよいのと悪いのと」と云う述懐は、「双蝶々」ではその対称性が大きな意味を持ちます。藤屋で仲が良かったふたりの遊女のうち、都は好きな男(与兵衛)と一緒になって堅気の女房に収まることが出来ました。もう一人の吾妻は相手の与五郎がトラブル続きで気が狂ってしまうし、気苦労ばかりです。殺しの件では、与兵衛はうまいこと他人に罪をなすりつけて逃れることが出来ました。しかし、濡髪の方は人相書を配られて追っ手から付け狙われる日々です。その対称の落差。まさに「運のよいのと悪いのと」なのです。しかし、それは都や与兵衛が正しかったとか・吾妻や濡髪が悪かったと云うことではなくて、ただ運が良かったのと運が悪かっただけの違いである、ただそれだけのことだと、濡髪は云うのです。濡髪は「運のよいのと悪いのと、ハテ幸なことぢゃの」と呟いて「ハテ」に自分の不運を思いやってちょっとシンミリはしますが、それ以上の感慨を濡髪はほとんど示しません。
一方、「引窓」では、新たな対称性が浮かび上がって来ます。それはお幸の義理の息子である与兵衛と、実の息子である濡髪長五郎と云う、二人の息子のことです。(なお「引窓」の老母は丸本には名前がなく、お幸は歌舞伎での呼び名です。)片や郷代官に取り立てられ士分となって過分の出世、片や正当防衛とは云え殺人を犯して追われる身です。さらに郷代官としての与兵衛に最初に与えられた仕事が近辺に潜んでいるらしい濡髪探索でした。これもまた「運のよいのと悪いのと」と云うことになるわけですが、これを「ただそれだけのことだ」と片づけられるかどうか、これがその後の「引窓」のドラマになって行くのです。
ところでそれまでは頻繁に上演されたと言えなかった「引窓」を一躍人気狂言に押し上げたのは、大正期の初代鴈治郎の与兵衛の功績でした。しかし、その頃の劇評家は「引窓」は与兵衛の芝居ではない、濡髪の芝居だ、それを鴈治郎は何でも自分の芝居にしてしまうと苦言を呈したものでした。「引窓」は殺人を犯した濡髪が、老母のことを考えて義理の兄弟になる与兵衛の職務を立てる為わざと捕縛されようとするが、与兵衛の情けによってこの場をひとまず落ち延びると云う筋なのだから、「引窓」の主人公はあくまで濡髪だとしたのです。確かにこの解釈は一理あります。文楽で与兵衛が登場するまでの「引窓」の端場を「欠け椀」と通称するのも、「引窓」を濡髪主体で解釈するからでしょう。
なぜこの端場を「欠け椀」と呼ぶかといえば、それは「申しなんにもお構ひなくとも、欠碗で一杯ぎり。ついたべて帰りましょ」と云う濡髪の台詞から来ています。「欠け椀」とは牢扶持を暗示するもので、この後濡髪が役人に捕縛されるのを覚悟していることを表しています。捕まる前にせめて母親に一目会いたいと思って、濡髪はここに来ているのです。ただし与兵衛が郷代官として濡髪探索の仕事を受けることになるとは、この時点の濡髪は知る由もないことです。(この稿つづく)
(R2・5・16)
家に帰って来る時、与兵衛は二人の武士を連れています。二人は濡髪が殺した被害者の兄と弟に当たります。彼らは探している濡髪が近くにいるらしいと云うことでいきりたっています。彼らから与兵衛は犯人探索(郷代官としての最初の仕事)を頼まれるわけですが、その場面の会話を引きます。
「その討たれさっしゃった御同苗のお名はな」、「身が弟は郷左衛門」、「手前が兄は有右衛門」、「アノ平岡郷左衛門、三原有右衛門とな」、「いかにも」、「フム」、「御存じかな」、「アイヤ承ったやうにも。ムヽしてその殺したる者はなに者」、「サアその相手は相撲仲間で隠れもなき、濡髪の長五郎」・・(「引窓」床本)
「フム」・・「御存じかな」・・「アイヤ承ったやうにも」と云う会話です。与兵衛が話をそらすので、この件はその後は沙汰無しになってしまいますし、「引窓」だけだと観客には何のことか分かりませんが、どうやら与兵衛は殺された二人の武士(郷左衛門・有右衛門)を見知っているようです。
そこで「双蝶々」丸本をざっと見直してみると、郷左衛門・有右衛門の名前が、一冊目「浮無瀬」・二冊目「角力場」・五冊目「難波裏」などに見られます。郷左衛門は、濡髪には主筋に当たる山崎与五郎と遊女吾妻を張り合っており、与五郎にいろいろと嫌がらせを仕掛ける人物です。有右衛門はその仲間です。彼らは悪人と云うわけでもないかも知れませんが、いわゆる小敵(こがたき)です。「浮無瀬」の場では、郷左衛門らが与五郎を辱めようとする場面で、横から与兵衛が飛び出して与五郎の窮地を救います。与兵衛にとって、郷左衛門・有右衛門とはそのような因縁の間柄であったのです。更に「双蝶々」の筋を追えば、「角力場」では濡髪が与五郎に吾妻との取り持ちを頼まれる件が描かれ、「難波裏」では濡髪が郷左衛門らの執拗な仕打ちに耐えきれなくなって二人を殺してしまいます。それで濡髪は追われる身となったわけです。与兵衛と郷左衛門らとの間には「浮無瀬」以外での接点はなく、「難波裏」で彼らが殺された件は与兵衛が初めて耳にする話ですが、ここで与兵衛の「過去」(放埓して大坂で遊び歩いていた)がちょっと顔を出すことになりました。しかし、これは今は晴れて郷代官・南方十次兵衛となった与兵衛にとって、あまり触れられたくない過去でした。
郷左衛門らの名前を聞いて、与兵衛はちょっとイヤな気分がしたと思います。前項で触れた通り、お早が云う「殺し徳」の過去があるならば、なおさらのことです。思いがけないところで、自分の消し去りたい「過去」を思い出すことになってしまいました。「アイヤ承ったやうにも・・」と云う時、与兵衛は自分の左手の欠けた小指をそっと隠したかも知れませんねえ。(まあ小指の件はどうでも良いのですが。)普通の浄瑠璃・歌舞伎であれば「因果が巡り巡って報いをもたらす」展開になるものですから、こういう場合、この後に与兵衛の身に何やら面倒な事態が起こりそうです。しかし、与兵衛の「過去」はチラッと顔を出しかけますが、結局、与兵衛には何も悪い事は起こらないのです。与兵衛の過去は、「引窓」のドラマのなかで、伏線としてまったく機能していないように見えます。
それでは浄瑠璃作者は、何のために、ここで与兵衛に大坂の「過去」を思い出させたのでしょうか。考えられることは、ひとつしかありません。それは「・・同じ人を殺しても、運のよいのと悪いのと、ハテ幸なことぢゃの」と云うことです。二階に潜む濡髪は、階下での与兵衛と二人の武士の会話を耳を澄ませて聞いたに違いありません。階下の会話によって、お幸の義理の息子である与兵衛と、実の息子である濡髪長五郎と云う、対称性(兄弟関係)だけでなくなり、そこに新たな対称性が重なることになります。それは「罪人を追う者と、追われる者」という対称性です。このことを濡髪ははっきりと意識したでしょう。
付け加えれば、この時点で与兵衛は自分が濡髪と兄弟関係にあることをまだ知りません。しかし、濡髪はこのことを知っていますし、観客もまたこれを承知しています。したがって与兵衛のなかで大坂の「過去」を思い出してちょっとイヤな気分になった時、通し狂言「双蝶々」を見ている観客は、ここで与兵衛のこれまでの人生を思いやり、同時に「双蝶々」のなかで濡髪が郷左衛門らを殺さざるを得なくなった経緯も思い返すことで、濡髪のこれまでの人生をもチラッと思いやることになるのです。人気力士から犯罪者への転落です。そこから「・・同じ人を殺しても、運のよいのと悪いのと、ハテ幸なことぢゃの」と云う感慨がリフレインされることになります。しかし、与兵衛と濡髪が置かれた状況の違いは、ただ運が良かったのと運が悪かっただけの違いだ、ただそれだけのことだと、浄瑠璃作者は言いたかったように思われるのです。(この稿つづく)
(R2・5・27)
3)与兵衛と長五郎・運の良いのと悪いのと
「引窓」をめぐる老母(お幸)の二人の息子、与兵衛と濡髪長五郎について考えます。与兵衛はお幸の義理の息子で、一時は大坂で遊び歩いていましたが、今は実家に戻って落ち着いて、郷代官に取り立てられて士分となって過分の出世を果たしました。一方、長五郎はお幸の実子になりますが、お幸が南家に後妻に入った時に他家に養子に出した息子でした。長五郎は人気力士でしたが、フトしたことから正当防衛とは云え殺人を犯してしまい、今は追われる身です。まさに「運のよいのと悪いのと・・」と云う二人です。
「引窓」で大事なことは、老母(お幸)にとっての二人の息子の重さは同等であると云うことです。与兵衛が出世して出来た息子だから可愛く、長五郎が人殺しをした犯罪人だから憎いと云うことはありません。自分の腹を痛めた子供である長五郎の方が、義理の息子である与兵衛よりずっと愛しいと云うことでもない。お幸にとって二人の息子の、どちらもが可愛く・愛しいのです。お幸にとって二人の息子の大切さにはまったく分け隔てがありません。
江戸期は長子相続の時代でしたから兄弟は兄貴の方が重いと思うかも知れませんが、兄弟関係は本来フラットなものです。これは義理人情の世界で「兄弟の契りを結ぶ」と云う時、二人が対等の関係となることでも分かると思います。例えば「合邦庵室」で玉手御前は兄・俊徳丸に対する弟・次郎丸の悪だくみを察知しますが、二人の兄弟の両方を護るために、玉手は邪恋の仕掛けを決意します。「合邦」では玉手の俊徳丸への隠された恋ばかりが議論の的になりますが、玉手の主張はそうではありません。俊徳丸だけが大事なのではありません。玉手のこの論理はなかなか納得し難いところがあるかも知れませんが、「それほど知れた次郎丸が悪事、なぜ通俊様(夫)へ告げぬぞい」と父親に問われて玉手は次のように答えています。
『その様子を夫へ告げなば、道理正しい左衛門様、お怒りあって次郎丸様、切腹かお手討は知れた事。次郎丸様も俊徳様も、私がためには同じ継子、義理ある仲に変りはない。悪人なれど殺させては先立たしゃんした母御前(先妻)が草葉の蔭でもさぞやお嘆き、隔てた仲ゆゑ訴人して、殺させたかと思はれては、世間も立たず、通俊様もお子の事、何のお心よからうぞ』(「合邦」床本)
悪い子であっても次郎丸も私の子、俊徳丸も私の子なのです。玉手にとって二人の義理の子供に分け隔てはない。これは後妻に入った玉手にとっては先妻に対する義理の問題でもあります。これは「引窓」のお幸の場合も同じことで、お幸にとって、義理であろうがなかろうが、悪事を犯そうが、与兵衛は私の息子、長五郎も私の息子です。それは共にフラットな重さで、そこに分け隔てはないのです。そのような強い倫理感覚がお幸のなかに働いています。丸本でお幸が濡髪の人相書を売ってくれと与兵衛に頼む場面を見て見ます。
『「これはコレ御坊へ差し上げ、永代経を読んで貰ひ未来を助からうと思ふ大切な銀なれども、手放す心を推量して、なんとその絵姿私に売ってたもらぬか」、「母者人二十年以前に御実子を、大坂へ養子に遣はされたと聞いたが、なんとその御子息は今に堅固でござるかな」、「与兵衛村々へ渡すその絵姿。どうぞ買ひたい」「ハア鳥の粟を拾ふやうに溜め置かれたその銀。仏へ上げる布施物を費しても、この絵姿がお買ひなされたいか」、「未来は奈落へ沈むとも、今の思ひには替へられぬわいの」、「ヘッエ是非もなや」と大小投げ出し、「両腰差せば十次兵衛。丸腰なれば今までのとほりの与兵衛。相変はらずの八幡の町人、商人の代物、お望みならば上げませうかい」』(「引窓」床本)
与兵衛の目の前で身を小さくして泣いている老母は、口に出してはいないけれども、「こんなことをお前に頼むからと云って、お前(与兵衛)よりも長五郎が大事だというのではない。継子のお前よりも長五郎の方が可愛いということでは決してない」と心のなかで繰り返し訴えているのです。これに対して与兵衛は「是非もなや」と言います。「是非もなや」は「仕方ない」と云う意味によく使われますが、もうひとつ大事な意味があります。それは「議論するまでもなく、結論は明らかだ」と云うことです。ここで与兵衛は「母者人の頼み事ならば仕方がない、売れないものだが売らざるを得ませんなあ」とイヤイヤ言っているのではないのです。あれこれ議論するまでもなく、結論は明らかなのです。与兵衛は「母親であるあなたがそう頼むならば、何の異存がありましょう、私は喜んで売って差し上げますよ」と言っているのです。これが与兵衛の「ヘッエ是非もなや」の意味です。
一方、歌舞伎ではこの箇所がかなり改変されています。(演者によってテキストが若干異なります。)
『「・・母者人、あなた何故ものをお隠しなされまする、私はあなたの子でござりまするぞ、二十年以前ご実子を、大坂へ養子に遣はされたと聞きましたが、そのご子息は今に堅固にござりまするか」、「ササそれじゃによって、その絵姿、どうぞ売ってくだされいノウ」、「鳥の粟を拾ふやうにして溜め置かれしその銀。仏へ上げる布施物を費しても、この絵姿がお買ひなされたいか」、「未来は奈落へ沈むとも、今の思ひに替へられぬわいの」、「そりゃそれほどまでに・・」、〽大小投げ出し、「両腰差せば南方十次兵衛。丸腰なれば今までのとほりの南与兵衛。相変はらずの八幡の町人、商人の代物、お望みならば上げませうかい。」』(歌舞伎での「引窓」台本)
上記で分かる通り、歌舞伎では与兵衛に「私はあなたの子でござりまするぞ」と言わせて、俺(与兵衛)は継子・あちら(長五郎)は実の息子と云う差異を、観客に強く意識させます。しかし、この改変は一長一短があると思いますねえ。良い点は、継子と実の息子との対称関係を明確にし、或る意味ドラマを分かりやすく整理したことです。改変の意図は多分そこにあったのでしょう。他方、良くない点は、義理の親子関係よりも、自分の腹を痛めた子供への愛の方が母親の愛として真正でそれゆえ重いものであるかの如く見せかねないことです。「あなた何故ものをお隠しなされまする、私はあなたの子でござりまするぞ」を強い調子で言ってしまうと、「僕はあなたの子ではないのか、僕を愛してないのか」と与兵衛が継母を責めるように聞こえてしまいます。「それほどまでに・・」という台詞が、ああ母は継子の僕よりもやっぱり実の子の方が大事なのかという絶望の如く聞こえかねません。このように読んでしまうと「引窓」のドラマはまったく違う方向へ行ってしまうのです。
そう云うわけで吉之助は歌舞伎の改変を好ましいものと考えませんが、現行歌舞伎のテキストであっても、丸本原作のコンセプトを生かすことは出来るはずです。ただし、それには工夫が必要です。例えば「あなた何故ものをお隠しなされまする、私はあなたの子でござりまするぞ」を優しく慈愛を込めて老母に語りかけるように言うことです。もうひとつ、「鳥の粟を拾ふやうにして溜め置かれしその銀。仏へ上げる布施物を費しても、この絵姿がお買ひなされたいか」の台詞は、現行歌舞伎ではさも感じ入ったように・重く暗いゆっくりした口調で言われますが、ここはむしろサラサラと明るく言った方が良いのではないでしょうかね。ここでの与兵衛は、母親の真の愛に触れて感動してワクワクしているはずです。
さらに「両腰差せば南方十次兵衛。丸腰なれば今までのとほりの南与兵衛」の台詞は、現行歌舞伎では、前半を重く時代に・後半は軽く世話にやるのが通例です。そのやり方も決して悪くはないですが、ここは逆の方が良かろうと思います。「両腰差せば南方十次兵衛」を明るく言い、「丸腰なれば今までのとほりの南与兵衛」で声を落とした方が良い。その理由は、三代目大隅太夫が「人の出世は時知れず」と明るく云うたら、「見出しに預かり南与兵衛」と声を落として云うと語った芸談の意味が分かれば、スンナリ理解が出来るはずです。(別稿「「引窓」の様式」を参照ください。)
「両腰差せば十次兵衛。丸腰なれば今までのとほりの与兵衛」という豹変は、表面上は軽やかに見えますが、そのココロは、軽やかな感触に割り切ってしまわないと、与兵衛にはとても決断が出来ないほどに重いのです。自分が今しようとしていることが、現在の職分を裏切る行為だと云うことを、与兵衛はもちろん分かっています。分かっているからこそ、軽やかに割り切らないと自分を許せなくなるのです。だからこの「軽やかさ」自体が、与兵衛のなかに在る強烈なパラドックスです。
恐らく与兵衛は、たまたま自分は「運のよい方」に入っただけだと云うことがよく分かっているのです。幸いなことに大坂の「過去」が因果の火の車となって自分に巡って来ることはなかった。しかし、「運が悪ければ」自分も長五郎と同じ身の上であったかも知れないのです。そんな与兵衛が今出来ることは、長五郎を見逃してやることだけです。それは継母のためにもなることなのです。(この稿つづく)
(R2・5・29)
繰り返しますが、大事なことは、お幸にとって二人の息子の重さは同等だと言うことです。継子であるか・実子であるか、そんな要素で「引窓」のドラマが動くわけではありません。「引窓」のドラマを動かすのは、「運の良いのと悪いのと」というテーゼです。継子か・実子かという差異は、確かに対称性ですが、「運の良いのと悪いのと」という軸に全然当てはまりません。ところが昨今の「引窓」の劇評を見ると、この線で読むのが多いのだなあ。実子への盲目的な愛情に取り乱す母親お幸と・濡髪捕縛の功名を義理で泣く泣く諦める継子与兵衛と云う線でドラマを読むのです。そこに家族関係が崩壊の危機に瀕したファミリー・ドラマを見る、これが「引窓」の現代的な視点であると思い込んでいるのでしょう。これでは「引窓」の解釈があらぬ方向へ行ってしまいます。
「(濡髪長五郎を)召し捕って手柄の程をみせたらば、母人にもさぞお悦び」、「イエイエなんのそれがお嬉しからうぞ」、「なぜ」、「ハテ昔はともあれ、きのふけふまでは八幡の町の町人。生兵法大疵の基と、ひょっとお怪我でもなされた時は、お袋様の悲しみ。なんのお悦びでござんせう」、「ヤアいらざる女の差出。わりゃ手柄の先折るか」、「ムハテ折るも一つはお前のため」、「ヤアこいつが、なんで濡髪をかばいだて。たゞしはおのれが一門か。」(「引窓」床本)
「引窓」前半の与兵衛とお早の会話です。大坂で放埓していた与兵衛が堅気に戻って・晴れて郷代官となり、その最初の仕事が長五郎探索でした。功名を挙げて与兵衛が誰よりも喜んでもらいたい相手は、長年苦労を掛けた母親(お幸)です。ところが、それを横から女房に「なんのそれがお嬉しからうぞ」と云われれば、与兵衛は「ナニ!?」と苛立つのは当たり前です。与兵衛は「ヤアこいつが、なんで濡髪をかばいだて。たゞしはおのれが一門か」と言い返します。お早がどうしてそんなことを言い出したか、与兵衛には理由が全然分かりません。それは長五郎がお幸の実子であることをお早からは言い出せないからです。このため二人の間にギクシャクがしばらく続きます。手洗鉢に映った長五郎の姿を与兵衛が見付けたのを察知して、お早が突然引窓をガラガラと閉めてしまいます。ここが「引窓」の最初の山場になります。
二階より、覗く長五郎、手洗鉢、水に姿が映ると知らず目ばやき与兵衛が、水鏡きっと見付けて見上ぐるを敏きおはやが引窓ぴっしゃり、うちは真夜となりにける、「コリャなんとする女房」、「ハテ雨もぼろつく、もはや日の暮れ、燈をともして上げませう」、「ハテナ、面白い。日が暮れたればこの与兵衛が役。忍びをるお尋ね者。イデ召し捕らん」とすっくと立つ、「それまだ日が高い」と引窓ぐゎらり、明けて云はれぬ女房の、心遣ひぞせつなけれ(「引窓」床本)
この時点でもお早がどうして濡髪をかばうか、与兵衛はまだ理由が分りません。与兵衛がその理由に気付くのは、母親(お幸)が「その絵姿私に売ってたもらぬか」と頼みに来た時です。
『「これはコレ御坊へ差し上げ、永代経を読んで貰ひ未来を助からうと思ふ大切な銀なれども、手放す心を推量して、なんとその絵姿私に売ってたもらぬか」、「母者人二十年以前に御実子を、大坂へ養子に遣はされたと聞いたが、なんとその御子息は今に堅固でござるかな」、「与兵衛村々へ渡すその絵姿。どうぞ買ひたい」「ハア鳥の粟を拾ふやうに溜め置かれたその銀。仏へ上げる布施物を費しても、この絵姿がお買ひなされたいか」、「未来は奈落へ沈むとも、今の思ひには替へられぬわいの」、「ヘッエ是非もなや」と大小投げ出し、「両腰差せば十次兵衛。丸腰なれば今までのとほりの与兵衛。相変はらずの八幡の町人、商人の代物、お望みならば上げませうかい」』(「引窓」床本)
お幸が南家に後妻に入った時に実子を養子に出したことを、与兵衛はこの時ハッと思い出します。自分は継子で・あちらは実子と云う認識が、与兵衛のなかにここで初めて顔を出しました。それ以前では与兵衛はそんなことを露ほども思っていません。「お望みならば上げませうかい」という与兵衛の台詞に、「欲しけりゃ売ってやるよ、どうとも勝手にしやがれ」というような投げやりな響きは、まったく聞こえません。お幸が継子の自分より実子の長五郎の方を愛していることの絶望だなんて解釈が見当違いであることは、これだけでも明らかなのです。(別稿「音楽的な歌舞伎の見方」・10章で「引窓」を論じていますから、そちらをご参照いただきたい。)確かに与兵衛は継子で・長五郎は実子に違いありませんが、これはドラマのなかで対立するものではなく、与兵衛にとってこれは対等関係です。自分も長五郎も、どちらもお幸の息子だ・対等な兄弟だと云うことです。ここで改めて、「同じ人を殺しても、運のよいのと悪いのと・・」という対称性がドラマのなかに浮かび上がることになります。
前章で「普通の浄瑠璃・歌舞伎であれば因果が巡り巡って報いをもたらす展開になるものだ」と書きましたが、その公式通り、この場面で与兵衛の大坂の「過去」が重い意味を以て巡って来ることになりました。そんなことは床本に全然書いていないと仰るかも知れませんが、床本の詞章を感じてください。この場面での与兵衛は、長五郎と完全な対称形を呈することに気が付きます。「同じ人を殺しても、運の良いのと悪いのと・・」というテーゼが、暗黙のうちに、ここでリフレインされています。与兵衛の、この気付きによって「引窓」のドラマが大きく転換します。与兵衛は絵姿を売ることを了解します。と云うことは、この時点で与兵衛の脳裏に大坂の「過去」がチラとでも頭をかすめなかったはずはないということなのです。
ですから前章で「与兵衛の過去は「引窓」の伏線としてまったく機能していないように見える」と書きましたけれど、実はそうではなかったのです。与兵衛の大坂での「殺し徳」の過去を、実に巧妙に・忘れてしまうくらいにさりげなく、作者は伏線に仕込んでいました。与兵衛にとってそれは「双蝶々」通しを見ている観客にさえ思い出してもらいたくないことでした。それは包み隠されねばならないことだったのです。(この稿つづく)
(R2・6・2)
ここまで与兵衛を中心に論じて来ました。しかし、これだけでは「引窓」の検討は十分ではないでしょう。昔は「引窓」は与兵衛の芝居ではない・濡髪の芝居だと云われたものでした。殺人を犯した濡髪が、老母のことを考えて義理の兄弟になる与兵衛の職務を立てる為わざと捕縛されようとするが、与兵衛の情けによってこの場をひとまず落ち延びると云うのが「引窓」のドラマだとしたのです。そこで今度は濡髪長五郎について考えてみます。
前半・端場「欠け椀」において、長五郎が最初から捕縛されるのを覚悟していたことは、先に触れました。捕まる前にせめて母親に一目会いたいと思って、長五郎はここ八幡の家に来ているのです。ただし与兵衛が郷代官として長五郎探索の役目に係わることになるとは、この時点の長五郎は知る由もありません。そんな長五郎が与兵衛に捕縛されようと決心したのは、二階の障子を開けて階下を覗いて手水鉢のなかに自らの姿を与兵衛に見せた時に違いありません。階下での二人の武士との会話も、お早とのギクシャクしたやり取りも、長五郎はすべて聞き取っていたのです。この後、与兵衛とお幸との絵姿の件で、与兵衛はすべての事情を察し、「河内ヘ越ゆる抜道は、狐川を左に取り、右へ渡って山越えに、よもやそれへは行くまい」と逃げ道まで教えて、この場を立ち去ります。
ここで「引窓」のドラマは一旦決着が付いたかのようです。「同じ人を殺しても、運のよいのと悪いのと・・」と云うことで与兵衛が思い悩むドラマはここで終わるからです。この時点で長五郎は与兵衛に感謝しつつ直ちに落ち延びて、それで芝居が終わっても一応のカタルシスは得られます。ところが芝居はまだ終わりません。長五郎が飛び出してきて与兵衛に捕縛されようとします。これを押し止めて「おればかりか嫁の志。与兵衛の情まで無にしをるか」と怒る母親との間に押し引きが始まります。長五郎は一度は母親の説得に負けて落ち延びることを了承し、お幸が長五郎の前髪をそり落とします。ここでもまた「引窓」の芝居がこれで終わりそうな感じがしますねえ。ところが芝居はそれでもまだ終わりません。長五郎が与兵衛に捕まる意志を変えていないからです。長五郎は再び母親に次のように言います、
「一人ならず二人ならず四人まで殺した科人。助かる筋はござりませぬ。なまなかな者の手に掛からうより形見と思ひ母者人。泣かずとも縄をかけ、与兵衛殿へ手渡して、ようお礼を仰しゃれや。ヤコレさうなうてはこなた、未来の十次兵衛殿へ、立ちますまいがの」(「引窓」床本)
「未来の十次兵衛殿」と云うのは、あの世に先立った十次兵衛、つまりお幸の亡くなった連れ合いであり・与兵衛の父のことです。ここで義理の論理がひょこっと顔を出します。長五郎は義侠心の強い相撲取りですから、当然のことです。これは、前章で引用した玉手御前の台詞に「(次郎丸は)悪人なれど殺させては先立たしゃんした母御前(先妻)が草葉の蔭でもさぞやお嘆き、隔てた仲ゆゑ訴人して、殺させたかと思はれては、世間も立たず・・」とあるのと同じ論理です。これが当時の庶民の倫理感覚なのです。この義理の論理は、「それは運が悪かったということだ・ただそれだけのことなんだ・だから許してやっても良いじゃないか」と割り切ろうとする情の論理に対して、「有難いことだ、しかし、それで良いのだろうか」と冷静に疑問を申し立てるものです。
実は、長五郎と母親との間に、上記のような・一見引き伸ばしにさえ思える・行ったり来たりの、後半の場面があるからこそ、「引窓」は正しく倫理的なドラマになるのです。与兵衛に捕まるか・与兵衛の意を汲んで逃げるか、どちらの結論であったとしても、それは正しいものです。ここでの情の論理と義理の論理は真っ向対立しているわけではないからです。しかし、与兵衛に逃げ道を教えてもらった長五郎がこれを感謝しつつ直ちに落ち延びると云うのでは、その結論に陰影がまだ足りないのです。それだけでは何だか味気ない。「有難いことだ、しかし、それを素直に受けてしまって本当に良いのか」と云う逡巡・迷いがあることで、その結論に人間的な奥行きが出て来るのです。「引窓」のドラマを、当時の庶民の感覚に根差した・正しく倫理的なものにするのが、濡髪長五郎の役割です。だから「引窓」は濡髪の芝居であると云う主張は一理あるのです。長五郎が与兵衛と手を取り合う「引窓」の幕切れがこれで生きてきます。
そこで折口信夫がこんなことを書いているのが参考になると思います。
『恐らく一生のうちに幾度か、正当な神の裁きが願い出たくなる。こういう時に、ふっと原始的な感情が動くものではないか。多くの場合、法に照らして、それは悪事だと断ぜられる。しかし本人はもとより彼らの周囲に、その処断を肯わぬ蒙昧な人々がいる。こう言う法と道徳と「未開発」に対する懐疑は、文学においては大きな問題で、此が整然としていないことが、人生を暗くしている。日本でも、旧時代の「政談」類が、長く人気を保ったのは、この原始的な感情を無視せなかった所にあるとも言える。』(折口信夫:「人間悪の創造」・昭和27年)
罪は罪として憎むべきことですが、法の名においてすべてが十全に裁き切れるものではありません。「それで良いのか・・」と感じる未解決なものが必ず残ります。そこを埋めてくれるものは、結局、人情しかありません。つまり慈悲の心です。江戸の民衆に「大岡政談」が人気があったのは、まさにそこが理由でした。「引窓」のドラマも同じです。旧暦八月十四日の月はほとんど満月で、見れば開いた引窓から朝日が射したように明るい。明ければ岩清水八幡宮の放生会(ほうじょうえ)です。放生会とは、殺生を戒めるために行われる行事で、捕らえた生き物を池や野に放つものです。「引窓」のドラマは、まさにその前夜に当てられています。それは運が悪かったということだ、ただそれだけのことだと軽い調子で・しかし涙を込めて割り切ることで、観客は何だかほっと救われた気分になるのです。
今回(昭和43年9月国立劇場)の「引窓」の舞台は、二代目鴈治郎の与兵衛は愛嬌があって、如何にも酸いも甘いも嚙み分けた元遊び人の与兵衛です。「是非もなや」と大小投げ出して、「丸腰なれば今までのとほりの与兵衛、相変はらずの八幡の町人、商人の代物、お望みならば上げませうかい」で砕けるところは、鴈治郎ならではの上手さです。この軽みの背後に、実は与兵衛の「同じ人を殺しても、運のよいのと悪いのと・・」という苦い思いがあることに気付かせてくれたのは、今回の「双蝶々」が通し上演で浮無瀬と難波裏が出たことの成果でしたね。おかげで「引窓」での長五郎の役がずいぶん重くなって、三代目延若の長五郎も演りやすかったのではないでしょうか。
(R2・6・3)