「引窓」の様式〜二代目鴈治郎の南与兵衛
昭和43年9月国立劇場:通し上演「双蝶々曲輪日記」〜「浮無瀬・引窓」
二代目中村鴈治郎(南与兵衛後に南方十次兵衛)、三代目実川延若(濡髪長五郎)、二代目中村霞仙(母お幸)、二代目中村扇雀(四代目坂田藤十郎)(女房お早・藤屋都、山崎与五郎二役)、六代目沢村田之助(藤屋吾妻)他
*本稿は別稿「長五郎と与兵衛〜「引窓」の人物関係」と対になっています。
1)「引窓」の人間関係
時代物と云うのは主人公の心情の根拠が忠義であったり名誉であったり論理が割合明確であるので、人によっていろんな作品解釈があると云っても、まあそれほど大きな相違が生じることはないようです。しかし、世話物の場合は、当時の庶民の生活感覚に根差すので、現代の我々には当時の庶民の人情の機微が十分汲み取れないことが少なくありません、そこに思いが至らないと作品解釈がトンでもない方向へ向かってしまうことがままあります。こういうことの一端を別稿「音楽的な歌舞伎の見方」で書いて、そのなかで「引窓」にもちょっと触れましたが、本稿で改めて「引窓」の人情について考えてみたいと思います。
八段目「八幡の里引窓の段」冒頭、老母お幸と嫁お早のふたりが明日の石清水八幡宮の放生会の支度をしています。そこでお早が「オオ笑止」と廓言葉をうっかり使ってしまいます。お早の前身は遊女都で、大坂で与兵衛と知り合って・今彼女は女房お早となっているのです。これをお幸が聞き咎め、「コレその笑止は、やっぱり廓の詞。大坂の新町で都といふた時とは違ふ。今では南与兵衛が女房のお早。近所の人が来たと、煙草吸ひ付けて出しゃんなや」と言います。
これについて、随分昔のどなたかの劇評にお幸のことを「ズケズケ物を言う厭な婆さんだ」と書いたのがあって、こんな風に感じる人もいるのかねと驚いたことがあります。吉之助は関西出身ですが、あちら辺にはあけすけな物言いするオバちゃんが仰山おります。別に悪気ではなくて、親しみを込めてそう言つているのです。むしろここにお幸とお早の気安い関係を見るべきなのです。東京の方がこういう物言いにびっくりするのは分からぬでもないですが、ここで姑と嫁の冷えた関係を想像してしまったら、これだけでもう「引窓」が分からなくなります。こう云う誤解を無くすためには、お幸はニコニコ笑いながら上記の台詞を軽い調子で言い、お早は「マア私としたことが」と云う感じで軽く受けて、二人でキャッキャと笑い合うくらいにせねばならぬかも知れませんねえ。
ところで上記の会話にお幸とお早の気安い関係を見るとすれば、吉之助はこんなことも想像してみたくなるのです。「引窓」のなかでお幸が、濡髪長五郎はお幸の実子であり、長五郎が五歳の時に養子に遣って、お幸は与兵衛の父の後妻に入ったと云う事情を語っています。それではお幸は与兵衛の父と、どこでどういう経緯で知り合い、後妻に入ることになったのでしょうか。その事情については、丸本で「引窓」の前後を調べても全然出て来ないようです。だからこれは吉之助が想像するしかないですが、お幸に長五郎を連れ子にしては南家の後妻に入れない事情があったやに思われます。恐らくお早と同様に、お幸も堅気の出身ではなかったように思われるのです。
吉之助の想像の根拠らしきものはひとつあります。一段目「浮無瀬(うかむせ)の場」で、大坂の地で与兵衛が剽軽な笛売りの姿で登場して・遊女都と馴染んでいたからです。(「浮無瀬」は大坂新清水にある料亭の店名です。)当時、与兵衛は八幡の家を飛び出して大坂で遊び歩いていたのです。これは後の「引窓」での真面目な与兵衛とはイメージが相当かけ離れます。だから与兵衛の人物に一貫性を見出そうとすると難しくなります。もっともこの時代の浄瑠璃は合作制度ですから、全段を通した時に細部に辻褄の合わぬこともままあります。だからこういうことをあまり厳密に考える必要はないかも知れませんが、しかし、与兵衛がどうして家を飛び出して大坂で気楽な稼業をしていたかは、やはり気になります。ところが、その辺の事情がやはり丸本のどこを読んでも見えて来ないのですねえ。ここは想像力を働かせないといけません。
「引窓」でのお幸の言葉に「連れ合ひがお果てなされてから与兵衛が放埒」とあるので、与兵衛の父が亡くなった直後から与兵衛の遊び癖が始まったことは確かです。継母であるお幸と折り合いが悪くて与兵衛が家を飛び出したのかもと云うことも、もちろん想像は出来るでしょう。それらしきことを憶測で書いている劇評もありますが、全然根拠がない。「引窓」のドラマを見れば、与兵衛の放埓の原因がお幸であったとは、吉之助にはどうにも思えません。与兵衛は都を連れて実家に戻っているわけだし、継母に敬意を払い、常に愛情を以て接しているからです。とすれば与兵衛の放埓は彼の生来の性格から来るもので、つまりこれは父親から受け継いだ遊び癖から来る、父親が死んで与兵衛に急に遊び癖がフッと兆したと考えた方がずっと自然だと思うのです。芝居では既に死んでしまって登場しない与兵衛の父は郷代官(庄屋代官)である「南方十次兵衛」だから真面目一方のお堅い親父さんであったと思われ勝ちですが、実は根は意外と粋な遊び人で、遊び先でお幸と知り合い・これを後妻にした経緯があったのではないか。そのようにでも考えた方が、お幸とお早の気安い関係が理解出来るのではないでしょうか。まあこれは吉之助の想像に過ぎませんがね。(この稿続く)
(R2・4・8)
吉之助が見たいくつかの舞台を思い返しても、歌舞伎の「引窓」に見る与兵衛役者は、だいたい義理堅く誠実な人柄に思えました。もちろん人情味もあるのですが、誠実な印象が先に立つせいか、与兵衛の性根がどことなく時代の方・つまり士分である十次兵衛の方へいくらか傾いた感じがしたものです。そこで郷代官としての最初の仕事(濡髪捕縛)を継母への義理で諦めなければならない与兵衛の葛藤がクローズアップされることになります。「引窓」単独上演がもっぱらである現在、大体この線で歌舞伎の「引窓」の形が出来ています。
しかし、通し上演であると、与兵衛の性格は、なかなか一筋縄で行かないようです。一冊目「浮無瀬(うかむせ)の場」で、与兵衛は剽軽な笛売りの姿で登場するからです。ここから後段「引窓」で見る真面目で物堅い与兵衛へは、すんなり結び付かないところがあります。例えば「引窓」でお幸に「その(濡髪の)絵姿をどうぞ買いたい」と云われた時、与兵衛は「是非もなや」と大小投げ出して、「丸腰なれば今までのとほりの与兵衛、相変はらずの八幡の町人、商人の代物、お望みならば上げませうかい」と承知します。この場面を物堅い与兵衛の性根・つまり時代の方を意識して読むと、濡髪捕縛の功績(まさに郷代官としての最初の手柄)を諦めなければならぬと云う葛藤が強く出ますから、「是非もなや」の台詞の意味がとても重くなって来ます。
歌舞伎の「引窓」で見る与兵衛は、世話である町人・南与兵衛と、時代である武士・南方十次兵衛の、ふたつの性根を、引き縄で天窓を開閉して屋内が明るくなったり・暗くなったりする如く、世話と時代をカチャッと切り替えるところが見どころとされています。例えば上述の絵姿の件では、与兵衛は武士の性根で「是非もなや」を重く時代に言った後、大小を投げ出して町人の性根に替わり、「丸腰なれば今までのとほりの与兵衛」と軽く世話に云う、大体そんな感じでしょうか。まあこれはこれで完成された歌舞伎の型です。
しかし、与兵衛がかつて大坂の気軽な笛売り身分であった・一時は身を持ち崩した過去もあったとなれば、「商人の代物、お望みならば上げませうかい」と云う台詞の身軽さの方が、大事になって来ると思うのです。それは与兵衛が現在の職務を疎(おろそ)かにしているとか、責任感がないと云うことでは決してなくて、継子に対して申し訳なさで身を小さくして震えている老母に対して「そんなに深く思い詰めなくても良いんだよ」と優しく声を掛けたい与兵衛の気持ちがあるわけなのです。そこに酸いも甘いも嚙み分けた与兵衛の懐の深さを見ることが出来ると思います。このように性根の置き方が微妙に変わって来ます。
ところで「浄瑠璃素人講釈」のなかで、三代目大隅太夫が師匠・二代目豊沢団平からの教えとして、こんなことを語っています。
『そこで考えて見やはりませ。「人の出世は時知れず」と明るく云うたら、「見出しに預かり南与兵衛」と声を落として言います。「衣装大小申し受け」と「ハッ」て云うたら、「伴ふ武士は何物か」と平らに語るのでござります。「所目(ところめ)なれぬ血気の両人」と強く云うから、「家来もその身も立ち止まり」と静かに語るので、引窓になって、明るく暗くなって行きますので、三味線もその心で弾かねば、「引窓」は弾けておらぬのでございます。これから先は、語る人と弾く人の考えと力とで「引窓」が出来て行くのでございます。』(杉山其日庵:「浄瑠璃素人講釈」)
ちなみに大隅太夫が挙げている箇所は、与兵衛が家に帰って来る場面のマクラの部分で、ここで与兵衛は二人の武士を連れています。二人は濡髪が殺した被害者の兄と弟に当たります。彼らは探している濡髪が近くにいるらしいと云うことでいきりたっています。該当部分を床本で引用しておきます。
『人の出世は時知れず見出しに預かり南与兵衛。衣類大小申し請け伴ふ武士はなに者か所目馴れぬ血気の両人。家来もその身も立ち止り「これが貴公の御宿所とな。イザ御案内」「御先ヘ」と互ひに辞儀合ひ、南与兵衛。いそ/\としてうちへ入り「母者人女房。たゞ今帰った」』(「引窓」床本)
ここで大隅太夫は、引窓が開閉するが如く、詞章を明るく暗く交互に語り分ける極意を語っています。しかし、ここは時代と世話の語り分けでもあるわけで、事はそう単純ではありません。そのため詩句を注意深く読んでみる必要があります。例えば「人の出世は時知れず」を「明るく云う」という箇所が、吉之助には引っ掛かります。続く「見出しに預かり南与兵衛」は明らかに世話っぽい詩句ですから、明暗の対照を付けたい意図ならば、こちらを明るくするのが義太夫の普通の行き方だろうと思うからです。ところが、大隅太夫は「人の出世は時知れず」の方を「明るく云う」としています。そう考えると、「見出しに預かり南与兵衛」を「声を落として云う」という箇所も、引っ掛かって来ます。ここを世話に云うならば普通は調子が軽めに・色調としては明るめになるはずで、普通ならば「声を落とす」ことにはならぬと思うわけです。つまり吉之助が言いたいことは、普通ならば時代(厳かに・重く・暗く)、世話(砕けて・軽く・明るく)となるはずの公式が、大隅太夫のこの教えでは、どこかテレコな感じになっていると云うことです。時代の性根で明るく、世話の性根で声を落として語れということだからです。
「人の出世は時知れず」の詩句は、これは時代っぽい詩句だから重い感じで云えば良さそうなものですが、ここを「明るく云え」というのは、実はここは町人・与兵衛の気持ちで語るものだからです。出世栄達は与兵衛の望みであり、家族の望みでもありました。一度は家を飛び出して放埓を繰り返した与兵衛は、父親の職務(郷代官)を引き受けて、立派に家を再興したことになります。息子としてはまことに誇らしいことです。これが今現在、町人としての与兵衛が感じている気持ち(本音)です。だから時代っぽい詩句を町人与兵衛の性根で世話の感触を加味して明るく語るわけです。
一方、「見出しに預かり南与兵衛」は世話っぽい詩句ですが、逆にここでは新任の郷代官としての職務(時代)が意識されています。だから世話であっても、完全な世話になり切れません。だから世話であっても声を落として語れと云うのです。大隅太夫が「暗く語れ」と言っていないことにご注意ください。「暗く」ではなく、「声を落として」ですが、色調は暗めになってくるでしょう。
以上のことから分かることは、与兵衛は、町人の性根(世話)でいる時には郷代官としての職務(時代)を意識せざるを得ない。逆に、武士の性根(時代)でいる時には家族への情愛(世話)を意識せざるを得ない。そのような相反する本音と建前の二筋道に、与兵衛は引き裂かれていると云うことです。明るく暗くの繰り返しで「引窓」になるわけですが、単純な声色の明るく暗くのパターンの繰り返しではないのです。これが厳か・砕けたとか、重く・軽くとか、言葉の調子の変化に置き替わることもあるわけなのです。だから明るさ・暗さの具合も状況によって変わって来ます。そこは詩句に拠るのです。
続きの詩句を見ます。明るく暗くの繰り返しだとすれば、次の「衣装大小申し受け」は「明るく」になる順番です。ここも時代っぽい詩句ですが、与兵衛の誇らしい気持ちが出ているから、世話の性根が入って「明るく」なります。「ハッ」という三味線のきっかけで、語りの色が変わります。そうすると次の「伴ふ武士は何物か」は「暗く」の順番ですが、ここで大隅太夫が「平らに語る」というところも、引っ掛かりますねえ。ここでは与兵衛はふたりの武士からまだ要件を聞いていないわけですから、「一体俺はどんな仕事を仰せつかるのだろう」と云う気持ちがあるわけです。しかもこれが与兵衛の初仕事になるわけです。「伴ふ武士は何物か」では、このことを町人・与兵衛の性根(世話)で不安な気持ちで語るわけです。つまり世話のなかに時代が忍び寄っていることになります。これでは明るくなりようがありません。それで語りが必然的に「平らに」なって行くのです。
次の「所目(ところめ)なれぬ血気の両人」を強く語るというのは、身内を殺されていきり立っている二人の武士の気持ちを表しているからですが、ここを「世話に・明るめに」語るべきところだとすれば、それは町人・与兵衛から見た彼らの姿の異様さ(ミスマッチ)を反映していると考えるしかありません。与兵衛は彼らがいきり立つ理由をまだ知らないからです。ここは時代と世話のテレコであることを示す典型的な箇所だと思います。「家来もその身も立ち止り」を静かに語るというのは、ここでマクラが終わり、「引窓」はいよいよ本筋に入って行くのです。ここを「暗く」語る必要はもはやなく、語りは平静になって行きます。
このように考えると、「引窓」は単純に明るく暗くの使い分けということではなく、ずいぶん複雑で微妙な調子と色合いの変化が、そこに見えるのです。だから、話を先ほど挙げた絵姿の件に戻しますが、歌舞伎の与兵衛が武士の性根で「是非もなや」を時代に言った後、大小を投げ出して町人の性根に替わり、「両腰差せば十次兵衛。丸腰なれば今までのとほりの与兵衛。相変はらずの八幡の町人、商人の代物、お望みならば上げませうかい」を世話に云うという箇所も、決して単純なものではなく、更なる工夫が必要になると思うのです。
「是非もなや」を時代に重く呻くのではなく、与兵衛の継母への情愛(世話)がそこに反映していなくてはならないはずです。その底流に暖かいものが流れていなくではならないでしょう。「相変はらずの八幡の町人、商人の代物、お望みならば上げませうかい」は軽く世話に落とすのではなく、「声を落として」云わねばなりません。そこに自分の職務を裏切ることの畏れ(時代)が反映していなくてはならないからです。これでどうやら酸いも甘いも嚙み分けた与兵衛が表現出来そうです。(この稿続く)
(R2・5・5)
町人の性根(世話)でいる時には、郷代官としての職務(時代)を意識せざるを得ない。逆に、武士の性根(時代)でいる時には、家族への情愛(世話)を意識せざるを得ない。与兵衛は、そのような相反する本音と建前の二筋道に引き裂かれていると云うことなのです。与兵衛の性根の重点を世話と時代のどちらに置くかで、「引窓」の色合いが随分と変わって来ます。
さて本稿で取り上げるのは、昭和43年9月国立劇場での通し上演「双蝶々曲輪日記」の舞台映像で、与兵衛を勤めるのは二代目鴈治郎です。眼目はもちろん八冊目「引窓」ですが、前場に一冊目「浮無瀬(うかむせ)の場」が出て、与兵衛と女房お早の前身がよく分かるところがとても興味深いのです。与兵衛は一時は八幡の実家を飛び出して、大坂で放蕩生活をしていました。そこで馴染んだ遊女・都が現在の女房お早なのです。この事実は「引窓」でのお幸とお早の会話のなかにも確かに出て来ます。これが重要な伏線になっているのですが、いつもの「引窓」の見取り上演であると、観客の実感には程遠いと思います。しかし、「浮無瀬」で剽軽な笛売り姿の与兵衛を見ておくと、「引窓」の濡髪の絵姿の件で、与兵衛がお幸の前に大小を投げ出して、「丸腰なれば今までのとほりの与兵衛、相変はらずの八幡の町人、商人の代物、お望みならば上げませうかい」と町人の性根に戻って言う台詞に、実感がグンと出て来ます。鴈治郎は昭和43年10月「演劇界」での芸談で「私の与兵衛は色気があり過ぎるように云われますが、浮無瀬で都とのやりとりがあると、それほど無理がないことが分かるでしょう」と語っていますが、その通りです。
吉之助が言いたいのは、こう云うことです。「引窓」は世話の時代の使い分け、つまり町人・与兵衛と士分・十次兵衛の性根の変わり目をしっかり描くことが大事である。それは確かにその通りなのですが、与兵衛の性根を時代(武士)の方へ重点を置くと、お幸に「その(濡髪の)絵姿をどうぞ買いたい」と頼まれて与兵衛は「是非もなや」と大小投げ出す時、その決断は苦渋を伴った重いものにならざるを得ないと云うことです。しかし、与兵衛の性根を世話(町人)の方へ重点を置くならば、与兵衛の決断はもう少し軽やかな感触になるだろうと思うのです。
それは与兵衛が現在の職務をないがしろにしているとか・責任感が乏しいと云うわけでは決してないのですが、そう見られても仕方ないところが確かにあります。「それよりもっと大切なものが俺にはあるんだ・・エイままよ」と云う感じで決断がされているようにも思えます。しかし、郷代官としての重い役目だと云っても「身どもが役は夜のうちばかり」のことです。夜が明けてしまえば何が起ころうが自分の預かり知らぬところだ、その程度のことだ、こう決めてしまったら、与兵衛は割り切りが早い。そこが軽やかな決断と云うことになるわけですが、逆に云えば、軽やかな感触に割り切らないと、与兵衛はとても決断が出来ないということなのです。自分がしていることが、現在の職分を裏切る行為だと云うことを与兵衛はもちろん分かっています。分かるからこそ・軽やかに割り切らないと自分を許せなくなるのです。だからこの「軽やかさ」と云うものは、きっと或る種の抵抗なのですね。或いはこういうことが云えるかも知れません。「法の裁きのなかに人情が介入することがあってもいいじゃないか、それは許されないことなのか」という庶民の主張がそこにあるのです。もちろんこの主張は決して前面に出るものではありませんが。
『「女房どももう何時」、「されば夜中にもなりましょか」、「たわけ者めが。七つ半は最前聞いた。時刻が延びると役目が上がる。縄先知れぬ窓の引縄、三尺残して切るが古例。目分量にこれから」と、すらりと抜いて縛り縄、ずっかり切ればぐゎら/\/\。さし込む月に「南無三宝夜が明けた。身どもが役は夜のうちばかり。」』(「引窓」床本)
お早が「今は夜中」と言い掛かるのを制止し、与兵衛が「南無三宝夜が明けた」と言います。旧暦八月十四日の月はほとんど満月で、見れば開いた引窓から朝日が射したように明るい。明ければ岩清水八幡宮の放生会(ほうじょうえ)です。放生会とは、殺生を戒めるために行われる行事で、捕らえた生き物を池や野に放つものです。「南無三宝夜が明けた」と与兵衛が言うところは役者によって工夫があるところでしょうが、この台詞は軽く言わねばなりません。軽く世話に、しかし声を落として。自分に言い聞かすように。そう云うことにしておかないといけないことなのです。鴈治郎の与兵衛を見れば、このことが良く分かります。
今回(昭和43年9月国立劇場)の「引窓」で、鴈治郎の与兵衛を見ながら、そんなことなど考えました。鴈治郎の与兵衛は愛嬌があって、如何にも酸いも甘いも嚙み分けた元遊び人の与兵衛です。今回の「引窓」は概ね初代鴈治郎の型を踏襲したものだそうです。ただし初代の与兵衛は金包みを投げて長五郎の黒子(ほくろ)を消す件を不自然だという理由でやらなかったそうですが、今回の二代目はこの件を原作の通りにやっています。
家に戻った与兵衛がお幸とお早と会話した後門口に待つ二人の武士を迎えるために立ち上がる時、ふろしき包みだけを持って刀を忘れてしまう、そのことに気が付いた与兵衛が苦笑いしながら刀を取りに戻ります。これは東京の役者はやらない型ですが、町人としての与兵衛の性根を強調したものでしょう。鴈治郎がこれをやると、愛嬌たっぷりでこれがとても面白い。もしかしたら鴈治郎がミスしたとでも思ったのかな、ここで客席から好意的な笑いが起きています。前場の「浮無瀬の場」で観客は笛売り姿の与兵衛を見ていますから、性根の一貫性に納得が出来るのです。愛嬌がある与兵衛ですから、絵姿の件でのお幸とのやりとりも、軽みがあって良いですねえ。「是非もなや」と大小投げ出して、「丸腰なれば今までのとほりの与兵衛、相変はらずの八幡の町人、商人の代物、お望みならば上げませうかい」で砕けるところは、鴈治郎ならではの上手さです。継母に対する与兵衛の情愛がよく出て、これでこそ「引窓」になります。
一方で世話に砕けるばかりでなく、武士としての性根(時代)を見せる場面でも、鴈治郎はきりっとしたところを見せてくれます。町人・与兵衛の性根に重点を置いているから、世話と時代の切り替えも自然とダイナミクスが大きなものになります。「二階よりのぞく長五郎」の姿が手水鉢に映っているのに気付く場面で、身体の塵を払いながら縁側へ行って手水鉢をフト見るまでの段取りの自然さ、そこから長五郎の姿を確認して手水鉢の水面をキッと見込む決まりの息の良さ、ここは初代も良かったそうですが、二代目も素晴らしい。それにしても今回の「引窓」は演者を上方勢で固めていますから義太夫狂言世話物のコクがあって、ホントに安心して見られる良い舞台でありました。
(R2・5・8)