追悼・四代目坂田藤十郎
*四代目坂田藤十郎は、令和2年(2020)11月12日没。
1)伝統を信じる心
四代目坂田藤十郎が、昭和24年(1949)から昭和27年頃にかけて武智鉄二が主宰した歌舞伎再検討公演(いわゆる「武智歌舞伎」・これはマスコミが勝手につけた呼び名ですが)出身であることはよく知られています。藤十郎(当時は中村扇雀)と五代目富十郎(当時は坂東鶴之助)は、武智歌舞伎から出た二大スターでした。二人のかつきりとして折り目正しい芸風・明瞭な発声などを思い出せば、当時の武智歌舞伎の雰囲気がほんのりと想像出来るだろうと思います。
武智は、八代目三津五郎(当時は蓑助)や能の片山九郎右衛門らの協力を得て、扇雀をたっぷり時間を掛けて根気良く訓練しました。日経新聞の「私の履歴書」(2005年1月)のなかで藤十郎は九郎右衛門宅で来る日も来る日も畳の縁をすり足で歩く練習ばかりさせられたと思い出を書いていました。実際・藤十郎はよく武智歌舞伎の話をしますし、そこに自分の原点があるということを感じていたようです。こうして藤十郎は昭和28年8月新橋演舞場での宇野信夫版「曽根崎心中」の初演で大ブレークを果たすことになりました。
武智の述懐によれば、武智歌舞伎当初の扇雀(=四代目藤十郎)は下手でどうしようもなかったそうです。一方、大部屋・舞踊その他のジャンルから参加してきた人は、もともと芝居が好きで自発的に飛び込んで来た人たちですから器用で、教えたことはすぐ取ったそうです。ところがそういう器用な人たちは「この役はこうでなければならない」、「ここはこういう声を出さなければこの役にならない」という肝心なところで反応しない。逆に不器用だった扇雀は最初はどうなることかと心配していても、 口伝という言葉にピーンと反応して、苦労しながらでも遂にはものにしたといいます。
『こんな下手な役者(扇雀のこと)、どうなるかなと思いながら教えていると、急所、この役はこうでなければいけない、ここはこういう声を出さなければいけないというところは、遂に覚えるんですね。大部屋から来た人たちは、ここはこうでなければならないというところに反応しないんですね。これはやはり家庭教育というものは大変なものだと思いましたね。つまり(扇雀など名門の御曹司の家庭の)環境が歌舞伎になっているということですね。どうしても(歌舞伎の)外から来た人というのは、ここはこうでなければいけない、ここはこうやらねばいけないんだというノルム、規範という考え方が欠けるみたいですね。だから風(ふう)だとか音遣いなんて、覚えられっこないですよ。ともかくこれは永木振りでなきゃならないとか、ここは仲蔵振りでなきゃいけないとか、染太夫風でないといけないんだというと、どうしてそれでなきゃいけないのか、俺はもっと楽に効果のあがるやり方でやっとくということになってしまうんですね。』(武智鉄二・八代目坂東三津五郎との対談:芸十夜)
そんな口伝がホントに残っているのか?そもそもそれは守らねばならぬものか?その口伝は正しいのか?どういう根拠があるのか?なんてことが疑問として湧いてくるのは分からなくはないですが、そういうことは実はどうでも良いことなのです。過去(先人)を信じる気持ちこそが、大事なのです。それは信仰の如きものです。歌舞伎役者であれば、「これは口伝である」・「これは昔からの型だ」という言葉に、神の言葉を聞いたかの如く、無条件でピーンと反応してくれなければ困るのです。ひたすら信じて、苦しみながらでも・泣きながらでも付いて来れば、彼はいつか何かをつかむ。言い方を変えれば、実は「指導している俺(武智)を信じて黙って付いて来い」ということでもあるわけですがね。
令和2年11月12日に、俳優協会会長でもある藤十郎が亡くなりました。唯一無二の芸であったとか、これほどの役者は二度と出ないだろうとか、藤十郎の芸についての讃辞は数多く限りなく出ると思いますが、われわれが藤十郎から一番学ばねばならぬことは、上記のこと、過去(先人)を信じる気持ち・態度です。伝統芸能である歌舞伎にとっては、今それがとても大事なことになっていると思います。(この稿つづく)
(R2・11・19)
2)美しすぎる女形
吉之助が歌舞伎を見始めた昭和50年代は、藤十郎(当時は二代目扇雀)が女形から立役へ大きくシフトした時期に当たります。治兵衛(天網島)も十兵衛(沼津)も、初役はこの頃であったと思います。そのせいか吉之助には藤十郎と云うと立役のイメージの方が強いのです(人間国宝も歌舞伎立役での指定でした)が、マスコミ各紙の追悼記事などを見ても、世間的には藤十郎はやはり扇雀・つまり女形の印象が強いかも知れませんねえ。まあそれも当然のことだろうと思います。
このことは別稿「二代目扇雀の美しさ」あるいは「美しいものは見た目も美しくなければならぬのか」で詳しく触れたのでそちらをお読みいただきたいですが、藤十郎の女形はもちろん美しかったけれど、どちらかと云えば女優的な生(なま)な美しさであったと思っています。実は吉之助は、武智理論のストイックな女形のイメージと扇雀の生身の女のイメージとの間に齟齬がある感覚をずっと持って来ました。武智鉄二は、女形にまつわりついた虚飾の技術、グニャグニャした身振りなどを嫌いました。武智は古典的なスッキリしたイメージを女形に求めたのです。武智の理論からすると、女形が素材として美しいかどうかということは本来必要条件でないはずです。吉之助も武智の弟子ですから、これが吉之助の女形の根本イメージなのです。
ところが味付けを抑えたシンプルな料理では素材の良し悪しが料理の出来を左右するように、虚飾の要素を剥ぎ取ったシンプルな女形の技芸では、むしろ役者の素材としての「見た目の美しさ」が大事な要素となってクローズアップされてしまう。結局、「女形は見た目が良いに越したことはない」という結論になってしまう、藤十郎の女形を見ると、こう云うパラドックス的な思考が吉之助の頭のなかで駆け巡ってしまうわけです。こう云うこんがらかったことを考えさせる女形は、藤十郎しかいませんでしたねえ。他の女形ではそういうことをあんまり考えたことがない気がします。言い換えれば、それだけ藤十郎の技芸が武智仕込みでかつきり折り目正しかったから、藤十郎の素材としての生(なま)な美しさとの齟齬が吉之助には余計に目に付いたということだろうと思っています。
したがって吉之助から見て藤十郎の女形で点が入るのは、近松物で云えば、旧来の道徳観念のなかに収まってしまう小春やおさん(天網島)ではなくて、やはりお初(曽根崎心中)ということになるでしょう。つまり「男勝り」とも云うべき熱さを前面に押し出して、男をリードする役どころです。昭和28年「曽根崎心中」幕切れでお初が徳兵衛の手を引っ張って花道を駆けると云う、既成の歌舞伎の常識(こういう場合には立役が女形をリードするのがそれまでの通例でした)を壊したところに藤十郎の天才があり、それは戦後日本の女性の社会的意識の向上と密接に重なるものでした。藤十郎は歌舞伎にまったく新しい女形の在り方を提示したのです。時代物であれば、政岡(先代萩)・戸無瀬(九段目)・定高(吉野川)あたりであろうと思います。グロテスクな印象に陥ることを恐れもせず・太い男の声で核心の部分を押し通す女形の図太さです。藤十郎はそこに武智から学んだものをしっかり生かしたわけです。(この稿つづく)
(R2・11・24)
3)近松座のこと
吉之助にとって思い出深い舞台をひとつ挙げるなら、それは昭和57年(1982)5月国立小劇場での近松座旗上げ公演「心中天網島」の紙屋治兵衛ということになると思います。「近松座」とは、近松門左衛門の作品を年に1・2作ずつ上演していこうということで藤十郎(当時は扇雀)が立ち上げたプロジェクトでした。一俳優の演劇運動としては、大正期の二代目左団次の自由劇場以外に比較できるものはないでしょう。吉之助は仕事の関係で近松座の前半期にしか立ち会えませんでしたが、演劇運動としての近松座の成果については多少議論があるところかも知れませんけど、昭和62年(1987)8月国立大劇場での初代坂田藤十郎の代表作である「けいせい仏の原」復活上演などを通じ、恐らく扇雀の近松座の目的のひとつであったと思われる藤十郎襲名への地盤固め(扇雀と云えば近松・藤十郎だというイメージ戦略)をしっかり果たしたと思います。近松座がなければ藤十郎襲名は実現し得なかったと思います。願わくばこうした近松座の試みのなかから歌舞伎座本興行のレパートリーへ昇格・定着する演目があったならばと思いますが、そこは藤十郎の力の及ぶところではなかったかも知れませんが、昨今の歌舞伎の上演で近松物があまり出ない現状を見ると寂しいことではあります。
*近松座第1回公演:「心中天網島」と第6回公演「けいせい仏の原」のチラシ
旗上げ公演の「心中天網島」の舞台は、もちろん気合いが入った良い出来でした。この時の脚本は従来の改作本に拠るものではなく、改作で間延びしてしまった台詞を丸本を参照して原作の簡潔な形に戻してテンポ感のある芝居に仕上げたものでした。何しろ40年前のことゆえ吉之助も細かいことが思い出せませんが、よく覚えているのは、吉之助は花道すっぽん傍の席であったので、「魂抜けてとぼとぼ・・」で登場した治兵衛の足元を至近で観察出来たことです。花道での治兵衛の歩みは、型としては従来の「河庄」と違っていたわけではないですが、印象に残っているのは藤十郎が呼吸する息の深さです。深くゆっくり息を最後まで吐き切って・しばらく長い間を置いて(脱げた草履を足先で探してトンと)・そしてまたゆっくりと呼吸を開始する、演技の息の詰め方と呼吸の深さです。そこに治兵衛の深い憂鬱が表れていて、熱に浮かされてえらく具合が悪そうな感じがして、吉之助は思わず花道上の治兵衛の顔を見上げてしまったのですが、それがすなわち「芸」でしたねえ。あの時の藤十郎の呼吸の音は、今も鮮明に思い出されます。ご冥福をお祈りします。
(R2・11・25)
(追記)別稿「上方芸の伝承と藤十郎の芸について」もご参考にしてください。