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折口信夫への旅 第1部〜小説「身毒丸」をめぐって


1)あちらを見ても山ばかり

『今から二十年も前、特に青年らしい感傷に耽りがちであった当時、私の通っていた学校が靖国神社の近くにあった。それで招魂祭にはよく、時間の間を見ては行き行きしたものだ。今もあるように、その頃から馬場の北側には、猿芝居がかかっていた。ある時這入って見ると「葛の葉子別れ」というのをしている。猿廻しが大した節廻しもなく、そうした場面の抒情的な地の文を謡うに連れて、葛の葉狐に扮した猿が右顧左眄(うこさべん)の身ぶりをする。「あちらを見ても山ばかり。こちらを見ても山ばかり。」 何でもそういった文句だったと思う。猿曳き特有のあの陰惨な声が、若い感傷を誘うたことを未だに覚えている。平野の中に横たわっている丘陵の信太山。それを見馴れている私どもにとっては、山また山の地方に流伝すれば、こうした妥当性も生じるものだという事が初めて悟れた。』(折口信夫:「信太妻の話」・大正13年4〜7月)

以下は吉之助の想像です。芝居でも曲芸・音曲でも良いですが、村から村へと集落を廻って芸をしながら生活をする旅芸人(遊芸人)と呼ばれる人たちを想像したいのです。村の人から見ると旅芸人は何か新しい風を持たらしてくれる職業に見えたかも知れません。土地に定着し農耕を営む村の人々(農民)は滅多なことがなければ集落を離れて旅をすることもなかったでしょう。毎年同じ時期に田植えをし、同じ時期に収穫をし、サイクルは毎年同じようにやって来ます。天変地異や気候の変化がサイクルを多少乱すことはあったとしても、今日と同じような明日が来て・明後日もまた今日と同じであるという習性のなかで農民は暮らすのです。ですから農村の生活は共同体のなかでみんな歩調を合わせ・波風なく過ごすことを旨とするものになります。そのような変化がない単調な共同体の生活のなかにちょっとした刺激を吹き込んでくれる存在が旅芸人であったのです。旅芸人はどこからか遠い他所の土地からやって来て、何か違った新しい風を運んで来るのです。それは珍しい事物であったり、新奇な知識や考え方・あるいは風俗習慣だったりします。もちろんそれは決して良いこと・役立つことばかりとは限りません。共同体の風紀をかき乱すような良ろしくないものもあるのですが、とにかくそれは刺激ではあるのです。

それにしても「あちらを見ても山ばかり。こちらを見ても山ばかり。」という文句にはとても物悲しい響きがあります。ひとつ所にじっとしていることも許されず・自分は明日はどこへ流れて行かねばならぬのだろうか・このような旅がいつまで続くのだろうかという旅芸人の嘆きが聴こえる気がします。旅芸人に安住の地はありません。自分が生まれた土地さえもう忘れてしまったかも知れません。また旅芸人は見物にワクワク感を与えるために常に自分のテンションを高めておかねばなりません。これもなかなか疲れることです。見物に飽きられてしまえば日銭は稼げないからです。そろそろ飽きられてきたかなと思ったら、それが次の場所に移動する潮時です。ですから毎日が厳しい修行練習です。「あちらを見ても山ばかり。こちらを見ても山ばかり。」という文句には定住に対する強い憧れが聞こえます。旅を止めてどこかに定着すればこの苦しい生活を終えることができるという気持ちがどこかにあります。しかし、安住の地を見出すことは自分たちに決して許されないことだということも旅芸人は良く知っているのです。

このような旅芸人がどのように生まれたか・その起源を見定めることは容易ではありません。どんな共同体でもすべてのものが自給自足できるわけではありません。ですから生活に必要な物資を得るために共同体相互に交流が自然と生まれ、そのなかで交易に従事する人々がありました。そのような必要性から商人が生まれてきます。商人も旅芸人と同じように共同体に新しい香りを運ぶ役割を果たしました。しかし、旅芸人の役割は商人とはまたちょっと違う要素を持っていました。それはある種の精神的な要素です。原初段階の芸能が神事とまで行かなくても宗教性を帯びたものであったことは明らかです。そのような旅芸人の原初期の形態として折口信夫はホカイビトのことを挙げています。ホカイビトというのは「万葉集」巻16に出てくるもので、村から村を巡りながら祝福をして歌い物乞いする芸能者のことを言いました。つまり門付け芸人のようなものです。呪術や祝福を行なったり するのですから、彼らはとても原初的な形態であるとしても何かの宗教的役割を持っていたのです。しかし、物を乞い・門付けたりすることからすれば彼らはまるで浮浪者そのものでした。満足な施しを受けられない時には恫喝をしたかも知れませんし、もっと悪いことをしたかも知れません。だからごろつきのような存在でもあったのです。ホカイビトは村人に有り難がれると同時に煙たがれ・恐れられる存在でもありました。そうした人々が時折村を訪れて村の雰囲気を掻き乱す・あるいは刺激するのです。

神事としての芸能には為政者と結びついたものと・そうならなかったものが考えられます。とりあえず後者のことを考えますが、そのなかに何かの理由によって共同体から排除された集団があったかも知れません。彼らが共同体から排除された理由は色々あり得ます。要するに共同体に留まっていられない何かの理由があったわけです。仕方がないので、彼らは生きるために共同体を渡り歩きながら神事めいたことを行なったかも知れません。旅芸人の起源はそのような集団であったかも知れません。(この稿つづく)

(H22・4・19)


2)語り部のひとり

『この話は、高安長者伝説から、宗教倫理の方便的な分子をとり去って、最原始的な物語にかえして書いたものなのです。(中略)わたしどもには、歴史と伝説との間に、そう鮮やかなくぎりをつけて考えることは出来ません。殊に現今の史家の史論の可能性と表現法とを疑うて居ます。史論の効果は、当然具体的に現れて来なければならぬもので、小説か或いは更に進んで劇の形を採らねばならぬと考えます。わたしは、其れで、伝説の研究の表現形式として、小説の形を使うてみたのです。この話を読んで頂く方に願いたいのは、わたしに、ある伝説の原始様式の語り手という立脚地を認めて頂くことです。伝説童話の進展の経路は、割合に、はっきりと、わたしどもには見ることが出来ます。拡充附加も、当然伴わるべきものだけは這入って来ても、決して生々しい作為を試みることはありません。わたしどもは、伝説を素直に延して行く話し方を心得ています。』(折口信夫:「身毒丸」・大正6年)

折口信夫の小説「身毒丸」(しんとくまる)の附言です。ここで折口は「わたしども」という言葉を使っています。「わたしども」というのは誰のことを指しているのでしょうか。民俗研究者ということではどうもなさそうです。折口が「わたしども」と言っているのは、民衆のなかにあって語り伝える者たちということです。折口は自分はそのような語り手のひとりであると語っているのです。ですから折口が小説という形態より語り部あるいは芸人のようなパフォーマーの要素の方を重視したことも当然であったと思います。

折口関連書では小説「身毒丸」(「死者の書」などもそうですが)は折口信夫の民俗学の考え方を小説の形を取って表現したものであるとしているものが多いようです。吉之助はそれはちょっと違うのじゃないかと思いますねえ。折口学の理論道筋を折口の小説の上に読み取ろうとすることは、折口が附言で語っていることと方法論がまったく逆であると思います。小説が投げかけるイメージに思想や倫理などという筋や輪郭を付けていけばその果てに折口の思想が漠然と見えてくるということは確かにあるでしょう。謡曲「弱法師」や説経「しんとく丸」へのはるかな道のりを小説に追うこともそれなりに意味があることには違いありません。しかし、そのような読み方を折口はまったく意図していないと思います。「身毒丸」には高安長者の名は出て来ませんし、四天王寺も登場しません。語り手である折口にとって、ある伝説の始原のイメージを読者に与えることが重要なのです。それは漠然としたもので、表面的には現存の形とは似ても似つかないものであったりもするのです。その漠然としたイメージのなかに次第に骨格が現れていくように、やがて筋が整理され・いろんな材料が取り込まれていって、ストーリーが言わば思想化・倫理化していくのです。民俗説話というものは大体そのような道程を辿っていくものなのです。このような道程を経て謡曲「弱法師」や説経「しんとく丸」のような作品が成立するわけで・現在の我々はそれらをひっくくって高安長者伝説の系譜というものをイメージするのですが、折口がこの「身毒丸」で行なおうとしていることは謡曲「弱法師」や説経「しんとく丸」から系譜を逆に辿っていくことではないのです。

それはとてもピュアな形で、折口の頭のなかにぽっと生じたものなのです。作家は物語というものを頭で創るものではありません。思想・理論は物語の材料にはなっても、それだけで物語が出来るわけではないのです。物語を紡ぎ出すきっかけとなるとてもピュアなものが必要です。それがぽっと生じれば、それを契機に筋がスルスルとひとりでに伸びていくことがあるものです。折口の小説「身毒丸」(「死者の書」も同様ですが)は、そのような折口のなかにぽっと生じたものをそのまま原型質的な形で提示しようとしたものなのです。それでは折口がイメージした高安長者伝説のなかのとてもピュアなものというのはいったい何でしょうか。それは「あちらを見ても山ばかり。こちらを見ても山ばかり。」という文句に聞こえる物悲しい響きと同じものであろうと吉之助は思いますねえ。(この稿つづく)

(H22・4・25)


3)旅芸人の起源

神事としての芸能には為政者と結びついたものと・そうならなかったものがあり、そのなかに何かの理由によって共同体から排除されたものがあったかも知れません。彼らが共同体から排除された理由は色々考えられますが、それが何であるかは今は問題ではありません。それが自らの意志であるのか・あるいは自ら望むところではなかったが共同体から排除されたか・それはどちらでも良いのです。とにかく彼らは共同体から離脱することになったのです。そして生きるために流浪し、共同体を渡り歩きながら神事めいたことを行なったのでしょう。旅芸人の起源をそのような集団であったと想像したいと思います。

当てもなくさまよう旅芸人の気持ちはどのようなものであったでしょうか。彼らには目的の土地はありません。生まれた土地はもう忘れてしまったけれど、覚えていたとしてもそこは故郷ではありません。旅の途中で行き倒れになる場所が目的の土地なのでしょうか。もちろんそこも故郷ではありません。彼らの旅は、そこで芸をして・飽きられてきたら次の土地に移動するということの繰り返しです。彼らの旅に終わりというものはありません。「あちらを見ても山ばかり。こちらを見ても山ばかり。」という浄瑠璃の文句には、行けども行けども目的の土地はまだ見えない・この旅はどこまで果てしなく続くのかという悲嘆があるのです。逆に言えば、もうそろそろこの辛い旅が終わって ゆっくりしたい・いつかその時が来て欲しいという気持ちが彼らの気持ちのどこかにあるのです。その気持ちがあるからこそ彼らは次の土地までの歩みを進めることができるのです。

ですから旅芸人の気持ちのなかには、共同体の柵(しがらみ)に縛られない自由さがあると同時に、いつもどこかに定着・定住への願望が付きまとっているのです。もちろん彼らはそれが許されない願望であることを知っています。しかし、何故許されないのでしょうか。それは彼らが共同体から離脱してきた人間の集まりであるからです。どうして彼らは共同体から離脱したのでしょうか。その理由は彼らにも分かりません。旅の一座のなかには新たに入って来た仲間もあって、彼らには共同体から飛び出した・あるいは放り出されたそれなりの理由がある場合があったかも知れません。しかし、旅芸人の起源となると、それははるか昔の彼らの先祖の時のことで、そこにどういう理由があったかということは誰も知らないのです。もしかしたら彼らの先祖は何か悪いことをしでかした為に共同体から排除されたのかも知れません。あるいはまったく謂れのない罪を着せられて共同体から排除されたのかも知れません。その理由は分からないが、少なくとも今の彼にその理由 がないことは確かです。それは今の彼には関係のないことなのです。しかし、彼は旅芸人として生まれ、旅芸人として生き、多分自分は旅芸人として死んで行くしかないのだろうということも明らかです。「あちらを見ても山ばかり。こちらを見ても山ばかり。」という浄瑠璃の文句には、そのような宿命を受け入れざるを得ない旅芸人の悲嘆があるのです。ある集落を訪れて芸を見せる時に集まった観客たち・それは当然定住民であるわけですが、彼らを見ながら旅芸人の気持ちのなかに定着・定住への願望がチラリとよぎることがあったかも知れません。

折口信夫の小説「身毒丸」(大正6年)をこのようなことを考えながら読みたいと思うわけです。田楽の旅芸人である身毒丸は、ふつうは11歳くらいになれば頭の毛を剃るところを、17歳になっても剃らずにいました。彼の細面には女のような柔らかな眉が引かれて・それが美しく、師匠である源内法師は今年は身毒丸の髪を剃ろう、今年はと思いながらつい一年延ばしにしてしまって、ついに17歳になっていたのです。一行が伊勢の宿で田楽踊りがあり、そこで身毒丸は傘踊りという芸を披露します。高下駄を履いて足を上げ、長柄の傘をくぐらせます。身毒丸が足をあげるたびに、彼の白い太ももが光の反射で浮き上がります。その姿に魅せられた関の長者の娘が、婢女を供に一行を追ってきました。師匠は声を上げてふたりを追い返します。その夜、師匠は身毒丸を厳しく折檻して、ついに髪を剃ってしまいます。

身毒丸の美しさは観客の若い娘たちだけでなく、師匠である源内法師さえ身震いさせるほどの妖艶な美しさであると描写されています。応安7年(1374)または8年とも言われますが、今熊野で催されたた猿楽(申楽)能に世阿弥が出演した時・彼は12歳でありましたが、将軍足利義満の目にとまった若き世阿弥の美しさもそのような美しさであったかも知れません。しかし、そのこともとりあえず身毒丸とは関係がありません。身毒丸は将軍に見初められるわけでもなく、ただ地方の集落を巡り歩いて芸を見せる寂しい田楽踊りの一座のスターであるに過ぎないのです。 (この稿つづく)

(H22・5・5)


4)それは事実なのだ

身毒丸の父・住吉法師は田楽を行なう旅芸人の長でしたが、身毒丸が9歳の時に突然行方不明になってしまいます。身毒丸の記憶ではこの時の父は50歳を越えていましたが、身体に気味の悪いむくみが出ていました。それを見た身毒丸に父は「お前にはまだ分かるまいがね・・」と言って次のような話をしました。父とお前の身には先祖から持ち伝えた病気がある。そのため自分は得度して浄い生活をしようと思ったのだが、ある女のために墜ちて田楽法師の仲間に投じてしまったと言うのです。身毒丸は、だから父はお前も法師になって浄い生活を送れというのか、身体を浄く保つことで血縁の間に執念深く根を張ったこの病いを一代限りで絶やせというのか、その時の父の言葉を思い出しては考えます。

父・住吉法師の病気がどんなものであったかは分かりません。いろんなことが考えられますが、それは別にどうでも良いことです。大事なことはそれが何か忌避されるべきものだったらしいということ、ただそれだけです。身毒丸の父は自らの意志で共同体から逃れたのか・それとも否応なしに放逐されたのかは分かりませんが、とにかく何かの理由で父は共同体に留まることができなかったのです。そして父は再び田楽の仲間からも離れてどこかに消えてしまいますが、これも恐らく同じ理由に拠るのでしょう。そして同じ理由が子である身毒丸にも伝わっていると父は言うのです。「お前にはまだ分かるまいがね・・」

小説には身毒丸に血縁を通じて引き継がれたものが何であったかという具体的なことは最後まで出てきません。身毒丸はその理由が何も分からないのですが、しかし、確かなことはその理由が父から子である身毒丸に伝わっているということです。ということは身毒丸も共同体に入ることが許されないということです。身毒丸が放浪の旅に終止符を打って・どこかに落ち着くことはできないのです。このことは最初から決まっているのです。なぜならばその理由が父から子に伝わっているからです。

これはとても理不尽なことです。「これこれの理由で父は共同体から離れた」という納得できる理由があったとしても・それを子供が引き継ぐ言われはないはずですが、その理由さえ明確ではないのです。しかし、それは何となく忌避されるべきものとして周囲にも本人にも感知されるものであって、それは父から子へ確実に伝わるものとされるのです。「お前にはまだ分かるまいが、それは事実なのだ」ということです。逆に言うならば、それが父が父であり・子が子であることの証だということでもあります。その事実がないのならば、父は父でなくなり・子は子ではなくなるということです。良かれ悪しかれ父から子へ何かが引き継がれる・それは拒否することはできないのです。吉之助は「お前にはまだ分かるまいが、それは事実なのだ」ということを身毒丸のアイデンティティーに係わる問題として捉えたいと思います。(この稿つづく)

(H22・5・18)


5)この清い私を見てくれ

『旧日本の国々では、行人の行き仆れを伝える話や、またその跡がたくさんあります。到るところの山村を歩くと、峠ごとにこんな旅死にの死骸を埋めた跡があります。そして、そこを通る村人のせめてはの心尽くしから、道端の花や柴を折かけて通ります。こんなところを通ると、我々でも自然に柴を折ってやらねば済まない気がするのです。この夏は土佐と伊予の国境を歩きました。そして、たくさんの顔を崩れかかった・あるいはまだ血色のいい若者が、ほんとうにほっつりほっつりと一人ずつ来るのに行き会いました。こんなのは死ぬまで家に帰らないので、行き倒れるまでの旅行を続けているのです。私はこの旅行中に気持ちが恥ずかしいほど感傷的になっておりましたのです。芥川(龍之介)さんが、あんなに死にたいならば、あんなに死に栄えのする道を選ばなかったらよかったと思います。世の中には死にたくっても、それをもって死んだ、と思われることの耐え難さに生きているものがたくさんあるのです。私らも死にたさが切に起こったら、こうした行人巡礼のような病気持ちではありませんけれども、死に栄えのない・そしていつまでも敬虔な心の村人が、ただそれだけによって好意を見せてくれる、柴折塚の主になりそうに思います。これは芥川さんほど血気が盛んでないせいでしょうか。』(折口信夫:北原白秋との対談「古代の旅びと」・昭和2年12月、*芥川龍之介の自殺は昭和2年7月24日のこと。)

旅というものには共同体の窮屈な柵(しがらみ)から解き放たれて自由な気分を味わうような旅ももちろんありますが、折口がここで言うのは当てもなく死に場所を求めて彷徨うような旅のことです。そんな辛い旅ならばいっそ死んじゃった方がどんなに楽なことか・・と傍からは思えますが、しかし、彼は自ら死を選んだりしません。彼は行き倒れるまで旅を続けるのです。折口が言う通り、世の中には死にたくても「あいつはそれだから死んだ」と思われることの耐え難さに生きている人たちがたくさんいると言うことです。彼らをそのように生に繋ぎ留めるものは何でしょうか。まず意地のようなものが考えられます。意地というのはもう少し後の時代の観念かも知れませんが、適当なものがないので一応意地ということにします。要するに「自分にはこのような仕打ちを受ける謂われはない」という強い思いです。その場合・何に対して彼は意地を張るのかということが問題になります。世間に対して意地を張る場合もあると思いますが、あるいは神に対してという場合があるかも知れません。

ここで神に対して意地を張るということは、神に反抗するという意味ではないのです。そのように考えるのは近代人の捉え方でして、古代人の場合には絶対者である神に対して反抗するという発想は考えられません。自分に対する神の仕打ちが不当であると感じた時に、古代人は自らの清らかさを神に示すように控え入るのです。「神よ、この清い私を見てくれ」というようにです。つまり表面上は畏れ入っているのですが、内心には自分に対する神の仕打ちは不当であるという強い思いがあるように思えます。「みさを(操)」という語は古くは神様に「見てくれ」と言うという意味に使われました。昔の貞操観念は神様に対するもので・人間に対するものではありませんでした。神に対して自分が清い(あるいは正しい)ということを示そうという気持ちを失ってしまえばそれは不信仰ということになります。だから理不尽な神の仕打ちに耐えて・彼がそれでもひたすらに生き続けることは「神よ、この清い私を見てくれ」ということになるのです。それは神に対して意地を張るということでもあります。これは吉之助の私的理解でして、折口がそのように明確に述べているわけではありませんけれど、折口が間違いなくそう考えていたことは次の文章でも分かります。

『自分の行為が、ともかくも神の認めないこと、むしろ神の怒りに当たることと言う怖れが、古代人の心を美しくした。罪を脱却しようとする謹慎が、明く清くある状態に還ることだったのである。(中略)ともかく善行、宗教的努力をもつて、原罪を埋め合わせて行かねばならぬと考えている所に、純粋の道徳的な心が生まれているものと見なければならない。それには既に、自分の犯した不道徳に対して、という相対的な考えはなくなって、絶対的な良いことをするという心が生まれていると考えてよいのである。』(折口信夫・「道徳の研究」・昭和二十九年)

このように当てもなく死に場所を求めて彷徨う旅は常に神との対話でありました。話を旅芸人の起源のことに戻しますが、彼らが共同体からどういう理由で離脱したか・その真相ははるか昔の彼らの先祖の時のことで、もう誰にも分からないのです。それは父から子との血のつながりのなかで、「お前にはまだ分かるまいが、それは事実なのだ」という形で受け継がれてきたものでした。しかし、それは厳然として彼の前に立ちふさがる 原罪でありました。共同体から拒否された彼が取れる行為はふたつあります。ひとつは「グレる」ことで・これは不信心に走ることです。もうひとつはあくまで神に対する信心を貫く態度であり、これが「神よ、この清い私を見てくれ、正しい私を見てくれ」ということなのです。旅芸人たちは自分に課せられた理不尽な状況に対して「あいつらはそれだから死んだ」と思われることの耐え難さだけで果てしない放浪の旅を続けるのです。折口の小説「身毒丸」が描く旅芸人をそのような認識に於いて考えてみたいと思うわけです。(この稿つづく)

(H22・5・23)


6)芸道の師弟関係

七月に入り一座は泉州のある村の盆踊りに迎えられますが、源内法師は身毒丸の踊りに若い女たちの面貌がチラついていることを認めて、その晩、師匠は身毒丸 を自分の部屋に引きずっていって「龍女成仏品」に一巻を渡し「芸道のため、御仏のため、心を断つ斧だと思って、血書するのだ」と厳しく命じます。しかし、出来上がったものを持っていく度に師匠はこれを引き裂きます。「人を恨むじゃないぞ。危ない傘飛びの場合を考えてみろ。もし女の姿がちょっとでもそちの目に浮かんだが最後、真っさかさまだ」と師匠は言います。身毒丸は血を流しながら一心不乱に写経を続けますが、身毒丸の脳裏には彼の踊りに熱狂する若い女たちの面貌がなかなか離れません。一心不乱に写経を続ける身毒丸の姿を見ているうちに師匠の頬にも涙が流れてきて、五度目の写経を見た時には師匠にも怒る気力は失なわれていました。

『最近ではそういうことはだんだんなくなって行きましたが、日本の師弟関係はしきたりがやかましく、厳しい躾(しつけ)をしたものでした。まるで敵同士であるかのような気持ちで、また弟子や後輩の進歩を妬みでもしているかのようにさえ思われるほど厳しく躾していました。例えば最も古い感情を残している文楽座の人形遣いなど、少しの手落ちを咎めて、弟子を蹴飛ばしたり、三味線弾きは撥で殴りつけたりした。そういうことは以前はよくあった。そうした躾を経ないでは一人前になれないと考えられてきたのです。なぜ、そうした、今日の人には無理だなと思われるような教育法が行なわれてきたかということが問題になります。(中略)それはある年齢に達した時に通らねばならない関門なのです。割礼を施すということがかなり広く行なわれていたユダヤ教信仰が、古代にも、それが俤を見せていますでしょう。あれなども受ける者たちにとっては、苦しい試練なわけです。(中略)子供または弟子の能力を出来るだけ発揮させるための道ゆきなのです。それに耐えられなければ死んでしまえという位の厳しさでした。』(折口信夫:座談会「日本文化の流れ」・昭和24年12月)

ここで折口が言うことは人類学者のアーノルド・ファン・ゲネップが提唱した「通過儀礼」の概念においても理解できると思います。ゲネップは、人生の節目に訪れる危機を安全に通過するための儀式があり、これを無事に通過すれば、その人物にふさわしい新しい身分や社会的役割が与えられると考えました。ゲネップは通過儀礼を、分離・移行・合体という3つの段階に分けて考えます。まず、これまで所属していた身分や社会から離れて・そのしがらみを断ち切る儀礼(分離)、次に来るべき社会に帰属するための準備をしての試練・あるいは自分にふさわしい場所を探し出すための儀礼(移行)、そして、新しい身分や社会に入るための儀礼(合体)という段階を経ます。通過儀礼においては特にその「移行・試練」の意味が大きいのです。

この通過儀礼を芸道の師弟関係において考えれば、試練を与える者(師匠)と・その厳しい試練に耐えようとする者(弟子)との関係があり、試練を通じて両者は合体するということです。ここには絶対的な立場にある師匠がおり、弟子は師匠に対して「この私を見てくれ」という態度で無条件に控え入ります。その関係において芸は研ぎ澄まされて倫理化するのです。つまりそれは芸道となるわけです。

前項において父から子との血のつながりのなかで、「お前にはまだ分かるまいが、それは事実なのだ」という形で受け継がれた身毒丸の原罪ということを考えました。それは厳然として身毒丸の前に立ちふさがる試練でした。つまり共同体を放逐されて流浪することは、父・住吉法師から身毒丸に受け継がれた試練であったのです。そのような試練を通じて、つまり「あちらを見ても山ばかり。こちらを見ても山ばかり」というような哀しい思いをすることによって「それは事実なのだ」という父の言葉は身毒丸のなかになおさら強く意識されます。それによって父と子の繫がりはさらに強化されることになるのです。源内法師と身毒丸の師弟関係にも同じことが言えます。芸の師弟関係は血の繫がりはなくとも・擬似的な父子の関係なのであり、「それに耐えられなければ死んでしまえ」というほどの源内法師の厳しい折檻は芸脈を 父と子の関係に擬そうとする通過儀礼の試練なのです。(この稿つづく)

(H22・5・30)


7)「やつし」の本質

通過儀礼と言えば貴種流離譚のことを思い浮かべます。貴種流離譚というのは高貴な生まれの人物が何かの事情で本来在るべき土地を離れ、各地を流れさまよい・散々の苦労をした果てについに元の土地に戻って昔のあるべき姿に戻ってめでたしめでたし・・というような物語のことを言います。高貴な人物が各地を流浪するのは通過儀礼の物語と見ることができます。言うまでもなく貴種流離譚は折口学の重要な概念のひとつです。しかし、吉之助が感じるには、折口が付けた「貴種」の二文字に惑わされて・その概念の正しい理解がされていないように思います。大正7年発表の「愛護若」のなかで折口は「貴人流離譚」という言葉を始めて使い・後にこれを「貴種流離譚」としました。折口自身は昭和23年頃の談話(「初期民俗学研究の回顧」)のなかで、大正半ばのほぼ同じ時期に柳田(国男)先生が「流され王」という呼び名を先につけてしまわれたので、自分の方はあんな四角ばった名になってしまったというようなことを語っています。

一般的には貴種流離譚は「身分の高い人が落ちぶれて哀れな姿になって・・」というところに重きを置いて理解されています。しかし、吉之助は折口の概念の本質的なところに「貴種=身分の高い・高貴な人物」という要素はないと考えているのです。小説「身毒丸」では主人公・身毒丸が貴人の末裔であるとは書いてありません。身毒丸は身分が低い・名もない遊芸人の息子に過ぎないのです。小説「身毒丸」から高安長者伝説(謡曲「弱法師」など)へ結ぶ線を思い浮かべた時に、折口はそこに貴種(=高貴な人物)という要素を見たのでしょうか。貴種ということをそれほど重視するならば、折口は身毒丸をどこかの貴人の末裔に設定したに違いありません。折口がそうしていないということは、折口の貴種流離譚の概念の本質的なところに「身分の高い・高貴な人物」という要素はないということだと吉之助は思います。「貴種」という二字で折口は別のことを暗示しようとしていると吉之助は考えています。しかし、そのことを述べるにはちょっと長い説明が必要になるので・後のことにします。

別稿「和事芸の起源」のなかで、折口の「誣(し)い物語」と「廓文章」に関する談話を材料にして、和事の「やつし」芸ということを考えました。やつし芸は貴種流離譚の「移行・試練」の段階において艱難辛苦する主人公の姿を重ねるものだと言われますが、実は「やつし」芸が見せる哀れさというのは表面に見えるものに過ぎないのです。落ちぶれた身分の落差・哀れさが「やつし」の本質なのではありません。やつしの本質とは「現在の自分は本来自分があるべき状況を正しく生きていない・自分は仮の人生をやむなく生きており・本当の自分は違うところにある」ということにあります。その後、やつしの趣向は色々なバリエーションを以って歌舞伎のなかで展開して行きますが、それはやつしの本質が「かぶき的心情」ととても密接に繫がっているからなのです。つまりやつしとは歌舞伎の本質であるとも言えます。(これについては「吉之助流・仇討ち論」などをお読みください。)

折口の発想というものは思考がいろいろな材料を巡って・時系列を飛んで縦横無尽に回路するものです。貴種流離譚の筋だけを捉えて・その線を単純に伸ばしていくだけでは折口の思想の全貌 を十分に捉えられません。高貴な人物が落ちぶれて苦労するというイメージは例えば「廓文章」ならば確かに当てはまります。しかし、その後のやつしのキャラクターでは「高貴な人物が落ちぶれて苦労する」というシチュエーションがピッタリはまらないものが多く出てきます。「貴種」のイメージに捉われていると、歌舞伎の「やつし」芸が和事さらには仇討物などへ展開していくことの説明が十分にできません。ということは「高貴な人物が落ちぶれて苦労する」ということでは、やつしの概念は十分ではないということです。そのような時に隘路をどうやって切り開くかなのです。

「やつし」の本質が「現在の自分は本来自分があるべき状況を正しく生きていない・自分は仮の人生をやむなく生きており・本当の自分は違うところにある」ということに思い至れば、思考は一気に回転し始めます。「忠臣蔵・七段目」の由良助の茶屋遊びもやつしですが、仇討ちする気があるのか・本気の遊興三昧なのか全然分からぬ由良助の行動が、実は「自分が取るべき道はこれで良いのか」ということに悩み・迷い・揺れ続けることにその本質があると考えれば、やつしとの関連はスンナリと理解ができるのです。さらにこれは真山青果の「元禄忠臣蔵」の考察にまで適用できるものです。そこまで考えれば貴種流離譚という概念の意味が一段とはっきりするのです。同時になぜ忠臣蔵があれほど日本人の心を捉えたのかも理解できるのです。なぜならば真山青果も折口信夫も同じ時代を生きた人であり、どちらの思想にも大正・昭和の空気がはっきり流れているからです。しかも振り返ってみれば、それは神代の昔から現代に至るまで日本人のなかに流れる心情の何ものかをしっかりと踏まえているのです。折口学というものはそういうものだと吉之助は思うのですねえ。(これについては別稿「誠から出た・みんな嘘」、「七段目の虚と実」あるいは「内蔵助の初一念とは何か」などをご参考にしてください。)イメージを自由に持たせて、いろんな材料から逆に検証して行くことで、貴種流離譚の本質というものが次第に浮き彫りにされて見えてきます。これが折口の発想回路であることは小説「身毒丸」での折口の附言を読めば分かると思います。

『この話(小説「身毒丸」)は、高安長者伝説から、宗教倫理の方便的な分子をとり去って、最原始的な物語にかえして書いたものなのです。(中略)わたしどもには、歴史と伝説との間に、そう鮮やかなくぎりをつけて考えることは出来ません。殊に現今の史家の史論の可能性と表現法とを疑うて居ます。史論の効果は、当然具体的に現れて来なければならぬもので、小説か或いは更に進んで劇の形を採らねばならぬと考えます。わたしは、其れで、伝説の研究の表現形式として、小説の形を使うてみたのです。』(折口信夫:「身毒丸」・大正6年)

ご承知の通り、折口のなかで芸能研究は大きな位置を占めているのですが、芸能研究から発想されて折口学の思想形成につながったものが案外あるかも知れません。また芸能分野の立場から検証されねばならぬものが少なからずありそうに思います。(この稿つづく)

(H22・6・6)


8)理不尽に怒る神

折口信夫の生まれたのは大阪の木津で、折口少年は近くの天王寺中学に通いました。四天王寺は古くから芸能を行なう遊芸民たちが集まるところでしたから、折口少年も歌舞伎・文楽などの芸能だけでなく、大道芸や万歳・獅子舞などの門付け芸にも自然と接することが多かったようです。折口は少年のことから「貴種流離」の感覚が強かったということが言われています。それは確かにそうだったろうと思いますが、折口が「貴種」というものにどのようなイメージを抱いていたかという・そこが問題だと思うのですねえ。「今は零落してはいるけれど、その昔先祖は王族だったり・貴族だったりして、それが政争に敗れたり・病に冒されたりして、今はこのような門付け芸人に落ちぶれているけれど、実は自分たちこそ神に近い・最も高貴な者たちなのだ」というようなイメージに折口が憧れたということなのでしょうか。それは若干ニュアンスが違うと吉之助は思うのですねえ。

吉之助はもう少し別のことを考えたいのです。寺山修司がアンデルセンの童話「みにくいアヒルの子」についてこんなことを書いていたのを思い出します。「みにくいアヒルの子は最後に自分が白鳥であることが分かってメデタシメデタシ。それはそれで良いです。しかし、白鳥になりたいと思っても白鳥には絶対なれないアヒルの子たちはどうなるんですか?アヒルの子たちのことはどうでも良いんですか?」(「さかさま世界史・怪物伝」)ということです。貴種流離譚をお読みになる方は、寺山修司のように、白鳥になりたいと思っても白鳥には絶対なれないアヒルの子のことにも思いを馳せて欲しいと思うのですねえ。貴種流離譚は古今東西いろいろありますが、「俺たち(遊芸人)はホントは白鳥なんだ、お前たち(定着民)はアヒルなんだ」というような遊芸民の物語では決してなかったのです。(アンデルセンの童話ももちろんそうです。)定着民も貴種流離譚を愛しました。それはどうしてなのでしょうか。そう考えるならば遊芸民も定着民も等しく受け入れられる貴種のイメージが必要であると吉之助は思うのです。折口がそういうことを考えなかったはずはないのです。なぜならば日本人の大部分は定着民・つまり農民だったのであり、彼らもまた貴種流離譚を愛したのですから。だとすれば折口の抱いていた貴種のイメージは、巷間理解されているものとはちょっと違うのではないでしょうかね。「高貴な者が落ちぶれて・・・」というところに貴種の本質はないと思うのです。そこでしばらくこのことを考えてみたいと思います。

ところで折口信夫は座談会「神道とキリスト教」において次のようなことを語っています。折口は憤りを発することが日本の神の本質であるとします。神の憤りとは人間がいけないからその罰として神が発するものではなく、神がその憤りを発する理由がどこまでも分からない。神がなぜ祟るのかその理由が分からない。このことが重要であると折口は言うのです。
 
『今日になりますと、我々の考えておった神が、日本人の持っている神の本質ではなしに、怒(いか)らない・憤(おこ)らない神という風に考え過ぎている。ちっとも憤りを発しない。だから何時も我々どんなことでもしている。天照大神はたびたび祟りをして居られる。天照大神は何のために祟られるか。それは人間がいけないからと我々は説明するでしょうけれども、上代の考えではあれだけの神様が祟られる理由が判らないという風に落ち着いていたと思います。神を人間界から移して考えた時に天子様の性格が出て来るのですが、非常に怒りの強い天子様が昔は時々ありました。時には非常に暴虐だと思われるほどの、昔の方は節度がありませんから、武列天皇というような、或いはもう少し人情のある雄略天皇というような御性格の天子様が考えられる。(中略)怒りの激しい天子様を考えているように神にも怒りのひどいスサノオというような神があります。』(折口信夫・座談会「神道とキリスト教」・昭和23年6月)

神が憤るのは人間がいけないからだ・人間が何か悪いことをしたから神が怒ったに違いないと考えるのは、道徳倫理が完成した後の時代の人々の感じ方なのです。既成の道徳基準があれば、人々はそれに照らし合わせて・神がこれほど怒ったのにはこんな理由があったに違いないと後で納得できる説明を付けようとします。しかし、道徳がまだ成立していなかった古代人には照らし合わせるべき倫理基準などまだなかったのですから、人々には神が怒る理由など全然想像が付きませんでした。古代人にとって神の怒りは唐突で・理不尽で、ただただ無慈悲なものに思えたのです。(この稿つづく)

(H22・6・13)


9)道徳の発生

折口信夫は理不尽に怒る神についてたびたび言及しています。例えば「道徳の研究」(昭和29年)に次のような著述が見えます。

『自分の行為が、ともかくも神の認めないこと、むしろ神の怒りに当たることと言う怖れが、古代人の心を美しくした。罪を脱却しようとする謹慎が、明く清くある状態に還ることだったのである。(中略)ともかく善行―宗教的努力をもつて、原罪を埋め合わせて行かねばならぬと考えている所に、純粋の道徳的な心が生まれているものと見なければならない。それには既に、自分の犯した不道徳に対して、という相対的な考えはなくなって、絶対的な良いことをするという心が生まれていると考えてよいのである。』(折口信夫・「道徳の研究」・昭和29年)

「神の怒りに当たることと言う怖れが古代人の心を美しくした」という記述は、折口独特の言い回しのせいで言わんとするところがちょっと理解し難いかも知れません。ここは誤解されやすいところですが、これは神の理由のない怒りに古代人が恐れ慄いて・有無を言わさず神の足元に無理やりねじ伏せられたということではないのです。自分に罪があるならば神に罰せられるのは当然の報いです。神が与える罰は甘んじて受けねばなりません。しかし、そのような罪の判断基準自体が古代人にはありませんでした。ですから自分に罪があるかなど考えるはずがありません。古代人にとって神の怒りはただただ理不尽なものでした。そのような理不尽な怒りを神はしばしば・しかも唐突に発しました。例えば地震・台風・洪水・旱魃・冷害などの自然災害がそのようなものです。このような時に古代人は神の怒りをみずからの憤りで以って受け止めたのです。みずからの憤りを自分の内部に封じ込めて黙りました。ただひたすらに耐えたのです。そうすることで古代の人々はみずからの心を倫理的に研ぎ澄ましていったのです。「神よ、この清い私を見てくれ」と言うかのように。

それは神に対する無言の抗議ではないのかと言う方がいるかも知れませんが、そうではありません。超越者である神と古代人との関係を対立的に見てはなりません。神に対して抗議するなどというのは古代人に思いもよらぬことでした。「神よ、この清い私を見てくれ」ということは、神の憤りにみずからを共振させ、神の憤りを自分の憤りにして奮い立つということです。みずからを奮い立たせることで古代人の気持ちは強い核を持ったものに結晶化していきました。このような過程を経て絶対的な良き事という倫理的・道徳的な概念が古代人のなかに次第に生まれていったのです。折口が「神の怒りに当たることと言う怖れが古代人の心を美しくした」というのはそういう意味です。

このような考えから折口は神スサノオに注目します。ご存知の通りスサノオといえば古事記に登場する代表的な荒ぶる神・残虐な神です。スサノオは田を荒らす粗暴な行為をして高天原に大騒ぎを引き起こしました。折口によればそれは田の神であるスサノオが取る自然な行動(田遊び)であったのです。田遊びとは田の神と精霊との「そしり」と「もどき」の応酬(掛け合い)であり、その自体はまったく悪意がないものでした。このような掛け合いのなかからその後の田楽など芸能神事が生まれたことはご存知の通りです。(別稿「悪態の演劇性」をご参照ください。)ところがスサノオの行動が高天原で問題となってしまった為に、「天つ罪」が不本意な形でスサノオに与えられ、スサノオは高天原から追放されてしまいました。「天つ罪」は「雨つつみ」を語源とするもので、古代の農民が田植えに際し禁欲生活を強いられたことから発したものと言われています。田植えの時期の謹慎生活は田の神スサノオの罪を購(あがな)うための行為であった、そのように古代の農民は先祖の時代から代々務めてきたのであると折口は言います。折口は高天原を追放されたスサノオのなかに無辜の贖罪者の姿を見たのです。古代の農民は田を作らせるために神が自分たちの祖先 をこの地へよこしたのだと考えました。日本人は何事でもまず田に寄せてものを考えたのです。「天つ罪」という理不尽な罰を受けなければならなかったスサノオの苦しみを、古代の農民はみずからの苦しみと重ね合わせて倫理化したわけです。

『もし逆に何の犯しもない者が誤った判断のために刑罰を受けたとすればーそれの多かったのも事実だろうーその人々の深い内省と、自我滅却の心構えとは、実際殉教者以上の経験をしたことになる。(中略)天つ罪の起源を説くと共に、天つ罪に対する贖罪が、時としては無辜の贖罪者を出し、その告ぐることなき苦しみが、宗教の土台としての道徳を、古代の偉人に持たせたことのあったことは察せられる。』(折口信夫・「道徳の研究」・昭和29年)(この稿つづく)

(H22・6・22)


10)無辜の贖罪者の姿

折口信夫が貴種流離譚というものを語る時・「貴種」という二字にどういう思いを込めたのかという問いの答えは明らかです。それは「無辜(むこ)である」ということです。その人に罪はなく・穢れはないということです。つまり「身なりはボロでも俺の心は錦だ」というのが貴種ということの真の意味なのです。物語や芝居ではそのことを形象化して・筋として分かりやすくするために主人公を貴人に設定しているのです。そのため貴種流離譚は「身分の高い人が落ちぶれて哀れな姿になって・・」というところに重きを置かれて一般に理解されていますが、それは貴種流離譚の表層的な理解に過ぎないのです。

折口は高天原を追放されたスサノオのなかに無辜の贖罪者の姿を見ました。そして古代の農民たちは「天つ罪」という理不尽な罰を受けなければならなかったスサノオの苦しみを贖(あがな)うための行為をずっと続けてきたのだと考えました。農民たちが自分たちがはるか昔の先祖の時代からスサノオが理由なく背負わされた罪(天つ罪)を代わりに贖っているのである・それが自分たちが田を作ることの意味なのであると考えたということは大事なことです。それは定住者である農民も自らを無辜の贖罪者であると見なしたということを意味します。スサノオの罪を農民たちが背負わねばならぬのは何故と思う方が尚居れらるでしょうが、それはすなわち古代人の生活というものは、風雪災害や飢饉・病気など、現代人が想像するよりもずっと過酷で・辛く厳しいものであったということなのです。そのような時に古代人は神の理不尽かつ無慈悲な怒りを強く感じたのですが、そこをグッと持ち耐えて自己を深い内省と滅却に置くことはまことに殉教者以上の経験をしたことになるのです。折口はそのような過程から道徳のようなものが生まれて来ると考えました。

遊芸民というのは定着民と全然様相が異なるように見えますが、遊芸民も定着民も無辜の贖罪者として過酷な生の現状を生きているという点ではまったく同じなのです。もちろん遊芸民の置かれた状況の方が別の意味でより過酷であったかも知れませんが、神の立場から見れば遊芸民と定着民は与えられた役割が違うというだけで本質的には同じであるということになります。だとすれば貴種流離譚というものが民衆に与えた印象というものは「身分の高い人が落ちぶれて哀れな姿になって・・」というものでは決してないのです。民衆が貴種流離譚に見たものは神の与えた理不尽かつ過酷な試練に従順に耐える殉教者の姿なのであり、それは過酷な生のなかに生きる民衆自身の姿とも自然に重なって来るわけです。民衆が貴種流離譚を愛したのはそれゆえなのです。遊芸民は地方の集落を訪れて門付け芸などをして定着民から喜捨を受けました。それはもちろん定着民が遊芸民の芸にある宗教的な意味を認めていたことに他なりませんが、喜捨という行為は単なる施しということではなく、自らに対する贖いの行為であるのです。すなわち喜捨することによりその者が背負う天つ罪(それは原罪と呼んでも良ろしいものです)もまた贖われるということです。喜捨そのものが宗教的な行為なのです。遊芸民も定着民も等しく受け入れられる貴種のイメージがこれでお分かりになるだろうと思います。貴種流離譚の本質が主人公が無辜であることにあると言うことが分かれば、折口学と呼ばれる折口信夫の思想体系がおぼろげに見えて来ます。(この稿つづく)

(H22・6・26)


11)師匠と弟子の絶対的な関係

貴種流離譚で折口信夫が考えただろうことを、さらに想像します。それは理不尽な怒りを発したことで無辜な人々に過酷な運命を背負わせてしまった神が、それでも人々がなお神に背こうとせず神の課した運命に黙々と従う姿を見た時に何を感じたであろうかということです。その怒りを神は思わず発してしまったのであって、その怒りには何も正当な理由がありません。だから理不尽なのです。そのような神の理不尽な怒りによって、無辜の人々が過酷な仕打ちを受けることになります。その時に人々が取る態度はふた通りあると思います。ひとつはそうされて仕方ないことを神がしたとも言えますが、自分をそのような目に合わせた神を裏切ることです。グレて堕落するということです。(これはまあ多分に近代人的な態度であると思いますが、このことは本稿では置きます。)もうひとつは、なおも神が正しいことを信じて・神の指し示す道を黙々と歩むことです。そのようになお神を信じて神に従う人を見た時、神はそのような人々に対してその愛おしさと・そのような人々に過酷な運命を背負わせたことの苦しさが交錯してたまらなさを感じたと折口は考えたと思います。付け加えると、愛おしさと苦しさでたまらなさを感じて神はどうするのかということですが、神は別に何もするわけではないのです。しかし、神がたまらなさを感じて涙を流してくれるならば無辜の贖罪者は何かしら救われることになる・実はそのことだけで十分なのです。これが古代人が神に対する時の態度です。

以上は吉之助の思考展開ですが、このようなことを折口が直接的に書いた文章を寡聞にして吉之助は読んだことはありません。そのような文章は多分ないかも知れません。しかし、文献的に根拠がなくても折口はそういうことを考えたに違いないのです。それは折口の思想を素直に追っていけば自然に浮かんでくることだからです。「身毒丸」では芸に迷いを見せた身毒丸に源内法師は怒り狂ったかのように血で写経を命じました。師の言いつけ通りに血を流し意識朦朧となりながらなおも懸命に写経を続ける身毒丸の姿を見て、源内法師は涙を流します。この描写がまさにそのような場面です。まあ強いて言えばこれが文献的根拠ですかね。

『源内法師は、この時、まだ写経を見つめていた。さうしてうるうちに、涙が頬を伝うて流れた。(中略)身毒は板敷きに薄縁一枚敷いて、経机に凭りかかって、一心不乱に筆を操つている。捲り上げた二の腕の雪のやうな膨らみの上を、血が二すぢ三すぢ流れていた。源内法師は居間に戻った。その美しい二の腕が胸に烙印した様に残った。その腕や、美しい顔が、紫色にうだ腫れた様を思ひ浮べるだけでも心が痛むのである。そのどろどろと蕩けた毒血を吸ふ、自身の姿があさましく目にちらついた。彼は持仏堂に走り込んで、泣くばかり大きな声で、この邪念を払はせたまえと祈った。』(折口信夫:「身毒丸」・大正6年)

源内法師は身毒丸に無慈悲な折檻を強いながら、それに抵抗することなく・懸命に師の言いつけを実行しようとする身毒丸の健気さ・ひたむきさのなかに、無辜の殉教者の姿を見たのです。その悔恨は胸にズキズキとするけれども・もうどうにもならぬ。哀れな弟子の姿に源内法師はたまらないほどの愛おしさを覚えるということです。

ご存知の通り、折口は同性愛者でした。折口の弟子であった加藤守雄が・師と一緒に柳田国男宅を訪問した時のことですが、辞去しようとした加藤を柳田が呼び止めて、「加藤君、牝鶏になっちゃいけませんよ」と言ったのです。柳田の言葉に折口の表情がみるみる蒼白になりました。折口は「柳田先生の言うことが分からない」と泣きべそをかき、「師弟というものは、そこまで行かないと完全ではないのだ。単に師匠の学説を受け継ぐというのでは、功利的なことになってしまう」ということをしきりに言ったそうです。(加藤守雄:「わが師 折口信夫」・中公文庫 より)

このような挿話を同性愛者・折口の哀しくもおぞましい・理屈ではどうにもならぬドロドロの情欲の・しかし人間的なエピソードであるとしか読めないならば、それはとても不幸なことだと思います。折口の思想を素直に追ってこの挿話を読めば、理不尽な怒りを発する神が無辜な人々の姿に何を見るか、折口がその思いを自らに重ねていることがはっきりと分かります。このような挿話を読む時には、思想を研ぎ澄ますことのないそれ以外の要素を意識的に排除すべきなのです。

『最近ではそういうことはだんだんなくなって行きましたが、日本の師弟関係はしきたりがやかましく、厳しい躾(しつけ)をしたものでした。まるで敵同士であるかのような気持ちで、また弟子や後輩の進歩を妬みでもしているかのようにさえ思われるほど厳しく躾していました。(中略)子供または弟子の能力を出来るだけ発揮させるための道ゆきなのです。それに耐えられなければ死んでしまえという位の厳しさでした。』(折口信夫:座談会「日本文化の流れ」・昭和24年12月)

折口がこのように語る時、折口は日本伝来の師弟関係のなかに、理不尽に怒る神と・神を信じてその仕打ちに黙々と耐える無辜の民衆の絶対的な関係をそこに重ねて見ているのです。(この稿つづく)

(H22・7・3)


12)原初の父の永遠化

『自分の行為が、ともかくも神の認めないこと、むしろ神の怒りに当たることと言う怖れが、古代人の心を美しくした。』(折口信夫・「道徳の研究」・昭和29年)

このことはしばしば誤解されていますが、折口の言いたいことは、神の力の前に人々がねじ伏せられて「私たちが間違っていました・悔い改めます」と力づくで言わさせら れるというのではないのです。このような見方はそれ以前に倫理基準(道徳)があって・これに照らし合わせて自分の行動を判断しているのです。折口はそのような道徳が生まれるよりももっと以前の、原初的な倫理基準が生まれるそのもっと以前のことを考えています。神はしばしば理不尽な怒りを発して、我々に謂れのないひどい仕打ちをします。我々には神の意図することがまったく理解できません。それはただただ理不尽なものに思えます。しかし、それでも神をひたすら信じ・神の指し示す道を黙々と歩むということことです。過酷な仕打ちを受けてもなお神を信じて神に従う人を見る時、神はそのような人々に対して賜らない愛おしさを覚えるであろう。慈悲の涙を流してくれるであろう。願わくば我々を悲嘆のなかから救い上げてくれるであろうということです。折口はそのような気持ちから道徳のようなものが生まれてくるというのです。

そこには正しいとか・間違っているという倫理基準など存在しません。善とか悪というのは道徳が成立した以後にある基準なのです。あるとするならばそれは「清い」とか・「清くない」という感覚的(あるいは生理的な)基準です。そう考えれば神と民衆の原初的な関係がピュアな形ですっと立ち上がって来るような気がします。そして、それはどこか父と子の関係にも似ています。ただし、実の父ではなく「象徴的な父」です。

小説「身毒丸」にはふたつの父と子の関係が出てきます。ひとつは実の父である住吉法師と身毒丸との関係であり、もうひとつは育ての父であり・芸の師匠でもある源内法師と身毒丸との関係です。前章で触れた通り、折口は理不尽に怒る神と無辜の民衆との関係を・源内法師と身毒丸との関係に重ねているのです。さらに自らと弟子との関係にもこれを重ねていることも明らかです。

実の父である住吉法師は「お前にはまだ分かるまいが・・自分とお前の身には先祖から持ち伝えた病気がある」ということを身毒丸に言い残して去っていきました。ここで「先祖から持ち伝えた病気」とは何かということが再び問題になります 。それは以前触れた通り・それは父を共同体に留まれなくしたものであり・今また父が息子の前から去らねばならなくするものです。この 父の言葉は、父が去った後も禁忌のように身毒丸の身に圧し掛かって消えることなくずっと残っています。住吉法師は死んだか・どこかで生きているのか定かではありませんが、身毒丸の意識のなかでの父は死んでいます。そして象徴的な父が残っています。住吉法師に替わって芸で結ばれた源内法師と身毒丸との父子関係が生まれます。源内法師が住吉法師から受け継いだ父の役割は明らかです。それは父の言い残した通り「浄い生活を送って・身体を浄く保つことで血縁の間に執念深く根を張ったこの病いを一代限りで絶やせ」ということです。源内法師はこのことを芸という繫がりのなかで身毒丸に実践させようとします。

源内法師は芸を迷わせる雑念の一切を厳しく禁じました。例えば身毒丸の芸に熱狂して囃し立てる若い娘たちの姿や声に対する誘惑です。実はそのような雑念は放浪の旅から離脱して・どこかに定着していまいたい身毒丸の願望と強く結びついてい ました。恐らくはそこに住吉法師が言うところの「先祖から持ち伝えた病気」ということが関係するのでしょう。身毒丸の迷いを見抜いた源内法師は弟子を容赦なく折檻します。しかし、身毒丸は意識を失いそうになりながら も師匠の言いつけを必死に行なおうとします。なぜならば師匠の言いつけに背くことは、実の父である住吉法師の言い残したことを裏切ること、それは父を失うということを意味するからです。ここでフロイトを引き合いに出すとびっくりするかも知れませんが、ジャック・ラカンはフロイトの最も重要な著作は「トーテムとタブー」(1913年)であるとして、次のように言っています。

『フロイトにとって最も重要な著作、自身の成功作と思っていた著作は「トーテムとタブー」です。これは現代の神話に他なりません。彼の教義のなかでぱっくりと開いたままになっていること、つまり「父はどこにいるのか」ということを証明するために構築された神話です。(中略)「トーテムとタブー」が述べていることは、父たちが存続していくためには、真の父、唯一の父が歴史以前に存在しなくてはならず、しかもそれは死んだ父でなくてはならない、ということです。(中略)なぜ、息子たちは父の死を早めなくてはならなかったのでしょう。そして、それらすべてはどういう結果を目的にしていたのでしょう。結局それは、父から奪わねばならなかったものを自分たち自身に禁じるためです。父を殺すことはできないことを示すためにこそ父を殺したのです。(中略)つまり原初の父の永遠化です。父を保存するためでなかったとしたら、いったいなぜ殺したというのでしょう。』(ジャック・ラカン:「対象関係」下巻〜エディプス・コンプレックスについて)

源内法師と身毒丸は、理不尽に怒る神と無辜の民衆との関係を無意識のうちになぞっていることになります。「お前にはまだ分かるまいが・・自分とお前の身には先祖から持ち伝えた病気がある。浄い生活を送って・身体を浄く保つことで血縁の間に執念深く根を張ったこの病いを一代限りで絶やせよ。」という父が言い残した言葉が身毒丸のなかでリフレインされます。それが身毒丸の気持ちを清いものにするのです。同時に源内法師の気持ちも純化されていきます。そこには功利的なものを越えた師弟関係があるのです。(この稿つづく)

(H22・7・17)


13)その旅に終わりはない

理不尽に怒る神と無辜の民衆との関係。実はこれは折口信夫のなかにある重要なテーマです。折口晩年に至ってこのテーマはますます重要なものになっていくものと吉之助は考えます。(このことは別の機会に改めて触れます。)本稿で何度も引用している折口の論考「道徳の研究」は昭和29年のものですが、小説「身毒丸」(大正6年)ではその思想が原型質的な形で出ているのです。理不尽に怒る神と無辜の民衆との問題が、ここでは父と子という関係において描かれています。

折口は少年のことから貴種流離の感覚が強かったということが言われますが、「今は零落してはいるけれど、その昔先祖は王族だったり・貴族だったりして、実は自分たちこそ神に近い・最も高貴な者たちなのだ」というようなイメージに折口が憧れたと考えるならば誤解を生じます。折口は無慈悲にも理不尽な状況に突き落とされた人々の心を考えています。過酷な運命によって共同体から放逐され、流浪せねばならなかった人々の心を考えています。

『猿廻しが大した節廻しもなく、そうした場面の抒情的な地の文を謡うに連れて、葛の葉狐に扮した猿が右顧左眄(うこさべん)の身ぶりをする。「あちらを見ても山ばかり。こちらを見ても山ばかり。」 何でもそういった文句だったと思う。猿曳き特有のあの陰惨な声が、若い感傷を誘うたことを未だに覚えている。平野の中に横たわっている丘陵の信太山。それを見馴れている私どもにとっては、山また山の地方に流伝すれば、こうした妥当性も生じるものだという事が初めて悟れた。』(折口信夫:「信太妻の話」・大正13年4〜7月)

小説「身毒丸」においてはこのこと育ての父であり・芸の師匠でもある源内法師と身毒丸との関係において描かれます。芸を見せながら諸国を旅して生活をして・決して定着することを許されない人々、つまり遊芸民のことです。芸能というのは折口学の最重要のジャンルであることは言うまでもないですが、遊芸民が芸能を司るということの原初的な意味(宗教的な意味というのではなく、それよりもっと以前の宗教以前の意味ということです) をそこに見ているのです。

「お前はいつも遠路を歩くと、不機嫌な顔をする」と仲間に言われた身毒丸は「わしは、今度こそ帰つたら、お師匠さんに願うて、神宮寺か、家原寺へ入れて貰おうと思うてる 。こういふ風に、長道を来て、落ちついて、心がゆったりすると一処に、何やらこうたまらんような、もつと幾日もぢっとしていたいという気がする」と言ってしまいます。それを聞いた制※(「咤−宀」、第3水準1-14-85)迦が怒り出します。

何だ。利いた風はよせ。田楽法師は、高足や刀玉見事に出来さいすりゃ、仏さまへの御奉公は十分に出来てるんぢゃ、と師匠が言はしったぞ。田楽が嫌ひになって、主、猿楽の座方んでも逃げ込むつもりぢ ゃろ。(中略)……けんど、けんど、仏神に誓言立てて授った拍子を、ぬけぬけと繁昌の猿楽の方へ伝へて、寝返りうって見ろ。冥罰で、血い吐くだ。……二十年鞨鼓や簓ばかりう ってるこちとらとって、う っちゃっては置かんぞよ。』(折口信夫:「身毒丸」・大正6年)

身毒丸に激しい言葉を投げつけながら制※(「咤−宀」、第3水準1-14-85)迦は泣き出します。どうして制※(「咤−宀」、第3水準1-14-85)迦は泣き出すのでしょうか。それは制※(「咤−宀」、第3水準1-14-85)迦には身毒丸の気持ちが分かる過ぎるくらい良く分かるからです。 実は制※(「咤−宀」、第3水準1-14-85)迦も同じ気持ちなのです。しかし、それを「分かる」と言ってしまったら自分たちは旅を続けることができなくなってしまうのです。だから「分かる」と絶対に言わないのです。さすがの源内法師もここでは「おまへも、やつぱり、父の子ぢやつたなう。信吉房の血が、まだ一代きりの捨身では、をさまらなかつたものと見える」と力なく言うだけです。師匠もまた同じ気持ちを抱いているのです。そのような辛い気持ちを抱きつつも、遊芸民はなおも旅を続けなければならないのです。その旅には終わりはありません。そのようなただひたすらに励む行為が遊芸民の芸を美しいものにすると折口は言っているのです。(この稿つづく)

(H22・7・24)


14)象徴的な「父の名」

このことは芸の伝承にまつわる師匠と弟子の関係というのは何かという問いにも関連します。芸の師弟関係は血の繫がりはない・擬似的な父子の関係ですが、むしろ血の繫がりという要素がないからこそ・そこに純粋なものが意識されているのです。芸道における師匠と弟子は、そのような強い意識によって結び付けられています。

「お前にはまだ分かるまいが・・自分とお前の身には先祖から持ち伝えた病気がある。浄い生活を送って・身体を浄く保つことで血縁の間に執念深く根を張ったこの病いを一代限りで絶やせよ。」という父が言い残した言葉が身毒丸のなかでリフレインされます。それが身毒丸の気持ちを清いものにします。「自分とお前の身には先祖から持ち伝えた病気がある。浄い生活を送って・この病いを一代限りで絶やせよ。」という父の言葉は、その言葉通りに解すならば、個人的に背負わされた業病か何かであったかのように受け取られるかも知れません。しかし、この父の言葉はそのように解するべきではありません。それは酷い理不尽な神によって否応なしに無理矢理に背負わされた宿命のようなものを指しています。それが父を共同体から放逐し・また旅の一座からも離脱させたもっともらしい理由です。例えば「彼の先祖が神の禁じた品物を盗んだために呪われた」 というような理由でも何でも良いのですが、それが彼に理不尽に押し付けられたもっともらしい理由です。そして、それは同様な形で実は源内法師や制※(「咤−宀」、第3水準1-14-85)迦ら旅芸人の一座の連中にも同じように圧し掛かっているものです。小説「身毒丸」ではそれはとりあえず主人公身毒丸のこととして描かれているだけのことです。芸の伝承にまつわる師匠と弟子の関係というのは何かということを更に考えます。

『ここで私が「法」と呼んでいるのは、シニファンの水準ではっきり言い表されるもの、すなわち法のテキストのことです。私が「父の名」と呼ぶもの、つまり象徴的な父とはまさにこれです。それはシニファンの水準にある一つの項であり、この項は法の座としての「他者」のなかで、「他者」を代表象します。それは「他者」なかの「他者」です。フロイトの思想にとって必然的な神話、エディプスの神話が表しているのは、まさにこれです。(中略)法を公布する父とは死んだ父、つまり父の象徴です。死んだ父、それが「父の名」であり、これはこのような内容の上に立てられているのです。(中略)このとき、それは「排除」されています。さまざまなシニファンからなる連鎖のなかで、何かが欠けることがあり得ます。つまり、主体は「父の名」というシニファンの欠如を補填しなければならないということです。』(ジャック・ラカン:「無意識の形成物」上巻〜「父の名の排除」、文章は吉之助が多少アレンジしました。)

「先祖から持ち伝えた病気」なんてことはホントはどうでも良いのです。お前にはまだ分かるまいが・・お前には何か背負わされた重いものがあるということです。「それを清らかにするために、お前は一心に励め」とということです。それが 象徴的な「父の声」なのです。芸の伝承にまつわる師匠と弟子の関係というのは、そのような「死んだ父」の声に対して何かを補填しようとする関係なのです。師匠が弟子に対して耐えられなければ死んでしまえという位の厳しさで対するのは、まるで師匠が「父である自分を殺してその地位を奪えよ」と弟子に叫ぶかの如くです。そのような形で象徴的な「父の名」がリフレインされます。

この象徴的な「父の名」は流浪しながら芸をする者たち(遊芸人)に等しく掛かってくるものです。身毒丸だけにリフレインされるものではありません。だから「長道を来て、落ちついて、心がゆったりすると一処に、何やらこうたまらんような、もつと幾日もぢっとしていたいという気がする」という身毒丸の言葉を聴いて、仲間たちもみんなたまらなくなるのです。それは彼らの集団としてのアイデンティティです。折口はそのような遊芸人の原初的な心境を見詰めています。そこから芸の伝承にまつわる師匠と弟子の関係が浮かび上がってきます。(この稿つづく)

(H22・8・16)


15)安住の地を見出すことはない

『一つの森に出た。確かに見覚えのある森である。この山口にかかった時に、おっかなびっくりであるいていたのは、此道であった。けれども山だけが、依然として囲んでいる。後戻りをするのだと思ひながら行くと、一つの土居に行きあたった。其について廻ると、柴折門があった。人懐しさに、無上に這入りたくなって中に入り込んだ。庭には白い花が一ぱいに咲いてゐる。小菊とも思はれ、茨なんかの花のやうにも見えた。つい目の前に見える櫛形の窓の処まで、いくら歩いても歩きつかない。半時もあるいたけれど、窓への距離は、もと通りで、後も前も、白い花で埋れて了うた様に見えた。彼は花の上にくづれ伏して、大きい声をあげて泣いた。すると、け近い物音がしたので、ふっと仰むくと、窓は頭の上にあつた。さうして、其中から、くっきりと一つの顔が浮き出てゐた。身毒の再寝は、肱枕が崩れたので、ふつっりと覚めた。床を出て、縁の柱にもたれて、幾度も其顔を浮べて見た。どうも見覚えのある顔である。唯、何時か逢うたことのある顔である。身毒があれかこれかと考へているうちに、其顔は、段々霞が消えたやうに薄れて行った。彼の聨想が、ふと一つの考へに行き当つた時に、跳ね起された石の下から、水が涌き出したやうに、懐しいが、しかし、せつない心地が漲つて出た。さうして深く深くその心地の中に沈んで行った。』(折口信夫:「身毒丸」・大正6年)

小説「身毒丸」の末尾近くで身毒丸が見る夢の場面です。夢のなかで身毒丸が仰むくと、窓からくっきりと一つの顔が浮き出ているのが見えます。それはどうも見覚えのある顔である。何時か逢うたことのある顔である。しかし、身毒丸はその顔が誰なのかを思い出せません。身毒丸にはただ懐かしく、またせつない気持ちが残ります。身毒丸が夢のなかで見たその顔が誰であったのかという詮索は吉之助は不要かなと思っています。それは誰であっても良いのです。読者が懐かしく・せつない気持ちになる人の面影を投影してそう読めばそれで良ろしいことだと思います。

ところで夢のなかに庭には白い花が一ぱいに咲いてゐる光景が現れます。それは小菊とも思はれ、茨なんかの花のやうにも見えたといいます。どても幻想的な光景です。そのなかに懐かしく・せつない面影が浮かび上がります。これを読みますと、吉之助は折口の「信太妻の話」の一節が思い浮かびます。このなかで折口は説経節の「信太妻」のことを触れています。その筋はだいたい次のようなものです。

『或日、葛の葉が縁側に立つて庭を見ていると、ちょうど秋のことで、菊の花が咲いている。其は、狐の非常に好きな乱菊といふ花である。見ているうちに、自然と狐の本性が現れて、顔が狐になってしまつた。そばに寝ていた童子が眼を覚まして、お母さんが狐になったと怖がって騒ぐので、葛の葉は障子に「恋しくば」の歌を書いて、去ってしまふ。子供が慕ふので、安名が後を慕うて行くと、葛の葉が姿を見せたといふ。』(折口信夫:「信太妻の話」・大正13年4〜7月)

説経「信太妻」のなかには乱菊という花が庭にいっぱり咲いている場面が登場します。吉之助にはこのイメージが小説「身毒丸」のなかで庭には白い花が一ぱいに咲く夢の場面と重ねられているように感じられます。そうするとここで浮かび上がる面影は身毒丸が忘れてしまった母の面影なのかという推測も成り立つかもしれませんが・そのことはちょっと置いて、それより吉之助がこれが大事なイメージであると感じるのは別のことです。自分が故郷だと思うところ・それは本来自分が最も安心できる場所であるはずですが、その故郷から既に自分は裏切られていたという驚愕の事実です。お母さんが実は狐であった・人間ではなかった。ということは自分は普通の人間の子供とは違うということです。この驚愕の事実を知った時、童子丸は安住の地を失ったのです。アイデンティティーの不安というようなものが始まります。童子丸ははもはやこの地に安心して住んでいることはできません。

こうして子供は故郷を捨てて、安住の地を見出すことのない・果てしない旅に出ます。生まれ故郷を放逐されて果てしない放浪をつづける旅芸人の原点がここに見えます。「あちらを見ても山ばかり。こちらを見ても山ばかり。」という「葛の葉」の文句には定住に対する強い憧れが聞こえます。旅を止めてどこかに定着すればこの苦しい生活を終えることができるという気持ちがどこかにあります。しかし、安住の地を見出すことは自分たちに決して許されないことだということも旅芸人は良く知っているのです。説経「信太妻」はそのような流浪する芸能者の哀しみを思い起させます。後の世においては芸能者は都市に定住して芸を披露して生活をするということが起こってきますが、中世における芸能というのは主としてそれは放浪芸のことでした。

このことは身毒丸の父・住吉法師が言い残した「お前にはまだ分かるまいが・・自分とお前の身には先祖から持ち伝えた病気がある。浄い生活を送って・身体を浄く保つことで血縁の間に執念深く根を張ったこの病いを一代限りで絶やせよ。」という言葉とも重なってきます。先祖から持ち伝えた病気ということを知った時に身毒丸は自分が安住の地を見出すことは決してないということを知るのです。そのために身毒丸は悩み・苦しみ、そのような宿命から逃れようとあがきます。そのような身毒丸が悩みの果てにこのような夢を見るのです。白い花が一面に咲く庭。そこにくっきりと浮かびあがる顔。このような夢を見た時に、身毒丸は恐らく何かがふっきれたに違いありません。

『山の下からさっさらさらさと簓の音が揃うて響いて来た。鞨鼓の音が続いて聞え出した。身毒は、延び上つて見た。併し其辺は、山陰になっていると見えて、其らしい姿は見えない。鞨鼓の音が急になって来た。身毒は立ち上った。かうしてはいられないといふ気が胸をついて来たのである。』(小説「身毒丸」末尾)(この稿つづく)

(H22・9・16)


16)最原始的な物語

『この話は、高安長者伝説から、宗教倫理の方便的な分子をとり去って、最原始的な物語にかえして書いたものなのです。世間では、謡曲の弱法師から筋をひいた話が、江戸時代に入つて、説教師の題目に採り入れられた処から、古浄瑠璃にも浄瑠璃にも使はれ、又芝居にもうつされたと考へてゐる様です。尤、今の摂州合邦辻から、ぢりぢりと原始的の空象につめ寄らうとすると、説教節迄はわりあいに楽に行くことが出来やすいけれど、弱法師と説教節との間には、ひどい懸隔があるやうに思はれます。或は一つの流れから岐れた二つの枝川かとも考へます。(中略)わたしは、正直、謡曲の流よりも、説教の流の方が、たとひ方便や作為が沢山に含まれていても信じたいと思ふ要素を失はないでいると思うています。但し、謡曲の弱法師といふ表題は、此物語の出自を暗示しているもので、同時に日本の歌舞演劇史の上に、高安長者伝説が投げてくれる薄明りの尊さを見せていると考へます。』(折口信夫:「身毒丸」・大正6年)

折口信夫の小説「身毒丸」の附言です。折口はこの小説を「高安長者伝説から最原始的な物語にかえした」ものと言っています。しかし、小説から謡曲「弱法師」や説経「しんとく丸」へのはるかな系譜を読もうとすることは、無駄なことです。いろんな雑多な要素があとから入り込んできて枝別れして、謡曲「弱法師」や説経「しんとく丸」、はたまた浄瑠璃の「摂州合邦辻」が成立していくのでしょうが、その系譜を辿ることが折口の目的なのではありません。折口がイメージした高安長者伝説の最原始的な風景とはどういうものでしょうか。

説経節「しんとく丸」にある最初の重要な場面は、しんとく丸がいれい者(業病者)となって天王寺に捨てられる場面です。説経ではしんとく丸の業病は継母の呪いということになっていますが、この時点でしんとく丸はそのことを知りません。我が身に降りかかった運命を因果であるとただ信じて、お付きの郎党仲光にその苦悩を訴えます。

『仲光よ、めずらしや、何たる因果のめぐり来て、かやうのいれいを受け、眼が見えぬはいつも常夜なごとくなり、いれいを受けたるは、見舞いも受けぬ、仲光よめずらしや』(説経「しんとく丸」)

中世期には業病に冒された者が天王寺に捨てられて・乞食となって他人の袖にすがって生きるしかなかったということが実際にあったわけです。天王寺周辺は少年時代の折口にとっても馴染みのある場所でした。もちろんその時代には中世の光景があったわけではありません。しかし、折口少年にはそのような中世の光景が見えていたのです。折口少年が感じたのは何の因果か・共同体から放逐されて・捨てられてしまった者の孤独ということです。何の因果か・他人の袖にすがってでも生きていかねばならないという悲哀ということです。ここでは「何の因果か分からない」という嘆きがとても大事な要素としてあります。説経ではいれい(業病)という設定になっていますが、どうしてこうなったか・その理由も分からないのです。「何の理由か分からないが、それは事実なのだ」という形でしんとく丸に降りかかってきた宿命です。折口の小説「身毒丸」と説経節「しんとく丸」に共通した最原始的な核は、放逐されて虚空に置かれた時の身毒丸(しんとく丸)の気持ちなかに見出されます。小説では、そのことが幼い身毒丸に父が話したこととして出てきます。

『おまへにはまだ分るまいがね」といふ言葉を前提に、かれこれ小半時も、頑是のない耳を相手に、滞り勝ちな涙声で話していたが、大抵は覚えていない。此頃になつて、それは、遠い昔の夢の断れの様にも思はれ出した。(中略)父及び身毒の身には、先祖から持ち伝へた病気がある。その為に父は得度して、浄い生活をしようとしたのが、ある女の為に堕ちて、田舎聖の田楽法師の仲間に投じた。父の居つた寺は、どうやら書写山であつたやうな気がする。それだから、身毒も法師になつて、浄い生活を送れというたやうに、稍世間の見え出した此頃の頭には、綜合して考へ出した。唯、からだを浄く保つことが、父の罪滅しだといふ意味であつたか、血縁の間にしふねく根を張つたこの病ひを、一代きりにたやす所以だというたのか、どちらへでも朧気な記憶は心のままに傾いた。』(折口信夫:「身毒丸」・大正6年)

この時、幼い身毒丸の心にポッカリと空いた虚空のようなものが意識されます。その正体が何か幼い身毒丸には分かりません。しかし、成長するに従ってそれがおぼろげながら身毒丸に見えてきます。それは恐らく身毒丸を「あちらを見ても山ばかり、こちらを見ても山ばかり」という状況に追い込んだものです。ひとつ所にじっとしていることも許されず、自分は明日はどこへ流れて行かねばならぬのだろうか、このような旅がいつまで続くのかという旅芸人の宿命です。それが身毒丸を苦しめるのですが、しかし、最終場面の身毒丸にはどこか吹っ切れたところが見えます。

『山の下からさっさらさらさと簓の音が揃うて響いて来た。鞨鼓の音が続いて聞え出した。身毒は、延び上つて見た。併し其辺は、山陰になっていると見えて、其らしい姿は見えない。鞨鼓の音が急になって来た。身毒は立ち上った。かうしてはいられないといふ気が胸をついて来たのである。』(小説「身毒丸」末尾)

身毒丸に宿命に身を委ねる覚悟が出来たのかも知れません。身毒丸をそのような気持ちにさせたきっかけは、夢のなかに出てきた白い花が一ぱいに咲いた庭なのか、窓にくっきりと浮かんだ誰かの顔なのか、山の下からさっさらさらさと響いてくる簓の音なのか、それはよく分かりません。けれど身毒丸はそのなかに何か自分が繫がるものを感じ取ったのかも知れません。

(H22・9・26)

(後記)

本編の続編「折口信夫への旅・第1部・補説」もご参照ください。





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