吉之助の雑談14(平成20年7月〜12月 )
本サイト「歌舞伎素人講釈」は21世紀の始まった平成13年(2001)1月3日にオープンし・来年で9年目に入ります。ウェイバック・マシーン(WeyBachMachine)という・ある時点のウェッブサイトを定期的に巡回しアーカイヴで 取り込んで蓄積していく便利なサイトがありまして、このサイトで「歌舞伎素人講釈」 を検索しますと・一番古い時点では2001年4月4日のアーカイヴを見ることが出来ます。その前月の3月31日に六代目歌右衛門が亡くなっており・その直後のものです。この時期のサイトは出来たばかりなので・情報量はまだ大したことはありません。こういうところから発展してきたんだなあとある種の感慨がありますねえ。その次に古いアーカイヴは同年5月17日のものが見られます。こちらのトップは歌右衛門の追悼記事で「六代目歌右衛門の今日的意味」です。これは吉之助にとって非常に力の入った論考でした。この論考を読むと・当時感じた喪失感というものを強く思い出します。思えば21世紀の歌舞伎は20世紀後半を背負った名女形の死から始まり、サイト「歌舞伎素人講釈」もまた期せずして歌右衛門以後の道程を歩んだわけです。吉之助にとって歌右衛門以後の意味は次第にその重みを増してきたように思います。
このことは歌右衛門以後の歌舞伎が悪くなったとか・平成の歌舞伎はつまらないとか・そういうことを言っているのではありませんから誤解がありませんように。しかし、人間は時間のなかに生き・時間のなかで生を刻印しますので・ある時代にそのアイデンティーのルーツを置くことは避けられないことで、吉之助にとっての歌舞伎が歌右衛門時代(吉之助が生で見た舞台はその後半期の二十数年ということになります)に根ざしていることは確かなことです。もちろん他にも魅力的な役者も大勢居ましたが、結局・吉之助の歌舞伎観を決したのは歌右衛門でありました。吉之助はそのことに固執するわけではないですが・歌舞伎は過去にスタンスを置く見方が基本ですから、吉之助にとっての歌舞伎が名実共に過去形になったことは有難いことだと思っています。「歌舞伎素人講釈」の歴史は歌右衛門以後を吉之助のなかに落とし込む時間であったように思われます。それは・これからいよいよ歌舞伎が面白く見られるということかと思います。まあまだそんな歳というわけではないですがね。このために歌舞伎をずっと見続けてきたということですね。「歌舞伎素人講釈」の歴史が歌右衛門以後であることはある意味象徴的なことだ と感じています。いずれ機会を見て歌右衛門再論を書いてみたいものです。
(H20・12・20)
黙阿弥の七五調については近いうちに連載予定の「歌舞伎の台詞のリズム論」(仮題)で詳しく論じるつもりなので・本稿では短く記するに留めますが、本年(2008)5月歌舞伎座での「青砥稿花紅彩画」での黙阿弥の七五調についてちょっと触れておきます。この時の「稲瀬川・勢揃い」においてただひとり・三津五郎の忠信利平だけが正しい七五調のリズムで台詞をしゃべっています。このような正しい七五調のリズムを聞くのはまったく久しぶりのことで、やはり大和屋はきっちりとした伝承ができている家だなあと改めて感心しました。
別稿「黙阿弥の七五調の台詞術」で触れましたが、正しい七五調は「7」のユニットと「5」のユニットが同じ長さになるもので、つまり「7」は7分の7で早く・「5」は5分の5で遅くなる・変拍子です。そこに微妙に揺れる緩急が付いています。このことは一語一音のイメージに捉われて台詞を聞くと正しく聴こえて来ません。これが正しいとすれば七五のユニットは音符の数で伸び縮みすることになります。日本の伝統音楽に多い二拍子のイメージと結びついて・一語一音に凝り固まって台詞を追うからそう した勘違いになるのです。実際七分音符と五分音符の長さの違いを聴覚で感知するのは難しいことです。こういう場合は速度の変化はユニットで(音楽ならば一小節で)大つかみに感知すれば良いのです。六代目菊五郎の弁天小僧の録音を七五のユニットで聴いてみてください。ユニットが同じ長さでトントンと繰り出すことが分かるはずです。これが台詞の小気味良さを生んでいます。三津五郎の忠信利平の台詞もまったく同じです。
三津五郎の台詞はあっさりとした感触に聴こえると思います。また芝居っ気があまりないように感じるかも知れません。しかし、これが本当の世話の写実の味なのです。人間の言葉というのは・どんな人でも固有のリズムの揺れがあるもので、タンタンタンと同じリズムで機械的に繰り出すものではありません。もちろん七五調は様式的なリズムですが、その揺れの意識において表現ベクトルが写実の方に向いているのです。さらに黙阿弥の七五調は2字目起こしのアクセントがついて・そこで日本語の自然な抑揚が意識されています。ここのところが分かれば黙阿弥の七五調が指向しているものが何か見えてくると思います。
ちなみに 吉之助がダラダラ調と呼んでいるところの・一本調子で七五のユニットが伸び縮みする七五調(これが現行のほとんどの歌舞伎役者がしゃべるところのリズムですが)を七五のユニットを意識して聴けば、「5」のユニットでテンポが速まるかのように感じるはずです。ダラダラ調では「5」が短いわけで・テンポが速まるように聴こえるのは実は錯覚なのです。ですから「5」が速く聴こえるならばダラダラ調です。言葉がただの意味のない音の羅列と化して電報文面の如くとなり・現代の黙阿弥芝居はどんどん写実の感覚から離れていくことになります。
例えば勢揃いにおいて・弁天小僧の長台詞に「さてその次は江ノ島の岩本院の稚児あがり」とありますが、「岩本院の稚児あがり」は吉之助ならば七の速さで切らずにそのまま「12」のユニットのつもりで言いますねえ。「イワモトインノチゴアガリ」の赤字の箇所に二字目起しのアクセントが来ることにご注意ください。そこに微妙な抑揚が付くことが分かります。一本調子で言うものではないのです。吉之助は「岩本院の・稚児あがり」はまあ許せますが、ダラダラ調の「イ・ワ・モ・ト・イ・ン・ノ・チ・ゴ・ア・ガ・リ」は駄目ですねえ。 「イワ・モト・イン」も大差ありません。(・は休止というよりは区切りとお考えください。)「イ・ワ・モ・ト・イ・ン」という単語はないのです。それは「イワモトイン」で岩本院と聞こえます。しかし、「岩本院」だけでは意味をなしません。それは「岩本院の」で文節となり、「岩本院の稚児あがり」となって意味ある台詞となるのです。だから「12」のユニットと考えなければならないわけです。役者は記号ではなく・意味のある台詞をしゃべるのですから、七五の様式よりも台詞として意味を成すかの方がずっと大事です。どうすれば台詞を写実にできるか・意味ある台詞にできるかということに重きを置かねばなりません。
ですから先ほど「岩本院の・稚児あがり」はまあ許せると書きましたが・これは台詞が内包する七五の調子からすれば必ずしも間違いと言えないという意味でして、「岩本院の」と「稚児あがり」と文節をふたつに分けてしまうところにすでに反写実の要素があると言えますし、大げさに言えばそこに 台詞が崩壊し・無意味化する兆候が見えるということも言えると思います。その傾向の行き着いたところがダラダラ調であると思います。そうした要素が黙阿弥のなかに全然ないわけではないかも知れませんが、もしあるとすればそれは黙阿弥の生きた幕末から明治初期の民衆の気分の後ろ向きな要素・お上に対する民衆の諦めあるいは投げ槍ムードのようなものから 来るのでしょう。しかし、現代に黙阿弥を活性化するためには逆に民衆の気分のなかの前向きな要素(向上心・変革への意欲)を見据えていかねばならないと思います。それはまず黙阿弥の七五調の写実の要素のなかに現れ ていると吉之助は考えます。巷間言われるような「黙阿弥の七五調は音楽美に傾斜して・台詞劇の本質から離れた」というイメージは修正されなければならないと思います。黙阿弥劇はあくまで世話物であり・それは写実に根差しているのです。
(H20・12・16)
おかげ様で・本サイト「歌舞伎素人講釈」は来年1月で9年目になります。記事もだいぶ増えてきましたが、初めてこのサイトをご覧になった方はリンクを辿っていくと・どこに行ったやら分からなくなって、「このサイトはどういう階層になっているのやら。サイト・マップが欲しいものだ」と感じる方もいらっしゃるようです。実はこれはサイトをわざとこうした迷宮構造にしています。リンクをクリックすれば関連記事に簡単に飛ぶというのはITの機能を生かしたもので、もう少し写真や図版が自由に使用できればさらに歌舞伎ワンダーランド的なサイトに出来るかと思いますが・著作権的な制約があるので、今のところはまあこの辺で良いかと思っています。
実は吉之助のこういう感覚は松岡正剛氏(編集者・著述家・日本文化研究家)の雑誌「遊」から学んだものです。松岡氏は1971年に工作舎を設立し、雑誌「遊」(1971年〜81年)を発行しました。「オブジェマガジン」と称し・ジャンルを融合し超越した編集スタイルは今日のインターネット文化を予見したものとも言われています。吉之助が雑誌「遊」に接したのは高校時代のことでした。その内容は古今東西に渡る膨大なもので・この人はどれだけ本を読んでいるのかと驚くほどで、その文章と言えば一見分かり易そうでいて・実は読んでみるとよく分からぬもので・それでも何かがありそうだと思って・分かる部分だけをつまみ読みして・また 繰り返し読んだものです。文章自体は中公文庫の「遊学T・U」にまとめられていて・今でも読めますが、グラフィックを多用した奇妙キテレツなゴッタ煮的雑誌の雰囲気は 文庫本からはちょっと想像できません。吉之助が「歌舞伎素人講釈」を始めた時に脳裏にあったイメージは雑誌「遊」のことでした。「遊」のような方向にサイト「歌舞伎素人講釈」を仕上げたいということでここまでやってきたわけです。まあ少しはそんな感じになってきましたかねえ。
その後の吉之助は松岡氏の著作とは疎遠になりましたが、インターネットを始めるようになってから・松岡氏が「千夜一冊」というサイトを主催しているのを知りました。松岡氏は既に2004年に千冊を達成し、現在も更新中(本日現在1273冊)なのはシェラザードも吃驚というところです。ちょっとそのサイトを覗いてみてください。「歌舞伎素人講釈」と似たところが見つかるかも知れません。
松岡正剛:遊学〈1〉 (中公文庫) ・ 遊学〈2〉 (中公文庫)(H20・12・8)
菊五郎の弁天小僧について「平成歌舞伎の保守化傾向の表れ」ということを書きましたが、別の事例を考えてみたいと思います。平成19年2月歌舞伎座・「六段目」での菊五郎による勘平のことです。全体の感触が濃厚で・やや重めに傾いている点に共通点が見えると思います。菊五郎の勘平は角かどの決まりもしっかり決めて・ふっくらとした丸みを持った演技で・「六段目」の押さえるべきツボはしっかり押さえており、これは確かに平成歌舞伎の成果と呼べる優れたものでした。同じ重めの演技なのに・菊五郎の弁天に良いことを書かないで・勘平の方に良い点をつけるのは、菊五郎の勘平は「勘平は誤解を受けて腹切る破目になって可哀相だけど・最後に仇討ちの仲間に入れてもらって良かったなあ」という形でドラマが しっくりと納まって・それが「六段目」という時代物のなかの世話場の構図に一応沿うからです。しかし、さらにもうひとつ上の段階を目指そうと言うならば・注文はあります。菊五郎の演技の印象がやや重めに傾いて・時代物の構図に納まり過ぎていることが問題になると思います。
「勘平は誤解を受けて腹切る破目になって可哀相だけど・最後に仇討ちの仲間に入れてもらって良かったなあ」という形でドラマが納まれば、まあ 一応の「六段目」にはなるのです。時代物というのは他者(六段目の場合は由良助)が主人公の犠牲を「然り」と受け取る構図を持っているものだからです。しかし、ドラマが時代物の構図に納まり過ぎてしまえば・観客はそのドラマを「然り」と した段階で理解を止めてしまうということになります。勘平の死を「然り」(それは仕方のなかったことだ・・)で終わりにしてしまうから、「六段目」が与市兵衛一家のホームドラマであるというような瑣末的解釈が出てくることになります。「仕方がない・・ ・所詮お上には勝てない・・・長いものには巻かれるしかない」としてしまえば仇討劇としての「忠臣蔵」の根本構図に対する疑問がそこに出てくる余地がもうないからです。しかし、ホントの時代物というのはそういうものではないのです。「然り・・だが本当にそれで良いのか・・」とするのがホントの時代物です。怒りとも悲しみともつかない感情・それは「憤(いきどお)り」という言葉で表現するのが一番正しいのですが・そういう割り切れない熱い心情を胸のなかにぐっと抑え込んで・敢えて「・・然り」と言い切るのが、ホントの時代物なのです。
「六段目」に「然り・・だが本当にそれで良いのか」という心情が強く出てくるのは、もちろん勘平が「アア仏果とは穢らわしい。死なぬ、死なぬ、魂魄(こんぱく)この土にとどまって敵討ちの御共する」という台詞です。「六段目」はこの線に沿って構築されねばなりません。しかし、現行の歌舞伎のスタンダードである音羽屋型の場合は「勘平さんは可哀相・・」の印象が強くて・必ずしもこの線に沿っていないのは確かです。したがって、吉之助は「六段目」は音羽屋型をベースにしつつも・そこに納めようとして・納まりがつかない何か(心情 ・憤り)を表現してもらいたいと思うのです。印象論的な言い方になりますが、菊五郎の勘平はふっくらと丸味を帯びた印象が強く・それが時代に納まった印象を与えます。それは決して間違いではないのですが、欲を言えば・時代物を時代に納めようとして・すんなりと納めさせない「破綻」が欠けているのです。そのためには意識して・表現の角かどに世話の切り込みを入れて・表現を生(なま)なものにして行かねばなりません。付け加えておきますが、これは菊五郎に限らず・平成歌舞伎の他の役者にも共通して言えることです。「逆櫓」の稿でも触れた通り・吉右衛門の樋口にも同じことが言えます。時代物を納めようとして納まらせないという高等技術を考えてもらいたいですね。
(H20・12・3)
五代目菊五郎が時事新報に自伝を連載したのは明治35年8月から翌年1月のことでした。その年の2月18日に五代目菊五郎は死去します。五代目菊五郎が当たり役を語ったその芸談はとても貴重なものです。その「自伝」のなかに次のような箇所があります。
『南郷が「手前たちでは訳が分らぬ、主人を呼べ」のところで、今度の松助は襖のなかで「ヘイヘイ、只今それへ参ります」と云ってから襖を開けて出てきますが、これは書き下ろしの三河屋(団蔵)もこうやっておりました。しかし、舞鶴屋(仲蔵)のはここがちょっと違っているので、一体これが時代なれば「主人幸兵衛、只今それへ参ります」と云い切ってから襖を開けて出てくるのですが、世話狂言でございますから、南郷が「主人を呼べ」という時には、もう前に店が騒がしいが何かの間違いだろうと気が付いているのですから、「ヘイヘイ・・」で少し襖を開けて、「主人幸兵衛、只今それへ参りまする」と云いながら出てくる方が至当だろうと思います。もし私がこの役をしたらそうしようと思うのでございます。』(五代目菊五郎:「尾上菊五郎自伝」 ・明治35年)
現行の歌舞伎の舞台で幸兵衛が登場する場面は大抵・襖のなかで「ヘイヘイ、只今それへ参ります」と言い終えてから襖を開けて出てきます。これは五代目の指摘する通り・時代のやり方なのです。まあ間違いという わけでもありませんが、世話本来のやり方ではないことは確かです。これは「書き下ろしの三河屋もこうやっていた」というのですから幕末の昔から混同されていたわけです。ひとつには台詞を言い終わってから襖を開ければ・掛け声をかけてもらいやすいし、役者は気分が良いということがあります。しかし、五代目の芸談を読むと・世話と時代の違いが感覚的に何となく分かってくると思います。
五代目が「弁天小僧は世話狂言でございますから・・」とわざわざ断っていることも興味深いことです。こういう当たり前のことさえうっかりすると忘れられてしまいます。「芸談」を読むと五代目は時代と世話の演じ分けにとても敏感です。例えば初代左団次の南郷は派手な芸風で見得をしたりして確かに見物の受けは良いのですが・自分が演りやすかったのは四代目松助の南郷でした・しかし渋い芸風なので見物に受けないのは損な性分なもので・・・と語っています。あるいは九代目団十郎の駄右衛門が「ただし女と言う張らば、この場で乳房を改め見ようか、さあさあさあ」のところを世話でやっていてこれが良かった ・八百蔵(後の七代目中車)は台詞に生け殺しがなくて困るとも言っています。
駄右衛門が「この場で乳房を改め見ようか・さあさあさあ」という場面を世話でやるというのはちょっと意外に思うかも知れません。これはこの後・うつむいていた弁天役者が顔を上げて・ 悔しそうな思い入れを入れて「・・・こう南郷、もう化けちゃあいられねえ」と言うまでの間の緊張感を盛り上げるために・その直前の「さあさあさあ」をわざと世話に流すのです。 それは次の場面で弁天が顔をワナワナと震わせる間合いが時代に似るからです。この後・弁天がガクッと頭を落として「・・・こう南郷、もう化けちゃあいられねえ」と世話になるからその落差が面白いわけです。
現行のやり方であると駄右衛門の「さあさあさあ」を時代にして・その後の弁天はそのテンションの高さを維持したままワナワナと思い入れをして・ さらに「もう化けちゃいられねえ」に入るということになると思います。これはまあテンポ設計の感覚の違いで・現行のやり方が全然間違いと言うわけでもないのですが、しかし、五代目の指摘するところから見ればこれは時代の感覚なのは明らかです。五代目の指摘には世話と時代の押し引き(生け殺し)が大事だという主張があると思います。押したら・次は引かねばならないし、見物にその押しを強く見せるためにはその直前を引かねばならないということです。これが世話の本来のやり方です。五代目の芸談を読めばそのことがお分かりになるはずです。
弁天の「知らざあ言って聞かせやしょう」も同様で・その台詞のなかにも世話と時代の押し引き(生け殺し)があります。この台詞の言い回しは「知らざあ言って聞かせやしょう」を張らずに流すのが五代目本来の世話のやり方です。現在はこちらの方が一般的ですが・「知らざあ言って」を強く張って・「聞かせやしょう」をサラリと世話に流す十五代目羽左衛門のやり方も伝わっています。しかし、肝心なことは末尾の「聞かせやしょう」を時代に張ってはならぬということです。それでは時代物になってしまいます 。またその後の「浜の真砂と五右衛門が・・」からのツラネ(長台詞)が引き立たないことになります。ツラネを引き立たせるためには・その直前を「聞かせやしょう」をちょっと軽く世話の調子に流す。これが隠し味に効くのです。五代目が言う通り「弁天小僧」は世話狂言であるからです。
そこで平成20年5月歌舞伎座 ・団菊祭での菊五郎の「弁天小僧」のことです。その前月の新聞のインタビューで菊五郎が「先輩たちに世話に・世話にと言われて(弁天を)演じてきたが、今回は自分の思うようにやってみたい」旨を語っている記事を読んで嫌な予感がしたのですが、問題が多い弁天 だと思います。全体としてぼってりと濃厚な味わいがあって・そこに退廃的な雰囲気もある弁天だと言えます。このことをどう受け止めるかで評価は変わると思いますが、吉之助は・これは完全に時代の重い行き方であると感じます。菊五郎は五代目菊五郎が芸談でこれが世話だと語っていることの・ことごとく逆を行っていると思います。「知らざあ言って聞かせやしょう」を大きく時代に張り上げているし、「弁天小僧菊之助たァ俺がことだ」でもほとんど正面向いた大見得を見せています。長台詞の七五調も思い切り長く引っ張って・メリハリのないダラダラ調です。型物としての芸の段取りに耽溺し過ぎるように思われます。 その意味では確かに巧いですよ。しかし、段取りのなかにもっと写実の切り込みを意識的に入れて行くのでなければ世話にはなりません。菊五郎の若い頃の斬れの良い弁天が懐かしく思い出されます。昭和48年(1973)七代目菊五郎襲名の時の「弁天小僧」は当時流行のヒッピー風俗の影響を感じさせる興味深いもので、これは戦後歌舞伎のひとつの事件であったと思います。もちろん若い頃と・円熟期の現在では同じ役を演じてもそれぞれの時期にふさわしい味を出すべきで・同じ感触であり得ないのは当然です。しかし、この重い時代の感触の弁天を菊五郎ならではのものと認めるとしても、「これが弁天小僧のお手本」だと若い観客に勧めるわけにはいかないと吉之助は思います。これも平成歌舞伎の保守化傾向の表れでしょうかねえ。
(H20・11・28)
○平成20年4月歌舞伎座:「勧進帳」・その2
近年の「勧進帳」の舞台で感じるのは、歌舞伎役者に富樫は高調子・弁慶は富樫に比べると低調子という思い込みが強いと思えることです。この思い込みがどこから来るかと言えば・十五代目羽左衛門の高調子の富樫があまりに素晴らしかったからでしょう。別稿「勧進帳は音楽劇である」に書きましたが、明治期の九代目団十郎(弁慶)は高調子・五代目菊五郎(富樫)は低調子で ・実はこれが本来の「勧進帳」の音楽設計なのです。音楽バランスとしてはそうなるわけですが、しかし、それはともかく自分の声質に合わない調子を無理に作る必要はないと思います。役の性格描写に無理が出てしまいます。
平成20年4月歌舞伎座の「勧進帳」での勘三郎の富樫ですが、勘三郎は元来低調子の優なのに・無理して声を高調子に持っていこうとしていると感じられます。これは平成11年8月歌舞伎座で三津五郎の弁慶を相手に勘三郎(当時は勘九郎)が富樫を演じた時にも同じことを感じました。無理に声を高い調子に作ろうとするので・山伏問答の台詞がエキセントリックに感じられて、そのため松羽目(謡曲オリジナル)の格調が損なわれています。だから富樫の人物像が小さくなってしまいます。もちろん山伏問答において富樫は切迫感を表出せねばなりません。しかし、 それは声の調子で作るのではなく・正しくは台詞のリズムで作るのです。これは能の演技において役者が顔の表情の変化を抑えるのと同じことです。そこに能取り物としての格調があるのです。
同様なことを弁慶役者にも感じます。弁慶は富樫より声を低く持っていくべしみたいな思い込みがあるようです。仁左衛門も三津五郎も・勘三郎に比べれば本来の調子は高い優なのに・声を低めに重めに作ろうという意識が見えます。これが勧進帳読み上げや山伏問答 を重くする原因になっています。最近の歌舞伎役者は「勧進帳」を台詞劇だと思っているようで、能取り物だと言う意識が希薄なのかも知れませんねえ。
「勧進帳」の優れた録音はいくつかありますが、吉之助のお奨めは・昭和35年(1960)4月に先代(八代目)幸四郎(後の初代白鸚)の弁慶・先代(十七代目)勘三郎の富樫・七代目梅幸の義経という豪華配役で行われたスタジオ録音(キング・レコード)です。この録音は長唄囃子連中もとても優れていて 、実演の熱さはないかも知れませんが・スタジオ録音ならではの完成度があって参考資料としてとても良いものです。この録音での幸四郎(高調子)と勘三郎(低調子)の山伏問答を是非聴いてみてください。ふたりとも自分の声質で・無理のない発声をしています。これが「勧進帳」の本来の声質バランスだと思います。
歌舞伎十八番 勧進帳 (キングレコード・CD)
(H20・11・19)
『私はこんにち歌舞伎座の舞台構造が、少し語気を強めるなら、かぶきの本質的なものを歪めたし、それが、その後のかぶきの全体に波及し、更にはそのままの流れが現在に至っているとさえ言えるのではないかと思っている。』(利倉幸一:「雑談・大正の歌舞伎・8」〜「演劇界」昭和56年11月号)
先月(10月)20日に老朽化のため建替えが検討されていた歌舞伎座が来年(2010)4月末で一時閉館となり・ビルと劇場の複合施設として平成24年(2013 )に再開場するということが松竹から発表されました。現在の歌舞伎座の建物は国の登録有形文化財に指定されているもので・現状保存の声も強くありましたが、最終的に建替えの結論になったようです。
さて冒頭に掲げたのは利倉先生が「歌舞伎座の舞台の大きさが歌舞伎の本質を歪めた」と指摘した文章です。この利倉先生の ご指摘はその後の吉之助に強い影響を与えたものです。昭和56年と言えば吉之助が歌舞伎をちょうど本気で見ていた時期でした。利倉先生の主張するところは、多少語弊がありますが・歌舞伎座のかぶき(すなわち現代の歌舞伎ということ)は決して本物でないということです。ただしそれは偽物ということではなく・またそれが悪いということでもないのですが、「本物に良く似ているけどそれはどこかが違う」ということです。歌舞伎を見る時は吉之助はそのことを常に頭のなかに置いて舞台を見てきましたから、正直申し上げると・歌舞伎座取り壊しのニュースに吉之助はあまり感慨がないのですなあ。老朽化ならば仕方ないか・まあ良い劇場作って下さいね・・というところです。しかし、これで歌舞伎の本拠地である劇場がリニューアルされれば、歌舞伎も必然的にリニューアルされることになる・それが歌舞伎の新たな変質を生むということも確かなことです。
当然ながら舞台のサイズは芝居にとって大きな問題ですが、実はその背景には商売・つまり一回の公演でどれだけ多くの観客を詰め込めるかという採算の問題があります。その昔・国立劇場が設立される時の諮問委員会で郡司正勝先生が「舞台はできるだけ小さめに・できれば二長町市村座くらいのサイズに」と発言したそうですが全然相手にされなかったそうです。国立劇場でさえこの通り。ましてやあの松竹が今回の改築で歌舞伎座の舞台を小さめにするなどと殊勝なことを考えるとは思えないので・この点は注意する必要がありますが、もうひとつの問題が観客席の構造の方にもあります。特に三階席のことです。
吉之助の見た歌舞伎の舞台は歌舞伎座で見たものが大半ですから・歌舞伎座が吉之助のなかに占める位置は小さなものではありません。二代目松緑の最後の「勧進帳」などこれはどうしても・・というものは大枚払って一階席で見ましたが、当然ながら・ 若い頃の吉之助はそのほとんどを三階席から見ました。しかし、花道七三が全然見えない三階席を吉之助が良いと思ったことはありません。役者が花道にかかると・三階の多くの方が立ち上がって・背伸びして見ますが、吉之助は席を立ち上がることはしません。天井見ながら役者の声だけを聞いています。この点が改善されるならば歌舞伎座の改築は大賛成と言いたいくらいに・吉之助は歌舞伎座の三階席が嫌いです。歌舞伎で花道七三が見えない席ということは、三階席のお客は正式なお客じゃありません(まあ採算の埋め合わせということだな)と言うのに等しいとずっと思っています。
劇場構造上から言えば・現状の歌舞伎座と同じ造りで三階席から花道をよく見えるようにするなら、三階席は今より舞台から遠くなるか・座席数を少なくするしか多分対策はないでしょう。多少の問題がつきまといますが、花道が見えない三階席など歌舞伎の殿堂としてまともではない・と吉之助は思います。今日の歌舞伎の隆盛が三階席の観客から始まったことは確かなことですし、松竹にはこの姿勢は改めてもらいたいと思います。多分設計プランはかなり進行しているものと思いますが、三階席の観客を育てるということは・次の時代のホントの歌舞伎の観客を育てることなんだという長期的な視点に立ってもらいたい・そのこと切にお願いしたいものです。
(H20・11・15)
今月(11月)国立劇場は江戸川乱歩の小説「人間豹」を歌舞伎に翻案して・舞台を昭和初期から幕末の江戸に移し変えた「江戸宵闇妖鉤爪(えどのやみあやしのかぎつめ)」です。この芝居をご覧になった評論家犬丸治さんがサイト「歌舞伎のちから」の随想「11/08・推理なき乱歩劇」のなかでとても正直な気持ちを吐露なさっています。吉之助はこの芝居を見ていないので・芝居の出来を言うことはできないですが、同じく批評を書く身として犬丸さんの嘆息する気持ちは分かる気がしました。以下は「江戸宵闇妖鉤爪」と直接には関係ないものとお読みください。
歌舞伎の新作物の批評を書くのは・古典の舞台を批評するのとまったく違う苦労があるものです。それは「歌舞伎とは・歌舞伎らしさとは」という評者のなかにあるイメージを試されるということです。それによって評者が保守派か・進歩派か(ただし進歩派だから良いというわけではないのだが)、日和見主義者か(そういう批評家いません?)・単なる分らず屋かどうかが分かるのです。芝居は面白いければそれで良い・エンタテイメントならばそれで良いというのは・それはお芝居の楽しみ方としてそれで結構ですが、批評を書く場合はそういうわけにはいきません。それが歌舞伎になっているか・硬直した歌舞伎のレパートリーに新しい息吹きを与えるものがあるかどうか・そういうことを念頭に置きながら批評家は舞台を見るのです。いくら観客が沸いていたとしても・そうしたヒントがもらえない舞台は空しく感じられるものです。吉之助も新作ではないですが・ある方の演出作品で・途中で席を立って帰ろうかと思ったことがありました。
報道で「翻案」と言うので・吉之助も一応それに従って翻案という用語を使用してはいますが、「NINAGAWA十二夜」や「愛陀姫」は厳密に言えば原作の設定の置き換えであって・翻案という域にまでは至っていないと吉之助は思っています。「翻」という字には「原作の意味を異ジャンルの技法によって化学変化させる・質的変化を起こす」ような積極的な意味がなければならないと思います。例えば翻案ということならば「ウェストサイド物語」は「ロミオとジュリエット」の実に見事な翻案でした。あの最後の場面でマリアは死にませんでした。仲間が彼女の頭に黒いベールを掛けてあげることで未亡人としての暗示がされますが、マリアが怒りを胸にぐっと沈めたままで・「ウェストサイド」の幕が下ります。これが効いているのです。ふたりが死ななきゃ「ロミオとジュリエット」の悲劇にならないということではないのです。ですから何を変えて・何を変えなかったかということが翻案の場合は非常に大事なのです。
歌舞伎への翻案ならば・原作を翻案することで歌舞伎であることの意味をどうやって示すかということです。もうひとつは原作の本質を変えないで残すことで・それが歌舞伎のなかにどんな新しいものを付加できるか・ということです。翻案ではこのどちらもが等しく重要なのです。「NINAGAWA十二夜」や「愛陀姫」では歌舞伎役者は自分は安全地帯にいるところで・冒険だ実験だと言っているような感じがありました。原作の骨格を壊すことを怖がっているようなところがあるようです。このくらいやればまあそこそこ歌舞伎になってない?という感じで中途半端に留めている感じです。原作を読んで・これを歌舞伎にしたい!と最初に感じたインスピレーションをとことん追求してもらいたいのですねえ。そこまでいかないとその作品にふさわしい「歌舞伎らしさ」の正体は見えてこないのではないでしょうか。
(H20・11・11)
歌舞伎チャンネルで平成20年4月歌舞伎座での「勧進帳」の放送があったので見ました。仁左衛門(弁慶)・勘三郎(富樫)・玉三郎(義経)という興味深い顔触れなので期待して見ましたが、三人三様・それぞれ自分のイメージで芝居をしているような舞台で問題が少なくないようです。まず勘三郎の富樫ですが、山伏問答でいきり立ち・問答が進む度に身体がだんだん前に出てきて、「出で入る息は」ではついに弁慶と鼻を突き合わすところまで前に出てしまいます。これほど表情過多でいきり立つ富樫がどうして一転して一行の関所通過を認めるのか・富樫の心理変化が舞台を見ていてどうもよく分かりません。これではどうしても勘三郎の評点は辛くなりますが、しかし、確かに勘三郎に問題はありますが・これは全部が全部勘三郎のせいなのでしょうか。富樫がこうなったのは仁左衛門の弁慶にも半分くらい責任があるように吉之助には思えて仕方ありません。
勘三郎の富樫を見るに最初の名乗りはなかなか良いのです。この名乗りの部分を見ればむしろ三人のなかで最も松羽目の規格に沿った感触を感じさせるのが勘三郎です。「勧進帳 を遊ばされ候へ」の辺りまでは良いのです。ところがこれが山伏問答の途中あたりから無残に崩れていきます。思うに勘三郎は先輩の「勧進帳」を良く知っており・そのイメージを忠実に追おうとしていることが途中まではよく分かります。山伏問答は芝居の問答ではありません。「勧進帳」という音楽劇のなかの問答であり、計算されたテンポ設計の上に乗っているのです。このテンポ設計を勘三郎は自分なりに追おうとしています。これについては別稿「勧進帳は音楽劇である」を参照ください。とにかく山伏問答のリズムは富樫が作るものです。ところが弁慶が富樫のリズムに乗ってこない・ 弁慶が押し返してこないように感じます。富樫は自分のなかにあるテンポのイメージで弁慶を押す・しかし弁慶がリズムに乗ってこない・もどかしくて富樫は力んでさらに押す・しかし弁慶はそのリズムに乗ってこない・ 富樫はもどかしくて身体が前へ出る・・・そうしている内にいつの間にやら富樫は弁慶の鼻先にいたという感じなのです。
仁左衛門の弁慶ですが、「倍の速度でしゃべれ」と言われても・難なくこなすであろう歌舞伎界随一の台詞術を持つ仁左衛門がこのゆっくりした速度で山伏問答をやるのに彼なりの意図があるということは理解はします。しかし、噛んで含めるような・ 言葉が分かり易い問答というのは「勧進帳」に不要なのです。「もとより勧進帳のあればこそ」・・・観客はこの難局を弁慶は乗り越えられるかとハラハラして見るのです。熱くなるべきは富樫ではなく・弁慶なのです。弁慶が冷静に事を処理するのではドラマになりません。それならば義経を金剛杖で打ったのも計算してやったことじゃないかと言いたくなりますが、「判官御手」ではその弁慶がやたら感激してワンワン泣くのだから、仁左衛門に限ったことではないですが・近年の「勧進帳」は困ったものだと思います。それにしても富樫を演らせれば仁左衛門は当代一であると吉之助は思いますが、 これまで富樫を演っていて・仁左衛門は相手の弁慶役者のことをどう思っていたのか・こういう問答がしたかったのかなあと・ちょっと不思議に思いました。
一方、玉三郎の義経はこれも意図あるのでしょうが・台詞が大きく間延びして、この世に在って・この世の者ではない存在という感じの義経です。まあ確かに歌舞伎の義経は神性を備えた人物です。しかし、正確に言えばその神性は義経自身が顕すのではなく、周囲の人物たちが感応して・その神性を示すものなのです。ですから「勧進帳」でも義経の神性を示すのは弁慶であり・富樫です。義経はそこに「在る」ことだけでそれを受けるのです。ですからこれは難しいことですが・義経役者は表現しようとしてはいけないのです。七代目梅幸の義経はそうした義経でしたね。
(H20・11・7)
少し前のことですが・NHKハイビジョンで「奇跡の映像 よみがえる100年前の世界」というドキュメンタリー(英国BBC製作・9回シリーズ)を放送していましたので・これをとても興味深く見ました。これは20世紀に入って急速に変化していく世界に衝撃を覚えたフランスの富豪アルベール・カーンが 、世界の現状をありのままに写真や映像で記録しようと私財を投じて始めた「地球映像資料館」という大プロジェクト の全貌を紹介したドキュメンタリー番組です。1908年頃、カーンは撮影技師を雇って・世界各地に派遣し、世界の人々のありのままの生活を映像で後世に残そうとしました。また第1次世界大戦前後に大きく変貌するヨーロッパの状況がつぶさに記録されています。当時はまだ珍しかったカラー写真や映像の技術をふんだんに使っていることと、 純粋に記録が目的なので・演出臭が少ないのが特徴です。このプロジェクトは1929年の世界大恐慌でカーンが破産するまで続 けられました。現在はパリ郊外のアルベール・カーン美術館(カーンの旧邸宅)でその映像が整理されています。
吉之助が驚いたことのひとつは歴史本で白黒写真では漠然と知っていたはずの歴史のイメージが色付きになって・さらに動画になると、遠い過去の出来事ではなく・ついちょっと前の出来事のように 見る者に半ば同時代的にとても生々しく迫ってきたことです。死者が蘇ってきたような感覚があって・吉之助はこれらの映像に目が釘付けになってしまいました。当時はカラー写真・動画などはとても高価なものでしたから、後世から見た映像の 資料的価値は計り知れません。番組では当時の日本の映像もちょっと出てきましたが、江戸を思わす町並みに電信柱が立ち・路面電車が走る光景(これは白黒映像でした)は不思議と珍妙な感じがしません。「西洋に追いつけ」をスローガンとした当時の日本の雰囲気がよく分かります。もうひとつは第1次世界大戦前後に・世界(カーンの映像はヨーロッパが主体になっているますからヨーロッパということになりますが)の構造が大きく変貌していくことが映像でよく分かることです。カーンが「地球映像資料館」を始めた動機は直接的には20世紀初頭のナショナリズムの台頭(民族自治の思想)にあ ったようですが、「地球映像資料館」の映像を見るとグローバル化の動きがこの時代から始まっていたことも逆に実感されます。
映像は現代においては溢れるほどで・誰でも携帯電話で撮影して簡単にYouTubeに投稿できる時代ですから映像の資料的価値は相対的に下がっているでしょうが、逆に言えば映像の日付けが曖昧になってくる(映像と時代との関係性が薄らいでくる)と時代感覚が ちょっと変化してくるような気がします。百年後(未来)の人がそれこそ溢れんばかりに豊富でしかも解像度が良い21世紀初頭(現代)の映像を見ても・死者が蘇ったような感覚を持つことは多分ないでしょう。しかし、歴史を同時代的に捉える感覚が持てるかも知れません。これは悪いことではないような気がします。
(H20・11・3)
NHKテレビで先日(平成20年9月)歌舞伎座の「ひらかな盛衰記・逆櫓」の舞台が放送されたので見ました。平成歌舞伎として優れた舞台だと思いますが、この舞台に限ったことではなく・近年の歌舞伎の傾向として表現が幾分時代に寄って重めに感じられます。多分その方が 納まりが良いように感じるのでしょう。そう書くと「ひらかな盛衰記」は時代物じゃないかと思う方がいると思いますが、「松右衛門内」は時代物のなかの世話場なのです。つまり庶民の生活のなかに非情な権力構造の論理が突き刺さってくる場面です。このことは「 鮓屋」 などでも同様ですが、「松右衛門内」は権四郎が権力の理不尽さに対して怒り狂い・猛然と抗議を始めることで分かる通り・バロック的な要素が特に強く出ています。ですから世話と時代の使い分けの彫りを深くすることで・ 納めようとしても納まらぬものが描き出されれば良いなあと思います。
歌六の権四郎は初役だそうですが、老け役が不足しているなかで・歌六がこれだけ演れたことは嬉しいことです。歌六は今後貴重な役者になっていくでしょう。お筆を叱責する場面の長台詞は義太夫の台詞回しもうまく・床との調和も取れていて、まずはこれで十分です。さらに台詞を写実な世話の方向へ追求して行けば・ もっと良い権四郎になると思います。文楽の大夫においても地(台詞の部分)と色(音楽の部分)の差を 際立たせるかということが大事な命題です。文楽の大夫の場合はそれをひとりで使い分けるところに苦労があるのですが、歌舞伎の場合は役者が地を持ち・床が色を分けて持つわけです。この構図自体に引き裂かれたバロック的要素が存在するので、これは歌舞伎と文楽を比較 した場合の歌舞伎の絶対的なアドバンテージです。しかし、現行の歌舞伎はこの長所を最大限に利用しているとは言い難いと思います。役者がこれを床に協調する方向に意識してしまうと表現ベクトルが逆になり勝ちです。歌舞伎役者に義太夫の素養はもちろん必要ですが、舞台で義太夫通りに台詞をしゃべるだけでは写実から離れて歌舞伎にならぬことがあるのです。もちろん崩し過ぎては元も子もないですが。ですから写実を意識することで権四郎の怒り・嘆き(それは権力との和解を拒否するものです)がずっと生(なま)なものに見えてくるはずです。
これは樋口についても同じことが言えます。樋口は世話と時代の使い方が難しいとはよく言われることですが、歌舞伎では樋口の見顕しの場面にも樋口とそれに反応する周囲の人物の台詞に入れ事(文楽にはない台詞)が細かく入っています。その台詞をよく見れば・ この場面の歌舞伎の入れ事は世話と時代の乖離を強調することを意図していると吉之助には感じられます。実は樋口は上手一間より若君を伴って登場する 時点で自分の正体を明かす覚悟がまだ完全にできてはおらぬのです。安易に正体を明かしては・身内から素性が外部に漏れることになりかねません・その危険は避けたい ・できることなら正体は明かしたくない。そういう躊躇が樋口のなかに依然としてあります。もうひとつ大事なことは怒り狂う権四郎の気持ちを樋口は痛いほど理解しているということです。決して樋口は封建主義に凝り固まった人物ではありません。ですから樋口はお筆を制して「言ふてよければ身が名乗る」と言い、権四郎に対しては「親父様スリャどうあっても槌松が敵・この子を存分になさるか・・・・ハアヽぜひもなし」と とても言いにくそうにしています。つまり樋口は納めようとして納まらぬものを・無理矢理納めねばならぬ理不尽さを自分のなかに感じているのです。ですから樋口が覚悟を決めて名乗りを始めるまでに・何度かの逡巡があり、そこに時代と世話の様式が交錯しながら・遂に時代という竜が地底から頭を持ち上げるが如くに・樋口の演技が大時代に 次第に変化していく・そのようなプロセスを歌舞伎で見たいわけです。(この点では文楽の樋口のプロセスは単純で・樋口は「権四郎、頭が高い」の箇所で一気に時代に入るのです。)
「ヤレ待て女房、人を集むるまでもなし」では「ヤレ待て女房」を強く鋭く・しかし世話に、「人を集むるまでもなし」を低くやや時代に 近く(しかし完全な時代ではなく)・グッと相手に有無を言わさぬように押したいと思います。「親父様スリャどうあっても槌松が敵・この子を存分になさるか」は声を高く・世話に言い、「・・・ハアヽぜひもなし。この上はわが名も語り仔細を明して上のこと」は声を低く低く時代に近く(ここも完全な時代ではなく)自分に向かって言うようにしたいと思います。「権四郎、頭が高い。イヤサ頭(かしら)が高い」では「イヤサ頭(かしら)が高い」が歌舞伎の入れ事です。本来文楽では「権四郎、頭が高い」は時代の台詞でしょうが、歌舞伎では「イヤサ」と言い直しているのですから「頭(かしら)が高い」の方が時代になるのです。しかも、ここは義太夫から離れて歌舞伎の荒事風の要素を強くして甲の声で高く張らねばなりません。ですから「権四郎、頭が高い」は その対照でやや低い調子になりますが、ここがどちらかと言えば世話に近い感じになります。これでお分かりの通り・世話と時代が交互に現れて、グッ・グッ・グッと段階的に時代の表現が前面にでてくる設計になっています。これが歌舞伎脚本が本来意図するところの樋口だと思います。入れ事をした狂言作者はなかなか優れ者だと思いませんか。
しかし、残念ながら現行の歌舞伎の樋口を見ると、上手一間より若君を伴って登場する時点でもうただならぬ雰囲気であり・半ば正体が割れています。 つまり収める方向への意識が強いということです。今回の吉右衛門の場合も例外ではありません。吉右衛門の樋口は見顕しで門口に立って外を見込む形など押しが効いて素晴らしい もので・義太夫狂言らしい安定感が確かにありますが、重厚な印象を多少犠牲にしてでも・世話の彫りをもうちょっと強めにすることでさらに素晴らしい樋口にできるはずです。初代吉右衛門の樋口は文献でしか知りませんが、「熊谷陣屋」の映像から推察すれば・スケールは多少小さかったとしても・写実の要素を確実に押さえた等身大の樋口であったと吉之助は想像をします。
(H20・11・1)
新宿・紀伊国屋ホールでの巣林舎第6回公演「殩静胎内捃」(ふたりしずかたいないさぐり)の舞台を見てきました。近松門左衛門の埋もれた時代物を上演していこうという連続的な試みで・歌舞伎のスタイルではありませんが、とても意欲的な試みです。特に三段目「大津二郎宿」 に当たる場面(今回の脚本では第5場)はとてもインパクトのある舞台に仕上がりました。この舞台については機会を改めて書く予定なので・今回は別視点から書きます。こうした実験的で・しかも素晴らしい舞台を見ますと、吉之助はこういう批評サイトをやっているせいもありますが・「新劇スタイルでこれだけ素晴らしい・ならば歌舞伎ならどんな素晴らしいものにできるか・歌舞伎はこれ以上の舞台を作れるか」ということを常に頭のなかに置きながら見るわけです。結論から書きますと、吉之助は「殩静胎内捃」のような作品が歌舞伎で上演される環境になることを心底願ってはいますが、歌舞伎役者が現状の感覚で本作を上演しても多分・巣林舎の舞台を凌ぐ舞台は出来ないだろうと思っています。きちんとした指導者(脚本家・演出家)と・十分な練習期間が必要になります。現代の歌舞伎役者は25日制に慣れすぎて・舞台をさっさと手早く仕上げて・一応見られるものに仕上げてしまう・それ以上のものでもそれ以下でもない舞台・という感覚に慣れすぎています。
吉之助が南北の「盟三五大切」を初めて見たのは昭和54年の青年座での舞台でした。当時も南北の「盟三五大切」の上演は珍しいことでしたが、青年座の舞台は衝撃的な舞台でした。(この舞台については別稿「人格の不連続性」で取り上げましたから・そちらをご覧ください。)この時も「新劇でこれだけ素晴らしい・ならば歌舞伎でやったらどれだけ素晴らしいことか」と思ったものでした。しかし、その後・歌舞伎での「盟三五大切」の舞台を何度か見ましたが、衝撃度において青年座での舞台を上回ったものはなかったと思います。 悪いということでもないが・全体にぬるい感じで「なんだ歌舞伎ではこんなものか」という軽い落胆をいつも感じさせられ たものです。
もちろん新劇と歌舞伎では切り口が違いますから、吉之助は同じ種類の衝撃を歌舞伎に求めているのではありません。新劇は現代的視点から作品を見つめ直して・そこに現代との同時代性を見出そうとします。青年座も・今回の巣林舎の舞台もそういうものでした。ならば歌舞伎は過去の視点から「ここにお前たちの時代と同じ生の実相がある」ということを 未来の観客に向けて鋭く突き付けなければならないのです。歌舞伎からの衝撃はより重いものでなければなりません。それが伝統芸能の役割なのです。ひとつの問題が脚本(テキストアレンジ)と演出にあるということは当然言えます。しかし、さらに重要な問題が実は歌舞伎役者の写実の感情表現から遊離したのっぺりした台詞まわしと緩いテンポにあります。
実はこの問題は歌舞伎の新作あるいは復活物の上演に限ったことではありません。むしろこれは普段上演している古典の舞台のなかに日常的に潜んでいる病根であり、それが復活物の上演という段に なって急に顕わになるに過ぎないのです。言ってみればメタボリック・シンドロームみたいなものです。「あなたは病気です」と宣告されてからじゃ事態はもう遅いわけです。本稿は「雑談」なので・ ここでは問題提起に留めますが、台詞まわしとテンポの問題は「歌舞伎素人講釈」で今後も機会をとらえて何度も考えていていきたいと思っています。
渡辺保著:近松物語〜埋もれた時代物を読む(新潮社)
(H20・10・25)
本サイト「歌舞伎素人講釈」に「連載コーナー」を新設することにしました。これは最近の本コーナー「吉之助の雑談」が雑談(つまり単発の短く比較的軽めの文章)ではなくなって・長文の重い論考の連載が多くなってしまっているので・これを「連載コーナー」に移して、「雑談」コーナーを本来の軽い形に戻すことを意図しています。長文論考は完結後に形を整えて・独立した記事としてサイトに納めることとしていますが、別の題材が浮かんでも・連載中は間に別の話題を挿入掲載することが気分的に難しく・これまでいくつかの話題をタイミングを逃してボツにしてしまいました。コーナーを分けることで・その点が多少解消されると思います。 ただし連載が完結するのはその分遅くなるかも知れません。
その背景としては、この2年くらいで吉之助の執筆スタイルが大きく変化していることがあります。昔は常に何本かの原稿ストックを持ちつつ・サイト更新やメルマガの発行ペースを調整しながら・執筆をしてきました。現在の吉之助は 原稿を完成させずに未完のままで・ある程度の設計図が出来たら・この都度掲載する部分(章)だけを書いてサイトにアップする形にスタイルが変化しています。これは新聞連載をしている作家の方が翌日掲載分を前日に 書いて・新聞社に毎日原稿を小出しに送付するのと同じことです。このスタイルの良 い点は、重い荷物を一気に持ち上げるのではなく・小出しに分けて持ち上げると気分的に楽なのと似た感覚で執筆を続けられるということにあります。ひとつには、このところ題材が観念的に重くなっているせいがあります。それなりの資料的裏付けと論理的根拠がないともちろん論考は書けませんが、最初からがっちりした論理構成を以って完全に固めて書こうと思うと・いつまでたっても書き始められないのです。ある程度当たりをつけたら見切り発車で書き始める必要があるということを痛感します。
もうひとつこの執筆スタイルで原稿を書いていて面白いことは、最初にラフな設計図を以って書き始めると・書いているうちに文章が予期しない方向にどんどん伸びていくことがあるということです。そういう論考は間違いなく出来が良いようです。結論は変わらなくても途中でアイデアが涌いてきて論理展開がしばしば大きく変化する・結果として文章は当初予定より長くな ってしまいがちですが・展開に変化が出て論考としてはより面白さが増していると感じます。したがって、今後の吉之助の仕事や体調のからみで・サイトへの原稿掲載ペースあるいはメルマガ発行頻度に多少波が出ることはあると思いますが、当面このスタイルで執筆を続けていこうと思っています。
(H20・10・22)
○扇雀の美しさ・その4:写実の女形の幻影
武智鉄二の女形観は(弟子である吉之助も同様ですが)古典的でストイックなもので、どちらかと言えば文楽の人形に近い感覚から発しており・そこからバロック的な方向へ視点を取るという感じがあるかも知れません。本稿は女形の外見的な美しさ だけを論じているので・他の要素については別の機会としますが、そう考えれば扇雀の美しさというのは肉感的で・肌の温もりを感じさせるもので・感覚的に健康なものであり、そこにグロテクスで不健康という印象はありません。一方・女優には演じることが出来ない政岡は女形の虚飾の技術を尽くした役どころでグロテスクな要素を強く持っていますから、その辺に視覚的な齟齬があるようです。吉之助が「生な美しさがちょっと邪魔になる」と言うのはそこのところです。
しかし、このことは扇雀の美しさが歌舞伎の女形として邪道であるということを意味しません。別の視点で見ると・武智の女形観は女優参加が禁止される以前の歌舞伎の写実への憧憬を強く持っており・それが幕府の政令によって禁止されて・写実の表現が無理やり捻じ曲げられたためにやむなく生じたグロテスクで歪んだ虚飾の技術がいま女形の美の本質と言われるようになってしまったという史観から発しています。ですから素の美しさを何の疑念もなく・素直に提示して・それでそのまま通用してしまう容姿を持つ女形というのは、まさに武智が憧憬するところの 創成期の歌舞伎の写実の原点を想起させるわけです。それが若き扇雀という存在であったと思います。武智の「女形不要論」(昭和31年)の文章は直接的にはその前年に「東は東」を狂言様式で演出した時の萬代峯子の演技の素晴らしさをきっかけに論が書き出されていますが・実は萬代のことは論の取っ掛かりに過ぎません。それ以前に扇雀との出会いがなければ武智の「女形不要論」は成立しなかったと思います。その意味で扇雀も萬代も「女形不要論」も戦後民主主義そのものなのです。
当時の歌舞伎の世界で武智の「女形不要論」の本意は理解されたとは言えませんでした。「女形不要論」をきっかけに評論家の戸部銀作氏との間で交わされた討論はほとんど論点がかみ合わず・議論らしい議論にならずに終わってしまいました。それは戸部氏がジェンダーな虚飾の技術が定着した後の歌舞伎と女形の関係を歌舞伎の本質(最初からそのようにしてあったもの)とする立場に固執するばかりであったからですが、多くの人が武智の「女形不要論」を戸部氏同様に受け取ったと思います。しかし、もし「女形不要論」が 若き扇雀のことをきっかけに書き出されていれば、武智の本意はもう少し理解されたかも知れません。
そう考えれば扇雀に点が入る役どころは、写実という観点においてやはり「曽根崎心中」を始めとする近松の世話物の役どころになるのは当然です。それは享保の初代富十郎以前・すなわち内輪歩きなど女形の虚飾の技術が発達する以前の役どころだからです。ですから昭和28年に扇雀が「曽根崎心中」を引っさげて登場し大ブレークというのは・まさに戦後という時代がそのような女形を求めたとしか言いようがないものでした。そこで話を振り出しに戻して扇雀の「高野聖」の美女の半裸姿のことですが、たとえそれが一時の仇花の美であり・決して女形の形として定着することがないものであったとしても、若き扇雀の肌の美しさには 創成期の歌舞伎が夢見た写実への憧憬があったに違いないのです。
(H20・10・16)
○扇雀の美しさ・その3:美しすぎる女形
思い出すのは平成18年(2006)1月歌舞伎座での坂田藤十郎襲名での「伽羅先代萩」において、我が子千松を刺し殺された政岡が八汐に「政岡、現在のそなたの子(殺されて)悲しうはないかいの」と問われて、「何のマア、お上へ対し慮外せし千松、ご成敗は御家の御為」と答える場面です。この政岡の台詞を男の地声で強く言い切った藤十郎の政岡の演技は圧巻というべきものでした。政岡が背負う時代の状況は・女優にはとても表現できないほど重いものです。藤十郎から発せられた男の地声はグロテスクを感じさせ、それが政岡に課せられた引き裂かれた状況を 見事に表現しました。まさに女形にしか出来ない表現でした。
しかし、この場面では吉之助はこういうことも感じました。藤十郎の視覚的な美しさはちょっと生(なま)な写実的な美しさであるので、その美しさと男の地声のグロテスクさに感覚的な齟齬があるということです。その齟齬がバロック的と感じられるならば・それは女形の本質に沿うわけです。確かにそう言えないこともないのですが、吉之助は藤十郎(扇雀)の演技に感嘆しつつも・例えば 藤十郎が亡くなった九代目宗十郎のような古風な容姿の女形の政岡ならさぞかしバロック的な感覚が強烈に感じられる政岡になるだろうに・・・という感じがないわけではなかったのです。芸とは関係ないところで・藤十郎は素材としてちょっと美しすぎるということです。 生な美しさがちょっと邪魔になるのです。いや芸とは難しいもんだわという気がしました。
実は吉之助は武智理論のストイックな女形のイメージと扇雀の生身の女のイメージに齟齬がある感じをずっと持っています。もちろん扇雀は武智仕込みのしっかりした技芸を持っています。その技芸に問題があるということではありません。味付けを抑えたシンプルな料理では素材の良し悪しがその出来を直接的に左右するように、虚飾の要素を剥ぎ取ったシンプルな女形の技芸ではむしろ役者の素材としての美しさがより重要な要素になってクローズアップされてくるということです。いずれにせよ・その辺に理論と実践の難しい問題が潜んでいます。これは武智理論の問題でもあると言えるかも知れません。(この稿つづく)
(H20・10・13)
○扇雀の美しさ・その2:セクシーな女形
ひとつにはアメリカさんがやって来て江戸からずっと引きずっていた封建主義の尻尾が断ち切られたという感覚から戦後日本の民主主義が出発したということがあります。まあそれは今から見れば幻想もあったわけですが、当時はそう感じられた時代でありました。そうした雰囲気が歌舞伎に影響しないはずがありません。一番影響を受けたのは女形の存在です。もともと女形というのは 幕府が女優を禁止したから仕方なく出来たもので、本来ならばあり得ないものだからです。「男が女をやるなんてそんな不自然なものは止めてしまえ・今は男女同権の時代だぞ・ 女形なんて時代遅れの遺物だ」という声が起きるのは当然と言えば当然のことです。男女同権によって歌舞伎の女形存続の根拠が失われたのです。このような時代に対処するために多くの女形はこれを伝統的な 特殊技能として割り切る形で対処しました。歌右衛門だけは時代に挑戦的に対峙しましたが、これについては別稿「歌右衛門の今日的意味」を参照ください。一方、扇雀の場合はまだ若いので・素材としての要素が勝つわけですが、扇雀は実に素直な感性で民主主義の感覚を取ったと思います。女形を不自然と思わせない素の美しさがあったということです。どこか「お隣りのキレイなお姉さん」的なイメージがあったと思います。
こうした感覚を扇雀を育てた武智歌舞伎の観点から見てみます。武智鉄二の理論からすると女形が素材として美しいかどうかということは本来必要条件ではないはずです。女形にまつわりついた虚飾の技術・グニャグニャした身振りとか・「じゃわいなあ・・」という言葉遣いなどを武智は嫌いました 。武智は古典的なスッキリしたイメージを女形に求めたと思います。こういう感覚は戦前は「女は女らしく」と言われて・内股でチョコチョコ走らないと・おしとやかと言われなかったものが、戦後は外股で歩幅大きくサッサと歩くのが「いい女」になったのと同じ感覚です。それでも歩いている女性という本質は変わらないはずだとするのです。武智の「女形不要論」(昭和3 1年)はそのような戦後感覚で・芸の本質をアンチテーゼ的に問うものでした。つまり、歌舞伎に女優が参画しようと思えばそれができる男女同権の時代になった今・ジェンダーな虚飾の演技は女形に必要かということが武智の問いなのです。ところが、そうした女形の虚飾の要素を剥ぎ取り・女形の芸をシンプルに突き詰めていくと、「女に見えるか見えないか」という素材の要素が逆に現実的な問題として浮き上がってくるということが言えます。やはり女形は素材として美しいに越したことはないという結論になってくるのです。
吉之助が歌舞伎を本格的に見始めたのは昭和50年代ですから・武智歌舞伎時代の扇雀はもちろん知る由もありません。しかし、昭和50年代の扇雀もやはり素材として生身の女性に近い感覚を強く感じさせました。これは扇雀が藤十郎となった現在でも同じです。扇雀という役者は素材として色気があって・セクシーなのです。なるほど「一生青春」をキャッチフレーズにする役者さんだけのことはあります。(この稿つづく)
(H20・10・11)
○扇雀の美しさ・その1:扇雀の「高野聖」
最初にお断りしておくと、本稿での扇雀は先代扇雀・すなわち現・藤十郎のことを指しています。 本稿は藤十郎の美しさについて書くものですが、吉之助の場合はやはりここは扇雀と書かないと筆にイメージが涌きません。別稿「高野聖のたそがれの味」で触れましたが、鏡花の小説「高野聖」が歌舞伎で舞台化されたのは昭和29年(1954)のことで、吉井勇脚色・久保田万太郎演出で扇雀(現・藤十郎)の美女・蓑助(八代目三津五郎)の若き僧でした。水浴みの場面で着物を肩まで脱いで・背中を半分くらい見せた半裸姿の扇雀の舞台写真が残っています。確かに女形の伝統美からは逸脱したものではありますが、その衝撃はいかばかりのものであったか。その伝説の舞台を生で実際にご覧になったYさんからメールを頂戴しました。「その前後の芝居のことは忘れてしまった のに、この芝居のことだけ強烈に覚えている。扇雀の上半身の肌はきらめくほど眩しく感じられた」とのことでした。それはショッキングなものだったと想像されます。この感覚は戦後(昭和20年代)という時代と密接に関連していると考えられます。
ところで素の美しさを売り物にした「キレイな女形」の先駆けと言えば二代目松蔦を思い出します。松蔦は二代目左団次の相手役として・大正期の新歌舞伎になくてはならない存在でした。「松蔦のような女」という言葉があったくらいで、松蔦の美しさは当時の学生の憧れの的でした。ところが、折口信夫は松蔦についてこんなことを書いています。
『生涯娘形で終るかと思われる位小柄で美しい女形であった。だが松蔦の美しさは素人としての美しさに過ぎなかったのである。こうした美しさは鍛錬された芸によって光る美しさではなく、素の美しさで、役者としてはむしろ恥じてよい美しさである。』(「役者の一生」・折口信夫全集・芸能史篇)
役者はいつまでも素の美しさを誇っているだけでは駄目で、年齢を経るにしたがってそれが芸による美しさに置き換わっていかなければなりません。しかし、ある年齢においては役者の素の美しさの方が勝つ時期も確かにあるでしょう。松蔦は若くして亡くなりましたから 、折口信夫には素の美しさのイメージが強く残ったかも知れません。折口信夫は「昔は女だか化け猫だか分からない汚い女形が多かったが、最近は美しい女形が多くなった」と書いています 。ある時期からエグい味の女形が敬遠されて見た目の美しい女形が次第に求められるようになったことは事実です。 それが時代の要請であったのです。松蔦はそんな流れから登場した新しい感覚の女形でしたが、もうひとつ忘れてはならないことは・松蔦の美しさの源は当時の生き生きとした女性の感覚にあったということです。大正期の男子学生のお目当ては松蔦の素の女性美だけだったと考えると誤解を生じます。それは当時のモダンでヴィヴィッドな感覚の生身の娘さんのイメージと密接に結びついており、そうしたイメージを若き学生は松蔦の演じた新歌舞伎の女性に重ねて見ていたわけです。(逆に言えば新歌舞伎に登場する女性たちはそのような感覚を重ねて・読まねばならぬのです。)
同じように若き扇雀も「扇雀のような女」ということが言われました。その名前を冠した飴(扇雀飴)が出たくらいで、当時の人気は凄まじいものでした。そのきっかけは もちろん昭和28年の宇野信夫脚色による「曽根崎心中」です。「曽根崎心中」初日のこと、お初・徳兵衛が天満屋を抜け出す緊迫した場面で興奮した観客から「早く、早く・・」と声が掛かり、初日の熱気に演じる方が当てられてしまって、思わずお初が徳兵衛の手を引っ張って花道を引っ込んでしまいました。心中物では男が女の手を取って花道を引っ込むのが歌舞伎の通常の型ですが、思わぬハプニングが新鮮な感動を呼んで、以後の本作ではお初が徳兵衛の手を引いて花道を引っ込むのが型になってしま いました。この「曽根崎心中」の成功は海老蔵(十一代目団十郎)の「助六」・芝翫(六代目歌右衛門)の「籠釣瓶」と並んで・昭和20年代の歌舞伎の特筆すべき事件でした。この「曽根崎心中」での花道引っ込み(お初が徳兵衛を手を引っ張って引っ込む) が観客に与えた衝撃がいかに大きかったかは、婦人参政権の獲得・男女同権という戦後の民主主義の流れを踏まえて・初めて理解ができます。
その翌年の「高野聖」での扇雀の半裸は、当時「本物の女より美しい」と言われた扇雀の魅力(ただし女形本来の魅力ではないところの女優代用品としての扇雀)を売り出そうという興行側のいささか不純な動機が背景にあった のは確かです。当時は映画隆盛の煽りを受けて上方歌舞伎は急速に衰退に向かいつつあり、そうしたなかでの扇雀人気はいろんな形で波乱を巻き起こしました。「高野聖」では鶴之助(現・富十郎)が配役を巡って抗議したとかいろいろ騒ぎもありました。ですから現・藤十郎も「高野聖」にはあまり良い思い出がないだろうとお察しもします。しかし、それはともかくとして「高野聖」での扇雀の半裸が当時の観客に与えたショックというものは、やはり戦後民主主義と深いところで関連していると吉之助は思います。(この項つづく)
(H20・10・8)
『日本人っていうのは今までずっと、やらないよかやった方がいいという発想があるのね。つまり自分をクリエイティヴにするために何かを拒絶するという発想は非常に少ないよ。そう思わない?だからああいう風なことはやらない方がいいということの論理がしっかりしてないと思うんだな。』(谷川俊太郎:武満徹との対談:「音楽現代」1975年4月)
先日・8月国立小劇場での「亀治郎の会」の「平家女護島・俊寛」で亀治郎が俊寛を演じ、冒頭浅葱幕が切って落とされた後・通常は俊寛が下手から登場するところを、俊寛が小屋ごと舞台中央にセリ上がるという型を見せました。この型は昔あった型だそうですが、いけませんねえ。俊寛がセリ上がるなんてのは言語道断。これを駄目と断じるのに長々しい議論は不要です。レビューをやろうと言うのじゃないのです。写実の芝居をやるのでしょう。「俊寛」というのは写実の芝居です。俊寛がセリ上がるのが昔あった型だと言っても・廃絶した型です。なくなったのにはそれなりの理由がある・つまり良ろしくない理由があることをまず考える 必要があります。
「娘道成寺」でも花子はスッポンからセリ上がりましたが、これもいけません。原曲である謡曲「道成寺」はレビューではないのです。れっきとしたドラマ・芝居です。「娘道成寺」は謡曲「道成寺」の歌舞伎翻案ではありますが、そこに原曲のドラマとしての核をしっかり持っているのです。そのドラマの核を踏まえてこそ・歌舞伎舞踊としての「遊び」が生きるのです。スッポンはお能にはない・だからスッポンを使えば・怨霊でもあることだし・もっと歌舞伎らしくなる・・・そんな発想でしょうか ね。江戸時代にも「娘道成寺」は頻繁踊られましたが、どうしてスッポンが使われなかったか考えてみれば良いのです。まあ確かに玉三郎も同じようなことを「二人娘道成寺」や「舟弁慶」でやりました。(別稿「あなたでもあり得る」をご参照ください。)先輩が悪いお手本をみせると・ 必ず真似するのが出ます。こうやって芸の規格が段々崩れていくのです。「こうすればもっと楽してお客に受けるよ・もっと効果的に・もっと派手にやれるよ」・そんなところから芸の規格が崩れていくのです。
ところで・亀治郎の叔父・猿之助は、祖父・父を相次いで亡くした時「うちの一門に入らないか」という誘いもあったそうですが・それを断って・独立独歩いばらの道を歩みつつ・今の地位を築いたわけです。猿之助の同世代は役がかちあう場面が多いので・恐らく他家の一門に入っていたら現在の猿之助はなかったでしょう。猿之助の活動はいろいろな評価ができますが、確かに古典ということならば・一歩譲ることは仕方がないところです。大事なことは亀治郎が何年か前にその猿之助一座を離れたということに・本人が心中何を期したかということです。傍目から見て吉之助は・才気評判高い亀治郎が歌舞伎役者としてやっていくのに古典の修業が必要であると自覚して・敢えて叔父と袂を別かったということかと思っていましたが、そういうことではなかったのでしょうか。それならばまずは 本興行で演じるチャンスがなかなかない役を・スタンダードと言える型でじっくり演じてみて・そこから何かを得るということが先決なのです。そうでないと生き残れません。このままでは小器用な芸で終わりそうな心配があります。頭で理解するだけでは古典の規格は身に着きません。「クリエイティヴになるために・何かを拒絶する」ということは伝統芸能にはとても大事な ことなのです。
(H20・10・5)
○「アイーダ」と「愛陀姫」・その16:心情のドラマ
野田氏の夢の遊眠社や野田地図の芝居を吉之助は生で見たことはありません。いくつかの映像で知ってはいますが、吉之助は実は役者が世話しなく・右へ行ったり・左へ走ったり・バタバタ落ち着かない芝居が好きじゃないのです。もちろんあれだけ ファンが多いお芝居ですから・現代を突く何かがあるに違いないと思いますが、吉之助にとって領域の異なるお芝居なのは確かです。吉之助の関心は野田歌舞伎だけです。しかし、聞くところによれば野田氏の芝居は21世紀に入ってからトーンが変わってきたということが言われているようです。その背景は察するしか ないですが、例えば「オイル」での次の台詞です。
『電話の向こうで人が溶けてあたしの耳に声が残った。石段に腰をかけていた人が溶けて、その石の上にその人の声だけが残ったように、あたしの耳に声が残った。電話の向こうで十万人の人間が溶けて、十万人の声があたしの耳に残った。残った声は幻?・・・このオイルが幻だというのなら、それでもいいの。幻のオイルを補給して、どうしても幻の零戦を飛ばしてやる。ヤマト、もう一度教えて。復讐は愚かなこと?たった一日で何十万の人間が殺された。その恨みは簡単に消えるものなの?一ヶ月しかたっていないのよ、あれから。どうしてガムをかめるの?コーラを飲めるの?ハンバーガーを食べられるの?この恨みにも時効があるの?人は何時か忘れてしまうの?原爆を落とされた日のことを。』(野田秀樹:「オイル」・富士の台詞・初演2003年4月)
富士(初演では松たか子が演じました)の台詞は確かに心情から発した台詞です。理屈からのものではなく・他人が否定できない個の心情からの台詞です。「オイル」の台詞を知った時、「こういう心情からの台詞が書けるならば・野田氏は歌舞伎が書ける」と吉之助は思いました。それで「野田版・鼠小僧」(平成15年・2003年・8月歌舞伎座)にはかなり期待したのですが、これはちょっと残念な出来でしたねえ。吉之助が「愛陀姫」を見たのは・もちろんオペラ原作であるせいもあります(歌舞伎とオペラは「歌舞伎素人講釈」の重要なテーマですから)が、野田氏に歌舞伎を書ける資質があると思わなければ吉之助は「愛陀姫」の舞台を見なかったでしょう。まあ少しづつコツはつかめてきたようですから、野田氏の次作に期待をしたいと思います。
ところで、出版されたばかりの「野田版歌舞伎」(新潮社)の「あとがき」で野田氏が「歌舞伎が大衆のものであるかということは・卑怯な言い方かも知れないが・大衆の魂があるかどうかという問題である」という趣旨のことを書いています。吉之助は野田版歌舞伎を歌舞伎と認めますが、この文章を読むと野田氏は歌舞伎の何たるか・自分にぴったりしたものをまだ見つけていないと感じられます。だから「卑怯な言い方かも知れないが」という言い方が出てくるのです。水戸黄門の印籠で頭から相手を押さえつけようとしているようで、野田氏自身がその強引さを 羞じているような感じがあります。野田氏は作家ですから言葉の選び方には敏感だと思います。吉之助も批評をやりますから当然そうです。これは大事な点ですが、大衆は「魂」なんて用語は使わないのですよ。「魂」という用語には建前が入っています。それは「ええカッコしい」の用語です。それは体制側の用語なのです。大衆はやむにやまれぬその思いとか・引くに引かれぬその辛さとか・思い切っても思い切られぬ切なさよとか・そう言うのです。「歌舞伎素人講釈」ではそれらを「心情」と呼んでいます。もうひとつ、大衆と言って焦点をボカしてしまわないで ・個人の思いの強さをもっと前面に出すことですかね。個人の思いを集団の思いとして書くことです。野田氏が「歌舞伎には個人の熱い心情がある」と書けるようになった時に野田版歌舞伎はホントの歌舞伎になることでしょう。
野田秀樹著:野田版歌舞伎(新潮社)
(H20・10・3)
○「アイーダ」と「愛陀姫」・その15:歌舞伎の悲劇はこんなもの
例えば「鎌倉三代記」で三浦之助がオロオロする時姫に対して「夫としての自分を取るか・敵方である父親を取るか・さあさあ・・」と迫り、時姫がついに「北条時政討ってみしょう」と言います。この場面は「鎌倉三代記」のクライマックスですが、もちろん時姫のこの決断が非常な重みを持つからです。「夫を取るか・父を取るか」という問題はそのどちらをとってもそれなりの方向に筋は展開できますので、その選択肢自体に正しい・間違っているということはないのです。「夫を取るか・父を取るか」という命題で大事なことは、片方を取る選択をしたということは・片方を捨てる 選択をしたということだということです。夫を取れば親に対して不孝となり・親を取れば夫に対して不忠となるのです。それはどちらも時姫にとって許されないことです。つまり選択する行為自体につねに負い目がつきまとい・それを振り切ってどちらかを選ぶ行為自体がすでにドラマなのです。これが究極の選択ということであり、選ぶという行為の内面にものすごい葛藤があるわけです。時姫がついに「北条時政討ってみしょう」という時、内面に凝縮されたエネルギーが外に向かって一気に解放されます。そのエネルギーこそ がドラマを展開させる原動力となるものです。
「北条時政討ってみしょう」の選択は時姫が周囲から強制されて・無理矢理させられたものではありません。なぜならば「周囲から強制された選択」であるならば、時姫はその選択に対して責任がないことになり ます。時姫はいつでも「自分は言わさせられたのだからあの選択は無効だ」と主張して・選択を撤回できる権利を留保できるからです。「父である北条時政討ってみしょう」という選択に時姫が全面的な責任を持つから歌舞伎のドラマが動くのです。ですから歌舞伎の悲劇というのは他動的なものではなくて、歌舞伎の登場人物は運命に押し流されているように見えながら、核心の場面において・すべて自分の意志で決断をしているのです。だからこそ歌舞伎は悲劇の印象を正しく観客に与えるわけです。時姫は夫に押され・父親に流され・右に行ったり左に揺れたりしているようですが、「北条時政討ってみしょう」はまさしく時姫自身の決断であり・彼女がその責任を負うのです。「曽根崎心中」でもお初が「この上は徳さまも死なねばならぬ。しななるが死ぬる覚悟が聞きたい。・・オオ、そのはずそのはず、いつまでも生きても同じこと、死んで恥をすすがいでは。」と叫ぶのは、お初・徳兵衛がいかに周囲に翻弄され・追い詰められようとも、最後のところは自分で決める・この人生は自分たちのものだという意地の宣言に他なりません。
「アイーダ」のアムネリスの場合を見てみます。「お前が殺してしまうあの人はかつて私が愛した人なのです」という台詞がアムネリスの心情から発していることは先に書いた通りですが、この発言はアムネリスが恋の苦しい葛藤のなかから彼女が掴んだ真実として言われています。アムネリスがラダメスを愛してい たことは間違いありませんが、その周囲に王女としてのプライドや・アイーダに対する嫉妬やらいろんな感情が渦巻いており・それが彼女をいろんな歪んだ行動に駆り立てています。第4幕第1場でアムネリスは「この私があの方を引き渡したのだわ、今となってはひどい嫉妬よ・お前を恨むわ、あの方の死と、私の心との永久の戦いを命じたお前を・・」と言って います。そうした人間的反省のなかから「お前が殺してしまうあの人はかつて私が愛した人なのです」という台詞が出てくるのです。つまり、これ以前のアムネリスは恋心と嫉妬によって他動的に動かされていた木偶に過ぎなかったのですが、「お前が殺してしまうあの人はかつて私が愛した人なのです」と叫んだ時にアムネリスは初めて真実の人間になったと見ることができます。つまり、歌舞伎の悲劇と同じ過程を辿っていることが分かります。ですからアムネリスの「お前が殺してしまうあの人はかつて私が愛した人なのです」はかぶき的心情の吐露です。ヴェルディの音楽を聴けばそのこと が明白に分かります。
一方「愛陀姫」を見ると、濃姫は祈祷師を家に引き込み・ご神託にあれこれ指図をして・ずいぶん積極的・能動的に行動しているように表面は見える かも知れません。しかし、実は下されたご神託の通りに・あるいは父親の言葉通りに沿って従順に動く態度を崩していないわけで・その行動に主体的なものが見えません。唯一主体的であるべき「お前が殺してしまうあの人はかつて私が愛した人なのです」という発言も、濃姫の場合は領主の娘・祈祷師たちの雇い主の立場を抜けておらず 、またその行動自体が虚偽の作り物になっているので・結局それは心情からの発言にはなり得ません。だからドラマを展開させるエネルギーを持たないのです。そして、濃姫は 祈祷師のご神託に何の抵抗もせず・織田家に嫁いでいきます。結局、濃姫はドラマの一番肝心なところで決断 していないのです。濃姫が主体的に行動して悲劇に堕ちて行くドラマなどありません。「歌舞伎の悲劇とはこんなもの・主人公が他動的に流されて悲劇に落ちていくもの」と野田氏は考えているとお察しをしますが、そこに 歌舞伎のドラマに対する根本的な誤解があります。これでは悲劇として十分ではないのです。だから「愛陀姫」は歌舞伎の時代物の骨太い印象を与えることが出来ないのです。
濃姫は祈祷師を家に引き込み・ご神託にあれこれ指図するという冒頭設定をやめて、祈祷師は斉藤家に元から仕える者とでもして・ご神託と父親の言葉に濃姫が翻弄されて 無邪気に一喜一憂 して大はしゃぎするという喜劇的な設定にでもすれば前半の筋はいくらでも脱線できるし・勘三郎のキャラがずっと生きたでしょう。これで結末のマーラーのアダージェットをやめれば、「愛陀姫」は時代物の骨太い印象を与えることができただろうに。とても惜しいことをしたと思います。(この稿つづく)
(H20・10・1)
○「アイーダ」と「愛陀姫」・その14:悲劇の構造
「お前が殺してしまうあの人はかつて私が愛した人なのです」というアムネリスの台詞は「ラダメスと・その彼を愛した私」という「・・・と(und)」で結び付けられている心情から発せられているということは先ほど考察しました。この心情は王女という立場から発せられたものではありません。世俗的権威が宗教的権威と対立する形で発せられている発言ではないのです。それはひたすらに個の心情であり、その一方で利害打算がないためにひたすらに無私です。それ はかぶき的心情から発せられた台詞です。
「愛陀姫」の濃姫も「お前が殺してしまうあの人はかつて私が愛した人なのです」というアムネリスと同じ台詞を確かにしゃべっています。しかし、よく読めば発言の意味合いが全然違 っています。濃姫の発言は熱い心情の台詞になっていないのです。濃姫は領主の娘として・その世俗的権力を以って祈祷師のお告げを頭から無力化しようとしています。「領主の娘の私が言うのだから黙れ、お前たちを雇った私が言うのだから黙れ」ということです。これならば相手はいくらでも反論の方法があります。祈祷師は「これまでのお告げはみなその通りに実現してきたではないか」と言い返し、「神の僕(しもべ)である我々と・娘とどちらを選ぶか」と領主・道三に迫ることになります。結局、濃姫は祈祷師に「お前は織田家へ嫁に行け」という形でやり返されることになります。
どうしてこういう展開になってしまうかと言えば、それは「愛陀姫」冒頭において街角でを祈祷をしていた彼らを斉藤家へ引き込み・自分の都合の良いご神託をさせようと仕組んだことから始まっています。つまり濃姫の駄目助左衛門に対する恋自体がいかに真実なものであっ たとしても、濃姫は自分の恋を自分で虚偽の作り物にしてしまったのです。濃姫が「あの祈祷師たちのご神託は嘘じゃ、なぜならあの神託は私が呼んで彼らに言わせたものだから」と言うことは出来ないのです。それは濃姫自身の恋も作り物 だと認めることになるからです。ですから「お前が殺してしまうあの人はかつて私が愛した人じゃ」という濃姫の発言は、アムネリスが言う時のように他人に否定ができない力強い 心情の台詞になり得ないのです。「お前は織田家へ嫁に行け」というご神託に濃姫は反抗できないことになります。
「愛陀姫」が骨太い時代物の結末にならないのはそのせいです。「あの人はかつて私が愛した人じゃ」という発言に対して祈祷師たちが怒って「お前は織田家へ嫁に行け」という神託を濃姫に突きつけること自体 には問題ありません。それは展開としてあり得ることですし、「アイーダ」を書き換えるならばポイントはそこしかありません。問題は最後に織田家に嫁ぐことになった濃姫が「私が嫁いでもこの国に決して争いが絶えることのないように」と呪いの言葉を吐 くに至る心情の裏付けがまったく見えないことです。濃姫が世を呪う心情展開をしてくための状況が正しく設定できていないと思います。ですから濃姫が「私が嫁いでもこの国に決して争いが絶えることのないように」と言う台詞がとても唐突に不自然に 感じられます。
野田氏は恐らく濃姫が祈祷師を使って世論を操作して・状況を自分の良い方向へ引き込もうと画策したところが、増長した祈祷師に反抗されて・それが無残に失敗に終わる悲劇(?)にしたかったのかなと推察します。 マスコミによる世論操作の悲劇ということですかね。吉之助はそういうのは悲劇だとは思いませんけれど、もしそうするならばいっそ喜劇に仕立てた方が野田氏の領分であろうし・勘三郎 のキャラも生きたと思いますけれどね。
悲劇にするのならば・濃姫が「私が嫁いでもこの国に決して争いが絶えることのないように」という台詞を背負えるだけの重みを濃姫に与えなければなりません。全世界に個人が対立するだけの根拠を示さねばなりません。 しかし、祈祷師を斉藤家に引き込んだのは濃姫でした。神託の内容を彼らにあれこれ指示したのも濃姫でした。その祈祷師が増長して裏切ったからと言って、それがどうして「私が嫁いでもこの国に決して争いが絶えることのないように」という台詞になるのですかねえ。恨むのなら祈祷師を恨むか・娘を捨てた親を恨めば良いのです。それ以前に自分の愚かさを恨むべきです。それなのに「この国に決して争いが絶えることのないように」などと呪われた美濃の領民こそいい迷惑だと思います。これでは濃姫はにっちもさっちも行かなくなって「誰でもいい」と叫んで刃物を振り回す昨今の愚か者と同じと言わねばなりません。そう した現代的世相を「愛陀姫」で描くのが野田氏の意図なのでしょうか。
「愛陀姫」が骨太い時代物の印象にならなかった原因は、「愛陀姫」結末から冒頭へ筋をさかのぼって見れば・明らかになります。濃姫が「私が嫁いでもこの国に決して争いが絶えることのないように」という台詞を背負うだけの状況の重みが濃姫にないのは、「お前が殺してしまうあの人はかつて私が愛した人なのです」という台詞で濃姫が領主の娘という立場を越えて・ひとりの女性として(まことの人間として)心情 を表現できていないからです。「お前が殺してしまうあの人はかつて私が愛した人なのです」という発言が濃姫のまことの心情から出た・一点の曇りなきものだということを観客が納得 できないのは、濃姫の心情に偽りの影があるからです。そう考えれば濃姫が祈祷師を引き込み・彼らにご神託をあれこれ指図するという冒頭設定に問題があることは明白です。濃姫は自分の恋を自分で虚偽の作り物にしてしまっているのですから悲劇に主人公になる資格が濃姫にはないのです。濃姫にはその状況を世界苦として背負い込めるだけの重みがない。「私が嫁いでもこの国に決して争いが絶えることのないように」という台詞 が空しく響くだけです。「愛陀姫」は結末だけを見ればよく出来ているが・通してみればそうではないと吉之助が言うのはそのことです。つまり冒頭設定がうまくないからです。
もうひとつの問題は祈祷師に世論操作という役割を持たせているので、ここでも対象(他者的存在)が分裂していることです。結局、濃姫が対峙するものが愛陀姫なのか・祈祷師なのか・自分なのか・それとも他の何かが明確でなくなっています。この結末では愛陀姫と駄目助左衛門の死の意味も見えなくなってしまいます。しかし現代演劇の第一線の作家である野田氏にこのような悲劇構造の欠陥が感知できないということはあり得ないので、これはやはり野田氏のなかに「歌舞伎の悲劇 はこんなもの」的誤解が根底にあると吉之助は思わざるを得ません。(この稿つづく)
(H20・9・28)
○「アイーダ」と「愛陀姫」・その13:本歌取りのポイント
祭司たちを糾弾するアムネリスの言葉は理屈ではなく・熱い心情から発しています。心情からの言葉に対処することは出来ません。どう説得されようがアムネリスにとって「ラダメスが正しくて・祭司たちは間違っている」のです。これに対して祭司長ランフィスは黙殺で答えます。これは「恋に狂った小娘の迷いごと」として片付けておかねばなりません。それは神の代理人であるランフィスと・世俗の権威であるエジプト王(アムネリスの父)との妥協でもあります。
しかし、もしランフィスが気の短い男ならば、怒ってアムネリスに「ご神託を否定するお前を神は絶対許すことはしない」と言い出して・彼女に罰を与える(王女であるから死刑にするわけにはいきませんが ・まあ謹慎というところか)という展開も考えられないことはありません。そうなってもアムネリスは決して屈しないでしょう。なぜなら「正しい男ラダメス・・・と・この男を愛した私」はかぶき的心情によって結び付けられておりその潔白を示すために私は生きる」というのがアムネリスの生き方だからです。ですからアムネリスはこれから誰とも結婚せずに喪服を着て暮らすのか・他の誰かと結婚させられてしまうのか・幸せになるか・不幸になるかは分かりません。しかし、それはどちらでも良いことです。これからもアムネリスが生きて続けることは疑いありません。
先行作を翻案する場合・筋のどの部分を変えても良いというわけではありません。どこを変えても良いならば・始めから自分のオリジナルを書けば良いのです。どこを変えて・どこを変えなかったか ・そこが大事です。それによって作者が先行作をどのように読んだか・改作のオリジナリティがどのくらいあるか・そこに改作者の力量が出ます。翻案の面白さはそこにあります。和歌の本歌取りで「これは巧いなあ」と感嘆する歌は、必ずこの骨格に元歌の何かがはっきりと分かるものがあり・筋を強引に書き換えるようなことは決してし ていないものです。そしてある箇所をちょっと置き換えることで・元歌の描いたものとまったく違う様相を展開してみせるのです。あるいは元歌と全然違う道程を取る風を見せておいて・最後に元歌とぴったり合わさった結論に達してしまうという手法もあり得ます。本歌取りには・このふた通りの手法があります。歌舞伎の書き換えはまさに本歌取りの伝統を継ぐものですが、前者の例は「義経千本桜・渡海屋〜大物浦」(言うまでもなく謡曲「舟弁慶」の書き換え)など歌舞伎には数知れ ないほどあります。後者の例はあまり多くはないですが、「忠臣蔵」を本歌に置いた鶴屋南北の「東海道四谷怪談」・「盟三五大切」などがこれに当たります。
「アイーダ」では祭司たちを糾弾するアムネリスをランフィスは黙殺し・事はそれで終わります。しかし、アムネリスが何らかの形で怒ったランフィスに罰せられ・アムネリスが世を呪いながら幕が終わるという形も考えられないわけではありません。それでもヴェルディの作意が損なわれることは全然ないでしょう。ヴェルディの作意が個人と・個人の尊厳を奪い取る状況との対立構図にあるからです。「アイーダ」と結末の様相は大きく異なりますが、「リゴレット」や「トロヴァトーレ」のような悲惨な結末に「アイーダ」を持っていくことも十分可能なのです。本歌取りのポイントは祭司たちを糾弾するアムネリスの強いかぶき的心情を転機に・どうやって筋をひっくり返すかです。「愛陀姫」脚本を読むと・野田氏はこの本歌取りのポイントを確かに探り当ててはいます。「アイーダ」の筋を翻案するならばその ポイントは確かに濃姫の「その人は私がかつて愛した人じゃ」の台詞の箇所です。しかし、「愛陀姫」を実際に通して見れば・骨太い時代物の印象に至らずに終わっています。それはどうしてなのか・その点をさらに考えます。
「愛陀姫」のこの後の濃姫の件はとても興味深い展開を示しています。濃姫が祈祷師のご神託を否定すると、祈祷師は濃姫を裏切って・「濃姫は織田家に嫁ぐべし」というご神託を濃姫に突きつけます。さらに祈祷師は父・道三に対して「濃姫を選ぶか・ 我らを選ぶか」と迫り、道三は仕方なく祈祷師を選んで・濃姫に織田家へ嫁に行けと言います。濃姫は「私が嫁いでもこの国に決して争いが絶えることのないように」と呪いの言葉を吐きます。濃姫の愚かさが、清らかに死んで行く愛陀姫と駄目助左衛門と対照されるというわけです。これは原作の結末とは違いますし・観客が濃姫に対して共感できない結末ではありますが、それなりに対照が効いていて・最後の場面だけを抜き出して読むならば野田氏の本歌取りの手法として認めて良いものだと思います。吉之助が最初に脚本の結末の部分だけ をつまみ読みした時に感心したのはその点でした。それなのに「愛陀姫」が骨太い時代物の印象に至らないのは、どこかにドラマの悲壮感を削ぐものがあるせいだと吉之助は感じます。その理由のひとつが最終場面の音楽のセンチメンタルな使い方にあることは先に触れた通りですが、もうひとつ作劇上の問題が潜んでいると吉之助は思います。これも野田歌舞伎の特質から発するものだと思われます。(この稿つづく)
(H20・9・25)
○「アイーダ」と「愛陀姫」・その12:「アイーダ」のかぶき的心情
「アイーダ」の最もドラマチックな場面はアムネリスが祭司長ランフィスに怒りと呪いをぶつける場面であることは既に述べました。この場面のアムネリスの台詞こそ「アイーダ」の核心の台詞です。
『あの方は生きながら墓に埋められるのですと・・・おお、無慈悲な人たちよ。あの方の血にも飽きたらないで・・天の従者と自らを呼ぶのか。祭司たちよ、あなた方は罪を犯したのです。血で飾り立てた卑しき虎よ。あなた方は大地と神々を侮辱したのです。(中略) 祭司の長よ、お前が殺してしまうあの人は、ご存知のように、かつて私が愛した人なのです。あなた方は罪なき者を罰したのです。むごい人たちよ、呪いがあなたたちの上にあるように。天の復讐が降るでしょう。』(第4幕第1場)
このアムネリスの歌詞で最も大事な箇所は「お前が殺してしまうあの人はかつて私が愛した人なのです」という部分です。アムネリスが「かつて私が愛した人」と過去形で言っている点にも注目したいと思います。この時点でアムネリスはラダメスを諦めたということです。恋を諦めたなら・アムネリスはラダメスにどんな判決が下ろうが知らぬふりしていればいいはずです。ところがアムネリスは「ラダメス死刑」の判決に烈火の如く怒ります。実はアムネリスが祭司たちを糾弾する言葉は特殊な論理構造を持っています。
それは『私(アムネリス)は強く正しい人を愛す=私はラダメスを愛している(愛していた)=ラダメスは正しい人である=神は正しい人を愛する=神は正しい人を罰することは決してしない=だからラダメスを罰する祭司たちの判断は 絶対間違っている=だから祭司たちは呪われるべきである』という絶対の論理です。
これは全然理屈になっていない理屈です。「それはお前の思い込みだ」と簡単に否定できそうなものですが、心情から発した熱い理屈であるがゆえに・他人がこれを否定することは絶対にできないのです。アムネリスに理屈で応戦しても無駄です。アムネリスにとって・ラダメスが断罪されることは「この人を愛した私」が断罪されることと同義だからです。ここではラダメスと「私」が一体化しています。「・・・と(und)」の心情があることが誰の目にも明らかです。事実アムネリスに対して ランフィスは「彼は死なねばならぬ」と空しく繰り返すだけです。無視することだけがランフィスにできることです。
「・・・と(und)」の心情については別稿「近松心中論」のなかで触れました。『大坂商人の男徳兵衛と・この男を愛した私お初』というお初の心情が、無残にボロボロにされた徳兵衛のアイデンティテイーを回復させるためにふたりが心中に向かうという行為に明確なメッセージを与えます。
『徳さまの御事、幾年なじみ、心根を明かし明かせし仲なるが、それはいとしぼげに、微塵訳は悪うなし。頼もしだてが身のひしで、騙されさんしたものなれども、証拠なければ理も立たず、この上は、徳さまも死なねばならぬ。しななるが死ぬる覚悟が聞きたい。(中略)オオ、そのはずそのはず、いつまでも生きても同じこと、死んで恥をすすがいでは。』(曽根崎心中)
アムネリスの「・・・と(und)」の心情はお初の場合とまったく同じです。アムネリスとお初が違うのは、お初は「私たちは正しいのだから・より鮮烈に生きるために・私たちは死ぬのだ」と徳兵衛に言うのですが、アムネリスの方は「あなた(ラダメス)は正しいのだから・その潔白を示すためにあなたは生きねばなりません」とラダメスに言うことです。しかし、これは心情の表出方向が異なるだけで・大した違いではないのです。アムネリスとお初の性格はとてもよく似ています。お初とアムネリスの言い分が逆であっても全然不思議ではありません。結末がちょっと変わるだけのことです。ここで大事なことはお初の主張も・アムネリスの主張もどちらも「かぶき的心情」から発する言葉だということです。重要なのは個人と・個人を押さえつけようとする状況との対立関係がはっきり意識されていることです。
一方ラダメスと一緒に死ぬことになるアイーダは控え目な女性で・お初のように積極的な主張はしませんが、その内側に熱い心情を秘めています。アイーダは主張らしい主張はしませんが、地下墓室にひとりで先に忍んで待っていて「私の心にはあなたの罪の宣告が分かっていましたから、あなたのために開かれていたこの墓のなかに、私はそっと忍び入りました・・・」と言います。アイーダもまたラダメスと「・・・と(und)」 の心情で強く結びついているわけです。アイーダの心情もまた「かぶき的心情」です。ですからその結果はお初の行為と同じ結末(心中)になります。ドナルド・キーン氏が「アイーダ」と「曽根崎心中」にまったく同じドラマツルギーを見た根拠がそこにあります。 (この稿つづく)
(H20・9・23)
谷崎潤一郎や武智鉄二がシミオナートのアムネリス(ヴェルディの「アイーダ」)に六代目菊五郎の芸風に通じるものを見出したことは別稿「シミオナートのアムネリス」で触れました。昭和の最高の芸の目利きである谷崎や武智がそう感じたということは とても大事なことです。この逸話は芸の真理はジャンルを問わず何か共通したものがあるということを改めて思い起こさせます。六代目菊五郎の芸を知ろうとすれば芸談・文献に頼るしかなく・映像ならば「鏡獅子」しかまともなものはないわけですが、シミオナートの歌唱から類推してみることだって可能なわけです。キーワードは「かっきりしていて・規格正しい芸風」ということです。
かっきりとしたシミーナートの芸風はアムネリスの映像でもよく分かりますが、もしかしたらこちらの映像の方がさらに分かるかも知れません。1956年・第1回イタリア・オペラでのシミオナートのケルビーノ(モーツアルト:「フィガロの結婚」)の映像です。ここで聞かれる有名なアリア「恋とはどんなものかしら」ですが、まだ知らぬ恋に憧れる少年の内心を歌うもので・傷つきやすい心情を表現するようにナイーヴな感覚で歌われることが多いものです。いかにも少年の役を歌う女性歌手の歌唱という感じですかねえ。もちろんそれも悪くはないですが、シミオナートのケルビーノにハッとさせられるのは、ここには力強い「男性のケルビーノ」がはっきり聴こえることです。 ケルビーノの直向(ひたむき)さ・情熱の強さが感じられます。ケルビーノは「フィガロの結婚」では主役ではありませんし・このことは格別の意味を持たないように見えますが、「フィガロ」原作のボーマルシェが書いた続編「罪の母」ではケルビーノは伯爵夫人と出来てしまうのです。モーツアルトがそこまで意識してアリアを書いたかどうかは分かりませんが、そう考えればこの場面でのケルビーノと伯爵夫人との出会いはとても意味があるわけです。多分天才モーツアルトはそのアリアのなかにケルビーノの人生を映し出したのです。まだ若くて青臭いし・見た目はなよなよしているので・みんなにからかわれていますが、「見かけは頼りなくたって・僕だって男の子なんだ」というところがこのシミオナートのケルビーノだととてもよく分かります。このことが大事なのは・こうしたとんがった感覚が「フィガロ」のもつ革命性・民衆の目覚めというところの感覚にどこか深いところでつながるからでして、それがこの場面を「フィガロ」のなかで最も忘れがたく美しいものにしているわけです。
この印象はひとつには若干早めのキビキビしたテンポのせいもありますが、このテンポはこの時代(50〜60年代)にはよくあるテンポで・シミオナートにだけ特徴的というわけではありません。大事なことはきちんとリズムが取れて・旋律線が明確で無駄なところがない・シンプルさが際立つ歌唱であるという ことです。つまり声に強弱を付けたり・テンポを揺らしたりする技巧に頼らずに・無駄な表現の技巧を排除して・旋律そのものの魅力で直截的に聴き手に迫ろうという感覚です。その結果・ケルビーノのアリアから「僕だって男の子なんだ」という本質がホントに何気なくすっと立ち現れるのです。シミオナートのかっきりしたシンプルな芸のなかから役の本質が抽出されたように現れます。谷崎や武智がシミオナートに見出したものはそうした芸です。そんなことを考えながら六代目菊五郎の舞台を想像することは楽しいことですね。
(H20・9・21)
○「アイーダ」と「愛陀姫」・補足:ヴェルディの音楽
YouTubeの音源はいつまであるか分かりませんが、実際の音楽を聴きながらヴェルディの音楽構造をちょっと考えてみたいと思います。(文中のタイミングは映像での表示時間です。)
まず1949年のトスカニーニによる歴史的な「アイーダ」演奏会式上演から前奏曲を取り上げます。ヴェルディは「アイーダ」のために大規模な序曲を書かず・ごく短い前奏曲を冒頭に置 きました。まず冒頭(0秒〜)に弦によるシンプルで美しい旋律が奏でられます。祈りの感情にも似た旋律がやがて二本に分かれて(15秒〜)絡み合うように静かに流れます。冷たい空気が感じられる室内楽的な旋律は閉鎖された空間を 想起させます。それは明らかに第4幕でのふたりの最後を暗示しており、冷たい石の墓室のなかで静かに眠るアイーダとラダメスの魂を古代から呼び出しているかのよう です。これは近松が「曽根崎心中・観音巡り」においてお初の霊魂を呼び出す仕掛けをしたのとまったく同じです。ふたつの魂は呼び出され・寄り添いながら少し高まって・また静まります。ここには確かに平安が感じられます。しかし、すぐに別の旋律が現れます。(1分11秒〜)これは第2幕の凱旋の場でも使われる祭司たちの合唱の旋律です。これは世俗の象徴で あり・個人と対峙するものを表わします。その旋律は最初は静かに奏でられていますが、次第に高まっていくとともに強く鋭角的なリズムと音階が底から現れます。(1分29秒〜)この音階はごく短いものですが、無機的で強烈に響きます。まだ調性の枠のなかにある旋律ですが、もう少しで無調になりそうな可能性をも秘めています。それは状況(他者的存在)がこちらに向かって突然悪意を以って牙を剥き出すように感じられます。この非人間的状況に対抗して・これを力づくで押さえ込もうとするかのように冒頭の祈りの旋律が変形して現れます。(1分37秒〜) しかし、その旋律は冒頭のように静かに奏でられるのではなく・明らかに強いストレスが掛かっており・歪んでいます。その旋律は「祭司たちの旋律は私たちが聴きたい旋律ではない」と叫ぶアイーダとラダメスの声なのです。こうしてふたつの旋律の対立のなかで、個人と・その尊厳を奪い取ろうとする存在との戦いが二度繰り返されて短い前奏曲が終わります。
次に1961年のNHKイタリアオペラでの「アイーダ」第4幕・裁判の場を取り上げます。シミオナートのアムネリスは谷崎潤一郎や武智鉄二が絶賛したものです。アムネリスが舞台に立ち・裁判は舞台裏で行われているという構図は、 舞台で見えないドラマの進行を傍らで右往左往するヒロインの心理変化で表現していくヴェルディお得意の手法で・ヒロインの劇的表現力が要求される場面です。この手法が 表すものは主人公がその最も大切とする者を守るために何ら直接的関与ができない状況に置かれているということです。そこに圧倒的な状況に対する無力感というものが表現されています。(同様の例として「トロヴァトーレ」第4幕のレオノーラの「ミゼーレレ」 を挙げておきます。)まず司祭たちがラダメスに「釈明せよ」を迫る場面の非情な音楽(3分30秒〜)が秀逸です。ここで咆哮する金管はあの豪華絢爛たる凱旋行進曲での金管と同じ響きであることに注意せねばなりません。つまりこのことから逆にあの凱旋行進曲に対するヴェルディの意図が明らかになります。ラダメスに対する問い掛けは3回繰り返されます。ラダメス死刑の判決に怒ったアムネリスが祭司長ランフィスに怒りと呪いをぶつける場面 (7分27秒〜)は「アイーダ」の最も劇的なシーンです。ここでのアムネリスの旋律は力強く・輝かしいもので、彼女の心情は一点の曇りもないことを示しています。この場面の管弦楽の伴奏はリズムが踊っており・アムネリスを持ち上げるようにオケ全体が共感していることがお分かりになるでしょう。(この点については後ほどさらに詳細に検討します。)対するランフィスの「彼は死なねばならぬ」という言葉は空しく響くばかりです。アムネリスが「呪いがあなたたちの上にあるように!」と叫んで崩折れる場面の管弦楽の後奏(9分43秒〜)はとても印象的です。重いリズムの上に・管の高いヴィヴラートが重なります。その割れた響きは権力が「働け・働け、われらに逆らった者はみなこうなるのだ」とあざ笑うかの如くです。それは後のショスタコービッチの交響曲のなかに出てきてもおかしくない未来性を秘めた響きなのです。 (この稿つづく)
(H20・9・20)
○「アイーダ」と「愛陀姫」・その11:リアリズムの音楽
「野田版・研辰」の幕切れではマスカー二の歌劇「カヴァレリア・ルステカーナ」・間奏曲が使われています。討ち果たされた辰次の死体が舞台に横たわるなかで流れる音楽が とてもセンチメンタルに聴こえます。討手の平井兄弟が「急に国に帰るのが嫌になった・人を殺したような気がする云々」と会話したりするせいもありますが、さきほどまでのドタバタも怨みも消えてしまって・どこか「 怨讐の彼方に」的な幕切れです。まあ昨今「カヴァレリア」間奏曲はヒーリング音楽に使われるようですから・この幕切れに違和感を感じる方はあまりいないかも知れませんが、吉之助の耳には音楽がひどくセンチメンタルに聴こえます。
マスカー二の歌劇「カヴァレリア」はイタリアのシチリア島の農村を舞台にした人情悲劇です。トゥリッドゥは村の娘サントゥッツァと婚約しますが、かつての恋人ローラを忘れられず・逢引を重ねます。サントゥッツァはトゥリッドゥに自分のところに戻ってくれと懇願しますが・彼は聞かず、サントゥッツァは怒って・ローラの夫アルフィオにこのことを告げます。この場面の直後に幕を下ろさないまま無人の舞台に流れるのがこの間奏曲です。後半の場面ではアルフィオがトゥリッドゥに決闘を申し込み・トゥリッドゥは殺されます。
ここでの間奏曲の役割のひとつは前場の雰囲気を沈静化して・後半への気分転換のためのものです。間奏曲の清くひたすらに美しい旋律がこの後の惨劇の血生臭さを際立たせて・より劇的な効果を増すということです。もうひとつの間奏曲のとても重要な意味は、間奏曲の清らかさというのはシチリア島民の素朴な聖母マリア信仰と強く結びついており・そこに救いを求める・許しを求める切実な気持ちが渦巻いているということです。そのような美しい間奏曲がこの人情悲劇の幕間で流される時、それは たんなる癒しの音楽では決してあり得ないのです。歌劇「カヴァレリア」はヴェリズモ・オペラ(現実主義・自然主義のオペラ)です。ヴェリズモ・オペラとしての「カヴァレリア」の意味を考えれば、その間奏曲にはひたすらに救いと平安を願う気持ちと 、しかしその気持ちが強ければ強いほど・それはこの世において実現されることはないだろうという絶望が一層強くなるという・相反した感情が交錯する形で出ているということです。それが「カヴァレリア」間奏曲の持つ有り得ない美しさとなって現れるものです。ですから先ほどのマーラーのアダージェットと同様に「カヴァレリア」間奏曲も 引き裂かれており・しかもそれはそれ自体で完結しておらず、その後の惨劇によってその意味が補完されるのです。「カヴァレリア」間奏曲の美しさの後に 必ず残酷な現実が待っているということです。「カヴァレリア」間奏曲を演劇で使用する時、このことがとても大事です。
このことをフランシス・コッポラ監督の「ゴッド・ファーザー・パート3」の最終場面で見てみます。主人公のマフィアの親分コルリオーネが敵に襲われ・その巻き沿いで彼の最愛の娘が死にます。ここでコルリオーネの脳裏に娘の思い出・さらに自分の若き日の思い出(愛の日々)の映像がフラッシュバックで出てきて、コルリオーネの孤独な死で映画が終わります。実は映画のこの場面にも「怨讐の彼方に」的センチメンタル な感じが少しあって・吉之助はコッポラのコマ割りに問題が若干なくもないと思いますが、歌劇「カヴァレリア」の意味を知るならば・もちろんコッポラの意図は明らかです。マフィアにシチリア島の出身者が多いことはよく知られています。「カヴァレリア」はご当地オペラであり・この曲が「ゴッド・ファーザー」に使われていること自体に暗喩があり、西欧の観客はそのようにこの場面を見るのです。
「ゴッド・ファーザー」 ではマフィアの親分が主人公で・作品中では敵対する人物・役に立たない人物・裏切り者などが親分の指示によって情け容赦なく・虫けらのように次々と殺されます。殺された者たちにも妻があり・子供がいたはずですが、彼らの嘆きは全然描かれていません。そのようなマフィアの親分に・最愛の娘が殺された からといって・大悲劇の主人公然と泣き叫ぶ資格などあろうはずがないのです。彼の娘もマフィア抗争の犠牲者のひとりに過ぎませんし、娘の死も・自らの孤独の死も所詮身から出たサビです。そう考えれば「ゴッド・ファーザー・パート3」の最終場面で「カヴァレリア」間奏曲が流れて・主人公コルリオーネの死で終わる意味は明らかです。それは「救いはこの世にはない・苦しみは死を以って終わる」ということです。死は単なる終わりに過ぎない。これがマスカー二のリアリズムであり、コッポラのヴェリズモです。
ですから「野田版・研辰」で「カヴァレリア」間奏曲をどうしても使うならば、吉之助なら・辰次が刀を研ぎながら「死にたくねえ・散りたくねえ・・」とつぶやく場面でこの曲を使いますねえ。その方が曲の文学的修辞に沿うのです。そしてその後で辰次が殺される場面は残酷なリアリズムで処理して・しかも幕切れはあっけなく終える・平井兄弟の「国に帰りたくなくなった云々」の台詞は 省く方が曲の余韻がはるかに生きてくるのです。日本の芝居でクラシック音楽がよく使われるのは経費節約のため(オリジナル曲を作曲してもらうには経費が掛かる)からかなと も思いますが、出来合いのクラシック音楽を舞台音楽に利用するのは実はとても難しいことです。それには音楽に対する理解力とセンスがとても要求されます。クラシック音楽・特にロマン派音楽は文学的修辞と強く結びついていますから、ドンぴしゃり効果的に使える場面はおのずと限定されてくるからです。巧く使えるならば効果は抜群ですが。ですから日本の演劇が世界に通用するようになるためにも、演出家は旋律の持つ文学的修辞を理解して・もっと論理的に音楽を使えるようになって欲しいと思います。(この稿つづく)
(H20・9・18)
○「アイーダ」と「愛陀姫」・その10:たそがれの音楽
マーラーの交響曲第5番・第4楽章(アダージェット)はルキノ・ヴィスコンティ監督の映画「ヴェニスに死す」に使われたおかげでマーラーの旋律のなかで最も有名なものになっています。マーラーの音楽については聖と俗の対立ということがよく言われます。その言い方は正しいですが、そういうことからすれば・このアダージェットは最もマーラー的でない楽章であると言えます。第5楽章中間部においてアダージェットの旋律がカリカチュア的に回想されます。マーラーにおいては美しい旋律はそのような形で自虐的に現れ・哀しい歌を歌うけれど決して持続することなく・断片化せざるを得ないのです。これがマーラー的な聖の旋律の扱い方です。逆に言えば第5楽章で回想されるために・ひとつの楽章をかけて前の楽章で聖の要素的なものを提示しているわけです。これはイレギュラーなケースと見なければなりません。それは一刻(いっとき)の幻想なのです。マーラー自身は第4・5楽章をまとめて・第5交響曲の第3部という位置付けとしており、ふたつの楽章は切れ目なく演奏されます。アダージェットそれ自体では音楽は完結しないと見るのが本当のところだと吉之助は思います。
吉之助の聴くところではマーラーのアダージェットは「たそがれの音楽」です。泉鏡花の考察で「たそがれの味」ということを書きました。たそがれに昼と夜の境目はありません。そのような中間の世界に いつ入ったのかも分からないし、気が付いたらそこにいるという感じです。そこは本来対立するはずのどちらの要素も共存・交流するところの緩衝地帯なのです。
『このたそがれ趣味は、単に夜と昼との関係の上にばかり存立するものではない。宇宙間あらゆる物事の上に、これと同じ一種微妙な世界があると思ひます。例へば人の行ひにしましても、善と悪とは、昼と夜のやうなものですが、その善と悪との間には、又滅すべからず、消すべからざる、一種微妙なところがあ ります。善から悪に移る刹那、悪から善に入る刹那、人間はその間に一種微妙な形象、心状を現じます。』 (泉鏡花:「たそがれの味」」・明治41年3月)
しかし、マーラーのアダージェットが引き裂かれていないのではありません。「ふたつの感情に引き裂かれている」と言う本質はマーラーの大事なキーワードです。マーラーは現世的な未練に非常に強く引かれています。死を意識すればするほど・生がより一層いとおしく感じられ ます。楽しかったあの頃の思い出・遂に実現できなかった若き日の夢や憧れ、そのような想念がマーラーの心の底から浮かんでは消え・消えてはまた浮き上がる・そして哀しく歌う・時には狂おしいほどに身をさいなむ。マーラーのアダージェットはそういう音楽です。映画「ヴェニスに死す」 の最後のシーンで海岸の岸辺で太陽に向かってギリシア神話のアポロンのポーズを取るタッジオを見ながらアッシェンバッハがこと切れます。この場面でのアダージェットの旋律が映像と分かちがたいほど痛切に印象的に響くのは、ヴィスコンティがその旋律の文学的修辞を正しく利用できているからにほかなりません。ベニスとはヨーロッパ人にとって 煌びやかな過去の輝き・そしてもう取り戻せないあの日々なのです。
吉之助はマーラーの音楽を愛すること人後に落ちませんが、アダージェットの旋律は「愛陀姫」の結末にまったくそぐわないと感じます。境目がない「たそがれの音楽」のなかに は愛陀姫と濃姫の二重舞台で象徴される対立構図がまったく聴こえないことです。マーラーのアダージェットは確かに引き裂かれた音楽ですが、生に引かれ・死に引き裂かれるふたつのベクトルは自分の心の内部にあってせめぎ合い・ひとつをふたつに引き裂こうとする力です。それは「愛陀姫が聖・濃姫が俗」と言う視覚的な割り切り構図と全然合わないものです。
「愛陀姫」において・このアダージェットの旋律は一体誰のために奏でられているのでしょうか。愛陀姫と駄目助左衛門のためならば、ふたりは楽しかった語らいの日々でも思い浮かべながら・現世への未練に引かれながら死んでいくということなのか。濃姫のためならば、ついに恋は叶わなかったが・駄目助左衛門と結婚することを夢見たあの日々を思い出しながら・織田家への虚しい婚礼の道を歩むということなのか。吉之助にはそのようにしか聞こえませんがねえ。吉之助が音楽が驚くほどセンチメンタルに使われていると言うのはそこのところです。
「愛陀姫が聖・濃姫が俗」の割り切り構図はまあそれはそれとしても、舞台上に見える対立構図の裂け目を音楽でどう陰影を付けてより立体的に見せるかということが肝心です。そういう音楽の使い方になっていないと思います。むしろその逆で音楽が愛陀姫と濃姫の対立構図を弱め・他者的存在の影を弱め・観客に問題の本質を意図的に見せないようにしているとさえ思われるセンチメンタルな音楽の使い方です。これではヴェルディの「アイーダ」の最後の二重唱をマーラーにわざわざ差し替えるだけの劇的必然がまったく見えません。(この稿つづく)
(H20・9・16)
○「アイーダ」と「愛陀姫」・その9:ヴェルディのリアリズム
「アイーダ」最終場面の地下墓場の石室に閉じ込められて死を待つアイーダとラダメスの二重唱「さようなら、大地よ、さようなら、涙の谷よ・・」は、先に触れたドナルド・キーン氏の回想のなかで・トスカニーニが「この場面は悲しみじゃない、喜びだ、無上の喜びなんだ!」と叫んだ・その旋律です。この旋律はとても単純なものですが、短いフレーズが浮かんでは止まり・また浮かんでは止まるという動きを見せながら・ 静かに展開していく ものです。それはゆっくりとした呼吸の動きを示しています。息を吸う場面でフレーズがふっと止まるのです。閉ざされた地下の墓室にいるアイーダとラダメスが・呼吸しながらだんだん酸素がなくなって・二酸化炭素が充満していって・次第に息が苦しくなって・意識が遠くのいていく情景をヴェルディは実に正確に音楽で描写しています。やがてアイーダとラダメスの声は聞こえなくなります。最後に地上で喪服を着て・ラダメスの冥福を祈るアムネリスの声が唱和します。
旋律が醸しだす表層的な情感(ムード)を聞けば、この旋律はもはや生の執着を捨てて来世に喜びを見出そうとする・静かな祈りの音楽に聞こえるかも知れません。その要素はもちろんあります。そのことはアイーダとラダメスは苦しい息のなかでも・決してもがいたり暴れたりしていないことで分かります。しかし、ヴェルディは音楽のなかにちゃんと凄惨な「死」を書き込んでい ます。死は彼らにとって甘美なものであって・歌唱はもちろん美しく歌われなければなりませんが、ヴェルディは「しかし、所詮それは死だ」ということを冷徹に見据えています。これがヴェルディのリアリズムです。しかも残酷なほど・事実を冷徹に直視しようとするリアリズムです。つまり、「アイーダ」最終場面は非常に静かで清らかに聞こえますが、実は引き裂かれた音楽なのです。このリアリズムは近松が「曽根崎心中」において・お初徳兵衛の心中場面を次のように描写していたことを思い出させます。 これが歌舞伎とオペラとの類似性を考える時の大きな手掛かりであることは言うまでもありません。近松のリアリズムとヴェルディのリアリズムはまったく同じなのです。
『眼(まなこ)もくらみ、手を震い、弱る心を引き直し、取り直してもなお震い、突くとはすれど、切っ先はあなたへはずれ、こなたへそれ、二・三度きらめく剣の刃、あっとばかりに喉笛に、ぐっと通るが、南無阿弥陀、南無阿弥陀、南無阿弥陀と、刳り越し、刳り越す腕先も、弱るを見れば、両手を伸べ、断末魔の四苦八苦、あはれと言うもあまりあり』 (「曽根崎心中」)
アイーダとラダメスの最後の二重唱が引き裂かれた音楽であることは・その旋律だけであると聞き逃してしまいそうですが、ヴェルディはこの二重唱にふたつの旋律を重ねて・その本質をより鮮明にする工夫をしています。ひとつはどこか遠くからこの地下の墓室にまで聞こえてくる祭司たちの音楽です。それはアイーダとラダメスにとってもはや空虚で残酷な音楽にしか聞こえません。もうひとつはまったく別の意味を持ちますが、地上で喪服を着て・ラダメスの冥福を祈るアムネリス が・アイーダとラダメスの歌に唱和する声です。その音楽の引き裂かれた本質は地下墓室のアイーダとラダメス・地表にたたずむアムネリスという二重舞台によって視覚的にも実現されています。「アイーダ」上演はコンヴィチュニー演出のような例外もありますが・ 最終場は二重舞台を使うのが普通であり、それが台本のオリジナルの指定です。
「アイーダ」が観念的に「トリスタン」の影響を受けていることは先に触れました。実は「トリスタン」の模倣ではない・ヴェルディ独自のものがこの最終場面の音楽にはっきり出ています。それはアイーダとラダメスの声が途切れた音楽をアムネリスが引き継 いで曲が終わることです。「トリスタン」のイゾルデの愛の死の最後でマルケ王が唱和するエンディングはあり得ません。アムネリスの声ををどう読むかということです が、これはアムネリスは「ラダメスよ、あなたは死んでいくけれど・私は生きていきます」と言っているわけです。独身を貫くか・尼になるのか・別の男と結婚するのか・幸せになるのか・不幸になるのか・ それは分かりません。そこに聞く者の想像の余地を与えていますが、アムネリスがこれからも生きていくことは間違いありません。
「愛陀姫」の結末は原作と濃姫(アムネリス)の描写に確かに大きな相違があります。濃姫は「私が嫁いでもこの国に決して争いが絶えることのないように」と呪いの言葉を吐きます。ヴェルディの祈りの音楽 は「愛陀姫」の結末にそぐわないように思うかも知れませんが、 ヴェルディの書いた二重唱の旋律は実は引き裂かれており・その本質において「愛陀姫」の時代物の結末に十分耐え得るものだと吉之助は思います。ただし結末の濃姫の言葉の意味合いは変える必要がありますが。そのことは後で考えることにします。(この稿つづく)
(H20・9・14)
○「アイーダ」と「愛陀姫」・その8:センチメンタルな音楽の使い方
このことは観客をホロリと涙させて・主人公に同情させてしまう最後の場面の音楽の使い方に端的に現れます。「研辰」の場合はマスカー二の歌劇「カヴァレリア・ルステカーナ」間奏曲・今回の「愛陀姫」ではマーラーの交響曲第5番・アダージェットです。驚くほどセンチメンタルな使い方がされています。美しく・切なくもある旋律が醸しだす表層的な情感(ムード)だけを利用した音楽の使い方です。
しかし、音楽は(そうでない音楽ももちろんありますが)・特にロマン派音楽の場合はその旋律の背景につきまとう文学的修辞を切り離して考えることはできません。歌詞を伴わない純器楽作品の場合 は、このことはなおさら重要です。音楽の持つ文学的修辞とは音楽の構造が生み出す純粋に観念的なものであり、それは文学的・あるいは時に視覚的でもあります。だからその音楽を「ロマン派」と呼ぶのです。言うまでもなくロマン(浪漫)とは小説・物語のことを言います。映画にクラシック名曲を使ったものは少なくありませんが、その忘れがたい場面においては旋律の醸しだす文学的修辞 とドラマの主題が分かちがたく結びつき、相乗効果的な劇的効果を生み出すものです。
それにしても「愛陀姫」の最終場面は、そこまでヴェルディの「アイーダ」の音楽を劇中でふんだんに使っているのだから・そのまま最終場面もヴェルデイの音楽を使えばそれで済むのに、わざわざマーラーに差し替えた処置には驚きました。マーラーのアダージェットは本当はこんなセンチメンタルな音楽ではないのですが 、ここではそういう使い方がされています。野田氏だけではなく・日本の演劇では音楽を情緒的に・表層的に使われているケースが少なくありません。音楽の持つ文学的修辞を論理的に利用するということがあまり見掛けられないのです。日本演劇は音楽をもっと論理的に駆使できるようにならないといけないと思います。例えばヴィスコンティ監督の「ベニスに死す」でのマーラー:アダージェットの使い方、コッポラ監督の「ゴッド・ファーザー・パート3」でのマスカー二:間奏曲の使い方を見れば、音楽がドラマと密接に結びつき・論理的に使われているかがお分かりになるはずです。もし「愛陀姫」がミラノで上演されることがあるならば・観客から間違いなく腐ったトマトを投げつけられることを野田氏は覚悟した方が良いです。あそこの観客は怖いんですよ。
「愛陀姫」での音楽の使い方は最終場面以外のところでは・そう悪くはないものです。これはヴェルディの音楽がドラマに緊密に結びついているのですから当然です。凱旋シーンでのヴェルディの音楽はわざとチープに使われていて・オペラファンには憤慨する方もいるかも知れませんが、ヴェルディが凱旋シーンを異常に肥大化させたことの意図を知っていれば・これはヴェルディ自身も認めるだろう音楽の使い方だと吉之助は思います。コンヴィチュニー演出でも凱旋シーンは軽薄な馬鹿騒ぎにわざと仕立てていました。「愛陀姫」に象の戦車が登場することも吉之助には気になりません。これはこれで良いと吉之助は思います。しかし、「愛陀姫」の最終場面がマーラーなのはまったく良ろしくないと吉之助は思います。
もちろん野田氏が「愛陀姫」の最終場面の音楽をマーラーに差し替えたのは彼なりの考えがあってのことだろうとお察しはします。「愛陀姫」の最終場面は原作と結末が違っていますから、 濃姫が呪いの言葉を吐いて・憤りを胸に秘めて終わる場面にヴェルディの清らかな祈りの旋律が合わないと野田氏は考えたのかも知れません。死に行く愛陀姫・憤りを胸に秘めて去る濃姫の対比をつけるのにもうちょっと引き裂かれた音楽が欲しいということで・「それならばマーラー」となったのかも知れません。いちおう野田氏の立場になって考えてみればそういうことになりますが、吉之助はマーラーの音楽が「愛陀姫」の最終場面でドラマと結びついて論理的に鳴っていると は到底思えないのです。とてもセンチメンタルな音楽の使い方がされています。ここに野田歌舞伎のもうひとつの問題が見えます。つまり、観客をホロリと涙させて・主人公に同情させて、主人公が追い込まれた状況に対して観客が真剣に向き合うことを邪魔するということです。悪く言えば観客の目を本質 と違う方向へ反らさせると言うことです。それは野田氏が音楽の持つ文学的修辞を論理的に使えていないせいだと吉之助は思います。(この稿つづく)
(H20・9・12)
○「アイーダ」と「愛陀姫」・その7:分裂した他者
ヴェルディは教会(宗教としてのキリスト教ではなく・権力構造としての教会)に対してあまり良いイメージを持っていなかったようです。例えば「ドン・カルロ」の異端者処刑の場面などに・そうしたヴェルディの不信感が現れているかも知れません。晩年ヴェルディは故郷のバルマに病院を寄付しましたが、毎朝夕行われる院長の回診に聖職者が付いて回ると聞いて・これを即刻やめるようにと手紙を書いています。しかし、ヴェルディが敬虔なカトリック教徒であったことは疑いありません。でなければあれほど素晴らしい「レクイエム」は書けません。ヴェルディが嫌ったのは世俗の権力構造としての教会です。
このことは「アイーダ」を考える場合に大事なことです。「アイーダ」での政治と宗教を分けて考えてはいけません。オペラを観ると・祭司長ランフィスの方がエジプト王より偉そうであり、宗教が世俗権力より大きな力を持っているように見えます。しかし、これは宗教が政治を牛耳っているのではなくて、宗教が政治と一体化しているからです。古代エジプトは宗教国家だからです。天は神イシスが司り・地は王(ラー)が支配することは神により認められているという世界構造があったわけです。実はこの構造はプロイセン国王ウィルヘルムにおいても同じでした。ウィルヘルムは19世紀の「遅れてきた絶対君主」です。絶対君主制全盛期(代表的なのは もちろんフランスのルイ14世・イギリスのエリザベス1世)においては天は神が治める・現世は神によって君主が治めることが認められているという世界観があり、民衆はその世界観に統治者の正当性を見たのです。これは18世紀の世においては当たり前のことでした。しかし、19世紀末になってウィルヘルムがまだ大真面目に時代遅れの主張を しているから・ いろいろ物議を醸すわけです。しかし、現代においても形を変えながら統治者は何らかの大義を求めており、権力の本質的なものは何も変わっていません。宗教とか・国家という範疇を越えて、「アイーダ」では個人と対峙し・個人の尊厳を脅かす他者的な存在 (状況)が明確に意識されています。
一方、野田歌舞伎においては・見定められるべき対象(他者的存在)が分裂していると吉之助には感じられます。 つまり、個人と対峙するものが分裂しており、吉之助から見ると対象が定まらないように感じられます。しかし、たぶん分裂した対象の片割れが「大衆」であることは間違いありません。これは言うまでもなく野田演劇の重要なキーワードです。例えば「研辰」では仇を討つ者と討たれる者に対して、大衆はきまぐれで・その時の気分によって反転する・行き当たりばったりで・実に無責任な反応を示します。その変化する気分 はその時々の大衆の正直な気持ちではあるのです。しかし、その行動や言動には一貫性がありません。しかも大衆の反応は辰次や平井兄弟が引き起こしているように見えて・実はそうではなく、予想できない大衆の反応によって辰次も平井兄弟も振り回されているという構図です。そのため筋はさらにねじれて・よじれていくことになります。そこが野田歌舞伎の面白さのひとつです。
このような大衆によって生み出される筋の捻じれで観客を笑わせながら・野田氏は「笑っている観客のあなたも大衆のひとりなんだよ」という批判をちょっぴり交えています。しかし、野田歌舞伎は完全な大衆批判にはなっていません。というより野田氏 には大衆を批判する気は全然ないだろうと思います。吉之助はそこが野田氏の優しさであり 、もしかしたらそこが弱さでもあるかなと思います。野田氏は最後にホロリと涙する場面を作って・大衆を主人公に対して同情させて・大衆を許してしまうからです。つまり、状況に追い駆けまわされ・時に追い詰められる主人公を見てワイワイ囃し立て・けしかけていたはずの大衆が、最後に主人公の真情にホロリと涙することで・それまで 騒ぎに加担していた大衆の責任も帳消しにされてしまう。だから大衆は死んでいく主人公に対して後ろめたさを感じなくて済む。観客の皆様は「ああ面白かった」と安心してお帰りいただける・というわけです。これが「研辰」や「鼠小僧」のパターンではなかったでしょうか。「愛陀姫」 でも祈祷師を登場させて・世論を操る場面が出て来ます。シリアスタッチなので・前2作ほど大衆があまり前面に出てはいませんが、本質的なところは同じです。
「野田版・研辰」が大衆批判でないならば・見定めるべき対象が実は大衆でないのならば、それでは辰次は何と対峙しているのか。何が分裂した他者のもうひとつのパーツなのか。吉之助はそこが問題になると思います。忠義批判か・封建批判か・お上批判か・あるいは他のことなのか。仇討ち芝居を平成の世でやる意味は何か。ところが「野田版」ではずっと「大衆」でワイワイ騒いできたものだから、最後になって対象が明確に見えてこないのです。
木村錦花の原作を見れば・もともと町人であった辰次が武士になって・ 身丈に合わない生活を始めて・いじめられ・怒ったらまたやり返されて、これが大正14年に上演された背景がこの時代のどうにもならぬ状況と重なることが明らかです。そこに時代の気分を重ねて見る必要があります。そこを理解することで「研辰」は平成の芝居にもなるのです。もちろん 優れた書き換え狂言というものは原作の気分をどこかに引き継いでいるもので、「野田版」も実はそのはずです。しかし、「野田版」の場合は「大衆」が先行し・対象(他者)の像が分裂している為に、観客から見ると他者の姿がぼやけて しまって・明確に対象が定まらないということが問題かなと吉之助は思っています。(この稿つづく)
(H20・9・10)
○「アイーダ」と「愛陀姫」・その6:時代物の骨格
平成20年8月歌舞伎座の「野田版・愛陀姫」は野田秀樹・勘三郎の三番目の提携作品で、ヴェルディの歌劇「アイーダ」からの翻案です。前2作の「研辰の討たれ」と「鼠小僧」は世話物でしたが、今回の「愛陀姫」は時代物という点でも興味深いところです。舞台を見ると祈祷師の使い方・台詞のスピード感などに野田演劇らしい面白さが見えますが、主要人物の台詞は原作オペラの歌詞 を細かいところまで取り入れており、大筋ではオペラを忠実に置き換えた印象が強いようです。その分・前2作と比べると遊びが少なくなって、シリアスな感触に仕上がっているので野田・勘三郎で大いに笑おうと歌舞伎座に来られたお客はお気の毒でしたね。しかし、前2作とは違う野田氏のトーンの微妙な変化が吉之助には興味深く感じられました。 今回の「愛陀姫」のなかで野田氏が原作「アイーダ」から改変した部分に野田歌舞伎の特質が出ていると思うので、本稿ではそこに焦点を絞って考えます。
まず出版されたばかりの「愛陀姫」脚本(「野田版歌舞伎」・新潮社)の結末部分を読んで・なるほど野田氏は巧いこと考えたものだと思いました。実は吉之助は本を読む時に・ いきなり冒頭から読み始めることをせずに・最後から読んだり・途中を見たり ・つまみ読みをよくするものですから、「愛陀姫」を結末から見てまず感心したわけです。濃姫が祈祷師に裏切られて・織田家に嫁ぐべしというご神託を突きつけられて、「私が嫁いでもこの国(美濃)に決して争いが絶えることのないように」と呪いの言葉を吐く最後の場面のことです。史実に拠れば・濃姫の嫁ぎ先の織田信長が後に美濃に攻め入って・この国を滅ぼすことになるのです。だから架空のお話はここで歴史の大きな流れのなかに乗ってくることになり、時代物の構造のなかにはまってくるわけです。
例えば「実盛物語」の最後で「その時は実盛が鬢髪を黒に染め、若やいで勝負をとげん、坂東声の首とらば、池の溜まりで洗うて見よ、いくさの場所は北国篠原、加賀の国にて見参見参」と 実盛が言う時に九郎助住居の場の架空の出来事から28年後の史実に向かって・まっすぐな線がスッと見えてくるのと同じことが意図できます。もっとも実盛の逸話は当時の江戸の民衆にとっては常識というべきものでした。濃姫と信長の結婚に現代の観客がどういうものを見るかは分かりません。その辺は幕切れで誰かの口から美濃の将来を憂えるような台詞を吐かせる工夫が必要かなと思いますが、「愛陀姫」は時代物の本歌取りのトリックは一応取れてると思います。
なお「濃姫」というのは織田家に嫁いでからの敬称でして・結婚前は道三のもとで鷺山殿と呼ばれていたのが史実です。有名な逸話にある通り道三は信長を大変に気に入っており、 道三は息子義龍(道三実子ではなかったとの有力説あり)より・むしろ信長の方に若き日の自分を見ていたようにも思われます。実際、信長の美濃攻めは自分こそ美濃の正統な後継であると主張する印象が強いものでした。信長と濃姫との間に子供はありませんでしたが、夫婦仲は良かったと言われています。また信長は合理主義者で・神仏や占いなど信じないようなイメージがありますが、実は信長は伊東法師という有力な陰陽師を軍配師として抱えており、軍の勢いや戦の日取り・天気などを占わせて、これを参考に して戦術をたてたのです。これは当時の大名ならば誰でもそうでした。そういう史実はあるようですが、大筋において「濃姫の嫁ぎ先が実家に攻め入って・美濃の国を滅ぼすことになった」という未来を時代物の骨格に置くことは納得できることです。
いずれにせよ「愛陀姫」脚本の最後の場面だけ抜き出して読むならば(ただし最後の場面だけを読めばの話です・その理由は後で触れます)・歌舞伎の時代物としてさほど違和感はなく・ エジプトから戦国日本への置き換えはまずよく出来ていると吉之助は思います。しかし、実際の舞台を見ると、いくつかの問題があって「愛陀姫」は骨太い時代物の印象を与えることが出来ずに終わっています。どうしてそうなってしまったのか。吉之助はそこに良くも悪くも野田歌舞伎の特質を見る気がするのです。(この稿つづく)
(H20・9・8)
○「アイーダ」と「愛陀姫」・その5:アムネリスの役割
このように「アイーダ」の状況を広義に読み込んでいくと、「アイーダ」のドラマは愛し合う男女の死というメロドラマ的な要素を越えて、個人を圧倒し・個人の尊厳を奪い去る非人間的な状況に対する個の主張と 見ることができます。それに国家とか戦争とか具体的な名前を付けることももちろんできますが、もっと大きく捉えれば、それは個人が社会のなかで生きて行くなかで・ 必然的に衝突せざるを得ない他者的な存在なのです。ノイエンフェレスは、凱旋の場を除く「アイーダ」の主要人物の対話は「どこでも良いのではなく・広間で(すなわち限定された空間のなかで)演じられるべきものだ」と 指摘しています。閉鎖された空間が登場人物の置かれた状況を象徴 します。アイーダとラダメスは最後には地下の墓室でに生き埋めにされるのですから、閉鎖されたイメージが最後まで付きまといます。その死の瞬間にアイーダとラダメスは閉鎖 された状況から解く放たれ、ふたりは個の尊厳を求めて「彼の地」へ旅立つ。これがノイエンフェレスの解釈です。
しかし、作品全体から見ればアイーダ/ラダメスはキャラクターとすればむしろ単純な役です。アムネリスの方が性格的にはるかに複雑かつ劇的です。「アイーダ」に深い陰影とドラマ性を与え ているのがアムネリスの存在です。 当然のことながらヴェルディはアムネリス役の歌手をとても重視しました。ヴェルディは楽譜出版者のリコルディに次のような手紙を書いています。
『あなたは「アイーダ」の台本をご存知だから、アムネリス役には非常に劇的なものの本質をつかみ、場面を支配することのできる芸術家が必要だということはお分かりでしょう。声が美しいだけでは、このパートには十分ではありません。いわゆる歌唱力の完成度というのはほとんど気に留めません。声や魂や、一種の何か ・人がひらめきと呼ぶものは私の方から与えることはできません。それは「魔物を自分のなかに感じる」と呼ばれるものです。』(ヴェルデイ:リコルディ宛:1871年7月10日)
アムネリスはアイーダの恋敵であり、プライドが高く・自分が王女だからラダメスが自分を愛するのが当然と思っているところがあり・ しかしラダメスが自分に関心を示さないので嫉妬に狂って・結果的にラダメスを破滅に追い込みます。しかし、裁判の場(第4幕第1場)においてアムネリスはラダメスに生き埋めの刑を宣告する祭司たちに向かって・怒り と呪いの言葉をぶつけます。この台詞が「アイーダ」の最重要の台詞です。 (この点については後ほど改めて考えます。谷崎潤一郎も激賞した歴史的なアムネリス歌手シミオナートのこの場面の映像をご覧になりたい方はこちら。1961年NHKイタリア・オペラ。)
『あの方は生きながら墓に埋められるのですと・・・おお、無慈悲な人たちよ。あの方の血にも飽きたらないで・・天の従者と自らを呼ぶのか。祭司たちよ、あなた方は罪を犯したのです。血で飾り立てた卑しき虎よ。あなた方は大地と神々を侮辱したのです。(中略) 祭司の長よ、お前が殺してしまうあの人は、ご存知のように、かつて私が愛した人なのです。あなた方は罪なき者を罰したのです。むごい人たちよ、呪いがあなたたちの上にあるように。天の復讐が降るでしょう。』(第4幕第1場)
アイーダ/ラダメスは苛酷な運命に対して沈黙を守り、祭司たちに呪いの言葉を浴びせることはありません。その代わりをアムネリスが勤めているのです。そしてヴェルディの秘められた憤激をアムネリスが代わりに吐き出してもいます。この場が「アイーダ」のクライマックスであることは「アイーダ」成立過程を踏まえれば納得できます。 「アイーダ」のドラマを動かし・ドラマに明確な方向性を与えるのがアムネリスなのです。「アイーダ」フィナーレは地下墓のなかに生きたまま閉じ込められて死を待つアイーダ/ラダメスの二重唱 ですが、地上では喪服に身を包んだアムネリスがこれに唱和して・祈りの言葉を捧げながら音楽が終わります。(この最後のシーンについては後ほど考えます。)
『あなたの上に平安がありますように。いとしい御からだよ・・・心静めしイシスの神よ・・あなたには天が開く。』(第4幕最終場面)
先日(2008年5月)のペーター・コンヴィチュニー演出の「アイーダ」は最後に舞台奥の扉が開いてアイーダとラダメスは閉鎖された劇場空間から劇場の外へ飛び出して行くというコンセプトでした。(注:日本公演では劇場奥が開かないため東京のビル街の夜景の映像がスクリーンに映しだされました。)アイーダとラダメスはすがるアムネリスを無視するように手を取って去り、アムネリスは舞台にただひとり取り残されました。アイーダとラダメスは別世界に旅立って救われるけれども、アムネリスは拒否されたのか ・アムネリスは現世で苦しむしかないのか・・・そういう苦い疑問を観客に残したまま幕が下りました。まあ解釈はさまざまです。アムネリスもまた救われるという解釈もあり得ると思います。むしろ吉之助はそちらを取りたい 立場ですが、ヴェルディのピアニシモの最終音はどちらの解釈も受け入れる可能性があるのです。(この稿つづく)
(H20・9・6)
○「アイーダ」と「愛陀姫」・その4:「アイーダ」の時代的心情
それでは「アイーダ」はヴェルディによる普仏戦争批判なのか。古代エジプトの物語を借りてヴィルヘルム1世やビスマルクをあてこすったのか。そう単純なものではありません。直接のきっかけはもちろん普仏戦争に対する憤激にありますが、「アイーダ」の持つ時代的心情はもっと大きく深いものです。 現代に意義ある「アイーダ」上演のためにはその点を検討しなければなりません。
「アイーダ」上演史上において注目すべき演出のひとつは1981年ハンブルク歌劇場でのハンス・ノイエンフェルスによる演出です。ノイエンフェルスは「アイーダ」の舞台を上流階級のアールデコ調の事務室に変えて、掃除婦のアイーダがラダメスと一緒にガス室で死んでいくという設定にしてしまいました。 凱旋の場は、捕虜のエチオピア人たちが食べ物を争う姿をエジプト人の上流階級が劇場の桟敷席から見物しているというシーンに変えられて・スキャンダラスな話題 となりました。 その意図についてノイエンフェルスは次のように語っています。
『フロイトの素晴らしい命題がある。言葉通りに引用できないが大体こんなところだ。人間は戦争で死を感じるからこそ、生をも感じる。だから「アイーダ」にはつねに戦争の呼びかけがある。存在感があまりに薄くなってしまっており、戦争においてのみその存在が確かめられるようになってしまっている。この概念的に恐ろしく空虚になった時代は、同様に空虚になった我々の時代に警告を発している。それは今日の我々への架け橋であるように思われる。この作品の中心人物たちは象徴的な人物像であり、単にメロドラマの一要素であるだけでなく・原型的な要素でもあるのだ。』(ハンス・ノイエンフェルス:「アイーダ」の演出に関して ・1981年1月)
「アイーダ」には国家・戦争あるいは組織という存在が背後で主人公(アイーダ・ラダメス)を常に脅かしています。もう片方に主人公たちを常に誘うものがあります。ノイエンフェルスはそれを「憧れ」と呼んでいます。
『それ((憧れ)は私がリアリズムと呼ぶものに関連している。「アイーダ」は張り詰めた・極めて透明度の高いものだ。「アイーダ」はヴェルディの構想ではメンフィスの王宮で演じられる。つまり、どこでも良いのではなく・極めて厳格に広間で演じられるべきものだ。このことは非常に重要だ。なぜならこれによってナイル河の幕に独特な緊張がもたらされるからだ。ナイル河での幕では憧れの表現が歌の最高の姿をとって現れる。(中略)そこには血と土という意味の土地に対する思い以上の何かがある。それはエジプトでは決して見出せないある状態への回帰の希望を語っているのだ。ナイル河の幕は空間から歌い始められ、この希望へ、自然のなかへと入り込んでいく。はるかに遠いエチオピアの緑の野、その暖かな風が呼び招かれる。』(ハンス・ノイエンフェルス:「アイーダ」の演出に関して ・1981年1月)
現代においても戦争は絶え間がありません。国家と戦争の問題は現実的な・しかも切迫した問題ですから、「アイーダ」は時代を越えたメッセージを我々に投げかけてきます。戦争においては常に大義が必要です。もし大義がなければ大義を作れば良いのです。例えば「あの国はテロリストを匿っている」( しかしいくら探してもテロリストは見つからなかった)・「 あの国は大量殺戮兵器を隠し持っている」(しかし大量殺戮兵器は見つからなかった)。ついこの前の戦争で起こったことは・神のご加護のもと戦争を行ったヴィルヘルム1世・ビスマルクと本質的な違いは何もないのです。このことは遠い異国の出来事ではなく、 この世界情勢にに日本も無関係ではあり得ません。だからヴェルディの憤りは現代にそのまま通じるのです。先日(2008年5月)・日本でも公演が行われたペーター・コンヴィチュニー演出(1994年・グラーツ歌劇場初演) もこのこのコンセプトによるものでした。凱旋の場は権力者のチープな馬鹿騒ぎに置き換えられました。(コンヴィチュ二ー演出の舞台写真はこちらのサイトをご覧ください。)(この稿つづく)
(H20・9・4)
○「アイーダ」と「愛陀姫」・その3:「アイーダ」の歪な構造
1869年11月・スエズ運河開通記念行事のひとつとして・カイロに歌劇場が建設されました。この劇場のためにヴェルディに新作オペラの依頼が来たのは同年半ばのことでした。この時ヴェルディは気乗りがせず・いったん断っていますが、その翌年に送られてきた「アイーダ」原案を読んで興味を示して・翻意します。原案は考古学者マリエットによって書かれたものでした。マリエットはとても文才に富んだ人で、考古学知識を散りばめた原案はヴェルディも「芝居をよく知っていて・経験を積んだ筆である」と褒めているほどです。(ヴェルディ:デュ・ロクル宛・1870年5月26日の手紙)その後台本はヴェルディの依頼により・ギズランコーニによって台本に仕上げられますが、その台本は概ねマリエットの原案に沿ったものでした。どうして急にヴェルディが作曲を引き受ける気になったかということは「アイーダ」を考える時の非常に大事なポイントです。このことは吉之助の音楽ノート「アイーダ」の稿でも触れましたが、もう少しこの 問題を考えます。
まず1870年前後の世界情勢を考えてみる必要があります。ひとつはスエズ運河開通に象徴されるように・西欧帝国主義がその頂点(言い換えれば臨界点)に達しつつあった時期であったということです。もうひとつは西欧のなかで 列強各国の利害が対立し・紛争が絶えなくなってきたことです。特にやっかいの種は植民地競争において乗り遅れたプロイセンでした。そうした緊張状態のなかで起こったのが普仏戦争(1870年7月19日〜1871年5月10日)でした。普仏戦争はドイツの勝利によって終わりますが、この戦争は空位になったスペインの王位継承に関しフランスとプロイセンとの間に意見の相違があり・紛糾していたところに、この問題に言及したウイヘルム1世の電報を宰相ビスマルクがあたかもフランスがプロイセンを侮辱したかのように改竄して世論を煽ったことに始まります。これをエムス電報事件(1870年7月14日)と呼びます。もちろん 世論に戦争反対論もありましたが、エムス電報事件でそのような声はかき消されてしまいました。7月19日に堪忍袋の緒が切れたフランスがプロイセンに宣戦を布告します。9月2日、フランス軍はセダンでプロイセン軍に完全に包囲され・ナポレオン3世ほか大勢の兵士が捕虜となり、その2日後にナポレオン3世が退位します。憤激したヴェルディは急に思い立って、ギズランコーニに当てて次のような指示をします。
『凱旋の場の合唱にエジプトと国王をもっと賛美させ・同時にラダメスももっと賛美するようにして欲しいのです。ということは最初の8つの詩句をいくらか変えねばならないということです。2番目の女性の詩句はこれで良いですが、それに続いて祭司の詩句が加わらなければなりません。「我々は神意によって勝った。敵は降伏した。神はさらに我々に味方するだろう。」 ヴィルヘルム国王の電報をご覧下さい。』(ヴェルディ:1870年9月8日の手紙・ギズランコー二宛)
手紙でヴェルディが引用したのはセダンの戦いに勝利したドイツ国王ヴィルヘルム1世の勝利宣言の電報文です。ヴェルディの指示によりギズランコー二は凱旋の場の祭司たちの合唱の歌詞を加えました。
『勝利を統べる・いと高き神に眼を向けよ。幸運なる日に、感謝をば神に捧げよう』(第2幕第2場)
さらにヴェルディは友人に宛てた別の手紙で次のように書いています。
『やたらに神意を持ち出すこの国王(ヴィルヘルム)は神の力を借りてヨーロッパの一番良い部分を破壊しているのです。彼は自分が風紀を改善し・今日の世界の悪習を処罰するために選ばれた存在であると信じているのです。何と変わった神の使徒でありましょうか。』(ヴェルディ:1870年9月30日の手紙・マッフェイ宛)
「アイーダ」はスペクタクル・オペラの代表のように言われますが、有名な凱旋の場のスペクタクル性にはヴェルディの当時の世界情勢に対する憤激が潜んでいるのです。凱旋の場の壮麗さはグロテスク・怪物性と言うべきものです。実は「アイーダ」はそのほとんどが主役3人を中心とした心理ドラマであり・むしろ室内楽的とも言える小振りの繊細な表現が要求されます。逆にそれと反比例するように凱旋の場がスケール感を増していきます。 いかにハリウッド歴史スペクタクル調に豪華に仕上げるかが演出の仕どころになっていきます。演出によっては舞台に象が登場したり・戦車がずらりと並んだり・偉大なモニュメントが観客を圧倒します。一方は極小を目指して結晶化し、もう片方がグロテスクなほど肥大化していきます。そのような歪(いびつ)な構造は「アイーダ」が本質的に持つものです。(この稿つづく)
(H20・9・1)
○「アイーダ」と「愛陀姫」・その2:「アイーダ」は心中物である
日本文学研究者として著名なドナルド・キーン氏は無類の音楽好きでもあり、そのオペラ通ぶりは作曲家の諸井誠氏が「もし引き受けてもらえるならキーンさんにレコ芸のオペラ批評欄を担当してもらいたいものだ」と吉之助に語ったほど でした。その著書「音盤風姿花伝」(音楽之友社)で披露される音楽体験は素晴らしいものです。そのキーン氏が「古典を楽しむ〜私の日本文学」(朝日選書393)のなかで近松門左衛門の心中物(「曽根崎心中」・「心中天網島」など)を論じた章の末尾を次のようなエピソードで締めています。
トスカニーニが歌劇「アイーダ」(ヴェルディ)をニューヨークで演奏会上演した時のリハーサルをキーン氏は見学したそうです。(この時の1949年の素晴らしい演奏会は映像で残っており、「アイーダ」を語る時に必見のものです。)その第4幕はラダメスとアイーダという愛し合う二人が墳墓のなかに生きながら閉じ込められて死を待つシーンです。その最後の静かな旋律を二人の歌手が悲 しみを込めて歌いました。するとトスカニーニは即座にオケを止めて・こう叫んだそうです。「この場面は悲しみじゃない、喜びだ、無上の喜びなんだ!」
キーン氏の近松心中論は最後に「アイーダ」のエピソードが突然飛び出して・それで終わります。オペラを知らない方にはこの締め方は唐突に感じられるかも知れません。しかし、これはキーン氏のなかに完全な「必然」があるのです。吉之助も同感ですが、お初徳兵衛の心中とアイーダ/ラダメスの死のなかに同じかぶき的心情が はっきりと見えるからです。(これについては後ほど考えます。)こういう論旨展開は「歌舞伎素人講釈」にはよくあることですが、キーン氏がこのような文章を書いてくれたことは吉之助にとても心強く思います。 やはり「アイーダ」は心中物だと考えて良いのです。
付け加えれば吉之助の方は「近松心中論」をワーグナーの楽劇「トリスタンとイゾルデ」との関連から取り上げています。(本論は道行とハンドリングの関連を論じるもので・音楽に関する理解が多少必要かも知れません。)実はヴェルディの「アイーダ」は観念的に「トリスタン」の影響を強く受けています。曲がピアニシモで開始され・最終音がピアノニシモで締められる点では表面的にも似ています。しかし、これはヴェルディがワーグナーを模倣しているということではなく(初演当時からそのような批評がありましたが)、その類似は同時代的心情において理解すべきことです。(この稿つづく)
(H20・8・29)
○「アイーダ」と「愛陀姫」・その1:歌舞伎とオペラ
ご存知の通り「歌舞伎素人講釈」には歌舞伎とオペラを関連付けた論考が何本かあります。吉之助は江戸の「精神的状況」は十九世紀の西欧の状況を先取りしていたと考えています。19世紀ロマン主義を代表する芸能ジャンルがオペラです。19世紀西欧ジャポニズムは江戸と出会うのが必然であった ・このことを考えるのには歌舞伎とオペラを関連させてみるのが大いに役に立つのです。
読者の方は吉之助が「歌舞伎素人講釈」でオペラを取り上げる時に音楽にほとんど触れていないことにお気付きと思います。例えば別稿「その心情の強さ」では冒頭にヴェルディの「椿姫」から近松の「出世景清」の遊女阿古屋との心情の関連を考えています。別稿「 八つ橋の悲劇」ではビゼーの「カルメン」から・「籠釣瓶花街酔醒」の考察を引き出しています。しかし、お読みになればお分かりの通り・論考では音楽(つまり旋律やリズム)について は触れていません。歌舞伎とオペラを考える時には音楽よりもまず台詞がその取っ掛かりとなるのです。それは歌舞伎とオペラの共通項が「ドラマ」であり、吉之助の関心事はそのドラマの描き出すところの心情であるからです。
歌舞伎もオペラもどちらも楽しむ方は昨今結構いらっしゃいます。「歌舞伎とオペラは似ている」と何となく感じる方は多いと思います。しかし、「歌舞伎とオペラは似ている」という議論が「オペラのアリアは 歌舞伎のツラネのようである」などと言う表面的なことだけなら、あまり説得力はないと思います。一方「音楽を主体とするオペラと・言葉を主体とする歌舞伎は表現手法が違う」などと言う議論も意味がないと思います。ジャンルが違う芸能の手法が異なるのは当たり前のこと。表層的な表現手法の似てる・似てないの議論に吉之助は興味ありません。重要なのはそれが表現するところの心情だからです。「心情」こそ吉之助が江戸の精神的状況」が十九世紀の西欧の状況を先取りしていたと主張するところの根拠です。
オペラの台本(リブレット)は例外もありますが・西欧でも文学としてはだいたい二流に分類されています。例えばヴェルディの「トロヴァトーレ」はイタリアオペラの魅力満喫ということでは最高の人気作ですが、「トロヴァトーレ」はヴェルディの音楽の力強さ・輝かしさを絶賛される一方で、筋の荒唐無稽さをこれほど言われたオペラもありません。曰く「生活のために・興行主の要請に応じて・仕方なく二流の台本に曲をつけねばならなかった可哀想なヴェルディ!」 。しかし、「トロヴァトーレ」の成立過程を見ればカンマラーノによる台本は完全にヴェルディの主導の下で書かれており、それがヴェルディの意図を体現するものであったことが明らかです。実際ヴェルディもどこかで言っていたと思いますが、「良いオペラを書くために必要なのは台本・何よりもまず良い台本」なのです。名作と呼ばれるオペラは必ず作曲者と脚本家の緊密な議論連携のもとに台本が作られています。
小説・演劇として優れたものであっても・それだけでオペラの題材にふさわしいとは限りません。作曲家はオペラにマッチした題材をいつも必死に捜し求めています。1894年・老ヴェルディがパリに滞在していた時のこと、劇作家サルドゥーの家で・脚本家のイッリカがサルドゥーの 戯曲をオペラ化した新作脚本の朗読会が開かれました。その時に読まれた台本が後にプッチーニによって作曲されることになる「トスカ」です。イッリカが朗読した時・ヴェルディは興奮を抑えきれず、第3幕のカヴァラドッシのアリア 「星も光りぬ」の箇所で遂に席を立ち上がり・イッリカに近づき・台本を引ったくって・むさぼるように台本を読んだそうです。後にヴェルディはサルドゥーに「もう自分には体力的に無理だが、自分が若ければ作曲してみたい作品がある。それは「トスカ」だ。」と言い、プッチーニが作曲をすると聞いて「彼はいい台本を見つけた。 きっと成功するだろう」と語ったそうです。どうしてヴェルディがそんなに興奮したのか・プッチーニの「トスカ」を知っている人なら説明しなくても分かるはずです。
実際オペラは旋律を味わうだけでもそれなりに楽しめますが、台本を読めば楽しみはさらに倍加します。「オペラは旋律の甘美さで聴衆を魅了するもの・ 言葉の持つ意味は二の次」なんて考えるのは大きな誤解です。なぜならば作曲者は台本に沿って音楽を付けているのですから、その音楽は作曲者による台本の解釈であり・ドラマの理解に他ならないからです。だから旋律あるいはリズムが表現する心情を観念的に理解するのに は、台本を分析することがもっとも早道です。オペラを鑑賞するのにイタリア語が分かる必要は必ずしもありません。まずは日本語訳の台本で十分ですが、粗筋を知っておいて曲を聴くことです。吉之助は 家でオペラを聴く時はイタリア語を分からぬなりにイタリア語の歌詞を追いながら・音楽を聴きます。鍵になる語句のところで作曲家がどういうフレーズ・どういうリズムを付けるかは非常に大事だからです。ですから音楽そのものから歌舞伎との関連を考えることももちろん出来ます。そのためには曲をたくさん聞き込むことが必要で ・多少年期が必要ですが・本稿では旋律とドラマの関係にもちょっと触れてみたいと思います。(この稿つづく)
(H20・8・27)
昨今は海外の一流オペラハウスが歌手・合唱団・オーケストラから装置・衣装まで全部持ち込んで・続々と来日公演して、どれを聞こうか選ぶのも困るくらいです。その昔は交通手段も発達していませんでしたし・費用も莫大に掛かりましたから、1970年以前には海外オペラハウスの公演が非常に稀でした。そのなかで音楽ファンの渇を癒してくれたのが「NHKイタリア・オペラ」(正確には「NHKイタリア歌劇団」と称す)という企画でした。NHKイタリア・オペラは1956年から76年まで8回に渡り、オペラの本場イタリアから一流歌手と指揮者・演出家をNHKが招聘し、管弦楽はNHK交響楽団・合唱団は二期会 など・装置製作は日本で受け持つ形で・オペラ公演を実現したものです。NHKイタリア・オペラ公演が日本音楽界に与えた貢献は実に計り知れないもので、これでオペラというものを知った人が大勢いたと思います。ハイライトは何と言ってもデル・モナコやデバルディやシミオナートが登場した第1次〜第3次でありました。もちろん招聘元がNHKですから、テレビ放送もされました。当時の欧米で のオペラ舞台の映像はあまり残っていないので、NHKイタリアオペラの録画は海外のオペラ・ファンが随喜の涙を流す貴重なものです。
吉之助自身もNHKイタリアオペラにお世話になった世代でして、71年9月(第6次)のイタリア・オペラ公演で・パヴァロッティが歌うマントヴァ公爵の「リゴレット」をテレビで見たのが 吉之助の最初のオペラ体験でした。73年9月(第7次)の「ファウスト」でのクラウスのファウストとギャウロフのメフィストフェレス、それと「アイーダ」でのコッソットのアムネリスも素晴らしかったですねえ。フィオレンツァ・コッソットのアムネリスは、ジュリエッタ・シミオナートのアムネリスと並んで・戦後のアムネリス歌手の最高峰でありました。
ところで作家谷崎潤一郎は言わずと知れた日本文化の目利きであり、歌舞伎・文楽を愛好しましたが、六代目菊五郎が昭和24年(1949)に亡くなってから・歌舞伎への関心を無くし・ しばらく歌舞伎から遠ざかった時期があります。その後、若き五代目訥升(後の九代目宗十郎)を見て・再び歌舞伎への関心を取り戻します。訥升のことは「瘋癲老人日記」(昭和36年 10月より翌年5月まで雑誌「中央公論」に連載)のなかで取り入れられています。
谷崎が歌舞伎から遠ざかっていた時期と前後しますが、谷崎が武智鉄二に「イタリアオペラがあれば歌舞伎はもういらないね」と言ったことがあるそうです。 これは56年(昭和31年)9月〜10月・第1次イタリアオペラでの「アイーダ」でのシミオナートのアムネリスを見た谷崎の感想で した。武智は「六代目菊五郎の芸風とシミオナートの芸風は似たところがあり、それが(谷崎)先生の関心を惹いたのであろう」とも書いています。
『シミオナートは世界最高の名優だと思う。オペラ歌手としては…というような、条件つきの名優ではなく、演劇もバレエも、すべての舞台芸術を通して、第一級に位する大女優なのである。私は彼女の芸品の中に六代目菊五郎に匹敵するものを見出す。』(武智鉄二:1959思い出のステージアルバム・「音楽の友」1959年12月号・・これは第2次イタリアオペラについての武智の記事です。)
六代目菊五郎とシミオナートが似ているというのがとても面白い指摘です。谷崎・武智がこう言ったというだけでも歌舞伎とオペラが相通じるという立派な証拠になるではありませんか。なおシミオナートは61年(昭和36年) 9月〜10月・第3次にも来日して「アイーダ」でアムネリスを歌っており、この公演は市販DVDで映像が見られます。この時のアイーダはトゥッチ、ラダメスはデル・モナコでした。これも素晴らしい。
(H20・8・23)
○「高野聖」のたそがれの味:その3
小説「高野聖」の舞台化はなかなか難しいと思います。小説は旅の僧の語り(一人称形式)で書かれており、芝居では僧の内面描写が困難ですし・視覚的な興味がどうしても美女の妖艶さやお化けの怪異の方に行ってしまうのは仕方のないところです。それに芝居であると鏡花の持ち味である「たそがれの味」の微妙なところが出しにくいようです。観客は人間界と異界の対立構図で芝居を 見勝ちです。まあ確かに芝居というのは空間的にも視覚的にも二元構造が成立しやすい芸能ではあります。舞台を見れば上手があり・下手がある。主役がしゃべり・相手役が返すという対話形式も二元的です。舞台と客席が仕切られている構造も二元的な感覚を引き起こします。男も女も二元的であり、人間と妖怪の構図も二元的に感じられるかも知れません。
歌舞伎での「高野聖」上演は昭和29年(1954)に吉井勇脚色・久保田万太郎演出で扇雀(現・藤十郎)・蓑助(八代目三津五郎)により上演されて以来のことです。当時扇雀は22歳、扇雀ブームの真っ最中でありました。この時の上演写真を見れば・着物を肩まで脱いで・背中を半分くらい見せた半裸姿の扇雀が写っています。 良くも悪くも女形の伝統美から大きく逸脱したものです。その時の芝居がどんなものであったか・知る由もないですが、当時「女よりも美しい」と言われた扇雀の魅力(ただし女形本来の魅力ではないところの女優代用品としての扇雀)を売り出そうという興行側のいささか不純な動機が背景にあったと思います。「高野聖」はいろいろ物議を醸し・扇雀はその後まもなく映画の方に行ったりして・上方歌舞伎はゴタゴタが続くわけですが、現・藤十郎も「高野聖」にはあまり良い思い出がないのではないかとお察しをします。そういうわけで吉之助の歌舞伎での「高野聖」のイメージはあまり良くないものでした。
今回(平成20年7月歌舞伎座)での石川耕士・玉三郎の補綴・演出は原作に近いものに戻すとの触れ込みでしたが、まさか玉三郎が若き扇雀の向こうを張って半裸になるとは思いませんが・今更何を思って玉三郎が「高野聖」を演る気になったのか・不思議に思ったのが正直なところでした。実際の舞台を見ると映像など交えて・小説の 要点を巧く押さえて・なかなか良心的な舞台化という印象でした。歌舞伎には珍しい立体感ある山道の大道具も面白かったですし・作り物の化け物も一生懸命でしたし、背景音楽も興味深く聞きました。
水浴びの場面での期待された(?)玉三郎(美女)の露出度はいまひとつ。歌舞伎の女形としてはこの辺が限界かも知れませんねえ。海老蔵(旅の僧)の方は若者の健康的なときめき・ 慄きをもう少し強く出しても良かったかも知れません。どうせ芝居が二元的構図に捉われるものならば・それを逆手に取って旅の僧の心理に切り込んだ方が良かったように も思います。全体に玉三郎 ・海老蔵のふたりとも素材としてそれなりの雰囲気を出していたものの・演技の見せ場がさほどないままに終わっていました。この辺は脚本に更なる工夫が必要だと思います。例えば幕切れで親仁(歌六)が美女の正体を語る長台詞の間、旅の僧はほとんど演技をしないまま立っています。イヤ息を詰めて全身で聞き入っているということでしょうが、これでは視覚的に場を持ち切れない。ここは親仁の話を聞きながら、アッと声を出して驚いたり・今来た道を振り返ってワナワナと震えてみたり・イヤ恐ろしいことであったとのけぞってみたりしないと芝居にならぬのです。そのためには原作にない台詞を入れて・幕切れを親仁との対話形式に作り変える手法が必要であった かも知れません。親仁に出会う直前に行こうか戻ろうかと迷う場面も僧の独白に直して内面を吐露させた方が良いと思います。そうすると徳の高い僧に見えずに俗っぽくなってしまって・「高野聖」の世界から離れて しまうように思うかも知れませんが、こういう場合は意識的に二元的構図を持ち込んで処理する方が芝居としては面白くなると思います。山道の場面でも物の怪や蛇を見て驚いたり・先に進むのを躊躇するような演技がないと観客に怖さが伝わりません。小説と芝居は別作品と割り切った方が良ろしいのです。そういえば小説のなかにこういう場面がありました。
『そこでもう
所詮叶 わぬと思ったなり、これはこの山の霊 であろうと考えて、杖を棄 てて膝を曲げ、じりじりする地 に両手をついて、(誠に済みませぬがお通しなすって下さりまし、なるたけお午睡 の邪魔 になりませぬようにそっと通行いたしまする。ご覧 の通り杖も棄てました。)と我折 れしみじみと頼んで額を上げるとざっという凄 じい音で。心持 よほどの大蛇と思った、三尺、四尺、五尺四方、一丈余、だんだんと草の動くのが広がって、傍 の渓 へ一文字にさっと靡 いた、果 は峰 も山も一斉に揺 いだ、恐毛 を震 って立竦 むと涼しさが身に染みて、気が付くと山颪 よ。』(泉鏡花:「高野聖」)
この場面は芝居でも是非生かしてもらいたかった箇所です。鏡花が芥川龍之介に次のように語ったそうです。『犬がこわい、化け物なんか怖くない、その昔子供の頃金沢で、どちらの親御の薬とりに夜更けていく、こういうわけだから化物よ、でないでお呉れといえば化物はでなかった』(松原純一:「鏡花文学と民間伝承」)
鏡花のお化けは何の脈路もなく・ふっと理不尽に出るものと思われているようですが、鏡花のお化けは筋さえ通っていれば何の悪さもしないものです。お化けの出現に驚き騒ぐ本人たちの方に責任があるのです。そう考えれば鏡花のお化け物はどれもそれなりに筋が通っていると吉之助は思います。「高野聖」もその筋が通っているところにその劇化の取っ掛かりがあるのです。「高野聖」の場合は美女が妖術によって男たちを次々に畜生に変えるというより 、むしろ男たちが自分のなかに潜むその性(さが)によって自然に変わってしまうと見るべきかも知れません。旅の僧にもその若い肉体にふさわしい性のときめき・ 慄きの感覚があります。一歩間違えば僧も畜生に変わりかねなかったのですが、僧は自分の感覚をとても自然に素直に・詩的とでも言えるような形で昇華して受け止め ることができました。だから僧は畜生に変わらなかったということです。 ただそれだけのことなのです。
(H20・8・22)
○「高野聖」のたそがれの味:その2
「高野聖」に嫌な感じの富山の薬売りが登場します。結局美女によって馬に変えられてしまうのですが、薬売りをブルジョア的俗物の象徴だとして・「高野聖」で鏡花はブルジョア的功利主義を批判しているなどという読み方はしない方がよろしいと思います。ストーリーの都合上・旅の僧の清々しさと対照するような格好になっているので、何となく嫌味な奴に描かれているだけのこと。富山の薬売りの人間性が卑しくて・旅の僧の方が高いなどと人間を値踏みするようなことは鏡花は全然書いていません。それがその人間の定めだったのであろう・・ただそれだけのことです。
「高野聖」に登場する美女とは何者でありましょうか。本当に魔性の化け物であったのか。それとも普通の女性であったものが旅の僧の幻想でそう見えただけのでしょうか。これは「たそがれの味」で読むならば、そのどちらでもあるのです。そう考えれば「高野聖」はこの若い僧の儚(はかな)い恋愛譚にも見えてきます。それは間違いなく若い肉体から発するところの非常にピュアで健康的な性欲です。
『男滝の方はうらはらで、石を砕き、地を
貫 く勢 、堂々たる有様 じゃ、これが二つ件 の巌に当って左右に分れて二筋となって落ちるのが身に浸 みて、女滝の心を砕く姿は、男の膝に取ついて美女が泣いて身を震 わすようで、岸に居てさえ体がわななく、肉が跳 る。ましてこの水上 は、昨日孤家 の婦人 と水を浴びた処と思うと、気のせいかその女滝の中に絵のようなかの婦人 の姿が歴々 、と浮いて出ると巻込まれて、沈んだと思うとまた浮いて、千筋 に乱るる水とともにその膚 が粉 に砕けて、花片 が散込むような。あなやと思うと更に、もとの顔も、胸も、乳も、手足も全 き姿となって、浮いつ沈みつ、ぱッと刻まれ、あッと見る間にまたあらわれる。私 は耐 らず真逆 に滝の中へ飛込んで、女滝をしかと抱いたとまで思った。気がつくと男滝の方はどうどうと地響 打たせて。山彦 を呼んで轟 いて流れている。ああその力をもってなぜ救わぬ、儘 よ!滝に身を投げて死のうより、旧 の孤家 へ引返せ。汚 らわしい欲のあればこそこうなった上に躊躇 するわ、その顔を見て声を聞けば、かれら夫婦が同衾 するのに枕 を並べて差支 えぬ、それでも汗になって修行をして、坊主で果てるよりはよほどのましじゃと、思切 って戻ろうと・・・』(泉鏡花:「高野聖」)理趣経の教えから見れば、この僧の思いを迷い・堕落と見ることはできません。むしろ、そのようになることさえ仏の導くところの道であるのです。同じことは「桜姫東文章」での僧清玄の有様にも言えます。迷うならとことん迷え・堕ちるならとことん堕ちるまで堕ちよ・そこから真理が啓けるであろうということです。しかし滝の傍で町から戻ってきた親仁は、若い僧に冷や水を浴びせるような真相を語って聞かせま す。
『うまれつきの色好み、殊にまた若いのが
好 じゃで、何かご坊にいうたであろうが、それを実 としたところで、やがて飽 かれると尾が出来る、耳が動く、足がのびる、たちまち形が変ずるばかりじゃ。いややがて、この鯉を料理して、大胡坐 で飲む時の魔神の姿が見せたいな。妄念 は起さずに早うここを退 かっしゃい。』(泉鏡花:「高野聖」)もし僧が弧家(ひとつや)へ引き返し美女と暮らすことになっていたら・どうなっていたでしょうか。「自分の真心で彼女を普通の人間に戻してみせる」としたところで無駄なことです。いつかは美女はその妖怪の性を現すでしょう。まあそれで畜生に変えられるなら ・それも一生ということですが。親仁は「命冥加な、お若いの、きっと修行をさっしゃりませ」と言って去ります。 親仁の言葉が僧に踏ん切りをつけさせます。それにしても「高野聖」が恋愛譚にどこか似るのは、結局像が弧家へ引き返さなかったからに違いありません。僧が弧家に引き返さなかったから・美女は魔神の姿を僧に見せないで済む・つまり僧の心のなかで美女は清らかな姿で生き続けることになる。それは美女が魔界から解き放たれて救われたということに等しいのです。
『お
名残惜 しや、かような処にこうやって老朽 ちる身の、再びお目にはかかられまい、いささ小川の水になりとも、どこぞで白桃 の花が流れるのをご覧になったら、私の体が谷川に沈んで、ちぎれちぎれになったことと思え』(泉鏡花:「高野聖」)僧の心のなかで美女は美しく生き続けることになります。僧が
孤家に引き返さなかったことで 恋愛譚はそれ以上のものに高められています。それは真言の教えに通じるわけです。 (この稿つづく)(H20・8・19)
高野聖とは中世期に高野山から諸国を巡り・勧進のために勧化・唱導・納骨などを行った僧のことを言いました。一般に行商人を兼ねていたそうで、また戦国時代には隠密として情報探索の役割もあったようです。織田信長はこのことを嫌って、天正6年(1578年)に高野聖約2千人を処刑しました。 徳川幕府も高野聖の弾圧を続けたため、高野聖は江戸前期にほぼ完全に姿を消すことになります。
鏡花の「高野聖」(明治33年・1898年)は北陸敦賀への旅路でたまたま同宿になった旅の僧が・その若き日に飛騨山中で体験した怪異を物語るという話です。その怪異譚に登場するのが旅人を次々と畜生に変えてしまう という妖艶な美女です。美女は色仕掛けで僧を惑わしますが、僧の功徳に感応した美女が僧を許すのか・あるいはその妖力が僧に通用しなかったのか・僧は無事に下山します。後になって旅の僧は美女の正体を知ります。
吉之助がこの小説で重要であると考えるのは、実際には江戸前期で高野聖が絶えたにも係わらず(小説の時代設定は明治期です)鏡花が旅の僧を高野聖・つまり真言の僧である としていることです。妖怪が僧の功徳に感応したというだけの話ならば・ 「修練を積んだ旅の僧」と設定すればそれで十分なことです。それをわざわざ高野聖としたことに鏡花の意図があるわけです。このことは「桜姫東文章」で鶴屋南北が清玄を真言の僧であるとしたこととまったく同じ理由に拠ります。それは真言密教の根本経典である「理趣経」の思想に拠るのです。(別稿「桜姫という業(ごう)」を参照ください。)
『妙適清浄の句、是(これ)菩薩の位(くらい)なり。欲箭(よくせん)清浄の句、是菩薩の位なり。蝕(しょく)清浄の句、是菩薩の位なり。愛縛清浄の句、是菩薩の位なり。』 (理趣経)
真言密教の教えによれば「業(ごう)」というものは宇宙の律です。その律によって美女はその色を変えます。美女は高貴な女性にも・哀れな女性にも・汚辱にまみれた女郎にも姿かたちを変えることができ、生きたまま律そのものになるとすれば・愛欲の情念にも・母親の慈愛にも・聖女の清らかさにも身を変えることができるのです。それが真言密教の教えです。僧がそのように美女を捉えることが出来るように、鏡花は僧を真言の僧に設定しているのです。
『ちょいちょいと櫛を入れて、(まあ、女がこんなお天婆をいたしまして、川へ落こちたらどうしましょう、川下へ出ましたら村里の者が何と言って見ましょうね。)(白桃の花だと思います。)とふと心付いて何の気なしに言うと、顔が合うた。するとさも嬉しそうににっこりして、その時だけは初々しう年紀も七つ八つ若やぐばかり、処女の羞を含んで下を向いた。』(泉鏡花:「高野聖」)
別に高邁な言葉でもありませんが、若い素直な感性のなかに・さりげなく真言の教えが現れています。「白桃の花だと思います」、こういう言葉がすんなりと出るところにこの若い僧の功徳というものが現れています。このひと言だけで美女のなかの妖力は自然に弱まり・その清らかさが強まってきたであろうと感じられます。どちらも美女のなかにある本来の性(さが) に違いありません。別稿「たそがれの味」において、鏡花を読み解く時のキーワード「たそがれの味」ということを考えました。「たそがれの味」の感覚は その移ろいの表情において真言の教えに通じるわけです。
『たそがれ趣味は、単に夜と昼との関係の上にばかり存立するものではない。宇宙間あらゆる物事の上に、これと同じ一種微妙な世界があると思ひます。例へば人の行ひにしましても、善と悪とは、昼と夜のやうなものですが、その善と悪との間には、又滅すべからず、消すべからざる、一種微妙なところがあ ります。善から悪に移る刹那、悪から善に入る刹那、人間はその間に一種微妙な形象、心状を現じます。私はさう云ふたそがれ的な世界を主に描きたい。』 (泉鏡花:「たそがれの味」」・明治41年3月)(この稿つづく)
(H20・8・15)
勘三郎がベルリンで平成中村座「夏祭浪花鑑」の公演(2008年5月)を行い・好評を博しましたが、その模様がNHKハイビジョンで先日放送されました。毎回話題になる勘三郎の「夏祭」の幕切れですが、今回は捕り手に追われた団七(勘三郎)と徳兵衛 (橋之助)はあちこち逃げまわり・やがて高い壁に行く手を阻まれて万事休すとなったところで・「まず今日はこれ切り」という終わり方でした。これはベルリンの壁のことを指しているのでしょう。自由を求めて生きるかぶき者を阻むものを指しているとも考えられます。本稿ではちょっとベルリンの壁のことについて触れておきます。
吉之助がベルリンを訪問したのは1979年3月のことでした。当時は米ソ冷戦時代でしたから、東西ベルリンは壁で分断されていました。(このことは別稿「ヘルベルト・フォン・カラヤン生誕100年」にも書きましたから、そちらもご参照ください。)ベルリン訪問の目的はベルリン・フィルを聴くこともありましたが、もちろんベルリンの壁を見ることでした。行ったのはチェック・ポイント・チャーリーに程近いフリードリッヒ通りの壁であったと思います。あれは「壁」とひと言で言いますが、(場所にもよると思いますが)むしろ堤防だか橋頭堡の感じでありました。高い壁の向こうの多分100メートル近くコンクリートで固められたただの平地で、あちこちに鉄条網が転がされていました。さらに向こうにも高い壁がありました。監視台には兵士がいて、脱走者を見つければ機関銃で撃つという態勢です。それでも脱走を試みる者が絶えなかったというのだから驚きです。しかし、吉之助が行った日はのどかなもので、展望台から手を振ると・向こうで銃を肩にした東ドイツの兵士が手を振って応えるみたいな風景でした。国境というものが海の上にしかない日本人にはこれは想像を絶する光景です。「何だ、これは。何が同じ人間を隔てているんだ」という言いようのない怒りが腹の底から涌いてくるようでした。のんびりした光景だけに・余計にその理不尽さが身に沁みました。
しかし、ベルリンが「のんびり」というのは表面上のことで、ベルリン・ドイツ・オペラを観て吉之助がホテルへ帰る途中でしたが、暗い路上で吉之助の足音を聴いて数名の人間がワッと蜘蛛の巣を散らすように逃げたのにはこちらの方が襲われるかと思ってビックリしました。どうやら彼らは共産主義の プロパガンダ・ポスターを貼っていたのです。ドーベルマンを連れた警官がクーダムの店をガサ入れしているにも出会いました。ベルリンはやっぱり東西陣営がパチパチと火花を散らす最前線であったわけです。
1963年6月26日、米大統領ケネディは西ベルリンで「自由を求める者は皆、ベルリン市民である。私も一人のベルリン市民である(Ich bin ein Berliner )」と演説しました。吉之助がベルリンに行った1979年には、10年後にこの状況が解消するなどとはとても想像が出来ませんでした。当時ベルリンの壁は決して越えることのできない障害や永遠になくなることのない大きな障害のたとえとしてしばしば使われたもので した。1979年に伝説的なロック・グループ・ピンク・フロイドが発表したアルバムに「ザ・ウォール」というのがあります。学校教育や社会の中での抑圧・疎外感を「壁」に例えています。「壁」はいろんな観点から冷戦時代を考えるキーワードでした。
この時代にあって「壁」にはふたつの意味があったと思います。ひとつは個人を引き裂き・分け隔てる非人間性としての「壁」です。そこには圧倒的な力を持つ存在があって、それが個人を抵抗しようもない力で抑圧します。 これは個人から見れば抵抗・反抗・反体制の象徴です。もうひとつはポジティヴな意味で・いつかはこれを乗り越えてみせるという「壁」の存在があるから、自分もこれに対抗する形で・自分のなかの力を高めていけるというものです。
1989年のベルリンの壁崩壊は予想も付かない形で起こりました。非常に幸運なことでしたが、一滴の血も流さずにベルリンの壁は崩壊しました。このことは良い意味においてベルリンの壁をベルリン市民に記憶させています。それは「ついに乗り越えたもの・自由の信念においてついに崩壊させた無用の長物」なのです。この勝利の興奮は 未だ続いており、現在のベルリンはヨーロッパのなかで建設ラッシュが続く・最も活気のある街です。
そう考えると勘三郎のベルリン版「夏祭」のエンディングですが、ベルリンっ子にその意味はもちろん分かるでしょうが・30年前ならいざ知らず・ちょっとインパクトが足りなかった かも知れませんねえ。吉之助ならツルハシ持ち出して壁をぶっこわして・団七と徳兵衛は壁の向こうに逃げちゃうエンディングにしたいと思います。かぶき者は規制や柵をぶっこわして・自由を求めて明日に向かってひた走る。それが今のベルリンにふさわしいエンディングであったかなあと思います。
(H20・8・11)
○たそがれの味〜鏡花をかぶき的心情で読む・その10
「うむ、魔界かな。これははてな、夢か、いや、現実だ。(夫人の脱ぎ捨てていった駒下駄を見る)ええ、俺の身も、俺の名も棄てようか・・・(夫人の駒下駄を手にす。苦悶の色を顕しつつ)いや、仕事がある。 」(その駒下駄を投げ棄つ。)
この「山吹」幕切れの画家島津の台詞は難しいようです。下手をすると、島津が世間に固執する・非常につまらない・ダサい男のように思われかねません。この鏡花後期の「山吹」では「画家島津は旅芸人の人形遣いに及ばず立場が失墜している・鏡花の知識人への見方が憧れの視点から失望への変化している」とする評論を読みました。(出典はあえて伏す。)確かに鏡花の初期の小説には貧乏書生が同情的に描かれているものが多くありますが、これは「人間の世界(世間)は汚い・異界は綺麗」という二元的な対立構図で無理に読もうとするからそう見えるのです。「たそがれの味」で読めば鏡花がどちらが尊いとか・どちらが卑しいとか・そういう見方をしていないことは明らかです。「世間は汚い・異界は綺麗」という構図は「天守物語」や「夜叉ヶ池」ならばまあ無理に読めばそう読めないこともないでしょう。しかし、「山吹」の倒錯的世界は常識的な尺度で計れません。そのことに多少の戸惑いと嫌悪を感じながらも、なおも「山吹」を鏡花の世俗批判と受け取りたい気持ちが観客にも劇評家にも残っているのかも知れません。
『なぜなら美というものは、ファイドロスよ、よく覚えておくがいい、美というものだけが神々しいと同時に目に見えるものなのだ。そう言うわけだから、美は感覚的な者の行く道であるし、芸術家が精神へ行く道なのだ。そこで君はしかし、愛する友よ、精神的なものへ行くために感覚を通らなければならぬ人間が、一度でも英知と真の人間の品位を獲得することができると思うかね。それとも君はむしろ(私はその決定を君の自由に任せるが)これは危険でかつ愛すべき道であり、真に邪道であり・罪の道であって、かならず人を邪路に導くものだと思うかね。なぜと言って、これは是非言っておかねばならぬが、我々詩人たちが美の道を進んで行けば、必ずエロスの神が道づれになって、得々と道案内をするに決まっているのだ。(中略)我々は奈落を否定したいし、品位を得たいとは思うのだが、しかし我々がどう身を転じようとも、奈落は我々を引きつけるのだ。なぜと言って認識には、ファイドロスよ、何の品位も厳かさもないからだ。それは物を知り・理解し・許すもので、品性も形態もない。それは奈落に共感を持つ。それはまさに奈落なのだ。』(トーマス・マン:「ベニスに死す」)
トーマス・マンの小説「ベニスに死す」(1913年)の主人公・初老の作家アッシェンバッハがその死の数日前に見る幻影の場面です。アッ シェンバッハは旅先のベニスでギリシア美を想わせる美少年タッジオに魅せられ・彼の姿を追い求め、死へと突き進んでいきます。泉鏡花の「山吹」(1923年)も同じような同時代的テーマに拠っています。しかし、必死になって正気に踏みとどまろうとして奈落に堕ちていくアッッシェンバッハと違って 、画家島村はかろうじて奈落に堕ちるのを踏みとどまります。芸術家というものは、人間の狂気を見据えながらも・狂気に捕らわれず・冷徹に対象を見据えることができなければ傑作を生み出すことは決してできません。この「山吹」幕切れの「・・・いや、仕事がある」の台詞をダサいと笑う方は、生涯を賭けた「仕事」の厳しさをお分かりではないのです。この後、島村の画風は一変するに違いありません。
鏡花の「山吹」の倒錯的世界は、同時代の谷崎潤一郎(小説「痴人の愛]は大正13年・1924)の耽美主義に明らかに通じています。鏡花も谷崎も・マンもその根底にある発想は共通した時代的心情から発しています。晩年になるにつれ鏡花は江戸の怪談や絵草紙趣味のなかに逃げ込んで・次第に世間に背を向けていくと考えるなら ば、それは間違いです。時代に生きる作家がその 生きた時代と無関係ということはあり得ません。その作品は時代的心情において読まねばなりません。
『いつも誰かから、「君お化けを出すならば、出来るだけ深山幽谷の森厳なる風物の中へのみ出す方がよからう、何も東京の真中の、しかも三坪か四坪の底へ出すには当たるまい」と言はれた事がある。が然し私は成るべくなら、お江戸の真中電車の鈴の聞こえる所へ出したいと思う。』(泉鏡花:「予の態度」・明治41年)
「たそがれの味」をキーワードにして鏡花の作品を読めば、鏡花のお化け・怪異とは鏡花の生きた(明治から大正という時代の)時代的心情に対する鏡花的な・あまりに鏡花的な感性の産物であることは明らかなのです。
(H20・8・9)
○たそがれの味〜鏡花をかぶき的心情で読む・その9
「山吹」(大正2年・1923)には妖怪は出てきませんが、これも「たそがれの世界」の物語です。幕切れで夫人が画家島津に「世間へ、よろしく・・・さやうなら」と言って・人形遣いと立ち去り、ひとり残された島津が「うむ、魔界かな。これははてな、夢か、いや、現実だ。・・・ええ、俺の身も、俺の名も棄てようか・・・いや、仕事がある」と呟きます。この幕切れについて「夫人と人形遣いが立ち去るその先に魔界があり・舞台上には魔界が設定されていない ・その先の魔界において人間そのものが妖異化しようとしている」とするのが「山吹」の一般的な解釈のようです。この芝居には夫人が人形遣いを折檻する異様な倒錯世界が描かれているので、常人には 素直に感情移入できないところがあると思います。しかし、これは「たそがれの味」で読めばすんなり理解ができます。
まず大事なことは「たそがれの世界」には境目(境界線)がないということです。ここまでが人間界・ここからが異界というような境目はないのです。ふっと気が付いたら自分は異界にいる らしいと感じる・あるいは気が付くと自分が元の世界に戻ったことを突然知るという具合です。「たそがれの世界」とは急に濃くなったり・また晴れ たりする霧のようにその濃度が始終揺れ動くものです。さっきまで普通の場所だった同じ場所が突然異界の様相を呈したり、それまで妖怪が動き回っていた場所が気が付くと常の場所であったりすることがあるのです。その変化に何か兆しらしい・きっかけらしいものも後から 考えれば確かにあるのですが、それもその時点でははっきりとはしません。「たそがれの世界」とはそういうものです。
「山吹」の場合も、たそがれの味が場面によって濃くなったり・薄くなったりします。 あるときは幻想性が増し・ある時には倒錯性が増します。そしてふっと気が付くと観客は自分が現実の世界に戻ったことを知るのです。夫人が人形遣いを折檻する場面は異界の様相が非常に濃いものです。あたり一面に異界の霧が濃厚に立ち込めている・そのような「たそがれの世界」です。その光景を脇から慄きながら眺める島津の立っている場所はやや霧が薄いように思えますが、島津の足元には異界からの霧がひたひたと流れてくる・そのような場所です。ですから島津が「うむ、魔界かな。これははてな、夢か・・いや、現実だ」と呟く時、異界はそのずっと先にあるのではありません。まさに島津が立っている場所 (そこは観客が立っている場所でもあるのです)が「たそがれの世界」なのです。そして夫人と人形遣いの姿が濃い霧のなかに次第に消えていくと・そのように考えればなりません。「・・・いや、仕事がある」と島津が呟 いた時 、島津も・観客も足元の霧が少しづつ引いて・自分が常の世界に戻ったことを突然知るのです。(この稿つづく)
(H20・8・2)
○たそがれの味〜鏡花をかぶき的心情で読む・その8
「夜叉ヶ池」において百合の魔性が萩原を虜にして・彼を山奥の鐘守として暮らさせる・つまり萩原は百合の魔性によって世を捨てさせられ・自己を捨てさせられたのであるとする 見方もあるようです(出典はあえて伏す)。これも男と女を二元論の対立視点で割り切った読み方ですねえ。萩原が白髪のカツラをつけて老人のなりで百合とひっそり暮らしているのは、萩原が「百合に殺されたも同然である」と書いてあるのには驚きました。日本古来、翁媼(をうあう=おじいさんとおばあさん)というのは長寿を示しており、鶴亀と並んで・めでたいことの象徴なのです がねえ。百合と萩原が白髪のカツラをつけるのは、「ふたりのなかでの時間が止まって欲しい・この幸せが永遠であって欲しい」という願望を示しているのです。彼らは白髪のカツラをつけてその身を守っているわけです。
百合には魔性めいたものが確かにあります。しかし、それは魔性と言うより・理性では説明できない不思議な雰囲気・危うい魅力という方がより適切なのです。それは夜叉ヶ池の主・白雪姫につながる縁(えにし)であり、村人たちが彼女を生贄にしようという行為に走らせるものでもあり、またそれゆえ萩原が彼女を守って・山奥で共に朽ち果てようという決意をさせたものでもあります。
「たそがれの世界」ではすべてのものが等価で存在します。相反するものが混ざり合い・逆に親しいものが別かれて分離することもある・そのような世界です。「綺麗は汚い・汚いは綺麗」という「マクベス」の魔女の言葉が示す混沌の状態が「たそがれの世界」です。綺麗と汚いというふたつの概念は対立しているのではなく、まざり合っているのです。マクベスの魔女の言葉について「価値の逆転」ということがよく言われます。しかし、この読み方では「マクベス」は十分に理解できません。これは価値の逆転ではなく、価値の混沌であり・ 価値の無意味化なのです。そこでは無意識が心の奥底からふっと浮き上がり、逆に意識が眠りの底に深く沈んでいきます。しかも、そのような混沌の状況が夢うつつ のなかで・本人の意識のなかで何の疑問もなくすんなり受け入れられてしまいます。それが「たそがれの世界」です。
萩原と百合はお互いを必要としていて・ずっと一緒にいたいのですが、まるで別かれることを望んでいるかのように・引き離される不安を互いに感じています。彼らは幸福でありながら・ 未来の不幸を予感しており、不幸を予感しているが故に・今現在の幸福がたまらなく大事なのです。 それが毎日決まった時間に鐘をつくという行為(禁問)が示すものです。このような感覚が世紀末芸術の感覚であることは言うまでもありません。鏡花の「たそがれ」の味とは世紀末の感覚です。「夜叉ヶ池」の 幕が開くまで、萩原と百合の間にはそのような悠久の時が危うい形で続いていたわけです。 言い換えれば「夜叉ヶ池」のドラマは芝居が始まる前からずっと静かに続いていたのであって、学円が来訪したところから「夜叉ヶ池」のドラマが始まるのではないのです。(この稿つづく)
(H20・7・30)
○たそがれの味〜鏡花をかぶき的心情で読む・その7
「夜叉ヶ池」に登場する鐘は夜叉ヶ池に封じ込められた竜神が暴れ出して村を洪水にすることがないように明け六つ・暮れ六つ・丑満六つと一昼夜に三度必ず鐘を鳴らすこと・その他の音は一切させない・という約束になっています。これは別稿「禁問とかぶき的心情」で取り上げた「禁問(Frageverbot)」に当るものです。つまり、「ローエングリン」ならば「あなたは私の名前をきいてはならない」という問い・「番町皿屋敷」ならば「お家重宝のお皿 を割ってはならない」という家訓と同じものです。鏡花が「夜叉ヶ池」を執筆したきっかけは、明治40年(1907)にドイツ文学者登張竹風との共訳で・ハウプトマンの戯曲「沈鐘」を出版したことにあ りました。「沈鐘」は山に棲む妖精と・人間の鋳鐘師との恋を描いた世紀末的幻想戯曲です。
ですから「夜叉ヶ池」の場合もかぶき的心情で読むことができます。「夜叉ヶ池」でのかぶき的心情は、百合(あるいは人間であった頃の白雪姫もそうです)が夜叉ヶ池の生贄にされるため裸体で牛の背に縛られることを屈辱だとして自害して果てるところに現れています。これは個の尊厳を断固として主張 して死するかぶき的心情の行為です。百合の行為に感応する形で萩原も自害します。ふたりの幸福な生活を破壊したのは、確かに外部からやって来た・村人たちの行為 (つまり無慈悲な世間ということ)です。それはもちろん萩原や百合自身が望んだものではありません。しかし、それはあたかも磁石が砂鉄を引き寄せるように・萩原と百合ふたりのの存在・彼らの生活が引き寄せたものです。百合はその妖しい雰囲気からして・村人たちに雨乞いの生贄に相応しいと思わせる霊気を持っていました。萩原は村を洪水にせぬために日々鐘をついていますが、その献身的行為 は村人たちにちっとも理解されず・彼は変人だと思われていました。つまり、萩原と百合ふたりは彼らの意思に係わらず・彼らの本質によって滅んだとも言えます。
萩原のなかの男性・百合のなかの女性は決して対立していません。萩原と百合はむしろ寄り添い・互いを守ろうとしています。ふたりはいつかこの幸せはもろくも崩れるであろうという不安を孕んだ状態で静かに向き合っています。その 静かな緊張状態を象徴するものが「日常的に鐘を突く行為」なのです。この日常行為の約束によって萩原と百合の静かで幸せな生活はかろうじて守られてきました。そして、鐘の掟が破られた時・それはふたりが破滅せねばならない時ですが、このささやかな幸せを破壊したものは復讐されねばならないのです。「自分たちの幸せを壊した者たちは呪われよ」ということです。それが村を襲う洪水です。これが世紀末のかぶき的心情の行き着く結末です。自分たちに同情してくれた者・学円だけが救われることになります。
「夜叉ヶ池」での主人公の心情の熱い部分は「自分たちの幸せを壊す者は自分とともに滅びよ」という形で最後に世間に向きます。この点だけ見れば鏡花は大正期の新歌舞伎と同様に「個人は社会と対立するものである」と見え ます。しかし、それだけでは鏡花の見方として十分ではないのです。「夜叉ヶ池」の悲劇は萩原と百合のふたりの存在自体から生み出されたものであるからです。鏡花はそこに存在悲劇的な不安を見ています。「夜叉ヶ池」はそのようなふたりの不安が「たそがれの世界」のなかで引き起こす 内面のドラマなのです。(この稿つづく)
(H20・7・26)
○たそがれの味〜鏡花をかぶき的心情で読む・その6
「夜叉ヶ池」(大正2年・1913)もやはり「たそがれ」の世界の出来事として見たいと思います。萩原明と百合が生活する家と鐘楼の周辺は夜叉ヶ池にほど近く・すでに異界の雰囲気が漂ってきて・異界と人間界が交錯する「たそがれ」の世界です。そこへ山沢学円が行方知れずになった友人(萩原)の安否を訊ねて琴引谷にやってきます。
巷の劇評を見れば東京から琴引谷に迷い込んできた学円は・人間界の現実へ萩原を連れ戻そうとする俗な人物であり、萩原を巡って百合に敵対する人物であるとする見方が多いようです。 こういう見方は異界と人間界(世間)を対立的に見る二元論から出たものだと思いますねえ。もし学円が本当に百合に敵対する人物であるなら、学円は百合を夜叉ヶ池の生贄にしようとして結局洪水に巻き込まれて死んでしまう村人たちと同様の運命を辿らねばならかったはずです。しかし、最後の場面において学円は助かり・この夜叉ヶ池の出来事を伝える語り部として残されます。と言うことは学円は百合と敵対する人物であるどころか・萩原と百合の隠棲の事情を理解し同情する人物であったということを示してい ます。
「たそがれ」の世界の論理で読めば、萩原の心のなかに世間の柵・あるいは未練がどこかに残っていて、その未練の糸が引き寄せた人物が学円であると見ることができます。学円は萩原の心情を理解できる人間ですが、別の余計な者たちがその糸にたぐり寄せられるようにして・同じように琴引谷にやって来ます。それが雨乞いのために百合を夜叉ヶ池の生贄にしようとする村人たちです。
一方の百合はどこかしら謎めいて異界の者の雰囲気を持っていますが、その糸の端は明らかに夜叉ヶ池に住む妖怪・白雪姫につながっています。白雪姫の前身を辿れば・彼女は雨乞いのために夜叉ヶ池の生贄にされるため裸体で牛の背に縛られることを苦にして自殺して果てて・今は妖怪として夜叉ヶ池の主であるということでした。芝居の終わりで同じ運命が百合にも待っています。このことは百合が白雪姫の分身であると考えることももちろんできますが、百合のなかの理性では解明できない不思議な縁(えにし)が夜叉ヶ池の白雪姫を引き寄せているという風に解することもできます。
個人や社会の境目が消えてしまった「たそがれ」の世界・「夜叉ヶ池」のなかで、萩原と百合というふたつの存在は静かに向き合っています。これはふたりが対立しているということを意味しません。学円と白雪姫は、萩原と百合それぞれの存在が引きずっている縁(えにし)を象徴しています。「夜叉ヶ池」の舞台を見ると萩原と百合は世間から離れたところで・世間を拒否して・人知れず静かに・しかし幸福に暮らしていると見えるかも知れません。表面的にはそのように見えるでしょうが、それはちょっとした途端に揺らいでしまうほど危うい静けさであり・幸福です。つまり、静かで幸福な生活の奥底に・実はその幸せがいつかもろくも崩れ去るであろうという不安がふたりの心の底に渦巻いていたことにほかなりません。(この稿つづく)
(H20・7・23)
○たそがれの味〜鏡花をかぶき的心情で読む・その5
「ここはどこの細道じゃ、細道じゃ、天神様の細道じゃ、細道じゃ・・・」、戯曲「天守物語」(大正6年・1917)はわらべ唄「通りゃんせ」の旋律で始まります。どこか懐かしい故郷の世界へ誘うが 如きです。 同じように小説「草迷宮」(明治41年・1908)は「向うの小沢に
蛇 が立って、八幡 長者の、おと娘、よくも立ったり、巧んだり ・・・」という毛鞠唄で始まり、わらべ唄の「通りゃんせ」で終わります。幼い子も昔、亡き母親が唄ってくれた毛鞠唄。その耳に残るその唄をもう一度聞きたいと思って、母への憧憬を胸に・毛鞠唄を探し求めて放浪する青年が主人公です。「草迷宮」の題材は平田篤胤の聞書「稲生物怪録」(いのうぶつかいろく)が典拠とされています。しかし、まあそのことはとりあえず置くとして、それより吉之助にとって興味深いのはここに鏡花の言う「たそがれの世界」の典型があることです。「草迷宮」には不思議なエピソードがたくさんちりばめられて、いつの間にやら異界(妖怪界)に紛れ込んでいく 。と言うよりも日常世界のなかにすでに異界が混在しており・どこまでが日常なのか・どこからが異界なのかが分からない迷宮に彷徨い込んだような印象を受けます。つまり、ここでは人間界と異界の境目がはっきりしません。これが「草迷宮」のたそがれの味です。
秋谷屋敷に宿泊する青年を追い出そうとして妖怪たちはいろいろ怪異を仕掛けます。しかし、青年に対してはさっぱり効果がありません。青年はさまざまな怪異をそんなものだと受け入れて・ちっとも騒ぎはせぬのです。ついに妖怪が根負けした形となり・最後に美しい女性の物の怪が現れて青年が捜し求めていた毛鞠唄を客僧に授けて ・妖怪たちは館を去ります。傍らで青年は赤子のようにスヤスヤと眠っており・何事も起きません。小説の末尾で流れる毛鞠唄やわらべ唄のイメージのなかで、青年がまるで母の胎内に戻ったような・そんな懐かしい安堵した感覚が読み手のなかに湧き上がります。
ですから「草迷宮」は怪異譚の形式を取っており・そのように読んでもちろん結構ですが、実は「草迷宮」は怪異譚であるより・まったく鏡花の心象風景なのです。毛鞠唄やわらべ唄は鏡花の心のなかにある遠い故郷の記憶から来るものです。妖怪は鏡花の感情の綾の表現に過ぎません。「天守物語」 冒頭でも 同じように「ここはどこの細道じゃ、細道じゃ、天神様の細道じゃ、細道じゃ・・・」とわらべ唄が静かに流れます。その時、舞台だけでなく・観客席もすでに異界の方に引き込まれ・日常から「たそがれ」の世界のなかへ引き込まれていく のです。わらべ唄にはそのような効果があるわけです。(この稿つづく)
(H20・7・20)
○たそがれの味〜鏡花をかぶき的心情で読む・その4
鏡花作品をいろいろ読むと・鏡花は婚姻について結構頑固な信念を持っていることに驚かされます。「お互い好きあっている男女が一緒になるのは当然」という考え方は 、鏡花初期の短編「琵琶伝」や「外科室」(いずれも明治28年)や「婦系図」(明治40年)にも強烈に出てくるものです。元禄の近松門左衛門も読み方によってはそのような考え方を見ることができます。しかし、江戸の世においてはそうした心情はとても危険なものでした。それらはまだ世間の義理や人情のなかにやんわりと淡いかたちで隠されなければなりませんでした。明治期の鏡花の場合にはそれが強烈に・しかも世間に対して驚くほど挑発的に顔を出 します。鏡花と言えば江戸の読本や草双紙の影響を濃厚に引きずった作家とされますが、実はこの点において鏡花は非常にハイカラ・かつ革新的です。鏡花が明治28年に書いた評論を引用します。
『
但 愛のためには必ずしも我といふ一種勝手次第なる観念の起るものにあらず、完全なる愛は「無我」のまたの名なり。故 に愛のためにせむか、他に与へらるゝものは、難といへども、苦といへども、喜んで、甘 じて、これを享 く。元来不幸といひ、窮苦といひ、艱難辛苦 といふもの、皆我を我としたる我を以 て、他に――社会に――対するより起る処の怨言 のみ。愛によりて我なかりせば、いづくんぞそれ苦楽あらむや。』(泉鏡花:「愛と婚姻」・明治28年5月)これは明治28年・鏡花22歳の時の文章です。肩に力が入った感じの硬い文章です。しかし、論旨として鏡花の生涯を貫いたものです。明治になって個人主義思想が西洋から流入して、社会は個人と対立する ものであると初めて明確に意識するようになりました。それは西洋から来た進歩的思想であり・ハイカラ思想です。しかし、その情念の本質を見れば・それは実はかぶき的心情として江戸に昔からずっとあったものです。かぶき的心情は明治になって西洋思想によって理論的裏付けを得て、初めてその心情の矛先を強く認識したのです。大正期に二代目左団次によって創始された新歌舞伎ではかぶき的心情は社会的視点を持って描かれました。社会が個人を抑圧し・束縛する ものだという意識を新歌舞伎は明確に持っています。新歌舞伎に感じられるある種の気負いは、かぶき者が理論的裏付けを得て・「この俺が江戸の昔からずっと感じていたことはやっぱり正しかったのだ」と勇み立っているような印象を吉之助は受けます。鏡花の場合にも似たような気負いを感じます。(明治の文化人は誰でも似たような気負いを持っていると思います。このことはとても大事なことです。)
それならば同時代である鏡花作品は「個人は社会・世間と対立するものである」という二元論で読むべきでしょうか。まあ読み方は人それぞれのことですし・名作のお楽しみの仕方はひと通りではありませんから、そういう二元論の読み方もありだと思います。しかし、吉之助としては「たそがれ」の味で鏡花の作品を読みたいと思うのです。「たそがれ」の味こそ鏡花を明治大正の文学のなかでユニークたらしめているものだと思います。「 たそがれの世界」の概念が鏡花作品の背景に強くあって、そこでは世間も社会も喪失していると考えています。すなわち鏡花を二元論で読まないのが吉之助の見方です。その典型が鏡花が好んだところの「お化けもの」です。前述の「愛と婚姻」の場合でも・重要なのはその主義主張ではありません。重要なのはそこに満ちている気分です。「完全なる愛は無我のまたの名なり」という箇所こそ鏡花の論理のキーポイントです。無我の世界とは・昼でもなければ夜でもない・それは「たそがれ」の世界のことに違いありません。
かぶき的心情の視点において鏡花は近松に非常に似たところがあります。初期の短編「義血侠血」(明治29年・新派で有名な「滝の白糸」の原作)など読むと近松の類似をとても強く感じます。(別稿「鏡花とかぶき的心情」をご参照ください。)近松とちょっと異なる点は・近松の情念は熱く感じられるのに ・鏡花の情念は静かに冷たく佇(たたず)むという趣があることです。これは近松の感性が現世的であり、鏡花の感性はベクトルが過去(江戸)の方へ向いているということから来て いると思います。
別稿「近松心中論」において近松作品の心中に向かう時のふたりの心理のなかでは世間・社会は喪失するということを指摘しました。「私が・・私が・・」という気持ちが強 くなるほど表現ベクトルは自我の中心へ向かって行って・無我の状態になり、社会という視点が消し飛んでしまいます。これこそ個人や社会の境目が消えてしまった「たそがれ」の世界です。この現象はかぶき的心情と密接に重なります。しかし、江戸時代においては個人と社会が対立するという構図は漠然としか意識 されませんでした。社会が個人を抑圧し・束縛するという概念は江戸時代にはなかったのです。それは漠然と巨大な・抵抗しがたいものとしてしか認識されませんでした。しかし、社会視点の喪失ということは為政者から見れば非常に怪しからぬことですから 、幕府は近松の心中物を反社会的だと見なして禁止しました。
大事な点は鏡花において世間の視点が完全に消し飛んでいるわけではないということです。鏡花は明治期の作家ですから、世間をまったく意識しないでいられるはずがありません。正しい言い方をすれば・鏡花は世間を意識しているのに・敢えて目を反らしてそのことを考えないようにしているのです。逆に言えばそれほどまでに 鏡花は世間を 内面に強く意識しているということに他なりません。しかし、鏡花は表面的にはそうした態度を決して見せようとしません。それが鏡花の「お化けもの」なのです。そのような鏡花の作品に二元的な対立視点を無理に持ち込んで読む必要はないと吉之助は考えます。
「天守物語」におけるかぶき的心情は、「三たび戻らぬ」と約束したはずの図書之助が意を決して三度目もまた天守閣に戻ってくることに示されています。つまり、図書之助は自分の行為が思いもよらず主人の不興を買ったことを心外として・決して服従しなかったのです。図書之助が富姫に惹かれて天守閣に戻ったということも確かにあるでしょう。しかし、それ以上に主人に対する怒りの方が強かったのです。図書之助は断固として個の正しさを主張して・その信念において世間に背を向けたのです。ご注意いただきたいですが、これは世間を拒否した・捨てたということでは ありません。逆に世間をとても強く意識しており・だからこ自分を認めない世間に対して強く怒っているのです。これがかぶき的心情の現れ方です。三島由紀夫は鏡花作品に登場する女性について次のように語っています。
『女の凛々しさとか・女の男っぽさとか、何かきりっとした感じ、ああいう美しさというのはずっと忘れられていたんだね。そして惚れた男のためには身体も張るけれども、金力・権力には絶対屈しないというイメージですね。(中略)そして弱い男に女は惚れて、女が庇護する。その弱々しい男に正義があるんですよ。』(三島由紀夫・「泉鏡花の魅力」・澁澤龍彦との対談・昭和43年11月)
まさに富姫がそういう女性です。富姫は図書之助の怒りを正当なものだと認めています。だから図書之助を受け入れ・庇護するところに富姫の正義があり、そこに富姫のかぶき的心情があるのです。だから図書之助は自分を理解してくれる富姫のもとへ逃げ込むのです。「天守物語」は愛の物語として読めますし・もちろんそう読んで結構ですが、吉之助にとって「天守物語」はかぶき的心情の物語 なのです。(この稿つづく)
(H20・7・17)
○たそがれの味〜鏡花をかぶき的心情で読む・その3
「天守物語」の幕切れに桃六という不思議な老人が登場して・富姫と図書之助の危難を救います。桃六が「世は戦でも、胡蝶が舞う、撫子も桔梗も咲くぞ。・・(下界を見下ろして呵々と笑い)ここに獅子がいる。お祭りだと思って騒げ。槍、刀、弓矢、鉄砲、白の奴ら。」と言って幕になります。
この桃六の幕切れの台詞は日清・日露戦争に浮かれて騒ぐ世相と・台頭する軍部に対する鏡花の批判を込めたものだという説があるそうです。まあ確かに芸術作品はそれが生まれた時代の気分と切り離せないものです。「天守物語」の成立年代(大正6年・1917)を考えた時にそうした気分が反映していることは確かにあるかも知 れません。図書之助がそこ(人間界)から追われて来たものの背景を読むことは大事なことです。しかし、江戸時代の設定のお芝居で・愛と心情のファンタジーの幕切れに日清・日露戦争の批判が突然飛び出してくる必然性は全然ないと吉之助は思いますがねえ。作品に時代の気分の反映を見ればよいだけのことです。妖怪界と人間界・綺麗と汚いという対立項的な二元論で読んで作品の主題を無理に こじ付けようとするから・こういう解釈が出てくるのです。
「天守物語」をたそがれの世界の論理で読んでみれば、富姫たち妖怪の遊びやら世間話に・我々人間界との違いは全然ないことが分かると思います。名誉とか金銭とか・そういう 人間的な柵(しがらみ) がないので・その点で妖怪たちは確かに自由に見えるでしょう。しかし、妖怪たちの会話をよくよく聞けば妖怪たちも人間と同じように俗そのものです。よくよく見れば妖怪には妖怪の世間があ るのが分かります。結局、人間界を裏返したような形で同じように俗な妖怪界があるわけです。そのことが分かれば観客も異界に自由に遊ぶことができると思います。 芝居を見ながら・たそがれの世界にあるところの観客は、妖怪の感覚でも・人間の感覚でも物事を自由に読むことができます。ですから城下から天守閣を見上げて武器を振り回して・騒いでいる人間達 の姿を見て「何だかつまらんことをワイワイと騒いでおるなあ」とカラカラと笑って幕切れを迎えればよろしいのです。あとは富姫と図書之助のふたりだけの世界です。外にはなにもない。それが「天守物語」の幕切れです。
幕切れに突然登場する桃六という不思議な老人は・舞台中央に位置する獅子頭の作者ですが、獅子頭の制作年代から推してかなり以前に亡くなった人物であることが明らかです。富姫はかつて落人として逃げてきた貴夫人であり・陵辱されるのを拒否して獅子頭の前で舌を噛んで死んで妖怪となったという前歴を持ちます。おそらく桃六はそれ以前に何か の理由で非業の死を遂げて成仏できずに妖怪となり・獅子頭と共に天守に移されて・そのなかに潜んでいたものと思います。富姫たちは天守に住みながら・桃六の存在にずっと気が付いていなかったのです。
「天守物語」における桃六はギリシア悲劇の幕切れに忽然として登場するデウス・エクス・マキーナ(機械仕掛けの神)の役割を演じています。しかし、幕切れにおいて富姫と図書之助はさらに高次の愛の世界へ旅立つという見方は 、妖怪の世界は清らかで・それに比べて人間界は汚いという二元論に捉われた見方です。たそがれの世界の読み方ならば、この幕切れは「・・・そして・ふたりはいつまでも幸せに暮らしましたとさ」という程度に読めば良いものだと吉之助は思います。(この稿つづく)
(H20・7・12)
○たそがれの味〜鏡花をかぶき的心情で読む・その2
平成18年7月歌舞伎座において玉三郎を座頭にして泉鏡花の戯曲「夜叉ヶ池」・「海神別荘」・「山吹」・「天守物語」の4作品が一挙上演されて、それぞれの舞台で興味深い成果を挙げました。鏡花の芝居と言えば新派での「滝の白糸」・「婦系図」・「歌行燈」などが有名ですが、これらは鏡花の小説を他人が脚色したもので・鏡花自身の筆になる脚本ではありません。「夜叉ヶ池」など鏡花オリジナル戯曲の方は文学的な評価はともかく上演機会が非常に少なく・むしろ敬遠されている感じすらあります。どちらかと言えば小説の脚色芝居の方で鏡花の芝居のイメージが出来上がっている ようです。恐らく鏡花オリジナル戯曲の方は設定が極端であるとか・登場人物に妖怪がいたりしてリアリティがなくて上演が難しいとか・いくつか理由があって上演機会が遠のいているのだろうと思います。
歌舞伎座での鏡花上演の後に鏡花関連の劇評・評論など目に付くところをざっと目を通しましたが、吉之助が奇異に感じたのは妖怪の出てくる世界(異界)を人間の住む世界(人間界)を対立したものとして二元的に作品を 読むものがほとんどであったことです。つまり、鏡花のこれらの戯曲は「妖怪の世界から見れば・名誉欲・金銭欲などでドロドロした人間の世界は何と醜いことであるなあ」という鏡花の俗世批判であるという見方 です。まあ確かに二元論というのは芝居においては・空間的にも視覚的にもそういう構造が成立しやすい芸能ではあるのです。舞台を見れば上手があり・下手がある。主役がしゃべり・相手役が返すという対話形式も二元的ではあります。舞台と客席が仕切られている構造も二元的な感覚を引き起こします。男も女も二元的であり、人間と妖怪の構造も二元的に感じられるのかも知れません。
例えば「天守物語」(大正6年・1917)は舞台が姫路城の天守閣ということになっていますが、そこから妖怪である登場人物たちが下界(人間界)を見下ろす構図になっています。つまり、 そこに縦の構図が意識されています。もしかしたら鏡花はここで歌舞伎のセリを想定した可能があります。しかし、「観客席は天守を仰ぎ見る位置にあるのだから・観客は俗世に属する存在として妖怪たちから見下ろされていると意識せねばならない 」(出典はあえて伏す)などと言われると、吉之助はどうも違和感を覚えますねえ。
吉之助が思うには、ここでの観客は妖怪たちと一緒に天守に遊んでいる気分なのであって・その意味でここでは観客も妖怪なのです。妖怪たちの立場になって・下界(姫路城の階下)から迷い込んで来た図書之助の話を聞いてみれば富姫同様に「 まったく人間というのは仕方のない生き物だねえ・・・」という嘆息する気分に観客もなると思います。それが「天守物語」において鏡花が意図していることです。そのことが鏡花の談話「たそがれの味」を読めばお分かりになる と思います。天守閣は人間である図書之助も入り込むことが出来る領域なのですから、完全な異界ではありません。観客もまた入り込むことが出来る・そのような領域なのです。観客席もまたたそがれの空間にあるわけです。(この稿つづく)
(H20・7・9)
『世間にたそがれの味を、ほんたうに解して居る人は幾人あるでせうか。多くの人はたそがれと夕ぐれを、ごつちやにして居るやうに思ひます。夕ぐれと云うと、夜の色、暗の色と云ふ感じが主になつて居る。しかし、たそがれは、夜の色ではない、暗の色でもない。と云つて、昼の光、光明の感じばかりでもない。昼から夜に入る刹那の世界、光から暗へ入る刹那の境、そこにたそがれの世界があるのではありませんか。(中略)世界の人は、夜と昼、光と暗との外に世界のないやうに思つて居るのは、大きな間違ひだと思ひます。夕ぐれとか、朝とか云ふ両極に近い感じの外に、たしかに、一種微妙な中間の世界があるとは、私の信仰です。』 (泉鏡花:「たそがれの味」・明治41年3月)
この泉鏡花の談話は鏡花作品を考える時にとても重要なものです。ここで鏡花は「たそがれの味」ということを言っています。「黄昏(たそがれ)」とは太陽が落ちかかって・昼が夜に変わろうとする・その狭間の時間帯のことです。そこに微妙な中間の世界があると鏡花は言います。鏡花の言いたいことをさらに考えると、そこには昼の世界から来る感覚と・夜の世界から来る感覚が交じり合 い・同時に存在しているということです。その地帯においては同時に昼でもあり・夜でもあり、しかし決して昼だけではなくて・夜だけでもないのです。だからそこを「境界」と言ってしまうと意味が限定されてしまって ・それを越えると全然違う世界になってしまうという語感になるのでちょっと違います。正確に言えばそこに境目はないのです。いつそのような中間の世界に入ったのかも分からないし、気が付いたらそこにいるという感じです。そこには本来は対立するはずのどちらの要素もが共存・交流するところの緩衝地帯が鏡花の言うところの「たそがれ」なのです。
この鏡花の「たそがれの味」はお化けが出てくる鏡花の作品を読むと、もっと感覚的に理解できます。鏡花と言えば世間では「お化け好き」で通っています。しかし、鏡花のお化けというのは怪談や絵草紙に出てくるお化けと違って、人を呪ったり・驚かせたりするために出てくるものではないようです。何げなく見るとすぐ横に座って居るという感じのお化けなのです。「変だなあ・こんなものはこの世に居るはずがないのになあ・・でも、そこに確かにそこに居るのだから・いないと思う俺の方が変なのかもなあ・・」などと思いながら一緒に並んで黙って部屋に座っているという感じです。そんなものかな・という感じで目の前の不思議な現象を受け入れてしまえば、お化けはあなたに別に何も悪さをするわけではないのです。ところが、あなたがそこで驚き・騒いで・慌てふためいたりするとあまり良いことにはなりません。しかも 、これはお化けが悪さをするというよりも・騒ぐご本人が自分で勝手に悪い事態を引き寄せているという感じです。それが鏡花のお化けなのです。
『このたそがれ趣味は、単に夜と昼との関係の上にばかり存立するものではない。宇宙間あらゆる物事の上に、これと同じ一種微妙な世界があると思ひます。例へば人の行ひにしましても、善と悪とは、昼と夜のやうなものですが、その善と悪との間には、又滅すべからず、消すべからざる、一種微妙なところがあrます。善から悪に移る刹那、悪から善に入る刹那、人間はその間に一種微妙な形象、心状を現じます。私はさう云ふたそがれ的な世界を主に描きたい。』 (泉鏡花:「たそがれの味」」・明治41年3月)(この稿つづく)
(H20・7・4)