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ヘルベルト・フォン・カラヤン生誕100年


本年(2008年)4月5日が20世紀後半の名指揮者ヘルベルト・フォン・カラヤン(1908〜1989)の生誕100年ということで、最近メモリアルCDが相次いでリリースされており、音楽誌だけでなく・一般誌もカラヤン特集を組み始めました。「ヨーロッパ楽壇の帝王」とまで呼ばれた人だけに、世間の関心も強いようです。昨年のマリア・カラス没後30年は吉之助の見る限り・日本よりヨーロッパの方が 熱心だったようですが、カラヤンの場合は日本でも同様の現象になることでしょう。昨今はレコード産業も景気が悪くなる一方で・今でも一番商売になるのはカラスやカラヤンであるという事情もあります。隣接著作権50年(延長の話もありますが)のことを考えると、トスカニーニ・フルトヴェングラーはすでにすべての 音源が著作権フリーとなっており、これからいよいよ黄金のステレオ初期の名盤が次々と著作権フリーになっていくわけです。ですからレコード産業にとってカラスもカラヤンもここが最後の儲け時ということです。もうひとつは ヨーロッパでも日本でも閉塞した時代の気分のなかでカリスマ願望が世間に強くあるということです。現代から見ると1950年代後半から70年代前半くらいまでの最も好景気で華やかなりし時代がとても懐かしいということが背景にあるようです。あの時代は未来に希望があって・永遠に右肩上がりで景気が伸びて ・みんなどんどん豊かになっていくみたいな幻想がありました。この時代のヨーロッパ社交界・音楽界の最も華やかな存在がカラスとカラヤンであったのです。言うまでもなく吉之助はカラヤンから多大の影響を受けていますが、音楽雑誌に書いてあるようなことを書いても仕方ないので・本稿ではカラヤンのことをちょっと違った視点で書きます。

吉之助がベルリンに行ったのは1979年春のことでした。当時はまだ米ソ冷戦の時代であり・ベルリンは東西に壁で分断されていました。ちょっと垣間見ただけですが、東ベルリンと西ベルリンの経済格差・貧富の差は予想以上にひどいものでした。夜になるとクアフィルシュテンダム(西ベルリンの銀座とお考え下さい)のネオンサインが煌々と輝きます。東側 の方角は真っ暗です。これは東側に対する西側の経済繁栄の誇示でして、西ベルリンは東側世界に対する橋頭堡・自由と繁栄のシンボルであったのです。米大統領ケネディは西ベルリンで「自由を求める者は皆、ベルリン市民である。私も一人のベルリン市民である(Ich bin ein Berliner )」と演説しました。このことはとても重要なことで、西側世界にとって西ベルリンは特別な政治的意味があったのです。ドイツ人のベルリンに対する思いは強く、当時の西ドイツ政府の議会はボンにありましたが・ドイツ人はボンに国会議事堂をついに作りませんでした。いつの日か分からないが国会議事堂は統一後にベルリンに作るというのがドイツ人の悲願でありました。もっとも1979年の時点ではそんな日が来るとはとても思えませんでしたが。そんななかでカラヤン/ベルリン・フィルは東側に対する 西側の自由社会・資本主義の宣伝マンの役割を負わされていたわけです。世間はベルリンと言えばまず最初にカラヤン/ベルリン・フィルを想起したのです。 世界の人々にベルリンの存在を忘れさせない為にカラヤン/ベルリン・フィルはいろんな意味で「最高」でなければならなかったのです。

カラヤンがすったもんだの騒動のあげくベルリン・フィルの音楽監督を辞任したのが1989年4月のことで、そして同じ年の7月16日にほんとにあっけなくカラヤンは亡くなってしまいました。そしてあの衝撃的なベルリンの壁崩壊が1989年11月9日のことでした。吉之助は当時テレビのベルリンの壁崩壊の報道を見ながら「 ああなるほどそういうことだったのか」と思いました。これが神様の思し召しによるものだったのか・ベルリン市当局を巡るカラヤン降ろしの動きが政治的に裏のあるものだったかは分かりませんが、結局、ベルリンの壁崩壊に先立ってカラヤンは自由社会・資本主義の宣伝マンの役目を終えたということなのです。ひとりの偉大な人間の死が時代の転換を象徴するということは・歴史にはよくあることですが、カラヤンの死とはまさにそういうものだったと思います。歴史的に見ればカラヤン/ベルリン・フィルはまさに冷戦時代の ・西側社会にとっての自由と繁栄の象徴であったということになります。不思議なことにカラヤンについてこういうことに触れた記事を吉之助は読んだことがありませんが、カラヤンを語る時にこの歴史的役割は押さえておきたいと思います。

ところで1977年11月11日に銀座・山野楽器でカラヤンがサイン会をやった(他でサイン会をやったという話を聞いた事がないのですが・あったのでしょうかね)のですが、吉之助はこれに参加して・カラヤンにサインをもらいました。(この時のカラヤン にもらったサインは「歌舞伎素人講釈・別室」の表紙に飾ってあります。)印象的であったのは、カラヤンはサインペンを構えて・サインをする段になって・必ず顔を上げて・「君にサインをするんだ よ」という感じで・サインをする相手の顔をしっかりと確認するのでした。この辺りがカラヤンの人心掌握術であったかも知れません。ですから吉之助もほんの一瞬のことでしたが・至近からカラヤンに見詰めてもらいました。カラヤンの瞳の深いグリーンは今でもはっきりと思えています。

もうひとつ至近でカラヤンを見て感じたことは、カラヤンはとてもシャイで繊細な人だなあという印象です。小柄な人であったこともありますが、触れるとすぐ傷付いてしまうそうにデリケートな神経を持った方だなあと思いました。 カメラのフラッシュを浴びながら・どこか恥ずかしそうで・オドオドしているようにさえ思いました。当然のことですが音楽家というのは神経が繊細でないとできない仕事ですが、世間に出て人前で演奏せねばならないわけですから・繊細なだけでは仕事にならないわけです。そういうデリケートな自分を隠そうとすると・ちょっと気取ったような振る舞いになったりするのかなあというのが吉之助の思うところです。人間カラヤンはその華やかな経歴のせいで・周囲から相当な誤解を受けてき ましたが・とても繊細かつストイックな人であると・吉之助はそのサイン会の時からそう思っています。カラヤンの墓碑銘には「長く辛い・苦しみの後に」とありますが、カラヤンは誤解されつつ・自分を叱咤し ながら・ストレス抱えて生きてきたのではないかと思います。

カラヤンについてはその華やかな経歴もあって・存命当時は常にゴシップネタにされました。その点はカラスとよく似ています。そんなことのやっかみもあって、音楽以外の 要素で・カラヤンの音楽は常に色眼鏡で見られてきた きらいもあります。カラヤン生誕100年でぼつぼつ出てきた雑誌の記事を見ますと、まあどれも生前の記事の内容と大差ないようです。カラヤンの帝王学だの・権力志向・蓄財・華やかな経歴とゴシップ話、フルトヴェングラーあるいはバーンスタインとの確執などなど。しかし、カラヤンが亡くなってもうすぐ20年になるのですから、そろそろそういうところから離れて・客観的にカラヤンの音楽を見据える論考が出てもいい頃ではないでしょうか。その意味ではむしろ生(なま)でカラヤンを聴いたことのない世代にそういうものを期待したいところです。今の吉之助はカラヤンの音楽だけに虚心に耳を傾けたいと思います。

(H20・3・12)

*カラヤンが歌舞伎を見た話については、別稿「カラヤンと歌舞伎」をご覧下さい。



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