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吉之助の雑談16(平成21年7月〜12月)


○平成18年9月・歌舞伎座:「菅原伝授手習鑑・寺子屋」・その5

「初代は熊谷直実や加藤清正など英雄豪傑を当たり役とした」ということは事実としてその通りです。しかし、最近の歌舞伎の劇評など見るといつの間にやら英雄豪傑を当たり役としたから初代はスケールのでっかい役者だったみたいな話にすり替わってい ます。そうではなくてホントは初代はスケールが小さかったハンデを演技と台詞の巧さでカバーしたということです。初代は歌舞伎のなかにそこにいるのと同じ等身大の人間像を描き出して・それで時代物役者としての不動の地位を築いたのです。ですから本当に大事な点は初代の近代的な人間理解ということです。もちろん吉之助は初代の舞台を生では見てません(初代は吉之助の生まれるずっと前に亡くなったのです)が、これが武智鉄二や小宮豊隆・小島政二郎らの証言・遺された数少ない映像や録音から吉之助が育ててきた初代のイメージです。小宮豊隆は次のように書いています。ここに当代が初代から継ぐべきヒントがあるのではないでしょうか。

『吉右衛門にいたって「型」を活かして、裏付けるに力強い精神を以ってした。多くの場合空なる誇張と目せられたある種の「型」は、吉右衛門によって吉右衛門特有の命を盛られた。自己天賦の個性と閲歴とを残りなく傾け尽くして、古き「型」に新しき生命を持った吉右衛門の努力は、旧型になずむを棄てて、われから古(こ)をなさんとする意気を示すものである。』(小宮豊隆:「中村吉右衛門論」)

当代吉右衛門は初代をとても尊敬して、その域に少しでも近づきたいと日々努力を続けていることは誰しも認めるところです。ところで吉之助という筆名の「吉」の字は初代から取っているくらいですから、吉之助も初代を尊敬すること人後に落ちぬつもりです。そういうわけで吉之助は吉右衛門の「お祖父ちゃんのような立派な役者になるんだ」という気持ちはよく理解しています し、「立派な役者になる」ということなら吉右衛門は十分そうなったと言えると思います。今日歌舞伎の時代物なら誰を見るかと問われればまず吉右衛門の舞台が筆頭に挙がることも 間違いありません。しかし、お祖父ちゃんの芸風を継ぐというのは「立派な役者になる」とはまた別の次元のことで、その点を考えると実は吉之助は「吉右衛門は初代の芸をどういう風に捉えているのかなあ」と ちょっと疑問を感じることがあります。 吉之助がそう感じるようになったのは、吉右衛門が平成18年に初代を顕彰する秀山祭を始めて(つまりこの「寺子屋」の公演からのことですが)・「初代を継ぐ」ことを前面に打ち出してからのことです。それから本年(平成21年)まで4年間で吉右衛門は初代の当たり役の主だったところを演じたわけですが、それらの舞台を見ると・吉之助は吉右衛門は「初代は英雄豪傑を当たり役とした線の太いスケールの大きい 時代物役者だった」 と信じて疑っていないように感じられます。劇評などで「初代の舞台を思い出した」云々という文章を読む と吉之助は疑念を感じざるを得ません。良いとか悪いとかは置いて、芸が写実に根差すかどうかの点において当代は初代の芸風といささか異なるという風に吉之助は感じるからです。熊谷でも樋口でも河内山でも初代とちょっと違うのではないかと感じます。まず吉右衛門は初代とは違って身体が立派で押し出しが利くということがあります。これは初代と比べた時の絶対的に有利な点ですが、初代の芸という ものは若干軽くて細身の感じがしたにしても、もっとシャープで写実で・等身大の人間に近いものではなかったかと考えます。

もちろん歌舞伎役者の当代が先代の芸風そのまま継がねばならぬという法はありません。昨今見ますと先代と似ている方が少ないようで、まあ時代も変るし・世代が変れば歌舞伎も変るよなあと感じることが多いものです。しかし、吉右衛門に初代の芸風・つまりシャープで写実で・等身大の人間に近い人間解釈という点について認識を新たにしてもらいたいと吉之助が考えるのは、昨今の歌舞伎が重ったるい方に傾いている・時代に納まることを歌舞伎らしいことだと感じる風が強いからです。また劇評家・観客もそれで良しと します。この傾向は実は昭和歌舞伎の終り頃(昭和50年代)から始まっていることですが、この傾向を是正するために全体を写実・世話の方に強く引き戻す必要があると感じるからです。そのためには六代目菊五郎・初代吉右衛門へ回帰せねばならないというのが吉之助の考えるところです。ですからこれから平成歌舞伎を引っ張る吉右衛門には更なる上の芸を目指すという意味でも、シャープで写実で・等身大の人間に近い人間解釈ということをもっと考えて欲しいのです。ところで武智鉄二が昭和53年にこんなことを書いています。これが現在吉之助が吉右衛門について感じることをピッタリと一致します。

『(名門出身ではなかった初代への数々のイジメをはねのけて)庶民の側・人間主義の時代精神の側に立つことを決してやめなかった(別稿「吉右衛門の馬盥の光秀」を参照のこと)ところに初代の偉大はあった。しかし、初代の芸の展開上の欠点は、台詞の技巧にとりすがって、晩年、自分自身の声色を使うようになった点で、この点が六代目菊五郎との芸質上の決定的な差にもなった。菊五郎は自身の声色を使うことが生涯なかった。今の吉右衛門の助言者たちは、初代が晩年に自身の声色を使うようになった時代の、やや調子の下がった台詞を、吉右衛門に伝えているのではないか。そこに吉右衛門の芸の創造性、ふくらみ、心からの悲壮感、人間性の掘り下げの欠如が由来しているのではないか。吉右衛門が真の初代の後継者となるためには、自分自身の芸術家精神、内面性、人間性を打ち立てることが何より肝要で、晩年の初代の台詞回しの模倣のようなことをどこかで打ち切る必要がある。(中略)それには歌舞伎脚本を、かつて初代がそうしたように、現吉右衛門の目で精神で哲学で見つめ直すことから出発して、ハートからの発声が出来るようにならなければならない。』(武智鉄二:「素懐的吉右衛門論」・「演劇界」昭和53年7月・文章は吉之助が多少アレンジしました。)

さすがは我が師匠、きっちり見ていますねえ。吉之助が申し上げたいことは「歌舞伎らしさ」とか形から入ることはもうやめて、ハートから独自の役の構築・台詞回しに入ることを吉右衛門はそろそろ目指す段階にあるということ、またこれこそ吉右衛門が真に初代の芸を継承することだということです。

(H21・12・30)


○平成18年9月・歌舞伎座:「菅原伝授手習鑑・寺子屋」・その4

「寺子屋」前半を見れば松王と源蔵は概念上明確に対立しています。松王は時代の扮装ですし、玄蕃の扮装はもっと大時代です。これに対抗する源蔵は田舎の寺子屋の師匠にすぎません。ですから源蔵のなかの世話を意識することがとても大事 です。世話を意識することで・源蔵のなかの時代が炙り出されるのです。源蔵のなかの時代はその身振り・台詞の圧迫あるいは切迫感としてその端々に現われます。玄蕃 ・松王一行が詮議に到着するまで第一のクライマックスへ向けて緊張感を盛り上げていかねばなりません。山城少掾は「源蔵と戸浪の会話は誰にも聞かせられない大事の密談なのだから・ヒソヒソ話のように抑えて語らねばならない」と言いました。(山口廣一:「文楽の鑑賞」での山城少掾の談話) だから台詞を張り上げたり・詠嘆調に流すことは極力避けたいのです。基本として「源蔵戻り」は世話であるべきで、そこに時代が刺さり込むように処理したいのです。吉右衛門の源蔵(共演の魁春の戸浪にも同じことが言えますが)はもちろん平成の源蔵と言える出来ではあるのですが、全体としてやや時代に傾いた印象があると思えます。

吉右衛門の源蔵は台詞の末尾をゆったりと持たせ・いかに情感を込めるかに細心の注意を払っています。例えば「・・・・若君には替へられぬわ」という台詞「・・替えられぬわ」という末尾です。台詞がゆったりと丸みを帯び・しかも適度な情感も込められて安定感があります。走行中の自動車を停止させる時にブレーキを強く踏んでキーッと停めるのではなく、ブレーキを軽く踏んで速度を落としておいて・停止線のちょっと手前でブレーキをちょっと緩める。そうすると車はふんわりと停止する感じになって、身体が前のめりになるような急停止にならぬわけです。吉右衛門の台詞回しはそうした感じによく似ています。またそうやって見ると吉右衛門のかどかどの身のこなしも丸みを帯びて見えます。このような吉右衛門のやり方は確かに「・・らしく」見えます。そのことを評価したうえで申し上げますが、もし吉之助が源蔵を演るならば「・・若君には替へられぬわ」は「若君」を強く時代に「替えられぬわ」を早いテンポで言い切りたいと思います。こうすることで台詞はずっと世話に聞こえると思います。

「せまじきものは宮仕えじゃなあ」は誰でも「・・・じゃなあ」を詠嘆調に引き伸ばしますが、これは吉右衛門も同様です。しかし、吉之助が演るならば「宮仕え」を強く時代に張って・「・・じゃなあ」を詰めて言うようにしたいと思います。理屈で申し上げれば「せまじきものは宮仕えじゃなあ」は丸本では「せまじきものは宮仕え」であり・末尾の「じゃなあ」は歌舞伎が後で付け加えたものということですが、この台詞で最重要な語句はもちろん「宮仕え」であって・「じゃなあ」ではないからです。歌舞伎が台詞の末尾に重点が行くのは台詞の形を整える方に気が行っているということです。まあ台詞の末尾を重くすれば確かに「・・らしく」聞こえます。しかし、そうすると台詞が収束する感じに聞こえます。「収束する」というのはそれで完結してしまって・あとに疑問が残らないということです。 「・・然り、しかしそれで良いのか」という疑問が涌いてこない。様式のダイナミクスの観点からこれを見ると、世話の彫りこみが浅く、全体が時代に寄る印象になります。これが吉右衛門の源蔵が「納まっている」と感じさせる要因です。作詞家として稀代のヒットメーカー・今は小説家のなかにし礼氏が、七五調について興味深いことを語っています。

『日本の歌は七五調のリズムで構成されることが多い。けれど僕は、七五調で表現し切れずにこぼれている様々なものを、そのリズムを使わないことによって救い上げたかった。七五調は、おめでたい語調なんです。たった今、人を殺しても、七五調で見得を切ればセーフという感覚が日本語にはある。悪党だって「知らざあ、言って聞かせやしょう」と節を付ければ、何となく格好がついてしまう。七五調が持つ、そうした神がかり的な部分には頼らないと決めたんです。』(なかにし礼:日経ビジネス・2004年4月12日号・編集長インタビュー)

歌舞伎は「宮仕えじゃな」と七語に整えて・この末尾を「・・なあ〜あ」と引き伸ばしているわけです。歌舞伎で「・・じゃな」は省くわけにはいかぬとしても、こういう伸びた台詞回しを聴くとなかにし氏の言葉が思い出されます。「宮仕えじゃなあ〜あ」と詠嘆すれば子供を殺してもセーフというわけです。吉之助が「納まっちゃっている」と感じるのはこういうところです。吉右衛門が巧いので余計に歌舞伎のセーフ感覚が気になってきます。大事なことですが・このあと源蔵は小太郎を殺さねばならぬわけです。泣こうが喚こうがその罪はいずれ廻ってきっちり源蔵夫婦を襲うということをふたりは覚悟して・事を行なうのです。だから源蔵には悲壮感に酔っている暇はなく、これから犯そうとしている罪 の重さに正対せねばな りません。そうしないと「寺子屋」は戦前と変らぬ封建道徳賛美の芝居に戻ってしまいます。だから吉之助は「せまじきものは宮仕えじゃなあ」を詠嘆で納めたくはない。何とかこれを破綻させたいと思うわけです。歌舞伎を人間ドラマに引き戻すために、こういうところこそ吉右衛門に真剣に考えてもらいたいものだと思います。

先ほどボレットが生徒に「音を大きくしようとするんじゃない。小さくするんだ」と 注意したことを紹介しました。旋律というものは「流れ」として理解することも大事ですが、それと同時にひとつひとつの音符の主張でもあるのです。音の強弱・ダイナミクスの観点から見ると、強音と弱音は観念そのものとして互いに対立し ・ぶつかり合っているのです。強音・弱音それぞれの主張があるのです。ボレットが指摘するのはそういうことです。ですから強音を弱音より大きい音・弱音は強音より小さい音だと物理的に理解するだけでは正しい音楽は作れません。歌舞伎の台詞も同様に考えるべきで、台詞の節回しを「流れ」だけで捉えようとするから間延びするのです。歌舞伎の台詞には大事のなかに時代と世話に対立するものが交錯しています。その語句を時代と世話とに仕分ければ、「若君」と「替へられぬ」、「せまじきもの」と「宮仕え」は概念的に対立していることが分かります。時代と世話は互いにその違いを際立たせ、引き立たせるように表現せねばなりません。それを節回しとしてどのように置き換えるかという風に考えれば、台詞もおのずから違ったものになると思います。

このようなことを吉之助が考えるのは、小宮豊隆の「中村吉右衛門」・小島政二郎の「初代中村吉右衛門」 などの証言を通して、初代の体格が貧弱で演技の線が細いという ・時代物役者としては重大な欠陥があったにも係わらず、同時代のライバルたち(東京では七代目幸四郎・七代目中車・十五代目羽左衛門などがいました)を差し置いて時代物の第一人者と言われたのは、初代の人物描写における近代的人間理解に即した写実の要素の故であったと吉之助は理解するからです。当代には初代のこういうところを継いでもらいたいと思います。(この稿つづく)

小宮豊隆: 中村吉右衛門 (岩波現代文庫―文芸)
小島政二郎:初代中村吉右衛門

(H21・12・28)


○平成18年9月・歌舞伎座:「菅原伝授手習鑑・寺子屋」・その3

吉右衛門の源蔵もなかなか良い出来です。源蔵というのは難しい役で、あまり武張り過ぎると御主人大事の意識が強くて情けがない男に見えますし、かと言って悲嘆の情が強すぎると今度は小太郎を斬ることの必然が弱く見え てしまいます。現代では寺子を主人の身替わりに切ることの封建意識の非情ということが作品解釈の前面に出ますから、源蔵の描線はどうしても弱くならざるを得ません。ですから源蔵は硬と軟の要素の使い分けが難しいのですが、吉右衛門の源蔵はそこをバランス良く演技していると思います。情も涙もあり・しかし忠義のためにやむを得ず・・ということが観客によく納得できる源蔵です。これを平成の源蔵とすることに吉之助も 異存はありません。が、しかし、ここで吉之助は褒め殺しということではなく・吉右衛門には更なる上を目指してもらいたいという期待を込めてちょっと注文を付けたいと思うのです。「寺子屋」のドラマのなかで吉右衛門の源蔵はぴったり納まっています。確かに納得できる演技ですが、納まり過ぎている。このことを問題としたいと思います。

ところで「寺子屋」というのは時代物と言われます。確かに四段目ですから・本格の時代であるべき重い場ですが、舞台面をよく見ればそこは芹生の里の寺子屋です。これは奇妙なことだと思いませんか。これは本来ならば世話物の舞台面、のどかで平和な場のはずです。そこに奇々怪々の政治の世界が入り込んでくることの不気味さということが時代の様相をさらに強めます。これが「寺子屋」の大事なポイントです。このような時代と世話の対立構図を松王と源蔵との関係にどうしたら反映させられるかということを吉之助は考えたいのです。ちなみに別稿「寺子屋における並列構造」において吉之助は源蔵はそれと知らぬまま松王の意向を実現する協力者なのであるということを考察しました。「寺子屋」のドラマツルギーということを考えればそういうことになりますが、前半の首実検までを見れば・確かに表面として松王と源蔵は対立関係であり・またそのように描かねばならぬものです。作者は用意周到に伏線を用意して源蔵の負い目が炙り出されるように工夫しています。まず源蔵は主人菅丞相に筆法伝授を受けるほどの腕前がありながら・禁中での戸浪との恋愛がもとで勘当を受けたという負い目があります。また主人危急の場にお役に立つことができなかったという深い悔恨があります。ですから松王に「お前の忠義はその程度か・オラオラ・・」と煽られて源蔵が「コン畜生、俺の忠義を見せてやる」というところまでカーッと熱くなるのはそこに源蔵の負い目があるからなので、実はこれが松王の境遇とぴったり重なるわけです。またそこまで行かないとホントは源蔵が小太郎を斬るまでの必然には至らないのです。なぜならば源蔵は松王の不忠に対して怒っているだけではなく、それと同じくらいに自分のふがいなさに対して怒っているからです。吉右衛門の源蔵は「菅秀才を守る為に誰かを身替わりにして斬らねばならないという差し迫った状況がある・だから小太郎を斬らねばならない」という意味において論理的に怒っているのです。イヤそこまで も行かない源蔵の方が多いのですから、吉右衛門の源蔵は立派なものです。しかし、心情として熱く怒るところまで行ってはいない。そこに吉右衛門の源蔵が更に上を目指すための課題が見えます。その為にはもっと世話の要素を入れて演技の彫りを深くすることです。

先日アメリカの名ピアニスト・ホルへ・ボレットの公開講座のビデオ映像を見ました。曲はラフマニノフでしたが、旋律が波のように大きく小さく揺れながら次第に高まっていくクライマックスを生徒のピアニストが力任せに鍵盤を叩き付けるように大音量で弾きました。ボレットがこれを制して「いくら力任せに叩いてもピアノの音量には限界があるんだよ。音を大きくしようとするんじゃない。小さくするんだ」と言いました。要するにピアノの表現のダイナミクスを大きくする為にフォルテを大きくしようと考えるのではなく、まず大音量で美しい響きが保てる限界を認識して・それを基準にして、ピアニッシモをどれだけ小さくできるかという方向で表現の組み立てを考えよということです。これはテンポでも同じことが言えます。まずその曲の一番早い部分をどのくらいのテンポで弾くか・まずそれを決める、そこから逆算して全体の適切なテンポ設計を割り出すということです。

吉右衛門の源蔵はもちろん立派なものですが、時代と世話のダイナミクスという点から見ると全体が時代の方にやや寄っていてレンジがまだまだ狭いと思われます。もっとダイナミクス の振幅を大きく出来るはずです。このことは別稿「吉右衛門の樋口」でも同様のことを書きました。またこれは吉右衛門に限ったことではなく、同じことが菊五郎にも言えます。別稿「菊五郎の勘平」をご覧ください。 描くべきことは確かに描かれていますが、それが矛盾なく枠のなかに納まっているような印象です。相反する要素である世話と時代が並列して矛盾なく描かれることこそ矛盾 なのです。巷間の劇評でこのようなことが指摘されることはほとんどありませんが、このことは平成歌舞伎に共通する課題であると吉之助は考えています。演技が時代に寄っているために舞台の印象がやや重ったるい印象になり勝ちである。これが歌舞伎らしいような・いかにも時代でたっぷりしているかのような感覚を今の役者も劇評家も持っているのです。しかし、それはちょっと違うのではないかと吉之助は思うのですねえ。吉之助がそう思う根拠が初代の「熊谷陣屋」の映像であり・あるいは「まるで新劇ですね」と言われた六代目の勘平のことです。時代と世話のダイナミクスを大きくする為に演技の意識をもっと世話の表現の方に引くことです。そうすることで時代の表現をもっと陰影のある彫りの深いものにできるのです。(この稿つづく)

(H21・12・24)


○平成18年9月・歌舞伎座:「菅原伝授手習鑑・寺子屋」・その2

久しぶりの兄弟共演の「寺子屋」ですが、両人とも気合いが入って・特に前半はなかなか良い出来です。まず幸四郎の松王ですが、 もとより押し出しの利く方ですから首実検は見応えがあります。「ナニナニナニッ・・」と戸浪を問い詰つめる息、「無礼者」の見得など見事なものです。首実検で蓋を取り我が子の首を見詰める時の目をしばたたく箇所、「・・でかした」を首に 向けて言う箇所も底を割ることなく・あざとくなく良く出来ました。しかし、吉之助が幸四郎の松王で特に優れていると感じるのは、首実検が終わった後、玄蕃に「イザ松王丸、片時も早く時平公へお目にかけん」と言われる までのしばらくの間、左手を首桶の蓋に置いたまま・脱力したように顔を俯けてじっと目を瞑っているその姿です。見落としてしまいそうなさりげない演技ですが、死んだ息子に対する親の真情がじんわりと伝わって・それが写実で実に良いのです。幸四郎の型は初代とは異なりますが、吉之助はこの辺の心理描写に実は初代の芸風と確かにつながっているものがあると思っています。

幸四郎は演技が心理主義的でバタ臭くて歌舞伎らしくないと通の方に必ずしも評判が良ろしくないようです。それは翻訳劇やミュージカルばかりやるせいだと言われますが、吉之助はそうではないと考えています。それは初代の芸風から来るもので・これをやや強めにすれば幸四郎になるのです。つまり初代の心理描写の延長線上に今の幸四郎が位置するというのが吉之助の見方です。もちろんその中間に白鸚(八代目幸四郎)が立ちます。白鸚もその映像(特に昭和30年〜40年代)を見ると弁慶でも由良助でも説明的に過ぎると言いたいほど表情が実によく動きます。これを見れば今の幸四郎の演技はここから来ているということはすぐ分かります。そしてさらに遡ればそれは初代の芸風にまで行くのです。このことは初代の遺した「熊谷陣屋」その他の映像を見れば容易に確認できます。逆に言えばこのような演技がバタ臭く感じられるほど・昨今の観客は(劇評家もですが)見方が急速に保守化しているということです。実はそっちの方が問題なのですがね。現代にタイムマシンで初代や六代目が芝居を見せてくれたら、今の観客はその新らしさとバタ臭さにびっくりするのではないでしょうか。八代目三津五郎が六代目の勘平を見て・「六代目の勘平ってまるで新劇ですね」と言ってしまって「馬鹿、あれが歌舞伎だよ」と父親( 七代目)に叱られたという逸話がありますが、これは初代も同じです。「歌舞伎らしさって何」ということをもう一度考えてみたいものです。

ただし幸四郎の場合、時に心理表現の思い入れが強きに過ぎて・臭い感じがすること無きにしもあらずです。例えば「寺子屋」後半で「桜丸が不憫でござる・・桜丸・・せがれ・・桜丸・・・」などと言うのもそうです。前回幸四郎が松王を演じた時はこうでなかったと記憶するので、このやり方は今回が初めてでしょうかね。しかし、これはあまり感心できません。確かにこの 場面で松王が桜丸のことを言い出すのはちょっと唐突な感じもあるので、松王は桜丸にかこつけて息子の死を泣くのか・否かという議論もあるわけです。たぶん幸四郎は息子の死も桜丸のことも一気に迫って堪らなくなって松王は泣くのだという解釈で、小太郎と桜丸を等分に置きたいのだろうと思います。これは考え方としては吉之助も賛成ですが、しかし、ここで改まって「桜丸・・せがれ・・桜丸・・せがれ・・」とやられるとどちらの心情も嘘臭くなる気がします。意図が透けて見えてしまう感じです。要するに心情を克明に描こうとする余りの考え過ぎなのです。折口信夫は初代はともすると演技が臭くなりがちで・歌六(父親)の血が出て・小芝居になって困るということをよく言ったものでした。先ごろの道玄などもそうですが、孫の幸四郎にも似たようなところがあるのかも知れません。(この稿つづく)

(H12.12.8)


○平成18年9月・歌舞伎座:「菅原伝授手習鑑・寺子屋」・その1

ここで取り上げる映像は初代吉右衛門生誕120年に因んで始まった第1回「秀山祭」で・「寺子屋」は長らく舞台を共にしなかった幸四郎・二代目吉右衛門兄弟の久しぶりの共演ということで話題になったものです。本稿では吉右衛門の 初代と二代目が交錯しますので、ここでは初代吉右衛門は初代と記し、吉右衛門と記す時は当代・二代目を指すこととします。

初代は昭和29年没ですから吉之助はもちろんその舞台を見てませんし、文献・劇評などからその芸を想像するしかないわけです。初代は六代目菊五郎と並んで「菊吉時代」を作った名優であり、吉之助が見た歌右衛門や白鸚ら最後の昭和歌舞伎の大幹部たちが神様と崇めた役者のひとりです。初代の本領が時代物の役どころにあったことはよく知られています。時代物を得意とするのならば「押し出し」が利いているものだと思いますが、遺された数少ない映像を見ますと、実は初代の体格は思いのほか貧弱で・演技の線が細かったことに驚かされます。このことは別稿「初代吉右衛門の写実の熊谷」でも触れました。初代についての賛辞は数多いですが、初代の弱みである「線の細さ」に触れた文章があまりないようです。しかし、これは大変重要なことで、同時代に押し出しの利いたライバルが数多くいたにもかかわらず・その線の細さのハンデを克服して・なおかつ時代物の第一人者と言われたことに初代の真の偉大さがあると吉之助は思います。つまり大正の自然主義リアリズムに裏打ちされたところの等身大の生きた人間像を描き出したこと、これこそ初代の偉大さだと思っています。

「寺子屋」は初代にとって重要な演目ですが、初代は源蔵役者という印象が吉之助にはあります。初代が源蔵で・六代目が松王という組み合わせが吉之助のなかでの理想の「寺子屋」です。これは別に根拠があるわけでもないですが、まあ武智鉄二の文章とか木村伊兵衛の写真集などですり込まれた結果でありましょうかね。しかし、初代は松王も多く勤めており、昭和25年5月・御園座での松王での貴重な映像が遺っています。(この舞台には幼い日の吉右衛門が小太郎で出ています。)この松王を見るとやはり初代の線の細さが目に付きます。例えば「若君菅秀才の首に相違ない、でかした源蔵、よく討った」の場面などは台詞を大きく張り上げることをせず・大きく時代に構えた演技をしないのです。その演技は派手さを抑えたと言うよりも・ちょっと弱々しい印象さえあり、最初にこの松王を見た時には「初代晩年の映像でもあり身体の衰えが見えるなあ」という印象を吉之助も持ったものでした。しかし、繰り返しこの映像を見て考えてみるに、初代はもともと源蔵が仁で・松王はピッタリというわけではないにしても、ここで初代は初代ならではの松王像を構築しているということが吉之助にもはっきりと分かってきました。それは繊細とも言える細やかな心理表現です。

強く印象に残るのは後半で松王が「桜丸が不憫でござる・・桜丸・・桜丸・・桜・・源蔵殿、お許しくだされ」と言って泣く場面です。どの役者も「源蔵殿、お許しくだされエ」と叫んで、懐紙を顔に押し当てて肩を大きく動かしてウワアアと男泣きして見せるものです。またそれが見せ所とされています。ところが初代はこの見せ場でウワアアと泣かないのです。「源蔵殿、お許しくだされ・・」と小さく低く言って懐紙 で涙が滲んだ目頭をそっと押さえるという感じなのです。まったく当てようとしない写実の演技です。愛息を失った松王の哀しみがジワジワと観客に伝わってきます。これを歌舞伎的かどうかと言うなら、確かにこれはそうではないのかも知れません。これはまったく損なやり方かも知れません。しかし、それを言うなら「あなたが歌舞伎的と言うのはそれは一体どういうものかね」と聞き返したいものだとも思いますねえ。(この稿つづく)

(H21・12・2)


○平成21年7月・渋谷コクーン:「桜姫」・歌舞伎版・その3

文化4年(1807)、品川の安右衛門という者の経営する遊女屋に「こと」という名の遊女がいて、この女が浅草源空寺の門前の善兵衛という者の養女になった後、自分は京都の日野中納言の息女であると言い出して 江戸の話題となりました。「こと」は官女のような格好で奉行所に乗り込んだり、客に正二位とか左衛門とかいった署名をして和歌を書いてやったりして、さらに評判は高くなりました。後に嘘だということがばれて、「こと」は奉行所から追放の処分を受けることになります。南北の「桜姫東文章」はこの事件を桜姫のキャラクターに取り入れたのですが、実説の「こと」は別に置いて、風鈴お姫(=桜姫)は娼婦と言えども・結局商売をやってはおらぬのです。全然商売にならないので・ 女郎屋の主人から戻されて風鈴お姫は山の宿に帰ってくるのです。ひとつには枕元に青白い清玄の幽霊が出るので客が気味悪がって逃げてしまうということが理由としてあります。これは結果として清玄が桜姫を汚辱から守ったことになりますが、もうひとつ評判を聞いて続々とやってくる男たちを桜姫が和歌でビシバシ撥ねつけていく・吉之助はそういう場面を想像したいと思うのです。高貴なお姫様女郎ですから、そう簡単にさせるわけに行かないのです。そこに「女のプライド・気位の高さ」があるということです。「桜姫東文章」にはそんな 場面は全然出てきませんが、これは当然あり得る話だと思います。それくらいの滑稽場面は南北ならば書こうと思えばいくらでも書けたはずですが、南北がこれを「風鈴お姫が店から戻され ました」で済ましてしまったのは・想像してみればそれだけで観客は思わず笑えちゃうということにあったと思います。だから山の宿で桜姫が聞かせるお姫言葉(時代)と女郎言葉(世話)のチャンポンが とても大事になるのです。女郎屋の座敷で桜姫は同じような感じでふんぞり返っていたに違いないことが、これで容易に想像がつくからです。桜姫はその美貌で男を引き寄せておいて・男が寄って来たらば和歌など突きつけて・男をピシャンと撥ね付けるということをするのです。 男たちは桜姫の気位とプライドに全然敵いません。女郎屋で桜姫はそのような形で男たちを試して・いたぶり・翻弄してきたに違いありません。つまり「女は男の批評たり得る」ということです。

ですから一見すると桜姫は男たちに翻弄されてあっちにフラフラ・こっちにフラフラしているようですが、実は桜姫はどこにあっても桜姫であってちっとも動いてはおらぬ 。翻弄されて騒いでいるのは男たちの方だということになります。「桜谷庵室」では桜姫は権助に対して随分積極的に働きかけているようですが、これも権助という男の性(さが)を顕わに引き出すために・意図するでもなく自然にそのように振舞うのであって、そのこと自体が権助に対する批評 になっているのです。見方を変えれば翻弄されているのは権助の方です。清玄についても同じことが言えます。17年前の不心中によって切り取られた自休(=若き日の清玄)の生き方が桜姫という批評になるのです。清玄が言い寄っても桜姫は撥ねつけます。このことで清玄は常に過去の罪の意識にいたぶられます。このような考え方は別稿「桜姫・断章」で論考した清玄を観察者に見立てて・権助は従であるとする吉之助の見方とは若干異なりますが、清玄と権助というふたりの男を等価の位置に見立てるならばそうした見方も可能になります。結局、桜姫はふたりの男たちの批評となるのです。気位とプライドを以って桜姫は凛と立つということです。

そう考えれば6月渋谷コクーンでの長塚圭史氏の脚本による現代劇版「桜姫」(舞台を南米に移し変えたもの)は翻案に悪戦苦闘されたことが伺われます(注:悪い意味で言っているのではなく褒めているのです)が、長塚氏は原作の核心たる主題をしっかり掴んでいることがよく分かります。つまりセルゲイ(=清玄)・ゴンザレス(=権助)のふたりの男の生き方・その裏に潜んでいた偽善性が、マリア(=桜姫)という存在によってあぶり出された・ そのために男たちは自分の人生と向きあわざるを得ないということです。つまり「桜姫はふたりの男たちの批評である」という視点がそこにあるのです。ビデオで見る限り・幕切れがまた発端に戻るような連関感覚はなかったようで、マリアの存在が最後で急に消えてしまった感じがあ って・その点は残念に思えましたが、まあそれは翻案ですから・別物の芝居と見れば良ろしいことです。

7月の歌舞伎版はこの6月の現代劇版の空気をそのまま引き継いで演じたとインタビューで勘三郎が語っていました。ある意味でふたつの芝居を重ねて見て欲しいということでしょう。歌舞伎版の幕切れのなかには6月の最終場面の片鱗は確かにあったと思います。だとすれば亭主は殺せても・腹を痛めた実の子は殺せるはずがない」というシチュエーションは 幕切れの視点をブレさせただけで余計なことではなかったでしょうかね。串田氏は序幕「新清水」では登場人物を台車に座らせて・劇の進行に従ってこれを動かすとか・「三囲の場」ではうずくまる清玄に本水の雨を降らせるという工夫をしていましたが、どちらも瑣末的な仕掛けで串田氏が「桜姫」をこう読むという視点から出たものではない。残念ながら「亭主は殺せても・腹を痛めた実の子は殺せるはずがない」という串田氏のご主張も、吉之助から見ると皮相なシチュエーションです。男との情愛のドロドロ・土壇場での母親の本能から来る子供への情愛・そのようなシチュ エーションに頼るのではなく、女性でしか表現できないもの・女性であればこそ表現すべきものが別なところにあると思います。気位とプライドを以って桜姫は凛と立つ。それによって否応なしに男たちの生き様が見えてくるということです。このことは長塚氏の方が 原作を素直に捉えていたと思います。串田氏も「女は男の批評たり得る」という視点を生かせれば歌舞伎版の方も面白くなったと思いますが、残念でしたね。

(H21・11・24)


○平成21年7月・渋谷コクーン:「桜姫」・歌舞伎版・その2

言い寄る男たちをビシバシと歌(和歌)で撥ねつけていく。その結果、女の歌は技巧的かつ実のないものになっていったという折口信夫の発言の真意をさらに考えます。それは結局、「女は男の批評たり得るか」ということだと思います。女の評価にかなうように男は常に自分を高めておかねばならぬということです。女の方は男に負けないように女を磨かねばならぬということでもあります。ゲーテが言うところの「永遠に女性的なるもの、我らを高みに昇らしむ」も同じことです。

『あの有名な「ゲーテの「永遠に女性的なるもの」には、一般に行われている解釈のように、何と言うか・華やかな意味しかないのであろうか。そうではなくて、精神の ・従って・人類史のひとつの恒常的なカテゴリーを象徴的に示しているのではないだろうか。その語意の領域は、過去・現在・未来の女性の総和にしか及ばないのであろうか。いや、総体的現実のなかには、いかなる性別にもまた性の隠喩にもかかわりなく、こうした抽象的な閨房に入れられうる、女性以外の現実があることは疑いのないところである。』(エウヘーニ ー・ドールス:「女性的世界」・「バロック論」に所収・美術出版社)

そのようなことを考えたのは、本年(平成21年)7月・渋谷コクーンでの串田和美演出「桜姫」(歌舞伎版)の舞台ビデオを見て、鶴屋南北原作では・風鈴お姫(桜姫)が亭主権助を殺した後に我が子も殺し・その後にお姫様の姿に戻ってしまうという結末に串田氏はえらくこだわるなあと吉之助は不思議に思ったからです。串田版「桜姫」では・我が子を抱いたままでお姫様に戻ってしまうように大きな改変がされています。なるほど「母親ならば・亭主は殺せても・腹を痛めた実の子は殺せるはずがない・この非情の結末は許せない」というのは考え方として分からなくもないです。しかし、そうなると権助が可哀想になりますが、愛する亭主は殺されても良いのでしょうかね。まあ串田氏的には許されるのでしょうなあ。しかし、「桜姫東文章」を串田氏が自分の観点で「桜姫」を再構築しようという時に、ここはそれほどこだわらねばならぬ箇所なのですかねえ。そこで本稿冒頭の折口発言に戻るわけですが、串田氏は「亭主は殺せても・腹を痛めた実の子は殺せるはずがない」ということに桜姫の女性(母親)たる根拠を見ているのでしょう。串田氏はイヤこれは桜姫の人間たる根拠であると言いたいかも知れませんが、そのように言うことを吉之助は躊躇しますねえ。「桜姫」全体を俯瞰した時に、この最後の箇所が・わざわざ改変を加えなければならないような・ドラマ全体の意味を根本的に左右する勘所であると吉之助には思えないからです。

それは「桜姫東文章」に桜姫が我が子に対して母性を表現する場面がほとんどないからです。唯一の例外は「三囲(みめぐり)の場」での「恋しゆかしの、みどり子の、逢いたい、仏神様、我が子に、何とぞ、逢わせて下さり ませ」という両花道での桜姫のパートの台詞がそれでしょうかね。しかし、この赤子には名前さえないのです。桜姫は「みどり子」とか「我が子」とか言いますが、一度も我が子を名前で呼んだことがありません。大体「桜姫」ではこの赤子は厄介物の小道具みたいに扱われて・あっちに遣られこっちに遣られ、桜姫と権助の荒 (すさ)んだ関係の結果としての役割しか負わされていません。別稿「母性喪失の隅田川」でも書きましたが、三囲の場で桜姫がフッと見せる母性ははるか昔の隅田川説話が触発する一時の感情にすぎないもので、仮の母親の役割 は結局清玄の方に負わされてしまいます。そして桜姫は母性を獲得しないまま娼婦に堕ちていくのです。そんな桜姫に最後の最後だけ母親の正当性を声高に主張されても困るのだよねえ。そういうところに「桜姫」の主題はないと吉之助は思うのです。

「桜姫」についての吉之助の見方は別稿「桜姫という業(ごう)」あるいは「桜姫・断章」をお読みいただ くこととして・ここでは触れませんが、高貴なお姫さまが卑俗な娼婦に堕ちていくことの落差・切ろうとしても決して切れない男と女のドロドロとした肉欲と情念の柵(しがらみ)というところに「桜姫」の物語を見るのが、まあ「桜姫」の今日的な見方になるだろうと思います。そうすると桜姫の「女の性(さが)」ということが「桜姫」の主題ということになるわけです。ふたりの男の間に翻弄されて・波に揺られる木の葉の如く・情のなすまま・欲に揺られるがままに変転していく・それが女の人生よ・・・という感じですかねえ。普通ならそこで終わ るものですが、さらに延長すれば桜姫の母性ということに関心が行くかも知れません。「亭主は殺せても・腹を痛めた実の子は殺せるはずがない ・それだけが桜姫を人間に戻せる最後の縁(よすが)である」という串田氏の発想はそういうことだと思います。しかし、ここで「・・男と違うのだという皮相な考えではなく、赤ん坊に乳を飲ます歌、嫁入りの歌、そういうことでなしに・・」という折口の言葉を引き合いに出せば、そのような皮相なシチュテーションに頼るのではなく、女性でしか表現できないもの・女性であればこそ表現すべきものがもっと別なところにある のではないかということです。舞台を見る者が高められる・そのような「桜姫」の新たな表現の可能性を 、次から次へと言い寄る男たちをビシバシ撥ねつける「女のプライド・気位いの高さ」に見たいと吉之助は思うのです。

(H21・11・18)


○平成21年7月・渋谷コクーン:「桜姫」・歌舞伎版・その1

別稿「をむなもしてみんとて」において、折口信夫の「女歌」(女性が作る短歌)についての考察を取り上げました。折口は昔の和歌の・男歌と女歌はとても違ったものだったということを言っています。好きな男が仕掛けてくると、それをビシバシと歌で撥ねつけていく・そうでないと「女がすたる」というのです。

『ともかくそういう風の世の中だから、女は男にまともに答えておってはいけない。とうぜんその結果、女というものは非常にプライドが高い。平安朝の女の一番の資格はプライドが第一である。「心おごり」という言葉がありますが、それなのです。これのない女は上流の婦人としての資格がない。女というものは、男の言う通りすぐ従うというのは女の値打ちではない。昔のおんなは、そういう風に男をはね返す練習ばかりしておった。』(折口信夫・女流歌人座談会・座談会「女歌について」・昭和8年1月)

この座談会は「女歌についての折口の話しを聞く」という目的で企画されたものでした。日本文学における女歌の歴史的位置を女流歌人たちに向かって折口は語るのですが、もしかしたら折口の語ったことは彼女たちから反発を喰ったかも知れません。事実折口の話しの後に「先生は女の人の歌をほんとうに見てくださらない」という不満の声が出てきます。多分折口が話しの冒頭で語った部分にカチンと来たのだろうと思います。

『(今の女の人の歌が)男の人の歌と、どれだけ違うかということです。あまり違わなさ過ぎるとこう思います。その点が今の女性の歌の欠陥かと思います。昔の歌を見ますと、男の歌と違いすぎるというふうに考えます。それで実のところは、そんなことも導きになって、またあなた方 (座談会同席の女流歌人たち)に、女はこういう歌を作って、男と違うのだという、皮相な考えではなく、赤ん坊に乳を飲ます歌、嫁入りの歌、そういうことでなしに、根本から違っていることを教えていただけるかも知れません。』(座談会「女歌について」・女流歌人座談会・昭和8年1月)

彼女たちがカチンと来たとすれば・それは間違いなく「・・男と違うのだという皮相な考えではなく赤ん坊に乳を飲ます歌、嫁入りの歌、そういうことでなしに・・」という箇所です。折口の言いたいことは、赤ん坊に乳を飲ます歌・嫁入りの歌 、そのような女性にしか体験できない・男にはできない特殊なシチュテーションに頼るのではなく、技巧として女性にしか表現できないもの・女性であればこそ表現すべき感性があるのではないかということです。日本文学にはそうした歴史的背景があったということを折口は指摘しています。 彼女たちは折口の発言に何だか女性であることの根拠が否定されたかの如く感じたのかも知れません。しかし、折口にそういう意図は毛頭ないのでして、言葉の端々に気を取られず・落ち着いて折口の言うことを考えてみたいと思います。別の座談会で折口はこう言っています。

『虚構そのものが生活そのものにならなくてはならない。みえすいた虚構では困る。私はこの頃女の歌を褒めて、大分攻撃されていますが、実際、日本の歴史から見ると、芸術は女の方が上手だった。芸術は女が向上させていった。この昔の女の働きをもう一度してもらいたい、昔の表現力を取り戻してもらいたい、そう思って褒めているんですが。』(座談会「近代抒情について」・昭和27年3月)

言い寄る男たちをビシバシ歌で撥ねつけていく。昔の貞操観念は神様に対するもので・人間に対するものではなかったと折口は言います。「みさを」という語は古くは神様に「見てくれ」と言うという意味でした。だから女は簡単になびいてしまうわけにいかなかったのです。そのプライドの高さが女を一流にしたということです。文学をものした平安貴族の女房たちがそうでした。しかし、鎌倉時代以降は「平家物語」や「増鏡」 などの歴史物語をみれば分かる通り、物語りのなかの「誣(し)い」的な要素が少なくなって・文学が全体的に真面目な実の方向に次第に傾いていきます。つまり以後の文学は男のものになり・女のものでなくなってきたのです。ですから折口は「プライドの高さ」ということに女の文学の復権の糸口を見ているわけです。

『要するに女は女だけの表現のあるべきものを失ってきたということなのです。(現代の女の人の和歌は)男の表現法に対抗するものをまだ持っていない。却って男の表現法に頼っている。もし女が、自らの表現法を取り返したら、女の文学は素晴らしくなる。今は男の表現法で女の方を表そうと努力しているが、それでは恐らく成功が難しいでしょう。』(座談会「近代抒情について」・昭和27年3月)

ところで吉之助も折口と同じような反発を喰うかも知れませんが、「・・男と違うのだという皮相な考えではなく、赤ん坊に乳を飲ます歌、嫁入りの歌、そういうことでなしに・・」という点は文学だけでなく、現代のジェンダー問題を考える時にも言えることではないかと思います。吉之助から見ると現代の文学でも映画でも例えばドロドロとした愛欲場面・そう したところに女の表現を安直に求める傾向が強いように思います。「必然性があれば脱ぎます」なんてのもそんなものです。ホントは女優さんを裸にしたい下心で製作側がわざわざそのようなシチュエーションにしてるのですがねえ。そんなもの必然性とは申しません。ですから「 ・・そういうことではなしに」・女性の表現の可能性を「女のプライド・気位の高さ」に見ようとするという折口の考え方はとても大事であると吉之助は思います。

(H21・11・11)


ミシェル・ダルベルトのピアノ・リサイタル

先月(10月15日)にミシェル・ダルベルトのピアノ・リサイタルを聴いてきました。とても良いリサイタルでしたが・特にプログラムに工夫があって、例えば前半でのスクリャービンの2つの詩曲から第1番、ピアノ・ソナタ第9番「黒ミサ」(この曲は一楽章形式のソナタで演奏時間は8分半くらい)、詩曲「炎に向かって」 まで・この3曲を拍手で中断することなく・続けて弾いて見せて・これは3楽章形式の大ソナタに見立てる意図ですが、これもなかなか面白い趣向でした。恐らくペダリングのせいかと思いますが、響きの官能性や色彩感が抑えられた感じで・あるいはその点に不満を感じる方もいたかも知れませんが、スクリャービンの複雑な曲の構造がよく見える感じで・吉之助にはとても好ましく思われました。

後半の選曲も実に面白いものでした。最初のワーグナー(ゾルタン・コチシュ編曲):「トリスタンとイゾルデ」前奏曲は最弱音で終わる曲なので・コンサートピースとしてはちょっと不向きのエンディングですから、これはどんな感じで曲を締めるのかと思ってましたら(実は最終部に多少アレンジをしてくるのかと思ったのです)、そのまま切れ間なくリストのロ短調ソナタに移行しちゃったのにはちょっと吃驚で・また改めて感心させられました。「トリスタン」前奏曲の最後の音と・ロ短調ソナタの最初の音がまったく同じ音なのですねえ。もっとも「トリスタン」の方はイ短調で調性が違いますが、 このこともリストのソナタを浮かび上がらせる効果を上げているようです。続けて聴くとリストとワーグナーの音楽性の精神的関係が近いことを改めて感じさせられます。まあリストの娘コジマがワーグナーの二番目の奥さんであるくらいですからねえ。ちなみにリストのロ短調が1853年の作品で、ワーグナーの「トリスタン」が1857年〜59年作曲ということですから、59年時点ではワーグナーとコジマとの関係はまだないわけです。リストのソナタが終わってから長い拍手の後でダルベルトがアンコールで弾いたのがリスト 編曲の「トリスタンとイゾルデ」愛の死で したが、これがまるでリストのロ短調ソナタのエピローグ(回想)の如く懐かしく聴こえたのにも強い感銘を受けました。この工夫もまた興味深いものでした。

ところで「トリスタン」前奏曲と愛の死の両編曲を聴きながら改めて感じたことがあります。ダルベルトが響きの官能性や色彩感にあまり頼らない(これは前半のスクリャービンと同様の)弾き方なので、音楽の対位法的な構造が明確に見えてくるせいもあ ったでしょう。ひとつめはグレン・グールドが指摘しているところのロマン派以降でピアノ曲を書いた作曲家はいなかったというテーゼです。

『私が日頃から抱いている確信は、重要な作曲家の大半にとってピアノは管弦楽の代替物であったということです。ピアノは本当は弦楽四重奏や合奏協奏曲の編成や大管弦楽などの形で演奏されるべき音楽を響かせるために存在してきたのです。脳裏に別の音響体系を持たずにピアノ曲を書いた作曲家に一流の人はほとんどいないと思います。』(グレン・グールド:1980年のインタビュ-・「グレン・グールド発言集」に収録)

もうひとつのグールドのテーゼはピアノはモノフォニックな音楽よりも対位法的な音楽を弾くのに最適な楽器であるというものです。

「ピアノはモノフォニックな音楽よりも対位法的な音楽を弾くのに最適な楽器だと私自身は確信しています。またこれも私見ですが、ワーグナーの作品で一番ピアノ向きなのは管弦楽の色彩になるべく依存じていない・しかも構造に輪郭が対位法として抽象的に描ける作品だと思うのです。だからこそ私は「マイスタージンガー」前奏曲とジークフリート牧歌、そして若干の留保を付けますが「夜明けとジークフリートのラインへの旅」を選んだのです。」(「グレングールド書簡集に収録)

グールド自身は「トリスタン」ピアノ版の録音を残していませんが、間違いなく編曲のチャレンジはしたはずです。「トリスタン」はグールドにとって最も重要な曲のひとつだ ったからです。そして編曲を断念したのだろうと思います。その理由は響きが分厚つ過ぎて構造線が明確に引けないところにあったかなと思います。何よりピアノの響きは鍵盤を叩けば減衰することは止められないですから、途中から音量を上げることが出来ません。これも大きなネックです。しかし、部分的にこ こはグールドがスケッチを残しているならばこうするだろうと思うところがあります。この箇所ならピアノの対位法的な動きを浮かび上がらせて、管弦楽のフォルティシモと同じ効果をピアニッシモでも出せる ・そうした強い誘惑を感じさせる箇所が「トリスタン」にはいくつかあ るような気がします。それでワーグナーからベルクやウェーベルンへの直接的な関連を明確に出来るように思います。そのためにはピアノを管弦楽の響きの呪縛から解き放たねばならないわけですが、それでは編曲の域を越えて書き換えにな りそうです。だからグールドは編曲を断念したのかなと思います。良いとか悪いとかではなく・リスト編曲の「トリスタン」(コチシュの編曲も同様ですが)にはやはり管弦楽の響きの呪縛が感じられるようです。だからそこに多少のぎこちなさがあるわけです。そうしたふたつの編曲の間にはさまると、リストのロ短調ソナタのピアノ・オリジナルとしての自由さがまた際立つという感じです。いや実に興味深いプログラミングでありました。

(H21・11・4)


○平成21年6月歌舞伎座:「女殺油地獄」・その3

このように初代藤十郎の芸はその後の歌舞伎において滑稽な三枚目的要素・あるいはナヨナヨヒョロヒョロした弱々しさの側面で捉えられ・上方和事として定着しました。この事実はそれなりの意味があることで、これを歴史的経緯として踏まえることはもちろん大事なことです。しかし、折口信夫が指摘した通り・上方和事のシリアスな要素を念頭に入れないと特に近松作品の理解は一面的なものになってしまいます。近松と藤十郎との提携による「傾城仏の原」や「壬生大念仏」などの純歌舞伎は現在は上演されることがありません。現在では藤十郎の芸はほぼ廃絶しており、その芸風は文献から想像するしかないのです。近松は元禄16年(1703)に藤十郎の一座から離れ・「曽根崎心中」以降は浄瑠璃作品の方に専心し、その後に歌舞伎を書くことはありませんでした。しかし、ここで忘れてはならない 重要なポイントは、その後の近松が浄瑠璃を書く時にその主人公の性格描写に藤十郎の芸が反映していないはずは絶対にないということです。つまりシリアスな要素と滑稽な三枚目的要素が交錯する演技・そのようなアンビバレントな性格表現を近松の世話物の主人公たちに見たいと思うわけです。

「油地獄」の与兵衛に話を絞りますと、現代演劇で与兵衛を演じる場合、ある瞬間にフッと顔を覗かせる狂気・別の人間になったかの如くガラリと豹変する人間の二面性・あるいはその生い立ちから来るところの精神的未熟という側面などにどうしても興味が行きますから、これらの諸要素を統合して・矛盾のない一貫した性格表現を目指そうと現代の俳優は考えるだろうと思います。そうなると与兵衛の人間像はシリアスというよりも・ニヒルな様相の方にどうしても傾いてしまいます。自然主義の観点からするとこれは当然のことです。しかし、それであると歌舞伎にはなりません。現代演劇がアンビバレントな様相をリアルに克明に描き出そうと すればするほど、与兵衛の心の暗闇は救いようのないものに見えることでしょう。虚無的な不良っぽい与兵衛では慰(なぐさみ)にはならぬということです。近松が「虚実皮膜論 」で説いている如く、「芸といふものは実(じつ)と虚(うそ)との皮膜の間にあるもの」ということが大事なのです。与兵衛を歌舞伎にするには、性格の矛盾をそれとして容認する余裕・というか大まかさが必要になります。アンビバレントな性格表現を様式そのものにしてしまう演技術が必要なのです。恐らく明治42年に二代目延若が演じて評判を取った与兵衛はそこに工夫があったに違いありません。 アンビバレントな要素を根源的に持つのが和事の演技様式だからです。

そこで平成21年6月歌舞伎座の「女殺油地獄」で仁左衛門の演じた与兵衛ですが、シリアスなところはシリアスに描き・滑稽な三枚目的なところはそのように描くという ・その場その場の局面々々をそれなりに真実に描く与兵衛なのです。自然主義の観点から見ると、残酷な殺しをやる人物があのように人の良い愛嬌のある人間であるはずがないとか、あのよう な性格のひ弱な人物がどういう心理過程であれほど残忍になれるのかとか・そのような見方になってしまいます。そうすると殺人の動機と行動の一貫性・性格の統一に疑問が生まれてくると思います。現代人に与兵衛という人物の理解が難しいのはその為です。しかし、それは次のように考えれば良いのです。与兵衛の取る行動は第三者からみればバラバラで・一貫性のないものに見えても、どんな時においてもそれらは彼の真実から出ているのです。遊び呆けている時も・両親に対して反発する時も・親の情にほだされて泣く時も・殺意に燃えて刃を握る時も、その時それぞれに何かしら与兵衛の真実があるのです。人間というものはそのようにアンビバレントな・統合しきれない存在であるという風に近松は与兵衛を描いているからです。そこにシリアスな要素と滑稽な要素が脈路なく交錯します。仁左衛門が演じる与兵衛は和事のふたつの要素の配合のバランスがとても巧くて、まことに歌舞伎らしい愉しみのある与兵衛であるなあと感じ入る見事な演技です。もしかしたらあまり深く考えていない大まかな表現に見えるかも知れませんが、実はその大まかさが独特の風味を醸しだしており、それが人間のある本質をやんわりと突いているのです。和事とはそのようにアンビバレントな様相を描き出し・なおかつそれを慰(なぐさみ)・愉しみとすることのできる不思議な演技様式なのです。

(H21・10・21)


○平成21年6月歌舞伎座:「女殺油地獄」・その2

藤十郎の上方和事と呼ばれるものは、現行の歌舞伎の和事と印象が大分違うものだったと想像します。「やつし」というのは主人公が落ちぶれて・本来の身分を想像できない哀れな姿で登場し・人々の同情を誘うような演技を言うとされています。しかし、実はそれは表面的なことで、落ちぶれた身分の落差・哀れさが「やつし」の本質なのではないのです。「やつし」の本質とは「現在の自分は不本意ながら本来自分があるべき状況を正しく生きていない・自分は仮の人生をやむなく生きており・本当の自分は違うところにある」という思いにあります。藤十郎は傾城買いの芸を得意としました。不本意にも仮の人生を生きなければならぬとすれば・その憤懣と虚しさはどうしようもなく、その憂さを晴らすために一時の虚しい楽しみに走らざるを得ないというのが傾城買いの本意です。ですから「やつし」の役柄の内心に沸々とするところの「墳(いきどお)り」の強さこそが藤十郎の上方和事の芸であったのです。つまり藤十郎の和事には・吉之助が言うところの「かぶき的心情」の強さがあったのです。このことが分かれば仇討ち狂言において非人に身を落としながら仇を追いつづける役どころ ・代表的なのは「大晏寺堤」の春藤次郎右衛門ですが、あるいは「忠臣蔵・七段目」の大星由良助・さらには「盟三五大切」の源五兵衛さえも「やつし」の延長線上に捉えることが出来るわけです。これすべて「自分は仮の人生を生きざるを得ない」という認識から発するものだからです。ですから藤十郎の芸は技芸として確かに廃絶したわけですが、実は藤十郎の精神は歌舞伎の役どころの別なところで脈々と生きているのです。現代ではこのことがすっかり忘れ去られてしまって、藤十郎の芸は傾城買いのナヨッとした芸みたいに思われています。しかし、藤十郎の上方和事の芸は もっと凛としたものだったと吉之助は思います。

以上のような経緯で「河庄」の治兵衛・「封印切」の忠兵衛などはその後の改作によって・そのようなナヨナヨとした弱々しい性格が強められていき、歌舞伎の和事の役どころはそのようなイメージで位置付けられ・受け継がれてきたわけです。このように考えると「曽根崎心中」の徳兵衛や「油地獄」の与兵衛が江戸時代に演じられなかった理由も感覚的に理解できると思います。まず徳兵衛は和事の系統として見た場合、その生き方が妙に生真面目で 熱過ぎるのです。与兵衛も殺人犯ですから演者がなかなか感情移入できないのは当然ですが、与兵衛の性格もどこか偏執狂的にカーッと来る熱い側面があって、これも歌舞伎のパターン処理では役どころが巧くはまらないものです。現代においては自然主義的な観点から近松作品の理解がされていますから・そのようなことにあまり違和感を感じないと思いますが、「曽根崎」や「油地獄」は江戸時代には主人公の複雑な性格付け は後年の戯作者が改作してもなかなか巧く処理しきれなかったのであろうと推察します。逆に言いますと、明治以降に自然主義的の観点から徳兵衛や与兵衛の多面的性格の解釈ができるようになってはじめて 、これらの近松作品が再評価され・復活したということです。

先に書いた通り・「女殺油地獄」が人気になるのは明治42年10月大坂朝日座 で二代目延若が与兵衛を演じて以後のことでした。延若はとても優れた上方芸を持つ役者でしたが、当時の上方和事の名手と言えば・もちろんそれは初代鴈治郎のことでした。ガンジロハンと言えば「頬かむりの中に日本一の顔」ということで、その最大の当たり役は「河庄」の紙屋治兵衛(紙治)でした。その鴈治郎が何度か「油地獄」の与兵衛を勧められても・どうしても承知しなかったということです。与兵衛を勧めた人がどういうつもりで鴈治郎にそれを言ったかは分かりませんが、多分「鴈治郎は和事の名手=近松の名手」ならば鴈治郎に近松の「油地獄」はできるという単純発想であったのかなと思います。学者先生に勧められて「心中天網島」の原作準拠上演なども鴈治郎はしておりました。鴈治郎=近松のイメージは世間に結構強かったと思います。鴈治郎が与兵衛を嫌がったのは延若が当てた役ということもあったかも知れませんが、やはり紙治のパターンで与兵衛は処理できぬということが大きかったと思います。上方芸のなかで延若は鴈治郎とは違う系統を引いています。鴈治郎のように洗練された感覚ではなくて、大坂では「だだこしい」と言いますが・ゴチャゴチャと整理されていない猥雑な感覚で した。延若は自然主義の影響を受けた与兵衛の性格解釈をそのような「だだこしい」芸風で処理したのだと思います。

「曽根崎心中」の徳兵衛について鴈治郎がどういう評価をしていたかは分かりませんが、多分勧められれば拒否したと思います。そもそも軒下でお初の足を取って自分の喉に当てるなどという惨めな演技は鴈治郎が好まぬものですし、これはどう考えても和事の領分ではないからです。昭和28年8月に復活された「曽根崎」は二代目鴈治郎によるものですが、実は二代目鴈治郎の芸風は父親(初代鴈治郎)の芸を素直に継いでおらぬのです。これは二代目と初代がうまく行っていなかったということではなく、上方の芸の受け渡しという ものがそういう在り方であったのです。初代はどんなに人に勧められても「そんなことしてもガンジロウの偽物ができるだけだす」と言って自分のやり方を息子に決して教えませんでした。ですから二代目鴈治郎の芸風は、父親のやり方を基本にしながらも・延若の影響が意外と強いものだった言われています。その点を考えれば徳兵衛を復活したのが初代ではなく・二代目鴈治郎であったこともなるほどと納得できるものがあると思います。(この稿つづく)

(H21・10・5)


○平成21年6月歌舞伎座:「女殺油地獄」・その1

現代では近松門左衛門と言えば江戸時代最高の戯曲作家としてその名を知らぬ者はありません。人気も高くて近松が芝居に掛かれば満員間違いありません。もちろん江戸時代も近松の評価は 相当なものでした。しかし、江戸時代も終わりになった頃の歌舞伎では近松で上演されるものは限られており、しかも・もっぱら改作物に拠ることが多かったのです。近松の盛名はオリジナルの上演ではなく・もっぱら改作で維持されてきたとさえ言えます。例えば現代では人気作である「曽根崎心中」はずっと上演が絶えていて、歌舞伎で上演されたのは昭和28年8月新橋演舞場の二代目鴈治郎(徳兵衛)と二代目扇雀(お初)による上演が久しぶりのことでした。ただし宇野信夫による脚色は紀海音による改作を下敷きにしたものではありますが。現代では「女殺油地獄」は評価がとても高いですが、この作品が人気になるのは明治42年10月大坂朝日座 で二代目延若(与兵衛)と二代目魁車(お吉)の舞台が評判になって以後のことになります。これは文楽でも状況はほとんど同じで・江戸時代には両作品の上演は初演以来絶えていました。これはどういうことか・その辺の事情 をちょっと考えてみたいのです。

近松門左衛門が人形浄瑠璃(文楽)に専念する以前に歌舞伎で提携したのが初代坂田藤十郎であったことはご存知の通りです。藤十郎の上方和事は江戸の初代団十郎の荒事とならんで・ 元禄期の演技様式として歴史的にとても重要であり、同時にそれは近松と切っても切れない関係にあるものでした。しかし、現代では藤十郎が演じた上方和事の作品群は廃絶して、「廓文章」の伊左衛門や「河庄」の治兵衛などの演技にその痕跡を見るに過ぎません。歌舞伎の解説書などによく書いてあるポイントは、藤十郎の代表的な上方和事は傾城買いであったこと・そこに「やつし」の味わいがあったということです。「やつし」とは主人公が落ちぶれて・本来の身分を想像できない哀れな姿で登場し・人々の同情を誘う演技を指すとされています。それはもちろん間違いではありませんが、しかし、それは現代の歌舞伎の「廓文章」や「河庄」の舞台を見て ・そこから和事を規定するからそのような限定的なイメージになるのです。上方和事の本質をもう少し枠を拡げて考えれば、藤十郎の上方和事がどういう形で次代に受け継がれ・役柄や演目が発展していったかが分かると思います。

別稿「和事芸の起源」では折口信夫の「誣(し)い物語」の考察から、初期の歌舞伎のシリアスな役どころにおいて・「誣いる要素」を中和するために滑稽味や諧謔味が必要であったということを考察しました。どこまでも真面目であるべき和事の役柄が三枚目的な部分を兼ね備えてこそ一人前であるということになるのです。ですから和事の芸を滑稽な三枚目的要素・あるいはナヨナヨヒョロヒョロした弱々しさに見ようとする傾向が現代ではどうしても強いのですが、本当はシリアスな要素の方に和事の本質を見るべきなのです。折口は次のようなことを言っています。

『吉田屋主人の喜左衛門は、戸板(康二)君の意見と逆になるが、私は立敵のような人がいいと思う。大阪では荒治郎という人がなかなか良かった。女房が夕霧の話をするのを、ちょっととめるところがあった。仲をせくというほどではなくても、そんな気分が喜左衛門のどこかにあるのだ。それが本当だと思う。私は子供の時見て、その感じが分かった。鴈治郎(初代)が伊左衛門だと、梅玉(二代目)の喜左衛門は、どうしてもいたわるようなところがあったが、あれだけの茶屋の主人なのだから、毅然としたところを持っていた方がいい。訥子では格も違うが、話にならないね。私は立敵風の役を伊左衛門と対照させたい。』(戸板康二:「折口信夫座談」)

折口信夫:戸板康二編・折口信夫坐談

伊左衛門の「恋も誠も世にあるうち」とか「七百貫目の借金負ってビクともいたさぬ伊左衛門」という台詞に伊左衛門という大阪商人の意気地が出ているのです。伊左衛門から そのような強い性格を引き出すために、吉田屋喜左衛門を立敵風に仕立てて・客を冷たくあしらうようにしなければならぬと折口は言うのです。舞台の伊左衛門を見ていると・苦労をまったく知らな い大店のボンボンで・ちょっと頭の方も弱そうな感じがしますから意気地ということがピンと来ませんし、それだと三枚目との兼ね合いが難しいと思うかも知れませんが、意気地がごく自然な形でやんわり出るのが上方和事なのです。ですから伊左衛門のじゃらじゃらした阿呆ボンぶりだけが上方和事だと思うと「やつし」のシリアスな要素を見落とします。

しかし、現実には藤十郎の上方和事あるいは「やつし」は技芸としては、もっぱら哀れとか滑稽という側面・ナヨナヨとした弱い印象によってのみ捉えられて、以後の歌舞伎に受け継がれたことは事実です。その典型 が「つっころばし」の芸で、例えば「双蝶々曲輪日記・角力場」の与五郎です。この与五郎のイメージを伊左衛門に移して処理すれば・現代の歌舞伎の舞台で見られる伊左衛門になるわけです。 (この稿つづく)

(H21・9・25)


停滞・衰退の時代

18世紀の江戸時代は、創成期である17世紀や激動期である19世紀と比べて、華やかな元禄文化・天明期の戯作や浮世絵の隆盛など、繁栄や成熟というイメージで語られることが多いと思います。こうした見方からすれば18世紀が最も江戸時代らしい時期だったということになります。しかし、人口増加や耕地拡大といった経済的側面から見ると18世紀の江戸時代は明らかに停滞期でした。実は18世紀の日本は天候不順による飢饉・噴火・地震などが多かった時代でした。倉地克直先生は「 全集 日本の歴史・11・徳川社会のゆらぎ」(小学館)のまえがきでそのように書いています。江戸時代は戦乱のない平和な時代が200年以上も続いた稀有な時代でした。そこに徳川の政治システムが機能したことも事実としてはあるでしょうが、社会のなかに結果として組織体維持に向けて恒常的に内的緊張を強い た要因があったに違いありません。倉地先生はその要因のひとつとして「天災・災害との闘い」があったと推察しています。

徳川社会のゆらぎ (全集 日本の歴史 11)(倉地克直著)

これは吉之助にはとても示唆ある指摘でした。確かに日本人の体格の推移を歴史的に分析してみると、日本人が最も体格が貧弱だったのはこの時期なのです。つまり栄養事情がとても悪かったということです。しかし、この時期がまさに江戸時代のメインであるわけですし・日本人の社会倫理道徳などはここで根本が固まっていることを思えば、18世紀が停滞・衰退の時代であったということはそのことを考えるうえでの重要なキーポイントとなると思います。歌舞伎史を考えるうえでも、18世紀(ちなみに元禄14年が西暦1701年・寛政12年が1800年となる)の江戸時代は町民文化の隆盛が大波小波はあっても続くというイメージになり勝ちですが、18世紀の歌舞伎に停滞・あるいは衰退という側面を取り込む必要があると思っています。もちろん技術的な停滞のことを言っているのではありません。経済的なことで言えば上方経済が衰退して・江戸へ経済の中心が次第に移っていく。狂言作者や役者が江戸へ次々と引き抜かれていくということになりますが、社会的・経済的な停滞という要素(あるいは気分)が町民文化にどのような影響を与えたかという内的な問題がとても大事になると思います。「揺らぎ」ということはどっちつかずの・緩慢なフラストレーションが恒常的に続くという状況を言います。ひとつ思いつきで挙げますと、これはおそらくビーダーマイヤー的な風潮を生むであろうと思います。その結果として・これは19世紀のことになりますが・文化文政期(1804〜29年)の鶴屋南北の生世話の芝居に続くと思います。このことを現在連載中の「歌舞伎とオペラ」のなかに取り入れても良いのですけれど、まあこのことは別の機会に考察することにします。いずれにせよ歌舞伎の歴史を考える時に社会的・経済的な側面も併せて考えることはとても興味深いことだと思いますねえ。

(H21・9・22)


○語る演技

『私の作品に一番影響を与えているのは、おとぎ話、つまり物語を声に出して語り伝える伝統だと思う。グリム兄弟、千一夜物語、子供に読んで聞かせる類の物語だ。いわば語りの骨子だけで出来ていて、細部はろくにないのに、膨大な情報がわずかな時間にわずかな言葉で伝達される。おとぎ話が証明しているのは、おそらく、読み手に、あるいは聴き手に物語を語っている読み手や聴き手自身だということだろう・テクストは想像力のスプリングボードにすぎない。「昔むかし、ある女の子が、大きな森のはじっこでお母さんと暮らしていました」。少女の顔立ちも、家の色も分からないし、お母さんは背が低いか高いか、太っているかやせているかも分からない。分からないことだらけだ。だが、そうしたことを我々の頭は空白のままにしておかない。自分で細かい点を埋め、みずからの記憶や体験に基づいてイメージを創る。だからこそ、この手の物語は、我々のなかでこれほど深く反響する。聴き手が物語に積極的に参加するんだ。』(ポール・オースター:インタビュー(1992年)〜「空腹の技法」)

ポール・オースター:空腹の技法

アメリカの作家オースターは語りの文学にとても興味を持っていて、ラジオで視聴者から投稿された短い実話を選んで・これをオースター自身が朗読するという番組をやっていました。この番組でオースターが選んだアメリカ庶民の実話集は「ナショナル・ストーリー・プロジェクト」という本になっています 。そういえばその昔やはり読者の投稿を俳優の野沢那智が読む深夜放送があったのを思い出しましたが、こんな感じであったかなあ。(この番組を知っている方は50代ということになりますねえ。)奇想天外そうな話でも「実話」というところが味噌なのですが、もちろんプロの書き手の物語の場合はその作り話に聴き手はわざと騙されに行って・その真実味に感じ入るということになるわけです。しかし、語られる筋(ストーリー)ということでは素人の投稿も・プロの作品もその作り出す効果に変りはありません。 特に大事なのは語られる・音声によって描かれるイメージということです。オースターは「自分の小説は語るというレベルを大事にしたい」という意味のことを言っていますが、なるほど「物語り」の原点は語り聞かせるという行為・筋を紡ぎ出す語り手と聴き手の関係にあるわけです。

オースター:ポール・オースターが朗読する ナショナル・ストーリー・プロジェクト(CD付き)

これは芝居の場合でも似たことが言えるかと思います。芝居の方が朗読よりも視覚など他の要素が間に割って入るので事情がずっと複雑ですが、シンプルに煎じ詰めれば筋(ストーリー)の介在者(インタープリター)としての役者と観客の関係ということになります。芝居のなかの「物語り」ということが端的に問われるのは「ひとり芝居」です。しかし、歌舞伎だけのことではないですけれども、最近の芝居はそのような原点が忘れられ勝ちかも知れませんねえ。歌舞伎の義太夫狂言などは語り物の義太夫節から発しているのですから・まさに「語る演技」に立脚しているわけですが、 現行の舞台には何と言いますか・どこか「人形でなくて本物(生身の人間)が演じているのだからこれこそが真実さ」みたいな傲慢な感じなしとしません。「語る演技」って大事ではないでしょうかねえ。

(H21・9・18)


○平成21年2月歌舞伎座:「三人吉三巴白浪」〜大川端庚申塚の場・その4

三人の吉三郎の出会いの場面は世話の「鞘当」みたいなものですから・感触はどうしても様式の方へ傾きますが、そこはやはり世話場ですから基本は写実です。しかし、写実というのは玉三郎のお嬢のように台詞をバラ描きに言えばそれで写実の表現になるというものではないのです。「大川端」だけではなく・ 黙阿弥のどの作品にも、世話のなかに時代の影がフッと射す・あるいは時代掛かった場面において世話の風がサッと吹くという場面があるはずです。黙阿弥物は時代と世話に絶えず揺れており、時にそれがどちらかに大きく揺れることがあります。それは「揺れ」ですから・一旦時代の方に大きく振れたら、今度は世話の方に揺り戻す力が内的に働くものです。だから黙阿弥物がひと色に染まるということは決してありません。別稿「アジタートなリズム」において、黙阿弥の七五調はその揺れるリズムのなかに世話と時代の要素の揺れる要素を持っていることについて考察しました。黙阿弥の七五調は「七」(早く)の部分が時代の要素が強く・「五」(遅く)の部分が世話の要素が強いと言えます。この七五調の性質を利用すれば、「七」の部分にウェイトを置いて・そこを通常の感覚より若干テンポ遅めにたっぷりと言えば時代をより強くすることができ、そこを戻して・「五」の部分をテンポ早めてサラリと言えば世話をより強くすることができるのです。そうやって台詞のなかに世話と時代の揺れの濃淡を大胆に付けていく。それで芝居の局面を時代に・あるいは世話に変化させることができるのです。逆に言えば、だから部分の色調が揺れても・全体としては七五調の様式感を維持することができるのです。こ の技術が大事なポイントです。

しかし、現行のダラダラ調は一音符一語の二拍子が基本のリズムですから・このように台詞の微妙な緩急をつけて・台詞に時代と世話の色調を微妙に変化させるなんて芸当ができないでしょう。現代の黙阿弥物が単調に感じられるのはそのせいです。染五郎のお坊の七五調は適度に音楽的な抑揚がついており、その意味で素直なダラダラ調だと言えます。例えばお坊がお嬢に向かって「にいさん、ちょっと待ってもらいたい」と言う時、この台詞はお坊の第一声で・役の印象 を作るのに第一声はとても大事なのですが、ダラダラ調で言うと末尾が伸びた感じに聞こえて・様式的な時代の感覚が強くなってしまいます。これでお坊の性格が決まっちゃ うわけです。ここで写実の感触を強くするには「・・もらいたい」の部分を若干詰めることです。たったそれだけのことでお坊は世話の役になります。このような些細なことの積み重ねで「様式的かつ写実」の芝居が出来上がるわけです。

松緑の和尚の七五調はどこか亡父・初代辰之助(三代目松緑)の口跡を思い出させるところがあって、その意味で懐かしいところがあります。吉之助が歌舞伎を見始めた昭和50年代の歌舞伎の黙阿弥物はすでにダラダラ調全盛でしたが、辰之助はその風潮に反抗するが如くにキビキビした早めの調子で七五調をしゃべったもので、菊五郎劇団のなかでも異色の存在でした。ただし辰之助の場合も基調は二拍子で・台詞に緩急が付いていたわけではないので、やはりリズムの単調さは否めませんでした。むしろ辰之助の台詞術は新歌舞伎の役柄でひときわ光ったものでしたが、それは辰之助の台詞のリズム感覚が二拍子の急き立てる感覚を持っていたからです。(これについては別稿「左団次劇の様式」を参照ください。)話を松緑の七五調に戻しますと、松緑の早めのテンポで抑揚をあまり加えない口調は、最初に耳にした時はサッパリとした写実の口調に聞こえるかも知れません。ただし、それは最初だけのことで、その台詞をしばらく聞けばリズムの単調さにすぐ気が付くはずです。表面的な感触は違うようでもダラダラ調の範疇を越えていないことが明らかなのです。テンポを速めただけで写実の表現になるわけではありません。

まあ「様式的に写実せよ」と言うのは、様式と写実・それ自体が相反した要素を含んだ命題ですから難しいのはごもっともだと思います。しかし、「様式的に写実する」ことができないと黙阿弥物は成立しないのです。そのためには黙阿弥物には世話と時代の揺れがあるということがまず理解されなければなりませんね。もしかしたら「三人吉三・大川端」は現代の歌舞伎役者にはもっとも難しい演目なのかも知れません。

(H21・9・13)


○平成21年2月歌舞伎座:「三人吉三巴白浪」〜大川端庚申塚の場・その3

今回(平成21年2月歌舞伎座)の「三人吉三・大川端」 ですが、三人の吉三郎が三者三様にそれぞれの七五調をしゃべっていて・様式の統一感など眼中に無きが如しという・まことに不思議な舞台です。そのなかで特に玉三郎のお嬢吉三は問題が多いように思われます。玉三郎のお嬢 は平成16年2月歌舞伎座が初役で・これについては別稿にて触れましたからそちらをご覧いただきたいですが、今回はあれこれ考え過ぎで・初役の時より随分と崩れた感じになりました。もしかしたら玉三郎は「三人吉三」は写実の世話物でもあるから台詞にリアルな感覚を持たせたいし・その一方で様式的な美しさも欲しいし・いろいろ役作りを試行錯誤した挙句何だか良く分からなくなってしまったかなと も思えるお嬢なのです。

ひとつはおとせを騙る間の娘を装っているお嬢、二つ目は「月も朧に白魚の・・・」とツラネを語るお嬢、三つ目はお坊に男の正体を見極められてからのお嬢、玉三郎のお嬢ではこの三つの局面の調子(声の調子だけでなく・役全体の雰囲気も)がバラバラになっています。この三つは 決してバラバラになってはならず・ひとりの人物の三つの側面という様相を見せて欲しいのです。ちなみに「月も朧に白魚の・・・」は本来は世話の長台詞というべきですが・ツラネの様式を取り入れたものですから・ここでは世間で言われる通りにツラネと呼ぶことにしますが、玉三郎のツラネは早めでサラサラですが・ これはまあいつもの調子の七五調(要するにダラダラ調)です。これがお坊・和尚との会話になると、一転してバラ描きで(散文調にパサパサとした調子で投げるように)言うとまるで七五調の 面白さが出てきません。もともと太い声質でないのに・無理して太い男声を作ろうとしているのも不自然に感じます。まあ現行の歌舞伎の解釈では男性が女性を騙る技巧ということで・ひとつめと二つ目は分ける考え方であろうと思います。そこは解釈に拠るということで・この場は譲りますが、二つ目と三つ目で調子をあれほどガラリと変えるのは問題があると思います。一応玉三郎の立場に立って考えれば、ツラネはお約束であるからいつもの通りに言うが、会話の場面は様式的な陳腐さに陥らないようにして・写実で意味のある会話にしたいという意図ということかも知れません。確かにそれも分からないこともないですが、お嬢が「月も朧に白魚の・・・」と言う時・そこで既に彼の男性が完全に顕れているのですから、二つ目と三つ目の局面をガラリと切り替えるのは役の解釈としてやはり無理があると思います。ツラネというものが「歌う」という時代の要素を持つ(この場面の勘所としてここは譲れない)のですから、時代(歌う要素)を基調にして・そのなかにどうやって写実(世話)の感覚を入れていくかという方向で役に筋を通して欲しいのです。事実・後半の三人の吉三郎の応酬は「鞘当」の不破名古屋のかぶき者のドラマに似て・江戸の盗賊(彼らは幕末のかぶき者なのです)の男気を見せる芝居掛かった場面なのですから、全体が時代(様式)の方に寄るのは仕方ないところです。しかし、もちろん「大川端」は世話場ですから写実(世話)を意識しなければならないのは当然です。もう一度言いますと・本来写実というのは真実を映すものですが、この場の真実とは「美しいお嬢さんが実は男性で盗賊であった」というグロテスクで歪んだ真実なのであり、それは世話に相応しくない要素ですから・時代の感覚になるということです。それでは写実(世話)が表現すべきものは何かと言えば、それは三人の吉三郎が見掛けはツッパっていても・実はその裏にナイーヴな感性を持ちつつ必死で生きている若者たちであるという真実です。ですからお嬢吉三は・声の調子だけでなく役全体の雰囲気として時代(歌う要素)を基調にしつつ・絶えず写実(世話)の方向へ行きつ戻りつする感覚が欲しかったなあと思うのですねえ。玉三郎は性のチャンネルの切り替えのことを意識し過ぎに思われます。そういうことは吉之助にとっては二の次で良ろしいのです。

(H21・9・11)


○平成21年2月歌舞伎座:「三人吉三巴白浪」〜大川端庚申塚の場・その2

ブレヒトは「普通の会話・高められた会話・歌唱という三つの要素は分離しなければならない」ということを言っていますが、まあこれは芸術上の立場によっても違ってくるでしょう。ブレヒトと同時代の人気オペレッタ作曲家であったカールマンの代表作「伯爵令嬢マリッツァ」や「チェルダッシュの女王」のクライマックス・シーンでは台詞から歌唱へ切れ目なく移行し・芝居と音楽が渾然一体となっており、まさに現実と夢が交錯する音楽劇になっています。 例えば令嬢マリッツァとタシロ伯爵が歌う第3幕の二重唱「ハイと言って頂戴」を挙げておきましょうか。これなど恐らくブレヒトが最も嫌う形態でしょうが、写実と様式の揺れという点で実に興味深く・かつ魅力的な実例なのです。しかし、ブレヒトが目指すところはまったく逆の手法によって、様式としてのソングを ドラマと連関なく・切り取った絵のように提示してみせることで逆説的に芝居(ドラマ)のリアルさを際立たせようという意図であると思います。つまりブレヒトのスタンスとしては写実の芝居の方に重点があるのです。西欧においても「三文オペラ」を芝居とするか・オペラと分類するかについては見方が分かれるところですが、実際ブレヒト・ソングは役者が素人っぽく歌った方が面白味があって 、節の付いた台詞というような感じで歌う方が良ろしいようです。(別稿「音楽ノート・三文オペラ」を参照ください。)ブレヒトにとってソングが必要であったというより 、歌うという反演劇的行為が必要であったということでしょう。

そこで「三人吉三・大川端」に話を戻すと、この芝居は世話狂言ですから・基本スタンスは当然ながら写実(世話)に置きます。写実の芝居のなかにツラネという様式(時代)の要素が入り込んでくるそのギャップが面白いのです。それならばお嬢吉三の「月も朧に白魚の・・・」という長台詞は大時代に朗々と歌うべきでしょうか。吉之助はそうではないと思いますねえ。この芝居は世話の地狂言(台詞劇)なのですから、ツラネとしての様式的な要素があり・また独白でもあるから時代の感覚はあるにしても、やはりこの台詞の基本は写実であるべきなのです。ではどこで時代の要素を出すのかと言えば、それは美しい娘だと思って見ていたはずが実はそれが男性であり・しかも盗賊であったという衝撃(ショック)ということです。お嬢さまが男性であったという真実・つまり世話においては 本来的に自然であるべき「真実」という要素が、ここでは歪んでグロテスクなものである。この逆転した感覚が黙阿弥の仕掛けなのです。この場面においてはシチュエーション自体がすでに十分に時代の感触なのですから・そのように段取りをしっかりと取るべきで、台詞は写実に重きを置く方が時代を際立たせることになり・ドラマ的に正しいということが分かると思います。つまりお汁粉の甘味を引き立てるために食塩をちょっぴり加えるのと同じことです。またその方がこの後の三人の吉三郎がぶつかる場面にもスムーズにつながります。台詞を様式的に歌うことは捻じれたバロック的な感覚をかえって嘘事・絵空事にすると思います。

ですから「大川端」の場合はお嬢が庚申丸で人を追い払った後・川端に向かって歩いて決まり・「月も朧に白魚の・・・」という台詞を発し始めるまでの段取りに十分な間合いを取って欲しいのです。例えば「楼門五三桐」で楼門上の五右衛門が観客席を眺めながら・十分な間合いあって・ゆっくりと「絶景かな絶景かな・・」と言います。それは五右衛門が眼前に咲き誇る満開の桜を見ている思い入れであるわけですが、これに似た間合いが欲しいと思います。もちろん「大川端」は世話場ですから「楼門」ほどの大時代ではないにせよ・お嬢が眼前に川面に映る月の光の揺らめきに思わず詩心を湧き上がらせる・そのような間合いが欲しいのです。その間合いの感触が時代に似るのです。そうすると「月も朧に白魚の・・・」の七五調の写実(世話)のリズムが生きてくるのです。

(H21・9・3)


○平成21年2月歌舞伎座:「三人吉三巴白浪」〜大川端庚申塚の場

「三人吉三」のようなお芝居は本来は通し上演でやるべきもので・「大川端」だけの見取り上演は好ましいことと思いませんが、それだけ現代の観客には「三人吉三」の因果のドラマが実感として受け入れにくい・通し上演であると特におとせと十三郎の件が暗くてやり切れないということなのでしょう。「大川端」の場だけなら三人の吉三郎のアウトローの魅力でレビュー感覚で楽しめるということかと思います。まあそれも分からぬことはありませんが、それならば「大川端」は吉之助としてはお嬢吉三の名台詞「月も朧に白魚の・・・」をどう際立たせるかということを指標に置いて舞台を見たいものです。ベルトルト・ブレヒトは「三文オペラへの註」のなかで、ソングについてこう書いています。

『歌を歌うことで、俳優はひとつの機能転換を行なう。俳優が普通の会話から無意識のうちに歌に移っていったような振りを見せるほどいやらしいことはない。普通の会話・高められた会話・歌唱という三つの平面は、いつもはっきりと分離されねばならない。高められた会話が普通の会話のたかまりであったりしては決していけないのだ。』(ブレヒト:「三文オペラへの註」〜ソングを歌うことについて)

ブレヒト:三文オペラ (岩波文庫)

「普通の会話・高められた会話・歌唱という三つの要素をはっきりと分離しなければならない」ということをブレヒトは言っていますが、これは芝居とミュージカル(あるいはオペラ)との中間である「三文オペラ」においては・どっち付かずという印象を観客に与えてはならぬということです。 写実の台詞・様式のソングの亀裂を観客に突きつけることで、それぞれの特質を際立たせるのです。同じことがお嬢吉三のツラネ「月も朧に白魚の・・・」にも言えます。「大川端」だけの見取り上演ならばなおさらのことです。そのツラネは状況から切り離された詩として語られなければならぬと思います。それは間違いなく台詞ではありますが、ドラマの機能としてはブレヒトのソングに実によく似ています。

お嬢のツラネ「月も朧に白魚の・・・」には静かに流れる隅田川の 川面にユラユラと揺れる月の光の揺らめきが感じられます。お嬢吉三はその直前におとせから百両の金を奪い・彼女を川に突き落とし、さらに刀(庚申丸)を振り上げて・周囲の人を追い払い(ただし残された駕籠のなかにお坊吉三がいることにお嬢は気が付いてはいませんが)誰もいない状況で月の光を浴びながら詩心を刺激されたのか・ゆったりとした気分で台詞を言うのです。ですから「月も朧に白魚の・・・」という文句がお嬢の口からこぼれ始めるまでにしっかりとした段取りが欲しいと思います。 そしてコーンと鐘が鳴った瞬間に舞台の空気が写実から様式にパッと切り替わる・そういう乖離感覚が欲しいのです。これは今回の玉三郎のお嬢に限ったことではありませんが、今回もその点が十分とは言えません。いつも思うことですが、手順が慌しくて・お嬢のなかに詩心が十分に見えてこないうちに・お定まりの台詞に入るという感覚なのです。但し書きを付けますと、お嬢のなかに詩心が見えるかどうかという問題は・ブレヒトが言う「普通の会話の高められたもの」ということではなくて、もっとワープしたところの・次元が違う言葉としてツラネはあるということなのです。

もうひとつ指摘しておきたいことは、玉三郎のお嬢は上を見て・つまり空に浮かぶ月を見てツラネを言っている心持ちに見えるということです。(注:これは平成16年2月歌舞伎座で玉三郎がお嬢吉三を初役で演じた時もそうで した。)これは吉之助は下を見てツラネを言って欲しいなあと思いますねえ。隅田川の川面に光る月を見て欲しいのです。川面に映える月の光の揺らめきのなかに詩があるからです。「月も朧に白魚の・・・」の七五調の台詞のリズムは月の光の揺らめきの美しさ・それを見たお嬢吉三の感動から生まれています。その台詞のリズムよってお嬢の目のなかに映る月の光の揺らめきが観客に伝えることが出来るはずです。吉之助は「月も朧に白魚の・・・」の台詞によって黙阿弥の七五調の様式が完成したと考えています。それは西洋音楽のバルカローレ(舟歌)に共通した揺れるリズムなのです。(別稿「アジタートなリズム・黙阿弥の七五調」をご参照ください。)

(H21・9・1)


○平成21年8月歌舞伎座:「天保遊侠録」

本作は昭和13年東京劇場で二代目左団次が初演した真山青果の新歌舞伎ですが、今回上演されたのはその3幕仕立てのうちの序幕のみです。いわば見取りということですが、こういう場合は全幕上演の時とは違った芝居のバランスを組み立てなければならぬと思います。幕切れに向けて・前半の段取りをしっかり組み立てて「読みきり」になるようにバランスを整えて欲しいのです。上野介らの横暴な振る舞いに小吉が怒って「石高の多い少ないで人の価値は決まるものではない」と言うのは大事な台詞です 。しかし、実は小吉は「人間はみな平等だ」という人権意識で怒っているわけではないのです。「俺は俺だ」という意識は確かにあるのですが、まあ言ってみれば小身者のちょっと卑屈で僻んだところのプライドなのです。それは人権意識というところまでは行きません。現代の観客は「人間はみな平等」は当たり前だと思って見ますから気が付きにくいですが、幕末の小吉にその意識は まだないのです。それは明治以後のこと。しかし、橋之助(小吉)・勘太郎(庄之助)を見ていると人権意識がはっきりあるようですねえ。だから「石高の多い少ないで人の価値は決まるものではない」という主張がことさらに強く出ますが、そこのところを抑えて・捻った形で出してみたいものです。この芝居のバランスを考える時にはまずそこがポイントとなります。

一方、麟太郎は小吉の扱われ方やその喧嘩騒動を陰から見て・御殿に召し出されることを承諾するわけですが、麟太郎には明確ではなくても人権意識・身分制度に対する素朴な疑問がすでにあると見て良いのです。それは麟太郎が神童であり・未来の子供であるからです。小吉と麟太郎の間に、封建社会に生きる人間とこれから近代社会に生きていく人間の違いが見えてくれば良いなあと思います。そこに青果の社会的な視点があるのです。今回のこの幕切れのように大事の息子・麟太郎が御殿で召されてしまうのを主人公・小吉がトンビに油揚げをさらわれたような顔をして「まっ、仕方ないか」という感じで醒めて見上げているようでは・どうも小吉の心情が迫って来ません。小身者の悲哀が我が身にツーンと来てちょっと泣きたくなるという幕切れにしてもらいたいのだなあ。そうすると幕切れで「何だい、あんたらしくもない。まあ私のところで酒でもお飲みなさいよ。私が慰めてあげるからさ。」という感じで芸者八重次の存在が生きてくるのですがね。

それは橋之助・勘太郎らの台詞回しに新歌舞伎らしいリズムが不足するせいでもあります。それは前述のポイントとも密接に関連します。台詞が新歌舞伎のフォルムを取れていないために軽い印象となり、それが芝居前半が幕切れと釣り合いが取れないことの遠因になっています。ということは幕切れ近くに萬次郎の阿茶の局が登場すると見違えるほど芝居がグッと引き締まることから分かります。萬次郎 は台詞のリズムがしっかりと取れて新歌舞伎になっていて・さすがと言うべきですが、逆に言うと芝居前半は賑やかでテンポが良いように見えるけれど・実は芝居として「軽い」ということなのです。橋之助・勘太郎らの台詞回しはテレビの時代劇ならばそれなりのもので決して悪くはないものですが、新歌舞伎の台詞とは言えません。それが芝居として軽い印象を生んでいるのです。本作が二代目左団次の初演であることをお忘れなきように。この芝居は歌舞伎なのです。新歌舞伎のリズムがどういうものかは「左団次劇の様式」をお読みいただきたいですが、幕末の身分社会のなかで誰もが憤懣を感じて・窮屈な思いをして生きているイライラ感がその緩慢なリズムのなかに現れます。それは小吉や庄之助の境遇を体現するリズムなのです。橋之助・勘太郎らが前半でしっかりと新歌舞伎のリズムが取れていれば・芝居のバランスはかなり良くなったはずです。

(H21・8・21)


○伝統芸能の古典化の要件

別稿「渡辺保著:江戸演劇史」の感想のなかで「古典劇」の概念について触れましたが、吉之助が伝統芸能の古典化の要件についてどう考えるか・ちょっと書いておきます。それは簡単なことです。 理念化と権威化ということです。つまり、端的に言えば「これは昔から伝わる誰某の秘伝でかくいう結構なご利益がある」というような高尚な理屈を並べて権威付けをして 観客を有難がらせるということです。もちろん屁理屈を並べ立てているだけでは駄目で、実質を伴って高尚化(芸術化)していかないとその芸能はホントに消えてしまいますけどね。しかし、芸能の古典化ということの本質はそこにあるのです。時代と乖離し・その居場所を失う危機を感じた芸能は自らを理念化・権威化することで、時代における位置を確保しようとするのです。

能楽は幕府の式楽となり・他の芸能を見下すことで、自らを権威化しました。それによって能楽者は結構な位置を得たのです。しかし、明治維新になって・権威と言ってもそれは確固としたものでなかったことを能楽者たちは思い知ることになります。理念化についてはどうであったでしょうか。吉之助は江戸時代の能楽についてまだ十分な知識を得てはいませんが、世阿弥の「花伝書」などが発見されたのは明治以後であったことは押さえておかねばならないと思います。歌舞伎では七代目団十郎の歌舞伎十八番の制定は確かに権威志向の現象であることを認めないわけではないですが、これが実質的に実を結ぶのは九代目団十郎以後・やはり明治20年(1887)の天覧歌舞伎以後のことです。

江戸演劇のなかに理念化と権威化の要素が萌芽としてあったことは確かに認められます。それは江戸時代という時代自体がそのような理念化と権威化の時代であったからです。例えば武士は本来武芸者であり戦闘者であったのですが、平和な時代の官僚(テクノクラート)にはそんな殺伐とした武芸はもはや必要ではなく、むしろ読み書き・算盤・社交術・作法 ・礼法そんなものが武士に求められたのです。そのような時代に「武士はどうあるべきか」ということを考えた時に、武士道は理念化せざるを得ない。またそれによって武士は支配階級としての権威付けをし・理論武装したとも言えるのです。ということはお分かりの通り、理念化と権威化ということは江戸という時代の在り方そのものに深く関連する事項なのです。芸ごとで言えば、家元制度などもその範疇に入ります。歌舞伎がそのような理念化と権威化の要素を内部に持ちつつ・江戸時代に古典化しなかったのは、歌舞伎役者が河原者として士農工商の埒外に置かれ・絶えず差別を受けてきたこと が大きな要因 としてありました。差別されている限りは権威化などと叫んでみたところで誰も認めないのですから無駄だったということです。明治維新になって身分制度の重しが取れた時に歌舞伎役者が権威化に走ったのは、これはまあその反動であったと も言えます。歌舞伎の古典化という問題を論じる時に、そこのところはしっかり押さえておきたいと思います。

明治維新後・明治4年(1871年)に断髪令が出された時、能狂言役者はいっせいに散切り頭になり・これ以後の能狂言は現在もその成りで演じられていることはご承知の通りです。しかし、歌舞伎役者はチョン髷を捨てませんでした。確かに歌舞伎とチョン髷はイメージ的に切り離せません。そこに歌舞伎の限界があるのです。こ のことは歌舞伎は江戸に殉じたということを意味するのです。その後も散切り狂言とか活歴とかいろいろ試みはありましたが、この時以後に歌舞伎は時代との乖離を明確に見せ始めます。ですから歌舞伎における理念化ということが現実の問題となるのも明治以後のことです。この点も押さえておきたいと思います。

以上のことから江戸演劇の古典化ということを考えるならば、やはり明治以後のことをしっかり論じておきたいと吉之助は思います。渡辺先生には「江戸演劇史」のエピローグ(明治以後)を是非お願いしたいところですねえ。

(H21・8・5)


○渡辺保著:「江戸演劇史」

渡辺保先生の大作「江戸演劇史」が出版されましたので、ざっと目を通しました。題名は「江戸演劇史」ですが、内容は歌舞伎が中心で、まあ補完する感じで他ジャンルが触れられているというところです。通史を書く場合に一番大事なのは「時代区分」のセンスであると思います。それは江戸時代とか元禄時代とかいった区分 とはちょっと別なもので、また場合によっては地域区分にも捉われることなく、或る時期をひとつの歴史の流れのイメージで大まかに括って見せることです。その切り口によって歴史はその様相をさまざまに変えて見せます。通史を書くことの面白さはそこにあると思いますが、渡辺先生の意図は「あとがき」にもある通り、「史実をただ羅列するだけではつまらない・時代を象徴する人物や事件によってその時代に生きた人間の鼓動を感じさせる読み物を書きたい 」ということにあったようです。その目的はまあ達成されていると思いますが、それならば本の題名は「江戸歌舞伎物語」とでもした方が良ろしかったかも知れませんねえ。そこに通史になり切れなかったことの良さも弱さもあるようです。

ざっと読んでみて・残念なことがあります。ひとつは「江戸演劇史」だからということかも知れませんが、慶応4年(1868年)大政奉還・つまり江戸時代までで著述が終わっていることです。これは読んでみて・とても中途半端な感じがします。歌舞伎の歴史を語り始めるならば最初は四条河原での出雲のお国のかぶき踊りということで・これは都合よくたまたま慶長 8年(1603年)徳川家康が征夷大将軍に任ぜられた年から始まるのでまあ良い(これもホントはもっと前から始めたいところではあるが)としても、江戸演劇の終焉までを描き切るならば・これは当然・明治31年(1898)の二代目豊沢団平の死と明治36年(1903)の九代目団十郎の死まで引っ張らないと済まないという印象を吉之助は持ちますがねえ。さらに六代目菊五郎や二代目左団次もと言いたいところですが・まあそこまで無理は言わないとしても、少なくとも江戸演劇における黙阿弥の位置を幕末時代までで語るわけにはいかないと思います。また自ら最後の江戸人であると語った九代目団十郎の死は江戸歌舞伎の終焉を象徴する出来事としてきっちり押さえておきたいと思います。ここで 史観あるいは時代区分ということが問題になってくると思いますねえ。

もうひとつ残念なことは本の帯に「歌舞伎・能・狂言・文楽・・・日本の古典劇とは何か?」とありますが、本書のなかでそれにふさわしい「古典劇」の概念を提示できているとは どうも思えないことです。渡辺先生は「あとがき」で能も文楽も歌舞伎も実は江戸時代に古典化したと書いています。 この見解に吉之助は反対というわけでもないですが、失礼ながら本書を読む限り・渡辺先生は上演される作品や演出が限定され 固定化されてきて・観客に支持されなくなって・興行として成立しなくなってくればそれで古典化したとお考えのように思えます。これではかなり物足りない。もう少し伝統演劇における古典という問題に正面から 取り組んでいただきたいのです。結局、古典劇のイメージが本書から浮かび上がってこないのは、通史として時代区分がしっかり位置付けされていないせいなのです。その時代がどういう時代かということを規定することは・「歌舞伎とはどういう演劇か」ということを明確にすることなのです。以上残念なこと2点。それにしても大部の著述は歌舞伎の人物・事件・エピソードが要領良く並べられて・ 歌舞伎の歴史をざっと一覧するのには重宝で、そのご苦労が察せられます。

渡辺保:江戸演劇史(上) / 江戸演劇史 下

(H21・8・4)


○平成21年7月歌舞伎座:「天守物語」

吉之助の知る限り・ここ30年くらいの「天守物語」上演は玉三郎の専売かと思いますが、その劇評など近年の「天守物語」に触れた文章を読むと、富姫と図書之助の愛の清らかさ・それと対比される人間界の愚かしさという二元構図で読む傾向が相変わらず強いように思われます。まあ「天守物語」を富姫と図書之助の恋愛譚として読むことはもちろん間違いではありません。大筋としてはそんなところですし、美女役者と美男役者が演じるのだから・観客の思い入れがそんなところへ行くのも当然ではあります。しかし、富姫と図書之助が愛し合うのは何故かという「必然」にもうちょっと思いをはせてもらいたいと思うのですねえ。富姫は図書之助がいい男だから好くんですか・図書之助は富姫がいい女だから好くんですか・ということです。玉三郎の富姫は図書之助がいい男だから好くのでしょう。そのように見える富姫なのです。近年の「天守物語」について書かれた文章を読めばだいたいその線ですけれど、そのイメージは多分玉三郎の舞台から来ているのでしょう。しかし、吉之助はそれだと鏡花作品の凛としたところが弱まると思います。好いた・愛したは人間の時に言う言葉。富姫には正義と言って下さい。富姫には「あなたは正しかった」と言って下さいな・・と吉之助は思いますがねえ。それが鏡花の女だと思いますよ。三島由紀夫が次のように言っています。

『女の凛々しさとか・女の男っぽさとか、何かきりっとした感じ、ああいう美しさというのはずっと忘れられていたんだね。そして惚れた男のためには身体も張るけれども、金力・権力には絶対屈しないというイメージですね。(中略)そして弱い男に女は惚れて、女が庇護する。その弱々しい男に正義があるんですよ。』(三島由紀夫・「泉鏡花の魅力」・澁澤龍彦との対談・昭和43年11月)

このことは大事なことなのです。富姫が「来てはならぬ」というのに天守に戻ってきた図書之助を二度ならず・三度までも許すのは、富姫が図書之助に惹かれているということも確かにあるかも知れませんが、富姫として前面に出すべきは「この真っ直ぐで純粋な若者を私は護ってあげる」という 女の凛々しさなのです。富姫は惚れたからこの若者を護るのではなく、この真っ直ぐな若者を護ってやろうとしているうちに恋に落ちるのです。何故ならば富姫はその昔・あわや陵辱されようとした時に舌を噛んで自害したという高潔な女性であって、個人の尊厳を重んじ・理不尽なことを個人に迫る状況を 誰よりも憎む「正義の」女性であるからです。富姫は図書之助は「正しい」と思うから護るのです。また図書之助は富姫が自分を唯一理解してくれる存在(妖怪ですがね)だと思っているから・二度ならず三度までも天守に戻るわけです。それは図書之助が自分が不当な扱いをされたことに憤りを感じており、自分は絶対に「正しい」と信じるからです。図書之助も正義の人なのです。最後はふたりは一緒に暮らせるようになるわけですが、それは彼らが「正しかった」からです。ですから富姫と図書之助の恋愛は結果的にそうなったということです。「天守物語」を「愛が最後に勝った」と解釈するのでは鏡花にならぬと思いますねえ。

ですから「天守物語」では富姫と図書之助の恋愛の気配は最後の最後まで抑えた方がよろしいと吉之助は思います。最後に「そしてふたりはいつまでも幸せに暮らしましたとさ」で十分なのです。このことは鏡花を歌舞伎のレパートリーとして定着させていくために大事なことです。そうすれば富姫と図書之助の恋愛を大きな枠組みのなかに組み込んでいくことで・古典的な構図に納まることになるのです。 その意味でも「天守物語」の幕切れはとても大事ですが、玉三郎の演出では幕切れに天守を護る獅子頭の作者桃六の台詞がエコー処理されており、そのため幕切れの印象が散漫になって しまいました。これでは我当の台詞術も生きません。またカーテン・コールもまったく余計です。鏡花を歌舞伎に定着させることを本気で考えるならば、このようなことはせぬことです。 そのうち玉三郎は「娘二人道成寺」でもカーテン・コールをしかねないなあと・ちょっと心配だなあ。

(H21・7・27)


○アジタートなリズム

連載中の論考「アジタートなリズム〜歌舞伎の台詞のリズムを考える」は歌舞伎の様式を時代順に、元禄期の荒事・和事から幕末期の黙阿弥の七五調、そして明治・大正期の新歌舞伎 の項を先日取り上げました。歌舞伎の各時代の様式をざっと通覧し終えて、これで本筋としてはほぼ終了し・あとは締めくくりを付ければ論考完成というところまでやっとたどり着きました。本稿は「歌舞伎素人講釈」のなかでこれまでで最も長い論考となります。その次に長い論考となるのが多分「左団次劇の様式」で・これは事実上「アジタートなリズム」の続編となるものです。(続編が先に出来たというのも変な話ですが、時代的に新しい新歌舞伎の項を取り上げているからです。)そのどちらもが台詞のリズム様式論を取り上げているということです。吉之助にとってこの「台詞のリズム様式」の問題がここ数年の懸案事項で・これがずっと頭のなかでくすぶっていましたので、これで ようやくスッキリしました。

台詞のリズム様式という概念は、吉之助のなかには「歌舞伎素人講釈」を始める以前からあるもので・サイト2年目に書いた「黙阿弥の七五調の台詞術」 などがそれです。吉之助は長年クラシック音楽を聴いてきましたから、リズムに様式があることが当然の感覚としてあります。バッハにはバッハ、モーツアルトにはモーツアルト、ベートーヴェンにはベートーヴェンの固有のフォルムが確固としてあって、それは混同されてはならぬものだということです。これはクラシック音楽では常識で、作曲家それぞれのフォルムを的確に描き分けるのが演奏家の仕事とされているわけです。リズムというのは音楽のフォルムを決める重要な要素です。

だから歌舞伎を見る場合でも、役者の台詞のリズムが吉之助はとても気になります。近松には近松の、南北には南北の、黙阿弥には黙阿弥の台詞の固有のフォルムがあるはずです。ところが歌舞伎の場合は、それが「歌舞伎らしい」・「芝居らしい」という何だかよく分からない表現でひと括りにされてしまっている のです。歌舞伎らしい・芝居らしいというのはどういうことなのだろうか・と考えてみると、これが全然よく分かりません。どうやら幕末あたりの歌舞伎を獏としてイメージした手垢の付いた古臭い芝居のイメージのようです。聞き 慣れた好きな役者の言い回しを歌舞伎らしいと言っているようでもあります。しかし、歌舞伎は黙阿弥の七五調さえ正しいフォルムで表現できなくなっているのが現実ですから、「歌舞伎らしい」というのは、正しいとか正しくないかというのとあんまり関係ないよう ですねえ。 この辺が「歌舞伎ほどエロキューションに対していい加減な芸能は珍しい」と折口信夫が言うことにつながるのです。この点を歌舞伎は反省せねばならぬと思います。

吉之助が台詞のリズム様式論を「アジタートなリズム」という表題で括ったのは、歌舞伎のリズム様式の変遷は、対照させるとすれば ・それはクラシック音楽の様式変遷のごく短い時期に限定できる・すなわち19世紀ロマン派から後期ロマン派・せいぜい新ウィーン楽派の初期までがそれに相当するからです。時代的には産業革命・フランス革命以後から、20世紀に入って第1次世界大戦・ロシア革命あたりまでがそれに当たります。まあ百年か百五十年くらいの短い時期ということです。「アジタートなリズム」ではこの時期の西欧芸術が江戸芸術と対照されることになります。こういう視点を取ると歌舞伎のリズム様式は元禄 期の初代団十郎から始まって・大正期の二代目左団次までアジタートなリズムという概念を極めて狭い範囲で旋回しているということが分かると思います。「アジタート」とはロマン派のキーワードです。つまり歌舞伎というのはとてもロマン的な芸能ということになります。 このことが分かれば、近松には近松の・南北には南北の・黙阿弥には黙阿弥の台詞の固有のフォルムを解析することがとても容易になると思います。 これから演劇・あるいは文学を志す若い学生さんには研究の良いヒントになると思うので、パクッてもらって大いに結構です(著作権などと難しいことは言いません)から、どんどん追随してもらいたいものです。

実は論考「アジタートなリズム」で吉之助が目指すものは台詞のリズム様式ということではありません。リズムというものはフォルムが表層に現れる時のひとつの現象に過ぎないからです。吉之助が目指すものはそのもうちょっと先にあるのですが、まあそれは「歌舞伎素人講釈」をお読みくださる方のこれからのお楽しみです。とりあえず論考「アジタートなリズム」が完成することで、「歌舞伎素人講釈」では「かぶき的心情」・「バロック」に次いで、「アジタート」が三つ目のキーワードということになるということです。

(H21・7・20)


○平成20年11月歌舞伎座:「菅原伝授手習鑑・寺子屋」

吉之助はここ40年くらいの歌舞伎について・吉之助が生で見たすべての舞台も含みますが、全体の印象としては重めで粘り気味であると思っています。もうちょっと軽めで・テンポを早く持って写実の方に寄るのがたぶん歌舞伎の本来の味だろうと思います。こうした現代の 重めの行き方は古典化のひとつの在り方であり 、これは江戸と現代との感性的な隔たりを考えれば致し方ないところがあります。その結果・現代歌舞伎はどちらかと言えば世話物よりも時代物の方が安心して見られるということになるわけです。 それは例えば主人公の行動に対する倫理的・感性的なギャップを「これは封建時代の芝居だから仕方ない」と割り切ることで 、共感するのではなく同情することで理解するということです。共感するということは主人公の行動・感情に我が身を重ねることですが、同情するというのはそれとはちょっと違います。「・・可哀想に」と言って外側から主人公の行為を見るということです。確かにそういう鑑賞の仕方もあるのです。また時代物というのは「主人公の犠牲を他者が然りと受け取る」というのを基本構図に置くものですから、こういう他者的な観点はまあ古典的な鑑賞法であると言えないこともありません。しかし、時空を越えて江戸の人々の生き様をそこに現出させようという再現芸術の場合は、絵や文字を通して見るのと違う生(なま)な瞬間があって然るべきでしょう。そういう意味で現代の歌舞伎の時代物は「収まり過ぎ」ではないでしょうかねえ。

平成20年11月歌舞伎座の「寺子屋」の舞台は仁左衛門の松王・梅玉の源蔵の配役で一応の成果を収めています。描くものは確かに描かれ、一応のカタルシスは得られます。だからこれを平成歌舞伎の「寺子屋」とすることに別に異存はありませんが、しかし、吉之助から見ると全体の感触・特に前半が滑らか過ぎて粘って感じられます。音楽に例えればベートーヴェンのピアノ・ソナタでペダルを多用し過ぎに似ていると感じられます。ペダルを踏むとピアノの響きが消されずに残ります。正確に言えばその響きは減衰しますが、通常よりも響きの余韻がずっと長く残ります。その効果は響きが混じって微妙な色合いが作りだせることです。逆に欠点はその裏腹で・旋律のなかの微妙なタッチを埋めてしまって 、印象を滑らかに情緒的にしてしまうことです。ロマン派においてはペダルの使用が驚くべき効果を発揮 することがありますし、またそれを意図して曲が書かれてもいます。しかし、ベートーヴェンの場合にはペダルの多用は注意せねばならぬことです。ひとつにはベートーヴェンの時代のピアノは機能的にそこまで行っていなかったという考証的な言い方もできますが、ベートーヴェンでペダルを多用することは曲想を情緒的に傾け・構造の縛りを弱めることになるでしょう。これはベートーヴェンのフォルムの問題なのです。

「寺子屋」前半・源蔵戻りの梅玉ですが、源蔵に「寺子を身替わりに立てて殺すという非人間的な行為をしなければならない悲嘆は確かに感じられます。梅玉にそこの不足があろうはずはありません 。しかし、「せまじきものは宮仕え」という台詞廻しのなかに 、何だかその危機的状況に源蔵が酔っているような滑らかな響きがあります。「ジタバタしたって・小太郎斬らなきゃならないんだから」というのが 、観客も巻き込んだ前提条件になっているのです。同じことが仁左衛門の松王にも言えます。小太郎を切るように 源蔵を追い込んで行って・次に自分が首実検する段取りに行くまでの演技が実に滑らかです。その意味では確かに巧いのですが、「無礼者めッ」の見得に我が子を身替わりに差し出した親の悲劇的状況に松王が酔っているような印象があります。「私は子供を身替わりにしなければならない可哀想な親なのよ」というのが観客も巻き込んだ前提条件になっているのです。つまり源蔵・松王ともに「寺子を殺さねばならない・我が子を殺さねばならない」状況への恐怖・あるいは追い込まれたところから逆に「俺たちは生きる」という確信を得る過程が最初から消し飛んだところからこの「寺子屋」が始まっています。だから「寺子屋」後半のいろは送り ではその悲しみがそれなりの雰囲気になって現わるということも言えますが、しかし、それでは所詮観客の同情の涙を誘うだけなのです。

「せまじきものは宮仕え」という台詞は宮仕えを否定するものでは決してありません。そのせまじき行為をすることでしか宮仕えをするこの源蔵は「立たぬ」というのです。その行為のために源蔵という男があるという事が台詞に示されねばなりません。松王の「無礼者めッ」の見得は・歌舞伎の入れ事ではありますが、これも同じです。身替わりという行為は松王・小太郎の親子が自分たちのアイデンティティーを守る為の共同作戦であるということは別稿「身替わりになる者の論理」でも触れました。「無礼者めッ」の見得の意味は、松王が親の悲嘆を現してしまえば・身替わりの計略はバレてしまい・それは息子の死を無駄にするということですから、松王は首実検で我が子の首を「菅秀才の首に違いない」と冷徹に言い切らねばならない・逆に言えばそれによってしか松王・小太郎の親子が「生きる」道はないということです。ですから吉之助に言わせれば・前半の源蔵・松王が状況に追い込まれていくことの切迫感・そして最後の力を振り絞って「俺は生きるぞ」と叫ぶ熱さが欲しいのです。それを表出するにはべダルの使用は禁物です。滑らかな・レガートな表現は排除せねばなりません・前半の源蔵・松王も滑らかな要素を削ぎ落として・その演技はもっとゴツゴツした硬い感触であって欲しいと思います。

今回の「寺子屋」の舞台のなかでは藤十郎の千代だけが・唯一そのような感触を感じさせます。悲しみをグッと内に秘めて・持ちこたえていることで、身体全体から滲み出る悲しみが、我が子を殺すことで我が身が立つことの不条理を訴えています。しかし、それは単なる悲しみではなく・同時にその不条理によって小太郎 は癒されているということも藤十郎は明確に表現しています。それは藤十郎の身体を殺した・無駄のない動きから出てくるのです。「・・然り、しかし、それで良いのか」というところから時代物が始まります。

(H21・7・11)


手塚治虫のメッセージ

「作品を時代から突き放して見る」ということで・前項でマイケル・ジャクソンの例を挙げましたが、今度は手塚治虫の「鉄腕アトム」を考えてみます。「鉄腕アトム」は1963年から66年にかけて放映された日本最初の連続テレビアニメ(雑誌での連載もありました)ですが、吉之助の世代 なら誰でも多かれ少なかれその影響を受けたものです。吉之助が理系を志したのも・まあその影響はあると思います。谷川俊太郎作詞の主題歌にあるように吉之助も「ラララ科学の子」なのです。数年前にBS2で懐かしの「鉄腕アトム」一挙放送という企画がありまして・人気投票上位のものくらいは見ておこうかと思って番組をちょっと見たのですが、 その投票第2位が「青騎士の巻」というのでした。吉之助には全然記憶になかったものでしたが、これを見てとても驚きました。内容は人間たちに虐げられたロボットたちが反乱を起こして・アトムもその反乱軍に加わるというものでした。吉之助は「アトムは良い子・科学の子」のイメージが強かったので・こういう暗いストーリーを手塚治虫が子供漫画に取り入れたことを知って驚いたのと、さすがアニメ・オタクは見る視点が違うもんだと妙に感心したりしました。君たちあの当時から「青騎士」好きだなんてのは変だぞと突っ込み入れたくはなりましたが 。

そう言えば「鉄腕アトム」を思い返すと、アトムは天馬博士によって作られたロボットですが・父としての天馬博士に疎まれ・サーカスに売られた のを御茶ノ水博士に拾われたという生い立ちを持つわけです。当時の吉之助にはあまり気が付かないことでしたが、そう思えばアトムの「父喪失・虐待経験」というのはいろいろな箇所で伏線になっているようです。 「アトムは完全なロボットじゃない。なぜなら悪い心を持たないから。」というテーゼも「鉄腕アトム」の底流にずっと流れている問題です。人間に奴隷視され・酷使・虐待されるロボットという描写はあちこちに出てきます。悪役として登場するキャラクター の多くは、疎外され・社会からつまはじきにされた過去を持ち・その復讐のために悪事を働くという者です。名前を挙げても分からないと思いますが、「アトラス」・「赤い猫」・「ブラック・ルックス」などです。彼らはアトムによってやっつけられる悪者ですが、手塚治虫はそういう疎外された人物にも悲しい同情を向けるのです。その一方で「鉄腕アトム」は「アストロ・ボーイ」という題名でアメリカで放送された時にはやたらに相手のロボットを容赦なく叩き壊すので・残酷で教育上良くないと批判を浴びたもので した。こういう暴力シーンもアトムの疎外感の裏返しであったのかなあと・今にしてみれば吉之助は思うわけです。もしかしたら「良い子」のアトムは虐待から逃げるための演技なのか?そんなことはないと思いたいの ですがねえ。当時の吉之助は「ラララ科学の子」なもので「鉄腕アトム」に明るい側面しか見なかったのですが、「鉄腕アトム」に絡む手塚治虫の背景に何があったかということを考えてしまいます。やはり作品は時代から突き放して見ると見える様相が違って見え てくると思います。 「そういえばあそこはこうだった・ああだった」と色々思い出すということは、当時の吉之助にも意識してなかったけれど手塚治虫の隠された暗いメッセージが確かに届いていたということなのでしょう。そういうわけで吉之助ももはや「鉄腕アトム」を単純に「ラララ科学の子」では見れなくなりました。

ところで「鉄腕アトム」人気投票の第1位は「史上最大のロボットの巻」というもので、これはいろんなタイプのロボットが闘いを繰り広げるもので・当時から人気が高かったもので した。この「史上最大のロボット」のリメークが浦沢直樹の「PLUTO(プルートゥ)」です。もはや漫画を読まなくなった吉之助も「鉄腕アトム」をどうリメークしているか興味があったので単行本の「PLUTO」 は読みました。雑誌の連載の方はもう終わったと思いますが、吉之助はまだ全部読んでないので・結末を知らないんですがね。 背景としては湾岸戦争後の世界情勢を未来図に照射したところで作られた作品ですが、ここでも人間に奴隷視され・酷使・疎外されるロボットという描写が頻繁に出てきます。それと「怒り」・「悲しみ」・「憎しみ」という単語が頻出します。「PLUTO」は手塚作品を浦沢流にとても巧くアレンジしていますが、しかし、言われてみればその基調にあるものは確かに原作である「史上最大のロボット」にあるものに違いありません。「PLUTO」のなかでアトムの生みの親・天馬博士がこんなことを語るのが印象に残りました。ちょっと長くなるが引用してみます。

『私は完全なロボットを作ったことがある。アトムをはじめ世界有数のロボットの人工知能・・彼らのプログラムは複雑だか、それでもたかが知れている。その時、私は何を試みたと思う?世界の人口60億と同じ数の人格を分析してプログラミングしたんだよ。つまり、ありとあらゆる選択と可能性をその人口知能に詰め込んだんだ。そのロボットは何にでもなれるんだ。怒りんぼ、弱虫、泣き虫、努力家、勉強家、勇者?それとも天才?殺人鬼?どうなったと思う?そのロボット・・・・目覚めなかったんだよ。複雑すぎたんだ。60億の人格をシュミレートするには無限の時間が掛かるだろう。・・・目覚めさせる方法は分かっていた。60億の混沌をひとつの方向に統率すれば良い。バランスを崩すのさ。怒り・・悲しみ・・憎しみ・・偏った感情を注入することでね。そう 、偏りこそが混沌をシンプルに解決するプログラムだ。』(浦沢直樹:「PLUTO」・単行本第5巻)

これは浦沢直樹のイメージが虚無的であるということではないのです。偏った感情というならば・それは喜びや笑いであっても良いわけですし・恐らくそういう作用もあるでしょうが、しかし、残念ながら・この世には喜び・笑いよりも、怒り・悲しみ・憎しみの方がずっと多いし、また強烈に迫ってくるものなのです。「偏りこそが混沌をシンプルに解決するプログラムだ」というのは真理だと思います。芸術作品も偏った感情から掬い上げた何ものかであるということが言えます。掬い上げた時には怒り・悲しみ・憎しみも、既にもうそれとは違うものになっている。芸術作品とはそういうものなのです。「歌舞伎素人講釈」で吉之助が提唱しているかぶき的心情というのも、混沌から歌舞伎という芸能を生み出すための偏った心情であるといえます。そういう場合も実は怒り・悲しみ・憎しみという感情がかぶき的心情のベースになっていることが多い。まあそういう風にお考えいただきたいと思います。

(H21・6・8)


○マイケル・ジャクソン追悼

先日・吉本隆明氏の講演録音「太宰治論」を聴いてましたら、吉本氏が『僕は太宰と同時代を生きて・どうしても同時代的に太宰を読んでしまいますから、後の世代の人の太宰の読み方とは違うかも知れ ません。作品は一度死なないと古典になりませんから。』(以上は吉之助の意訳)という主旨のことを仰ってました。これはとても的を射た指摘で、作品に時代的な背景を見ることは作品をヴィヴィッドなものとする手法(いわば同時代的に読むということです)で・作品理解 の大きなヒントを得る可能性もありますが、その逆もしばしばありまして・そのためにかえって本質が見えなくなってしまうことがあります。作品を古典として(時代から離して)突き放して見る方がスーッと素直に本質が見えることがあるものです。吉之助は時代が近い作品の場合はこうした読み方の方が良ろしいと思っています。

先月(6月25日)に死去した歌手マイケル・ジャクソンは吉之助と同世代のスーパー・スターであり、吉之助もその全盛期をリアル・タイムでよく知っています。「Beat it」や「Thriller」の映像は当時のMTV(Music Television)の人気を決定付けたものでしたからもちろんよく知っています。87年の後楽園球場(東京ドームの前身)でのコンサートは行きませんでしたが、この時は吉之助は球場の隣りのゴルフ練習場(これも今はない)で球打ちながら球場から流れてくる音楽を聞いてましたので・まあ生(なま)を聞いたようなものです。その後のマイケルはスキャンダルにまみれていくので・多少幻滅しましたが、85年〜90年くらいまでのマイケルは確かにカッコ良かったのです。この歳になると誰でも健康には注意しないといけませんが、マイケル の死去は同世代にはショックでもあり・また警告でもありましたねえ。

ところでJMM(Japan Mail Media)で毎週土曜日に興味深いレポートを配信してくださる作家冷泉彰彦氏が「from 911/USAレポート」(第416回・「マイケル・ジャクソン、伝説への始まり」のなかで『マイケル・ジャクソンの生き方は、父親からの虐待(吉之助注:少年時代から芸能界で 散々働かされたこと)に耐え・父を憎みつつも全否定はせず、自分の心の傷と向かい合うなかで、自分だけは虐待の連鎖に陥らない・柔軟さと強靭さを維持したものだと言える。 核家族イデオロギーが無条件で信じられた時期にはマイケルの生き方は奇行だっただろうが、現代の多くの若者は両親から100%の庇護を受けておらず(吉之助注:ここでの 「両親」は国家・社会と読み替えて良いと思われます)、何らかの過剰な介入か過度の突き放しを受けている。そんな現代にマイケルのメッセージは静かに・しかし深い形で浸透していくのではないか。例えばアルバム「History」に収められている"You are not alone" とか"Childhood"というようなバラードは1995年に発表された時とは違う形で、違う世代に受け入れられていくのではないか。』と書いておられます。(全文はJMM:冷泉 彰彦氏のコーナーでご覧ください。)これはこれからまさに冷泉氏の言う通りになるだろうと吉之助には思われます。マイケルの場合はスーパー・スターの偶像が一度地に落ちた(つまり一度死んだ)感じがあるので、吉之助にもそこのところは冷静に見えるようです。

Beat it」や「BAD」の映像を久しぶりに見直すと、マイケルの受けた心の傷は思いのほか深かったのであろうなあということを思いました。当時はそういうことはあまり感じないで、ビートの心地良さとダンスの斬ればかりに興奮したものですがねえ。ところでこの「Beat it」の映像の日本語訳ですが、「とにかくずらかっちまえ、やっつけられたい奴なんかいないよ、ケンカに強くてイカした男なのを見せてやるんだ、誰が正しくって誰が間違っているなんて関係ないよ、とにかくずらかっちまえ」となっていますが・確かに「Beat it」は「消え失せろ」という俗語にありますが、この「Beat it」はメッセージを受ける相手に向けて「この状況から逃げ出せ」と言っているのではないのです。彼を取り巻く状況に対して「Beat it(こんな状況は消えちまえば良いんだよ)」と言っているのです。あるいは「こんな状況、ブチかましてやれ」とでも訳した方がベターじゃないですかねえ。

こういうビートの使い方は、実は広義な意味での「アジタートな揺れるリズム」です。とても斬れ良く弾けた活きたリズムに思えるかも知れませんが、実は機械的に繰り返されるリズムに解決がない・そういうリズムなのです。舟歌(バルカローレ)や黙阿弥の七五調の揺れるリズムでは閉塞感を抱きながらも諦めみたいなものが先に立ちますが、「Beat it」や「BAD」のリズムはもっとジリジリした熱い怒りを含んでいます。今月7日に追悼式が行なわれるそうですが、若い世代がこれからマイケルの遺言としてのメッセージをどのように受け止めるかは興味あるところです。

(H21・6・5)


○脳に効くカラヤン

新進気鋭の脳科学者としてご活躍の茂木健一郎氏が「カラヤン 音楽が脳を育てる」(世界文化社)という本を出しました。実を言うと吉之助には本のタイトルがちょっと胡散臭くて・カラヤン没後20年(カラヤンが亡くなったのは1989年7月16日)便乗企画のようで・いまひとつ食指が動かなかったのですが、書店で本をパラパラめくってみると、茂木氏はカラヤンの音楽にとても素直に向き合っているのが分かって感心しました。茂木氏のTV人気番組に「 プロフェッショナル〜仕事の流儀」(NHK)というのがありますが、この番組もことさらに脳科学の知識にこじつけるでもなく・肩の力を抜いてゲストの仕事の秘訣を追っていて、まあビジネス番組とするといまひとつ食い足りないとも言えますが(つまり即効的な情報はあまりないということですが)、エンタテイメントとしては上質の番組になっています。こういうことは意外とできそうで・できないことで、どうしても薀蓄をひけらかす方向へ行きがちなものですが、啓蒙的な番組の場合は確かにこういう作り方が良ろしいのだろうと思います。この本も概ね「仕事の流儀」のコンセプト上にあるようで・カラヤンファン歴40年越える人間には目新しい情報は全然ありませんが、この本をきっかけにしてクラシック音楽に親しんでくれる若者が 増えるのならば・嬉しいことだと思います。

指揮者が大人数のオーケストラを統率して音楽を作り上げていく過程は、確かにビジネスにも応用できる秘密(人心掌握術とか統率力・あるいは企画力・時にはカリスマ性など)が隠れているようです。「仕事の流儀」で別にカラヤンでなくても・他の現役の指揮者を取り上げて番組を作ることは簡単に出来るでしょうし・やれば面白い切り口がいくらでもあると思います。しかし、ここでカラヤンが登場するのは・ひとつにはこの種の本で売れるのはまずカラヤンだという商売面での背景があるでしょうが、やはり茂木氏がカラヤンがお好きであることが第一の理由だと思います。本のなかで茂木氏はカラヤンのレガートについて触れています。ある音が別の音へ移行する時に・どのようなルートを辿って移行し・線(旋律)を作り上げていくのか、このことを楽譜は示すことができません。それを具現化することは演奏家に任されているわけですが、その移行がカラヤンの場合は息の深さと密接に結びついており、誰よりも神経が行き届いていると感じられます。レガートが独特の自然さと 必然性を持っていると感じられるのがカラヤンの特質だと思います。この点については吉之助もいずれ何かサイトに書く機会があるでしょう。現在サイトではグレン・グールドについて随想を連載していますが、これが終わったら・次はカラヤンの音楽について書くことにしたいと思います。茂木氏の本を読んでそんなことを思いました。 ただし、グールドの連載はまだ当分続く予定なので、だいぶ後のことになるでしょうが。

カラヤン  ―音楽が脳を育てる (茂木健一郎)

(H21・7・3)



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