カブキ風味時代劇
平成26年6月渋谷シアター・コクーン:「三人吉三」
六代目中村勘九郎(和尚吉三)、二代目中村七之助(お嬢吉三)、二代目尾上松也(お坊吉三)
1)カブキ風味時代劇
エンタテイメントとしてテンポ良く仕上がっていたと思います。役者も一生懸命やっている。客席も盛り上がっている。作品解釈としても決して間違っていたとは思いません。しかし、吉之助は歌舞伎の批評家ですから、この上演についての 吉之助の関心はまったく別のところにあります。勘九郎・七之助・松也たち若手花形が今後本格の歌舞伎役者として成長していくなかで、この経験が正しく糧となるのかどうかということです。恐らく彼らの本格の芸への道程に良い作用はしないであろうと考えます。
例えば「大川端」でお嬢(七之助)とお坊(松也)が七五調の台詞で対決する件ですが、台詞のテンポが次第に速くなり・声が大きくなって・言葉使いが荒く怒鳴る感じに熱くなっていく。何だか出来の悪い弁慶と富樫の山伏問答を聞いているようでありましたね。七五に揃えられた言葉があるだけで、そこに様式感覚などというものはない。このような台詞廻しは平成13年(2001)6月コクーン歌舞伎での・亡き十八代目勘三郎が参加した時の「三人吉三」にはなかったことでした。
確かにリアル(写実)なのかも知れません。それは幕末江戸のアウトローに通じる、現実の不良たちの喧嘩ならこうしゃべったに違いないとも思う現代的なリアル感覚が確かにあったことは認めましょう。まあ若さの魅力ということね。伝統に凝りかたまっていない彼らだからこそ出来たとも云える。しかしねえ、固有の様式が持つリアルの感覚はそれぞれ異なるのです。歌舞伎の黙阿弥の七五調にはそれなりの次元のリアル感覚があります。これを意識的にぶっ壊して、それでも歌舞伎は変わらないということは絶対にない。それでは歌舞伎ではなくなるのです。 故・勘三郎のような出来上がった役者が納得したうえでこれをやるならば、まあ意味があるとしましょう。それでも勘三郎ならば歌舞伎座に戻って本格の「大川端」をやる時には、元に返して正しいことが出来るでしょう。しかし、勘九郎・七之助・松也のような・まだ芸の固まっていない若手がこれをやるならば、これは百害あって一利ない。それほどに彼らは現代の感覚に安直に染まってしまいます。そうすることが伝統芸能を現代に生かすための正しい道であるかの如く誤解してしまうのです。なぜならば彼らも現代に生きる人間であるからそちらの感覚の方が実感があるからです。しかし、伝統芸能の場合、そういうところから芸の根本が実に簡単に崩れて行くことになるのです。このことに勘九郎たちは気が付かねばなりません。吉之助はこのことを問題としたいと思います。
アングラ演劇の役者が黙阿弥の台本を使ってこの調子でしゃべるならば、それは結構です。それはアングラ演劇の様式に合うのであるから。逆にアングラ演劇の役者が歌舞伎の七五調でこれをしゃべるならば台詞廻しがいくら巧かったとしても、それは歌舞伎の猿真似になってしまいます。要するにこれは伝統演劇のフォルムとして絶対守るべきもの・変えても良いものを、串田がきちんと区別が出来ていないことから来ます。
クラシック音楽ならば、ベートーヴェンのピアノ・ソナタの楽譜を基にして百人のピアニストから百様の解釈が可能です。作曲者と真摯に対するならば、その解釈のどれもが正しいのです。しかし、ここはちょっと趣を変えて転調してみようとか、装飾音をつけたり旋律を変えてみたらもっと面白くなるとか、リズムをジャズ風にアレンジして現代風にしようというのなら、それはいくら聴いて面白くてもベートーヴェンとは呼ばないのです。そういうものは別のジャンルの音楽です。別のジャンルならばいくらでも自由におやりください。クラシック音楽では変えてはならない・絶対的なものは楽譜です。歌舞伎でも同じで、厳然として変えてはならないものがあるのです。
歌舞伎のフォルムとして絶対に守らねばならないものとは何でしょうか。ところが、歌舞伎というのはそもそも台本がいい加減です。浄瑠璃丸本なんてものもありますが、歌舞伎ではそれも結構ちょこちょこ改変されていますから、絶対的基準なんてものはありそうでないようです。それでは歌舞伎のフォルム感覚として絶対の守るべきものはどこにあるのでしょうか。吉之助は、それは台詞廻しだと思いますね。
ところが歌舞伎では台詞廻しのフォルムということも、これまた結構いい加減に扱っています。劇評家も「調子が良いとか悪いとか・音楽的に歌う歌わない」とかしか言えない。吉之助が本サイト「歌舞伎素人講釈」で、現代歌舞伎での黙阿弥の七五調はダラダラ調で正しくないということをよく言うのはご存知と思います。吉之助が歌舞伎を見始めた昭和五十年代の黙阿弥の七五調は、すでに様式美に耽溺した間延びしたダラダラ調でした。平成になってからは多少テンポは速くなったようですが、ダラダラ感覚は変わらないで早口になっただけだから、今度は言葉の意味が分からない。だからここで歌舞伎役者のフォルムに対する意識の甘さが問題になって来ますね。(別稿「黙阿弥の七語調の台詞術」をご参照ください。)そんな閉塞状態に、今度はリズムも語調も崩した生の会話風の台詞廻しを持って行けば、彼らは「ここに答えがあった」みたいな錯覚を受けるのでしょう。しかし、これから歌舞伎座で本格の歌舞伎を演じねばならない勘九郎たちにとって、こんな崩れた台詞廻しは害にしかなりません。本当は、黙阿弥のフォルムを守ったうえで、そのなかに実感をどう封じ込めて行くか、そういうことを考えて行かなければなりません。それが歌舞伎役者の本来の仕事なのです。
もちろん今回の串田演出の「三人吉三」の舞台にカブキ的なものが見えないというわけではありません。それがカブキであるか・ないかという定義は、その視点に拠って変わるものです。吉之助はこの「三人吉三」を歌舞伎でないと切り捨てるつもりは全然ありません。登場する三人の吉三郎は幕末江戸のアウトロー。自分ではどうにもならない因果や柵 (しがらみ)のなかで、才能があって・努力し・あがいても、身動きできずに身を持ち崩す。それは現代の渋谷や六本木あたりに夜中に所在なげにウロウロして 肩肘張っている目付きの悪い若者たちにどこか通じます。そういう若者たちが心中感じている鬱屈や憤りがカブキの気分に通じるということは、確かにあるのです。(ただし、気分においてのみということですがね。)
今回の「三人吉三」の舞台でも、大詰・火の見櫓の場では、そのようなカブキ的なものに通じるものが見えます。ここは平成13年6月コクーン歌舞伎・「空間の破壊」でも吉之助が褒めたところです。そのなかで吉之助は、『部外者が歌舞伎を演出して勝負しようと思えば、一番勝ち目のある方法は舞台空間を破壊し、まったく新しい舞台装置で演出することである。それは自分の領域に敵を引き込む戦法である。歌舞伎の空間を破壊さえすれば部外者にも勝機がある』と書きました。
装置を変えれば、役者の動きは当然変えねばなりません。そこまでは良いのです。しかし、台詞廻しや立ち振る舞いのフォルムまで変えてはいけません。そこまで変えたら ホントに歌舞伎ではなくなります。これまでならば、そこは故・勘三郎が仕切る領域であったに違いありません。そこに勘三郎と串田との・ふたりの間の分担が自然と出来ていたはずです。勘三郎が亡くなってそういう境界が崩れたということは、串田が全部仕切らなければならないということでしょうが、残念ながらそれは無理でしょう。それは伝統演劇のフォルムとして絶対守るべきもの・変えても良いものを、串田がきちんと区別出来ていないからです。(この稿つづく)(H26・6・22)
吉之助は平成13年6月コクーン歌舞伎・「空間の破壊」でも述べた通り、串田・勘三郎の実験歌舞伎には、当初はマンネリした歌舞伎のなかに新風を吹き込んでもくれるものとして、吉之助は結構期待をしていました。そのことは当時の随想でもお感じいただけると思いますが、しかし、これはもう駄目だなと思ったのは平成18年8月歌舞伎座:「勘三郎の法界坊」で、特に序幕・勘三郎が登場するまでは実にひどいものでした。吉之助はいたたまれなくなってホントに途中で席を立って帰ろうとしたのですが、かろうじて思いとどまったのは一等席で人目があったのと・切符代がもったいなかったからでした。その時の随想に書きましたが、勘三郎のテンションの持って行き方には非常な無理があって、勘三郎はこの調子で突っ走ればいずれ倒れるだろうと感じました。だから吉之助は当時こう書いたのです。
『背反する要素を同時に追おうとすれば・どちらもうまく行かなくなるのです。人間はそんなに器用ではないのです。歌舞伎役者がスタンスをどちらに置くべきかと言えば・それが古典であるのは当然だと思います。古典のなかでこそ役者としての生き様が評価されます。「理屈ぬきで楽しく面白い歌舞伎」が片方にあって・「真面目で神妙な古典歌舞伎」がもう一方の対極としてあり、自分はそのどちらもきっちり 演じ分けられると思っているならそのうち行き詰まるでしょう。盛綱を楽しげに・法界坊を神妙に演じる。そういうことを勘三郎はそろそろ考えてみてもいいのではないですか。それでちょうど良いと思いますが。』(「勘三郎の法界坊」)
当時、勘三郎に対してこんなことを書いた批評家は吉之助以外にいなかったはずです。別に吉之助は自分の眼を誇るつもりはありません。しかし、結果として勘三郎は平成22年暮れに特発性難聴で長期休養ということになりました。吉之助の聞くところでは勘三郎は親しい人には「自分はもう芝居が出来ない」という泣き言を漏らしていたようです。バランスが取れない精神状態だったようです。勘三郎ほどの天才でさえ、そんな状態に陥るのです。吉之助は勘三郎がこういう形で休養すると予測したわけではありませんが、どうして周囲の人間が勘三郎にセーブを掛けてくれなかったのかということは、非常に残念で悔しく思いました。はっきり申し上げますが、特に串田和美に対してそう思いました。演出家である串田からすれば、勘三郎は演劇理念を共有する同志あるいはパートナーであったわけですが、あるいは素材としての役者ということに過ぎなかったのでしょうかね。しかし、歌舞伎役者十八代目勘三郎は、六代目菊五郎・初代吉右衛門の・いわゆる菊吉歌舞伎の正統を継ぐべき人であって、どこへ寄り道してもいずれ歌舞伎座の本舞台へ戻って、本格の歌舞伎をやらねばならなかった役者であったのです。これは吉之助だけの個人的思い入れではなく、歌舞伎を愛する人ならみんなそれを望んでいたと思います。だから串田が勘三郎の真の友であるならば、病床の勘三郎に言うべきことは「元気になったらまたあの楽しい歌舞伎をやろう」ということではなく、「君(勘三郎)が戻らねばならない時が来た。君は本格の歌舞伎を継ぐべき人だ。願わくば俺たちとの芝居で味わった興奮をこれからの歌舞伎座での芝居のなかで生かしてくれることを・・・」と言って欲しかったと思うのです。吉之助は同じことを野田秀樹に対しても言いたいですね。ですから勘三郎はある時点において実験歌舞伎の活動を抑えて、もっと古典への傾斜を強めるべきでした。そのきっかけはいくつかあったと思いますが、特発性難聴での休養での時点で勘三郎の身体に既に癌は巣食っていたのだろうから、もっと前にやめるべきであったと思いますね。しかし、勘三郎の事実上の最後の舞台のひとつは、やっぱり平成中村座の「法界坊」でした。そういうことになっちゃったわけです。勘三郎は「またあの楽しい歌舞伎をやろう」と言われれば、身体の不調を感じていても、断れない性分だったのです。このことは非常に残念です。吉之助は勘三郎の追悼本「十八代目中村勘三郎の芸」のなかで筆致を抑えて、そのような勘三郎の内面の葛藤を思いつつ本を書いたつもりです。
山本吉之助:十八代目中村勘三郎の芸
ですから演出家である串田が、盟友勘三郎の遺児ふたりを託されてかは知らぬが、また同じ轍を踏もうとしているように思えることは、吉之助としてはちょっと賛同ができないのです。確かに観客席は湧いています。切符の売れ行きも当月歌舞伎座より良いくらいであったように思います。観客動員力は確かにあるのでしょう。役者にとって観客動員力は何より大事です。しかし、吉之助が思うのは、勘九郎・七之助がこれから本格の歌舞伎役者として成長して行くために、串田に役に立つことが出来るのかということです。今回の舞台を見る限り、その答えは明らかです。そのような指導は、串田には無理なことです。串田にだって演出家としての理念もプライドもあるでしょう。しかし、別稿「古典劇における趣向と型」で触れましたが、勘三郎とタッグを組むということは、「串田は歌舞伎(勘三郎)に使い捨てされることをそれで良しとせねばならない」ということだったのです。何故ならば勘三郎はいずれ歌舞伎座の舞台の真ん中に立つべきことを宿命付けられた役者であったからです。勘三郎は串田のアイデアを咀嚼して歌舞伎の感触に何とか近づけようと奮闘して来た。その天才勘三郎でさえ、芸道ふた筋道は貫徹できなかった。勘三郎のそのような立場を理解出来なかった串田が、勘九郎・七之助に対して指導が出来るはずがないです。前項に書いたように吉之助はこの「三人吉三」を歌舞伎でないとは言いません。しかし、この感覚がいったん身体に染みついてしまえば、勘九郎・七之助も、歌舞伎の本格の芸を継ぐ役者として歌舞伎座の舞台の真ん中に立つのは難しいことになるでしょう。それは六代目菊五郎・初代吉右衛門の・いわゆる菊吉歌舞伎の正統を継ぐべき人であった十八代目勘三郎の息子が取るべき道ではないと思いますがね。もしかしたら良い役が付かない苦しい時期があるかも知れないけれど、もっと地道な形で芸の修行を積むべきです。十八代目勘三郎がホントに実現しなければならなかったことは何であったか、真の歌舞伎ファンが十八代目勘三郎に期待したものは何であったか、そこのところをよく考えてみて欲しいと思います。(この稿つづく)(H26・6・30)
串田の「三人吉三」で良いと感じることを書いておくと、観客を芝居へ最初から惹きつけようと努力しているということです。つまり、観客席のザワザワが納まってから主役のご登場となる・そこまでは芝居の「つなぎ」に過ぎないよという、歌舞伎の悪しき習慣・埃沈めの感覚は、ない。どの役者も一生懸命やっています。それはとても良いことです。ただし、もしかしたら串田は「コクーンの観客はこの程度に扱っておけば喜んでくれるだろ」みたいに思っているのかなと感じるところはあります。特に序幕の処理が非常に安直というか程度が低い。吉之助が客席にいていたたまれなくなるのは、いつもこういうところです。「三人吉三」でも「法界坊」でも「夏祭」でもそうでした。これは串田は当然意識的にそうしているわけだが(親しみやすくしているつもりなのだろう)、逆に作品に真摯に向き合ってシリアス・タッチで処理するセンスはないのかね。もっと観客の感受性を信じて良いと思います。
演出的なことを云えば、何か歌舞伎的で・何がそうでないかという議論になって、これは歌舞伎批評家としての吉之助の立場と、演出家串田のスタンスの違い(串田がこれが歌舞伎であると考えるもの)に起因するので、一概に良い・悪いとも言い難い。ただし、アングラ劇団の俳優たちを使って南北や黙阿弥をいわゆる「カブキ風に」やるというならこういう感じでも十分面白いと思いますが、普段は歌舞伎座に戻っていわゆる「伝統的な歌舞伎」をやらねばならない役者を起用するということであるだから、そこに「これこそ歌舞伎的な瞬間である」と感じられる場面がなければならないと思います。「こんなに面白いのなら、今度は歌舞伎座へ行ってオリジナルを見てみたい」と思わせる瞬間が欲しい。そのような場面が、今回の「三人吉三」にはあまり感じられなかったと申し上げます。恐らくはそれは微妙な違いなのですが、これまでそうした部分を仕切っていた勘三郎が亡くなったことで、良い意味でも悪い意味においても、それだけ演出家串田のカブキの考え方が前面に出て来たということかと思います。(注:文中に「カブキ」と「歌舞伎」とあるのは、吉之助は意識的に使い分けているのです。)
例えば勘三郎ならば、カブキのある場面を一発で・歌舞伎の瞬間に変えることが出来たのです。たとえば「夏祭・三婦内」の最終場面、「長町裏へ・・」で団七が駆け出して行く手を見据えて通路で決まるその形、普通はそれは花道七三でやるものだけれど、それをコクーンの客席通路でやっても、勘三郎ならばその場の空気を一発で歌舞伎に変えることが出来た。勘九郎・七之助・松也がそのレベルにないということを言いたいのではないのです。将来、彼らがそういう伝統歌舞伎を引っ張る役者になるために、コクーンをそのような修行の場とするために、演出家串田は「三人吉三」のなかにそのような場面を意識的に用意してやるべきであると、吉之助は言いたいのです。それはいわゆる手順(型)ということではなく、芝居の空気・雰囲気とかテンポというようなものです。それこそ故・勘三郎が仕切っていたものに違いない。
串田は、今回の「三人吉三」をコクーン歌舞伎の第2期であると位置付けるということを言ったそうです。吉之助に云わせれば、第1期のコクーン歌舞伎は、歌舞伎役者として出来上がった故・勘三郎や橋之助らがその役者の風味を加えて串田が提供したカブキのアイデアを歌舞伎にしてきたのです。少なくともその瞬間はあったと思います。今度の「三人吉三」を第2期と位置付けるなら、(それは串田の考えとは多分真っ向異なると思いますが)、吉之助は、今度は歌舞伎役者としてはこれからの若手役者を起用して・彼らを育てつつ・そういう瞬間を創出することを串田の仕事とせねばならないと思います。勘三郎はもういないのだから、役者がその瞬間を作るのではなく、その瞬間を演出家が用意せねばならない。串田にそのようなことを求めることは、残念ながら、無理な話です。串田の演出家としての力量のことではなく、理念の問題です。串田は歌舞伎のために使い捨てになる覚悟はないでしょう。
ですから、もう一度書きますが、勘九郎も七之助らも、現代に生きる人間でありますから、串田のアイデアを同時代的共感を以てそれを受け止め、「そこに答えが見えた」と思う瞬間があると思います。そうしてこれが伝統芸能を現代に生かすための正しい道であるかの如く誤解してしまう。(注:それは串田が間違っているということではなくて、伝統芸能のフォルム感覚とはしっくり合わないということなのです。)しかし、そういうところから伝統芸というものは実に簡単に崩れて行くのです。その実例が福助であり、扇雀です。ふたりともせっかく良い素質を持っていたのに、何か勘違いしちゃって伸び悩んでいます。これは串田・勘三郎(それと野田)のせいもあると吉之助は密かに恨みに思っているのです。しっかり自分を持っている役者ならば、三津五郎にしても・橋之助にしても、勘三郎の実験歌舞伎にお付き合いをしても決して軸がブレることはない。しかし、残念ながら勘違いしてしまう役者の方が多い。勘三郎のお目付けがなくなったコクーン歌舞伎は、若い息子たちがこれから本格の芸へむかっていくための道程に決して良い作用はしないと思います 。ですから今回の「三人吉三」を、将来の伝統歌舞伎を背負う三人の役者、勘九郎・七之助・松也のための、コクーン歌舞伎にしようとするならば、伝統歌舞伎のなかの、何は変えても良く、何を変えたらいけないか、何か勘所か、そういうことを考えなければならないと思います。(この稿つづく)
(H26・7・7)
歌舞伎の「型」という概念は、定義がなかなか難しいものです。一般には、或る役で○屋の型では右手を挙げて左に回って立ったまま「ワン」と言う、同じ場面を△屋の型では左手を挙げて右に回り座ってから「ワン」と言うとする。そんなようなものを「型」の違いと呼ぶでしょう。型を列記している歌舞伎本は沢山あります。若き日の吉之助も、舞台を見ては型の本の記述を繰り返し読んだものでした。最近の歌舞伎ではひとつの型に固定してしまって残念だなどということもよく言われます。そういうことも、確かに「型の概念」のなかにはあるのです。しかし、そういうものは厳密にいえば、演技の段取り・手順なのであって、型の概念としては狭義の要素なのです。現に九代目団十郎の「勧進帳」でも、九代目はやる度に段取りをあちこち変えました。我々が九代目の型だとしている「勧進帳」はその一番最後の舞台、すなわち明治32年4月歌舞伎座の舞台を基本としてします。もし九代目が長生きしてもう一回「勧進帳」をやっていたら、多分九代目はまた違うことをやって、そちらの方が型になって残ったはずです。段取り・手順なんてものは、その程度のものなのです。
大事なことは、作品の背後にある思想をつかむことです。歌舞伎ではそれを役の性根と云います。「役は性根をつかむのが大切、その役になりきってさえいれば何をやったって良い」という意味のことは、九代目団十郎も六代目菊五郎も同じようなことを言っています。だから右手を挙げて左に回って立ったまま「ワン」と言うのが歌舞伎の型であると狭義に考えて欲しくないのです。「歌舞伎は型の芸術だ」とよく言います。吉之助はそれを決して間違いとは言いませんが、「そう言い切って良いのか。もうちょっと別の言い方は出来ないのかね」と言いたくはなる。それじゃあ「俺は役に成りきったと信じてやるならば、何をやっても許されるのか」と云う向きがあろうかと思いますが、もちろんそんなことはない。何か縛りがなければ、歌舞伎とは別のものになってしまいます。そのためには歌舞伎の「型」の概念をもっと広義に取って考えて、フォルムという感覚で捉えて行く必要がある と思います。吉之助は「型」の概念を広義に捉えるために、「フォルム」という用語をなるべく使うようにしています。アンドレ・マルローは「フォルムを様式にするものが芸術である」と定義しました。(別稿「空想の劇場」を参照ください。)このことを理解している方は、歌舞伎の世界にはほとんどいません。現在の歌舞伎の批評研究で は、狭義の「型」と、広義の「フォルム」のふたつの概念が、ごっちゃまぜに使われて、無用な混乱をきたしています。(これについては別稿「型の周辺」、「古典劇における趣向と型」などをご参照ください。)吉之助は、歌舞伎役者が芸の継承のことを真面目に考えていないとは思いませんが、歌舞伎の世界は、役者も劇評家も観客も、フォルムに対する意識が希薄ではないかと思います。歌舞伎に芸のフォルムという概念が提示されたのは、実はそんなに昔のことではないのです。それは武智鉄二によって提示されたもので、歌舞伎の世界では未だに認知されていません。近松のフォルム・南北のフォルム・黙阿弥のフォルムという微妙なものがあるのです。そのようなフォルムをいかに的確に描き分けるか、これが吉之助が常に考えることです。(注:こういう態度を吉之助はクラシック音楽から学びました。これは吉之助が師と仰ぐ武智鉄二も同じで す。別稿「伝統劇能における古典(クラシック)〜武智鉄二の理論」をご参照ください。)
大詰・火の見櫓の場は、平成13年6月コクーン歌舞伎・「空間の破壊」でも吉之助が褒めたところでした。三人の吉三郎に雪衣と捕り手(これも白い衣装)の群集をからませて、火の見櫓と町木戸を自在に動かして定式の空間を崩してしまった。そして、降り積もる雪を蹴散らしながら・とにかく役者たちがひた走る・ダイナミックな動きを舞台に展開させました。既成の歌舞伎の発想からはまったく出て来ないアイデアで、吉之助も初見の時は「歌舞伎でこういう処理も出来るのだねえ」と感心しました。あれから 約13年の歳月が流れました。しかし、同じ年(2001)の9月に、ニューヨークで9・11テロが起きて、その後の世界の様相は変わってしまいました。平成23年(2011)3月11日に東日本大震災が起きて、日本の状況も変わりました。そして何よりも、コクーン歌舞伎の要であった勘三郎が亡くなった。それなのに、今回の「三人吉三」の大詰・火の見櫓の場の印象は、平成13年6月の時とほとんど変わりがない。吉之助がそこにこだわるのは、この場面が串田版「三人吉三」の肝だからです。詰らない小手先のギャグだけいじっても、変えたことにならない。実験歌舞伎という理念においては、「変わらない」ということは良くないことなのです。 変えなければ意味がないのです。
平成13年6月の時の大詰・火の見櫓の場で、雪のなかで覆いかぶさって死ぬ三人の吉三郎の姿は、映画「明日に向かって撃て」(1969年ジョージ・ロイ・ヒル監督)アメリカン ・ニューシネマの傑作とされる・あのラストシーン、ロバート・レッドフォードとポール・ニューマン演じる強盗二人組が警官隊の弾丸の雨のなかに飛び出して行く、あのラスト・シーンを思い出させました。あの頃は「アングリー・ヤングメン(怒れる若者たち)」という言葉が流行りました。串田の世代ならば発想の原点はそんなところだろうと思いますが、串田の気持ちはもちろん分かる。時代は下って平成13年ということになるけれど、平成のこの時代の、・・というよりも、この時代の勘三郎の気持ちと、カブキの或る一面を見事に捉えたことも認めましょう。それならば、あれから約13年の経過を踏まえて平成26年の大詰・火の見櫓の場の位置付けをどう見直すべきか。そういうことを考えてみるべきなのです。吉之助が問いたいのは、ここが同じで良いのかということです。アイデアが固定して(アイデア自体は決して悪くないのが)、「型」化しちゃっている。串田のなかには、この13年という歳月の、内的な変化がなかったのでしょうか。 (この稿つづく)
(H26・7・15)
「三人吉三」の三人の吉三郎は、いわゆるアウトロー(悪党)です。アウトローと云うと「権力に背を向けてひとり我が道を行く」という感じで、カッコいいと思う方もいらっしゃるようで、「大川端」の台詞について「自分たちが悪党であることを世間に誇る気持ちが感じられる・自分たちの所業を世間に知らせたいと思っている」と書いてある評論(名前はあえて伏す)を昔読んで、笑ってしまいました。最後の方の台詞を良く読むことです。そこにはこうあります。
(お嬢)「浮き世の人の口の端に」
(和尚)「かくいふ者があつたかと」
(お坊)「死んだ後まで悪名は」
(お嬢)「庚申の夜の語り種」
(和尚)「思へばはかねへ」
(三人)「身の上じゃなあ」語り種になるのは、自分たちの「悪名」だと彼らは言うのです。「あいつらは悪い奴だ、親不孝者だ、人間の屑だ」と、後の世までも言われるということです。これは「どうせ俺たちは何をしたって浮かばれないんだ、俺たちの人生は何だったんだ」という嘆息の台詞なのです。幕末期(四代目小団次との提携時代)の黙阿弥の白浪物の主人公は、閉塞した状況を打開しようとして必死でもがきます。しかし、身分社会のなかでは、意気がって見せたところで泥棒になるくらいが関の山です。「大川端」をご覧なさい。いくらカッコ付けたって、夜鷹から奪った百両を、三人のアウトローが「俺のものだ」と言い張っているだけのことです。そして結局、彼らは状況に絡めとられてきしまいます。なまじっか強引に状況を変えようとしたから・状況に仕返しされたのです。そこに幕末のどうしようもない閉塞感・袋小路に入った時代へのいらだちがあります。
そういうところに串田が全然気付いてないわけではなさそうです。今回の「大川端」での三人の吉三郎に、ちょっと目を伏せ表情を暗くして憂いの情感を利かせて上記の台詞を言わせていました。しかし、この台詞が「大川端」の前後の場面から浮き上がって、取ってつけた不自然な形に聞こえます。ポーズで言っているだけで、彼らの真実の声に聞こえない。それは串田が「大川端」のフォルムを一貫した形で捉えていないからです。
例えば心地良い旋律が突然転調してメランコリックな旋律に変容して行く、そのような曲があるとします。特にショパンの曲にはそういう場面が多い。そういう時に、 そこまで快速テンポで弾いていたのを、突然テンポを遅く情感込めてねっとりと聞かせる。そのようなショパン弾きが少なくないですが、一流のピアニストならばそういうことは絶対にしません。まずふたつの曲想の連関を考えます。転調して曲想が変化して行くところに、どのような一貫性を持たせるかを常に考える。これはひとつの人物の揺れ動く思いを表現するもので、そのどちらもが作曲者の真実です。だとすればその曲想の落差をどのように自然なひとつの流れのなかで捉えるか、それがその曲のフォルムを考えるということなのです。そこからフォルムが、様式が生まれてくるのです。そこを考えないピアニストは一流にはなれません。串田は「大川端」のフォルムをもっと考えるべきです。
黙阿弥のフォルムを考えてみたいと思います。黙阿弥の七五調とは、七・五のユニットを等分に取り・そのなかを七と五に割るリズムであること、したがって七が早く・五がゆっくりとなる変拍子・揺れるリズムです。このことは別稿「アジタートなリズム〜歌舞伎の台詞のリズムを考える、の黙阿弥の項を参照ください。)早くなったり・遅くなったりを小刻みに繰り返すリズムが示すものとは、一体何でしょうか。それは興奮し高まろうとしても、そうすることが出来ないリズム。そして鎮静し落ち着こうとしても、それも出来ないリズムなのです。黙阿弥の七五調とは、この状況から抜け出したい・俺は変わりたい」と思いながら・それが出来ない主人公。「状況に流されていくしかないんだ・結局はそれしか俺には方法はないんだ」と思いながら決して納得が出来ないで悶々としている主人公。黙阿弥の七五調のリズムは、そういう主人公の心情を体現しているのです。
もっとも正しくこのことを理解出来ている役者も・劇評家も、あまりいないようです。「黙阿弥の七五調は音楽的に歌い上げるのが様式美だ」だなんて書いている劇評ばかりです。台詞が音楽的であるということがどういう意味か、分かって書いているのでしょうか。ショパンのワルツかマズルカでも、よく聞いてみることをお勧めしたいですね。
それでは、平成26年という時勢に於いて黙阿弥をどう捉えるか、そういうことを考えてみます。「歌舞伎素人講釈」には別稿「村上春樹・または黙阿弥的世界」というシリーズが4本ありますから、それをお読みいただきたいですが、居心地の良い自我のなかで自足していた「僕」が思いがけない事件によって外界へ自己を展開することを強いられていく・そのようなパターンが村上文学であると、世間では言われているようです。村上文学を語るのに、「パラレル・ワールド」なんて言葉が良く使われます。例えば突然人間の言葉を喋り出す猫(「海辺のカフカ」)、真昼の空にぽっかりと見えるふたつの月(「1Q84])、そういう異次元の世界に巻き込まれて、主人公は変わっていくとするのです。しかし、評論家・佐々木敦氏は、(吉之助が知っている範囲ではそういうことを書いていたのは佐々木氏だけなのだが)、そうではないと言うのです。村上文学の「主人公=僕」はひとの気持ちが分からない人間である。自分が外界に対して不感症であることに本人は気が付いていて、これではいけないと思う。そこで主人公は色々するのだが、やっぱり彼は変ることはないと佐々木氏は言います。
『なぜ彼は変れないのか。それはつまり、実のところ、彼には何故「これではいけないか」のかさえ、本当はまったく分かっていないからだ。それが「人の気持ちが分からない」ということなのである。だから彼には、分かった振りをしてみる・分かったことにしてみる、ということしか出来ない。そうすると何だか自分でも、分かったような・分かっているような気がしてくるから不思議だ。そしてここがポイントなのだが、そこに誰か(他者)がやってきて、こう言ってくれるのである。「やっと分かったわね」と。でも本当は、彼は分かってなどいないし、分かりたい気持ちがあったとしても、どうしても分かれないのだ。』(佐々木敦:「リトル・ピープルよりレワニワを」 〜「村上春樹・「1Q84」をどう読むか」に所収)
村上春樹『1Q84』をどう読むか(河出書房新社)
「三人吉三」を見てみます。「吉祥院」の場で分かることは、お坊の実家が没落したのは、父伝吉が名刀庚申丸を盗んだことが発端であったということです。一方、名刀庚申丸の対価である百両をおとせから奪って筋の展開をややこしくしたのはお嬢であり、和尚の父伝吉を殺したのはお坊の仕業であった。ところが、和尚吉三が「そでねえ金は受けねえと、突き戻したは親父が誤り。さすればお嬢に科はねえ。お坊吉三も己が親父を、高麗寺前で殺したは、すなわち親の敵討ち」と言い、「二人に恨みは少しもねえ」と言ってお坊・お嬢の二人を許してしまうと、途端に、捜し求めていた庚申丸と百両が二つともポロリと出てきます。ここで「三人吉三」の因果のストーリーが完成した気に誰でもなるでしょう。そこに誰か(他者)がやってきて、こう言ってくれるのです。「やっと分かったわね」と。でも本当は、彼らには分かってなどいないし、分かりたい気持ちがあったとしても、どうしても分かれない。三人の吉三郎は、元の身分にはもう戻れない。彼らは犯した罪業の数々を償わければならない。一体、自分たちの人生にどういう意味があったのか、どうしても分からない。そこから大詰・火の見櫓の場の位置付けを見直したい。
ですから吉之助には、「三人吉三」は実に平成時代的なドラマに仕立て得ると思います。この時代の閉塞感のどこが、幕末の黙阿弥の・四代目小団次の何と似るのでしょうか。幕末・鎖国の江戸とは全然違って、物が溢れかえって様々な情報が飛び交っているこの平成の世に、この似たような閉塞感は一体どういうことなのでしょうか。しかし、村上春樹の小説を読めば、そのヒントは案外近くにあるのかも知れません。そういうことを考えないならば、平成のこの時代に実験歌舞伎をやることに何の意味があるのでしょうか。(この稿つづく)
(H26・7・21)
聞くところによれば、今回(6月)コクーン歌舞伎の企画段階において勘九郎サイドは「天日坊」(平成24年6月・原作は黙阿弥の「五十三次天日坊」だが宮藤官九郎による新たな脚本、まあ実質的には新作物と云うべきもの)のような演目を希望しており、串田サイドからの「三人吉三」再演の提案に最初難色を示したそうです。勘九郎サイドが難色を示した理由はよく分かります。まず父親(故・十八代目勘三郎)のコクーン歌舞伎の印象が観客に依然として強く残っています。なにせ「三人吉三」は超有名狂言ですから、これに現代風味を施す行為は、そのことの是非を置いても故・十八代目勘三郎がやるならば、この優がやるからこそ許されたのです。劇界にも不快に感じていた方は大勢いたでしょうが、故・十八代目勘三郎がやるならば黙っていたのです。しかし、勘九郎ら若手が同じことをやるならば、風当たりは当然強くなるということがある。これは観客が入る・入らないということとはまったく別のことで、これから勘九郎らが本格の歌舞伎役者としてのキャリアを積んでいくに当たって大事なことなのです。それならば観客から忘れられた作品を掘り出して、純然たる新作同然でやってしまった方が良いわけです。それならばケチを付けられる余地が少なくなる。勘九郎サイドがこれを危惧したのは当然であるし、実際、吉之助が今回の「三人吉三」を見た感じでは、恐らくこの舞台は、彼らの本格の芸への道程に良い作用はしないであろうと思います。あの「大川端」でお嬢(七之助)とお坊(松也)の対決での、出来の悪い弁慶と富樫の山伏問答みたいな台詞では、困ります。あるいは吉祥院」幕切れでのお坊(勘九郎)の悲痛な表情も気持ちは分かるけど、あれでは 生(なま)過ぎて困る。歌舞伎座の舞台では使えません。
まず芝居のなかのカブキ的なものについての考え方は、人に拠ってそれぞれのことであるし、演出の串田の「三人吉三」の解釈が間違っているということでは決してないということは言っておきます。しかし、それは串田演劇の様式においてはそうだ・・ということなのであって、串田が盟友・十八代目勘三郎の遺児ふたりを預かると云うのなら(そういう約束があったかどうか知りませんが)、彼らが本格の歌舞伎役者に成長して行く為に、それはちょっと困ると吉之助は思うわけです。彼らが将来本格の歌舞伎役者になるための布石となる為の、新しいコクーン歌舞伎のコンセプトを作るべきです。「三人吉三」の場合で云えば、超有名場面・すなわち「大川端」と「吉祥院」の場面においては、もちろん舞台装置はまったく新しくして良いから、この場面の台詞廻し・立ち振る舞いのフォルムだけは「これこそ歌舞伎の本格だ」というべきものを、勘九郎らはアピールすべきです。その間のつなぎの場面はうまくアレンジして繋げばよい。(そこに串田が手腕が掛かる。)しかし、肝心要の場面は、しっかり本格の芝居が出来ねばなりません。そのような本格的な歌舞伎の場面を、串田は意識して用意していく必要がある。それでないと彼らの修行の場にならないのです。彼らの芸を荒んだものにするだけです。これでは将来彼らに歌舞伎座で「三人吉三」をやらせることが心配になってきます。
例えば二代目猿翁(三代目猿之助)の芝居は3S(スピード・スペクタクル・ストーリー)を大事にしていたけれど、猿翁は作品のなかに必ずじっくり芝居を見せる場面を設けました。「伊達の十役」で云えば、御殿での乳母政岡の場面、問注所での細川勝元の場面。そういうところで歌舞伎ショーではない・歌舞伎役者としての猿之助の芝居をしっかり見せるのです。そこが大事なのです。当時の吉之助の記憶では、御殿での乳母政岡のクドキの場面で、「何この場面は・・・早替わりしないの?」みたいに身体をムズムズさせていた観客が少なくなかったのも事実です。しかし、早替わりと宙乗りだけで猿之助歌舞伎がここまで来たのではありません。やるべき歌舞伎をしっかり続けてきたから、猿之助歌舞伎はここまで来たのです。
そのことを、平成26年7月歌舞伎座の舞台を見るとつくづく感じました。7月歌舞伎座公演には二代目猿翁はいませんが、座頭格に玉三郎と海老蔵を置いてはいても、その大半が二十一世紀歌舞伎組の面々であって、別稿「中車の夜叉王」にも書きましたが、彼らの作る芝居にはアンサンブルと云えるものが確かにありました。役者それぞれの演技にひとつの方向に向いた感覚が流れている。それが舞台を引き締めている。その感触は世間でいわゆる「本格」と目されているもの、ここでは敢えて菊五郎劇団を 引き合いに挙げますが、彼らの持つ感触とは若干異なります(芸の良し悪いを言っているのではない)けれど、吉之助は昨今の菊五郎劇団にさえアンサンブルというものをあまり感じないです。それぞれの役者がそれぞれ好きにやってそれで芝居にしているという感じです。引き締まったものが感じられないです。 まあ昔の歌舞伎はそんなものだったかもしれません。しかし、これからの歌舞伎にはアンサンブルの感覚が絶対に必要です。それでないと他のジャンルの舞台芸術に伍して行けません。この点において二代目猿翁はやはりしっかりしていたということが言えます。このアンサンブルを作り上げるのに、二代目猿翁だって三十年近く掛かったわけです。芸の道程は実に長い。しかも、芸というものは崩れる時には実に簡単にあっけなく崩れます。ですから、勘九郎・七之助・松也らが将来本格の歌舞伎役者に成長していくための修業の場とする為の、新しいコクーン歌舞伎のコンセプトを作るべきです。しかし、残念ながら、演出家・串田にそれを期待することは無理と云うか、酷なことです。ホントはそういうことを指導できる助言者を付ける必要があるでしょう。「そこは違うよ・・」と いうことが言える助言者が必要です。ですから、今回の「三人吉三」はエンタテイメントとしてテンポ良く仕上がっていたと思います。役者も一生懸命やっている。客席も盛り上がっている。作品解釈としても決して間違ってませんが、勘九郎らと串田との提携はもう潮時であると、吉之助は思いますね。
(H26・8・9)