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吉之助の雑談33(平成30年1月〜6月)


○平成30年4月歌舞伎座:「絵本合邦衢」 ・その3

劇団青年座の石澤秀二演出(昭和44年)では「盟三五大切」幕切れで討ち入りに赴く塩治浪士が居並ぶなか、小万の首を抱えた源五兵衛が毅然と立つ姿に「海行かば」の曲が背景に流れるという具合であったそうです。この演出については当然いろいろ意見があるでしょうが、このような 大胆な扱いにも南北の作品は耐えると云うことは、知っておいた方が良いです。しかし、吉之助が歌舞伎の南北復活上演に期待したいのは、新劇やアングラ演劇ならば場面や台詞を書き換えたり・付け加えたり音楽や衣装・装置で大胆な意匠を凝らしたりするところをそれをせず、敢えて作品に正攻法で対することで冷酷なほど冷静に ドラマを描き出すということです。これが歌舞伎ならではの、歌舞伎にしか出来ない南北へのアプローチだと思うわけです。

ですから「盟三五大切」で云うならば、主人を欺いたことを悔いて腹を切った三五郎に対して源五兵衛が云う「こりやかうなのては叶うまい」という台詞を、歌舞伎は真正面から言わねばなりません。石澤秀二は、この台詞は封建主義の論理そのままの冷酷な台詞で許されないとしてカットしてしまいました 。これは新劇の立場ならば、その解釈は分からなくはありません。(別稿「人格の不連続性」をご参照ください。)しかし、この台詞は「主人を欺いた家来など死んで当然の報いだ」と、家来を冷酷に切り捨てているのではないのです。

吉之助ならば、この台詞を次のように読みます。 源五兵衛は「俺はお前を主人思いの忠実な家来だと認めるぞ、そんなお前が心ならずも主人を欺いてしまったと知った時、この過ちをそのままに生きていることは忠義なお前ならば到底できないだろう、自害したくなるのもそれは当然のことだよなあ」と言っているのです。そこに忠義に生き、忠義に振り回された愚かな人間の生き様があるということです。これが歌舞伎の読み方なのです。このことはその後の源五兵衛の台詞に「その志あるなれば、死ぬに及ばぬものなるを、あつたら若者見殺しに・・」とあるのですから、前後関係を読めば明白なことです。

現代においても、組織の論理に生き、組織の論理に振り回されて、勝手に忖度(そんたく)したり、文書を改ざんしたり 、愚かなことをすることは日常茶飯事としてあるわけです。せめてまっとうな人としての心を持って欲しいものですねえ。化文政の世と、現代の平成の世と、人のすることにどれほどの違いがあるでしょうか。 そこから新たな社会的視点が生まれるのではないか。

例えば「絵本合邦衢」ならば、核心の台詞は何になるでしょうか。大詰・合邦庵室の場において、宿敵大学之助を目の前にしながら病身で手出しができなかった与兵衛が返り討ちされます。この後、合邦が戻ってきて、ふたりは互いを兄弟であると知るのですが、その時にはもうすでに遅い。弟の死の悲しみもそこそこに合邦はすぐに仇を討ちに発たねばなりません。出立する合邦がこう言います。

『いずれ敵に出会う日は、討つても死ぬる、討たいでも死ぬると覚悟もきわめている。』

「討つても死ぬる、討たいでも死ぬる」とは、今の自分は宿願を遂げることしか頭にないということです。生きるということが、宿願を遂げる(敵を討つ)という目的と一体化している のです。宿願を遂げれば・その後の人生を生きるために何か目的が必要になることは当然ですが、今はそのことをまったくイメージできない状況に彼はいます。宿願を遂げた後の人生は彼の頭のなかにないのです。「ない」という のは予定表に書き込みが無いというだけですが、このことを合邦は「死ぬ」と表現しています。なぜならば、合邦の現在の人生は敵を討つためだけにあり、宿願を遂げられるならば 、たとえその時点で命が奪われても悔いはないという厳しいところにまで、彼は追い込まれているからです。 そこに現代にも相通じる「生きることの厳しさ」があります。これが歌舞伎の南北の読み方なのです。(この稿つづく)

(H30・5・22)


○平成30年4月歌舞伎座:「絵本合邦衢」 ・その

鶴屋南北が活躍したのは文化文政期のことですが、江戸時代にはその盛名の割に南北ものは再演が少なくて、幕末期まで切れ目なく上演がされてきたのは、「東海道四谷怪談」くらいのものだったのです。明治までに歌舞伎での南北の伝統は、ほぼ絶えていました。どうしてそうなったか、その背景をよく考えねばなりません。恐らく時代との親和性・趣向性があまりに強すぎて、再演が困難だったのだろうと思います。時代が離れてしまうと、気分を共有することが ますます難しくなります。その後の歌舞伎が、黙阿弥に代表されるように下座を多用した音楽的表現の方へ傾斜したことも、台詞劇の様相が濃い南北ものが敬遠される一因になったと思われます。

ですから今日知られる南北ものの多くは、大正・昭和の南北再評価の動きによって復活されたものでした。南北ブームはこれまでに二度ありました。第1期は、大正から昭和初期において二代目左団次らによって復活上演が試みられた時期でした。第2期は、戦後の70年代(昭和45年〜55年頃)のことでした。70年代においては南北作品は歌舞伎はもちろんですが、新劇・アングラ演劇などでも南北が盛んに取り上げられました。

どのような観点から南北再評価がなされたかというところも、大事なポイントです。南北は社会の最下層に生きる人々を作品に大勢登場させて、封建制度・身分制度の世に渦巻く悪意や欲望を乾いたタッチで描写しました。諧謔味や笑いと云うエンタテイメント性の陰に隠されていますが、そこに南北の醒めた観察眼が感じられ ます。南北再評価の動きは、作品のなかに社会批判の立場を投影するところから始まったのです。このような見方は、当時流行りであったマルクスの唯物史観が影響してい ます。

第二期南北ブームの時期には、南北は「怨念の作者」と捉えられました。当時の70年安保闘争あるいは大学紛争は、この時代の若者を巻き込む激しい渦のようでした。しかし、社会の不正・不公平を糾弾しようとした若者たちの理想は、「体制」と呼ばれた社会構造のなかで押さえつけられてしまいました。さらに学生運動自体も主義主張で内部分裂して互いに争いを繰り返し、自己崩壊していきます。挫折を味わった若者たちが演劇に身を投じた時、南北作品の登場人物の生き様やドロドロとした怨念の渦巻く世界がリアリティーを以って迫ってきたのです。

それにしても南北が世の中を辛辣な観察眼で見たことは確かだとしても、南北が社会批判・社会変革の意識を以て作品を書いたとすると、これはちょっと色眼鏡で読み過ぎかなという感じはします。あの時代にはそこまで強い 批判意識は持てたとは思えません。しかし、漠然としてではあるけれども、これを延長して行けば、やがて社会変革への衝動につながっていく要素は確かにあるのです。このような要素を抽出し 強調して、新たな社会的な視点から作品を見詰め直すことで、南北は現代にようやく蘇ったのです。

美術であれば鑑賞者は古い作品と直接そのまま対峙できます。一方、演劇や音楽の場合は、再現者の行為(パフォーマンス)を介して、鑑賞者(聴衆・観客)は作品と対峙することになります。 歌舞伎であれば、再現者も鑑賞者もその時代の人であって、作品が成立した時代とはまった状況を隔てたところで対峙することになります。だから何らかの色眼鏡(フィルター) を通して作品を解釈することは避けられないのです。言い換えれば、その時代において新たな価値を見出されないならば、その作品を復活する意味はないのです。

新劇やアングラ演劇ならば、南北原作を大幅に書き換えてその時代の嗜好に合うように演出意図を強調することが出来ます。舞台・衣装を現代風に作り替えても良いし、背景音楽をロックやラップのリズムを使っても良い、何でも自由に出来ます。しかし、 歌舞伎の場合は、伝統芸能とは「昔から伝わっていることをしっかり正しく守ってやります」ということを標榜している芸能なのですから、当然やれることは制約されます。何でも自由に出来るというわけではありません。しかし、 歌舞伎と云えども再現芸術ですから、その時代の色眼鏡(フィルター)に必ず影響されるし、それがなければ現代に古きものを蘇らせることは出来ないのです。そのような相克の狭間に歌舞伎はあるのです。だから歌舞伎のなかで一旦途絶えてしまった南北の伝統を現代に蘇らせる為には、「古い革袋に新しい酒を盛る」という行為が必要になります。古い形式のなかに、新しい心・新しい 解釈を盛り込むと云うことです。それは新たな社会的な視点を以て南北作品を再解釈していくことでしか出来ないと、吉之助は申し上げたいですねえ。(この稿つづく)

(H30・5・10)


○平成30年4月歌舞伎座:「絵本合邦衢」 ・その1

「絵本合邦衢」については別稿「返り討ち物の論理」で論じたので、特に付け加えることはないのですが、本稿は雑談風に書いてみることにします。例えば序幕・多賀領鷹野で左枝大学助寵愛の鷹を誤って子供が殺してしまって、 非情にも大学助に手討ちにされる場面が出て来ます。続いて子を殺された親の嘆き・怒りの場面が描かれます。そう頻繁に起きたとは思いませんが、江戸時代には、大名行列の前をうっかり横切ってしまった庶民を無礼討ちにしたとか、そう云う事件が起きることがあったようです。当時の江戸の観客(その多くが町人階級であったと思われる)がこのような場面を舞台で見た時、武士に庶民が問答無用で畜生の如くに斬り捨てられることの理不尽さ、斬った武士に何のお咎めも課せられないことの不公平に、正義はどこにあるのかと強い憤りを感じたと思います。

もちろん当時の庶民に平等とか人権とか云う概念はありません。そのようなことを自覚したはずはないですが、しかし、この感情を延長して行くならば、その怒りは、やがて封建制度への疑問・社会変革への衝動へと発展しかねないどす黒い要素を孕んでいるのです。例えばドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」では、ドミートリー・カラマーゾフに父親を侮辱された少年イリューシャが深く傷付いて、この事件をきっかけにやがて社会主義思想に目覚めて行きます。

このような場面を鶴屋南北が書いたことは、ここだけを取ればとても危険なことではないでしょうか。しかし、恐らく、悪人大学助が最後に討たれて、悪は滅び善は栄える勧善懲悪の結末に仕立てることで、観客も一応収まるわけであるし、お上への言い訳も立つ、だからお上もこれを許容したと云うことなのです。 それで芝居としては丸く収まったのです。しかし、一旦観客の脳裏に刻まれた怒りの感情はいつどんな形で再び湧き上がるか、それは誰にも分からないことです。見方によっては、それは来たるべき時代(明治維新・四民平等の世の中)を深く静かに準備したと言えなくも ありません。それは「絵本合邦衢」初演(文化7年・1810)から数えれば、約60年後のことでした。この60年を長いと見るか、短いと見るか。(この稿つづく)

(H30・5・6)


○平成30年4月御園座:「勧進帳」・その2

と云うわけで白鸚の弁慶は良かったですが、逆に幸四郎の富樫の方に問題が多いようです。どうしてこうなっちゃったのか、以前はこんな感じでなかったと思うのですが、今回は謡掛かりに強く傾斜した印象です。冒頭の名乗りから台詞が伸びて、はるか冥界から聞こえて来るが如し。これではまったく台詞劇の態をなしません。「富樫のサエ〜モンにて候」と、エの音をこんなに長く転がす富樫は初めて聞きました。山伏問答も台詞が伸びて良くありませんねえ。最初の一問とに問目で弁慶の答えを聞いて納得したように「ウン」というのも、よろしくない。富樫は、実務者なのです。山伏問答は本来富樫の方から押して行くべきものものだと思いますが、完全に弁慶ペースの問答になってしまいました。弁慶が義経を打擲するのを止める「早まり給うな」の台詞は、悲鳴のように聞こえました。まあ確かにあの台詞は或る意味、富樫の悲鳴なのかも知れません。しかし、聞 いてみるとどうも心情表出が生(なま)に過ぎる気がします。ここはもう少し抑えるべきでしょう。

ところで幸四郎は弁慶をこれまで二度勤めて「この箇所は富樫にはこう攻めて欲しい・こう受けてほしい」と感じるところがあったと思いますそう云う自分のイメージを素直に出せば、それで良いのではないでしょうか。弁慶を二度勤めたら勤めただけのものを富樫でも出して欲しいと思います。これが幸四郎の感じている(弁慶から見た)富樫のイメージなのでしょうか。弁慶と富樫はドラマ的には対立していると見えますが、音楽的に考えれば同じ義経の主題を協奏しているのです。弁慶と富樫をまったく別物に考えてはいけません。何だか変なところに凝っただけに思われます。まあこれほどの重い演目、完成ということは決してないのですから、これからも試行錯誤を続けて欲しいと思います。

ところで歌舞伎の義経はいわば現人神で、近年は優美なイメージが強過ぎて実体感が希薄になり、笈を背負う体力があるかさえ心配になりそうです。もちろんそう 云う義経も良いですが、今回の鴈治郎の太目でがっちり体型の義経は、最初登場した時はどんなものかと思いましたが、これが存外に良くて、とても興味深く見ました。鴈治郎の義経はしっかり人間の義経です。確かに昔は戦場で奮戦したことのある男・義経でした。「判官御手を」の場面においては、弁慶への強い信頼と感謝に裏打ちされた義経の心情が実感で伝わって来るようでした。「勧進帳」のこの場面は、あまり弁慶の忠義にばかり凝られると鼻白むことがありますが、今回気持ち良く見ることが出来たのは、鴈治郎の功績 も大きいと思います。

(H30・4・28)


○平成30年4月御園座:「勧進帳」・その1

平成30年4月御園座は、新しく出来た劇場の杮葺落興行であり、また高麗屋襲名興行(二代目白鸚・十代目幸四郎)でもあり目出度いことです。特に今回の「勧進帳」は75歳8か月になる 二代目白鸚の久し振りの弁慶 ということで、吉之助も名古屋へ見に行って来ました。生涯に弁慶を1,600回以上演じて弁慶役者と云われた祖父・七代目幸四郎が最後に弁慶を演じたのは昭和21年6月東京劇場でのことで、この時の七代目幸四郎は76歳1か月でした。今回の二代目白鸚の弁慶はそれに次ぐ高齢記録になると思いますが、その二代目白鸚の弁慶も1,100回を超えています。

だから自然とそうなってしまうわけですが、吉之助が見た「勧進帳」の弁慶も一番数多く見たのは白鸚ということです。白鸚にとって「勧進帳」の弁慶は三本指に入る最重要の役でしょうし、弁慶の変遷を辿るだけで白鸚の芸の道程を語ることが出来そうです。吉之助が見るところでは、ここ数年の白鸚は身体から余計な力が抜けて演技が自然になって来ました。芸がいい感じに枯れて来た感じです。しかし、弁慶や熊谷直実ではなお最善の芸を求めて格闘するところが見えて、やはりこの二役に関しては二代目白鸚にとって・と云うよりも高麗屋の家にとって特別に重い役なのだなあということを痛感させられます。今回の約2年半ぶりの白鸚の弁慶についても、是非そこのところを見届けたいと思いました。

そこで今回(平成30年4月御園座)の白鸚の弁慶ですが、原点に立ち返った端正な弁慶という印象を受けました。ここ数年の白鸚の弁慶は、余計な力が抜けた分流麗 さが強くなり謡掛かりの方に傾斜した印象がありました。勧進帳読み上げ、山伏問答が滑らかに過ぎて、お能みたいに弁慶の声があの世から聴こえて来る感覚がしたものです。今回の弁慶を見るとそう云う気配が消えて、音楽劇から芝居(台詞劇)の方へ回帰した感じです。これはとても良いことです。「勧進帳」が能への上昇志向を孕んでいるのは確かなことですが、 劇の根幹にある古(いにしえ)の心、つまり荒事の骨太い弁慶のイメージをやはり大事にしてもらいたいのです。やっぱり弁慶は元禄以来変わらぬ歌舞伎のヒーローなのです。勧進帳読み上げ、山伏問答にしっかり足取りを踏んだ元禄歌舞伎の台詞劇の感覚が戻って来たことは、とても嬉しいことでした。或いは十代目幸四郎を襲名した息子の前で気持ちを新たにしたことが良い結果になったのでしょうか。吉之助にとってもここ数年の白鸚の弁慶のなかで最も納得が行くものであったと思います。延年の舞も動きに無駄がなく、端正で自然な風格が立ち現れて良かったと思います。富樫に「勧進帳聴聞の上からは疑いのあるべからず」 と言われてサッと踵を返して帰ろうとするとか、義経を打擲する時に「ご主人さま、申し訳ございません」と云う風をあからさまに見せるとか、直して欲しいところもありますけれど、吉之助も長年見ていますから、そこは白鸚の弁慶ではああ云うものであるという境地にまで至っております。

ところで幕切れの飛び六法では、観客の弁慶への盛大な手拍子に座席からひっくり返りそうになりました。テレビ映像ではこういう場面を何度か見ましたが、吉之助が実際に目の当たりにしたのは、今回が初めてです。芝居に入れ込んで弁慶を拍手で応援したい気持ちはまあ理解できないわけではないし、確かに歌舞伎は観客参加を拒否しない芸能であるかも知れませんが、 あの下座音楽を四拍子で手拍子されると調子が狂って弁慶がつんのめるのじゃないかと心配になりま した。さすが白鸚は無事に引っ込みましたが、 四拍子の手拍子を受けて六法を踏むのはさぞかしやり難かろう。もしあそこでどうしても手拍子しろと言うのなら、吉之助ならば百歩譲って表アタリ・裏アタリに取って二拍子に打つと思います(それが伝統的な邦楽のリズム感覚なのです)。二拍子にならないで、観客が自然と四拍子で受け取っちゃうということは、師匠・武智鉄二がこの光景を見たら戦後日本の被植民地的音楽教育ここに極まれりと嘆くであろうなあ。このような日本人の身体感覚の微妙な変化は、長い目で見て伝統芸能の感覚に大きな影響を及ぼすことは間違いありません。いやもう影響はどこかに出ているのかも知れません。黙阿弥のダラダラ調も案外こんなところから来ているのかも知れませんねえ。(この稿つづく)

(H30・4・25)


○平成30年4月歌舞伎座:「江戸城総攻」〜「西郷と勝」・その5

今回(平成30年4月歌舞伎座)での「西郷と勝」は「将軍江戸を去る」の前半のみで、芝居としては半端なところがあるわけですが、これを半端に終わらせず芝居に収束感を与える為には、長い世間話の最後に西郷がふと漏らす述懐に余韻を持たせることです。西郷は次のように言います。

『ただねえ勝先生、今お話する通り、負軍(まけいくさ)の官軍は、不思議にも一歩づつ勝ちもした。勝つべきはずの幕府軍は、不思議にも一歩づつ負け申した。この一事は、日本国民として、お互いに考へんならんことでごわすなア、勝先生』

この時、西郷の脳裏に慶喜が浮かんだことでしょう。勝は「そうです。(ハラハラと落涙して)天佑われにあり」と応えます。天佑とは、天の恵み、天の助けのこと。負軍のはずが勝ってしまった官軍の指導者に西郷が在り、勝つべきはずだったのに負けた幕府軍の指導者に慶喜が在り、日本の将来を決めるこの大事な時に勝者と敗者に 、天がこのような配剤をなされたことは、真に不思議であるなあと云うのです。これが「将軍江戸を去る」前半のみならず、「江戸城総攻」三部作の最重要の台詞です。もちろん次の「上野大慈院」でもまだまだドラマが控えてはいますけれど、大勢(歴史の流れ)は決まっています。西郷の決断を受ける形で(それは西郷・勝の会談の約半月後のことになりますが)慶喜が腹を決めて江戸を去ることになります。

さて平成30年4月歌舞伎座の「西郷と勝」のことですが、西郷と云う人物の底知れぬ大きさを出すには、周囲とまったく異なる超然とした台詞のテンポの遅さが必要になりますが、逆に云えば周囲の役者が気忙しい早めの二拍子のテンポを取ることが大事になります。二拍子のテンポが青果劇の様式であることは言うまでもない(別稿「左団次劇の様式」を参照)ですが、なにしろ明日は江戸城総攻撃の大号令が出るという時ですから、異常な緊張と興奮が 場を支配しているに違いない。それが気忙しいリズムに出るのです。ところが、舞台を見ると勝も中村も醒めているのか、みんなおとなしいですなあ。それは青果劇の様式が取れていない(気忙しい感覚が表出できていない)からです。これでは西郷どんが引き立たんでは ごわへんか。

松緑の西郷は、長い独白をダレずに持たせてなかなか頑張りました。しかし、如何せんやや軽量で、西郷どんの大きさの表出までは致し方ないところです。見掛けのことではなく、台詞のことです。初演の二代目左団次の慶喜と西郷の描き分けの勘所も、台詞であったと思います。大事なことは、しっかりと地を踏みしめるが如く悠揚迫らざる二拍子のテンポでしゃべることです。息を保つのが大変になるかも知れませんが、言うまでもなく速度は周囲とは異なれども西郷は西郷なりに急いており、その着実な足取りによって西郷は確実に事をなすのです。

もうひとつ大事なことは、台詞の音量もあまり変化させずに維持する方が良い。松緑が演じる西郷はいくつか台詞を声高にする場面があります。まず中村が江戸市中で彰義隊士と私闘となったことを注意する件、勝に江戸城引き渡しに関し三点を確認する件、、もうひとつは総攻撃中止の命を中村が「受け取れもはん」と拒否したのを一喝する件です。これらの場面で大声になるのはまあ気持ちは分からぬことはないし、長台詞のアクセントになっているかも知れませんが、ここで 声高になると権力で頭から押さえつける感じになり、西郷どんらしくない。特に勝に江戸城引き渡しに関し三点を確認する件で大声を出すのは、敗者に対し高圧的に出る印象とな ってよろしくありません。「戦争ほど残酷なものはごわせんなあ」を大声で張るのも、表面的に響いてよろしくない。ここが聴かせ所だと思うでしょうが、前章で述べた通り、こういう台詞をこそ低くボソッと言われなければなりません。そ うすることで真実味が出せる。そこに西郷どんの飾らぬ人柄が現れるのです。台詞で工夫すべきところは語調、心持ちテンポを速めるとか、語尾を強めに押さえて調子をクリアに出すとか、そう云う工夫が出来れば、西郷どんの大きさが出せると思います。

真山青果全集〈第7巻〉 (1975年)

(H30・4・23)


○平成30年4月歌舞伎座:「江戸城総攻」〜「西郷と勝」・その4

「江戸薩摩屋敷」で西郷は往来の鰯売の喧嘩が気になって仕方がありません。中村半次郎からも「西郷先生、おまんさア全体、馬鹿でごわすか」と呆れられます。明日にはいよいよ官軍が江戸城を総攻撃と云う天下大事の時に、詰まらぬ市井の鰯売五十文の損得争いが何のことかと思うのは、無理からぬことです。しかし、最後に西郷はそこから総攻撃中止という大事の結論を引き出してしまいます。この西郷の論理をどこか滑稽な屁理屈に感じる方は少なくないと思いますが、これが西郷の思考回路だということが分からないと、「将軍江戸を去る」全体が分からぬことになります。そのヒントは「西郷と云う奴は底の分からん男だ、小さく叩けば小さく響き、大きく叩けば大きく響き、馬鹿なら大馬鹿、利巧なら大利巧だ」と云う、竜馬の評言にあります。

西郷という大鐘は、小さく叩けば小さく響き、大きく叩けば大きく響く。鰯売五十文の損得争いは、たかが市井の小さな出来事ですから、こういう小事には西郷という鐘は強さに応じて小さい音で響きます。しかし、鐘の振動は西郷のなかで持続し、唸りを上げて反響を繰り返しながら次第に増幅して行きます。鐘はやがて大きな音を響かせ始めるのです。西郷という人物のなかでは、小事は大事に通じ、大事もまた小事に通じる。どんなものからも、この世の道理・真理が引き出せるのです。

西郷は勝に世間話をするなかで、進軍の道中で富士を見た話、品川御殿山から江戸の街を眺めた話、鰯売の話など取りとめなくダラダラと続けます。これはいつもの青果劇の議論の応酬のような台詞とはちょっと趣きが異なるみたいだと云う点はとても大事なところで、これは或る結論(総攻撃中止)を引き出すために筋道立ててしゃべっているのではなく、西郷は話題を替えつつ最初から最後まで同じことを繰り返し語っているのです。「俺たち官軍が今しようとしていることは、どれほど恐ろしいことか」という自問自答を牛が反芻(はんすう)するが如くに繰り返しているのです。

「江戸城総攻撃は都合によりて取りやめ」と聞いて最初は「そら受け取れもはん」と反抗した中村が、これに続く西郷の長々の世間話を聞いた後には何の抗弁もせず、「西郷先生、では御命令のごつ、明日の進撃を中止いたします」とすんなり納得して去るのは、中村が西郷の傍にいてその思考回路をよく承知しているからに他なりません。

『わしが目的通り、明日進軍ラッパを吹かせたら、この鰯売のように、明日の戦争も知らず、政治も知らず、国家の大勢現状も知らず、ただ五十文の損得と妻子自分等の生活のことを知る以外に何もない無辜(むこ)の良民何十萬何百萬と・・殺さなければなりません。先生、実に戦争ほど残酷なものはごわせんなア・・。』

西郷という大鐘は、小さく叩けば小さく響き、大きく叩けば大きく響く。と云うことは、西郷が市井の小事を語る時、その音は小さく響かなければなりません。だから「先生、実に戦争ほど残酷なものはごわせんなア」という台詞は、大きい声で張り上げてはならぬ台詞です。この台詞は西郷が足を地に着けた生活感覚からつかんだ真理に違いないですが、同時にホントにたったそれだけの小事に過ぎません。だからこの台詞は低くボソッと言われなければなりません。ただし西郷なりの切迫感を以て。それでこそ「西郷ドン」の述懐が心に浸みます。

余談ですが、現行の「将軍江戸を去る」(第二場:上野山黒門前以降の慶喜の件のみを上演する)上演台本では、上述の西郷の台詞がアレンジされて山岡鉄太郎の台詞として付け加えられて、鉄太郎が「上様、実に戦争ほど残酷なものはござりません」と大声張り上げて観客が拍手する聞かせ場になっています。この部分は鉄太郎が慶喜に「勤王」を説く弁舌の流れにそぐわない奇異な印象がありますが、実はこの鉄太郎の台詞は青果全集所収の台本(初稿)にないものです。誰が何時頃こういう改変をしたのか分かりません(青果本人ではないと思います)が、まさに取って付けた台詞であったわけです。これは元に戻した方が良いように思われますね。(この稿つづく)

(H30・4・18)


○平成30年4月歌舞伎座:「江戸城総攻」〜「西郷と勝」・その3

「将軍江戸を去る」で西郷と慶喜をコインの表と裏に描くことで、青果は何を訴えたかったのか考えなければなりません。それは指導者たる者は、一時の激情に駆られて判断を誤ってはならない、多くの民の生活をもその判断に巻き込むことになるのであるから、その選択肢は誤っていないか、もっと良い選択肢は他にないか、何度も自問自答を繰り返し、決断は呻吟の果てに捻り出されねばならぬものだということです。西郷も慶喜も、決断することの 怖さを心底分かっている指導者でした。決断した後も「この判断で良かったか」、ずっと悩み続けるのです。 西郷も慶喜も政治を私(わたくし)することが決してない指導者でした。敵対する陣営の指導者が、西郷と慶喜であったからこそ日本が二つに分かれて内戦することは避けられたのです。 それが青果が二人をコインの表と裏にして描いたことです。ちなみにこの「将軍江戸を去る」が初演された昭和9年前後というのは、満州事変から日本が戦争の泥沼に入って行くまさにその最中に当たります。この時代によくこんな芝居が書けたものだと思います。この時期に青果は「この芝居は明治維新の偉人傑物を描いた 昔のお話です」と云う顔をして、しれっとして自分の信じるところを書いたのです。これを舞台にかけた二代目左団次も凄い役者だと思いませんか。

そこで昭和9年1月東京劇場で「将軍江戸を去る」を初演した二代目左団次が西郷と慶喜の二役をどのように演じ分けたか、このことを想像してみなければなりません。戦後の「将軍江戸を去る」上演は、ほとんど序幕「江戸薩摩屋敷」を省いて後半の慶喜の部分だけ上演したもので、たまに「江戸薩摩屋敷」を含めて上演した場合でも西郷と慶喜は二人の役者で分けて演じたものでした。戦後での慶喜役者と云うと三代目寿海とか十四代目勘弥になるだろうと思いますが、彼らが演じた西郷はとても想像出来ません。西郷と慶喜の二役を兼ねるのは至難なことなのです。

明治維新の偉人は時代が近いので写真も遺っているし人物の印象が鮮明に残っているから、これ以前の歴史上の人物を演じるのとは違った役作りの苦労があると思います。とりわけ西郷の場合、民衆の心のなかにしっかり 或る特別な「西郷どん」の印象があります。勝が引く坂本竜馬の言として「西郷と云う奴は底の分からん男だ、小さく叩けば小さく響き、大きく叩けば大きく響き、馬鹿なら大馬鹿、利巧なら大利巧だ」という評言が芝居のなかにも出て来ます。ぬぼーっとして捉えどころがない人物の大きさ、底が分からんようでいてすべてを呑み込む包容力、そんな大きなイメージが民衆の心のなかにどっかり座っています。他の維新の偉人たちにはそういうところはありません。西郷という人物 は特別の存在なのです。したがって大久保一蔵(利通)でも桂小五郎(木戸孝允)でも役者はある程度自分のキャラで役作りが自由に出来ますが、西郷だけは愚鈍の如くぼーっとしたスケールの人物の大きさが出せないと「西郷どん」にならないということなのです。そこが西郷を演じる役者が辛いところです。

まず二代目左団次の様式である真山青果の芝居では、急き立てる二拍子のリズムがとても大事で、これがなければ「青果劇」でないと言っても良いほどです。(これについては別稿「左団次劇の様式」で詳しく触れたので、そちらをご参照ください。)急き立てる二拍子のリズムとは、自分の胸をなかにある熱い心情を吐き出さずにはおれない、その心情において相手の気持ちを変えずにはおかないという切迫したリズムなのです。原則的には速めのテンポ感覚です。青果の芝居では、このリズムが全体を支配しており、登場人物の誰もが熱く語ります。(昨今の新歌舞伎の舞台では、熱く語るということを、大声で怒鳴ることと混同している風がありますが、これではいけませんね。)そこで「元禄忠臣蔵」の内蔵助を考えてみれば、内蔵助は沈着冷静な指導者であるから、急き立てる心情を胸に秘めてこれを決して表に出すことはしないので、二拍子は決して急くことはなく(つまりあまり速めのテンポにしない)、じっくり足元を踏みしめるように確実な遅めの二拍子を取ることになります。内蔵助は生半可なことで取り乱すことはないのですが、時に溢れ出る心情を押さえきれないことがあります(と云うよりも実は内心にある感情の揺れが他の人物よりもずっと大きいのが内蔵助なのです)。この時、内蔵助から激情がパッと迸( ほとばし)る、そこが内蔵助の見せ場になります。「将軍江戸を去る」の慶喜も、急き立てる二拍子のリズム処理は、内蔵助と同様の行き方で良いと思います。

西郷も基本は同じと考えて良いです(青果は左団次の役として西郷と慶喜を書いているのですから)が、西郷の場合は役作りがちょっと難しい。衣装や外見で西郷と慶喜と役を仕分けるのには限界がありますから、口調ではっきり人物を仕分けないと「西郷どん」になりません。まず周囲の役者とはまったく異なる超然とした台詞のテンポの遅さが要求されるでしょう。これで底知れぬ器量の大きさを表現するわけですが、二拍子のリズムがないのではない。むしろそれだからこそ二拍子のリズムをしっかり踏む必要があります。西郷は最終的に周囲を自分のペースに巻き込まねばならぬわけです。超然とした遅さのなかに、牛歩のように遅いけれど確実な二拍子のリズムがある のです。(つまり裏返せば、西郷は西郷なりのペースで急いているわけです。)これがないと左団次劇ではない、青果劇ではないと云うことになる。これが出来ないと「西郷どん」にならないのです。(この稿つづく)

(H30・4・16)


○平成30年4月歌舞伎座:「江戸城総攻」〜「西郷と勝」・その2

「将軍江戸を去る」(通常は序幕「江戸薩摩屋敷」を省き、第2幕第1場・上野黒門前の場からの上演のみ)について巷の劇評では、「元将軍・徳川慶喜は謹慎していたが、度重なる官軍の横暴と賊軍呼ばわりに肚を据えかね錯乱して、幕府内の主戦論者の意見に傾いていた、しかし山岡の決死の説得により遂に慶喜は自分の誤りに気が付いて江戸を去った」云々と書かれることが多いようです。しかし、実は慶喜が朝廷に対して弓 を引く行動に出ることなど決してあり得ないのです。この点は別稿「慶喜の心情〜真山青果の歴史認識」で書きましたからそちらをお読みいただきたいですが、水戸家出身である慶喜のアイデンティティが「勤王」にあるからです。例え幕府を潰してでも勤王を貫くことが義務付けられた身であるのです。だからこそ慶喜は自分が朝敵呼ばわりされて相応の扱いをされないことが、身がわなわな震えるほど耐えられません。薩長の連中に対して怒りをぶつけたくなる。謹慎の「初一念」が揺らぎそうになるのです。それで慶喜は動きが取れなくなって、江戸から退く決断を先送りにしてしまいます。ここで大事なことは慶喜の「初一念」が揺らぐということは、即、慶喜が主戦論に傾いたと云うことではないということです。慶喜は江戸を退く踏ん切りが付かないだけです。周囲の者たちは血気盛んで、慶喜の些細な様子や言動を材料に、慶喜の真意を裏読みしようとする輩ばかりです。そういう連中が開戦だ開戦だと囃し立てます。これでは滅多に動かれません。

ではなぜ慶喜は踏ん切りが付かないのでしょうか。それは朝廷を背後に錦の御旗を振りかざし横暴を極める官軍が、慶喜の目に圧倒的な存在に見えているからです。慶喜の目には、それが実際以上に、悪意的に凶暴に威圧的に見えています。これを具体的にひとりの人物にイメージを集約するならば、それは西郷吉之助です。慶喜には西郷という人物が底知れぬ闇・底知れぬ悪意に見えています。西郷という人物が、慶喜に朝敵の汚名を着せて殺し、江戸の街を焼き尽くし、代々徳川家が築きあげてきたものを全否定してしまおうとしている。錦の御旗を振りかざしているけれども、それは表だけのことでそんな綺麗なものではなく、実は関ヶ原以来の外様大名の怨念を晴らさんとする私怨 であると、慶喜は西郷に対して感じています。もちろんこれは慶喜が心のなかで作り上げた幻影に過ぎないのですが、西郷の圧倒的な幻影を前に慶喜は動くことが出来ず、それでも必死で自らの「初一念」を呼び起こそうとしています。

「西郷と勝」を論じる前に、今回の舞台に乗らなかった「将軍江戸を去る」後半の慶喜のことを述べましたが、実はこの慶喜の心情をそっくり裏返したのが、序幕「江戸薩摩屋敷」の西郷吉之助なのです。「将軍江戸を去る」初演は昭和9年1月東京劇場で、この時、二代目左団次が西郷と慶喜の二役を演じました。二役を兼ねることで左団次にかかる負担は相当なものだったはずです。歌舞伎では二役兼ねることはよくあることですが、本作は新歌舞伎、ほとんど近代劇です。このような近代劇で西郷と慶喜という最重要の二役を左団次が兼ねるということは、そこに暗喩(シーニュ)つまり演劇的必然を読まねばならぬのは、当然のことです。西郷と慶喜は、官軍と賊軍、勝者と敗者という立場ではありますが、実はまったく同じような心理状況に置かれており、同じようなことで葛藤しています。西郷と慶喜の二人は、まったくコインの表と裏と云うべきなのです。これは序幕「江戸薩摩屋敷」での西郷の台詞を見れば明らかです。

『江戸城を屠(ほふ)り、慶喜さんを殺そうとしたのは、決して官軍が強いために威張ったのじゃごわはん。正直に云えば、官軍は弱すぎました。蛇を畏れる臆病者に限って、毒をなさぬ青大将でも、見かければ殺さずには安心がなりもはん。(中略)臆病者が、青大将を殺す、その心持ちと弱さは、認めてもらはにゃなりもはん。』

『大総督が駿河に陣取って暫く動かなかったのは、その五六里の間の進軍が、どうにも恐ろしくてなりもはんかつためでごわす。(中略)江戸城を救い、慶喜さんを助けるのは、誰のためでもなか、官軍のためでごわす、吉之助のためでごわす』

慶喜が幻影に怯えていたのに対し、西郷の怯えはもっと現実的なものでした。官軍の実力は大したものではなく、新政府のプランさえまだ出来ていない。錦の御旗という絶対的な切り札を持ってはいても、西郷はまだ慶喜の影に、幕府の影に怯えています。 いつか負けるのじゃあるまいかという恐怖に西郷は怯えています。そして恐ろしい決断(慶喜を殺す・江戸を焼き払う)をしようとしている自分に対しても、西郷は怯えています。官軍大総督府参謀筆頭である自分の決断次第で、事はどちらにでも動かせます。官軍の行方も、日本国の行方も、すべて西郷一人にかかっています。誰もが息を詰めて西郷の顔色を窺い、西郷の命令を待っています。西郷は誰にも相談出来ず、ただひとり自問自答を繰り返すだけです。(この稿つづく)

(H30・4・13)


○平成30年4月歌舞伎座:「江戸城総攻」〜「西郷と勝」・その1

今月(平成30年4月)歌舞伎座では、「明治150年記念」ということで、「西郷と勝」という芝居が上演されました。これは真山青果の「江戸城総攻」三部作から有名な西郷吉之助(隆盛)と勝麟太郎(海舟)による江戸城明け渡しの会見に関する場面、第1部「江戸城総攻」から第2場「麹町半蔵門を望むお堀端」、第3部「将軍江戸を去る」から序幕「江戸薩摩屋敷」を抜き出して、松竹文芸室が これを再構成して読み切りの芝居に仕立てたものです。

ところで真山青果と云うと、大石内蔵助とか東郷元帥とか、歴史上の偉人の芝居ばかり 書いているイメージが世間にあるやに思います。「江戸城総攻」 も、西郷・勝を始め、山岡鉄舟・徳川慶喜と偉人傑物のオンパレードです。しかし、その一方で青果はやくざ者とか社会や世間の枠からはみ出して屈折した感情を抱きながら生きている名もない庶民を描いた 芝居も、実はたくさん書いています。「青果は偉人とやくざ者を同じ視点で眺めていた」と云うと、これは確かにそうには違いないが、これはもう少し深く考えてみなければなりません。青果が人間のどんな側面に興味を持って芝居を書こうとしたのかを考えないと、却って誤解を生じることになります。

吉之助の云いたいことはこうです。誰でもその人なりに、例えその人のレベルであったとしても、誰でも「在りたい理想の自分」の実現を求めて生きているわけです。しかし、 個人を取り巻く様々な状況からその実現が困難に直面することはしばしばです。だから「 在りたい自分」の完成を求めつつも、自分がその域に到達できないことの、口惜しさや、自分に対する惨めさや哀しさ、或いは周囲に対する怒りや歯がゆさがあり、そこにその人間の葛藤とか、感情の揺れ動きが出てくるのです。青果はそのような人間の有様(ありさま)に興味があるのです。そういうところに偉人傑物とか名もない庶民の区別があろうはずがありません。

例えば「元禄忠臣蔵」を内蔵助という傑物がただ初一念を以て、脇目も振らず一心に、仇討ちの目的完遂へ向けて行動したドラマであると考えると、誤解を生じます。そうではなくて、内蔵助の心のなかは「ああでもない・こうでもない」と絶えず揺れています。自分のなかで妄想・雑念が湧き上がって、「これがベストだ」という解答が見い出せない。内蔵助は 常に考え込んでいます。決断することが恐ろしくて、内蔵助は なかなかそこに踏み切れません。決断した後でも、「自分の判断はこれで正しかっただろうか、自分は間違っていなかっただろうか」と内蔵助はずっと 自問自答を繰り返しています。「大石最後の一日」のなかで内蔵助は、次のように言っています。

『神仏の冥加によって運良くも仕遂げたと思う外はござりません。たとえ初一念がいかに強く鋭くとも、この冥加なくては所詮本望は遂げ得られませぬ。われわれが今日義士となり義人となるも、決してわれわれ自身の働きのみとは存知られませぬ。ひと口に言えば仕合わせよく、運が良かった、それが天祐でござります。武士冥利でござります。』 (真山青果:「大石最後の一日」)

内蔵助のこの謙虚さがあるからこそ、「この初一念があったから自分はここまでやってこれた」という述懐が絞り出されてくるのです。それは実に冷や汗ものであった。まったく危ない橋を渡って来たものだ、そういう気持ちから「初一念」と云う言葉が出て来るのです。(詳しくは別稿「内蔵助の初一念とは何か」を参照ください。)だから青果は「元禄忠臣蔵」のなかで内蔵助と 云う傑出した人物を描いたということではなく、ともすれば初一念がぐらついて挫けそうになる内蔵助、ともすれば誤った判断を下してしまいそうになる内蔵助 、そのためどうにも動きが取れない内蔵助を描いていることになります。それが「元禄忠臣蔵」のドラマなのです。舞台の内蔵助はそんな弱い人物に見えないじゃないかって?もしそう見えたならば赤穂浅野家中の者たちが内蔵助に付いていくはずがないでしょう。だから内蔵助はそう云う人間的な弱さを見せることが決して許されないのです。そう云う弱さをグッと胸のなかに押し殺して外に出しませんが、実は内蔵助の内面は激しく揺れているのです。(この稿つづく)

(H30・4・11)


○ヴェルディ:歌劇「リゴレット」のジルダに関する考察・その3

『よく耳を傾けると、ジルダと公爵の振舞いは同じメダルの裏表であることが分かる。反対の方向から二人は、同じ事柄に近づいたのである。一方では、(支配階級の)軽薄さが、他方では(支配階級への)憧れが愛を求める。両者が共に並び立ったり(わずか一瞬でさえ)一致することは不可能である。(中略)ジルダには、夢の王子様が、彼女の属する市民階級の苦労とは縁がなく、学生の服装をしているが、輝かしい権力側の人間であることが(無意識のうちに)分かっていた。(中略)(公爵の)軽薄な情熱と、(ジルダの)大きな憧れは、他の力が加わらなくても近づき合うことができる。(中略)どのように第1幕の二重唱でジルダのカレンティーナが公爵の歌を導くのか、どうやって未知の感情が封建君主を襲うのか、それを知るには耳を澄ますだけで充分である。これに続く「さよなら」のカヴァレッタでは、公爵の軽薄さが逆にジルダを巻き込むのが分かる。町娘ジルダのドラマは、公爵の軽薄さに彼女がただちに情熱をもって答え、乙女の憧れが快楽と権力への欲求に代わることにあるのだろう。』(レオ・ゲルハルツ:形象と記号〜リゴレットに寄せて、分かりやすくするため若干吉之助が文章をいじりました。)

ゲルハルツは、第1幕の「さよなら」のカヴァレッタでジルダの性格が激変する理由を見事に解析しています。公爵の軽薄な情熱とジルダの大きな憧れが混じり合い反応して、感情が爆発したのです。そしてそれは爆発であるがゆえに、一瞬で生成してアッと言う間に消え去ります。それは何かの誕生であると同時に死を示唆しています。まさに死するためにジルダは突っ走ることになります。

吉之助はここで「妹背山」のお三輪のことを思い浮かべます。杉酒屋の娘がそんじょそこらに滅多にいない、色男の鳥帽子売りの求馬に恋をします。求馬は素性を隠していますが、実は藤原淡海公でありました。ジルダの未知なるものへの大きな憧れ は、まさにお三輪と同じものであることは、すぐに納得いただけると思います。その感情が爆発した時、それは常のものとはまったく様相が異なる様を見せます。ジルダの「さよなら」のカヴァレッタがそう云うものだし、第2幕の父リゴレットとの二重唱もそうなのです。恋したために死すのか、死するために恋したのか、それが どちらかまるで分からない倒錯した瞬間が生まれます。例えばマリア・カラスの歌うジルダを聴くと、まるでジルダの形相が変わったと感じられる狂的な瞬間が 聴き取れますが、お三輪が見せる疑着の相というのも、まさにそのような異形の感情ではないかと思われるのです。 (別稿「疑着の相を考える」をご参照ください。)

一方、マントヴァ公爵の軽薄さと云うのは、例えばルチアーノ・パヴァロティの歌う「女心の歌」の、イタリアの澄んだ青空のようなあっけらかんと底抜けに明るい歌声を思い出してくれると良いですが、お三輪が恋する鳥帽子売りの求馬にそういうものがあるかと云うことも考えてみなければなりませんねえ。ここにはイタリアと日本の風土の違いが出ているように も思います。求馬の軽薄さは、公爵のような底抜けの明るさ のような形では出ません。それは憧れと云うオブラートに包まれて、ふんわりした 柔らかい形で出て来るのです。(このような表出形プロセスを取るのは、日本での支配階級と庶民との関係が、欧米のようなストレートな対立構図で は捉えられないせいでしょう。これはとても興味深い現象ですが、本稿では指摘するに留めます。)若衆としての柔らかい色気こそ、求馬が持つ軽薄さが持つものです。或いは「妹背山・御殿」の豆腐買い・いじめ官女を見ると、近松半二はずいぶんと奇天烈な設定を考えたものだなあとそのセンスをいつも興味深く思 いますが、代弁する形でそこに支配階級の軽薄さ・傲慢さが表現されているのかも知れませんね。

(H30・4・8)


○ヴェルディ:歌劇「リゴレット」のジルダに関する考察・その2

ジルダはとにかく相手の素性を知りたがります。彼女の心のなかに何か満たされないものがあるのでしょう。これはジルダの人格を考える上でとても大事な点です。それを知らないとジルダは安心できないのです。 だからジルダには、その人の名前がとても大事です。台本を読むと、恐らくジルダがまだ幼い頃に母親が亡くなり、リゴレットは娘を修道院に長い間預けていましたが、つい最近娘を手元に引き取ったようです。リゴレットは、我が娘を秘中の花として大事に育て、誰にも見せたくないと思っています。しかも、ジルダは父親の名前をまだ知りません。リゴレットは道化である自分の素性を恥じて娘に隠しているのです。ジルダが名前を聞いても、リゴレットは「それを知って何とする・・」と言って話しません。

ジルダは教会で見かけた恋しい若者にも名前を聞きたがります。「あなたの名前を教えて。聞いてはいけないのでしょうか。」すると若者は「グァルティエル・マルデ・・・学生で、貧乏な・・」と答えます。こうしてジルダの心のなかに若者の名前が永遠に刻まれました。しかし、実は彼はマントヴァ公爵で、ただ遊びのためだけにジルダを誘惑したことが後で分かります。ここで大事なことは、ジルダは好色な支配者の餌食にされてしまったわけですが、何か磁力のような不思議な力によってジルダは自ら飛び込むように公爵に恋したのかも知れないということです。レオ・ゲルハルツは次のように書いています。

『ヴェルディの主人公たちは生きているうちに求めていた幸福に、死の瞬間に初めて出会うので、文字通り死にたがる。この内的欲求と比べて、彼らの失敗の外的要因はむしろ偶然であるかの如き印象を与える。もっと多くの情報があったら、誤解がなければ、もう少しタイミングが良ければ・・・ヴェルディの劇で悲劇的に死んでいった者たちは、幸せな夫婦、満ち足りた父親になれたかも知れない。(中略)ロミオとジュリエットよりもずっと具体的にジルダは死なねばならず、また死のうとする。なぜならば彼女の情熱は、死においてのみ偉大で永続するからである。ジルダは公爵に恋したのではなく、理想の幸福の幻に恋したのだ。そして犠牲的な死をとげる彼女には公爵よりも、この理想像と結びついた自分の感情が大事なのである。(中略)なぜ彼女は、時代と社会という敵から、死が合いを救う刹那的な幸福のなかに、衝動的に身を投じるのだろうか。この問題を考えるには、ヴェローナの逃亡先にある小屋に隠れている、ジルダとリゴレットを想像するだけで十分である。』(レオ・ゲルハルツ:形象と記号〜リゴレットに寄せて)

名作オペラブックス(10)リゴレット

ゲルハルツが指摘するような、「もっと多くの情報があったら、誤解がなければ、もう少しタイミングが良ければ、あの失敗がなければ・・悲劇は避けられたのに・・・」というドラマが、歌舞伎には数え切れぬほどあることは言うまでもないことです。しかも、あたかも偶然であるかの如き顔をしていますが、ドラマの結末から振り返れば、それらはすべて死を志向するために仕掛けられているのです。歌舞伎の例としては、「鮓屋」のいがみの権太を挙げても良いし、「六段目」の勘平もまさにそのようなものです。(このようなオペラと歌舞伎の一致は、単なる符号とは思えません。似たような状況にある別箇のものが、同じような様相を呈するということなのです。詳しくは別稿歌舞伎とオペラ〜新しい歌舞伎史観のためのオムニバス的考察」をご参照ください。)しかし、本稿ではとりあえずジルダのことを考えなければなりません。歌舞伎にジルダを探すなら、それは誰でしょうか。(この稿つづく)

(H30・4・2)


○ヴェルディ:歌劇「リゴレット」のジルダに関する考察・その1

何もかもオペラを歌舞伎に結びつけるつもりはないのですが、本稿もそのうち歌舞伎の話に転化していくと思います。先日、英国ロイヤル・オペラ(コヴェントガーデン王立歌劇場)のライヴ・ビューイングで、ヴェルディの歌劇「リゴレット」(デヴィッド・マクヴィカー演出)を随分と久し振りに聴きました。吉之助は家でオペラを聴く時はなるべく対訳を参照するようにはしていますけれど、映像で歌詞の字幕が出ることは、オペラの深い理解のために とても役に立ちます。時折、ある部分にハッと気が付いて、今まで何度も この曲を聴いたのに、俺はこれまで何を聴いていたんだろと思うことがあります。

マクヴィカー演出は支配階級の退廃・傲慢を強調する意図が強く、それはそれとして面白かったですが、 このような階級対立構図は 「リゴレット」にはよくある演出コンセプトではあります。これと対照した形で、道化リゴレットが家に囲っており侯爵に誘惑されてしまう箱入り娘ジルダの清浄さが 、今回の演出では良く出ていました。今回、ヴェルディのジルダの扱いについて色々考えたのは、そう云うことがあったと思います。ヴェルディが書いたジルダのパートは、例えば有名なアリア「慕わしい人の名は」などは旋律も単純だし清浄なイメージです。今回のロイヤル・オペラ上演でもほぼその線 のように思いますが、清浄な乙女のイメージで全曲を通しても一応のジルダには出来るのです。

しかし、吉之助が今回「リゴレット」を聴いて改めて気付いたことは、ジルダの感情が高揚し始めると、ヴェルディが彼女に与える旋律は、それまでのリリック・ソプラノ風味から一転して超絶技巧になって旋律が激烈化 することです。こうなるとジルダはもう完全にベルカントの役柄 になって、その変転ぶりに目を剥くことになります。例えば第1幕、リゴレットの家でジルダと公爵(身分を隠している)が逢引する場面、物音を聞いて驚いて立ち去ろうとする 公爵と一緒にジルダが「さよなら・・あなただけが、私にとって希望と魂、さよなら・・あなたへの私の愛は、永遠に変わることなく生きるでしょう」と歌う場面は、ほんの短い旋律なのに鮮烈な印象を与えます。ここでのジルダは一時的にバッと大きな炎が燃え上がる かのようです。普通の作曲家ならばこの旋律を大事に繰り返して長大な二重唱に仕立てただろうに、もったいないことにヴェルディはこんな見事な旋律をパッと出してアッという間に消してしまって、もう二度と同じ旋律を使わないのですよ。

第2幕第10番でリゴレットが「(公爵に対して)復讐だ」と叫ぶ傍らでジルダが「ああ、お父さん、彼を許して、私たちにさえ天からお許しの声が来るのですもの・・」と歌う場面も 凄まじい。この旋律には父の復讐への怒りの炎とそれを鎮めようとする娘の哀願と云う趣きがほとんど聞こえません。それどころか勝利への雄叫び・歓喜の爆発みたいな昂ぶった感情が渦を巻いて、どうしてヴェルディはこの場面にこのような倒錯した旋律を与えたのかと驚 きます。イヤこれは決してヴェルディを貶めるものではありません。この倒錯感こそヴェルディなのです。この二重唱でブラヴォーを叫ばない方はイタオペ・ファンとは言えませんね。ここでのジルダは、それまでの清廉さをかなぐり捨てたかのように勇敢でさえあります。(このことを実感いただくためには、マリア・カラスが歌うジルダをお聴きいただく必要があります。1952年・メキシコ・シティ・ライヴ、超絶名演です。1時間26分辺り。)

こうなるとジルダを単なる清浄無垢な娘とするだけでは、イメージを持て余すことになります。ある局面においてジルダはまったく別人格に変わるというような解釈が必要になって来そうです。狂的な激しい感情が彼女を支配しており、これが愛する男の身替りになって死ぬという行為に彼女をひた走らせるのです。これこそフロイトが云うところの死への欲動、より激しく生きるために死す、或いは死することにより永遠の生を得ようとするものです。ヴェルディの天才は、フロイトよりも約半世紀先駆けて、音楽でそれを発見しちゃったのだなあと「リゴレット」を見てつくづく思ったことでした。(この稿つづく)

*ヴェルディ:歌劇「リゴレット」初演は1851年、フロイトの「快楽原則の彼岸」(死への欲動を述べた最初の論文)執筆は1920年。

(H30・3・30)


○平成30年3月国立劇場:「増補忠臣蔵〜本蔵下屋敷」

「本蔵下屋敷」は初代鴈治郎が得意とした演目で、大正から昭和の初めはよく出たものです。しかし、戦後になると上演が極端に少なくなりました。この演目が出来たそもそもの動機は、「仮名手本忠臣蔵・九段目・山科閑居」で命を落とす加古川本蔵が、主人桃井若狭之助の元を辞するのにどういう経緯があったか(そこに大きなドラマがあったであろう)、本蔵が持参する敵高師直館の絵図面を本人は一体どこで手に入れたのか(そんな伝手が どこにあったのか?)、そこら辺りを解明しようと云う興味からだったようです。当然ながらこれは世間の「忠臣蔵」への関心と予備知識を前提とした芝居です。このような人気狂言のスピンオフ・ドラマは他にも 「寺子屋」に対する「松王下屋敷」などと云うのもありますが、戦後の庶民から歌舞伎に発する、そのような精神的土壌が失われてしまうと上演機会が失われていきます。

「仮名手本忠臣蔵」を見ると若狭助は血の気が多く、良く言えば正義漢で一本気、悪く云えば短慮なところが見えます。この欠点を陰で補佐していたのが本蔵であったわけです。「九段目」でこびへつらひしを身の科にお暇を願うて・・」と しか本蔵が述懐していないその経緯は、普通に考えればこれは、本蔵が金品で師直を懐柔したことを快く思わない若狭助が、本蔵のお暇願いを慰留せず冷淡に受け取ったということではないかと思われます。一方、「本蔵下屋敷」での若狭助は、悪臣番左衛門を傍に置いて表面だけ疳癖の強いところを見せて馬鹿殿を装っていたということです。最後に実は本蔵の忠義を感じている情け深い殿さまであったということが分かるという、「一條大蔵卿」と見掛けは全然違いますが、主人公のイメージのどんでん返しということならば同じ趣向です。

だから若狭助の前と後で印象がガラリと変わるところが本作の味噌です。初代鴈治郎が若狭助を得意としたというところからすると、この役のご機嫌な気分が想像できると思います。こういう芝居は理や情で見せるものではなく、パッと明るく決めてみせればそれなりに面白くなるのです。

そこで当代(四代目)鴈治郎の初役での若狭助ですが、後半の、情け深い殿様若狭助の方はまあ良いとして、前半の疳癖が強く、本蔵が師直に贈賄したことに対し憤激極まりなく、本蔵をすぐにでも手討ちにしたい風を強く出して、後半とのイメージの落差を大きく付ける工夫がもう少し欲しいなあと思います。「奥座敷」では足取り忙しなく登場して本蔵を憎々しく睨み付け、すぐにでも手討ちにしたい風を見せる、このくらい疳癖を強調した芝居が欲しいところです。本蔵をやりこめる時の台詞の置き方にも、疳癖を強く見せる工夫が欲しい。いよいよ本蔵を手討ちにすると見せて、身体を返して背後の番左衛門を斬る場面は、この芝居の眼目でここが決まると面白くなります。糸に乗れと云う意味ではなく、ここは竹本のリズムと間合いを思い切って生かしても良い。その辺の工夫が付いて来れば、芝居をもっと面白く出来ると思います。

幕切れで「こりゃ待て、待て」と本蔵を呼び止める台詞は忙しない調子で高く鋭く、一転して「主従は三世じゃぞ」という台詞を甘く引き延ばす、この辺の緩急の押し引きがちょっと臭いくらいで、初代鴈治郎はそこが上手かったのだろうと、そういうことを想像するのですがねえ。このような珍しい芝居 を何とか後世に残してもらいたいので鴈治郎には頑張ってもらいたいと思います。


(H30・3・11)


○平成30年3月歌舞伎座:「滝の白糸」

「滝の白糸」の原作である泉鏡花の小説「義血侠血」(明治29年)との関係については別稿「鏡花とかぶき的心情」で触れたので 特に付け加えることはありませんが、芝居の「滝の白糸」と原作小説とはまったく別物と考えた方が良いでしょう。しかし、世間の鏡花のイメージは「滝の白糸」や「婦系図」・「日本橋」など新派の芝居で作られているところが多いので困りますが、芝居の「滝の白糸」の方は純愛物の悲劇と云うべきだと思います。

危惧した通りでしたが、最後の幕が閉まるところで客席の拍手がちょっとパラパラな感じでした。これは壱太郎(滝の白糸)や松也(村越欣也)のせいではなく、脚本のせいです。原作の設定がもともと奇矯でもあり、これを純愛物に仕立てた芝居の無理も重なって、現代の観客には滝の白糸の心理が理解しがたい かも知れません。観客が 突然ふたりとも自害してしまう結末にどう反応していいか分からず戸惑っている 雰囲気が伝わってきました。欣也の言葉を受けて全身に歓びを表して証言を翻す滝の白糸の心情は、「盛綱陣屋」の首実検で甥の自害をきっかけに証言を翻す佐々木盛綱の心情とまったく同じもの、これはまさしくかぶき的心情なのですから、歌舞伎をよく知っている観客はそこを理解の取っ掛かりにすれば良いと思います。

その意味でも本作を初演した喜多村緑郎が裁判所の場面にしょんぼりした様子で登場した三代目翠扇(滝の白糸)にダメを出して、「この時の滝の白糸は口先ひとつで裁判所を騙せると思ってウキウキしてるはずだ よ」と言ったエピソードは、この芝居の勘所だと思います。背中だけで演技を見せるのは大変なことですから、このような心理主義的な場面ではリアリズムから思い切って離れて、時々グッと後ろに身体をねじって決まって見せるような、歌舞伎的手法を使ってみても良かったのではないでしょう かね。確かに最後の裁判所の場面は、写実的な舞台面では心理的描出が難しく(広い歌舞伎座ならばなおさらのことで)、この点は今回の演出(玉三郎に拠る)でも十分とは云えなかったと思います。どちらかと云えば、 「滝の白糸」は小空間が向きの芝居だと思いますねえ。そういうなかで、壱太郎(滝の白糸)も松也(欣也)もよく頑張っていると思います。 素直な感性で、描くべきものはそれなりに描けていたと思います。台詞が客席によく通るということは、大事なことですね。

(H30・3・8)


○歌舞伎の古典化の流れ

最初はオペラのことですが、そのうち歌舞伎の雑談になって行くと思います。先日、松竹のMETライヴ・ビューイングで、プッチ―二の歌劇「トスカ」の新演出(デヴィッド・マクヴィカーに拠る)の映像を見て来ました。吉之助はオペラを聴くのが愉しみですが、家では何かと落ち着かないし、ビデオでもCDでも一回で全曲を聴き通すことが なかなか出来ません。家では、オペラを聴いても場面を選んで聞くだけのことが多くなります。映画館で久し振りに腰を落ち着けて全曲を聴くことが出来て、とても贅沢な時間を過ごせました。この値段でMET(ニューヨーク、メトロポリタン歌劇場のことです)のこれだけ水準の高い舞台を見られるのならば、何も云うことはありません。

演奏は手堅くて悪くないものでしたが、インテンポ気味の指揮ぶりでしたねえ。この指揮者(エマニュエル・ヴィヨーム)に限らないのですが、この頃 (ここ20〜30年くらい)の「トスカ」を聴くと、どの演奏でもインテンポ気味が多いように思われます。確かにインテンポに取った方が振りやすいし(と云うか楽譜に忠実な振りと云うべきで しょうが)、アンサンブルも整えやすいことは確かです(だから手堅いという印象になります)が、もっとテンポを緩急を付けてダイナミクスを大きく取れば、劇的要素が高まるのになあ・・ということを思いました。53年のヴォットー指揮の名盤(カラスのトスカ、ゴッビのスカルピア)を長く聴いてきた吉之助にとって、ここはテンポを急速に早めて欲しい、ここはテンポを遅くしてもっとピアニッシモに・・・と思うところでそうならないという箇所が随所にありました。まあさほど大きな不満ではないのですが。

しかし、吉之助は別にこの指揮者を凡庸と云うつもりは全然ないです。時代に連れた様式感覚の微妙な変化ということを考えているのです。今から半世紀くらい前になる、50年〜60年頃の「トスカ」の録音を聴くと、カラヤンでもガヴァツェ―二でも、大体ヴォットーと同じように、テンポの緩急 、ダイナミクスの変化を大きく付けたものでした。吉之助は、その方がプッチーニの様式に合うと思っています。プッチーニの様式とはリズムが揺れるということです。つまり音符では記載できないところの微妙な緩急の様式があって、プッチーニではこういう箇所はこう振るものだという風に、それが感覚として何となく共有されていた時代があったということなのです。プッチーニは1924年まで生きた作曲家でした。よく考えてみれば、ちょっと前のことです。50年〜60年代に「トスカ」を振った名指揮者たちは、いくらかでも作曲者と同じ時代の空気を吸ったことのある人たちでした。

ところが、21世紀に入った現代の「トスカ」上演では、何となくテンポやダイナミクスの変化の凸凹がならされて、平坦に近い感覚になって来ます。つまり全体的にプッチーニの生々しさが薄れて、古典化されて来たと云うことです。このことは、多くの録音から検証が出来ます。「トスカ」に限らず、この50年くらい、オペラの古典化という、大きな流れがあったように思われます。 別に古典化が悪いと云うことではなく、ヴィヨームの指揮もその流れの上にあるということなのです。そのような様式感覚の変化を時代の変遷と結び付けて論じることは獏としては可能だと思いますが、恐らく論理的な文章に出来ないでしょう。これは感覚的なものにならざるを得ません。

これも時代の流れであるから変化しても仕方ないことだと云えるのか、或いは意識してその様式を蘇らせることが出来るかと考えるかで、解釈は大きく変化すると思います。しかし、とりあえずクラシック音楽は伝統芸能ではありません。ヴォットーやカラヤンがこう振ったから、後進はこう振らねばならぬ言われはないわけです。

一方、歌舞伎は(お待ちどうさまです、やっと歌舞伎の話になりました)伝統芸能ですから、九代目団十郎はああやった、六代目菊五郎がこうやったというところに、多少でも縛り付けられるところがあると思います。現代で演じられる歌舞伎は、現代の感覚を取り込んで演じられなければ観客に支持されないということは確かにあります。しかし、一方で、過去の感覚を現代に蘇らせるところに伝統芸能の責務があるとも云えます。これは観客にとっては違和感かも知れませんが、そのギャップを感じ取ることは「昔の人はそういう風に感じたんだ」ということを知ることで、これも伝統芸能のお愉しみのひとつであろうかと思います。

この50年くらいに大きく古典化の流れがあると云うことは、歌舞伎もオペラと同じことが起っていると吉之助は感じています。このように歌舞伎とオペラと、全く違う分野の動きがシンクロすることはとても不思議なことですが、何か世界的なレベルでの人心の感性の変化が複合的に影響しているということです。この大きな流れに対して、歌舞伎は、これも時代の流れであるから変化しても仕方ないことだとするのか、或いは意識してその様式を維持または蘇らせることが出来るかと考えるか、そのどちらの態度を取るかで、歌舞伎の将来は大きく変わるだろうと思います。吉之助はどちらを取るか答えは明らかです。これは後者に違いありません。そのためには、九代目団十郎は何をしてきたか、六代目菊五郎は何をしてきたかを知らねばなりませんが、これは文献しか材料がありません。そこでとりあえずの手掛かりになるのが古い映像ということになります。八代目幸四郎や二代目松緑、六代目歌右衛門らの映像を見ながら、そういうことを想像してみる、これは非常に役に立つことです。

この50年くらいの歌舞伎の古典化の流れを検証するには、黙阿弥物の映像を各年代で比較してみるのが、一番良いです。興味深いことだなあと思うのは、プッチーニはヴェリズモ(現実主義)の作曲家であり、黙阿弥は云うなれば歌舞伎のヴェリズモということですね。黙阿弥の古典化の話をすると長くなるので、本日はこれ切り。

(H30・3・6)


○海老蔵の平右衛門、菊之助のお軽

今月(平成30年2月)歌舞伎座は高麗屋襲名興行ですが、夜の部の「七段目」はダブルキャストが組まれており、奇数日が仁左衛門(平右衛門)と玉三郎(お軽)、偶数日が海老蔵(平右衛門)と菊之助(お軽)となっています。別稿「充実した七段目」では奇数日の舞台を新・白鸚の由良助を含めて記したので、本稿は偶数日について平右衛門とお軽に絞って記すことにします。

ダブルキャストということは観客は仁左玉と比較することに自然となるわけで、やる方も或る種張り合う気概で舞台に臨んで当然ということかと思います。そういう目で見るならば、一応それなりの舞台の成果は挙げているとしても、海老菊の兄妹はちょっと華やかさに欠けるところがあるようです。どこか陰翳を帯びた兄妹と云う印象を受けます。これは「七段目」の主題からすると決して齟齬があるわけではありません。だから実直な感じが して、封建社会に生きて忠義の論理を貫こうとする庶民代表(本来彼らにはそこまで主人に忠義を尽くさなければならないほどの身分ではないのですが、それでも忠義を貫くのが自分たちの人としての責務だと健気に信じているのです)としての誠は尽くせています。それはもちろん良いことですが、それだけだと「七段目」は十分に面白くならないのです。と云うか、「七段目」はもっと面白く出来るのです。そのヒントが仁左玉が演じる兄妹にある別稿「誠から出た・みんな嘘」を参照ください)のですから、良い意味において競ってもらいたいのです。若い彼らよりもベテランの仁左玉の方が華やいで見えるというのでは、これはちょっと困ってしまいます。

それでは仁左玉のどこを学んでどこを改良すべきかということですが、まず海老菊は台詞を意識してもう少し高調子に置く(半音かもう少しピッチを上げる)ことをお勧めしたいです。これだけで、台詞の華やかさがグッと増して 聞こえるはずです。但し書きを付けますが、普通の義太夫狂言ならば吉之助はむしろ低めの調子をお勧めしたいところですが、「七段目」の平右衛門とお軽に限っては高調子をお勧めしたいのです。正確に云えば、由良助の声質とは異なる高めのピッチをお勧めしたいのです。これにより浄瑠璃作者が「七段目」を掛け合い場に設定した意味が明確に出せると考えます。掛け合い場の意図とは、太夫のピッチの交錯、音曲の統一感覚の破壊です。吉之助が平右衛門とお軽の調子を高めに置きたいと考えるのは、そこが目的です。(別稿「七段目の虚と実」を参照ください。)

次に台詞の息の緩急、間合いを意識してもっと大きめに取ることです。そうすれば当然動作にも緩急が付いて来るはずです。海老菊は演技がちょっとインテンポ気味に思われます。だから実直な感じが出るとも云えますが、もっと演技を揺らした方が、「七段目」に 回る感覚が出て来ると思います。この感覚が「七段目」に絶対必要なのです。その辺も仁左玉の舞台を見れば分かることかと思います。それが十分出来るならば、海老菊は仁左玉に負けない素材であるのですから、もっと面白い「七段目」に出来ると思いますが。

最後に海老蔵のことですが、茫洋として大きいところのある平右衛門です。そこは海老蔵らしいに違いないですが、大きさが華やかさというところに直結して来ないもどかしさがあります。もう少し演技にくっきり輪郭を付けた方が、持前のオーラが明瞭になり、大きさが生きて来るのではないでしょうか。それでも大きい感じはあるので、海老蔵の平右衛門は何となく時代っぽい印象がします。しかし、平右衛門という役はもっと世話に砕けた方が良くなります。

まず早急に改良すべきところは台詞ですが、もっと言葉を噛んで言うようにして欲しいですねえ。これだけで印象がまったく変わってくると思います。演出家ミヒャエル・ハンぺの本に出て来る話ですが、名バリトン歌手ティト・ゴッビは、スカルピアのような性格的な役柄ではピカイチでしたが、彼は歌唱の言葉を明確にするために、ワイン・コルクを口に咥えて歌を唄う、それで言葉が明瞭に聞き取れるまで徹底的に練習をしたそうです。「台詞には、観客に聞こえなくてはならない単語が二つある、これだけは必ず観客に聞き取れるようにすること」とも、ゴッビは言っています。海老蔵の台詞は、フガフガして肝心なところが明瞭に聴こえない傾向が、このところ強くなっているようです。コルクを口に咥えて台詞を云う練習を、是非お試しいただきたい。どなたか海老蔵さんにお伝えいただけないものでしょうか。

ミヒャエル・ハンぺ:オペラの学校

(H30・2・23)


〇二代目松緑の和尚吉三、八代目三津五郎の伝吉のこと

別稿「梅幸のお嬢吉三」は昭和47年1月国立劇場での「三人吉三廓初買」映像による随想ですが、七代目梅幸に焦点を合わせて書いたので、文章の流れ上割愛せざるを得なかったことを、稿を改めて書くことにします。

まずは二代目松緑の和尚吉三のことです。七代目梅幸のお嬢吉三の揺れる感覚の七五調と比べると、若干の違和感が見られます。それはほんのちょっとの差異なのですが、それが決定的な感触の違いになって来るのです。松緑の台詞は、言葉の粒がどこも揃っていて、だから五の部分は五の長さに、七の部分は七の長さになっています。結果として、台詞の尺が五と七の長さが交互に出て来ることになり、感覚的には黙阿弥の七五の台詞を早い二拍子で処理する感じに聞こえます。つまりこれは吉之助が云うところのダラダラ調の台詞です。ただし、この時代の松緑の台詞は、吉之助が記憶している晩年の松緑よりも台詞の速度が若干早いようです。だから威勢よく気風が良く、江戸っ子の気忙しい感じが出ている 利点があるかも知れませんが、言葉がタラタラ出る感じで台詞の感情があまり描けていないと思います。梅幸のお嬢が飛び切りよかったので、これはちょっと残念な和尚でしたねえ。

思い返せば、昭和50年代後半から歌舞伎の黙阿弥物はテンポが遅いダラダラ調の定型に陥って行く傾向があると吉之助は考えています。現在の平成歌舞伎は、その流れの上にあるのです。吉之助は、晩年の松緑や十七代目勘三郎の七五調はダラダラ調の気味があったと思っており、その舞台を見て帰ってから、六代目菊五郎の「弁天小僧」の録音(昭和7年ビクター録音)などを聴き直して正しい黙阿弥の七五調の様式感覚を確認し直したものでした。同じ六代目学校の生徒でも、六代目の様式を正しく継承した梅幸や十七代目羽左衛門と比べると、松緑や勘三郎は若干自己流に崩したところがあったかなと思っています。今回(昭和47年1月国立劇場)の映像を見ると、そこを改めて確認できた気がします。

昭和初めのことですが、六代目菊五郎が「橘屋の兄貴(十五代目羽左衛門)の黙阿弥の台詞は親父(五代目菊五郎)のものではない、あれじゃあまるで時代世話だ」と云うニュアンスの発言をして、大勢の橘屋贔屓を怒らせて物議を醸したことがあったそうです。発言の背景に親父の芸を継ぐのは俺だという自負心があったことは明らかですが、六代目菊五郎が先代の芸を崩していないというところを踏まえれば、その言いたいところはよく分かるのです。十五代目羽左衛門の七五調は、台詞が緩急に揺れる感覚が少なく、どちらかと云えば表面上の流れ重視です。こちらの方が様式的に則って聴こえる(いくらか音楽的に聴こえる)ようで、それと比べればむしろ六代目菊五郎の方が新劇的にパサパサに聴こえるかも知れません。吉之助は、恐らく松緑や勘三郎の台詞は、十五代目羽左衛門の影響を強く受けており、それがダラダラ調へ訛ったと推測しています。これは、その後の歌舞伎が、黙阿弥の本来のドラマ性から遊離して、様式感覚を意識する方向へ傾斜していく大きな流れを示しています。この流れを踏まえれば、現在の平成歌舞伎の黙阿弥がどうしてあのような状況になるか、その根本原因は明らかなのです。 芝居の感覚がドラマから遊離したところの、写実への意識の欠如ということです。

今回の映像を見て吉之助がショックであったのは、八代目三津五郎の伝吉の台詞もどちらかと云えばダラダラ調に近くなっており、正しく七五に揺れる感覚に感じられなかったことです。三津五郎と云えば、「芸十夜」で武智鉄二と対談して、吉之助に六代目菊五郎崇拝を植え付けた一人なのですが、その三津五郎からこういうダラダラ調の台詞を聴くとは思いませんでした。

「三人吉三」での伝吉は、芝居のなかの因果応報の律の発端を作った人物で、とても重要な位置を占める役です。伝吉は前非を悔いて、その後は隅田川での身投げの死者 を弔ったり信心深く暮らしていました。これで自分は因果の報いを受けないで済むだろうと内心期待ながら生きて来たのです。ところが、これはすべて発端は自分の罪行から発したと思える出来事が次から次へと出て来る。それで錯乱して、もう神も仏もないと怒り狂うのです。だから伝吉は表面的には百両を返してくれないお坊吉三に怒って斬り掛るのですが、実はそれ以上に自分を許してくれない神や仏に対して 、或いは悪事を犯した自分に対して、伝吉はもっともっと怒っているのです。だから伝吉を因果応報の律に絡め取られた人物に過ぎないと考えると、それはちょっと違う でしょう。当時の上演プログラムの「出演者のことば」のなかで、三津五郎は「今のお客さまには、因果だの、祟りだの、たとえそれが芝居の上にせよよく分からないのは世の趨勢でいたしかたない」と語っています。現代人に伝吉が分からなくたって仕方ないとしているようです。恐らく三津五郎は、作者(黙阿弥)への信頼、役(伝吉)への信頼が若干弱いのだろうと思いますねえ。だから黙阿弥の本来のドラマ性から遊離して、これならば現代人にアピールできると彼らが思えるところの様式感覚に逃げ込みたくなるということです。松緑の和尚吉三についても、多分、同じようなことが言えるのだろうと吉之助は考えています。

(H30・2・17)


〇平成30年2月歌舞伎座:「一谷嫩軍記〜熊谷陣屋」

杉贋阿弥は「舞台観察手引草」のなかで「そもそも熊谷の山は、実は出と引っ込みにある、要するに「陣屋」は花道の芝居である」と書いています。このことは大事なことで、九代目団十郎型の「陣屋」は、その他の登場人物も含めて、すべては幕切れの直実の憂い三重の引っ込みの為にあるのです。新・幸四郎の直実は、その花道の引っ込みが、なかなか情感がこもって良いものでした。我が子を失うことの悲嘆が胸に突きささり、無情を悟ろうとしてなお悟り切れぬところが良く出ていましたね。直実の息子の小次郎は十六歳という設定、幸四郎の息子の新・染五郎が十二歳ということでもあり、実年齢としても幸四郎の直実は当然リアリティがあるものになります。今後、幸四郎が直実を演じていく為に、この花道の引っ込みを起点に「陣屋」全体をじっくり掘り下げていくことを期待したいと思います。

多分、その身体付きから来るのですが、幸四郎の直実の引っ込みを見て、吉之助は初代吉右衛門の映画での熊谷が思い出されて、それをとても興味深く思いました。初代吉右衛門は時代物の名手と云われましたが、映像・写真で見ると意外と身体の押し出しが貧弱で、同時代のライバルたちと比べればこの点では劣ると言わざるを得ません。しかし、初代吉右衛門はそれを補って余りある表現力と、時代に対応するセンスがありました。だからこそ名優と云われたわけです。これまでの歴代の「幸四郎」のイメージになかった「線が細いけれども優美で繊細 」な要素を持つ新・幸四郎が未来の時代物の名手になるために、初代吉右衛門がきっと大きなヒントになるはずです。

映画の初代吉右衛門の直実の花道引っ込みは昭和25年(1950)4月東京劇場のもので、つまり終戦から数年も経っていない時期のことでした。役者も観客もすべての人が、何らかの形で身内或いは知り合いを戦争で失った体験を共有していました。だから自然と厭戦気分が強い直実になって来るわけです。初代吉右衛門はそこに時代のリアリティの取っ掛かりを掴んで演じていたのです。幸四郎の直実も、我が子を失うことの悲嘆ということは良く分りました。それはもちろん良い点であるのですが、これを平成の時代の気分とどのように結びつけるか?これはなかなか難しい問題ですが、そこを掘り下げることを今後の課題にしてもらいたいと思います。そうすれば自然と前段の演技も変わってくるに違いありません。

というのは幸四郎の直実は、前段の演技、つまり直実が僧形になるまでに、まだ掘り下げの余地があると思えるからです。幸四郎は、全体の段取りにおいて父・二代目白鸚の型を忠実に写しています。 角々の見得も力感あるところを見せています。そこのところでは手堅いところを見せており、一応の成果を挙げています。これは当然のことで、幸四郎の出発点がそこになければならないのは当たり前です。だから今はこれで良いですが、これからは受け継いだ型を自分の仁に合わせて消化せねばなりません。

吉之助が思うには、二代目白鸚の直実は、女房相模に対しちょっと威丈高に過ぎるようです。人前で涙を決して見せず平気に振舞い、誰もいないところでひとり泣くのを男の美学とする直実のようです。まあそれも分からぬこともないです(昔はそういう男の美学が確かにあった)が、そうすると花道引っ込みの直実の大泣きが白々しく感じられるのですねえ。それならばもうちょっと相模に対して情を見せても良いじゃないのという気になります。一方、新・幸四郎も相模に対して高圧的なところを引き継いでいますが、花道引っ込みにはそこまでの白々しさは感じません。 その点は上手く抑制が出来ています。これは良い点なのですから、これをベースに「陣屋」全体をじっくり掘り下げてもらいたいものです。 特に相模に対する情の表出に留意を願いたい。ヒントは初代吉右衛門の映画に有りと言っておきます。(これについては別稿「熊谷と相模」或いは「幸四郎の熊谷」(この幸四郎は九代目を指す)で詳しく書いたので、ご参照ください。)

(H30・2・13)


〇平成30年2月歌舞伎座:「一條大蔵譚」

新・幸四郎の大蔵卿をなかなか面白く見ました。本性に立ち返った大蔵卿の立ち姿が颯爽として、やはり幸四郎の仁にはこういう役が似合うと改めて思いました。今回の弁慶や熊谷だと幸四郎は役の大きさと懸命に格闘している感じがしなくもない(注:悪いと言っているのではなくて、よく頑張っていると言いたいのです)ですが、大蔵卿の場合は、すんなり幸四郎の仁に収まって如何にも無理がありません。だから安心して見ていられます。

ところで大蔵卿に関しては、幸四郎は叔父・吉右衛門から指導を受けたそうですが、昨年7月国立劇場での菊之助の大蔵卿も吉右衛門から指導を受けたとのことでした。別に優劣を付けるつもりも毛頭ないですが、同じ吉右衛門から指導を受けても、これを受け継ぐ役者の仁・或は感性の違いによって、同じはずのものが微妙に異なった様相を呈してくるわけで、興味深いことだなあと思いました。もちろんそれらのどちらも正しいのです。そこに芸の受け渡しの面白さがあるということです。それにしてもふたりの芸の後継者に恵まれた吉右衛門は幸せなことですねえ。

菊之助の大蔵卿は、阿呆と正気とどちらが大蔵卿の本性だか分からないところに、その面白さがあったと思います。時勢に背を向けて阿呆を装う倒錯の様相が表れて、大好きな狂言舞いが自虐的な歓びと同化しているこの点が役の本質を見事に突いたものとしていました。

一方、新・幸四郎の大蔵卿であると、心ならずも時勢に背を向けて阿呆を装う大蔵卿の苦しさが胸を衝きます。もちろん大蔵卿は狂言舞いが好きに違いないのですが、一方で醒めた一面もあって、世を拗ねたポーズを自分が取っていることへの口惜しさ・悲哀というものも大蔵卿はしっかり認識しているのです。自分が阿呆を装うことには彼なりの信念があって、それがあるからこそ自分はこの虚ろな世の中の状況に耐えられるわけです。だからこのポーズを取り続けることは俺にとっても結構辛いんだよというところが、幸四郎の大蔵卿を見るとよく理解できます。

もしかしたら幸四郎の大蔵卿が本心を語る時に「とっとといなしゃませ」などと阿呆を混ぜる瞬間に、或る種の硬さ・ぎこちなさを感じる御方もいらっしゃるかも知れません。しかし、吉之助が思うには、幸四郎の大蔵卿は、この箇所を阿呆と正気のチャンネルを鮮やかに切り替えして見せる場面とするのではなく、まさに自分が演じている阿呆が偽りであること、そうせざるを得ないゆえに自分は本当の自分を生きていないという不本意に必死で耐えていることを、幸四郎はその演技で明確に見せているのです。これも菊之助とは異なる角度から、大蔵卿という役の本質を見事に突いたものだと云えます。このような乖離した演技が出来るところに、八代目・九代目から十代目へと連なる高麗屋の芸の系譜があると云うべきです。乖離については別稿「七段目の虚と実」で九代目幸四郎の由良助について触れましたから、それをお読みいただきたいですが、これならば新・幸四郎が演じる「七段目」の由良助もきっと期待ができると思います。

(H30・2・10)


〇平成30年2月歌舞伎座:「仮名手本忠臣蔵・七段目」

今回の「七段目」の白鸚(由良助)・仁左衛門(平右衛門)・玉三郎(お軽)での組み合わせは、昭和55年(1980)3月歌舞伎座での当時の若手花形による「忠臣蔵」通し以来のことで、これはもう38年前のことになるのですねえ。もちろん当時の白鸚はまだ六代目染五郎、仁左衛門は孝夫と云いました。白鸚は、この時の由良助が初役であったと思います。今回の38年後の「七段目」では、三人共にあの時の若々しさはそのままに、年相応の芸の成熟を見せており、ふくよかさと情感が増して、同じだけの時間をお付き合いしてきた吉之助にとっても、「長いような短いような歳月だったけど、ホントにお互いみんな成長してきたんだねえ」みたいな感慨が胸に来ました。大げさだなあとお思いでしょう。しかし、吉之助の脳裏に38年前の彼らの舞台が蘇って来るのですよ。彼らが相変わらず若々しいからなのでしょうねえ。

まず襲名の白鸚の由良助のことですが、後半の実事の由良助が良いのは白鸚ならば当然のことですが、今回一段の芸の進境を見せたのが、前半の由良助のやつしの芸です。白鸚の由良助については別稿「七段目の虚と実」で、平成20年2月歌舞伎座での舞台を取り上げました。そこで吉之助が論じたことは、「七段目」の由良助の乖離感覚、すなわち一般的な時代物ではそれで十分説明が出来る虚=忠義の論理・実=人情の図式が、「七段目」では捻じれていると云うことを、白鸚の由良助は実感させるということでした。それから約10年が経って、今回(平成30年2月歌舞伎座)の白鸚の由良助が さらに良くなったのは、乖離の感覚をオブラートで包み込んで、「いなす」形で曲げて出す、そのようなやつしの芸が一段と上手くなったことです。「四段目」の由良助より「七段目」の由良助が難しいと云われるのは、まさにこの点です。これは近年の白鸚が余分な力が抜けて、演技のリアルさが増してきたからこそなせる技です。これは御世辞ではなくて、吉之助がベストと信じて来た初代白鸚つまり御父上の由良助に迫る出来と言って良いです。初代白鸚の由良助は本物の大石内蔵助もこんな人だったのだろうと思わせましたが、当代もまたそうです。

仁左衛門と玉三郎の兄妹コンビも、相変わらず素晴らしい。別稿「誠から出た・みんな嘘」では、平成19年2月歌舞伎座での舞台を取り上げています。平右衛門とお軽のじゃらじゃらが万華鏡のような感覚を見せるのは、期間は短いながら遊廓での虚構の生活のなかでお軽の神経が正常でなくなってしまっていること、だから平右衛門が真剣に語りかけてもお軽はそれを正しく受け取れなくなっていること、 そのために二人の会話はすれ違い、おかしな展開をして行きます。相変わらず華やかなお二人は、そのような兄妹の哀しい状況を、可笑し味を以て教えてくれます。じゃらじゃらは、そのために必要なことなのです。二人のやり取りの愉しさ・華やかさは、38年経っても変わりません。しかし、今回の舞台では歳月が付け加えた深みがあるのは当然のことで、「父さんはお元気、母さんも元気・・」と無邪気に喜んでいるお軽の顔を見詰める平右衛門の悲しそうな目付き、或いは「勘平さんは三十になるやならずに・・」のクドキで見せるお軽の悲嘆に真実味が増しました。その分じゃらじゃらは多少抑えられたところはあるようでしたが、深みが一層増したと言えます。

平成の「七段目」としてまったく申し分ないバランスであり、長く芝居を見てきて良かったとつくづく思うのは、こういう舞台に出会える時ですねえ。これからももっと芝居を見続けていたいという気にさせられます。

(H30・2・5)


〇平成30年1月歌舞伎座:「箱根霊験誓仇討」

今回の上演外題は「箱根霊験誓仇討」となっていますが、本来の外題は「箱根霊験仇討」(はこねれいげんいざりのあだうち)で、当節「躄」という語句の差別的な響きが嫌われて外題が変えられたものです。昨今は滅多に掛からなくなりましたが、仇討ち狂言としてその昔は人気があった芝居で、実は主人公が「躄」だということが、この芝居のキーポイントです。業病で脚が不自由になった飯沼勝五郎が妻初花とともに、敵滝口上野を討つために苦難するという話です。最後は初花の犠牲によって箱根霊験の奇蹟が起って勝五郎の足腰が立ち、勝五郎は目出度く本懐を遂げます。

別稿「返り討ち物の論理」で触れましたが、歌舞伎の仇討ち物というのは、実は返り討物とでも呼んだ方がふさわしいくらいのもので、敵を追い求める側(善人側)がどれほどの辛酸を舐めるかが芝居の核心となります。返り討ちするのは、敵だけとは限りません。貧苦や病など悲惨な状況によって敵の探索が困難になること、これも状況による返り討ちだと云えます。だから仇討ち狂言には数限りないバラエティがあるわけです。乞食となって敵を追い求める非人討ちとして有名な「敵討襤褸錦(かたきうちつづれのにしき)」という芝居があります。このなかに「今日の檻縷は明日の錦」という言葉が出て来ます。
状況は彼らをあざ笑うかのように「これでもお前たちは仇討ちを続けるつもりか」と厳しく迫って来ます。襤褸を纏っていても、心は高貴だ、いつかは本懐を遂げて見せると云う気概だけで、彼らはこの苦境を乗り越えようと します。主人公が足腰立たず躄となって敵を追い求める「箱根霊験仇討」も、またそうです。これらが「やつし」のバリエーションであることは、別稿「吉之助流・仇討論・その3」で触れました。

初花が勝五郎の土車を引いて登場するのは、作者が「小栗判官」から思い付いた趣向です。夫婦の出に小栗の狂言に使われる「綱手車」の唄が演奏されるのは、そのためだそうです。説教「おぐり」については、別稿「小栗判官とは何だろうか」で取り上げました。「小栗」は江戸期の庶民に広く知られた話で、芝居でもよく上演されました。餓鬼となった小栗判官を土車に乗せて綱を引いて熊野へ向かう照手姫の姿と、同じく勝五郎を土車に乗せて綱を引く妻初花の姿が自然と重なったものでしょう。観客は、初花に照手姫と同じ聖性を見たのです。初花は敵上野に懸想されており、上野に従うと見せてこれを討とうして逆に殺されますが、初花の一念が箱根権現に通じて遂に勝五郎の足腰が立ちます。云うまでもなく箱根権現は云わずと知れた曽我兄弟を祀る寺社でした。ですから「箱根霊験仇討」の本質は返り討ち物ですが、筋に霊験譚を取り入れたことで、芝居の感触が中世説話の暗さを引きずったように感じられるのが、興味深いところです。この芝居の初演は享和元年(1801)のことで、南北が活躍した文化文政期はすぐそこですから、それほど古い芝居ではないわけですが、やっぱりこれは霊験譚仕立てのせいでしょう。

こういう芝居は、多分、若い世代には感覚的に理解が難しいだろうと思います。勘九郎の勝五郎は真面目に勤めているのだけれど、足腰が立った歓びを表す場面がコミカルに見えてしまいます。勘九郎と七之助の夫婦は感触がサラッとして、芝居の湿った暗さを感じ取りにくいですが、それは前半の、病で足腰の立たぬうえに敵を前にして女房を奪われる口惜しさ・情けなさをじっくり描けていないせいに違いありませんが、多分、それだけではなく、ドラマの組み立てとして、奇蹟で足腰が立ったことの、スカッとした歓喜へ芝居のクライマックスを置きたいと考えているからです。これは気持ちが分からぬことはないですし、人気役者がやることだから観客もこの芝居はこういうものかという感じで受け入れているところがあるけれども、ここは逆でありたいと思います。それは歓喜ではあるのだけれど、苦い歓喜なのです。それは女房の犠牲によって得られたものであって、本来、彼が望んだ形での、女房と一緒に味わいたかった歓喜ではないのです。前半が「やつし」のバリエーションであることが分かれば、勘九郎の演技も変わってくるのではないかと思いますね。

(H30・1・26)


〇高麗屋三代襲名と、新・幸四郎への期待

平成30年(2018)は、二代目白鸚・十代目幸四郎・八代目染五郎の高麗屋三代襲名で始まりました。思えば昭和56年(1981)10月・11月と2月続きで、初代白鸚・九代目幸四郎・七代目染五郎の三代襲名興行が歌舞伎座で行われて、これが実に37年前のことなのですねえ。吉之助はもちろんこの時の舞台はよく覚えています。当時のチラシが手元に残っています 。ご覧の通り 、六代目歌右衛門、二代目松緑、十七代目勘三郎も元気な頃で、懐かしい豪華な顔ぶれですねえ。今の歌舞伎座のチラシはA4版ですけれど、この頃はB5版でした。この時の料金は桟敷席でも10,000円でしたから、物価レベルも相当変わりましたね。三等Bが1,000円か、吉之助はここから襲名披露の舞台を見たわけです。襲名披露狂言では、九代目幸四郎襲名の「勧進帳」と初代白鸚襲名の「七段目」が特に印象深いものでした。それと忘れ難いのは、11月の白鸚襲名の「井伊大老」の舞台ですねえ。この時、白鸚は直弼役を15日まで勤めて休演(代役は吉右衛門)して、これが結果的に白鸚最後の舞台となったものです。これはしみじみとした味わいで良かった。

吉之助も随分長く歌舞伎を見て来たものだなあと改めて思います。まあ歌舞伎を長く見続けていることの楽しみのひとつは、「むかしはこうだったねえ・・」ということ(自慢でも愚痴でもどちらでも)をつぶやけるようになることです。 このために歌舞伎をずっと見続けて来たわけです。若いファンのみなさんも、当代染五郎が十一代目襲名する未来へ向けて頑張って歌舞伎を見続けてください。吉之助も年齢的にはその可能性がゼロでもなさそうだから、頑張ってこれからも歌舞伎を見続けることにしましょうかねえ。

松本幸四郎が歌舞伎史のなかでの重要な名跡であることは今更申し上げるまでもありません。襲名と云うのは、先達の魂を受け継ぐことであり、その名跡が背負うイメージの何某かを背負うことです。襲名披露興行に先だって、昨年12月11日に浅草・浅草寺で行われた襲名祈願お練りも覗かせてもらいました。お練り出発の雷門に現れた新・白鸚が吹っ切れた笑顔を見せたのに比し、唇を噛みしめて緊張した面持ちで新・幸四郎が登場したのは、さもありなんと思わされました。その重圧たるや余人には計り知れないものがあると思います。「幸四郎」というと荒事とか実悪とか、或いは熊谷直実や大星由良助など時代物の重厚な役どころを得意として、線が太く豪快なイメージが兎角付きまといます。新・幸四郎は、今月(1月)の「車引」の松王丸、「勧進帳」の弁慶で線の太い台詞廻しに、その決意のただならぬところを見せてくれました。初日でのNHKの初芝居の生中継の弁慶は、ちょっと発声に力が入った感じがしましたが、まあ幸先良いスタートをしてくれたと思います。


写真は平成29年12月11日、浅草寺参道仲見世通りでのお練り。 吉之助の撮影です。

一方、吉之助は、与三郎や或いは上方和事の役どころ(現・仁左衛門が得意としている役どころ)がこれから新・幸四郎のものになって行くと思います。こういう役どころはこれまでの「幸四郎」の領域になかったものですが、こういう繊細な役どころが「幸四郎」の系譜に加わって行くことになる。これも宜しいことだろうと思います。2月歌舞伎座での「大蔵卿」や4月御園座での「廓文章」がその線で選ばれているわけですが、これから新・幸四郎は、「線が太く豪快」と云うイメージと、「線が細く繊細」と云うイメージと、相反する二つの要素を追わねばならなくなります。これは決して容易なことではありません。吉之助が申し上げたいのは、この相反する要素を無理に演じ分けようとせぬこと、相反する要素に折り合いを付けながら自分なりの「幸四郎」を作って行って欲しいということです。例えば弁慶も、豪快な要素と同時に、祖父・父の弁慶が持つ理知的な要素(つまりそれは近代性ということであり、新・幸四郎が持つ繊細さにもつながるものでしょう)を大事にしてもらたいと思います。それが高麗屋の弁慶ではないかと思います。期待しています。

(H30・1・11)


〇平成29年12月歌舞伎座:「瞼の母」・その3

「俺あ、こう上下の瞼を合せ、じいッと考えてりゃあ、逢わねえ昔のおッかさんのが出てくるんだ、それでいいんだ。逢いたくなったら俺あ、眼をつぶろうよ」という忠太郎の台詞から吉之助が考えることは、長谷川伸の「瞼の母」のドラマは、生き別れた忠太郎と実母おはまの葛藤のドラマと して読むよりも、忠太郎と彼の内面のなかにある母(瞼の母)との心との 旅路であると読んだ方が、この台詞はずっと生きて来ると云うことです。水熊のおはまの居間までの前場も、その方がより生きて来ると思います。 半次郎の母おぬいや、夜の街を三味線を弾き銭を乞う老婆、夜鷹おとらも、忠太郎の助けを必要としている女であり、これを有難がってくれる女です。そんな時に忠太郎は、「粋」で優しい男になれるのです。

普通だと世間体を畏れて忠太郎を冷たく突き放す母おはま役者が多いと思います。一方、今回(平成29年12月歌舞伎座)での「瞼の母」の舞台では、玉三郎が演じる母おはまは、忠太郎が死んだと思っていた実の息子だとすぐ悟ったものの、目の前にいる息子が自分のイメージとあまりに違う渡世人なので戸惑って(つまりおはまにも彼女なりの「瞼の息子」があるのです)、世間体を守りたいという気持ちと実母の情との狭間で身も世もないという風情をよく見せています。今にもその場に泣き崩れて自分が母親だと忠太郎に告白しそうです。底を割る演技だという批判が出るかも知れませんが、この場ではおはまが実母であることはもう明白です。実母であるおはまの苦しみが明確に見えた方が、ドラマが立体的に見えて来ると、吉之助は思います。大事なことは、母おはまが忠太郎の目にどのように映っているかということです。そんな実母おはまと対照されるのは、忠太郎の心のなかにある空想の母(瞼の母)です。

忠太郎が実母に言って欲しいのは、「よく生きていてくれた、お前に会えて嬉しい、有難う」という一言だけです。忠太郎は、おはまからその一言を何とか引き出したい。しかし、おはまはその一言がどうしても言えないという葛藤を、玉三郎は細やかに表現して見せてくれました。おはまがそれが言えない理由は、忠太郎にはもちろん分かっています。それは忠太郎が 堅気ではなく、渡世人であるということです。瞼の母は、そんなことは気にせず、自分に感謝を捧げてくれます。忠太郎としては、実母にそんな世間の柵や 偏見・差別の一切を飛び越えて、自分をひとりの人間として受け入れて、「お前に会えて嬉しい」と言って欲しいわけですが、現実はそうはならなかったということです。忠太郎は自分の身の上を思わざるを得なかったでしょう。そこに昭和5年に書かれたこの戯曲の社会的視座があります。

中車は、回を重ねるにつれて演技が歌舞伎に馴染んできたようです。中車の忠太郎はちょっと堅気風の渡世人という感じもしますが、かえって台詞に実 (じつ)が感じられたのはとても良い事で、忠太郎の心情がよく伝わって来ました。粋に滑らかに台詞をしゃべろうとしたら、この実は表現できなかったと思います。今回の忠太郎は、母おはまとの対話で感情が激してくる場面に於いても、台詞の二拍子のリズムが崩れることがなく、しっかり芝居になっていました。これならば中車は少なくとも新歌舞伎に関しては安心して見られる レベルになったと思います。

最後に「瞼の母」幕切れのことを考えてみたいと思います。金五郎が斬りかかるのを押さえて、忠太郎がこう問います。

忠太郎 お前の面あ思い出したぜ。(斬る気になり、考え直す)お前、親は。
金五郎 (少し呆れて)何だと、親だと、そんなものがあるもんかい。
忠太郎 子は。
金五郎 無え。
忠太郎 (素早く斬り倒し、血を拭い鞘に納め、斜めの径を歩き、母子の去れる方を振り返りかけてやめる)

もし金五郎が「年を取った母親がいる」とか「幼い娘が一人いる」という返事をしてきたら、忠太郎はどうするつもりだったのでしょうか。「羨ましいねえ、お前、親(子)を大事にしてやりな」とか言って、忠太郎は金五郎に打ち身でも食らわせて気絶させて、それで終えたのではないかと吉之助は思うのですねえ。中車の忠太郎は、「(子は)無え」という返事を聞いて忠太郎が金五郎を斬り倒すタイミングが いささか早過ぎます。答えが何であっても、最初から金五郎を斬るつもりのように見えます。これでは忠太郎が見詰める負い目が見えて来ません。 忠太郎は自分が何を斬るのか、その正体をはっきり見極めなければなりません。忠太郎は「瞼の母」のなかで四人の男を斬り 殺しています。それ以前にも何人か殺しているようです。そういう人間ですから、恐らく忠太郎は畳の上で死ぬことはありません。そのことを忠太郎は分かっています。忠太郎が本当に斬り倒したかったのは、天涯孤独の渡世人の、 しがない自分の負い目であったに違いありません。

(H30・1・5)


〇平成29年12月歌舞伎座:「瞼の母」・その2

そこで「瞼の母」の主人公番場の忠太郎のことです。五歳の時に息子である自分を捨てて家を出て行った母親、ほとんど記憶に残っていない母のイメージを必死に膨らませて、忠太郎はそれを瞼の裏に刻み付けています。「瞼の母」のドラマを、生き別れになった母の面影を慕う忠太郎、再会を冷たく拒否する実の母 、その母の冷たい態度に深く傷つく忠太郎・・・そこに母と子の葛藤のドラマを見るというのは、もちろんそういう見方もあります。しかし、吉之助は、上述の長谷川戯曲の渡世人のパターンに沿って読んでみたいのです。と云うのは、大詰:荒川堤で忠太郎を探して名前を呼ぶ母おはまと妹おぬいの姿を見送って、忠太郎が独白する有名な台詞が、母と子の葛藤のドラマとして読むだけでは、吉之助にはどうも釈然としないからです。

忠太郎:『(母子を見送る。急にくるりと反対の方に向い歩き出す)俺あ厭だ、厭だ、厭だ、だれが会ってやるものか。(ひがみと反抗心が募り、母妹の嘆きが却って痛快に感じられる、しかもうしろ髪ひかれる未練が出る)俺あ、こう上下の瞼を合せ、じいッと考えてりゃあ、逢わねえ昔のおッかさんのが出てくるんだ 、それでいいんだ。(歩く)逢いたくなったら俺あ、眼をつぶろうよ。(永久に母子に会うまじと歩く)』(長谷川伸:「瞼の母」)

この台詞での忠太郎は、実の母を恨んでいるのか、すねているのか、実の母に幻滅したから空想の母にすがるのか、それでも実母への思慕を断ち切れないのか、それならどうして母妹の後を追わないのか、いろんなことを考えさせられます。実は長谷川伸自身が五歳の時に母と生別しており、作家として世に出てからも、長谷川は母を探し続けていました。昭和5年に「瞼の母」を書いた時には、長谷川はまだ 実母に会えておらず、「瞼の母」は長谷川の前夫人が実父を探し当てて再会した時の体験が取り入れられて書かれたそうです。長谷川が実母と47年ぶりの再会を果たしたのは、昭和8年のことでした。執筆当時の長谷川は、もし本当に実母に再会出来たとしたら、こういう 状況なら自分はどう振舞っただろうかということを真剣に考えたでしょう。初稿では忠太郎はそのまま母妹に会わずに去ってしまいますが、長谷川は、上述の忠太郎の独白の後の、幕切れに三種類の異本を書いて、試行錯誤を繰り返しています。異本1は、幕切れに「おっかさあん、おっかさあん」と忠太郎が叫んで母妹の後を追うヴァージョン。異本2は、忠太郎が叫んでいるのを聞いて引き返して来た母妹と 忠太郎が出会うヴァージョン。異本3は、純粋さが失われているとの判断で作者によって廃棄されたそうです。しかし、現在は初稿で上演がされるのが普通です。 長谷川の迷いと云うか、こうあって欲しいという願いと云うか、いろんなものを感じます。以下は初稿を基に考えますが、そこで有名な「逢いたくなったら俺あ、眼をつぶろうよ」という忠太郎の独白ですが、長谷川戯曲の渡世人のパターンに沿って読んでみれば、こうなると思います。

忠太郎はほとんど記憶にない母のイメージを必死に膨らませて、再会の場面をあれやこれや空想しています。母は再会を涙を流して喜んでくれるに違いないと忠太郎は思っています。生憎、自分はしがない渡世人です。堅気の人から見れば、疎ましい存在です。忠太郎はそのこと を分かっていますが、そんな詰まらない自分ではあるが、忠太郎は母に何かしてやりたいと考えています。忠太郎に出来ることと云えば、母に危害を与える悪い奴 がいればそいつを腕力で懲らしめてやるか、或いは母に金を与えることくらいですが、しかし、それは褒めてもらいたいということではなくて、自分が息子 だと認めてもらいたいからです。忠太郎は「お前に会えてよかった」と言ってくれれば、それで十分なのです。渡世人の身ですから、これからずっと母と一緒に暮ら したいとは毛頭考えていません。自分を一人の人間として息子だと受け入れて、母が再会を喜んでいるのを見れば、それで満足して忠太郎は母の元を去るつもりです。生みの母に無償の愛を捧げて「粋」に去る、これが忠太郎にとって大事な美学です。

だから忠太郎が空想する母の姿が、貧乏でやつれて不幸な境遇にいる母の姿となるのです。母の不幸を内心で願っているということではありません。渡世人の忠太郎 の助けを必要と師弟て、それを有難がってくれるという女と云うことで、忠太郎のなかで母が自然とそういう姿になっていくのです。忠太郎は「もしひょっとして貧乏に苦しんででも居るのだったら、手土産代わりと心がけて、何があっても手を付けず、この百両は永えこと、抱いてぬくめて来たのでござんす」と言っています。これが「お前に会えてよかった」と母に喜んでもら いたい忠太郎にとっての最高のシチュエーションです。

ところが、実際に会ってみると忠太郎の想像とはまるっきり違っていて、母おはまは大店の料理茶屋の女主人に収まって、忠太郎の助けなど全然必要のない境遇でした。そうなると忠太郎は腕の振るいようが何もありません。見知らぬ渡世人が突然自分が息子だと名乗ってきてびっくりして、おはまは忠太郎が息子であると認めてくれません。傷付いた忠太郎はおはまの元を去りますが、ここで忠太郎は或るポーズを取ろうとします。失意にうなだれて 惨めに去るのではなく、忠太郎としては「粋」に去って行きたい。そこに渡世人の美学があるのです。「俺あ、こう上下の瞼を合せ、じいッと考えてりゃあ、逢わねえ昔のおッかさんのが出てくるんだ 、それでいいんだ。逢いたくなったら俺あ、眼をつぶろうよ」という台詞が、そこから出て来ます。忠太郎は「粋」に振舞おうと必死になっているのです。素直に泣けずに片意地張る渡世人の哀しさがそこにあります。(この稿つづく)

(H30・1・3)


〇平成29年12月歌舞伎座:「瞼の母」・その1

歌舞伎では「一本刀土俵入」の上演の方が多いと思いますが、新国劇や旅回り劇団その他を含めると、長谷川伸の戯曲で最も上演回数が多いのは「瞼の母」、次いで「沓掛時次郎」なのだそうです。これらは映画化も多くされており、長谷川は大衆に最も愛された戯曲作家であることは疑いありません。ところで「瞼の母」はいわゆる股旅物で、番場の忠太郎は渡世人ですが、長谷川が描く渡世人には或るパターンがあります。これについては佐藤忠男著・「長谷川伸論」がとても参考になります。以下本書の助けを借りながら、その周辺を考えてみたいと思います。

佐藤忠男:長谷川伸論―義理人情とはなにか (岩波現代文庫)

長谷川戯曲の主人公はどれも愛する女を幸せにしてやりたい気持ちは人一倍強いのだけど、自分は女の愛情を受けるに値しない駄目な野郎だという負い目がこれまた人一倍強い のです。それで女の幸せにふさわしくない自分をずっと責め続けています。ですからこれでやっと二人の幸せが来ると云う場面になると、男は女に気付かれないように静かに身を引くというパターンが多いようです。このように書くと、男が女から身を引くという行動は、その「負い目」ゆえに男は女との小さな幸せさえも手にすることができないという風に読めるかも知れませんが、そう単純なものでもありません。その辺もうちょっと考える必要があります。

まず渡世人と云えども、彼なりの自負心を持っているわけです。女は彼の助けを必要としているということを彼は分かっていますから、彼はそこに自分の価値を賭けています。長谷川戯曲のヒロインは、大抵の場合、悲惨な境遇に置かれています。彼にはそこから女を何とか救い出す力がある(多くの場合、それは腕力ですが、なにがしかの金である場合もある)ので、女を助けるわけですが、目の前の問題が解決されてしまうと、彼は急に現実 と向き合わなければならないことになるのです。そうすると彼は自分に付きまとう「負い目」という奴が気になって来ます。これがあるからには、女との幸せは決して長くは続かない、自分は女を幸福にする資格がないということが、彼には分かっています。そこで自分の「負い目」が露呈する前に、彼は女の元から去ってしまう。こうすることで美談は美談のままで終わり、彼の行為の「粋」は保たれる。逆に云えば、そこで彼が情にほだされて女の元に居残ってしまうことは、彼にとって「野暮」なのです。そこに彼らの個の主張がある。

『彼らは自分を省みずに他人を助けるという「いき」な行為を取るのであるけれども、その行為は結果としては美談のかたちを取る。しかし、美談の主がみんなの喝采をあびてそこに居残るというのはまことに野暮なことである。「いき」な行為とは無償の行為でなければならないが、彼らは、彼らの行為が美談となったとたんにさっと消えることによってのみ、その行為が純粋に「誇り」と「恥」の二律背反の気持ちから生み出された無償の行為であることを主張できるのである。』(佐藤忠男:「長谷川伸論」)

ここで佐藤先生は「恥」という言葉を使っていますが、吉之助はそこを負い目という言葉に置き換えていることに、留意ください。あまり違いがないみたいですが、昭和の新歌舞伎の長谷川伸の分析に使うのならば、「恥」で十分だと思います。しかし、ルース・べネディクトの「菊と刀」的な恥の概念は、特に江戸初期のかぶき者の心情を分析する時には邪魔になります。江戸初期のかぶき者には、個人と世間を対立構図に見る考え方がまだありません。はっきりそうなるのは明治以降のことです。吉之助としては、佐藤氏の理論を歌舞伎のかぶき者の心情分析にも応用したいと考えているので、個人の心情に更に踏み込んだ形で 、負い目或いは引け目と云う言葉を使いたいのです。

『大衆は趣味と教養が低いから感傷的な悲劇しか愛さないのではない。事実上、たいして名誉を持っていない者が、あたかも名誉ある者のように道徳的にふるまおうとするならば、それは実際には意地を張るというかたちをとらざるを得ず、したがって、崇高な名誉心によって困難な状況に耐えるということより、感傷的な意地によってこそ困難な状況に耐えることのほうが、大衆にとってはるかに親しい具体的な発想法だからである。』(佐藤忠男:「長谷川伸論」)

上記の佐藤先生の文章は、例えば「義経千本桜・鮓屋」でいがみの権太が妻子を犠牲にする大博打のドラマツルギーの秘密を、どの歌舞伎の解説より、シンプルに解き明かしてくれるように思います。これならば、いがみの権太の犠牲的行為が持つ崇高さをスンナリ理解できます。権太が行動を起こさなければ平家の御曹司維盛は梶原に捕まって殺されるしかないわけで、権太はそういう高貴な御方を救ったのです。 歴史という大きな律に名もなき庶民がちょっとだけ棹差して見せたと云うことです。端から見れば無駄死に見えるような行為だけれど、権太はそこにカッコ良さを感じているということです。意地を張るという形でしかそれを表現できないところに庶民の哀しさがあるわけですが、権太はカッコ良いと大衆も感性で感じ取っているのです。そこに大衆が持つ 論理の裏打ちを見ます。(別稿「放蕩息子の死」を参照ください。)

演劇の感動は必ずしもイデオロギーから来るものではなく(そういう場合もあろうけれども)、多くは心情から来るものです。だから或る種感傷的なものが常に付きまといます。歌舞伎は庶民の芸能ですから、大なり小なりこの要素から離れることは 出来ません。しかし、そこには必ず大衆が持つ論理の裏打ちがあるはずです。心情というと何だかフワフワしたつかみどころのないものになりますが、論理と云えば、それはきっちり理性的なものになるのです。長谷川伸は、博徒 ・任侠・やくざ者と云った、社会の底辺で見捨てられた者たちの視点を大切にした作家でした。ですから長谷川戯曲を考えることは、彼らの心情を思いやることです。そのためには彼らの行動の裏にある 論理を理解せねばなりません。「ああ股旅物のね・・・」ということで 長谷川伸を軽く見る方も少なくないと思いますが、歌舞伎のドラマツルギーを深く考えるうえで、長谷川戯曲を味わうことは、実はとても役に立つことです。 (この稿つづく)

(H30・1・2)


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