(TOP)     (戻る)

七代目梅幸のお嬢吉三〜「三人吉三」の古典的な感触

昭和47年1月・国立劇場:「三人吉三廓初買」

七代目尾上梅幸(お嬢吉三)、二代目尾上松緑(和尚吉三)、十七代目市村羽左衛門(お坊吉三)、八代目坂東三津五郎(土左衛門伝吉)、三代目河原崎権十郎(手代十三郎)、七代目市川門之助(おとせ)


1)因果応報の物語

晩年の黙阿弥は自身の快心作として数多い作品のなかから「三人吉三」を挙げたそうです。黙阿弥の最高傑作として「三人吉三」が挙がることに異論があろうはずがありませんが、黙阿弥が本作のどういう点を気に入っていたのかなということが、吉之助は気になります。幕末期から明治20年前後に掛けての、黙阿弥を取り巻く環境変化はまことに激しいものでした。黙阿弥が亡くなったのは明治26年(1893)1月のことですが、明治に入ってからの黙阿弥は、依田学海や福地桜痴など演劇改良協会の連中から江戸の旧弊の権化の如くに非難されました。明治14年(1881)に新七から黙阿弥と号を改めて引退を宣言します。黙阿弥はその心を「以来は何事にも口を出さずだまって居る心にて黙の字を用いたれど、また出勤することもあらば元のもくあみとならんとの心なり」(「著作大概」) と記しています。今は黙っているが、いずれ劇作に復帰することになるという(実際その通りになりました)ことですが、そういう直近のことだけを言っているのではなく、「そのうち私の時代がまた来る」と言う予言のようにも聞こえます。

このようなことを背景として考えると、晩年の黙阿弥が数ある自作のなかで、幕末期に書かれて激動の時代の荒波を乗り切った「三人吉三」をとりわけ愛したということは、やっぱり黙阿弥は作品トータルとして本作が好きだったと思うのです。 坪内逍遥は「「三人吉三」は黙阿弥が作中でいわゆる因果ばなしとしては最も複雑を極め、また最も巧緻を尽くしたるものなる也」(「文芸と教育」)と書いています。それはその通りなのですが、作品の出来栄えと云うよりも、作品の背後にある因果応報の世界観と云うことです。「三人吉三」では我ながらこれがよく書けたと黙阿弥は考えたと云うのが、吉之助の思うところです。これは激動の時代を乗り切った晩年の黙阿弥ならではの感慨なのです。

黙阿弥という人は酒も煙草もやらず女遊びもせず、とくに信心に凝ることもなかった超真面目人間でした。醒めた眼でさまざまな人生を観察しながら芝居作りに励む職人気質、そんな人物像が浮かんできます。しかし、黙阿弥は因果応報の理(ことわり)だけは固くこれを信じ、これを終生、処世の方便・信条としたそうです。因果応報とは、例えばその子には何も罪もないのに親の前世の罪の報いを受けるとか、非業の死を遂げた人の怨念が何の関係のない人に取り憑くとか、そのような理不尽とも無慈悲とも不可解とも思える超自然の働きのことを言います。吉之助が考えるのは、因果応報の理を固く信じ た黙阿弥だからこそ、黙阿弥は「三人吉三」に登場する前世の報いも犬の報いも、これを超自然の非合理な節理ではなく、明晰で合理的な節理として見ることが出来たということです。(別稿「黙阿弥の因果論・その革命性」を参照ください。)

実は吉之助も「三人吉三」を初めて見た時には、吉祥院裏手墓地で和尚吉三が十三郎・おとせ兄妹を殺す場面での、因果応報の物語の底知れぬ暗さに気分が悪くなった記憶があります。幕末期の 閉塞した雰囲気にやりきれない思いがしたものです。まあそのように見えるのも、まあそれはそれで黙阿弥の一面ではあります。しかし、そういう時代であっても民衆は一生懸命生きたというところが大事であるわけで、黙阿弥が「三人吉三」で書いたこととは、そういうことでしょう。「三人吉三」台本をじっくり読んで みて、因果の糸が縦横に張り巡らされて、構成が理性的であることに気が付いて、吉之助は黙阿弥に対する見方を全面的に改めることにしました。

「三人吉三」は「侠客伝吉因果譚」と「通客文里恩愛譚」のふたつの筋が交錯するように出来ています。(別稿「因果の律を恩愛で断ち切る」を参照ください。)現在の歌舞伎では前者のみを「三人吉三巴白浪」の外題で上演するのが通例で、後者が舞台に出ることがもはやありません。ふたつの筋の絡み合いから「三人吉三」の全体像を読むのが本来でしょうが、しかし、「侠客伝吉因果譚」だけであっても、明晰かつ合理的なものをそこに見ることは出来ます。そうすると三人の吉三郎の物語は、どのように見えて来るでしょうか。(この稿つづく)

(H30・1・29)

三人吉三廓初買 (新潮日本古典集成)(安政7年1月市村座初演本所収)


2)七代目梅幸のお嬢吉三

本稿で取り上げる映像は、昭和47年1月・国立劇場での「三人吉三廓初買」 通し上演のもので、七代目梅幸のお嬢吉三、二代目松緑の和尚吉三、十七代目羽左衛門のお坊吉三と云う菊五郎劇団のメンバーで、当時考えられるベストの配役だと思います。とりわけ梅幸のお嬢吉三が素晴らしいものであるので、本稿はこれを中心に据えて論じることにします。

七代目梅幸は、云うまでもなく六代目歌右衛門と並び称される戦後昭和歌舞伎の女形の最高峰ですが、立役もよく演じました。吉之助は、判官(忠臣蔵)・桜丸(菅原)・義経(勧進帳など)・虎蔵(菊畑)・権八(鈴ヶ森) ・勝頼(十種香)などは、未だに梅幸をその役のベストとして挙げたい気がしますねえ。そのせいか梅幸が演じる女形は嫋々とした印象があまりなく、むしろスッキリとして、如何にも品が良いものでした。伝統芸の力を信じ、女形の古典的な佇まいを健康的な形で時代に向けて提示したと云うべきでした。この点で梅幸の女形は、同時代の歌右衛門の行き方とは対照的でありました。

これまで吉之助は「女形論」を歌右衛門中心に論じて来たので、梅幸についてはあまり触れて来ることがなかったのです。それは吉之助が梅幸を評価していなかったということではありません。梅幸が気負うことなく、自然体で時代に対したからです。だから個々の役ではいろんなことが書けるのですが、「女形論」にすると結構取り上げにくい女形なのです。これは渡辺保先生が、自分は梅幸が好きなのに、気が付くと梅幸では本を書いておらず、歌右衛門では3冊も本を書いていたと言っていたのと まったく同じ理由です。女形としての梅幸については、今後、過去映像を取り上げるなかで、折に触れて論じていきたいと思います。本稿ではお嬢吉三を通じて、若干ひねったところから女形としての梅幸を考えてみます。

「三人吉三」は万延元年(1860)市村座の初演で、お嬢吉三を演じたのは八代目半四郎(当時は粂三郎)ですが、これは半四郎の芸がおとなしくて人気がパッとしなかったのを何とか売り出そうというので考え出された役でした。折口信夫は、お嬢吉三は半男女物というべきであるが、傾向から言えば「悪婆もの」の範疇に入れることができると書いています。昔の人は善人の女形しか観なかったものなのです。盗賊をやって裾をまくりあげるなんて、女形としてあるまじき事をするのも忠義のためだから仕方ないと断りをすることで、「女形本来の性質である善人に立ち返っている」と折口は言うのです。(詳細については別稿「源之助の弁天小僧を想像する」「女形の弁天小僧」を参照ください。)だからお嬢吉三が大川端で 娘から男に豹変して、おとせから百両を奪って川へ突き落とし、刀(庚申丸)を片手に杭に足を掛けて「月も朧に白魚の・・・」というツラネを発する時、真女方の粂三郎がそこまでやるかという驚きが観客にあったに違いありません。要するに女から男に豹変するイメージの落差が売りということなのです。

吉之助はお嬢吉三という役をそのように見ていたわけですが、ところが梅幸がお嬢吉三をやると、もともと立役もよくする方ですから、娘の性根でいる時も男の盗賊の本性を顕わす時も、 梅幸はこれを自然体で見事に仕分けて見せるのです。女から男に豹変するイメージの落差で売ろうとするところがまったくない。女の性根でも男の性根でも、どちらでも違和感がまったくなくて、ぴったりと枠のなかに収まっています。それでは男女どちらにも映る中性的なお嬢吉三なのかと云うとまったくそうではなく、そのような怪しい退廃的な魔力が不思議なほどに少ないのです。だから、とても健康的な感覚のお嬢吉三であり、それによって梅幸のお嬢吉三は女形本来の性質である善人に無理なく立ち返っていると言えそうです。

このようなことは梅幸に限って起こる現象と云って良いかも知れません。他の役者のお嬢吉三であれば、芸の巧拙はあっても、多かれ少なかれ退廃的な魅力が見えると思います。普通はそういうものだと思いますが、このような現象は、多分、梅幸が女形の芸を伝統の技巧だと割り切って性の境界を軽々と乗り越えてしまうことで起きるものなのです。実際、梅幸が演じる女形は、男が女を演じること の気味悪さとか、厭らしさというものをほとんど感じさせませんでした。品良く美しい女性がそこに居るという印象だけがありました。ことさらに美を主張するわけではなく、別にそんなことをしなくても、それでも楚々として美しい印象が確かにあったのです。一方、梅幸が演じる義経や桜丸にはふっくらとした味わいのなかに凛とした強さがにあって、これを裏返せば、それは梅幸が演じる女形とまったく同じものでした。

恐らくそれは梅幸が伝統の力を素直に信じたからこそ出来たことなのです。現代においては、伝統芸能の基盤が危うくなっています。現代において歌舞伎はその存在価値を認められていないのではないか、歌舞伎の封建主義のドラマは時代遅れだと思われていないか、女形は気持ち悪いと思われていないか、「三人吉三」の因果応報の律なんて迷信だよと笑われてないか、そのような渦巻く不安のなかに歌舞伎役者は居ます。現代に生きる以上、そのような世間の目を意識せざるを得ません。しかし、梅幸は伝統の力を信じて、しっかり前を向いて立ってい ます。

ですから梅幸がお嬢吉三を演じれば、「三人吉三」全体が理知的かつ古典的な趣きを呈することになります。因果の糸の絡み合いが、暗く陰惨で非合理なものとして映るのではなく、いくらか明晰で合理的な「装置」に見えて来るのです。(装置については別稿「黙阿弥の因果論・その革命性」を参照いただきたい。)因果というものが非合理で、人間の力ではどうしようもできないものならば、三人の吉三郎は如何に抗ったとしても、結局、因果の糸にからめとられるしかなかったでしょう。そのように「三人吉三」を読むことも、もちろん出来ます。しかし、因果というものが明晰で合理的なものであるならば、もしかしたら三人の吉三郎はその糸を手繰り寄せて、これを断ち切ることが出来るかも知れません。このように「三人吉三」を読むならば、火の見櫓での三人の吉三郎の行動は意志的なものとなり、俺たちはこんな詰まらない泥棒だが、そんな俺たちにも何か出来ることがちょっとはあるはずだというものになります。そう云う気持ちは変革の思想を孕むものに違いありませんが、そのような心象風景が額縁のなかにぴったりと収まった形になると、三人の吉三郎のドラマは古典的な趣きを呈することになるのです。

吉之助の脳裏に、六代目菊五郎のお嬢吉三が重なって浮かんで来ます。伝統の力を素直に信じる梅幸の芸の在り方は、確かに六代目菊五郎から発しています。これは根拠を明示しにくいですが、これまで読んだ六代目菊五郎に関する芸談やら証言などを通して、吉之助が思い描いて来た六代目菊五郎の延長線上に、梅幸のお嬢吉三が自然に乗って来るということです。吉之助にとっては、根拠はこれで十分なのですがね。(例えば別稿「菊五郎の古典性」をご参照ください。)今回の菊五郎劇団の面々による「三人吉三」の黙阿弥の舞台を見るならば、そのことがよく分かります。このように折り目正しい感触の黙阿弥の舞台は、平成の現在ではもう滅多に見ることができないものです。(この稿つづく)

(H30・1・31)


3)七五調の揺れるリズム

別稿「黙阿弥の七五調の台詞術」において、黙阿弥の七五調の台詞のリズムとは、正しい七五のユニットを等分に取り、七は早く・五を遅く取ることによって、わずかな緩急のリズムが交互に来る、揺れる感覚のリズムであることを分析しました。揺れるリズムとは、どういうものでしょうか。揺れるリズムとは、テンポが速くなってやがて猛烈な速度に達して極度な興奮状態を示すこともなく、かと言ってリズムが遅くなってやがて沈静状態を示すこともない 、どっちつかずに微弱な興奮と沈静の波が交互に緩慢に続く ものです。

黙阿弥の七五調の揺れるリズムが示す気分とは、「俺は変わりたい、この現状から抜け出したい」と思い悩みつつ、「いやダメだ、そんなことは俺には到底出来ない」と思い直す、このサイクルを永遠に繰り返して、動けないということなのです。動かないと見えるのは表面のことで、実は内面は絶えず揺れ動いているのだけれど、彼は思い切れないから動けないのです。黙阿弥劇の主人公を見れば、みんなそういう男たちであることが分かると思います。ところがふとしたことがきっかけで、そんな優柔不断な男が思い切ってしまいます。大抵の場合、彼は泥棒になっちゃうのです。しかし、結局は因果の糸に絡めとられて、彼は破滅する破目になります。この時、誰かが「お前も、やっと分かっただろう」と彼の耳元で囁きます。黙阿弥劇とはそんなドラマなのです。

黙阿弥の七五調の代表的な台詞をひとつ挙げれば、それはもちろんお嬢吉三の長台詞(ツラネ)です。お嬢になったつもりで 、奪った刀(庚申丸)を手にして隅田川に向かって杭に足を掛けポーズを取って、月光で明るく輝く川面を見上ながら長台詞を言う場面を想像してみてください。隅田川はゆったりと流れて、波が静かに揺れています。河面に月の光が反射して、ユラスラと幻想的な光景を見せています。それを見ながらお嬢が気持ちよく「月も朧に/白魚の/篝もかすむ/春の空」と台詞を言う時、リズムが美しくユラユラ揺れます。これが黙阿弥の七五調のイメージであることが、お分かりいただけると思います。

今回(昭和47年1月・国立劇場)での梅幸のお嬢吉三は、吉之助がお嬢にイメージする、まったくその通りのものを見せてくれます。七五の台詞が軽やかに、わずかなリズムの揺れを見せながら淡々と進みます。「月も朧に白魚の・・」のツラネを言う時、多くのお嬢役者が天上 の月を見る思い入れで上を向いてこれを言うでしょうこれに対し梅幸のお嬢は、隅田川の河面に月の光が反射してユラスラ揺れているのを見詰める心で、目線を下に向けています。これ梅幸が台詞のイメージを正しく掴んでいることを示しています。ああ六代目菊五郎のお嬢もこうだったのだと、直感的に分かる筋目の正しさです。梅幸の健康的な印象というのは、そんなところから出て来るのでしょう。梅幸の折り目正しい芸が、ここに描かれたものが真正なものであることを教えてくれます。これが古典的な感覚というものです。前述した通り、梅幸のお嬢には美しい娘が裾をまくりあげて豹変するアラレの無さ、女から男へ性の境界を飛び越える倒錯美が乏しいのですが、恐らくそれは粂三郎に演じさせるために強調されたお嬢のイメージなのであって、「三人吉三」のドラマから見たところのお嬢の本質ではないらしいことに改めて気付かされます。

もうひとつ挙げると、お嬢のどんな台詞もすべて一様な揺れるリズムで云うわけではなく、写実を強く空っ世話に云う場面もあり、他方「月も朧に・・」のツラネを言う時のように、これは厄払いの様式に乗るものですから、揺れるリズムの様式感覚を前面に出す場合もあるのです。つまりお嬢と云う役のなかにも、写実と様式の揺れがあるわけです。そこを柔軟に使い分けるのが、役者のセンスです。全体として、梅幸は写実に基調を置きつつ、写実と様式の振幅を必要最低限に抑えています。そんなところも古典的な感覚を呼び起こします。

このことを裏付けするのは、大川端の場でお嬢に対する、十七代目羽左衛門が演じるお坊吉三の折り目正しさです。羽左衛門のしゃべる台詞も、見事な規格正しい揺れるリズムの七五調になっています。羽左衛門のお坊も、まったく梅幸のお嬢と同じ印象なのです。だからお嬢とお坊のやり取りが、お手本にしたいほど面白いものになります。こんなところから六代目学校とはどんなものだったか、その有り様が見えると思います。写実的に見えて適度に様式性があり、様式的に見えて適度に写実性があるのです。決して言葉の羅列に陥らないように、生きた台詞をしゃべることを心掛ける。これが黙阿弥の正しい世話の様式です。

「黙阿弥の七五調は歌うもの」と仰る方が、いらっしゃいます。吉之助はこれを決して否定はしませんが、「歌う」ということを音程と抑揚を付けて節を転がすことを言うのであれば、それは間違いです。台詞は写実を基本に置き、これを正しい息に乗せるならば、台詞は自然とひとつの様式のなかに集約されていくものです。黙阿弥の場合には、それが七五の緩急の揺れるリズムとなるのです。正しい息に乗った台詞は、様式的かつ音楽的な感覚を 自然と呼び起こすものです。そのような意味合いで「黙阿弥の七五調は歌うもの」だと云うのならば、吉之助はこれを認めるでしょう。(別稿「アジタートなリズム〜歌舞伎の台詞のリズムを考える」をご参照ください。)(この稿つづく)

(H30・2・2)


4) 「三人吉三」の古典的な印象

吉之助はクラシック音楽でひとつの仮説を持っています。それは古典性が強い作品(例えばベートーヴェン)においては表現をロマン的な方向にちょっぴり引っ張って、形式感に破綻をもたらした方が演奏は面白くなる、一方、ロマン性が強い作品(例えばブラームス)においては表現を古典的な方向・ストイックな方向へちょっぴり引っ張って、形式感を強くしてみせた方が演奏は面白くなるというものです。もちろんこれは法則でもなんでもなくて、吉之助の好みと云うべきですが、「吉之助のクラシック音楽雑記帳」をご覧になれば、吉之助の演奏評価にそんな好みが反映されているかなと思います。要するに作品の性格とは逆の方向に表現ベクトルをちょっぴり引いてみたいということです。もちろん作品本来の形を壊すほど強く逆へ引っ張ってはダメです。例えて云えば、お菓子の素材本来の甘さを引き立てるためにちょっぴり食塩を加えてみるようなものです。

吉之助は、この仮説は歌舞伎を見る時にも適用できるものと考えています。例えば見取り狂言としての「六段目」や「七段目」は、もともと音曲(義太夫節)であり、がっしり強固な構成を持った作品ですから、どうしても古典的な性格が強くなります。芝居は「そは然り」と古典的な形に収束したがるものです。しかし、吉之助は、「六段目」や「七段目」を古典的な佇まいに収めるよりも、「然り、しかし、それで良いのか」という懐疑を強調して、古典的な感覚をわずかに破綻させる方向へ持っていきたいと思うのです。その方が芝居の味わいに深みが出せると考えます。

一方、黙阿弥物の場合は、もともとロマン的な性格が強いものなので構成の縛りがそれほど強くない。だから、どちらかと云えば作品の構成よりも流れが重視されやすい。それで芝居の局面が浮き上がって、主題の印象が散漫になり勝ちです。昨今の黙阿弥物の舞台は、大体そんな感じが多いのではないでしょうか。例えば劇作家宇野信夫はこんなことを言っています。

「世話物っていうものは人間描写なんでしょう。その面白さでしょう。だから僕は黙阿弥は世話物じゃないと思う。「三人吉三」なんか、時代物だな。「月も朧に白魚の・・」、人間がそこに出てませんよ。」(宇野信夫と河原崎国太郎との対談:「世話物談義」・「演劇界」昭和57年7月号)

宇野が言うことは分からないことはありませんが、このように黙阿弥物の舞台が「人間がそこに出てません」という印象に陥りやすいのは、芝居が情緒的・感性的な方向に流れやすいせいです。「月も朧に白魚の・・」というお嬢吉三のツラネなどは、その典型です。このような場合には、表現を逆の方向へ、古典的な感覚へ引っ張った方が、芝居が引き締まって具合が良いのです。古典的な感覚の梅幸のお嬢を見れば、吉之助が主張するところの裏付けが出来ると思います。

梅幸のお嬢にあるのは、「これが女が男に転換する女形の倒錯美だよ、そこがいいんだよ」と声高に主張しなくても、しっかり人間が描けてるならばそれで十分じゃないかと云う、これは実に健康的かつまっとうな芝居感覚なのです。脚本の読み方がとても素直なんだとも云えます。例えば六代目菊五郎の「弁天小僧」の古い録音(昭和7年ビクター録音)を聞いても、まったく同じことを思いますねえ。芝居っ気を出して、「これが歌舞伎の様式美だよ」なんて台詞廻しをする必要など全然ない。コロンブスの卵ではないけれど、「あっ、そうか、黙阿弥はこれで良いんだ」とスッと腑に落ちます。すると素材本来の味わいが自然に浸み出して来ます。

それでは「三人吉三」という芝居から見たお嬢吉三の本質(素材の味)とは、一体何でしょうか。それは「私とは誰か?本当の私とは何か?本来の私を取り戻すために私は何をしたら良いだろうか?」と云う自らへの問いです。それぞれの答えを明らかにするために、三人の吉三郎があがき、苦悶し、走り回るのが、「三人吉三」のドラマなのです。これがそっくりそのまま明治維新が目前に迫った幕末世相の気分を反映するものです。そこに来るべき時代の予兆があります。但し書きをすれば、江戸庶民がここではっきりと封建制度・幕藩体制への懐疑にたどりついたということではなく、それはまだまだ明確な形を取らずモヤモヤした不愉快な気分でしかないのですが、しかし、明治20年を過ぎた時点で「三人吉三」を見直してみれば、黙阿弥が正しかったことは明らかなのです。晩年の黙阿弥が「あの時俺は作品のなかに確かに時代の真実を描いたのだよ」と自信を以て言えるものがそこにあります。この時、晩年の黙阿弥の目には、「三人吉三」が古典的な印象に映っていたであろうと思うのです。(この稿つづく)

(H30・2・6)


5) 伝統への信頼

例えば吉祥院の欄間からお嬢が顔を見せる場面においても、梅幸のお嬢はまったく当てる気がない自然体の演技なのです。幕末芝居絵のこってりとした退廃美が乏しいと云われれば、それまでのことです。巷には「三人吉三」はアウトローの美学だ、悪の魅力だなんて書いている本はたくさんあるでしょう。その線から見るならば、この舞台の健康的な感覚は、そこから最も遠いと云うべきです。この場面の梅幸のお嬢と羽左衛門のお坊は、しっかり前を見据えた人間に見えます。今は盗人の身に堕ちてはいるが、義の道を踏まえて、そういう日が来るとは思っていないけれども、いつかは真人間に戻りたいと云う気持ちだけは決して忘れまいと思っている男たちなのです。

吉祥院の場においては、因果の律や犬の報いとか非合理なものが一気に襲ってきて、大川端で交わした三人の吉三郎の血の盟約はもはや反古にされてしまうのかと一時観客は思ってしまいそうです。しかし、結果的にそうはならず、血の盟約は守られます。それは三人の吉三郎が、自分たちの明確な意志でそうしたのです。この時、非合理なものが一気に吹き飛んでしまいます。次の火の見櫓の場では、彼らは非合理な因果の律に絡め取られていわば逃避的に死に追い込まれるのではなく、自分たちは犯した数々の罪行の責任を自分で受け取って死ぬのだという意志を、三人の吉三郎ははっきり見せているのです。

梅幸と羽左衛門の七五の台詞廻しが想起させる、折り目正しさ、健康的な印象は、「あっ、なるほど、黙阿弥は本来この感覚が正しいんだ」ということを直感的に気付かせるものです。確かに酒も煙草もやらず女遊びもせず、とくに信心に凝ることもなかった超真面目人間であった黙阿弥ならば、アウトローの美学だ、悪の魅力だなんて芝居を決して書かなかったと思うのです。例えそのように見えたとしても(芝居というのはお慰みなのですから、そのように見ることを黙阿弥は否定しなかったと思いますが)、黙阿弥の真意はそこになかったに違いありません。人生の荒波を乗り切った晩年の黙阿弥が、これまでの人生を思い返して俺の快心作は「三人吉三」だと断言したのは、そのような意味だっただろうと思うのです。この時、「三人吉三」が古典的な印象で立ち現れます。

吉之助が映像を見ながら考えるのは、梅幸と羽左衛門はそういうことを明確に意識しながらお嬢やお坊を演じたのかと云うことです。多分、そうではなかったかも知れません。梅幸と羽左衛門が心掛けたことは、師匠である六代目菊五郎に教わった通り、しっかりそのように演じて見せるということ、ただそれだけであったかも知れません。六代目学校で教わったことを忠実にやってみせること、それが自分たちが六代目菊五郎の生徒であったことの証だからです。これはすなわち、芸というものへの絶対の信頼、伝統というものへの絶対の信頼ということに他ならないのですね。さらに突き詰めれば、作者への信頼、作品への信頼ということになると思います。作品のフォルムを正しくその通りに素直に描いて見せるならば、何の造作もなく、作品の主題はその通りに 正しく立ち現れるという、ホントに当たり前の芸の真理を思い知らされた気がします。これは現代の歌舞伎役者が、伝統というものと対峙する時に、今最も必要な態度ではないでしょうかねえ。

(H30・2・17)

(追記)さらに「現代において六代目菊五郎とは何か」という問題を踏まえなければなりません。れについては別稿「六代目菊五郎とその時代」 、「菊五郎の古典性」をご参照ください。

梅幸ならば、「三人吉三」のもはや上演されないもうひとつの筋、「通客文里恩愛噺」の吉原の遊女一重(ひとえ)もさぞかし良かろうと想像されます。国立劇場で別の機会にでも復活してくれればよかったのにと思いますが、残念なことに実現しませんでした。

三人吉三廓初買 (新潮日本古典集成)(安政7年1月市村座初演本所収)




  
(TOP)     (戻る)