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吉之助の雑談18(平成22年7月〜12月)   


○吉之助が「芸十夜」を読む・その9

前項その8において武智鉄二が「僕の考えでは、結局、林中とか団平・大隅大夫とか、あるいは九代目団十郎が正しい芸だと思うんですよ。」と言ったことを紹介しました。ここで挙げられているうち、 常磐津林中(明治39年没)・二代目豊澤団平(明治31年没)・九代目市川団十郎(明治36年没)は「明治の三名人」と称された人物たちです。伝統芸能の世界には他にもいろいろ腕利き・人気者がいましたが、この三人を以って名人は止めを刺すのです。(大隅大夫は団平に訓練を受け・その芸を継いだ人ですから、ここでは名人団平の芸の名残りであると考えられます。)ここに見える武智の彼らの芸が正しいという認識はどこから来るのか・ということが問題なのです。大正元年生まれの武智は彼らの生(なま)の芸を見ても・聴いてもいないのに、何を根拠にその芸を正しいと言うのか・ということが問題なのです。それは彼らの没年を見れば、はっきり分かります。「彼らの芸が最後の江戸であった」ということです。彼らの芸が亡くなった時、江戸は終わったということを人々は実感した。そのようなことを考えさせる芸であったということです。これが武智の根拠です。

しかし、伝統芸能の世界には他にもいろいろ腕利き・人気者が沢山おりました。彼らが死んだ時にも「いい役者がいなくなったなあ」・「これで面白い芸がみられなくなったなあ」という感慨はあったでしょう。しかし、「これで江戸は死んだ」とまで思わせた芸人がどれだけいたでしょうか。そこに芸格において隔絶した質的な違いがあったということなのです。明治の三名人というのはそういう人たちであったのです。この厳然たる違いを見極めなくてはなりません。この井原敏郎(青々園)は明治36年に九代目が亡くなった時のことを次のように書いています。

『「団菊が死んでは今までのような芸は見られぬから、絶対に芝居へ行くことをよしにしよう」、そういう人が私の知っている範囲だけでも随分あった。またそれほどには思い詰めなくても「(国劇の最高府である)歌舞伎座はこれから先どうなるだろう」、それが大方の人の頭に浮かぶ問題であった。』(伊原敏郎:「団菊以後」)

いくら九代目が名優であったとしても・ひとりの歌舞伎役者の死を「歌舞伎はもう終わりだ」というほどに人々が思いつめたというのは尋常ではありません。このことの意味を考えてみる必要があります。(このことは「歌舞伎素人講釈を読む為のガイド:九代目市川団十郎」に詳しく書きました。)ですから、ここで武智が正しい芸として明治の三名人の名前を挙げる時には「彼らの芸が最後の江戸であった」という認識がまずあって、彼らの芸が「江戸」というものを人々の心のなかにまざまざと想起させる・ある種の折り目正しさ・規格のようなものをそこにイメージしているのです。言い換えれば、明治の三名人の芸の在り方・あるいは生き様というようなものです。そのようなトータルなイメージを以って、武智の「正しい芸」という言葉が出たと考えて欲しいわけです。

ですから「九代目団十郎の芸は正しい芸だ」という時に、文献的にひとつの事例を挙げて・「九代目はこうやったから、こうやるのが正しい」と言うのは、まあ芸の検証の手法としてはあることですが、正しいやり方ではないのです。トータルのイメージとして「堀越の伯父さん(九代目)がいま生きているなら ば、きっとこうやるに違いない」というのが、正しい芸の発想法です。九代目が得意とした「積恋雪関扉」の関兵衛を、菊五郎が初役で踊った時に「いやあ、さすが九代目直伝で・・」とあちこちからお世辞を言われたそうです。しかし菊五郎が関兵衛の踊りを九代目から直接習ったことはなかったそうです。

『・・しかしですね、どうにも仕方のないもので、直接には教わらなくても自分で工夫する時になって、ああこういう場合にはこうした方がいいな、ここはこうと、自然天然、伯父さんに仕込まれた考えが浮かんでくるんです。それがつまりコツだね。それをその考え通りに踊ると、見物した人から「イヤ伯父さんソックリです」と言われる。手を取って教えないまでも、芸の意気がうつるというのだからやっぱり伯父さんは偉いんだね。その偉い伯父さんの通りだと言われ直伝だと思われているんだから、マア不名誉なことじゃない。考えてみれば悪い気持ちはしませんから、ヘエ、と言ってるようなわけさ。』(六代目菊五郎:昭和2年4月本郷座での所演の談話:掲載「演芸画報」昭和2年5月号)

このような六代目菊五郎の考え方が、芸の継承のもっとも素直な・純粋なあり方であると言うべきです。しかし、現実には自分勝手に「伯父さんはこうやるに違いない」というものを作り上げる不届き者が出たりします。その不届き者も 彼なりに真面目にやっているつもりで・別に悪意があるわけでもないもないのです。しかし、やることが好い加減であるわけです。不届き者がやっていることにも全然根拠がないわけでもないのです。こういうものにも 「伯父さんはこうやった」という根拠があったりして、少しは本物が混じっていたりするので、これがまたややこしいということになります。そういうものを選り分けることは簡単ではないのです。

九代目もその生涯で様々な試行錯誤をやりました。そのなかには大失敗がいくつもありました。例えば明治12年(1879)2月新富座の「勧進帳」において九代目が「素顔に地天窓(あたま)にて眉毛も格別太くせず白粉も施すことなく・・」という散切り頭の扮装で弁慶を演じた記録があります。九代目が「活歴」に熱中していた頃のことです。しかし、この時の弁慶の扮装が幸か不幸か甚だしく評判が悪かったのです。それで九代目も仕方なく「勧進帳」 を昔風の姿に戻したのです。もし・ここで九代目の「実験」が成功していたら、現代の舞台の「勧進帳」や松羽目舞踊は散切り頭で演じられていたに違いありません。

九代目が創始した活歴は、これも評判があまり良くないものです。活歴のなかで九代目は史実に則った衣装や小道具に本物を使うことにこだわりました。こうした九代目の態度を悪写実だと言ってお笑いになる方は、九代目の芸のトータルな在り方がお分かりではないのです。 歌舞伎史のなかで九代目を正しく位置付けできていれば、そういうことは起こらないです。五代目菊五郎は「戻橋」創作に当たって・京都に人を遣って橋の板の枚数を数えさせて・それを舞台装置に生かしたそうで、そのことを「自伝」のなかで得意気に語っています。こういうのは傍からは無邪気なようにしか見えないでしょうが・実は本人は大真面目なので、それは彼の役者としての良心というところに係わってくるのです。九代目も五代目も、一度はそこまで写実(=本物そっくり・それは自然主義の考え方でもある)をとことん突き詰めてみる必要があったということです。それが明治初期の演劇(歌舞伎ではなく演劇です)の時代の要請であったからです。それが分かれば、活歴も九代目の生き方のひとつとして不可欠なものであったことが分かります。活歴を九代目の芸歴のなかの汚点のように言うのは間違っています。活歴や散切り物を通り抜けてきたところ・もちろん反省も加わったところで、晩年の九代目 や五代目の芸の評価が固まってくるのです。芸というものはそのトータルな在り方(その役者の生き方も含む)で評価されねばならないもので、ひとつひとつの事象において評価するものではありません。 武智の「正しい芸・本物の芸」という評価は、そういうトータルなところから出るものなのです。(この稿つづく)

(H22・12・25)

*本稿「吉之助が芸十夜」を読む」はまだまだ続きますが、年を越しますので、ここで前半部を一旦切ることにしまして、続きは「吉之助の雑談・19」に連載することと致します。


○吉之助が「芸十夜」を読む・その8

『つまり僕の考えでは、結局、林中とか団平・大隅大夫とか、あるいは九代目団十郎が正しい芸だと思うんですよ。』

「芸十夜」第一夜に出てくる武智鉄二の言葉です。「芸十夜」では「正しい芸」とか・「本物」という言葉がよく出てきますが、実はこれはよく注意して使わねばならない言葉です。「芸十夜」は対談ですから、その場の勢いで・表現が十分に吟味されていない場合があります。あるいは言い足りないことがしばしばあります。逆に言えば行間がスカスカ空いているところが対談の魅力です。しかし、ここで大事なことは、そもそも「正しい芸」・「本物」とはどういうものなのかということです。そういうことの深さを十分に知らない で、こういう言葉を簡単に使うと誤解を生じます。もちろん武智は分かって使っているのですよ。しかし、「正しい芸」とか・「本物」とか言うことを、武智がどういうバックグラウンドの深さを以って言っているかをよく考えてみて欲しい わけです。これは「芸十夜」一冊読んだくらいでは分からぬことです。あくまでこの本は取っ掛かりなのですから。

ところで、本物の反対語は「偽物」であると思いますか。世の中そんなに簡単なものではありません。本稿その4で、吉之助が本物に対して偽物という言葉を使わないで 、「本物でないもの」という言葉を使っているのはそこのところです。それが偽物ならば話は単純です。しかし、世の中には本物でないものの方が本物より良く見えて、本物の方がショボく見えることがしばしばあります。本物でないものの方が、本物よりずっと面白いことがしばしばあります。その見分けをつけることは、簡単ではないのです。しかし、本物でないことをやり続けていると気が付いた時には全体がもう歌舞伎でないものに変化してしまっている、そうなりかねない危険性を孕むものが たくさんあるのです。だから、ここはカッコ良く見えないけれども・派手に見えないけれども・面白くないけれども・お客には受けないけれども、それをやっちゃあお仕舞よ・それをやっちゃあ歌舞伎じゃなくなるよ、ここはこれを守らなきゃいけませんというものがあるはずです。これが歌舞伎の場合の「本物」と「本物でないもの」の境目ということになります。このことを郡司正勝先生は 次のように言っています。

「あれは違うよと、俳優さんはみんなそういう意識を持っていると思います。あんなことをやっては、あれは違うよ、という意識はある。最後の一線、最後の踏みこたえる線はそれしかないの。」(郡司正勝インタビュー「刪定集と郡司学」:「歌舞伎・研究と批評」第11号・1993年)

しかし、立場を変えて別に歌舞伎ということにこだわらなければ、本物でないもののなかにも良いものが沢山あるのです。本物でないものが偽物だということでは決してありません。立場によってそれが容認できないということだけのことです。 本物と本物でないもののの違いを見極めて・これを仕分けることは、決して容易な仕事ではないのです。

武智はその批評のなかで対象を、これは駄目だとか・あれは偽物だとか、情け容赦なくバッサリと斬りました。批評というものは、自分の立場を明確に決めて・物事の白黒を断じるものですから、自然とそうならざるを得ない ところがあります。批評というのは仕事でありますから、批評者は明確な責任を負って文章を書くものです。同じような良し悪しを言っているだけのようで も、いわゆるご感想とは同じであるように見えて実は全然違うものです。批評する者のバックグラウンドが明確、背後に確固とした理論があるということです。それが批評なのです。武智のバックグラウンドを理解したうえで、武智が正しい・とか本物とか言うものを読み込んでいかないと間違えます。武智が思うところの本物が他の方にとって も本物かどうか、それは分かりません。吉之助が武智が「これが本物だ・これが正しい」と言うものから出発しているのは、もちろん吉之助が師匠である武智を信じているからです。

それにしても武智は批評のなかで対象をバッサリやったことで、随分と要らぬ敵を作ったと思いますねえ。これは武智がわざと波風を立てて・話題を作り・論争を引き出そうという意図があったかも知れません。しかし、今日までもこれが武智の評価に災いしているようです。戸板康二がその昔、「岡(鬼太郎)さんは文章が下品。僕の理想は三宅(周太郎)先生である。」と書いていたのを思い出します。多分戸板は武智の文章は下品だと思っていたと思います。若い頃の吉之助 はそのような武智の文章を痛快に思ったものでしたが、この歳になると吉之助も戸板の指摘が正しいと思うようになりました。 下品な批評は書かないように気をつけています。そこのところは吉之助にとって武智は反面教師なのです。ですから武智の言葉を表面的に受け取って、「芸には本物と偽物のふたつしかない」などという決め付け方をしないようにして欲しいと思いますね。本物と本物でないものの境目を見極めるのは、決して簡単なことではないのです。(この稿つづく)

(H22・12・21)


○吉之助が「芸十夜」を読む・その7

『あたしゃね、死んだ人に見てもらっているんだよ。うちの親父、堀越のおじさん、成駒屋のおじさん、寺島のおじさん、この人たちが後ろで見ていると思ったら怠けるなんてできませんよ。』

これは「芸十夜」第二夜に出てくる七代目三津五郎の言葉です。一緒に舞台に出て踊る六代目菊五郎はお客が団体さんだったりすると、やる気がなくなってしばしば手を抜いたりしました。三津五郎の方は、どんな時でも手を抜かずにきっちり踊りました。その理由を息子(八代目)に問われて、七代目三津五郎は「六代目はお客を相手にしてるからそうなるんだろ。あたしゃ、死んだ人に見てもらっているから。」と言ったというのです。父親である十三代目勘弥、大先輩である九代目団十郎・四代目芝翫・五代目菊五郎、これらの人に見られていると思ったら怠けるなん てできませんと言うのです。

この挿話は芸というのは果てしがないもの・冥途に行った時に初めて完成するものと考えるのもまあ結構ですが、それならば「・・ああそうですか」というようなものですね。この挿話は「芸十夜」第一夜に ある「見ていない芸を手本にせよ。手本は九代目団十郎だ。」という三津五郎の言葉と関連させて読まないと、その言うところが完成しないのです。(その3を参照のこと)そうすると三津五郎の教えがとてもストイックかつ、ロマンティックに響いてくると思います。

三津五郎は踊りながら死者と対話をしているのです。「お父っあん、こんな風で如何です。」、「悪かねえが、そこんとこ、もう少したっぷりやってくんねえ。」、「分かりました」・・・「伯父さん、このところ、少し工夫してみましたが、如何です。」、「いいじゃないか、それでやってみな」、「分かりました」・・・という死者との対話です。しかし、三津五郎は別に霊媒師というわけじゃありません。結局、三津五郎は自分の頭のなかで、彼がイメージとして追っている大先輩の芸(お手本)と対話しており、その演技に絶えずチェックと修正を掛けているということです。

ここで大事なことですが、三津五郎の思考のなかにふたつの流れが交錯しているということです。ひとつは、もう死んでしまって眼にすることのできない・直接指導をお願いできない大先輩の芸の面影をただひたすらに追おうとする思考です。 つまり、現在から過去を見る視点です。その場合、例えば九代目団十郎はこの場面をこんな風に演ったという記憶がその思考の根拠となっており、それを手掛かりにして芸を構築していくということになります。もうひとつは、もし亡き大先輩がそこに現れて、自分の芸を見たら何と言うだろうか、「なかなかやるじゃねえか」と認めてくれるか・「大根ッ」と言って怒られるか、そういうことを常に謙虚に考えるということです。 これは、過去から現在が見られているという視点です。しかし、実はこれも九代目団十郎はこの場面をこんな風に演ったという自分の記憶から来ているわけです。それは孤独ではあるけれども・決して孤独ではなく、 しかし、熱くはあるけれども・また哀しい対話です。死者は決してその場に蘇って直接指導をしてくれることはないからです。

それにしても七代目三津五郎の場合はもう死んでしまったとしても・お手本である九代目団十郎の芸を生(なま)で自分の眼で見たことがあるのだからまだ良いですが、息子(八代目)の方は「見ていない芸を手本にせよ。手本は九代目団十郎だ。」と言われて面食らってしまうというのは確かに分かりますねえ。このハンデは決して小さくないかも知れません。一体そのお手本をどうやって探せば良いのか。しかし、芸の対話の方法論としては、七代目三津五郎と息子(八代目)に別に違いがあるわけではないのです。「目の前の舞台がこんなに素晴らしい、ならば昔の名人の舞台はもっともっと素晴らしかったに違いない」という思いが伝統芸能を継ぐ者をストイックかつ、ロマンティックにするのです。そう考えれば 見てないハンデをチャラにできるわけです。 そうして上掲のような内面的な芸の対話を同じ続ければ良いのです。そうすれば親父(七代目)と息子(八代目)のスタンスは決して変わりません。(このことについてはその3を参照ください。)

もうひとつは「六代目はお客を相手にしてるからそうなる(舞台を投げる)んだろ。」というのも大事な戒めですね。要するに「受けたい・褒められたい」という気持ち・世俗的な願望がどこかにあるから、そうなるのです。「芸十夜」では六代目菊五郎は盛んに持ち上げられていますが、どんな場合でもお手本というわけでもなかったことはこのことからも分かります。六代目菊五郎 にもどこかにやはり芸人的な卑しさがあったということです。しかし、但し書きつけておけば、そのような卑しさが歌舞伎からスッカリ抜けてしまって・歌舞伎が芸術化したら・その歌舞伎はホントに面白いのか、ということも考えておかねばなりませんね。この問いは本論とは直接関連しませんけれど、そこから武智の議論を切り返すことも十分可能なことです。まあ理論と実践のなかに生ずる必然的な軋轢ということになりましょうか。もっとも武智の方はそのことを十分承知したうえで、落し穴掘って議論し掛けてくる者を待ち構えていたのだから、ちょっとワルでしたね。(この稿つづく)

(H22・12・12)


○吉之助が「芸十夜」を読む・その7

もう一度お浚いをしておきたいのですが、山城少掾が「義太夫というのは、頭さえ使えば誰でも語れるものです。」(「その2」参照)ということの真意は、節付けをした初演の太夫が考えていたこと(解釈・意図)通りにやれば私のような者でも必ず同じように語れるようになると信じています・そのためにはもっと頭を使って丸本を読まねばならないと私は思うのです」という意味です。同じことが六代目菊五郎の勘平に起こっています。六代目菊五郎は、音羽屋型を創始した三代目菊五郎が役作りで考えた筋道とまったく同じ過程を辿って役を演じている・だから昔からある型なのに手順をなぞっているように見えない・勘平が何を考えてその動作をしているのか手に取るように分かるということなのです。つまり、型とか風というものには再現性があると 、ふたりはそう信じているということなのです。

「同じ材料を持ってきて・同じ配合をして・同じ処理をすれば・誰でも同じ結果が得られる。」とするのが科学です。実はそんな単純なものでもないのですがね。(吉之助は 化学出身で、いちおう科学者です。)まあ一般的な科学のイメージはそうですし、原則的にそのように考えて間違いではありません。「科学はある種の秘密を公(大衆)のものにした」というのが、19世紀から20世紀初頭の科学のイメージです。二十世紀初頭の芸術思潮であるノイエ・ザッハリッヒカイトは、そのような時代の影響を強く受けているのです。ですから、その思潮 は科学のイメージで捉えることができます。「型や風というものは再現性があり・一般化ができる」とする考え方は科学性ということなのです。

例えば折口信夫が菊五郎の芸について「舞台の鼻まで踊りこんで来て、かつきりと踏み残すといった、鮮やかな彼の芸格に似たもの、(中略)このかつきりとした芸格は、(中略)彼の芸が持つ科学性と言つても、ちつともをかしくない。』(「菊五郎の科学性」・昭和24年8月)と評しています。多くの方は歌舞伎を考える時に科学ということを思い浮かべないと思います。また折口信夫の思想は感性的・直感的であり・科学から最も遠いように思っている方が多いと思います。その折口信夫が菊五郎の芸を語る時に「科学性」という言葉を使っていることを奇異に感じるかも知れませんが、実は不思議でも何でもないことです。武智鉄二も折口信夫も山城少掾も六代目菊五郎も同じ時代に生きて・それぞれの分野を究めた人たちですから、それは同じ時代の共通したものを帯びているということです。それでなければ良い仕事などできるはずがないのです。それは結局、科学性・単純性・あるいは一般化というイメージで物事を捉えるセンスということなのです。

『何でもなくやれることを、何でもなくやれないようにして、その何でもないところから、何でもなくやれるところを掴むというところが、伝統芸能の根本なんですね。』

これは「芸十夜」・第七夜での武智鉄二の言葉ですが、武智の言うことをややこしく・深遠に捉えて・つまらない解釈をつけてはいけません。芸というものは奥深いものだ・容易に到達できない境地だなんてことを武智は言って はいません。「何でもないことをその通り何でもなくできるように修行さえすれば名人の心に近づけることができる」というのが、武智が言うことです。「簡単なことをややこしく考えてややこしくしているのはアナタ自身だ」と武智は言うのです。「芸十夜」というのはノイエ・ザッハリッヒカイトの本、「誰にでも芸は分かる・誰でも名人に近づける」とする思想の本なのです。(この稿つづく)

(H22・12・4)


○吉之助が「芸十夜」を読む・その6

「芝のおじさんの勘平ってすごいですねえ、まるで新劇みたいですね」
「バカヤロッ、何が新劇だい、あれが歌舞伎だよ」

「芸十夜」第三夜にある挿話です。八代目三津五郎が六代目菊五郎が演じる勘平を見て感激して「まるで新劇みたいですね」と言ったら、父親(七代目三津五郎)から「バカヤロッ、あれが歌舞伎だよ」と怒られたというのです。この挿話ですが、八代目三津五郎が間違った見方をしていたのでしょうか。そうではありません。六代目菊五郎の勘平は確かに写実の演技で、新劇みたいな印象だったのでしょう。それでは七代目三津五郎が「あれが歌舞伎だよ」と言うのが間違いなのでしょうか。そうではありません。六代目菊五郎の勘平は確かに歌舞伎であったのです。つまり、写実で新劇みたいな印象なんだけれど、実はそういうものがホントの歌舞伎なのだということです。 つまり歌舞伎の本質は写実だということです。上記の挿話はそのように読まなければなりません。

考えてみればそれは当然のことです。能狂言も歌舞伎も・もちろん新劇も、すべて演劇というものは物真似に発するからです。物真似とは対象の有り様をそのままに演じるということです。それ がつまり写実(リアリズム)です。様式というものは写実の手法に一定のパターンが決まってくれば、初めてそれが様式となっていくのです。そうやって、それが能狂言の様式になり、歌舞伎の様式になっていくのです。別稿「伝統芸能から何を摂取するか」でも申しましたが、能狂言の演技も物真似から発したのですから、それは写実に根差します。能狂言の写実(物真似)が長い時間の試行錯誤と淘汰を経てどのようにして無駄を削ぎ落とした ・現代から見ればシンプルと思えるものになっていったかと言うことを想像しなければなりません。それを最初から能狂言の「ない」の美学なんて言っちゃったら、もうそれで芸の創造の秘密は分からなくなるのです。

六代目菊五郎の演じた勘平は、いわゆる音羽屋型の勘平です。それは三代目菊五郎によって創始され、五代目菊五郎から六代目菊五郎へと受け継がれた型です。六代目菊五郎の演じる音羽屋型の勘平が八代目三津五郎にはまるで新劇に見えたということは、六代目菊五郎は型を型だと感じさせなかったということでしょう。勘平は今このように感じている・だからこういう行動をする ・こういう動作をする、ということが、六代目菊五郎だと手に取るようにリアルに分かるのです。それは「本論その2」で書いた通り、その型を創始した三代目菊五郎が考えた筋道と・六代目菊五郎はまったく同じ筋道 を辿って勘平という役を考えていたということです。 だから必然的に六代目菊五郎は三代目菊五郎の取る行動(役の解釈・演技の手順)はそっくり同じになるのです。型はたった今その瞬間に生成したかのように見える、昔からある型なのに型をなぞった感覚がまったくしないということなのです。これが科学的・論理的ということです。それが六代目菊五郎の演じる勘平で起こったことです。だから、それは新劇のように見えるけれど・実はこれがホントの歌舞伎だと言えるのです。

ところで七代目三津五郎は「型とは心だよ」ということも、常々言っておりました。「型とは心だよ」ということは、その型の心をしっかりと理解して役を演じているのならば、この箇所で先代は右手を上げたというところで、左手を上げたって別に構わない、手順を守ることが必ずしも型を守ることではないんだと言うことです。七代目三津五郎の言うことはまったく正しいのですが、そうするとその言を逆手に受け取って、「俺は役の性根は守るが、ここは俺の柄に合わないから俺の判断でこう変える」ということを安易に行なう不届き者が横行し始めます。安易にそういうことをする役者は「俺は役の性根は守っている」と言っているけれども、実は「型の心」を全然守る気がないのです。「型の心」 を守るならば、悩みに悩み・苦しみに苦しんで・・・しかし、やっぱり私にはこのようにはできない・・だから手順を変えざるを得ない・・・という過程があるはずです。その苦しみの果てに型を変える場合は、その役者は元の型の心も、手順を変えざるを得なかった理由も承知していますから、他人に型を伝授する時に「俺はこうやっているぜ」という教え方を絶対にしないのです。「これが本来の正しい型である」というものをちゃんと伝授することができるわけです。そういう役者だけ に型を変える資格があるのです。というよりも、そういう資格がある役者はそもそも型を変えることをあまりしないのですねえ。

現実には「これは俺の柄に合わないから、こうやった方が見た目が良くて客に受けるから・・」という理由で安直に型をいじくりまわす役者が多いわけです。そうなると「型は心だよ」というせっかくの教えも、そうした不届き者の格好の根拠になっちゃうわけです。 「俺はこうやっているぜ」というのが伝授されますから、型はどんどん崩れていきます。ですから、こういう不届者を矯正するには「手順から型に入る・まず手順をなぞってみるところから型を心を知る ことをせよ」ということを、敢えて反義的にうるさく言わなければならない時代になったということです。実はこのような時代は、今に始まったことではありません。それは時期的に、文楽においては明治31年(1898)の二代目豊沢団平の死、歌舞伎においては明治36年(1903)の九代目団十郎の死と前後して 始まったことです。 (このことは本論その2」で申し上げました。) 現代というのはこの傾向の上にあるのです。六代目菊五郎はそのような時代の流れのなかで、かろうじて「型は心だよ」ということを身体で体得できた数少ない役者であったということす。

それにしても、「新劇のように見えるホントの歌舞伎」というものを想像してみて欲しいですねえ。型を型だとまったく感じさせない・そんな勘平を見たいと思いませんか。(この稿つづく)

(H22・12・1)


○吉之助が「芸十夜」を読む・その5

「芸十夜」を読んでいると、武智鉄二と八代目三津五郎が正しい芸の見本として六代目菊五郎をしばしば引き合いに出しているのに、菊五郎と並び称される「菊吉」の片割れ・初代吉右衛門の話が出てこないのを不思議に思う でしょう。ふたりは吉右衛門の話を避けているように見えるかも知れません。しかし、武智と三津五郎が芸談で吉右衛門の話をここでしないのは、吉右衛門の芸が語るに値しない・その芸は江戸歌舞伎の伝統を正しく継いでいないと解するならば、これはまったくトンデモないご想像だと言わざるを得ませんね。

菊五郎の芸が時代を代表する正しい規格を持ったものであるのはその通りで、これは「芸十夜」のなかで繰り返し言われていることですけれど、考えてみて欲しいのですが、菊五郎と同じ時代にあって・吉右衛門ほどに菊五郎の芸を真正面に受け止めて・がっぷり四つに組んだ芝居に出来た役者が他にいたのでしょうか。二長町市村座での菊吉の競演は幕が開く前からそれぞれの贔屓が「音羽屋・播磨屋」を連呼し合って、その熱気たるや凄まじいもので、これは今でも語り草です。だからこそこのコンビは菊吉と並び称されました。これは歌舞伎の常識です。この事実だけで吉右衛門が菊五郎に伍する名優であったことが明白なのです。菊五郎の芸をがっちり受け止めることが出来たということは、これに耐えられる息を吉右衛門が持っていたということですから、吉右衛門の芸も正しいということです。遺された映画や録音などを聴けば、このことはさらに裏付けできます。

ただし、吉右衛門が菊五郎に対していま一歩後塵を拝するところがあったとすれば、彼が名門の出ではなかったという点だけです。吉右衛門は三代目歌六の息子で巧い役者でしたが、 歌六は大坂の地芝居の出身で・江戸歌舞伎の名門ではなく、芸風としては臭いところがありました。折口信夫は 「折口信夫坐談」のなかで「吉右衛門は菊五郎から離れると歌六がついつい出てくる。つまり芝居が客に媚びる方向に向いてしまいそうになる。だから吉右衛門のためには菊五郎が必要だ」という ようなことを言っています 。吉右衛門の芸には確かにそういうところがあって、その点で菊五郎に対して譲るところが若干あったかも知れません。またその点が武智が吉右衛門を嫌ったところでした。しかし、 吉右衛門は菊吉と並び称されるだけの力量を確かに持っていた名優であったのです。吉右衛門が名門出身ではなかったことで、どれほどの苦労をしたのかを知っておいた方が良いと思います。別稿「吉右衛門の馬盥の光秀」において書きましたが、市村座での「馬盥の光秀」の 総ざらえで満座でイジメを受け、それでも自分の思うところを貫きとおしたのが吉右衛門でした。(そのイジメの輪には七代目三津五郎も多分いたでしょう。)そこでイジメに屈していれば「吉右衛門の生涯をかけての歌舞伎の見直し、歌舞伎を型から人間へという芸術的主張はそこで挫折していたはずである」と武智は書いています。(武智鉄二:「素懐的吉右衛門論」・「演劇界」昭和53年7月)武智は吉右衛門のことをちゃんと分かって 書いているのです。

折口信夫:戸板康二編・折口信夫坐談

それではどうして武智は「芸十夜」のなかで吉右衛門のことを無視したのでしょうか。ひとつは武智が熱烈な菊五郎贔屓ですから話がどうしても菊五郎一辺倒になるということがありますが、もうひとつは武智自身が芸の世界のなかでは所詮よそ者であったからです。(この点は吉右衛門と環境が似ていると言えます。)資金があって・それを注いでくれるから芸人たちは表向きはチヤホヤしてくれますが、 武智は冷ややかな視線を始終浴びねばならなりませんでした。敵が多かったのです。この世界では武智は常に突っ張っている必要がありました。武器としたのはまず資金・次に芸の知識理論ということですが、ハッタリを利かせてわざと議論をふっかけるようなところが多分にありました。武智がまずしたことは歌舞伎や文楽の世界で彼を押し立ててくれる人を育てることでした。やがて 断玄会において援助をしてきた山城少掾・鶴沢道八や吉田栄三らが貴重な話をしてくれるようになり、彼ら名人たちから伝え聞いたことをバックにして武智が理論をまくしたてたのです。逆に言えば、こうしないと武智の言うことを誰も聞いてくれなかったのです。武智歌舞伎の盟友とされている八代目三津五郎でさえ外では「 私は武智さんではなくて、山城(少掾)さんの言葉だと思って聞いていますから・・」と言っていたくらいです。 このような環境下で伝統・口伝・芸の継承ということをテーマに武智が語る時に、権威付けが大事になっています。菊五郎だと箔をつける材料になるが、実力があっても「初代の成り上がり」の話では 箔にならないということです。武智の唯物史観的な立場からすると、歌舞伎の閉鎖的な門閥体質を打ち破る意味でも吉右衛門を応援しても良かったのにと思いますが、こういう時に武智は妙に寄らば大樹になっちゃうわけです。もし吉右衛門が初代ではなく五代目くらいであったならば、武智はホイホイ付いていったに違いありません。我が師匠ではありますが、武智にはそういうところがありましたね。参議院に立候補した時も周囲はひっくり返ったものでした。

一方の八代目三津五郎ですが、芸として筋目正しいものを持っていたのは確かですが、人気役者ではありませんでした。名門の出である三津五郎から見れば、吉右衛門は所詮成り上がりで面白くない存在なのです。菊五郎は良いけれど、吉右衛門だと「まあなかなか良くやってはいますがね・・」という程度の扱いになるのです。これは狭い世界にはよくあることです。年長の者が偉そうなことを言っているのを目下の者たちがヘイヘイ聞いているところに、実力ある若者が出てきて正論を吐くと、周囲の人たちが取る態度は大抵無視なのです。八代目三津五郎が吉右衛門について触れないのも、それと同じことです。ですから初代吉右衛門に関しては武智と八代目三津五郎との間で思惑が何となく一致して、互いに触れないで済ませたということです。それが「芸十夜」のなかで起きていることです。

「芸十夜」では、吉右衛門がバタを踏む(見得をした時に下半身がグラついて足を動かす)という話でわずかにその名前が出てくるだけです。バタを踏むのは、腰を落としきれていない・重心が決まっていない為に起こる現象で、下身体の使い方が悪いということです。播磨屋のバタ足というのは有名だったようです。しかし、吉右衛門の弟子であった秀十郎が「秀十郎夜話」のなかで師匠は膝が悪かったということを証言しています。まっそんなことも背景にあっただろうと吉之助は思います。ちなみに吉之助のペンネームは初代吉右衛門からその一字を戴いておりますのです。(この稿つづく)

千谷道雄:秀十郎夜話―初代吉右衛門の黒衣

(H22・11・26)


○吉之助が「芸十夜」を読む・その4

「はやるからダメなんだよ。」

これも「芸十夜」第一夜に七代目三津五郎の言葉として出てくるものです。七代目三津五郎は芝息子の八代目に「いまのお客が手を叩いているのはいけないですよ。あんなものに手を叩いているのをいいと思っちゃいけませんよ。」とよく言ったそうです。「だって客に受けてるじゃないか」と言い返すと、「受けてるからダメなんです。」とピシャ リと言われたそうです。こういうのは芸談にはよくある話ですが、それじゃ具体的にどういう芸が良いのかというと・そういう疑問には何も答えてくれないのです。正しい芸・あるいは良い芸というのは目の前ではないどこか別のところにあって、それを必死に追い求めていかねばならぬということです。

上記の七代目三津五郎の教えを「客に受けてる・流行ってる芸は駄目、良い芸・正しい芸は客に受けないもの・流行らないものだ」という読み方をする方がいそうですが、それは全然違いますねえ。会話のなかでの教えですから・流れでそのように聞こえるかも知れませんが、芸談というのはある種の禅問答みたいなものです。裏を読まなきゃいけません。三津五郎が言いたいことは、「客に受けようとする芸・客に媚(こび)ようとする芸が 駄目なんだ、受けている・流行っている芸を見る時はちょっと距離を置け、何が正しいか・間違いかをしっかり見極めよ」と言うことです。

ちょっと考えてみて欲しいのですが、「芸十夜」には正しい芸・良い芸の手本として九代目団十郎や六代目菊五郎の名前が頻繁に出てきますが、 九代目団十郎の芸は客に受けなかった のでしょうか。六代目菊五郎の芸は流行なかったでしょうか。九代目団十郎には同じ時代に、五代目菊五郎や四代目芝翫という強力なライバルがいました。六代目菊五郎にも、十五代目羽左衛門や七代目幸四郎などのライバルがいました。ライバルに人気では引けを取る 場面があったとしても、 九代目団十郎や六代目菊五郎は常に時代の第一線に立ちつづけたし、その意味で客に受けたし・流行ったのです。それならば九代目団十郎や六代目菊五郎の芸は駄目なのですかね。答えは明らかであると思います。このことだけ考えても、「客に受ける芸は駄目、正しい芸は客に受けない」なんて図式が間違いであることなどすぐ分かることです。

九代目団十郎の芸は明治期の、六代目菊五郎の芸は大正から昭和初期の、そろぞれの時代の芸の規範とみなされるべきものです。そうなるのはもちろん彼らの芸が正しいからですが、彼らの芸が当時の客に受けて・流行って、誰のなかにもその芸が残像としてあるからこそ規範になるのです。例えば野球選手の鑑と言えば、昔なら王貞治選手・今ならイチロー選手でありましょうかね。素質才能は天才的で・人格も素晴らしく・人一倍努力した、しかし故障が多くてほとんど二軍生活で終わってしまった無名の○○選手が野球少年たちの模範になるでしょうか。誰も知らなければ規範になりようがないのです。

音楽で言えば、1960年代から70年代初期のポピュラー音楽をリードしたのはもちろんザ・ビートルズでした。他にもいろんな歌手やグループが出てきました。それらの曲を今聴けば、「ああ、あの時代はこうだった」という思い出と強く繫がって懐かしいというものは確かにたくさんありますが、現代の若者が「おっ、このサウンド、カッコいいじゃん」と思わず身を乗り出すような新鮮さを保っている曲となるとやはり限られます。流行るものはその時代特有の色や匂いを強く持っており、それゆえ流行るのでしょうが、逆に言えば時代に縛られやすいものです。時代を越えたものだけが本物だという言い方は必ずしも正しいとはいえませんが、敢えて時代を越えて聴く者を刺激するサウンドやリズムは本物だという決め付けをするならば、確かにビートルズの曲はそのように感じるものが多いという感じが確かにします。吉之助に とってはそれはロックン・ロール系のものではなく、アコースティックな要素が強い曲ですが、まあ評価はひとそれぞれです。ともあれビートルズが本物であることを認めない方はいないと思います。彼らは間違いなく1960年代最も受けて・流行って成功したミュージシャンでした。そして、今でも強い影響力を保持しているミュージシャンです。

正しい芸・良い芸は必ず客に評価されるはずです。評価されるならば、それは必ず客に受けて・流行るはずですし、またそうならねばなりません。それを信じて芸人は努力するのです。それが望ましい芸のサイクルであるはずですが、現実にはしばしばそうでないことが起こります。またそこにしばしば 本物でないものが混じります。そして本物でないものの方が受けて・本物が冷や飯を喰ったりするのです。そうなると何が本物か・本物でないかが瞬時に見分けが付かなくなります。だから客に受けたか・受けないかを、本物か ・本物でないのかの判断基準にするなと言うのです。七代目三津五郎の 言うことはそういうことです。

しかし、七代目三津五郎の言葉のなかに「良い芸は客に受けないものさ」という斜に構えた響きがどこかにあるのも確かです。三津五郎は決して人気役者ではなかったし・良い役を ドンドンもらえる位置にあったわけではないので、そこにスネが出ているのです。「あそこ(舞台中央)で良い気分でポーズを取ってる奴より俺の方が知ってるんだよ」という気持ちが出ているのです。だから「俺は客の拍手が欲しくて、お給金が欲しくて芸をやってるんじゃない」という客に背を向けたポーズになっていきます。そこのところは割り引いて読まなくてはなりません。「芸十夜」の教えるところをもう一度確認しておきますと、「 客に受けようとする芸は駄目だ。客に受けたか・受けないかを、安直に本物と本物でないものとの判断基準にするな。」と言うのが、その正しい読み方なのです。(この稿つづく)

(H22・11・23)


○吉之助が「芸十夜」を読む・その3

「お手本にするなら九代目団十郎ですよ。」

「芸十夜」第一夜に七代目三津五郎の言葉として出てくるものです。七代目三津五郎は芝居の話になると、息子の八代目に「今生きてる奴にろくなのは居らぬ。ああいうのをお手本にしちゃいけない。お手本にするなら九代目団十郎ですよ。」と盛んに言ったそうです。もう死んじゃった・見てない役者を手本にしろとは・・・と八代目三津五郎は困っちゃったそうです。

このエピソードには考えることがいくつかあるのですが、「見てない人を手本にしろ、昔の名人の芸に憧れろ」と言ってることは確かですが、ここで何故九代目団十郎 が出てくるのかということを考えて欲しいのです。同じ見てない役者ならばもっと昔の名人、例えば初代団十郎を手本にしろとか・五代目幸四郎を見習えと言っても良いはずです。大和屋の家系にだって三代目三津五郎という大名人がいました。そのような役者の名前が挙がらないで、「お手本にするなら九代目団十郎ですよ。」と何故なるのかということです。

二十世紀初頭の芸術思潮であるノイエ・ザッハリッヒカイトは、音楽においては作曲者の意図(解釈)は楽譜のなかにすべて書き込まれている・だから解釈の根拠は楽譜から発するという態度によって現れ るということは前回申し上げました。クラシック音楽の世界では何よりも大事なものは作曲者の意図であるとされます。月光ソナタならばベートーヴェンの意図ということです。ベートーヴェンはピアノの名手でしたが、残念ながら録音は残っていません。当時はまだ録音という技術が発明されてい なかったのです。ベートーヴェンの解釈を示唆する文献的なもの・あるいは周辺の人々の証言などはありますが、いずれにせよ材料は限られます。そうすると理想の解釈への道は袋小路に追い込まれるのですが、 逆にそこから作曲者の意図を楽譜 のなかに見ようという態度(原典主義)が最後の砦として出てくるわけです。実際百人の演奏家がいれば百の解釈があるわけですが、そのどれもが楽譜を根拠としています。 それでは作曲家の意図というのはどこにあるのか。この事態を見て「作曲者の意図はすべて楽譜にあるなんて空論だよ」とお笑いになる方は、クラシックということの意味がお分かりになっていないのです 。クラシック(古典的)な態度とは、そのようないにしえの昔の・今は見失われてしまった理想の何ものかを真摯に追い求めようとする態度のことを言うわけです。頼りないものかも知れませんが、楽譜という根拠が確かにあるだけクラシック音楽は幸せだと言わねばなりません。

ですからクラシック音楽から歌舞伎に入った吉之助にして見ると、「見てない人を手本にしろ、昔の名人の芸に憧れろ」なんてことは至極当然の考え方なのです。師匠である武智鉄二もそうであったはずです。ところが、歌舞伎というのは伝統芸能というのですが、歌舞伎を学べば学ぶほど「見てない人を手本にしろ、昔の名人の芸に憧れろ」というのは、この世界ではどうも当リ前のことではないらしいことに、吉之助は次第に気が付いてきました。もちろん先人を尊敬する気持ちがないことはないのですが、どことなく好い加減に感じられます。それでダラダラとなし崩し的に変容していく。その変容の痕跡を振り返って、これを「伝統」と称しているように思われます。「俺が伝統を継ぐんじゃない・俺がやればそれが伝統になるんだ」というわけです。こういうのをつなぎ止めるためには、「見てない人を手本にしろ、昔の名人の芸に憧れろ」という態度を 徹底的に叩き込むことがとても大事なのです。しかし、遥かな昔の初代団十郎・五代目幸四郎の芸をいきなり想像せよと言っても無理です。だからとりあえずの取っ掛かりが九代目団十郎になる・これなら想像付かないこともないということなのですが、実はまだ考えねばならぬことがあります。九代目団十郎という名前には、単に名人という意味がこめられているだけではないのです。

これは「歌舞伎素人講釈の読むためのガイド:九代目市川団十郎」にも書いたことですが、 歌舞伎の歴史を見れば、九代目団十郎本人が意図したか・意図しなかったかに係わらず、それ以前の歌舞伎は九代目団十郎に流れ込み・それ以後の歌舞伎は九代目団十郎から発するという形になっているのです。歌舞伎における九代目団十郎は、哲学におけるカント・文学におけるゲーテ・音楽におけるバッハのような存在です。後世の歌舞伎役者たちが九代目団十郎のことを「劇聖」と呼ぶのは、その故郷である江戸という時代から切り離された歌舞伎を・失われた時代につなぎ止めるためのシンボルとしたからでした。九代目団十郎というのは巧い役者・名人とかいう範疇を越えて、歌舞伎が歌舞伎であり続けるために・歌舞伎役者が守り続けていかねばならぬ何ものかを示しているのです。そこから七代目三津五郎の 「お手本にするなら九代目団十郎です」という発言が出てくるわけでして、 三津五郎は「見てない人を手本にしろ、昔の名人の芸に憧れろ」ということだけを闇雲に言っているのではありません。

「芸十夜」という本は、二十世紀初頭という時代(つまり若き武智鉄二と八代目三津五郎の育った時代)の芸術思潮にとても強く結びついた書物なのです。ですから、二十一世紀初頭にこの本を読む方々は、江戸という時代から・明治という時代からさらに遠く切り離された時代においてこれを読むわけですから、読み手は「クラシック(古典的)な態度」という概念をより明確に意識する必要があります。

昨今は時代が何となくイライラしているせいか・歌舞伎関連の評論・随筆など読みますと、「若い頃に自分が熱中した頃の歌舞伎(多分お歳からすると昭和30年代か40年代の歌舞伎でありましょうかね)と・現在の歌舞伎は何かが変ってしまった・何かが違ってしまった・それが実に嘆かわしい ・寂しい」というような文章をよく見掛けますねえ。まあ言いたいことは分からないこともないですが、要するに自分が熱中した若い頃の歌舞伎の思い出に固執しているわけだな。 「それはその方が目の前の役者の芸しか見てこなかったからだろう」と吉之助は思いますねえ。吉之助が見ているのは「見てない役者・昔の名人」ですから、そんなの関係ないのです。 吉之助はいつも「目の前の舞台がこんなに素晴らしい、ならば昔の名人の舞台はもっともっと素晴らしかったに違いない」と思って舞台を見るのです。

吉之助が歌舞伎を熱心に見たのは昭和50年代ですが、吉之助は二代目松緑や十七代目勘三郎の舞台を見ながら六代目菊五郎はどうだっただろうと思って見てました。だからと言って目の前の舞台を楽しまなかったわけじゃありません。もちろん大いに楽しみましたが、家に帰ったら武智鉄二や戸板康二などの本やら古い雑誌の 「演劇界」などで、昔の六代目菊五郎はどうやったか確かめたものです。そうやって松緑や勘三郎で得た役 や作品のイメージを調整していくのです。だから六代目菊五郎の芸をもちろん生(なま)では見てないけれど、吉之助は知っているつもりです。さらにこの方法論で九代目団十郎だって、初代団十郎だって・五代目幸四郎だって行くのです。 だから昭和50年代と平成20年代の歌舞伎の差なんてあって無いようなものです。

晩年の松緑・勘三郎は、黙阿弥の七五調を正しくしゃべれませんでした。録音などを聴くと・昭和30年代はまだ六代目学校の効果が持続してまともであったと思いますが、晩年はかなり崩れてダラダラ調でした。ですから吉之助は晩年の松緑・勘三郎の舞台は、「あそこをちょっと引き締めれば六代目かな・ここはもうちょっと早くサラッと行きたいものだね」とか考えてながら見ていたものです。付け加えますが、それは晩年の松緑・勘三郎が駄目だと言っているのではありません。彼らの身体のなかに確かに潜む師匠・六代目菊五郎の芸の痕跡をどうやって見出すかということなのです。

現代の歌舞伎役者についても同じ方法論が可能なはずです。というよりも、これから歌舞伎を学びたい若い方々もそれを信じて舞台を見るべきです。どんな歌舞伎役者でも、その忠実再現度というところに多少の個人差はあるにしても、伝統を継ぎたいという気はあると思います(そこを疑っちゃうとどうしようもありません)。ですから、歌舞伎をこれから学んでいこうと思う方に申し上げたいことは、「目の前の役者の芸を見る」という見方に加えて、目の前の役者の身体を通じて「見てない役者・昔の名人」の芸を想像するということです。 歌舞伎の場合は目の前の舞台だけを見ていては駄目です。七代目三津五郎の言葉をそのようにお読みいただきたいのです。(この稿つづく)

(H22・11・21)


○吉之助が「芸十夜」を読む・その2

『義太夫というのは、頭さえ使えば誰でも語れるものです。』

上に挙げた発言は、芸談集「芸十夜」・第五夜のなかで山城少掾の言として武智鉄二が語ったものです。「もうちょっと頭を使って・考えながら丸本を読みなはれ」と言ったのではありません。そんな偉そうなことを山城少掾が言うわけがありません。山城少掾はあくまで謙虚です。山城少掾が言うことには、ちょっと解説が必要かも知れませんねえ。

山城少掾の言いたいことは、「一定の思考の筋道を以って同じように考えるならば・誰でも同じ結論に達するはずである」ということです。再現芸術家の目指すことは、作者の解釈(義太夫ならば初演の太夫の風ということになります)を正しい形で表現することです。言い換えれば、作者の考えている通りに・同じ思考経路を以って作品を読むならば、それは作者と同じ解釈に到達するはずだということです。そのような強い確信が山城少掾のなかにあるということです。どうしてそのような確信を持つのかと言えば、義太夫ならば丸本というテキストが根拠としてあるからです。テキストのなかに作者の解釈はすべて書き込まれている。だから、テキストを作者の考え通りに正しく読むならば、誰が読んでもそれは作者の解釈と同じになるという・これは 絶対的な確信なのです。信仰と言っても良いものです。

もうひとつ付け加えましょう。山城少掾が「私はそれ(作者の意図)を知っているよ」と誇っていると思いますか。芸に謙虚な山城少掾がそんなことを言うはずがありません。山城少掾ならば「私も丸本 と向かい合って何十年、まだまだそれを掴むには至っておりませんが・・」と言うに違いありません。作者と同じ解釈に至ることは終にないかも知れません。しかし、そこに至ることを信じて私は日々努力 しているのです・・ということです。これが「義太夫というのは、頭さえ使えば誰でも語れるものです。」ということの真意です。その難しさを山城少掾自身が一番知っているのです。

この山城少掾の態度をひと言で表現するならば、これを「原典主義」と言うのです。同時に「一定の思考の筋道を以って同じように考えるならば・それは同じ結論に達するはずである」ということは、それは科学的思考ということなのです。いや義太夫と科学とはまったく水と油のようにお考えの方が多いと思いますがね、実は山城少掾ほど科学的な太夫はおりません。そのきっちりと筋道立った・端正な芸風を聴けば、そのことは明らかなのではありませんか。(別稿「科学的な歌舞伎の見方」をご参照ください。)

ところで原典主義というのは、それは二十世紀初頭の芸術思潮であるノイエ・ザッハリッヒカイト(新即物主義)の旗印なのです。当時ノイエ・ザッハリッヒカイトを標榜する代表的なピアノ演奏家といえばワルター・ギーゼキングでした。 音楽におけるノイエ・ザッハリッヒカイトとは、作曲者の意図は楽譜のなかにすべて書き込まれている・だから解釈の根拠は楽譜から発するという態度なのです。武智鉄二はギーゼキングを尊敬し・その録音を聴いて育 ちました。伝統芸能に本格的に携わる以前に、そのような洋楽の素地が武智鉄二のなかにあったのです。その武智鉄二が山城少掾と接した時、武智鉄二は山城少掾の芸をノイエ・ザッハリッヒカイトの芸術思潮において捉え・これを理解したと、そう考えなければなりません。実は、これが芸談集「芸十夜」のなかに一貫して流れている思想です。(このことは別稿「伝統芸能における古典(クラシック)〜武智鉄二の理論」をご参照ください。)

山城少掾はノイエ・ザッハリッヒカイトという言葉を知っていたでしょうか。多分知らなかったと思います。知らなかったと思いますが、武智鉄二がその芸に接して「自分の理想とする芸がここにある」と感じたということは、その芸術思潮の影響を直接に受けていないにも係わらず・期せずして山城少掾の芸はノイエ・ザッハリッヒカイトなのです。なぜ山城少掾の芸がそうなったのかということについても別稿「伝統芸能における古典(クラシック)〜武智鉄二の理論」で触れていますからそちらをお読みいただきたいですが、それは時期的に、文楽においては明治31年(1898)の二代目豊沢団平の死、歌舞伎においては明治36年(1903)の九代目団十郎の死と前後して起きたことです慶応4年(1868年)大政奉還で江戸時代が終わったのは・それは政治体制のことなのであって、芸の世界では二代目団平・九代目団十郎の死によって江戸は終わったということです。そこから 文楽も歌舞伎も過去の遺物となった・もはや同時代の芸能とは言えなくなった。だから、義太夫の風であるとか・歌舞伎の型というものの重要性が いやでも増してくるのです。風とか型とか言うものは、もはや時代と切り離されてしまった義太夫や歌舞伎がそれをつなぎとめておくための縁(よすが)なのです。これを失ってしまったら義太夫も歌舞伎ももはや昔の通りでは有り得ないと思う・それゆえ大事な縁(よすが)なのです。

風も型も江戸の昔からあった用語だからその概念は江戸の昔と変っていないと考えている限り、上記の山城少掾の言葉の真意は決して理解ができません。1900年前後に風も型も、その概念が決定的に変化したということです。そこから山城少掾や吉田栄三、六代目菊五郎・七代目三津五郎の芸が出てくるのです。そのような時代の流れ を踏まえたうえで芸談集「芸十夜」をお読みいただきたいと思います。

(H22・11・16)


○吉之助が「芸十夜」を読む・その1

『大隅さんには明日がありませんでした。古靭さんは明日を考えて語ってはります。』

芸談というのは情報がしばしば断片的で言葉足らずです。語る方は当たり前と思って語っているせいか、こちらが「そこのところをもうちょっと聞きたい」と思うところがバッサリ欠けていたりするものです。ですから芸談を読む時は、足らないところを自分の知識・経験と想像力でフィードバックして補っていくしかありません。

上に挙げた発言は、武智鉄二と八代目三津五郎の芸談集「芸十夜」・第二夜のなかで三味線の名人鶴沢道八から聞き取った言として武智鉄二が語ったものです。これは道八が三代目大隅 大夫と二代目古靭大夫(後の山城少掾)の芸のどちらが上かなどということを言っているのではありません。道八は「芸の佇(たたず)まい」のようなもののことを言っています。芸の佇まいというのは吉之助の芸道用語ですがね。芸というものにはそれが自ずと醸す雰囲気・趣のようなもの、あるいは自然と浮かび上がってくる演者の品格・人間性のようなものがあるのです。吉之助はこれを芸の佇まいと呼んでいます。つまり、芸のなかに現れる演者の生き様のようなものでしょうかね。それは芸の個性を作り出す大きな要素のひとつですが、そういうものに上とか下とかあろうはずがありません。

道八は「大隅さんには明日がありませんでした」と言います。ひとつには、大隅大夫の芸が毎日が全力投球の芸で、その日その日の芸に力のすべてを出し切ろうと する芸であったということです。「舞台で死ぬ覚悟が出来ている・これこそ芸人の鑑だ」と思うかも知れません。確かにそういうことも言えます。ただし、長く舞台を 勤めていれば誰でも波があるもので、良い時も悪い時も出てくるのです。乗っている時は全力投球の芸というのは素晴らしい。しかし、落ち目になった時には悪い面も出てくるのです。それは余裕がない・ どこか荒んだ芸に見えることがあります。聞いていて辛い芸に見えてくることもあるのです。晩年の大隅大夫はそれで段々人気がなくなっていきました。大隅大夫が大坂を追われ、台湾に客死するに至る経緯はそんなところが原因でした。大隅 大夫は大名人でしたが、世間からそれに相応しい扱いを受けて幸せと言える人生を歩んだ芸人ではありませんでした。「浄瑠璃素人講釈」を著わした杉山其日庵は、大隅 大夫の思い出話をする時、いつも眼に涙を浮かべていたそうです。 道八が「大隅さんには明日がありませんでした」という背景にも、そのような涙があるのです。そこに大隅大夫の芸の生き様が出ているのです。

一方、道八は「古靭さんは明日を考えて語ってはります」と言います。古靭大夫の芸は、今日は昨日より良い舞台を勤めよう・明日は今日よりもっと良い舞台を勤めようと考える芸でした。そうやって毎日少しでも・しかし着実に芸の境地を高めていこうと日々努力するのが古靭 大夫の芸でした。骨格のしっかりした・筋道の立った芸 でありました。古靭大夫は後に掾号を与えられて山城少掾となります。芸人としては幸福な歩みを辿った人でしたが、実はその背後にたゆまぬ努力があったのです。道八が「古靭さんは明日を考えて語ってはります」と言うのはそのところです。これもまた古靭 大夫の生き様なのです。

大隅大夫や古靭大夫の芸がそういうものであったことは、「浄瑠璃素人講釈」・「道八芸談」・「山城少掾聞書」など芸談集を読んだり、また音質は十分ではなくても遺された録音などを 聞けば自ずと分かってくることです。先ほど書きました通り、芸談というのはしばしば言葉足らずですから、短い文章だけ取ってものを考えたら間違えます。情報をトータルで駆使して ・絶えず微調整をしながら、正しい芸のイメージを作り出していかねばなりません。芸談をどう読むかで読み手の力量が試されるということでもありますね。

(H22・11・14)


○平成21年12月国立劇場:「頼朝の死」・その2

日本史を学べば鎌倉幕府の源氏の将軍が頼朝・頼家・実朝の三代で絶えてしまったことが出てきます。そこでふと思うことは北条政子という女性は御実家のことばかり考えているみたいで、次々と政治的抗争のなかで子供たちが殺されて母親として悲しいと感じたことはなかったのかということですねえ。そんなはずはなかっただろうと思いたいですが、歴史ではその辺が表面にまったく見えて来ません。まあこれは憶測するしかありませんが、鎌倉幕府というのは実質として関東御家人たちの集合体として立ち上げられたもので、頼朝というのはその結束のシンボルとして祀り上げられたに過ぎなかったというのが正直なところです。政子自身もそのような状況のなかで生きるしかなかったということで しょう。

この芝居にも出てくる「生まれながらの将軍」という言葉は、徳川幕府の三代目・徳川家光が居並ぶ大名を前に言い放った有名な言葉です。これより約四百年も以前の鎌倉幕府の史実の二代目・頼家が例え内心チラリでもそんなことを考えたのかと言えば、これは疑問と思わざるを得ません。とてもそんなこと を周囲が認めてくれるような状況ではなかったのです。まあそこのところは青果の創作でしょう。しかし、それでも頼家が修禅寺において謀殺されるに至った状況を察すれば、北条家を始めとする御家人集団が頼家を強力にコントロールしようとして・頼家がそれに頑固に抵抗した結果として起こったことは明らかです。頼家本人が個人の尊厳・権利なんてことを考えたとは思えません(そういう観念自体が当時はなかったのです)が、憤懣 ・苛立ちという形でそれは確かに頼家のなかに意識されていたのです。これは現代人から見れば頼家は個を主張しようとしたのであり・その思いが余りに強すぎたために組織から抹殺されたという風に解釈 しても良いのです。青果は日頃からマルキストを自称していた作家でした。或る時、酒に酔っ払った青果が娘の美保さんを前に座らせて、「もし貴様の先生がお前のお父さんは誰を尊敬していると聞いたらな、はっきりと言えよ、マルクスだとな、分かったか、マルクスだぜ。」と言ったそうです。そのような青果が、鎌倉の二代目将軍頼家のことを書く時、それは社会的視点から個人と組織の関係において描かれるというのは当然のことです。二十世紀初頭の時代的気質が将軍頼家に重ねられて来ます。

そこで平成21年12月国立劇場での「頼朝の死」の舞台のことですが、腹にグッと来るところのない・何とも締まりがない幕切れであるのが、とても残念です。特にこの「頼朝の死」という作品について言えることですが、作者はこの寸切れの幕切れに賭けており、幕切れがビシッと描けないならばこの芝居の意味はないという くらいなのです。このことについては別稿「左団次劇の様式」でも申し上げました。たっぷりと引っ張りの絵面で決まって幕を閉めるという古典歌舞伎の常識を青果・左団次はここで意識的にぶっ壊しているのです。寸切れの幕切れは二代目左団次の新歌舞伎の様式です。同様の幕切れの例として綺堂の「番町皿屋敷」での青山播磨の引っ込みを挙げておきます。(別稿「左団次劇の様式」を参照ください。)

富十郎の政子にしても・吉右衛門の頼家にしても根本的に誤解をしていると感じるのは、ふたりともどうやらこのお芝居が頼朝の死の謎ということを中心に展開していると思い込んでいる ことです。芝居の筋から見れば確かにそのように見えるでしょうが、「頼朝の死」のドラマの構造は政子を含む御家人集合体と頼家個人とのせめぎ合いなのです。頼朝の死の謎というのは、頼家の神経がブツンと音を立てて切れるきっかけ(材料)に過ぎ ないのです。別の材料でも作ろうと思えば同様の芝居が作れます。例えば頼家には密かに思っている女性がいた・しかし政子は頼家に好きでもない別の女性と無理やり政略結婚させようとしてい たというような筋であっても、同様の幕切れの芝居が作れます。たまたま青果は頼朝の死の謎を材料に芝居を書いたという・ ただそれだけのことです。

まず幕切れの富十郎の政子の態度が毅然としません。表情と台詞に泣きの様相がありありと見えます。母親として息子に父親の死の真相を話してやれないのが悲しい・息子の嘆きを見ているとその申し訳なさで泣けてきそうになるが、しかし、頼家にこのことを話すわけにはいかない 、この母の辛さ・葛藤が息子のお前にはどうして分からないのかというのが、富十郎の政子の意図のようです。「家は末代、人は一世じゃ。」と言いながらその場に泣き伏しそうな政子ですねえ。これでは頼家を取り巻く状況の厳しさが全然感知されません。対する吉右衛門の頼家の方 は甘ったれのマザコン坊やです。父親の死の真相が知りたくて知りたくて仕方がない。それを知らなければ・生まれながらの将軍の沽券にかかわるというわけです。そのように見えるのはそれまでの頼家のいらだち・苦悶というものを 観客と共有できる実感あるものに出来ていないからです。生まれながらの将軍の沽券にかかわることだから父親の死の真相が知りたいというのでは政治的な都合になってしまって、これは自分が頼朝の息子だから・血を受け継いだ人間として父の死の真相を知りたいという・内的な純粋な息子の感情とはちょっと 異なるのではないですか。吉右衛門はこの違いがお分かりでしょうか。まあ昭和31年(1956)4月歌舞伎座での歌右衛門の政子・寿海の頼家による「頼朝の死」の映像が残ってますから、この幕切れを じっくりと見て考えて欲しいものだなあと思います。そういえばこの舞台に富十郎は重保で出ているのですが、この時の重保は立派なものでしたが、今回の政子は同じ富十郎が演じた ものとはとても思えませんね。

平成21年12月国立劇場では青果の「頼朝の死」・綺堂の「修禅寺物語」の順に並べて上演するという企画でした。作品成立年代としては綺堂の方が先ですが、これで二代目将軍頼朝の生と死を順を追って観客は見るわけです。これは趣向としてなかなか面白いのですが、 その面白さはふたつの作品が将軍頼朝という登場人物で共通しているという表面的なことだけで成立しているのではなく、もっと深いところで感性的に結ばれているから なのです。それはどちらも二十世紀初頭という時代に二代目左団次によって創始された新歌舞伎であるということです。ここでは状況のなかで個人はどうこれに対し・どう自分を貫くかという問題が共通した主題になっています。「修禅寺物語」の第2場には「北条がなんじゃ。おのれらは二口目には北条という。北条がそれほどに尊いか。」という頼家の有名な台詞が出てきます。修禅寺において頼家は桂という娘を見初め、そこに真の人間として生きるわずかな望みを見出したのですが、 政治はそれさえ頼家に許しません。そこまで頼家は追い込まれていくのです。一方で芸術的信念に固執し状況に背を向けて・およそ世間的な成功とは無縁な夜叉王は「自然の感応・自然の妙」の至福を体験することが出来 た。しかし、それは娘桂の死によって証明されたものでした。このふたつの左団次劇を様式的にひとつのものとして筋を通してどう演じるか、そういうことをもっと真剣に考えて欲しいということを、富十郎にも吉右衛門にも言いたいのですねえ。それが歌舞伎を演じるということなのですがねえ。

(頼家)「さらば我が身は、源家あっての頼家にて、頼家のための源氏にては・・・ないのでござりまするか。」
(尼公)「事も愚かや。家は末代、人は一世じゃ。」

「サラバ/ワガ/ミハ/ゲンケ/アッテノ/ヨリ/イエ/ニテ/ヨリ/イエ/ノタ/メノ/ゲンジ/ニテ/ハ●・・・・・・ナイノデゴザリマスルカ」

左団次劇の基本リズムは早めに急き立てる二拍子であるということは別稿「左団次劇の様式」で論じています。この台詞では「源氏にては・・・」で頼家は絶句し、 次の「ないのでござりまするか」は一気に吐き出すように言われて、ここでは二拍子さえも破綻 するのです。この「ないのでござりまするか」という箇所を様式的に歌おうなんて考えるのは言語道断と言うべきです。ここは無様(ぶざま)に叫べば良いのです。

「コトモ/オロ/カヤ/イエハ/マツ/ダイ/ヒトハ/イッセ/ジャ●」

この政子の台詞の後に頼家の台詞がまだ少しありますけれど、事実上この台詞がこの芝居の留め台詞です。ビシッと決め付けるように言い切って、反論を一切許さない。感情が入ってはならぬ台詞 なのです。二拍子とはそのような非人間的な要素が表現できるリズムなのです。「家は末代、人は一世じゃ。」というのは、お前(頼家)個人のことなど関係ない・国家組織のためにお前はあるのだ・それがイヤならお前などは要らぬということです。これが昭和7年(1932)に出来た芝居の台詞なのです。満州事変は前年に勃発しており・これから日本は太平洋戦争に向けて突入していくという昭和7年当時の観客がこの台詞を聞いて何を感じたかということを考えることは、平和な現代日本に生きる我々にも決して無駄なことではないと思います。少なくともそこにマザコン将軍の泣くわめきを見るよりは、多少でも意味のあることだと思います。

(H22・11・8)


○平成21年12月国立劇場:「頼朝の死」・その1

『(頼家)「さらば我が身は、源家あっての頼家にて、頼家のための源氏にては・・・ないのでござりまするか。」(尼公)「事も愚かや。家は末代、人は一世じゃ。」(頼家)「ええ、そのお言葉にわが身の上も末も見た。もうこれまで。」頼家、つと立ち寄って重保を斬らんとす。尼公、頼家を引き戻してキッと長刀を頼家の前に構える。(頼家)「母上!うむ・・、うむ・・、うむ・・・。」怨恨を極めたる視線に母を睨むうちに、刀を投げ捨て、小児のように声立てて泣き出し、その声次第に高く、高くなりゆくうちに・・・・(幕)』

真山青果の「頼朝の死」(初演は昭和7年(1932)4月・歌舞伎座)の幕切れです。怨恨をこめて母を睨みつけ、刀を投げ捨てて、小児のように声立てて泣き出す頼家。初めてこの「頼朝の死」の舞台を見た時には、吉之助も寸切れみたいな幕切れにちょっとビックリしました。どうして頼家はこんなに取り乱した泣き方をするのでしょうか。そこのところを考えてみたいのです。もしかしたら、この頼家の泣き様は、マザコン坊やが大事なおもちゃを母親に取り上げられて 床を転げまわって泣きわめくというような風に見る方がいらっしゃるかも知れません。将軍さまは情報を何でも知っていないとその権威が保てない。頼家はそうやって権威をふりかざさないと将軍として周囲に認めてもらえない弱い立場である。だから父でもある先の将軍頼朝の死の真相(これこそ鎌倉幕府の最高機密!)を知らされない事態に頼家は取り乱して泣きわめくというわけです。 ああなるほどねえ・・・で、そんなマザコン将軍のドラマを現代の我々が見て何か意味があるのでしょうかね。青果はもうちょっと上等なドラマを書いたと吉之助は思いたいのですがね。大事なことですが、この「頼朝の死」は二代目左団次が初演した新歌舞伎であるということ、そして作品はそれが生まれた時代の気分と密接な関係があるということ、そして、それが現代という時代に上演される時に作品にどういう思いを重ねて見なければならぬかということです。そういうことを踏まえて作者の思い・初演者の思いを見たいものです。それが歌舞伎の見方というものじゃないかと思いますね。

真山青果の「頼朝の死」は、実は「傀儡船(くぐつぶね)」という大正8年(1919)に初演された芝居の改作です。傀儡というのは操り人形のことです。操り人形については別稿「生きている人形」でも考えました。20世紀初頭の芸術思潮において操り人形・自動人形というものは、その時代において生きた人々が否応なしに置かれた状況の或るイメージを表象しています。人間を「生きている操り人形」であると見る考え方にはふた通りあります。ひとつは人間は内面から見えざる何者かに突き動かされる 人形であるという比較的新しい考え方で、これはもちろんフロイトの無意識の概念から来るものです。内的欲望とか衝動と考えても良いです。谷崎潤一郎の小説「蓼喰う虫」(昭和3年・1928)がそのイメージで書かれていることは別稿「生きている人形」で論考した通りです。もうひとつは、外的要因・特に国家社会といった状況によって自分の意志とまったく関係なく振り回されるということです。 この状況から他者によって強制的に操られる人形というイメージは、20世紀初頭においては 人類がふたつの世界大戦を体験するということによって非常に重い意味を持ってくるのです。大正8年の「傀儡船」から昭和7年の「頼朝の死」への方向は、まさにその時代の流れの上に乗っているのです。外部から人間を振り回す力がどんどん強くなっていく・そういう時代の作品なのです。そういうことを考えながら青果の「頼朝の死」を見たいと思います。

「頼朝の死」第2場では新熊野と羽黒山の別当の領地争いを頼家が裁断する場面が描かれます。周囲の忠告も無視して、俺が決めるのがなぜ悪いと言わんばかりの頼家の横暴な振る舞い・その出鱈目な裁断は、二代目マザコン馬鹿将軍と言われてもまあ仕方ないという感じではありますねえ。ところで、頼家が最初からこんな感じの将軍であったと思いますか。それは芝居で書かれていないだけのことです。将軍になったばかりの頼家は父頼朝と同じような立派な将軍になろうという理想に燃えていた に違いありません。頼家の理想とは自分で仕切り・自分で裁断する意思的な政治家ということです。ところが周囲はそれをさせてくれなかったのです。頼家がこうやろうとすれば、「イヤ上さまはこのようにするのが良ろしい」と御家人の誰かが 横槍を入れてくるのです。頼家がああやろうとすれば、「イヤ上さま、それはなりませぬ」と御家人の誰かが止めるのです。そして頼家がやりたくないのに「上さまはこのようになさ りませ」と御家人の誰かが指図してくるのです。御家人たちの言うようにさえしていれば、彼らは「上さま、上さま」と持ち上げてくれるけれども、頼家は自分の意志では何も出来ないのです。頼家は外部から操られている人形将軍に過ぎません。頼家はそれが嫌で嫌で 堪らないのです。何とか自分の意志で動きたい。しかし、周囲はそれをまったくさせてくれない。それでついに頼家は切れてしまったのです。第2幕で見る頼家の横暴な裁断はもうただの駄々っ子の振る舞いです。周囲を呆れさせて・憤慨させるために暴れているだけのことです。しかし、そこに至るまでの頼家なりの過程があるのです。確かにそれを青果は芝居で描いていません。が、それはこの芝居の欠陥であるということではありません。これが青果の作劇術なのです。第2 場で の悶々として酒を飲む頼家の苦しみの様を見れば、そのことは十分過ぎるほど明らかであるのです。そこを読み取らねばなりません。

『うう・・・。ええ苦しいわ。酒を持て、酒だ!・・母上!将軍とは、有るを有りとも知られぬ身か。虚偽(いつわり)の海に泳ぐ、我が身の嘘を知らぬ魚か。広元が知り、重保も知り、母上も知らるるその秘密を、なぜこの頼家ひとりが知られませぬか。将軍頼家とて人の子じゃ。なぜその大事の秘密を、われひとりにお包みなされますか。』

この頼家の科白には、苦悶・いらだち・やりきれなさが煮えたぎっています。頼家の気持ちはもう張り裂けそうになっていて、ちょっとしたことで壊れてしまいそうなほどピリピリと震えているのです。父頼朝の死の真相はもちろん頼家にとって大事なことに は違いありません。しかし、父の死の真相だけのことで、頼家はブチ切れて泣きわめくわけではないのです。そこに至るまでの頼家なりの・それ以前の過程があるのです。頼家はずっと自分が人間として扱われていない・自分は傀儡として扱われていると感じていました。人が人ならば、子が父のことを思う気持ちは当然のことである。父が死んだら悲しい。その父がどういう状況で死んだかを知りたい気持ち も当り前である。まして父頼朝の死には何やら由々しき事情がありそうである。そういうことを知らされるということは、人が人 の子として扱われる当たり前、最低限の権利だと思う。ところがその父の死の秘密を周囲の者が知っていて、息子である自分ひとりが知らされない。子が父のことを思うという感情、その人間の権利までも奪い取ろうというのか。母親も含めた周囲の者たちは、この頼家から徹底的に意志を抜き去って・感情さえも奪い去り・自分を完全な傀儡に仕立てようというのか。そう感じたから頼家は小児のように声立てて泣き出すのです。それは 今まさに抹殺されようとする人間の恐怖の叫びなのです。(この稿つづく)

(H22・11・7)


○平成21年12月国立劇場:「修禅寺物語」・その2

夜叉王が「おお、姉は死ぬるか。姉もさだめて本望であろう。父もまた本望じゃ。」と笑うと、桂も同じく笑って「わたしもあっぱれお局様じゃ。死んでも思いおくことない。」と言うということは、どういうことを意味するのでしょうか。岡本綺堂の「修禅寺物語」は明治44年(1911)に二代目左団次の夜叉王 によって初演された新歌舞伎です。別稿「左団次劇の様式」では20世紀初頭の時代的気質とは懐疑であること、自分の行くべき道はこれで良いのか 、今の自分は本当の自分を生きていないという思いであるということに触れました。そのような懐疑・イラ立ちの気分が台詞の急き立てるリズムに出ます。左団次の台詞は気忙しく一本調子であったと言われています。 それは左団次の台詞回しが不器用だったからだということを言う方がいますが、とんでもないことです。そのリズムが当時の観客を熱狂させ、「大統領」という掛け声が左団次のために作られたことが分かっていれば、決してそんなことは言えません。気忙しく一本調子のリズムとは、20世紀初頭の役者も観客もが共有した時代のリズムなのです。

平成21年12月国立劇場での「修禅寺物語」の舞台ですが、芝雀の桂は前半の驕慢な印象がそのまま裏返って幕切れの一途さになって現れて、申し分ない出来だと思います。しかし、残念ながら吉右衛門の初役の夜叉王が良ろしくありません。幕切れが過度にセンチメンタル になっています。瀕死の娘の話を聞きながら自分の打った面と瀕死の娘とを何度も見比べて落ち着かず、目をしばたたいてメソメソするなどまったく無用の演技です。「娘、顔をみせい」も涙まじりで、台詞を言うのがとても辛いという風ですが、この性根でその間にはさまった「伊豆の夜叉王、われながらあっぱれ天下一じゃのう・・・」という長台詞で どうして大笑い出来るのですかね。おかげで幕切れの夜叉王の長台詞が まったく宙に浮いてしまいました。

この場面の夜叉王には、瀕死の娘が眼中にないかの如く、食い入るように面を見詰めて・じっと動かないという演技が必要です。しかし、実は夜叉王は娘の言うこと をすべて聞き取っています。桂の述懐のなかの「月の暗きを幸いに打物とって庭におり立ち、左金吾頼家これにありと、呼ばわり呼ばわり走せ出づれば、むらがる敵は夜目遠目に、まことの上様ぞと心得て、うちらさじと追っかくる」という部分が、特に大事になります。 この桂の言葉を聞いてハッとして手にした面を見る。そこから「・・おお、姉は死ぬるか」の台詞に掛かるまでは、グッと息を詰めて意識を面の方に集中しなければなりません。「・・おお、姉は死ぬるか。姉もさだめて本望であろう。」もボソボソと、しかし、吐き出すように言う。ここはいわばエンジンを空吹きさせた状態で、「幾たび打ち直しても・・」からエンジン急速発進で、一気に台詞を言うのです。

夜叉王の感じていることは、自分が無心で写し取ったもののなかに頼家の運命が正確に描かれていたということの不思議さです。これは夜叉王が予言したということではありません。夜叉王は何も気付いていなかった。しかし、改めてみれば頼家の運命は面のなかに予言されていたのです。自然が夜叉王をして描かせたということです。自然がそのような役割を夜叉王に託したとするならば、それは芸術家として有り余る光栄であるのです。「伊豆の夜叉王、われながらあっぱれ天下一じゃのう」という台詞を傲岸不遜な芸術家のエゴイズムなどと言う方がいますが、そこに至る過程をよく読むことです。夜叉王は「自然の感応、自然の妙」と言っています。夜叉王は身が震える如くに感動しているのです。だから嬉しくて思わず笑うのです。むしろこれは芸術家の謙虚さというべきではないでしょうか。それは自分の進むべき道はこれで正しかった・苦労は報われたということであって、それが20世紀初頭の懐疑の時代的気質から見てどういう意味があるかを改めて言う必要はなかろうと思います。

しかし、ここで皮肉なことは、このことは瀕死の娘によって証明されたということです。しかし、その事実を前にしても、言わざるを得ないと云う感じで思わず吹き出してくる夜叉王の感動なのです。この父親の感動を「わたしもあっぱれお局様じゃ。死んでも思いおくことない。」と瀕死の娘が真正面で受け取っていることは、ドラマでは重要な意味を持ちます。ですから「幾たび打ち直してもこの面に、死相のありありと見えたるは・・」という長台詞での夜叉王は、そしてそれを聞く瀕死の桂も同様ですが、 ある種の倒錯状態にあるわけです。「姉は死ぬるか。姉もさだめて本望であろう。父もまた本望じゃ」と夜叉王が言うと妹の楓は「ええ」と驚きますが・これは当然のことで、普通の心理状態にあるならばこれは狂気の台詞としか思えません。このような台詞が瀕死の娘を前にして言われる時、「娘が死のうという時にその臨終の顔を写し取るというのは父親として残酷だ」などという似非ヒューマニズムが吹っ飛ばされているのです。これが日清・日露戦争が終わり・これから第1次大戦へと、戦乱 と混乱の時代に突入していく日本人にどういう風に響いたかということにもちょっと思いを馳せて欲しいと思います。

「幾たび打ち直しても・・」に始まる夜叉王の長台詞は「伊豆の夜叉王、われながらあっぱれ天下一じゃのう」に至るまでタンタンタン・・という二拍子のリズムで言わねばならぬ台詞です。これは吐き出さずには居られないという熱く溜った思いを一気に出す台詞であるからです。(このことは別稿「左団次劇の様式」を参照ください。)新歌舞伎の台詞を「歌う」という方がいますが、まあ間違いとは言いませんがね、どう「歌う」のかが問題ですね。急き立てる二拍子のリズムは重要ですが、抑揚をつける必要はないのです。むしろ抑揚が邪魔になる場合があります。吉右衛門の夜叉王は台詞に急き立てる基本リズムがない上に、「源氏の将軍頼家卿がかく相成るべき御運とは、今といふ今、はじめて覺つた・・」で思わず笑いがこみあげるという風な抑揚を入れますが、そのために台詞がとてもふやけた感じに聴こえます。そもそも、 先ほどまで瀕死の娘を見てオロオロしていた吉右衛門の夜叉王がここで笑うと言うのも面妖じゃないですかねえ。吉右衛門はこの長台詞にアクセントを入れる箇所を勘違いしているのです。「源氏の将軍頼家卿がかく相成るべき御運・・」という事実に夜叉王が感じ入っているのではな いのです。それは単なる結果に過ぎない。夜叉王はそれが実現したということの不思議さに感じ入っているのです。その感動を表現するためにこの長台詞があるのです。「自然の感応、自然の妙」まで、この長台詞は一気に言わねばなりません。 ならば夜叉王の長台詞のなかで二拍子のリズムを破綻させてアクセントを入れることが出来る箇所は、最後の「伊豆の夜叉王/われながらあっぱれ天下一じゃのう」の部分にしかないことは明らかです。

まあ、そういうわけで吉右衛門の初役の夜叉王はちょっと残念な出来でしたが、再演を期待いたしましょう。大事なことは「修禅寺物語」は明治44年に二代目左団次が初演した新歌舞伎であるということ、作品はそれが生まれた時代の気分と密接な関係があるということ、そして、それが現代という時代に上演される時に作品にどういう思いを重ねて見なければならぬかということです。

(H22・10・17)


○平成21年12月国立劇場:「修禅寺物語」・その1

小説を読んだり・芝居を見たりした時に、主人公の行動・言動がよく理解できない、あるいは納得できないということがあるかも知れません。そういう時に「この作品は駄作だ・下らん」と決め付けるのは読者(観客)のご自由ですし、まあ権利だと言っても良ろしいです。 娯楽として作品に付き合う分には、それでも良ろしいでしょう。確かに作品の出来の良し悪いということもあります。しかし、作者が一生懸命何かを訴えようとしているならば、どんな作品にも作者の何がしかの真実が必ずあるのです。それを見つけて・できることならば自分の糧としようというのが、鑑賞という行為なのです。鑑賞によって作品から何かを得ようというならば、そこでしばし立ち止まり、主人公がどうしてそのような行動を取ったのか・どうしてそのような言動をしたのか・あるいはしなければならなかったか、主人公の立場に立ってじっくり考えてみることが必要になります。

「修禅寺物語」幕切れ、「幾たび打ち直してもこの面に、死相のありありと見えたるは、われ拙きにあらず。鈍きにあらず。源氏の将軍頼家卿がかく相成るべき御運とは、今という今、はじめて覚った・・・」に始まる夜叉王の長台詞の場面ですが、断末魔にある娘桂が傍にいるのに・それが眼中にないかの如く・自らの面打ちの技芸の妙に酔いしれて、なおかつ「やい娘。わかき女子が断末魔の面、後の手本に写しておきたい。顔をみせい。」とまで言い放つ、許し難いほど冷酷な父親であるとお感じの方もいらっしゃるようです。それならば「修禅寺物語」は、芸術至上主義者の非人間的なエゴイズムを描いた芝居ということになります。そういう風に夜叉王を見るならば、作品はそれ以上何も語りはしませんでしょうねえ。まあその方と作品とはご縁がなかったというべきです。しばし立ち止まって、夜叉王がどうしてそのような言動をしたのか・あるいはしなければならなかったか、そのことを考えてみて欲しいものです。そうすると何か違ったものが見えてくるはずだと思います。

最終場面を思い出してもらいたいのですが、夜叉王が「やれ、娘。わかき女子が断末魔の面、後の手本に写しておきたい。苦痛をえてしばらく待て。・・・娘、顔をみせい。」と言うと、桂は「あい」と応えて、断末魔の苦痛を堪えながらスックと顔を上げます。その顔を夜叉王がじっと観察して見込む。これが「修禅寺物語」の幕切れシーンです。

桂と言う娘は京都の公家に奉公したことのある母親譲りの派手好きな性格で・上流の生活に憧れており、徹底した芸術家肌で社交性にまったく欠け・貧乏暮らしをかこつ父親とは全然そりが合わず、彼女は父親に始終反発していたことが前半で描かれています。それならば、娘の自分が今死のうとしているこの場面にあっても・自分の技芸に勝手に酔いしれて嬉しそうな台詞を吐き、おまけに断末魔の自分の表情を写したいなどと・・最後の最後までこの父親は何なのよ・・・と桂は怒って、顔を見せるのを拒否しても良いのではないでしょうか。しかし、最後の場面で、桂は素直に「あい」と応えて断末魔の苦痛を堪えながらスックと顔を上げて、その顔を父親に見せるではありませんか。これは何故でしょうか。最後の最後に娘は父の何たるかを理解し、受け入れたということです。夜叉王が変ったのではありません。夜叉王は何も変っていません。娘桂の方が変ったのです。これは何故でしょうか。そこのところを考えて欲しいと思うのですねえ。

結局分かることは、夜叉王は面打ちの職人としての技芸は卓越したものですが、人間関係における感情の表出・社交術という点では実に不器用で・拙い人間なので、そんな夜叉王にとって断末魔にある娘の顔を書き写すくらい のことしか、 死ぬ寸前の娘に対する父親の愛情を示す方法がなかったということなのです。夜叉王がそういう父親だということを受け入れたから、桂は素直に「あい」と応えて断末魔の苦痛を堪えながらスックと顔を上げて、その顔を父親に見せるのです。しかし、娘がそのように父を受け入れるに至る経過については、もう少し考えなければなりません。

先に書いた通り、桂と言う娘は公家出身の母親譲りの派手好きな性格で・上流の生活に憧れているのですが、これは言い換えれば理想主義なのです。桂はただの派手好きの驕慢な娘ということでなく、身分の高い人物に見初められて・上流の生活に引き上げてもらうには・それはそれなりの努力とお勉強が必要になります。ただ美しいというだけで、 田舎娘の桂が頼家に見初められてお局様にしてもらったということではないでしょう。桂には若狭の局と呼ばれるくらいの品位と教養が備わっているのです。つまり、桂と言う娘は自分の理想を高く掲げて、それに向けて努力するところがある女性です。これは父親とは理想の方向性は違うけれども、理想主義という点では同じなのです。つまり、まさにその点において桂は夜叉王譲りのところがあるのです。

夜叉王は京都の公家に奉公したことのある女性を妻としていたようです。それが桂の母親ですが、そのような女性を妻としたということは、若い頃の夜叉王はその腕を見込まれ・身分の高いお方の注文をどんどん受けて製作をし・良い暮らしが出来るという期待がかなりあったのでしょう。しかし、芸術家肌で・社交性の乏しい夜叉王は、お偉方に媚を使うこともせず・頑固に自分の理想を貫き通そうとしたので、いつしか 賓客を失い・生活は苦しくなったということです。しかし、理想主義という点では娘と同じということになります。

桂は頼家に見初められて若狭の局という名前を戴くのですが・その喜びもつかの間のことで、頼家は討っ手に襲われます。この時、桂はこれが最初で最後のご奉公・上さまのお身替わりということで・父親の打った面をつけて逃げるのですが、これを見てこれは頼家だと思った追っ手が次々と 桂に襲い掛かってきます。斬りかかって来る追っ手の眼を見た時に、桂は父親の面打ちの技量が神技に入るものだということを心底思い知ったに違いありません。これほどまでに父は努力してきたのかということです。

『女でこそあれこの桂も、御奉公はじめの御奉公納めに、このをつけてお身がわりと、早速の分別……。月の暗きを幸いに打物とって庭におり立ち、左金吾頼家これにありと、呼ばわり呼ばわり走せ出づれば、むらがる敵は夜目遠目に、まことの上様ぞと心得て、うちらさじと追っかくる。』

「修禅寺物語」幕切れで分かることは、父夜叉王と娘桂は理想とするものはそれぞれ違うけれども、互いにその理想を高く掲げ、これに向けて身を削る努力もしてきたし、そのために何かを犠牲にもしてきたということ、そしてその結果を自分は全然悔いてはいないということです。 自らの信じるところに殉じる覚悟ということです。この点において父も娘もまったく同じであったということが、最後の最後に娘にも分かったのです。このような場面で言われる「幾たび打ち直してもこの面に、死相のありありと見えたるは、われ拙きにあらず。鈍きにあらず。源氏の将軍頼家卿がかく相成るべき御運とは、今という今、はじめて覚った・・・」という夜叉王の長台詞が、芸術至上主義の非人間的なエゴイズムの台詞であるはずがありません。だから、夜叉王が「おお、姉は死ぬるか。姉もさだめて本望であろう。父もまた本望じゃ。」と笑うと、桂も同じく笑って「わたしもあっぱれお局様じゃ。死んでも思いおくことない。」と言い切るのです。(この稿つづく)

(H22・10・3)


○平成22年8月新橋演舞場:「義経千本桜・川連法眼館」

海老蔵の伊達の十役」でもそうでしたが、今回の海老蔵の「義経千本桜・忠信編」を見ても同じことを感じました。「あの頃の猿之助歌舞伎はこんな感じだったなあ」ということです。吉之助が「あの頃」というのは昭和50年代前半の猿之助歌舞伎のことです。あの頃の猿之助歌舞伎というのはとにかく面白いことを・何でも試してやろうという意気に燃えていましたし、それが楽しくって仕方がないというのが ビンビン伝わってくる舞台でありました。吉之助も猿之助は来月はどんなことをやるかという期待でいたものです。昭和50年代 も半ばを過ぎると猿之助歌舞伎の興行的成果は確固としたものになりましたし、猿之助もだんだん理論武装するようになってきたので、ちょっと趣が変ってきたということがあったかも知れません。 これについては市川猿之助著:「猿之助修羅舞台」 (昭和59年)などをお読みいただければ、吉之助が言いたいことが分かるか なと思います。要するにちょっと理論先行気味になってきたということだな。しかし、昭和50年代前半の猿之助はひたむきと言えるほど一生懸命でした。考える間もなく動いていた・そういう感じですかねえ。 もちろん何も考えていないのではなくて、考え抜いたものが自然にパワーとなって身体に溢れているように見えたという意味です。海老蔵の走り回っているのを見ていると、体つきも・芸風も異なるとは言え、あの頃の猿之助の舞台のエネルギーが思い出されました。ひとつには海老蔵の持つスター性(パッと観客の目を引きつける魅力)ということもありますが・それだけではなく、上へ上へとぐんぐんと上昇していく力のようなものですねえ。それは猿之助から海老蔵へ確かに伝承されたものであったと思います。

市川猿之助著:「猿之助修羅舞台

「四の切」(川連法眼館)での海老蔵の狐忠信で感心した点は、覚範率いる僧兵との立廻りがまるで子狐が遊んでいるかのように軽やかに沸き立って見えたことです。それが幕切れをとても後味の良いものにしています。確かに狐忠信は義経のために奮闘しているわけですが、まあ狐のことです。人間のように愚かな殺生するわけではありません。主義主張があって戦うわけではない。狐が得意の化かしで僧兵をからかって遊んでいるだけのことなのです。それが初音の鼓が手に入ったことの喜びと重なっている、そのように考えて良ろしいものです。海老蔵の狐忠信の立廻りを見ているとそのような狐の 無邪気な喜びの感情がとても素直に出ているのです。吉之助は猿之助の「四の切」は何度も見ましたが、もしかしたらこの点では海老蔵は猿之助より良いかも知れぬなあと吉之助はふと思いました。そう言えば郡司正勝先生がこんなことを仰っていますね。

『「(千本桜)四段目」で親子の情だの何だのと言うのは、私は違うと思うんだ。化かされのああいうものが面白いんだから、どこまでもケレン芝居で、もう眠くなる時刻なんだから、あそこまでくれば浮かせて見せないと。狐がいくら人間の情を見せたって、人間はそんな同情するわけにはいかないんだよ。(狐が擬人化されていると言うが)それは見ている方がそういう風に理屈をつけているわけなんでしょうけど、そうでもして見なきゃ見られないということになっちゃうから、一応、人間の情を写して見せるんだけど、それには限度というものがあるから、あんまりリアルにその情を見せると興醒めしてしまう。程度の問題ですけどね。』(郡司正勝:合評「三大名作歌舞伎」・歌舞伎・研究と批評・第16号)

もちろん海老蔵の狐忠信が万全というわけではありません。むしろ海老蔵の狐忠信は親子の情などを意識するところで演技が甘ったるい方向に向いて、そこで点が落ちるようです。何だかマタタビに酔っ払ったライオンみたいな感じになる。狐言葉の語尾の甘さはちょっと気になります。本物の忠信との対照を際立たせようという意図があるのでしょうが、これはむしろ目付きや身体の捌きでこれをさりげなく仕分ける感じで行きたいものです。この辺は今後再演を重ねていくなかで工夫の余地のあるところです。それは本物の忠信と狐忠信との差は親子の情の有る無しではないからです。本物の忠信は屋島で戦死した兄継信、故郷に残した母親のことを片時も忘れない情のある男です。忠信がそのような男であるから、狐は忠信になりすまして義経に近づこうとするわけです。親子の情は両者を結ぶ共通項ということです。義経も静も見分けが付かないくらいなのだから、同じに見えて良いのです。親子の情はもちろん狐忠信の重要な動機ですが、「義経千本桜」全編のなかでは狐忠信は縦糸のエピソードで、郡司先生の仰る通り、あまり親子の情だけ突出されても粘って困るわけです。(これについては別稿「義経と初音の鼓」をご参考にしてください。)もっとも猿之助の狐忠信でも「この芝居は親子の情を訴えているんです、ねっ、いいでしょ、いいでしょ」というしつこい感じ無きにしも有らずでした。この辺を抑え目に行ければ良い「四の切」に仕上がると思います。ともあれ海老蔵の「四の切」の幕切れはなかなか良かった。あの頃が思い出されて、吉之助には懐かしい瞬間がありました。

(H22・9・5)


○凱旋公演のことなど

吉之助も何回か見ましたが、時々地方で伝承されている民俗芸能が国立劇場の舞台で紹介される機会があります。そのような地方色豊かな伝承芸能は現地の雰囲気のなかで味わうのが本来なのはもちろんです。しかし、タイムリーに現地赴くのもなかなか大変なことであるし・費用もかかりますから簡単ではありません。このような芸能が地方にまだ残っているのだなあということをちょっと味わえるだけでもそれは貴重なことで・とても有り難い機会です。しかし、こういうものが東京で見られるのは、それは多少の問題を孕んでもいまして、例えば郡司正勝先生がこんなことを仰っています。

『それはいい仕事ですよ。国立劇場で声を掛ければ、現地は喜んで出てくるから。問題はギャラを払うことに問題がある。国立でこれだけ払って貰ったから今度はお祭りにでても払ってもらいたいと、今まで祭りにただで奉仕していたのがね、今度は馬鹿々々しくなってくるということはある。国立劇場へ出たからって売り出す。あちこち巡業するようになる。そういう問題がありますよね。国立劇場で多少演出を手直ししてくると、それを現地へ持ち帰って舞台用の直しでもって伝承される。そういう弊害も出てくる。国立の舞台から帰ってきて現地のを変えてしまうというのは大変困るんですよ。それから民俗芸能の性質もあって、どんどん変っていくのが民俗芸能だという説もあるのですよ。近代的な問題には新しいものを取り入れるというのもあるし、古風に守っていかなきゃならないという、これは神事だから宗教と結びつくから変えられない。わりあい宗教性のないところはどんどん新しく変っていくということもあり得るわけです。それは民俗芸能の性質なんですね。』(郡司正勝:対談「国立劇場の三十年」・「歌舞伎・研究と批評:18)

歌舞伎の海外公演の凱旋公演というのがいつ頃から始まったか定かでないですが、吉之助が思うにはそれはそれほど昔のことではないようです。昭和57年(1982)に歌右衛門や先代勘三郎がアメリカ公演をした時も、昭和60年(1985)に猿之助がヨーロッパ巡業をした時も凱旋公演なんてものはありませんでした。これは考えてみれば当然のことで、確かに世界の芸術の集まるところと言えばそれはニューヨークやロンドン・パリということになるでしょうけれど、歌舞伎の本場というのは日本なのですから、欧米に公演して帰ってきて「凱旋」ってのは可笑しいと思うのですねえ。それが海外公演して凱旋だ凱旋だと言い出すようになったのは、多分平成16年(2004)の勘三郎(当時は勘九郎)のニューヨーク平成中村座の時からだろうと思います。現地向けにアレンジした台本と演出を日本にそのまま持ち帰って凱旋公演と称して上演する。「芝居に眼の肥えたニューヨーカーに激賞された舞台だよ、見なきゃ損だよ」という訳です。これが役者の感覚なのか・興行者の思惑なのかは知りませんが、何だかこの辺からおかしくなっているようです。テンポ・アップした演出・台本と言えば聞こえは良いけれど、実はそれは ご都合で端折って・カットだらけの台本なのです。こうやって次第に演出が変っていきます。残念ですが、勘三郎は恐らく今後も「法界坊」や「夏祭」は平成中村座の串田版でしか演じるつもりはないでしょう。従来型を演じるならば串田型が混じることになる・これも困る。

小学館から「DVD BOOKシリーズ歌舞伎」というのが出ていますが、その第1巻が2007年5月団十郎・海老蔵らによるパリオペラ座公演の「勧進帳」と「紅葉狩」を収録したものです。読者の大半 に成田屋ファンを想定しているのかも知れません。確かにパリ・オペラ座上演は大きな話題でした。しかし、歌舞伎の初心者が「勧進帳」はどんな芝居なのかなあと思って見るのにパリ・オペラ座での花道なし・ 舞台上手から下手へ変則引っ込み演出の「勧進帳」が適切なのかどうかを議論する必要はないと思います。パリ・オペラ座での場合は仕方ありませんが、あれは「その時限り」とすべきことです。弁慶 が花道引っ込みしない「勧進帳」など気の抜けたビールのようなものです。吉之助は下戸ですがね。DVD本にするのならば、歌舞伎座で上演した団十郎主演の「勧進帳」の映像が他にあるのですから、それでしっかり成田屋宗家の歌舞伎十八番を正しい形でアピールしてもらいたいものです。それともやっぱり「凱旋」のタイトルの方が大事でしょうかね。

今月(8月)新橋演舞場での海老蔵の訪欧凱旋公演を冠した「義経千本桜」についても、欧州公演はこんな形で上演したということをこの眼で確認できたのはそれはそれですが、正直申し上げるとこのような簡略型上演はこれ限りとしていただきたいものです。台本端折って「鳥居前」から「道行初音旅」を暗転でつなぐなど欧州 での劇場ならば仕方ないことですが、定式の歌舞伎の上演ならばあり得ないことです。あれを居所替わりと言うのかは知りませんが、ああいうやり方が良いとは吉之助は思いません。ああいうやり方は 正しくないという感覚は維持してもらいたい。これは芝居におけるリアルという概念に対する姿勢の問題だと思います。ああしたやり方は所作事だけに許される演出法なのです。 他にも演出・台本の細かい変更が随所にあるようですが、海老蔵の狐忠信は生きいきしてなかなか良い出来であっただけに残念なことでした。

第1部「義経千本桜」は凱旋公演の申し訳が立つから「これ切り」ということでまだ良しとしましょう。しかし、吉之助は見てないですが・第2部で福助が踊る「京鹿子娘道成寺」は押し戻しが付くのに道行がな かったそうです。その他細部にも変更があったようです。「娘道成寺」の押し戻しというのは所詮付け足しで、ドラマは鐘入りで終わっているのです。押し戻しが付くならば全通しと考えるのが常識だと思いますが、そういう常識がもはや通用せぬようです。竜ならば頭がないのに大きい尾っぽが付いているようなものです。これはもうバランス感覚の問題ですね。第3部「東海道四谷怪談」では「三角屋敷」がカットされた場割りが、もうすっかり定型になってしまったようです。この場割りではお岩のお化け芝居の粗筋だけを表面的にさらっているだけで、これが南北の「東海道四谷怪談」だと思われるのは非常に困ります。こういうことをクドクド書かねばならぬのは情けないことだと思いますが、こういう端折りの上演で正しいドラマ構造の感覚がどんどん崩れていくのです。気が付いた時には何が正しいのかがもう分からない。知らないほど強いものはないので、そうなったら何をやっても良いということになります。そう言えばいつぞや 松羽目物でスッポンを使って登場して「歌舞伎では何でもありなんです」と仰った役者さんがいらっしゃいましたね。そうやって型は崩れていくのです。確かに3部制の上演では時間が限られているから、長い演し物はどこか詰めねばならぬことになります。それならば台本切り詰めなければならぬような長い演し物は最初から上演すべきではないのです。

歌舞伎座8月での三部制はもともと「歌舞伎をお手軽な料金で・見易い時間帯に・・」ということで始まったものでしたが、だんだん「歌舞伎をお手軽な脚本演出で・・」に変化しているように思います。そのうちに何が正しい形なのかが、役者も劇評家も観客もだんだん分からなくなってきます。こういう現象が凱旋公演の横行と並行して次第に進んでいます。それともこれ も民俗芸能の性質であるならば仕方ないとあきらめるべきでありましょうか。こんなことを考えるのはこのところ滅多やたらに暑いせいかも知れませぬ。

(H22・8・29)


○楽譜がすべて教えてくれる

先日NHK教育テレビで「スーパー・ピアノ・レッスン〜アンドラーシュ・シフと挑戦するベートーヴェンのピアノ協奏曲」の再放送(初回放映は2008年)がありまして、これを見ました。現代を代表するベートーヴェンの解釈者のひとりであるシフのレッスンを体験できる貴重な機会です。シフは巧みな 比喩とユーモアを交えながら指導を展開して、その指導を通じて5人の生徒さんの表現が深みと幅を増していくのがその場ではっきりと 確認できるのはとてもエキサイティングでした。興味深かったのは、ベートーベンと先行作曲家であるモーツアルトとの関係を意識すべきであることをシフが盛んに強調していたことです。

例えばピアノ協奏曲・第1番・ハ長調の第3楽章は軽快なロンド形式ですが、終盤近くに軽やかに駆け上がる短い楽節(パッセージ)が現れます。この箇所を生徒さんが弾いたのを「そ こはちょっと変えてみよう」とシフが止めて、「この楽節はどこから 来たのかな?」と言いながら自ら弾いて見せたのですが、それは何と歌劇「魔笛」のアリア「私は鳥刺し」でパパゲーノが吹く笛(パンフルート)の旋律でした。会場は爆笑でしたが、吉之助もひっくり返りそうになりました。「そう、ここはパパゲーノみたいに弾いてください」とシフは生徒さんに言いました。このおかげでこの箇所はとっても素敵になりました。吉之助はここでハタッと考えるわけですが、そもそもベートーヴェンはこの箇所でホントにパパゲーノをイメージして作曲したのであろうかということです。それともシフは軽やかでおどけた感じを出したい為に比喩としてパパゲーノを出したまでのことでしょうか。そもそも一小節足らずの・さりげない楽節に、突然モーツアルトが出てくる必然があるのでしょうか。

結論から書きますと、シフが指摘する通り、この箇所を書く時にベートーヴェンの頭脳にパパゲーノの旋律が何かの作用をしたことは確かだろうと吉之助は思います。これは演奏者としてのシフが長年の体験のなかで掴み取ったものです。ただし恐らく文献的には証明できないことで、何の根拠があるのかと問われれば・演奏すれば直感でそう分かるとしか言えないもの かも知れません。しかし、吉之助もシフの指摘するところは確かにその通りだと信じます。このような現象は引用とか・ましてやパクリというレベルのものではなくて、意識の深層において材料が浮かび上がってきて旋律のなかに取り込まれることで起こるものです。これは高次元なレベルの創造の現象なのです。このような現象が 起こることを承知していれば、現代の我々がベートーヴェンの創造の過程を追体験することもできるわけです。

芸術家は自分の体験や生活のなかから作品を捻り出しますから、その材料は常に彼の人生にまつわる過去に負っているわけです。そんななかから作品は生み出されるのですが、その場合過去の素材は引用されるわけではなく・と言って暗喩として使用されるというのでもなく、その作品のなかの固有の要素として再生するわけです。近年は著作権というのがうるさく言われますから、「アイツは俺の作品をパクッた」・「いやこれは俺のオリジナルだ」というトラブルがよく起こります。これは場合によりますが、判断がつかないことがしばしばです。というかそこら辺の境目はとても 曖昧なものです。また多少はそういうことを認め合う度量の大きさがないと、創造活動は枯渇するということがあると思います。ともあれ前述ベートーヴェンのケースは著作権に触れることはないと思いますが、シフが指摘するところはベートーヴェンの頭脳にパパゲーノのイメージが触発して・そのイメージがこの楽節を書かせたということであって、シフはこれを引用であるとか・暗喩であるとか言っているわけではありません。ここが大事な点です。それは楽譜自体が教えるものだという ことです。

ところで現代の芸術作品の基本的な態度は原典主義ということです。つまりそれは音楽であるならば・作品のすべては楽譜に書かれている・だから楽譜を忠実に読み込んでいくことですべてが得られるという考え方です。これが現代の芸術解釈の基本的な態度です。シフの教えるところはとても素直なものです。ベートーヴェンの作品のさりげない楽節のなかに過去の偉大な作曲家たち(バッハ・ハイドン ・モーツアルトなど)の成果が踏まえられており、そこに気をつけて楽譜を見ていけばホラこんなところにモーツアルトが・・バッハが顔を覗かせているじゃないか。しかし、見てごらん、それらはベートーヴェンが しっかりと楽譜に書いていることなんだよということです。だから君たちは 謙虚に楽譜に向き合わねばならないのだよとシフは若いピアニストたちに教えるのです。シフはベートーヴェンの楽譜にメスをいれて・その切り口からパパゲーノの旋律を取り出して見せたわけではありません。このふたつの手法の違いをはっきり認識することが非常に大事になりますね。

*本稿の続きになりますが、音楽ノート「ベートーヴェン:ピアノソナタ第14番・月光」もご覧ください。

(H22・8・8)


○平成22年7月新橋演舞場:「名月八幡祭」・その2

「名月八幡祭」が黙阿弥の「八幡祭小望月賑」の改作であることは先に触れましたが、同じく黙阿弥の影響を強く受けた作品がもうひとつあります。それは三代目河竹新七 の書いた「籠釣瓶花街酔醒」です。初演は明治21年(1888)5月千歳座で、初代左団次によって初演され・二代目左団次も当たり役にしたものです。別稿「八つ橋の悲劇」で本作を取り上げました。佐野次郎左衛門を縁切りする場面で花魁八つ橋は「わたしゃつくづくイヤになりんした」と言います。この台詞は八つ橋が「自分という人間が(あるいは女郎である自分が)つくづくイヤになりんした」と言って嘆いているように聞こえるということを書きました。八つ橋はある種の権力の上に立ち・男たちを操ろうとしますが、同時に絶えず苦しみ・自由を求め・あるいは逆におぞましい暴力の犠牲になることを渇望しているのです。縁切り場で八つ橋がやったことは・本人はどう思っていようが、周囲の人間から見るとその状況はバラバラで矛盾しており・ヒステリー症状を呈しています。

別稿「八つ橋の悲劇」は「籠釣瓶」をビゼーの歌劇「カルメン」(1875年)と対照して論じています。カルメンは典型的なファム・ファタール(宿命の女)です。ところでファム・ファタールは男を破滅させる悪女であると巷間よく言われます。表面の筋だけ見るとそういうことになりますが、 ドラマツルギーを考えるにはさらに深い考察が必要です。カルメンは生に対して空虚感あるいは倦怠感を感じており、いつもそこから逃げたいと感じています。そのことを一時的でも忘れる方法のひとつは享楽することです。つまり男に寄生して消費・散財することです。それは決して彼女を満たすことはありませんが、その享楽的な性格が男からすると彼女を魅力的に見せます。彼女に寄って来る男達も生に対する空虚感あるいは倦怠感を抱いています 。だから彼はカルメンのために散財する時に喜びを感じることができます。つまりお互いに似た者同士の男女が引き合っているのです。カルメンとホセはそのような関係です。しかし、お金がある時は良いですが・お金が尽きた時が縁の切れ目で、そこで悲劇が起きます。

もちろん男が特定の女にのめりこんで破滅する悲劇はいつの時代にもありました。例えば玄宗皇帝と楊貴妃 、アントニーとクレオパトラなどがそうです。しかし、19世紀末に改めてファム・ファタールがことさら特別な意味を持ってクローズアップされるのは「男を破滅させる 魅力的な悪女」ということがポイントではないのです。彼女の持つ享楽的・消費的な性格こそがポイントです。産業革命後の大量生産経済社会は「楽しまないと生きている感じがしない・消費しないと楽しんでいる感じがしない」という幻想を盛んに振り撒きます。そのような幻想を振り撒く のはマスメディアです。当時であれば新聞・雑誌であり、現代ならばテレビやインターネットもそうです。実は現代でもこのような状況は強まりこそすれ決して弱まってはいません。大衆は絶えず消費を煽られ、享楽に向かわされます。消費していないと生きている心持ちがしないのです。産業革命を経た19世紀末の消費社会にファム・ファタールが改めて象徴的な意味を持って登場します。ビゼーの歌劇「カルメン」(1875)やマスネの歌劇「マノン」(1884)・プッチー二の歌劇「マノン・レスコー」(1893)などはそのような風潮を踏まえて出てきた作品です。同時代の日本に「籠釣瓶花街酔醒」(1888)が登場したことも決して偶然ではありません。これらは19世紀末の全世界的な時代的気質を踏まえています。

その後・20世紀初頭においては映画女優がファム・ファタールの享楽的・消費的な性格を受け継ぐことになります。例えば谷崎潤一郎の「痴人の愛」(大正13年)のヒロインのナオミはファム・ファタールの性格を持っています。小説では彼女の容貌を映画女優のメアリー・ピックフォードに例える場面が繰り返し登場します。これは谷崎が酔狂でそう書いたのではありません。映画女優という職業が持つ消費的享楽的性格を谷崎が正しく感じ取って書いているのです。付け加えれば、それは操り人形のイメージを取る場合もあります。現在連載中の「生きている人形」をご参照ください。

話を深川きっての芸者美代吉のことに戻しますと、深川芸者は辰巳芸者とも言い、意気と張りを看板とし、羽織を引っ掛けて座敷に上がり、男っぽい喋り方をして、芸は売っても色は売らない心意気を自慢としました。辰巳芸者は江戸の粋の象徴と称えられたものでした。つまり、消費都市としての江戸を象徴するのが辰巳芸者です。カルメンや八つ橋と同じように、生に対する空虚感あるいは倦怠感からくる破滅願望を美代吉も感じているでしょうか。それは確かにあります。船頭三次との自堕落な生活、借金に追いまわされる日々。美代吉が「いっそ田舎へ引っ込んで・・新助さんの故郷へ行って、一緒に雪でも見て暮らそうかねえ」と何気なく言うと、新助が「姐さん、そりや本当のことでございますか」と聞きます。ここで美代吉は「本当も嘘もありゃしないや。今日の夕方があたしの生死の境目だ。もう分別もありゃしないや。」と答え てしまいます。この美代吉の返答がドラマを考える時の転換点です。「わたしゃつくづくイヤになりんした」と嘆く八つ橋の心情と確かに同じものがここにあります。そこを新助に付け込まれたのです。

「付け込まれた」と書くのには理由があります。美代吉も日々の生活に空虚感を抱いているのですが、美代吉はそういうことをあまり深刻に考える女ではないのです。薄っぺらで すが、普通の女なのです。日々を適当に楽しんでいればそれで良いのです。だから借金に追われて一時的に自暴自棄になって、ちょっとブルーな気分になってみただけということです。その時の気分としては真実で・そこに破滅願望が確かに漂っていますが、しかし、それは美代吉の一時の気まぐれに過ぎず、美代吉自身は自分の置かれた状況をそこまで深刻に悩んでいるわけでは ありません。新助が「姐さん、そりや本当のことでございますか」と真顔で聞かれて、美代吉はちょっとおかしな返答をしているということを前章で書きました。文脈的には美代吉は新助の質問に正しくイエス・ノーを答えていないからです。美代吉 にしてみれば「どこか田舎に引っ込んで静かに暮らしたいねえ」と言ったまでのことです。新助に百両調達してくれれば「有り難い・嬉しい」とは言っていますが、「新助と一緒になりたい」と言ったわけではありません。しかし、 新助の方はこれを「百両調達してくれれば有り難い・嬉しい・だから新助と一緒になっても良い」という風に勝手に受け取ったのです。このように我田引水に解される要素がどこにあったのかと言うと、「本当も嘘もありゃしないや」という台詞のなかにある自暴自棄の破滅願望の気分のせいです。一時的なものであれそれは確かに真実である。そこを新助に付け込まれたのです。

「百両調達してくれれば有り難い・嬉しい・ならば新助と一緒に暮らしても良い」という手前勝手な妄想を新助がどうして抱いたのかが問題になります。「こんなことを言うのは美代吉は俺のことを好いているからだ」という風に勝手に思い込んで、突如新助は百両の工面に走り出します。どうしてそんな妄想に陥るのでしょうか。それは新助は美代助のことを「この女は金でものにできる女だ」と考えているからです。つまり店で売っているお人形 のようなものです。別稿「生きている人形・2」でフランス語のMusumeという単語について触れました。美代吉に対する新助の気持ちは、ロティのお菊さんに対する気持ちとほとんど変りません 。江戸というのは消費的・享楽的な都市で、金さえあればそういうものを提供してくれる都市であるというのが新助の江戸のイメージです。江戸の華と呼ばれる辰巳芸者の美代吉は新助にとってはそういう存在なのです。それが愛であるかと言えば・確かに愛には違いないでしょうが、ただしそれは歪んだ身勝手な愛なのです。

「名月八幡祭」では窮地に陥った美代吉のもとに藤岡の殿様の粋な計らいで百両が届くので、新助の努力が無駄になって、観客には新助が気の毒に見えるかも知れません。しかし、もし藤岡の殿様の百両がなかったらこのドラマがどうなったか考えてみて欲しいのです。「百両調達してきました・さあ姐さん一緒に暮らしてください」となって、美代助がどう言うかです。ハイ一緒に暮らしましょ・・となるでしょうか。そうではなくて 、「百両用意してくれれば嬉しいと確かに言いましたよ。でも一緒に暮らしても良いなどと言った覚えはありしゃないよ。お前さん、この美代吉を百両で買おうというのかい。冗談お言いでないよ。」と美代吉が言うのは確実です。傍目から見ればあれはその程度の会話なのです。だから駆けつけた魚惣も抗弁のし様がないので、新助を連れ帰るわけです。生に対して倦怠感を覚え・享楽によってそれを忘れようとする似た者同士の男女が互いに惹かれ合い破滅するというのがファム・ファタールの悲劇の図式であるならば、新助は美代助とそのような関係になりたいと勝手 に妄想して・拒否されて発狂するわけです。しかし、カルメンに対するホセ がボロボロにされて地獄に堕ちても・「それでもなおこの女を愛す」と叫ぶ狂おしさがここには決定的に欠けています。だから吉之助が「名月八幡祭」ファム・ファタールの悲劇と見ることは出来ないのです。言うなれば、これは壊れてヒビの入ったファム・ファタール神話です。実はそこが20世紀的な要素なのです。

「籠釣瓶」の次郎左衛門であれば同じく金が先に立っていても立花屋に正式に見受けの申し入れをして・八つ橋本人もまんざらでもないらしい・・という状況のなかでドラマが進行し ていきますから、縁切り場で恥をかかされた次郎左衛門の気持ちは観客に十分納得できるものになります。しかし、新助の場合にはひとり合点で・自ら望んで悲劇に落ちて行くものとしか言いようがありません。「籠釣瓶」と「名月八幡祭」の違いがそこにあります。付け加えておきますが、これは「名月八幡祭」のドラマの欠陥ということではありません。このドラマ を田舎の生産性と・これを食い物にする都市の消費性という収奪構図で考えることももちろんできますが、むしろ作者池田大伍は新助の生の空虚感・虚無感というものを冷静に見詰めていると解釈すべきでしょう。 このことが無人の舞台に満月がボーッと浮かび上がる幕切れに暗示されてなかなか見事なものです。この違いはひとつには「籠釣瓶」(1888)と「名月八幡祭」(1918)という成立時期の違い・わずか30年の差から来るものです。もうひとつは座付狂言作者と外部の作家の視点の違いからくるものです。ですから「名月八幡祭」を見る場合はむしろ同時代の谷崎潤一郎などの関連から見ていった方が良ろしいわけです。そこに大正という時代の空気を取り込んで書かれた新歌舞伎の独自の視点があるわけです。

(H22・7・31)


○平成22年7月新橋演舞場:「名月八幡祭」・その1

田舎から出てきた純朴な商人縮屋新助が深川きっての芸者美代吉に騙されて発狂し深川八幡の祭礼の夜に惨劇に及ぶ・・と「名月八幡祭」の筋をひと口で言えばそういうことになると思います。まあ筋としては確かにそうですし、今回の三津五郎の新助・福助の美代吉もその辺はしっかり押さえていて・うまいものです。もちろんそれで十分エンタテイメントになります。しかし、本作は大正7年(1918)8月歌舞伎座で二代目左団次が初演した新歌舞伎です。新歌舞伎というのは社会的視点を含んだ新しい感覚の歌舞伎のことを言います。本作は池田大伍が黙阿弥の「八幡祭小望月賑(はちまんまつりよみやのにぎわい)」を改作したものですが、都会に出てきた純情な田舎者が女に騙されて破滅したというだけならば筋としては昔からよくあるような話で、さほど新しい感覚には思われません。もし本作に新視点を見出すならばどんなところでしょうか。吉之助はそこにこそ作者の意図・左団次の工夫があると思うわけです。本稿ではそのことを考えてみたいと思います。

大詰「深川仲町裏河岸」において町の衆が様子の変な新助を捕まえようとすると・新助はそれを振り払って「江戸っ子が何だ、口先ばかり巧いこと言ったって、みんな銭が欲しさだ」と叫んで、チャリンと小判を落とします。驚いて小判を拾う男たちを見て、新助はヘラヘラと笑います。三津五郎演じる新 助はあまりはっきり笑いませんが、ここはもっと嘲笑して欲しいところです。「お前たち(江戸の奴ら)はこれ(小判)が欲しいんだろ、これだけなんだろ」という感じで高笑いしてもらいたいのです。この新助の台詞で分かることは、もちろん新助は美代吉に裏切られたことがきっかけで発狂したのですが、美代吉個人への恨みもさることながら・江戸に対する強烈な僻みがそこに見えることです。

何が原因なのか分かりませんが(作品はそのことを書いてはいません)、田舎者の新助には江戸に対する強烈なコンプレックスがあるようです。それは江戸に対する強い憎しみであると同時に強い憧れが入り混じったもので、それが深川芸者美代吉に重ねられているのです。ですから傍には新 助の実直さと見えるものは実は彼の非常な卑屈さであり、傍には新助の真面目さと思われるものは実は彼の非常な偏執さなのです。その原因は彼生来の病的な気質から来るものかも知れず、江戸での商売のなかで何か辱めを受けたせいであったと断定はできません。黙阿弥の原作では妖刀村正の魔力のせいであったりしますが、まあこうした書き換え物は主人公は原作から性格を引き継ぐということもあったりするのであまり深く考える必要はないでしょう。とにかく新助のなかで江戸と美代吉は同じもので、美代吉は江戸の表象であるということをここでは押さえて置きたいと思います。ですから芝居の筋としては新助は美代吉に裏切られて発狂したのですが、実は新助は江戸に裏切られて発狂したのです。そこに本作を考える手掛かりがあります。

作者は作中の台詞のなかでそのような卑屈で偏執的な新助の性格を匂わせる箇所をいくつか書いています。もっとも新助はそれを実直・正直な田舎者の仮面で隠そうとしているので表面に あからさまには出ませんが、それは何気ない台詞の語尾のちょっとした調子の強さに出たりします。そのような箇所がいくつかあるなかでも一番大事な箇所は、美代吉が「いっそ田舎へ引っ込んで・・新助さんの故郷へ行って、一緒に雪でも見て暮らそうかねえ」と何気なく言うと、新 助が「姐さん、そりや本当のことでございますか」と言う台詞だと思います。この台詞は語尾を強く押して言わねばなりません。こういう場面に強く反応するのがポイントです。何故ならば新助は美代吉と一緒になることなど夢の夢と諦めており・それが強いコンプレックスになっているのですから、美代吉が例え冗談でも「一緒に暮らして良い」と言ったなら藁にすがる気持ちでそこに喰い付いていくのです。それは銭さえあればこの夢をものにできるという妄想とつながっています。新 助にとって江戸がそういう町であるからです。

「姐さん、そりや本当のことでございますか」と新助に押して言われれば、美代吉がウッと詰まるのは当然です。もともとそんなつもりで言ったわけではないのです。美代吉としてみれば「どこか田舎に引っ込んで静かに暮らしたい」と言ったまでで、別に新助と夫婦になりたいと言ったつもりなど毛頭ないからです。しかし、真正面から問われたことで美代吉はここでちょっとおかしな返答をしてしまいます。「本当も嘘もありゃしないや。今日の夕方があたしの生死の境目だ。もう分別もありゃしないや。」 この返事をきっかけに結果として新助は自分から穴に転がるように破滅に向かっていきます。この会話はこの芝居のなかで大事な転換点です。ここで肝心なことは新助は「姐さん、そりや本当のことでございますか」を 、ここでその返事を聞かずには置かないという感じで強く 押して言うこと。その気迫に押されて美代吉はウッと返答に詰まりますが、この時点では美代吉は捨て鉢な気分になっていますから、「本当も嘘もありゃしないや。」を投げやりに言う。この会話はそういう感じでありたいのです。三津五郎の新助・福助の美代吉の会話ではその辺がちょっと弱かったと思いますね。

別稿「左団次劇の様式」で二代目左団次の初演した新歌舞伎作品 群の様式は台詞の語尾を強く詰めること・詠嘆調では言わないということを指摘しました。魚惣内の幕切れで新助が美代吉の乗った舟が去った方向を見やりながら言う「・・・あそこが鉄砲洲、(気を変えて)いい景色でございますな 〜あ」という台詞を三津五郎は詠嘆調で言いますが、あれではまったく黙阿弥ものの幕切れになってしまいます。吉之助は左団次がああ言ったとは思いません。池田大伍がそう書いたとも思いません。このことはこの芝居だけ考えているのでは決して分かりません。左団次劇の様式というものをひと括りにして考えて初めて分かることなのです。これは三津五郎のせいと言うよりも・演出(池田弥三郎)のせいでしょう。ここを詠嘆調で引き伸ばせば「芝居らしい」ということになる・普通はまあそれがパターンですが、そこをわざとしないところが左団次劇なのです。「いい景色でございますな」 と語尾を詰めて言うところが左団次劇の様式なのです。この場面は左団次ならば鉄砲洲の方を見てギラリとした凄みを一瞬見せたと思います。そこに見えるものは新助の美代吉への嫉妬か・憎しみか、いずれにしろ歪んだ愛なのです。(この稿つづく)

(H22・7・24)


○伝統芸能から何を摂取するか・その3

いつぞやテレビでのインタビューでドナルド・キーン先生が「日本の方は日本文化は独特なもので・外国人には理解し難いものだと思いたいのでしょうねえ。日本では日本人論の本がたくさん出てますが、アメリカでアメリカ人論・英国で英国人論なんて聞いた事がありません」ということを仰っていました。日本文化論に「引き」の美学・「ない」の美学だのという文句がよく並ぶのも、日本の美学は独特なものだと思いたいという気持ちが強いのでしょうねえ。しかし、日常生活でグローバルな視点で考えることが避けられない時代に、日本文化は独特だなどと言うのはツマランことだと思いませんか。いっそのこと日本文化をグローバル・スタンダードにしてやるくらいの気概が欲しいものです。そのためには日本文化を見る時の視点の根本から変えないといけません。

能狂言や歌舞伎の型を「ない」の美学と言う場合、それは様式と写実という概念を対極に置いて・その二元的な尺度で表現というものを見ているのです。ただし、写実と言っても 実は自然主義リアリズムという狭い定義でしか写実を考えていないのですがね。その範疇においての二次的尺度なのです。 確かに二元論というのは一番分かり易い尺度です。しかし、よく考えてみて欲しいのですが、この演技は様式度2とか・この演技は写実度4だとか、そういうものがあると思いますか?どういう場合に演技の写実が意識され て、様式が意識されるのか、そういうことを考えて欲しいわけです。

多分に感覚的な議論になりますが、音楽とか演劇のような再現芸術においては、それは結局、演技の色調の変化において起きるのです。逆に言えば色調の変化が起きないのならば様式とか写実とかはまったく意識されないのです。つまり色調の変化・印象の変化が大事だということですが、もうひとつ大事なことはその変化を様式の方に取るか・写実の方に取るかは意識に拠るのです。分かりにくいかも知れないのでもう少し説明しますと、ある演技の色調をAからBへ移行する時に、Aの印象がなお強く持続する場合があります。あるいはAが続いた後Bに巡り合った時にその色調の新鮮さにハッと驚かされる場合があります。要するに演技者がAとBのどちらかに重きを置いた表現をするか・あるいは鑑賞者がどちらに重きを置いてその演技を見るかということ なのです。そこから生まれる錯覚にはいろいろありますが、そのなかに様式とか写実とかいう印象も含まれます。そのような様々な錯覚が表現の意味を生み出すのです。(演技の色調の変化がどうやって起こるかは別の機会に論じたいと思いますが、それはリズムとか・音の高低など様々な要素で起こります。しかし、リズムの要因がかなり大きいのは事実です。これについては別稿「アジタートなリズム〜歌舞伎の台詞のリズムを考える」をご参照ください。)

このことは別稿「イーヴォ・ポゴレリッチ・ピアノ・リサイタル」でも触れましたが、ひとつの音が持つ意味はその音自体が持っているものではなく、そのひとつ前の音・さらにその次の音の連関によって創り出されるものなのです。ですから物理現象としては個々の音は切れているのだけれど、音と音が互いに結び合うような形で旋律というのは出来ているのです。ということは音と音との関連性を明確に浮かび上がらせるためには、個々の音が明確に弾き分けられなければならないということなのです。それが出来て初めて旋律という錯覚が産み出されるわけです。舞台の演技にも同じことが言えます。普段の我々が日常行なっている会話や振る舞いをそのまま舞台に乗せてもそれを演技とは呼ぶことは出来ません。ダニエル・バレンボイムは「僕は音楽はいろんな意味で物理的な法則への反抗だと思っている」と言いました。同じように演技者が怠慢な意識でいるならば、表現は変化のないダルい・日常と変らぬ次元に落ちていきます。それが舞台の物理的な法則の必然なのです。そのような舞台の物理的法則に反抗するためには演技の色調をAからBへ・さらにCへ意識的に変えて行かねばなりません。様式・写実というのは そのような演技の色調の変化の妙が生み出す錯覚だということです。

幸四郎あるいは 萬斎が現代劇に参加する時、現代演劇の役者さんはその演技を見て「伝統芸能で鍛えた人にはかなわない」と感じると思いますが、怖気づくことはありません。幸四郎や萬斎がそのような強い印象を与えることができるのは、彼らが演技の色調をAからBへ・さらにCへ移行させる時にその違いをくっきりと際立たせる技・息の深さを持っているからです。この秘密を盗まなければなりません。それを「引き」の美学だの「ない」の美学だのと言われるから、自分がそれまでしたことのないことを強いられるような萎縮した気分になるのです。様式というものを特殊なものだと考えないことです。そうすれば伝統芸能からポジティヴな意味を摂取することが出来るのです。

(H22・7・17)


○伝統芸能から何を摂取するか・その2

歌舞伎の幸四郎あるいは狂言の萬斎が現代劇に参加した時、現代演劇の役者さんはその演技をどういう気持ちで見るのでしょうか。「伝統芸能で鍛えた人にはかなわない」と感じるのではないですかねえ。同じ舞台の現代演劇畑の役者さんとの違いが歴然としていて驚かされます。演技や台詞が巧いとかいうことももちろんありますが、身体から放たれるオーラの強さが全然違います。「歌舞伎(狂言)は凄い」 ということを心底感じさせます。「現代劇でこれだけ凄いなら本業ではどんな演技をするんだ」と思わせます。

ところで幸四郎と萬斎と・ふたりの名前を挙げましたが、伝統芸能の世界から現代演劇に参加して誰もがこのふたりと同じ衝撃を観客に与えられるかと言えばそうではなかろうと思います。台詞が巧いとか・独特の味がするとか・ 違いを見せる役者はもちろんいると思います。しかし、それはその役者の個性・資質のするところであって、その印象が必ずしも「歌舞伎(狂言)は凄い」というところへ直結しないように思います。一方、幸四郎や萬斎の場合は彼らが伝統芸能者であるということを痛切に意識させます。これはまったく皮肉ではなく・彼らが本業で舞台に立つ時より も現代演劇に立つ時の方が彼らが歌舞伎(狂言)の役者であることを強く感じさせます。それは彼らの感性のある部分が現代というものに鋭く反応しているからだと思うのです。そういうところが彼らの本業での舞台で邪魔になる事がもしかしたらあるかも知れません。もちろん吉之助はその点も含めて彼らを積極的に評価しますが、芝居を長く見る方でも否定的な感想を持つ方がいるのは恐らくそんなところから来るのだろうと思います。しかし、吉之助に言わせればどんな役者も現代に生きる以上は伝統芸能者である前に現代人であることから逃れることはできないのです。 これは観客もまた同様です。

そこで幸四郎や萬斎と一緒の舞台に立つ現代演劇畑の方が彼らを通じて伝統演劇のどこに衝撃を受けて・何をそこから摂取するのかということが問題になると思います。吉之助の思うには、そういう時に日本伝統の「引き」の美学だの・「ない」の美学だのと言っても、現代演劇の役者の気持ちを萎えさせるだけだと思うのですねえ。そもそも新劇など日本の現代演劇というものは歌舞伎の否定から発しているわけです。形容を真似るのではなく対象の心(あるいは雰囲気)を描写する・それが写実であるという自然主義リアリズムの理念から発して、ここまで来ているのです。そのなかで彼らもこれまで何度か行き詰まったことがあったでしょうが、そういう時に「引き」の美学・「ない」の美学だとアドバイスすることは彼らのそれまでの行き方の全否定になってしまうのです。一生懸命「泣き」の演技で悩んでしている時にイヤ目に手を当てればそれで「泣き」になるんだと言われれば確かに衝撃 だと思います。そういう時に現代演劇の役者が取る選択肢はいくつかあると思いますが。大半は「それは我々とは関係ないことだ」ということにならざるを得ないでしょう。彼らが伝統芸能は自分たちと演技理念のベクトルがまったく逆の方向を向いていると感じるならば、そうなるの も当然です。伝統芸能を受け入れることが自己否定につながるからです。

日本伝統の「引き」の美学・「ない」の美学と言うことは、確かに現代人が置き忘れてしまったものに気が付くきっかけにはなるでしょう。しかし、現代人が伝統に対峙して・そこから何かを摂取していこうとするときの示唆としてはさほど役に立たぬと吉之助は思っているのです。だいたい「引き」とか「ない」とかネガティヴな印象で捉えると芸が痩せてしまうように思います。そういうのは吉之助は嫌いなのです。例えば伝統芸能の型はリアリズムが「ない」のではなく、リアリズムの果てしない積み上げ(「ある」)であると考えれば、型は「引き」の美学・「ない」の美学ではなくなります。それはリアリズム(写実)のシグマ(数列の無限大の総和)となり、その印象はボジティヴに変ります。数式で示すならば次のようなイメージです。


  \sum_{i=m}^{n} a_i = a_m + a_{m+1} + \cdots + a_n
(nを無限大∞に置く)

伝統芸能に衝撃を受けた何人かの方はそこでハタッと考えると思います。我々が考えている(固執している)リアリズムってそもそも何なの?ということです。我々は現代に生きており・その方法論から逃れることは決してできないのですから、現代を生き抜くための感覚を研ぎ澄ますヒントを与えてくれないのならば伝統芸能を見る意味などありません。型とはリアリズム(写実)の果てしない積み上げであると考えるならば、伝統芸能は現代演劇と同じ理念ベクトルを向くのです。 それならば彼らは自分が信じる方法論のなかに自信を持って伝統芸能の手法を取り込むところができるはずです。そういう発想の転換が必要であると思いますねえ。(この稿つづく)


○伝統芸能から何を摂取するか・その1

武智鉄二は狂言の名手でもありました。武智が善竹弥五郎(明治16年〜昭和40年)に初めて狂言を習った時のことですが、「太刀奪(たちばい)」で太郎冠者が泥棒を捕らえて縄をなうところで・突き飛ばされて転がる箇所、「これは何とする・・」で転がる形がうまくできないので悩んで何度も練習していたそうです。そこに弥五郎の息子の忠一郎が通り掛かり、「それは立てている方の膝をストンと落とせばコロリと巧く転がれます」と教えてくれました。武智が教えられた要領で弥五郎の前で転がって見せた所、弥五郎に厳しく注意されたそうです。「能役者は型をきれいに見せるというので、膝を落として転がります。しかし、狂言というものは人間の有り様のぶざまな様を見せるものですから、きれいに転がることが本意ではなく、みっともなく転がって亀の子が起き上がるようにモコモコと起き上がれば良いのです。うちの息子など型をきれいに見せようと思って、お能のおシテ方へわざわざ習いに行ったりしますがね。しかし、それは狂言の本意に外れております。」と弥五郎は言ったそうです。

このエピソードが教えることのひとつは「上手に見せようとするな」ということですが、もうひとつ大事なことは人間の有り様をそのまま見せることが狂言の本意だということです。形をきれいに整えようとしないで、例えぶざまであっても・普段の人間の姿をそのように見せれば良いのです。つまり狂言の本意は写実にあるということです。考えてみればこれは当然です。狂言というのは物真似に始まるものであるからです。能狂言の演技というのは様式的に・無駄なところを削ぎ落としたシンプルなものであると一般に思われていますが 、それは大きな間違いです。能狂言の演技は物真似に起源を発するものですから、その本質は写実(リアリズム)であるはずです。どうしてそのような誤解が生じるかと言うと、それは近代演劇の自然主義リアリズムだけを写実だと思い込んでいるからです。写実という概念をもう少し柔軟に捉えなければなりません。能狂言の写実(物真似)が長い時間の試行錯誤と淘汰を経てどのようにして無駄を削ぎ落とした ・現代から見ればシンプルと思えるものになっていったかと言うことに思いをはせなければなりません。そのような様式化の過程で能狂言は写実の本義を捨てたと思いますか?そう考えてしま うならば現代演劇は伝統芸能から多くのものを得ることは決して出来ないだろうと吉之助は思いますねえ。

ところでNHKハイビジョンの「ザ・スター」という番組があって、先日(6月4日)は狂言の野村萬斎を取り挙げて・その芸の魅力を探るということでした。 この番組で作家のいとうせいこう氏が狂言の「型」の力を解説するということで登場して、狂言の「ない」の美学ということを仰いました。例えば太郎冠者が橋掛かりから登場して本舞台に入り立ち止まるところで一歩下がる、これは一歩引く(出ない)ことで観客の視線を引き付けるのだそうです。舞台で役者がひと回りするだけで場所が変わる、これは舞台転換がないので・観客が自由に場所を想像できるのだそうです。もうひとつ、役者が目を手に当てて見せればそれで泣いていることになる、これはリアリズムではない・ということで型とはいわば究極の省エネの演技なのだそうです。まあお楽しみ方はそれぞれのことですから、こういう見方もあると思います。日本伝統文化の「引き」の美学・負の美学なんてことは巷間よく言われます。いとう氏の見方もそういうところに 沿ったものかと思います。まあ伝統には現代に生きる我々の常識とは違うものがあるよ・ナルホド面白し面白しというのも役には立つでしょうしかし、現代が伝統芸能から何を摂取するかということを考える時には、もうちょっと視点を変えて見る必要があると思いますねえ。ちなみに吉之助なら同じことをどう解説するかご披露いたしましょうか。

太郎冠者が橋掛かりから登場して本舞台に入り・立ち止まるところで一歩下がります。摺り足というものは、現代の我々の西洋体操の要素が入った歩行とはちょっと異なります。現代の歩行は片方の足が地面を蹴る・その力を推進力にして 片方の足を前に出すのです。つまり、足が主導して上体を運ぶのが西洋式の・騎馬民族的な歩行です。摺り足では例えば右足を上げた時にそのつま先に重心が移行することはありません。つま先は重力から解き放たれたような感じになります。これを摺り足は無の境地を表すとも言いますが、それは後から付けた理屈です。ですから農耕民族の摺り足の歩行は推進力を持たないと言えます。しかし、それでは物理的に前に行くことが 出来ないですから・実際にはもちろん重心を前に移動することで歩行を進めるわけですが、その時の重心移行は足が主導するのではなく・腰が主導するのです。つまり、摺り足は心持ちとして腰が先に動いて足が連れる(後追いの感じで 足が動く)ということです。このことは例えばおもちゃのゴム糸動力の自動車でも思い浮かべれば分かります。勢いのついたおもちゃの自動車は止まりかけたところで少し後ろに引いて止まります。太郎冠者の歩行はこれと同じ ようなもので、歩行を腰で止め・これに足が連れる形で止まるという心持ちです。舞台での太郎冠者の歩行停止で一歩下がるのはその心持ちを形象として見せるものです。理屈は後で付くと申し上げました。この歩行停止を理屈 付けるなら、それは「控える」ということになります。次の行動に向けての動作を整えると言っても良いものです。それならば「構える」とも言えます。表面的にはそう見えるかも知れませんが・これは動作の停止(「ない」)ではなく、次の動作が予感されている(「ある」)のです。だからこの歩行が狂言冒頭の太郎冠者の登場に使われるわけです。

舞台で役者がひと回りするだけで場所が変わる。まず能狂言において現在のような橋掛かりと本舞台の劇場構造が固まったのは室町期でもかなり遅かったということを知らねばなりません。舞台上で観念的に想定される座標は能狂言に本来的にないものです。ふたりの役者が1メートル離れて向き合っていたとします。劇中でこれがその通り1メートルの距離になることももちろんありますが、それは10メートルにも10キロにもなり得るのです。離れて立っていてもふたりは抱きあっているということもあり得ます。また片方は現世で・片方があの世ということもあり得ます。これは能狂言に 空間感覚が「ない」ということではなく、むしろ逆に現代演劇が舞台装置に邪魔されて空間感覚を自由に駆使できていないということではないでしょうかね。広場とか道路上でパフォーマンスするような感覚を思い出せば良いのです。それが能狂言の本来の空間の捉え方なのです。理屈は後からやって来ます。能狂言には空間感覚の自由さが「ある」のではないでしょうか。

役者が目を手に当てて見せればそれで泣いていることになるのが確かに狂言のお約束です。ところで芝居を知らない幼稚園の子供に「泣く真似してご覧」と言ったら目に手を当てて「エ〜ン」とやると思います。狂言の太郎冠者の動作もこれを同じものであると言ったら失礼とお思いかも知れませんが、演技の原点は結局そこなのです。写実(リアリズム)のいうのはそっくりそのままというのがその本意です。しかし、現実には泣くという動作でも人によっていろんなパターンがあり得ます。例えば子供を亡くした親が泣くという場合でも、ワンワン声をあげて泣く人・じっとうつむいてすすり泣く人・怒ったように上を向いて泣く人、実際にはいろいろ あると思います。そこにその人の性格・人間性やいろんな背景が混じっていて、どれが正しい泣き方・間違った泣き方などあろうはずがありません。ところが、舞台で役者が泣く時は・ この俺がこう感じた時は俺はこういう泣き方をするんだと言い張ったところで、観客があの役者はどうして泣く時にあんな表情をするんだ?と疑問に思った時点で演技は失敗です。ところが自然主義リアリズムというのは、「登場人物の気持ちを全身で感じ取って泣くんだ」なんて教え方をしますから、そこで 何だか分からなくなるわけです。

観客の誰もがあの役者の表情を見ていると「子供を亡くした親の悲しみ」がヒシヒシと伝わってきてこちらまで泣けてくると思うような演技というのはホントに写実の演技なので しょうか。もしそうならば写実(リアリズム)とは一体何だろうかということを考えてもらいたいのですねえ。理屈は後からやって来ます。例えばモンタージュで現代の美人といわれる女優さんの要素を重ね合わせて完璧な美人の顔というのをCGで作るとすると、もちろんそれは美人の要素をすべて備えているのですが、何とも特徴のないところの女性になっちゃうのです。ということは現実の 生きいきした魅力的な美人というのは、その完璧な美人の基準に概ね近いのだけれどどこかのポイントで崩れているのです。それが彼女を魅力的に見せるのです。例えば旬の女優さんでも・ あの方はアヒルさん顔・この方はパンダさん顔と最初は思ったけれど見慣れてきたせいもありますが皆さんとても魅力的ですね。「美は乱調にあり」というのはそういうことです。完璧な美というのは実は詰まらない。

狂言の泣くというお約束(型)について言えば、それが型として認知され定着するまでに何百年掛かっているわけです。そこまでにいろんな試行錯誤と成功・失敗があるのです。狂言の本意は写実にあるのですから、子供が泣く真似をするのと同じ行為が演技の原点なのです。弥五郎ならば必ずそう言うはずです。いわば何百万という写実の「ある」を積み重ねた果てに見えるのが型なのです。それでも完璧な 「泣く」という型には決して行きません。ホントは完璧な「泣く」まで行っちゃったら、魅力なくちゃうのですよ。そこまで達しようとして決して到達しないところにビビッドな美が生じるのです。ですから型というのはリアリズムが「ない」のではなく、リアリズムの果てしない積み上げ(「ある」)であると考えた方がよろしいのです。(この稿つづく)

(H22・7・5)


    

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