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パリ・オペラ座の「勧進帳」

平成19年(2007年)3月・パリ・オペラ座:「勧進帳」

十二代目市川団十郎(弁慶)、十一代目市川海老蔵(富樫)


1)立体性をなくす照明

本稿は別稿「舞台の明るさ・舞台の暗さ」の番外編です。NHK-Hiヴィジョンで団十郎・海老蔵一行がパリ・オペラ座(ガルニエ宮)で3月23日に行った歌舞伎公演の模様を放送してくれました。団十郎のフランス語による口上もなかなか見事でしたし、「勧進帳」は花道を設置せず・セリ出した舞台の前方部分を花道に見立てて・弁慶が幕外で右手から左手へ真横に飛び六法を見せるなど日本では見れない演出もありましたが、評判も上々のようで・良かったと思います。

パリ公演での「勧進帳」の舞台照明ですが、現地の観客には日本での歌舞伎の照明は眩し過ぎるだろうとの配慮から・今回は光度をかなり落とした照明がされたそうです。舞台奥のお囃子さんたちは光があまり当たらず薄暗 く見えました。また光の当て方も日本でのやり方とは違っていたようで、日本の歌舞伎の舞台ではほとんど見られない役者の影がはっきりと濃く浮き出ていました。結果として舞台に奥行きと立体感が出た印象になったと思います。今回の中継録画を見て・いつもと違う感じに違和感を持った方も多かったと思いますが、逆にこうした暗めで立体感のある歌舞伎の舞台も悪くないと感じた人も少なからずいたかなと思ってテレビを見ておりました。まあ、目は疲れませんし・落ち着いた感じにはなりますね。昔の・明治大正期の歌舞伎の照明は・こんな感じに近かったかも知れません。

ところで、吉之助が「舞台の明るさ・舞台の暗さ」で書きましたことは、明るい舞台が好き・とか嫌いとか言う感覚(あるいは好み)の議論ではありません。歌舞伎の本質として「平面的(立体性がない)」という要素があり、影を消してしまう明るい照明は歌舞伎の「平面的」という印象を実現するものだということです。ちょうどメルマガ201号(「舞台の明るさ・舞台の暗さ」)で歌舞伎の照明についての考察をお届けしたところでしたので、このことを考えるには今回のテレビ中継は良い材料だなと思いました。

ヴィンセント・ヴァン・ゴッホは、南仏プロヴァンスの地に住んで・「僕は日本にいるような気がする」と弟テオ宛ての手紙に日本への憧れを記しました。ゴッホは浮世絵をとても愛し、これを模写・あるいは材料にした作品をいくつも残しています。しかし、陽光燦燦と差し込み・コントラストが強烈に映る明るいプロヴァンスの地と・ちょっと靄がかかったような日本の風景の印象はおよそかけ離れているのに、どうしてゴッホは「日本にいるような気がする」と言うような想像をしたのだろうと思いませんか。そのゴッホの想像はもちろん浮世絵から来ているのです。恐らくそこに歌舞伎を考える・そして十九世紀末西欧のジャポニズムを考える共通のヒントがあるのです。

*写真はゴッホの「タンギー爺さん」(1887年・油絵)、背景に模写されたたくさんの浮世絵を見れば、ゴッホがどれだけ浮世絵に心酔していたかお分かりでしょう。

もし明るい影のない「勧進帳」の舞台をゴッホに見せたなら、ゴッホは「この舞台には僕の憧れた日本がある」ときっと感激したに違いありません。パリの観客に日本と同じ明るい照明の「勧進帳」を見てもらって、感想聞きたかったものだとちょっと残念に思いますね。「ウキヨエみたい!」と感激してくれたのじゃないかな。

(H19・5・1)


2)壊された平面性

NHK-Hiヴィジョンで本年(2007年)3月の団十郎一行のパリ・オペラ座公演のドキュメンタリーを放送してくれましたので興味深く見ました。これを見ますとオペラ座での「勧進帳」の光度をかなり落とした・陰影のある照明は、オペラ座芸術監督のブリジット・ルフェーブル氏が「舞台が眩しいからもっと暗くして」と言ったのが原因であったようです。当初の舞台稽古でも照明は歌舞伎座の時より落とした感じでしたが、ルフェーブル氏のひと言で照明がさらに暗くされたようです。「まったく余計なことを言ってくれましたね」というのが吉之助の率直な感想です。ドキュメンタリー前半では渡仏前に背後の松羽目の模様に霧に霞んだ雰囲気を出したいというので・陰影を暈かした墨絵調の色合いを何度も入念にチェックする団十郎親子の姿が描かれていましたが、うんと暗く した照明のおかげで・その苦労が水の泡にされちゃいましたね。あの暗い照明ならば線の強い松羽目の方が生きたと思います。

「舞台が眩しい」ということですが、舞台の照明をあまり落とさなくても・逆に観客席の方を明るくしてしまうと言う対処法があり得たと思います。現在のオペラ・バレエ上演では客席を暗くするのが常識ですが、昔は歌舞伎と同じように・上演中でも観客席は照明を落とさず明るかったものなのです。オペラ上演中に観客席を暗くするのはワーグナーが自らの作品を専用に上演するための劇場をバイロイトに建設して上演を始めた時に行ったのが最初のことで、そんなに昔のことではなかったのです。何故かと言いますと、もともと貴族や新興ブルジョワの観劇の目的は舞台鑑賞より社交の方が優先であったからです。バルコニー席(日本で言えば桟敷席)が社交族の指定席で・彼らはそこから向かい側の席のお客の顔触れや衣装・装飾品の趣味をオペラグラスで互いに観察するのが何よりのお楽しみであったのです。当然客席は明るくなければなりませんでした。当時の劇場の雰囲気は江戸の歌舞伎とあまり大差なかったと思います。ワーグナーがバイロイト祝祭劇場で豪華なシャンデリアなどを排して・上演中に観客席の照明を消してしまったのは、「観客は余計なことを考えずに・俺の作品を見ることだけに集中せよ」という意図であったわけです。パリ・オペラ座の開場は1875年(日本は明治8年)で・バイロイト祝祭劇場の開場は1876年のことですが、ワーグナーの革命的な試みがすぐにヨーロッパ全土に広まったわけではないので、詳細は判りませんが・パリ・オペラ座でもオペラ上演中に観客席が明るいままの時代がかなり長く続いたと思います。ルフェーブル氏がそんなことを知らないはずがないですが、その辺の感性ちょっと鈍かったのではないでしょうか。

ドキュメンタリーでは団十郎と日替わりで弁慶を演じる海老蔵が、花道中央から・架設花道で客席に飛び降り・中央通路を通って飛び六法で駆け入る姿が放映されました。弁慶が客席を駆けている最中でも・一階席に横を向いて弁慶の方を見たり・後ろを振り返ってみたりしている観客がほとんど居らず・しっかり正面向いたままの観客ばかりであったのも、お澄ましのフランス人らしい反応であったなあと思います。他の国ならば反応はちょっと違ったのではないでしょうか。記者会見で海老蔵は「舞台と客席の距離」があったことを言っていたようですが、客席のなかに飛び込んで・それをぶち壊したくなった海老蔵の気持ちは分かるような気がします。舞台と観客席の間にオケ・ピットがあって距離があったということもありますが、しかし、観客席が明るければ状況はかなり変わったと思います。変則ではありますが、幕外になった後に観客席の照明をつけて・カーテンコールの雰囲気にしてしまった後に飛び六法という手もあったかなと思いますね。

それはともかく・花道中央でツケ打って海老蔵の弁慶が前方を見込む時、今回は架設花道が傾斜していますから・弁慶は下向きに暗闇を見込む形になります。暗い観客席のなかに突っ込んでいかねばならない弁慶の姿には胸を衝かれました。「勧進帳」の幕切れはたとえ義経・弁慶一行の行く手が奥州平泉の死であるとしても・祝福された明るいものでなければなりません。暗闇のなかに突っ込んでいく弁慶は「勧進帳」の幕切れにふさわしくない。明るい賑やかな観客席のなかで海老蔵の飛び六法を踏ませてやりたかったものです。

(H19・5・6)


(付記)続・パリ・オペラ座の「勧進帳」

先日テレビで海老蔵のドキュメンタリー番組をやっていたので見ました。宗家の御曹司に生まれると・その苦労も並大抵ではなく、海老蔵も葛藤を乗り越えてここまで来たのだなあということが察せられました。ところでその番組のなかでパリ・オペラ座公演(平成19年3月)の「勧進帳」で・弁慶と富樫の立ち位置を逆に・つまり弁慶を上手に富樫を下手に持っていってはどうか・と海老蔵が提案したことで父・団十郎と海老蔵が口論して、団十郎が「それは絶対おかしい」と強い口調で却下する場面があって興味深く思いました。番組では背景が十分説明されていませんでしたが、パリ・オペラ座公演では制約があって通常の花道が設置できず・仕方なく本舞台前のオケ・ピット部分に花道を真横に架設するという変則構造をとっていました。そのために「勧進帳」は舞台での人物の流れがギクシャクして・居心地があまり良くありませんでした。このことを海老蔵は自分なりに悩んでいたようで、それが提案の背景にあったようです。

歌舞伎は巡業などで・舞台構造として歌舞伎に適さない場所で公演することもしばしばですから融通性を以って・妥協もしながら処理されています。これまでに「勧進帳」が花道のない場所で上演されたこともあったでしょうが、多分その場合は幕切れは引っ張りで終わり・弁慶の飛び六法はなしということになったと思います。パリ・オペラ座の横の花道の場合は団十郎がそれだけ売り物の飛び六法にこだわったということだと思います。しかし、本舞台前に横に花道を設置したのはやっぱり無理があったようです。義経一行は下手から登場して花道に左右に並びますが、「いでや関所を踏みやぶらん」で四天王が下手 方向に・つまり下手に立つ義経に向かって詰め寄りのポーズを取った時には、吉之助は四天王は気が狂ったのかと吃驚しました。この後一行は関所(本舞台)に行くのに・下手から入ります。あれもうお帰りですかという感じがしました。どうやら下手が関所の方角らしい。舞台前面の花道部分が花道としてだけ使われたわけではなく、義経が弁慶に感謝し・弁慶が泣く場面(「判官御手を取り給い」)はこの部分で演じられました。なるべく客席に近い位置で芝居を演じたい気持ちは判りますが、「横の花道」と言いながら・やはり本舞台の前端部分にすぎないことを自ら暴露したわけです。幕切れは弁慶が下手に立って幕外になり・これは弁慶は下手から上手に飛び六法するのかと思わず緊張しました。ところが弁慶はおもむろに上手にスタスタと歩き・改めて上手から下手へ飛び六法を踏んだので、まあ確かにこうでなくちゃいかんねえと何だか苦笑してしまいました。しかし、そっち(下手)は関所の方角じゃなかったのかね。こういう混乱は舞台の方向性が観客に感知されないから起こるわけです。

「富樫が上手に・弁慶が下手に立つ事は重い意味があるから・これを変えることは許さない」という団十郎の判断それ自体は正しいです。しかし、それ以前のこととして・団十郎を招聘しておいて客席を潰してでも花道を設置することを考えなかったパリ・オペラ座は非礼だと思うし、団十郎もこういうことはナアナアで済ませず・芸術家の信念として・NHKホールでのような花道でも良いから・花道設置を要求する毅然たるところが欲しかったと思います。やはり「勧進帳」には花道が必要なのです。海老蔵の提案通り弁慶を上手に富樫を下手に配置しても舞台の流れがどれだけ改善できるかと言えば分からぬところはあります。しかし、人物の動線をスムーズにして・舞台の方向性を整理したいと思って・海老蔵がいろいろ悩んだということはそれなりに評価して良いと思いました。パリ・オペラ座で海老蔵は舞台から客席中央の通路を飛び六法で駆けましたが、なるほどこういう伏線があってのことかと納得がいきました。

(H19・11・23)

別稿「1875年・明治8年・パリ」もご参考にしてください。1880年代のパリ・オペラ座の雰囲気は、ガストン・ルルーの「オペラ座の怪人 (角川文庫)」、あるいはマルセル・プルーストの「失われた時を求めて」第3巻「ゲルマントの方」などを読めばよく分かります。





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