(TOP)        (戻る)

舞台の明るさ・舞台の暗さ〜歌舞伎の照明を考える


1)真の暗闇を現代人は知らない

「昔の人々にとって喜びと悲しみ・光と闇のへだたりは今よりずっと大きかった」とヨハン・ホイジンガはその著書「中世の秋」の冒頭で書いています。

『世界がまだ若く、5世紀ほども前の頃には、人生の出来事は今よりももっとくっきりとした形を見せていた。悲しみと喜びの間の、幸と不幸の間のへだたりは、私達の場合よりも大きかったようだ。すべて、人の体験には、喜び悲しむ子供の心に今なおうかがえる、あの直接性・絶対性がまだ失われていなかった。(中略)夏と冬との対照は、私達の経験からはとても考えられないほど強烈だったが、光と闇、静けさと騒がしさとの対照も、またそうだったのである。現在、都市に住む人々は真の暗闇・真の静寂を知らない。ただひとつまたたく灯、遠い一瞬の叫び声がどんなものかを知らない。』(ホンジンガ:「中世の秋」)

現代の生活と昔の生活のどこが違うかと言うのはいろいろあるでしょうが、大きな違いのひとつは夜の明るさです。あるいは夜の暗さと言った方が良いかも知れません。談話によれば三津五郎さんが江戸時代を再現してローソクだけで宴会をしてみようと言う試みをしたことがあるそうです。

『日本舞台で芸者さんがお酌をするときに肩を落として畳すれすれの位置で酒を注ぐ動作があるんですが、芸者さんがシナを作るための振りだと思ってたんです。ところが天井の灯かりがなかった頃は盃が見える位置まで顔を下げないとよく見えない。それで必然的な動作だったんだと納得しました。あと、部屋が暗いから食事をしていてもお椀のなかが見え づらいんです。「椎茸の香りがする」とか言いながら、食べてみてようやく料理が分かる。』(坂東三津五郎:インタビュー「歌舞伎を通じて江戸を生きる」・雑誌「ゴールデン・ミニッツ」・2006・11・26号)

試しに和室の蛍光灯を消して常夜灯(豆電球)だけにして見て、まあ、こんな程度の明るさ(暗さ)だったのかななどと想像してみます。なかなか不自由なものですね。

(H19・2・17)


2)蝋燭の明るさ・暗さ

平成14年に国立科学博物館が「江戸のモノ作り」研究プロジェクトの一環として、自然の光や蝋燭の光で江戸時代の歌舞伎の舞台を再現して、その舞台効果を科学的に解明しようと言う調査が行われました。岐阜県福岡町の常盤座で行われた調査によれば、100匁(375グラム)の和蝋燭25本での明るさは15ルクス程度で、役者の顔や衣装の色がはっきり見えたのは、観客のアンケートの半分くらいに留まったそうです。昔の舞台はかなり暗かったことが改めて分かります。自然光の場合は舞台の方が客席より暗くなってしまうのも、小屋の構造を考えてみればこれは当然です。

このような薄暗い舞台であれば役者の多少のお化粧の粗・あるいは顔の皺はあまり目立たなかったであろうし、衣装の色合いも正確に把握できないことになります。原色に近い色彩をとらないと衣装は引き立たなかったでしょう。歌舞伎の衣装が原色に近い派手さなのは、そこのことが一因しているとも考えられます。蝋燭の光で見るお芝居は幻想的な雰囲気を見せたことでしょう。

金比羅歌舞伎(香川県・金丸座)では和蝋燭を模した・黄色味掛かった電気照明を使用していました。昨年(平成18年)に吉之助が見た時には「六段目」の勘平の浅葱の御紋服が黄緑色っぽく見えた辺りは興味深かったですが、まあ、全体としてちょっと暗めな感じではあるけれど・現代の劇場の照明とそう変わる印象ではありませんでした。暗転で扉をバタバタ閉めるのも・確かに昔はそのようにしたわけですが、ここでは扉の開閉はまあ演出か雰囲気作りみたいなものというのが正直なところです。しかし、金比羅歌舞伎でホントに江戸時代のような蝋燭照明をしてしまったら、「薄暗くて舞台が良く見えない」とお客さんからクレーム続出になることでしょう。逆に言えば、それくらい現代は我々は舞台の明るさに慣らされてしまって・それが当然のことになっているのです。江戸の昔の歌舞伎の舞台もこんなものだったと知らず・思い込んでいるところがあります。しかし、江戸時代の歌舞伎はそんなものじゃなかったわけです。

(H19・3・1)


3)影を消す照明

明治22年に歌舞伎座で電気が点灯した時、観客は自分の席の畳が見えると言ってその明るさにどよめきが起こったそうです。また、女性客は自分の着物の色柄や素材の良し悪しまでわかってしまうと言うので、かえってその明るさを嫌がったそうです。しかし、その明るさにしても・それまでの照明の暗さと比べれば明るかったという程度の明るさです。この時の歌舞伎座でも・後の大正の二長町市村座にしても・今の歌舞伎座の照明とは比べ物にならない光度です。まあ、半分かせいぜい三分の一程度の明るさであっただろうと言われています。まして、江戸時代の自然光・蝋燭の光での芝居などは想像もつきません。それはかなりの暗さだったろうと思われます。

電気照明の登場によって歌舞伎の演出が相当変わっただろうことは・これは想像ができます。例えば「籠釣瓶・吉原仲ノ町」あるいは「藤娘」で暗闇で幕を開けて・柝のきっかけでスイッチを入れてバッとした華やかさを見せる照明 (いつもここで観客はワアッとどよめくものです)などは、何となく昔からの演出みたいな感じで見てますが・明らかに電気照明でなければあり得ないものです。

そして、何よりも大事なことは・あの影を消してしまう照明です。影を消す照明は歌舞伎の基本照明だと思われていますが、考えてみれば自然光・蝋燭照明ならば影を消すことは不可能なことです。ということは今更当然のことですが、江戸の観客は影のある暗い舞台を見ていたわけです。これは江戸時代のことだけではなくて・初期の電気照明でも同じことであって、二長町市村座時代の舞台も影があったようです。舞台美術家の鳥居清忠氏が次のようなことを言っています。

『それに今は照明に妙な観念が入ってきた。劇場は出来るだけ明るくなければいけないという考えです。客席を明るくする・舞台が暗く感じる・そこで舞台も光力を増す・影が出ないんです。新劇には影があるが、歌舞伎にはそれがない。影のない立体なんかあるはずがないと僕はよく言うんです。(中略) 二長町市村座で見た頃には、上に吊るすボーダーが大臣の前に一本、それに一文字の後に一本と、二本しかない。それにフットライト。影が出るわけです。屋体のなかは、前欄間の裏に板づけをつる、天井の真上に照明がない、奥へ行くほど暗くなる。いい道具が出来ますよ。歌舞伎ではよく黒幕を使いますが、今のように明るくちゃあ、皺が見えてしまう。第一、黒が鼠色になって深みがありません。せめてアンバーをかけて樺色を混ぜて・なるべく照明をしていますよと言うのを見せないようにしなければね。』(鳥居清忠・新歌舞伎の舞台装置・季刊「歌舞伎」・第28号 ・昭和50年)

このように我々がこれが古典歌舞伎の基本照明だと思っているところの・あの影を消す照明というのは、電気照明技術がかなり進歩した・ごく最近に完成したものらしいことが分かるわけです。

(H19・3・8)


4)立体性を消す照明

現代の歌舞伎の影のない舞台を見て「まるで浮世絵を見るような美しさ」を感じ・そこに古き時代の江戸の夢を想うと思いますが、実は江戸の時代の歌舞伎の舞台はそうしたものではなくて、ずっと薄暗くて・影があって・観客にぼんやりと見えていたものであったと想像されます。

現代人は歌舞伎の舞台を見て「浮世絵みたい」と感激しますが、その浮世絵に描かれている歌舞伎の役者絵・芝居絵には影が描かれたものはほとんどありません。つまり、立体感のない舞台が浮世絵に描かれています。そもそも浮世絵自体に立体感のあるものがないのです。正確に言えば西洋の立体画法を取り入れたごく一部の絵において・影を描いたものはありますが、それは浮世絵の主流ではないのです。浮世絵のなかでは立体画法はご趣向のようなものです。

それでは(いよいよここからが本題でありますが)浮世絵に見られるような均一に明るい舞台が実際はあり得なかった(これは厳然たる事実です)とするならば、それは江戸の浮世絵師たちが芝居絵に嘘を描いていたということなのでしょうか。まずそのことを考えなければなりません。しかし、先に結論を書いてしまいますが・浮世絵師が嘘を書くなんてことはあり得ないのです。実際にあり得ない夢の舞台を絵師たちが描いたというのも当たりません。彼らは真(まこと)を描こうと努めるものですから、絵師たちに歌舞伎の舞台がそう見えていたとしか言いようがありません。

逆に言えば・浮世絵に描かれた歌舞伎の舞台が真であるならば、次のようなことが言えます。「立体性がない」ということが歌舞伎の本質である・つまり歌舞伎の真であるということです。電気照明の技術によって・歌舞伎は影を消し・舞台面から立体感を消し去り、それによって浮世絵に描かれた舞台面を実現することが出来たと言うことです。(別稿「立体性のない演劇」をご参照ください。)

歌舞伎の照明は何もしていないように見えるかも知れませんが、照明はうまくやらないとどこかに変な影が出来てしまうもので、きれいに影を消す照明は実はなかなか技術の要ることなのです。歌舞伎の照明がただ何も考えずに・ただ明るくすることだけしているうちに・いつの間にやら影まで消してしまったということではないわけです。影を消すという行為に何かしら歌舞伎の本質を考えるヒントがあるのです。

(H19・3・12)


5)歌舞伎の電気照明の意味

昔の舞台は良かった・先代誰それは良かったという爺さんはいつの時代にも沢山いるものです。しかし、不思議なことに・昔の舞台は暗くて影があって良かった・今の舞台は明るくてイカンなどと言った爺さんはあまり居らぬようです。先に紹介しました鳥居清忠氏はそうした数少ない爺さんですが、もっともこれもつい最近の舞台についてのご発言です。確かに近年の舞台はちょっと眩しいくらいの明るさです。しかし、大半の人は舞台が明るくなって良くなったと感じていたようです。明治大正期に昔の江戸のような薄暗い照明に返れなどと言う観客はほとんどいなかったようです。このことは大事なことだと思います。

役者から舞台が明るすぎて困るという声も出なかったようです。明るいと皺が目立って・粗が見えてしまうと・明るい照明を嫌がった役者はいなかったのですかねえ。しかし、結果として女形でも比較的キレイな容姿の役者が増えてきたのにはやはり照明の影響があったかも知れません。吉之助が昔見たテレビのドキュメンタリーでは、玉三郎が何度も何度も・神経質なほどに舞台の照明を入念にチェックする姿を捉えていました。これは当然なことで、役者というものは自分が観客からどう見えているかを常に意識して・立ち位置さえも気にするものなのです。初期の電気照明であっても、役者が照明に無頓着だったとは到底思えません。九代目団十郎にしても、舞台は明るいのが良い・そういうことは「進歩」だと思っていたと思います。「文明開化」・つまり進歩というのは明治の大事なキーワードですが、九代目団十郎にとって電気照明は新しい歌舞伎のひとつの象徴に思えたでしょう。明治の役者たちは明るい照明に異議は申し立てなかった。このことも非常に大事なことです。

歌舞伎の照明はただ何も考えず・ただ明るくすることだけしているうちに・いつの間にやら影まで消してしまったなどと考えていては、歌舞伎美学の本質を掴むことは決してできないのです。「立体性がない」ということこそ歌舞伎の本質なのですから。電気照明によって歌舞伎は影を消し・その美学の完成を目指したと考えられます。華麗で伝統的な古典歌舞伎のイメージというのは、電気照明によって作られたイメージではないのです。これはむしろその逆です。電気照明によって歌舞伎はその本質を明らかにしたのです。

(H19・3・17)


6)視たいのですね、それならこれを視なさい

薄暗くて・影があって・観客にはぼんやりとしか見えていなかったと想像される江戸時代の歌舞伎の舞台を、当時の絵師たちはなぜその通りに描かなかったのでしょうか。どうして影を描かず・立体感なく・あれほどに美しく・かつ印象的に芝居絵を描くことができたのでしょう。しかし、歌舞伎の舞台照明の完成期である現代において観客である私たちがその舞台を「まるで浮世絵みたい」と感じたのだとしたら、間違いなく江戸の絵師たちは真(まこと)を描いていたのです。絵師たちにとっての真(まこと)を考えるためには、光に対する目の関係を考えなくてはなりません。ジャック・ラカンは次のように言っています。

『物を見る私という存在は、ただ単に遠近法が把握される実測的な点に見出される点状の存在ではありません。恐らく私の目の底には絵が描かれているのでしょう。絵は確かに私の目のなかにあります。しかし、私はと言えば、その絵のなかに居ます。光であるものが私を視ています。そしてこの光のおかげで私の目の底には何かが描かれます。それは印象であり、私から離れてあらかじめ据えられるのではない表面の輝きなのです。』(ジャック・ラカン:1964年3月4日のセミニエール、「線と光」・精神分析の四基本概念・岩波書店)

ラカンは、網膜をある種のスクリーンという風に考えています。我々(主体)は網膜に映るものを絵として視る(それをラカンは眼差しと呼んでいます)のであって、決して対象そのものを直接的に見ているのではないということです。これがラカン言うところの「あなたが見るものは決してあなたが見たいものではない」というテーゼです。つまり、江戸の絵師たちは歌舞伎の舞台に薄暗くて・影があって・ぼんやりとしたものを見ていたわけではないのです。絵師たちは彼らは心のなかに映った舞台のなかにある種の明確さを見て、その印象を芝居絵にしているのです。だからラカンはさらに次のように言っています。

『画家は絵の前に立つべき人に「視たいのですね。よろしいそれならこれを視なさい」と要約できるような何ものかを与えているのです。確かに画家は目の糧として何ものかをもたらしますが、画家は絵の前にいる人にその眼差しを放棄するように、武器を棄てるというような意味で放棄するように、即すのです。これが絵画の鎮静的、アポロン的な効果です。何ものかが眼差しに対してよりも、むしろ目に対して与えられているのです。』(同掲書)

江戸の浮世絵師はそれを見る者に対して「視たいのですね。よろしいそれならこれを視なさい」と言うものを描いているのです。ラカン流に言えば浮世絵のなかに江戸の観客がまさに見たかったものが・すなわち歌舞伎の真(まこと)があったのです。

(H19・3・21)


7)いつか見た江戸の記憶

浮世絵がなぜ影を描かず・立体性を持たないのかは、江戸の民衆が置かれた精神状況と密接に関連しているということは別稿「試論・歌舞伎の舞台はなぜ平面的か」において触れました。そこに閉塞した社会環境のなかで・個性の発露を妨げられたところから生じる江戸の民衆の歪んだ状況が察せられます。そのような状況で真(まこと)を描こうとするならば・必然的に世界は歪むのです。結果として浮世絵も・歌舞伎の舞台も立体性を持たないものとなっていったわけです。

歌舞伎の真(まこと)とは、まさしく影のない・立体感を消した舞台の印象なのでした。江戸時代においては技術の進歩がまだ不十分でしたから、それを視覚的に舞台に実現することは不可能なことであったのです。しかし、電気照明によりそういうことが次第に可能になっていった時、歌舞伎が自らの真を視覚的に現実のものとしようと望んだのは当然のことではないでしょうか。現代の我々は江戸時代の観客が真に見たかった・明るい・影のない舞台を目にしているのです。その最終的な実現が現代の私たちが歌舞伎座の舞台で目にするところの舞台照明だということです。歌舞伎の明るい舞台を見る時に・それがまさに浮世絵で見たような光景だと感じるならば、我々はそこにデジャ・ブゥ(いつかどこかで見たような)の江戸の記憶を見ているのです。

(H19・3・26)


(追記)

別稿「パリ・オペラ座の「勧進帳」」もご参考にしてください。

 

                            (TOP)       (戻る)