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伝説の「二長町市村座」


「市村座」というのは江戸三座の伝統ある小屋の名前ですが、ここでいう市村座は 名興行師田村成義により始められたもので、明治41年11月に始まり、大正初期をそのピークとします。六代目菊五郎・初代吉右衛門を中心とした興行は、のちに「市村座時代」と呼ばれる一時代を築きました。市村座での興行自体は昭和3年1月まで続きますが、「市村座時代」という時にはそれは田村が死んだ大正9年11月、その三ヵ月後の大正10年2月に吉右衛門が退座した時点を以って事実上の終りを告げます。

上の写真は、その市村座の全景(関東大震災前の建物です。)。アレッと思うようなモダンな建物ですね。場所は今の台東区台東1丁目、昔はここを下谷区二長町と称しましたので、江戸三座の市村座と区別する意味で「二長町市村座」とも呼びました。

市村座の興行の呼び物は何と言っても、六代目菊五郎と初代吉右衛門という若い二人の役者の競演でありました。それぞれに熱狂的な贔屓がいて、幕が開く前から「音羽屋っ」・「播磨屋っ」の掛け声の応酬がすごかったと言います。

上の写真は大正9年10月の「四千両小判梅葉」での六代目菊五郎の富蔵、初代吉右衛門の藤十郎。二人の役者の個性がかみあって、「佃夜嵐」・「湯灌場吉三」など、いまでも語り草の名舞台の数々が生み出されました。

市村座での菊吉というと、よく話に挙がるのは世話物の舞台ですが、名興行師田村はもちろん時代物でも二人を競演させています。それが後の菊吉の財産になっていることは言うまでもありません。

上の写真は大正8年1月の「寺子屋」での初代吉右衛門の源蔵、六代目菊五郎の松王。まだ「若手」と呼ばれていた頃の菊吉の写真です。よく本で見かける後年の昭和期の菊吉の「寺子屋」の名舞台の写真と比べますと、何とも若々しいというか・重厚さには欠けるのは当然としましても、しかし、「この時代を経て、あの名舞台は成ったのか」ということを改めて感じます。

(付記)

芸能史考:「市村座という伝説」もご参照ください。

(H14・11・16)


 

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