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吉之助流「歌舞伎の見方」講座

第20講:伝統芸能から何を摂取するか


1)写実の果てしない積み上げの「ある」である

吉之助の師匠である武智鉄二は狂言の名手でもありました。武智が善竹弥五郎(明治16年〜昭和40年・人間国宝)に初めて狂言を習った時のことですが、「太刀奪(たちばい)」で太郎冠者が泥棒を捕らえて縄をなうところで・突き飛ばされて転がる箇所、「これは何とする・・」で転がる形がうまくできないので悩んで何度も練習していたそうです。そこに弥五郎の息子の忠一郎が通り掛かり、「それは立てている方の膝をストンと落とせばコロリと巧く転がれます」と教えてくれました。武智が教えられた要領で弥五郎の前で転がって見せた所、弥五郎に厳しく注意されたそうです。

「能役者は型をきれいに見せるというので、膝を落として転がります。しかし、狂言というものは人間の有り様のぶざまな様を見せるものですから、きれいに転がることが本意ではなく、みっともなく転がって亀の子が起き上がるようにモコモコと起き上がれば良いのです。うちの息子など型をきれいに見せようと思って、お能のおシテ方へわざわざ習いに行ったりしますがね。しかし、それは狂言の本意に外れております。」

と弥五郎は言ったそうです。このエピソードが教えることのひとつは「上手に見せようとするな」ということですが、もうひとつ大事なことは、人間の有り様をそのまま見せることが狂言の本意だということです。形をきれいに整えようとしないで、例え不様であっても・普段の人間の姿をそのように見せれば良いのです。つまり狂言の本意は写実にあるということです。考えてみればこれは当然です。狂言というのは、物真似に始まるものであるからです。能狂言の演技というのは様式的に・無駄なところを削ぎ落としたシンプルなものであると一般に思われていますが、それは大きな間違いです。能狂言の演技は物真似に起源を発するものですから、その本質は写実(リアリズム)であるはずです。どうしてそのような誤解が生じるかと言うと、それは近代演劇の自然主義リアリズムだけを写実だと思い込んでいるからです。写実という概念をもう少し柔軟に捉えなければなりません。能狂言の写実(物真似)が長い時間の試行錯誤と淘汰を経てどのようにして無駄を削ぎ落とした・現代から見ればシンプルと思えるものになっていったかと言うことに思いをはせなければなりません。そのような様式化の過程で能狂言は写実の本義を捨てたと思いますか?そう考えてしまうならば現代演劇は伝統芸能から多くのものを得ることは決して出来ないだろうと吉之助は思いますねえ。

ところでNHKハイビジョンの「ザ・スター」という番組があって、先日(平成22年6月4日)は狂言の野村萬斎を取り挙げて・その芸の魅力を探るということでした。この番組で作家のいとうせいこう氏が狂言の「型」の力を解説するということで登場して、狂言の「ない」の美学ということを仰いました。例えば太郎冠者が橋掛かりから登場して本舞台に入り立ち止まるところで一歩下がる、これは一歩引く(出ない)ことで観客の視線を引き付けるのだそうです。舞台で役者がひと回りするだけで場所が変わる、これは舞台転換がないので・観客が自由に場所を想像できるのだそうです。もうひとつ、役者が目を手に当てて見せればそれで泣いていることになる、これはリアリズムではない・ということで型とはいわば究極の省エネの演技なのだそうです。まあお楽しみ方はそれぞれのことですから、こういう見方もあるのかなと思います。日本伝統文化の「引き」の美学・負の美学なんてことは巷間よく言われます。いとう氏の見方もそういうところに沿ったものかと思います。まあ伝統には現代に生きる我々の常識とは違うものがあるよ・ナルホド面白し面白しというのも役には立つでしょうしかし、現代が伝統芸能から何を摂取するかということを考える時には、もうちょっと視点を変えて見る必要があると思いますねえ。ちなみに吉之助なら同じことをどう解説するかご披露いたしましょうか。

太郎冠者が橋掛かりから登場して本舞台に入り・立ち止まるところで一歩下がります。摺り足というものは、現代の我々の西洋体操の要素が入った歩行とはちょっと異なります。現代の歩行は片方の足が地面を蹴る・その力を推進力にして 片方の足を前に出すのです。つまり、足が主導して上体を運ぶのが西洋式の・騎馬民族的な歩行です。摺り足では例えば右足を上げた時にそのつま先に重心が移行することはありません。つま先は重力から解き放たれたような感じになります。これを摺り足は無の境地を表すとも言いますが、それは後から付けた理屈です。ですから農耕民族の摺り足の歩行は推進力を持たないと言えます。しかし、それでは物理的に前に行くことが 出来ないですから・実際にはもちろん重心を前に移動することで歩行を進めるわけですが、その時の重心移行は足が主導するのではなく・腰が主導するのです。つまり、摺り足は心持ちとして腰が先に動いて足が連れる(後追いの感じで 足が動く)ということです。このことは例えばおもちゃのゴム糸動力の自動車でも思い浮かべれば分かります。勢いのついたおもちゃの自動車は止まりかけたところで少し後ろに引いて止まります。太郎冠者の歩行はこれと同じようなもので、歩行を腰で止め・これに足が連れる形で止まるという心持ちです。舞台での太郎冠者の歩行停止で一歩下がるのはその心持ちを形象として見せるものです。理屈は後で付くと申し上げました。この歩行停止を理屈付けるなら、それは「控える」ということになります。次の行動に向けての動作を整えると言っても良いものです。それならば「構える」とも言えます。表面的にはそう見えるかも知れませんが・これは動作の停止(「ない」)ではなく、次の動作が予感されている(「ある」)のです。だからこの歩行が狂言冒頭の太郎冠者の登場に使われるわけです。

舞台で役者がひと回りするだけで場所が変わる。まず能狂言において現在のような橋掛かりと本舞台の劇場構造が固まったのは室町期でもかなり遅かったということを知らねばなりません。舞台上で観念的に想定される座標は能狂言に本来的にないものです。ふたりの役者が1メートル離れて向き合っていたとします。劇中でこれがその通り1メートルの距離になることももちろんありますが、それは10メートルにも10キロにもなり得るのです。離れて立っていてもふたりは抱きあっているということもあり得ます。また片方は現世で・片方があの世ということもあり得ます。これは能狂言に 空間感覚が「ない」ということではなく、むしろ逆に現代演劇が舞台装置に邪魔されて空間感覚を自由に駆使できていないということではないでしょうかね。広場とか道路上でパフォーマンスするような感覚を思い出せば良いのです。それが能狂言の本来の空間の捉え方なのです。理屈は後からやって来ます。能狂言には空間感覚の自由さが「ある」のではないでしょうか。

役者が目を手に当てて見せればそれで泣いていることになるのが確かに狂言のお約束です。ところで芝居を知らない幼稚園の子供に「泣く真似してご覧」と言ったら目に手を当てて「エ〜ン」とやると思います。狂言の太郎冠者の動作もこれを同じものであると言ったら失礼とお思いかも知れませんが、演技の原点は結局そこなのです。写実(リアリズム)というのはそっくりそのままというのがその本意です。しかし、現実には泣くという動作でも人によっていろんなパターンがあり得ます。例えば子供を亡くした親が泣くという場合でも、ワンワン声をあげて泣く人・じっとうつむいてすすり泣く人・怒ったように上を向いて泣く人、実際にはいろいろあると思います。そこにその人の性格・人間性やいろんな背景が混じっていて、正しい泣き方・間違った泣き方などあろうはずがありません。ところが、舞台で役者が泣く時は・ この俺がこう感じた時は俺はこういう泣き方をするんだと言い張ったところで、観客があの役者はどうして泣く時にあんな表情をするんだ?と疑問に思った時点で演技は失敗です。自然主義リアリズムというのは、「登場人物の気持ちを全身で感じ取って泣くんだ」なんて教え方をしますから、そこで何だか訳が分からなくなるわけです。

観客の誰もがあの役者の表情を見ていると「子供を亡くした親の悲しみ」がヒシヒシと伝わってきてこちらまで泣けてくると思うような演技というのはホントに写実の演技なので しょうか。もしそうならば写実(リアリズム)とは一体何だろうかということを考えてもらいたいのですねえ。理屈は後からやって来ます。例えばモンタージュで現代の美人といわれる女優さんの要素を重ね合わせて完璧な美人の顔というのをCGで作るとすると、もちろんそれは美人の要素をすべて備えているのですが、何とも特徴のないところの女性になっちゃうのです。ということは現実の生きいきした魅力的な美人というのは、その完璧な美人の基準に概ね近いのだけれどどこかのポイントで崩れているのです。それが彼女を魅力的に見せるのです。例えば旬の女優さんでも・あの方はアヒルさん顔・この方はパンダさん顔と最初は思ったけれど見慣れてきたせいもありますが皆さんとても魅力的ですね。「美は乱調にあり」というのはそういうことです。完璧な美というのは実は詰まらない。

狂言の泣くというお約束(型)について言えば、それが型として認知され定着するまでに何百年掛かっているわけです。そこまでにいろんな試行錯誤と成功・失敗があるのです。狂言の本意は写実にあるのですから、子供が泣く真似をするのと同じ行為が演技の原点なのです。弥五郎ならば必ずそう言うはずです。いわば何百万という写実の「ある」を積み重ねた果てに見えるのが型なのです。それでも完璧な「泣く」という型には決して行きません。ホントは完璧な「泣く」まで行っちゃったら、魅力なくちゃうのですよ。そこまで達しようとして決して到達しないところにビビッドな美が生じるのです。ですから型というのはリアリズムが「ない」のではなく、リアリズムの果てしない積み上げ(「ある」)であると考えた方がよろしいのです。

(H22・7・5)


2)型とは写実の果てしない積み上げの結果である

歌舞伎の幸四郎あるいは狂言の萬斎が現代劇に参加した時、現代演劇の役者さんはその演技をどういう気持ちで見るのでしょうか。「伝統芸能で鍛えた人にはかなわない」と感じるのではないですかねえ。同じ舞台の現代演劇畑の役者さんとの違いが歴然としていて驚かされます。演技や台詞が巧いとかいうことももちろんありますが、身体から放たれるオーラの強さが全然違います。「歌舞伎(狂言)は凄い」ということを心底感じさせます。「現代劇でこれだけ凄いなら本業ではどんな演技をするんだ」と思わせます。

ところで幸四郎と萬斎と・ふたりの名前を挙げましたが、伝統芸能の世界から現代演劇に参加して誰もがこのふたりと同じ衝撃を観客に与えられるかと言えばそうではなかろうと思います。台詞が巧いとか・独特の味がするとか・ 違いを見せる役者はもちろんいると思います。しかし、それはその役者の個性・資質のするところであって、その印象が必ずしも「歌舞伎(狂言)は凄い」というところへ直結しないように思います。一方、幸四郎や萬斎の場合は彼らが伝統芸能者であるということを痛切に意識させます。これはまったく皮肉ではなく・彼らが本業で舞台に立つ時より も現代演劇に立つ時の方が彼らが歌舞伎(狂言)の役者であることを強く感じさせます。それは彼らの感性のある部分が現代というものに鋭く反応しているからだと思うのです。そういうところが彼らの本業での舞台で邪魔になる事がもしかしたらあるかも知れません。もちろん吉之助はその点も含めて彼らを積極的に評価しますが、芝居を長く見る方でも否定的な感想を持つ方がいるのは恐らくそんなところから来るのだろうと思います。しかし、吉之助に言わせればどんな役者も現代に生きる以上は伝統芸能者である前に現代人であることから逃れることはできないのです。これは観客もまた同様です。

そこで幸四郎や萬斎と一緒の舞台に立つ現代演劇畑の方が彼らを通じて伝統演劇のどこに衝撃を受けて・何をそこから摂取するのかということが問題になると思います。吉之助の思うには、そういう時に日本伝統の「引き」の美学だの・「ない」の美学だのと言っても、現代演劇の役者の気持ちを萎えさせるだけだと思うのですねえ。そもそも新劇など日本の現代演劇というものは歌舞伎の否定から発しているわけです。形容を真似るのではなく対象の心(あるいは雰囲気)を描写する・それが写実であるという自然主義リアリズムの理念から発して、ここまで来ているのです。そのなかで彼らもこれまで何度か行き詰まったことがあったでしょうが、そういう時に「引き」の美学・「ない」の美学だとアドバイスすることは彼らのそれまでの行き方の全否定になってしまうのです。一生懸命「泣き」の演技で悩んでしている時にイヤ目に手を当てればそれで「泣き」になるんだと言われれば確かに衝撃 だと思います。そういう時に現代演劇の役者が取る選択肢はいくつかあると思いますが、大半は「それは我々とは関係ないことだ」ということにならざるを得ないでしょう。彼らが伝統芸能は自分たちと演技理念のベクトルがまったく逆の方向を向いていると感じるならば、そうなるのも当然です。伝統芸能を受け入れること が自己否定につながるからです。

日本伝統の「引き」の美学・「ない」の美学と言うことは、確かに現代人が置き忘れてしまったものに気が付くきっかけにはなるでしょう。しかし、現代人が伝統に対峙して・そこから何かを摂取していこうとするときの示唆としてはさほど役に立たぬと吉之助は思っているのです。だいたい「引き」とか「ない」とかネガティヴな印象で捉えると芸が痩せてしまうように思いますねえ。そういうのは吉之助は嫌いなのです。例えば伝統芸能の型はリアリズムが「ない」のではなく、リアリズムの果てしない積み上げ(「ある」)であると考えれば、型は「引き」の美学・「ない」の美学ではなくなります。それはリアリズム(写実)のシグマ(数列の無限大の総和)となり、その印象はボジティヴに変ります。数式で示すならば次のようなイメージです。


  \sum_{i=m}^{n} a_i = a_m + a_{m+1} + \cdots + a_n
(nを無限大∞に置く)

伝統芸能に衝撃を受けた何人かの方はそこでハタッと考えると思います。我々が考えている(固執している)リアリズムってそもそも何なの?ということです。我々は現代に生きており・その方法論から逃れることは決してできないのですから、現代を生き抜くための感覚を研ぎ澄ますヒントを与えてくれないのならば伝統芸能を見る意味などありません。型とはリアリズム(写実)の果てしない積み上げであると考えるならば、伝統芸能は現代演劇と同じ理念ベクトルを向くのです。それならば彼らは自分が信じる方法論のなかに自信を持って伝統芸能の手法を取り込むところができるはずです。そういう発想の転換が必要であると思いますねえ。

(H22・7・10)


3)様式とは色調の変化が生み出す錯覚である

いつぞやテレビでのインタビューでドナルド・キーン先生が「日本の方は日本文化は独特なもので・外国人には理解し難いものだと思いたいのでしょうねえ。日本では日本人論の本がたくさん出てますが、アメリカでアメリカ人論・英国で英国人論なんて聞いた事がありません」ということを仰っていました。日本文化論に「引き」の美学・「ない」の美学だのという文句がよく並ぶのも、日本の美学は独特なものだと思いたいという気持ちが強いのでしょうねえ。しかし、日常生活でグローバルな視点で考えることが避けられない時代に、日本文化は独特だなどと言うのはツマランことだと思いませんか。いっそのこと日本文化をグローバル・スタンダードにしてやるくらいの気概が欲しいものです。そのためには日本文化を見る時の視点の根本から変えないといけません。

能狂言や歌舞伎の型を「ない」の美学だの言う場合、それは様式と写実という概念を対極に置いて・その二元的な尺度で表現というものを見ているのです。ただし、写実と言っても実は自然主義リアリズムという狭い定義でしか写実を考えていないのですがね。その範疇においての二次的尺度なのです。確かに二元論というのは一番分かり易い尺度です。しかし、よく考えてみて欲しいのですが、この演技は様式度2とか・この演技は写実度4だとか、そういうものがあると思いますか?どういう場合に演技の写実が意識されて、様式が意識されるのか、そういうことを考えて欲しいわけです。

多分に感覚的な議論になりますが、音楽とか演劇のような再現芸術においては、それは結局、演技の色調の変化において起きるのです。逆に言えば色調の変化が起きないのならば様式とか写実とかはまったく意識されないのです。つまり色調の変化・印象の変化が大事だということですが、もうひとつ大事なことはその変化を様式の方に取るか・写実の方に取るかは意識に拠るのです。分かりにくいかも知れないのでもう少し説明しますと、ある演技の色調をAからBへ移行する時に、Aの印象がなお強く持続する場合があります。あるいはAが続いた後Bに巡り合った時にその色調の新鮮さにハッと驚かされる場合があります。要するに演技者がAとBのどちらかに重きを置いた表現をするか・あるいは鑑賞者がどちらに重きを置いてその演技を見るかということなのです。そこから生まれる錯覚にはいろいろありますが、そのなかに様式とか写実とかいう印象も含まれます。そのような様々な錯覚が表現の意味を生み出すのです。(演技の色調の変化がどうやって起こるかは別の機会に論じたいと思いますが、それはリズムとか・音の高低など様々な要素で起こります。しかし、リズムの要因がかなり大きいのは事実です。これについては別稿「アジタートなリズム〜歌舞伎の台詞のリズムを考える」をご参照ください。)

このことは別稿「イーヴォ・ポゴレリッチ・ピアノ・リサイタル」でも触れましたが、ひとつの音が持つ意味はその音自体が持っているものではなく、そのひとつ前の音・さらにその次の音の連関によって創り出されるものなのです。ですから物理現象としては個々の音は切れているのだけれど、音と音が互いに結び合うような形で旋律というのは出来ているのです。ということは音と音との関連性を明確に浮かび上がらせるためには、個々の音が明確に弾き分けられなければならないということなのです。それが出来て初めて旋律という錯覚が産み出されるわけです。舞台の演技にも同じことが言えます。普段の我々が日常行なっている会話や振る舞いをそのまま舞台に乗せてもそれを演技とは呼ぶことは出来ません。ダニエル・バレンボイムは「僕は音楽はいろんな意味で物理的な法則への反抗だと思っている」と言いました。同じように演技者が怠慢な意識でいるならば、表現は変化のないダルい・日常と変らぬ次元に落ちていきます。それが舞台の物理的な法則の必然なのです。そのような舞台の物理的法則に反抗するためには演技の色調をAからBへ・さらにCへ意識的に変えて行かねばなりません。様式・写実というのはそのような演技の色調の変化の妙が生み出す錯覚だということです。

幸四郎あるいは 萬斎が現代劇に参加する時、現代演劇の役者さんはその演技を「伝統芸能で鍛えた人にはかなわない」と感じると思いますが、怖気づくことはありません。幸四郎や萬斎がそのような強い印象を与えることができるのは、彼らが演技の色調をAからBへ・さらにCへ移行させる時にその違いをくっきりと際立たせる技と・息の深さを持っているからです。この秘密を盗まなければなりません。それを「引き」の美学だの「ない」の美学だのと言われるから、自分がそれまでしたことのないことを強いられるような萎縮した気分になるのです。様式というものを特殊なものだと考えないことです。そうすれば伝統芸能からポジティヴな意味を摂取することが出来るのです。

(H22・7・17)


 

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