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吉之助流「歌舞伎の見方講座」:第17講

科学的な歌舞伎の見方


○科学的な歌舞伎の見方・その1:創作民話について

本稿は「科学的な歌舞伎の見方」ということを考えつつ逍遥するのが目的であります。最初の方は歌舞伎と関係ありませんが、話が進むにつれ・だんだんと歌舞伎に近寄っていくと思います。

斉藤隆介氏(1917−1985)は「八郎」・「ベロ出しチョンマ」・「モチモチの木」などの作品で知られる作家です。吉之助はこれらの作品は民間伝承の採話 であるとてっきり思い込んでいた時期がありましたが・そうではなくて、これらの作品は斎藤氏の完全な創作なのです。斎藤氏は自らの仕事を「創作民話」と規定しています。民話風創作ではなくて ・あくまで「創作民話」です。「民話=民衆のための話」というところに斎藤氏はこだわっています。

『戦後に民話ブームが起こったのは、民主主義・主権在民などと言う言葉が大きく叫ばれ、憲法にまで明記されてきた社会情勢から生まれたものだ。法的にも初めて人民が自身の運命を切り開いていかねばならぬ権利と自覚を持った時、我々の祖先はどう暮らしどう生き、何を感じ何を考えていたかを、その伝承に探ろうとしたのは当然のことであろう。(中略)だから私の言う創作民話は、伝承民話の豊かさと力を受け継ぎながら、それを超える積極的で意志的な姿勢をはっきりもたねばならぬと考えている。従来の社会を変革して、人民のための社会を建設しようとする意欲を持たねばならない。その闘いに参加する中で自己の変革をやり遂げていくのだ。社会変革のなかでの自己変革。これが自分の創作民話に課している私の中心命題だ。』(斉藤隆介:「八郎」の方法・1973年)

上記の斎藤氏の発言でも分るように・斉藤氏は「戦後民主主義」の色合いの強い作家でして、その意味では戦後生まれの吉之助にもその感性が重なるところがあるようです。 吉之助も少年時代に「八郎」などの創作民話を・それと知らずに読んでお世話になっていたわけです。

「民話」というのは民衆が作り出し・民衆がその生活のなかで永く語り継いできた話です。民話には作意と言うようなものがあるようでもありますが、本来が自然発生的に生み出された お話ですから・それはあまり明確なものではないのです。そこでは作意と言うものが原型質のままで浮かんでいるように思われます。「原形質」という表現は分りにくいかも知れませんが、観念的なものではなく・そこに実質的な重さがあり・しかも根源的な感情という意味合いでありま す。しかし、「創作」の場合には作家の作意というものがどうしても表面に出て来ざるを得ません。と言うよりも・それを明確に出すことが近代作家の創作態度であるとされていると思います。

とすれば斎藤氏の表明するところの「創作民話」という概念は・一見すると・相矛盾する要素があるように思われます。しかし、実はそこに斎藤氏なりの方法論があるのです。まずそこのところを取っ掛かりにして科学的な歌舞伎の見方を考えてみたいと思います。

(H18・8・13)


○科学的な歌舞伎の見方・その2:民話の原点

斎藤氏の代表作のひとつである「ベロ出しチョンマ」(1966年)ですが、これは歌舞伎の「佐倉義民伝」でもよく知られる佐倉宗五郎伝説をべースにしたとされる創作民話です。長松(チョンマ)の父親(注:作品では惣五郎ではありません)は農民たちの苦しみを見かねて将軍に直訴に及び・捕われの身となり ・磔(はりつけ)の刑を受けることになります。長松兄妹も父ともども捕らえられて刑場に送られます。刑を執行される時、妹のウメが槍の穂先を見て泣き出します。 その横で磔になっている長松は「ウメーッ、おっかなくねえぞォ、見ろォアンちゃんのツラァー!」と叫んで、眉毛をカタッと「ハ」の字に下げてベロッと舌を出して見せたという話です。いかにも宗五郎の息子 にありそうな挿話に思えますが、これは斎藤氏のまったくの創作です。

斉藤隆介:ベロ出しチョンマ (新・名作の愛蔵版)

ところで、斎藤氏はいわゆる偏向作家(左翼系の作家という文部省用語)と見られがちでして、この「ベロ出しチョンマ」も封建社会のもとで厳しい収奪を受けてきた民衆が権力の非人間的な弾圧に屈することなく、踏まれても蹴られても・たくましく真実を貫いてきた民衆の不屈の精神を描いた作品であるとよく評されたものでした。こうした読み方は・「従来の社会を変革して・人民のための社会を建設しようとする意欲を持たねばならない・その闘いに参加する中で自己の変革をやり遂げていくのだ」と言う斎藤氏の発言と考え合わせると・なるほどそんなものかとついつい頷いてしまいそうなところがありますが、ところが当の斉藤氏がそのような読み方に猛然と反発するのです。

『まず違う。長松がベロを出すのは「権力も死をも恐れぬ不敵な面だましい」などではなく、妹ウメがかわいそうだったからである。はりつけの時「わざとおどけてベロを出した」と言うが、わざとおどけていたりはしない。死を前にして泣き叫ぶ妹の苦痛を和らげようと、思わず「ウメーッ、おっかなくねえぞォ、見ろォアンちゃんのツラァー!」と叫んでしまうのである。こんな短い文章のなかでこんなに違うのである。しかも、重大な点が違うのである。』(斉藤隆介:「国語教科書攻撃と児童文学」・1981年)

どうやら斎藤氏の真意は、社会が何だ・民衆が何だとこざかしい理屈を言う前に・長松という子供の気持ちを素直に捉えて読んで欲しい・そこが民話の原点であり・すべての出発点であると言うところにあるようです。

同じことは斎藤氏の最初の創作民話である「八郎」(1950年)にも言えます。身体が山よりも大きくなった八郎が、嵐で村が大波に襲われて危機に瀕した時、泣きさけぶわらしこ(子供)の頭をひと撫でして・八郎は山を背負って海のなかに沈んでいくのですが、この時に八郎は「分ったァ!おらがなして今までおっきくおっきくなりたかったか!おらはこうしておっきくおっきくなって、こうしてみんなのためになりたかったなだ、んでねがわらしコ!」と叫びます。これについても斉藤氏はこう書いています。

『八郎を「民衆の前を独走する英雄」とする見方には作者として納得できない。民衆の胸の中にはみな八郎か八郎的部分か、八郎への憧れが生きているのだ。(中略)(八郎の最後の言葉が)「説教的で・非芸術で、この一句でぶち壊しだ」という批判も、私は、自分の幸福だけを追求している世界から、わらしこへのやさしさを足がかりにして、思わずもう一次元高い幸福の世界を掴んだ時の、歓喜の詩的絶叫として書いた。話がこうなるとは、書き出す時は考えてもいなかった。(中略)子供の読者は評論家より私を理解し励ましてくれる。彼らの手紙は口を揃えて言う。「僕は八郎のように死ねません。でも八郎のようになりたいと思います」 私もそうだ。本気で八郎のようになりたいやつが大勢出てくれば、仲間はみんな死ななくてすむ。』(斉藤隆介:「八郎」について・1975年)

斉藤隆介:八郎 (日本傑作絵本シリーズ)

(H18・8・16)


○科学的な歌舞伎の見方・その3:「科学的」ということ

「社会変革のなかでの自己変革。これが自分の創作民話に課している私の中心命題だ。」 斉藤氏はこう書いています。この発言は読もうとすれば・個人と社会を対立的に捉えて・個人のなかから社会変革を起こして行こうと言う・いわゆる「社会主義的創作態度」にも読み取れますし、実際、大人たちは斎藤氏をそういう作家であると見勝ちでありました。これは戦後の民主教育が戦前教育の否定から始まったことからすれば自然なことかも知れません。

しかし、上記の「八郎」・「ベロ出しチョンマ」での斎藤氏の発言でも分る通り、斎藤氏の理想が社会変革にあるのは確かとしても、斎藤氏は個人と社会との関係を階級闘争的に・対立した存在に見ているわけではないようです。そうではなくて・登場人物のメッセージを個人の心情として原型質的に捉えることを斎藤氏は求めているのです。その心情をしっかりと押さえたところを出発点として・そこから理想の社会への方向を見据えていこうということになるでしょう。この方法論は斎藤氏が自らの創作を「民話」と規定することから来ているのです。だから斎藤氏の創作はまさしく戦後民主主義精神の産物ですが、そこのところが自ら「民話」でなければならないとするものなのです。

『ええ、私は「滅私奉公」けっこうだと思うんですよ。もともと「滅私奉公」ってものは美しいものなんです。公のためになるということは立派なことだと思うんです。だからそういうことをやった人は民話にも残されたし、物語にも語られた。例えば歌舞伎の「佐倉宗五郎」です。(中略)「滅私奉公」なんて精神をすべての人間がお互いに持ち合って暮らしたらどんなに素晴らしい社会が出来ることかと思いますよ。怖いのは、この思想がどう使われているかということ。誰がどういう目的で使っているかということを、鋭い科学的な目で見分けるか見分けないかと言うことです。「八郎」なんてやつはみんなのために死んだんだから、お前もみんなのために死ね、なんて言ってね。埋め立て工事に駆り出されて・人柱にすることだってね。そりゃ、やろうと思えば出来ますよ。だけどそれは作品が悪いんじゃなくて、そういう道具に使おうという黒い手がいけないんであって、人にやさしくしろってことは、大変けっこうなんです。(中略)だから、そういうこと、「滅私奉公」とか「献身」とか「自己犠牲」などということを抽象的に取り上げるってことは、意味がないんです。作品というものは、そのなかに具体的な形で意味がありますんでね。』(斉藤隆介:座談会「みんなのなかでこそ・みんなとのつながりをかんがえてこそ」での発言・1970年)

この斎藤氏の発言のなかに「科学的」という言葉が出てきます。「思想がどう使われているかということ・誰がどういう目的で使っているかということを、鋭い科学的な目で見分けなければならない」と言うのです。さらに 斎藤氏の言う「科学的」の意味を考えていきます。

(H18・8・19)


○科学的な歌舞伎の見方・その4:「やさしさ」がぼける理由はない

座談会で、「やさしさ」が大事だと言うけれど・「やさしさ・やさしさ」と言っていると何だかぼけてくるところがありますねという発言に対して、斉藤氏は次のように答えています。

『だから、そのぼけるってこと自体がおかしいんです。「やさしさ」と言ったらね、ひとつしかないんで、それがぼけてくるというなんて言い方はね、戦わないからですよ。本来あるべき「やさしさ」というのものはひとつしかないので、悪を戦えると言うものが「やさしさ」であってね。悪とは戦えない「やさしさ」なんてのは、敵側が言っている「プチブル的やさしさ」であって、そんなものは「やさしさ」の真実ではないんです。だから「やさしさ」といったら、ぼけてくることはないんで、「やさしさ」と言ったらますますはっきりしてくるべきなんですよ。(中略)敵側の「やさしさ」と自分たちの本来の働く人間たちの「やさしさ」と言うものを曖昧にしてしまうもんだから、こんがらがってくるんですよ。敵の「やさしさ」は「やさしさ」じゃないんだ。そいつは「薄情」なんだ。それは「やさしさ」とは正反対のものだと言う理解がきちんとあればですね、これが日本国民の「やさしさ」の 、本来の「やさしさ」であるべきなんです。あるいは世界人類の、その「やさしさ」であるべきなんです。それと違う理解がある「やさしさ」なんて言うものは・もしあったらですね、それは危険なんであって、そういう「やさしさ」の観念とは戦わなければならないのです。だから、「やさしさ」は正しい答えはひとつしかないんで、それがぼける理由は何もないんです。』(斉藤隆介:座談会「みんなのなかでこそ・みんなとのつながりをかんがえてこそ」での発言・1970年)

斎藤氏の言う「科学的」 ということはどういうことでありましょうか。おそらく人間の持つ根源的な美しい感情の意味を・余計な観念や思想のノイズに邪魔されずに・まっすぐに見据えようとする態度というものが、努めて「科学的」な精神に通じるところがあるからです。 そうすると「やさしさ」という意味は研ぎ澄まされてくるのだということです。

「八郎」の場合で言えば、海が荒れて・村の田んぼが潮かぶって駄目になってしまうとわらしこ(子供)が泣いているのを見て・八郎は「んだば分った、しんぺえすんな、見てれ」と言ってわらしこの頭をひと撫でして・ ニッコリ笑って・山を背負って海のなかに沈んでいくのですが、これは八郎が立派な英雄的行為をしようとしたのではなく、泣いているわらしこがかわいそうであった・ ただそれだけのことなのです。「やさしさ」が八郎の行動の原点なのです。「おらはこうしておっきくおっきくなって、こうしてみんなのためになりたかったなだ、んでねがわらしコ!」と八郎が叫ぶのはそうして見ると確かに一部から批判される通り・若干の違和感がないわけではないですが、これも八郎がその「やさしさ」の使い道の方向性を見出した喜びであると考えれば納得ができるでしょう。

「僕は八郎のように死ねません。でも八郎のようになりたいと思います」という子供たちは、八郎の本質(それは「やさしさ」なのです)をまったくストレートに 素直に見て、しかも ある方向性(八郎のようになりたい)を見出しています。その先に我々の目指すべき共同体のイメージが漠然と見えてきます。

しかし、世の中には余計な観念や思想のノイズが多すぎますから・世の大人たちは八郎の行為を「社会のため・民衆のための英雄的行動」であると言うような読み方をついついしてしま うこともあります。世の大人たちの為に多少の「方法論」が必要なのかも知れません。作品から本質を原形質的に見据えること、それはいろいろなものが混じりあった物質から純粋な貴金属(それこそが本質です)を抽出していく作業のようなものです。それはまさに「科学的」な精神作業なのです。

(H18・8・26)


○科学的な歌舞伎の見方・その5:「科学的」ということ

話題がそれるようですが・ちょっと前にテレビで「新進気鋭の脳科学者」というキャッチフレーズのお方が司会して各界で成功している方のビジネスの秘訣を探るという番組をやっておりました。この時はケーキ職人の 方がゲストでした。そのゲストの方が言うには、ケーキの下地の調整だけは絶対に自分でやる・ケーキの下地作りは微妙なものでやる度に味が変わるので・一定の味を保つためにこの作業だけは他人には任せられないと言うことでした。その言葉を聞いて・その司会の脳科学者先生が「同じレシピで同じ作業をすれば同じ味が出るというのが科学なんですが、そうじゃないんですか」と大げさに驚いておりました。確かにケーキの下地作りは「芸」みたいなところがあるようです。

ところで「同じレシピで同じ手順で作業をすれば同じ味(結果)が出るというのが科学」なのですかね。まあ、一般の方を対象にした娯楽番組であることだし・その脳科学者先生がホントにそう信じているとは思いませんけど、「同じレシピで同じ手順で作業をすれば同じ味(結果)が出る」なんてのはニュートン以前の科学のイメージであって、アインシュタイン/ハイゼンベルク以後の現代科学のイメージではありません。「同じレシピで同じ手順で作業をすれば大体似たような味(結果)に落ち着く」というのが正し く科学的な言い方でしょう。これは不確定性理論やバラつき理論を承知している者には自明のことです。現代の科学はそういうところに立脚しているのです。

この脳科学者先生の言葉だけ聞きますと「科学を超えた微妙な感性で味を一定に保つ・それが職人の技術(芸)だ」と言いたいようです。ケーキ職人の方はどうやって自分の理想とする一定の味にケーキの下地を調整していくのでしょうか。当然ですが、状況を見ながら・その先にある味を予測して・レシピや手順(混ぜ方の速度や温度・水の加え方・寝かしの時間など)を微妙に変えながら・理想の味に近づける作業をしているからに他なりません。その誤差をどうやって感知するのか・そこのところはよく分からないが、そうやって 手順を微妙に変えていくことで・狙っている結果を最小限の誤差に落とすのです。実はこの道筋こそが「科学」なのです。

「科学」とは発端から結果までの道筋をしっかり見極めるものです。ご注意いただきたいですが、「道筋」とは手順(プロセス)のことを言っているのではありません。発端から結果をつなぐ一本の糸のようなもののことを言っています。その道筋がはっきりと見える・つながっているという感覚があるならば、その考え方は「科学的である」と言えるのです。「見えた!分った!これなら理にかなっている」という感覚こそが正しく科学的な感覚です。職人の技術(芸)は他人になかなか説明は出来ないと思います。しかし、それでも・これは 確かに科学的な感覚の所産です。「見えた!分った!」という感覚がそこにあるからです。

斎藤隆介氏の発言に話を戻しますと、八郎の本質(やさしさ)を読み取り・その方向性を見出し・その先にあるもの(我々の理想とする共同体の姿)のイメージをスッキリと見出すという作業は、まさに科学的な感覚なのです。

『だから、そのぼけるってこと自体がおかしいんです。「やさしさ」と言ったらね、ひとつしかないんで、それがぼけてくるというなんて言い方はね、戦わないからですよ。 「やさしさ」といったら、ぼけてくることはないんで、「やさしさ」と言ったらますますはっきりしてくるべきなんですよ。だから、「やさしさ」は正しい答えはひとつしかないんで、それがぼける理由は何もないんです。』(斉藤隆介:座談会「みんなのなかでこそ・みんなとのつながりをかんがえてこそ」での発言・1970年)

本質をはっきりさせていけば・その先にあるものが明確に見えてくるということです。「ぼけてくる」というと言うことは思考法が正しく取られていないということに他なりません。本質を見極め正しい 道筋が取れていれば・見えるものが見えてくる・その時には本質はますます研ぎ澄まされてくるということです。これが斎藤氏が「私の創作民話は科学的・合理的なものでありたい」ということの意味です。

(H18・8・30)


○科学的な歌舞伎の見方・その6:歌舞伎は民俗であるか

池田弥三郎氏が師折口信夫についての思い出をこう語っています。

『芸能は、イコール民俗であるか。このことについて、私は折口信夫に直接に質問したことがある。私の質問にはいつも気軽に即答してくれた折口信夫であったが、この時はややしばらく考えていて、やがて慎重に、芸能は多分、イコール民俗ではあるまい、と言った。そして、もし、芸能が、イコール民俗であるならば、柳田(国男)先生が、芸能研究の分野を、自分に任せるはずがない、と言った。』(池田弥三郎:「芸能の流転と変容」)

話がちょっとそれるようですが・ここが大事な点であるので「折口がしばらく考えていて・やがて慎重に・芸能は多分イコール民俗ではあるまいと答えた」という点について触れておきます。「国文学の発生(第三稿)」の雑誌「民族」への掲載を柳田が拒否したことな ど、折口と柳田との関係はなかなか屈折したものがあったようです。しかし、ここで折口がちょっと口ごもったのは芸能を研究することに対するうしろめたさ・恥ずかしさから来るものだと思っています。折口の芸能に対する複雑な思いを示す文章を挙げておきます。

『私どもの・青年時代には、歌舞伎芝居を見ると言ふことは恥ずかしい事であった。つまり、芝居は紳士の見るべきものではなかった。だから今以って、私には、若い友人たちの様に、朗らかな気持ちで芝居の話をすることが出来ない。私の芝居についての知識は、いわば不良少年が店の銭函からくすねて貯めた金のような知識で、理屈から言へば何でもないことだが、どうもうしろめたい。』(折口信夫:「手習鑑雑談」・昭和22年)

「私どもの・青年時代には・歌舞伎芝居を見ると言ふことは恥ずかしい事であった」という感覚はみなさん分りますかね。 今では想像もできないかも知れませんが、実学が奨励された明治大正期には、芸能を研究するなんてのは・道楽であったのです。芸能を志そうなんて言おうものなら「そんなものを男子一生の仕事にするのか」と父親に殴られそうな時代でありました。しかし、折口は小さい時から芝居や浄瑠璃に親しむ環境に育ちましたから、そうした・うしろめたさ・恥ずかしさが折口にちょっと答えをためらわせたのだと思 っています。このうしろめたさの感覚は折口の芸能論考を考える場合に重要な点です。

話を戻しますと、「芸能は多分イコール民俗ではあるまい」と折口は言っていますが、芸能というのはもともと神事に発しますから・その根本は間違いなく民俗にあるのです。しかし、芸能は世につれ変容していくものです。歌舞伎が慶長8年の出雲のお国のかぶき踊りから発したものであるのは確かですが・歌舞伎はその時代のなかで形を少しづつ変化させていき・今の歌舞伎からお国かぶきの面影を想像することはほとんど不可能になってしまいました。民俗学研究においては現地でのフィールドワーク・つまり実証という作業が大事な仕事になります。ところが、特に芸能分野はその変容の度合いが非常に大きなものがあって・その変り様がまったく別物と考えてもいい ほどのものもあります。したがって、民間に近い田植え唄であるとか・巡礼唄のような素朴な芸能ならば話は別になりますが、今現在の舞台で見られる形態の能狂言や歌舞伎を認めつつ・これらをフィールドワーク的 ・文献的に民俗学の分野として研究していくことは難しいことになります。しかし、能狂言も歌舞伎も間違いなくそのルーツを民俗に持っているのですから、現行の舞台からそのルーツを類推あるいは想像することは決して不可能ではないのです。どこかにその痕跡が間違いなくある。だからこそ能狂言も歌舞伎も「伝承芸能」と称するのです。

だから能狂言や歌舞伎のような芸能分野をイコール民俗ではないとしても・民俗的な部分を多少でも持つものとして民俗学の研究対象にしようとするならば、その見方にはある種の感性の飛躍(ワープ)が必要になります。そうすることでそこに原点からまっすぐにつながる一本の線を見出すことが出来るのです。しかし、このことは文献的・論理的になかなか説明が難しいことがあります。感性の飛躍(ワープ)を他人に説明することはとても難しい。柳田国男は「理」の人でありました・少なくとも「理の人」であろうとした人であると思います。これに対して折口信夫も「理の人」であろうとしたと思いますが、同時に「情」の要素がとても強い人でありました。

「国文学の発生(第三稿)」の雑誌「民族」への掲載を柳田が拒否したのは、折口信夫が論証のプロセスを経ずに・いきなり結論に入るような論文に不快を感じたことが原因と言われています。ふたりの方法論は微妙に異なっていたのです。一方、折口信夫は感性の飛躍が出来る人でありました。現行の歌舞伎の舞台と・そのルーツとしての民俗との亀裂を感性の飛躍によって結び付けることの出来る資質の持ち主でありました。だから 、柳田国男は芸能研究の分野を折口信夫に任せたのです。あるいは柳田国男は芸能研究が自分に不向きとして「逃げた」のかも知れませんが、まあ、しかし、自分より折口信夫の方が向いていると考えたのだろうと思います 。

このような感性の飛躍(ワープ)はいろいろなものが混じりあった物質から純粋な貴金属を抽出していく作業を一気に行うような・まさに「科学的」な精神作業なのです。そうすると「見えた!分った!これならば理にかなっている」という瞬間が出現するのです。こうしてみると斉藤隆介と折口信夫の方法論が実は似通っていることが分かると思います。どちらもその態度は「科学的」であるのです。

吉之助は武智鉄二とともに・折口信夫も師と仰いでおります。もっとも武智鉄二は「自分は民俗学は大嫌い」と常々公言してはばかりませんでした(しかし折口信夫との対談は残っております)が、「歌舞伎素人講釈」にとっては「歌舞伎イコールある程度民俗」と考えることは大事なことでありますし・この点で折口信夫は常に教えられる師なのです。ここから科学的な歌舞伎の見方をさらに考えていきます。

(H18・9・3)


○科学的な歌舞伎の見方・その7:六代目菊五郎の芸

折口信夫は六代目菊五郎の芸が好きでした。折口は菊五郎について・次のような文章を書いています。

『今年の盂蘭盆には思ひがけなく、ぎりぎりと言うところで・菊五郎が新仏となった。こんなことを考えたところで、意味のないことだけれど、舞台の鼻まで踊りこんで来て、かつきりと踏み残すといった、鮮やかな彼の芸格に似たものが、こんなところにも現われているやうで、寂しいが、ふつ と笑ひにも似たものが催して来た。このかつきりとした芸格は、同時代の役者の誰々の上にも見ることの出来なかったものと言へる。此を、彼の芸が持つ科学性と言つても、ちつともをかしくない。』(折口信夫:「菊五郎の科学性」・昭和24年8月)

大坂生まれで・しかも民俗学という古いものとのつながりを云々する学問をやる折口信夫と・六代目菊五郎の芸風の新しい感触とは、ちょっとイメージが結びつかないと感じる人がいるかも知れません。菊五郎の芸風は江戸前の斬れの良さ・イキの良さとして一般に理解されていていると思います。 また、ここで折口が突然「科学性」という言葉を使っているのがちょっと奇異に感じられるかも知れません。しかし、ここに折口信夫を考える鍵があるのです。六代目菊五郎の著書「芸」に九代目団十郎の言葉として・次のようなことが記されています。

『一尺の寸法を十に割って、一寸つづ十に踊れば一尺になる。それは極まっている定間のことだが、これを八寸まで早くトントンと踊り込んで、残った二寸をゆっくり踊って、一尺に踊り課せばそのところに面白さが出るのだ。』 (六代目尾上菊五郎:「芸」)

あるいは三味線の名人鶴沢道八はこう言っています。

『義太夫の三味線で足取が重要なことはお話しするまでもないことです。世話時代の弾き分け、文章のすがたを弾き表すのは第一に足取です。これは一寸口ではうまくいひ表せませんが、例へば一つの「フシ」の長さがかりに一尺あるとしますと、その一尺のものを等分に割らずあるところは一寸五分、あるところは三寸二分、また次には五寸、その次は四分……といふ風に辿つて、結局は一尺のものに納めるのが足取で、その割り方、辿り方によつてその場その場のすがたが表れて来るのです。一尺のものを一寸づゝ十に等分する場合もないことはありませんが、まづ少く、何時でも等分ではそれは足取といへません。ですから同じ一つの「フシ」でも足取をつけ変へると全く別のものになります。』(鴻池幸武:「道八芸談」より)

団十郎と道八の言葉に共通している事は、「リズムをトントントン・・・と踏んでいって、これを一尺にぴったりと納めるように踊り込む(弾き込む)」と言っていることです。「これが一尺だ」という感覚はどこから来るものでしょうか。しかも、 こういう場合の一尺の感覚は相対的なもので・人によって・あるいは場合によっても一尺の感覚は微妙に異なるものです。それでは「あとこれだけ踏めばぴったり一尺 に決まる」という感覚はどこから来るのでしょうか。実はこれが折口信夫の言っている「科学性」なのです。

「見えた!決まった!これならば理にかなっている」と言う感覚があることがまさに「科学性」の感覚です。このことが菊五郎の芸の近代的なかつきりした印象に通じています。しかし、これは先達である団十郎や道八の言葉で分るように・実は菊五郎だけのものではありません。これは芸を極めた人共通の感覚 なのです。つまり、その感触は新しく見えるけれども・それは確かに古典的かつ伝統的な感覚です。(このことは別稿「菊五郎の古典性」あるいは「古典性と様式性」において触れていますからご参考にしてください。)

民俗学・あるいは万葉集の研究を通じて「古典性」というものの感覚に精通した折口信夫がかつきりとした菊五郎の芸に古典性を見出すということは、意外でも何でもありません。むしろ折口が菊五郎の芸を愛したのは必然だと言えるものだと思います。

(H18・9・11)


○科学的な歌舞伎の見方・その8:六代目菊五郎の芸・2

発端から結果をつなぐ一本の糸のようなものがはっきり見える ・つながっているという感覚があるならば、その考え方は「科学的である」と言えます。「見えた!分った!これならば理にかなっている」という感覚が正しく科学的な感覚なのです。

リズムをトントントン・・・と踏んでいって、これを結局は一尺に納めるように踊り込む・これじゃ少し足らないかなと思ったら・ちょっと継ぎ足して見事に一尺にぴったりと納めてみせる。これは科学的な感覚であると言えます。「これが一尺だ」とどうやって感知するのか・それはうまく説明できませんが、そういうことが六代目菊五郎はできた人でした。

『今年の盂蘭盆には思ひがけなく、ぎりぎりと言うところで・菊五郎が新仏となった。こんなことを考えたところで、意味のないことだけれど、舞台の鼻まで踊りこんで来て、かつきりと踏み残すといった、鮮やかな彼の芸格に似たものが、こんなところにも現われているやうで、寂しいが、ふつ と笑ひにも似たものが催して来た。』(折口信夫:「菊五郎の科学性」・昭和24年8月)

まるで測ったかのように・盂蘭盆ぎりぎりに亡くなった菊五郎のことを・そのかつきりした芸格と重ね合わせて、「寂しいが・ふつと笑ひにも似たものが催して来た」と折口が語っています。この「かつきりした菊五郎の芸格」というのはリズム感覚(間の感覚)だけを言っているのではありません。作品や役の本質をつかみとり・まるで結果を見通して・まるでそこから逆算して一本の糸を導き出して役作りをしていくかのような・その芸の過程、その筋道の正しさのことを言っています。

その筋道の正しさは論理的な過程を積み重ねて構築されるものではなく・ある瞬間に感性の飛躍によって導かれるものです。だからこれを人は「菊五郎の天才」と呼ぶので しょうが、実はそうではないわけです。直感(インスピレーション)だけに頼っているように見えるが・実は科学的合理的な方法論に拠っているのです。折口はそのことを「菊五郎の芸の科学性」と言っているわけです。

『(二代目)左団次なども聡明という側から、同質の特徴を持った人のように考える人があるかも知れぬが、それは時流性とでも言うべきもので、時代の受け容れ方がどういう傾向に向いておるかをよく弁えた人であったのだ。(五代目)歌右衛門なども、何かこうかつきりした所の目についた人だが、この常識が珍しい程度に発達していて判断が性格だったと言う側の人であった。単純化と言った才能はあったが、芸の正確という点には疑問がある。』(折口信夫:「菊五郎の科学性」・昭和24年8月)

菊五郎と左団次・歌右衛門との芸風の違いがよく分かると同時に、折口信夫の「科学性」のイメージもよく分かると思います。

(H18・9・15)


○科学的な歌舞伎の見方・その9:創作の秘密

『モーツアルトが「ドン・ジョヴァン二」を組み立てたなどと、どうして言えようか。コンポジシオン・・まるで卵と粉と砂糖をかき混ぜてケーキかビスケットでも作るように、彼がこの作品を組み立てたなどと言えるだろうか。精神的な創造とは、部分も全体もただひとつの精神の鋳型から取り出され、ひとつの生命の息吹によって貫かれることである。作者は決して試したり、継ぎはぎをしたり、自分勝手に振舞ったりはしなかった。彼は自己の天才のデモーニッシュな衝動に突き動かされて、それが命ずることを実行せざるを得なかったのだ。』(ゲーテ、1831年6月20日、エッカーマンとの対話)

ゲーテが創作の秘密について語っています。大事なことは、優れた芸術作品のフォルムは必ずしも論理的な積み重ねを通して構築されるようなものではなく、むしろまるで全体を見通しているかのように・そこから逆算して一本の糸を導き出して作り出 されたかのような・筋道の正しさを持つものです。そうしたものは・見かけがとてもシンプルで ・すっきりとした「科学性」を感じさせるものになるのです。

作品解釈において・作品の生成過程をたどろうとするならば、原因から結果という流れで・作品を冒頭から結末へと順にたどっていくだけでは不十分なのです。併せて結末から最初へ溯って・結末から必然を探っていく作業も必要になってきます。この作業を何度も繰り返し・作品を前後から撫で回すように見ていると、作品の主題・本質は研ぎ澄まされてきて、同時に不自然な解釈(見方)を切り捨てることが出来るようになります。そうすると突然「見えた!分った!これならば理にかなっている」という感覚が訪れてきます。

(H18・9・19)


○科学的な歌舞伎の見方・その10:玉手御前の場合

玉手御前の恋は真なのか偽りなのか。ここは役者にとっても解釈の分かれるところで・またそこが工夫の為所ですから、さまざまな芸談が残されています。古くは吉之助が師と仰ぐ武智鉄二がフロイト流深層心理学的観点から、玉手御前は(芝居のなかでは「建前の恋」とされてはいるが)心の 底では俊徳丸を愛しているのであるとしておりました。その影響で現代においては この視点から玉手御前の行動を読む傾向が強いようです。

我が師匠の読み方なので畏れ多いことですが・そう言う解釈もあり得るとは思いますけど、この解釈では吉之助は「合邦庵室」の主題が研ぎ澄まされてこないと感じています。こうした玉手御前の読み方は・少なくとも初心者にはお薦め したくないと思います。そこで本稿「科学的な歌舞伎の見方」の最後にこのことを考えてみたいと思います。

なぜ「玉手御前は心の底では俊徳丸を愛している」という解釈を吉之助は採らないのか。それは、玉手御前の長い告白があって・「コレ申し父さまいな、何と疑いは晴れましてござんすかえ」と娘に言われて・合邦はすべてを納得して「ヲイヤイ・ヲイヤイ」と叫ぶわけですが、合邦の納得が絵空事になってしまうと思うからです。頑固一徹の合邦がついに心を開いて・血を吐くような思いで「ヲイヤイ」と叫ぶ以上は、玉手御前の無実は疑いようがないというのが 吉之助の確信です。それでも「心の底で玉手御前は密かに俊徳丸に惚れていた」と言うのならば、玉手御前は親を騙したことになります。だから、そういうことは絶対にないのです。先に引用した斎藤隆介氏の言葉を再確認しておきます。

『だから、そのぼけるってこと自体がおかしいんです。「やさしさ」と言ったらね、ひとつしかないんで、それがぼけてくるというなんて言い方はね、戦わないからですよ。だから「やさしさ」といったら、ぼけてくることはないんで、「やさしさ」と言ったらますますはっきりしてくるべきなんですよ。敵側の「やさしさ」と自分たちの本来の働く人間たちの「やさしさ」と言うものを曖昧にしてしまうもんだから、こんがらがってくるんですよ。敵の「やさしさ」は「やさしさ」じゃないんだ。そいつは「薄情」なんだ。それと違う理解がある「やさしさ」なんて言うものは・もしあったらですね、それは危険なんであって、そういう「やさしさ」の観念とは戦わなければならないのです。だから、「やさしさ」は正しい答えはひとつしかないんで、それがぼける理由は何もないんです。』(斉藤隆介:座談会「みんなのなかでこそ・みんなとのつながりをかんがえてこそ」での発言・1970年)

大事なことは、作品の本質を原形質的に見据えることです。「合邦庵室」の主題は「大事なもののために命を捧げてこれを守る行為の尊さ」ということです。あるいはその裏返しとしての「大事なものを守らねばならぬ・生きることの厳しさ」であります。「心の底で玉手御前は密かに俊徳丸に惚れていた」という見方は、この「合邦庵室」の主題を 曖昧にさせる(ボケさせる)ものです。玉手御前は自分の行為を父親に認めてもらって・初めてその行為を完結することが出来ます。玉手御前と合邦は一体で主題を担っています。玉手御前は真実を告白し、合邦は真実を受けて「ヲイヤイ」を言わねばなりません。そこで「まだ他に隠していることがあるのじゃないの?」と勘ぐるような見方は、作品解釈にとって余計だと思います。何と言いますかね、精神的に高められることのない見方だと思いますね。それは科学的にスッキリくるものとは言い難いということです。 「私は玉手御前のように死ねません。でも玉手御前のような生き方もあるのだと思います」と感じることが大事なのです。

もちろん「合邦庵室」の主題を「道ならぬ恋に身を焼く女の業(ごう)」として読もうとするなら話は別になるでしょうが、そうするとドラマにおける合邦の位置が失われてしまうでしょう。つまり、一見フロイト心理学を使って科学的な見方をしているようですが ・こういうのは曲読みであって、決して正攻法の読み方ではないのです。まあ、その次の段階としてはこういう読み方もしてみれば違う側面が見えてきて一興かも知れないということかな。同様に「女殺油地獄」でお吉が与兵衛 に内心では惚れていたとする解釈も巷間流布してい ますが、吉之助はこれも正しいとは思いません。これらの点については、いずれそれぞれの作品を取り上げる機会に触れてみたいと思います。

(H18・9・23)


 

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