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古典性と様式性

〜九代目団十郎以後の歌舞伎・その5


1)古典性と様式性

「九代目団十郎以後の歌舞伎」では、明治36年・九代目団十郎の死によって江戸歌舞伎は終焉し・それ以後の歌舞伎は「伝承芸能」としての位置を明確にしたということを考えています。本稿では伝承芸能における「古典性」と「様式性」について考えます。古典的ということは様式的ということじゃないかと思うかも知れませんが、そうではありません。対立的に捉えるべきものではありませんが、しかし、このふたつの概念は微妙に異なるものです。

まず「古典性」について考えます。別稿「九代目団十郎以後の歌舞伎・その3:菊五郎の新古典性」でも触れましたが、「古典(クラシック)」のイメージは無駄を削ぎ落とした「簡潔さ」です。写実(ありのまま)が突き詰められた時、それは神によって「然り」と映るものになります。そうした芸は自然とシンプルなものとなるのです。古典の簡潔さが芸を単純化し、その表現を研ぎ澄まされた力強いものにします。その簡潔さはどことなく近代の功利主義にも相通じるところがあります。科学的に効率を考えて計算された造形は 結果的に簡潔でシャープなものになります。そのような新しさのイメージと「古典性」は似通ったところがあります。九代目団十郎や六代目菊五郎の芸が感じさせる近代性は、実はその手法の新しさではないのです。その芸の簡潔さが「新しい」という印象を観客に与えるのです。なぜなら、それは団十郎や菊五郎の芸が明治大正の時代の空気を正しく取り入れているからです。だからそこで感じられる新しさは実はその「古典性」の結果なのです。

つぎに「様式性」について考えてみます。様式とはある種の「しきたり」であるともいえます。我々は「しきたり・習慣」になにげなく従っているわけですが、それによって我々は自分自身のこれまでの有り様を無意識のうちに振り返っているのです。様式に私たちは功利の付いて回らない純粋さを見ます。様式に身を預けることで、芸能は落ち着いた安らぎを感じさせます。

伝承芸能の表現は、「古典性」と「様式性」の間を常に揺れ動きます。そのどちらが欠けても伝承芸能は伝承芸能でなくなってしまいます。この両者の折り合いをどう付けるかというところが演者の腕の見せ所ということになります。イメージとしては「古典性」は写実を意識することであり、「様式性」はフォルムに身を任せることであると考えてもいいのです。あるいは「古典性」は前に進み、「様式性」は後ろへ戻る(ただしこれは「退歩」の意味ではないですが)と考えてもよろしいかと思います。

付け加えますと、「古典性と様式性」はテンポにも大きく関連します。古典的な表現の場合、一般的にはテンポは早い方に引っ張られる傾向があります。様式に傾くと逆にテンポが遅くなる場合が多い。もちろん一概にそう言い切れない場合も数多くありますが、しかし、おおまかにテンポの変化は様式への傾斜を計る時の指標になると考えてもいいのです。以下の文章はそれらを念頭に入れてお読みください。


2)菊五郎は決して新しくない

六代目菊五郎の「忠臣蔵」の勘平を舞台を見ていた若き八代目三津五郎が「六代目の勘平って新劇みたいですね」と正直な感想を漏らしてしまって・父親(七代目)に「馬鹿っ、あれが歌舞伎だよ」と怒られたと回想しています。父親にそう言われて、八代目三津五郎は「芸とは一体何だろう」と悩み続けたと言っています。(八代目坂東三津五郎・武智鉄二:「芸十夜」 より)

吉之助はもちろん六代目の舞台など見てもおりません。(まだ生まれてなかったのです。)しかし、これは何となく想像ができます。テンポが早くて・余計な思い入れを入れない ・演技が簡潔である、だから淡白で芝居っ気がない感じがしたのだろうと思います。他の役者の勘平はもっとたっぷりと様式的に見えて・いわゆる「歌舞伎味」のある勘平だったのでありましょう。

七代目三津五郎が新劇みたいに見える菊五郎の勘平を「あれが歌舞伎だ」と言ったとすれば、やはりこれは真剣に考えてみる必要があるのです。新劇的な演技が歌舞伎なのでしょうか。そうすると我々が「歌舞伎味」と思っているものは何なのでしょうか。七代目三津五郎の言葉からそういう疑問が沸いてこないでしょうか。(もうひとつは息子の八代目がなぜ「これは新劇みたいだ」と感じたということも大事なことですが、これは後述します。)

菊五郎の舞台は昭和10年代の「菊畑」での皆鶴姫の映像断片が残っています。ここで菊五郎の皆鶴姫が鬼一法眼に引っ張られて舞台右端に消える時に、必死で虎蔵の方へ身をくねらせて・のげぞるように振り返る姿が映っています。今の役者には見られない・生な感じのする演技です。これについて「近代的かつ女優的な演技で衝撃を受けた・この時代に生きている生身の女性像である」と批評がありました。

たしかに菊五郎の皆鶴姫は新鮮な印象を与えます。しかし、菊五郎の発想プロセスとしてはこれは皆鶴姫は虎蔵が恋しい・引き離されるのがつらい・彼の姿を少しでも長く目に焼き付けておきたい・その心情を歌舞伎の手法として形象化してみたらこうなったということに過ぎないと思えるのです。そこに近代人としての菊五郎の感性が反映されている(つまり時代を取り込んでいる)ことは間違いないのですが・近代が菊五郎の発想の出発点ではなく、発想手法としては「自分の内面にある心情を突き詰めて形象化していくという・従来の基本手法だと思わざるを得ません。しかし、時代を正しく取り込んでいるから・その結果が「近代的」に新しく見えるわけです。そう考えないと菊五郎が新しく・かつ 「かっきりと」基本正しいという印象が説明でき ません。三島由紀夫は次のように書いています。

「菊五郎の近代性というべきは、実はあまり根ざしの深くない現実主義、合理主義、自然主義などの、概論風な近代性であった。教科書を読めばわかる程度の近代性である。菊五郎の新しさはあくまで方法の新しさで、本質的な新しさではなかった。」(三島由紀夫:「新歌右衛門のこと」昭和26年)

三島の指摘は巷間言われている菊五郎の「近代性」なるものは底が浅いということを言っていますので、吉之助の言っていることとピッタリ一致ではないのです。しかし、「菊五郎の新しさは本質の新しさではない」という指摘はまさにその通りであると思います。それは菊五郎の芸の・ある一面を突いています。菊五郎の発想プロセスはまったく旧来の基本約束を踏まえたものであって、そこに本質的な新しさ・革新性はなかったと思われるのです。ただその時代を取り込んでいるから・外面的にはそれが「方法の新しさ」に見えたに過ぎないのです。つまり、本当は菊五郎は何も変えていない。やはり菊五郎ほど基本に忠実な役者はいなかったと言うことになります。


3)菊五郎の時姫

三宅三郎は昭和3年の「鎌倉三代記」での菊五郎の時姫の演技について、次のように書いています。

『二度目の出の三浦との件りのこの時姫の眼目の性根場である「恩と恋との義理詰めに」のところで、菊五郎の時姫は二重の上で「北条時政討ってみませう」と言い刀を抜きかけて、すぐ床の「父様許して」で左を袖屏風にして三浦に隠して右手で拝んで、父に詫びる演り方は写実的でよくない。このところは(五代目)歌右衛門の演り方こそ見るべきものである。すなわち歌右衛門は「北条云々」とキッパリ言うと同時、二重を下り平舞台で両手を突いて父に詫び入るのである。つまり歌右衛門は二重に居る事と舞台に居る事のふたつに依って、時姫の恩と恋との心理を極めて象徴的に、截然と区別して表現しているのである。歌舞伎の時代物の表現法は、こうした象徴的手法こそもっとも重要視すべきものである。』(三宅三郎:「歌舞伎鑑賞」)

時姫は三浦之助が恋しく・彼に必死で付いて行こうとしているわけですが、それは同時に父である北条時政を裏切ることでもあります。その狭間(はざま)で時姫は苦しむのですが、しかし、ついに彼女は恋を取り・父を裏切る決心をします。「北条時政討ってみませう」と言いながら・その傍らで「父様許して」という心情を描くという・難しい場面であります。

ここで五代目歌右衛門の時姫の演技が引き合いに出されています。五代目歌右衛門は「北条時政討ってみませう」と二重の上で言ってから、二重を下りて平舞台で「父様許して」と手を突くと言います。二重の上と下を使い分けることによって、三浦之助の恋と・父への恩を象徴的に描き分けるのだという三宅三郎の指摘はなるほどと思わせるものです。これがいわゆる「そのようにしないと歌舞伎に見えない・とりあえずそうしていれば歌舞伎に一応は見える」というところの「型」かも知れません。

それでは菊五郎が「北条時政討ってみませう」と言った後に右手で拝んで父に詫びるやり方は、どういう発想から来るものでしょうか。菊五郎の発想プロセスを追ってみます。これは二重を下りて平舞台に手を突く・その段取りに時間が掛かる(間があく)ことを菊五郎が嫌ったということだろうと思います。丸本を見れば、時姫は「どちらが重い軽いとも恩と・恋との義理詰めに」なったあげく ・その引き裂かれた感情のなかで「思ひ切って討ちませう。北條時政討って見せう。父様許してして下さりませ」とワッと叫ぶのです。三浦之助への思いと・父への思いが時姫の心のなかに 同時に湧き上がるのです。この同時性・二律背反を菊五郎は重視したと思います。時姫は「北条時政討ってみませう」と言って三浦之助への忠誠を見せて・ そして改めて父へ詫びるのではない・そこに時間の軸はないと菊五郎は考えたと思います。二重を下りて平舞台に手を突く・その段取りによって、時姫のなかの二律背反の思いは分離され、段階的・説明的に(さらに言えば嘘に)なると菊五郎は考えたと思います。ならば時姫の心のなかで渦巻くふたつの思いの同時性を描くにはどうしたらいいか、それが菊五郎の演技の発想プロセスの核心であったと思います。

もうひとつ付け加えると、菊五郎の時姫は「北条時政討ってみませう」と言ってから・「父様許して」を床に任せる時に、絶対に息を詰めていると思います。それでないと菊五郎のプロセスは完成しないでしょう。菊五郎にして見れば二重を下りている間に息が抜けてしまうのが何より嫌だったと思います。

菊五郎の演技が「写実に見える・歌舞伎味に欠ける」という批判はその通りかも知れません。しかし、それでないと自分は時姫の心情は描けない・その時姫の心情を自分なりに形象化してみればこうなったというのが、菊五郎の本意でしょう。この考え方は「近代的」なのでしょうか。吉之助にはそうは思えません。それは従来と同じ型の創出のプロセスを自然に踏んでいるように思われます。 菊五郎は「写実」に見せようとしてこの型を創出したのではないのです。その感触の新しさは結果であって、決して菊五郎の発想が新しいわけではないのです。

一方の歌右衛門の方ですが、もちろん歌右衛門ほどの名優ならば二重の上下の移動を「間のあいた段取り」に見せることは決してなかったでしょうが、歌右衛門は形象の意味から役の心情の描写に入っていると言えます。これは菊五郎の演じ方とどちらがいいとか悪いとかの問題ではなく、そこにふたりの名優の芸へのアプローチの相違が現れています。


4)吉右衛門の松王

時代物のいわゆる「型もの」で菊五郎の映像が遺されていないので、同時代の菊五郎の好敵手と見なされ・その共演で数々の名舞台を残してきた初代吉右衛門について触れてみたいと思います。吉右衛門についてもまったく同じことが言えるように思います。例えば遺されている吉右衛門の映像で昭和25年5月御園座での「寺子屋」の松王の演技です。ここで松王が「桜丸・・」と言って泣く場面の演技が非常に印象的です。

普通は この部分は松王役者の当てる場面です。「桜丸が不憫でござる・・桜丸・・桜丸・・桜・・」となって「源蔵殿、お許しくだされエ」と叫んで、ウワアアと顔に当てた懐紙を大きく動かして肩を動かして男泣き する・いわゆる「大落とし」という芝居掛かった場面です。ところが、吉右衛門はこの見せ場でウワアアと大声を上げて泣かないのです。「源蔵殿、お許しくだされ・・」と小さく低く言って懐紙を目に当てて、ウウウ・・と小さく泣くのです。大落としどころか小落としにもならない・すすり泣 きです。まったく当てようとしない演技です。吉右衛門の松王ならば、この場面で観客は拍手ができなくて・ただハンカチを握り締めるだけでしょう。しかし、その哀しみの感情は観客に切々と伝わってくるのです。たっぷりとした・ちょっと大仰な演技を歌舞伎的だと思い込んでいると、吉右衛門の演技は「歌舞伎的」でないように見えると思います。確かにこれは「播磨屋っ」という掛け声を拒否する演技です。心理主義的な新劇的な演技に見えるかも知れません。

けれども吉右衛門の演技も菊五郎と同様、その演技の発想プロセスは従来の基本約束に沿ったものだと思わざるを得ません。吉右衛門はこの場面を「松王に成り切って演じる時・我が子を失って悲しい時に・私はとても観客向けのお大泣きはできません」と感じたのだと思います。それを歌舞伎の手法で形象化しようとしたらああなったということに過ぎないのです。つまり、これは「肚芸」の延長線上の演技なのです。しかし、吉右衛門の演技もまた時代の空気を演技に取り入れているから新しく見えるのです。明治の団十郎がもし昭和の世に生きていたらこうしたであろうと思える演技です。

大事なことは、菊五郎の皆鶴姫も時姫も・吉右衛門の松王もその演技は内面の心情から発せられ(次いでに言えば息から発せられ)、内面から形象化されているということです。外形の構築から入っているのではないのです。そこのところをご注意いただきたいと思います。


5)菊吉からの揺り戻し

再現芸術というのはその時代と密接な関係があります。と言うより舞台は時代と切り離して考えることはできません。

吉右衛門の松王の映像を初めて見た時には、「これはこれまで見た松王のなかで最も新しい」と吉之助もショックを受けました。吉右衛門の松王は晩年ということもあり痩せて貧弱なのでさらにその印象が強くなりますが、写実で等身大の生身の人間なのです。当時の歌舞伎はこのような写実の演技を受け入れることができたわけです。むしろ、今時(いまどき)の松王の方がよほどたっぷりしていて大きくて芝居っ気あって・歌舞伎らしい感じがするのです。「歌舞伎らしい」ということは、いかにも江戸の人形芝居らしく時代離れしていて・ 様式的であるという意味でもあります。

菊五郎や吉右衛門の演技が写実で新しく見えて、その反面、いまの感覚から見れば歌舞伎らしく見えないということです。これが良いか悪いかということは別として、ここで分かる事は現行歌舞伎がかなり「様式」に傾いているらしいということです。テンポも現代の方がゆっくりしているように思われます。菊五郎の演技の方向性から見れば「逆戻り」と言える現象がはっきりと起きていると思います。現行歌舞伎が菊吉の芸を出発点としていることは言うまでもないのですが、いつのまにか菊吉とは違ったものになってしまった・ある意味で現代は「菊吉からの揺り戻し現象」が起きているということが言えそうです。

どうしてこういう現象が起こるのかですが、吉之助は次のように考えています。九代目団十郎の死後に歌舞伎の「型」の意味は変わったということは、「九代目団十郎以後の歌舞伎・その2:型の概念の転換」において考えました。団十郎以後の歌舞伎の「型」は、「そのようにしないと歌舞伎に見えない・とりあえずそうしていれば歌舞伎に一応は見える」という拠り所となったのです。言い換えると、現代の歌舞伎役者は外面的な表現を作るところから役の心理構築をしていこうという意識にならざるを得ないところがあります。仕草・表情の細部に何かの意味を求めようとしてしまう、それが歌舞伎のフォルムを形成するものだからです。こうなると「歌舞伎らしさ」という何やら曖昧模糊として・よく分からないイメージの制約を受けて、歌舞伎の表現の可能性はおのずと狭められて きます。未開拓の表現手法は必ず「それは歌舞伎らしくない」という批判を浴びることになります。

だから、こういう環境下においては若い世代の役者の感覚は自然と保守的になっていかざるを得ないのです。若き八代目三津五郎が菊五郎の勘平を見て「この勘平は新劇みたいだ」という感想を持ったというのも、若い世代から見れば・その辺の感覚のギャップが既にしてあったということなのかも知れません。もちろん三津五郎はその疑問を芸への取っ掛かりにして成長していっ たわけです。その取っ掛かりがないことには進歩はありません。

『六代目の小父さん(菊五郎)は調子のない方でしたから、小父さんの天才的な頭でご自分の工夫でああいう名演技、芸風を完成されましたけどあの小父さんの芸を、「あれが歌舞伎だ」と言い切ることはちょっと疑問だと思うようになりました。私ももう六代目の小父さん大崇拝で小父さんのなさることは普段のことでも、何でも彼でも真似して喜んでいましたが、(中略)でもこの年になっていろいろ考えるとどうも中毒していたように思えてきたわけで・・・』(十三代目片岡仁左衛門:「芸歴86年・感謝の日々に思うこと」・「歌舞伎・研究と批評」第10号・1992)

晩年の十三代目仁左衛門が憚りながら・・という感じでこう告白しています。仁左衛門もこういうことを正直に言うのは、なかなか勇気が要りましたでしょう。歌舞伎では「六代目」は今でも神様でしょうから。しかし、これは仁左衛門が六代目批判をしたということではなく、この発言に吉之助はこの数十年のうちに変化してきた歌舞伎の在り方を思わざるを得ません。現代においては菊五郎の行き方がもはや「行き過ぎた」ように見えているということです。変わったのは菊五郎ではなくて・歌舞伎の方ではなかったかと吉之助は感じます。

九代目団十郎以後の歌舞伎の流れを見る時に、六代目菊五郎は次のように位置づけられると思います。九代目団十郎の死後、歌舞伎は自らを「伝承芸能」と位置付け 、「団菊」をひたすらに規範とあがめることで自らを守ったのです。そのなかで「団菊と同じようにようにしないと歌舞伎に見えない・とりあえず団菊と同じようにしていれば歌舞伎に一応は見える」、そのような意識のなかで歌舞伎は次第に「様式化」していく、そういう方向が九代目団十郎以後の歌舞伎の大きな流れです。この流れはもちろん今も続いています。

そうした様式化の大きな流れのなかにも、九代目団十郎の創造精神を継いだ流れが確かにあったのです。歌舞伎が時代と遊離していくなかで、時代の空気を取り込み・なおも創造を続けようとする流れがあったのです。それが六代目菊五郎・あるいは新歌舞伎における二代目左団次でした。

ところが、現代では歌舞伎と時代がここまで遊離し・同時代の演劇ではないことが明らかになってしまいました。現代においては、もはや六代目菊五郎さえも行き過ぎたようにしか映らなくなったのです。菊五郎存命中にも、例えば岡鬼太郎のように・「菊五郎は丸本物の本質を無視している」という批判は確かにありました。あったけれども、菊五郎は昭和歌舞伎の主流で もあったし・そういう声は大きくはなりませんでした。しかし、現代では「菊五郎が歌舞伎をつまらなくしてしまった」という声が次第に大きくなっています。菊五郎が現代歌舞伎の出発点であったはずなのにです。もはや歌舞伎は故郷に帰ることはない。歌舞伎は「様式的」な方向へ行くことで自らを守っていくしかない、この流れは決定的だと思えます。これは悲しいことですが、歌舞伎の現実として受け入れねばならない事かも知れません。

だから、現代においては「型の創出」は難しいのです。「型の創出」ができたのは・かろうじて菊五郎までのことで、菊五郎以後の型の創出は非常に難しいと思わざるを得ません。だから、現代の歌舞伎は「そのようにしないと歌舞伎に見えない・とりあえずそうしていれば歌舞伎に一応は見える」という型の意味を逆手に取った演技を心掛けていかねばなりません。

このような状況においては「型を踏襲する」ということを、型によって「自分の表現の可能性が制約されている不自由さがある」と考えるか、あるいは「型の制約のなかで自分の表現の可能性をめいっぱい追求できる自由さがある」と感じるかによって、歌舞伎役者の在り方は天と地ほどに変わることになるでしょう。

(H17・3・20)





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