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「歌舞伎素人講釈」を読むためのガイド

大石内蔵助(大星由良助)

*歌舞伎台本では「ゆらのすけ」を「由良之助」と記しますが、丸本(人形浄瑠璃台本)では「由良助」と記します。本「歌舞伎素人講釈」では、文中に丸本を引用参照することが多いため、統一を取る必要上、表記をすべて「由良助」に統一しています。


1)観念の仇討ち

大石内蔵助は言うまでもなく元禄15年12月14日(西暦では1703年1月30日)の元禄赤穂事件・いわゆる赤穂浪士の主君仇討ち事件のリーダーです。この事件は世間に通称「忠臣蔵」と呼ばれ、その後の演劇・講釈・文学などの題材となっています。「歌舞伎素人講釈」にとって「忠臣蔵」はこれからも何度も角度を変えて取り上げる価値のある作品です。本稿では吉之助 は歌舞伎の代表的キャラクターとしての大石内蔵助(=大星由良助)をどう見るか・そのポイントを簡単にご紹介することとし、詳細についてはリンクしてある記事をお読みください。

*実説の大石内蔵助の筆跡については写真館「大石内蔵助という人物」をご覧ください。史実の内蔵助も・我々の期待を裏切らない・どっしりとした風格ある人物だったのではないでしょうか。

歌舞伎のなかで仇討ち物は大きなジャンルとなっています。「忠臣蔵」も曽我物のような仇討ち物のパターンでもちろん読み解くことができますが、実は「忠臣蔵」は仇討ち物のなかで特異な位置を占めるものです。江戸時代というと仇討ちを思い出すほどこの時代には仇討ちがいっぱいありましたが、その大半は私怨によるもので主君のために仇を討ったという例はたったの2件しかありませんでした。ひとつは赤穂浪士の件であり、もうひとつは享保9年に石見の浜田城主松平周防守の江戸屋敷で起こった事件で、中老のお道という女性が同じく中老の沢野という女性に辱められて自害したのをお道に仕えていた女中お里が復讐したという話です。これは俗に「女忠臣蔵」と呼ばれて、後に浄瑠璃・歌舞伎にもなって「加賀見山旧錦絵」という人気狂言になっているものです。

*「忠臣蔵」が歌舞伎の仇討ち物のなかで特異な題材であることについては、吉之助流仇討ち論シリーズのなかの「近世的な・あまりに近世的な」を参照ください。中世からの流れを汲む 御祓い的な要素を持つ仇討ち物のなかに、近世武士道の観念的な要素が入り込んだのが「忠臣蔵」です。「忠臣蔵」とは観念の仇討ちなのです。

「忠臣蔵」が観念の仇討ちであることは、真山青果の「元禄忠臣蔵」を見ればよく分かります。登場人物たちの議論は「自分たちはいかに生きるべきか・武士が武士であることを如何に貫くか・義とは何か・自分たちはどう美しく死ぬか」ということです。これについては「個人的なる仇討ち」を参照してください。もちろんこのことは青果の近代的人間理解からの産物であり・実際の赤穂浪士の考えていたこととちょっと異なるかも知れませんが、青果が赤穂浪士の行為から抽出した「観念の仇討ち」という概念は「忠臣蔵」のなかに元からあるもので、これこそ「忠臣蔵」を二ユークたらしめるものです。


2)いかに自分らしく生きるか

武士階級は戦闘集団ですから、本来武士に求められるべき要件は戦さに強くて・死を恐れず・勇敢なことでした。戦国時代はそれでよかったわけですが、戦乱のない江戸の世にあっては・武士階級は官僚(テクノクラート)であって、一番必要なのは読み書き・ 礼儀作法でありました。強いことは武士の必要要件ではなく、むしろ武骨なことは迷惑なことになりました。このことは武士のアイデンティティー(自己の存在証明)を 根底から揺るがせました。このために「武士が武士であること」を何に求めるかということが江戸時代の武士の至上命題であったのです。代表的なのは言うまでもなく山本常朝の「葉隠」での「武士道とは死ぬこととみつけたり」という言葉です。(「葉隠」の武士道論については「芸能の一回性を考える」を参照ください。)

「忠臣蔵」の内蔵助は自らが武士であることにアイデンティティーを賭けています。「禄を失った自分たちがそれでも武士であるならば・自分たちは武士としてどう行動すべきか・武士の本分を貫くためにはどうすべきか・自分たちは武士としてどう美しく死ぬか」という命題を背負っています。これは単純に言い換えれば「自分たちはいかに自分らしく生きるか」ということです。だから江戸の庶民にとっても自分たちに突きつけられた問題として受け止めることができた命題でした。「忠臣蔵」が単なる忠義礼賛のドラマであるならば、「忠臣蔵」があれほど庶民の心を捉えることはできなかったでしょう。

「自分たちはいかに自分らしく生きるか」という命題は、「忠臣蔵」の場合・登場人物に課せられた状況の重さとして問い掛けられています。由良助(=内蔵助)にとっては、「由良助、この九寸五分は汝へ形見。我が鬱憤を晴らせよ」という主君判官が切腹する際に遺した言葉が重く圧し掛かります。もうひとつは判官が「恨むらくは館にて加古川本蔵に抱きとめられ、師直を討ちもらし無念、骨髄に通って忘れ難し」と言い残したことです。

判官のひとつめの言葉は由良助に主君への絶対の忠誠を誓わせることで・武士としてのアイデンティティーの証明を求めるものです。これについては「由良助は正成の生まれ変わりである」をご覧ください。判官のふたつめの言葉は忠誠の証明に対して厳しい条件を付けるもので、由良助にとって身内同然(息子力弥の許婚の父親)である加古川本蔵の死を求めるものです。つまり、主君の仇を討つだけでは十分ではなく、任務の遂行は他者が「然り」と認める形で行わなければならないわけです。これについては「九段目における本蔵と由良助」をご覧ください。

*「九段目」の本蔵に対してだけでなく・由良助は、仇討ちの大望を果たすために・本音を吐くことは許されず・同情することは許されません。「六段目」においては勘平のことを思いやりながらも、その一方で「不忠を犯した勘平を生かしてはおけぬ」とするのが由良助です。「切腹せよ・それならば仲間に加えよう」というのが勘平に対する由良助の判断です。これについては「勘平は死なねばならない」をご覧ください。

*このような極限状況において由良助の神経は引き裂かれています。「仇討ちの大望のために私は鬼になるのだ」という状況を自らに課すのが由良助です。これについては「七段目の虚と実」をご覧ください。「七段目」の由良助は「何の罪もないお軽を殺すことで、私はどれほどの苦しみを味あわねばならないのか。主君の仇討ちを遂行することで ・私はこれからどれだけの罪を犯さねばならないのか」ともがき苦しむことで由良助はこの状況にかろうじて耐えるのです。

*登場人物に課せられた状況の重さは、「忠臣蔵」前半ではまずイライラした気分になって現れます。これについては「イライラした気分」をご覧ください。もうひとつは「忠臣蔵」後半の由良助の嘘か誠か分からないユラユラした気分です。これについては「誠から出た・みんな嘘」をご覧ください。

*この「忠臣蔵」のイライラ・ユラユラした気分は、青果の「元禄忠臣蔵」にも引き継がれています。これについては「元禄忠臣蔵の揺れる気分」をご覧ください。この気分はふたつの世界大戦にはさまれた昭和という時代の不安な状況と密接な関連がありますが、それは「この時代をいかに自分らしく生きるか」という命題と重なるのです。

*青果の「元禄忠臣蔵」では・由良助の初一念ということが繰り返し語られています。しかし、これは初めから巌とあって・揺るぎがない信念ということではないのです。不安と・疑いのなかにあって・常に揺らぎながら・後になってみればあれがあったから乗り切れたと思えるようなもの、逆に言えばそのような実に頼りないものが初一念なのです。「内蔵助の初一念とはなにか」をご覧ください。


3)他者的な存在

「忠臣蔵」後半(六段目〜九段目)のドラマは、端的に言えば「由良助は何を考えているのか・仇討ちをする気があるのか・それともないのか」というドラマだと言えます。由良助自身は何も語ってはいません。誰も由良助の本心が分かりません。そんななかで周囲の人物が由良助の内心を勝手に憶測して・怒ったり・不安になったり、何か仕掛けて本音を探ろうとしてみたりしているドラマなのです。周囲の登場人物の側から見れば、「忠臣蔵」は状況によって押しひしがれた由良助のドラマとまったく異なる様相を呈してきます。逆に由良助が周囲にプレッシャーを掛けているような状況になっています。状況のなかで硬化した由良助はまるでブラック・ホールのように周囲の空間を歪(ひず)ませて・周囲の人物を振り回しています。このことは「七段目の虚と実」「九段目における本蔵と由良助」をご覧ください。

このことは周囲の人物から見れば・由良助が状況(他者的存在)と一体化して見えることを示しています。「六段目」において勘平は自らの命を差し出すことで・仇討ちの連判状に名を連ねることを許されます。このような捧げ物を受け取ってその者を許すという・超越者の許しの構図は時代物の典型的な構図です。このことは「六段目における時代と世話」をご覧ください。

「忠臣蔵」後半での由良助は確かに神掛かって見えます。由良助は何でもお見通しのようです。そしていろいろ紆余曲折のドラマはあるけれど・結局は自分の思う方向に結論を持っていってしまう超越的な人物に見えます。しかし、その非情さの陰で・由良助はこの世の無慈悲・この世の有様に対して慟哭しているということを感じ取らなければなりません。このような由良助の在り方は、実は深いところで・歌舞伎での源義経と通じるところがあります。義経は悲惨な幼少期を過ごし・華々しい戦功を挙げて頂点に登りつめるが・一転して奥州の地に寂しく果てるという流転の人生を経て、人生の無常を悟った人物です。それゆえに歌舞伎は義経を神のような存在として扱うわけです。「勧進帳・義経 をめぐる儀式」は「勧進帳」の論考、「義経は無慈悲な主人なのか」は「熊谷陣屋」の論考ですが、これらの論考で義経について書いたことはそのまま由良助にも当てはまります。

*このような他者的存在の由良助が、青果の近代的解釈では指導者と部下の信頼関係の揺らぎに置き換わってくることもとても興味深いことです。「指導者の孤独」をご覧ください。

*「忠臣蔵」は歌舞伎の最高の人気作品であり、日本人のなかに大きな影響を与えてきました。もちろん「忠義の鑑」としての「忠臣蔵」という読み方もあります。「忠臣蔵のもうひとつの読み方」では「忠臣蔵」が忠孝思想と強く結びついていく過程を分析しています。 明治の九代目団十郎が、時代の要請のなかで忠孝思想を体現した代表的キャラクターは「勧進帳」の弁慶・「熊谷陣屋」の直実、そして「忠臣蔵」の由良助です。「時代にいきどおる役者〜九代目団十郎以後の歌舞伎」写真館「名優たちの由良助」をご覧ください。

*ちょっと変わった「忠臣蔵」の視点としてはこれを御霊信仰で読むというのもあります。これについての吉之助の考え方は「忠臣蔵は御霊信仰で読めるか」をご覧ください。

*「忠臣蔵」には数多くの書替の芝居がありますが、そのなかで鶴屋南北の「東海道四谷怪談」はもっとも優れたものです。お化け芝居としてあまりにも有名な「四谷怪談」は初演時には「忠臣蔵」とテレコで上演されました。「裏の忠臣蔵」としての「四谷怪談」がどういう意味を持つのかは、「四谷怪談から見た忠臣蔵」,・「時代物としての四谷怪談」をご覧ください。

*令和元年に播州赤穂と京都山科の地を訪ねて、大石内蔵助の足跡をたどって来ました。
播州赤穂訪問記・その1〜息継ぎの井戸、大石邸跡から大石神社まで
・「播州赤穂訪問記・その2〜清水門跡、天守台から花岳寺まで
・「大石内蔵助閑居の地
〜山科・岩屋寺から伏見橦木町

(R2・5・10更新)


 

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