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「忠臣蔵」のもうひとつの読み方

〜由良助の「忠孝」思想について考える


1)顕彰された内蔵助

明治元年(1868)、京都を発った明治天皇の一行が東京城と改名されたばかりの江戸城に入城するために東海道を進んでいました。11月5日、品川・高輪泉岳寺前に差し掛かったところでその行列が止められました。そして寺に明治天皇の勅書と金一封が届けられました。その勅書は元禄15年(1702)12月14日に討ち入りを行なった大石内蔵助良雄(よしたか)以下4 6名の赤穂義士を表彰したものでした。勅書には

「汝良雄等 固ク主従ノ義ヲ執リ 仇ヲ復シテ法ニ死ス 百世ノ下 人ヲシテ感奮起セシム 朕深ク 嘉焉賞ス」

とありました。これは天皇に対する忠臣ということで有名な楠正成などを顕彰する(明治5年:神戸市・湊川神社の創設)よりずっと前のことです。まだ江戸城に落ち着く前の明治天皇が赤穂浪士を顕彰するというのは、どうしてそんなに急ぐ必要があ ったのかなとちょっと奇異な感じがします。

実は赤穂義士の討ち入り事件というのは朝廷にとって無関心ではいられない事件でした。と言いますのは吉良上野介義央は当時の江戸幕府の朝廷工作の中心人物で、幕府の度重なる干渉に朝廷の不満は高まっていましたから、朝廷からすれば上野助は「憎んでも憎みきれない人物」であったことがあります。また浅野家はもともと天皇家に対する尊敬の念が強く、万治4年(1661)に焼失した明正院御所の再建に内匠頭の祖父が力を尽くしたこともあり、江戸城での刃傷事件については朝廷では浅野に同情的な声が多かったのです。

当時の東山天皇にもっとも近く、また朝廷の実力者であった関白近衛基熈(もとひろ)は、3月19日にこの刃傷事件の知らせを聞き、「珍事々々」と日記に書いています。何かふざけているというか、愉快でたまらないと言った調子です。翌日、この知らせを天皇に報告に行くと、この時点では上野介は生きているのか死んでいるのか分からなかったのですが、天皇は「御喜悦の旨仰せ下しおわんぬ」(「基熈公記」)とのことでした。

このように赤穂浪士の討ち入り事件についてはもともと朝廷は同情的であったわけですが、その約160年後に明治天皇が江戸に入って真っ先に赤穂義士の表彰を行なうというのは、江戸の庶民に人気のある赤穂義士の主人に対する命をかけた義と忠誠を称えることで、新たな為政者である天皇への忠誠を江戸の庶民に呼びかけようという政治的意図があったということなのでしょう。

ところで九代目団十郎が初めて「仮名手本忠臣蔵」の由良助を演じたのは明治元年のことでした。これはたまたま偶然そうなったということでしょうが、その後の団十郎を見ているとこれもなんだか象徴的なことのように思われてなりません。九代目団十郎の由良助が描いたその「忠義」は、明治天皇を中心とした中央集権体制の確立のために「勤皇思想」の高揚に大きな役割を果たしたに違いありません。(これ以降、「忠臣蔵」と書く時はそれは「仮名手本忠臣蔵」のことを指すとお読みください。)

「舞台に上がりました以上は己を忘れ舞台を忘れその役某者になり切って仕舞ねば何にしても本当のことはできません。たとえば私が由良助をやりましても市川団十郎が由良助に扮して御見物方が見ていらっしゃると思ってはどうもその人になりきれません。そういうのはいくらよく出来ましたところがそれは団十郎が由良助らしく出来たのでお客様は決して団十郎を見に入しったのではございません。本当の目的は由良助にあるので、主君を犬死にさした由良助の心持ちは何であろう、なるほどこれでは敵討ちの大望を企てなければなるまいという狂言を見に入らっしゃるのです。」(九代目市川団十郎)

これは九代目団十郎の明治32年ごろの発言です。この団十郎の発言は「その役になり切って演じよう」という近代的な自然主義演劇思想の影響をうけた発言です。団十郎の得意とした肚芸(役になり切ってその性根を腹に納めて演じる)の考え方、「活歴」運動などもそうした演劇思想の流れから出たものなのです。

と同時に、この団十郎の「由良助」発言は次のようにも解釈できます。団十郎は由良助になりきることで、江戸の「忠孝」の理想を明治の観客の眼前に再現しようとしたのです。否定されたはずの前時代(徳川政権)のドラマを明治の世において上演しようというならば、そこにどういう意味を見出すべきか、そこまで考えられないのならば団十郎は由良助を演じることは決してしなかったでしょう。(現に団十郎は盛綱・実盛などを二股武士だとして決して演じようとしませんでした。)

明治30年(1897)6月歌舞伎座で団十郎が演じた「裏表忠臣蔵」の由良助は、「気魂精神おおいに加わり、まことは大名優。真に精忠無二の由良助なり。」と絶賛されています。(饗庭篁村:「竹の屋劇評集」)

それは「忠臣蔵」で描かれている封建武士の論理である「忠孝」の思想が、明治の「勤皇・忠臣報国」の思想にもそのまま通じたということを示しているのです。だからこそ「忠臣蔵」は明治になってからもますます民衆に支持されて上演されていったのです。映画や文芸などの題材にもますます取り上げられていきます。

それでは「忠臣蔵」と勤皇思想は、どこでどういう風にして結びつくのでしょうか。


2)「太平記読み」と勤皇思想

そのためには、江戸時代の人々の素養としてあった「太平記読み」のことを考えてみなければなりません。水戸光圀(黄門)が摂津湊川(いまの神戸市)に「嗚呼忠臣楠子之墓(ああちゅうしんなんしのはか)」を建立したのは、元禄4年(1691)のことです。水戸光圀は藩の事業として「大日本史」の編纂を志すのですが、そのきっかけは少年時代の「太平記」体験によるところが大きいと考えられています。

これは水戸光圀だけのことではなくて、当時の武士においては「太平記」は必須の教養書でありました。新井白石は四・五歳の時から太平記を読み聞かされ、「その義を請け問う事などもあった」(「折たく柴の記」)と言います。また、林羅山は少年の頃に太平記講釈を聞いてその多くを暗誦していたと言います。

「太平記」は文保(ぶんぽう)2年(1318)の後醍醐天皇の即位に始まり、鎌倉幕府の滅亡・建武政権の成立と崩壊・さらに足利尊氏の北朝擁立と室町幕府の成立・楠正成や新田義貞の戦死、そして貞治(じょうじ)6年(1367)の足利義満の登場までを描いた歴史物語です。建武の新政の功労者であった足利尊氏は後醍醐天皇と反目し、北朝系の天皇を立てて征夷大将軍となって室町幕府を興します。だから室町時代においては南朝は「偽朝」扱いされていたわけですが、源氏の流れである足利氏が十五代で滅び、かわって征夷大将軍に任ぜられた徳川家康は清和源氏新田流を称しました。つまり、南朝側に属して戦った新田 源氏の由緒を以って、徳川将軍が足利将軍に代わることの大義名分・正統性を主張する、これが水戸光圀の「大日本記」編纂の根本動機であったのです。(こういう歴史観を「交代史観」と言います。)

このように徳川幕府の歴史的位置の正統性を突き詰めていくと、これは必然的に「南朝正統論」に行き着くことになります。それで水戸光圀は北朝を偽朝と断言し、楠正成を顕彰したりしたわけです。

ところが「大日本史」編纂から発した水戸学は光圀がおそらく本来は意図しなかった方向へ発展していきます。徳川家が幕府を興すことができる根拠は、天皇(朝廷)が征夷大将軍の称号を徳川家に与えているからに他なりません。このことは日本の政治における天皇の役割を改めて意識させます。将軍というのは天皇から政治を任されている「臣下」ではないのかということになっていきます。この考えが後期水戸学での「勤皇思想」の萌芽になっていきます。幕末の水戸藩は当時もっとも先鋭的な尊皇攘夷派であったのです。

徳川御三家である水戸藩が「勤皇」であるのは不思議な気がしますが、面白いことに「太平記読み」の歴史観によって、徳川家が武家の代表として天皇に仕え「忠孝」に励み、その「奉公」に対する「御恩」として征夷大将軍に任ぜられているのであるという考え方がありますから、「勤皇思想」そのものは幕府体制の考えと直接的に矛盾を起こすことはないのです。しかし、ちょっと見方を変えれば「太平記読み」のなかに、すでにして近代的国家としての天皇を中心とした中央集権国家としての「 国民・臣民」としての概念の漠然としたイメージが見えてくるとも言えましょう。


3)勤皇思想としての「忠臣蔵」

「大星由良助(=内蔵助)は楠正成の生まれ変わりである」ということは本「歌舞伎素人講釈」では何度か考察しました。このことは単なる「見立て」なのではありません。由良助を正成のイメージに重ねることで、何かの役割を由良助は背負うのです。

まず「太平記」を見てみると、楠正成は後醍醐天皇に「忠孝」を尽くし、南朝側の武将として北朝側の足利尊氏に対立しています。「忠臣蔵」に登場する足利直義は尊氏の弟であり、高師直は尊氏の執事です。

史実の大石内蔵助は、主人である浅野内匠頭の無念を晴らすために敵である吉良上野介館に討ち入りその首をあげるという「忠義」を働きました。まずはその「忠義」のイメージにおいて内蔵助は正成に擬せられるのですが、それだけではありません。吉良家というのは江戸時代においては足利家の流れを汲む唯一の名家でありました。その吉良家を断絶に追い込んだ内蔵助は、つまり足利家の血筋を滅ぼしたということになります。内蔵助はその最後において「七生までただ同じ人間に生まれて朝敵を滅ぼさや」と言って自害したという正成の誓いを実現した男であったのです。このことは「太平記読み」の素養をもった当時の人々にはまさに直感的に感じられたことであったと思います。「 仮名手本忠臣蔵」はそのような歴史観のもとに作られているのです。

しかし後年の「太平記読み」の観点からは「忠臣蔵」をもう少し別の見方で読むことが可能になるでしょう。まず大星由良助は主人である塩冶判官の無念を晴らした「忠臣」であることは確かですが、足利尊氏の執事である高師直を討ったということは、北朝の重要人物を討った南朝にとっての忠臣ということにもなります。南朝の忠臣ということは後醍醐天皇( 「正統」であるべき南朝の天皇)にとっての忠臣ということです。

「太平記」における高師直というのはなかなかの悪役です。塩冶判官高貞の奥方に懸想して塩冶家を皆殺しにしてしまう話もそうですが、楠正成の長男正行が師直の首(じつはその影武者だったのですが)を挙げた時の喜びようなどは、「この首を宙に投げ上げては受け取り、受け取っては手玉についてぞ悦びける」と描写しているほどです。(巻26・「四条綴合戦の事」) さすがに「忠臣蔵」ではこの場面を取り入れてはいませんが。

「忠臣蔵」において「忠孝」のキーワードを介して由良助(=内蔵助)と正成のイメージはダブり、互いの印象を増幅させていきます。赤穂義士の討ち入りは芝居だけでなく講談・読み本などさまざまな芸能・文芸に取り上げられました。芝居においては赤穂義士は「曽我兄弟の世界」とか「小栗判官の世界」とかにいろいろな設定が試みられましたが、結局は「太平記の世界」に落ち着いていきます。その決定版と言える「忠臣蔵」が太平記の世界に設定されたことで、由良助(=内蔵助)が「勤皇の象徴」であるという明治時代での構図は、すでに江戸の民衆の心のなかに用意されていたということになるのです。

江戸の町民は将軍のお膝元で暮らしているから、天皇(朝廷)の存在など全然知らなかったというイメージがありますが、当時の人々に「太平記読み」の素養があったことを知っていれば、そうは断言できないことが分かるでしょう。「忠孝」のキーワードを通して日本の国民を「天皇の臣民」にスムーズに育てるために由良助(=内蔵助)はまさに好都合なキャラクターであったわけです。


4)さらに「忠臣蔵」の深読みへ

さらに、これは「忠臣蔵」の本来の読み方ではないと思いますが、こういう読み方も可能になっていきます。由良助が南朝方の忠臣であるということは討ち入りという行為は「偽朝」である北朝を擁立している足利家への「反抗」である、という見方です。北朝が偽朝であるならば足利家の権威もまた否定されねばならないのです。

もともと赤穂浪士の討ち入りも、「喧嘩両成敗」が不文律であるのに十分な詮議もしないままに浅野内匠頭だけを切腹に処し・吉良上野介には何の咎めもなかったことへの「御政道への抗議」であったという見方があり ました。大石内蔵助らにその気持ちが全然なかったわけでもないとは思いますが、やはりその行為は武士としての本分や意地にかけた「かぶき的心情」に根ざしたものであったと思います。

「忠臣蔵」においては、その憤懣・敵意は高師直一人に向けられており・将軍家には向けられていません。将軍家(足利家)は徳川家に擬せられているのですからこれははばかられて当然ではあります。しかし、もし「太平記読み」の観点で見て「忠臣蔵」で偽朝を擁立する足利将軍家の権威が否定されているならば、それは徳川将軍家の権威も 暗に否定(あるいは疑問視)されているのではないかと考えることも深読みすれば可能でありましょう。これはあくまで深読みです。吉之助は竹田出雲らがそのような意図を持って「忠臣蔵」を書いたとは思いませんし、本来の「忠臣蔵」にそのような読み方はあるべきではないと思いますが、このような見方はじつは「太平記読み」の深読みから引き出されることでもあります。

「忠臣蔵」の主題を賄賂批判・官僚主義批判であるとして読む考え方は、劇中の師直への敵意を考えれば理解できましょう。さらに「忠臣蔵」を敵討ちという非人間的行為に人々を追い込む忠義という封建制の論理への批判であるという考え方は、将軍家(足利家=徳川家)への権威への疑問視から発するのです。それは階級闘争的(唯物史観的)な視点を孕んでいて、革命・維新への萌芽を感じさせる見方です。

大石内蔵助ら47名の赤穂義士や、「忠臣蔵」の作者たちがそのような革命思想を胸に秘めていたでしょうか。これはちょっと考えにくい と思います。しかし、後世の人が赤穂義士の討ち入りを読もうとすれば、そういう視点が解釈に入り込むこともまた至極当然のことではあります。先に書きましたように、維新政府は「忠臣蔵」のドラマを明治天皇への忠孝に読み替え・前政権である徳川家への否定に利用しようとしました。この構図もじつは「太平記読み」の教養によって庶民にすんなりと受け入れられる素地が用意されていたということです。

太平洋戦争敗戦のあと、GHQ(連合軍総司令部)は歌舞伎の上演を厳しく規制し、とくに敵討ち関連演目の上演を禁止しました。この規制は徐々に解かれましたが、最後まで残った 大物が「仮名手本忠臣蔵」でした。GHQがどれほどまでに「忠臣蔵」の思想を気にした のか、今の我々にはちょっと想像ができません。敵討ちと言ったってたかがお芝居・娯楽じゃないのと思ってしまいます。しかし、明治以降敗戦までの「忠臣蔵」が背負わされてきた「忠臣報国」の思想の重さを考える時、GHQにとってはいくら心配しても足りなかったということは理解できましょう。

以上、「忠臣蔵」の解釈のさまざまな可能性を「太平記読み」の視点から考えてみました。日本民衆のこころのなかに赤穂義士の討ち入りが与えてきたことの重さというものを改めて感じてみたいと思います。それでは現代において「忠臣蔵」をどう読むべきであろうか・新しい別の読み方がされるべきであろうか、このことはこれからも自らに問うていくべき問題であると思っています。

(H14・12・22)

(参考文献)

兵藤裕巳:「太平記読みの可能性・歴史という物語」(講談社選書メチエ61)

*別稿:「忠臣蔵をかぶき的心情で読む」シリーズ4本もご参考にしてください。



 

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