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大石内蔵助閑居の地〜山科・岩屋寺から伏見橦木町


1)大石内蔵助閑居の地〜山科・岩屋寺

平成31年2月に播州赤穂を旅行し・大石内蔵助の足跡を訪ねた(別稿「播州赤穂訪問記」を参照のこと)ので、今回は京都山科へ大石内蔵助閑居の地を訪ねて来ました。つまり「仮名手本忠臣蔵・九段目・山科閑居」の舞台です。

現在のJR山科駅周辺はすっかり住宅地で、マンションが立ち並んでいます。JR山科駅から3キロくらい住宅街を歩くと(バスならば10数分くらいの距離ですが)風景が田園風景になってきて、小高い山の麓に岩屋寺(いわやじ)というお寺が見えてきます。岩屋寺は京都府山科区西野山桜の馬場町にある曹洞宗のお寺です。創建年代は古く平安時代と伝えられ、その頃は天台宗のお寺でした。お寺の前庭に大石内蔵助が隠棲した邸宅跡地があるので、大石寺と呼ばれることもあるそうです。

京都府山科区の岩屋寺付近。上の写真に見える山が稲荷山で、山の向こうに伏見稲荷があります。山を越えれば伏見の街はすぐそこです。閑静で人目につきにくく、一方で京都・伏見への交通の便も良いので同志との打ち合わせもしやすいと云うことで、この地が選ばれたようです。

元禄14年(1701)4月18日に赤穂城を明け渡した大石内蔵助は、その後親戚筋である新藤源四郎の世話で京都山科に移り、この岩屋寺界隈に住まいを構えました。これは同年6月頃のことでした。源四郎の身許保証を得て田地を買い入れ母方の姓である池田久右衛門と名乗って住居を構えました。この時代は幕府の取り締まりが厳しく浪人が住居を構えるには庄屋、年寄、村役人の許可が必要でした。なお新藤源四郎はその後脱盟し不義士とされています。鶴屋南北の「東海道四谷怪談」には伊右衛門の父ということで源四郎が登場します。(別稿「四谷怪談から見た忠臣蔵」を参照ください。)

岩屋寺への入り口。「大石内蔵助居跡」の石碑が立っており、正面突き当りが岩屋寺です。内蔵助閑居跡は岩屋寺山門の右手前にあります。

天明7年(1787)に刊行された、京都名所のガイドブック「都名所図会」には山科の大石邸宅跡が絵入りで紹介されているので、この頃にはこの地は有名な観光スポットになっていたのかも知れません。恐らく人形浄瑠璃・歌舞伎の「仮名手本忠臣蔵」人気が貢献していますね。(人形浄瑠璃の「仮名手本忠臣蔵」は寛延元年(1748)大坂竹本座の初演。)

写真は「都名所図会」・岩屋寺の頁。

山科閑居での大石内蔵助の動静を時系列で見ていきます。

元禄14年(1701)6月に内蔵助は、京都山科・岩屋寺界隈に住まいを構えました。8月頃には妻子を呼び寄せています。

同年10月に内蔵助は急進派を抑えるため江戸に赴きます(第1次東下り)が、12月には京都に戻りました。この帰京後から内蔵助の放埓・遊興三昧がひどくなります。吉良家や上杉家の目を欺くための演技だったと云われますが、もともと大石は若い頃から遊びが大好きな人であったとも伝えられます。はたして真相は如何に。なお内蔵助が遊んだのは芝居にある祇園ではなく、もっぱら伏見橦木町であったようです。煮え切らぬ内蔵助に愛想を尽かしたのか、この頃から脱盟者が出始めました。その一人は急進派の筆頭・高田郡兵衛でした。

元禄15年(1702)2月15日から数日間、山科で今後の方向を決めるための会議が行われました。これがいわゆる「山科会議」です。この会議ではすぐさま討ち入りすべしと云うのは少数意見で、内蔵助はしばらく様子を見ようという意見であったようです。この会議のすぐ後に、大石から浅野家再興の嘆願書が提出されています。(真山青果の「元禄忠臣蔵」ではこの浅野家再興の嘆願への迷いと葛藤が内蔵助放埓の一因であったとします。)

元禄15年4月15日に、内蔵助は討ち入りに加わることを望んだ長男良金を除いて、妻りくと4人の子供を豊岡にある実家に戻し、その後離縁しました。なお内蔵助には「おかる」と云う妾(「おかぢ」「おかや」「可留」だったとも云われる)がいました。おかるは十八歳で四十四歳の内蔵助のところに小間使い兼側女として入り、子を宿すが子供のその後は不明。おかるの墓は京都上善寺にあるそうです。

元禄15年7月18日に浅野大学が広島藩浅野本家に引き取られることが決まりました。これは事実上浅野家再興が認められないということでした。これを受けてすぐさま7月28日に京都円山の安養寺で会議が行われ(いわゆる「円山会議」)、ここで内蔵助は10月に江戸に下り吉良邸に討ち入る意志を正式に表明しました。

と云うわけで山科閑居の時期の内蔵助には、決して劇的ではないので芝居になり難そうだけれども、渋い心理ドラマの材料がたくさんありそうです。真山青果の「元禄忠臣蔵」連作では、山科の時期の内蔵助を描いた「伏見橦木町」があります(あまり上演されませんが)。青果はこの他に「山科閑居」・「円山大会議」を構想し取材を済ませていたようですが、結局執筆がされませんでした。

写真上、内蔵助閑居跡地は岩屋寺の前庭にあり、現在では記念塔があるのみです。元禄15年(1702)12月14日に決行された吉良邸討ち入りが成って後に、内蔵助の遺言により山科の邸宅・田畑一切が岩屋寺に寄進されました。邸宅は取り壊されて、今は残っていません。小高い丘の上に位置し、ここから山科の田園風景が一望できたと思います。

写真下は岩屋寺山門横にある内蔵助忠霊堂と遺髪塚。忠霊堂に内蔵助木像を安置し供養しています。赤穂義士は罪人の扱いなので、当時は正式なお墓を作ることが許されませんでした。内蔵助の遺骨は、他の赤穂義士と供に品川の泉岳寺に葬られていることは、ご存じの通りです。

写真上下、内蔵助の遺髪塚。

写真下は岩屋寺山門と境内。吉之助が同寺を訪れたのは12月11日でのことでしたが、例年12月14日に義士祭が行われるので、そのポスターが貼ってあります。

写真下の岩屋寺境内の茶室・可笑庵は、内蔵助邸宅の古材で建てられたものだそうです。手前に内蔵助お手植えの梅の木があります。

写真下、岩屋寺のお隣にある山科神社は、創建寛平9年(897)とされる由緒ある神社です。もちろん内蔵助も参詣して大願成就を祈願しています。

写真下、同じく岩屋寺のお隣にある大石神社は、昭和10年(1935)の創建。播州赤穂にある大石神社が大正元年(1912)であるのと同様に、大正・昭和初期の報国忠孝思想の高まりのなかで赤穂義士が祀り挙げられたものです。現在は「大願成就」の神社となっています。

2)山科閑居から伏見稲荷へ

「仮名手本忠臣蔵・九代目」冒頭・雪転がしの場(大抵の場合カットされますが)を見ると、祇園から仲居・幇間を引き連れて由良助が山科閑居に帰って来るシーンがあります。そこで地図を眺めてみると山科閑居から祇園・伏見までは直線距離にすると、そんなに遠くもなさそうです。ただし祇園に行くにも・伏見に行くにも、背後の稲荷山が邪魔するのでこれを迂回せねばならないので、実際には距離がもっと長くなります。仲居・幇間を引き連れて雪転がししながら気楽に帰れるほど近いわけではなさそうです。

そこで史実の内蔵助がこの道を歩いたかは分かりませんが、岩屋寺の背後の稲荷山を登って最短距離で山の向こうの伏見稲荷へ行ってみることにしました。大石神社の脇の道から稲荷山方面へ抜け道を登っていきます。稲荷山は233メートルの標高でたいした高さではないですが、場所によっては勾配がきつく日頃運動不足の吉之助には大変で、大石神社から伏見稲荷大社本殿までゆっくりペースで歩いて1時間半近くかかってしまいました。多分、この道は内蔵助は歩かなかっただろうと思いました。

ほんとにこの道で正しいのか途中で不安になって来る。

山道を40分くらい登っていくと山頂らしき平坦地になって、石の鳥居・祭壇・灯籠を備えた祠が現れました。さらに行くと赤い鳥居が見えてきて、どうやら伏見稲荷の境内に入ったことが分かります。伏見の街が一望出来るかと期待してましたが、全然見えません。

写真上、稲荷山の山頂(一ノ峯)に着きました。ここは末広大神を祀る神社になっています。 吉之助は伏見稲荷にこれ以前に二度行きましたが、大抵の日本人は千本鳥居をずっと上って山頂まで行くことはあまりない、疲れるので大抵の人は途中で引き返しちゃうと思うんですよね。今回は稲荷山の反対側から登ったので伏見稲荷にてっぺんから入りましたが、驚いたことに頂上は中国人ばかりでした。何でも中国人にとっては鳥居の朱色が魔力に対抗する色ということで非常にインパクトがあって、千本鳥居が立ち並ぶ光景が非日常的空間として大人気スポットなのだそうです。とにかく伏見稲荷が中国人で溢れていたのには驚きました。

3)内蔵助と伏見橦木町

伏見橦木町遊郭の発祥は古く、慶長元年(1596年)に伏見田町に出来た遊郭が、伏見城落城後慶長九年(1604年)に橦木町に移転したものです。島原の流れを汲む由緒ある遊郭として、元禄期に全盛期を迎えました。山科に隠棲中だった内蔵助は、ここ伏見橦木町でしばしば遊びました。つまりここが史実の「七段目」の舞台と云うことです。敵を欺くために遊興し策略を練り大願を果たした内蔵助にあやかって、後世の人々は「撞木町での密謀は成就する」と噂したそうです。

伏見橦木町(ふしみしゅもくちょう)は、京街道と大津街道の分岐点に近く、古くから芝居小屋や土産物屋が軒を連ねた場所でした。「橦木町」と云う町名は道路の形が撞木(しゅもく、T字形)に由来するそうです。街並みにかつての廓の面影はほとんど残っていません。「橦木町廓入口」の石碑に大正7年(1918年)に建てられたもので、この入り口から100M先右手に「萬屋(よろずや)跡」の石碑があります。

内蔵助が一番好んで通ったのは橦木町で一番大きな「笹屋」という揚屋でした。なじみの太夫は浮橋太夫と云いました。真山青果の「元禄忠臣蔵・伏見橦木町」でも、笹屋と浮橋太夫が登場します。笹屋は橦木町遊郭の一番奥に位置したそうですが、正確な場所が分からないそうです。内蔵助はもう一軒の、大きな揚屋である「萬屋(よろずや)」でもよく遊びました。萬屋は橦木町入り口近くに在り、現在はそこに「大石良雄遊興の地、よろずや」の石碑が建っています。

写真上は「橦木町遊郭」の由来を述べた石碑です。

写真下は、内蔵助も遊んだ遊郭「萬屋(よろずや)」の石碑。印刷会社の駐車場の電柱脇にひっそり建っていて、「夢の跡」という風情で何とも侘しいですなあ。この石碑を東京からわざわざ見に来た吉之助も酔狂なことですが、内蔵助(由良助)が生きていた痕跡を確認出来て、それはそれで満足した気分になりました。

ところで「仮名手本忠臣蔵・七段目」では、由良助(内蔵助)が遊興したのは祇園一力茶屋ということになっていますが、史実の内蔵助が遊んだのは伏見撞木町でした。内蔵助のお気に入りは笹屋でしたが、もうひとつの大店・萬屋(=万屋)にもよく通ったそうです。当時の祇園には「一力」という店がありませんでした。「一力」というのは、「万」の字を「一」と「力」に分解したものです。寛延元年(1748)人形浄瑠璃「仮名手本忠臣蔵」が初演されましたが、当時は幕府の芝居への監視が厳しく元禄赤穂事件に関し劇中で実名を出すことが憚られたので、そこで作者は由良助が遊ぶ場所を史実の伏見撞木町から祇園へ・萬屋から一力へ変えて芝居を作ったようです。「伝説の都・祇園の巻中巻」(石井琴水著・1936)に拠れば、現在祇園にある一力茶屋は、以前は「万屋(よろずや)」と呼ばれていたそうです。(現在でも一力茶屋の暖簾は丸に万の字です。)ところが「忠臣蔵」が大当たりして「一力」の名が有名になり、店の屋号が芝居のなかで使われた「一力茶屋」で呼ばれるようになったということです。さらにこの芝居を焼き直しした司馬芝叟作「忠臣一力祇園曙」(ちゅうしんいちりきぎおんのあけぼの)が寛政10年(1798)8月が大当たりして一力茶屋の名前はさらに有名になりました。一力茶屋では毎年3月20日の内蔵助の命日に「大石忌」という法要を行なうそうです。

写真下は、祇園の一力茶屋です。京都南座からだと歩いて1・2分のところです。

京都の冬の風物詩・京都南座の顔見世で見る「仮名手本忠臣蔵・七段目」はまた格別なものです。写真下は京都南座。別稿「十五代目仁左衛門の由良助〜京都南座の「七段目」をご覧ください。

*写真は令和元年12月9日・11日、吉之助の撮影です。

(R2・1・3)


  

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