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播州赤穂訪問記・その1
  〜息継ぎの井戸、大石邸跡から大石神社まで


播州赤穂は、大阪からだと快速電車で1時間半くらいの距離に位置します。言うまでもなく歌舞伎を研究する者にとって「忠臣蔵」はこれを抜きにしてあり得ません。日頃「忠臣蔵」をネタに文章を いろいろ書いたにも係わらず、大阪へは出張で随分行ったのに、赤穂までは気軽に寄るわけにいかずに、吉之助はこれまで赤穂の地を訪れたことがありませんでした。大変御無沙汰をしましたが、いつか御挨拶に伺わねばと思っていました。この度大石良雄さん宅を訪問し、積年の懸案を果たすことが出来てホッとしました。実説と芝居とは違うとは云え、実際のものを見ておくと、考えることも何だか実感が伴ってくる気がしますねえ。JR播州赤穂駅を降りると、さっそく義士姿の大石さんがお出迎えしてくれました。 銅像の台座に「義魂」とありますが、これは現代の日本人が久しく忘れてしまった徳目かも知れません。

播州赤穂駅から赤穂城に向かって大通りをまっすぐ歩いて行くと、ほどなく息継ぎ井戸が見えてきます。元禄14年3月14日に主君浅野内匠頭が江戸城松之廊下で刃傷に及んだとの報を赤穂に知らせる早駕籠(早水藤左衛門・萱野三平の両名)が、この息継ぎの井戸で水を呑んで息を整えてから城内の大石内蔵助邸に入ったそうです。江戸からの早駕籠は 、通常15〜6日程度掛る道程を、旅籠で駕籠かき人足を取り替えながら夜中構わず約4日半で走り抜いたと云うのだから、実に大変なことでした。なお使者に立った早水藤左衛門は、四十七士の一人です。 もう一人の萱野三平はやむを得ない事情により腹を切って自害したため、討ち入りには参加出来ませんでしたが、大石神社では萱野三平を烈士として四十七士と並べて祀っています。三平が「忠臣蔵」では六段目の早野勘平のモデルであることは、今更申すまでもありません。

赤穂城までの大通りは、観光客向けにとても綺麗に整備されています。息継ぎの井戸から、さらに歩くと 赤穂城の大手門に着きます。赤穂城は駅からだと800Mくらいの距離になります。ただし当時は赤穂城ではなくて、苅屋城(加里屋城・仮屋城とも)と呼ばれていたようです。当時の浅野家の石高は5万3千石 でしたが、その石高に見合わない随分と規模が大きいお城です。築城と城下町の整備のため藩の財政は一時逼迫したようですが、このため藩は塩田開発を奨励し「赤穂の塩」を特産品としました。以後これが藩の財政を支える柱となりました。 なお上述の早駕籠がお城に入ったのは大手門からではなく、お城を右に回った裏手にある塩見門からでした。写真の、左奥が赤穂城大手門です。

筆頭家老大石内蔵助良雄邸は、赤穂城の三の丸にありました。屋敷の大半は享保年間に焼失しており、現存しているのは、大石家三代の屋敷の長屋門のみです。普通の門ではなくて、裏に長屋部屋が付属しています。江戸からの 第1の早駕籠が赤穂城に到着し(元禄14年3月19日早朝五時半頃)、実際に叩いたのがこの扉です。(第1の早駕籠では内匠頭刃傷の事件の報告のみ。同じく同日夜には第2の早駕籠が到着し、幕府 の内匠頭切腹と御家お取り潰しの裁定を報告しました。)

この長屋門の裏手の長屋部屋で内蔵助が早駕籠の 、早水・萱野の二名と会見し内匠頭刃傷事件の報告を受ける場面が人形で再現されています。なお内蔵助の家族は焼失した本邸に住んでいたので、門長屋で生活していたわけではありません。写真は大石邸庭園で、その左奥に見えるのが長屋門の裏手の長屋部屋です。

大石内蔵助以下四十七名は「義士」と讃えられて、芝居や講談にもなって庶民には大変人気があったわけですが、江戸期には幕府の大法を犯したという差し障りがあったので、大っぴらに祀ることが出来ませんでした。しかし、明治元年(1868)に明治天皇が江戸に入る時に泉岳寺に勅使を遣わしこれを弔って以降、赤穂義士顕彰の気運が高まりました。明治33年(1900)に神社設立が政府から認可され て、大正元年(1912)に創建されたのが大石神社です。 現在の大石神社は、忠義がご時勢にそぐわないところが若干あるので、どちらかと云えば大願成就の神社ということになるのかと思います。(別稿「忠臣蔵のもうひとつの見方」を参照ください。) 写真は大石神社の参道、四十七士の銅像が両脇を固めます。

ところで大石神社の神門(義芳門と呼ばれている)ですが、これは昭和18年に神戸市にある湊川神社から神門を移築したものであるそうです。湊川神社は昭和20年神戸大空襲で全焼したので、これが唯一残ったかつての湊川神社の遺構だそうです。ご存じの通り湊川神社は、南北朝時代の忠臣と云われる楠木正成を祀る神社です。 この湊川神社と大石神社との強い関係は、「忠臣」という共通キーワードに拠るだけではなく、「大石内蔵助は楠木正成の生まれ変わりである」という発想がその根底にあるわけです。

写真は平成31年2月19日・20日、吉之助の撮影です。

*続編「播州赤穂訪問記・その2」もご覧ください。

(H31・2・23)


 

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