(TOP)     (戻る)

播州赤穂訪問記・その2
  〜清水門跡、天守台から花岳寺まで

*本稿は「播州赤穂訪問記・その1」の続きです。


赤穂城三の丸にある大石内蔵助邸跡長屋門から赤穂市立歴史博物館の方へ向かいます。しばらくするとお堀が見えてきて、短い橋を渡ると城の外に出ます。この場所に清水門と呼ばれるお堀脇にある門 があったそうです。出たところに米蔵があったそうですから勝手口と云ったところか。現在は門がないので、往時を偲ぶことしか出来ません。御家断絶という裁定が出た後、場内は開城か立て籠もって戦うかという議論で紛糾しましたが、内蔵助はこれを収めて城明け渡しを決断しました。赤穂城明け渡しは、元禄14年4月18日に行われました。作業を終えて内蔵助は清水門を通って城から退出しました。「四段目」を見ると由良助が出るのは大手門みたいですが、確かに城を明け渡した者が玄関(大手門)から出られるわけないですね。下の写真は清水門跡、内蔵助が通った道です。 右奥の石垣は二の丸の石垣。左の土蔵風の建物が赤穂市立歴史博物館になります。

歴史博物館は、赤穂城の米蔵があった跡地に建てられた白壁の土蔵を模した建物です。ここに赤穂義士の資料の他、有名な赤穂の塩田にまつわる郷土資料が収納されています。赤穂城は結構規模が大きいお城で、天守閣を立てる為の天守台も準備されたのですが、結局天守閣は築られませんでした。下の写真は天守台からJR播州赤穂駅方面を望む。 中央は本丸の御門。手前は本丸御殿の跡です。

赤穂城を出て再び駅に戻る途中に、花岳寺(かがくじ)があります。花岳寺は曹洞衆のお寺で、浅野家他歴代赤穂藩主の菩提寺。また大石家先祖の墓、四十七士を供養する墓があります。花岳寺山門は、明治に入って赤穂城が解体された時に塩屋門を移築したものであるそうです。鐘楼の鐘は「鳴らずの鐘」と呼ぶそうで、元禄16年2月4日に幕府の命により四十七士が切腹した知らせを聞いて市内の町民が鐘をずっと撞き続けたために、響きがおかしくなって鳴らなくなったということです。

花岳寺境内には四十七士を供養する墓所があります。幕府の大法を犯したという差し障りがあったのですぐに祀ることが出来ませんでしたが、義士の三十七回忌の時に彼らの遺髪を収めたお墓が作られました。(正式なお墓は 東京品川の泉岳寺にあることは、御承知の通りです。)写真上は義士墓所前の忠義碑。次の写真は、墓所中央に浅野内匠頭の墓、向かって右に大石内蔵助・左に息子の大石主税の墓。周囲を(切腹をしなかった)寺坂吉右衛門を含む四十七士を供養する墓がとり囲みます。

写真は平成31年2月19日・20日、吉之助の撮影です。

(H31・2・25)


 

  (TOP)        (戻る)