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イライラした気分

平成19年2月歌舞伎座:「仮名手本忠臣蔵・三段目」

五代目中村富十郎(高師直)、七代目尾上菊五郎(塩冶判官)


1)男の一分(いちぶん)

「忠臣蔵・三段目」いわゆる松の間・刃傷の場ですが、文楽ではこの三段目に限って・大夫の力量次第で時間をいくら掛けても良いことになっているのだそうです。なぜかと言えば・この「三段目」は五段形式の時代物浄瑠璃であれば「序切」(序段の切場)に当たりますが、序切としては非常に短いもので・普通は20分そこそこで終わってしまう短さであるからです。切場は「半時浄瑠璃」と言って・だいたい1時間であげるものなので、「三段目」もじっくりと時間を掛けて語って良いとされているようです。と言っても山城少掾がじっくり時間を掛けて語っても二十数分だったそうですから・時間が長いことが大事なのではないのです。大事なのは師直はそのくらい「じっくり と・ねっとりと・意地悪く」判官を虐めなければならぬということです。「三段目」ではこのことが肝要なのです。しかも「三段目」は殿中での大名の喧嘩ですから・下品になってはいけません。喧嘩に品位もあったものじゃないですが、助六の喧嘩のような・べりべりした意地の突っ張り合いではいけません。師直は真綿に針を包んだように・チクチクと判官をいたぶらなければなりません。そこにイライラした・ジリジリした気分が出てくる必要があります。それが判官の刃傷という形で突然爆発するのです。

まず大事なことは、武士でも町人でも同様ですが・「一分(いちぶん)が立つ」あるいは「男が立つ」ということは当時の人々にとって命よりも大事なことでして、これを守ることに各人意地を張っているわけです。だから「一分が立つ・立たない」ということに対して非常に敏感です。「おのれの一分が傷付けられた」と感じた時には、相手を斬り捨てなければ収まらないのです。そこを躊躇すると・逆に周囲から「あいつは意気地がない奴だ」と蔑まれることになります。この感じ方において大名とかぶき者に大した違いはありません。

「三段目」では「殿中での抜刀はご法度であるから・判官は刀を抜かない」と思っているから・師直は安心して判官を虐めるのです。山城少掾は「鮒侍だ」という台詞を判官に向かって言うのではなく、周囲の人々に聞こえるように・つまり判官に恥をかかせるように・大声で周囲に向かって言ったそうです。こうなると判官は師直にその一分を傷付けられていることが明らかで、観客から見れば・判官が怒って当然のことを師直はわざとしているのです。殿中でなければ・判官はその場で師直を一刀のもとに切り捨てなければ済まないことは明らかなのです。このことが江戸の観客の共通認識として明確にあります。極端に言えば・「男を傷付けられた」ということなら・判官が怒る正当性があるということです。だから観客は舞台を見て自分のことのように怒るのです。

真山青果の「元禄忠臣蔵・江戸城の刃傷」では刃傷事件の取調べをする多門伝八郎が、浅野内匠頭が脇差を最後まで放そうとしなかったことに注目して・「脇差心(わきざしごころ)」ということを力説します。

『生きようにも、死のうにも、武士の最後を頼むものはわが帯する刀より他はない。侍として敵の狼藉を受けたる場合、その手はまず第一に、わが刀の柄にかかっておるべきはずだ。抜くと抜かぬは第二の分別。敵を受けては先ず第一にわが刀を思う。これを脇差心と申しまする。上野介どのにおいては、その第一の脇差心なく、まず家を思い、禄を思い、後を追い、前(さき)を憂うる。その損得のみが先立って、武士たる性根を失っていられたと見えまする。はははは。』

この伝八郎の台詞には「浅野に同情する良い奴だ」という感じで観客席から思わず拍手が湧きあがるものです。しかし、伝八郎は感情だけで浅野に味方し・吉良を嫌っているのではありません。彼は彼なりの確信があって・内匠頭が殿中で抜刀せねばならなかった事情を察しているのです。内匠頭が抜刀した理由は何であったか皆目分かりません。今現在に至っても・諸説いろいろありますが内匠頭が刃傷した理由は分かっていません。しかし、伝八郎は内匠頭が脇差を最後まで放そうとしなかった事実ただ一点を取って、そこに内匠頭の憤り・相手を斬らずにはいられない「やむにやまれぬ思い」を見ているのです。それならば内匠頭は「武士の一分」において抜刀したことは明らかで・内匠頭には内匠頭なりの怒る理由があるはずだと、伝八郎はそう考えるのです。ですから伝八郎の発言は「浅野好き・吉良嫌い」という次元のものではなく、心情論から発していて根拠がないようだけれども・伝八郎なりに冷静に考えたところの取調べ官としての・それが確かな根拠であったと考えられます。元禄当時の民衆の内匠頭刃傷事件に対する感じ方をそのように考えてみたいと思います。

2)その理由が分からない

理由は全然分からないけれども・内匠頭は何かに対して憤った・何かに対して怒ったのです。このことは誰にも明らかです。この「憤り」・「怒り」が大事なのです。これが元禄という時代の気分とどこかで密接につながっているのです。これが内匠頭刃傷事件に対する当時の人々の感じ方です。まず江戸初期・元禄という時代の空気を想像してみる必要があります。当時の人々の間には何となく閉塞して・どことなくイライラした気分が漂っていたので、その嫌な気分に内匠頭刃傷事件の報が火を付けたのです。これは内匠頭刃傷の原因が何だか分からないからそうなるわけです。内匠頭は何だか分からないけど怒った。これがモヤモヤしてどうにも困るのです。金のせいでも・女のせいでもいいから・内匠頭はこれで怒ったと言うのが分かっていれば・大抵は「な〜んだ、そんな程度のことで怒ったのか・馬鹿な殿様だなあ」で終わりになるものだと思います。しかし、内匠頭が怒る理由が分からないから・その疑問が胸の奥にグッとつまったまま腑に落ちないのです。このことは元禄という時代の「イライラした気分」から来るのです。

ところで内匠頭が怒った理由が分からないということは、上野介が内匠頭を虐めた理由(もし虐めたのならばの話ですが)も分からぬということです。そこで世間は上野介が こういう悪いことをした・こういうひどいイジメをしたと・いろんな想像をめぐらします。ひとつにはそのイライラした気分の理由を考えずにはいられなかったということです。「仮名手本忠臣蔵」では・世界を太平記に採っていますから、高師直が塩冶判官の奥方顔世御前に懸想したことが原因ということになっています。「三段目」で師直は若狭助に平身低頭して気分が悪いところで・さらに顔世御前に振られて・判官をついつい虐めてしまうのです。(これについては別稿「恋歌の意趣」をご参照ください。)「大序」 だけ見れば・松の間で刃傷沙汰を起こすのは誰だって若狭助だと思うでしょう。ところが、師直のイライラは判官の方に向いてしま います。判官はとばっちりを喰ったわけです。最後まで判官は師直に自分がどうしてここまで虐められなければならないか・分からなかったでしょう。つまり、判官は何が何だか訳が分からないところで・その理不尽さと「 自分の男の一分を傷付けられた」ことに対して突如として怒ったのです。

一方、師直の方はもともとおっとり顔の判官が何となく虫が好かなかったと見えます。判官も師直は好きでなかったと思いますが、判官はそれを顔には出すことは決してしません。どこまでもおっとり顔を繕うのです。こういう態度が師直にはまた気に入りません。直情的で単純な若狭助の方が師直にはまだ理解ができるのです。つまり、師直と判官は別に理由はないが・何となくウマが合わず・イライラしてしまう関係なのです。

こうして「仮名手本忠臣蔵」の大序から三段目を見れば、師直・若狭助・判官のうちの誰かがつねに何となく不愉快であり・イライラして・怒っています。そうした気分が松の間の判官の刃傷でブツンと音をたてて切れるのです。大序冒頭における歌舞伎の登場人物たちの様式的な動きは人形の動きを模した動きであると言われますが、それはどこか「イライラした気分」を表出したところの抑圧された動きであるとも解釈されます。これは「忠臣蔵」全体を陰鬱に覆っている気分でもあるのです。主人判官が何が何だか分からないけど怒って死んだ。となると家来たちは主人の怒りを鎮めるために壮大なお祓いをしなければならない・それが討ち入りであったとも考えられます。フォークロア的な御霊信仰の視点からはそのようにも読めると思いますが、このことは何よりも元禄という時代の「イライラした気分」において説明が出来るのです。

3)実録の感触

「仮名手本忠臣蔵」は赤穂浪士討ち入り事件から47年経って作られた作品です。だから、ある意味において・事件を客観的かつ理性的に整理しようと努めています。例えば「太平記」の世界から来るものですが、師直のイジメの原因を判官の奥方への懸想であると明確に設定していることです。当事者以外の人間・例えば由良助でさえ判官刃傷の本当の理由を知らないのですが、観客はこの経過を承知しています。これにより観客のイライラは多少減ぜられることになります。もうひとつは「四段目・判官切腹の場」において・判官が九寸五分を渡し「我が恨みを晴らせよ」と由良助に明確に命令をしていることです。つまり、「忠臣蔵」の討ち入りは御霊信仰のお祓いではなく、明らかに主君に命じられた家臣としての職務遂行行為だということになります。この点においては別稿「近世的な・あまりに近世的な」をご参照いただきたいですが、本来は血縁関係あるものだけに許される仇討ち行為を赤穂義士の主従関係の仇討ちとして正当化するために、浄瑠璃作者は論理的・観念的な手順を踏んでいるわけです。これが判官が由良助に「この九寸五分は汝へ形見。我が鬱憤を晴らさせよ」と明確に命令をしていることの意味です。この点においても観客のイライラは多少減ぜられることになります。

ところが歌舞伎はこの場面を丸本通りに演じることをせず・判官は口をパクパクさせるだけで・仇討ちせよとははっきり言わず、命令の意味を曖昧にしてしまいます。つまり、由良助が判官の気持ちを汲み取って・「自発的に」行なうのが歌舞伎での仇討ちです。いわば歌舞伎は文楽よりも「忠臣蔵」を情念の方へ引き戻したと言えるかも知れません。

歌舞伎の「三段目」に視点を戻しますと、この場面は実録ではないにしても・観客はここで松の廊下の刃傷の現場を目撃するわけで、そこにはふたつの意味があると思います。ひとつは実説の内匠頭刃傷もこんな感じで起こったのかなあということで・これはつまり「絵解き」です。「三段目」は判官が何で怒ったのか一応その理由が観客にとって明確であるということです。だからこそ本稿冒頭に述べた通り・師直が判官をネチネチ苛めることによって観客にイライラ感を生み出すことがとても大事になるのです。なかなか怒らない判官に対して観客を「判官よ怒れ、どうしたなぜ怒らないんだ」という気分にしなければなりません。そして判官が刀を振り上げた時に「やったぜ、判官」という爽快な気分に観客をしなければなりません。これは「男の一分」の問題なのです。そのためには師直が判官を虐める時のネチネチイライラが大事になります。加えてさらに歌舞伎では別のイライラを用意します。それは師直を「巨悪」に描くということです。歌舞伎の師直は嫌な奴とか・悪い奴というよりも・もっと大きい「圧倒的な悪」です。「大序」でも・「三段目」でも師直から強烈な威圧感が発散されて、それが周囲にイライラを起こさせます。そういう大きさが歌舞伎の師直役者には必要なのです。抗しようのない巨悪への嫌悪感に観客のイライラは増幅していきます。

そこで今回取り上げるのは平成19年2月歌舞伎座での「仮名手本忠臣蔵」通しからの「三段目」映像です。師直は富十郎・判官は菊五郎です。近年の歌舞伎の「三段目」・「四段目」はどうしても実録風に傾きがちですが、このベテランふたりにしてもやはりその感じがあります。まあ、確かにこれは作品自体にそうした要素がないわけではないのですが、だからこそ演技としては逆の方に引っ張ることを意識することが必要なのです。富十郎は演ることにソツはないのですが、口跡が明快で・演技がシャープな人なので・古怪な印象に乏しいことは否めません。若干スケールが小振りで、等身大に近い師直に見えます。だから実録の感触になってきます。もちろんこれは持ち味ですから決して悪いことではありませんし、喧嘩のプロセスがよく見えるということは言えますがね。

菊五郎の判官は柔らか味のある良い風貌ですが、師直にイビられている時に目付きに怒りが出ますねえ。これも実録に近い感触ならば・納得は出来ますが、七代目梅幸はそこのところを表情に出さずに・おっとりと受け流していたと思います。梅幸の判官には「そこまでやられて怒らないのか、おい判官、怒れ怒れ」と観客が思うようなところがありました。自分が怒るのではなくて・観客を怒らせなくてはね。刃傷に至るまでに・内面の怒りを積み上げていって・怒りが限界に達してついに切れるというプロセスを構築したいと思うのは現代の役者ならば当然ですが、それだと感触が実録的・新劇的になっちゃうのです。怒りを見せる場面と・そうでない場面を仕分ける方が歌舞伎になるわけです。あまり切り替えが鮮やかでは困りますが、そこの兼ね合いが梅幸の判官は絶妙でありましたね。

(H19・9・9)

(後記)

関連記事として真山青果の「元禄忠臣蔵」を論じた「元禄忠臣蔵の揺れる気分」もご覧下さい。






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