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吉之助の雑談37(令和2年1月〜6月)


〇令和2年2月歌舞伎座:「菅原伝授手習鑑〜筆法伝授・道明寺」

令和2年2月歌舞伎座「菅原」半通しは「筆法伝授」の出来が良く、「道明寺」がそれに次ぐ出来という感じでしょうか。「筆法伝授」は場面が細かく分かれるし・劇的なシーンがあるわけでもないけれど、舞台が引き締まって見えたのは、仁左衛門の丞相の優美さと梅玉の源蔵の実直さの対照がよく効いて、橘太郎の希世以下周囲も頑張って小気味良く芝居が運んだからです。バランスが良い出来でありましたね。

「道明寺」での仁左衛門の丞相はその気品と云い・優美さと云い、申し分ない出来です。吉之助の記憶には、「神品」とさえ云われた先々代(十三代目)仁左衛門の丞相の姿が今もはっきり刻まれていますが、当代仁左衛門の丞相は先々代に比肩する出来であると思います。吉之助は当代の丞相を見ながら先々代の口跡なども思い出しました。敢えて比べるならば、優美さにおいて当代の方が勝り、実直さ・素朴さにおいては先々代が際立つとも云えそうです。「道明寺」での「鳴けばこそ・・」の御歌では当代の台詞は流れるように滑らか、そこに丞相の神性が表れています。先々代の口跡はもう少し人間丞相・現人神としての丞相の方に寄っていたかなと思いますが、まあ印象のちょっとした差に過ぎず、そこは甲乙をつけ難い。

しかし、一点だけ申し上げておきたいと思うのは、「道明寺」幕切れの丞相名残りの足取りのことです。当代の丞相は足取りがスッスッと前に行く感じがしますねえ。吉之助の目には、あっと思うと丞相が先へ行っていた瞬間が二度ほどありました。ここは先々代の方が良かったと思いますねえ。丞相名残りは、後ろ髪を引かれる思いのなかで歩みを進めるものです。当代の丞相は前に進む気持ちが若干勝っていたように感じます。これは千之助の苅屋姫が身体を丞相の方へ押して行かないせいもありますが、苅屋姫が押すと丞相は一瞬身体を引き・一瞬の躊躇があって・視線を反らしつつ向きを変え・また足取りを進める、当代の丞相の足取りに、もう少し一瞬のタメが欲しいのです。そうすれば別れの哀切が増すことでしょう。

玉三郎の覚寿は平成22年(2010)3月歌舞伎座建て替えのさよなら公演の時が初役で今回が二回目になります。前回は初役で・しかも玉三郎にとって意外の老け役と云うことも意識して、役に対する気構えも普段と違っていただろうと思います。背の取り方は腰を落として背を低めていたし、台詞のトーンもいつもより低めに取っていたと記憶します。しかし、今回の再演では、初役の時の緊張感が乏しいように感じます。例えば奥の間からの「不幸者、どつちで行く」の第一声、襖が開いて姿を見せた瞬間の姿に、若干の違和感を覚えます。しかし、まあ現実には声が高くて背がしゃんと伸びたお婆さんもいるわけですからそこはそことして見ることにしますが、玉三郎の覚寿は理が先立つように感じますねえ。性根としては正しいのかも知れませんが、何だか「立田殺しと木像の謎」事件推理のような感じに見えてしまうのです。この段は「道明寺縁起」の見立てなのですから、覚寿が自らの髻を切り落として言う「初孫を見る迄と、たばひ過した恥白髪。孫は得見いで憂き目を見る。娘が菩提。逆縁ながら弔ふこの尼」と云う台詞が大事だと思います。「道明寺」は覚寿の悲劇でもあるのです。

芝翫の輝国はこういう役は芝翫のニンにぴったりだけれど、覚寿が「輝国殿、目利きなされて下され」と言っているのだから、あっちゃ向いてないで、上手障子内の丞相と下手の輿の木像を見比べて「呆れ果てたるばかりなり」でオオッと驚き入るくらいの演技はしてもらいたいですねえ。輝国は道明寺の木像身替わりの奇跡を語り継ぐべき証人なのですから。

(R2・2・17)


〇令和2年2月歌舞伎座:「菅原伝授手習鑑〜加茂堤」

「加茂堤」はうららかな早春の一時(ひととき)。歌舞伎では省かれますが、「加茂堤」冒頭では松王・梅王が仲良く並んでうたた寝しています。醍醐帝病気の平癒祈願のため、今日は丞相、時平、斎世親王、全員が加茂神社に来ているのです。牛飼舎人の彼らにとって、主人が参拝している間が休息時間です。この仲の良い兄弟が敵味方となって反目し合うなんてことは、夢にも想像が出来ません。しかし、穏やかな春の日差しは暖かいけれど、顔を撫でる風はまだ冬の冷気を残してひんやり冷たい。そして春は、天候がコロコロ変りやすい。あんなに暖かだったのが一天にわかにかき曇り、急に雨が降り出したりするものです。「加茂堤」の春の日も、そういう日なのです。桜姫夫婦は斎世親王と苅屋姫を手引きして、シメシメ上手く行ったと喜んでいます。ところが現場を時平の家来三善清行に見つけられたことから、事態が一変するのです。左大臣菅丞相失脚という・予想もしなかった疑獄事件にまで発展してしまいます。原因を作ってしまったことを悔いて桜丸は後段「佐太村(賀の祝)」で切腹して果てることになります。

「加茂堤」を見る時、以上のことを押さえておきたいと思います。「加茂堤」は二組のカップルのほのぼのした色模様を見せて、立ち廻りもあり、コミカルな味わいの場に見えるかも知れませんが、後段のことを思えば、伏線として決しておろそかに出来ない大事の場なのです。これが「うららかな春の日」と云うことの意味です。ですから桜丸・八重の夫婦は、ふっくらとした美しさのなかに・どこか暗い不幸の翳が差している、そういう感じが欲しいのです。つまりもうすぐ散ってしまう花の儚いイメージです。ここは「佐太村」と同様に考えて欲しいと思います。

今回(令和2年2月歌舞伎座)の「菅原」半通しの「加茂堤」ですが、孝太郎の八重にはそのような感じが確かにあります。バランスが取れた良い八重ですね。一方、勘九郎の桜丸は、さっぱりとしたコミカルな印象がします。恋の取り持ちをする「真夏の夜の夢」の妖精パックみたいな軽い感じかな。まあそう云う側面もあるかも知れませんがね。まず登場した時の足取りが腰高に見えるのが、ちょっと気になります。台詞も高調子気味ですねえ。だからカラりと明るい感触の桜丸になってしまいました。これでもし後に「佐太村」が続くとしたら、この桜丸で一貫できるでしょうか?そういうことも考えてみて欲しいのです。憂いが強過ぎてはいけませんが、ここで引き起こした事の重大さが一番分かっているのは、桜丸なのではないでしょうか。

(R2・2・10)


〇「とにかくやってみることだ」

例によってクラシック音楽の話から始まりますが、そのうち歌舞伎の話になりますから。吉之助の場合は歌舞伎を考える時にクラシック音楽から示唆を受けることがしばしばですから、これはどうにも分けられません。先日、メトロポリタンオペラのライヴビューイングでマスネの歌劇「マノン」(2019年10月26日の上演映像)を見たのですが、その時に騎士デ・グリューを歌ったマイケル・ファビアーノ(35歳)が幕間インタビューで、ファンからの質問に答えて、こんなことを語っていました。ファビアーノは現在オペラ界で人気急上昇のアメリカ出身のテノールです。質問は「学校でやるディベートの授業は、オペラをやる時に役に立ちますか?」と云うのです。これを質問したのは高校生かな?意表を突く質問で、吉之助も一瞬意図が分からずでしたが、これをファビアーノが即答で見事に切り返してみせました。

『大いに役に立つ。もし君が何かしようとする時、誰かに「こんな風にしてみたらどう?」とアドバイスされたら、とにかくやってみることだ。例え君が心のなかではそれに同意していなくても。』

さすが一流になる人の返答は違うものだと感心しきりでした。短いインタビューでも立派な芸談にしてしまうのですね。アメリカの高校でやるディベートの授業では、例えばこの事項に対して君は賛成か・反対か、それでは右半分の席の君たちは賛成の側、左半分の席の君たちは賛成の側ということで議論をやってみようか。それでしばらく自由討論をやってみて、しばらくしたら今後は立場をチェンジして議論を行なう、そう云うことをやるのです。そうすると或る考え方にも、立場によって見え方が変わる、どの立場にもそれなりの理屈があると云うことが、感覚で分かって来るわけです。日本人の場合はそのような訓練が出来ていないので、議論と云うとしばしば相手の揚げ足取りか・重箱の隅を突く些末論義、「その言い方は何だ」という言葉尻の非難、あげくの果てには「お前にそんなことを云う資格はない」という人格攻撃になる、まあ大体そんなところですかねえ。このところの国会議論など見ているとまさにそれです。

ところでオペラ歌手の場合ですが、或る曲・役どころに対して彼自身もそれなりの見解・意見を持っているものです。しかし、実際に歌劇場で歌う時は、演出家あるいは指揮者あるいは共演者の解釈によって必ずしも自分の見解に沿わないことをやらねばならぬことがしばしばあります。世界の歌劇場を渡り歩けば、同じ役でも様々な解釈と付き合わねばなりません。その場合でも彼は結果を出さねばならないわけです。そこで自分の見解に固執していたのでは、良い結果は決して出せません。そういう時に学校でやったディベートの経験が必ず役に立つと、ファビアーノは言いたかったのだと吉之助は理解します。演出家や指揮者のアドバイスに沿って「とにかくやってみる」と、そこから自分が予想も付かなかった果実を得る場合がある、これが実に堪らない感動体験なのです。だから自分の見解に固執していたのでは、自己の成長はあり得ないと云うことです。

つまり「形から入る」、そこから何かを得ることだって出来ると云うことなのです。これで吉之助が何を言いたいかお分かりになったでしょうが、歌舞伎の「型」のことです。「型」と云うと、何かと「やらされている」感覚がつのる、自分の意志で演技するのでなく「無理にさせられている」ぎこちない感覚がつのる、そう云うことが現代に生きる歌舞伎役者には多いのだろうと思います。これは現代に生きているからこそそうならざるを得ないと云うことかも知れませんが、見方を替えてみると、これは「形から入る」ということの意味、とにかくやってみて・そこから型の心をつかむと云うプロセスの意味を、現代の歌舞伎役者はあまり分かっていないのだなあ、ファビアーノのような世界の歌劇場を渡り歩く一流オペラ歌手と比べると、ずいぶん甘っちょろいことだなあとも思うわけです。「形から入る」と云うことにもっと厳密さを求めるように自らを戒める必要があるようです。古典歌舞伎の舞台を見て、そう云うことを考えることがこのところとみに多くなりました。

(R2・2・2)


〇令和2年1月歌舞伎座:「奥州安達原〜袖萩祭文」・その4

芝翫が時代物の「らしさ」を持っていることは大きな強みですが、このところ恵まれた風格に頼りすぎて演技がメタボ気味で、貞任の心情がいまひとつ迫って来ません。役の内面を細やかに掘り下げて欲しいですねえ。今回(令和2年1月歌舞伎座)の芝翫の貞任の問題は、貞任を如何にも四段目にありそうな・スケールの大きい国崩しみたいな役どころに捉えて、貞任のナイーヴな性格描写をおろそかにしている点にあります。教氏を人の良いお公家さんに仕立てたので、相対関係で貞任の位置付けを誤ってしまうのです。貞任は娘にすがり付かれれば取り乱し、自害した女房を見れば泣き叫ぶ、あまりに情が深過ぎる人物です。感情の揺れを押し殺して、鬼になって敵・義家に立ち向かおうとしたが、結局鬼になり切れなかったのです。このような貞任の家族に対する深い愛情を十分描き出してこそ、「安達三」は正しく三段目に出来るのです。

勘九郎の宗任は、「安達三」のなかでは唯一涙を見せぬ剛毅な役なので、勘九郎のストレートな演技が似合っています。しかし、時代物でのちょっと鼻に掛かってくぐもった発声は、父・十八代目勘三郎の同じく時代物での発声を思い出させて懐かしいのは事実ですが、これはあまり真似して欲しくありませんねえ。あの勘三郎の発声はあまり質の良くない義太夫語りの声色だと思います。勘三郎は世話物は兎も角、時代物では「らしさ」にこだわりが過ぎて・いまひとつ殻を突き破ることが出来ませんでした。それが出来ない勘三郎ではなかったろうに。まあそれだけ伝統の重圧が強かったと云うことですが、勘三郎は時代物では発声がネックでした。勘九郎は父とは異なる実事向きのニンなのですから、明瞭な発声を心掛けて欲しいと思います。

七之助の義家は風貌爽やかで悪くないですが、感触がちょっと冷たいかな。義家は役としては「熊谷陣屋」の義経と同様に、もののあはれを感じ取る・情けを解する男であると考えて欲しいのです。七之助はこれから義経を任される機会が多くなるだろうから、そこは心得て欲しいと思います。幕切れで義家が貞任を野に解き放つのは、これは「古今著聞集・衣のたて」の有名な逸話を趣向として作中に取り入れたものです。馬に乗って逃げる貞任に対して・追う義家が「衣のたてはほころびにけり」と呼び掛けると、貞任が「年を経し糸の乱れのくるしさに」と返した、これを聞いて義家はつがえていた矢をはずし貞任を追うのをやめた、これは天喜4年(1056)の出来事でした。貞任の情愛に感じ入って懐に入った窮鳥を解き放つ、ここはそのような気持ちなのですから、義家は「安達三」幕切れを締める大事な役どころなのです。

(R2・1・29)


〇令和2年1月歌舞伎座:「奥州安達原〜袖萩祭文」・その3

「安達三」での教氏と貞任との位置関係を考えてみます。まず教氏が障子屋体から登場して・自害した{杖・袖萩を見下ろしつつ言い放つ最初の台詞を見ます。

「貞任に縁組まれしご辺、所詮死なで叶はぬ命、袖萩とやらんも死なずばなるまい、健気なる最期の様子天聴に達し、申すべし」

読めば分かる通り、これが人の好いお公家さんの台詞であるはずがありません。普通のお公家さんなら血を見て「ヒェー」と叫んで卒倒しそうな凄惨な光景なのです。「袖萩・・」で言い淀み・そこに感情の揺れを表出する場面がちょっとありますが、{杖も袖萩も死なずばなるまいと一遍の同情もなく、氷の如く冷たく感情を押し殺した台詞です。この台詞を黒の衣冠束帯・紫の指貫の公家装束で言うところに、教氏と云う役の峻厳さを感じ取らねばなりません。つまり教氏は時代の位取りの重い役であると考える必要があります。一方、貞任はぶっかえって・勇ましく義家に戦いを挑み、如何にも時代物らしい重さがある役に見えるかも知れませんが、娘・お君にすがり付かれればオロオロ取り乱し、自害した女房・袖萩を見れば恥も外聞もなく泣き叫ぶ、生(なま)な感情起伏があまりにも激しい人物です。ここで役の大きさが損なわれています。つまり貞任は大時代の役という位置付けに完全になり得ないと云うことなのです。

このことはこの芝居が「安達三」・つまり三段目であることと深く関連するでしょう。時代浄瑠璃の三段目の位置付けは恋慕である・世話場であると云うことを考えれば、「安達三」が追求するものは、女房・娘と非情の別れをせねばならぬ貞任の嘆きだと云うことに気が付かねばなりません。ここに現行歌舞伎の「安達三」の型の、根本的な誤解があると言えそうです。御殿の舞台面で男たちが「互ひに勝負は戦場々々、まづそれ迄はさらばさらば」と丁々発止やるものだから、この見せかけで「安達三」を四段目みたいに勘違いしてしまっているのです。

この吉之助の推論は、「安達三」がぶっかえった貞任が衣装を直し・元の公家装束に戻って幕切れとなる(つまり教氏に戻る)ことで裏付けが出来ます。これは義家が貞任に「まづそれ迄は桂中納言教氏卿ご苦労ざふ」と呼び掛け・一旦この場を教氏として野に解き放つことにしたからですが、これで絵面として如何にも時代物らしい形に出来ます。つまりこのことで役として貞任より教氏の方が重い位置付けになっていることが明白なのです。しかし、あくまでこれは絵面上・見掛け上のことなのです。教氏はもう貞任の正体を顕わしてしまっている。いくら貞任が力んだところで流れる涙は隠されません。幕切れの詞章をご覧ください。「振り返り、見やる目元に一時雨(ひとしぐれ)、ぱっと枯葉のちりぢり嵐心弱れど、兄弟がまた、取り直す勇み声、よるべ、涙に立ち兼ねて・・」と、勇ましい舞台面とまったく裏腹です。つまり「安達三」の幕切れにおいて舞台面とドラマの実質が引き裂かれており、如何にも時代物らしい構図はここでは破綻しています。これが三段目の幕切れなのです。(この稿つづく)

(R2・1・26)


〇令和2年1月歌舞伎座:「奥州安達原〜袖萩祭文」・その2

今回(令和2年1月歌舞伎座)の「安達三」での芝翫の初役の貞任に対する不満は、前場面の「矢の根」がカットされていることも大きいのですが、「桂中納言教氏(かつらちゅうなごんのりうじ)実は安倍貞任」という役の、教氏と貞任の位置関係が曖昧であるということです。貞任は前九年の役で朝廷に反旗を翻した安倍一族の長であり、今は源義家の命を付け狙う、つまり典型的な時代物の大役です。当然のことながら芝翫は「俺のニンにピッタリの役だ」と云うことで、そこは一生懸命やっています。それは良いのだけれど、芝翫は教氏の位置をどう考えているのでしょうか、そこが問題です。教氏は奥州に流された則国(のりくに)の遺児で、大赦を得てこのたび父と同じ官職についたばかりです。(つまり京都朝廷に教氏を昔から知る者は誰も居らず、だから貞任は易々とこれに成り代わることが出来るわけです。)教氏は中納言であるから、お公家さんらしく・おっとり品よく勤めなければならないでしょう。そこに公家の気品が表れねばならぬ。教氏が本性を見顕わして・ぶっ返って貞任となって義家に激しく詰め寄る、教氏と貞任の変わり目をはっきり付けて(イメージの落差を付けて)この場面を時代物らしく・派手にカッコ良く決めたい。そういうことは誰しも考えることだと思います。そこで芝翫が教氏をどのように演じたかが問題になって来ます。

芝翫は、貞任は重い時代物の役であるから、教氏を軽めの感触に・つまり人の好さそうな品の良いお公家さんに仕立てて、貞任とのイメージの落差を大きく付けよう、その方が見顕わしが映えると考えたやに思います。その結果、吉之助の目から見ると教氏の印象が軽く薄っぺらになってしまいました。台詞の口調がいかにも嘘っぽい。最初の登場では「ハイみなさん、私は化けてるんだよ、もうお分かりでしょ」と言って・片目をつぶって舌を出しそうな教氏に見えますねえ。花道にかかって陣触れ太鼓が鳴るとギクリとして、オロオロと慌てる様が滑稽です。だから「何奴の・・仕業なるか」での貞任への変化が上手く決まりません。これは教氏と貞任の位置関係を見誤っているからだと吉之助は思いますね。

芝翫は吉右衛門から貞任の演技の指南を受けたそうです。吉右衛門の貞任については別稿「安達三の難しさ」で触れました。現行歌舞伎のもっとも安定した貞任役者が吉右衛門であることに疑問の余地はないですが、「何奴の・・仕業なるか」での変化は吉右衛門でさえやはり上手くは行っていない感じがします。しかし、吉右衛門はさすがに教氏が薄っぺらに見えることはありませんでした。そこはしっかり踏みとどまっていますが、この箇所はなかなか難しいのです。そう考えると現行歌舞伎の貞任の型は、ちょっとしたことで芝翫のようになってしまう危うい問題を孕んでいると言えそうです。このことが今回の芝翫の貞任を見てよく分かりました。そこで改めて「安達三」での教氏と貞任との位置関係を考えてみたいと思います。(この稿つづく)

(R2・1・25)


〇令和2年1月歌舞伎座:「奥州安達原〜袖萩祭文」・その1

今回(令和2年1月歌舞伎座)の「安達三」は、顔触れとして芝翫・雀右衛門・勘九郎・七之助などあと10年もすれば歌舞伎を第一線でリードしていく面々だけに期待して見ましたが、このくらい出来て欲しいと思うレベルから見ると、ちょっと残念な出来でありました。誰のせいと云うわけでもなく、何だか全体的によろしくないようです。要因はいくつか考えられますが、確かに「安達三」はバランスを取るのが難しい芝居で、大歌舞伎であまり出来が良い舞台を見ない気がします。袖萩と貞任を兼ねる小芝居的な行き方の方が似合うのかも知れません。(別稿「安達三の難しさ」をご参照ください。)実は現行歌舞伎の「安達三」は完全なものではなく、「袖萩祭文」の前に「敷妙使者」・「矢の根」と呼ばれる部分があるのですが、これらをカットするのが現行歌舞伎のやり方です。このため前半(袖萩の祭文)と後半(貞任の登場以後)にドラマの連関性が弱くなるのが大きな問題で、前半が暗くて辛気臭い分後半を派手にして盛り返そうとするせいか、現行歌舞伎ではとかく前半と後半の落差が大き過ぎます。今回もそこは例外ではありません。しかし、それよりも気になるのは、各々役者の演技ベクトル(方向性)がバラバラで・まあみんなそれぞれそれらしくやってはいますが、互いに演技が噛み合っていないと思えることです。「寺子屋」ならば作自体の出来が良いし段取りが出来上がっているから、それでもまあ見ていられます。しかし、「安達三」のようにバランスが悪い作だと、もうどうしようもありません。こういうところで第二世代の義太夫狂言の経験の足りなさがモロに露呈します。

それにしても義太夫狂言の場合は義太夫(竹本)という音曲の縛りがあるのですから、本来は義太夫が作る流れに役者が沿って行けば、自然と全体の形が付いて行くものなのです。義太夫狂言では三味線が音程とリズムを示します。だから役者がしゃべる台詞のトーンもリズムも、自ずと許容範囲が決まって来ます。どこで・どの高さで・どういう調子で台詞を切り出すべきかは、三味線を聞けば感覚的に分かるのです。だから竹本に沿って役者全員力を合わせて行けば、義太夫狂言はそれで恰好が自然と付くはずです。だから或る意味で生世話物より義太夫狂言の方が役者にとってやり易いだろうと考えるのが普通です。素人歌舞伎の演目で義太夫狂言が多くなるのも、そういうことなのです。しかし、現実の歌舞伎ではそうでないようです。義太夫狂言の方が危機的状況に瀕しているみたいです。これは不思議なことですねえ。これは何故かと考えてみるに、結局、役者が竹本を聞いていないせいだとしか思えませんねえ。竹本はト書きを語るもの、役者は自分の台詞をしゃべるもの、竹本は背景音楽だと割り切っているとしか思えません。だから役者は各々自分のしゃべりたいトーンとリズムで台詞を勝手にしゃべる、まあそんな感じですかね。しかし、歌舞伎で義太夫狂言の規格が崩れ始めたのは、そんなに昔のことではないと思います。昭和の大幹部が存命の頃まではそれなりに規格を保っていたと思います。それがボロボロ崩れ始めたのは、平成の半ば頃からだと思います。だから今回(令和2年1月歌舞伎座)の「安達三」の面々が特別悪いわけではなく、たまたま演目が難物だから目立つだけのことです。

これは昨今の義太夫狂言の舞台全般に共通して云える不満ですが、まず三味線が示導する音程より、台詞が高調子に外れて出るのを何とかして欲しいと思いますねえ。もっとキーを下げて欲しいのです。クラシック音楽で云えば、伴奏がハ長調でやっているのに、歌手がヘ長調やらニ長調など各々勝手な調性で歌っているようなものです。例えば「安達三」前半の「袖萩祭文」は、暗く陰惨な辛気臭い場面です。三宅周太朗はこの芝居で重要なのは「泣きつぶしたる目なし鳥」と云う文句で、「安達三」ほど泣いて泣いて泣き抜く作、これ位悲劇的に救われない作は珍しいとまで書いています。竹本によく耳を傾けることです。三味線が示導する音程をよく聞くことです。こう云う場面で役者が派手に高調子で台詞を切り出せるものでしょうか。笑三郎の浜夕も雀右衛門の袖萩も、吉之助から見るとキンキンした高調子に外れた台詞まわしです。もっと調子を低く取らないと、これではあはれのムードに浸るどころではありません。前半だけのことでなく、今回の「安達三」にはこういう場面があちこちで見られます。吉之助は舞台を見ていてだんだん頭が痛くなって来ました。

雀右衛門の袖萩は二回目ですが、祭文の時に顔を伏せてないで、しっかり観客に顔を見せて三味線を弾いて欲しいですねえ。盲目の女旅芸人が祭文を語るのですから、そうでないと哀れが効きません。若手が三曲頑張っているのだから、一曲くらいは頑張りましょう。雀右衛門は昨年11月の「日向島」の糸滝もそうだったけれど、このところ自己主張が乏しい芝雀時代に逆戻りしたかのような印象を受けます。これからは昭和30年代生まれの役者が歌舞伎を引っ張ってもらわないと困るんだから、同世代として一層の奮起を願いたいですねえ。(この稿つづく)

(追記)なお補足しておくと、昔の木造建物で生活していた時代と違って、現在のコンクリート造りの反響の良い建物で生活するようになって、日本人は昔より高調子でしゃべる傾向が強くなったと云われています。また世界的に見ても、例えばクラシック音楽でも、チューニングするからキーは揃うのですが、より華やかに響かせようと云う意図か、50年前と比べればチューニング・レベルを高めにする傾向があるとも云われています。したがって時代的な特性として高調子の問題がありそうだということも指摘しておきます。

(R2・1・21)


〇令和2年1月歌舞伎座:「鰯売恋曳網」

昨年は勘九郎が大河ドラマに出演で歌舞伎の舞台から遠ざかり、今回(令和2年1月)が久々の歌舞伎座出演ということです。昨今は歌舞伎の世代交代への動きが一段と活発ですから、この時期の長期のブランクは勘九郎にとって気が気でなかっただろうと思いますけど、まっそれは兎も角、復帰となって・これからの精進に期待したいと思います。ところで今回の復帰演目「鰯売恋曳網」ですが、東京では平成26年(2014)10月歌舞伎座・父である十八代目勘三郎三回忌追善興行以来のことです。故・勘三郎の記憶がまだまだ生々しい時期でありました。吉之助はこの時の舞台を見ましたが、これはまったく父親の完全コピーみたいな猿源氏でした。その意味ではなかなか頑張っていたし、客席は湧いていましたが、超人気者であった父親の呪縛は大変なものだと思ったことでした。この時期の観客は二人の遺児(勘九郎・七之助)を応援したい気持ちがいっぱいであったし、だから自然と父のイメージの再現を勘九郎に期待します。興行サイド(松竹)も、そう云う思惑で演目を組みます。父の当たり役(もしかしたら猿源氏は十本指に入るかも)を演じるとなれば、勘九郎もかなりのプレッシャーがあったに違いありません。だから猿源氏が父そっくりになることは或る時期仕方のないことですが、勘九郎はしばらく何の役を演じても・どこかしら父の面影がチラついて・もどかしい印象がありました。吉之助が思うには、十八代目勘三郎と勘九郎は親子だから当然いろんな場面でフッと父親を思い出させる場面(特に声ですねえ)があるわけだけれども、勘九郎は父親よりも生真面目な印象が強くて、芸質としては実事向きであるでしょう。ですから父親とは異なる中村屋の新たな領域へ芸の開拓を目指した方が良いとかねがね感じていたところです。そんなわけで今回の約6年ぶりの「鰯売」と聞いた時には、また父親の完コピにならないかと心配しましたが、それは杞憂に終わって、今回は父親の呪縛から脱して自分なりの猿源氏が作れていたと思います。この点が顕著な変化で、これからの勘九郎の変貌を大いに期待させるものとなりました。

十八代目勘三郎襲名披露の「鰯売」の舞台(平成17年・2005・3月歌舞伎座)を思い出しますが、客席は沸きに沸いていましたが、喜劇と云うより笑劇のイメージでした。この時吉之助の前の座席に座ったオバさんはけたたましく大声で笑って・拍手して、時折口を開けたままガバッとのけぞる、後ろの吉之助には喉の奥まで見えそうで恐れ入りました。要するに今風の漫才コントの芸なのです。三島由紀夫は「鰯売」初演(昭和29年11月歌舞伎座・十七代目勘三郎による)の出来にご不満だったようで、後の座談会で「僕がいくら擬古典主義的なことをやっても、新しいところが出て来る。そいつを隠してくれるのが役者だと思っているのに、向こうは逆に考えていて、ここは隠してほしいというところが彼らにとっての手掛かりになるんだな」 と語っています。十八代目勘三郎の猿源氏は十七代目に輪をかけた、「鰯売」の笑えそうな箇所・つまり三島が隠してほしいと思っている箇所をほじくり返して・それをいちいち拡大して見せたような猿源氏でした。あの猿源氏は、三島は決して認めなかったと思います。

一方、今回(令和2年1月歌舞伎座)の勘九郎の猿源氏は、これはもはや父親の真似ではなく、ちゃんと勘九郎の猿源氏になっていました。あの時に吉之助がちょっと嫌だなと感じたところ・つまり父親の呪縛が抜け落ちて、素朴な味わいの猿源氏に仕上がりました。ここでは勘九郎の生真面目な芸風がよく生きています。例えば猿源氏が傾城蛍火の前で必死で演じる魚尽くしの戦物語では、真面目に演じているから時代物の「物語」の骨格がしっかり見える、だから魚尽くしの戦物語のクスッと笑える面白さが自然に立ち現れるということなのです。もしかしたら父親の猿源氏と比べて地味で面白みに欠けると不満を云う方がいるかと思いますが、これで良いのです。この勘九郎の猿源氏ならば、三島もまあ満足すると思います。これを契機にブランク取り戻して頑張ってもらいたいですね。

七之助の傾城蛍火は悪くはないですが、こちらは若干注文を付けたいと思います。玉三郎の蛍火の呪縛を引きずっているようです。勘九郎の猿源氏が粘らず軽みのあるテンポで演技しているのに芝居の感触が異なる印象がします。七之助の蛍火だけでなく、笑也・笑三郎以下女形陣が重ったるくなる(特に台詞が)のは、とうが立った幕末歌舞伎の女形のテクニックで処理しているからです。「鰯売」で三島が想定しているのはそれよりもずっと以前の歌舞伎の感触なのですから、もっと素朴に・軽みを以て処理してもらいたいのです。東蔵の海老名なむあみだぶつ・男女蔵の六郎左衛門は、勘九郎の猿源氏と息が合ってよく出来ました。

(R2・1・14)


〇令和元年12月国立劇場:「近江近江源氏先陣館〜盛綱陣屋」・その2

このような解釈の相違が生じるのは、「盛綱陣屋」において近松半二がそれだけ意地悪でトリッキーな作劇をしているせいです。別稿「歌舞伎における盛綱陣屋」・「盛綱陣屋の音楽的な見方」など関連論考で触れた通り、半二の芝居は設定が極端なうえに、どちらとも取れる曖昧な書き方をしているところが多い。このため歌舞伎の「盛綱陣屋」の盛綱は過度に情に傾斜した印象となってしまっています。首実検の場面で、白鸚の盛綱は、首を見て・腹に刀を突き刺した小四郎を見て・怪訝な表情をし、また首を見直して・それからもう一度小四郎の方を見てアッそうかと驚く。二度も小四郎の顔を見直して偽証の覚悟を固めると云う、くどいほど説明的な演技です。背後の時政から見て盛綱が考えることがバレバレです。まあ芝居だからそうなりませんが、これでは盛綱の人物が何とも小さく見えてしまいます。しかしまあ現行の歌舞伎の「盛綱陣屋」の段取りでは誰が盛綱をやっても観客を心底納得させることは難しいでしょう。

それにしても実に白鸚らしい演技だと思いますねえ。吉之助はそこに白鸚の役者としての(或いは人間としての)真実があると理解しています。同時に現代に生きる歌舞伎役者の苦しいところが、そこに見えるとも感じています。例えば由良助では、仇討ちの本心を偽って祇園に遊ぶ偽りの演技においては、白鸚は上手さが際立つ役者です。必ずしもニンと思えなかった大蔵卿でも、平家追討の志を偽って作り阿呆を装うというところで、驚くほど線の太い演技でその本質を明らかにしてくれました。今月(令和2年1月歌舞伎座)の五斗兵衛なども、そうです。主君の恨みを晴らすとか・暴虐非道の政権に反抗するとか云う論理が、時代を超えて揺るぎない大義に根差しているからです。こういう場合、白鸚は自信を以て偽りの演技を打ち出せます。もともと技芸があるから偽りの芸が映えるわけです。

ところが例えば松王とか熊谷のように、主筋の若君を護るために我が子を身替わりに殺すとなると、大義が揺るがさるを得ません。それは封建社会の江戸期には確かに大義だったのですが、現代では基本的人権が保障され親と子は別箇の人格とされ、もはや身替わりを大義として現代人に強くアピール出来なくなってしまいました。何て残酷、かつ無意味なことかと云うことになってしまいます。だから我が子を犠牲にする親の苦しみ・葛藤をクローズアップし、封建社会の論理に強制されて・やむを得ず我が子を殺す悲劇ということにしないと、歌舞伎が時代に対応出来ません。この点が現代における歌舞伎の弱み、現代の歌舞伎役者が悩み苦しむところです。大っぴらに大義を主張できないわけです。こう云うところに現代人としての白鸚の感性が、他の役者よりも敏感に反応するのです。他の役者だと何気なくスルーしてしまうところを、白鸚はそのままに捨て置けないのだろうと思います。それは白鸚のこの時代に対する感性の鋭敏さから来るもので、白鸚はドラマと時代感覚のギャップに何とか折り合いを付けようともがきます。表現としては、声を籠らせたり・震わせたり、泣きが強く出て来ます。由良助や大蔵卿であれほど太い筆致の役作りをする白鸚がどうして?と思いますが、何だかセンチメンタルで描線が弱くなって来るのです。白鸚の三大首実検もの、松王・熊谷・盛綱は、どれもそんな感じなのです。これすべて白鸚の役者としての真実から発するものと考えます。

吉之助はこういう場合はあまり深いこと考えず、むしろ形から入って行った方が成功するのにと思うのです。考えなくて良いと云うのではなく、考え過ぎはいけないと云うことです。例えば初代吉右衛門の記録映画(昭和28年11月歌舞伎座)を見れば、時政が退場した後・小四郎を「褒めてやれ・褒めてやれ」と云って扇をパッと掲げる長台詞で、そこまでのモヤモヤをすべて吹っ飛ばして興奮の嵐に出来るのですから、そういうお祖父ちゃんの芸の素晴らしいところを見習って欲しいと思うのです。要は場の気分の切り替えということです。この場面の白鸚の長台詞は決して悪いわけではないけれど、前段の首実検の陰鬱ムードを引きずって、カタルシスまでに至りません。大事なことは、ここでの盛綱は極度の高揚状態にあるわけですから、これを台詞のトーン・リズムに反映させることです。声のトーンをやや高めに置いてリズムを前のめりに言葉を機関銃のように叩き出す、これで歌舞伎の「盛綱陣屋」はそこまでの欠点全部帳消しに出来ると思うのですがねえ。

(R2・1・10)


〇令和元年12月国立劇場:「近江近江源氏先陣館〜盛綱陣屋」・その1

白鸚が盛綱を演じるのは28年ぶりということで期待して舞台を見ました。白鸚の盛綱は「思案の扇カラリと捨て」の「カラリ」のところが素敵に上手い。「カラリと捨て」という詞章なのに、大抵の盛綱役者は扇を捨てると云うよりも「傍にそっと置く」という感じが多いのです。これでは全然「カラリ」に見えません。ところが白鸚の盛綱は考えに気が行く余り・ホントにカラりと扇を取り落とすのですね。その息・間合いが実に上手い。と一応褒めておきますが、その直前がいけません。白鸚の盛綱は「思案の扇」で何か思い付いたらしくアッと口を開けて、それで「カラリと捨て」となるのです。一体盛綱はここで何をアッと思い付くのでしょうか。その後の盛綱の行動を見ると、それは「可哀そうだが小四郎には死んでもらわねばならぬ、その手伝いを母上(微妙)に頼もう」という事に違いない。どうやら盛綱は「これから後捕虜小四郎をどう扱ったものか」と考え続けたあげく、アッと思い付いて「小四郎は死んでもらわねばならぬ」という結論に至ったと、そのように見えるのです。吉之助にはそれは随分軽い結論に思われますねえ。これでは小四郎があんまり可哀そうだと云うものです。

丸本の詞章では「軍慮を帳幕の打傾き思案の扇からりと捨て」と云います。盛綱は何をずっと考えていたのでしょうか。吉之助が思うには、盛綱の頭のなかには「可哀そうだが小四郎には死んでもらわねばならぬ」という結論がもう最初からあったのです。そこで盛綱が考えたことは、ホントにその結論で良いのかということです。何とかそれを回避する策はないか、何とか小四郎を助けてやる手段はないか、盛綱はあれやこれや考えます。しかし、どのような策を取っても結局小四郎は北条時政の手駒として使われてしまい・弟高綱が窮地に陥ることは逃れられぬ、万策尽きた・・そこで「思案の扇カラリと捨て」となるわけです。「可哀そうだが小四郎には死んでもらわねばならぬ」という結論は同じじゃないかと思うかも知れませんが、思考プロセスがまるで違います。結論は随分と気が重いものとならざるを得ません。「思案の扇」はアッと思い付いたアイデアではないのです。

このことは音楽的に見ても検証が出来ます。「盛綱陣屋」を初演(明和6年・1769・竹本座)したのは初代豊竹鐘太夫でした。「思案の扇カラリと捨て」と云う部分は、「思案の扇」でグッと息を詰めて・暫しの間があって「カラリと捨て」となります。通常の間より重めの間が入ります。文楽では、これを鐘太夫の捨て間と云うそうです。例えば同じく鐘太夫初演の「十種香」で八重垣姫が勝頼だと思って走り出たところを・あれは花作りの蓑作だとたしなめられて「フーン何と云やる」という場面も鐘太夫の捨て間で、「フーン」と云ってから・そこで一瞬の不審とああそうなのねと云う思い直しがあって「何と云やる」になる、その間のなかに八重垣姫の心理変化があるのです。「思案の扇」も同様で、何とか小四郎を助けたいと思ったが・・万策尽きた・・無念・・という間があって「カラリと捨て」となるのです。これが鐘太夫の捨て間と云うものです。(この稿つづく)

(R2・1・6)


〇節目の2020年

サイト「歌舞伎素人講釈」は平成13年(2001)1月にひっそりと誕生しました。これでいよいよ20年目に突入することになります。だいたいこう云う場合は歳月を10年(decade)単位で測るものだそうで、そうすると現時点では19年を終わったところだから、「歌舞伎素人講釈・この10年」なんてことを書くのはまだ1年早いので、それは来年のお楽しみです。しかし、何となくここで節目が来たような気分がするのは、世間的には本年(令和2年)が東京オリンピック、歌舞伎にとっては十三代目団十郎襲名の年という大イベントがあるからでしょうか。

ところで前回・十二代目団十郎襲名は昭和60年(1980)4月歌舞伎座から始まったわけですが、この時は約1年前の昭和59年4月27日に襲名披露狂言発表、昭和59年10月27日に成田山新勝寺でのお練り、約半年前の昭和59年11月18日から襲名披露興行の切符前売り開始、11月26日襲名披露パーティなど、襲名ムード盛り上げのためいろいろ行事が組まれました。その合間に関係先・贔屓筋の挨拶回りがあるわけですから、忙しいことでした。一方、今年5月に迫った十三代目団十郎襲名に関して準備がどんな感じで進んでいるのか、たいした報道もなく、経過がいまいちよく分かりません。果たして襲名ムードは盛り上がっているのでしょうか。そんな感じに見えないのですが。吉之助は神奈川大学の市民講座で十三代目団十郎襲名便乗企画・「市川団十郎と家の芸」という講座を現在やっていますが、襲名披露で「勧進帳」と「助六」をやるのは当然のことだけども、「外郎売」も決まりだろうが、他の演目の選定については演者によって考えがあることでしょう、そこで襲名披露狂言発表が正式に決まるのを待っているのだけれど、未だに発表がないので、やきもきしてます。こういう細かい話題を小出しで積み上げながら襲名ムードが盛り上がっていくものだと思いますけどねえ。まあ商売上手の松竹さんのことだからその辺如才はないことと思いますが、もう十三代目団十郎襲名はすぐそこ(5月)に迫ってます。

幹部役者が70歳台半ばになって、歌舞伎の世代交代が現実のものになって来たのも、節目が来た気分にさせられる要因のひとつですねえ。直近の関心事としては十三代目団十郎襲名の「助六」で玉三郎が揚巻を勤めるのかということがあるわけですが、そういう心配をしなければならなくなりました。別稿「平成歌舞伎の31年」で書いたように、昭和歌舞伎から平成歌舞伎への世代間移行は割合スムーズに行ったと思います。それは現在の幹部役者が若かりし時・つまり昭和40年〜50年代の結構早い時期から主役級の舞台経験を積んでいたからです。十八代目勘三郎・十代目三津五郎の相次ぐ死(それに病気中の九代目福助)など本来現在の令和歌舞伎の中核に在るべき役者が欠けたことが非常に大きいですが、平成歌舞伎から令和歌舞伎への移行(この数年)は、恐らく落差が大きいものにならざるを得ないと思います。その先に何が見えて来るかですが、まだそれは見えていない。昨今の新作歌舞伎ブーム(と呼んで良いのか?)も、歌舞伎若手のそういう不安感のひとつの現れだと思えてなりません。個人的には「こういう時こそまず古典に帰れ」と云いたいところですが、歌舞伎界はますます逆の方向へ向かいそうです。・・年頭の雑談がどうも暗くなってしまっていけませんねえ。

ところで昨年の吉之助はちょっと目を悪くしまして、芝居を観る分には全然不都合はないのですが、パソコンで原稿を書くのが無理できないので自然とゆっくりペースになって、連載記事が3本越年したのは、そのせいがあるかも知れません。目が悪くてちょっと困るのは、書籍・資料を読むのが億劫になってきたことですねえ。しかし、ネタについては全然困っていません。書きたいことはいろいろあるんです。この歳になると身体のいろんなところにガタが来ますが、無理せず、しかし、着実に「歌舞伎素人講釈」の歩みを進めたいと思っています。そうすれば次の10年の展望も自然と拓けて来ると云うものです。

(R2・1・1)


 

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