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吉之助の雑談37(令和2年1月〜6月)


〇令和2年1月歌舞伎座:「鰯売恋曳網」

昨年は勘九郎が大河ドラマに出演で歌舞伎の舞台から遠ざかり、今回(令和2年1月)が久々の歌舞伎座出演ということです。昨今は歌舞伎の世代交代への動きが一段と活発ですから、この時期の長期のブランクは勘九郎にとって気が気でなかっただろうと思いますけど、まっそれは兎も角、復帰となって・これからの精進に期待したいと思います。ところで今回の復帰演目「鰯売恋曳網」ですが、東京では平成26年(2014)10月歌舞伎座・父である十八代目勘三郎三回忌追善興行以来のことです。故・勘三郎の記憶がまだまだ生々しい時期でありました。吉之助はこの時の舞台を見ましたが、これはまったく父親の完全コピーみたいな猿源氏でした。その意味ではなかなか頑張っていたし、客席は湧いていましたが、超人気者であった父親の呪縛は大変なものだと思ったことでした。この時期の観客は二人の遺児(勘九郎・七之助)を応援したい気持ちがいっぱいであったし、だから自然と父のイメージの再現を勘九郎に期待します。興行サイド(松竹)も、そう云う思惑で演目を組みます。父の当たり役(もしかしたら猿源氏は十本指に入るかも)を演じるとなれば、勘九郎もかなりのプレッシャーがあったに違いありません。だから猿源氏が父そっくりになることは或る時期仕方のないことですが、勘九郎はしばらく何の役を演じても・どこかしら父の面影がチラついて・もどかしい印象がありました。吉之助が思うには、十八代目勘三郎と勘九郎は親子だから当然いろんな場面でフッと父親を思い出させる場面(特に声ですねえ)があるわけだけれども、勘九郎は父親よりも生真面目な印象が強くて、芸質としては実事向きであるでしょう。ですから父親とは異なる中村屋の新たな領域へ芸の開拓を目指した方が良いとかねがね感じていたところです。そんなわけで今回の約6年ぶりの「鰯売」と聞いた時には、また父親の完コピにならないかと心配しましたが、それは杞憂に終わって、今回は父親の呪縛から脱して自分なりの猿源氏が作れていたと思います。この点が顕著な変化で、これからの勘九郎の変貌を大いに期待させるものとなりました。

十八代目勘三郎襲名披露の「鰯売」の舞台(平成17年・2005・3月歌舞伎座)を思い出しますが、客席は沸きに沸いていましたが、喜劇と云うより笑劇のイメージでした。この時吉之助の前の座席に座ったオバさんはけたたましく大声で笑って・拍手して、時折口を開けたままガバッとのけぞる、後ろの吉之助には喉の奥まで見えそうで恐れ入りました。要するに今風の漫才コントの芸なのです。三島由紀夫は「鰯売」初演(昭和29年11月歌舞伎座・十七代目勘三郎による)の出来にご不満だったようで、後の座談会で「僕がいくら擬古典主義的なことをやっても、新しいところが出て来る。そいつを隠してくれるのが役者だと思っているのに、向こうは逆に考えていて、ここは隠してほしいというところが彼らにとっての手掛かりになるんだな」 と語っています。十八代目勘三郎の猿源氏は十七代目に輪をかけた、「鰯売」の笑えそうな箇所・つまり三島が隠してほしいと思っている箇所をほじくり返して・それをいちいち拡大して見せたような猿源氏でした。あの猿源氏は、三島は決して認めなかったと思います。

一方、今回(令和2年1月歌舞伎座)の勘九郎の猿源氏は、これはもはや父親の真似ではなく、ちゃんと勘九郎の猿源氏になっていました。あの時に吉之助がちょっと嫌だなと感じたところ・つまり父親の呪縛が抜け落ちて、素朴な味わいの猿源氏に仕上がりました。ここでは勘九郎の生真面目な芸風がよく生きています。例えば猿源氏が傾城蛍火の前で必死で演じる魚尽くしの戦物語では、真面目に演じているから時代物の「物語」の骨格がしっかり見える、だから魚尽くしの戦物語のクスッと笑える面白さが自然に立ち現れるということなのです。もしかしたら父親の猿源氏と比べて地味で面白みに欠けると不満を云う方がいるかと思いますが、これで良いのです。この勘九郎の猿源氏ならば、三島もまあ満足すると思います。これを契機にブランク取り戻して頑張ってもらいたいですね。

七之助の傾城蛍火は悪くはないですが、こちらは若干注文を付けたいと思います。玉三郎の蛍火の呪縛を引きずっているようです。勘九郎の猿源氏が粘らず軽みのあるテンポで演技しているのに芝居の感触が異なる印象がします。七之助の蛍火だけでなく、笑也・笑三郎以下女形陣が重ったるくなる(特に台詞が)のは、とうが立った幕末歌舞伎の女形のテクニックで処理しているからです。「鰯売」で三島が想定しているのはそれよりもずっと以前の歌舞伎の感触なのですから、もっと素朴に・軽みを以て処理してもらいたいのです。東蔵の海老名なむあみだぶつ・男女蔵の六郎左衛門は、勘九郎の猿源氏と息が合ってよく出来ました。

(R2・1・14)


〇令和元年12月国立劇場:「近江近江源氏先陣館〜盛綱陣屋」・その2

このような解釈の相違が生じるのは、「盛綱陣屋」において近松半二がそれだけ意地悪でトリッキーな作劇をしているせいです。別稿「歌舞伎における盛綱陣屋」・「盛綱陣屋の音楽的な見方」など関連論考で触れた通り、半二の芝居は設定が極端なうえに、どちらとも取れる曖昧な書き方をしているところが多い。このため歌舞伎の「盛綱陣屋」の盛綱は過度に情に傾斜した印象となってしまっています。首実検の場面で、白鸚の盛綱は、首を見て・腹に刀を突き刺した小四郎を見て・怪訝な表情をし、また首を見直して・それからもう一度小四郎の方を見てアッそうかと驚く。二度も小四郎の顔を見直して偽証の覚悟を固めると云う、くどいほど説明的な演技です。背後の時政から見て盛綱が考えることがバレバレです。まあ芝居だからそうなりませんが、これでは盛綱の人物が何とも小さく見えてしまいます。しかしまあ現行の歌舞伎の「盛綱陣屋」の段取りでは誰が盛綱をやっても観客を心底納得させることは難しいでしょう。

それにしても実に白鸚らしい演技だと思いますねえ。吉之助はそこに白鸚の役者としての(或いは人間としての)真実があると理解しています。同時に現代に生きる歌舞伎役者の苦しいところが、そこに見えるとも感じています。例えば由良助では、仇討ちの本心を偽って祇園に遊ぶ偽りの演技においては、白鸚は上手さが際立つ役者です。必ずしもニンと思えなかった大蔵卿でも、平家追討の志を偽って作り阿呆を装うというところで、驚くほど線の太い演技でその本質を明らかにしてくれました。今月(令和2年1月歌舞伎座)の五斗兵衛なども、そうです。主君の恨みを晴らすとか・暴虐非道の政権に反抗するとか云う論理が、時代を超えて揺るぎない大義に根差しているからです。こういう場合、白鸚は自信を以て偽りの演技を打ち出せます。もともと技芸があるから偽りの芸が映えるわけです。

ところが例えば松王とか熊谷のように、主筋の若君を護るために我が子を身替わりに殺すとなると、大義が揺るがさるを得ません。それは封建社会の江戸期には確かに大義だったのですが、現代では基本的人権が保障され親と子は別箇の人格とされ、もはや身替わりを大義として現代人に強くアピール出来なくなってしまいました。何て残酷、かつ無意味なことかと云うことになってしまいます。だから我が子を犠牲にする親の苦しみ・葛藤をクローズアップし、封建社会の論理に強制されて・やむを得ず我が子を殺す悲劇ということにしないと、歌舞伎が時代に対応出来ません。この点が現代における歌舞伎の弱み、現代の歌舞伎役者が悩み苦しむところです。大っぴらに大義を主張できないわけです。こう云うところに現代人としての白鸚の感性が、他の役者よりも敏感に反応するのです。他の役者だと何気なくスルーしてしまうところを、白鸚はそのままに捨て置けないのだろうと思います。それは白鸚のこの時代に対する感性の鋭敏さから来るもので、白鸚はドラマと時代感覚のギャップに何とか折り合いを付けようともがきます。表現としては、声を籠らせたり・震わせたり、泣きが強く出て来ます。由良助や大蔵卿であれほど太い筆致の役作りをする白鸚がどうして?と思いますが、何だかセンチメンタルで描線が弱くなって来るのです。白鸚の三大首実検もの、松王・熊谷・盛綱は、どれもそんな感じなのです。これすべて白鸚の役者としての真実から発するものと考えます。

吉之助はこういう場合はあまり深いこと考えず、むしろ形から入って行った方が成功するのにと思うのです。考えなくて良いと云うのではなく、考え過ぎはいけないと云うことです。例えば初代吉右衛門の記録映画(昭和28年11月歌舞伎座)を見れば、時政が退場した後・小四郎を「褒めてやれ・褒めてやれ」と云って扇をパッと掲げる長台詞で、そこまでのモヤモヤをすべて吹っ飛ばして興奮の嵐に出来るのですから、そういうお祖父ちゃんの芸の素晴らしいところを見習って欲しいと思うのです。要は場の気分の切り替えということです。この場面の白鸚の長台詞は決して悪いわけではないけれど、前段の首実検の陰鬱ムードを引きずって、カタルシスまでに至りません。大事なことは、ここでの盛綱は極度の高揚状態にあるわけですから、これを台詞のトーン・リズムに反映させることです。声のトーンをやや高めに置いてリズムを前のめりに言葉を機関銃のように叩き出す、これで歌舞伎の「盛綱陣屋」はそこまでの欠点全部帳消しに出来ると思うのですがねえ。

(R2・1・10)


〇令和元年12月国立劇場:「近江近江源氏先陣館〜盛綱陣屋」・その1

白鸚が盛綱を演じるのは28年ぶりということで期待して舞台を見ました。白鸚の盛綱は「思案の扇カラリと捨て」の「カラリ」のところが素敵に上手い。「カラリと捨て」という詞章なのに、大抵の盛綱役者は扇を捨てると云うよりも「傍にそっと置く」という感じが多いのです。これでは全然「カラリ」に見えません。ところが白鸚の盛綱は考えに気が行く余り・ホントにカラりと扇を取り落とすのですね。その息・間合いが実に上手い。と一応褒めておきますが、その直前がいけません。白鸚の盛綱は「思案の扇」で何か思い付いたらしくアッと口を開けて、それで「カラリと捨て」となるのです。一体盛綱はここで何をアッと思い付くのでしょうか。その後の盛綱の行動を見ると、それは「可哀そうだが小四郎には死んでもらわねばならぬ、その手伝いを母上(微妙)に頼もう」という事に違いない。どうやら盛綱は「これから後捕虜小四郎をどう扱ったものか」と考え続けたあげく、アッと思い付いて「小四郎は死んでもらわねばならぬ」という結論に至ったと、そのように見えるのです。吉之助にはそれは随分軽い結論に思われますねえ。これでは小四郎があんまり可哀そうだと云うものです。

丸本の詞章では「軍慮を帳幕の打傾き思案の扇からりと捨て」と云います。盛綱は何をずっと考えていたのでしょうか。吉之助が思うには、盛綱の頭のなかには「可哀そうだが小四郎には死んでもらわねばならぬ」という結論がもう最初からあったのです。そこで盛綱が考えたことは、ホントにその結論で良いのかということです。何とかそれを回避する策はないか、何とか小四郎を助けてやる手段はないか、盛綱はあれやこれや考えます。しかし、どのような策を取っても結局小四郎は北条時政の手駒として使われてしまい・弟高綱が窮地に陥ることは逃れられぬ、万策尽きた・・そこで「思案の扇カラリと捨て」となるわけです。「可哀そうだが小四郎には死んでもらわねばならぬ」という結論は同じじゃないかと思うかも知れませんが、思考プロセスがまるで違います。結論は随分と気が重いものとならざるを得ません。「思案の扇」はアッと思い付いたアイデアではないのです。

このことは音楽的に見ても検証が出来ます。「盛綱陣屋」を初演(明和6年・1769・竹本座)したのは初代豊竹鐘太夫でした。「思案の扇カラリと捨て」と云う部分は、「思案の扇」でグッと息を詰めて・暫しの間があって「カラリと捨て」となります。通常の間より重めの間が入ります。文楽では、これを鐘太夫の捨て間と云うそうです。例えば同じく鐘太夫初演の「十種香」で八重垣姫が勝頼だと思って走り出たところを・あれは花作りの蓑作だとたしなめられて「フーン何と云やる」という場面も鐘太夫の捨て間で、「フーン」と云ってから・そこで一瞬の不審とああそうなのねと云う思い直しがあって「何と云やる」になる、その間のなかに八重垣姫の心理変化があるのです。「思案の扇」も同様で、何とか小四郎を助けたいと思ったが・・万策尽きた・・無念・・という間があって「カラリと捨て」となるのです。これが鐘太夫の捨て間と云うものです。(この稿つづく)

(R2・1・6)


〇節目の2020年

サイト「歌舞伎素人講釈」は平成13年(2001)1月にひっそりと誕生しました。これでいよいよ20年目に突入することになります。だいたいこう云う場合は歳月を10年(decade)単位で測るものだそうで、そうすると現時点では19年を終わったところだから、「歌舞伎素人講釈・この10年」なんてことを書くのはまだ1年早いので、それは来年のお楽しみです。しかし、何となくここで節目が来たような気分がするのは、世間的には本年(令和2年)が東京オリンピック、歌舞伎にとっては十三代目団十郎襲名の年という大イベントがあるからでしょうか。

ところで前回・十二代目団十郎襲名は昭和60年(1980)4月歌舞伎座から始まったわけですが、この時は約1年前の昭和59年4月27日に襲名披露狂言発表、昭和59年10月27日に成田山新勝寺でのお練り、約半年前の昭和59年11月18日から襲名披露興行の切符前売り開始、11月26日襲名披露パーティなど、襲名ムード盛り上げのためいろいろ行事が組まれました。その合間に関係先・贔屓筋の挨拶回りがあるわけですから、忙しいことでした。一方、今年5月に迫った十三代目団十郎襲名に関して準備がどんな感じで進んでいるのか、たいした報道もなく、経過がいまいちよく分かりません。果たして襲名ムードは盛り上がっているのでしょうか。そんな感じに見えないのですが。吉之助は神奈川大学の市民講座で十三代目団十郎襲名便乗企画・「市川団十郎と家の芸」という講座を現在やっていますが、襲名披露で「勧進帳」と「助六」をやるのは当然のことだけども、「外郎売」も決まりだろうが、他の演目の選定については演者によって考えがあることでしょう、そこで襲名披露狂言発表が正式に決まるのを待っているのだけれど、未だに発表がないので、やきもきしてます。こういう細かい話題を小出しで積み上げながら襲名ムードが盛り上がっていくものだと思いますけどねえ。まあ商売上手の松竹さんのことだからその辺如才はないことと思いますが、もう十三代目団十郎襲名はすぐそこ(5月)に迫ってます。

幹部役者が70歳台半ばになって、歌舞伎の世代交代が現実のものになって来たのも、節目が来た気分にさせられる要因のひとつですねえ。直近の関心事としては十三代目団十郎襲名の「助六」で玉三郎が揚巻を勤めるのかということがあるわけですが、そういう心配をしなければならなくなりました。別稿「平成歌舞伎の31年」で書いたように、昭和歌舞伎から平成歌舞伎への世代間移行は割合スムーズに行ったと思います。それは現在の幹部役者が若かりし時・つまり昭和40年〜50年代の結構早い時期から主役級の舞台経験を積んでいたからです。十八代目勘三郎・十代目三津五郎の相次ぐ死(それに病気中の九代目福助)など本来現在の令和歌舞伎の中核に在るべき役者が欠けたことが非常に大きいですが、平成歌舞伎から令和歌舞伎への移行(この数年)は、恐らく落差が大きいものにならざるを得ないと思います。その先に何が見えて来るかですが、まだそれは見えていない。昨今の新作歌舞伎ブーム(と呼んで良いのか?)も、歌舞伎若手のそういう不安感のひとつの現れだと思えてなりません。個人的には「こういう時こそまず古典に帰れ」と云いたいところですが、歌舞伎界はますます逆の方向へ向かいそうです。・・年頭の雑談がどうも暗くなってしまっていけませんねえ。

ところで昨年の吉之助はちょっと目を悪くしまして、芝居を観る分には全然不都合はないのですが、パソコンで原稿を書くのが無理できないので自然とゆっくりペースになって、連載記事が3本越年したのは、そのせいがあるかも知れません。目が悪くてちょっと困るのは、書籍・資料を読むのが億劫になってきたことですねえ。しかし、ネタについては全然困っていません。書きたいことはいろいろあるんです。この歳になると身体のいろんなところにガタが来ますが、無理せず、しかし、着実に「歌舞伎素人講釈」の歩みを進めたいと思っています。そうすれば次の10年の展望も自然と拓けて来ると云うものです。

(R2・1・1)


 

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