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五代目菊之助の挑戦(仮題)〜新作歌舞伎「風の谷のナウシカ」

令和元年12月新橋演舞場:新作歌舞伎「風の谷のナウシカ」昼の部・夜の部

五代目尾上菊之助(風の谷のナウシカ)、二代目中村七之助(トルメキア王国皇女クシャナ)、二代目尾上松也(剣士ユパ・ミランダ)、二代目坂東巳之助(ミラルパ・ナムリス)、二代目尾上右近(アスベル・オーマの精)、四代目片岡亀蔵(クロトワ)、二代目中村錦之助(チャルカ)、五代目中村米吉(ケチャ)、五代目中村歌六(トルメキア王国国王ヴ王)他

(この連載は未完です。最新の章はこちら。)


1)大海に注ぐか・沼に入って淀むか

本稿は令和元年12月新橋演舞場で上演された・菊之助主演による新作歌舞伎「風の谷のナウシカ」(以下「ナウシカ」とします)の観劇随想ですが、例によってクラシック音楽の話から始まります。いつもの通り・そのうち歌舞伎の話になって行きます。

1890年頃、当時ハンブルク歌劇場の音楽監督を勤めていた若き日のグスタフ・マーラーは、夏の有名な避暑地バート・イシュルに滞在する晩年のヨハネス・ブラームスの元を何度か訪ねたようです。主目的はウイーン国立歌劇場への就職根回しであったようです。正確な日付けが分かりませんが、或る日、マーラーが自作の楽譜を持参してブラームスとしばし談話した後、ふたりは散歩に出たそうです。(この時マーラーが何の楽譜を持参したのか分かりませんが、交響曲ならば第2番までは完成していた時期です。)トラウン川の畔を散策中、どうやらブラームスはずっと無言であったようです。沈黙が耐えられなかったのか・マーラーは川辺を指さして、「御覧なさい、マエストロ、新鮮な川の水が太陽の光を浴びてキラキラと輝いています」と云うような歯の浮く台詞を言ったらしい。するとブラームスがマーラーの方にキッと向き直り、こう言ったのだそうです。「君ィ、大事なことは、その川の水が大海に注ぐか・それとも沼に入って淀むか、そのどちらかと云うことじゃないのかね。」

吉之助が思うには、老ブラームスには若きマーラーの音楽がよく分からなかったかも知れません。良く分からなかったけれど、しかし、彼の音楽に何かしら光るものがあることは認めた。それでブラームスはトラウン川の畔を散策しながら、マーラーの音楽が未来の音楽への啓示となるか否か、そうだとすればどのような未来か、ずっとこのことを考えていたに違いありません。つまり、川の水は大海に注ぐか・それとも沼に入って淀むかと云うことです。

昨今の歌舞伎では新作がブームと云えないまでも・よく出ますが、吉之助も歌舞伎の批評家ですから、新作が出た時は常にそのことを考えるようにしています。その芝居が面白いか愉しいかではなく(もちろんそう云う視点も大事には違いないが)、もっと大事なことは、その方向で大海に注ぐか・それとも沼に入って淀むかと云うことです。歌舞伎批評では古典の舞台を批評することは、それより以前に基準が存在しますから、比較的気が楽な作業です。一方、新作の批評は、これによって批評のスタンスを問われることになるので、気が重いのが正直なところです。頭が硬い保守派の分からず屋か、柔軟なセンスを持ち合わせた書き手か(分かってる振りしてるだけかも知れないが)、八方美人の良かれ良かれの日和見主義者か、文章を読めば一目瞭然です。ともあれ、川の水は大海に注ぐか・それとも沼に入って淀むか、その判断は慎重に下されねばなりません。ブラームスだってマーラーの面前で決めつけることはしませんでした。しかし、川の水は大海に注ぐか・それとも沼に入って淀むか、このことを常に自分に向かって問い続ける批評家でありたいと吉之助は思っています。

そこで吉之助の経験をお話すると、昭和61年2月新橋演舞場での梅原猛脚本・三代目猿之助演出による・スーパー歌舞伎「ヤマトタケル」初演を見て、当時熱烈な猿之助贔屓であった吉之助は「猿之助のスーパー歌舞伎路線はもういいや・・」と思って、それ以来ずっとスーパー歌舞伎を敬遠してきたわけです。あの時吉之助は「これは沼に入って淀む」と決めつけたわけではありませんが、まあ見方によっては、あの時吉之助はこのことを考えることから逃げたわけなのです。ところが昨年・33年振りでシネマ歌舞伎で四代目猿之助主演の「ヤマトタケル」を見直して、またこのことを問い直してみる必要が吉之助のなかに生じてきました。なぜ「ヤマトタケル」映画を見たかと云うと、それは12月に「風の谷のナウシカ」初演を見るにあたって、もう一度吉之助自身の歌舞伎批評の原点を思い返したかったからです。

現時点において「ヤマトタケル」は、戦後歌舞伎の新作のなかでも最も上演回数が多い作品のひとつであると云えます。他には舟橋聖一の「源氏物語」とか、北条秀司の「井伊大老」・宇野信夫の「じいさんばあさん」・三島由紀夫の「鰯売恋曳網」とか、いつくか挙げられるかも知れませんが(上演回数だけが問題なのではないけれど)、過去40〜50年くらいの新作に限れば「ヤマトタケル」くらいしかないのではないか。このことは「ヤマトタケル」が「大海に注いだ」と云う結論になるでしょうか。マーラーの音楽は確かにそうなりました。今や現代音楽家がマーラーに取り組まないことはほとんどあり得ない状況です。敢えてマーラーを避けるという音楽家もいるにはいますが、これも傍にそのような絶対的状況があればこそです。一方、「ヤマトタケル」はどうか?これを結論付けるのはまだ早いかも知れませんねえ。もうあと20・30年先のことかな。しかし、少なくとも「ヤマトタケル」はこのことを問い続ける価値のある作品ではある、このことを吉之助は認めたいと思います。これは吉之助が33年寝かせ続けた今だからこそ云えることです。梅原猛も三代目猿之助も「この水を何としても大海に注がせる」と云う気概を持っていたと思います。このことを「ヤマトタケル」映像を見てつくづく思いました。

しかし、そのように云える作品はホントに少ないと思います。さて「風の谷のナウシカ」の場合はどうかな?兎も角「川の水は大海に注ぐか・それとも沼に入って淀むか」、このことを自身に問い続けることには大きな意味があります。しかし、これを結論付けるのは、まあ50年後くらい先のことで良いのかも知れませんねえ。(この稿つづく)

(R2・2・7)


2)「歌舞伎らしさ」について

『「弁天小僧」は、歌舞伎の伝統を百年くらいに限ってみる人には、なるほど最も喜ばれる狂言である。歌舞伎と云えば、こんなものだと考える人が多いのである。だが一方、そんな平易な様式で卑俗な美ばかり感じる人だけがいるわけでもない。いつもこれらの人から抽象論ではあるが、異論が出て来る。こんな古風で無意義な芸が存在して良いものか。歌舞伎を抹殺する勢いで喚きたてるが、時がたつと必ず静まって来た。しかし、いつかこれが「地」の声になってしまう時が来る。その時の備えに、今からでも変化して行くほかはないのである。(中略)弁天小僧の通し狂言など、まことに我人ともに密かな倫楽に浸っているようなもので、あれでは見物はちっとも進歩して行かないのである。(中略)弁天小僧の芸は見ていて楽しいが、古くても良い戯曲のもつ「人生」がない。(中略)筋立てにも台詞にも、何の人生も写っていない。虚仮(こけ)な生活に引きずりこまれた十数分を反省して、冷や汗を流さない人ばかりはあるまい。これが若い人々に「生」を甘く見る習慣を付ける。(中略)底にからくりがあったとしても、二十や三十両の金を得て帰って行く、そう云う感情の刹那刹那の繋がりすら度外視した、浅はかな笑劇とは早く別れを告げることである。(中略)無意義劇と本格劇の振るい分けをして、正しい劇へ導くことも、これからの歌舞伎役者の仕事のひとつにしていきたいものである。』

ずいぶん厳しい評言が連なりますねえ。上記の文章を書いたのは誰でしょうか?実はこれを書いたのは折口信夫です。これは昭和27年(1952)1月「若手歌舞伎への期待」という文章からの抜粋です。ちょっとビックリしませんか。折口は「弁天小僧の芝居を、昨年暮れの浜町(明治座)・初春の演舞場と二度続けてみた人もいる、その一人は確かに私であった、そう云うことが情けない」と自嘲交じりに書いてもいますが。それにしても折口ほど歌舞伎を奥まで知り尽くしている人が、しかも芝居通いの淫靡な愉しさを最後まで忘れられなかった折口のような人が、このような文章を書いたことは驚きであると同時に、「それでも歌舞伎の将来のために(つまり大海へ注ぐために)言わざるを得ない」と云う気持ちが感じられて、つくづく考えさせられます。確かにこの文章は昭和27年という時代の空気(戦前までの日本社会の価値観の崩壊)と云うことも考慮に入れながら読まねばなりません。しかし、伝統崩壊の危機と云う観点なら、令和の歌舞伎も昭和27年当時と同じような状況ではないでしょうかね。だからこの折口の言葉は、令和という時代の新作歌舞伎のためにも、まことに良いアドバイスになります。

今回(令和元年12月新橋演舞場)の「ナウシカ」は、一見すると歌舞伎にならなそうな題材を、「歌舞伎らしく」見せようと、役者も制作スタッフも一生懸命頑張ったと云うことは、舞台を見ても確かに強く感じました。ただし彼らが考える「歌舞伎らしさ」と云うのがどういうものか、ここで問題になります。アンドレ・マルローは「フォルムを様式にするものが芸術である」と言いました。フォルムを裏付けするものは心情です。心情からフォルムが発し、それが様式を成すのです。心情がなければ、様式は生まれません。ところが心情・ドラマの裏付けがないまま「歌舞伎らしさ」を振り回すと、ドラマが空虚になってしまいます。

気になるところで一例を挙げれば、今回の「ナウシカ」のなかに、クロトワという人物(亀蔵)が登場します。クロトワはトルメキア王国皇女クシャナ(七之助)の副将ですが、実はクシャナの父であるヴ王(歌六)の命を受けてクシャナの動静を探っており・何か事があればクシャナを殺して自分が代わりに将軍になろうかと云う・腹に一物を持つ人物です。ところが心底をクシャナに見破られてしまいました。するとクロトワは急に尻をまくって床に胡坐をかき、「ばれちゃア仕方がねえ・・どうとも勝手にしやがれ」とか言って啖呵を切り始めるのですなあ。「弁天小僧」のパロディのつもりらしいのですがね。(昼の部・第3幕第1場)

「ナウシカ」を見に来たはずが、「俺はここで一体何を見てるのか」と云う気分でしたねえ。折口が云う通り、ここには「人生」がありません。付け合わせで間に合わせただけの虚仮の「人生」です。しかし、これは亀蔵が悪いのではなく、台本と演出がいけないのです。ここには「このくらい出しときゃ歌舞伎らしく見えるかな」というおざなりなものしかない。「ナウシカ」には、これと同じような箇所が随所にあるのです。吉之助が見たところでは、そう云う場面では大抵寒い風が吹きます。そこにドラマや心情の裏付けがないからです。これで受けると思うことが若い者に「伝統」を甘く見る癖をつけます。

前節で吉之助は「ヤマトタケル」には「何としても大海に注がせる」と云う気概があったと書きましたけど、「ヤマトタケル」にも、そのようなダルい場面が全然なかったわけでもないのです。例えば、役者が揚幕から登場して花道七三で止まってツケ打ちで見得をする、本舞台中央に行って、またツケ打ちで見得をする。このような見得のための見得が、猿之助歌舞伎にはとても多かったのです。(注:ただし「ヤマトタケル」においてはそのようなダルい場面が比較的少なかったことは指摘しておかねばなりません。それはやはり「ヤマトタケル」では三代目猿之助も自ら独創的であろうとしたからだと思います。)もちろん必要ならば見得はやって良いです。しかし、ドラマのなかで本当にそれが必要な場面はせいぜい一二か所。ここぞと云う時に絞るからこそ、ツケ打ちの見得が効くのです。それが証拠に「勧進帳」では不動の見得や元禄見得ではツケを打ちません。義経打擲の場面でさえツケを打ちません。ツケ打ちするのは、戦語りの石投げの見得の場面だけです。(幕外の引っ込みの場面でツケいれるのは当然です。)九代目団十郎がドラマと云うものを正しく理解していたことが、これだけで明らかなのです。

ここで「歌舞伎らしさ」ということを考えるのですが、「ナウシカ」の弁天小僧を見ると、なんだか「伝統」と云う名の淀んだ沼水にどっぷり浸かったゆる〜い気分がしますねえ。マーラーは「伝統的であるとは、怠慢である・だらしがないと云うことだ」と言いましたが、この言葉を思い出してしまうのです。(別稿「いわゆる歌舞伎らしさを考える」をご参照ください。)

しかし、「ナウシカ」には感心する場面ももちろんあります。例えばナウシカが傷付いた王蟲(オームと読む)の子供と心を通わせる場面(昼の部・第1幕第11場)では、ナウシカと絡む子方(王蟲の精)を出して舞踊風に仕立てました。これなどは歌舞伎の技法がドラマと溶け合って、なかなか悪くない発想です。それはドラマや心情の裏付けを持つからでしょう。(この稿つづく)

(R2・2・11)


3)「歌舞伎らしさ」について・続き

夜の部・第5幕第2幕「腐海の森の場」では、ナウシカが自分の無力を憂い・腐海をさまよい死のうとする心情を所作事で表現する手法が用いられました。道成寺だか鷺娘みたいな仕立てで「アララ・・困ったなあ」と思いました。台詞でクドクド説明するよりも、音楽と踊りで表現した方がナウシカの心情を効果的に表現出来るという考えも分かりますけれども、芝居のドラマ性を追求することから情緒的表現へ逃げたように感じました。実は吉之助は、別稿「芝居とおどりと〜日本舞踊を考えるヒント」で触れた通り、折口信夫の「歌舞伎が写実の本義を貫き通 しドラマ性を追求する道を行くならば、歌舞伎は踊りの要素を振り捨てて行かねばならない」と云う考えに共感する方です。ナウシカの舞踊は、吉之助にはドラマを混沌の方に引き戻した印象に思われました。ともあれ、歌舞伎が写実(物真似)を本義としつつ・反写実の要素(踊り)を平行させて来たことに歌舞伎の特質を見る考え方だってある・まあそこの工夫を見てみようかと思い直して舞台を見ました。

そこまでの芝居の流れからすると、ナウシカの所作事が浮いたように感じました。劇構成がモザイク状の印象に見えるのも気になりましたが、時代物の通し狂言でも道行など所作事が出た時にもこう云う感じが全然ないわけでもない。だから我慢我慢と思って舞台を見ていましたが、さらに大詰・「シュワの墓所の前」の場で連獅子風の戦闘だか舞踊の場面になるともういけません。ここではもう台本作者がドラマを書くことを放棄したとしか吉之助には見えませんでした。「連獅子見せときゃ・とりあえずカブキ的で・歌舞伎ファンの方は満足でしょ」という感じに見えました。そうではなくて吉之助は「ナウシカ」のドラマを見に来たのですがねえ。

つまり今回(令和元年12月新橋演舞場)の舞台で目に付いたのは、「ナウシカ」のドラマをどう見せるかではなく、「ナウシカ」の各場面を如何に「歌舞伎らしく」見せるかと云うことでした。このため歌舞伎の技法・趣向ありとあらゆる引き出しを駆使して、各ピースにあてはめたわけです。一見すると歌舞伎にならなそうな題材を、「歌舞伎らしく」仕立てようと、役者も制作スタッフも一生懸命頑張ったと云うことは、これは認めて良いと思います。そう云う意味では、同年6月歌舞伎座の三谷歌舞伎「月光露針路日本〜風雲児たち」のようなおざなり感がないだけ、こちらの方がはるかにマシです。歌舞伎興行というのは、1か月25日興行で休みは5日しかありません。その間にどんな芝居でも仕上げてしまう、出来の悪い脚本でも5日で一応見られる舞台に仕上げて見せる、歌舞伎役者も制作スタッフもそう云う訓練だけは出来ているのです。或る意味において、確かにこれはプロの仕事です。しかし、それ以上のものではなかったとも云えます。それは古典歌舞伎の技法・趣向が背負うもの(象徴性)との内的連関を無視しているからです。これについてはマックス・ピカートの次の文章が参考になるかも知れません。

『象徴の本質はその背後にある世界、過去の世界をふたたび指し示すところにある。(中略)象徴を眺める時、人の心は、象徴のなかで簡単な標章(しるし)により表現されているところのあの過去へと、長い道程を帰って行くのである。だから象徴は過去を、したがってまた持続性を前提としている。(中略)連関性を喪失し、歴史を喪失した世界では、象徴はあり得ようはずはない。しかし、一種の象徴の贋物はあり得るだろう。(中略)真の象徴は求心的な方向を持っている。連関性を持たないものは、万事を自己の前方に持とうと、外部の世界のなかに前進しようとしてあせる。それは「ここに我々はいる、ここでは我々も一人前である、ここから我々は進発する」ということの単なる省略記号なのである。それはまさに象徴の反対である。』(マックス・ピカート:「我々のなかの内なるヒトラー」〜象徴の記号への転落、なお文章は吉之助が読みやすいように若干整理しました。)

技法・趣向の象徴性とは、その舞台を見た時に古典歌舞伎のドラマの本質とどこか折り重なったと感じる感覚です。例えば日本の本歌取りの伝統が、それです。本歌取りとは、元歌の否定でも肯定でもありません。元歌の何を取り・何を変え・何を残したかという元歌との連関性において・その関係を楽しむ遊戯です。本歌の何をどう変え・何を変えなかったかということ、それ自体が現在への注釈となるのです。これが象徴の役割です。例えば大詰・墓の主とオーマの精が激闘し互いに力尽きるその場面で、紅白の獅子が毛を振りまくって・これを「赤勝て、白勝て」の合戦に見立てる、まあ見た目には派手で迫力あって映えますけどね、これが過去の何に連関してくるのか、そこが問題になると思います。これが歌舞伎の獅子物の系譜のなかに乗ってくるかと云うこともちょっとは考えてもらいたいのです。そうする責任が歌舞伎役者にはあると思うのです。過去との連関を喪失してしまえば、結果として古典をないがしろにすることにさえなりかねません。

前項でナウシカが王蟲の子供と心を通わせる場面で子方(王蟲の精)を出して舞踊風に仕立てたことを褒めましたが、古典の何か特定の狂言に結びつくわけでもないのに、結局、これが一番しっくり来たのは、古典歌舞伎の連関性が何かあると云うことです。しかし、こう云うことはやってみなければ分からぬことです。「こうやったら出来る」と云う公式・方法論があるわけではないのです。「そこはセンスだ」と言ってしまえばそれまでですが、これをモノにする為にはドラマをとことん分析しアイデアを煮詰めなければ活路は拓けないでしょう。(この稿つづく)

(R2・2・16)



 

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