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四代目猿之助襲名のヤマトタケル

平成24年6月新橋演舞場:スーパー歌舞伎「ヤマトタケル」

四代目市川猿之助(二代目市川亀治郎改め)(小碓命後にヤマトタケル・大碓命・二役)、九代目市川中車(香川照之)(帝)、初代市川右近(三代目市川右団次)(タケヒコ)、二代目市川笑也(兄橘姫・みやず姫・二役)、市川春猿(河合雪之丞)(弟橘姫)、初代坂東弥十郎(熊襲兄タケル・山神・二役)、二代目市川猿也(熊襲弟タケル・ヤイラム・二役)他

(四代目市川猿之助・九代目市川中車襲名披露、二代目市川猿翁演出)

*本稿は三代目猿之助と四代目猿之助が交錯しますので、三代目猿之助は昔のことでも「猿翁」と記すこととしました。


1)「ヤマトタケル」初演の思い出

本稿で紹介するのは、平成24年(2012)6月新橋演舞場での、四代目猿之助・九代目中車襲名披露興行・夜の部でのスーパー歌舞伎「ヤマトタケル」のシネマ歌舞伎の舞台映像です。実は吉之助はこの時の昼の部(「川連法眼館」・「小栗栖の長兵衛」など)は見ましたが、夜の部は見なかったのです。それには理由がありまして、話し出すと長いことになりますが、吉之助は三代目猿之助(以下「猿翁」と記す)による「ヤマトタケル」初演(昭和61年・1986・2月新橋演舞場)を見た時に「猿翁のスーパー歌舞伎路線はもういいや・・」と思って、それ以来スーパー歌舞伎をずっと敬遠していたからなのです。初演の公演が詰まらなかったわけでもないのです。当時の吉之助はかなり熱心な猿翁ファンでした。「今度は猿翁は何をしてくれるか」と猿翁歌舞伎を毎月心待ちにしていたものでした。当時の吉之助が猿翁に期待していたことは、古典歌舞伎の活性化・積極的な読み直しであったのですが、「ヤマトタケル」は吉之助の期待とはだいぶ違った様相に思われました。猿翁の方向性が吉之助の新古典主義な考え方と相容れなかったのです。その後の猿翁はスーパー歌舞伎に傾斜して普通の歌舞伎(何が普通かは議論のあるところですが、要するに歌舞伎座でやってる・いつもの歌舞伎です)に出演することが次第に減って来ました。それはスーパー歌舞伎の仕込みが普通のものより相当掛かるので、地方興行でもスーパー歌舞伎を回数多く掛けないと採算がなかなかペイしないからだそうです。このため猿翁は名古屋・大阪・京都・博多でも年中スーパー歌舞伎ばかりやっている印象になってきました。これが吉之助が猿翁から次第に距離を置くようになった理由のひとつとなったことは確かです。もうひとつの理由については、別稿「いわゆる歌舞伎らしさを考える」で触れました。

下記は「ヤマトタケル」初演の大判チラシ(昭和61年・1986・2月〜3月新橋演舞場)

そういうわけでスーパー歌舞伎を再び見ないまま、初演から33年の歳月が経ってしまったわけです。それが今頃になって吉之助が「ヤマトタケル」映像を見直そうかと云う気持ちになったのは、まあ吉之助も相応に歳を取ったので・多少懐が深くなったこともあるかと思いますが、ひとつには近年当代・四代目猿之助が目覚ましい活躍を続けていることが密かな興味を掻き立てたと云うことでしょう。猿之助に対する興味がなければ今回のシネマ歌舞伎も見なかったと思いますが、もうひとつの理由はこのところ歌舞伎界では新作の上演が増えていることです。ただし質については首を捻りたくなるものが少なくない。別稿「昨今の新作歌舞伎の動きについて考える」で触れましたが、これまで歌舞伎で新作がどれくらい出たか分かりませんが、二代目左団次の新歌舞伎に限ってみても打率(成功率)はせいぜい3%くらいのもの、通常はそれ以下の打率だろうと思われます。そのなかで梅原猛により書き上げられ・猿翁の演出により昭和61年に初演された「ヤマトタケル」は、33年経った今でも上演されている・数少ない成功例のひとつです。来年(2020)にも猿之助・隼人らによる新演出の舞台が予定されています。そこでこれを機会に「ヤマトタケル」について、もう一度考えておきたいと思ったわけです。本作の成功要因はいくつか考えられますが、やはり継続的に、できれば違う役者が引き継ぎながら継続的に上演され続けて行くことが一番大事なことだと考えます。しかし、作品それ自体に強い魅力がないならば、役者がこれを演じ続け・観客がこれを支持することは決してあり得ないことです。

今回(平成24年・2012・6月新橋演舞場)の舞台映像は初演から26年後のものですが、吉之助は33年ぶりに「ヤマトタケル」を見直したわけです。初演の時はああこうだったと思い出すことも色々ありますが、吉之助も大人になったと云うことかな、同じものでも見えるものが随分違って見えるものだなと思いました。演出については、初演と比べて特に際立った手直しはなかったように思います。(考えてみれば、これも驚くべきことかも知れませんねえ。それだけ初演の猿翁の演出の完成度が高かったと云うことでしょうねえ。)長い歳月の間に、主役以下役者はほとんど変わっていますが、作品・演出もこなれて来たのか、初演の時の衝撃度合いが抑えられて・味わいに深みが増して、或る種古典的な趣きさえ感じさせたのには感慨を覚えました。例えば「ヤマトタケル」大詰めで亡くなったヤマトタケルが白鳥と化して大空へ飛び去る直前の長台詞(ここは初演の時と今回のとは台詞の入れ替えが若干あるようです)などは、初演の時は猿翁の口調が少々一本調子で硬い感じに聞こえて「この台詞はもう少し情感を込めてしゃべれないものかなあ」などと首を捻りながら聞いた記憶が吉之助にはあります。まあこれは初演者のハンデキャップと云うことだと思います。ただお隣にいた女子大生二人組は「ヤマトタケル可哀そう・・」と言いながらハンカチで涙をぬぐっていましたが、そんなことまで思い出しました。一方、当代猿之助で同じ台詞を聞くと、適度に緩急を付けて感情を込めた、これはずいぶん練れた感じに聞こえます。猿之助の上手さと云うこともありますが、決してそれだけではない。これが作品が長い歳月演じられていくことで生まれる古典味なのだろうと思います。(この稿つづく)

(R1・11・23)


2)ヤマトタケルの征服者史観

明治以降の歌舞伎は、西欧の近代思想やリアリズムの影響により、歌舞伎の面白さである歌(音楽性)、舞(舞踊などの視覚的ショー的な面白さ・早変わりなどのケレンの要素もここに含まれる)を忘れ、技(演技・台詞術)の方に偏ってしまった。真山青果など新歌舞伎も、作家自身の文学性が第一義であり、歌舞伎本来の「歌・舞・技」の三拍子が揃った新作はなかなか現れない。「ヤマトタケル」は、そのような・これからの新作歌舞伎への可能性を求める冒険の旅立ちである。・・これは、昭和61年2月新橋演舞場「ヤマトタケル」初演筋書に載っている猿翁による文章「ヤマトタケルの目指すもの」前半を吉之助が要約したものです。これは猿翁歌舞伎の理念とでも云うべきもので、著書「猿之助修羅舞台」などでも語られているものです。猿翁らしい覇気ある言葉が並んでいます。

猿翁(当時46歳)の主張は細かいことを云えば議論があるところかも知れませんが、「ヤマトタケル」初演以後の猿翁はこの理念を旗印に突き進んできたわけで、その意志の強さと実行力は大したものでした。猿翁の思いを受けて立った梅原先生(当時60歳)も凄いパワーの持ち主ですねえ。そしてそれもこれも観客の熱い支持があったからこそ実現出来たと云うことも、とても大事なことです。猿翁歌舞伎の考え方は、若干様相を変えながらもその後の故・十八代目勘三郎の実験歌舞伎や現在の様々な新作歌舞伎の動きに多大な影響を与えて来ました。このことは二代目左団次の功績に比肩するとまで言わないまでも、もし現代歌舞伎史を書くならば相応の頁を割かねばならぬほどのものです。吉之助はスーパー歌舞伎については「ヤマトタケル」以後のお付き合いを断ってしまいましたが、戸板康二先生は雑誌「演劇界」(昭和62年3月号)の劇評で「まぎれもなく画期的な超大作と呼んでもさしつかえない芝居であった、戦後では昭和26年の「源氏物語」が大きなイベントだったが、それ以上の壮挙である」と絶賛を贈っています。戸板先生の鑑識眼はさすがだと、今にして思います。

それは兎も角、今回(平成24年・2012・6月新橋演舞場)の舞台映像を見直すと、初演の舞台を見ていろいろ思ったことがまた蘇って来ます。吉之助はかつて猿翁ファンを自称したくらいですから、猿翁の言いたいことはもちろん理解しているつもりです。しかし、明治以降の歌舞伎が技(文学性・演技・台詞術)の方に寄り過ぎたという猿翁の批判はこれはその通りだと思いますが、これと歌舞伎の三要素・「歌・舞・技」の他のふたつ、歌(音楽性)、舞(舞踊などの視覚的要素)も、実際は相互に複雑に絡み合っているものですから、隈取・見得・立ち廻り・早替りがあるからこれは歌舞伎ですと云えるほど単純なものではないと思うのですねえ。この辺に関しては猿翁は驚くほど楽観的だったと思います。別稿「いわゆる歌舞伎らしさを考える」で触れましたが、猿翁は伝統のダルい要素に対する批判(疑問)をあまり持ちませんでした。だから「ヤマトタケル」もフォルム面においては、それなりの工夫はあるものの、旧来感覚から抜け出せていない気がします。そのような猿翁の歌舞伎観の影響を梅原先生の「ヤマトタケル」も受けざるを得ません。このためヤマトタケルの人物構築に関して影響が出ています。そこに評論とはまったく異なる・感性が強く作用する戯曲の難しさがあるようです。

例えば「ヤマトタケル」では、大碓命と小碓命(後のヤマトタケル)は双生児で見掛けがそっくりである・だからここは早変わりの芝居に仕立てる必然性があると梅原先生は仰いますが、しかし、見掛けがそっくりであることは実は早変わりの為の方便で、必然でも何でもないと思うのですねえ。演劇的必然と云うものは、例えば「桜姫東文章」で桜姫を中央において僧清玄と釣鐘権助が立つ、片方が聖を担い・もう片方が俗を担う、そのような対称性とそれに関連するドラマツルギーを指すのです。つまりそれは「見立て」の技巧です。演劇的必然を持たせたいならば、小碓は兄を殺したことで、(帝にとってと云うことよりも・この世において)本来あるべき何か大事なものを殺したのであるから、その罪ゆえに小碓は放逐されて、次々に試練を受けねばならなくなる、そういう風に持っていかないと演劇的必然は生まれて来ないと思います。この部分は「古事記」ではスサノオの「天つ罪」にも擬せられるし、或いは聖書のカインのアベル殺しにも擬せられます。(これは梅原先生は当然ご承知のこと。)ここは結構核心の箇所だと思いますが、兄弟の争いを入れ替わりで見せる場面はただの早変わりのエンタテイメントになっています。

「古事記」には小碓は兄を殺した理由が語られておらず、この部分は梅原先生の創作です。「ヤマトタケル」では兄大碓は帝を殺そうする陰謀を持っており・小碓はこれを阻止しようとして小競り合いして・不注意で兄を手に掛けてしまうことになっています。つまり小碓には殺意がなかった。帝に反抗するつもりがなかったのであるから、その点で無実なのです。梅原先生はヤマトタケルを無垢な英雄に仕立てたかったのですねえ。ヤマトタケルは無実なのに、云われのない誹(そし)りを帝から受けて試練を受けねばならなかったと云うことにしたかったのです。梅原先生は、ヤマトタケルに猿翁とご自身をも重ねあわせておられたそうですから、そうしたい気持ちは良く分かりますが、このためヤマトタケルの人物の陰影が乏しくなってしまいました。ヤマトタケルの西征(熊襲征伐)・東征(蝦夷征伐)が、「野蛮の民たちに我々(大和)の進歩的な文化を教えてやる・これを広めることが国家統一の意義だ」と云う安直な優越史観・征服者史観を背負っているように見えかねません。綺麗事に見えて来るのです。そう受け取られるのは梅原先生にとって不本意だと思いますが、最初の兄殺しでヤマトタケルを「良い人」に仕立てちゃってるからそう見えるのです。これはちょっと見は反体制のポーズをとっているけれども、本質的には体制にすり寄る歌舞伎のいけないところの反映だと、師・武智鉄二ならばそう言いそうです。ヤマトタケルは征服に対する疑問もチラッと挟んだりはしていますが、死に際の台詞でヤマトタケルは「熊襲タケルよ、ヤイラムよ、そうすぐあちらで会おう、また戦おう」と言います。「また一緒に遊ぼうよ」みたいな響きですねえ。ヤイラムは憤怒をはらんで死んだと思います。そこに征服民と被征服民との意識のギャップがありはしないか。この辺りの歴史観は33年後の、911(アメリカ同時多発テロ)以後の現代ならば批判されてしかるべきだろうと思います。もし脚本に手を入れるのならば課題はそこかなとは思いますねえ。

むしろ「ヤマトタケル」においては、ヤマトタケルによって攻め滅ぼされる・熊襲タケルやヤイラム・伊吹山の山神など原日本人たちの方が生き生きと描けており、はるかに実感を以て観客に迫って来ます。第二幕では死に際のヤイラムが次のように云います。

「お前たち(大和朝廷)の宝は米と鉄だけだ。しかし、我々は違う。人間の心のなかに宝があることを我々はずっと前から信じてきた。今でも我らのなかには、そういう信仰がある。それをお前たちは、鉄と米で人間の心のなかの美しい宝を滅ぼしてしまったのだ」

これに対しヤマトタケルはただ黙るだけです。後でヤマトタケルは「われらは火のように燃え、灰となって消えて行く、人間の運命とはそういうものだ」と言いますが、征服者にそう云われると、国家統一の大望のためにはこのような犠牲も仕方ないことだと云う諦観みたいな響きに聞こえます。ヤマトタケルのなかにどういう思いが去来したのか、結局自分は大和朝廷の手先として体よく使い捨てにされただけなのか、自分は血塗られた道具に過ぎないのか、ここはとても大事なところだと思いますけど、ヤマトタケルの虚しさ・反省が利いてこない。結局、父親(帝)との軋轢だけが「ヤマトタケル」の主題のように見えて来て、「天翔ける心、それが私だ」というヤマトタケルの最後の決めの台詞が芝居から見える歴史感覚の上にぴったり乗ってこない気がします。まあそんなことなど初演の時に感じたことをまた思い出したりしました。

しかし、それは兎も角、今回(平成24年・2012・6月新橋演舞場)の舞台映像は、全体として古典的な丸みを帯びた印象に仕上がったせいか、これらの問題点も頭のなかに再びチラリと浮かぶはするものの、エンタテイメントの流れのなかに静かに溶け込んで、ヤマトタケルが白鳥になって宙乗りで三階席に飛び去るシーンも今回は素直に見ることが出来ました。吉之助も大人になったか、歳取ったと云うことかな。(この稿つづく)

(R1・11・28)


)「そは然り」と云う古典的な感覚

古来芸能は祭事に発すると云われています。芸能の古典的な感覚は、どこか鎮魂の趣きを呈するものです。過去の遠い出来事を扱いながら(多くの場合それは悲劇が多いわけですが)、古典的な感覚は「そは然り」という感慨に見る者を誘い込みます。能がそう云うものですし、浄瑠璃・歌舞伎もまたそうです。

今回(平成24年・2012・6月新橋演舞場)の「ヤマトタケル」の舞台は初演から26年後のものですが、長い歳月に上演が重ねられて来たので、恐らく戦後の新作歌舞伎のなかでは最も上演回数の多い作品のひとつだと思います。その過程で演出・段取りが練り上げられて落着きのあるものになっていき、作品は次第に古典化して行くのです。「ヤマトタケル」もその過程にあると云うことが、今回の映像を見ると良く分かります。主演のヤマトタケルが初演者である猿翁から現・四代目猿之助に受け継がれたことで、「ヤマトタケル」は新たな段階に入ったのです。前項で吉之助は梅原先生がヤマトタケルを「良い人」に仕立て過ぎと書きましたが、今回の映像ではそうした印象もいくらか和らいで見えるのは、これはどこをどう変えたと云うことではなく、舞台全体が練れて来たからです。代わりに日本人のなかに長く培われた・ヤマトタケルに象徴される国造りに係わった人々の思いと、そして新しい歌舞伎造りに賭けた先代の思いとを重ねながら、「ヤマトタケル」も少しづつ古典になっていくのです。

ところで芸能はどこか鎮魂の趣きを呈すると書きましたが、多くの場合、鎮魂とは「たましづめ」のことを云うものです。これは世界各地にあるもので、霊魂が遊離してあちこちに彷徨(さまよ)うことを防ぐ法です。しかし、折口信夫は、やまと人の鎮魂には「たましづめ」とは異なる考え方があったと云っています。(「古典に現れた日本民族」・昭和13年) これは「たまふり」と云って、我々が生まれながらにして持つ霊魂とは別の、偉大な能力の持ち主である方の魂を受け入れて、我が体内に定着せしめる法です。折口の云うことはなかなか難しいですが、そういうことがあると云うことは吉之助にも何なく分かります。ただし偉大な方の魂を受け入れることが出来るのは、それを受け入れるに相応しい資質を持つ人物のみです。

例えば第1幕・熊襲タケルの新宮の場において、小碓に殺される直前の熊襲タケルが「われら兄弟ほど強い者はいないと思っていたのに、1人だけいた、それがあなた(小碓)だった。これからは、われらの名を取り、ヤマトタケルとお名乗りください。この名とともにわれらの魂があなたに乗り移り、あなたは、ますます強い人間になるでしょう」と言います。こうして熊襲征伐後小碓はヤマトタケルを称することになるのです。熊襲タケルのこの台詞はもちろん「古事記」から来るものですが、これはとても重い意味を持つと思います。これは強い者の魂をもっと強い者が受け取ったということではありません。もっと強い者が自分より弱い者の魂を受け取ったって仕方がないのです。だから小碓が受け取った魂は、「強さ」ではない・もっと何か別のものであるはずです。熊襲タケルは小碓のなかに何か自分と同じものを見た、だから小碓に我が魂を託す資格があるとみてタケルの名を受け取ってくれと言い、小碓はこれを受けた。そこを考えてみる必要があります。

道徳倫理が完成した後の時代の人々は、その基準に照らし合わせて、神がこれほど怒るのにはこんな理由があったはずだと後付けで納得できる説明を探そうとします。しかし、道徳がまだ成立していなかった古代人には、照らし合わせるべき倫理基準がまだありません。だから人々には神が怒る理由など想像が付かないのです。古代人にとって神の怒りは唐突で・理不尽で、ただただ無慈悲なものでした。神がその憤りを発する理由がどこまでも分からない。神がなぜ祟るのかその理由が分からない。このことが大事だと折口は言っています。

『今日になりますと、我々の考えておった神が、日本人の持っている神の本質ではなしに、怒(いか)らない・憤(おこ)らない神という風に考え過ぎている。ちっとも憤りを発しない。だから何時も我々どんなことでもしている。天照大神はたびたび祟りをして居られる。天照大神は何のために祟られるか。それは人間がいけないからと我々は説明するでしょうけれども、上代の考えではあれだけの神様が祟られる理由が判らないという風に落ち着いていたと思います。神を人間界から移して考えた時に天子様の性格が出て来るのですが、非常に怒りの強い天子様が昔は時々ありました。時には非常に暴虐だと思われるほどの、昔の方は節度がありませんから、武列天皇というような、或いはもう少し人情のある雄略天皇というような御性格の天子様が考えられる。(中略)怒りの激しい天子様を考えているように神にも怒りのひどいスサノオというような神があります。』(折口信夫・座談会「神道とキリスト教」・昭和23年6月)

古代人にとって神の怒りはただただ理不尽なものでした。そのような理不尽な怒りを神はしばしば・しかも唐突に発しました。例えば地震・台風・洪水・旱魃・冷害などの自然災害がそのようなものです。このような時に古代人は神の怒りをみずからの憤りで以って受け止めました。みずからの憤りを自分の内部に封じ込めて黙りました。ただひたすらに耐えたのです。そうすることで古代の人々はみずからの心を倫理的に研ぎ澄ましていったのです。「神よ、この清い私を見てくれ」と言うかのように。

『自分の行為が、ともかくも神の認めないこと、むしろ神の怒りに当たることと言う怖れが、古代人の心を美しくした。罪を脱却しようとする謹慎が、明く清くある状態に還ることだったのである。(中略)ともかく善行、宗教的努力をもつて、原罪を埋め合わせて行かねばならぬと考えている所に、純粋の道徳的な心が生まれているものと見なければならない。それには既に、自分の犯した不道徳に対して、という相対的な考えはなくなって、絶対的な良いことをするという心が生まれていると考えてよいのである。』(折口信夫・「道徳の研究」・昭和二十九年)

以上のことを以て帝と小碓の関係を見れば、帝は唐突に・理不尽に・無慈悲なまでに怒り、大和から小碓を放逐し、熊襲征伐を命じました。これに対して小碓はみずからの憤りで以って受け止めたのです。みずからを奮い立たせることでの小碓の気持ちは強い核を持ったものに結晶化して行きます。折口が「神の怒りに当たることと言う怖れが古代人の心を美しくした」というのはそういう意味です。小碓もそうです。古代人の場合には絶対者である神に対して反抗するという発想は考えられません。自分に対する神の仕打ちが不当であると感じた時、古代人は自らの清らかさを神に示すように控え入るのです。「神よ、この清い私を見てくれ」というようにです。つまり表面上は畏れ入っているのですが、内心には自分に対する神の仕打ちは不当であるという強い思い(憤り)があるのです。この小碓の憤りに熊襲タケル(被征服者)の憤りを重ねて考えてみれば、熊襲タケルがどうして小碓のタケルの名前を与えたかは明らかです。被征服者の憤りを受け取って、もっともっと良い国(統一国家)を造る、これがヤマトタケルに託された使命だと云うことになります。

各地を転々とし戦いに明け暮れるヤマトタケルの身はますます血に汚れて行きますが、心は清い。これはヤマトタケル(小碓)の「神よ、この清い私を見てくれ」という苦難の旅に他なりません。そして伊吹山の山神との戦いでヤマトタケルは遂に力尽きるのです。「ヤマトタケル」が日本人の心のなかに眠っているはるか昔の国造りの物語を思い出させるとすれば、それは「そは然り」という芸能の古典的な感覚のおかげです。(この稿つづく)

(R1・12・5)


4)音楽の論理的な使い方

以下は昭和61年(1986)の初演時の巷間の劇評でほとんど論じられなかったことで、吉之助も初演を見た当時は芝居を観ることに精一杯で・そこまで思い至らなかったことですが、今回「ヤマトタケル」映像を見直して痛感したことは、長沢勝俊作曲の舞台音楽がドラマに大きな関与をしていると云うことです。長沢勝俊(1922〜2008)は現代邦楽の代表的な作曲家のひとりです。1990年に紫綬褒章受賞。ちなみに梅原猛・猿翁による「オグリ」(平成3年・1991)の音楽も長沢の作曲です。大事なことは、長沢の「ヤマトタケル」の音楽が、単に芝居の情緒を盛り上げる背景音楽に終わらず、もっとドラマの核心に踏み込んだ形で音楽が鳴っていると云うことです。特にこのことを感じるのは、第1幕の小碓命の熊襲タケル征伐の場面(ここでは朝倉摂の舞台装置がなかなか良い)、第2幕の焼津の草原で国造ヤイラムの火攻めに遭う場面(ここでは多人数で赤い旗を振り回しながら火炎の行方を表現する猿之助の手法がなかなか斬新である)、走水の海上で弟橘姫が入水する場面(この場面でも猿之助の浪布の使い方が上手い)などの、劇的なシーンにおいてです。第3幕幕切れのヤマトタケルが白鳥になって飛び去る宙乗りシーンもそうです。これらの場面で、猿翁は長沢の音楽を巧みに活用して劇的効果を上げています。結果として猿翁演出の成功の半分くらいは音楽の力だと思わせます。このことを再認識できたのが、吉之助にとって今回「ヤマトタケル」再見の最も大きな収穫であったかも知れません。

明治37年(1904)の坪内逍遥による「桐一葉」初演(これが新歌舞伎の始まりとなる)以来令和2年の現在まで、数え切れない数の新作歌舞伎が作られて来ましたが、恐らく「ヤマトタケル」ほどに音楽がドラマのなかで積極的に活用された事例はないと思います。この点でも「ヤマトタケル」は歌舞伎史のなかでも画期的な作品だと云えると思います。これで猿翁が志向したものが何なのかが、はっきり分かります。それは音楽とドラマが一体化すること、これが猿翁のスーパー歌舞伎だと云うことです。多分ここにはその3年前、1984年3月に猿翁がパリ・シャトレ劇場で歌劇「コックドール(金鶏)」(リムスキー=コルサコフ作曲)を演出した経験が大いに生きているのです。猿翁は「歌舞伎の所作と、シェークスピアの台詞と、ワーグナーのロマン性が全部在るようなドラマが欲しい」と云う大変欲張りな注文を梅原猛に突き付けたそうです。(対談「ヤマトタケルを語る」での梅原発言〜「演劇界」昭和61年1月号)恐らく長沢にも梅原に対するのと同じ注文を付けたに違いありません。猿翁はかなり細かく注文を付けたと思います。そうでなければ、これだけのものは出来ないはずです。

歌舞伎での音楽の活用というと、義太夫狂言で三味線がチンと鳴らすと役者が形を決めて見せる、いわゆる「ポテチン」のようなものを思い浮かべる方は少なくないと思いますが、日常的にオペラを聴く吉之助から見ると、そう云うものは発想的に安直な次元のものです。オペラの舞台でもオケがバンッとなったタイミングで歌手の動きが決まると「おおッ」と思うことは確かにありますけどね、それはたまたまの効果で、作曲者がそこまで音楽で描写的に人物の動きを付けることはありません。そういうものは演出側からの良く言うならば音楽の深い「読み」、悪く言うならば「こじつけ」に過ぎません。(歌舞伎で糸に付き過ぎることを「人形じゃあるまいし」と嫌うのも、ある意味ではそういう背景があるだろうと思います。)しかし、「ヤマトタケル」は芝居であってオペラではありませんから、ワーグナーの楽劇のように音楽がドラマの動きにまで深く関与するわけではなく、またその必要もないのです。舞台音楽としての「ヤマトタケル」では、音楽は切り取られた場面を描けば、それで十分なのです。むしろここで音楽のドラマへの関与として大事なことになるのは、その「場」からどのようなドラマを引き出すか、音楽がドラマを先導出来るかと云うことです。例えば義太夫で云えば、三段目ならば三段目の「格」を提示できるかと云うことです。さらに播磨風とか筑前風とか云う「風」の問題になるでしょう。「ヤマトタケル」においては、その場の「格」とか「風」を提示するかのように音楽が鳴っており、これを素直に視覚化すれば、それで自然に舞台の骨格が成るというかのように、音楽が論理的に鳴っています。これがしっかりしているから、音楽が鳴らない場面においても、逆算すればその場の間尺が自ずと決まって来ます。こう書くと「ヤマトタケル」の舞台を支配しているのは猿翁ではなく長沢だと言うように聞こえたかも知れませんが、そう思えるくらいに猿翁は長沢の音楽を効果的に駆使出来ていると言いたいのです。つまりこれは猿翁の功績に違いありません。

別稿「分裂した他者〜アイーダと愛陀姫」のなかで、(歌舞伎に限らず)日本の演劇は、大抵の場合音楽を情緒的にしか使えておらず、論理的に使われることが極めて少ないということを指摘しました。野田歌舞伎の件はそちらをお読みいただくとして、ところで今回シネマ歌舞伎の「ヤマトタケル」プロモーション映像では、なぜか長沢の舞台音楽が使われておらず、ヴェルディのレクイエムの第2曲「怒りの日」がバックに使われていますが、こういう使い方は如何なものかなと思うのですねえ。「怒りの日」というのは、神を敬わず・驕りたかぶる人間どもを神が罰してくれるぞと云う音楽なのです。これを「ヤマトタケル」で使うということは、「大和朝廷に反抗し驕りたかぶる熊襲ども、大和から遣わされた小碓命が成敗してくれるわ」と云うことなのでしょうか?これは全然違うと思います。そう云えば思い出しますが、蜷川幸雄も「ファウストの悲劇」(クリストファー・マーロウ作・2010年7月・シアターコクーン」で悪魔メフィストフェレスの登場シーンで「怒りの日」を使っていたのには驚きました。西洋人がこれを見たら椅子から転げ落ちると思います。ドラマティックでおどろおどろしい音楽だと云う上っ面のムードだけで音楽を選ぶから、こういう可笑しなチョイスをするのです。まあ予算が限られている日本の演劇では既成の音楽録音を使わざるを得ないことは理解しますけど、舞台音楽は論理的にお使いいただきたいものです。出来ることならば望ましいのは、その作品に合わせたオリジナルの舞台音楽を専門の作曲家に依頼して作ることです。しかし、それには当然手間も費用も掛かります。つまり「ヤマトタケル」制作のために、猿翁はそれだけの手間も費用も掛けたと云うことであるので、この作品に込めた猿翁の情熱は如何ばかりか、このことだけで察せられます。しかも猿翁はちゃんと結果を出しています。(この稿つづく)

(R2・1・17)


5)実践者としての歌舞伎

前節で述べたスーパー歌舞伎での音楽の重要性は、猿翁の歌舞伎観を考えるうえで、とても大事なことだと思います。これは「歌舞伎とは歌・舞・技の三つを統合した芸能だから、音楽は歌舞伎に不可欠な要素である」という考え方に拠るものです。一方、吉之助は「歌舞伎とはかぶき的心情から発するバロック的な演劇である」という考え方を取るので、猿翁ほどに歌舞伎での音楽の要素を重視していません。と云うか、吉之助はバロック的な演劇のひとつの技巧として、隈取・見得など歌舞伎の表現を割り切る考え方です。音楽を取り去っても歌舞伎が歌舞伎でなくなることはないと考えています。吉之助は、別稿「芝居と踊りと」で触れた通り・折口信夫と同様、芝居と踊りは別箇のものとして進んでいかねばならない、つまり音楽の要素を振り捨てて・歌舞伎はもっとドラマの方向に傾注して行った方が良いと云う考え方なのです。多分この辺が猿翁と吉之助との見解の相違です。吉之助が「ヤマトタケル」初演の時に「猿翁のスーパー歌舞伎路線はもういいや・・」と思ってしまった原因もそこにあったかと思います。

しかし、吉之助は猿翁の考え方を否定するつもりは全然ありません。そう云う考え方だってもちろんあって良いことなのです。猿翁がこの考え方で「ヤマトタケル」を創り上げたという事実こそ、大事なのです。猿翁の考え方は、徹頭徹尾実践者としての立場から出たものです。猿翁は現に歌舞伎役者であるし、座頭として一座を率いて行かねばならないわけですから、あくまで実践者の立場から発する演劇運動なのです。実践者としての発想だから、とにかく形にして・見られるものに期限内に仕上げてみせる、この点はやはり見上げたものです。その意味において「ヤマトタケル」は、もはや梅原猛のものではなく・長沢勝俊のものでもなく、まさに実践者・猿翁の歌舞伎と云えるものに化しています。

36年ぶりに「ヤマトタケル」映像を見ながら、初演の思い出やら何やら、いろんなことが吉之助の脳裏に浮かんで来ました。それにしても、改めて感じたことは、「ヤマトタケル」は観客に支持されて・猿翁は上演回数を順調に伸ばしましたが、これだけで「ヤマトタケル」が新作歌舞伎の成功作だと断言できるわけではない、つまり初演者(猿翁・三代目猿之助)が演じている間はまだ成功作だと断言できるわけではない(もちろん興行的にはそれで良いが、歌舞伎史的に見ればまだそうではない)、それは誰か別の者・次の世代に受け継がれることで成功作になって行くのだと云うことですねえ。夢は次の世代に受け継がれることで、確固としたものになって行くのです。四代目猿之助のヤマトタケルの白鳥となって舞い上がったのを見た時、吉之助は「ヤマトタケル」が古典になって行く様を確かに見た気がしました。猿翁は良い後継者を得ましたねえ。「ヤマトタケル」を古典演目にしていくことが、四代目猿之助のこれからの仕事ですね。

(R2・1・23)


 

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