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昨今の新作歌舞伎の動きについて考える


1)二代目左団次の新歌舞伎運動のこと

本稿は昨今の新作歌舞伎の動きについて雑談風に考えるものですが、冒頭は大正・昭和初期の二代目左団次による新歌舞伎運動について触れて置きたいと思います。

昭和2年7月、二代目左団次が46歳の時、「松莚戯曲目録」(「松莚」は左団次の俳名)という小冊子が作られました。左団次が明治37年9月(23歳の時)に初演した「牛若丸」に始まり、昭和2年(46歳の時)に初演した「水野十郎左衛門」まで、新作154編の外題が、ここに列記されています。このリストには左団次が復活上演した「毛抜」・「鳴神」など歌舞伎十八番、「絵本合邦衢」・「謎帯一寸徳兵衛」といった鶴屋南北物など一連の古典歌舞伎は含まれていません。また昭和2年以後に初演された作品、「将軍江戸を去る」・「頼朝の死」・「大石最後の一日」をはじめとする元禄忠臣蔵シリーズなどは当然含まれません。これ以後も左団次は新作を発表し続けるのです。(注:左団次は昭和15年2月に59歳で没、なお「松莚戯曲目録」は歌舞伎学会誌・「歌舞伎・研究と批評」第29号に復刻掲載されています。)

「松莚戯曲目録」をパラパラめくると、左団次が初演した新作154編のなかで、吉之助が見たことがあるものは「鳥辺山心中」・「番町皿屋敷」・「修善寺物語」・「名月八幡祭」など数編に過ぎず、打率3%くらいのものでしょうか。(左団次最晩年までの範囲で計れば、打率はもっと高くなりそうです。)大半はもう上演されることもなくて、「へえ、こんな作品もあったのか」と思うくらいのものです。しかし、江戸時代に初演された歌舞伎作品(いわゆる古典歌舞伎)がどのくらいあるか知りませんが、数えきれない膨大な数だと思います。そのなかで現在の歌舞伎のレパートリーに残っている作品は、多分その1%にはるかに及ばないと思います。そう考えてみると、左団次の新作の打率は、驚くほど高いものです。

左団次は脚本をもらうと、場面をカットしたり台詞を改変したりと云うことをほとんどせず、ほぼ脚本通りに上演したようです。だから作家は安心して左団次のために脚本を書ける。左団次の個性を念頭に置きつつ、自分の書きたいものが書ける。作家と役者との間に深い信頼関係があったのです。だから自然と左団次が初演した作品群は、「これこそ左団次ならでは」と云える様式感覚を自然と備えるようになって行きました。こうして「左団次劇」というジャンルが出来上がっていくのです。

ご承知の通り、新歌舞伎とは、座付き狂言作者ではない外部作家が書いた歌舞伎のことを指します。しかし、現行歌舞伎のレパートリーを見れば、現在残っている新歌舞伎作品の多くが左団次が初演したものです。だから新歌舞伎とは、それは左団次劇とほぼ同義だと云って良いほどなのです。もちろん左団次以外の役者が初演した作品も数多くあります。例えば六代目菊五郎が初演した長谷川伸もの(「暗闇の丑松」など)は、菊五郎ならではの個性を活かしたものですが、それさえも左団次劇と共通した同時代の匂いがします。菊五郎は左団次と同じ舞台に立とうとしなかったけれども(しかし菊五郎は左団次のことを高く評価していました)、菊五郎の新作も左団次劇と無縁なものだと決して言い切れない、と云うよりも、同時代作品として左団次劇からはっきり影響を受けているのです。どうしてそうなるかと云えば、左団次劇が大正・昭和初めの時代の空気をしっかり取り入れて、これを心情にまで高め、ひとつの確固とした様式にまで到達しているからに違いありません。したがって左団次劇の様式は、同じ時代の新派や新劇など他の演劇ジャンルにも多大な影響を与えています。左団次の功績は、それほどのものです。(別稿「左団次劇の様式〜二代目左団次の芸」をご参照ください。)

菊池寛は「二代目左団次は明治大正にかけて、俳優として最も意義ある道を歩んだ人であった。その点では(九代目)団十郎・(五代目)菊五郎以上かも知れない」と書いています。また、利倉幸一は次のように書いています。

『六代目菊五郎は技術においては(二代目)左団次を抜くこと遥かであるが、演劇史は左団次により多くの頁を割くべきである。俳優の評価を決定づけるものはその演技力・表現力を総合したものであるのは言うまでもないが、左団次のように、その職業人としての俳優の評価を越えて、社会人・または文芸に波及したる事跡までを云々される例はきわめて少ないし、事実、それで正しい左団次論が成立する。そこに「大正」という時代背景の反映を強く感じる。』(雑談「大正の歌舞伎」・「演劇界」・昭和57年9月)

大事なことは、このような左団次の業績は一日で成ったものでないと云うことです。それは明治37年9月(23歳)の新作第1作から、昭和15年2月(59歳)の最後の「元禄忠臣蔵〜御浜御殿綱豊卿」にまで及ぶ、地道な積み重ねの結果なのです。(この稿つづく)

(R1・9・18)


2)現代歌舞伎の保守的傾向

前章の二代目左団次の新歌舞伎運動については、考えるヒントが幾つかあります。昨今の新作歌舞伎の試み(故・十八代目勘三郎の実験歌舞伎も含めます)は、そもそも新作がほとんどない状況のなかで自然と目立ってしまうので、演じる方も実験だ挑戦だと自然と肩に力が入ってしまうし、見る方もたまのことだから身構えてしまって、その度に出来が良いの悪いの・歌舞伎であるのないの熱い議論になり勝ちですが、大体のところ、新作のヒット率なんてものは、左団次劇の実例で分かる通り、高くても3%程度のものだと思った方が良いのです。新作など端から期待するものでないと言っているのではありません。大抵のものは再演の声も掛からないのかもしれませんが、そのなかのいくつかは後世に残る佳品となる可能性が3%くらいはあると云うことです。名作の初演に立ち会う幸運に恵まれるかも知れないと思って、「まあどんなものかお手並みを拝見いたしましょう」とこれを楽しむ度量のある態度が、多分、観客にも必要なのです。

ところで昔の「演劇界」の頁をパラパラめくっていると、昭和40年代までは、歌舞伎座の毎月の演目に、必ずひとつふたつ新作が入っていたことに気が付きます。昭和30年代より以前、或いは戦前ならば、新作上演の機会はもっと多かったのです。もっとも当時仰々しくこれを新作歌舞伎と呼びはしなかったと思います。そういうものは「書き物」と呼びました。今はほとんど死語のようですが。大抵は軽い一幕物の時代劇でした。当時は北条秀司・宇野信夫・村上元三・川口松太郎といった歌舞伎を書ける劇作家が存命・かつ元気だったのです。新作をそんなものとして気楽に受け止める環境が、かつてはあったわけです。また新作で役をゼロから創り上げることが役者の訓練にもなったと思います。

ところが吉之助がちょうど歌舞伎を見始めた昭和50年代に入ると、歌舞伎座での新作物の上演が急激に減って来て、演目立てが次第に古典歌舞伎ばかりになって来ます。直截的な要因としては上述の劇作家連中が引退してしまったからだと思いますが、恐らくそれは世間においても歌舞伎においても保守化嗜好が強まったからなのです。そこには社会的要因も複合的に絡んでいるものと思います。(これについては機会を改めて論じることがあるかと思います。)

そう考えると歌舞伎座のプログラムが古典中心であり新作が少なかった時期と云うのは、これはたまたまのことですが、吉之助がこれまで歌舞伎を見てきた期間とほぼ重なって来るわけです。つまりそれは最近40年か50年ほどに限られた現象であったのです。(もちろん全然新作がなかったわけでなく、広義には猿之助歌舞伎の新作などがあるにはあるが。)歌舞伎の長い歴史から見ると、これは特異な時代であったかも知れませんねえ。まあ個人的には古典だけのプログラムの方が嬉しいのは事実ですけどね。(更にそのうちの30年を平成期が占めていたと云うことも大事なことで、これは平成歌舞伎の特質を考えるうえで示唆のあることだと考えますが、これについても別の機会に論じることにします。)歌舞伎の保守的傾向は現在も続いています。(ただし、これは政治でも似たような状況なのだが、積極的保守と云うわけではなく、なし崩し的保守という感じ。)しかし、このところ歌舞伎座では再開場ブームが去って客席に空席が目立ち始めています。特に幹部役者の古典演目(吉之助から言わせれば・これだけは是非見ておいて欲しいと若い人に言いたい舞台)で時に昭和五十年頃の歌舞伎座を思い出す空席沢山の光景を見るようになって来ました。もしかしたら歌舞伎の保守的傾向に綻びが生じ始めており、若手中心に新作が望まれる環境に戻りつつあるのかも知れません。(この稿つづく)

(R1・9・27)


3)古典と新作をまったく別ものと考えてはいけません。

新作歌舞伎運動と云うものは、結局、その役者の歌舞伎観の何某かの反映なのです。それは理論とか理念とか云う確固たるものではなくて、彼が生きているその時代に対して鋭く反応する嗅覚とセンスです。このことを折口信夫は、その時代に対して「憤(いきどお)る」とか「震い立つ」とか表現しました。時代の空気を取り込んで憤るところがない芸術作品は、どんなジャンルであっても、時間の淘汰に耐えられず消えていくしかありません。だからその歌舞伎観において、彼は新作に限らず旧作においても等しく同じ態度で対していると云うことなのです。

例えば九代目団十郎は、明治初期の歌舞伎に史実考証を持ち込む演劇改良運動(活歴物)は民衆に受け入れられず定着しませんでしたが、この苦い経験が晩年の古典歌舞伎の見直しの一連の動きのなかで生かされることになりました。今日我々が目にする「勧進帳」・「熊谷陣屋」・「忠臣蔵」などの型がそう云うものです。この実績がなければ、後年九代目が「劇聖」と呼ばれることはなかったはずです。二代目左団次の領域はもっぱら新歌舞伎で・古典歌舞伎は弱かったみたいなイメージが巷間あるかも知れませんが、そんなことはありません。左団次がいなければ、「鳴神」など歌舞伎十八番や「絵本合邦衢」など鶴屋南北物の復活はなかったはずです。(左団次と新歌舞伎と、十八番・南北物には様式的な親和性があるからです。これについては別稿「アジタートなリズム〜歌舞伎の台詞のリズムを考える」を参照ください。)六代目菊五郎は長谷川伸ものなど新歌舞伎への取り組みから得た方法論が、晩年の「野崎村」・「合邦」など古典歌舞伎への型の再検討につながって行くことになります。だから昔の役者を見ると、新作歌舞伎と古典歌舞伎は混然一体で、これを明確に区別しようという意識はなかったと思います。もちろんこれについては、役者の考え方にだけ帰せられるものではなく、当時の社会生活での歌舞伎の立ち位置・民衆の意識のなかにある歌舞伎のイメージが微妙に関係するので、一概なことは云えませんが。

一方、近頃の役者を見ると、新作歌舞伎と古典歌舞伎はまったく別ジャンル、新作は新作・古典は古典という感じに区別して考えているように見えるのです。ここがスタンスとして大きな違いだと思います。典型的なのは、故・十八代目勘三郎でした。野田歌舞伎や平成中村座のような新作・実験もやりますが、歌舞伎座に戻れば古典もきっちりやってお見せしますと云う風に、明確に一線を引く態度でした。何と云っても勘三郎は血筋的にはサラブレッド、いずれ歌舞伎の伝統を引き継ぐと衆目一致する存在でした。その勘三郎が敢えて伝統に反逆すると云うポーズが重要であったのです。だから勘三郎のなかで、古典をきっちり型を守って真面目にやることが、片方で伝統を壊して新作に挑戦することに対する、ご先祖様への申し訳にもなっていたわけです。事実勘三郎はそれが出来るだけの才も華もある役者でした。ところが、勘三郎がしゃかりきになって研辰や法界坊を演じるほど、勘三郎が真面目に演じたい古典の方でも観客が笑いを期待して、少々具合が悪いことになってしまいました。さらに勘三郎も五十歳を過ぎれば、体力的にも次第に本来の古典の領域にシフトしていきたいのが本音のところですが、周囲が新作・実験でヒートアップしてしまっているので、容易に足が抜けない。そうこうしているうちに、結局、芸道二筋道が、勘三郎を袋小路に追い込むことになってしまいました。(この件については「十八代目中村勘三郎の芸」で触れました。)勘三郎が演じる型ものとされる古典は、妙に重苦しいところがありました。だから吉之助は当時「(平成中村座の)法界坊を神妙に・(型ものの)盛綱を楽しげにおやりなさい、それでちょうど良いのです」と書いたのです。そうすれば勘三郎が演じる古典の役々はもっと生き生きしたものになったと思うのですがねえ。新作と古典と同じスタンスで対していれば、勘三郎の状況はずいぶん違ったのじゃないかと、このことは今も悔やまれます。(この稿つづく)

(R1・10・4)


4)古典を生き生き演じるための新作であって欲しい。

「(平成中村座の)法界坊を神妙に・(型ものの)盛綱を楽しげに」と云うことは、新作の時は古典をやる時のように折り目正しく真面目に、古典の時は新作をやる時のように新鮮な気持ちを以て生き生きと、と云うことです。同じ時代に在って、新作も古典も、相互作用しているのです。それが互いに無関係だということはない。だから名優は明日古典を演じるためのヒントをどんなものからでも得て来ました。それによって古典を改革してきたのです。前項に挙げた九代目団十郎・二代目左団次・六代目菊五郎の三人が時代を代表する役者であると言えるのは、その優れた技芸に拠るのではありません。技芸や人気では彼らを凌駕し得る役者は同時代にも大勢いたでしょう。しかし、その時代の空気を取り込んで「震い立つ」ことが出来た役者となれば、そんなに多くは居りません。そういう役者のみ「時代を代表する役者」と呼ぶことが出来ます。

前項に挙げなかったけれど、もうひとり時代を代表する役者を挙げれば、それは戦後の六代目歌右衛門でしょう。そういうイメージが世間にあまりないかも知れませんが、三島由紀夫の歌舞伎を挙げるまでもなく、歌右衛門は、結構、新作役者だったと思います。ただし歌右衛門の場合は「その時代の空気を取り込んだ」というよりも、当時の歌舞伎が置かれた強い危機意識から出たものであったかも知れません。これは女形不要論から発したものなので・ある意味個人的なものだったのですが、これが戦後日本の復興のなかで・これまでの生活風習・価値観が崩壊していく時代の変化と深く関連し、個人的なものを超越していくのです。(この点については別稿「歌右衛門の今日的意味」をご参照ください。三島が歌右衛門の「危機美」と呼んだものがそれです。)

そういう意味では、伝統芸能として尊敬されて・興行的にも立派に成り立っており(同じ伝統芸能でも能狂言や文楽はそうではない)・世界無形遺産にもなって保護されている現在の歌舞伎の状況は、歌右衛門が「震い立った」70年ほど前と比べると格段に恵まれています。だから、そういう意味においては、何だかんだ云っても・この40年ほどの歌舞伎は何とかなってしまったので、現代の歌舞伎役者には本質的な危機意識が乏しいのかも知れませんねえ。

「歌舞伎の危機」と云うと、歌舞伎役者の多くはそれは「お客が歌舞伎座へ来なくなることだ」と考えていると思います。そこで歌舞伎になじみのないお客を呼び込もうとして盛んに知恵を絞っていると云うのが、昨今の新作歌舞伎の背景にあるものです。親しみやすい歌舞伎、楽しい歌舞伎、スピーディな歌舞伎というわけです。お客が歌舞伎座へ来なくなれば、それはイコール「生活が出来なくなる」ということだから、確かに役者にとって切実な問題でしょうが、問題の本質はそこにないのではないか?私共長年歌舞伎を見て来た者が「歌舞伎の危機」と云う時、それは「歌舞伎役者が正しく古典を演じられなくなっている」ことを指すわけです。この演じる側と見る側との間の意識の乖離が、年々大きくなっている感じがしますねえ。生き生きと古典をやるための「新作」であってもらいたいものです。(何だか政府の年金問題を論議しているような気分になってきたな。)(この稿つづく)

(R1・10・15)


5)時代に対して震い立つところがあるものを「かぶき」と呼ぶのです。

昨今の新作歌舞伎には漫画・小説の歌舞伎化から古典の現代的演出・能の歌舞伎化まで色々な形態がありますが、それぞれ歌舞伎を活性化しようという目論見のもとにやってくる試みなので一概に良し悪しは付けられないけれども、何だか方向がバラバラに思われます。ここから頭ひとつ抜け出して新しい歌舞伎のムーヴメントの方向を指し示すものが出て来るのかは、今はちょっと分かりませんねえ。そういう突出した作品が見当たらないようです。それだけ現代と云うのは、焦点をひとつに定めにくい・捉えどころのない混迷した時代だと云うことなのです。そこに主題を個人と世間(社会・組織)との葛藤ひとつに定めることが出来た大正期の二代目左団次の新歌舞伎とは全然違った現代の難しさがあります。

まあ左団次の新歌舞伎の例を見ても新作の打率は3%程度のものなのですから、そこは長い目で見てやらねばなりません。吉之助がこの50年弱で見て来た新作(前述の通り多くはないが)のなかでも、客観的に見て現時点でこれは残る(残った)と云えそうなのは、梅原猛・二代目猿翁の「ヤマトタケル」くらいのものです。これは作品の力だけでなく、これを継続的に演じ続けた役者の力でもありますね。(来年は当代猿之助によるリニューアル再演が予定されています。)個人的には野田秀樹・十八代目勘三郎の「野田版・研辰の討たれ」も質的に高いものを見せているし・或る種時代の心情を切り取っていると思いますが、これは勘三郎の強烈なキャラクターに頼るところが大きいので再演が難しいかも知れません。もうちょっと将来に勘三郎の記憶が或る程度薄れて来た頃ならば、勘九郎らによって新しい形で生まれ変わる時が来るかも?「野田版・桜の森の満開の下」もその可能性を持っていると思います。もう少し何人かの役者で再演を重ねる機会を持たないと断定的なことは云えませんが、それが成功作であるかどうかは、そのくらいの長いスパンで考えなければいけないものです。

もうひとつ申し上げたいのは、昨今の新作歌舞伎を見ると、「かぶき」的とはどういうことか?芝居を「かぶき」的にするものは何か?と云うことを、作者も役者も、もっと突き詰めて考えて欲しいと云うことです。二代目左団次の時代には芝居と云えばまだまだ歌舞伎のことでした。そのような歌舞伎第一義の時代(戻ろうと思えば戻れる場所がしっかりあった時代)の新歌舞伎と、現代のように歌舞伎が芸能の一ジャンルに過ぎない時代の新作歌舞伎では、位置付けが大いに異なると思うわけです。新作歌舞伎に入れ込むうちに、気が付いたら自分のなかの歌舞伎を見失ってしまうかも知れない、そういう危険が少なくないわけです。他ジャンルの芸能を見れば魅力的なものは沢山あります。そこでの「ああこうやれば最高の効果が簡単に得られるんだ」という気付きが、却って歌舞伎を歌舞伎でなくしてしまうことになるかも知れません。そう云われれば思い当たることは結構多いのではないかと思います。だから、そうならないために自分のなかに確固たる歌舞伎を保持せねばならない、自分がより先鋭的であるために・より内向きにならねばならないわけですが、それが出来る歌舞伎役者は実はそれほど多くはない。その辺にも問題があります。

「かぶき」的とはどういうことか?については別稿「芝居におけるドラマティックにおいて触れました。アンドレ・マルローは「フォルムを様式にするものが芸術である」と言いました。フォルムを裏付けするものは、心情です。 だから心情からフォルムが発し、それが様式を成すのです。心情がなければ、様式は生まれません。歌舞伎の隈取り・見得など、歌舞伎を「歌舞伎らしく」している技法は、すべて心情の裏付けを持っているのです。個人を内面から急き立てる心情の強さ・熱さ、吉之助はこれを「かぶき的心情」と呼んでいます。この心情を内包する芝居であれば、どんなものでも歌舞伎に仕立てられる可能性を持っているのです。それが 正しく描けていれば、自ずから急き立てる気分が生まれ、フォルムはかぶき的な様相を呈します。だからまず脚本のなかにかぶき的心情がしっかり描けていなければなりません。吉之助としては、この点を作品の評価基準としたいと思います。

「ヤマトタケル」や「野田版・研辰の討たれ」が今後歌舞伎史に残る可能性を持つ数少ない作品であるのは、作者が確固たる世界観やスタイルを既に持っており、これが役者の熱い心意気と強く結びついたところで化学反応して出来た稀有なものであるからでしょう。だから新作歌舞伎の場合は、まず作者・それから役者と云う事ですが、この混迷の時代(現代)に在って・我々の心情を奮い立たせる主題は何か?ということを真剣に考えないのであれば、現状から頭ひとつ抜け出して新しい歌舞伎の方向を指し示す作品が出て来るとはちょっと思えない、だからまずは作者と役者はじっくり時間を掛けて何が芝居を「かぶき」的にするのか?と云うことを議論してもらいたいと云うのが、今の吉之助の率直な気持ちですねえ。

(R1・10・19)


 

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