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吉之助の雑談35(平成31年1月〜4月)


○平成歌舞伎の30年・その5:平成歌舞伎後期〜十八代目勘三郎の死以後

平成歌舞伎前期から中期に、昭和の時代に若手花形と呼ばれた世代が歌舞伎の中核となって行きます。そして平成歌舞伎後期、第5期歌舞伎座が新装開場となった平成25年4月時点 においては、女形陣はやや薄い感じもしなくもないが、立役の充実振りは昭和50年初期を凌ぐかとさえ思われる状況になりました。一連の開場記念公演では充実した舞台を見せてくれ ました。まさにこの時期が平成歌舞伎の絶頂期でした。

しかし、平成24年12月5日の十八代目勘三郎の死から現在(平成31年1月)まで、これで7年目に入りますが、このところの歌舞伎の様相は大きく変化しているようです。勘三郎の死とそれに続く十代目三津五郎の死(平成27年2月21日)、これに加えて、幸い舞台復帰を果たしたけれども体調は万全ではない九代目福助の (平成25年秋からの)病気による離脱、これらを一括りとして考えます。彼ら昭和30年代生まれの役者が続けざまに抜けたことによって歌舞伎が蒙ったダメージは、ここ1・2年の歌舞伎興行の演目・座組みなど見れば、もはや隠しようがないほど露わな状況となって来ました。

顔見世興行と云えば、普段見られない大顔合わせを期待するものなのに、その座組みの薄いこと。このところ幹部俳優はそれぞれの演し物は持つけれど、他の役者の演目に付き合いで 脇に出ることをあまりしなくなった印象です。個々の役者の芸ではもちろん舞台に見るべき芸はあるのだけれど、スケールの大きい芸のぶつかり合いの場が少ない、芝居全体としての スケール・完成度がいまひとつというものが多くなっています。顔ぶれに厚みがないので、見物からするとこれだけは是非見ておきたいと思う演目が少なくなりました。これは幹部役者も多くが70歳代半ばとなって、これまで酷使されてきたツケが出た健康面の問題もあると思いますが、やはり本来この時期の興行の中核を受け持つべきであった上記三人の欠落が大きく影響しています。この不足を補う為に下の世代に役が回ることになるわけですが、そうなると芸のいろいろな面で落差が生じます。先に「現状の世代交代は親世代より も5年ほど遅れているように思われる」と書きましたが、そのような印象になるのも、予想以上に世代交代の必要性が高まっているせいです。

吉之助は、舞台を見ながら「ここで勘三郎・三津五郎がいればなあ・・」と寂しく感じることが、このところ多くなりました。これはまあ同世代の愚痴ということもありますけれどね。 ここ1・2年の歌舞伎は、次の時代への過渡期という様相になってきました。(この稿つづく)

(H31・1・13)


○平成歌舞伎の30年・その4:平成歌舞伎中期〜十八代目勘三郎の時代

平成歌舞伎中期(ここではほぼ平成13年から平成24年とします)については、まず世界史レベルの事件を二つ挙げておかねばなりません。ひとつは911(アメリカ同時多発テロ事件(平成13年年9月11日)、もうひとつは311(東日本大震災平成23年3月11日)です。この二つの事件によって世界の既存の構造・価値観がガラガラ崩れ落ちてしまいました。この時代に生きる人は、世界の何かが変わったことの意味を自分に向けて常に問いかけなければなりません。そんなことを考えるなかで現代人にとって何故古典が必要か、その意味が研ぎ澄まされてくると思います。吉之助にとって日常生活で歪みがちな感性を正しい状態に整えてくれるものこそ古典です。歌舞伎もこのことから無縁ではいられません。

平成歌舞伎中期は吉之助にとって「歌右衛門以後」ということになりますが、別の視点からこの時代を眺めたいのですが、いろいろな事象が挙げられるけれども、中期はやはり十八代目勘三郎の時代であったと断言して良いと思います。二十一世紀の歌舞伎は、九十九里の浜辺で新春の初日の出を背景に中村屋親子が連獅子の毛振りを披露するテレビ中継で幕を明けました。この時期の歌舞伎は確かに勘三郎を中心に回っていたし、天下を狙う勢いがあったと思います。しかし、勘三郎は最後の約10年でパアッと輝いて、突然フッと消えてどこかへ行ってしまいました。

吉之助の勘三郎の思いについては別稿「勘三郎・一周忌に寄せて」で書き尽くせていると思いますが、七回忌になる現時点(平成31年)において付け加えるとすれば、勘三郎の実験歌舞伎(平成中村座・コクーン歌舞伎・野田歌舞伎)は、これは変革の気分としては現在も何となく受け継がれていると思いますが、演劇運動としては結局実を結ばなかったと云うことが、次第に明らかになってきました。ここで「現代人にとって古典とは?」ということが再び問題になるわけですが。

恐らく勘三郎は自分のやってきたことを歌舞伎の定型にまでしたかったと思います。つまり「自分が型を作る」ということです。もし勘三郎が現在も元気でいたならば、「夏祭」も「法界坊」も串田演出で続けて従来型をやらず、串田演出を歌舞伎の型にしようとしたと思います。しかし、これも勘三郎の死によって頓挫しました。「野田版・研ぎ辰の討たれ」など新作物の試みも、あまりに勘三郎のキャラクターに依存し過ぎた題材のため再演が難しい。結局、勘三郎は記録と云うよりも、記憶のなかに強烈に残る役者ということになってしまいました。

別稿「歌舞伎は危機的状況なのか?」のなかで触れましたが、歌舞伎の型というものは最初から「型」として生まれて、「俺は後世の規範となる型を残す、これ以後この役をやるならばこの型でやるべし」として次代に受け渡すものではないのです。受け継ぐ者たち(後輩)が、これを守るべき大切なものだと認めて、同じように自分も演じてみたいと努めるから、これが次第に「型」になるのです。残念ながら、勘三郎は自分で型を創造しようとしましたねえ。勘三郎はちょっと先を焦り過ぎたのではないでしょうかね。これを型にしようと云うことは、後世の判断に任せるべきことでした。吉之助は勘三郎に「祭祀としての演劇にの理性(アポロン)と熱狂(ディオニッソス)は同じ肉体に宿るか」という問いに対する答えを期待したのだけれど、答えは勘三郎の死によって保留にされてしまいました。(この稿つづく)

(H31・1・10)


○平成歌舞伎の30年・その3:平成歌舞伎前期〜昭和歌舞伎の精算

昭和50年代初め頃、吉之助は、21世紀に成る頃(つまり20年後の未来ということですが)には多分歌舞伎は興行的に成り立たなくなっているだろうと、かなり悲観的に考えてました。具体的には、松竹だけでは歌舞伎を支え切れなくなって国が文化事業として支援せざるを得ないような状況、現在の文楽のような状況を思い浮かべていました。

なにしろ昭和53年(1978)の歌舞伎座の興行を見ると、歌舞伎ではない月が4ヶ月もあったのです。3月(八代目幸四郎・山本富士子公演)、6月(萬屋錦之助公演)、8月(三波春夫公演)、12月(大川橋蔵公演)で した。歌舞伎を上演したのは、残りの8ヶ月でした。恐らく興行的にはこの時期の歌舞伎がどん底期であったかも知れません。歌舞伎は、映画やテレビにお客をどんどん奪われていました。歌舞伎が掛かっていた月も、夜の部の最後の幕などは、(建て替え前の)あの歌舞伎座の広い三階席に客がパラパラで実に悲惨な光景でした。当時の昭和の大幹部の舞台で質的にはなかなか良かったのですがねえ。だから吉之助にはあのどん底期の歌舞伎座を支えた観客の一人だという自負が密かにあるのだが、まあ自分で思っているだけですがね。あの頃の歌舞伎座の客席を思えば、とても20年後に歌舞伎が続いているとは思えませんでした。恐らく当時の歌舞伎役者なら程度の差こそあれ誰もが危機感を持っていたと思います。

興行的な問題を別にしても、芸の伝承や後継者の問題や脇役・竹本など裏方の不足など歌舞伎は恒常的な問題を抱えています。( これは現在でも解消されているわけではありません。)吉之助は歌舞伎はいずれジリ貧に陥るだろうと半ば諦めていました。だから今のうちに歌舞伎を 眼に焼き付けておこうということで、六代目歌右衛門や十七代目勘三郎その他の昭和の大幹部の舞台を必死に見たのです。十年くらいは東京で掛かっている歌舞伎は、時間が許せば片っ端から見ました。その頃の記憶が、現在の吉之助の貴重な財産になっているわけです。

もっとも松竹や歌舞伎がこの危機的状況に手をこまねいていたわけではありません。人気回復のためにいろんな努力がされたと思います。平成元年(昭和64年・1989)の歌舞伎座の興行を見ると、歌舞伎でないのは、8月(SKD公演)のみですね。橋蔵(昭和59年没)・錦之助(平成9年没)のような歌舞伎座をいっぱいに出来る時代劇の大スターが衰えたということが大きいかなと思います。この時期の吉之助には歌舞伎が盛り返したという印象はあまりないのですが、ただ昭和55年から浅草公会堂で若手花形による初春公演が行われるようになったり、猿之助の昭和61年からスーパー歌舞伎(前述の「ヤマトタケル」)が始まったり状況改善努力があって、それが平成になって結果となって表れて来たということだと思います。この頃から世間に和テイストへの関心が高まって来たということも大きかったでしょう。(逆を云えば、普段の生活からそれだけ旧来の和の要素が消えてしまったということなのです。) まあ興行史的な分析はこのくらいにしておきます。

そういうわけで平成歌舞伎前期は、いろんな意味で昭和歌舞伎の正の遺産・負の遺産の精算の時期であったと云えます。ちなみに平成歌舞伎の前期は、日本経済のバブル崩壊、いわゆる「失われた10年」とほぼそのまま重なることも戦後歌舞伎興行史を考えるうえで大事なことになるでしょう。(失われた10年の時期は、人によって見方が異なるでしょうが、吉之助は日経平均株価が最高値38,957円を付けた平成元年(1989年)12月29日からと規定します。)歌舞伎のことだけで考えていると分からない複合的な要素がいろいろと絡んでいます。

しかし、思い返してみれば昭和50年代から平成の初め頃にかけての、昭和の大幹部から次の若手花形への世代交代は、比較的順調に行った方ではないかと思いますねえ。現在の平成の幹部役者(つまり昭和 戦後生まれの若手花形)は数々の大役の初役を比較的早い時期に経験しています。そのような座組み・配役を意識的に心掛けて来たことが、平成5年過ぎたあたりから実を見せ始めたと思います。(現在の世代交代が順調に進んでいるかという問題は至急検証せねばならない事項だと思います。吉之助の感じでは、現状の世代交代は親世代より も5年ほど遅れているように思われますが。)

昭和50年代の頃の状況を思い出すと、現在(2019年)の歌舞伎の隆盛はまったく夢みたいだなあと思いますが、しかし、それにしても、あの時吉之助が抱いた危機感は何でも悲観的に考え勝ちな吉之助の単なる思い込みであったのか?確かに歌舞伎の客足(興行成績)は回復したけれども、それで歌舞伎は危機を脱したと安心して良いのか?と思うことは時々あります。実は大切な問題がなおざりにされていないかと感じているところに、先日、玉三郎の「最近の歌舞伎は層が薄くなった、そういう意味では危機的状況かも知れない」という発言が飛び出したわけです。(これについては別稿「歌舞伎は危機的状況なのか?」をご参照ください。(この稿つづく)

(H31・1・7)


○平成歌舞伎の30年・その2:平成歌舞伎前期〜忘れられぬ役者たち

昭和から平成へ年号が変われば、それで昭和歌舞伎が終わって平成歌舞伎がいきなり始まるわけではありません。平成となった時点で舞台に立っているのは当然みんな昭和生まれの役者なのですから、 歌舞伎は新しい時代にふさわしい感触に少しづつ変わって行くのです。変化の種はすべて昭和のなかにあります。思い出す舞台も役者もいろいろありますが、そのなかで平成になってついに見事な芸の実りを見せた二人の役者のことをまず思い出します。ひとりは十三代目仁左衛門(平成6年、90歳で没)、もうひとりは平成中期まで健在だったわけですが、四代目雀右衛門(平成24年、91歳で没)です。 いわば昭和歌舞伎の最後の輝きを体現した御二人でした。

吉之助が歌舞伎を熱心に見始めた昭和50年代の初め頃の仁左衛門は、失礼ながら芸の手堅いところは評価できるものの、地味であまり 印象に残らなかったかも知れません。しかし、昭和56年(1981)国立劇場での「道明寺」の菅丞相は、これは当時「神品」とまで評されたほど見事なものでした。この舞台以降、歌舞伎での存在感を一気に増しました。晩年の仁左衛門は目が不自由でしたが、義太夫狂言での安定感は抜群でしたねえ。平成6年没ですから平成の時代での活躍はそう多かったわけではないけれど、吉之助のなかでは 晩年の仁左衛門は平成前期に芸の花が開いた役者と云うことで、忘れ難いものがあります。

四代目雀右衛門も、昭和の時代は六代目歌右衛門の影に隠れて、芸は優れていたけれどどことなく暗い感じがして、どうしても二番手という印象がぬぐえませんでした。雀右衛門が名実共に平成の立女形として重い存在になっていくのは、歌右衛門が舞台に立たなくなって以降(平成5年頃)からのこと だと思います。やはり自信と云うか、歌舞伎を背負って立つ責任感が、芸をグッと大きくするのですねえ。それからの雀右衛門の活躍は、ここで述べるまでもないことです。時代物の役どころをしっかり守ってくれたことは、感謝してもし切れません。(壮年期は地味だったけど晩年に芸の深みを グッと増したという点では、この二人はどこか同じ時期の指揮者のオイゲン・ヨッフムとかギュンター・ヴァントを思い出します。 やはり役者は60歳を過ぎてからが勝負ですねえ。まことに芸の精進は終わりがありません。)

ああもうひとり重要な役者を挙げておかねばなりません。それは三代目猿之助のことです。二代目猿翁と云うよりも、吉之助としてはここはやはり猿之助と呼びたいところです。猿之助は平成15年(2003)11月に病に倒れて、その後はほとんど舞台に立っていません。しかし、昭和50年代から平成前期においての活躍は、歌舞伎史のなかでも相応の頁を割かねばならぬほど華々しいものでした。 猿之助歌舞伎という現象も、昭和からの流れから読み解く必要があります。昭和50年代の猿之助については、吉之助は「猿之助は次は何をやってくれるか」という感じで毎月の舞台を楽しみにしたものでした。(ただし吉之助は「ヤマトタケル」(昭和61年・1986・2月新橋演舞場初演)以降は、猿之助歌舞伎から距離を置くようになって行きました。その背景については別稿「いわゆる歌舞伎らしさについて」で ちょっと触れたことがあります。)猿之助歌舞伎はいわゆる保守本流の歌舞伎とは一線を画すものですが、猿之助は平成に入って一段と活動をヒートアップしていきます。次々と制作されるスーパー歌舞伎は興行的に成功を収めましたし、現在の三代目右団次や新派で活躍する喜多村緑郎・河井雪之丞らを育てた二十一世紀歌舞伎組など、猿之助の活動が平成初期の歌舞伎の重要な一角を占めたことは疑いのないことです。現在の猿之助一座の面々が各方面に散ってしまったことに一抹の寂しさを感じないではないですが、その彼らもそれぞれの場面で重宝されているわけですから、猿之助が残したものはとても大きかったのです。この猿之助の新しい歌舞伎に向けての試みが、平成中期に十八代目勘三郎の、平成中村座や野田歌舞伎に受け継がれて行くことになるわけです。(この稿つづく)

(H31・1・4)


○平成歌舞伎の30年・その1:平成歌舞伎のふたつの節目

本年(平成31年・2019)4月末に今上天皇が退位されて平成の時代が終わり、翌・5月1日には新天皇が即位されて新元号に変わる予定となっています。ここまでの平成歌舞伎の30年間は、吉之助にとっても、まことに大きい意味を持ちます。途中仕事の関係で歌舞伎座に なかなか行けない時期もありましたが、吉之助にとって歌舞伎はずっと大切なもので在り続けました。そこでこの機会に平成の30年間の歌舞伎を吉之助なりに振り返ってみたいと思うわけです。だらだらと雑談風に綴ります。

個人的に平成歌舞伎の30年を二つの節目を以て考えたいと思います。ひとつは平成13年(2001)3月31日の六代目中村歌右衛門の死であり、もうひとつは平成24年(2012)12月5日の十八代目中村勘三郎の死と云うことになります。一応この 節目に沿って平成13年までを前期、平成24年までを中期、平成30年までを後期ということで話しを進めます。

吉之助としては、歌右衛門の死を以て平成前期を「昭和歌舞伎の終焉」と位置付けたいと思います。平成7年(1995)4月歌舞伎座で歌右衛門が「沓手鳥孤城落月」の淀の方を勤めた時に「いつ休演するか分からないのでその場合はご容赦を」というコメントが初日前に出たので、居ても立っても居られず会社を休んで初日の舞台を観たのが、吉之助にとっての歌右衛門の生の舞台の最後となりました。(もちろんその後の 歌右衛門の舞台もテレビ映像で見てはいます。)歌右衛門は平成4・5年辺りからどんどん出演が少なくなって、平成8年(1996)8月国立劇場で1日だけ踊った舞踊「関寺小町」(残念ながらこの舞台は見ていません)以降舞台に立つことがなかったのです。しかし、歌舞伎のなかでの存在感は平成13年3月まで確かに持続していました。歌右衛門が生きている間は何となく歌舞伎に核(コア)みたいなものがあって、それで歌舞伎は纏まっていた気がします。歌右衛門がいなくなって以降、歌舞伎は一気に群雄割拠の時代に入ったということになるでしょうか。

平成13年(2001)3月31日の東京の天気は、桜の花が咲くなかに雪が降り積もり、夜になると雪が降り止んで空に明るく月が見えたと云う、雪月花が揃った、あれは実に不思議な光景でありました。空を見上げながら「積恋雪関扉」の舞台が脳裏に浮かんで来て、「歌右衛門が亡くなったんだなあ、天は歌右衛門の為に特別な舞台を用意したのだなあ」と感じた方は吉之助だけではなかっただろうと思います。これはたまたまですが、本サイト「歌舞伎素人講釈」は平成13年1月に開始されました。このため歌舞伎批評家としての吉之助は 図らずも「歌右衛門以後」を生きることになったわけです。

「歌右衛門以前と以後」ということは、吉之助にとってとても大きい意味を持ちます。人それぞれに、その人の人生には「以前と以後」という大事な節目がいくつかあるものだと思います。(吉之助のなかには、クラシック音楽になりますが、もうひとつ「カラヤン以前と以後」という節目があります。)良かれ悪しかれ吉之助の観劇歴では昭和50年代の歌舞伎が身体感覚の基準となることは仕方がないことです。その昭和50年代の歌舞伎を象徴する存在が(人によっては異論があるかも知れませんが)吉之助にとっては歌右衛門でした。したがって「歌右衛門以後」ということは、吉之助にとって歌舞伎が現在進行形の趣味ではなく・過去形の趣味となったことを意味しました。注を付けますが、これは現在の歌舞伎が駄目だから興味がないと云っているのではありません。むしろ逆です。このような現象は 、或る思いを以て長く観劇を続けていれば決して避けられないことなのです。こうして観劇体験はその人の人生のなかに徐々に浸みこんで行くのです。そもそも伝統芸能とは過去に発し過去から高められる芸能なのですから、歌舞伎が過去形になる感覚が伝統芸能である歌舞伎を考える上でとても大事なことになります。しかも、この感覚は決して自ら望んで得られるものではありません。ですから歌舞伎を研究する身にとってみれば、自分のなかに「歌右衛門以前と以後」と云う感覚が出来たことはまことに有難いことだと思っています。そこから「歌舞伎素人講釈」が始まったのです。(この稿つづく)

(H31・1・1)


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