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吉之助の雑談35(平成31年1月〜4月)


○オペラと歌舞伎(仮題)・その4

イタリア・オペラの卑俗と、歌舞伎の卑俗ということは、比較文化論で云えばいろいろ面白い考察が出来ると思いますが、本稿では、これは質的に同じようなものであるという指摘に留めます。吉之助が云ういわゆる「歌舞伎らしさ」は、ムーティが云ういわゆる「イタリアらしさ」と実によく似ていると思いますが、これは卑俗さというところから考えて行かねばならないでしょう。

楽譜の指定を無視して勝手に最高音を出したり・引き延ばしたりするような、いわゆる「イタリアらしさ」を拍手喝采する風潮に対して断固戦うとムーティは云います。おかげでミラノ・スカラ座でムーティは「文献考証主義者!」と云う野次を喰らったことがあるそうです。楽譜重視(原典重視)はノイエ・ザッハリッヒカイト(新即物主義)の旗印です。この芸術思潮を強力に推し進めたのが二十世紀初頭の名指揮者アルトゥーロ・トスカニーニでした。ムーティはトスカニー二の理念の継承者を自認し、「作曲者の考えを尊重して演奏をする」ことを実践している指揮者なのです。

一方、ほぼ同時代に西洋音楽のノイエ・ザッハリッヒカイトに触発されて伝統芸能の分野で原典重視を旗印に批評活動を展開したのが武智鉄二でした。歌舞伎批評において武智が重要であるのは、芸能の世界に「クラシック(古典)」という概念を提示したと云うことです。(別稿「伝統における古典〜武智鉄二の理論」をご参照ください。)武智も役者の仕勝手で、芸の規格を崩すことを非常に嫌った人でした。吉之助は武智の弟子を自認していますから、吉之助がムーティの考え方に賛同するのは、これは当然のことです。

「リゴレット」の有名な「女心の歌」をムーティの指揮で聴くと、作曲者ヴェルディはこの歌に聴衆が熱狂することが分かりきっていたので、曲が拍手で中断されないよう用意周到に後奏を書いていることが明らかです。しかしステファーノやパヴァロッティが「女心の歌」を陽気に(悪く言えば能天気なほどアッケラカンと)最高音を長く引っ張って転が して歌うのを聴いてしまうと、拍手喝采で足踏み鳴らす聴衆の気持ちに、吉之助でさえ共感してしまいます。イタリア―ノ(イタリア的)って云うのは、こういうことだなあなんて思ってしまいそうです。第2幕のリゴレットとの二重唱でジルダを歌うマリア・カラスがまるで叫ぶみたいな最高音を聴けば、これが楽譜の指定を無視していることは承知だけれども、カラスがジルダの引き裂かれた心情を見事に突いていることに身が震える思いをしてしまいます。(別稿「死への欲動 〜ジルダとお三輪に関する考察」を参照ください。)うっかりすると吉之助も慣習の魅力に幻惑されてしまいそうです。しかし、そんな機会はあり得ないけれど、もし吉之助が「リゴレット」を指揮するようなことがあるならば、吉之助の立場は明らかですけどね。吉之助はもちろん楽譜に忠実な演奏を目指します。今回ムーティのリハーサルを見学してそのことを改めて肝に銘じました。

聴いて面白いのと、正しいのとは、しばしば両立しません。それにしても何を以て「正しい」・「正しくない」と云うのかは、とても判断が難しいことです。楽譜の指定通り演奏するのはもちろん文献考証的には正しいのです。ただし、それでホントに良いのか、芸術家の 良心としてそれで正しいかどうかは、議論があるところでしょう。何でもかんでも楽譜通りが正しいわけではない のかも知れません。もちろんムーティもそういうことは分かったうえで、言ってるわけです。ムーティが言いたいことは、実はただひとつ、「作者に対する敬意、作品に対する謙虚な態度を常に持ちなさい」と云うことだけです。別の機会にムーティは「もしヴェルディに会ったら何を言いたいか」と問われて、次のように答えています。

『音楽家としてずっとあなた(ヴェルディ)のことを尊敬してきました。一生懸命あなたのために働きました。またはそのように努力して来ました。でも私が正しくやれたかどうかはどうか言わないでください。もしあなたに私が正しくできていないと言われたとしたら、私は途方に暮れてしまいます。まるで死刑を宣告されたようなものです。』

ムーティの態度はどこまでも謙虚なのです。愚かな人間のすることだからもしかしたら自分の演奏も間違っているかも知れない、しかし作曲者がイメージしたに違いない解釈を目指してそれに少しでも近づけるように自分は常に努力して行きたいということなのです。吉之助もムーティと同じく、歌舞伎批評の分野において、作者に対する敬意、作品に対する謙虚な態度を常に持ち続けたいと思います。

(H31・4・25)


○オペラと歌舞伎(仮題)・その3

先日、東京・春・音楽祭でリッカルド・ムーティの「イタリア・オペラ・アカデミー」を聴講してきました。巷間ヴェルディのオペラで、歌手が曲芸のように楽譜の指定を無視して最高音を出したり・声を長く引き延ばすことがほとんど慣例化(伝統化)してしまっています。また観客もこれをイタリア的だ・オペラティックだと拍手喝采します。ムーティは、このようないわゆる「イタリアらしさ」を作曲者に対する冒涜であると糾弾し、このような風潮と断固戦うと宣言します。これはムーティの長年の持論です。ただし彼はこれは多分勝ち目のない戦いだとも言っていますが、ムーティは(イタリア人としてと云うよりも)芸術家の良心としてそう言うのです。

もっともヴェルディ演奏において、このようないわゆる「イタリアらしさ」の改変が慣習化したのには、それなりの事情があるのです。もちろんムーティもイタリア人としてこのことを血肉として理解しています。説明すると際限がないですが、これは小説家モラヴィアがヴェルディについて書いた文章を読めば感覚的に知れます。ヴェルディはイタリア人の感性の根源的なツボを刺激するということです。

『それではヴェルディの卑俗とはいったい何であろうか。はじめの隠喩をもう一度用いるなら、それは今や廃屋と化して労働者や職人たちが住んでいる旧邸宅である。言い換えれば、それは反宗教改革の後にイタリアの支配階級によって見捨てられ裏切られ、庶民によって保たれながらも民間伝承(フォークロア)に過ぎないものとなっていた我らのルネッサンスのヒューマニズム的概念である。(中略)要するに、ヴェルディは、庶民的・農民的な、したがって「卑俗」な、我々の民俗的(フォークロア的)なシェークスピアである。』(アルベルト・モラヴィア:「ジュゼッペ・ヴェルディの卑俗」)

ここで遊びですが、ちょっと上記の文章を歌舞伎に当てはめて書き替えてみましょうかね。ぴったり嵌ることに驚かれると思います。

『それでは歌舞伎の卑俗とはいったい何であろうか。はじめの隠喩をもう一度用いるなら、それは今や廃屋と化して農民や町人たちが住んでいる旧邸宅である。言い換えれば、それは戦国期の下剋上の気風と安土桃山期のバブルの熱狂の後、江戸幕府によって見捨てられ裏切られ、庶民によって保たれながらも民間伝承(フォークロア)に過ぎないものとなっていた我らのヒューマニズム的概念である。(中略)要するに、歌舞伎とは、庶民的・農民的な、したがって「卑俗」な、我々の民俗的(フォークロア的)なシェークスピアである。』

これが歌舞伎の本質なのです。この相似をたまたま偶然のことに過ぎないと見過ごすことが出来るでしょうか。吉之助には出来ませんねえ。ちなみに「ヴェルディ」という事象は、近代国家としてのイタリア統一運動と切り離して考えることは出来ないもので、時代としては19世紀のことになります。云うまでもないですが、「歌舞伎」という事象は、慶長8年(1603)江戸幕府の成立と時を同じくして始まり、その後、約200年ほどの歳月を掛けてその形態を固めて行くことになります。(これについては別稿「歌舞伎とオペラ〜新しい歌舞伎史観のためのオムニバス的考察」に詳しい考察があります。)(この稿つづく)

(H31・4・22)


○オペラと歌舞伎(仮題)・その2

「妹背山」のお三輪と「リゴレット」のジルダとの相似については別稿「死への欲動」でも触れましたが、台本をじっくり読めば色んなことが分かってきます。第3幕で父親が殺そうとしているマントヴァ公の身替りになってジルダは死にます。ジルダが「あの人は私の愛を裏切ったけれど、私はあの人の身替りになって死にたい」と云う「あの人」と云うのは、ここでジルダは「あの人」と呼んで名前をはっきり言いませんが、ここでの「あの人」とはマントヴァ公のことではなくて、グァルティエール・マルデ、つまりマントヴァ公が身分姓名を隠してジルダに近づいた時の貧乏学生の偽名です。ジルダは、自分が騙され弄ばれた現実を認めることはなく、自分が恋した嘘の貧乏学生の幻想を守るために死んでいくのです。これはジルダが愚かだったと云うことではありません。ジルダはそこに自分が最高に生き切ることの意義を見ているのです。

翻ってお三輪を見れば、お三輪は金輪五郎に刺されて落ち入る寸前に「
どうぞ尋ねて求女様、もう目が見えぬ、なつかしい、恋しや」と呟きます。お三輪も 、雲上人・藤原淡海のために死ぬのではなく、幻想の恋人・鳥帽子折求女のために死ぬ気持ちなのです。 そこにジルダの心情とまったく同じものを見出すことが出来ます。

ジルダの心情をそのように思いやると、第1幕の有名なアリア「慕わしい人の名は」もこれまでと違った様相で聴こえて来ます。(マリア・カラスの歌唱はこちら。)このアリアの旋律はとてもシンプルです。例えようもなく美しいのだけれど、このシンプルな美しさは、ちょっと触っただけで壊れてしまいそうな危うさをも孕んでいます。美術品のように完璧過ぎる美しさで、清らかではあるがどこか熱い血が通っていないような、それゆえこの美しさは恋人の不実を暗示し・どうやらそれは真実なところから発したものではなさそうな、そう云う印象があります。ヴェルディの 美しい旋律は、そのような要素をすべて明らかにしています。ヴェルディが台本を如何に読み尽くしているかよく分かります。

ムーティは「ヴェルディのすべての音楽が言葉(歌詞)と結びついている。ヴェルディはまるでしゃべるみたいに歌を書いているんです」ということを言っていました。ここでムーティが言いたいのは、多分、イタリア語の言霊みたいなものだな。 ピアノ・リハーサルでもムーティは歌手のアクセントやイントネーションの実に些細なところ(我々外国人からするとどうでも良さそうに思えるような箇所)を指摘し修正していました。しかし、そこがムーティにとってヴェルディの音楽の勘所であることも実によく分かるのです。言葉を正しく発声してもらわないと、ヴェルディの言霊/音霊が発動しないのです。我々日本人はイタリア・オペラを聴くときは(外国語なんだから仕方ないことだけれど)旋律の魅力にばかり耳が行き勝ちで、歌詞の方はどうしてもおろそかになるけれども、言葉が分かればオペラはますます面白くなると云うことは、これは確かなことだと思います。それでは我々日本人は能狂言や歌舞伎・文楽を、言葉を大切にして見ているかなあと云うことも逆説的に気になることですが、まあイタリア人すべてが歌詞を気にしてヴェルディを聴いているわけではなさそうではあるが。
(この稿つづく)

(H31・4・19)


○オペラと歌舞伎(仮題)・その1

例によってオペラの話から始まりますが、そのうち歌舞伎の話に展開します。3月末にイタリアの名指揮者リッカルド・ムーティが来日し、東京・春音楽祭で「イタリア・オペラ・アカデミー」を開講し、若い音楽家たちと共にヴェルディの歌劇「リゴレット」を上演するということで、吉之助も1日だけリハーサルを聴講し音楽作りの現場に立ち会うという貴重な体験をしてきました。仕事柄なのか吉之助はオペラを聞いていても歌舞伎のことが頭から離れません 。音楽を聴きながら「この部分は歌舞伎で例えれば・・・」などと考えることがよくあります。

ムーティが盛んに強調したことは、オペラというのはすべて台本・つまり言葉から発しているということです。指揮研修生がオケを振る時に歌を唄わないと、「おお可哀想なオーケストラ!唄ってあげてよ。来年イタリア語をマスターして来なかったら即刻帰国だぞ」と注意してました。指揮をしながら唄えと云うのは、ヴェルディのすべての旋律が言葉から発想されているのだから、言葉の呼吸・感情から音楽がどんな情感を・どんな表現を求めているのか 、それで察せよと云うことです。そのために指揮者は(楽譜はもちろん)歌詞を知り尽くしている必要があるのです。

リハーサルではムーティから興味深い指摘がいろいろ聞けました。例えばリゴレットのことです。第1幕で宮廷付きの道化リゴレットがからかった相手から呪いの言葉を浴びせかけられます。 このことで家への帰途、リゴレットは暗い気分であったのですが、そこで殺し屋のスパラフチーレから声を掛けられます。「殺しの御用の節は私にご連絡を・・」と云うのですが、 この時のリゴレットは主人マントヴァ公を殺そうなんてことはまだ全然考えていません。暗闇のなかに去って行くスパラフチーレの後ろ姿を眺めながら、リゴレットはこう呟きます。

『あいつ(スパラフチーレ)と俺(リゴレット)は同類だ。俺は口先で他人を嘲り、あいつは剣で他人を殺す。人間どもめ、自然め、俺をこんな下劣な悪党にしたのは、お前たちだ(ここでは宮廷の腐敗した支配階級を指す)。忌々しい!道化は、してはならないのだ、出来ぬのだ、笑うこと以外は。皆が持つものが俺にはない。 ・・・』

ムーティからこのリゴレットの台詞を聞いて吉之助の頭にふっと浮かんだのが、法界坊でした。(別稿「十七代目勘三郎の法界坊」を参照ください。) 世間から汚ないと嫌われていて、本人は逆にそれを恨みに思って、世を呪っていて、それでも生き抜く欲望はギラギラと人一倍強いのが法界坊なのです。法界坊とリゴレットは同類です。どちらも笑いと悪戯で他人を嘲り、世を呪います。オペラのキャラクターを見ていると、「これは歌舞伎で云えば誰其れだな」と思い当たるのが大勢いるのです。だからオペラを 聴くのが止められません。(この稿つづく)

(H31・4・18)


○平成31年3月歌舞伎座:「弁天娘女男白浪」(奇数日)・その2

弁天小僧の長台詞(浜の真砂と五右衛門が・・)やお嬢吉三の長台詞(月も朧に白魚の・・)をツラネと呼ぶことがあります。ツラネとは本来荒事の主人公がしゃべる様式的な長台詞のことを指 しますが、その延長線上で、世話物で美文調の縁語や掛け詞を並べ立てた台詞を独特の抑揚を付けて云うのもツラネと呼ぶことがあるのです。それらは厄払いの様式から発する様式的な台詞 だからです。そこには場面から切り離された静止した時間があります。ブレヒト流に云うならば、劇中の独立したソングです。

しかし、同じ黙阿弥の七五調の長台詞でもどれもこれもツラネと呼ぶわけではありません。弁天小僧やお嬢吉三の ツラネは、黙阿弥ものの長台詞のなかでも特異なものかも知れませんねえ。多分それには理由があると思います。どちらの役も悪婆を半男女物にしたところから発想されています。(別稿「四代目源之助の弁天小僧を想像する」を参照ください。)ツラネを高らかに詠い上げるのは本来立役がすることで、女形にあるまじき行為です。そ のようなあられもない行為を敢えて行う ことのミスマッチが、弁天小僧やお嬢吉三の面白さなのです。だから当然そこに慎みと云うか恥ずかさの感覚がどこかに必要です。そうでないと「悪婆は改めて自分の本質が善人であるという意識に立ち返る」ことにならないわけです。だから弁天小僧もお嬢吉三も、決して露悪趣味に陥ってはなりません。

そこで今回(平成31年3月歌舞伎座)の猿之助の弁天小僧のことです。猿之助が同世代のなかで技芸が突出した役者であることは認めますが、猿之助の良くないところは、「どうだい俺は上手いだろ」というのが鼻につくことです。それでも例えば昨年の「法界坊」は亡くなった勘三郎張りにやらかすかと思ったら意外と抑えた演技であったので、猿之助も変わって来たかなと思いましたが、今回の弁天小僧は露悪趣味が強くて、これはいけません。まあ猿之助らしい弁天だなとは思いますけどね。弁天小僧という芝居も長年多くの役者が手掛けて手垢にまみれて、多少の刺激では観客は喜ばないと思っているのかも知れませんが、「こうやりゃもっとお客に受けるんだよ、どうだい俺は上手いだろ」というところから 、芸の規範は簡単に崩れてしまうのです。

まず猿之助の弁天小僧の長台詞ですが、七五調の様式感覚を無視して、大きく緩急を付けた崩れた台詞廻しです。例えば「ねんき●つとめの」、「まくら●さがしも」で小休止を入れるのは一体どういうことでしょうか。これでは七でなくて八にな ってしまいます。緩急はつけているけれど、これは恐らく二拍子に息を揃えようとしたダラダラ調のバリエーションですね。一体これのどこが「小耳に聞いた音羽屋の声色」なのか教えてもらいたいものです。ここには黙阿弥の様式感覚が見えない、と云うよりも、そういうものを受け継ごうという気が見えません。吉之助が不快に感じるのは、猿之助が大先輩の現・菊五郎の弁天を知らないはずがないわけで、要するに知らないから出来ないのではなく、知っていてわざと崩しているのが明らかだからです。これが幕末の不良少年の名乗りだと云うのならば、写実のはき違えも甚だしい 。

猿之助の弁天は揚幕から登場した時から崩れて、臭みが強い。最初から底を割った行き方で、まあこれは考え方次第ですが、冒頭の「知らざあ言って聞かせやしょう」や末尾の「菊之助たアおれがことだ」も男声を大きく張り上げて伸ばした大見得で、これではまるで時代物ですね。この崩れたところが幕末の退廃趣味だと云うのならば、吉之助としてはもう寂しく笑うしかありませんね。香辛料をたっぷり効かせた 猿之助の弁天小僧と比べると、幸四郎の南郷の方は拍子抜けするほどアッサリ風味で存在感が薄くて、これも大いに問題があります。吉之助も浜松屋はいろいろ見て来ましたけどね、これではちょっと寂しいですな。

先日、東京・春・音楽祭でリッカルド・ムーティが「イタリア・オペラ・アカデミー」を開講し、歌劇「リゴレット」を材料にヴェルディ・オペラの奥義を伝授するというので、ちょっとリハーサルを覗かせてもらいました。いろいろ収穫があったのですが、ムーティが言うには、巷間ヴェルディのオペラで、歌手が曲芸のように楽譜の指定を無視して最高音を出したり・声を長く引き延ばすことがほとんど慣例化(伝統化)してしまっている、また観客もこれをイタリア的だ・オペラティックだと喝采する風潮がある、これに対しムーティは、モーツアルトやワーグナーでそういうことをしないのに、どうしてヴェルディだけがそうなるのか?と異議を申し立てるのです。ところで、これは歌舞伎 の、いわゆる「歌舞伎らしさ」にも似たようなところがありますね。「 いつだって俺たちはこうやってきた、こうやったら歌舞伎らしくなるんだよ、お客の拍手がもらえるよ、どうだい俺は上手いだろ」と云う役者の仕勝手が、正しい伝承を阻害しているのです。

『慣習(伝統)には良いこともある、しかし、自分の快楽や観客の拍手を求めて、作曲者の指定を無視して、勝手に高い音を出したり・長く引き延ばしたりするのは間違いであるし、作曲者に対する冒涜だ。オペラはサーカスではない。イタリアは芸術と科学の国だ、ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロ、ダンテを生んだ国だ。イタリアはピッツァとパスタだけの国だと思って欲しくない。』(これはムーティが言ったことをまとめて吉之助が再構成したものです。)

ムーティは、そのようないわゆる「イタリアらしさ」を作曲者に対する冒涜であると糾弾し、このような風潮と断固戦うと宣言します。ただし、彼はこれは多分勝ち目のない戦いだとも言っていますが。正しい正しくないを云うならば、いろいろ議論は出来ると思います。しかし、ムーティが言いたいことは、実はただひとつ、「作者に対する敬意、作品に対する謙虚な態度を常に持ちなさい」と云うことだけです。このムーティの言葉を猿之助にも捧げたいものです。

(H31・4・12)


○平成31年3月歌舞伎座:「弁天娘女男白浪」(奇数日)・その1

伝言ゲームをやったことがある方はご存知と思いますが、或るメッセージを次から次へと口伝で渡していくと、最後の人に渡った時にはそれがとんでもなく変形してしまうものです。それほど人の記憶と云うのは頼りないものです。また意図的でなくてもいろんな段階で自然と情報にいろんなバイアス(偏り)が掛かって、情報は変形します。このことを伝統芸能に当てはめてみると、 毎年何度も掛って多くの役者が手掛ける人気狂言は、仕勝手で崩れていることが多いものです。人気狂言は先輩の舞台を見て学ぶ機会が多いはずだから崩れが少なくなりそうなものですが、現実はまったく逆です。却って何十年に一度なんて云う珍しい芝居の方が崩れが少ないものです。だから人気狂言ほど気を付けないといけません。このことは伝言ゲームの原理を知っていれば、なるほどと理解できると思います。そういうわけで 、型の崩れが大いに危惧される人気演目のひとつは「勧進帳」、もうひとつは黙阿弥の「弁天小僧」だと思います。

そこで黙阿弥のことですが、黙阿弥ものは歌舞伎の基礎と云うべきものです。七五調の台詞のリズムのことだけを云うのではなく、江戸の民衆の生活の匂い・つまり江戸のリアリティを濃厚に伝えるのが、黙阿弥ものです。しかし、実際のところ歌舞伎で一番危機に瀕しているのは、黙阿弥ものかも知れませんねえ。これは致し方ないところがあります。現代人からすると江戸の民衆の生活の匂いなんてものは、既にリアリティを失っているからです。リアリティがないものを演じるのは大変です。それはニュアンスみたいなフワフワしたものですから、教えることが難しい。だから役者の想像力(イマジネーション)で そこを補っていくしかありません。

今回(平成31年3月歌舞伎座)の浜松屋ですが、最近の浜松屋は「何だか面白くないなあ・・」と感じることが多いですが、今回は特に前半に江戸の生活感が感じられなくて、気が滅入りました。どの役者もやっている手順はいつもと同じだけれど、演技がまったく型(ルーティーン)に陥っています。魂が入っていないということです。 匂いが消し飛んでしまっている。浜松屋は型ものだと信じて疑わないみたいな印象です。そうではなくて、浜松屋は世話物ですから写実の芝居です。当然演技は自然なリアリティを伴う生きたものでなくてはなりません。だから こそ想像力が大事なのです。これは芝居のアンサンブルなんてことを言う以前だなと思いながら舞台を見ていましたが、兎も角も黙阿弥の世界の人間になっていたのは、白鸚の玉島逸当だけでしたね。(この稿つづく)

(H31・4・8)


○江戸期におけるロシア漂流民(仮題)・その6

日本へ帰国した光太夫と磯吉は、江戸・小石川の薬草園(現在の小石川植物園)に住居を与えられて、そこで生涯を終えました。井上靖の「おろしあ国酔夢譚」を読むと、事実上の軟禁生活で外部との交渉を一切断たれたように読めます。しかし、その後の調査に拠れば実際はさほど不自由な生活を強いられたわけでもなかったとのことです。妻帯も許されていますし、伊勢から親戚が彼らに会いに江戸を訪れています。一時的に伊勢の故郷へ帰省が許されたこともあったそうです。 しかし、いずれにせよ無事に日本に帰れて目出度し目出度し・これで故郷に帰って昔の生活を取り戻すことが出来ましたとなったのでないことは確かです。光太夫らは罪人とされたわけではありませんが、江戸の世に在っては見てはならないものを見てしまった、知ってはならない世界を知ってしまったのです。そのことによって、やんわりお上の監視状態に置かれて、彼らの存在は穏便に伏せられたのです。井上靖の「おろしあ国酔夢譚」では、函館に上陸した後、物々しい警護に囲まれれたなかでの光太夫の心境をこう綴っています。

『・・(日本の)この夜道の暗さも、この星の輝きも、この夜空の色も、この蛙や虫の鳴き声も、もはや自分のものではない。確かにかつては自分のものであったが、今はもう自分のものではない。前を歩いていく四人の役人が時折交わしている短い言葉さえも、確かに懐かしい母国の言葉ではあったが、それさえももう自分のものではない。自分は自分を決して理解しないものにいま囲まれている。そんな気持ちだった。自分はこの国に生きるためには決してみてはならないものを見てしまったのである。アンガラ川を、ネワ川を、アチトカ島の氷雪を、オホーツクの吹雪を、キリル・ラックスマンも、その書斎を、教会を、教会の鐘を、見晴るかす原始林を、あの豪華な王宮を、宝石で飾られた気高い女帝を、なべて決してみてはならぬものを見て来てしまったのである。』(井上靖:おろしあ国酔夢譚)

吉之助は、もし真山青果が生きて光太夫を取り上げるならば、上記のような光太夫の心境が取っ掛かりになると思っているのです。「この国(日本)に帰り着くために生き抜くんだ」と思って必死で頑張って来たのに、その祖国から無残にも裏切られてしまう。見聞きしてきたことを話そう、何かを伝えたいと思ったのに、それを阻まれてしまう。自分を決して受け入れようとしないものに囲まれている。自分があれほど必死で守ろうとしたものは一体何だったのか、みんなに伝えたいことがたくさんあるんだという鬱屈感・閉塞感です。吉之助は、この辺にかぶき的な心情があると思っているのです。

吉之助は「おろしあ国酔夢譚」を読んで、現代は鎖国でもないし封建社会でもないけれど、あれから二百何十年も過ぎたのだけれど、この国の或る部分はあの頃とあんまり変わっていないのかも知れないなあと思いました。真実を叫ぼうとしても、この状況は何かが変だと叫ぼうとしても、組織 ぐるみで発言が封じ込められてしまう、何となく丸め込まれてしまう、無かったことにされてしまう、そういうことが最近もいろんな場面で起きています。これからの新しい時代を生きて行かねばならない若者のために、そういうところは 変えて行かねばならぬと思うわけです。青果が光太夫を新歌舞伎にするならば、きっと光太夫のそのような思いを描くだろうと吉之助は想像するのです。恐らく井上靖が「おろしあ国酔夢譚」を執筆 した動機にもそんなところがあったのではないかな。イヤ別に三谷がそれを描くべきだと言っているのではありません。三谷は自分が書きたいことを自分の得意な手法で歌舞伎にすれば良い。それとこれとはまったく別のことなんですけどね。

(H31・4・7)


○江戸期におけるロシア漂流民(仮題)・その5

先日(4月2日)歌舞伎座6月の演目が発表されて、三谷幸喜の新作歌舞伎の外題は「月露針路日本(つきあかりめざすふるさと)〜風雲児たち」だそうです。あまりそそらない外題だけれども、まあ四角四面の堅苦しい外題でない方が若者にはいいのかな。みなもと太郎原作は歴史ギャグ漫画だそうですが、三谷も 小空間的な小振りのコメディを得意とする作家だと思うので、その線で仕上げて来るだろうと思います。脚本は多分もう出来ているのでしょうが、インタビューでは幸四郎が「(場面はすべて外国で)日本が舞台という場面がない歌舞伎は初めてじゃないかな」と発言しているので、帰国後の大黒屋光太夫は描かれないと思われます。

ここでは三谷新作のことは傍に置いて、光太夫のことを考えることにします。井上靖の小説「おろしあ国酔夢譚」を読みながら、光太夫のロシアでの行程のなかでどこが歌舞伎に出来るかを考えたのですが、歌舞伎の材料になりそうな・つまりドラマティックな場面が見つからないので、ちょっと困りました。これだと三谷もなかなか苦労なことだなと思いました。これは井上靖の小説の 抑えた語り口のせいもあります。ところで、真山青果は自分の作品で光太夫を取り上げていませんが、もし青果が現代に在るとすれば、青果はどのように光太夫を取り上げたかなということを想像しつつ、もう一度見渡すと、吉之助には、青果ならば帰国後の光太夫を描いたかなと思えてなりません。吉之助にはシリアス・タッチのドラマ しか思い浮かびません(そもそもシリアスなのが吉之助の好みなのですが、青果も多分そうだろうと思う)が、以下のことは三谷新作とまったく関連がなく、その評価に影響するものでは全然ないので、そのようにお読み下さい。

吉之助にはエカチェリーナ2世に謁見とか絵面的に華々しい場面が、吉之助のセンスとしては芝居の材料として思い浮かばないのです。そういう場面は幻のように儚く淡く感じられて、なかなか焦点を結びません。光太夫のロシアでの行程のなかで、これが絶対欠かせないと吉之助が思うのは、温暖な気候の日本に住む者には想像を絶する酷寒環境下での極限体験です。文春文庫の「おろしあ国酔夢譚」での江藤淳の解説は、とても参考になります。小説中の光太夫の言葉を引きます。

『いいか、みんな性根を据えて俺の言うことを聞けよ。こんどは、人に葬式を出してもらうなどと、甘いことは考えるな。死んだ奴は、雪の上か凍土の上に棄てて行く以外仕方ねえ。むごいよだが、外にすべはねえ。人のことなど構っていてみろ、自分の方が死んでしまう。(中略)いいか、自分のものは自分で守れ。自分の鼻も、自分の耳も、自分の手も、自分の足も、みん な自分で守れ。自分の生命も、自分で守るんだ。幸い13日の出発までにまだ10日ばかりある。その間に自分の生命を守る準備をするんだ。今日からみんな手分けして、この土地に長く住んでいるロシア人や土着のヤク―ト人たちから、寒さからどう身を守るか、万一凍傷になったらどうすればいいか、吹雪のなかにおっぽり出されたらどうしたらいいか、自分の橇が迷子になったら、馬が倒れたらどうしたらいいか、そんな時どうしたらいいか、そうしたことをみんなで聞いてくるんだ。それからみんな揃って、皮衣や手袋や帽子を買いに出かける。ひとりで出かけていい加減なものを買って帰るんじゃねえぞ。買物にはみんな揃って出掛けるんだ、いいな』(井上靖:おろしあ国酔夢譚)

「自分のものは自分で守る」と決めた者たちが自分を守るために「みんな揃って」出掛ける。そうしないと生きていけない残酷なほど厳しい現実が彼らの目前にあるということです。このことは吉之助には理屈としては 頭で理解できても、実感としては想像を絶します。しかし、この感覚を通してしか、エカチェリーナ2世に謁見の幻は実体を得ることが出来ないと思われます。(この稿つづく)

(H31・4・5)


○江戸期におけるロシア漂流民(仮題)・その4

嘉兵衛について触れたのは、浄瑠璃との強い繋がりが大黒屋光太夫の方にも見えるからです。寛政3年(1791)に光太夫はエカチェリーナ2世に謁見し帰国を許されますが、その後、光太夫はサンクトペテルブルクの博物館に浄瑠璃本を寄贈しているのです。なおこれらは現代ロシア科学アカデミー東洋研究所サンクトペテルブルクに現在も保管されているそうです。

『(光太夫は世話になった博物学者の)ラックスマンの勧めで、博物館に「森鏡邪正録(しんきょうじゃしょうろく)」、「番場忠太紅梅箙(ばんばのちゅうたこうばいえびら)」、「奥州安達原」といったような浄瑠璃本十二点を寄贈した。いずれも光太夫が漂泊時ずっと持ち歩いて来たもので、「森鏡邪正録」だけは写本であった。』(井上靖・「おろしあ国酔夢譚」)

井上靖の小説は全体が淡々としたドキュメンタリー・タッチの記述なので、上記の文章もサラッと読み流してしまいそうですが、吉之助は目が釘付けになりました。光太夫一行が乗った神晶丸がアリューシャン列島のアムチトカ島に漂着したのは、天明2年12月(西暦1783年1月)のことでした。そこからカムチャッカ、オホーツク、ヤクーツクを経由してイルクーツクにたどり着いたのが寛政元年(1789)のこと。ここまで約6年の歳月がありますが、その間にも仲間が寒さや栄養失調で次々と死んでいきました。厳しい環境での移動では、生きるために必要な物資だけを残し、余計な荷物 を持たないのが鉄則であろうと思います。しかし、光太夫は難破船から浄瑠璃本を運び出し、生きるか死ぬか、先行きが見えない移動の歳月にも、これらを決して手放さなかったのです。さらにエカチェリーナ2世に帰国嘆願のためにサンクトペテルブルクに向かった旅においても、光太夫は浄瑠璃本を携帯しました。これはまったく驚くべきことです。光太夫にとって浄瑠璃本がどれほど大事なものであったか、これで察せられます。

光太夫にとっての浄瑠璃本は、彼の商人としての拠り所、或いは日本人の出目を示す大切なものであったのです。西洋人が旅先に常に聖書を携帯するのと同じようなものかも知れません。ただし「おろしあ国酔夢譚」を読む限りは、これはいかにも演劇的な行動だなあ・これは浄瑠璃の影響だなあと思うような派手な場面は残念ながら登場して来ないようですけれども、もしかしたらロシアの人々にも評価された光太夫の高潔な人格のなかに、浄瑠璃の登場人物たちが生きていたのかも知れませんねえ。(この稿つづく)

(H31・3・31)


○江戸期におけるロシア漂流民(仮題)・その3

ここで 司馬遼太郎の小説「菜の花の沖」に沿って、高田屋嘉兵衛の話にちょっと寄り道します。ただし嘉兵衛は、漂流民ではありません。幕府のだましうちにより函館の牢屋に入れられたロシア海軍の軍人で探検家でもあるヴァ―シリ―・ゴロ―ニンを救い出す為、ロシア側は交換の人質をまず取って日本との交渉に臨もうと考えました。嘉兵衛の乗った船がたまたまロシア軍艦に出合って拿捕されて、カムチャツカに連行されたのです。捕まえたのは、軍艦ディアナ号の艦長ピョートル・リコルドという人物でした。小説後半は嘉兵衛とリコルドがお互い不自由で片言の外国語を使いながら友情を育んでいく過程を綴ります。

ところが、ディアナ号が函館に近づいた時 、リコルドと嘉兵衛のお互いの友情に疑念が生じます。リコルドは、嘉兵衛の仲間を船に残して、お前ひとりでゴロ―ニン救出の交渉に函館の役所へ行ってこいと言ったのです。つまり嘉兵衛に仕事をさせるため、彼の仲間を人質に取ったわけです。これを聞いて嘉兵衛が激怒しました。この場面が「菜の花の沖」のクライマックスです。嘉兵衛はマストに登って、髻(もとどり)を切り落とし、刃物をかまえ、リコルドに対し「捕らわれ人になるという恥辱を受けた以上は、お前と一戦を交え、その後俺は腹を切る」と大声で叫びました。嘉兵衛が何を叫んだか、リコルドは全然分からなかったと思います。しかし、嘉兵衛が非常に怒っていることは理解したのです。嘉兵衛の権幕に押されて、リコルドは男対男の約束として、日本人捕虜全員の上陸を許可しました。

結果的に嘉兵衛の努力によりゴロ―ニンは解放され、ディアナ号に乗ってロシアに無事帰国できることになりますが、その件は本稿では省きます。ここで問題にしたいのは、嘉兵衛がマストに登り、髻を切り落として、刃物をかまえ、リコルドに対し何か大声で叫んで、自分の気持ちを強く訴えたという箇所です。これは何とも大げさで、芝居掛った行為です。このような、自分の気持ちを他人に聞いてもらうために、腹に刀を突き立てて見せる場面を歌舞伎ではよく目にします。男が命を差し出して自分の気持ちを訴えられたら、言われた男は聞かねばならない、これがかぶき者の論理です。このようなかぶき者の論理を嘉兵衛はどこから学んだのでしょうか。それは商人の嗜(たしな)みとしての浄瑠璃から発したものであると、司馬は指摘しています。

『リコルドと嘉兵衛とのあいだを接着しつづけたのは稀有なほどの信頼であったのは言うまでもない。それでも嘉兵衛は最後にディアナ号の艦上で修羅場を演じざるを得なかった。(中略)言語表現を越え、相手の心と生命を気迫で衝く場合、自然に演劇的になってしまうことが、人の世にしばしばある。嘉兵衛もまたそのぎりぎりの場において、誠実と物ぐるいのあげくごく自然に演劇的になった。その演劇性にくるまれた主張が相手のリコルドに我意を折らせたのだが、素養としての浄瑠璃がなければ、こうはいかなかったろう。』(「菜の花の沖」あとがき6)

江戸時代には武家階級は謡曲を、町人階級は浄瑠璃を素養として 嗜みました。これは娯楽とか教養とかを越えたもので、生活のための必須事項だったのです。当時の日本語には共通語というものが存在しませんでした。さらに各地独特の方言の違いが今より大きかったのです。出身地が異なれば、日常語でのお互いの意思の疎通は困難でした。したがって例えば江戸や京都で、当時の異なる出身の武士たちが会話をする場合には、彼らは謡曲で学んだ言葉遣いと抑揚で情報交換をしたわけです。それが彼らの共通の素養であったからです。町人階級の場合には、それが浄瑠璃でした。嘉兵衛は北前船を操る商人ですから、各地で商売するのに浄瑠璃の素養が必須でした。

嘉兵衛は航海中にも浄瑠璃本をかならず携行したほど浄瑠璃好きでした。拿捕された時にも、私物として浄瑠璃本数冊を携行してロシア船に乗り込んでいます。商人として浄瑠璃を学ぶうちに、浄瑠璃のなかのドラマ性・論理性が嘉兵衛の行動に大きな影響を与えたことが察せられます。

これはコミュニケーション論になりそうですが、外国人に対しては喜怒哀楽をストレートに表現したほうが気持ちが理解され易い場面が多いようです。しかし、日本人は恥ずかしがり屋なのか謙虚なのか、自分の気持ちをオープンにするのが苦手な方が多いようです。司馬が言うように、もしリコルドに捕まったのが嘉兵衛ではなくて、もし武士であったなら、例え彼が嘉兵衛に比するほどの人格者であったとしても、謡曲の素養でこの難局を無事に乗り切れたかどうか。教養が邪魔して、却って事が上手く行かなかったかも知れません。(この稿つづく)

(H31・3・29)


○江戸期におけるロシア漂流民(仮題)・その2

大黒屋光太夫の話を調べると、ロシアの人々が光太夫一行に対する時、どこか低い文明の国から漂流してきた奴らというような見下げた態度で接したりすることが全然なくて、文化の様相は違うけれどもちゃんとしっかりした高い文明国から来た人間だと評価して対等な関係で接してくれていることに、ちょっと感心と云うか感動させられます。特に光太夫には、ロシア人たちに自然と敬意を払 わせる何ものか、リーダーの威厳とか高潔さみたいなものを持っていたようです。もちろんこれは光太夫個人の優れた資質に違いないですが、彼の部下たちのリーダーに対する尊敬・信頼の態度から醸し出されるものでもあります。

例えば時代が下って万延元年(1860)の咸臨丸による幕府の遣米使節団の面々は、誇り高い高潔な態度がアメリカの人々を感嘆させたそうです。ワシントンで彼らの姿を見た詩人ワーズワースは感激して、彼らを讃える詩を書いています。彼らは武士であるし、幕府が選りすぐった面々ですから、日本を代表して外国に行くのだから恥ずかしいところは見せられないぞという意識が当然あっただろうから、それはよく理解できます。しかし、光太夫一行は船乗り・つまり名もなき庶民であり、突然嵐で思いがけなく外国に連れて行かれた漂流民ですから、オタオタした恥ずかしいところを見せても仕方ないところがあります。しかし、彼らは当地でも毅然とした態度を維持していたということは、ちょっと驚きべきこと です。すると、当時の日本の民度の高さに思いが至ります。

光太夫は宝暦元年(1751)に伊勢亀山藩(今の三重県鈴鹿市辺り)に生まれ、家は船宿を営んでいました。一時期、江戸で奉公したこともあったようですが、安永7年(1778)27歳の時に伊勢の実家に戻り回船業に就きま した。ロシアに漂着した天明2年(1783)には光太夫は32歳でした。経歴からは特別な教育を受けたようには見えず、それは日々の仕事のなかから必然的に身に備わって来たものと思われます。日々の生活のなかに倫理的な・或いは教養的な教育があったということなのです。 恐らく光太夫の仲間においても、それぞれの立場においてみんなそうなのです。

ところで、これは正確には漂流民ではないですが、光太夫より30年ほど時代が下って、文化9年(1812)にロシア艦船に拿捕されてカムチャッカへ連行された、兵庫の、やはり回船問屋の商人である高田屋嘉兵衛(明和6年・1769〜文政10年・1827)の場合も、光太夫と同じようなことを考えさせる人物です。嘉兵衛については、司馬遼太郎が小説「菜の花の沖」(昭和57年・1982)で取り上げています。司馬はこんなことを語っています。

「江戸時代を通してだれがいちばん偉かったでしょうか。私は高田屋嘉兵衛だろうと思います。それも二番目が思いつかないくらいに偉い人だと思っています。」(1985年5月11日州本での講演)

司馬は、タイムマシンで歴史上の人物に会えるならば誰に会いたい?と聞かれても嘉兵衛と答えたそうです。司馬ならば、竜馬とか信長・西郷とか答えそうに思うので すが、嘉兵衛なのです。(この稿つづく)

(H31・3・25)


○江戸期におけるロシア漂流民(仮題)・その1

本年(2019)6月歌舞伎座の夜の部で、三谷幸喜の新作歌舞伎(作品名は未定)が上演されるとのことです。これはみなもと太郎原作の人気漫画「風雲児たち」を題材にしたものだそうで、鎖国時代の江戸期にロシアに漂着した伊勢出身の船乗り・大黒屋光太夫という実在の人物(宝暦元年・1751〜文政11年・1828)を主人公にしたものだそうです。 ロシア漂着の後、光太夫はサンクトペテルブルクへ向かい、離宮であるツァ―ルスコエ・セローでエカチェリーナ2世に謁見し帰国の願いを出して、許可されます。大変な体験をした歴史上の人物です。出演者は幸四郎(主人公の光太夫を演じるらしい)・猿之助・愛之助に加えて白鸚と豪華配役が既に発表されており、前評判は結構高そうです。三谷の歌舞伎は、平成18年(2006)にPARCO劇場で初演された「決闘!高田馬場」(幸四郎・当時は染五郎が主演)以来13年ぶりの2作目になるそうです。

吉之助は原作漫画を知りませんし(漫画を見下しているのではありません)、三谷がどういう芝居を仕上げるか筋は全然見当が付きません。恐らく今頃は台本が出来上がったくらいの時期だろうと思います。そこで本稿では事前学習として大黒屋光太夫に係わる周辺など書きながら、三谷新作歌舞伎の前景気にちょっと加担してみようかという趣向であります。なお本稿は雑談ですから、光太夫の件についたり離れたりしながら、たらたら続きます。

光太夫については、井上靖の小説「おろしあ国酔夢譚」(昭和41年・1966)が有名です。鎖国政策で外国との交流が厳しく制限されていた江戸期には、大洋に乗り出す大型船の建造が許されていませんでした。だから大嵐に逢うと船はひとたまりもなく、漂流を余儀なくされることが少なくなかったと思います。なかには海流に流されて遠く北太平洋のカムチャッカ方面に漂着することもままありました。そういう場合の漂流民は、船乗りあるいは漁師・商人であることがほとんどです。大黒屋光太夫も伊勢出身の回船( 運搬船)船頭(船長)でした。ただし当時の日本人の識字率は高かったですから、光太夫もそれなりの教養を持ち、船頭(ふながしら)として人徳も兼ね備えていた人物でした。光太夫がロシアで手厚く保護され、現地のロシア人と交流することが出来たのは、それゆえです。

光太夫一行17名が乗った神晶丸が暴風雨に逢って難破し、アリューシャン列島のアムチトカ島に漂着したのは、天明2年12月(西暦1783年1月)のことでした。天明期というと江戸中期になりますが、歌舞伎で云うと初代仲蔵 の舞踊「積恋雪関扉」が初演されたのが天明4年11月江戸桐座のことです。かなり昔々の出来事です。明治(1868〜)までは、まだまだ 随分先のことです。なおロシアに漂着した日本人は光太夫とその仲間が最初のことではなく、記録に残らなかった無名の人たちが数多くいたのです。(この稿つづく)

(H31・3・24)


○平成31年3月国立小劇場:「御浜御殿綱豊卿」

今回(平成31年3月国立小劇場)扇雀が綱豊を初役で勤めると聞いて、近年立役志向を強めている感はありましたが、今度はえらく踏み込んだものだなあと思いました。やはり立役の方が発散できるから、演じて愉しいということはあるでしょうが、それは兎も角、本作は数ある歌舞伎のなかでも屈指の対話劇で、綱豊は台詞の量も膨大ですから難役です。ところで綱豊役については甲府宰相(後の六代将軍家宣)でそれなりの気品がなくてはならぬと云うことで、優美な細身の役者がイメージされる傾向があるようです。例えば仁左衛門や梅玉がそうです。もちろん彼らは優れた綱豊役者に違いないですが、扇雀も女形のことでもありこの方向で役造りするかと思いきや、これは思いの外に線の太い造りの綱豊でした。しかも、これがなかなか悪くない出来です。声も太目で、時に台詞を高めに伸ばそうとして 喉が苦しい場面もありましたが、台詞は概ね明瞭で、青果の台詞のリズムが自然に出ているのには感心しました。台詞の末尾を詠嘆調に引き延ばさないのも良い。台本をよく読んで 研究していると思います。

上演前のインタビューで扇雀は「台本を読むと、綱豊は内蔵助と自分とを重ねており、助右衛門を諭す台詞は実は自分にも言い聞かせていることがよく分かる」と語っていますが、これはまったくその通りなのです。青果は初演(昭和16年1月東京劇場)の綱豊役に二代目左団次を想定して台本を書いたわけですが、一連の「元禄忠臣蔵」のなかで内蔵助を初演したのが左団次であったのですから、つまり内蔵助役者が綱豊を演じる(=内蔵助と綱豊を重ねる)ことが前提であったということなのです。だとすれば甲府のお殿様がいわば外野から無責任に上から目線で浅野浪人に義の論理を説き仇討ちをけしかけているわけではなく(下手をすると綱豊役はそのように見えかねない危険性を孕んでいるのです)、綱豊は綱豊なりに助右衛門の目線にまで下りて心中を語ろうと心掛けているのです。(しかし、助右衛門が変にヒネているので、御座所での対話は綱豊の思った通りに展開しないわけですが。)したがって台詞は自然に心情から発する熱いシリアスなものとなって来ざるを得ません。そのような台詞が様式的な歌うものになるとしたら、それこそ嘘事なのです。今回の扇雀は綱豊の性根をよく踏まえて、自分なりの綱豊を作り上げています。台詞は写実の方に寄ったもので、二拍子のリズムを際立たせたものではないけれど、それでも内心にあるものを吐き出そうとする急き立てる気分が自然と滲み出るのは、役を正しく理解しているからです。

対する歌昇の初役の助右衛門も、体当たりで綱豊にぶつかって、なかなか熱いところを見せてくれました。先ほど「助右衛門は変にヒネている」と書きました。助右衛門は最初は綱豊が自分から赤穂浪人の仇討ちの動向を探ろうとしていると強く警戒していますが、綱豊が自分たちのことを気に掛けていることは次第に分かってきます。しかし、そうなると今度は逆に煩くなって来るのです。綱豊が何となく内蔵助に見えて来るからです。助右衛門はもちろん内蔵助のことを信じています。と云うよりも信じたいのだけれど、肝心の内蔵助がなかなか態度を明らかにせずに、連日の放蕩三昧。それでも助右衛門はジリジリしながら内蔵助の決断を待っています。綱豊が助右衛門の目線にまで下りて心中を熱く語ろうとするほど、助右衛門は内蔵助のことが歯がゆく思われる。それで助右衛門はついに爆発してしまうのです。助右衛門が叫びたいことは、「俺は内蔵助さまの仇討ちの御指図をずっと待っている、なのに下っ端の俺に義を説いて、世間に武士の行くべき道を示せって、内蔵助さまは一体何を言っているんだ、俺はこんなに待っているじゃないか」ということです。助右衛門は内蔵助との間に一線を弾いて、上司と部下という関係から最後まで出ようとしません。だから綱豊と助右衛門との対話がギクシャクしてしまうのです。(別稿「指導者の孤独」を参照ください。)

このような綱豊(と背後にいる内蔵助)と助右衛門の微妙な三角関係を、扇雀と歌昇は熱く描き出してくれました。これも「綱豊は内蔵助と自分とを重ねている」ことを正しく読んでいる結果だと思います。もちろんまだ粗削りなところはあるけれど、初役でこれだけ出来れば言うことはありません。それにしても広すぎる歌舞伎座の空間と比べると、小劇場の空間では役者が三割増しくらい良く見えますねえ。これも嬉しいことです。

(H30・3・21)


○人形振りの「妹背山道行」・その4

義太夫狂言の成立についてはいずれ稿を改めて論じたいと思いますが、今回の舞台を見てつくづく思うことは、本行(人形浄瑠璃)から粗筋だけ拝借して歌舞伎なりの芝居(地芝居)を作ればそれで済みそうなものなのに(その方がずっと簡単な はずなのです)、わざわざ歌舞伎が真摯に本行を真似たことの不自然さです。これは結局、歌舞伎は本行を擬することによって自らを異化させたということなのです。もうひとつ、本行を擬するに当たり、歌舞伎は本行の骨格を驚くほど変えなかったということです。このこともとても大事なことです。

これについては、本行が語り物の音曲(義太夫節)であることが関係しているでしょう。台詞部分(地)があるとしても、本行は確かに 音曲です。音曲には尺という概念があります。つまり音楽が始まって・展開して・終わる、そのような形式感覚のことです。音曲全体はひとつの大きな尺ですが、それは序破急の三つの尺に分けられます。或いは起承転結の四つの尺に分けられます。さらにこれらはもっと細分化して考えることが出来ます。それぞれの尺は全体のなかでそれに応じた役割と重さを持っています。そのような本行の厳格な形式感覚は、義太夫節が持つ論理性から出て来るものです。もちろん初期の歌舞伎も尺の感覚を持っていないことはないのですが、本行と比べればずいぶん柔くて好い加減な感じです。そのことは例えば「対面」・「暫」や「助六」の、タラーッとしたテンポの芝居を見れば分かると思います。本行 のような厳格な形式感覚・論理構造を、初期の歌舞伎は持ち合わせていませんでした。

本行が音曲であるから、このがっちりした形式感覚・論理構造を壊してしまうと、歌舞伎が真似したはずのものが真似たことにならないのです。だから「歌舞伎は本行の骨格を変えなかった」と書きましたが、歌舞伎は本行の骨格を壊せなかったと云う方が実は正しいのです。それほどまでに音曲の「縛り」はきついのです。本行の骨格を守らなければ、本行と肩を並べられる完成度の高いものは作り出せない、このことを歌舞伎の先達はちゃんと分かっていたということです。つまり義太夫狂言の本質は音曲であると云うことになるのです。この当たり前のことが、巷間どれだけ認識されているでしょうか。

義太夫の地の部分は役者の台詞として取ることは当然としても、地色は役者が取るか・床(竹本)が取るか、色をどのような形で舞台に反映させるか、そこにいろんな議論が出来るでしょう。歌舞伎でも一度は本行のやり方でそっくりそのまま芝居をさらってみると云うことが、必ずあったに違いありません。そのなかで「この詞章は役者が取ってやってみよう、この詞章は床(竹本)が取って役者がそれに合わせて動くことにしよう」と云うようなことが決まって来る。議論と試行錯誤を重ねながら義太夫狂言の形が次第に出来上がって行く、そのような過程を想像するわけです。これはとても不思議なこと ですが、行きあたりばったりにしているようだけれども、そうやって形式が次第に定まって行くのです。試行錯誤が、本行の縛りを強く意識しつつ、誠実に真剣に行われているから、そうなるわけです。

今回の
人形振りの「妹背山道行」を見ながら、そのような原初の義太夫狂言の幻想が吉之助のなかに浮かんで来たのですがね。恐らくそれは玉三郎のお三輪が、最後まで人形を解くことをしなかったことから来る、思いがけない効果だったと思います。

(H30・3・18)


○人形振りの「妹背山道行」・その

人形振りの「妹背山道行」では、玉三郎(お三輪)・勘九郎(求女)・福助(橘姫)共になかなかの人形振りを見せてくれました。 ここには、文楽の景事を見るが如くの、何者かに役者が踊らされている感覚が確かにあります。彼らは、或る観念のうえで踊らされているのです。それは、二人の女たちにとっては婦女庭訓の教えであったり、男にとっては政治的な使命であったりしますが、そのようなものに彼らは踊らされているのです。特に玉三郎は長身小顔なので、文楽人形さながらの感触がしました。普段の踊り であると玉三郎は腰高の印象がどうしても否めませんが、人形振りであるとその欠点が覆い隠されるのも興味深いところです。これは「櫓のお七」初演の四代目小団次が立役のいかつい印象を人形振り で覆い隠してしまったのと同じことなのです。これが人形振りの異形性の効果です。

以下は「妹背山道行」と直接的には関係ないことですが、今回の舞台を見て吉之助のなかにふと浮かんだことを記しておきます。今日歌舞伎座で見られるような義太夫狂言の形態がほぼ固まったのは、宝暦・明和年間(1750〜70年頃)辺りのことだと思われます。江戸での人形浄瑠璃の歌舞伎化の最も早い例としては、二代目団十郎が享保2年(1717)に「国姓爺合戦」の和藤内を演じた記録が残っています。本行(人形浄瑠璃)初演の2年後のことです。これは団十郎ならば顔に隈を取って荒事風味で演じたかなと想像が出来ないこともありませんが、団十郎は享保6年(1721)には何と和事の「心中天網島」の紙屋治兵衛まで演じています。これは本行初演の翌年になります。

実はこの時期の本行がどのように歌舞伎に移し替えられて、現行の義太夫狂言のような形態へ定着していくか、その過程は文献的にほとんど分かっていないのです。「筑後正本の通り」とか「越前少掾新浄瑠璃の通り」などと云う断り書きが付く場合があっても、それがどういうことを意味するのか詳細が分からない。本行そのままに人形を役者に入れ替えただけで行われたのかも知れないし、筋だけ取ってまったくの地芝居で演じられたのかも知れません。或いはその混合なのか。どこまでが本行通りなのか、いずれにせよ想像の域を出ないのです。逆に云えば、 だからいろいろ勝手な想像が出来ます。

それにしても現行の文楽と歌舞伎の舞台を見比べて吉之助が痛感するのは、歌舞伎は入れ事をしたり、場面をカットしたり付け加えたり、デザインを変えたり、細部に多少の改変を施してはいますが、しかし、大筋においては、本行の骨格を驚くほど変えていないと云うことです。つまり歌舞伎は好い加減な態度で本行をパクらなかった、真摯に本行をなぞろうとしたと云うことなのです。だから「変えていない」という認識がとても重要になります。このことをしっかり認めた上で、歌舞伎の義太夫狂言の検討を進める必要があると思うわけです。

何故そのことを問題にするのかと云うと、本行・先行芸能としての文楽と、これを取り入れた歌舞伎との関係が、現状とても緩く捉えられていると感じるからです。つまり文楽と歌舞伎は 同じドラマを表現しているのだから似たような芸能であると、だから文楽の人形を役者に置き変えればそれで歌舞伎の義太夫狂言が簡単に出来上がるんだと云う程度に、とても安直に考えられています。つまり歌舞伎の「変える」ことの軽さに比重が掛かっているわけです。

しかし、実はそうではなくて、文楽と歌舞伎は異なる表現手法を持つまったく別種の芸能だという認識から出発しないと、義太夫狂言の本質は決して分からないのです。本質が「変えない」というところにあるならば、歌舞伎が本行を取り入れることがとても重 く感じられるはずです。その理解のひとつの手掛かりが、人形振りにあります。つまり役者が人形を擬することの異化ということです。通常見る「櫓のお七」や「狐火」の人形振りということならば、異化はその役者だけの現象に過ぎない ように思えるでしょう。しかし、実は義太夫狂言は、本行を擬することに於いて舞台全体が異化しているのです。今回(平成13年12月歌舞伎座)の、お三輪・求女・橘姫の人形振りの「妹背山道行」を見て、このことをつくづく実感 しました。(この稿つづく)

(H31・3・15)


○人形振りの「妹背山道行」・その2

そう云うわけで平成13年(2001)12月歌舞伎座での「妹背山道行」は、最後まで「人形を解かない」と云う掟破りの舞台なのですが、そこから何が現れたのかが大事なのです。求女は苧環の赤い糸を橘姫の着物の裾に縫い付いて、糸を頼りに彼女の後を追って行きます。お三輪も逃さじと、自分が持っている苧環の白い糸を求女の着物の裾に縫い付けて、求女の後を追いますが、お三輪は花道途中で倒れてしまいます。お三輪が苧環の糸を手繰ってみると、求女の服の裾につけたはずの糸が切れている。これを知って玉三郎のお三輪は、肩を大きく震わせて憤りの気持ちを表現しました。

もちろん人形身ですから、表情は無表情です。人形のようなぎこちない動きからお三輪の気持ちが強烈に伝わってきました。お三輪の憤りは、恋する自分の気持ちが思い通りに行かない状況への憤り・じれったさ、これほど求女に恋しているのに頼みの糸が切れてしまった理不尽さへの怒りです。つまり自己実現に向けてひた走るお三輪の行く手を阻むものすべてに対する憤りです。通常の振りであると「エイ残念、糸が切れたか」という怒りは確かに見えるけれども、感情の揺れがちょっと淡いように感じられます。お三輪にとってアア切れちゃったで済む話ではありません。極端に云えば、私(お三輪)と彼氏(求女)との縁を天に全否定されたも同然なのです。

この場面に見えるお三輪の憤りは、尋常なものではありません。 これはお三輪の内面に沸々とたぎる魔性・疑着の相の片鱗です。そのために次場「金殿」でお三輪が殺されることになる異形の感情です。これこそ人形振りが指し示すものです。花道七三の 玉三郎のお三輪の最後の場面では、そのような異形性が一瞬ぬっと無気味な顔を覗かせました。これによって「道行」と「金殿」が論理的に繋がって、全体がお三輪の悲劇となって浮かび上がったのです。「金殿」はお三輪の出が後半になってしまうので、前場の「道行」との関連が見えにくい構造上の弱点があるように思います。今回の「道行」では、この弱点が見事に補われたと思います。なるほどこの場面を見せるために最後まで敢えて人形を解かなかったのだと納得が出来ました。多分「妹背山道行」のこのような読み直しは、現代人の演劇感覚の所産であろうと思います。しかし、やってみる価値は十分にあったと思いますね。

もちろん「妹背山道行」の人形振りの効用は、最後の場面だけにあったのではありません。お三輪・求女・橘姫の三人の連れ舞でも、人形振りは絶妙な効果を挙げています。人形振りのなかに彼女たちを支配する道徳律(女庭訓)の重さが表現されています。それが彼女らの動きを不自然なものにさせるのです。お三輪も橘姫も「夫となる男に、妻たるべき私はどのように行動すべきか」という論理の下に行動し、その結果として求女を争い合います。しかし、近松半二は彼女たちはそのような道徳律に翻弄された犠牲者だと言いたいのではありません。半二は、そのような状況下においても彼女たちは自己実現を求めて必死に生きたのだと言いたいのです。(この稿つづく)

(H31・3・8)


○人形振りの「妹背山道行」・その1

本稿で紹介するのは、平成13年(2001)12月歌舞伎座での「妹背山道行」(道行恋苧環)の映像です。 玉三郎のお三輪、勘九郎(後の十八代目勘三郎)の求女、福助の橘姫という配役です。この「妹背山道行」上演がとてもユニークなのは、最初から最後まで人形振りで踊ったことです。ご存じの通り、いつもの「 妹背山道行」上演は人形振りではなく、普通の振り付けで行われます。人形振りの「妹背山道行」は、この平成13年の一回だけのことでした。吉之助はこの時の舞台は生(なま)で見ましたが、いろんな示唆が得られた舞台であ りました。

人形振りの舞踊としてよく上演される演目としては、例えば「伊達娘恋緋鹿子」(櫓のお七)とか「本朝廿四孝・狐火」などがそうです。別稿「人形振りを考える」でも触れた通り、歌舞伎舞踊での人形振りは最後まで続くものではなく、途中で「人形を返す」とか「人形を解く」とか云って、最後は通常の振りに必ず戻す約束があるそうです。舞踊と云うのは人間(役者)が自分の身体を駆使して踊るものであって、人形振りはケレン(邪道)だという考え方があるからです。だから人形振りはあくまで趣向に過ぎないとして、舞踊のすべてを人形身に委ねることは決して許さない。だから最後に踊り手は「人形を解いて」人間に戻るのです。そこに人形にやつすことの申し訳があります。伝統芸能という ものは「何をやっても良い」というものではなく、意外と倫理的な縛りが強いと云うか、頑固に本分を守ろうとするところがあるものなのです。

人形振りが異形の感情を表現するものであることは、別稿「人形振りを考える」でも触れました。しかし、「櫓のお七」や「狐火」 で途中で人形を返して、後見(人形遣い)が立ち去ると、吉之助はいつも舞台中途半端で物足りなく感じてしまうのです。その理由は、お七が髪を振り乱して梯子を上る場面、或いは八重垣姫に神狐が憑依し姿が変わる場面、つまり最後の場面こそ異形の感情表出の頂点(クライマックス)であるにも係わらず、その場面では踊り手は既に人形を解いてしまっていることにあります。だからドラマの最後が決まらない感じがします。

この吉之助の感じ方が、現代人の演劇感覚であることは、もちろん承知しています。恐らく歌舞伎においては、「申し訳」と云うこと以外にも、最後の場面ではお七も八重垣姫も性格的に別次元の存在に既に変わっていること(異形性)が明らかですから、ここまで人形振りでやれば十分だという理由もあろうかと思います。或いは、最後が動きが一番激しい場面になりますから、踊り手が後見を二人従えて踊るのは難しいという技術的理由もあるかも知れません。

しかし、尚もこだわりますが、それはそうでもあろうが、約束違反を承知の上で「櫓のお七」や「狐火」を最後まで人形振りで通してみたら一体どんなものだろうかなと云う考えが、いつもチラッと 吉之助の脳裏をかすめるのです。実はその長年の疑問に応えてくれたのが、今回(平成13年12月歌舞伎座)の「妹背山道行」でした。登場する三人(お三輪・求女・橘姫)がすべて、最初から最後まで人形振りで通して踊ると云う、掟破りの、非常に例外的な舞台なのです。このアイデアが誰から出たのか、経緯は分かりません。玉三郎のアイデアかも知れませんが、玉三郎はその後の「妹背山道行」(平成21年1月ル・テアトル銀座)では通常の振りで踊りましたから、この時は試みとして一度やってみたに過ぎなかったのかも知れません。ただ吉之助にとってはこの時の舞台はとても鮮烈な印象で残っています。(この稿つづく)

(H31・3・3)


○平成31年1月歌舞伎座:「伊達娘恋緋鹿子」(櫓のお七)・その

なお歌舞伎舞踊での人形振りは最後まで続くものではなく、途中で「人形を返す」とか「人形を解く」とか云って、通常の振りに必ず戻す約束があるそうです。これは、生身の役者が人形の動き(異形の動き)を擬することの申し訳であると考えられます。小団次の作戦は、したたかです。人間感情のどす黒い情念の恐ろしさを垣間見せておきながら、これをサッと引っ込めて「ハイ今までのことは趣向でございました、なかったことにしてください」と云ってしまうのです。しかし、この申し訳は実はお上へのポーズに過ぎず、小団次が一番表現したかったのは異形の感情であったことは疑いありません。このことは幕末の閉塞した空気を考えれば理解が出来 ると思います。

ところで前節で女形自体が男が女(男でないもの)を擬するもので、本来は異形の存在であると書きました。いかつい風貌の小団次が十六七の可愛い娘(お七)の印象を観客に与えることが出来たということは、女形の技巧の意味を考えさせます。つまり女らしさの表出は、純粋に技巧の問題だと云うことなのです。

今回(平成31年1月歌舞伎座)の「櫓のお七」での七之助のお七は、スッキリと涼しい容姿が人形向きで、確かに異形を感じさせる瞬間がありました。ただ動きが若干粗雑 なところもあって、人間がチラチラ見える場面もありました。まあ人形振りは確かに難しい。お七の人形振りは趣向ではありますが、これは「恋しい殿御に逢いたい女心」を表現するためのものではないのです。この踊りは綺麗綺麗な娘を見せるためのものではなく、人形振りは異形の感情を表出するための技巧であると割り切るならば、これは肚の問題だと云うべきかも知れませんね。役になり切ると云うことは、そういうことなのです。

(H31・3・1)


○平成31年1月歌舞伎座:「伊達娘恋緋鹿子」(櫓のお七)・その2

人形振りとは、一体何でしょうか。役者が人形の真似をすることに、どのような意義を見出すべきでしょうか。人形は自分の意志では動 きません。人形は人形遣いに「動かされている」のです。人形浄瑠璃の人形は人間の自然な動きを模してしています が、役者の人形振りの場合はまったく逆で、それは不自然な動きを志向し、それによって動かされていることを表現するのです。

人形振りのお七は、十六七のあどけない娘ではなくて、「情念に動かされる人形」そのものです。 黒衣姿の人形遣いに動かされている真似をしながら、人形振りの役者は 「自分にもどうにもコントロールできない情念に衝き動かされている自分」を表現することになるのです。そう考えれば、「櫓のお七」の人形振りに、たんなる趣向以上の、ドラマの「必然」を見出すことができます。

人形振りのお七は、どんな感情に動かされて御法度である火の見櫓の太鼓を打ち鳴らすのでしょうか。「恋しい殿御に逢いたい一心」と云うと、確かにそういうことになりますが、あどけな く可愛い恋心ではありません。ここに見えるのは、ドロドロした情念です。 御法度の太鼓の太鼓を打ち鳴らせば街中大騒ぎになることは明らかです。それでも承知で、お七は御法度を破るのです。「もうどうなってもいい、私はこの感情を抑えきれない」と云う心理状況が、人形振りが表現するものです。モデルの八百屋お七が火付けを犯したことは、観客の誰もが知っています。八百屋お七のエピソードを重ねて、観客は人形振りのお七を見るのです。

現実には例外はいくらもあるでしょうが、芝居の世界では、大店のお嬢様に自由意志はないことになっています。いろんな柵(しがらみ)にがんじがらめにされているのです。八重垣姫など時代物のお姫さまも 同じようなもので、政治の取り引きの材料として他家に嫁いで、実家の安泰を保つのがその役割です。歌舞伎でお染など大店のお嬢様の袂の扱いは時代物のお姫さまと同じにするいう約束はそこから来ます。 お七が火の見櫓の太鼓を打ち鳴らす行為は、がんじがらめにされた柵から我が身を解き放とうとする行為です。同時にそれは社会的にとても危険なものを孕んでいます。これはもう破壊衝動と呼んで良い。ですからそれは社会的に異形な感情ということにな ります。人形振りが示すものとは、そ ういうものです。

いかつい風貌の小団次がお七を人形振りで踊れば「よくもあんなに綺麗に化けられたものだ」と云う話で終わるかも知れませんが、美しい若女形が櫓のお七を演るならば、小団次が隠したかった意図が見えて来なければならないと思います。綺麗綺麗の向こうに、「私はどうなったっていいの、恋する彼に会えるならば、例え江戸中が火の海になったって・・・」という異形な感情が透けて見えて来れば良いなあと思います。 要するにお七には自分しか見えていないのです。安政3年というご時世では、まだそれは包み隠さねばならないものでした。しかし、実はそれが小団次が一番表現したかったもので した。(この稿つづく)

(H31・2・28)


○平成31年1月歌舞伎座:「伊達娘恋緋鹿子」(櫓のお七)・その1

安政3年(1856)11月市村座の新作「松竹梅雪曙」の櫓の場・義太夫「伊達娘恋緋鹿子」において名優・四代目小団次が八百屋お七を人形振りで演じて大評判を取りました。小団次は、いかつい風貌の立役でした。その小団次が娘お七をやって観客を驚かせたのです。十四代目長谷川勘兵衛はこの思い出を次のように語っています。

『あの鬼瓦のような御面相の小団次が、十六七のお七を演るというので世間はどんなものかと馬鹿にしていましたが、どうしてどうして実にたいしたお七です。よくもあんなに綺麗に化けられたものだと江戸中の大評判になって、客は暗いうちから我も我もと押し寄せる。全く驚きましたね。(中略)ちょっと考えただけでも可笑しそうに思えますが、そこが芸の力でさ。流石は名人小団次だと褒めぬ者はありませんでした。(中略)大雪の降るなかで人形振りの大芝居をしたあの小団次の姿は、どう見ても錦絵そのままでした。』(演芸画報・昭和3年3月号・長谷川勘兵衛実話)

この魔術を可能にしたのが、人形振りという技巧でした。普通の女形の振りならば、さすがの名人小団次も男が透けて見えてしまって、可憐な娘に化けることが難しかったかも知れません。だからこそ人形振りの工夫なのです。人形振りとは、人間が人形の真似して踊る、自然で写実な動きを目指すべき役者が、生命のない木偶人形の真似をして機械的な動きを見せる、いわば異形の踊りです。一方、女形は男が女の振りしているもので、もうこの時代には女形が歌舞伎に当たり前になっていたとは云え、本来は異形の存在です。つまり立役小団次は十六七のお七を演じると云う異形を、人形振りと云う、更なる異形によって押し隠してしまったのです。だから、考えただけで笑ってしまいそうな小団次のお七が、全然おかしく見えない。よくもあんなに綺麗に化けられたものだと観客のみんなが感心してしまうお七に見えたわけです。

所作事を人形振りで演ることは、現在では趣向のひとつとして定着していますが、それを江戸歌舞伎で初めて行なったのは、この小団次の「櫓のお七」が最初のことでした。人形浄瑠璃の盛んな上方では、人形振りは早くから行なわれていたようです。しかし、上方においても。人形振りは邪道でケレン芸であると蔑まれる傾向がありました。上方での修行の長かった小団次が、江戸での「櫓のお七」にこの演出を取り入れたのです。

それにしても、いかつい風貌の小団次がお七を人形振りで踊ったのは、これは「作戦」としてよく分かる。しかし、それならば美しい若女形が櫓のお七を演る場合、人形振りで演る必要はないのじゃないか?それこそ不自然じゃないのか?ということも、一応考えておいた方が良いと思いますね。美しい女形ならば、小団次のように娘を無理にこしらえる必要がないからです。そう考えれば、逆に云えば、こういうことが言えると思います。女形が櫓のお七を人形振りで演じるならば、そこにそれなりの「大義名分」を見出すべきなのです。(この稿つづく)

(H31・2・25)


○平成31年2月歌舞伎座:「一谷嫩軍記〜熊谷陣屋」

いつもながら吉右衛門の熊谷が安心して見ていられる出来です。もうひとつ挙げるべきは、播磨屋ファミリーとでも云うべきか、互いに気が知れた面々を周囲に配置してアンサンブルが良く取れていることで、これは昨年9月歌舞伎座での「俊寛」もそうでした。座頭の下全員が同じ方向を向いて演技している、これは当たり前のことのようですが、もはや現代演劇のなかで生きねばならぬ歌舞伎にとっては、これが非常に大事なことになるのです。昔ならば役者が自分の持ち場でやりたいようにやって方向がバラバラのように見えても全体で見ると巨大なモザイク模様のドラマに仕上がっているということもあったでしょうが、そのような技芸の妙は 昨今舞台でなかなか味わえなくなりました。それならば多少こじんまりした感じになったとしても、同じコンセプトの下に全員が求心的なドラマを見せた方が良い結果になります。

もしかしたら吉之助が今回の舞台をスケールがやや小さ目であると暗に言ったように聞こえたかも知れませんが、ドラマの表現ベクトルが熊谷の内面の心理描写の方へ集約される(これは九代目団十郎型自体がそう云う要素をはらんでい るのです)ので、必然的にそのように感じられるのです。例えば相模が我が子を首を抱いて泣くクドキの場面においても、吉右衛門の熊谷は目を閉じ相模の嘆きをじっと肚で受け止めて、手に持つ扇子をブルブルと細かに震わせ、熊谷の内面描写に余念がありません。こういうところは吉右衛門は当然ここを歌舞伎の肚芸の感覚で処理しているわけですが、同時にこれは近代演劇の心理描写の感覚にも通じるわけです。熊谷の物語或いは制札の見得も熊谷の内面描写の流れのなかの歌舞伎のアクセントとして見事に位置付けられて、不自然さをまったく感じさせません。現代演劇としても歌舞伎の価値を十分主張できるものになっています。そこに吉右衛門の時代物役者としての到達点を見ます。

九代目団十郎型の問題点のひとつは、ドラマの焦点を独りよがりに熊谷の内面に合わせたために、それ以外の場面(青葉の笛の件或いは弥陀六の件)が熊谷のドラマから外れ るように見えてしまうことにあります。しかし、今回の舞台ではこれも程よいバランスで熊谷のドラマのなかに収まったようでした。特に歌六の弥陀六は味わいが軽めでありながら、弥陀六(弥平兵衛宗清)の苦悩がしっかり伝わって来て、おかげで幕切れで吉右衛門の熊谷の引っ込みが時代の感覚にしっかり嵌りました。

菊之助の義経も悪くない出来です。同月昼の部「鮓屋」での菊之助の維盛については不満を書きましたが、義経は まあ良いです。それは菊之助の怜悧な芸質がどちらかと云えば「陣屋」のような時代物の方に似合うということもありますが、これは菊之助の義経が取っている声の調子(トーン) が昼の部の維盛の時より低めに抑えられているからです。これは一座の面々が同じ方向を向いているから自然とそうなるわけです。これもアンサンブルの成果ですね。

(H31・2・23)


○平成31年2月歌舞伎座:「名月八幡祭」

初代辰之助(三代目松緑)33回忌追善狂言と銘打たれています。松緑の新助は、役作りとしては前回(平成29年6月歌舞伎座)と大筋で変わらないようですが、台詞の七五の割りはさほど目立たなくなり、台詞は改善を見せています。田舎から出てきた純朴な商人縮屋新助が深川きっての芸者美代吉に騙されて発狂し深川八幡の祭礼の夜に惨劇に及ぶ・・と云うことならばまあそれなりの出来と云うべきです。ただし、これは松緑だけのせいではないですが、大正7年(1918)初演という新歌舞伎の社会的視点にまでは踏み込めていません。池田大伍がこの芝居の執筆に際し「マノン・レスコー」を参考にしたというのは事実ですけれど、この芝居にはどん底に突き落とされて辛酸を舐めつくしても尚マノンを追い続け、「それでも君を愛す」と死にゆくマノンを抱きしめて泣くデ・グリューの狂おしい情愛はまったく見えません。在るのは、虚しさ・憎しみだけです。そこがデ・グリューと新助の決定的な違いです。この違いがどこから生じるか、そこを深く考えないと、新助の心の闇は見えぬと思います。(別稿「ファム・ファタール神話の崩壊」をご参考にしてください。)

玉三郎の美代吉は、仁左衛門の三次の組み合わせは久しぶりで期待しましたが、悪くはないが良くもない出来です。何と云うか、観客とのいつもの雰囲気のなかで芝居している感じで、薄っぺらなところは出ているけれど、美代吉の享楽的な性格が十分表現出来ているとは言えません。美代吉が三次に対して啖呵をきる場面など、もう少し突っ込んだ芝居をして欲しいと思います。だから「八幡祭」の正しい形が浮かんで来ないことになります。

驚いたのは、終幕「深川八幡祭の宵の大川端」の殺し場で夕立ちの本水がザーッと降る場面で、本水の代わりにミストの霧が一斉に降り注いだことです。なるほど寒い季節(2月)の上演であるから人間国宝に風邪を引かせるわけに行きませんから、この処置の事情は分かるけれども、これで芝居の季節感が分からなくなりました。 確かにこれならば衣装はずぶ濡れにならぬし、舞台の後始末も楽で良いですがね。「八幡祭」の過去の上演は、戦後からだと19回あって、いずれも6月から9月にかけての上演です。これは本水を使うならば、当然そうなります。 そうすると初代辰之助追善狂言とは云え、2月に興行するならば他の辰之助の当たり役がいくらでもあるはずなのに、「八幡祭」でなくてはいけなかったのかねと言いたくはなる。昼の部の追善狂言が「暗闇の丑松」で、どちらも暗くて辛い芝居で主人公が花道を引っ込んで幕になるというのも、演目選定としてはどうかとは思います。それは兎も角、人間国宝がやったと云うことで「八幡祭」殺し場で今後はミストの霧が定型になると云うのだけは、御勘弁いただきたいものです。

さらに驚きかつ呆れたことは、狂った新助が祭りの若衆たちに担がれて揚幕に入った途端に拍子木が鳴って、すぐさま定式幕がサッと引かれたことです。この芝居は主人公が去った後にしばらく舞台が無人のままでいて、ボーッと照らすお月様を観客に見せるのが芝居の核心なのです。これは新歌舞伎独特のシュールな発想で、だからこの芝居の表題を「名月八幡祭」と云うのです。最後の主役は、お月様です。こんな幕の引き方では芝居がぶち壊しだと云って良いほどです。これで出演者のどなたからも駄目出しが出ないというのも情けない。こうやって伝統芸能というのは、以前と違った感触にだんだん変わってしまうものなのでしょうかねえ。

(H31・2・16)


○平成31年2月歌舞伎座:「暗闇の丑松」

今回の「暗闇の丑松」は、初代辰之助(三代目松緑)33回忌追善狂言と銘打たれています。吉之助は、昭和58年(1983)2月歌舞伎座で辰之助が丑松を演じた舞台を見ましたが、この時のお米が菊五郎でした。辰之助は男性的な芸風で、横顔にニヒルな陰が差す立役が良く似合いました。例えば坂崎出羽守とか、この丑松がそうでした。調べてみると辰之助が丑松を演じたのは 、昭和58年の一回だけでした。しかし、吉之助も辰之助の当たり役と云うと丑松を真っ先に思い浮かべます。今回の追善狂言に「暗闇の丑松」が選ばれたのも納得が出来ます。ただ夜の部の「名月八祭祭」と云い、暗い狂言ばかりになってしまうなあ。昭和62年(1987)3月に辰之助が若くして亡くなって後、菊五郎も丑松を二回演じていますが、追善興行の今回、久し振りに菊五郎が丑松を演じるのも、菊五郎の親友に対する深い想いであることが察せられます。菊五郎は「もし辰之助が今も生きて居れば、歌舞伎界の様相もだいぶ違っていただろう」と云うことをよくしゃべっていました。辰之助の相手役で菊五郎が女形で出る機会も少なからずあった かも知れないと思います。

さて菊五郎の丑松ですが、芸風が異なりますから辰之助とは印象が異なる丑松に仕上がるのは当然のことです。良く云えば懐が深いというか、情が深い印象が強くなるようです。逆に云うと「右も左も真っ暗闇じゃァござんせんか」とツーンと来る絶望的な暗さにはちょっと足らぬところがあります。まあそこは芸風の違いということではあります。長谷川伸の主人公はみな共通した或る種の「聖女信仰」みたいなものを持っており、自分のことを、愛する女を幸せにしてやれない詰まらない男(大抵は渡世人とか博徒であったりする)だと卑下しており、いざ一緒になれるかと云う場面になると、彼はサッと身を引いてしまう、彼はこれが男の美学だと信じているのです。この美学は丑松にもあるものです。しかし、丑松 の場合 にはカッコ付ける場面が作品のなかに全然なくて、やる事為す事トコトン付いていません。丑松は否応なく絶望の淵に追い込まれます。この時丑松が感じることは、「俺がお米を不幸にしたんだ、お米をこんな目に合わせたのは結局、この俺なんだ」ということです。菊五郎の丑松はもちろん上手いのだけれど、この屈折した感情に若干弱いところがあるので、最後の殺しが「お米、お前の仇は俺が取ったぜ」みたいな復讐譚になってしまった印象です。

ところで「序幕・鳥越の二階」幕切れで丑松とお米が屋根に出て、丑松が下の方を指さして決まって幕になる、これは初演の六代目菊五郎の型です(写真ご覧ください 。実はこれは長谷川伸が書き下ろした幕切れではなく、六代目菊五郎が改変したものです。別稿「暗闇の丑松の幕切れについて」をご参照ください。)が、「この時の丑松は一体何を思って指さしているんだろう」と 云うのがちょっと気に掛ります。あそこに下りようとお米に云っているのか、暗闇のなかの何か一條の光を指さしている のか、どの丑松を見ても、ここの気持ちの置き方が難しいようです。しかし、菊五郎の丑松は指先をやや水平気味に指して、指先の動きで「あちらの屋根から左に渡って、それから右の屋根に渡って逃げよう か」みたいな考えが伝わって来て、これは初めて腑に落ちた気がしました。

(H31・2・14)


○平成31年2月歌舞伎座:「義経千本桜〜鮓屋」・その2

そういう訳で今回(平成31年2月歌舞伎座)の「鮓屋」は、全体に時代っぽい感触で世話味が乏しいところに不満があります。後半首実検に入ってからは芝居の基調が時代の方へ大きく傾くので生硬な印象がさほど目立たなくなりますが、もしかしたら後半の方により問題があるかも知れません。「鮓屋」は権太(世話)が梶原(時代)に命を賭けた大博打を打つのが筋ですから、世話と時代の相克こそ「鮓屋」の核心です。世話をきっちり描いてくれないと、「鮓屋」が一応の様相しか見せてないことになります。

「千本桜」全体が、過ぎ去ってしまった過去(歴史)を変えることが出来るかという大きな主題を持っています。「鮓屋」の主題も、(権太本人は意識 していませんが)大序において提示された「維盛の首は偽首である」という問題に一庶民(権太)が棹差すことが出来るかというところにあります。このため「俺が梶原をたばかってみせる」ということなのです。もちろんこの点はどの役者も心得ていることですが、これは時代の主題です。しかし、実は「鮓屋」はもうひとつ、権太が自身の過去を変えられるかと云うプライヴェートな問題を抱えています。「いがみの権太」という暗い過去(権太の自分史)を清算し、息子権太郎として実家に再び受け入れてもらえるかと云うことです。こちらが「鮓屋」の世話の主題です。ここで権太と父弥左衛門との関係が問われることになります。世話の主題においては家長が家の律を体現するからです。

結果的に「梶原はすべてお見通し」となって、「思へばこれまで衒(かた)つたも、後は命を衒(かた)らるゝ種と知らざる、浅まし」と権太が嘆くことになるので、権太は時代に命を絡め取られて「無駄死に」となったと書いている解説本が少なく ありませんが、決してそうではありません。「鮓屋」の時代と世話のふたつの主題は表裏一体のもので、これを分けることが出来ないからです。ここは権太が命を差し出したからこそ、歴史の律は権太を実家に再び受け入れてもらうことを許すと解釈した方が良い です。だから「鮓屋」後半で世話と時代の相克をしっかり実感させて欲しいと思います。

松緑はどちらかと云えば芸質が硬めであるので、権太の感触が時代の方に傾くのは致し方ないことですが、それならそれでどのように演技に世話の切れ込みを入れて行くかなのです。型としては祖父・二代目松緑の手順をよく写してしますが、祖父の映像を見て学ぶべきところはそこだと思います。対する芝翫の梶原は「歌舞伎らしさ」に自分だけどっぷり浸ったような印象で、いまひとつの出来です。これが 首実検では松緑の権太のストレートな行き方と噛み合っていない。もっと描線をシャープに取ってもらいたいですねえ。台詞を明瞭にしゃべらないと時代の手強さは出ません。龍達で持ち直したかなと思いましたが、本領とすべき時代の役どころでこれではちょっと困ります。菊之助の維盛 (弥助)は前述した通りどこか怜悧な印象が邪魔になります。上品さと云うよりは、ふっくらした量感が欲しい。維盛はもちろん権太に感謝しているわけですが、形としては権太の死を絡め取って去るのは維盛なのですから、権太一家の悲劇を目の当たりにしてこの世の無常を悟り「平家物語」の世界へ戻って行く、それを感じさせる度量の大きさが維盛には必要になるでしょう。これも七代目梅幸の維盛の良い映像が残っていますから、参考にして欲しいものです。

(H31・2・10)


○平成31年2月歌舞伎座:「義経千本桜〜鮓屋」・その1

松緑の権太は初役、菊之助は弥助が初役(お里は2回演じています)、梅枝はお里が3回目と云うことです。まあ一応の出来であるとは思いますが、顔ぶれを考えれば、もう少し仕出かして欲しいのが本音です。出汁が効いていない吸い物の如しで、義太夫狂言のコクが乏しいと感じます。これは近年若手が演じる義太夫狂言に共通して感じることですが、義太夫味の不足が今後の歌舞伎の大きな問題(危機)になると思うので、本稿では今回(平成31年2月歌舞伎座)の舞台を材料にそこら辺をちょっと考えてみたいと思います。

まず「鮓屋」は時代狂言のなかの世話場ですから、世話を基調として置くべきことです。義太夫狂言の世話場と云うのは、なかなか難しいです。義太夫狂言であるから竹本(義太夫)が作り出す音楽的流れからまったく離れてしまっては、もちろんいけません。しかし、役者は人形ではなく人間ですから、どこかで生身の人間である感触を主張せねばなりません。そうでないと人形浄瑠璃作品をせっかく役者が演じる意味がないわけです。大事な のは、表現ベクトルを写実(世話)へ向けることです。しかし、同時にそれは竹本から意識して離れることを意味します。つまり義太夫狂言では竹本に付きながら同時に離れるという相反した演技を役者は要求されることになるのです。時に表現が写実の方に大きく振れても、決まりのところでは竹本の流れにスッと落として決める (つまり時代の方向へいくらか戻すという感覚になりますが)、そのような活け殺しの呼吸が義太夫狂言ではとても大事です。以上のことは時代物でも共通ですが、世話場の方が全体的な表現基調が写実の方へ寄っており、振れの度合いがやや大きいと考えれば良いです。その分世話場の方がちょっと難しいことになります。

今回の舞台を見ると、主役三人共に竹本が作り出す音楽的流れに付こう付こうとしていると感じます。例えば三味線がリズムを取ってシャンと決まる、そう云う箇所で動きをカクカクさせてタイミングを合わせる、そう云うところばかり意識して、そうすることが義太夫狂言だと思っているように感じます。だから人物表現が人形に近い印象に見えてきます。これは褒めているのではありません。人物が生硬に感じられると言っているのです。決まるということは反写実の表現ですからそこを程よく抑えて決める、つまり真正直に時代に決めるのではなくどこか世話に崩すのです。それで世話の表現になるのです。役者は人形ではなく人間なのですから、そこに人間が感じられないのであれば、歌舞伎であることの意味がありません。

例えば弥助の「たちまち変わる御装い・・」の場面がそうです。タイミングと形はきっちり決めていますが、菊之助の弥助は肚が薄いと感じられます。 これは菊之助の怜悧な芸質に拠るところもあります。弥助(実は維盛)は平家のなかでは情け深い人物として有名な小松重盛の長男であり、史実では熊野沖で入水する人物です。だからこの世の無常に感応出来る資質を持つ人物です。そのような形からはみ出た部分をどう表現するかに役者の腕が掛るのです。

或いは幕切れの権太のモドリの述懐の台詞のリズムもそうです。松緑の権太は台詞を言うのに急いてリズムに付こうとして、却って権太の人間味を損なっています。リズムが前面に出過ぎる為、時代っぽい印象にな るのです。ここはもっと台詞に緩急を大きく付けた方が良いです。権太一家の犠牲は、現実にあり得ない特異なシチュエーションです。この歪(いびつ)な 状況の権太の述懐に真実を持たせようとして感情を込めれば、当然リズムは破綻するし、破綻させねばならないのです。破綻を恐れるならば、権太の述懐に真実味が出ません。破綻すると見せながら最後を見ればきっちり枠に収まっている、
義太夫味とはそう云うものなのです。「然り、しかし これで良いのだろうか・・」という感情を呼び起こすドラマこそ歌舞伎です。そんなこんなで今回の舞台も、全体的に時代っぽい生硬な印象が強くなっています。

世話場としての「鮓屋」の佇まいを正しく表現出来ていないもうひとつの要因は、台詞の調子(キー)の問題です。先ほど役者が「竹本が作り出す音楽的流れに付こう付こうとしている」と書きましたが、実は竹本に完全に合わせているわけでは ありません。確かに三味線が弾くツツツツ・トンというリズムには合わせていますが、台詞の音程が全然合っていない。要するに、決まりの箇所でリズムを合わせているだけで、肝心の台詞の音程(トーン)が竹本の基調から外れているのです。「竹本は竹本・役者は役者だよ、役者は自分のやりたいように台詞を言うだけさ」みたいな感じです。これでは「竹本に合わせた」とは言えません。

近年の義太夫狂言に感じる最も大きな不満は、役者の台詞の調子(キー)が高過ぎることです。 正確には「高い方へ外れ過ぎ」と云うことです。義太夫というのは、太夫は三味線の指す音程を避けて語る約束があるので、外れるのは別に構わないのですが、基調の音域があまりに三味線から外れるならば、これは問題です。竹本を注意深く聴くならば、あの高調子で台詞を切り出して平気でいられるはずがないと思いますがねえ。これでは音曲の体を成さないのです。このため吉之助はこのところ舞台を見て、何だか頭が痛くなることが多い。(吉之助の観劇随想をご覧になると義太夫狂言で「もっと台詞の調子を低く」と書いていることが多いことにお気付きかと思います。)今回の舞台も例外ではなく、主役三人共に高調子です。これは一音ほど調子(キー)を落とせば印象が全然変わって来ると思います。最近の女形は誰もが声を高く作り過ぎの傾向がありますが、梅枝のお里も台詞がキンキンして聞き辛い。このため却ってお里の真実 味が損なわれています。

竹本の
音程に耳を澄ませれば、台詞の調子をどこに合わせるべきかは自ずと分かることです。例えば橘太郎の女房おくらは女形が本役でないから声が男っぽいと感じる方がいるかも知れませんが、結局こちらの方が調子が低い分竹本の音楽的基調にしっくり来るのです。義太夫狂言での竹本は、オペラでいえば伴奏オケです。オペラでオケが指し示す調性に合わせないで勝手なキーで歌手が歌うなんてことは決してあり得ません。義太夫節は語り物ですが立派な音曲なのですから、義太夫狂言にも音楽的な縛りが当然あるのです。(この稿つづく)

(H31・2・7)


○平成歌舞伎の30年・その7:世界無形文化遺産としての歌舞伎

平成歌舞伎の30年を考える時、歌舞伎がユネスコの世界無形文化遺産に登録となった2005年(平成17年)11月25日と云うのも、大きな節目であろうと考えます 。(なお現在文化庁のデータべ―スを見ると、能楽・文楽・歌舞伎が共に登録2008年と記載されていますが、これはユネスコが作成した「人類の口承及び無形遺産に関する傑作の宣言(傑作宣言)」リストが、2008年の国際条約発効後に、統合して登録された為そう記載されているだけなので、一般通念としては歌舞伎の世界無形文化遺産指定がいつかと云うならば、2005年とすべき だろうと思います。)平成31年現在を見ると、第5期歌舞伎座再開場ブームが去って、物珍しさで訪れる日本人観客は減った反面、 これを埋め合わせる感じで外国人観客が顕著に増えているようです。歌舞伎の世界無形文化遺産指定の効果は、確かにあったようです。

それは結構なことですけれど、ユネスコの世界無形文化遺産に果たして歌舞伎が相応しいのかと云うと、疑問がないわけではありません。世界無形文化遺産は、グローバリゼーションの流れのなかで世界各地で消滅の危機にある民族文化・芸能を保存しようというのが、 本来の主旨であるわけです。恐らく登録された民族芸能の大半のものは、そういうものだと思います。存続危機にある民族芸能の保全を目的とするならば、淡路人形とか農村歌舞伎ならば分からないことはないですが、そういうものが対象になっていないようです。一方、歌舞伎は現在も私企業(松竹)の興行として立派に成り立っており、依然として変転を続けている芸能です。「消滅の危機にある」と云う次元ではないと思います。その歌舞伎のどういうところを保全しようというのでしょうか。歌舞伎とほぼ同じ 時代(概ね1600年前後)に発生した芸能と云えば西欧のオペラですが、オペラを世界無形文化遺産に登録しようなんて話は聞いたことがありません。

保全だけが無形文化遺産の唯一の目的ではないかも知れませんが、ユネスコの方針からすると「ワンピース」や「ナウシカ」或いは「幽玄」はその主旨に合致するものなのか、或いはそれ らは別のジャンルのこととして古典歌舞伎をしっかり守っていればそれで良いのか、それにしては古典歌舞伎が随分好い加減になっていないか?色んな議論が出来ると思います。そ う云う事項が関係各所でさっぱり議論されずに、この約10年、曖昧なままで来てしまいました。現在の「世界無形文化遺産の歌舞伎」は、客寄せの宣伝文句としてのみ通用している状況です。

有形文化遺産についても、日本の現地での思惑はほとんど、これで世界からの観光客が大勢呼び込めて観光収入が増えるとか、これで地域振興が可能になるとか、そういうビジネス観点での期待ばかりが先走っているようです。しかし、ユネスコの考え方は、 文化の保全と保存(それはある程度の固定化を伴なう、つまり「変えない」と云うこと)ことが根底にあるわけです。保全と保存には、当然責任が伴うし、保全費用も掛けねばなりません。手間が掛るのです。保存を目的にしていますから、勝手な改変は許されないのです。無形文化遺産である歌舞伎だって例外ではないはずですが、そう云うことが全然議論されてい ません。(同じようにさっぱり意味が分からない世界無形文化遺産に「和食」というのがあります。何を保全しようと云うのか?)

別稿「歌舞伎は危機的状況なのか?」のなかでもちょっと触れましたが、歌舞伎役者が「歌舞伎の危機」と云う時には、お客様が歌舞伎座に来なくなる状況だけを心配しているのであって、「歌舞伎が歌舞伎でなくなってしまう」ということがどういうことか、そういうことを彼らは本当に真剣に考えたことがあるのかな? 「歌舞伎では何でもあり」などとお気楽なことを言ってて良いのかな?と思うことはあります。我が師匠の武智鉄二が生きていれば、「民族芸能としての歌舞伎、伝承芸能としての歌舞伎の立場を しっかり自己規定出来ていないから、 このようなことが起きる」と言うでしょうねえ。しかし、歌舞伎が世界無形文化遺産であることは、将来いつか大きな意味を持つことになるかも知れません。

(H31・2・3)


○平成歌舞伎の30年・その6:玉三郎の時代にはならなかった

三島由紀夫は「六世中村歌右衛門序説」(昭和34年9月)において、「ひとつの時代は、時代を代表する俳優を持つべきである。一時代を代表した俳優の名を思いうかべる 時に、その俳優の名のまわりに、時代の直接の雰囲気、時代の直接の雰囲気、時代の肌ざわり、肌の温かみともいうべきものをひろげる。俳優とは、極言すれば、時代の個性そのものなのである」と書きました。六代目歌右衛門が戦後 昭和の歌舞伎を代表する役者だとすることに異議ある方は少ないとは思いますが、技量あるいは人気のことを云えばいろいろな意見があると思います。また歌右衛門によく批判的に云われるところの権力志向ということ は全く別の話です。しかし、戦後昭和の歌舞伎の在り方を考えると、やっぱりまず思い浮かぶのは歌右衛門だと思います。

それでは平成歌舞伎の30年を代表できる役者を誰か一人に決められるかと云うと、これはどうも難しいようです。もちろん優れた役者は、何人も思い浮べることが出来ます。 しかし、いろいろ意見があると思いますが、どなたも帯に短し襷に流し 、そこまで抜きん出た強烈な印象を与える方はいらっしゃらないようです。もし十八代目勘三郎が今現在生きて元気でいれば63歳ということですが、もしそうであるならば、その役者は勘三郎だと言えたかも知れませんねえ。残念ながら上洛を目前に病で亡くなって夢を果たせなかった武田信玄みたいなことになってしまいました。

そこで吉之助はハタと考えるのですが、それでは吉之助が歌舞伎を見始めたあの頃に「これからは真剣に歌舞伎を見なければならない」と思わせたあの人はどうなのか。「歌舞伎を代表する役者はあの人だ」と云える時が来ると吉之助は内心期待していたのだけれども、あの人はどうなのだろうか。しかし、残念ながらもうそれは云えないと思います。それは五代目玉三郎のことですがね。

吉之助は別に玉三郎に平成歌舞伎の女帝になって欲しかったわけではないのです。吉之助は「女形の美学〜たおやめぶりの戦略」のなかで「現代における歌舞伎の在り方は女形が規定する」と書きました。これは当然ですが、玉三郎のことをイメージしていました。鼓童との仕事とか、歌舞伎座での鏡花作品上演、菊之助との「二人道成寺」、児太郎・梅枝への阿古屋伝授などいろいろ話題はあるのだけれど、平成トータルとしてみた場合、歌舞伎での玉三郎の印象はやや淡いものだったと云わざるを得ません。世界無形文化遺産にもなった歌舞伎の、これからの在り方を指し示す大事な役割を期待していましたが、玉三郎は自ら静かに後ろの方へ引き下がってしまった気がします。そこに玉三郎の謙虚な人柄が出ているのかも知れないし、体力的な問題があったのかも知れませんけれど、この点は個人的に ちょっと残念な気がします。そう云うわけで、平成歌舞伎の30年は群雄割拠の時代で あった、これが現時点での吉之助の見方になります。そう云えば、クラシック音楽の世界でも、カラヤン以降は、突出したカリスマ的存在は出ていません。現代と云うのは、カリスマが登場し難い時代であるのかも知れませんね。(この稿つづく)

(H31・1・27)


○平成歌舞伎の30年・その5:平成歌舞伎後期〜十八代目勘三郎の死以後

平成歌舞伎前期から中期に、昭和の時代に若手花形と呼ばれた世代が歌舞伎の中核となって行きます。そして平成歌舞伎後期、第5期歌舞伎座が新装開場となった平成25年4月時点 においては、女形陣はやや薄い感じもしなくもないが、立役陣(白鸚・吉右衛門・菊五郎・仁左衛門・梅玉)の充実振りは昭和50年初期を凌ぐかとさえ思われる状況になりました。一連の開場記念公演では充実した舞台を見せてくれ ました。まさにこの時期が平成歌舞伎の絶頂期でした。

しかし、平成24年12月5日の十八代目勘三郎の死から現在(平成31年1月)まで、これで7年目に入りますが、このところの歌舞伎の様相は大きく変化しているようです。勘三郎の死とそれに続く十代目三津五郎の死(平成27年2月21日)、これに加えて、幸い舞台復帰を果たしたけれども体調は万全ではない九代目福助の (平成25年秋からの)病気による離脱、これらを一括りとして考えます。彼ら昭和30年代生まれの役者が続けざまに抜けたことによって歌舞伎が蒙ったダメージは、ここ1・2年の歌舞伎興行の演目・座組みなど見れば、もはや隠しようがないほど露わな状況となって来ました。

顔見世興行と云えば、普段見られない大顔合わせを期待するものなのに、その座組みの薄いこと。このところ幹部俳優はそれぞれの演し物は持つけれど、他の役者の演目に付き合いで 脇に出ることをあまりしなくなった印象です。個々の役者の芸ではもちろん舞台に見るべき芸はあるのだけれど、スケールの大きい芸のぶつかり合いの場が少ない、芝居全体としての スケール・完成度がいまひとつというものが多くなっています。顔ぶれに厚みがないので、見物からするとこれだけは是非見ておきたいと思う演目が少なくなりました。これは幹部役者も多くが70歳代半ばとなって、これまで酷使されてきたツケが出た健康面の問題もあると思いますが、やはり本来この時期の興行の中核を受け持つべきであった上記三人の欠落が大きく影響しています。この不足を補う為に下の世代に役が回ることになるわけですが、そうなると芸のいろいろな面で落差が生じます。先に「現状の世代交代は親世代より も5年ほど遅れているように思われる」と書きましたが、そのような印象になるのも、予想以上に世代交代の必要性が高まっているせいです。

吉之助は、舞台を見ながら「ここで勘三郎・三津五郎がいればなあ・・」と寂しく感じることが、このところ多くなりました。これはまあ同世代の愚痴ということもありますけれどね。 ここ1・2年の歌舞伎は、次の時代への過渡期という様相になってきました。(この稿つづく)

(H31・1・13)


○平成歌舞伎の30年・その4:平成歌舞伎中期〜十八代目勘三郎の時代

平成歌舞伎中期(ここではほぼ平成13年から平成24年とします)については、まず世界史レベルの事件を二つ挙げておかねばなりません。ひとつは911(アメリカ同時多発テロ事件(平成13年年9月11日)、もうひとつは311(東日本大震災平成23年3月11日)です。この二つの事件によって世界の既存の構造・価値観がガラガラ崩れ落ちてしまいました。この時代に生きる人は、世界の何かが変わったことの意味を自分に向けて常に問いかけなければなりません。そんなことを考えるなかで現代人にとって何故古典が必要か、その意味が研ぎ澄まされてくると思います。吉之助にとって日常生活で歪みがちな感性を正しい状態に整えてくれるものこそ古典です。歌舞伎もこのことから無縁ではいられません。

平成歌舞伎中期は吉之助にとって「歌右衛門以後」ということになりますが、別の視点からこの時代を眺めたいのですが、いろいろな事象が挙げられると思いますが、中期はやはり十八代目勘三郎の時代であったと断言して も良いかと思います。二十一世紀の歌舞伎は、九十九里の浜辺で新春の初日の出を背景に中村屋親子が連獅子の毛振りを披露するテレビ中継で幕を明けました。この時期の歌舞伎は確かに勘三郎を中心に回っていたし、天下を狙う勢いがあったと思います。しかし、勘三郎は最後の約10年でパアッと輝いて、突然フッと消えてどこかへ行ってしまいました。

吉之助の勘三郎の思いについては別稿「勘三郎・一周忌に寄せて」で書き尽くせていると思いますが、七回忌になる現時点(平成31年)において付け加えるとすれば、勘三郎の実験歌舞伎(平成中村座・コクーン歌舞伎・野田歌舞伎)は、これは変革の気分としては現在も何となく受け継がれていると思いますが、演劇運動としては結局実を結ばなかったと云うことが、次第に明らかになってきました。ここで「現代人にとって古典とは?」ということが再び問題になるわけですが。

恐らく勘三郎は自分のやってきたことを歌舞伎の定型にまでしたかったと思います。つまり「自分が型を作る」ということです。もし勘三郎が現在も元気でいたならば、「夏祭」も「法界坊」も串田演出で続けて従来型をやらず、串田演出を歌舞伎の型にしようとしたと思います。しかし、これも勘三郎の死によって頓挫しました。「野田版・研ぎ辰の討たれ」など新作物の試みも、あまりに勘三郎のキャラクターに依存し過ぎた題材のため再演が難しい。結局、勘三郎は記録と云うよりも、記憶のなかに強烈に残る役者ということになってしまいました。

別稿「歌舞伎は危機的状況なのか?」のなかで触れましたが、歌舞伎の型というものは最初から「型」として生まれて、「俺は後世の規範となる型を残す、これ以後この役をやるならばこの型でやるべし」として次代に受け渡すものではないのです。受け継ぐ者たち(後輩)が、これを守るべき大切なものだと認めて、同じように自分も演じてみたいと努めるから、これが次第に「型」になるのです。残念ながら、勘三郎は自分で型を創造しようとしましたねえ。勘三郎はちょっと先を焦り過ぎたのではないでしょうかね。これを型にしようと云うことは、後世の判断に任せるべきことでした。吉之助は勘三郎に「祭祀としての演劇にの理性(アポロン)と熱狂(ディオニッソス)は同じ肉体に宿るか」という問いに対する答えを期待したのだけれど、答えは勘三郎の死によって保留にされてしまいました。(この稿つづく)

(H31・1・10)


○平成歌舞伎の30年・その3:平成歌舞伎前期〜昭和歌舞伎の終焉

昭和50年代初め頃、吉之助は、21世紀に成る頃(つまり20年後の未来ということですが)には多分歌舞伎は興行的に成り立たなくなっているだろうと、かなり悲観的に考えてました。具体的には、松竹だけでは歌舞伎を支え切れなくなって国が文化事業として支援せざるを得ないような状況、現在の文楽のような状況を思い浮かべていました。

なにしろ昭和53年(1978)の歌舞伎座の興行を見ると、歌舞伎ではない月が4ヶ月もあったのです。3月(八代目幸四郎・山本富士子公演)、6月(萬屋錦之助公演)、8月(三波春夫公演)、12月(大川橋蔵公演)で した。歌舞伎を上演したのは、残りの8ヶ月でした。恐らく興行的にはこの時期の歌舞伎がどん底期であったかも知れません。歌舞伎は、映画やテレビにお客をどんどん奪われていました。歌舞伎が掛かっていた月も、夜の部の最後の幕などは、(建て替え前の)あの歌舞伎座の広い三階席に客がパラパラで実に悲惨な光景でした。当時の昭和の大幹部の舞台で質的にはなかなか良かったのですがねえ。だから吉之助にはあのどん底期の歌舞伎座を支えた観客の一人だという自負が密かにあるのだが、まあ自分で思っているだけですがね。あの頃の歌舞伎座の客席を思えば、とても20年後に歌舞伎が続いているとは思えませんでした。恐らく当時の歌舞伎役者なら程度の差こそあれ誰もが危機感を持っていたと思います。

興行的な問題を別にしても、芸の伝承や後継者の問題や脇役・竹本など裏方の不足など歌舞伎は恒常的な問題を抱えています。( これは現在でも解消されているわけではありません。)吉之助は歌舞伎はいずれジリ貧に陥るだろうと半ば諦めていました。だから今のうちに歌舞伎を 眼に焼き付けておこうということで、六代目歌右衛門や十七代目勘三郎その他の昭和の大幹部の舞台を必死に見たのです。十年くらいは東京で掛かっている歌舞伎は、時間が許せば片っ端から見ました。その頃の記憶が、現在の吉之助の貴重な財産になっているわけです。

もっとも松竹や歌舞伎がこの危機的状況に手をこまねいていたわけではありません。人気回復のためにいろんな努力がされたと思います。平成元年(昭和64年・1989)の歌舞伎座の興行を見ると、歌舞伎でないのは、8月(SKD公演)のみですね。橋蔵(昭和59年没)・錦之助(平成9年没)のような歌舞伎座をいっぱいに出来る時代劇の大スターが衰えたということが大きいかなと思います。この時期の吉之助には歌舞伎が盛り返したという印象はあまりないのですが、ただ昭和55年から浅草公会堂で若手花形による初春公演が行われるようになったり、猿之助の昭和61年からスーパー歌舞伎(前述の「ヤマトタケル」)が始まったり状況改善努力があって、それが平成になって結果となって表れて来たということだと思います。この頃から世間に和テイストへの関心が高まって来たということも大きかったでしょう。(逆を云えば、普段の生活からそれだけ旧来の和の要素が消えてしまったということなのです。) まあ興行史的な分析はこのくらいにしておきます。

そういうわけで平成歌舞伎前期は、いろんな意味で昭和歌舞伎の正の遺産・負の遺産の精算の時期であったと云えます。ちなみに平成歌舞伎の前期は、日本経済のバブル崩壊、いわゆる「失われた10年」とほぼそのまま重なることも戦後歌舞伎興行史を考えるうえで大事なことになるでしょう。(失われた10年の時期は、人によって見方が異なるでしょうが、吉之助は日経平均株価が最高値38,957円を付けた平成元年(1989年)12月29日からと規定します。)歌舞伎のことだけで考えていると分からない複合的な要素がいろいろと絡んでいます。

しかし、思い返してみれば昭和50年代から平成の初め頃にかけての、昭和の大幹部から次の若手花形への世代交代は、比較的順調に行った方ではないかと思いますねえ。現在の平成の幹部役者(つまり昭和 戦後生まれの若手花形)は数々の大役の初役を比較的早い時期に経験しています。そのような座組み・配役を意識的に心掛けて来たことが、平成5年過ぎたあたりから実を見せ始めたと思います。(現在の世代交代が順調に進んでいるかという問題は至急検証せねばならない事項だと思います。吉之助の感じでは、現状の世代交代は親世代より も5年ほど遅れているように思われますが。)

昭和50年代の頃の状況を思い出すと、現在(2019年)の歌舞伎の隆盛はまったく夢みたいだなあと思いますが、しかし、それにしても、あの時吉之助が抱いた危機感は何でも悲観的に考え勝ちな吉之助の単なる思い込みであったのか?確かに歌舞伎の客足(興行成績)は回復したけれども、それで歌舞伎は危機を脱したと安心して良いのか?と思うことは時々あります。実は大切な問題がなおざりにされていないかと感じているところに、先日、玉三郎の「最近の歌舞伎は層が薄くなった、そういう意味では危機的状況かも知れない」という発言が飛び出したわけです。(これについては別稿「歌舞伎は危機的状況なのか?」をご参照ください。(この稿つづく)

(H31・1・7)


○平成歌舞伎の30年・その2:平成歌舞伎前期〜忘れられぬ役者たち

昭和から平成へ年号が変われば、それで昭和歌舞伎が終わって平成歌舞伎がいきなり始まるわけではありません。平成となった時点で舞台に立っているのは当然みんな昭和生まれの役者なのですから、 歌舞伎は新しい時代にふさわしい感触に少しづつ変わって行くのです。変化の種はすべて昭和のなかにあります。思い出す舞台も役者もいろいろありますが、そのなかで平成になってついに見事な芸の実りを見せた二人の役者のことをまず思い出します。ひとりは十三代目仁左衛門(平成6年、90歳で没)、もうひとりは平成中期まで健在だったわけですが、四代目雀右衛門(平成24年、91歳で没)です。 いわば昭和歌舞伎の最後の輝きを体現した御二人でした。

吉之助が歌舞伎を熱心に見始めた昭和50年代の初め頃の仁左衛門は、失礼ながら芸の手堅いところは評価できるものの、地味であまり 印象に残らなかったかも知れません。しかし、昭和56年(1981)国立劇場での「道明寺」の菅丞相は、これは当時「神品」とまで評されたほど見事なものでした。この舞台以降、歌舞伎での存在感を一気に増しました。晩年の仁左衛門は目が不自由でしたが、義太夫狂言での安定感は抜群でしたねえ。平成6年没ですから平成の時代での活躍はそう多かったわけではないけれど、吉之助のなかでは 晩年の仁左衛門は平成前期に芸の花が開いた役者と云うことで、忘れ難いものがあります。

四代目雀右衛門も、昭和の時代は六代目歌右衛門の影に隠れて、芸は優れていたけれどどことなく暗い感じがして、どうしても二番手という印象がぬぐえませんでした。雀右衛門が名実共に平成の立女形として重い存在になっていくのは、歌右衛門が舞台に立たなくなって以降(平成5年頃)からのこと だと思います。やはり自信と云うか、歌舞伎を背負って立つ責任感が、芸をグッと大きくするのですねえ。それからの雀右衛門の活躍は、ここで述べるまでもないことです。時代物の役どころをしっかり守ってくれたことは、感謝してもし切れません。(壮年期は地味だったけど晩年に芸の深みを グッと増したという点では、この二人はどこか同じ時期の指揮者のオイゲン・ヨッフムとかギュンター・ヴァントを思い出します。 やはり役者は60歳を過ぎてからが勝負ですねえ。まことに芸の精進は終わりがありません。)

ああもうひとり重要な役者を挙げておかねばなりません。それは三代目猿之助のことです。二代目猿翁と云うよりも、吉之助としてはここはやはり猿之助と呼びたいところです。猿之助は平成15年(2003)11月に病に倒れて、その後はほとんど舞台に立っていません。しかし、昭和50年代から平成前期においての活躍は、歌舞伎史のなかでも相応の頁を割かねばならぬほど華々しいものでした。 猿之助歌舞伎という現象も、昭和からの流れから読み解く必要があります。昭和50年代の猿之助については、吉之助は「猿之助は次は何をやってくれるか」という感じで毎月の舞台を楽しみにしたものでした。(ただし吉之助は「ヤマトタケル」(昭和61年・1986・2月新橋演舞場初演)以降は、猿之助歌舞伎から距離を置くようになって行きました。その背景については別稿「いわゆる歌舞伎らしさについて」で ちょっと触れたことがあります。)猿之助歌舞伎はいわゆる保守本流の歌舞伎とは一線を画すものですが、猿之助は平成に入って一段と活動をヒートアップしていきます。次々と制作されるスーパー歌舞伎は興行的に成功を収めましたし、現在の三代目右団次や新派で活躍する喜多村緑郎・河井雪之丞らを育てた二十一世紀歌舞伎組など、猿之助の活動が平成初期の歌舞伎の重要な一角を占めたことは疑いのないことです。現在の猿之助一座の面々が各方面に散ってしまったことに一抹の寂しさを感じないではないですが、その彼らもそれぞれの場面で重宝されているわけですから、猿之助が残したものはとても大きかったのです。この猿之助の新しい歌舞伎に向けての試みが、平成中期に十八代目勘三郎の、平成中村座や野田歌舞伎に受け継がれて行くことになるわけです。(この稿つづく)

(H31・1・4)


○平成歌舞伎の30年・その1:平成歌舞伎のふたつの節目

本年(平成31年・2019)4月末に今上天皇が退位されて平成の時代が終わり、翌・5月1日には新天皇が即位されて新元号に変わる予定となっています。ここまでの平成歌舞伎の30年間は、吉之助にとっても、まことに大きい意味を持ちます。途中仕事の関係で歌舞伎座に なかなか行けない時期もありましたが、吉之助にとって歌舞伎はずっと大切なもので在り続けました。そこでこの機会に平成の30年間の歌舞伎を吉之助なりに振り返ってみたいと思うわけです。だらだらと雑談風に綴ります。

個人的に平成歌舞伎の30年を二つの節目を以て考えたいと思います。ひとつは平成13年(2001)3月31日の六代目中村歌右衛門の死であり、もうひとつは平成24年(2012)12月5日の十八代目中村勘三郎の死と云うことになります。一応この 節目に沿って平成13年までを前期、平成24年までを中期、平成30年までを後期ということで話しを進めます。

吉之助としては、歌右衛門の死を以て平成前期を「昭和歌舞伎の終焉」と位置付けたいと思います。平成7年(1995)4月歌舞伎座で歌右衛門が「沓手鳥孤城落月」の淀の方を勤めた時に「いつ休演するか分からないのでその場合はご容赦を」というコメントが初日前に出たので、居ても立っても居られず会社を休んで初日の舞台を観たのが、吉之助にとっての歌右衛門の生の舞台の最後となりました。(もちろんその後の 歌右衛門の舞台もテレビ映像で見てはいます。)歌右衛門は平成4・5年辺りからどんどん出演が少なくなって、平成8年(1996)8月国立劇場で1日だけ踊った舞踊「関寺小町」(残念ながらこの舞台は見ていません)以降舞台に立つことがなかったのです。しかし、歌舞伎のなかでの存在感は平成13年3月まで確かに持続していました。歌右衛門が生きている間は何となく歌舞伎に核(コア)みたいなものがあって、それで歌舞伎は纏まっていた気がします。歌右衛門がいなくなって以降、歌舞伎は一気に群雄割拠の時代に入ったということになるでしょうか。

平成13年(2001)3月31日の東京の天気は、桜の花が咲くなかに雪が降り積もり、夜になると雪が降り止んで空に明るく月が見えたと云う、雪月花が揃った、あれは実に不思議な光景でありました。空を見上げながら「積恋雪関扉」の舞台が脳裏に浮かんで来て、「歌右衛門が亡くなったんだなあ、天は歌右衛門の為に特別な舞台を用意したのだなあ」と感じた方は吉之助だけではなかっただろうと思います。これはたまたまですが、本サイト「歌舞伎素人講釈」は平成13年1月に開始されました。このため歌舞伎批評家としての吉之助は 図らずも「歌右衛門以後」を生きることになったわけです。

「歌右衛門以前と以後」ということは、吉之助にとってとても大きい意味を持ちます。人それぞれに、その人の人生には「以前と以後」という大事な節目がいくつかあるものだと思います。(吉之助のなかには、クラシック音楽になりますが、もうひとつ「カラヤン以前と以後」という節目があります。)良かれ悪しかれ吉之助の観劇歴では昭和50年代の歌舞伎が身体感覚の基準となることは仕方がないことです。その昭和50年代の歌舞伎を象徴する存在が(人によっては異論があるかも知れませんが)吉之助にとっては歌右衛門でした。したがって「歌右衛門以後」ということは、吉之助にとって歌舞伎が現在進行形の趣味ではなく・過去形の趣味となったことを意味しました。注を付けますが、これは現在の歌舞伎が駄目だから興味がないと云っているのではありません。むしろ逆です。このような現象は 、或る思いを以て長く観劇を続けていれば決して避けられないことなのです。こうして観劇体験はその人の人生のなかに徐々に浸みこんで行くのです。そもそも伝統芸能とは過去に発し過去から高められる芸能なのですから、歌舞伎が過去形になる感覚が伝統芸能である歌舞伎を考える上でとても大事なことになります。しかも、この感覚は決して自ら望んで得られるものではありません。ですから歌舞伎を研究する身にとってみれば、自分のなかに「歌右衛門以前と以後」と云う感覚が出来たことはまことに有難いことだと思っています。そこから「歌舞伎素人講釈」が始まったのです。(この稿つづく)

(H31・1・1)


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