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様式感覚の不在〜若手花形による「名月八幡祭」

平成29年6月歌舞伎座:「名月八幡祭」

四代目尾上松緑(縮屋新助)、二代目市川笑也(芸者美代吉)、四代目市川猿之助(船頭三次)



1)様式感覚の不在

若手三人初役揃いでの「名月八幡祭」ということでフレッシュな舞台を期待しましたが、残念ながら いくつかの点で課題があるようでした。まず主役三人ともに、台詞を七五で割ってしゃべっています。これでは新歌舞伎の様式になりませんね。本作は大正7年(1918)8月歌舞伎座で二代目左団次が初演した新歌舞伎です。左団次劇の様式によって処理されねばならぬ芝居です。(別稿「左団次劇の様式」を参照ください。)左団次劇の基本リズムは「強/弱」(trochiaic)に出る畳み掛ける二拍子(割って四拍子・八拍子と考えればよい)で、アクセントが頭に付きます。これが新歌舞伎の基本リズムになります。ですから頭打ちの江戸弁との相性は良いわけです。これがこの芝居のリズムです。

台詞を七五で割って調子を揃えてしゃべるというのは、黙阿弥物のテクニックです。イヤ正確に云えば、これだけでは黙阿弥の様式にならないのですがね。詳しくは別稿「黙阿弥の七五調の台詞術」をご参照ください。ところで、今月(平成29年 6月)歌舞伎座での「御所五郎蔵」での仁左衛門(五郎蔵)の七五調は、良かったですねえ。こういう見事な七五調の台詞廻しは、最近あまり聞くことがありません。つまり七五のなかに緩急のリズムが微妙に付くのが、正しい黙阿弥の七五調なのです。台詞を七五で割って調子を揃えてしゃべっただけでは、これは吉之助がよく云う「ダラダラ調」になってしまいます。これでは黙阿弥の正しい様式にならないのです。しかし、最近の歌舞伎役者の多くがしゃべっているのが、実はこのダラダラ調です。台詞を七五で割って調子を揃えてねっとり転がせば、それで黙阿弥になると誤解しているのです。

歌舞伎四百年とは云うけれど、現在の歌舞伎役者の演技の引き出しというのはせいぜい幕末期までしか遡れません。だから鶴屋南北でも、今の役者は黙阿弥物のテクニックでしか処理ができないわけです。そして、いつの間にやら新歌舞伎も黙阿弥物のテクニックで処理されるようになって来たようです。新歌舞伎って、黙阿弥よりも後の時代の、現代に一番近い様式のはずなんですがねえ。でも、いつもやっている芝居のテクニックでしか芝居ができないのです。すでに歌舞伎は、南北と黙阿弥と新歌舞伎の様式の仕分けさえ十分にできなくなって、どれも一様な感触になりかけています。これが将来のKabuki様式ということになるのかも知れませんねえ、あまり考えたくないことですが。

今回(平成29年 6月歌舞伎座)のような舞台を見ると、様式感覚の不在に吉之助は嘆息してしまいます。吉之助が見始めた昭和50年代の新歌舞伎は、まだこんな感じではなかったのです。初代辰之助(松緑のお父さんです)の縮屋新助も見ましたけれど、辰之助は新歌舞伎でこんなしゃべり方はしませんでした。もっとしっかり二拍子のリズムが前面に出ていたものでした。昭和50年代の新歌舞伎の舞台映像はたくさん残っているのですから、昔のビデオを見て学ぼうと思えば、そういうことはすぐ分かると思います。

猿之助の船頭三次がこうなるのも、吉之助にはショックでしたねえ。二代目猿翁のスーパー歌舞伎の台詞のリズムは、新歌舞伎のリズムと同じだと思います。だからこれをそのまま三次の台詞に利用すれば良いだけのことだと思いますがねえ。それが、どうしてこれが七五のダラダラ調になってしまうのでしょうか。いつも通りやっている芝居のように「らしく」演じようという落とし穴が、そこにないでしょうか。

「名月八幡祭」は、黙阿弥の「八幡祭小望月賑」を池田大伍が改作したものです。だからと云って本作を黙阿弥のテクニックで処理して良いと云うのならば、それは間違いです。わざわざ書き直して新歌舞伎に仕立てたところに、どういう意義を見出すべきでしょうか?大正期の新歌舞伎のセンスをどこに見出すべきでしょうか?それがどんな形でフォルムに現れるのでしょうか?役者はそういうことを考えつつ役を演じなければなりません。そういうことを虚心に考えて台本を読むならば、作者がこの作品にどういうフォルムを求めているかが、自ずと見えて来るはずだと思います。いつも通りやっている芝居のように「らしく」 演じようと思い込んでいたら、それは決して見えて来ないのです。
 



2)崩壊したファム・ファタール

池田大伍は「名月八幡祭」を書く時にプレヴォーの「マノン・レスコー」を意識して書いたと云われています。この小説は1731年刊行で時代は古いのですが、マノンが注目を浴びたのは19世紀後半のことで、彼女のイメージは当時の芸術家に多大な影響を与えました。マスネやプッチーニがオペラにもしました。このことは別稿「破滅のパラダイム〜歌舞伎の女形の実のなさのついて」で触れましたから、そちらをご覧ください。マノンやカルメンは、ファム・ファタール(男を破滅させる宿命の女」の典型とされています。ちなみにビゼーの「カルメン」初演が1875年、マスネの「マノン」初演が1884年、プッチーニの「マノン・レスコー」初演が1893年。このことを頭に入れて欲しいと思います。

池田大伍がマノンをイメージしたと云うので、「名月八幡祭」の芸者美代吉もファム・ファタールだとしている歌舞伎の解説が多いですねえ。確かに池田大伍が書き始めた時の発想はそんなところだったかも知れませんねえ。しかし、出来上がった「名月八幡祭」は、結果的にちょっと違った様相を呈することになるのです。それは、この作品が書かれたのが大正7年(1918)であったというところに起因します。ちなみに1914年が第1次世界大戦勃発の年です。世界は戦乱の時代・混迷の時代に突入し、個人は国家・社会・産業の構造のなかに歯車として組み込まれて行きました。その兆候は19世紀に既に始まっていますが、20世紀初頭にそれは誰もが直面する現実のものとなりました。そのような時代の作品なのです。もちろんそのような世界的な流れから日本が無縁でいられたはずがなく、例え池田大伍がマノンをイメージして書いたとしても、それがもはやマスネやプッチーニが描いたマノンと同じものになるはずがないのです。同じになる方がおかしいのです。そこが大事なところです。江戸を描いた歌舞伎なのだから、そんなこと全然関係ないとお考えでしょうか。

「名月八幡祭」を初めて見た方は、幕切れで祭りの衆に担ぎ揚げられた縮屋新助が花道七三で狂った高笑いをあげて揚幕に消え去ると、「 何だか後味の悪い芝居だなあ・・」とちょっと嫌な気分になると思います。観客の割り切れない気分を癒してくれるのが、誰もいない舞台の背景に浮かび上がるお月様です。これは従来の固定観念(歌舞伎の幕切れは主役の絵面で締めるもの)から見ると、とんでもなく歌舞伎的でない、シュールな幕切れなのです。それをわざとやるところが、新歌舞伎のセンスです。

ところでオペラのラスト・シーンで、死んだマノンを抱きしめてデ・グリューが泣く、自分が刺し殺したカルメンを抱きしめてホセが泣く。デ・グリューやホセの、あの狂おしい・しかし何とも切ない愛憎の結末を、「名月八幡祭」の、美代吉を殺して高笑いする気が狂った新助に感じることが出来るでしょうか。これはまったく不毛の結末と云うべきです。これは作品成立のたった20年か30年の違いから、そうなったのです。それが吉之助が別稿「ファムファタール神話の崩壊」で論じたことです。「自分はボロボロにされても、たとえ地獄に落ちたとしても、なお俺はこの女を愛す」と云う思いが、新助には決定的に欠けています。新助はもはやファム・ファタールの幻想に癒されることさえありません。この虚しい思いを鎮めてくれるのは、ただお月様の光だけなのです。池田大伍が書いたのは、そのようなドラマです。これが混迷の、20世紀初頭の、崩壊したファム・ファタールの姿です。このような様相を正しく描き出すために、新歌舞伎のフォルム、つまり左団次劇のフォルムが必要になります。
 



3)新助の性格について

田舎から出てきた純朴な商人縮屋新助が深川きっての芸者美代吉に騙されて発狂し深川八幡の祭礼の夜に惨劇に及ぶ・・と「名月八幡祭」の粗筋は普通そういう風にチラシなどに書かれていると思います。そうすると新助が美代吉 を憎むのはなるほど分かりますが、関係がない町の衆に「江戸っ子が何だ、口先ばかり巧いこと言ったって、みんな銭が欲しさだ」と叫ぶのは、どうしてなのでしょうか?これは美代吉への憎しみだけでは説明が出来ないことです。そこのところをよく考えないと「名月八幡祭」のドラマは全然別のところに行ってしまうのです。

結局、新助が心の奥深くで憎んでいるものは、江戸なのです。裏返せば、それは江戸への満たされない憧れです。新助の心のなかで、江戸と美代吉が重なっているのです。このことは別稿「ファムファタール神話の崩壊」で 詳しく論じましたから、そちらをご覧ください。江戸への憎しみが新助の生来の性格から来るものか、はたまた江戸で商売してひどい辱めを受けた過去でもあったか、それは芝居からは分かりません。しかし、新助の性格を察する重要な材料が、芝居にはいくつか出て来ます。

序幕・魚惣 裏座敷で、座敷奥から「ご免くださいまし」という新助の声がすると、魚惣 はギョッとして「誰だ誰だ、そんな無気味な声を出して、吃驚させやあがる」と言います。そこに不吉なものがあります。無気味な声のなかに、新助の、卑屈なほど遜(へりくだ)って本心を容易に他人に明かさない陰湿な性格を察することが出来ます。残念ながら魚惣の悪い予感が的中して、新助は後に惨劇を引き起こすことになります。だからこれは新助のキャラクターを決定付ける大事の台詞です。傍目には新助の実直さと見えるものは実は彼の非常な卑屈さであり、傍目には新助の真面目さと見えるものは実は彼の非常な偏執さなのです。(これが新助の台詞の二拍子の様式が表現するものです。)魚惣は薄々感づいてはいるのですが、そこまで見通せませんでした。だから最後に「ああ、えれえ者を引き止めた」とぼやく羽目になります。魚惣はその人の良さから、新助の卑屈さを実直さだと受け取ったのでしょう。

歌舞伎では、どういうわけだか新助が実直で純朴な商人、融通は利かないが人が良い田舎者ということにされています。どの新助役者も、最初の一声では暗い声を出しますが、舞台に姿を見せてしまうと如何にも人が良さそうな性格を表現しようとして、声の色を若干明るめにします。今回(平成29年 6月歌舞伎座)の松緑もそうです。これは歌舞伎での主役は客に気が悪い印象を与えちゃいけないという事情があるのは分かるけれども、作中の人物ということを考えれば、やはりこれでは作品とズレが生じると言わざるを得ません。初演の二代目左団次は、これをどう演じたでしょうかねえ。恐らく線を太く無骨に低調子で通しただろうと吉之助は想像します。このことは左団次劇の様式からも類推できることです。

もうひとつ、二幕目・美代吉家では、母・およしが「さっき隣のおかみさんの話に、夕べ家の前を行きつ戻りつしている人があるから、怪しい素振りの奴だと思って、わざと傍に寄ってみると、あの新助さんで、急いで逃げるように行ってしまったとさ」と言っています。ここにも新助の陰気な性格がよく出ています。察するに、新助は、美代吉に強い執着があるにはありますが、この時点ではまだストーカー行為と認定するまでに至りません。「美代吉さんが田舎者のこの俺に惚れるとはとても思えない」という自制がまだ働いています。それが「百両の金さえあれば、この女をものにできる」という風に思い込んだ途端に、新助のなかで自制の箍(たが)が プツッと切れるのです。そのきっかけが「姐さん、そりや本当のことでございますか」という台詞であることは、別稿「ファムファタール神話の崩壊」で論じましたから、そちらをご参照ください。

二幕目・美代吉家・幕切れで、美代吉に見事に振られた新助が、魚惣 に連れられて花道から揚幕へ入るところの、魚惣の台詞にも注目したいと思います。魚惣は「新助さん、そんな様子を人が見たら笑うよ、さあ、行こうよ」と新助に声を掛けます。先ほど吉之助は「新助の心のなかで江戸と美代吉が重なっている」と書きました。そうであるならば、この場面で新助が大声で泣きながら往来を歩いて、人だかりが出来そうな状況を作ることはしないだろうと思います。他人様、特に江戸っ子に笑われることは、新助にとって最も許せないことだからです。しかし、何気なく言った魚惣の台詞が、新助の心を鋭く抉(えぐ)ったと思います。恐らく新助は、自分のなかにある江戸への強い憎しみに気付かされたに違いありません。「江戸っ子が何だ、みんな俺のことを笑ってるんだろう」という気持ちが、そこから出て来るのです。これが次の場につながります。脚本を見ると、池田大伍はこの場面のト書きを「新助しほしほとして先に立ち、魚惣ついて向こうへ入る」とだけ書いています。とても深く考えて芝居が書かれていると思います。だから、魚惣にこう云われた新助は、しほしほとしつつも、目に強い憎しみを秘め(それが美代吉に対するものか、江戸に対するものか、そこの配合は役者によっていろいろあると思います)、グッと押し黙って揚幕へ入りたいものです。これは左団次劇の様式にも合うことだと思います。

(H29・6・27)
 




  
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