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歌舞伎は危機的状況なのか〜伝承芸能としての歌舞伎


1)玉三郎の問題提起

少し前(平成30年6月28日)のことですが、玉三郎が本年10月末に、熊本・八千代座で催される「映像x舞踊公演」の今後について都内で記者会見を行い、そのなかで八千代座公演を2020年で30周年になるのを区切りに打ちきりにするつもりだと明らかにして、「八千代座に限らず、私ができるのもあと数年でしょう。みっともない形では出ていきたくない。脇(役)は別ですが、その覚悟で挑みます」とまで発言したそうです。これは随分思い切った発言で、ちょっとびっくりするところがあるのだけれど、さらに玉三郎は歌舞伎の危機的状況ということにまで言及したそうです。その要旨は次のようなものです。

『若い人が勉強会など稽古する時に、教えてもらう先輩が減ってしまった。若い方が大局の意味を理解せず、本意が伝わらないものになるのが心配である。定高、阿古屋、政岡など、私(玉三郎)以外に伝えられる者がいなくなっている。映像は発達したけれど、どう伝えるかが大変な問題。今、私が話しておかないと分からなくなってしまう。そういう意味では層が薄くなった。気楽にやるものではないし、危機的状況かも知れない。』

吉之助が歌舞伎を見始めた昭和50年代(1975年頃)には、六代目歌右衛門や十七代目勘三郎はまだまだ元気でしたけれども、映画やテレビやその他の娯楽に押されて歌舞伎座の客席がガラガラの時代でした。竹本や三階の不足はその頃から云われていましたし、吉之助も「二十一世紀に入る頃には多分歌舞伎は興行的に駄目になってるだろう、だから今のうちに歌右衛門や勘三郎の芸を目に焼き付けておこう」と思って必死に舞台を見たものでした。あれから四十数年が経って、歌舞伎は依然として興行的に成り立っています。あの頃の若手花形が今の幹部役者たちです。現在の状況は彼らが頑張って来た成果であるとも言えます。(あるいは歌右衛門他昭和の大幹部たちが頑張って芸を次世代に渡した結果であるとも云えるかも知れません。)

あの頃のことを思えば吉之助は現在の歌舞伎座の盛況ぶりは信じられない気がしますが、たまに(しばしばと云うほど多くはないけれども)特に義太夫狂言や黙阿弥物において若手役者の舞台を見ていて首筋に寒い風が吹くような気分になることはあります。危機的状況がひたひたと確実に近づいていたことにふと気付いた瞬間です。実際には歌舞伎の危機的状況は潜在的にずっと続いていたわけで、我々は客席の埋まり具合だけ見てそのことを考えないでいた(問題から目を背けていた)ということなのです。だから玉三郎が歌舞伎の危機的状況という発言に「ああ確かにそうだねえ」と肯かされると同時に、遂に現場からそういう発言が出始めたかと云う思いがします。

ただ最近数年の玉三郎の活動を見ていると、(恐らくご本人の体力的な問題が関係しているのだろうが)徐々に歌舞伎から距離を置き始めたように感じることが多々あります。それと今回の玉三郎の「歌舞伎の危機」発言との関連はどうなのかと思うところがあるので、もう少し深く玉三郎の真意を聞いてみたいと思うのです。最近NHKとタイアップして「伝心〜玉三郎かぶき女形考」という番組を制作して、玉三郎が伝えたい役の「技」と「心」を映像を交えて伝える試みもしています(現時点では「娘道成寺」と「阿古屋」の2回が放送済み)が、これが玉三郎の「次世代への伝言」と云う意図もあるのでしょう。

もうひとつ気になるのは、この玉三郎発言を聞いて若手役者たちはどういうことを感じているのだろうか。その辺を知りたいのですが、あれから約2ヶ月が経ちましたが、それらしい反応が何か報道されているのでしょうかね。

まあそれらのことはちょっと置くとして、玉三郎が歌舞伎の危機的状況で提起する問題は実はふたつあって、ひとつは「伝統を伝える側(先輩)」の問題、もうひとつは「伝統を受け取る側(後輩)」の問題ということになるかと思います。(この稿つづく)

(H30・9・8)


2)伝統と伝える側の問題

歌舞伎の危機的状況について、伝統を伝える側(先輩)の問題としてこれを考えてみることにします。定高、阿古屋、政岡など、玉三郎以外に伝えられる者がいなくなっていると云うのはその通りだと思いますが、例えば政岡についてみれば、玉三郎に続いて歌舞伎の立女形を支えるべき世代(と云っても玉三郎とは5・6歳しか歳が違わないのですが)、本興行では、時蔵は本年4月歌舞伎座で政岡を演じたのが初役で、雀右衛門はまだ政岡を演じたことがないのです。伝承のことを考えると、これは大変にまずい事態です。(共に沖の井、松島では何度も「先代萩」に出ているから、政岡の手順は承知しているとは思います。)こういうのは興行の都合や巡り合わせがあるから仕方ないところはありますが、本来は彼らにもっと早く政岡を演じる機会を与えてやりたかった気がしますねえ。

玉三郎は実力があったと云うこともありますが、結構早い時期(平成7年10月歌舞伎座、45歳)に政岡を演じているので、この点では玉三郎は恵まれていたわけです。六代目歌右衛門も15歳から21歳くらいまで(昭和の初めごろ)新宿の新歌舞伎座での青年歌舞伎で、その後の当たり役のほとんどの役を初役で経験しています。これは父である五代目歌右衛門(当時俳優協会会長)の指導によるものでしたが、これが後に歌右衛門が天下を取ることにつながっています。やはり見るよりも聞くよりも、実際に演じてみるのが一番強いのです。

ですから伝承芸能ということを考えると、ある程度のサイクルを以てこの演目は繰り返し上演しておきたいとか、そろそろこの大役は誰其れに経験させておきたいとか、若手歌舞伎の機会を増やすとか(正月の浅草歌舞伎はあるけれどもそれ以外にも)、意識的にそう云う伝承プログラムを頭の片隅に置きながら演目建てをしていくことが必要になってくると思いますねえ。伝承では演じさせることが大事なのです。まあ実際問題としてそれをやろうとしても興行上難しいことが多いであろうことは容易に想像が出来ますが、現在の歌舞伎の危機的状況は、ここ40年間にこうした努力をして来なかったツケが回って来たとも云えるわけです。(この稿つづく)

(H30・9・11)


3)伝統を受け取る側の問題

実は吉之助は、伝統という観点からは先輩のことよりも、伝統を受け取る側(後輩)の問題の方が重いと考えています。

先日、市川団十郎家の芸についてお話しをする機会があったのですが、調べていて改めて感じたことは、団十郎家が神格化されていくのはもちろん代々の団十郎の芸・業績が優れていたということもありますが、後世の民衆(歌舞伎関係者・観客も含む)が市川家の存在を特別なものと思い、その記憶を持ち上げたところから起きたと云うことです。例えば「劇聖」と呼ばれる九代目団十郎の件ですが、九代目団十郎は、「勧進帳」でも「熊谷陣屋」でも、やる度にどこかを変えて演じたと云われています。現在我々が九代目の型だと言って有難がっているものは、九代目が演じた弁慶や熊谷直実の、最後の舞台で演じた演技の手順・段取りのことを指しています。ここで疑って掛れば、もしかしたら最後の型よりも・もっと良いものが過去の九代目の型のなかにあったかも知れないと考えることもできます。文献に残ってないから・我々が知らないだけかも知れません。あるいはもう何年か九代目が長生きしてさらにもう一回弁慶を演じてたならば、そっちの型が残って、今我々が記憶している型は消えていたと考えることも出来ます。実はそういうことを考えることは「型」の意味を考える場合には意味がないのです。型の懐疑論としてならば意味はありますがね。

九代目団十郎は「俺は後世の規範となる型を残す」とか、「弁慶をやるならば、この型を守ってやってくれ」とか言ったことは決してなかったと云うことです。九代目がやった通りにやらなければ弁慶じゃないと云う風にしたのは、九代目に続いた後輩たちでした。九代目を劇聖として神格化したのは、九代目本人ではない。それをしたのは、七代目幸四郎や十五代目羽左衛門・六代目菊五郎・初代吉右衛門と云った後輩たちでした。

つまり伝統という観点からは、次のことが言えます。役の解釈・演技の手順は最初から「型」として生まれ、守るべき規範として次代に手渡されると云うことは決してないのです。これを受け継ぐ者(後輩)がこれを守るべき大切なものだと認めて、同じように勤めようと心掛けるから、それが次第に「型」になって定着して行くのです。このサイクルが世代を越えて延々を続いていくところから、歌舞伎の伝統が生まれるのです。皮肉なことを云えば、「これが九代目の型でございます・九代目の通りに勤めております」と九代目を持ち上げていれば、何だか九代目と同じになったような気分になる、観客もそう云うのを有難がるということでもある。団十郎家の神格化のプロセスは、それです。

ですから歌舞伎の危機的状況について考える時に一番大事なことは、伝統を受け取る側(後輩)の意識ということです。玉三郎の発言に対して、若手役者たちはどういうことを感じているのか知りたいなあと吉之助が思うのは、そこのところです。(この稿つづく)

(H30・9・14)


4)段取りを「型」たらしめるもの

このように演技の段取りを「型」たらしめるものは、伝統を受け取る後輩たちの気持ちなのです。このことは別稿「型の概念の転換」で触れました。江戸の世においては、役者がどんな大胆な冒険をしたとしてもそれは歌舞伎でありました。それが型として残るか残らないかは、極端に言えば観客に受けたか受けなかったかで決まりました。「そんなことをするのは歌舞伎じゃない」という議論はあり得ませんでした。面白い・面白くないという議論はあったでしょうが。何をしたってそれは歌舞伎であったのです。一子相伝のような考え方ももちろんありましたが、昔は父親がこう演ったからと言って何が何でも息子がその通りを演らねばならぬというものでもなかったのです。「お父さんそっくり」なんて掛け声が掛かるからその通り演っていますという程度のものであったかも知れません。良いものなら真似る、自分の仁に合わなければ別のことを工夫して演ってみるというのが型でした。

ところが明治36年九代目団十郎の死以降に「型」の概念が決定的に変わるのです。「先達から教えられた通りに神妙に勤めております」というものが「型」となるのです。歌舞伎の参考書など読むと、○○郎はこうやった、△△助はああやったということを列記しています。昔の歌舞伎には色々な型があった、しかし 近年は型がひとつかふたつに固定化してしまって残念だなんて書いてあります。これは当たり前のことで、昔は極端に云えば役者の数だけ型があったのです。そういう古い時代の「型」の概念と、九代目団十郎の死以降の新しい「型」の概念をごちゃまぜにして考えていると、九代目団十郎の死以降・つまり大正から昭和の流れのなかで、急速に型が整理されていくことの意味が分からなくなってしまいます。

「先達から教えられた通りに神妙に勤めております」というものが「型」となるということは、精神的故郷であった江戸から歌舞伎から切り離されて、歌舞伎が「伝承芸能」という性格を露わにしてきた(そうしないと変わりゆく時代から歌舞伎を守ることが出来なかった)ということを示すものです。同様なことが能狂言にも文楽にも云えます。これは同じ時期(大正から昭和)に柳田国男・折口信夫らによって「民俗学」が成立していく過程 、或いは柳宗悦の民藝運動などとまったくパラレルな現象だと考えるべきです。ですから平成の現代においては、歌舞伎役者は伝承芸能における「型」の意味をとことん研ぎ澄ませなければなりません。○○郎はこうやった、△△助はああやった、それならばこんな型があったっていいじゃんという次元ではないところで、伝承芸能としての「型」の議論をせねばなりません。

九代目団十郎の頃と平成の現代が異なるのは、九代目団十郎は確かに「俺は後世の規範となる型を残す」とか「弁慶をやるならば、この型を守ってやってくれ」とか言わなかったけれども、昭和・平成の役者たちは、先輩から「型」として固定された演技の段取りを教わり、「この型でやらなければ弁慶じゃない」という考え方を有無を云わせず叩きこまれるということです。型を型たらしめるのは伝統を受け取る後輩たちの気持ち次第だと云っても、現代の歌舞伎役者の立場からみれば、これは確かに精神的にきついでしょう。伝統を受け取る側の自由度が極端に狭いからです。教えられた演技の段取りをただなぞらされている気分になってしまう、これは無理もないことです。

そう云う気分に陥らないためには、受け取る側は身体のなかで、「型」をそれが生成した時の状態にまで還元せねばなりません。そして型の創造のプロセスを追体験せねばなりません。こうすれば「型」はお仕着せではなく、彼の血肉となります。そうなれば伝統ほど強いものはない。ここで「型とは形じゃないよ、心だよ」というお決まりの文句になるわけですが、これが結局正しいのです。しかし、これが一番難しいことでもあるのですがね。(この稿つづく)

(H30・9・19)


5)伝承芸能としての歌舞伎

ここまでの文章の流れからすると「今の若手は伝統を受け取る態度を正すべき」みたいな感じで本稿を締めるように見えるかも知れませんが、吉之助には別にそう云う気持ちはないです。年寄りになるとどうしても「昔は良かった、昔の良さがどんどん失われて行く、現代は駄目だ」みたいな嘆きを言いたくなる気分に陥りがちです。しかし、最近フトしたことから吉之助は、若い人に「今の世の中は駄目だ、今の若者は可哀想だ」などと決して言ってはいけないと思うようになりました。若者の将来に夢をもたせてやらねばなりません。若者だって一生懸命生きているのだし、年寄りよりこれから生きていかなきゃならぬ時間はずっと長いわけですから、将来に希望が持てるように出来ればと思います。歌舞伎だって同じことです。

ただ一言だけ申し上げたいのは、現代に歌舞伎が置かれている状況を理念的に研ぎ澄ませることは是非していただきたいということです。多くの方(役者だけではなく劇評家・研究者もですが)が、出雲のお国のかぶき踊り以来、歌舞伎は伝統の受け渡しを続けつつ、ここまで一様な発展を遂げて来たと、伝統の流れは変わらずずっと続いているイメージを持っているように思います。歴史を見れば歌舞伎はいくつかの存亡の危機を経て・それを乗り越えて現在の歌舞伎があるのです。歌舞伎史にはいくつかの節目があり、そこに明らかな断層があるのです。江戸時代のことはちょっと置きますが、とりあえず明治36年(1903)の九代目団十郎・五代目菊五郎の死によってどの後の歌舞伎がどう変化したか(つまりほぼ大正から戦前昭和の時代)、それと昭和20年8月の敗戦により日本人の精神 状況がどう変化したか・その後の戦後昭和の歌舞伎がどう変わったかということについて、歌舞伎の方々は歴史認識を持つべきです。こういう点がいい加減に放置されたままであるから、歌舞伎の現状について正しい認識がされません。前述した通り、歌舞伎が自らを伝承芸能であると認識したのは、そんな昔のことではないのです。それは大正か昭和の初め頃のことです。この認識がないと伝統論議が始まりません。昨今は歌舞伎の新作やら異分野芸能とのコラボやら色んな試みがされていますが、方向性はバラバラです。この認識があるならば、方向性はある程度定まって来ると思いますがねえ。いつまでも「歌舞伎では何でもありです」なんて言っているようでは、庇を貸しているつもりがいつか母屋を取られます。日本の歴史が教えていることは、こういう時には縮み戦略が宜しいようです。(菅原道真の遣唐使廃止、江戸期の鎖国など)自分の足元を踏み固めることから始めてもらいたいですね。

『日本人っていうのは今までずっと、やらないよかやった方がいいという発想があるのね。つまり自分をクリエイティヴにするために何かを拒絶するという発想は非常に少ないよ。そう思わない?だからああいう風なことはやらない方がいいということの論理がしっかりしてないと思うんだな。』(谷川俊太郎:武満徹との対談:「音楽現代」1975年4月)

吉之助は、歌舞伎の若手が伝統ということを真剣に考えていないとは思っていません。型を守ろう、教えられたことをその通り勤めようと云う気持ちは、歌舞伎の世界に育った者ならばみんな強く持っているに違いない。当然、これからも歌舞伎を守っていこうという気概はあると思います。だけれども「この時代に在って歌舞伎の伝統の何を守る、どういうスタンスで守る」ということは、明確にしておかねばなりません。そうなれば先輩からの教え・アドバイスも、その受け取り方が変わって来るのではないでしょうか。

いつもの癖で話が観念的になりすぎたかも知れません。こういう話題は結論が出るはずもないので、ここらで終わることにいたしましょうかね。

(H30・9・24)


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