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太鼓における幽玄とは〜五代目玉三郎と鼓童による新作歌舞伎舞踊「幽玄」

平成30年9月歌舞伎座:新作歌舞伎舞踊「幽玄」(羽衣・石橋・道成寺)

五代目坂東玉三郎(天女、白拍子花子)


1)幽玄について

「幽玄」というのは、なかなか言葉で表現しにくい概念です。演劇的にはもちろん能の世阿弥の概念として有名ですが、もっとはるか昔から日本人の美意識として在ったものだと考えられます。武智鉄二は、その起源を農耕民族としての日本人の精神的姿勢から来るものだとします。それに拠れば水田稲作に要する二百日余りのうち、種を播くとか・田植え・刈り取りとか云う肉体労働は実は十日そこそこの短期間で済む、あとの時間は稲の生育を見守り、雑草が生えればそれを除去し、水がなくなればただちに水を補うなどの作業で、それはいわば観察のための忍耐であり、それが精神の緊張の持続を必要とするとするのです。だから腰を入れた基本姿勢、横隔膜を下げて息を詰める、精神緊張のための技術は、農耕民族としての日本人の原初生産性から来るもので、それが日本人の幽玄性への高い評価につながって行くと云うわけです。(武智鉄二:「幽玄」〜その二面性・昭和52年)

和歌における幽玄思想を体現するものとしてよく挙げられるのは、例えば「新古今和歌集」での藤原定家の

見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮

だそうです。この歌では、まず花(桜)や紅葉の華やかな色のイメージを提出しておいて、これを「なかりけり」で否定してかき消してしまう、そして「浦の苫屋の・・」で水墨画みたいなモノクロームな印象に変えてしまう、しかし最初の色のイメージはまだ脳裏のどこかに残っていますから、それが或る余韻の感情を引き起こすということだと思います。

定家は鎌倉初期の歌人ですが、これが室町初期の世阿弥につながっていくのは、演劇運動としての幽玄思想の発現が室町期へずれこんだだけのことであって、世阿弥の能の民族的性格は疑いのないことだと武智は云っていますが、さらに面白いことを武智は指摘しています。侘びとか渋いとか云うのは幽玄的な考え方であるが、そういう美意識が生まれたのは、派手なもの、かぶいて(傾いて)いるものに対する民族的な抵抗の現われだと云うのです。(この稿つづく)

(H30・9・28)


2)能における幽玄とは

現在では「幽玄」は能の根本理念だと考えられていますが、ホントにそうなのか?世阿弥の時代は東山文化の時代で、外来文化(当時の外国とは中国のことです)が尊重された時代でした。外来文化の襲来のなかで、その影響を拒否し、日本の農耕文化の美意識を主張したのが、世阿弥であったわけです。その後、江戸期の能は武家の式楽となってきます。武智鉄二は「能のなかに幽玄の理念がそれほど強固に存在したかどうか、実は疑問だ」として、こんな例を挙げています。

『明治時代、梅若万三郎や梅若六郎(後の梅若実)という若手の人気役者が出たが、その時分の観客は、いまの歌舞伎と同じように型所へ来ると、「ヨーヨー」、「待ってました」という掛け声をかけたという。これは幽玄の理念を強制する現代の能楽が、終曲の拍手さえ禁止する態度とまるで違って いる。(中略)しかし、「天狗もの」や「鬼もの」まで拍手を厳禁するというのはまったくどうかと思う。万三郎と六郎が「蝉丸」を演じて「げに逆髪の影映る」という「一の松」での型所で、「ヨーヨー」と声をかけ、しばし拍手が鳴りやまなかったという明治期の能のあり方のほうが、健全だったように思う。とにかく、幽玄の理念が世阿弥によって能に打ち建てられたが、能に太閤能やキリシタン能という現実的な政治要素が入って来て、ひと晩に十何番もの能が演じられるようになると、幽玄の理念は置き忘れられていったとしか考えられない。』(武智鉄二:「幽玄」〜その二面性・昭和52年)

このことと併せて思い至るのは、世阿弥の有名な「風姿花伝」も世に知られるようになったのは明治42年(1909)に吉田東伍が学会に発表してからのことで、それまでは奈良金春宗家の秘伝書として伝わっていたものだったということです。世間ではその存在すら知られていなかったのです。つまり「幽玄」は能の根本理念だという考え方が世間に浸透したのは、そんなに昔のことではなかったのです。(別稿「歌舞伎の危機的状況」で歌舞伎が伝承芸能を自認したのは大正期以後のことだと書きましたが、このことは能においても同様です。)

中世末期から安土桃山期に至って、能のなかからも幽玄という考え方はいつしか失われ、江戸期においては歌舞伎にも音楽にも幽玄の理念はない。なぜそうなったかと云うと、それは三味線楽器の出現が根本的に幽玄の理念を破壊したと武智は推測しています。では江戸期には幽玄の美意識が完全になくなったのかと云うとそうではなく、それは三味線によって崩壊したところから幽玄的なものを取り返そうという動きになって現れる。中世期の幽玄は、江戸期には「侘び」とか「渋い」という考え方に取って代わって受け継がれる。そういう美意識が生まれたのは、派手なもの、かぶ(傾)いているものに対する民族的な抵抗みたいなものだと武智は云います。

ここまでの流れを整理すると、能のなかにも日本伝来の農耕文化の美意識を主張する幽玄の概念と、外来文化の派手なもの、かぶ(傾)いているものとの対立があった と云うことですが、江戸期の歌舞伎ではこれが、その名も示す通り、幽玄から離れる方向へ一段と傾斜するのです。これと並行した形で演劇の写実化が進行します。しかし、幽玄の美意識は「侘び」とか「渋い」という呼び方でどこかにしつこく残っているということです。

今回(平成30年9月歌舞伎座における、玉三郎による新作歌舞伎舞踊「幽玄」は、能に取材し、さらに歌舞伎に関連付ける形で構成されています。だから能にとって幽玄とは?歌舞伎にとって幽玄とは?という問いが、とても重要になります。今回の新作歌舞伎舞踊の骨格として「幽玄」のキーワードがどのように機能するかを考える為に、武智のこの考察が役に立ちます。(この稿つづく)

(H30・10・2)


3)演劇的な幽玄とは

幽玄を定義するのは難しいですが、とりあえずここで吉之助は、終わった後にしみじみ感じる余韻・残渣のようなものと定義しておきたいと思います。例えば太鼓をドーンと一度叩くと、革の振動が唸りになって残るので、そこに響きの余韻がしばし残ります。或いは劇場の反響によって響きの余韻が残ります。恐らくそれはコンマ何秒という程度の、瞬間と云っても良いほどの短い時間です。幽玄とは、演劇的には「間」が作り出す美学だと云えます。現在ある静寂のなかに、かつて音が存在したことの名残りが感じられるでしょう。そこでイメージされるものは人それぞれですが、かつて在った音の存在を強く意識する場合もあるし、逆に現在の静寂の方を強く意識する場合もあると思います。それによって醸し出される感情は、時と場合によって様々です。そういう余韻をしみじみ味わう態度が、古の「もののあはれ」に通じます。或いは「般若心経」の「空即是色 、空即是色」の境地にも通じます。これが演劇的な幽玄です。

そう考えると響きの余韻を十分に味わうためには、テンポはなるべく遅い方(間合いが長いということ)が好ましいということが云えるかも知れません。太鼓を一度ドーンと叩くと余韻が感じられますが、太鼓をドンドンドン・・・と続けざまに叩くと余韻がけし飛んでしまうからです。能のテンポが遅いのは、余韻の表出に重きを置くせいでしょう。世阿弥の時代の能は現在より随分テンポが早かったと云われますけれど、テンポが次第に遅くなっていくことと能の様式化は、恐らくパラレルな現象なのです。テンポが遅い方が、演技を幽玄なイメージに仕立てやすいからです。

幽玄にするためにテンポを遅くすることになると、これは本末転倒なのですが、これは演劇でも音楽でも、しばしば陥りやすい落とし穴です。と云うのは、名人と云うのは大抵歳を取っているもので、歳を取ると体力の関係で誰でもテンポは次第に遅くなるものです。だから名人の演技はテンポが遅いことが多い。これを表層的に模倣すると、しだいにテンポが遅くなって行く、そういう傾向があるものです。したがって演劇でも音楽でも長い歴史を見て行くと、次第にテンポが微妙に遅くなったり・反動(揺り返し)のようにまたテンポが早くなったり、そういうことを大体四十年(二世代)サイクルくらいで繰り返すものです。

一方、先ほど「太鼓をドンドンドン・・・と続けざまに叩くと余韻がけし飛んでしまう」と書きましたけれど、これも太鼓を打ち終えて束の間の静寂を作り出すならば、そこに響きの余韻が現出するわけで、これは手法次第であろうと思います。能における幽玄・歌舞伎 における幽玄があるのならば、太鼓における幽玄と云うものだって在って良いはずです。

ここで太鼓を幽玄の考察の引き合いに出したのは、もちろん今回(平成30年9月歌舞伎座)の、玉三郎演出の新作歌舞伎舞踊「幽玄」の主役が太鼓集団「鼓童」であるからです。と云うのは鼓童の出し物に幽玄をテーマにすると聞いて、「玉三郎もなかなか皮肉な課題を与えたものだなあ」というのが、吉之助の最初の感想だったからです。鼓童にとって、太鼓を打ち鳴らして響きで静寂を埋め尽くすのが自分たちの仕事だという感覚があると思います。「祭り」とか「再生」なんて主題だと、如何にも自分たちの領分だという気分になると思います。しかし、そこに幽玄ということを持ち出されると、彼らはちょっと戸惑うのではないか。太鼓を打ち鳴らしつつ静寂を生み出さないと「幽玄」は出て来ない。そうすると「太鼓を叩いて太鼓を叩かず」みたいな禅問答になってしまう。そのような皮肉な課題を玉三郎は鼓童に与えたと思うのですが、これは吉之助のうがち過ぎでありましょうかね。まあそのような舞台に仕上がっていたかというと、吉之助にはどうもそのようには見えなかったということも確かなのですけれども、太鼓で幽玄を表現すると云うのは、これはなかなか難しい課題ではあります。(この稿つづく)

(H30・10・5)


4)日本的なるものとは

「幽玄」と共に、もうひとつ考えなければならないことは、「日本的なるもの」とは何かということです。今回(平成30年9月歌舞伎座)の新作歌舞伎舞踊「幽玄」は、昨年(平成29年5月)にオーチャード・ホ―ルで初演された「幽玄」を基にしたもので(残念ながら吉之助はこの舞台を見ていません)、歌舞伎座で上演するに当たり若手歌舞伎役者を動員して歌舞伎仕様に手直ししたものであるそうです。玉三郎に拠れば、鼓童に「幽玄」という演目が生まれたのは、次の新作に何か良いか?という話になった時、メンバーが「日本のものがやりたい」と言ったのが発端であったそうです。この話はちょっと興味深い。和太鼓というのは日本古来からの楽器ですから、鼓童がやっているのは当然日本の音楽だからです。

『僕にとって見たら、和太鼓をやっているのに、日本のものがやりたいというのは、一体どの方向性を言っているの?ということが、まず第一(の疑問)だった。ということは様式的な世界なのかなあと考えて、じゃあこっち(「幽玄」)。みんなも「えっ?僕たち違うことを言ってるのに・・」と思っているかも知れないけれども、もういいの、そこは。(もう決めちゃったのだから。)』(坂東玉三郎:ドキュメンタリー「坂東玉三郎・鼓童・魂の音」・平成29年7月1日放送、BSジャパン制作より)

太鼓集団「鼓童」の活動を十分承知しているわけではありませんが、和太鼓という日本の伝統的な楽器のなかに現代に通用する表現の無限の可能性を見出して行こうというコンセプトの集団であると吉之助は理解しています。鼓童の音楽は、日本の伝統的な音楽を踏まえつつ、或る意味においてインターナショナルな感覚を取り入れていると云うことだと思います。日本のなかの現代を捉えるとすればそうならざるを得ないのです。(つまり日本の伝承芸能はすべて、江戸と明治・昭和の間で大きな亀裂を生じているからです。)鼓童の演奏を聴くと、そのよく訓練された卓越した技能には感嘆させられます。

しかし、こういう風に書くと鼓童の方にはどう思われるか分かりませんが、和太鼓を使ったパーカッション・パフォーマンスだなあという印象がします。パーカッションと云っているのは、西洋的な感覚での打楽器ということ。但し書きを付けますが、吉之助は鼓童を貶めているつもりは全然ありません。リズムがビシッと揃って、縦の線が正確に決まっています。こういうことは多人数の演奏の時には必須です。アンサンブルが実に見事に決まっています。これならば鼓童が海外で評価が高いのは、当然のことだと思います。こういう演奏は、或る意味において西洋音楽脳で割り切りやすい。外国人にも理解しやすい音楽なのです。逆に言うならば、西洋音楽脳で割り切れない要素(そこに邦楽の特異な要素があると思うですが)が、鼓童の演奏はちょっと少ないように吉之助には思われるのです。吉之助が西洋音楽脳であることは、サイトのクラシック音楽コーナーをご覧になればお分かりのことだと思います。吉之助の耳には鼓童の演奏は定間に入り過ぎに聴こえます。変な言い方だが、西洋音楽的に上手過ぎるのです。まさにそれが鼓童がインターナショナルな評価を得ている所以です。

鼓童の団員たちも現代のグローバル化の流れのなかに生きているわけですから、その影響を受けざるを得ません。街を歩けば、聞こえて来るのは西洋音楽(J-ポップだって西洋音楽ですから)ばかりで、邦楽なんてほとんど聞こえてこないご時世なのです。日本の伝統に発しながらも、自分たちの音楽が次第に日本から離れてしまっているみたいな不安を、
彼ら自身も何となく感じているのではないか。だから彼らから「日本のものがやりたい」という声が出て来るのです。自分のなかにある原点(日本)をもう一度見詰め直したいという気持ちでしょうか。(この稿つづく)

(H30・10・9)


5)幽玄のリズムとは

四代目鶴沢清六が、或る講座で義太夫の魅力を教えるという企画に招かれて、清六が三味線を弾いて、集まった約百人の聴講生に義太夫を唱和してもらったことがあったそうです。その時の経験を清六は武智鉄二に「武智さん、義太夫というもんは、百人に教えるということはできまへん。やってられまへんで」と語ったそうです。義太夫というものは、師匠と弟子が一対一で稽古するのが原則です。合唱みたいに百人が義太夫を一斉に語ろうとすると、大勢ではまず声が混濁してよく聞こえません。これを綺麗に聞こえるように整えようとすると、間が均(なら)されてリズムが重くなってしまって、結果として義太夫が本来の間合いにならないのです。(この逸話は、吉之助編「武智鉄二 歌舞伎素人講釈」の「間とは何か」のなかで紹介されています。)

「邦楽にはアンサンブルがない」と武智は言います。邦楽では大人数で合奏するということがあまりなくて、基本的には少人数でやるものです。奏者の阿吽の呼吸で互いに息を合わせる行き方で十分間合いが取れたのです。だから改まった概念としてのアンサンブルが邦楽にはなかったのです。しかし、多人数で間合いを合わせるとなれば、同じようには出来ません。相互の十分な打ち合わせが必要になります。少人数と多人数では、拍(リズム)の取り方が全然異なるのです。多人数の場合に拍を合わせる時に手っ取り早いのは、拍の打ちを定間に取って縦の線を揃えることです。そうすると西洋音楽的な作りになって、義太夫が義太夫のように聴こえなくなって来ます。清六が指摘していることは、そう云うことなのです。

鼓童の太鼓は多人数でリズムがビシッと揃って、縦の線が正確に決まっています。アンサンブルがばっちり決まっています。もちろんこれは厳しい訓練の賜物で、素晴らしいことです。しかし、邦楽が持つ間合いの揺らぎ、拍と拍の間にある空虚さとでも云うか、拍を厳密に取らないことから生まれる余白・余裕というものが、ここではあまり感じられません。鼓童の太鼓では、むしろ無音の空間をひたすら音のブロックで埋め尽くしていこうとする緊張感、或いは切迫感とでも云いましょうか。それはそれで心地良い感覚ですけれども、吉之助の耳には、これがいささか西洋音楽的に聴こえるのです。吉之助の西洋音楽脳では、定間で割り切れないリズムの曖昧さ・揺らぎを、むしろ邦楽的だと感じます。そういうものがどこか幽玄の世界に通じるのだろうと思うのですが。(アインザッツをぴったり合わせたくない主義のフルトヴェングラーが世界で最も人気があるのが日本であると云うのも同じことです。)

恐らく太鼓を多人数で一斉に打つところに、或るジレンマが潜んでいるのです。このことは今回(平成30年9月歌舞伎座)の「幽玄」での鼓童の団員たちによる謡いを聞けば、露わに分かります。あれは謡いではなく、ほとんど「合唱」に聞こえます。似非的な謡曲世界を現出するに留まっています。しかし、それは鼓童の団員が能に慣れていない・謡いが下手だと云うことではないのです。もともと耳の感覚の鋭い方々なのですから、決してそういうことではない。そもそも謡いを多人数でやろうとする所に落とし穴があるのです。謡いを多人数でやると、例えば「幽玄」メイキングのTVドキュメンタリーで「獅子頭」を「シー・シ・ガ・シ・ラ」とリズムを叩いてみんなで声を揃えて練習する場面があったけれども、こういう練習は前述の清六が百人の聴講生を相手にしたのと同じことになるので、結局、謡いが定間に入ってしまうことになります。その辺を玉三郎さんはどう聞いたかな?だから「幽玄」での謡いは、数人のパートを交錯させて仕立てた方が、正しく謡いの態を成したはずです。

鼓童は太鼓集団なのですから、太鼓を多人数で一斉に打つシーンは迫力ある聞かせ所・見せ所で、当然そこは譲れないところだと思います。それならば少人数やソロパートで打つ場面は、敢えて許せる範囲で定間を崩していく工夫が必要ではないでしょうか。例えば「幽玄」の第三部「道成寺」で三人のソロが交互に演奏を見せる場面は、実に見事な演奏ですが、打つリズムが定間で割り切れて、これはまさに西洋音楽的なパーカッション・パフォーマンスなのです。しかも三人がまったく同じ打ち方を聴かせるのでは、面白くなりません。ここは三人三様、即興性を加えてリズムを崩す・ずらす・いなす、そういう工夫をして欲しいわけです。それで和の感覚に近くなるのではないか。和太鼓を使えばそれだけで和(日本的)だと云うわけには行かないのです。

その意味においては「幽玄」の第二部「石橋」は、それが幽玄であったかということをちょっと置くとすれば、カブキ・ショーとして見応えがあってなかなか面白いものでした。ここでは鼓童の多人数で一斉に打ち出すリズムの迫力が渦巻いて、歌舞伎の若手役者たちの懸命の獅子の毛振りと相まって、定間の音楽が見事な効果を挙げていたのです。(この稿つづく)

(H30・10・11)


6)太鼓における幽玄とは

鼓童に対して厳しいことを書いたかも知れませんが、吉之助は駄目と言っているのではありません。鼓童は太鼓で能を演じるわけではないし、歌舞伎をやるのでもないのだから、本格にやる必要はないし、真似になればニセモノになってしまいます。だから鼓童は鼓童の音楽をやれば良いのです。そのなかで鼓童なりの幽玄を探せば良いのです。

ところで今回(平成30年9月歌舞伎座)の「幽玄」の舞台を見て、ひとつ興味深く感じたことは、鼓童の太鼓が作り出す響きが、モノクロームな印象を吉之助のなかに呼び起こしたことです。能楽は独特の色彩を持っていますし、歌舞伎下座音楽になればさらに派手な色彩になります。これをモノクロームな印象で塗りかえようとする鼓童の太鼓の響きは、墨絵の舞台を見ている感覚に吉之助を誘いました。これは或る意味では舞台上で起きていることと方向性が正反対なのです。色とりどりの衣装で歌舞伎役者が華やかに登場しますが、舞台に見えている視覚的な色彩も役者の動きも、次第に墨絵のように淡く感じられて来ます。これは太鼓の響きの魔術であるかな。ここに鼓童なりの幽玄の取っ掛かりがあるかも知れませんね。

『(能楽師の方が云う幽玄ということではなく)幽玄の解釈は人によりそれぞれ違うので、それが幽玄ですという風に定義できないんですけど、通り過ぎて行った時にああっと残像が残るような、過ぎ去ってから印象が残っていく世界。誰がどう云う風に出て来たとか、どうやって盛り上げたとか、どういう劇的な衝撃があったとか、と云うことが何もない世界。物語もあるんだか無いんだか分からない世界。・・』(坂東玉三郎:ドキュメンタリー「坂東玉三郎・鼓童・魂の音」・平成29年7月1日放送、BSジャパン制作より)

玉三郎が言いたいことは、言い換えれば「無」の世界、心の底から静かに浮かびあがってくる想念(イメージ)ということでしょうか。「幽玄」第三部「道成寺」は、そのような玉三郎の考えがよく表れたものとなりました。ここでの玉三郎は、「娘道成寺」を断片的に踊るようでいてそのようでもなく、何を踊っているのだろうと思っているうちに時間が流れて行きます。「娘道成寺」に拠っているのですから筋の流れは確かにあるのでしょうが、所作自体も意味があるようでいて、ないようなものです。筋の流れから所作の意味を汲み取ろうとしても何も出て来ません。これは悪い意味で云っているのではありません。玉三郎は「娘道成寺」をなぞるつもりは全然ないと思います。しかし、無の心で見ていれば、舞台の暗がりから白拍子花子のイメージがぼんやり浮かびあがって来ます。玉三郎の「娘道成寺」は何度も見ました。玉三郎の花子の華やかなイメージは吉之助の記憶のなかにしっかり残っていますが、眼前の舞台から受ける印象はモノクロームです。花子のイメージが浮かんでは消え、消えては浮かびます。だからここにあるものは、花子のイメージの浮遊です。敢えて云えば、それは「華やかな空虚」でありましょうか。これが幽玄に通じるということかな。恐らく玉三郎がここで考えたことは、一般的な意味で云うところの歌舞伎舞踊とはまったく違っていて、純粋な身体表現として舞踊の所作が何を表現できるかと云うことなのです。本作においてそれを実験したことの意義は確かに在ったと思います。(関連記事として別稿「芝居と踊りと〜日本舞踊を考えるヒント」もご参考にしてください。)

(H30・11・13)



 

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