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吉之助の雑談32(平成29年7月〜12月)


〇もうすぐ平成30年

早いもので、もうすぐ平成29年も暮れとなります。「歌舞伎素人講釈」・17年目になる本年は三冊目の本も出せたし、 念願だった道成寺や吉野を旅行することも出来ました。論考も「吉野葛」・「春琴抄」・「桜の森の満開の下」などは内容的にそれなりのものが書けたので、なかなか悪くない年であったと思います。 しかし、吉之助にとって、今年最大の収穫は、「源氏物語と歌舞伎」というテーマで話をする機会があってその準備の過程で、本居宣長のことを深く知ることが出来たことでした。実は、先月(11月末)の伊勢松阪への旅行は、宣長の足跡を辿るのが主目的でした。歌舞伎を見る方は、「宣長と云うと「古事記伝」でしょ、謹厳な国学の大家で軽佻な歌舞伎とは縁が遠いでしょ」と思っている方が 多いと思いますが、実は吉之助もそうでした。調べてみると、宣長の生涯は年代的にはちょうど近松半二が生きた時代と重なりまして(宣長の方がずっと長生きしましたが)、同じ時代感覚を共有していたと感じるところが多いです。本居宣長については、あまり歌舞伎に関連した話にならないかも知れませんが、これはいずれサイトの記事にしたいと思います。

ところで吉之助は、先日、旧暦カレンダーというものを手に入れました。それを眺めていたら、平成30年(2018)1月1日というのは、旧暦だと霜月(つまり旧暦の11月)15日で、旧暦の元旦(睦月1日)は新暦であると2月16日だと知りました。もちろん吉之助も歌舞伎を学んでいる身ですから、旧暦と新暦(太陽暦・グレゴリオ暦)とのズレは頭では承知しているものの、それにしても随分ずれるものだなあと云うことを改めて思いました。(こちらのサイトご覧ください。)

歴史の本では、単に元禄15年と云う場合、括弧して西暦1702年と併記することが多いと思います。しかし、赤穂浪士の討ち入りは元禄15年12月14日ですが、あれは旧暦のことですから、これを新暦に変換すると1703年1月30日となるわけです。そこでややこしいことが起って来るわけで、歴史上の出来事を年単位で表記した場合と、日付けまで入れて記した場合と、表記が一年ズレるかも知れないわけです。歴史本では、江戸時代までの日付けは旧暦表記にするルールがあるようですが、幕末期の記述では同時期の西洋史との兼ね合いもあって、新旧両方が混在する場合もあるようです。吉之助なども、サイトで西暦を併記することが多いですが、どうも居心地が良くありません 。旧暦で日付けまで入れて書く場合は、西暦を併記しない方が賢明かも知れませんが、西暦がないと今から何年前のことだか見当が付きません。まあそこのところは参考程度にざっくり年単位で西暦を入れているということで、ご理解をいただきたいです。 「松浦の太鼓」などは、討ち入りが年の瀬の出来事だという認識がないと芝居が成り立ちません。

しかし、立春とか冬至などという言葉は旧暦の考え方から来たもので、これらは自然のリズムに沿ったものです。明治期になるまでの日本人が、四季の流れにどういう感覚で対してきたのか、そういうところをちょっと意識してみるのも一興かと思います。まあそう云うわけで、吉之助は、来年・平成30年(2018)は旧暦カレンダーを手元に置き参照しながら暮らしてみようと思っている次第です。

来年(平成30年)は高麗屋三代の襲名興行もあることだし、歌舞伎でも一段と輝かしい舞台を期待したいと思います。来年は武智鉄二没後30年でもあります。

(H29・12・16)


〇伊賀上野・鍵屋の辻訪問記

初夢に見ると縁起が良いとされるものということで、「一富士二鷹三茄子(なすび」ということがよく云われます。これはどういう意味かと云うと、一に富士山、二に愛鷹山(あしたかやま)、三に茄子の値段ということで、これは駿河の国で高いものを三つ並べたものだそうです。もうひとつ、異説として あるのは、日本三大仇討ちのことを指すのだという説です。すなわち富士の裾野での曽我兄弟の仇討ち、次に赤穂義士の討ち入り、これは赤穂浅野家の家紋「丸に違い鷹の羽」のことを指します。三つめ が、伊賀の上野の鍵屋の辻で荒木又右衛門の仇討ちのことですが、これが茄子になるとはどういうことでしょうか。

この説を分かりやすく説明した句としては、「一に富士、二に鷹の羽の打ち違い、三に上野の花ぞ咲かせる」や、「一に富士、二に鷹の羽の打ち違い、三に名をなす伊賀の仇討ち」というのがあります。「名をなす」に茄子が掛け言葉になっています。つまり茄子とは、伊賀上野の仇討ちで又右衛門で本懐を遂げて、名を成した、まことに目出度いということなのですが、こじつけがちょっと苦しいという気もしますがねえ。

まあそういうわけで、歌舞伎研究者としては、伊賀上野の鍵屋の辻に一度は行ってみなければならぬだろうということで、行って来ました、伊賀上野。 上の写真は伊賀上野城の天守閣から眺めた西方向です。上の写真中央辺りの中学校のグラウンドの向こうに見えるこんもりした林の辺りが鍵屋の辻になりますが、その手前にある高台が邪魔して天守閣からは鍵屋の辻が確認できません。しかし、鍵屋の辻 が当時も伊賀上野の城下町の西端の外れたところであったことが分かります。ここから伊賀上野城下からの街道が奈良へ続きます。

上の写真の左が鍵屋の辻で、伊賀上野城下から半キロほど西に行って、坂路を下ったところに鍵屋の辻史跡公園が整備されています。 ここをまっすぐに西へ向かうと奈良路、反対の東へ行くと城下町を経て伊勢路です。上右の写真は、鍵屋の辻の仇討ちの顕彰碑です。ところで嘉永9年(1632)11月7日の鍵屋の辻の決闘は又右衛門の仇討ちということで有名なわけですが、正確に云えばこれは岡山藩士渡辺数馬が仇河合又五郎を討ったものです。又右衛門は数馬の姉婿で郡山藩剣術指南であり、数馬を助太刀したのです。これが歌舞伎では「伊賀越道中双六」とな ったことは、ご存じの通りです。

鍵屋の辻資料館には又右衛門・数馬らの資料が展示されています。また資料館裏庭に河合又五郎首洗いの池があります。なお伊賀上野は俳聖松尾芭蕉の生誕の地でもあります(芭蕉生誕の地が記念館になっています)が、芭蕉の生年は寛永21年(1644)なのでずっと後のことですけれど、もちろん又右衛門の仇討ちの話は幼い時から聞いて育ったことでしょうね。

*写真は平成29年12月1日、吉之助の撮影です。

(H29・12・9)


〇伊勢古市と「伊勢音頭」:その2

歌舞伎で伊勢のご当地狂言と云えば、「伊勢音頭」です。寛政8年(1796)5月4日の夜、宇治浦田の町医者孫福斎(まごふくいつき)は、伊勢古市の遊郭油屋でなじみの遊女お紺と酒を飲んでいましたが、お紺が他の座敷に呼ばれて中座したまま、なかなか戻ってこないことに腹を立てたらしくて、刀を振り回して、即死者2名、負傷者7名の九人斬りの大事件を引き起こしました。斎はいったん油屋から逃れましたが、10日後に自刃しました。この事件は、参詣客を通じてまたたく間に全国に知れ渡り、事件から54日後に大坂角の芝居で近松徳三の脚本により初演されたのが、有名な「伊勢音頭恋寝刃」です。芝居は 設定を医者から伊勢御師(おんし・おし)に置き換えて、急拵えながら伊勢音頭、大々神楽、二見ヶ浦など伊勢の風景や名物を巧みに配置して人気狂言となりました。


この事件で全国に名が知られた油屋は、古市の三大遊廓のひとつでした。事件当時の油屋の規模は、部屋持ちの遊女24名、部屋持ちでない二流どころの遊女24名、禿(かむろ)14名、仲居10名で、女性の総数72名を擁し、敷地は3000坪と云われ、 広い庭園を持つ大きい遊郭であったようです。現在はその場所に近鉄鳥羽線の線路が通っています。土地が切り拓かれてしまった為に、往時の俤がまったく残っていません。参宮街道沿いの、線路と交錯する橋のたもとに油屋跡の石碑がひっそり立っていて、それと知れるのみです。上の写真右は伊勢古市参宮街道資料館に展示されていた明治末頃の撮影と思われる油屋旅館(明治22年に遊廓から旅館へ改業)の古写真です。豪勢な建物ですねえ。
 


古市には芝居小屋が、口の芝居、中の芝居、奥の芝居と三つあったそうです。油屋からさほど遠くない街道沿いに、芝居小屋跡の石碑がありました。ここが口の芝居、長峰座の跡地だった ようです。「伊勢音頭恋寝刃」は当地においては印象が良くないということでなかなか上演されずにいたようですが、事件後33年後の、文政12年(1829)に四代目坂東彦三郎が当地で福岡貢を演じました。この上演に先立って彦三郎が建立したお紺の供養墓が、大林寺境内にあります。「伊勢音頭・油屋の場」のなかに、貢が「そんならあの大林寺の裏門で(万次郎が待っている)」と云う台詞があります。少し離れた場所にある お寺かなと思ってましたが、大林寺は油屋のすぐ裏手にあったお寺だということが、現地に行ってみて分かりました。写真の左にあるお墓がお紺の供養墓です。後に斎の供養墓が隣に建てられて、今は対の比翼塚になっています。

*写真は平成29年11月30日、吉之助の撮影です。

(H29・12・5)


〇伊勢古市と「伊勢音頭」:その1

江戸時代に世の中が落ち着いて、五街道が整備されて来ると、庶民にも旅行観光を楽しむ余裕がちょっと出て来たようです。当時は庶民、特に農民の移動には制限がありましたが、伊勢神宮参詣という名目ならば厳しいおとがめがなかったようです。信仰ということになると、お上もあまりうるさいことが言えなかったようですね。伊勢参詣ということで通行手形を発行してもらえば、大体どこを通ってどこへ行っても問題はなく、参詣の帰りには京大坂を見物して帰る人も多かったようです。伊勢参りの目印は柄杓でした。柄杓を持って伊勢を目指せば、街道筋の人々がいろいろと手助けをしてくれたもので、それで伊勢参りのことをお陰参りとも云いました。江戸から伊勢までは片道15日程度の道程であったようです。

もっとも旅行には、当然お金が掛ります。庶民が伊勢までの多額の旅費を工面するのは大変なことでした。そこで生み出された仕組みが、「お伊勢講」でした。講というのは、みんながお金を出し合って集まったお金を代表者の旅行の資金とする、代表者をくじで決めて、持ち回りで講の所属者全員がいつかはお伊勢参りが出来るようにするというものです。旅行の時期は農閑期が当てられました。こうして庶民の間にお伊勢参りのブームが生まれたわけです。
 


旅行と云うと、日常から離れてパアッと憂さ晴らしをしたいと思うのは今も昔も同じことのようです。聖と俗とは、常に隣りあわせです。江戸時代でも伊勢参りの次いでに歓楽街で遊ぶというのが定番コースでした。伊勢古市は、伊勢神宮の外宮と内宮をつなぐ3.5キロほどの参道沿いの丘陵地帯に位置します。江戸時代より以前は寂しいところでしたが、江戸時代に入ってお伊勢参りのブームによって精進落としをする参拝客が急増することによって、遊廓と旅館が立ち並び、芝居小屋も出来て、歓楽街として栄えました。最盛期には、70軒の遊郭があっで、遊女千数百人。江戸幕府非公認ながら、伊勢古市の遊郭は、江戸の吉原、京都の島原と並んで、三大遊廓とされたそうです。その様子は、十返舎一九の「東海道中膝栗毛」の、弥次さん喜多さんの道中記にも記されており、「まだ宮まいりもせぬうちに」、「今宵これから古市に行こかいな」ということで、弥次さん喜多さんも伊勢参詣より古市で遊ぶ方に関心があるようです。
 


明治に入って古市丘陵を迂回する道路が整備されたりして歓楽街は衰微し、戦時中の空襲もあったりして、現在では、往時の俤をとどめるのは、麻吉旅館(あさきちりょかん)のみとなっています。麻吉旅館の歴史はたいへん古く、天明2年(1782)の地図にはその名前が見えるそうです。現在、中心となる建物は五棟あって、様式としては懸崖造りで最上階まで六層に及んでいます。この建物を見れば、往時の伊勢古市の盛況ぶりがどんなものであったか想像できますね。なお麻吉旅館は現在も営業されています。(この稿つづく)

*写真は伊勢古市の麻吉旅館。平成29年11月30日、吉之助の撮影です。

(H29・12・4)


〇平成29年11月歌舞伎座:「奥州安達原・袖萩祭文」:その2

結局、「安達三」は「泣いて泣いて泣きぬく」ところにドラマの核心があるわけですから、観客の情に如何に訴えるかが大事なのです。「安達三」の頂点は、袖萩祭文の件にある ということです。貞任登場からの後半は音楽で云うとコーダであり、主題部とは異なる旋律で作られた終結部です。前半と後半の局面に連関がないのですが、バラバラな印象を呈してはいけません。そう考えると「安達三」で一人の役者が袖萩と貞任を兼ねるやり方は、無理やり連関性を持たせるということになるので、なるほどそれなりの意味があるのだなあと思います。初演は昭和54年11月・池袋サンシャイン劇場で したが、三代目猿之助(二代目猿翁)が岐阜の地芝居の型を取り入れて「安達三」で袖萩と貞任の二役を演じたことがありました。これは幕間に映画を挟み込んだ連鎖劇の手法を取ったもので、なかなか面白い舞台でした。 このような観客の情に訴える小芝居的なあざとい手法の方が、「安達三」にはよく似合うようです

袖萩と貞任を分けて二人の役者で演じるやり方は本来の形だとは思うのだけれど、今回(平成29年11月歌舞伎座)の舞台でも、配役は現時点において最適と思える布陣であり、やっていることにまったく不足はないのですが、それでも吉之助はどこか隙間風が吹くようなところを感じてしまいます。 大歌舞伎の「安達三」は構えの大きさが、何となく三段目の風と異なるようです。むしろスケールの大きさを犠牲にしてでも、心理主義的に濃厚に描いた方が良いのかなという気が するのです。この点で「安達三」は構成的に難しい芝居であるなあと思いますねえ。同じような難しさを感じるのは「妹背山」の御殿です。終結部を大時代に塗りつぶ したこの歪な構造こそ近松半二のバロック性と云うことなのでしょう。しかし、袖萩と貞任を分けて二人の役者で演じる大歌舞伎のやり方ならば、恐らく今回の舞台はベストの出来であると しても良いと思います。

襲名以来、雀右衛門は着実に腕を上げて来ました。だいぶ主張が出て来た感じがしますねえ。袖萩の悲しみをピュアな形で提示できています。立役(貞任)が袖萩を兼ねるならば悲惨さが もっと濃厚に出せるということも考えられますが、雀右衛門は真女形の袖萩の最良の形を見せてくれたと思います。吉右衛門の貞任は言うまでもなくスケールの大きさにおいて申し分ないものです。ところで、これは吉右衛門だけのことでなくて歌舞伎の型のことですが、貞任の正体を見顕わす「何奴の仕業なるか」という 台詞は、歌舞伎では「何奴の・・」を本性の貞任(武士)の声色で言い、「・・仕業なるか」を桂中納言(公卿)の声色に戻って言うという約束になっていますが、どうもわざとらしくて、誰がやっても気が抜ける感じでうまく行っていません。文楽ではここは「打ち立つるは何者なるぞ」と云い、この台詞は貞任の性根で言うのです。吉之助はこちらの方が良いと思いますけどねえ。

(H29・12・3)


〇平成29年11月歌舞伎座:「奥州安達原・袖萩祭文」:その1

五段物浄瑠璃の三段目が大体世話場であることは、例えば菅原の「佐太村」や千本桜の「鮓屋」を見れば分かります。この考え方は能の五番立ての構成から来るものです。能の三番目物は鬘物(かつらもの)と云って、「井筒」、「熊野」など、シテが女性でかつらをつけて優美に舞し、恋慕の情を表現するものです。これに相応した形で、浄瑠璃の三段目は人情を細やかに描くものとされます。三段目に武家や公家の社会に起きた政争・戦乱に本来無関係な庶民が巻き込まれる悲劇を描くものが多いのは、そこから来ます。

しかし、「佐太村」や「鮓屋」が時代浄瑠璃のなかの世話場であることは舞台面を見れば明らかですが、舞台面がまるで大時代の三段目もたくさんあります。例えば「奥州安達原・三段目」(通称「安達三」 ・あださん)などは、その筆頭です。「安達三」は舞台面が御殿であるし、幕切れは安倍貞任・宗任兄弟がスケール大きく引っ張りで決めて、如何にも時代物らしい。しかし、「安達三」も三段目なのですから、どこか世話の要素があるに違いない。そこを正しく描き出さないと、「安達三」は正しく三段目の風にならないわけです。だから「安達三」の世話の要素を考えてみたいと思うのです。

三宅周太郎は「文楽の研究」のなかで、「安達三」・袖萩の祭文の語りに「二世の夫にも引き別れ、泣きつぶしたる目なし鳥」とあるのは、つまり袖萩は怪我や病気で目が見えなくなったのではなく、泣きつぶしたあげくに目が見えなくなってしまったわけで、兎に角、この「安達三」ほど泣いて泣いて泣きぬく作は珍しいと云っています。

『まず袖萩は「泣きつぶしたる目なし鳥」といって泣く。娘お君さえ「申し旦那様奥様、外に願いはござりませんぬ、お慈悲に一言物おっしゃって」などといってベソを書く。母浜夕は「生まれ落ちると乞食さす子をあの様におとなしく、産みつけざまは何事ぞ」といって泣く。威丈高に「畜生め」と罵る父親{杖でさえ、口ではともかく腹では泣きぬいているのだ。しかも、袖萩は後に父と共に自害して死んでしまいさえする。こういう風に、これ位泣く作、これ位悲劇的に救われない作は珍しい。』(三宅周太郎:「文楽の研究」)

これはまったくその通りで、「安達三」で涙を見せないのは宗任くらいのものです。敵方の八幡太郎義家でさえ、腹のなかでは泣いています。本作での義家は もののあはれを解する男ですから、この場面で泣かぬはずがないのです。容貌を見れば「熊谷陣屋」での義経とまったく同じ役割であることが分かると思います。(別稿「義経は無慈悲な主人なのか」を参照ください。)ですから「安達三」で描かれるものは、表向きには戦争で敵味方に別れたことで一家が引き裂かれ崩壊していく悲劇ということになるかも知れませんが、煮詰めていくとそれは案外シンプルなものであるのです。それはこの世に人が生きていくことの救いがたい理不尽さ・辛さ・悲しさということになると思います。そこまで煮詰めて行くことで、「安達三」のなかの世話的な要素が見えて来ます。まったく近松半二という人は、どんな作品においても生の実相を非情なほど突き詰めて描く作者なのですねえ。

だから「安達三」が如何にも時代物らしい締め方で終わるのは、貞任登場までの舞台の陰鬱な雰囲気を一気に吹き飛ばす口直しみたいなところがある(そうでないと観客に対してお慰みにはならない)わけですが、前半が泣いて泣いて泣きぬく世話になっている分、バランス上、幕切れがますます 大時代になるということです。「安達三」はかなり歪(いびつ)な構造になっています。だから理想的なバランスを取るのがなかなか難しいかも知れません。見終わった後の「安達三」の印象が、ともすれば四段目の感触になってしまうのです。(この稿つづく)

(H29・11・26)


〇平成29年11月歌舞伎座:「雪暮夜入谷畦道・直侍」

最近の黙阿弥芝居は様式感覚が崩れていて、役者が台詞を七五に割ってダラダラしゃべるのを見せられて、ガッカリすることがホントに多くなりました。生世話は写実を旨とするという大事なことが忘れられているのです。しかし、久し振りの菊五郎の 「直侍」では、さすがにそういうところがまったくありません。力を抜いた自然体のさりげない演技に見えますけれど、実は世話の息が行き届いて、まことに至芸と云うべきです。若手役者は菊五郎の演技をよく見て、世話の感覚をものにしてもらいたいと思います。全体的にもアンサンブルがよく取れて、良い舞台に仕上がっています。

例えば丑松との割台詞は、確かに台詞は七五に割れるように書かれています。しかし、それは役者に調子よくしゃべってもらえるようにするための黙阿弥のご親切なのですから、そこをあからさまに 出して七五にしゃべっては何にもなりません。役者の方はそういうところを隠して如何に写実の息でしゃべって見せるかということ、そこが芸なのです。 それでも勘所で様式感覚がフッと自然に浮き上がって来るように台詞が書かれているので、そこをサラりと写実に返してみせる。そういう風に時代(様式)と世話(写実)の感覚の間をユラユラするのが、黙阿弥の様式なのです。菊五郎(直侍)と団蔵(丑松)のやり取りでは、そこの具合いが上手くて、久し振りに世話物らしい場面を見た気分になりました。

時蔵の三千歳も派手過ぎることなく、情愛の深いところを見せて、大口寮もしっとりといい場面になりました。ここで情緒纏綿たる色模様を見るのもまあ良いですが、本来ここはどこか暗い湿っぽさを帯びた場面だということが、この舞台を見ていると実感できます。

(H29・11・19)


〇平成29年11月歌舞伎座:「仮名手本忠臣蔵・五・六段目」

東京では久しぶりの仁左衛門の勘平は、浅葱の衣装が映えて、幸薄い若者が死んでいく哀れさを儚く美しく見せました。歌舞伎の六段目は、舅殺しの嫌疑がもうちょっと早く晴れていれば、勘平は義士の仲間に入れてもらえて、念願の討ち入りに参加できたのに・・可哀想になあ・・という仕立てですから、仁左衛門の勘平はそこのところは十分です。変わらぬ高水準の出来で、美しいのに文句を云うのも何ですが、感触がちょっと優美に過ぎる気がしますねえ。仁左衛門の身体から滲み出て来るものと、六段目が求めるものとが若干異なる気がします。哀愁ではなく、陰惨さが欲しいと思うのです。

ひとつには仁左衛門の台詞が高調子であるせいがあると思います。勘平は度重なる不運続きで義士の仲間から外されてしまいそうで大いに焦っています。だから勘平の気分は真っ暗闇なわけで、そこに勘平が更なる悲劇に見舞われる遠因があります。「いろは評林」にも六段目は「しゆみし場」であると書かれています。しゆみし場と云うのは、陰気で滅入る場ということです。これが六段目のムードなのですから、やはり勘平の台詞は低調子に取った方が良い。「これはこれは御両者には見苦しきあばら家へ・・・」などは高く張らずに、もっと低調子に取った方が良いです。仁左衛門が高調子であることは彼の持ち味に違いないですが、義太夫狂言の場合にはちょっと不利に出る場合があるようです。例えば「大蔵譚」の大蔵卿、「毛谷村」の六助なども、もう少し意識的に調子を低めに抑えた方が渋味が出て来ると思いますけどねえ。

今回の「六段目」は普段見る音羽屋型をベースにしながらも、ところどころ違うところがあって、例えば勘平が衣裳を浅葱の御紋服に替えるところで、お軽に大小を要求しないなどの相違があります。(二人侍が来訪時に、勘平が押し入れから大小を取り出します。)見ていてどういう意図なのかと思ったのだけれど、これについては筋書の「今月の役々」で仁左衛門が、私の勘平は十五代目羽左衛門の型ですと語っています。つまり同じ音羽屋型でも六代目菊五郎の型とはちょっと違うんだということを言いたいのではあろうけれど、逆に菊五郎型の段取りの洗練されたところが再確認できた気がしますねえ。ちょっと中途半端な印象がします。浅葱の御紋服が仁左衛門によく似合いますから、それをやらないのは損であるとは思うけれど、以前「 鮓屋」の権太で試みてくれたように、いっそ上方のやり方で「六段目」をやってくれた方が面白かったかなという気もしますが。

(H29・11・16)


〇コスプレの帝国・その3

米国の映画評論家ドナルド・リチーがこんなことを書いています。リチーが云うことは、普通、スタイルというものは、何らかの思考を背景に持つものである、ところがこの国ではスタイルの「思考なきイメージ」だけが先行している、それもつい先頃のことではなくて、この国ではずっと昔からそうなのだということです。これをリチーはイメージ・ファクトリーと呼んでいます。リチーの指摘はなかなか面白いところを突いています。

『日本を訪れる者(外国人のこと)の不満は、常に最新のものに取り巻かれてしまうということである。(中略)事実、今日では古い日本を目にすることは極めて困難になっている。そんなものはほとんど現存していない。そして新しい日本ばかりが目の前に現れ続けることになる。それが今の日本の偽らざる姿なのだ。五重塔を見に行っても、ポケモンを買って帰る羽目になるのである。』(ドナルド・リチ―:「イメージ・ファクトリー」、2005年)

吉之助は先日、新橋演舞場で「スーパー歌舞伎U・ワン・ピース」再演を見て来ました。吉之助の領域でないということで初演(平成27年10月新橋演舞場)は見ませんでしたが、大評判で連日の盛況だということを聞いたので、話のタネにやっぱり見ておいた方が良かろうと思い直したのです。「ワン・ピース」にとって吉之助が場違いな観客であることは、よく承知しています。頭の古い吉之助には、その前に世界コスプレ・サミットの番組をテレビで見ていたことが、随分と役に立ちました。これは或る意味、究極のコスプレ歌舞伎ですねえ。席が前売りで売れて当日券がないのか、劇場に外国人観客の姿がとても少ないのが残念でしたが、コスプレ・サミットの海外参加チームの面々にこの舞台を見せたら、どんなに感激するだろうと思いました。コスプレの論理は「私は・・であり、・・でもある」であり、どちらの姿も本当の自分なのです。これと同じように外国人の目にはニッポンのカブキの、伝統的な古いところと、最新のところが、境目なく入り混じってフラットに見え ることでしょう。これも今のカブキの一面なのだということ、これは認めても良いことだと思います。

猿之助が負傷休場であったのは残念でしたが、代役の右近はよくやっていたと思います。二代目猿翁(三代目猿之助)の歌舞伎は、「同じ舞台にスターは二人要らない」という考え方で したから、美味しいところは全部猿之助が取ってしまって舞台に出ずっぱりという感じでした。しかし、「ワン・ピース」では主役が出っ張らず、多くの役者に各自の見せ場を用意して、どの役者もそれなりに遣り甲斐があるという脚本作りをしており、その辺に猿之助の考え方がよく出ています。これならば猿之助を慕う若手が多く出て来るのは、当然のことだと思います。みんな生き生きやっていますね。古典歌舞伎をやる時に、その生き生きを少しでも持って来てください。

吉之助は猿翁の「スーパー歌舞伎・ヤマトタケル」は初演(昭和61年2月新橋演舞場)は見ましたが、それ以後はお付き合いしませんでした。しかし、「ヤマトタケル」は現在も上演され続けています。これについては吉之助は自らの不明を恥ねばならぬかも知れません。「ワン・ピース」についても、今後、吉之助はお付き合いせぬと思いますが、「ワン・ピース」も30年後もやっているかも知れません。吉之助が思うには、「ワン・ピース」を今後上演を続けるであれば、タカラヅカが「ヴェルサイユのばら」でオスカル編とかアンドレ編とか色々ヴァージョンを変えて今も上演していると思いますが、「ワン・ピース」も原作のエピソードを様々にアレンジしていろんなヴァージョンを作れるであろうから、シリーズ物にした方が良かろうと思います。それにしても演舞場へカブキを見に行ったはずが、タンバリンを買って帰る羽目になるというのもカブキ体験の一興ということで、これも宜しいことかなと思います。

(H29・11・14)


〇コスプレの帝国・その2

江戸期の庶民に見立や本歌取りのような知的遊戯が流行ったということは、当時の日本人が、もちろん生活は決して楽なものでなかったにせよ(当時の地球は寒冷期にあって 自然災害も多かったので、食糧事情が良くありませんでした)、庶民もそのような知的遊戯を楽しむくらいの気持ちの余裕をちょっとだけでも持てていたということなのです。或いは日常にそういう小さな楽しみを見つけることで庶民はどうにか健気に生きて来れたということかも知れませんが、しかし、今日生きるのに精一杯という状況下においてはそのような遊戯を楽しむ余裕さえ持てないのです。恐らく日本というところは、他地域と比べて地理的にいくらか恵まれてもおり、封建主義・身分制度の時代とは云え、その格差も他地域と比べればそう極端なものでもなかったのです。いろんな面で日本はいくらか恵まれていたということなのだろうと思います。

まあコスプレの文化論的考察は深入りするとキリがないので、この位にしておきますが、コスプレで違う自分に「なりきる」というお楽しみは、この世の有り様は三千世界の仮初めの姿であるという浮き世の思想にも 重なります。ここで引き出される重要な考察は、コスプレする前の現実の自分と、コスプレして「なりきった」仮初めの自分との関係がフラットであるということです。変身がとても軽やかに行われて、「私は・・であり、・・でもある」となっているのです。どちらの姿も本当の自分なのです。ですからコスプレというのは、確かに現状逃避みたいな要素もあるかも知れませんが、決して現状否定ではないわけなのです。だからコスプレのポジティヴな側面というのは、「なりきる」ことの軽やかさにあると吉之助は思っています。コスプレを楽しみ人たちにとって「なりきる」ことは、キラキラ・ワクワクなのです。

吉之助は、このようにコスプレを「なりきる」ことの軽やかさにおいて捉えることは、或る意味においてとても現代的な感性であるなあと感じます。(別稿「伝統芸能の動的な見方について」をご参照ください。)つまりこれが 外国人から見たコスプレの感じ方、つまりグローバルな観点であるとも云えると思います。コスプレ・サミットのサイトでは、「あなたにとって日本とは?」という質問に対する海外からの参加チームのコメントが載っていま す。(WCS公式サイトの出場チーム紹介欄をご覧ください)一様に彼らが語っていることは、現代の「マンガ」「アニメ」「ゲーム」のニッポンも大好きですが、 ニッポンの伝統的な文化も大好きだということで、最新のものと古いものが境目なく入り混じってフラットに見えることが、彼らにはとてもミステリアスかつワンダフルなのです。彼らの日本に対するイメージもキラキラ・ワクワクなのが興味深いというか、面映ゆいと云うか。外国の方にはこんな風に日本が見えているのですねえ。(この稿つづく)

(H29・11・10)


〇コスプレの帝国・その1

先日吉之助はテレビで初めて知りましたが、世界コスプレ・サミットという催しがあるそうです。(WCS公式サイト参照) 初回が2003年だそうだから、もうかなりの歴史があるわけです。その触れ書きに拠れば、

『国内だけでなく、世界中の若者を虜にする日本の「マンガ」「アニメ」「ゲーム」。そのブームでは、作品を「読む」「見る」「遊ぶ」だけでなく、作中のキャラクターに「なりきる」楽しみ=「コスプレ」を生み出しました。そのようなブームのなか、コスプレをして楽しむひとたち(コスプレイヤー)を通して新しい国際交流を創造するため、2003年日本・名古屋で誕生したのが「世界コスプレサミット(通称:コスサミ、WCS)」です。』

コスプレ・サミットは今年は世界30ヶ国からの参加チームがあって、大いに盛り上がったそうです。門外漢の吉之助は、コスプレというのはオタクさんの密かな淫靡なお楽しみというような先入観がありましたが、どうもそういうものではなさそうです。コスプレ・サミットに参加するには、衣裳・化粧をそれらしく凝らすだけでなく、決められた時間内でアニメ・ゲームなど原作の世界観をどう表現するかとか、ストーリー性・構成力・演技力が問われます。そのような細部にまで徹底的にこだわるのがオタクのオタクなる所以なのだそうで、みんな結構アッケラカンと楽しそうにやってました。

吉之助なんぞはすぐ、こういうのは「現実から逃避して、まったく違う自分になりたい」という深層願望の表れかなどと考えたくなりますが、まあそういうところは確かにあると思いますが、コスプレ・サミットに参加した外国人の方はそういうことはあまり深く考えてなさそうです。コスプレやってガーッと一気にストレス発散してしまえば、明日からはいつもの生活をして頑張る元気が出て来ると云う、つまりとても健康的なお楽しみとして彼らのコスプレがあるのだということが、吉之助にも何となく理解が出来るようになりました。いろんな考察ができるでしょうが、まずはコスプレの「なりきる」ことのポジティヴな側面を頭に入れておきたいと思います。

この数年日本で異様な盛り上がりを見せている10月末のハロウィン・パーティーの仮装も、多分そういうものなのでしょう。それにしても日本のハロウィンは、 ハロウィンの本家らしいアメリカ人が「故国でもここまではやらないなあ・・」と吃驚するほどのはしゃぎようであるのは、本来は古代ケルト人の収穫祭で行われていたささやかな宗教的行事だったはずのものが、日本では無礼講の仮装大会に化してしまうと云う、実に日本的な受容のさまであって、まことに興味深い社会現象ではあります。こうやって日本人はクリスマスもバレンタインデーも自分たちの風俗にしてきたのです。

コスプレに関する社会学の文献などを見ると、日本では江戸時代からお祭りなどで仮装を伴ったものがあり、歴史上の人物や物語の主人公に扮して練り歩き、ポーズを取って見せたりするということがあったようで、日本にはコスプレの伝統みたいなものがあるみたいです。仮装については欧米のカーニヴァルの行列にもあることで、とりわけ日本独特の現象であるとも思われません。しかし、日本の伝統には昔から見立とか本歌取りという楽しみ方があって、民衆にそういうものに面白さを見出す文化的素地が元々あったということは云えそうです。現代の「マンガ」「アニメ」「ゲーム」もそういう伝統に乗ったもので、その延長線上にコスプレ・ブームがあるということは云えそうです。(この稿つづく)

(H29・11・8)


○平成29年10月歌舞伎座:「漢人韓文手管始・唐人話」・その2

国分寺客殿の場が何となく「忠臣蔵」の喧嘩場を思わせると書きましたが、舞台を見ると若干感触が異なるかなという気がしました。喧嘩場の場合は、判官は師直に一方的に虐められますが、判官の方にはそこまでされる理由がまったくないのです。一方、典蔵が高尾に好意を寄せており扇子に事よせて伝七に恋の取持ちを頼んだつもりが、高尾の口から伝七とはとうの馴染みと聞いて、欺かれたと怒って急に態度を翻 します。これが客殿で唐使への献上の品物を突き返して主人の相良和泉之助 と伝七に大恥を掻かせるクライマックスに繋がるわけですが、舞台を見ると、典蔵は元々良い人だったのが、行き違いの誤解による恋の遺恨で怒り心頭となり、意地悪で仕返ししたという感じに見えます。 この行き違いさえなければ、二人はいい御友達であり続けたであろうと見える。これは芝翫(典蔵)と鴈治郎(伝七)のニンならばこうなるかと云うところもありますが、まあこれはこれで楽しめます。なるほどこう云う感じなら、さほど毒がないドラマ になって、作者はあんまり幕府の検閲を心配することは無さそうではある。

いつの時代でも外交は気を遣うものです。異なる言語を介してコミュニケーションするわけですから、日本人同士のつきあいとは別次元の気遣いが必要になります。当時においては、通辞(通訳)の役割はとても重要でした。外交の鍵を握っていたと云っても良いくらいです。外交相手の言うことを間違って 翻訳されたら困ります。自分が言うことを意図的に違う翻訳をされてしまえば、大変なことになります。外交相手に余計なことを吹き込まれても困る。要するに、通辞にちゃんと正しい仕事をしてもらわないと非常に困るわけです。 ところが外交相手に気を遣うより前に、通辞の方に気を遣わねばならないという変なことになる。通辞に臍を曲げられると困るので、関係者がご機嫌伺いを始めるということになる。どうやら史実の唐人殺しの、鈴木伝蔵 と通辞とのトラブルも、発端はそんなところにありそうです。これは幕府の対朝廷関係の儀式の礼儀作法を取り仕切っ ていた高家筆頭の吉良上野介が本来の大名としての格とかけ離れた大きい権力を持って威張っていたのも、これと似たようなことです。

だとすれば典蔵も、通辞の地位を利用して美味い汁を吸おうと云う腹黒い輩に描くことも考えられると思います。典蔵の願い通り高尾に話を通してもらえれば、 良い顔を見せて、いろんな無理も通してくれる。金も都合してくれる。贋物の菊一文字の槍も本物だと云ってくれる。けれど、それは下心あってのことなので、願い通りに行かなければ、嫌がらせもするし、恥も掻かせる、やりたい放題というわけです。 だから和泉之助・伝七の側も真っ白というわけではないので、賄賂(この場合は高尾ですが)を以て典蔵に取り入ろうと云うのだから、これも同じ穴のムジナだとも云えます。 伝七も清廉潔白ではありません。(このことを考えれば、伝七と云う役がピントコナではないことは明らかなのです。ピントコナは無垢でなければなりません。)こういう御友達の仲がこじれると、大体、知らぬ存ぜぬ、記憶にない、記録がないということになります。まあいつの時代でも似たようなことがあるものです。「漢人韓文」では恋の遺恨のいざこざのオブラートで包み隠されているけれども、このドラマで本当に考えなければならないのは、こういう点かも知れませんね。文政元年9月市村座での「漢人韓文」での、五代目幸四郎の典蔵と云う配役は、そんなことを想像させてくれます。

(H29・11・7)


○平成29年10月歌舞伎座:「漢人韓文手管始・唐人話」・その1

「漢人韓文手管始」(かんじんかんもんてくだのはじまり)・通称唐人話(唐人殺しとも云う)はあまり上演されない珍しい芝居で、吉之助は巡り合わせが悪くて今回初めて見 ましたが、なかなか興味深く見ました。こういう珍しい狂言の掘り起しは有難いことですね。ところで「漢人韓文」は、実際に起きた外国人殺しを材料に芝居に仕立てたものですが、本作が現在上演されている歌舞伎の筋立てに至るまでにはかなりの変転を経ており、経緯は複雑であるようです。

明和元年(1764)に起きた通辞殺し(通辞とは通訳のこと)は、朝鮮国からの使節の将軍謁見に絡んだものです。これを唐人殺しと呼ぶのは、当時の人々が「唐人」と云う 語句を外国人の意味で使ったからです。饗応の役は、対馬の城主でした。江戸での将軍謁見の儀は首尾よく終わって、一行は江戸を出発して大坂へ入り、同地を見物しました。ところが4月7日明け方、対馬の家来で通辞役(通訳者)の鈴木伝蔵が、使節随行の崔天栄という者を旅館寝間において殺害し逃げたというものです。逃亡した伝蔵は摂州小浜で捕まって磔刑に処されました。遺された伝蔵の書置に拠れば、前日6日暮れに、使節随行の一人と口論となり、大勢の人の居るなかで杖で散々に打擲され恥をかかされたため、これを恨みに思っての犯行であったとのことです。「漢人韓文」の舞台を見ると、実説とはだいぶ様相が異なるようではあります。

当時は芝居に対するお上の干渉が厳しかった時代でした。ましてやこの種の事件は外交にも係わるもので、容易に劇化出来るものではありませんでした。しかし、鎖国下での世の中では外国人殺しという珍しい事件への民衆の関心は高かったようです。場所を大坂から長崎に変えたり、設定をいろいろ工夫しながら、いつくかの筋が試されました。そのなかで三年後の明和4年大阪嵐雛助座で上演された並木正三による「世話料理鱸包丁」(せわりょうりすずきのほうちょう)という芝居が、唐人殺しの最初のものであるようです。これは意外と実説に近いものだったようで、題名の鱸 (すずき)に犯人の鈴木伝蔵を入れているところなど実に大胆ですが、たった2日で大坂奉行所から上演差し止めを食らったそうです。

「漢人韓文手管始」を書いた並木五瓶は、並木正三の弟子に当たります。当然、五瓶は師匠の失敗を教訓にして、慎重に「漢人韓文」を書いたに違いありません。五瓶による「漢人韓文」は寛政元年(1789)7月大坂角の芝居で上演されましたが、その内容はお上を憚って丸山の遊女を巡っての侠客の達引きに仕立てられたもので、現行上演本とはかなり異なるものだそうです。その後、享和2年(1802)に京都で上演された浄瑠璃「拳廓大通」(けんまわしさとのだいつう)では、時代も下ってお上への配慮がさほど必要なくなったのか、実説の通辞殺しにやや戻った形になりました。 この「拳褌」が唐人殺しのもうひとつの流れになるものと思われます。

寛政6年(1794)、五瓶は招かれて活動拠点を大坂から江戸に移しました。五瓶の江戸歌舞伎への移籍は、これまで上方に遅れを取っていた江戸歌舞伎の作劇水準を大きく飛躍させたものとして、歌舞伎史上でも重要な出来事です。(これが後の四代目南北の時代に繋がって行きます。)五瓶は文化元年(1804)9月市村座のために「漢人韓文手管始」(五代目幸四郎の典蔵、三代目宗十郎の伝七 、この配役はなるほどと思います)の台本を書いていますが、この時に「拳褌」を踏まえて旧作の大幅な書き直しがなされたようです。現行上演台本は、概ねこれを基にしているものと思われます。その後も上演の度にどこかに少しづつ手が入っており、定本と云えるものはまだ出来ていないようです。今回の舞台(平成29年10月歌舞伎座)を見ても、 国分寺客殿は何となく「忠臣蔵」の喧嘩場を想わせる場面あり、また奥庭は「伊勢音頭」の殺し場を想わせる場面あり、まあそこはそのように見て楽しめば宜しいのだろうと思います。(この稿つづく)

(H29・11・3)


○平成29年10月歌舞伎座:「沓手鳥孤城落月」・その4

ところで糒蔵での淀君が狂乱状態であることは明らかですが、前場である大阪城内奥殿での淀君は正気でしょうか、それとも狂気でしょうか。この場の淀君は猜疑心に苛まれ、周囲の誰も信じることが出来ません。だから奥殿での淀君は半ば狂気だとして良いと吉之助は思います。玉三郎の淀君を見ていると、奥殿と糒蔵の二場での淀君に連続したものが感じられます。糒蔵での淀君の方が、狂気の色合いがもっと濃いという 程度の違いです。

狂気とは何でしょうか。正気と狂気との間に境目などあるのでしょうか。淀君の立場からだと「この世の中みんな狂っている」と思えてくるわけで、ましてや大坂夏の陣のような状況ならば事実 みんな狂っているのです。こういう状況下で人が正気を保つことは難しいものです。淀君を取り巻く世界が狂っているから、その状態が淀君のなかに反射していると考えた方が良いのです。周囲の者が淀君の態を見て「淀君が狂ってしまった」と判断してそのことを嘆くのではなく、淀君を見て自らも同じ心理状態に陥ってしまいそうな予感に震え慄てしまうという方がふさわしいと思います。淀君の態を見て泣く秀頼の台詞を見 てみます。

『ヤイ内膳、ゆるしてくれよ。女々しと思へどとどまらぬ、涙は同じ涙なれど、最前落せし熱湯は、父太閤の偉業をば、此身ゆえに滅ぼすかと、不肖を悔む慚愧の涙。今ふりしぼる此涙は、恥も憤怒も悔恨も、人の心にありとある、百八煩悩一つとなって、五臓六腑を骨もろともにしめぎにかけ、しぼりいだす血の涙ぢや。ゆるせ、泣かずにはをられぬわい。』

この秀頼の台詞は、何だか歌舞伎役者は七五に割って朗々と歌いたくなるみたいですねえ。普段は「台詞は余韻を重んじ、言葉少ないのが良い」と言いながら、こんなところに逍遥の芝居好きが出ちゃっている気がします。しかし、この台詞を七五で歌っては駄目なのです。この秀頼の台詞は、母親の狂乱の態を見た息子が自らの感情に浸って七五で朗々と歌う台詞でしょうか。秀頼は自らに迫った滅びの時を覚悟したに違いありません。この状況に耐えられないから 、秀頼は泣くのです。こういう台詞は、畳み掛ける二拍子を基本リズムにするのが、逍遥劇の様式です。

百八煩悩一つとなって、五臓六腑を骨もろともにしめぎにかけ、しぼりいだす血の涙ぢや。ゆるせ、泣かずにはをられぬわい。

ヒャク/ハチ/ボン/ノウ/ヒト/ツト/ナッ/テ●/ゴゾウ/ロップヲ/ホネ/モロ/トモニ/シメギニ/カケ/シボリ/イダス/チノ/ナミダ/ジャ●/ユルセ/ナカズ/ニハ/オラ/レヌ/ワイ

これまで「沓手鳥」の舞台では、個々の役者が台詞を好き勝手なリズムでしゃべって、様式感覚が取れていないことが多かったと思います。しかし、今回(平成29年10月歌舞伎座)の舞台を見ると、大方の役者が台詞のリズムを玉三郎のリズムに合せているようです。これは恐らく玉三郎の指導が入ったのだと思います。お陰で全体的にはだいぶ舞台が引き締まった感がします。(ただしところどころでリズムを厳格に守り過ぎて、舞台の緊張が削がれている場面がありますが、そういう時はリズムを破綻させることを恐れては駄目です。) ところが、そのなかでどういうわけだか七之助の秀頼だけ台詞を七五で割ってしゃべって、一人浮いた感じに見えます。秀頼は傍観者ではありません。この後、秀頼は母親と一緒に死なねばならぬ運命なのですから、その台詞は淀君のリズムと同期 (シンクロ)せねばなりません。また秀頼は立役ですから、ここはもっと二拍子の刻みを強く出して前に押すべきです。ところがその秀頼を見て淀君が笑います。

『ハハ・・・。お泣きゃる、お泣きゃる。男じゃに、此の人たちは。・・・オオおかし。・・・オオおかし。ハハ・・・。』

淀君・秀頼親子の悲劇的状況はここに極まれるということになるのです。逍遥は見事な史劇を書いたと思いますね。ですから逍遥が『ひとりの上にして、その実は人間全体、世界全部の上に関係するのであるというような ・・』と書いたことはとても大事なことであって、恐らく逍遥は、淀君・秀頼親子の悲劇に対して傍観者たることを、観客にも許していないのだろうと云う気がします。

(H29・10・30)


○平成29年10月歌舞伎座:「沓手鳥孤城落月」・その3

逍遥は、19世紀末と云う時代の、無解決で、不安な、煩悶の、神気疲労の気分をアジタートな(気ぜわしい・急きたてられた)タンタンタン・・・・という畳み掛ける基本リズムに託しました。心持ち早めの二拍子が、逍遥の戯曲のリズムです。玉三郎の淀君の台詞は軽やかですが、早めの二拍子を押さえた台詞廻しで、確かにそこに様式感覚が感じられます。リズムの刻みをあまり前面に出さず、前に押す感覚が少ないので、もしかしたら様式的なものを感じ取りにくくて、玉三郎が淡々としゃべっているように思う方がいるかも知れません。これは淀君が女形の役であり、虚ろな気分の役であるからそうなるのです。(一方、立役の場合は、リズムの刻みを前面に出して、押す感じに台詞をしゃべらないと逍遥の様式になりません。)

例えば序幕・大阪城内奥殿での常盤木に対する淀君の台詞、「・・あはよくば永利を図る下心の、こちゃとうに見抜いてある、アア読めた、その手筈が狂うたゆえ、わざと油断し隙を見せ・・・」、或は饗庭局に対する台詞、「黙れ、大それら不埒浮かくを、まず詫びようとも致さいで・・・仔細らしい諫言ごかし・・・ああ聞こえた、こりゃ何じゃな、そちゃ子車と同腹じゃな・・」での、「アア読めた」、「ああ聞こえた」という箇所で、淀君の考えがコロッと変化します。普通に「歌舞伎らしく」台詞をしゃべるならば、フッと新たな考えが湧く間を取る感じで一呼吸置いて「アア読めた」と云う、 さらに「歌舞伎らしく」するならば、ちょっと声のトーンを低くテンポを落として「アア読めた」と云うやり方も考えられます。こうすることで淀君の考えが変化する局面、前と後ろの差が印象付けられます。これで 「歌舞伎らしい」台詞廻しになるでしょう。

しかし、玉三郎はそういうことをしないのですねえ。早めの二拍子を守ったまま、サラサラと台詞を続けます。そうなると、淀君の考えが変化する前と後の違いが際立ちません。つまり、淀君の考えが ここでコロッと変化したようだけれども、実はそのようなきっかけは大したことではない、淀君の云うことは虚ろであり重みがない、何にも意味がないということを、玉三郎は台詞のテンポを変えないことで表現して見せるのです。この台詞廻しが、吉之助の記憶のなかに残っている、40年ほど前の玉三郎の狂乱の場でのマクベス夫人の台詞廻しとまったく同じ軽やかさなのです。

ここで表現されるものは、言葉のどうしようもないほどの軽さ、想念のどうしようもないほどの軽さです。淀君が泣こうが喚こうが、彼女を取り囲む状況は、彼女と敵対したまま、頑として変わることがなく、ただ冷淡に彼女を見詰め返すだけです。本来ならば、想念が変われば台詞の色が変わりテンポが変化するのが、自然でしょう。そうならないのは(淀君がそうできないのは)、淀君を取り巻く状況がそれほどまでに強固で動かし難いということです。淀君の台詞が変化しないのは、状況に対して彼女の言葉がまったく無力だということを示しています。逍遥が『ひとりの上にして、その実は人間全体、世界全部の上に関係するのであるというような ・・』と云うのが、それです。淀君を取り巻く状況が、そのまま豊臣家の運命、滅びゆく偉大なる時代に重なっていきます。(この稿つづく)

(H29・10・28)


○平成29年10月歌舞伎座:「沓手鳥孤城落月」・その2

玉三郎の淀君は初役ですが、本人に拠れば「以前から手掛けてみたいと思っていた役」であったそうです。淀君は五代目・六代目歌右衛門という歴代俳優協会会長の当たり役で、何となく功成り名遂げた立女形の行き着くところという感じです。芸の格ということだけでなく、いわゆる世俗的な権威の重さにおいてもです。そのせいか吉之助は根拠もなく玉三郎は淀君に興味ないのだろうと思っていたので、玉三郎が淀君を演じると聞いてちょっと驚いたのですが、やっぱり淀君という役が背負う大きさ・重さと云うものは、それだけで役者の意欲を掻き立てるものなのでしょうねえ。しかし、玉三郎の透明な芸風は、吉之助の記憶のなかに今も強烈に残る六代目歌右衛門の濃厚な芸風とはまた異なるものであるので、ちょっと淡い淀君になるかなという気もしました。

今回(平成29年10月歌舞伎座)の玉三郎の淀君を見て、実は吉之助は玉三郎がその昔に演じたマクベス夫人を思い出したのです。それは今から約40年前の、昭和51年(1976)2月、日生劇場での「マクベス」でのマクベス夫人(共演のマクベスは平幹二朗)のことです。吉之助の「女形の美学」にも書いたことですが、これは吉之助にとって玉三郎発見の舞台であり、それ以後の吉之助が歌舞伎にのめり込むきっかけにもなったものでした。吉之助を魅了したものは、玉三郎のマクベス夫人の「軽やかさ」でした。様式的なものは確かにしっかりあるのだけれど、アクの強さ・重ったるさ、伝統的な女形芸につきまとうエグい要素から解放された軽やかさなのです。吉之助のなかで、40年前のマクベス夫人の記憶と平成の現在の淀君に繋がるものを見出して、「なるほどこれなら確かに玉三郎の淀君だなあ」と思いました。

「沓手鳥」執筆に当たり逍遥が淀君にマクベス夫人を イメージして書いたというのはあり得る話ですし、多分、そうで す。ここで前章で引用した逍遥の『ひとりの上にして、その実は人間全体、世界全部の上に関係するのであるというような ・・』という文章に注目してもらいたいのです。淀君は稀代の悪女みたいな言われ方がよくされます。しかし、逍遥が描きたかったのはそのような淀君ではなく、淀君もひとりのか弱い女性・か弱い母親でしかないということなのです。権謀術数の駆け引きに疎い女が、政治の表舞台に否応なく引きずり出されて、ただ豊臣家大事・秀頼可愛いやで取り乱しているだけのことです。そういう女の愚かしい振る舞いが豊臣家を滅亡に導いていくことになる。それはひとつの輝かしい時代の終わりを告げるものですが、淀君の悩乱のなかに滅びゆく時代の嘆きの声が重なって聞こえて来るような気がします。ですから実はこれは逍遥なりの「神々の黄昏」(ワーグナーの楽劇のこと)であって、この戯曲が書かれた明治30年(1897)という世紀末の雰囲気を濃厚に引きずるものです。上掲の逍遥の文章をそのように読むべきなのです。

多分、歌舞伎の淀君は、「ヤイこの日本四百余州は、みづからが化粧箱も同然じゃぞ」というような台詞を重く読み過ぎているのです。江戸時代には淀君は豊臣家を滅ぼした悪女とされていたわけで、まあこうなるのも歌舞伎の自然の流れではあります。これは歌舞伎での平清盛の描かれ方を見ても分かります。淀君を当たり役にした五代目歌右衛門が、「日招きの清盛」も得意の演し物にしたことは、とても興味深い符号です。しかし、逍遥は新しい時代の歌舞伎、新しい史劇を書くことを意図したはずです。逍遥意図したことは、生身の一個人としての淀君の心情を描き出し、淀君の悩乱が人間全体、世界全体の様相と象徴的に重なって来るように仕掛けることでした。

だとすれば「ヤイこの日本四百余州は、みづからが化粧箱も同然じゃぞ」という台詞も、豊臣家を滅亡に導いた大悪女の傲慢極まりない台詞として重く読むのではなく、ひとりの女の取り乱した哀れな有り様として軽く虚ろに、或る意味で滑稽に読むこともできるはずです。このことは逍遥が影響を受けた19世紀末の世界的な芸術思潮から来ます。玉三郎の淀君の軽やかな台詞廻しは、吉之助にそのようなことを考えさせるものです。(この稿つづく)

(H29・10・24)


○平成29年10月歌舞伎座:「沓手鳥孤城落月」・その1

坪内逍遥の「沓手鳥孤城落月」が雑誌「新小説」に発表されたのは明治30年(1897)9月のことですが、初演されたのはもう少し遅くて、明治38年(1905)5月大阪角座のことでした。この時は淀君と片桐勝元の二役を十一代目仁左衛門が演じてかなりの好評を得たようですが、糧庫の場で竹本を使うなどの改変があったそうです。作者の意図に近い上演は、その翌年の明治39年3月東京座での上演で、この時の配役は五代目歌右衛門の淀君、勝元の十一代目仁左衛門で、以降、五代目歌右衛門は淀君を最高の当たり役としたことは周知のとおりです。ちなみに明治37年〜39年というのは歌舞伎史的に重要な時期で、同じく逍遥の「桐一葉」初演が明治37年3月東京座、「牧の方」初演が明治38年5月東京座です。つまり新歌舞伎という新しいジャンルの誕生を告げるものでした。

「桐一葉」が初演された(執筆はそのずっと前で明治27年)のが、これが歌舞伎が座付き狂言作者ではない外部作家の作品を上演した最初のことでした。顔合わせの時に役者たちは「どこの誰だか知らぬ外部の作家に歌舞伎が分かるのか」という雰囲気であったそうです。ところが並み居る役者たちが逍遥の本読みを聞いて吃驚してしまったのです。なにしろ逍遥は九代目団十郎の大ファンで、団十郎に片桐勝元を演じてもらいたくて、この芝居を書いたのです。しかし、団十郎は明治36年に亡くなりましたから、その夢は叶いませんでしたが、逍遥は団十郎の息で本読みをしたからです。役者たちは「芝居をよく知っている偉い先生だなあ」と感心して、神妙に役を勤める気になったそうです。もし逍遥の本読みが下手だったならば、その後の新歌舞伎の道程は10年かそこら遅れたかも知れません。

逍遥の本読みの録音は、結構残っています。早稲田の演劇博物館に行けば「沓手鳥孤城落月」の音源(昭和6年10月ポリドール録音)など聴くことができます。間合いを取らずにサッサと読んでいるので芝居っ気というものをあまり感じ ませんが、勘所でのリズムの力強さ・抑揚の巧さは、逍遥の本読みの確かさを示すものです。一方、五代目歌右衛門(淀君)・十五代目羽左衛門(秀頼)・七代目中車(氏家内膳)の豪華顔合わせの「沓手鳥孤城落月」の音源(昭和6年ポリドール録音)も残っています。しかし、これを聴くと歌右衛門の台詞はさすがに当たり役だけになかなかのものですが、羽左衛門も中車も様式を理解せず自分勝手にしゃべっていてひどい出来です。特に中車はこれでいいのかと思うような、旧態依然のだるい七五の台詞回しなのでがっかりします。この録音については逍遥が日記(昭和6年6月21日の項)に「試聴してその拙きとイキの合わぬに呆れる」と書いているので、笑えます。

逍遥は新しい史劇の確立を目指し、シェークスピアの作劇術と歌舞伎の演出技法を合体させたような感じでこれらの作品を書いたのですが、その逍遥が「九代目団十郎の息で本読みをした」ことは、とても大事なことです。肚芸と得意とした団十郎は「余韻を重んじ・言葉が少ない」のを良しとしました。逍遥は明治45年(1912)に次のように書いています。

『初期の明治は、截然(せつぜん)たる移り変り時であって、すべて物事が判然している。勝つも敗るるも、空竹を割ったように始末がついていた。このきびきびした時代精神を表すには、団十郎の芸風が最もふさわしいものであった。しかし今はもうそういう時勢ではない。移り変り時代たるの機運はなお続いているが、いかにも曖昧で、無解決で、あやふやで、成敗去就ともにほとんど誰にも解りかねて、 昨日の楽観者が悲観者になるまいものとも知れず、大抵の人の心が、ともすれば不安の状態にある。ひと言を以って言えば、無解決の時代、不安の時代、煩悶の時代、神気疲労の時代である。それゆえ同じく煩悶を表すにしても、今日の人物を表そうとするには団十郎のそれとは全く様式を別にしなければならぬ。深刻な、もっと細緻な、もっと痛切な、一家、一城、一国限りの浮沈栄衰に関するにとどまらぬーひとりの上にして、その実は人間全体、世界全部の上に関係するのであるというようなー苦痛や憂愁が具体的にされねば慊(あきた)らぬという注文が、作者にもあれば見物人の心にもある。時代精神が変わったと共に、作意も作風も変わりまた変わりしつつあるのである。したがって芸風も根底から一新されねばならぬのである。』(坪内逍遥:「九世団十郎」・明治45年9月)

『ひとりの上にして、その実は人間全体、世界全部の上に関係するのであるというような』という逍遥の文章に、滅びゆく豊臣家の運命に翻弄される淀君という一個人を重ねて読んで良いと考えますが、このことは後で述べることにします。逍遥が「余韻を重んじ・言葉が少ない」を良しとした団十郎の簡潔で力強い芸風を理想としつつ、これを新たな二十世紀、無解決の時代、不安の時代、煩悶の時代、神気疲労の時代にどのような形で変えて行こうとしたか、ここが大事だと思うのです。結論を先に言えば、逍遥はこのようなアジタートな(気ぜわしい・急きたてられた)気分を、タンタンタン・・・・という速い畳み掛ける基本リズムに託したのです。これが逍遥のシェークスピア研究の成果でもあったことは、別稿「アジタートなリズム・新歌舞伎のリズム」のなかで触れました。(この稿つづく)

(H29・10・19)


○平成29年10月国立劇場:「霊験亀山鉾」・その2

同じ南北物でも「東海道四谷怪談」は、人気狂言のため上演が重なり、良く言えば演出が洗練されて来た、悪く云えば役者の仕勝手で手垢にまみれています。だから大歌舞伎での「四谷怪談」の舞台は、南北物の乾いた感触があまり感じられません。 役者は台詞を七五に割ってしゃべる。テンポも粘って遅い。どちらかと云えば黙阿弥物に近 く、暗く湿った幕末歌舞伎の感触になっています。

一方、
「霊験亀山鉾」はあまり上演がされませんから 、新作に近い感触です。だから芝居が役者の仕勝手で崩れていません。 今回(平成29年10月国立劇場)の舞台も、役者の方も初めて読む慣れない台詞を苦労して覚えて懸命に演技しています。アクセントや抑揚でおかしなところも散見されますが、南北の台詞をあからさまに七五で割ってしゃべる役者 がいないので、総体としては南北物の面白さをそれなりに出せています。 南北物の台詞は、新劇に近い感じでしゃべった方が良いのです。「四谷怪談」もこんな風に初心に戻ってやってくれれば良いのだけどねえ。

南北物の台本アレンジは頭が痛いことです。上演時間内に収めるために、初演台本の筋のどこかを切り捨てなければなりません。もともと筋が錯綜しているので、切り捨てると筋が噛み合わない場面がどうしても出て来るということになってしまいます。しかし、今回はなかなかテンポ良く出来たのではないでしょうかね。 ただ短い場が続くのは筋立て上仕方がないですが、頻繁に幕を閉めたのでは芝居の興が冷めます。大変になるのは大道具だと思いますが、ここは回り舞台を使ってスピーディな場面転換が求められると思います。

これは台本アレンジにも関連することですが、南北の悪人に陰影の深さ、或はそれに相応しいまっとうな動機を求めても無駄だと思います。そんなところにこだわらず、場面場面の面白さに重きを置いた方が、南北物のアレンジは上手く行くのではないでしょうかね。南北が描く悪はどこかマンガチックであると書きました。南北が描く悪とは、善方を嬲りいたぶって、彼らに大願成就への試練を与える為だけに存在している悪です。つまり薄っぺらな悪なのです。そのような南北の悪人像は、個性的な鼻高のマスクを持つ五代目幸四郎と云う稀代の名優を得て初めて可能になったものです。この点、仁左衛門の水右衛門はカッコ良 いから、ニヒルでスケール大きい悪を演じようしていますが、感触からするともうちょっと軽めに演じた方が本来に近いかも知れませんね。水右衛門と面体がそっくりという設定になっている世話の悪役・八郎兵衛の方は、仁左衛門は生き生きと演じて面白くなりました。水右衛門と八郎兵衛の二役を対照付けて演じ分けるというのでなく、「どちらがどちらかよく分からん」という感じに演じ れば、より南北の意図に沿うものになると思います。

(H29・10・15)


○平成29年10月国立劇場:「霊験亀山鉾」・その1

四代目南北の「霊験亀山鉾」は文政5年(1822)七月江戸河原崎座での初演。近年は上演の機会が少ないですが、いわゆる「返り討ち物」の傑作として名高いものです。返り討ち物については平成24年四月国立劇場「絵本合法衢」の観劇随想でも触れました。仇討ち物というのは、追っ手である善人方が敵(悪人方)を追い求めて艱難辛苦の試練の果てにこれを討つ、その過程に観客の興味があるのです。善人方が受ける試練には、いろいろなパターンがあり得ます。例えば「六段目」で勘平が舅殺しの疑いを受け・本人自身も舅を殺したと思い込んでいるので腹切りに至るという悲劇、これも広義において状況からの返り討ちであると云えます。この試練によって仇討ちに賭ける勘平の心情( 忠義)が試される、これが「六段目」のドラマなのです。ですからすべての仇討ち物は返り討ち物であると言って良い ものです。「霊験亀山鉾」のように、追っ手である善人方が敵の計略に掛かって無残にも迎え討ちされるというのは、その意味でもっとも分かりやすい返り討ち物です。

返り討ち物は悪人が憎々しくなければ盛り上がりません。善人方が「ああ可哀想に・・ああ無残なことだ・・」という殺され方をされると、殺された者の死を引き継いで別の仲間がまた敵を追う、 彼らの怨念はますます強いものとなって行きます。その果てに大願成就があるのです。善人方(追っ手の側)の清らかさ・正しさを際立たせるために、悪人があるのです。悪を描くために返り討ち物があるのでは ありません。歌舞伎の解説に悪の美学なんて言葉がよく出てくるものだから誤解してしまいますが、南北の感性はとても健康的なものです。南北が描く悪は、どこかマンガチックであると云っても良い。五代目幸四郎が演じた水右衛門に関しても、バットマンに対するジョーカーみたいな悪人を想像した方が良いのです。

ところで「霊験亀山鉾」が何で「霊験」なのかと云うと、本作の大詰めが亀山曽我八幡宮の祭礼の日に設定されているからです。曽我兄弟が富士の裾野で行なわれた征夷大将軍源頼朝の催す大巻狩りにおいて仇敵工藤祐経を討ったのは建久4年(1193)5月28日のことでした。以来、民衆にとって曽我兄弟は大願成就を叶えてくれる有難い神様となりました。亀山曽我八幡宮の祭礼は、これに因んで行われるお祭りです。これは曽我兄弟のご加護で今日こそかたき討ちの大願が成就するということを示しています。ホントは「霊験亀山鉾」は五月狂言として南北が書いたものなのでした。これが7月の初演になってしまったのは、ちょうど初日前に楽屋で失火があって5月の上演が出来なくなって7月まで遅れてしまったという事情がありました。

「霊験亀山鉾」には仕掛けがまだあります。石井兄弟の仇討ちに立ち会う勢州亀山家の重臣・大岸頼母と主税親子のことです。この名前に大石内蔵助が暗示されています。元禄赤穂事件は、太平記の世界に仮託して「仮名手本忠臣蔵」(大星由良助)として歌舞伎になりましたが、昔は小栗判官の世界に仮託したもの が数多く作られました。例えば「大矢数四十七本」ですが、ここに登場する忠臣が大岸宮内です。「霊験亀山鉾」 に大岸親子が出るとなれば、これが大石内蔵助・主税親子を指していることは、当時の観客にはすぐに分かったのです。

実説の亀山の仇討ちに大石が絡んだ史実はありませんが、仇討ちは元禄14年(1701)5月9日のことでした。一方、赤穂義士の吉良邸討ち入りは同じ年の12月14日のことで した。南北がこの場に大石を登場させた意図はどこにあったのでしょうか。半年後に仇討ちを敢行する大石が、石井兄弟の大願成就を見届けて、これを我が手本 とするぞという意図でしょうかねえ。(この稿つづく)

(H29・10・11)


○平成29年9月歌舞伎座:「彦山権現誓助剣・毛谷村」

花形ふたりの共演で期待しましたが、機嫌よく演じている雰囲気は伝わってきますが、如何せん水っぽい感じで、そこにちょっと不満が残ります。正直申して、染五郎・菊之助ならば、 ここはもうちょっと仕出かして然るべきと思います。もちろん型通りのことはちゃんと演っていますが、何と云ったら良いですかねえ、竹本から遊離して芝居をやっている印象がします。役者は木偶ではないですから糸に丸乗りすることは戒めなければなりませんが、竹本から離れてしまってはいけません。竹本、特に三味線が指し示すリズムと音程をしっかり押さえて演技が出来るように、もっと高次の段階においては役者の方から竹本と対話するようにリズムを押して行かないと義太夫狂言の本当の面白さは出せないと思います。染五郎・菊之助ともにそこに不足を感じます。

染五郎の声はもともと低調子なのだからそれで行けばよいのに、六助の人柄の良さを出そうと云う心か、台詞を高調子に取っていますが、これは台詞の調子を下げた方が竹本と調和するはずです。竹本と遊離した印象がする一番の原因はそこでしょう。虚無僧の正体を見透かして「なんとでごんす梵論字どの」から、太鼓を叩きながらお園へ物語する段取りが、せせこましい。演技のリズムが 浮いた感じがします。物語はリズミカルにやると云うのではなく、リズムをしっかり押さえる。こういうところをゆったり演じられれば六助と云う人物の大きさと余裕がもっと出て来ると思うのですが。

お園は虚無僧姿の時に娘の本性を垣間見せる必要は必ずしもない(四代目雀右衛門もここはほぼ男で通したと思います)ですが、相手が六助と分かってからのお園は、やはり娘への変わり目をはっきり見せて、六助への情(と云うか媚態か) を出さないと面白くならないと思います。菊之助のお園がやや性根違いの印象がするのは、女武道というところを強く見過ぎに思えることです。クドキにカラミを使うのはそれはそれで良いけれども、段取りがこれも何となくせせこましい。ここは性根を娘の方にきっちり置いて、あらイヤだ思わず男勝りが出ちゃったわという感じにゆったり間合いを取って演じれば、それで良いのではないでしょうか。

(H29・9・22)


○平成29年9月歌舞伎座:「ひらかな盛衰記・逆櫓」

今月(9月)歌舞伎座の「逆櫓」は、充実した舞台になりました。松右衛門内は平成20年9月歌舞伎座の時と同じ配役ですが、この時の舞台については吉之助は観劇随想で全体の感触が幾分時代に寄って重いということを書 きました。「ひらかな盛衰記」はもちろん時代物ですが、「逆櫓」は三段目、つまり時代物のなかの世話場です。名もない庶民が政争・戦乱に否応なく巻き込まれて行くことの悲劇を描くものです。ですから、各役共に演技の基調をもう少し世話の方に置いて、そこに時代の斬り込みを 鋭くいれてもらいたいと注文を付けたわけです。それから9年の時間が経過したわけですが、今回(平成29年9月)の舞台では吉右衛門(樋口)・歌六(権四郎)・東蔵(およし)・雀右衛門(お筆)とも、さすがにみなさんそれぞれ一段と技芸が上がったことが確認できました。今回は、余計な力が入るところがなく、それが世話の感触に通じるところのテンポの良さ、軽やかさを演技に与えています。これでこそ三段目の感触になります。このような着実な技芸の深化が見えたことは嬉しいことです。長いこと芝居を見続けて来た甲斐があったと云うものです。

吉右衛門は、昨年の「一條大蔵卿」と云い・本年の「弁慶上使」と云い、近年の充実振りは目覚ましいものがあります。今回の樋口も素晴らしい。吉右衛門は樋口の見顕わしで門口で外をグッと見込む形、「樋口の次郎兼光なるわ」の見得など実に大きくて立派なものです。これはまあ吉右衛門ならば これくらい当然だろと云うところですが、今回良くなったのは、上手一間から若君を伴って登場し・やがて樋口の本性を顕わす場面で、台詞が決して重くならず、世話の松右衛門を基調に置いたことがよく分かる台詞廻しで あったことでした。この世話の基調があってこそ見得による時代の表現がグッと生きて来るわけです。一方、権四郎に亡き孫の笈摺を捨てようとするのを「なんの誰が笑ひましょ」と止める台詞はしみじみと情がこもって これも良いもので、ここは歌六の権四郎も良くて、ホロリとさせるいい場面になりましたねえ。

(H29・9・19)


○今後の観劇随想について

本サイトでの観劇随想(歌舞伎舞台の記憶)は、目次に添付した文章「舞台の芸は消えていく・されども・・〜過去の映像を見ることの意義」をご覧になると分かりますが、もともと舞台映像 (ビデオ)を見た随想を掲載するためのコーナーでした。これはサイト設立当初(17年前)は吉之助が別に仕事を持っていて忙しかったので、歌舞伎座に毎月芝居を見に行けなかった事情が背景にありました。 また当時は歌舞伎チャンネルという衛星放送があって、最新の歌舞伎の舞台映像が割合多く見られたこともありました。 (生の舞台を見たものでも、映像で印象を再確認できるのは有難かったのですがねえ。現在は松竹衛星劇場があるとは云え数が少なくて、これがなくなったのは、いろんな意味でとても残念です。)だから観劇随想では、初代吉右衛門の「熊谷陣屋」とか、六代目菊五郎の「鏡獅子」とか、吉之助が生まれる以前の古い舞台映像も取り上げています。もともと吉之助はクラシック音楽の方でも、生(なま)の演奏会とレコード鑑賞に区別を付けない聴き方です。歌舞伎では生(なま)信仰が強いことは承知していますが、吉之助はビデオでは役者のホントの息は分からないなんてことはまったく考えてません。正直申しますと、最近の歌舞伎座のお客はザワザワマナー悪いし(昔がマナー良かったわけではないが、再開場後はちょっとひどくなりましたね)、映像の方が落ち着いて芝居を見られるから好きなくらいなんですがね。

吉之助の「十八代目中村勘三郎の芸」も改めて故・勘三郎の映像を見直して書きましたが、吉之助も勘三郎は長く見てきたので、記憶だけで十分書けるくらいの材料はあります。しかし、敢えて映像を前面に出したのは、読者の方が「勘三郎のこの映像を見たいな」と思えばリファーし確認ができるようにするためにそうしたのです。だから映像が遺っている役(舞台)に限って取り上げたのです。残念ながら、現在のところ、歌舞伎の映像はクラシック音楽のように市販されたり気軽に見られる状況にありませんが、どうしても見たいと思えば、どこかに故・勘三郎の映像が残っていて、探せば見られるということは、結構大事なことであると思います。だからと云って吉之助のところに映像ダビングしてくれとメールされても受けられませんが(著作権上の問題がある)、然るべき機関(例えば演劇博物館とか大谷図書館とか)で舞台映像資料を視聴できる環境を整えてくれれば良いなあと思います。

とは云え吉之助も仕事のスタンスが変わって、数年前くらいから歌舞伎座へ行ける回数が増えてきたので、サイトの観劇随想も、だんだん生で舞台を見て直ぐに文章を書く傾向に変わって来ました。このところほぼ毎月、何かの形で観劇随想をアップしていることは、ご存知の通りです。まあサイトのアクセスを稼ぐ為には、確かにその方が良いわけです。読者の方も今月か先月に見た舞台の論考が読みたいと、楽しみにされていることと思います。これはこれからも続けていくつもりです。

しかし、そういうわけで最近は忙しさに取り紛れ、古い舞台映像をゆっくり見直して論考を書く機会がめっきり減ってきました。ここらで吉之助としては、観劇随想(歌舞伎舞台の記憶)コーナーで時空を超えた演劇空間を構築した いという初心に立ち返りたいと考えているところです。これから不定期、断続的になると思いますが、吉之助の手元にある古い舞台映像資料やその他を見直して、観劇随想を執筆し、コーナーを充実させていきたいと考えています。いつの何の舞台を取り上げるかは、まだ分かりませんが、何が出るかお楽しみにしてください。

(H29・9・14)


〇平成29年7月歌舞伎座:「盲長屋梅加賀鳶」

吉之助は近年の黙阿弥上演は感触が時代の方向へ重ったるくなっているので、「もっと世話に・写実に」ということを何かにつけて書きたくなります。若手の歌舞伎らしさの感覚が 、南北も黙阿弥も新歌舞伎も区別が付かない、一様なkabuki感覚になりつつあります。そのなかで一番危機に瀕しているのが黙阿弥ではないかと思いますが、しかし、今回(平成29年7月歌舞伎座)の海老蔵初役の道玄を見ると 、これは独自の道を行くものと云うか、また不思議な道玄ですねえ。

確かに存在感がある道玄だとは云えます。ただし舞台に立っているのが道玄ではなくて海老蔵だなあという感じがします。何だか素で立っている感じです。印象からすると大きいのですが、かと云って時代というわけでもなく、パサパサの感覚で演技に粘りっ気が乏しい。 だからと云って世話というわけでもなく、様式ということがあまり思い浮かばない道玄なのです。海老蔵が考えてないということではなく、海老蔵のなかにある様式感覚が役と波長が合ってないということでしょう。役者の仁のことを云えば、海老蔵は道玄よりは松蔵の仁だろうと思います。それは兎も角、敢えて海老蔵が生世話の代表的な役である道玄を演ろうというならば、それなりの設計図が必要になるでしょう。

まあ歌舞伎というのは役者の味でするものであるし、それなりに観客が反応しているのも海老蔵という役者の華ゆえだと思います。しかし、「もっと世話に・もっと写実に」というアドバイスを海老蔵に入れるのは、その大きさを小器用さで損なってしまいそうで、適切でない気がします。そこで、もし「加賀鳶」初演の道玄が五代目菊五郎ではなくて、九代目団十郎であったならどんな道玄が出来たかみたいなことも想像しながら、海老蔵にどんなアドバイスが必要か考えてみ ることにします。本来ならば押し引きの感覚(世話の活け殺し)と言いたいところですが、敢えて押しの要素だけでも考えてもみたらどうでしょうかね。まずはそこから始めてもらいたい。そうすれば、もっと演技に粘りっ気が出てくると思います。

それは何でもないことです。例えば質見世のゆすり場で松蔵に痛いところを指摘されて道玄が思わず煙管をポロリと落とす場面では、海老蔵は松蔵に言われる間もなく煙管もパッと落としてます。何だかタイミングを計っているようで、「ここは煙管を落とすお約束だ」と決めつけてる印象がします 。アッサリ悪事を割 っていて、観客に分かりやすい演技かも知れないが、「みなさん、ここが面白い箇所です、さあ笑ってください」と云う感じで、役よりも役者が素で出ています。こんな箇所ばかりが「加賀鳶」の見せ所だと思われても困るのだが、ここは敢えて海老蔵の仁ならばここでもう少し間を引っ張る、ぐっと息を溜めて「畜生」という感じで松蔵を睨みつけて煙管を 思わずポロリと取り落とす、そのくらい間を引っ張ったって良いのです。瞬間的に時代の方向へ演技を引いて、煙管を落とすきっかけで演技をサッと元に戻す、息の間合いで芝居っ気も出るし、海老蔵が持つ存在感を活かすことが出来ます。観客を笑わせないことを考えてもらいたい。そんなことを云いたい箇所がいくつもあります。

黙阿弥の面白さは、世話と時代の感覚の揺れ動きにあります。それは役者の仁によって変わるのは当然のことで、自分なりの揺れの波長パターンが在って良いのです。だから海老蔵は海老蔵なりの道玄を作れば良いのですが、結局、大事なことは演技の押しと引きの間合いの感覚なのです。 それが様式になります。海老蔵は肝心のところでそこの工夫が足りません。早くそういうセンスを見出して欲しいと思います。

(H29・9・5)


○平成29年8月歌舞伎座:「刺青奇偶」・その2

今回(平成29年8月歌舞伎座)の舞台は玉三郎演出ですが、確かに七之助のお仲 は玉三郎によく似て声もそっくりに聞こえます。しかし、序幕の台詞の調子は語調が強くて、捨て鉢で嫌味な感じがちょっと します。そこが今後の改善点と思いますが、もう少し情を深くお願いしたいですね。長谷川伸が夢のなかで見たお仲は、どんな女だったのかなあということを考えてみたいですねえ。例外なくそれはいつも、黙って立ち姿をみせる、その昔、そうした女を友達に多く持っていたこともあり、歳月を経ても心のどこかに忘れかねるものがあるのだろうと長谷川は書いています。友達ってどの程度までの女友達だったのかなあ。幸せ薄そうな寂しい印象がしますが、どこか人恋しいところがあって、「あの女、今はどうしているか、幸せに暮らしているだろうか」とふと気に掛る女ということでしょうかね。

ところ「刺青奇偶」は映画タネのせいか、展開が早くて、ちょっと余白が多い感じがしなくもありません。気になるのは、お仲と一緒になって幸せを得たはずの半太郎はやくざ稼業から足を洗ったのに何故博打を止められずに来たのか、半太郎の心の闇があまり描かれていない点です。 半太郎を探し回っている両親が出て来るけれども、いまいち心に絡んでこない気がするんですよねえ。吉之助には 、ちょっとそこが本作の弱みに思えます。長谷川の主人公はどれも愛する女を幸せにしてやりたい気持ちは人一倍強いのだけど、自分は女の愛情を受けるに値しない駄目な野郎だという引け目がこれまた人一倍 強い、それで女の幸せにふさわしくない自分をずっと責め続けています。ですからこれでやっと二人の幸せが来そうな場面になると、男は女に気づかれないように静かに身を引くというパターンが多いようです。半太郎もこのパターンに乗っているので、作者はあまり説明を加える必要を感じなかったのかも知れませんが、いずれにせよ半太郎のコンプレックスと云うか 暗い陰と云うか、台本に不足しているそういうところは、役の雰囲気で補ってもらいたいものです。そうでないと、二の腕に諫言のサイコロを刺青してもらったのに、その瀕死の女房を置いて、再び賭場に出掛ける 危急性が見えて来ない。単に金が要り様だという理由なら、全然反省してないモデルの坊主竹と何ら変わりありません。これでは芝居が陳腐に見えて来ます。諫言のサイコロを裏切ることが女房を裏切ることだと覚悟のうえでの勝負なのです。 裏返せば、それくらい半太郎はお仲を大事に思っているということです。中車の半太郎は全体として演技がサラッと乾いた感触で、人物の暗い陰が見えてこない。何だかいい人になってしまっています。その辺に研究の余地ありというところです。もう少し演技の間を深く取ってみれば良いのじゃなかろうか。

中車はたいぶ歌舞伎に慣れ て来た感じはしますが、サラサラと滑らかにしゃべっただけでは、まだ新歌舞伎の様式になって来ません。常夜燈脇でお仲を突き倒して言う「見損なうな、何でえ。・・・たったひとつのサイコロの丁目半目が野郎と阿魔なら・・・」以下の啖呵の長台詞は大事な台詞で、ここが駄目なら序幕の半太郎は生きてこないのですが、中車は 勢い付けてるつもりでしょうが、台詞がまくれてしまっています。もっと言葉ひとつひとつを明確にしゃべることです。それで台詞にリズムが付いてきます。無闇に早くしゃべろうとせ ず、言葉ひとつひとつを明確にしゃべれる適切な速度でしゃべることです。これで演技の間の取り方もだいぶ違ってくるでしょう。

(H29・8・29)


○平成29年8月歌舞伎座:「刺青奇偶」・その1

長谷川伸の「刺青奇偶」は、昭和7年(1932)6月歌舞伎座での初演。配役は、六代目菊五郎の半太郎、五代目福助のお仲、十五代目羽左衛門の政五郎でした。

作者長谷川によれば半太郎にはモデルがあって、明治の頃に実在した三下博徒の坊主竹五郎、略して坊主竹と云う人であったそうです。この人は五代目菊五郎の弟子である尾上蟹十郎(二代目)の知人で、蟹十郎から聞いた話を六代目菊五郎が何かの折に長谷川に話して、長谷川がメモっていたネタだそうです。それに拠れば、坊主竹の女房の前身は新吉原の遊女で、亭主の博打好きに散々の苦労をして、病気になって余命がないと知るや、亭主に頼んでその二の腕にサイコロを刺青し、私の死んだあとでこれを見て遺言だと思っておくれと云って死んだ。坊主竹は女房の遺言を気に掛けず博打を続けていましたが、博打をすると二の腕のサイコロが痛むので、着物のうえからサイコロをそっと叩いて「もうこれっきりだ」と云って博打をしていたそうです。これは長谷川の「材料ぶくろ」(昭和31年出版)のなかに出て来る話です。

それと「材料ぶくろ」には出て来きませんが、長谷川はアメリカ映画の「紐育の波止場」から「刺青奇偶」のヒントを得たことが明らかです。長谷川は映画好きで、アイデアを映画から取り入れることがしばしばあったようです。映画監督の稲垣浩がこんな思い出話をしています。

『戦後のある日先生に、アメリカ映画の「シェーン」は「沓掛時次郎」の焼き直しではないですかと話したことがあった。先生の答えは「あれは上手に作ってあるね」だった。抗議してはどうですかと言ったら、「なあにこっちも「紐育の波止場」にヒントを得て「刺青奇偶」を作ったのだからお会いコさ」と笑い飛ばされた。」(稲垣浩:「長谷川先生に学ぶ」・長谷川伸全集月報9)

「紐育の波止場」(The Docks of New York)は1928年に制作されたアメリカ映画(ジョセフ・フォン・スタンバーグ監督)で、サイレント映画の名作とされているそうです。翌年・昭和4年 に日本でも公開されて話題になりました。七つの海を股にかけてきた蒸気船の火夫のビルが、男に捨てられ絶望から海に身を投げた娼婦のメイを救ったことから愛に目覚める ・・という筋書です。(Youtubeで映像を見ることが出来ます。)長谷川は、「紐育の波止場」から身投げした見知らぬ女を男が助けて愛に目覚めるという発端を拝借し、これに六代目菊五郎から聞いた坊主竹の逸話を 絡めて、「刺青奇偶」に仕立てたわけです。

従来の芝居だと話を因縁仕立てにしてしまうところですが、「刺青奇偶」は男と女の愛の発端を偶然の出会いにしたところが新鮮で、外国映画からヒントを得たというのは、なるほどそこが新歌舞伎らしいところなのだな・・と思います。半太郎もお仲も、その前身に暗い蔭を引きずっています 。その辺は匂わせていますが詳しくは描かず、「観客のみなさま、どうぞお察しください」という感じで済ませています。大詰・幕切れもそうで、吉之助は初めて「刺青奇偶」を見た時はこの場で終わるのが尻切れトンボの印象がして、この後に半太郎がお仲の 枕元に駆けつける場が続くのをカットしたのかなと思いましたが、実は長谷川の台本がこうなっているのです。その後の展開は察してくれというわけです。 そこに余韻が出て来る。そこらも長谷川が映画から学んだテンポアップの工夫でありましょうか。

ところで長谷川は「刺青奇偶」の女主人公お仲に思い入れがあったようで、こんなことも書いています。

『自分の書いた戯曲のなかの、「あの男」を夢に見ることはないが、「あの女」を時に、それこそ実に思いもかけず夢に見ることがある。例外なくそれはいつも、黙って立ち姿をみせる、ただそれだけを夢に見るのである。その後の二、三日は気にかかるが、いつか又忘れて日がたち月がたつのが例である。(中略)「書いた戯曲のあの女」で、「ふと夢に見る」のは二人だけ、「沓掛時次郎」のお絹と、「刺青奇偶」のお仲だけである。』(長谷川伸:「材料ぶくろ」)

「刺青奇偶」初演の稽古の時、六代目菊五郎が長谷川の傍に行き、「この女の性根が俺には分からねえ」と言ったそうです。長谷川は「君と僕とでは通って来た人生の街道が違うからそうなのだ。僕はこうした女を友達に持つような過去があったのだから、僕には分かるんだがなあ」と言いました。菊五郎が承服しない顔つきだったので、さらに「この女は、坊主竹とかの女房ではなくて、僕の過去の中にいた女がモデルなのだけどね・・」と言ったそうです。菊五郎は黙っていたけれど、「私の説を肯定してくれたとは思っていない」と長谷川は書いています。(この稿つづく)

(H29・8・25)


○武智鉄二のことなど

吉之助の三冊めの編著になる「武智鉄二 歌舞伎素人講釈」が本屋さんに並んで2週間ほど経ちました。毎度のことですが、この本売れてくれないと、次の本が出せませんから、売れ行きはやはり気になりますねえ。吉之助も街の大きな本屋さんで本棚チェックしたりしてしまうけれど、みなさん、本屋さんで是非本を手に取ってみてください。

ところで武智鉄二のことですが、没後30年近く経っている(武智が亡くなったのは1988年7月26日)ので、武智の名前を知っている方も少なくなりました。世間に記憶されているのは、どちらかと云えば映画の分野の武智鉄二の方で (それも限られたマニアックな映画ファンですが)、どうも伝統芸能の武智鉄二ではなさそうだなあということを、最近何となく感じています。間(ま)とか、「息」とか、ナンバとか、あるいは 型の理念とか、 伝統芸能を知り始めると必ずぶち当たる問題がありますが、本を読むとそのような疑問に答えてくれそうなものは意外と少なくて、結局、武智の著作くらいしかないわけです。それでも歌舞伎の世界で武智のことが語られる機会は、ほんとに少なくなりました。要するに、芸の理念的なことは、歌舞伎の世界では曖昧模糊として、まともに議論されていなかったのです。このことについては役者評の域を出ず理念論をおろそかにしてきた歌舞伎の劇評にも、多いに責任があると思います。

たとえば武智理論の基本概念である「原典主義」ですが、これも正しく理解されていません。例えば歌舞伎の劇評家で演出もした山口廣一は、文楽を踏襲した歌舞伎の丸本演出をしました。恐らく山口本人は、原典主義とはこういうことだと信じていたでしょう。歌舞伎にとって文楽は確かにオリジナルですけれど、こういうのはホントは原典主義と呼べないのです。これはまあ文楽至上主義ということです。(注:これは山口演出の良し悪しとは全然別の議論です。)武智が云う「原典主義」とは、原典(義太夫狂言であればテキストである丸本)を徹底的に読み込んで行う再創造行為ですから、根本的に文楽の演出を作り直すことも辞さないものです。人形じゃなくて人間がやるのだから間(ま)の取り方も違って来るし、歌舞伎の美学と技法のなかで演出を作り替えていくのは当然だろという考え方なのです。これは「文楽の演出をそっくりそのままやれば原典通りだ」というのとは、全然違います。巷間そういう区別が十分付いていると思えません。そこから武智歌舞伎に対する誤解が生じて来ます。

型とか伝承の問題についても、そうですねえ。もちろん武智は「伝統を守るとはどういうことか?」を真剣に考えていた人です。しかし、それは「〇代目○○衛門の型の手順を厳密に守るべし、変えてはならぬ」と云うことではないのです。ところが巷間そのような誤解がとても多いよう です。武智が云いたいことは、芸の「心」を守るとか・方法論を守るということです。○○衛門の「心」を掴むならば、手順はおのずとその型に似るはずだというのです。そうすると、結果的に、見た目が全然似てない手順に仕上がることもあり得りえそうですが、「心」を掴んでいるならばそれで良いじゃないかというのです。「心」を掴んでいるかどうかどうやって分かるんだという突っ込みが出そうですねえ。「答えはその者の胸の内にある」のです。「お前、それをやって胸を張って先達の前に立てるか?やましくないか?」ということです。そのような問いを常に自分に問うことが大事である。結局、それは信仰みたいなものです。

歌舞伎の見方を学ぶ過程で、もう少し理念的なものを考える機会を持つことが必要じゃないかと思いますねえ。歌舞伎道徳の時間みたいなものが必要だね。そういうことを考える為には、恐らく芸談を多く読むしか方法はありません。しかし、芸談もこれが玉石混淆で、まったく役に立たないどころか、害になりかねないものも少なからずあります。そこで吉之助の場合は、武智の本を通じて’武智の目を通して)それを選り分けることをしてきました。そうやって審美眼を磨いていくしかないのです。したがって時間も掛ります。

まあそんなことを考えるわけですが、来年(2018年)が武智鉄二没後30年という節目の年でもあるし、今回出版の吉之助の本が、武智鉄二再評価のきっかけとなるのならば、大変光栄なことであると思います。

(H29・8・13)


○平成29年4月5日・世田谷パブリックシアター:「MANSAI ボレロ」・その2

さて本稿で取り上げる「MANSAI ボレロ」は、本年(平成29年)4月5日に世田谷パブリックシアター開場20周年記念公演として行われたものです。(言うまでもないですが、野村萬斎が世田谷パブリックシアター芸術監督です。)「MANSAI ボレロ」は、ラヴェルの「ボレロ」を「三番叟」を軸とする狂言の発想と技法とか結晶化して生まれた独舞(ひとりまい)という触れ書きです。

ところで吉之助は、萬斎が舞う「三番叟」は見ておくべきもののひとつと思っています。技術的にしっかりしているだけでなく、動きに無駄がなく、かつきりした印象です。これは萬斎の天才ということもありますが、狂言の技芸というのは凄いものだなあとつくづく思います。それで「MANSAI ボレロ」もかなり期待をしたのですが、そのことは後で書くとして、今回の「MANSAI ボレロ」でも、旋回の足さばき(8分40秒辺り・10分30秒辺り)、反動を付けない跳躍(14分10秒辺り)などは、お手本としてよく見てもらいたいと思います。 この映像をご覧ください。得るところは大きいと思います。

歌舞伎批評をやる者としては悔しいことだけれども、歌舞伎でこれほどかつきりした舞いを見ることは、もはや滅多にありません。歌舞伎では旋回する時に片足踵を軸に反動つけて回る役者が多い。確かにその方が素早く綺麗にターンは出来ますがね。跳躍も反動を付けて跳んでます。確かにその方がもっと高く跳べます。だけどそういうのは農耕民族の動きではないのです。そういう雑多な(騎馬民族的な)本来的でない動きが、歌舞伎役者の動きにたくさん混入しています。武智鉄二が云う農耕民族の動きというのはこういうものなのねということは、現代の歌舞伎舞踊を見ているとあまりピンと来ません。そういうことを知りたければ、能や狂言の舞台を見た方が良いです。

と云うわけで今回の「MANSAI ボレロ」でも萬斎の舞いには目が離せませんけれど、話を本題に戻しますが、吉之助が気になったことは、全体の印象がやけに重々しいことですねえ。良く云えば気合いが入っているということでしょうか。「三番叟」のイメージを入れるということならば、吉之助としては、もっと軽やかな印象が欲しいところですが、これは陰陽師の舞いみたいな感じがします。衣裳のせいが大きいと思いますが、萬斎のキャラのせいもあるでしょう。しかし、萬斎の「三番叟」があれだけ素晴らしいのだから、今回の「MANSAI ボレロ」では、衣裳を含めた振り付けコンセプトにやっぱり問題があると考えた方が良いでしょう。

別稿「芝居と踊りと」で書いたことですが、日本の舞踊は、振りの意味を研ぎ澄ます為に、一度思い切って芝居から離れてみる必要があると思います。それは日本の舞踊が伴奏音楽の歌詞に縛られているからです。これはもちろん狂言舞踊でもそうです。今回の 「MANSAI ボレロ」のように声楽を伴わない純器楽を使うならば絶好の機会なのだから、それを試みないのは実に惜しいと思います。

「MANSAI ボレロ」もまた「ベジャールのボレロ」のコンセプトを踏襲するものであることは、見れば明らかです。「ベジャールのボレロ」は神事あるいは芸能の始原ということをイメージしています。或る者がゆっくりと動き始めます。始めは単純なたとたどしい動き をしていますが、次第に動きの自由度・雄弁さが増して行きます。やがてそれが他の者にも波及して、熱狂と陶酔が全体を巻き込んで行きます。ベジャールは「自伝」のなかで、ショナ・ミルクの「ボレロ」は敬虔な祈りの力で周囲の人々を導く巫女、ジョルジュ・ドンの「ボレロ」はその魔力で人々をひれ伏させてしまう邪教の神と云うようなことを書いています。印象の差異は素材としての踊り手の身体から来ますが、そのストーリー性(筋)は明らかです。

ところで日本の神事を折口信夫の考え方に沿って説明すると、神(まれびと)と精霊との対立があって、神と精霊の「そしり」と「もどき」の応酬がある。これが日本古代の神事演芸の基本形となります。神がシテ方となり、精霊がワキ方となり、後にワキ方が分裂して狂言となって行きます。精霊というのは神の言葉を「もどく」ものですから、もどき役から狂言が出たという云い方も出来ます。「もどく」とは、反対する・逆に出る・非難するという意味を持ちますが、芸能史では、物まねする・代わって説明するというような意味が加わり、そこから次第におどけた滑稽な芸へ転化していきます。ですから能「翁」で狂言方が勤める三番叟とは、実はシテ方である翁のもどき役であるのです。翁が言うことを、三番叟が代わって軽妙に言い立てて繰り返す、分かりやすく、時に面白く説明するということです。神の言葉の拒否と受容の揺れを繰り返しつつ、最終的に神の言葉を下の方(民衆へ)落とすのが、三番叟の役割です。猿楽能では三番叟の役割は舞が主体となって、言い立ての要素が薄れて行きますが、三番叟は民衆の側に立つと云うことだろうと思います。だから軽妙さがとても大事な要素になるのです。(歌舞伎で云えば、シリアスな要素を世話にいなす、そのために滑稽さが必要になるということです。)

神事のコンセプトを採るならば、今回の「MANSAI ボレロ」では、三番叟の役割が本来のものとちょっと異なるのじゃないかと思いますねえ。「ベジャールのボレロ」が負っている筋はシテ方の翁のものであって、ワキ方の三番叟のものでないように思います。これならばいっそ陰陽師・安倍晴明の踊りにした方が、萬斎のキャラにも合うし、スンナリ行くでしょう。もどきの三番叟の軽妙さがなくなって、妙に肩に力が入ったものに見えるのは、多分、そのせいです。何と云うか、もっと平らかなものが欲しいですねえ。それが日本の神事であると思います。

全体をワキ方の「もどき」のコンセプトによって再構築すれば、「MANSAI ボレロ」は正しく三番叟のためのものになると云う気がします。ラヴェルの曲のように単純にクレッシェンドする構造では、この踊りが平らかなものに出来るとはとても思えません。曲の進行に合わせれば動きはよりコミカルに、より激しいものになって行くでしょう。これだと踊りが大変なものにならざるを得ませんが、逆に思い切ってベジャールのストーリーから離れて、ラヴェルの曲のクレッシェンドを「いなして」、例えば最初のうちは三番叟はコミカルに動くけれども、音楽が激しくクレッシェンドするにつれて、逆に三番叟の動きをシンプルに持っていく。これを沈静の方向に持って行けるならば、「MANSAI ボレロ」は見事なもどきの芸に出来るかなと想像しますが、如何なものでしょうかね。

(H29・8・1)


○平成29年4月5日・世田谷パブリックシアター:「MANSAI ボレロ」・その1

舞踊の世界ではラヴェルの「ボレロ」と云うより、「ベジャールのボレロ」が、相変わらず人気演目のようです。 昨年(2016)秋はシルビー・ギエムが引退公演で東京バレエ団と一緒にやったし、今年(2017)秋にはモーリス・ベジャール・バレエ団が来日して「ベジャールのボレロ」をやる予定です。古典という以上に、もう「型もの」の域に入った感がありますね。

ところで別稿「芝居と踊りと」で取り挙げましたが、日本舞踊の世界でも「ボレロ」は人気らしくて、
吉之助が知っているのでは、「日本舞踊Xオーケストラ」 (東京文化会館)での3回の「ボレロ」(その第一回は野村萬斎によるものでした)、その他に井上八千代の「ボレロ」(京都泉湧寺音舞台)がありました。「日本舞踊Xオーケストラ」の 第2回開催の記者会見で、花柳寿輔が玉三郎さんから『これからの「日本舞踊Xオーケストラ」の企画の時には必ずプログラムの最後 に「ボレロ」を入れるようにしたら良い』とアドバイスを受けたと語っていました。なるほどねえ、プログラムの最後を「ボレロ」にすれば必ず大盛り上がりで、公演は成功疑いありません。しかし、それはそうかも知れないけど、これほど「ボレロ」ばかりだと、吉之助などはへそ曲がりなもので、「・・またボレロ?」と言いたくなります。

気になるのが、これらのどれも「ベジャールのボレロ」のコンセプトを踏襲した舞台だということです。確かにベジャールの「ボレロ」の振り付けは素晴らしいです。吉之助もその昔(もう40年近く前だな)、ジョルジュ・ドンやショナ・ミルクで見ました。この革命的な振り付けの呪縛から脱することは後世の振付師にとってなかなか難しいことは、吉之助もお察しします。しかし、
日本舞踊でやるのだから、もっとベジャールの呪縛から自由な発想をして良さそうに思いますがねえ。

問題となるのは、別稿「吉之助の音楽ノート・ボレロ」でも触れた通り、「ボレロ」の音楽構造が歪んでいるということです。機械的・人為的に人を揺さぶり 、「さあお前たち、興奮せよ、さあ楽しめ」と煽って、否応なく興奮状態に追い込む非人間的な要素があるのです。その効果は合法的な麻薬みたいなものです。昨今の世界レベルでの「ボレロ」人気には、現代という時代の、ちょっと危ない雰囲気が背景にあると感じられます。観客は興奮させられたがっている。操られたがっている。そういう観客を「ボレロ」で乗せるなんてことは、実に簡単です。特に「ベジャールのボレロ」には、そういう効果が強い。それだけ 完成度が高い振り付けだということです。「ベジャールのボレロ」発想の原点となる神事は、芸能の起源であるわけですが、別の観点で云えば、それは催眠・洗脳でもあります。と云うわけで、吉之助は近年の「ベジャールのボレロ」人気のダーク・サイドが気になり始めています。吉之助などは素直ではないので、そのような演じる側の思惑にそう簡単に乗せられてなるものかという気分になってきます。このことはベジャールの振り付けのせいではなく、この時代との関連から来ます。2007年にベジャールが亡くなってもう20年になるのですから、そろそろ「ベジャールのボレロ」のアンチテーゼが生まれて然るべきだと思います。(この稿つづく)

(H29・7・30)


○平成29年7月歌舞伎座:「矢の根」

「矢の根」の曽我五郎は右団次が演じていますが、市川宗家の海老蔵が同座しているのに歌舞伎十八番を任せてもらえるのだから、市川家一門として重宝されているということだと思います。右団次は筋隈もよく 似合って体付きも五月人形みたいだし、動きもキビキビして、荒事らしいところを見せています。台詞を高調子に置くのは、荒事であるからそこは良い点ですが、ちょっと単調に聴こえますねえ。例えば柱巻きの場面での「東は奥州北ヶ浜」ですけれど、右団次は、

「ヒー/ガー/シー/ハー/オー/シュー/キー/ター/ガー/ハー/マー」

に近い感じに、どの音も同じ音程の高調子に置いてます。これだと二拍子の強弱が活きて来ませんから、台詞がのっぺりと一本調子になってしまいます。それと台詞の末尾を引き延ばすと、二拍子が死んじゃいますねえ。これは荒事の様式ですから「ヒガ/シハ/オウ/シュウ/キタガ/ハマ」が基調のリズム(二拍子)になりますが、二拍子の頭にアクセントを置いて、強弱を付けるのです 。関東方言は頭打ち(一拍目にアクセントが付く)だからです。(別稿「アジタートなリズム〜歌舞伎の台詞のリズムを考える」をご参照ください。)アクセントを赤字で示すと、

ガ/ハ/ウ/シュウ/キタガ/マ」

になりますけれど、もうちょっと荒事らしく工夫をするとすれば、最後の「キタガ/マ」でちょっとリズムを破綻させて、

ガ/ハ/ウ/シュウ/キタ//マ」

とする。この場合、台詞のなかでは「キタ/」が音程が一番高くなります。伸ばしたみたいに聴こえますけれど、実は音を引き延ばしているのではなく、二拍子をしっかり守っているのです。(ここは二拍分伸ばしたテンポ・ルバートであると解釈しても良いで しょう。)だから台詞のなかに強弱のリズムと、音程の高低、息の緩急があるのです。そういう工夫が付けば、台詞がキリッと引き締まって来ると思います。荒事らしい見掛けしているのだから、台詞が良くなれば、見栄えがすると思いますがねえ。

(H29・7・26)


○平成29年5月幕張メッセ・ニコニコ超会議:「花街詞合鏡」・その3

「花街詞合鏡」の第3場・大文字屋格子先の場は、「御所五郎蔵」の序幕・仲の町出逢いの場の書き換えだと思います。「鞘当」の趣向を取り入れて様式的な感触に仕立てられていますが、明らかに世話場です。ところが八重垣紋三(獅童)も蔭山新右衛門(国矢)もまるで時代物の感触になっていて、重ったるいダラダラ調の七五の台詞廻しです。べったり 二拍子の形式に浸りきって、人間が描かれていない。ボーカロイドの留女・仲居重音が電子音声の抑揚がない棒読み七五調だったのには笑えましたが、対する役者の台詞もこれに抑揚が加わったくらいで、リズム的に大した違いが聞こえませんでした。吉之助がいつも書いていることですが、台詞を七五で割って調子を揃えて二拍子でダラダラしゃべるだけでは、黙阿弥の七五調にはならぬのです。七五のなかに緩急のリズムが微妙に付くのが、正しい黙阿弥の七五調です。これで彼らがもし歌舞伎座に戻って「御所五郎蔵」を演るのならば、思いやられます。

要するに吉之助は、たとえ超歌舞伎であっても、歌舞伎役者が伝承の技芸を見せる時にはそれなりにきっちりしたものを見たいのです。もう10年前のことですが、十八代目勘三郎がまだ元気な頃、別稿「勘三郎の法界坊」のなかで、「理屈抜きで楽しく面白い歌舞伎(平成中村座・野田歌舞伎)があって、真面目で神妙な古典歌舞伎が対極としてあり、この背反する要素を自分はどちらもきっちり描き分けられると思っていたらそのうち行き詰まります」と書きました。あの天才・勘三郎でさえ芸道二筋道を貫徹できずに心労で倒れたのですから、そこのところはよく考えてもらいたいものです。歌舞伎役者は、どんな時でも歌舞伎座に戻って古典歌舞伎を演じる時のことを念頭に置き、立ち位置にブレがあってはなりません。歌舞伎の面白さを教えて「あげる」となるところに落とし穴があるのではないかな。

吉之助は歌舞伎の将来を憂いて獅童ら若手が頑張っていることをそれなりに評価しているつもりですが、「歌舞伎らしくあること」についての考え方が表層的じゃないかと思いますねえ。形を採ることが様式的であることだと思っているのではないか。「俺たちはいつだってこういう風に してやってきた」みたいな感覚が、一番危ないのです。もっと内面的なアプローチに変えていかないと、演技は生きたものになりません。黙阿弥の七五調について云えば、台詞のなかの緩急の息を救い上げて、如何に写実に迫るかという課題を自らに課していく必要があります。この問題は獅童に限ったことではありません。別稿「様式感覚の不在」でも触れた通りです。歌舞伎のなかで正しい黙阿弥の七五調が途絶えた時、歌舞伎は歌舞伎でなくなるくらいの危機感を持ってもらいたいものです。歌舞伎はホントに危ない時期に差し掛かっているのです。

大詰めの立ち廻りで千鳥の合方が使われているのも、とても気になります。大正期の映画のチャンバラ・シーンで千鳥の合方(3倍くらい早いテンポ)が盛んに使われました。だから世間では千鳥の合方と云えばチャンバラ音楽ですが、こうなってしまったのは目玉の松ちゃん(尾上松之助)のせいなのか、その経緯を調べてもよく分かりませんでした。それは兎も角、古典歌舞伎では千鳥の合方でこういう使い方はせぬものです。吉之助には海辺の光景しか思い浮かびません 。獅童さんは千鳥の合方 で立ち廻りして居心地悪くないのですかねえ。まああの立ち廻りは確かにチャンバラまがいではありましたが。様式的な立ち廻りというものはあると思いますよ。

(H29・7・23)


○平成29年5月幕張メッセ・ニコニコ超会議:「花街詞合鏡」・その2

吉之助は「花街詞合鏡」は歌舞伎か?なんてことを論じるつもりは別にないのですが、ここにカブキ的なものがないわけではないと思います。幕切れで獅童演じる紋三に「踊れ踊れ、 どうした、かかって来いよ」などと煽られて、ロックのリズムにペンライト振リ回して叫んでいる若者たちを見ると、まあなんて素直な若者たちだろうと思います。恐らく彼らにはコンピュタ・ゲームのファンタジーみたいに歌舞伎が映っているのだろうと思います。コンピュタ世代の若者たちは、獅童たち役者が二次元画面から飛び出て来たように見ているのかも知れませんねえ。創生期の出雲の阿国のかぶき踊りの時代にも、四条河原で 楽器のリズムに合わせて観客も浮かれて歌ったり踊ったりする光景があったでしょう。若者たちがそのような熱いものを感じ取ることが出来たのならば、これはこれでカブキ風味エンタテイメントとして素直に楽しめばよろしいことではないかと思います。

テクノロジーとの融合ということで云えば、コンピュータ映像は使いようによっては、新作ものに応用できる場面がありそうです。3D技術で描く花魁 の衣裳の質感が良く出ていたようですし、ドローンのように、吉原の街を上空から俯瞰して、そこから仲の町の通りへ、さらに遊廓の内部へと、連続して視点が移動していく辺りはなかなか興味深く見ました。場面転換の場面でこれを使えば時間が稼げるし、観客のイメージを補うことも出来て面白いだろうと云う気がしました。しかし、古典歌舞伎でこれを使うのは、吉之助はご勘弁願いたいですなあ、頭が硬くて申し訳ないですが。

まっそれは兎も角、吉之助は獅童たち若手がこのような新しい試みに挑戦することは、歌舞伎が現代との接点を持つうえでも大切なことだと思いますが、彼らはいつでも歌舞伎座の舞台に戻って古典歌舞伎を演じなければならぬわけですから、超歌舞伎であっても古典歌舞伎であっても、立ち位置にブレがあってはならぬと思うわけです。たとえ超歌舞伎の舞台であっても、テクノロジーやロックのリズムではなくて、古臭い伝承の技芸の方で「歌舞伎ってスゲエものだなあ・・」と若者たちをうならせてやりたいものです。

先日、別稿「様式感覚の不在」のなかで、南北と黙阿弥と新歌舞伎の様式の仕分けが付かない、何となく一様なKabuki様式が出来上がりつつあるということを書きました。つまり「こうやっていれば カブキらしいだろ・・」みたいな感覚なんですがね。残念ながら「花街詞合鏡」にも似たようなものを感じますねえ。超歌舞伎というのは、コンピュタ・ゲームのファンタジーみたいなものだから、ドラマのリアリティなど最初から期待していないのでしょうかねえ。最後の方で役者が隈取りして、ぶっ返って、見得して、ツケ打って、立ち廻りするのがカブキで(まああの立ち廻りはチャンバラまがいでしたが、いちおう立ち廻りと言っておきます)、その前の方にちょっと和風の筋立てらしきものを付けてみた風に思われます。人間ドラマとして見れば、あまり面白くない。そこに企画者の「カブキらしさ」のイメージが透けて見えます。隈取りとか・ぶっ返りとか・見得とか・ツケ打ちとか・立ち廻りとか、そういうものはもちろん歌舞伎の技法ですけれど、それは歌舞伎の表層的な要素なのであって、そればかり強調していると、歌舞伎は自らの領域を狭めると思いますがねえ。もっと豊かなものを歌舞伎は持っているのじゃないでしょうか。(この稿つづく)

(H29・7・21)


○平成29年5月幕張メッセ・ニコニコ超会議:「花街詞合鏡」・その1

平成29年5月末に幕張メッセのニコニコ超会議(ITの博覧会みたいなものか)に於いて、日本の伝統文化である歌舞伎と、IT最先端のテクノロジーがコラボした新しい歌舞伎が幕張メッセに降臨!という催しがありました。これを「超歌舞伎」と称するそうで、今回上演される本外題「花街詞合鏡」(くるわことばあわせかがみは、獅童が演じる八重垣紋三に、ボーカロイドの初音ミクが演じる初音太夫が共演するというご趣向です。ボーカロイドというのは、ITに疎い吉之助には不案内ですが、コンピュータが作り出したバーチャル・アイドルということだそうです。初音ミクさんは、マンガのキャラクターみたいに見えますが、普段は歌など歌ったりしてご活躍されているそうです。超歌舞伎がどんなものか興味がないわけではないですが、年寄りで好みが保守的な吉之助などは、怖気づいてしまってなかなか現地へ行くことが出来ません。しかし、有難いことに、NHKEテレ・「にっぽんの芸能」で、この時の模様を放送してくれたおかげで、今回、その映像を見たというわけです。

*詳しくは超歌舞伎・ニコニコ超会議2017公式サイトをご覧ください。

生身の人間とボーカロイドの共演というと、吉之助などは「アニメ―ションとの合体か?」と思ってしまいます。下記は米映画「錨をあげて」(1944年制作)のジーン・ケリーと、アニメ・キャラクターのジェリーの共演ですが、吉之助には、超歌舞伎は概念的にはこれとおなじように見えるのですがね。1970年大阪万博の時には、吉之助は、奇術師の引田天功 (初代)が「映画の画面のなかに飛び込んで立ち廻りを見せます」というショーを見た記憶があります。これも似たような趣向かと思うのですが、どんなものでしょうか。まあ吉之助の理解はその程度しか及びません(多くの場合、人間というものは自分の知っているものを手掛かりにしてしか新しいものを理解できないもののようで)が、超歌舞伎は大型施設でライヴ会場の雰囲気を取り入れているようですから、或いはもう少し違うものがあるのかも知れませんね。

1984年(昭和59年)10月歌舞伎座での「玉藻前雲居晴衣(たまものまえくもいのはれぎぬ)」に於いて、演出の武智鉄二が九尾の狐(菊五郎が演じました)の登場シーンでレーザー光線を使ったイリュージョン演出を見せたことがあ って、よく覚えています。武智は、「芝居のなかで当世のからくり技術を駆使した鶴屋南北が、もし現代に生きていたら、レーザー光線の技術を歌舞伎に取り入れないはずがない、だから今回この技術を取り入れてみた」というようなことを書いていました。当然そういう考え方もあるかと思います。今回の役者とボーカロイドとの共演も、現代に生きる歌舞伎の必然なのでありましょうか。 (この稿つづく)

(H29・7・16)


○平成29年7月国立劇場:「鬼一法眼三略巻〜一条大蔵譚」

このところ菊之助は新たな役に挑戦する機会が多いようです。そのなかにはエッ?と驚く役もあったけれども、まあやって見なければ分からないこともあるわけで、その意欲を買いたいと思いますね。ところで今回の初役の一条大蔵卿について、菊之助は岳父・吉右衛門の指導を受けたということです。最初に吉之助が思ったことは、正気の場面の大蔵卿に関しては菊之助なら颯爽としたところが期待できるとして、菊之助は芸質として怜悧なところがあるし、大蔵卿の阿呆と正気の描き分けに頭脳プレーみたいなところが出てこないか、ちょっとそこを心配したのですが、まったく杞憂に終わりました。吉右衛門の教えるところを消化して、よく自分のものに出来ています。初役でこれだけ出来れば大したものだと思います。

昨年(平成28年9月歌舞伎座)吉右衛門が同じ大蔵卿を演じた時のことは別稿(深化した大蔵卿)で触れました。このなかで吉之助は、大蔵卿の阿呆と正気の描き分けについて、カチャカチャとチャンネルを切り替えるが如きのデジタル処理と、阿呆と正気が入り混じった無段階的アナログ処理ということを書きました。吉右衛門の大蔵卿が後者であることは言うまでもありません。これは解釈としてどちらが正しいとか間違っているということはないのです。もちろんそれは演じる役者の芸質に拠ります。観劇随想の最後に「若手がこの吉右衛の大蔵卿をいきなり真似ようとしたら決して良いことにならないでしょう」と吉之助が書いたのは、吉右衛門の技芸に裏打ちされた解釈を理屈だけ表面的になぞってしまうと、型のあざとさが鼻に付くことになるので、そこを注意して欲しかったからです。なぜならば作中の大蔵卿の生き方自体があざといからです。大蔵卿には時勢に対して自分を偽って生きているという自責の念があります。このあざとさを、シリアスな方向にどういう風に持って行くかということが、吉右衛門の大蔵卿の勘所なのです。

「阿呆を装っているけれども、実は俺には大望があるのだよ」としてしまえば、大蔵卿のスタンスを正気の方に置くことが出来るから、役者はいくらか気が楽に演じられます。スカッとした大蔵卿に仕上げられます。しかし、この場合、役が滑稽な方に傾斜することにも 陥り易い。故・十八代目勘三郎の大蔵卿は若干そういうところがありました。まあそれもまた面白いことに違いないですが。 吉之助はそういう切り口を否定するわけではありません。

一方、阿呆と正気とどちらが大蔵卿の本性だか分からないということになれば、これははるかに難しい。つまり阿呆を装って時勢に背を向けていなければ生きて行けない男の憤懣とか悲哀とか云うもの、これを描かねばならないのです。考えてみれば、現代社会においても、我々はそういう生き方をせねばならない場面があるのではないでしょうか。この時、「大蔵卿とは自分だ」と感じる瞬間があるはずです。吉右衛門の大蔵卿はそういう切り口に迫っているのですから、吉右衛門の型の手順を表面的になぞるのではなく、型の心を考えて演じなければならないのです。菊之助はそこのところをしっかり把握出来ていると感じ入りました。あとは回数を演じることで、役は練れて来ると思います。

菊之助の大蔵卿は、手順として吉右衛門をそっくり踏襲したわけではなく、そこのところは結構自由に変えていたと思います。しかし、型の心、性根の置き方というところは、しっかり取っています。これは恐らく吉右衛門が、 性根の根本をきっちり押さえて細かいところは自由に任す、そういう教え方をしたと思います。まさに「教えも教え、覚えも覚えし」、見事な芸の受け渡しを見せてくれて、嬉しくなりました。奥殿の大蔵卿では、菊之助は阿呆と正気の切れ目が際立たない、 変化を抑え気味の演技であるとお感じの方 もいるかも知れません。しかし、そこのところを際立たせないところが、吉右衛門の大蔵卿の型の心の核心なのであって、菊之助はこれを基礎に自分なりの手順で大蔵卿を処理しています。菊之助が もし阿呆と正気の切れ目を鮮やかに見せようと色気を出せば、演技は頭脳プレーの感を呈したでしょう。

幕切れで大蔵卿が笑いながら勘解由の生首を弄ぶ場面、これは一体どういうシーンでしょうか。これはものすごく歪んだシーンです。普通の時代物ならば、幕切れの主人公は本性に立ち返って絵面でキッと決まるものです。しかし、大蔵卿はそうなりません。そうさせてもらえないと言っても良い。そうさせてもらえないところに大蔵卿の特殊性があるのです。大蔵卿の本性って何?阿呆と正気って何?生き難い時代に生きるってどういうこと?そのような哲学的な考察まで至らせる要素を、大蔵卿という役は持っているということです。

(H29・7・11)


○平成29年6月歌舞伎座:「鎌倉三代記・絹川村閑居」

雀右衛門の時姫は昨年3月歌舞伎座の雀右衛門襲名時が初役で、今回が再演となりますが、共演(前回は吉右衛門の高綱、菊五郎の三浦之助)が幸四郎の高綱、松也の三浦之助に変わっています。当然、芝居の印象も変化しています。これは別に演技の良い悪いを言うのではなくて、配役によって、芝居のなかでの役のバランスが自然と変化するものですから、それにつれて芝居の印象も微妙に変化するものです。それが配役バランスの妙というものです。今回の配役であれば、高綱の比重が突出して、「絹川村閑居」が高綱の芝居の印象が強まるのは、これは当たり前のことです。

高綱は前回の吉右衛門も素晴らしかったですが、幸四郎の高綱も、前半藤三郎の時の軽妙さ、後半高綱に戻っての古怪さへの変化の大きさが大したものです。まことに歌舞伎らしい高綱です。高綱というのは宿敵北条時政を討つ執念に凝り固まった男で、その目的のためならば何だって利用するのです。「盛綱陣屋」では自分の息子を犠牲にしてしまいますが、その続編「鎌倉三代記」では時政に近づくためならば自分の身体に入れ墨を入れるのも厭わないし、さらに今度は時姫を親殺しに巻き込もうとするし、考えてみればその執念たるや凄まじいものです。目的達成のために策を弄するのか、策を弄したいがために目的があるのか、自分でも見境がなくなっている男なのです。しかも、その 執念が実を結ばない(大阪夏の陣は豊臣方の敗北で終わる)ことを我々は知っていますから、虚しいものに感じられます。つまり高綱と云う男は倒錯しているのです。「地獄の上の一足飛び」で高綱が幽霊の振りをして見せる・いわゆる地獄見得ですが、これは形自体が馬鹿々々しいもので、これを奇知と見なすこと ももちろんできますけれど、この見得本来の意味を技巧として浮き上がらせることが出来るのは、これは幸四郎ならではです。

松也の三浦之助は、これはもちろん円熟した菊五郎のたっぷりした大きさの三浦之助と比較することはできませんが、松也は松也なりの若さを武器に散り行く若者の儚さを表現して、これも決して悪くはないものです。初役として十分なことは出来ており、役を重ねれば三浦之助は松也のものになることでしょう。

雀右衛門の時姫も、悪くないです。襲名から1年経って、余裕が出てきているようです。しかし、吉之助は同じ月(平成29年6月歌舞伎座昼の部)の「弁慶上使」の雀右衛門のおさわにとても感心したので、今回の時姫にちょっと期待し過ぎたかも知れませんが、松也の三浦之助の若さの方に自分のサイズを合わせようとしていたようにちょっと感じますねえ。それは雀右衛門の美しさならば、容易いことだと思うけれども、ここは敢えて姉さん女房のように見えて良いのではないか。雀右衛門の名前にふさわしい大きさを出して良いと思うのですねえ。吉之助が「絹川村閑居」を初めて見たのは、昭和58年11月歌舞伎座でのことだったと記憶します。この時の時姫は先代(四代目)雀右衛門・当時63歳、三浦之助が先代(八代目)福助(現・梅玉)・当時37歳でした。この年齢差は、今の雀右衛門と松也に近いと思いますが、歌舞伎はそんな年齢差を何とも感じさせない演劇なのですから、遠慮 をせずにもっと姉さん女房してください。雀右衛門はもうそういう立場に来ていると思います。

(H29・7・6)


  

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