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芸道小説としての「春琴抄」〜谷崎潤一郎・「春琴抄」論


1)「春琴抄」の眼差し

谷崎潤一郎の「春琴抄」は、昭和8年(1933)6月に雑誌「中央公論」に発表されました。ちなみに谷崎のこの前後は、昭和4年に「蓼食う虫」、昭和5年に「卍」、昭和6年に「吉野葛」が発表されており、その後の「細雪」の執筆へと続く、谷崎の日本回帰の時代と位置付けられます。同時に「春琴抄」は、谷崎文学の永遠のテーマと云うべき女性崇拝と、女性に隷属することに喜びを覚える男のマゾヒズムを描いた傑作とされています。「春琴抄」は文壇でも発表直後から好評で、それは「『春琴抄』賛美の声には作者も食傷したかもしれない」と正宗白鳥が書いたほどでした。

しかし、谷崎の女性崇拝やマゾヒズムのことはちょっと置いて、吉之助は歌舞伎の批評家ですから、「春琴抄」を伝統芸能の観点から読んでみたいと思います。つまり「春琴抄」を芸道小説として読んでみたいのです。

「春琴抄」は、作者谷崎の創造上の人物である盲目の三味線奏者春琴と、その弟子で・事実上の夫でもある佐助の物語です。「鵙屋春琴伝」(もずやしゅんきんでん)なる冊子(これもまた谷崎の創作になるもの)を偶然手にして興味を覚えた「私」(これはまったく谷崎その人)が春琴と佐助の二人の墓を訪ねたのを発端に、二人の奇縁を語り始める語り物風のルポルタージュ形式となっています。

当時の谷崎の小説上の実験は、作り物の物語を如何に真実めかして書くかというところにありました。つまり小説のリアリティ(真実味)をどう高めるかという挑戦です。小説というのは本来、誣い物語(しいものがたり)つまり嘘物語ですから、内容も事実らしさより、自由な創意の方が大事にされたはずです。江戸期の黄表紙なんてものは、そういうものだったのです。ところが近代文学では、自意識みたいなものが加わって、事実らしさが次第に要求されるようになってきました。しかも、その要求は、読者より作家の内面において甚だしいものがありました。

例えば昭和6年の「吉野葛」は、作家である「私」が後南朝を題材にした一大歴史小説を書くことを目指して友人と奥吉野へ旅行するという設定で、史実伝承をちりばめ歴史紀行のような体裁で始まりますが、実は友人津村が亡き母の俤(おもかげ)を追い求める小説なのです。

「春琴抄」もまたそうで、「鵙屋春琴伝」という架空の伝記を軸に、三味線の二代目豊沢団平、天竜寺の峩山和尚(がさんおしょう)など実在の人物などを絡めて、「私」の抑えた語り口も相まって、歴史ルポルタージュの体裁を取ることで、谷崎は春琴と佐助の逸話の真実味を高めることに成功しています。しかし、ここで大事なことは、歴史ルポルタージュの体裁はあくまで表向きのもので、さらに言えば、それは読者を誣いるために意図的に擬態されたものであるということです。

擬態とは、カムフラージュのことです。例えば兵士が森に潜んで葉っぱに擬態して緑色にその身を染めて、敵の目から自分の身を隠す場面を考えてみたいと思います。擬態においては、背景に調和することが大事なのではなく、緑色の背景のなかで自身も緑色になることこそ大事なのです。兵士は息をひそめて敵を待ち構えています。つまり、擬態するものは「こちらの視線から身を隠している」のではなく、「こちらの様子を観察しながら、じっと待ち構えている」のです。ラカン流に云えば、「我々を眼差ししている」のです。だから擬態において我々がそこに見ているもの(例えば緑色の森の背景)は、決して我々が見たいものではなく、真実(眼差しが意図するもの)は別のところにあります。

「春琴抄」が醸し出す真実味も、そのようなものです。谷崎が「春琴抄」のなかに配置した、事実めかした(史実を擬態した)材料が眼差しして、何かの意図を持って読者をじっと待ち構えています。「春琴抄」の設定では、春琴が生まれたのは文政12年(1829)、亡くなったのは明治19年(1886)、佐助が生まれたのが文政8年(1825)、亡くなったのが明治40年(1907)ということになっています。つまり幕末から明治維新を経て、明治の終わりまでの約80年の激動の時代を背景としています。この歴史的背景のなかに擬態された春琴と佐助の物語に隠された「眼差し」が意図するものは何か。吉之助の「春琴抄」論は、そこから始まります。(この稿つづく)

(H29・8・4)


2)「春琴抄」の眼差し・続き

「春琴抄」では春琴が生まれたのが文政12年(1829)、亡くなったのは明治19年(1886)、佐助が生まれたのが文政8年(1825)、亡くなったのが明治40年(1907)ということですが、「春琴抄」の流れに沿って時代を追ってみると、春琴は佐助の稽古熱心を認めて師弟関係を結んだのが、天保10年(1839)のことです。元治2年(1865)3月に、春琴は就寝中に何者かに襲われ、顔に大火傷を負いました。同年5月頃、佐助は自ら針で両目を突いて失明しました。小説の筋とは直接関係はないですが、慶応3年(1867)10月が大政奉還、王政復古の大号令となります。

「春琴抄」の時代背景となる約80年間、それは幕末から明治維新を経て明治の終わりまで、政治的・経済的に激動の時期であったことはもちろん、人心においても大きな変化があった時代でした。「春琴抄」では節目で春琴と佐助のその時点の年齢が明記されており、その年が何年であるのかが特定できます。だから、その年にどういう事件が起ったか、当時の大坂(大阪)がどのような社会情勢であったかとか、そのような情報を重ねながら「春琴抄」を読むことが可能です。(これについては、三島佑一:「谷崎潤一郎〜「春琴抄」の謎」(人文書院)にある年立が興味深く、かつ参考になります。)

ところが「春琴抄」の春琴と佐助は、二人だけの世界に没入したままそこに閉じこもって、激動の時代と関係がないが如くに、まったく隔絶した印象を呈しているのです。実際、女性崇拝やマゾヒズムの線で「春琴抄」を読むならば、時代設定などどうでも良いことです。それは二人だけの閉ざされた世界と云うことになるからです。この線で読むならば、物語をいつの時代に設定しても、物語の意味がさほど変わると思えません。しかし、それでは谷崎が「春琴抄」の背景としてこの時代を擬態したことの意味が見えないことになります。

実は「春琴抄」のなかでは約80年間の時代の変化、と云うよりも落差が、とても大きい意味を持っています。このことは「春琴抄」冒頭で、語り手である「私」が春琴と佐助の二人の墓を訪ねる場面に見えます。その墓は「市内下寺町の浄土宗某寺にある」となっており、寺名は明記されていませんが、

『知っての通り下寺町の東側のうしろには生国魂神社のある高台がえているので今いう急な坂路は寺の境内からその高台へつづく斜面なのであるが、そこは大阪にはちょっとしい樹木のった場所であって琴女の墓はその斜面の中腹を平らにしたささやかな空地に建っていた。』(谷崎潤一郎:「春琴抄」)

とあるので、かなり具体的に場所がイメージできます。現在でも大阪市天王寺区下寺町には、お寺がいくつも並んでいます。ここから東に位置する生国魂神社へ向けて急な斜面が続きます。春琴と佐助の二人の墓は、その斜面の中腹辺りにあるようです。ちなみに現在、中央区日本橋一丁目にある国立文楽劇場はここから歩いてすぐの場所にあり、さらに歩けば道頓堀の大阪松竹座もさほど遠くない場所です。つまり大阪の中心部です。「春琴の実家である薬種商鵙屋は「とうに没落してしまって近年は一族の者が琴女の墓を訪(おとな)うことはほとんどない」と書かれています。

四天王寺へと続くこの一帯は、昔から夕陽丘(ゆうひがおか)と呼ばれていました。嘉禎2年(1236)、歌人・藤原家隆が、浄土宗の教えである「日想観」を会得する為、この地を終焉の地を定めて移り住み、「夕陽庵」(せきようあん)と云う庵室を立てたことが、この地名の由来です。日想観とは、西に沈む太陽を見ながら浄土の光景を思い浮かべる修行のことです。その昔の大阪湾は室町時代までぐっと 内陸に入り込んでいました。特に四天王寺から夕陽丘にかけての西向きの丘陵地帯は、大阪湾に沈む夕日を眺めるのに絶好の地とされていました。

『私は、おりから夕日が墓石の表にあかあかと照っているそのの上にたたずんで脚下にひろがる大大阪市の景観をめた。けだしこのあたりは難波津の昔からある丘陵地帯で西向きの高台がここからずっと天王寺の方へ続いている。そして現在では煤煙で痛めつけられた木の葉や草の葉に生色がなくまびれにれた大木が殺風景な感じを与えるがこれらの墓が建てられた当時はもっと鬱蒼としていたであろうし今も市内の墓地としてはまずこの辺が一番閑静で見晴らしのよい場所であろう。しき因縁われた二人の師弟は夕靄の底に大ビルディングが数知れず屹立する東洋一の工業都市を見下しながら、永久にここにっているのである。それにしても今日の大阪は検校が在りし日のをとどめぬまでに変ってしまったがこの二つの墓石のみは今も浅からぬ師弟のりを語り合っているように見える。(中略)私は春琴女の墓前にいてしく礼をした後検校の墓石に手をかけてその石の頭を愛撫しながら夕日が大市街のかなたにんでしまうまで丘の上に低徊していた。』(谷崎潤一郎:「春琴抄」)

春琴と佐助の墓石が夕日にあかあかと照らされているのを、「私」は眺めています。それは日想観の考え方に従うならば、昔(聖徳太子の昔から明治末の昔も)も今(昭和8年の現在、そして平成の現在)も、相も変わらず極楽浄土からの光に静かに照らされている、つまり祝福されていると云うことです。このことは小説でははっきり書いていませんが、「私」がこの場所にあって夕日のことを書いているからには、そう読むべきなのです。

一方、墓周辺の大阪の光景は激変しています。「私」が「大ビルディングが数知れず屹立する東洋一の工業都市」と書くのは もちろん昭和8年現在の大阪の街のことですが、時代は変われども、これは平成の大阪の街に置き換えても十分通じる文章です。大阪の街はあの頃よりさらに大きな変貌を遂げています。落差はもっと大きくなっているのです。

『それにしても今日の大阪は検校が在りし日のをとどめぬまでに変ってしまったがこの二つの墓石のみは今も浅からぬ師弟のりを語り合っているように見える。』(谷崎潤一郎:「春琴抄」)

春琴と佐助のふたつの墓石が、明治からの近代国家の歩みのなかで変貌していく大阪の街の喧騒とまったく別世界の如く、ずっと変わらぬ姿のまま「今も浅からぬ師弟のりを語り合って」います。春琴と佐助の物語はそんな歴史の変転と 何ら無関係だと言うふりをしながら、そこに「私」は、「春琴抄」の時代背景のなかに擬態された、春琴と佐助からの「眼差し」をはっきり感じ取っています。(この稿つづく)

(H29・8・8)


3)「春琴抄」の眼差し・そのまた続き

『現在では煤煙で痛めつけられた木の葉や草の葉に生色がなくまびれにれた大木が殺風景な感じを与えるがこれらの墓が建てられた当時はもっと鬱蒼としていたであろうし今も市内の墓地としてはまずこの辺が一番閑静で見晴らしのよい場所であろう。奇しき因縁われた二人の師弟は夕靄の底に大ビルディングが数知れず屹立する東洋一の工業都市を見下しながら、永久にここにっているのである。』(谷崎潤一郎:「春琴抄」)

ここで過去と現在(小説では昭和8年ということになる)が対比されているように見えますが、そうではありません。江戸の昔は良かった、それが今では跡形もなく、風景も人の心も、すっかり変わってしまった・・・と云う感慨を「私」が言いたいわけではないのです。現在の描写のなかで「煤煙で痛めつけられた」とか、「生色がなくまびれにれた」、「殺風景な」などという言葉が使われているので、現在の有り様が過去から「見下」されている、現在という時代の有り様が過去から批判されていると、「私」が言っているように読めなくもないですが、決してそうではありません。ここで対比されているのは、時の流れのなかで否応なく変質してしまうものと、変わらず在り続けるものとの違いです。「私」は、春琴と佐助の物語のなかに永遠と呼べるものがあると言いたいのです。

「私」が、変わらずに在り続けるものに、何かしら尊い、美しいものを感じていることは確かです。だからと言って、時の流れのなかで変質してしまうものが尊く美しくなくて、いけないことだと「私」が言いたいわけではありません。変質してしまうことがいけないということは、決してないはずです。それはそのような性質として在るものだからです。しかし、時を経るなかで、変質していくものと、変わらず在り続けるものとの差異が、次第に際立ってきます。変わらず在りつづけるものと、そうでないものとの差異は、時が経過しなければ明らかになって来ません。そこから或る「眼差し」が生じて来ます。このことは「春琴抄」の末尾に於いて露わになります

『察する所二十一年も孤独で生きていた間に在りし日の春琴とは全く違った春琴を作り上げいよいよかにその姿を見ていたであろう佐助が自ら眼を突いた話を天竜寺峩山和尚(がさんおしょう)が聞いて、転瞬(てんしゅん)の間に内外(ないげ)を断じ醜を美に回した禅機(ぜんき)を賞し達人の所為庶幾(ちかし)しと云ったと云うが読者諸賢(しょけん)首肯(しゅこう)せらるるや否や』(谷崎潤一郎:「春琴抄」)

佐助の生き様を読者諸君はどうお感じであろうか、各自のご判断をお願いするというのです。ここまで冷静な語り部に徹していたはずの「私」が、最後に至って「読者諸賢首肯せらるるや否や」と、立場を明らかにするよう読者に厳しく迫ってきます。ここで問われているのは、読者の生き様ということになるのでしょうが、ここで「私」がまるで居直ったかのような態度に出ざるを得ないのは、佐助の生き様があまりに特殊だからです。

火傷を負って醜く変わってしまった春琴の容貌を見たくないので、佐助は自ら盲目となり、頭のなかに実在の春琴とはまったく違った一人の別の高貴な女人を作り上げることに成功しました。そこに確かに恋愛の至高の境地があるかも知れませんが、誰もが真似たい恋愛の歓びや陶酔は描かれていないのです。中村光夫は、次のように書いています。

『佐助は春琴にとって、ときとして子供が大人にとってそうであるような玩弄物であり、同時に彼の春琴に対する態度は狂信者の利己主義に貫かれています。彼は自分さえよければ相手はどうでも良い点で、男として一人前でない子供に過ぎず、これを蔽(おお)う彼の献身も町人の卑屈と切り離せぬ表裏をなしています。この小説を読んだ男は、(彼が顕著なマゾヒストでない限り)おそらく誰 しもこう思うでしょう、なるほどこういう幸福はあるかも知れない、しかし俺にはできないことだ、と。つまりこれは「春琴抄」の描く恋は、絶対の境地ではあっても、下降と退廃の極点をなすのであり、それゆえに観念的だということです。』(中村光夫:「谷崎潤一郎論」・昭和27年)

この指摘は、まったくその通りです。春琴と佐助の物語はあまりに観念的に過ぎます。「これは俺には到底できないことだ、あり得ないことだ」となってしまえば、読者の多くはそこで思考を停止させてしまうでしょう。だからこそ、そうさせない為に作者谷崎は、春琴と佐助の生き様を歴史的背景のなかに擬態させて、より真実めかしたものに仕立てる必要があったのです。これが谷崎の実験でした。さらに春琴と佐助からの「眼差し」について考えていきます。(この稿つづく)

(H29・8・11)


4)日本の芸道

佐助が密かに三味線の稽古をしていたことが周囲に知れて、やがて佐助は師弟の関係となって、春琴から三味線を教えてもらえるようになりました。春琴の親としては盲目で気むずかしやの娘の退屈が紛れてくれば傍の者が助かる、云わば学校ごっこのような遊戯のお相手を奉公人の佐助にあてがったくらいのつもりでした。しかし、二三年後には教える方も教えられる方も次第に遊戯の域を脱して真剣になって行きます。春琴の教え方は 非常に厳しく、「あかんあかん、弾けるまで夜通しかかたかて遣りや」と佐助を激しく叱咤し、時には「阿呆、何で覚えられんねん」と罵りながら撥で頭を殴り、佐助がしくしく泣き出すこともしばしばであったと云います。

ここが谷崎文学でよく云われる男のマゾヒズム、師匠春琴に隷属することに喜びを覚える佐助の被虐趣味とされている箇所ですが、これをマゾヒズムと断じてしまうのは、まだまだ早計です。「春琴抄」の語り手である「私」は、そこのところの筆致は客観的に抑えて、芸の修行の場面においてはこういう光景がしばしばあったんだということを語り始めます。

『昔は遊芸を仕込むにも火の出るようなじい稽古をつけ往々弟子に体刑を加えることがあったのは人のよく知る通りである本年〔昭和八年〕二月十二日の大阪朝日新聞日曜のページに「人形浄瑠璃の血まみれ修業」と題して小倉敬二君が書いている記事を見るに、摂津大掾亡き後の名人三代目越路太夫眉間には大きな傷痕が三日月型に残っていたそれは師匠豊沢団七から「いつになったら覚えるのか」と撥で突き倒された記念であるというまた文楽座の人形使い吉田玉次郎の後頭部にも同じような傷痕がある玉次郎若かりし頃「阿波鳴門」で彼の師匠の大名人吉田玉造がの場の十郎兵衛を使い玉次郎がその人形の足を使った、その時キットまるべき十郎兵衛の足がいかにしても師匠玉造の気に入るように使えない「阿呆め」というなり立廻りに使っていた本身の刀でいきなり後頭部をガンとやられたその刀痕が今も消えずにいるのである。しかも玉次郎をった玉造もかつて師匠金四のために十郎兵衛の人形をもって頭を叩き割られ人形が血で真赤まった。彼はその血だらけになってけ飛んだ人形の足を師匠にうて貰い受け真綿にくるみ白木の箱に収めて、時々取り出しては慈母霊前ずくがごとく礼拝した「この人形の折檻がなかったら自分は一生凡々たる芸人の末で終ったかも知れない」としばしば泣いて人に語った。』(谷崎潤一郎:「春琴抄」)

折口信夫は、傍目からは人格否定にさえ見えかねない、体罰を伴った、厳しい師弟関係というのは、通過儀礼の意味合いがあったとしています。通過儀礼というのは、人類学者のアーノルド・ファン・ゲネップが提唱した概念で、人生の節目に訪れる危機を安全に通過するための儀式のことを言います。その身に降りかかった試練・窮地をしのぐことができれば、その人物にふさわしい新しい身分や社会的役割が与えられるとするのです。通過儀礼は、人生の新しい段階に入るために古いものを捨て去る(あるいは否定する)ことが必要であるという意味を象徴的に提示しています。

言うまでもなく貴種流離譚は、折口学の重要な概念です。貴種流離譚では、主人公は自分の資質と努力によって、自らに降りかかった試練・窮地をどうにかしのぐことができるのです。自分の資質と努力ということが大事な点で、結局、そこに彼が「高貴な者」であることの証があるのです。それゆえ彼は最初から選ばれるべき人物なのであって、選ばれるために彼は「試練」を与えられるとも云えます。

『最近ではそういうことはだんだんなくなって行きましたが、日本の師弟関係はしきたりがやかましく、厳しい躾(しつけ)をしたものでした。まるで敵同士であるかのような気持ちで、また弟子や後輩の進歩を妬みでもしているかのようにさえ思われるほど厳しく躾していました。(中略)子供または弟子の能力を出来るだけ発揮させるための道ゆきなのです。それに耐えられなければ死んでしまえという位の厳しさでした。』(折口信夫:座談会「日本文化の流れ」・昭和24年12月)

日本の師弟関係には、そのような伝統的な素地があったのです。弟子は師匠に罵倒され、時に暴力を受けたとしても、ヒイヒイ泣きながら師匠の後を必死で付いて行ったものなのです。もちろん当時でも人格否定のような理不尽な折檻が良かろうはずがなかったと思いますが、だからこそ敢えて弟子に辛く当たるということがあったのかも知れません。ですからそのような折檻に耐えるということは、弟子のなかに師匠に対する尊敬の念という以上のもの、はるか先の芸の高みへの憧れ、そこへ少しでも近づきたいとする強い思いがなければ、決して出来るものではないでしょう。

春琴に対する佐助の隷属的な献身も、その発端をまず伝統的な日本の師弟関係において読み込んでおく必要があります。そのために谷崎は「春琴抄」のなかに、日本の芸道論のような話を挿入しているのです。佐助の場合は、師匠に対する尊敬、芸への憧れが、いつしか倒錯した男女の愛情と重なってしまうのでややこしいですが、しかし、それでも佐助は師匠と弟子の絶対の関係を、最後の最後まで断固として守り抜くのです。佐助は、師匠を仰ぎ見る姿勢を死ぬまで崩しません。事実上の夫婦関係になっても、春琴も、師匠と弟子の関係をなし崩しにすることを決して許しません。

ここは大事なことなので指摘しておきたいですが、巷間多くの「春琴抄」論が、春琴と佐助の関係を、大店のいとはん(お嬢様)と奉公人の関係で読んでいるようですねえ。確かに「春琴抄」は、「盲目物語」や「お国と五平」に描かれているのと同じ、身分違いの恋ということですが、春琴と佐助は、芸のうえでの師匠と弟子という関係において身分違いなのです。その証拠に、佐助は春琴をつねに「お師匠様」と呼んでいます。鵙屋が格式を重んじる大坂の旧家だとしても、佐助の家も田舎で代々薬屋を営んでおり、商売の修業のために鵙屋が預かっていたわけで、いわば同業者の町人同士です。鵙屋が主筋であるというに過ぎません。その点においては、乗り越えられない身分違いというわけではありません。春琴と佐助の関係は、芸のうえでの師匠と弟子の関係で読まなければ、「春琴抄」のなかに正しい構図を見い出せなくなります。(この稿つづく)

(H29・8・15)


5)団平という時代

さらに語り手である私は、二代目豊沢団平と大隅太夫の逸話を挙げます。団平は、明治の三名人のひとりと云われる三味線弾きです。ちなみに明治の三名人とは、歌舞伎の九代目市川團十郎、浄瑠璃の常磐津林中、そして三味線の団平の三人のことです。江戸時代に芸を磨き、江戸の雰囲気を明治に伝えた名人たちです。団平は明治17年(1884)に大隅の相三味線となり、厳しい稽古を付けて大隅を名人に育て上げました。これが晩年の団平の最後の仕事でした。

『先代大隅太夫は修業時代には一見牛のように鈍重で「のろま」と呼ばれていたが彼の師匠は有名な豊沢団平俗に「大団平」と云われる近代の三味線の巨匠であったある時蒸し暑い真夏の夜にこの大隅が師匠の家で木下蔭挟合戦の「壬生村」を稽古してもらっていると「は遺品ぞと」というくだりがどうしてもく語れないり直し遣り直して何遍繰り返してもよいと云ってくれない師匠団平は蚊帳って中に這入っていている大隅はに血を吸われつつ百遍、二百遍、三百遍と際限もなく繰り返しているうちに早や夏の夜の明けくあたりが白み初めて来て師匠もいつかくたびれたのであろう寝入ってしまったようであるそれでも「よし」と云ってくれないうちはと「のろま」の特色を発揮してどこまでも一生懸命根気よく遣り直し遣り直して語っているとやがて「出来た」と蚊帳の中から団平の声、寝入ったように見えた師匠はまんじりともせずに聴いていてくれたのである』(谷崎潤一郎:「春琴抄」)

杉山其日庵の「浄瑠璃素人講釈」には、団平と大隅の芸の厳しい修行の逸話がいくつも出て来ます。最も有名なものは、団平が最初に大隅を稽古した時の「傾城反魂香・吃又」の逸話です。ここに土佐の末弟、浮世又平(うきよまたへい)重起(しげおき)といふ絵かきあり。」の文句で、「末弟」の発声が団平の気に入らず、大隅は朝から晩まで「ここに土佐の末弟」ばかり言わされましたが、団平は三味線を構えたばかりで、とうとう「トン」の撥をおとさず、団平いわく、「大隅よ、お前の語るのを聴くと、どうも下手になった気がして、どうも打たれぬ。お前が天性芸が上手なので、私がこうまで弾けぬのではないかとも思って、今思案をしているところじゃ」と云われて、大隅は廊下の板張りに身を突っ伏して、大泣きに泣いたということです。其日庵は、大隅の思い出話をする時は、いつも目に涙を浮かべていたそうです。

ところで「春琴抄」のなかに、団平の名前がもう一箇所出て来る場面があります。吉之助は、谷崎が「春琴抄」をもっともらしい話に仕立てる為だけに団平を登場させて、春琴の芸のことを語らせたと思わないのです。日本の芸道の歴史のなかで重要な役割を担う団平が、ここで再び登場することは、重い意味があることだと考えます。

『作者の知っている老芸人に青年の彼女の三絃をしばしば聴いたという者があるもっともこの人は浄るりの三味線弾きで流儀は自ら違うけれども近年地唄の三味線で春琴のごとき微妙の音をするものを他に聴いたことがないと云うまた団平が若い頃にかつて春琴の演奏を聞き、あわれこの人男子と生れて太棹を弾きたらんには天晴れの名人たらんものをとじたという団平の意太棹は三絃芸術の極致にしてしかも男子にあらざればついに奥義を究むるわずたまたま春琴の天稟をもって女子に生れたのをしんだのであろうか、そもそもまた春琴の三絃が男性的であったのに感じたのであろうか。前掲の老芸人の話では春琴の三味線を蔭で聞いていると音締えていて男が弾いているように思えた音色も単に美しいのみではなくて変化に富み時には沈痛な深みのある音を出したといういかさま女子には珍しい妙手であったらしい。』(谷崎潤一郎:「春琴抄」)

ちなみに団平は生年が文政11年(1828)で、没年が明治31年(1898)。大隅の生年が安政元年(1854)で、没年が大正2年(1913)です。このことは「春琴抄」での春琴と佐助の生没年と一致はしませんが、おおまかなところで、ほぼ同時代なのです。しかし、決定的に違うところもあります。元治元年(1865)3月に、春琴は就寝中に何者かに襲われて、顔に大火傷を負い、同年5月頃、佐助は自ら両目に針を刺して失明しました。つまり「春琴抄」では、春琴と佐助の二人の世界の時計は元治2年で止まり、佐助のなかでずっと江戸のまま生き続けるのです。その後、生理的な死が訪れるのが、春琴は明治19年、佐助は明治40年ということなのです。

一方、世の中は江戸から明治、大正・昭和と変転し、社会も世相も価値観もどんどん変わって行きます。先に書いた通り、変わって行くこと自体は悪いことではないのです。それはそのようなものの性質として在るものであるのですから、そういうものが変わらないとすれば、そのことの方がむしろ悪いかも知れません。ここで変わりゆく日本の芸の世界の流れをざっと考えてみることにします。

明治の三名人の没年は、それぞれ団平が明治31年(1898)、団十郎が明治36年(1903)、林中が明治39年(1906)です。このことが示すものは、明治維新(慶応三年・1867)によって世の中は江戸時代が終わって明治時代に移るのですが、それは政治体制上の区切りに過ぎないのであって、江戸の芸がそこで終わったわけではないという当たり前のことです。明治期の前半には、江戸時代に生まれた芸人たちが、江戸の雰囲気を濃厚に残した芸を、まだまだ見せてくれていました。しかし、明治も三十年を過ぎて来ると、名人たちが次々と高齢になって亡くなって行きます。明治の三名人とは、江戸文化の最後の輝きを放って散った芸人たちの象徴的存在でした。

明治36年(1903)、五代目菊五郎が亡くなって、すぐさま息子の丑之助が六代目菊五郎を襲名することになりました。その披露口上において、九代目団十郎は「自分と故人(五代目菊五郎)が最後の江戸っ子である」と観客に語りかけました。この後 間もなく九代目団十郎は亡くなりました。この時、民衆が受けた精神的衝撃は、想像できないほど大きなものでした。伊原敏郎(青々園)は、その時のことを次のように書いています。

『「団菊が死んでは今までのような芸は見られぬから、絶対に芝居へ行くことをよしにしよう」、そういう人が私の知っている範囲だけでも随分あった。またそれほどには思い詰めなくても「(国劇の最高府である)歌舞伎座はこれから先どうなるだろう」、それが大方の人の頭に浮かぶ問題であった。』(伊原敏郎:「団菊以後」)

いくら名優とは言え、ひとりの歌舞伎役者の死を「歌舞伎はもう終わりだ」というほど人々が思いつめたというのは尋常ではありません。このことの意味は、明治36年に歌舞伎は、完全に江戸から切り離され、同時代劇ではなくなったということです。以後の伝統性能の世界は、観念的に江戸から切り離された、故郷を失った芸となったのです。

六代目菊五郎など残された若い芸人たちは、明治になってから生まれた人たちでした。彼らにとって江戸とは既に「失われた時代」です。彼らと江戸をつなぎとめるものは、彼らが覚えている先達の名人芸の記憶のなかにあります。先達がやった通りにやってみることが、兎に角江戸とつながることになる。そこから彼らの芸が始まるのです。芸の有り様が、そのようになってしまいました。これは仕方のないことです。歳月が経つにつれて代変わりして、芸の有り様が少しづつ変わって行くのは、当たり前のことなのです。それでも彼らは、先達の名人芸の記憶をとっかかりに「失われた時代」との繋がりを何とか取り戻そうと、必死で努力してきました。それが明治末から大正の芸の有り様なのです。

このことは次元は違えども、明治末期から大正期に生きる日本の民衆にとっても、まったく同じ状況だったのです。江戸から切り離されて鎖国が終わり、チョンマゲがなくなり帯刀がなくなり、海外から様々な文化・思想が流入し、日本は世界情勢に否応なく翻弄されて、それは仕方のないことであったのですが、民衆にとって江戸は「失われた時代」となったのです。江戸から明治への変化が民衆に与えた衝撃は強烈なものでした(当時の知識層がどれほど苦しんだかは、夏目漱石や森鴎外などの作品を読めば知れることです)が、その衝撃が引き起こす症状は民衆の心にすぐに現れるわけではありません。それがロス感覚、或いは鬱感覚としてジワジワと民衆の心に表れ始めるのは、もう少し遅れて明治末期から大正期ということにな ります。

「春琴抄」の主人公春琴は三味線の名手ですから、谷崎は団平をその世界の芸の至高の存在として、小説中に登場させているのです。その団平が明治31年に亡くなります。「春琴抄」では春琴が明治19年に亡くなりますから、そこに12年の違いがありますが、谷崎は春琴の死に団平の死と同じ意味合いを持たせていることは明らかなのです。それは我々は江戸という故郷(この場合の「江戸」は「日本の伝統」と同義に考えて良い)から精神的に切り離されたという思いです。そのなかで時間の流れを止めてまったく変わらず守り続けているのが弟子である佐助で、対照的にゆっくりと流れ変わり続けているのが、語り手である「私」つまり谷崎その人と、或いは読者ということになるでしょうか。(この稿つづく)

(H29・8・16)


6)団平という時代・続き

二代目団平の大隅太夫に対する稽古は確かに厳しかったに違いないですが、芸談を読む限り、弟子に暴力を振るったり、無闇に罵詈雑言を浴びせることはなかったようです。その代り、実に辛抱強かったと思います。師匠に「あかん」と言われれば、普通はちょっと言い方を変えてすぐやリ直してみたりするものかと思います。ところが、大隅は不器用な性格で、そこでハタッと立ち止まり、長い時間を掛けて「どこがいけなかったのか」を考えるのです。団平はずっと待っています。長い沈黙が続き、やがて意を決したように大隅が「お願いいたします」と言う。団平が三味線を構える。大隅が語ると、団平が「あかん」と言って三味線を止める。この繰り返しが延々と続くのです。教わる方は地獄ですが、教える方も地獄です。初代鶴沢道八は、団平と大隅の稽古について次のように語っています。

『清水町のお宅での大隅さんのお稽古は実に大変でした。「一の谷の熊谷陣屋」の枕で、師匠が「シヤン」と弾かれて、「相模――」と大隅さんが語り出すと「いかん」でやりなほし、それがなんと数日間続くのですから驚きます。どの音(オン)から出ても「いかん、いかん」だけで、「相模は」の「は」まで行かないのです。つまり息が不十分だつたのでせう。数日後初めて「出来た」で、奥へ進んだのです。これはそのときお稽古について行つてゐた弟子の隅栄太夫が、「うちの師匠もあゝまで不器用やと思ひまへなんだ」と歎息しながら私にいつた話でした。いつたい名人のお稽古は一箇所つまると中々並大抵では通しません。その代り通過するとずうと進みます。つまり引かゝるところが大切なところなのです。大隅さんは清水町の師匠に「違ふ」といはれるとぢいつと、凡そ五分間も――もつと長いこともあります――考へ込んだ揚句「お願ひします」といつて続けられるのですが、それが一度ですむときもあり数度、十数度のときもあります。稽古はこれでなくてはいけません。師匠がいつてゐる中にもう口を開ける人がありますが、そんなのは何にもなりません。三味線でも同じです。自分一人で本読みするときでも、声を出してしまつては、自我がすつかり出てしまつて何を語つても同じといふ結果になります。よく文章を読みつめて、肚の中で目算を立てゝから声を出さねばそのものになりません。』(鶴沢道八:「道八芸談」)

これらの芸談から浮かび上がってくるものは、芸の遥かな高みを目指して必死に頑張り続ける師弟のストイックな思いです。師匠を仰ぎ見つつストイックに芸道を追い求める芸阿呆・大隅太夫の姿には、何だかツーンと来てしまいます。しかし、大隅の芸は本物に違いなかったでしょうが、その芸風はあまりに芸術至上主義に過ぎて、客受けを拒否した渋いものであったので、そのため大隅は尊敬はされたけれども人気が出ないままに終わって、生活は困窮して晩年は寂しいものでした。吉之助が「春琴抄」の佐助のなかに見るものも、まったく同じようなストイックなものです。

『後年一流の大家になった人であるから生れつきの才能もあったろうけれどももし春琴に仕える機会を与えられずまた何かにつけて彼女に同化しようとする熱烈な愛情がなかったならば、恐らく佐助は鵙屋の暖簾を分けてもらい一介の薬種商として平凡に世を終ったであろう後年盲目となり検校の位を称してからも常に自分の技は遠く春琴に及ばずとし全くお師匠様の啓発によってここまで来たのであるといっていた。春琴を九天の高さに持ち上げ百歩も二百歩もっていた佐助であるからかかる言葉をそのまま受け取る訳には行かないが、技の優劣はとにかくとして春琴の方がより天才肌であり佐助は刻苦精励する努力家であったことだけは間違いがあるまい。』(谷崎潤一郎:「春琴抄」)

稽古中に春琴が佐助を激しい語調で叱り飛ばし、時には撥で頭を殴ったりします。佐助は意気地なくひいひいと声を挙げて泣きます。それを聞いて、周囲の者は「またこいさんの折檻が始まった」と眉をひそめます。春琴に対する憧れ・恋心だけで、佐助がこのひどい扱いに耐えたと思えませんから、「春琴抄」では、春琴の折檻に佐助がマゾヒスティックな歓びを覚えていると解釈するのが流行りです。例えば上記引用の「彼女に同化しようとする熱烈な愛情がなかったならば」という箇所を男と女の線で読むならば、そうなるでしょう。しかし、これを芸道の線で「師匠に同化しようとする熱烈な愛情がなかったならば」と読めば、全然別の読み方ができると思います。伝統芸能の修行とは、師匠に同化しようとする行為の他なりません。まず根底のところに芸道の遥かな高みを目指して頑張り続けるストイックな思いを読まねばなりません。なぜならば、三味線の芸の世界が、「春琴抄」の背景にあるものだからです。

「春琴抄」の場合は、師匠に対する尊敬、芸への憧れが、いつしか倒錯した男女の愛情と重なってしまうので、分かりにくくなっています。これは恐らく作者谷崎が意識してそうさせています。しかし、作者谷崎が、春琴と佐助の生き様を歴史的背景のなかに擬態させていることが分かれば、我々が小説に見ているもの(春琴と佐助の男女関係)は、決して我々が見たいものではなく、真実は別のところにあることが自ずと見えて来ます。ヒントは、佐助が生きた時代、特に佐助が自ら両目に針を刺して失明した元治元年(1865)から、明治40年(1907)に佐助が亡くなるまでの、約40年間の芸の世界の状況にあるでしょう。つまり、団平という時代を知ることが、「春琴抄」を理解するために必要となって来ます。(この稿つづく)

(H29・8・24)


7)団平という時代・そのまた続き

団平という時代が表象するものとは、いったい何でしょうか。それは恐らく、今は消えてしまった「古(いにしえ)の心」と云うことだと思います。大事な認識は、三味線の芸の世界においては、「古の心」、江戸の心というものは、明治31年(1898)の団平の死を以て途切れたということです。以後の我々にとって、江戸の心は、あらかじめ失われてしまったものとなりました。それほど明治維新後の日本の変転の衝撃は大きかったのです。以後の伝統芸能は、この認識から始まります。江戸の心の再現はもはや不可能なことですが、敢えてこれに挑戦しようと云うのなら、我々が立ち返らなければならないところは、まずは団平です。最も近いところに取っ掛かりを求めるなら、とりあえず団平しかあり得ないからです。

だから団平の薫陶を受けた大隅太夫始め、摂津大掾、鶴沢道八、名庭絃阿弥などの芸談から、団平はどのように考えたのか?江戸の心とはこういうものかな?というのを探って行くしか方法はありません。杉山其日庵は浄瑠璃のパトロン或いは好事家とでも云うべき人ですが、明治末期から大正にかけて彼らの証言を聞き取って、これを「浄瑠璃素人講釈」という本にまとめました。長めの引用になりますが、そのはしがきの始めの部分をお読みください。(大事な箇所を太い赤で表示しています。)

『此冊子を読まんとする人は、先づ第一に、此「はしがき」を能く読まれたい。
一、義太夫節と云ふ物が、距る貞享二年乙丑(今大正十五年を距る二百四十二年前)大阪道頓堀の西に、櫓を揚げて以来、此芸が満天下に流行したが、流行するによりて名人が輩出した。名人が輩出したから、其妙芸が拡大して来た。芸妙が拡大して来たから、修業が烈敷なつて来たのである。

二、然るに若し芸道が、此の反対になつて来たらば大変である。修業が粗末になつて来ると、芸妙が廃れる。芸妙が廃るれば、名人が無くなる。名人が無くなれば、斯芸が極端に衰微する事になるのである。
 

三、即ち現今は、斯界に衰微荒廃の暮鍾が鳴つて居る時である。夫を回復するには、修業を烈敷する外はないのである。修業を烈敷するには、芸妙が解らねばならぬ。芸妙が解つて来ると、名人が出来て来る。名人さへ出来れば.満天下に流行の実が挙るのである。

四、其芸妙とは、何であらうか。即ち名人優越の風である。其優越の風は、ドンな物であるか、其学的材料が、古来より口伝/\斗りで、今は少しも無いのであるから、自得の外得られないのである。自得の妙風は、修業の鍛錬から起るのである。

五、今庵主は、其妙風の何物たるを穿鑿する、百千万分の一にでも、参考となるべき資料を発見したいと、藻掻きあせりつゝある、一人である。

六、而して其修業の資料は.元々口移しの仕事で、咽と腹と頭の働きで、空気の顫動させ方、即ち声の働きを、定規とせねばならぬ物が、筆や墨で、決して書き顕はされる物ではない、是を芸道の妙風と云ふのである。
 

七、其口移しが、古代には、名人も沢山あつたであらうが、庵主等は、其名人の口移しには、接する事が出来ぬ訳であるから、先づ近代に於ける、豊沢団平の言ひ残した事を始めとして、次は竹本摂津大掾、竹本大隅太夫、名庭絃阿弥等に就いて、熱心に修業し、又咄を聞くの外無いのである、夫以上の事は到底庵主では不可能であつた。故に此書は右三四人の咄の聞書の一冊子と思ふて貰いたい。

八、右の訳故此冊子には、庵主が熱誠に、其聞いた事を基礎として、細大洩さず記憶を探つて書く事とした。  』

(杉山其日庵:「浄瑠璃素人講釈」・はしがき)

ちなみに、ここで其日庵が「芸妙即ち名人優越の風」と記しているものが、歌舞伎では「型」と呼ばれているものに当たります。風とは、浄瑠璃の節付け作者・つまりその作品を初演した太夫の芸風のことを云います。その節付けのなかに作者の意図があるに違いない。これを読み取って、風を守って行くことしか、芸道を回復する方法はないと其日庵は云うのです。実は浄瑠璃の「風」の概念は、その世界のなかでのみ伝えられたもので、其日庵が「浄瑠璃素人講釈」で公にするまで、一般に知られることがなかったものでした。現在でも、その世界の方に尋ねれば、「風?そんなものはおまへん」という・つれない返事が返ってくることが珍しくないそうです。あまりそこに触れられたくない雰囲気があるようです。

ここで大事なことは、其日庵のなかでは、「古の心」、江戸の心は途切れてしまった、失われてしまったものとして認識されていることです。古の心とは、もはや自分の埒外にあるもの、自分にとっての「他者」 なのです。現在の我々からすると、古典に対しては、そこに或る種の違和感と云うか、ズレ、疎外感がどうしても生じます。現在と昔とでは社会制度も倫理感覚も美的感覚も異なるからです。そういうものが変化していくことは当たり前のことで、変わることは決して悪いことではありません。しかし、そこから生じる違和感やズレによって、逆に古典から我々が生きている時代の有り様を否応なく意識させられます。つまり我々は古典を読んで何やかや思索をしながら、実は古典から「眼差し」されている、批評されているのです。我々は自身の感性を研ぎ澄まし、正しい姿勢を再確認する為に、古典に対するのです。我々がこれから生きていくための糧とする為にです。この意識が、其日庵のなかでひときわ強いということです。

どうしてそういう思いが其日庵のなかで強くなるかと云えば(出発点に戻るようですが)、明治31年(1898)の団平の死を以て江戸の心が途切れたという認識から来るわけです。そこから風の概念の重要性がクローズアップされて来ます。浄瑠璃の世界の風というものは、それ以前には、お師匠さんの教えてくれたものを後生大事に守る、それが代々受け継がれて、ただ続いて来たものに過ぎませんでした。ところが、其日庵は、それが初演した太夫の芸妙であると解し、風を忠実に再現することが江戸の心を回復する唯一の手段だとしたのです。つまり風というものは、そうやらなければ正しくないというものになった。そこに風の概念の転換が起こっているのです。

同様なことが、歌舞伎の型にも起こりました。江戸時代にも、型という言葉はありました。それは役の性根の把握からくる演技の段取り・手順などを指しました。江戸時代には、何をやったってそれは歌舞伎であったし、それは型になったのです。しかし、明治36年(1903)に「最後の江戸っ子」を称した九代目団十郎が亡くなって江戸歌舞伎が終わった時から、歌舞伎は「九代目団十郎がやった通りに、五代目菊五郎がやった通りにしなければ、それは歌舞伎ではない」というものになりました。ここに型の概念の転換が起こったのです。このような流れにしたのは二長町市村座の、六代目菊五郎や初代吉右衛門・七代目三津五郎など当時の若手の役者たちです。

ですから風とか型という言葉は、江戸の昔からありますが、団平・九代目団十郎以後の風や型の概念は、江戸の時代とまったく違うものです。このような現象が、日本の伝統芸能の随所で同時期に起こったのです。それほど江戸から明治への変化が民衆に与えた衝撃は強烈なものだったということです。明治の世になって最初は民衆 はもちろん変革の機運にヒートアップしました。しかし、気分が落ち着いてしまうと、今度はその揺り返しが、民衆にロス感覚、或いは鬱感覚となってジワジワ表れ始めます。それが明治30年代から大正期にかけてのことでした。折しもこの時期は西欧での世紀末思想が盛んな時期(1900年が明治33年に当たる)でした。これも質的にまったく同じようなものです。同じような気分が世界レベルの劇術思潮として海外から日本に流れ込んで来た時代ですから、この時代の日本の芸術家の鬱感覚は強まりこそすれ、決して弱まることはありませんでした。(この稿つづく)

(H29・8・28)


8)春琴の写真

谷崎は「鵙屋春琴伝」だけでなく、さらに春琴が若い頃に撮ったという写真まで持ち出して来ます。もちろん谷崎の創作です。春琴は美しい女性だったようですが、古ぼけた写真は読者におぼろげな印象しか与えることができません。しかし、写真に残された春琴の像(イメージ)がぼんやりしていることが、却って読者の想像を掻き立てます。

『今日伝わっている春琴女が三十七歳の時の写真というものを見るのに、輪郭の整った瓜実顔に、一つ一つ可愛い指でまみ上げたような小柄な今にも消えてなくなりそうなかな目鼻がついている。何分にも明治初年か慶応頃の撮影であるからところどころに星が出たりして遠い昔の記憶のごとくうすれているのでそのためにそう見えるのでもあろうが、その朦朧とした写真では大阪の富裕な町家の婦人らしい気品を認められる以外に、うつくしいけれどもこれという個性のめきがなく印象の稀薄な感じがする。年恰好も三十七歳といえばそうも見えまた二十七八歳のようにも見えなくはない。この時の春琴女はすでに両眼のを失ってから二十有余年の後であるけれども盲目というよりは眼をつぶっているという風に見える。』 (谷崎潤一郎:「春琴抄」)

「私」にとって、写真に写っている春琴の顔がどんなだったかは、どうでも良いことです。それを説明するために「私」が写真を持ち出したのではありません。彼女が確かにその時代を生きていたことを、読者が納得してくれればそれで良いのです。あくまで真実は、検校(後の佐助)の記憶のなかにあります。

『聞くところによると春琴女の写真はにも先にもこれ一枚しかないのであるという彼女が幼少の頃はまだ写真術が輸入されておらずまたこの写真をった同じ年に偶然ある災難が起りそれより後は決して写真などを写さなかったはずであるから、われわれはこの朦朧たる一枚の映像をたよりに彼女の風貌を想見するより仕方がない。読者は上述の説明を読んでどういう風な面立ちをかべられたからく物足りないぼんやりしたものを心にかれたであろうが、仮りに実際の写真を見られても格別これ以上にはっきり分るということはなかろうあるいは写真の方が読者の空想されるものよりもっとぼやけているでもあろう。考えてみると彼女がこの写真をうつした年すなわち春琴女が三十七歳のおりに検校もまた盲人になったのであって、検校がこの世で最後に見た彼女の姿はこの映像に近いものであったかと思われる。すると晩年の検校が記憶の中に存していた彼女の姿もこの程度にぼやけたものではなかったであろうか。それとも次第にうすれ去る記憶を空想で補って行くうちにこれとは全然異なった一人の別な貴い女人を作り上げていたであろうか』 (谷崎潤一郎:「春琴抄」)

文中に「この写真をった同じ年に偶然ある災難が起り」とあるのは、元治2年(1865)3月に就寝中に何者かに襲われ、春琴は顔に大火傷を負ったことを指しています。ちなみにその2年後が明治維新です。小説成立の現在、昭和8年(1933)から見れば、もう70年近く前のことです。だから読者は春琴の美しさを想像するしかありませんが、情報量の少ない古ぼけた写真からそれを読み取ることは無理です。読者は写真から失われた過去と向き合うことしか出来ません。

生の一瞬は、現れてすぐに消えてしまうものです。失われた時を取り戻したり、とどめることができたらと云うことは、誰しも思うことですが、そんなことができるのでしょうか。しかし、写真というものは、 不完全な情報ではあっても、失われるはずの時を切り取って凍結保存してくれるものです。現在の鮮明なカラー写真から人はもはやそんなことを考えたりしないと思いますが、写真技術が発明されてしばらく(20世紀初頭まで)は、当時の人々は写真というものの不思議さをしばしば思ったものでした。ベルクソンは「物質と記憶」のなかで、過去というものは消え去ってしまうのではなく、人々の記憶のなかにそれ自体が存在し、保存され、生きていると書きました。しかし、記憶のなかに沈んでしまった過去を呼び覚ますには、何かしらのきっかけが必要です。それがきっかけで、失われていた過去が生き生きと蘇って来る場合があります。例えばプルーストの「失われた時を求めて」のなかで、主人公マルソーが紅茶に浸したマドレーヌを口にして、子供時代の思い出を生き生きとよみがえらせた、あの不思議な瞬間です。写真とはまさにそのようなもので、その時、写真は暗喩となって、見る人に何かのきっかけを与えます。(さほど違わない時期に発明された録音技術についても、同様な意味を持つことを付け加えます。)次のバルトの文章をご覧ください。

『写真は過去を思い出させるものではない。写真が私に及ぼす効果は(時間や距離によって)消滅したものを復元することではなく、私が現に見ているものが確実に存在したということを保証してくれる点にある。写真はつねに私を驚かす。(中略)写真は何か復活と関係があるのだ。写真については、ビザンチン人がトリノの聖骸布にしみこんでいるキリストの像について言ったことを、そのまま繰り返すことができるのではなかろうか。つまり、それは「人為に拠るものでない」と。』(ロラン・バルト:「明るい部屋〜写真についての覚書」)

実は写真でこのようなことを考えるのは、20世紀初頭に生きた芸術家たちの特有の現象でした。プルースト然り、谷崎もまた然りです。谷崎が小説中に春琴の写真を持ち出したのは、誣い物語の真実味を増す為の小道具として提出したわけではなく、実はもっと深い意図があってのことなのです。読者のなかで、春琴が生きた時代(もっと正確に云うならば春琴が美しかった時代、眼をつぶした佐助のなかで凍結されてしまった時代です)を外在化させるためです。「私」にとっても読者にとっても、春琴が生きた時代は自分が生まれる以前のことです。だから実体験としての記憶はないわけです。個人としてみればその通りですが、しかし、民衆というレベルになれば記憶は連続したものとなります。春琴が生きた時代は、民衆の記憶のどこかにそれ自体が存在し、保存され、生きているものです。民衆レベルにおいて谷崎は春琴の写真を持ち出し、春琴が生きた時代と対峙することを読者に求めます。暗喩としての写真は、読者に何かを呼び起こすきっかけを与えるでしょう。それが何を呼び起こすは分かりませんが、兎に角、何かのきっかけにはなるのです。

ところで、本稿は「春琴抄」を芸道小説として読むのが目的ですから、例えば春琴の写真を、浄瑠璃の風、或歌舞伎の型に置き換えてみても良いのです。上記に引用したバルトの文章の「写真」を「歌舞伎の型」に置き換えて読んでみてください。

『歌舞伎の型は過去を思い出させるものではない。歌舞伎の型が私に及ぼす効果は(時間や距離によって)消滅したものを復元することではなく、私が現に見ているものが確実に存在したということを保証してくれる点にある。歌舞伎の型はつねに私を驚かす。(中略)歌舞伎の型は何か復活と関係があるのだ。型については、ビザンチン人がトリノの聖骸布にしみこんでいるキリストの像について言ったことを、そのまま繰り返すことができるのではなかろうか。つまり、それは「人為に拠るものでない」と。』

伝統演劇というものは、常に過去と向き合い、過去から高められるものです。我々は目の前の舞台しか見ていないようですが、実は過去の芸の集積を眺めているのです。だからこそ伝統演劇と云うのです。現代演劇ならば、そのような見方は要求されません。歌舞伎の型あるいは様式を意識することは、失われた過去と対峙することです。例えば「熊谷陣屋」を見るならば、その型を創始した九代目団十郎が生きた時代と対峙することになります。我々は目の前の舞台を見ながらも、九代目団十郎が生きた時代から何かを呼び起こされ、高められます。さらに宝暦元年(1751)人形浄瑠璃初演からの「熊谷陣屋」の芸の集積を重層的に見ることになるのです。実はそれが我々が本当に見たかったものです。これが伝統演劇を見る時の基本的な心構えと云うべきですが、実はこのような見方は歌舞伎においては江戸時代にはなかったもので した。それは明治36年(1903)の団十郎の死以降に出来たものです。いろいろな概念・価値観の転換が、20世紀初頭に同時多発的に起きたのです。ですから「春琴抄」で谷崎が春琴の写真を持ち出したのは、まったく二十世紀初頭の芸術思潮のうえに乗ったものであることが、これで分かると思います。(この稿つづく)

(H29・9・7)


9) 春琴の写真・続き

前章では19世紀に発明されてその時代の芸術家の世界観に多大の影響を与えた2つの技術(写真と録音)のことに触れましたが、20世紀初頭になると映画(活動写真)が登場してきます。映画はたんに動く写真(動画)というだけではなく、巨大資本が広く庶民に安価に演劇的な娯楽を提供するものでした。これに作家が感化されないはずはなく、谷崎も当時視覚芸術の先端であった映画に大きな興味を持っていました。谷崎は大正9年に設立された大正活映株式会社の脚本部顧問となり、4本の映画製作に係りました。大正期の谷崎は小説より戯曲の方を活発に書いた感がありますが、それは映画への興味が下敷きにありました。そのせいか自作の映画化には批評眼が厳しかったようで、昭和10年に「春琴抄」が松竹蒲田で映画化(島津保次郎監督)された時、「映画になった「春琴抄」には自分はほとんどのぞみをかけていない、出来上がったものを見るつもりもない」と書いています。しかし、谷崎は最後にこんなことも書いています。

『もし自分であれ(「春琴抄」)を映画化するとすれば、目を突いて盲目になってしまってからの佐助を通じて、春琴を幻想の世界にうつくしく描き、それを現実の世界とを交錯させて話をすすめて行くようにすれば、実際にそういうものがうまくつくれるかどうかは自分にも分からないが、成功すれば、きっと面白いものが出来あがるのではなかと思っている。』(谷崎潤一郎・「映画への感想〜「春琴抄」映画化に際して」・昭和10年4月)

吉之助がこの文章に重要なヒントがあると考えるのは、谷崎が自分ならば映画「春琴抄」を目を突いて盲目になってからの佐助を通じて描くと書いたことです。極端に云えば、佐助が盲目になる前のことは、谷崎にとってそう大事ではないのです。佐助が盲目になってからの方が大事なのです。普通に考えると、あの美しかった春琴の顔が火傷で見るに耐えられないものとなり、それを見たくないから佐助は自らの目を突く、その佐助の心理の動きに「春琴抄」のドラマがあるとそうなりそうなものです。しかし、谷崎はそう考えないのです。小説であると過去現在・幻想と現実を交錯させることは、筋が錯綜してしまって、手法的になかなか困難です。映画ではそこのところを比較的容易に乗り越えられるかも知れません。しかし、大衆受けしない難解な表現主義的な映画になりそうな感じもしますが。

谷崎が映画で佐助の過去現在・幻想と現実を交錯させたいと云うのは、物事の裏表を対比させたいという意図ではありません。それは過去現在・幻想と現実をそれぞれ或る種の軽さ(軽やか)を以て、等価に混在させたいということです。これについては別稿「雑談:伝統芸能の動的な見方について」で谷崎の発想について考察しましたから、そちらをご覧ください。このような谷崎の発想の軽やかさは、20世紀初頭の世界的な芸術思潮から来るものです。

ところで元治2年に撮影された春琴の古ぼけた写真のことに戻りますが、この写真が象徴するものは、かつて確かに存在したが今はもう消えてしまったあの時代です。同年に佐助は自らの目を突き盲目となって、その時代を自らの脳裏のなかに凍結してしまいました。凍結されてしまったものは、美しかった春琴の顔だけではなく、その時代に纏わる記憶のすべてです。佐助のなかで、元治2年のまま時間は止まっています。バルトは、写真は過去を思い出させるものではなく、消滅したものを復元することでもなく、「私」が現に見ているものが確実に存在したということを保証してくれると言いました。写真を見た時、「私」は凍結された時代と現在との差異、時が経つなかで否応なく変化していくものを意識させられます。この時、「私」は凍結された時代から「眼差しされている」のです。

『師弟の差別にてられていた心と心とが始めてひしとい一つに流れて行くのを感じた少年の頃押入れの中の暗黒世界で三味線の稽古をした時の記憶が蘇生って来たがそれとは全然心持が違ったおよそ大概な盲人は光の方向感だけは持っている故に盲人の視野はほの明るいもので暗黒世界ではないのである佐助は今こそ外界の眼を失った代りに内界の眼が開けたのを知りああこれが本当にお師匠様の住んでいらっしゃる世界なのだこれでようようお師匠様と同じ世界に住むことが出来たと思った』(谷崎潤一郎:「春琴抄」)

ここに「内界の眼」と云う言葉が出て来ます。佐助は盲目となることで、目明きの時に到達できなかった内界の眼を得ることが出来ました。内界の眼というのは、どういうことでしょうか。盲目となった佐助は、ひたすらに春琴との二人だけの世界に閉じこもり、時間が止まったその世界だけ見ていたということでしょうか。美しかった春琴の思い出を内界の眼でそれ以上のものに高めたと、ただそれだけのことでしょうか。まあ確かにそのような見方もできる(小説はその読み方を否定しない)と思いますが、20世紀初頭に生きた芸術家たちが感じた写真の意味を考えるならば、もう少し別の見方が出来るだろうと思います。

書き手である「私」は、佐助から自分が眼差しされていることを強く意識したに違いありません。すなわち盲人となった佐助その人が、写真そのものなのです。凍結された時間のなかで、佐助は生きているのではなく、「在る」のです。佐助その人が眼差しとなって、佐助の在り方と「私」の在り方との差異を意識させています。そう考えると、「春琴抄」末尾で「私」が異様に強い口調で読者に迫ることも分かる気がしてきます。「私」は佐助からそう言うようにせかされているのかも知れません。

『察する所二十一年も孤独で生きていた間に在りし日の春琴とは全く違った春琴を作り上げいよいよかにその姿を見ていたであろう佐助が自ら眼を突いた話を天竜寺峩山和尚(がさんおしょう)が聞いて、転瞬(てんしゅん)の間に内外(ないげ)を断じ醜を美に回した禅機(ぜんき)を賞し達人の所為庶幾(ちかし)しと云ったと云うが読者諸賢(しょけん)首肯(しゅこう)せらるるや否や』(谷崎潤一郎:「春琴抄」 末尾)

余談になりますが、別稿「雑談:伝統芸能の動的な見方について」で、谷崎の発想の軽やかさとは谷崎の感性の健康さであると吉之助が書いたことに触れておきます。谷崎は熱気や勢いで小説を書くのではなく、職人が工芸品を仕上げるが如くに客観的に醒めた態度で小説を書くのです。このような谷崎の真摯な態度が、しばしば、傍から見るととても滑稽かつ奇妙な形で現れます。谷崎夫人松子の回想「倚松庵の夢」のなかで、「春琴抄」執筆当時の谷崎が自分のことを「じゅんいち」と名乗り、松子を「ごりょうにんはん」と呼んで、まるで封建的な主従関係の如くに振舞ったことが回想されています。食事は夫人と一緒にとらず、自ら雑巾がけなどを買って出て、夫人に習字をしたり琴を弾いたり、優雅な御寮人様として振舞うことを要求しました。

『四方山の話に何げなく応じていると、卒然に畏まって「お慕い申しております」と、思い決したきっぱりした言葉が耳に飛び込んできた。私は驚きの余り言葉も出ず絶句していると、眦(まなじり)は屹(きっ)と緊し、沈痛な響きを帯びた掠(かす)れた声で「どのような犠牲を払っても貴女様を仕合せに致します」と聞こえたようであった。』(谷崎松子:「倚松庵の夢」)

『御寮人様へ御願いがあるのでございますが、今日より召し使いにして頂きますしるしに、御寮人様より改めて奉公人らしい名前を付けて頂きたいのでございます、「潤一」と申す文字は奉公人らしうござりませぬ故「順市」か「順吉」ではいかがでござりましょうか。従順に御勤めをいたしますことを忘れませぬように「順」の字をつけて頂きましたらどうでござりましょう。』(谷崎松子:「倚松庵の夢」)

これらの挿話が示すところは、日常での谷崎の変態的気質が小説に反映しているのではなく、これはまったくその逆で、小説の方が谷崎の行動に影響を与えているのです。なぜならば作者谷崎が佐助から眼差しされており、谷崎がそのことを強く感じているからそうなるのです。これは遊戯(ごっこ)なのですが、本人がそれを遊戯と意識しているかどうかさえ分かりません。執筆中の谷崎のなかで、幻想と現実が軽やかさを以て等価に混在しています。佐助から強く眼差しされればされるほど、谷崎の行動はおかしくなって行きます。もし小説が別の展開をしたならば、谷崎の行動も変わっていたに違いありません。(この稿つづく)

(H29・9・9)


10) 眼差しが教えてくれるもの

自分が他者から「眼差し」されていると意識した時、人は思わず姿勢をしゃきっと正してしまうところがあると思います。眼差しは、どこか倫理的な効果を帯びています。例えばその昔、「みさを(操)」という語は、神様に「この私を見てくれ」と言うという意味に使われたそうです。昔の貞操観念は神様に対するもので、人間に対するものではありませんでした。神に対して自分が清い(あるいは正しい)ということを示そうとする気持ちを失ってしまうならば、それは不信仰だということです。

六代目菊五郎は観客が団体さんだったりするとやる気をなくして、踊りの手を抜いたりすることがよくありました。これに対して七代目三津五郎の方は、どんな時でも手を抜かずにきっちり踊りました。その理由を息子(八代目)に問われて、七代目三津五郎はこう答えたそうです。

六代目はお客を相手にしてるからそうなるんだろ。あたしゃね、死んだ人に見てもらっているんだよ。うちの親父、堀越のおじさん、成駒屋のおじさん、寺島のおじさん、この人たちが後ろで見ていると思ったら怠けるなんてできませんよ。』(武智鉄二「芸十夜」第二夜に出てくる七代目三津五郎の言葉)

七代目三津五郎は、芸の神様の眼差しを感じていたのです。これも芸の神様に対する信心不信心という話になると思います。しかし、六代目菊五郎も、舞台を投げるのは褒められたことではないですが、九代目団十郎とか五代目菊五郎と云われれば、間違いなくしゃきっとしたはずです。六代目菊五郎が偉大な伝統芸能者になったということは、彼もまた眼差しの意識を持っていたに違いありません。

『御霊様祈願をかけ朝夕んでおりました効があって有難や望みが今朝起きましたらこの通り両眼がれておりました定めし神様も私の志をれみ願いを聞き届けて下すったのでござりましょうお師匠様お師匠様私にはお師匠様のお変りなされたお姿は見えませぬ今も見えておりますのは三十年来眼の底にみついたあのなつかしいお顔ばかりでござります』(谷崎潤一郎:「春琴抄」)

自ら目を潰して盲目となった佐助が、その事実を師匠春琴に話す場面です。これを佐助のマゾヒズムの歓びだと云う人もいます。耽美的な倒錯の歓びだという人もいると思います。これは利己主義的で狂信的な歓びに過ぎないと断じる方もいるでしょう。まあ読み方は人それぞれのことです。しかし、佐助と春琴の関係を男と女の線で見ることしばし止めてこれを読むならば、佐助の言葉から、師匠の芸に対する、ピュアで清らかな尊敬の念が浮かび上がって来るでしょう。これは大隅太夫が亡き団平に対して言った言葉だと読んでも、おかしくないくらいです。

『眼が潰れると眼あきの時に見えなかったいろいろのものが見えてくる(中略)取り分け自分はお師匠様の三味線の妙音を、失明の後に始めて味到したいつもお師匠様は斯道の天才であられると口では云っていたもののようやくその真価が分り自分の技倆未熟さに比べて余りにも懸隔があり過ぎるのに驚き今までそれをらなかったのは何と云うもったいないことかと自分のかさが省みられたされば自分は神様から眼あきにしてやると云われてもお断りしたであろうお師匠様も自分も盲目なればこそ眼あきの知らない幸福をえたのだと。』(谷崎潤一郎:「春琴抄」)

内界の眼を得ることで、思考を邪魔する雑多な要素を排除し対象と真っ直ぐに対することができるようになると、対象の輪郭がより明確に見えてきます。佐助は、目明きの時に分らなかった師匠の芸の真価がようやく分かって、自分の芸の未熟さと今までそれを悟らなかった自分の愚かさに思い至ります。眼差しの倫理的効果とはそれです。対象から眼差しされた者は思わず姿勢をしゃきっと正して、「この私を見てくれ」という倫理的な気分になるものなのです。

ここでもう一度確認しておくと、「春琴抄」のなかで「私」が感じている佐助の眼差しの正体は、元治2年(1865)の、春琴と佐助が生きたあの時代、春琴が美しかったあの時代、あの時代の雰囲気など、あの時代に纏わる記憶のすべてです。

『私は、おりから夕日が墓石の表にあかあかと照っているそのの上にたたずんで脚下にひろがる大大阪市の景観をめた。 (中略)そして現在では煤煙で痛めつけられた木の葉や草の葉に生色がなくまびれにれた大木が殺風景な感じを与えるがこれらの墓が建てられた当時はもっと鬱蒼としていたであろうし今も市内の墓地としてはまずこの辺が一番閑静で見晴らしのよい場所であろう。しき因縁われた二人の師弟は夕靄の底に大ビルディングが数知れず屹立する東洋一の工業都市を見下しながら、永久にここにっているのである。それにしても今日の大阪は検校が在りし日のをとどめぬまでに変ってしまったがこの二つの墓石のみは今も浅からぬ師弟のりを語り合っているように見える。(中略)私は春琴女の墓前にいてしく礼をした後検校の墓石に手をかけてその石の頭を愛撫しながら夕日が大市街のかなたにんでしまうまで丘の上に低徊していた。』(谷崎潤一郎:「春琴抄」)

「私」は春琴と佐助の墓石が夕日に照らされるのを眺めながら、春琴と佐助が生きた「あの時代」からの眼差しと対しています。さらに「私」を介して、読者は、「あの時代」からの眼差しに対することになります。対比されているのは、時の流れのなかで否応なく変質してしまうものと、変わらず在り続けるものとの違いです。この時、読者は「あの時代」からの眼差しを受けて、思わず姿勢をしゃきっと正してしまうでしょう。だからと云って、変わらずに在り続けるものが正しいわけではありません。時の流れのなかで変質してしまうことがいけないことでもありません。しかし、眼差しは、どこか人をしゃきっとさせる不思議な力を持っているのです。

谷崎が「春琴抄」を執筆した昭和7〜8年は、日本が満州事変(昭和6年9月)に突入し、太平洋戦争へと戦乱が拡大していく予兆がひたひたと押し寄せて来た時期でした。このような不安の時代に谷崎は目をつぶって、ひたすら過去の記憶に閉じこもり、「春琴抄」を書きあげました。当時、このような谷崎の態度は、日本回帰と呼ばれました。太平洋戦争へのめりこんでいく当時の時局にとっても、それは都合のよいキャッチ・フレーズでした。しかし、谷崎の真意は別のところにあったと思いますねえ。

「陰翳礼賛」(昭和10年)は谷崎の日本回帰を表明した代表的評論とされますが、作家篠田一士は「その後、谷崎文学に親しむにつれ、日本への回帰といった、軽薄な殺し文句は上っ面もいいところ、作者の真意を損なうこと甚だしいものと確信するに至ったのである」として、次のように書いています。

『作者は日本の生活様式だけを尊しとし、これを守りつづけるべしとは一言も口にしていないのである。伝統的な生活様式のなかに、どんな知恵、どんな美が見出されるにしても、それらは日一日と、くずおれ、消え去りつつあることを、なににもまして、レアリストの谷崎潤一郎が知らないはずはない。ただ彼は、そうして滅びゆくものを嘆く抒情には無縁で、むしろ滅びゆくものをいとおしみながらも、滅びゆくものは滅びるままにするしか仕方あるまい、それより来るべき新しき事態に対して、われわれ日本人はどのように対峙し、これに適応すべきかを明快に解き明かしたのが、「陰翳礼賛」の逆説的な真意なのである。』(篠田一士:岩波文庫「谷崎潤一郎随筆集」解説)

谷崎は混乱と不安の時代に意識的に背を向けて、過去の記憶のなかに閉じこもりました。しかし、それは日本回帰というような単純な伝統賛美ではなかったのです。「春琴抄」のなかで谷崎は、変わらず在り続けるもの だけが美しいと云っているわけではありません。時の流れのなかで変質してしまうことが醜悪だと云っているわけでもありません。滅びゆくものは滅びるままにするしか仕方がない。それよりも来るべき新しき事態に対して、我々日本人はしゃきっとした正しい姿勢を保ち続けていられるかということです。過去からの眼差しは、現在の自分の姿勢が正しいか、現在の自分の立ち位置がブレていないかを教えてくれるものとしてあるのです。このため過去からの眼差しを、レアリストとしての谷崎は必要としたと云うことなのです。「春琴抄」の春琴と佐助からの眼差しが我々に教えてくれるものは、そういうものです。

(H29・9・12)


追記:「春琴抄」の口三味線のこと

口三味線と云うのは、チントンシャンというような、三味線の口唱法のことです。西洋音楽のような厳密な音階を示すものではありませんが、一定の法則があって、例えば一の糸を弾(はじ)くとドンといい、撥ですくうとロンという、擬声語です。音色、リズム、音の高さを日本語で置き換えたようなもので、三味線の譜を覚えるには、口三味線で覚えるのが、一番手っ取り早いのだそうです。例えば

「羽根の禿」でぽっくりを脱ぐ合方
チンレンチンチリレンチレテチーンテツーン チントツテーントン

三味線を手にしたことのない吉之助には、なかなか難しい。ところで谷崎潤一郎の「春琴抄」(昭和8年)には、主人公春琴が佐助の三味線を教える場面があります。(別稿「芸道小説としての春琴抄」を参照ください。)

『春琴は日によって機嫌のよい時と悪い時とがあり口やかましく叱言を云うのはまだよい方で黙ってめたまま三のをぴんと強く鳴らしたりまたは佐助一人に三味線を弾かせ可否を云わずにじっと聴いていたりするそんな時こそ佐助は最も泣かされた。ある晩のこと茶音頭の手事を稽古していると佐助のみが悪くてなかなか覚えない幾度やっても間違えるのに業をやして例のごとく自分は三味線を下に置き、やあチリチリガン、チリチリガン、チリガンチリガンチリガーチテン、トツントツンルン、やあルルトンと右手で激しくきながら口三味線で教えていたがついには黙然としてしてしまった。』(「春琴抄」)

ここで「チリチリガン」という口三味線が出て来ますが、口三味線の約束には「ガン」なんてツボはないそうです。だから「春琴抄」のこの場面を読むと、三味線のお師匠さんは、「ガンなんて書くのは、谷崎さんは三味線をよくご存じでないのでは?」と言いたくなるそうです。

しかし、谷崎は昭和2年から大阪の音曲界の権威、菊原琴治検校について日々三味線の稽古に励んでいて、素人の手習いにしてはなかなかの技量に達していたとの証言もあります。昭和9年時点ならだいぶ上達していたでしょう。 谷崎が口三味線の約束を全然知らなかったとも思えません。吉之助としては、谷崎は分かってはいても或る音をどうしても「ガン」と表現したかったから敢えてそう書いたと考えたいのです。別に根拠があるわけではないです。ただ「チリチリガン、チリチリガン」と書かれると、春琴の稽古の熱さ、佐助の下手さに春琴がイライラしている様子が伝わって来るようです。

根拠になるかは分かりませんが、三代目大隅太夫が晩年に「吃又」の稽古をつけた時に、「ここに土佐の末弟・・」のところで三味線を「トーン」と弾くのを止めて、「そこは(二代目)団平師匠はゴーンと弾かはった、ゴーンと弾いてんか」と相三味線に執拗に言ったという話があります。 「三味線にゴーンなんてツボはおまへん」と言うと、それっきり見放されるのだそうです。まあこの逸話も大隅は三味線弾きじゃないからゴーンと言ったのだといえば、それまでのことですが。しかし、それには何か意味があるのじゃありませんかねえ。

だから口三味線の約束は約束として置いても、その音をガンとかゴーンとか表現したくなるという瞬間も時にはあるのじゃないかと吉之助は思うわけです。

(H30・7・1)




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