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吉之助の雑談21(平成24年1月〜6月)  


○二代目猿翁襲名

新橋演舞場に二代目猿翁・四代目猿之助・九代目中車襲名披露を見てきました。今の吉之助は毎月芝居を見るわけではないので、今回は切符も割高感あるし・週刊誌ネタになりそうな内幕話 には興味ないし、見るかパスするかちょっと迷ったのですが、結局見ることにしたのは、新・猿翁(三代目猿之助)が口上に出るということであったからです。猿翁(どうも猿之助と書かないとまだしっくり来ません)は 平成15年11月に病気で倒れて以後は、演出舞台でのカーテン・コールに出て来ることはあっても、役者としては舞台に立っていないわけです。久しぶりの澤瀉屋の姿をどうしても見ておきたい気がしました。

思えば吉之助が歌舞伎を熱を入れて観た昭和50年代は、猿之助が最もエネルギッシュであった時期でした。吉之助は個人的に猿之助歌舞伎の復活物で最も出来が良かったのは「菊宴月白浪」(昭和59年10月歌舞伎座)であったと思いますが、昭和54年4月明治座初演の「伊達の十役」は早替わり・宙乗りの猿之助人気を決定付けたもので・猿之助歌舞伎の代名詞的な作品で した。その他にも映画とコラボレーション(いわゆる連鎖劇)した「奥州安達原」(昭和54年11月・サンシャイン劇場)、「義経千本桜」全段通し上演(昭和55年7月歌舞伎座)などが思い出されます。(「千本桜」は亀治郎の初舞台であったですね。)昭和57年7月歌舞伎座での「天竺徳兵衛新噺」では公演中に右足骨折・しかし10日ほどで復帰して公演を続けた・なんてこともありましたねえ。昭和61年2月新橋演舞場での「ヤマトタケル」初演ももちろん覚えています。まさに「猛優」の肩書きが相応しい活躍ぶりでした。毎月々々趣向を凝らした演目に、吉之助も「猿之助は次は何をやるか・何を仕掛けるか」ということで芝居を見るのが楽しみであったものでした。

猿之助ファンを自認していた吉之助が、次第に距離を置くようになった経過については別稿「いわゆる歌舞伎らしさを考える」でちょっと触れました。いずれ猿之助歌舞伎については整理して書いてみたいと思います。それは兎も角、今回口上の場において新・猿翁(三代目猿之助)の姿を見て吉之助が改めて思った ことは、吉之助のなかで猿之助の時代の或る時期が間違いなく重なっていたという事実です。紆余曲折あったけれども、吉之助の歌舞伎観のなかで猿之助から得たものはやはり大きかったのです。猿之助も若かったけれども、吉之助も若かった。あの頃の猿之助より、今の吉之助の方が年が上なんですからねえ。時の流れを感じると同時に、猿之助もここまでよく頑張ったなあという感慨を強く覚えました。口上において新・猿翁はたどたどしい口跡のなかに・ハッと思わせる気迫を見せて、内面にたぎる役者魂を見せてくれました。やっぱりこの方は根っからの舞台人でした。見ていて、ちょっと眼が熱くなりました。

今回口上の場の顔触れを見ても猿之助の仕事がしっかり根付いて・大きな樹に育ってきたことが、はっきりこの眼で確認できました。これからの澤瀉屋は若い四代目猿之助(亀治郎)・九代目中車(香川照之)らが立派に継承してくれることでしょう。

(H24・6・10)


○岩波現代文庫「菅原伝授手習鑑・精読」

近松や出雲など全盛期の人形浄瑠璃作品・特に時代物を読むと、当時の浄瑠璃作者が博識であることにいつも驚かされます。執筆に当たり、史実・伝説・虚実含めた風説、古今東西の故事逸話、関連文献や謡曲なども含めた先行作品・競合作品に至るまで集められる資料をそれこそ手当たり次第掻き集めて、人物像・ストーリーの構築に物凄い手間を掛けているのです ねえ。この人物がこういう台詞を吐き・こういう行動を取るということの・すべてに、ある意味でフォークロア的な・ある意味で文献的な裏付けがあるわけです。決して作者のその場の思い付きだけで発想されていない。作品を好い加減に作っていないということです。時代物浄瑠璃は、過去の遺産が地層の如く堆積したものに思われます。「菅原伝授手習鑑」などまさにそのようなものです。そこで今回紹介するのは、岩波現代文庫から犬丸治さんの新著・「菅原伝授手習鑑・精読」です。

犬丸治:「菅原伝授手習鑑」精読――歌舞伎と天皇 (岩波現代文庫)

史料ひとつひとつが教える菅原道真の情報それ自体はイメージの断片に過ぎません。それらを片っ端から集めただけで、それでひとつの完璧なストーリーが出来上がるわけではない。バラバラの断片をひとつの印象に凝集させるためのとても強い特別な力が必要です。それはひとつにはもちろん浄瑠璃作者の想像力の所産ですが、それだけではないでしょう。過去から現在を結びつけるフォークロア的な想念の流れがあるに違いありません。それは未来へも繫がる ものです。平安の過去から・江戸の現在へ・そして未来の平成へということです。歌舞伎の「菅原」の舞台を見ながら、そのような力の存在を想像してみたいと思います。

もうひとつ伝統芸能の場合には、浄瑠璃作者の力と同時に、演者の力ということも考えてみる必要があります。つまり、書かれた作品はそこで固定するのではなく、繰り返し 演じられていくなかで変容し続けるのです。例えば歌舞伎の「賀の祝・喧嘩」の場面で隈を取った松王と梅王が米俵を振り回して荒事の立廻りをします。これは原作通りではないですが、この舞台面を歌舞伎らしいと評価する方は多いと思いますが、実は吉之助は昔からこれが好きではありません。隈取りが佐太村ののどかな田園風景に全然そぐわないと思いますねえ。喧嘩で米俵をつかんで引き回す=荒事・隈取りという発想がいささか安直に吉之助には思えますが、まあこれもフォークロア的な裏付けがあると も言える。それにしても写実の演出は出来ないものかなあと思っていましたが、これがあるのですねえ。昭和16年3月歌舞伎座での「賀の祝」の写真です。ここで初代吉右衛門演じる松王は隈取りをしない月代・裃姿の写実の扮装、対する六代目菊五郎の梅王も隈を取っていません。これもまた原作通りではないですが、上方においては昔はこのような写実の松王が一般的であったようで、また松王が「俺は明日から松王播磨守さまじゃぞよ」と言う入れ事があったのも興味深いことだと思います。吉右衛門は上方育ちの父・歌六の芸の流れのなかでこの型を採ったのかなと想像をしますが、これに東京の菊五郎が付き合っているのも面白いことです。この写真をきっかけに犬丸さんの推理が展開していくわけですが・そこは御本をお読みいただくとして、その推理の展開にも演者の想像力を起点とした平安の過去から・江戸の現在へ・そして未来の平成へというフォークロア的な想念の流れを楽しむことができると思います。

この本の情報は多いのですが、ここで引用されている史実・伝承・資料その他諸々を読み手が自分のなかで整理統合できないと、もしかしたら読後の「菅原」のイメージが寄せ集め的な・乖離したバロック的な印象になってしまうかも知れません。まあそれも浄瑠璃時代物の一面ではあるし、そこに現代的な視点があるとも言えますが、いきなりそういう結論に至るとすると吉之助にはあまり好ましいことに思えません。本書を真に有用なものとするためには、「菅原伝授手習鑑」の、少なくとも「加茂堤」・「道明寺」・「賀の祝」・「車引」・「寺子屋」各場の舞台をひと通り見て・自分なりの印象をあらかじめ持っておくことが必要です。その次の段階として本書を読 むことをお薦めしたいと思います。そして、本書で紹介されている史実・伝承・資料その他諸々の情報から得られる印象の断片がひとつの印象・ひとつのストーリー(つまりそれが眼前にある舞台ということですが)に凝集していく過程、そのような特別な力の存在を感じ取ることです。そうすることで伝統というものが、現代の我々に指し示すものは何かということが分かって来る。これからの我々が・日本人であるために・何を守らねばならないのかが分かって来るということです。

(H24・5・12)


○古典の特質

野村萬齋が芸術監督を務める世田谷パブリック・シアターの研究誌「SPT 07」で「古典のアップデート」という特集が組まれていて、そのなかに「私の古典の活かし方〜新進気鋭の演出家13人に聞く」というアンケート形式の記事がありました。古典に対する姿勢・自らの演出作品への活かし方を問うたものです。例えば、第1問を見ると、『あなたが考える古典の特質とは何でしょうか?古典を古典たらしめている条件をいくつかお挙げいただき、ご説明願います。』というものでした。

残念ながら・吉之助は13人の方の演出作品のどれも見たことがないのですが、この方々のお答えを読む限りでは、普段の創作活動のなかで「古典」と係わることも多々あるのでしょうが、恐らくは、古典のここを盗ったら面白いねとか・ここを変えたら独自の視点が出せるねとか、そのような感性的・直感的な 手法で古典に対している方が多いのかなと思われました。(それがイカンと言っているのではないので、誤解のないように。)上記のように問われると、思わず身構えて「・・・そんなに正面切って聞かれても困っちゃうんだよね・・」と戸惑う様子が、どの方の答えからも伝わってきて、興味深いことであるなあと思いました。まあ普段は改まってこういうことを考えることはないでしょう。立派な回答しないと ・・というのが感じられて、それはそれで微笑ましいことだと思いました。もっとも、これはこの方々の演出舞台の成果とまったく別の話です。

確かに坪内逍遥みたいに、芝居に係わる前に古典東西の名作やら先行作品を徹底的に調べ上げ、まず最初に「これからの演劇はかくあるべし」という理念をぶち上げて、その次の段階として自らの理念の正しさを証明するために実践編として芝居に係わっていくというタイプの方が珍しいと思います。理想と現実はしばしば一致しないもので す。そのために逍遥は随分珍妙なこともやらかしました。(その辺は津野海太郎著「滑稽な巨人・坪内逍遥の夢」に詳しく書かれています。) 理念・理論とやらは、いろいろ試行錯誤を繰り返していくうちに、自然に方向性が見えてきて・それで段々出来上がっていくということで結構であると思います。それにしても、13人の方のお答えを読むと、「私は古典というものをこう考える」ということを、気負わず、もう少し自然体で、自分の言葉で語れても良いのではないかという気 もしました。「古典」と 言われると思わず身構えてしまうというところに、問題がありそうです。恐らく「古典」というと、普遍的なものだとか・古びないものだとか、絶対的な美の概念に触れるものだとか、そのようなものでなければならないと考えるから身構えるのでしょう。

古典というものが現代に生きる我々に対峙する何ものかとして立つようになったのは、実はそれほど昔のことではないのです。例えば英文学という学問分野が固まったのは恐らく18世紀末から19世紀初め頃のことです。英文学が出来たのは、英国がインド統治をするに当たり・現地へ派遣する官吏を選考するための文章能力を見る(あるいは育てる)ための学問が必要であった・そういう実用的な要請から生まれたものでした。それまで英国人が英語を改まって学問するという感覚はなかったのです。だから「英文学を作ったのは英国人ではない・インド人だ」というジョークさえあるくらいです。日本の場合は、寺子屋教育というものがあって・読み書き算盤が庶民が習得すべきものとしてあったということで事情はかなり違いますが、国文学という概念も英文学に対抗する日本文学という形で固まってきたわけで( このことは前述の坪内逍遥の行動パターンを見れば分かります)、多分に実用的な要請という側面があったことは確かです。

付け加えれば、吉之助がよく本サイトで取り上げる「ノイエ・ザッハリッヒカイト」というものは、そのような流れの上に生じてくる芸術思潮なのです。別稿「本物のチープ感覚」でも触れましたが、「名人の考え方を学び取れば、あなたの名人と同じことができる。名人が考えていることは秘伝でも奥義でも何でもない。学ぶ心があるならば、誰でもそれを自分のものに出来得る」という思想は、教養主義みたいなものが素地にあるわけです。「古典」という概念が固まった時期は、日本で言えば明治以後のことであったということが、ここからも裏付けられます。(吉之助は「型の概念は明治末期(九代目団十郎の死以後)に決定的に変化したということを申し上げています。これはすべて同じ事象が形を変えて現れているだけです。別稿「型の概念の転換」をご参照ください。)ここでの「古典」というのは、平たく言えば、教養・常識ということになると思います。

吉之助にとっての「古典」は文学で言えば、文学全集に収められそうな作品群ということになります。もちろん全集を編纂する人によって編む作品は異なって当然ですが、 どんな場合でも選ばれるべき作品というのはやはりあります。作家で云えば漱石の名は必ず挙がるでしょうが、作品すべては収め切れません。漱石に1巻を割り当てるならこれ・2巻ならばこれも入れる・という作品が必ずあるはずです。そういうものが、吉之助にとっての「古典」です。そういう作品は読んでおかねばならぬものです。と言っても読んでいないものの方がはるかに多いのですが、しかし、いつかは読みたいものだと思っている(・・そういう気だけはある)作品です。昔は岩波文庫の目録を眺めて、さて これは読んだ・次はこれを読むか・あれを読むかと思いながら、パラパラ頁を繰ったものでした。吉之助にとって、そのような漠然たる作品群のイメージが「古典」なのです。だから、 それは場合々々によって異なるのですが、何が古典で・何か古典でないかを、私(吉之助)が決めるのではない、それは世間が決めて・世間が認めるものです。だから、教養として読んでおかないといけないなあと思うようなものが「古典」です。それだけのことですねえ。別に古典だからと云って身構える必要など全然ないと思います。


(H24・4・7)


○黙阿弥の因果論・その革命性:その9

「吉祥院」の場で因果応報の理の展開を三人の吉三郎が自分たちの意志で止めた時、その時から彼らは本当の意味において生き始めるのです。それまでの三人はただ流れのままに他の何かに操られて生きていただけ、自分の意志で動いていたのではなかったのです。ですから「三人吉三」の芝居がはずむの・はずまないのと言うのならば、ドラマが本当にはずまなければならないのは「吉祥院」幕切れから以後であるということです。現行の歌舞伎の「三人吉三巴白浪」 の場割りにおいて本当の意味において爆発的なクライマックスに持っていかなければならないのは幕切れの「南郷火の見櫓の場であることは明らかです。彼らは自らの失われたルーツを取り戻す為に、百両の金を持ったお嬢が父久兵衛のもとへ・奪われた庚申丸を持ったお坊が実家へ走ります。それは彼らが自分たちの意志で初めて行なう・彼らの意思的な行為です。

火の見櫓の場は確かに彼らがこれまでやってきた悪事の数々の報いを受けねばならない場でもあります。しかし、彼らはそれでも良いのです。死ななければならなくても、守らなければならないものが自分たちにはあるということで す。彼らは因果応報の理に巻かれて死ぬのではなく、自分たちの犯した罪を受け止めて意思的に死ぬということになるのです。彼らは自らのルーツを 既に取り戻しているから、喜んで死んで行けるわけです。つまり「吉祥院」幕切れまでの「三人吉三」の芝居というのは、言って見れば前半に暗い短調の抑えた旋律が延々と続く場なのであって、それが転調して火の見櫓の場に至って・輝かしい長調の歓喜のクライマックスで終わると吉之助は考えます。 火の見櫓の場で三人の吉三郎は捕り手に追い掛けられているわけですが、これは別の因果応報の結果です。しかし、彼らは三人が刺し違えて死ぬことで、その因果応報に対しても自ら見事に決着を付けて見せます。ですから火の見櫓の場の真っ白な雪の光景は彼らの死を暗示しているとも考えられますが、同時に彼らの何かしら澄み渡った晴れやかな気分を表していると考えて良いと思います。雪は彼らが犯したすべての罪を覆い隠してくれるのです。

翻って「大川端」の場を考えます。歌舞伎の様式美や・アウトローの魅力なんてことは、吉之助にとってどうでも良いことです。「大川端」が歌舞伎レビューの場の如く肥大化することは好ましく ありません。この場で役者の芸の面白さなんてことを言うのは、黙阿弥の作意から目をそらさせることであると考えます。そのような見方が「歌舞伎らしさ」の名のもと劇評などによく出てくることに大いに危惧を覚えます。「大川端」は「三人吉三」という世話物の序幕に過ぎません。三人の吉三郎が思いがけないきっかけで義兄弟となり、これから彼らはどうなっていくかという発端に過ぎないのです。そう考えると今回(平成24年1月国立劇場)の「大川端」の場は、これまで吉之助が見てきた「三人吉三」通し上演のなかでも序幕としての分を よくわきまえた舞台・「大川端」としての本来あるべき大きさに収まった舞台であったということができます。歌舞伎レビューの場としての派手さを追うのではなく、因果譚の発端としての実(じつ)をしっかり押さえた舞台であったと思います。

今回の舞台では三人の吉三郎、松本幸四郎(和尚吉三)・中村福助(お嬢吉三)・市川染五郎(お坊吉三) 、それぞれが手堅い出来を示していて納得が行きます。三人共に・それぞれの同じ役での前回の舞台より七五調の台詞回しがずっと良くなっているのには感心しました。普通の「大川端」であると三人の吉三郎がそれぞれのスタイルで言いたいように勝手な調子で七五調をしゃべっておりますねえ。吉之助もこの四十年そういう「大川端」ばかり見てきましたが、今回の「大川端」は十分納得できる出来であったと思います。今回の三人は台詞のスタイルが揃っていて(これは幸四郎の指導なのでしょうかねえ)、七五のリズムに揺れの感覚が確かにあって、写実の感覚を意識して歌わなかったという点でも高く評価できます。台詞の音楽的印象はそのままに・生きた言葉になっているということです。それは台詞を抑揚(ある種の旋律)を付けて張り上げないからです。これは当然のことで、「三人吉三」は写実を旨とする世話物なのですから、抑揚を付けて歌ってしまえば様式になってしまって写実から離れてしまうわけです。「黙阿弥の七五調は歌うもの」なんて思い込みはやめにしたいと思います。

七五調の台詞が写実になっているから「大川端」の実(じつ)が見えるのです。三人の吉三郎が生きています。この場に見えるのは、三人の吉三郎は意地を張り合って・意気がっているけれども、それは他人から奪った金を「俺のものだ」と言 い合っているだけのことで、所詮はそういう最低の奴らであるという真実です。このことは彼らが自分で一番知っています。だから(お嬢)「浮き世の人の口の端に」(和尚)「かくいふ者があつたかと」(お坊)「死んだ後まで悪名は」(お嬢)「庚申の夜の語り種」(和尚)「思へばはかねへ」(三人)「身の上じゃなあ」 という自嘲の台詞が出るのです。そこが見えれば「三人吉三」の世界が見えてきます。「大川端」が様式の場になってしまったら 、それは決して見えてきません。

今回(平成24年1月国立劇場)は「大川端」から「吉祥院」幕切れまで重く暗い舞台が展開しますが、そこから火の見櫓の場へ転調し・クライマックスへ行く段取りが見事に取れています。グッと抑え付けていたものが、弾けたように感じられます。だから見ていて火の見櫓の場の雪の白さの意味が自ずと理解されます。 「ドラマが分かる ・腑に落ちる」というのは、こういうことを言います。ドラマが分かることを差し置いて・役者の芸の面白さが優先するなんてことは有り得ません。晩年の黙阿弥は自作の快心作として数多い作品のなかから「三人吉三」を挙げたそうです。黙阿弥が 本作を「快心」としたことの意味をじっくりと考えてみたいものです。

(H23・3・19)


○黙阿弥の因果論・その革命性:その8

「大川端」の場はお嬢の七五調の名台詞・三人が決まった絵面の立ち姿など歌舞伎の様式美で魅せる場面だと世間では言われています。まあそう言われるのも分からないことはないですが、「三人吉三」というのは陰惨な因果応報の物語です。生は暗く・死もまた暗いと云った感じのお芝居です。侠客伝吉因果譚で筋を通す現行の歌舞伎の「三人吉三巴白浪」 の場割りでは「大川端」はその発端の場であるということを忘れてはなりません。因果の糸がもつれた・救いようのない暗いドラマがこれから始まるという時に、吉之助は様式美なんぞに酔っていられ ません。この三人の吉三郎というのは一体どんな素性の男たちでしょうか。それが気になります。人知れず暗い陰惨な影を背負った男たちに違いありません。今回(平成24年1月国立劇場)の「大川端」の舞台が「はずまない」と 言う方がいるようですが、「大川端」がはずむ必要があると吉之助は全然思わないのです。もっと大事なものがあるはずです。これから起こるドラマの行く末をよく見据えることです。

「吉祥院」の場を見ます。裏手でおとせと十三郎を殺した和尚が、お嬢とお坊に父・伝吉がはるか昔に犯した悪事を明かし、すべての出来事はそこから始まった恐ろしい因果の結果であったことを語り始めます。お坊にとっては和尚の父・伝吉が仇(和尚はその息子だから お坊の仇同然)であり、その伝吉を殺したお坊は和尚の仇となり、さらに大川端で和尚の妹・おとせから金を奪ったのはお嬢で・そこから因果の糸がよじれ出して・事態をややこしくしたことが明らかとなります。 三巴の形で三人が互いに仇を背負っていたというわけです。つまり、三人が互いを許さず・我を張り合うならば、ここは血みどろの惨劇にならねばならぬところなのです。「大川端」 から「吉祥院」まで見てすでに真相を知っている観客は、三人がこの真相を知るならば、三人は互いに生きてはおれまい・あるいは互いに殺しあうしかあるまい、果たして義兄弟の盟約は守られるのか・それとも破棄されるかと心配になってくるはずです。もう一度書きますが、そ のようなドラマがはずむべきものだと吉之助は全然思わないのです。観客は固唾を呑んでドラマの行く末を見守ります。

しかし、結果として義兄弟の盟約は守られました。ここからドラマは急旋回します。おとせと十三郎を身替わり首にしてふたりを逃そうとする和尚の気持ちを理解して・お坊とお嬢がこの場を立ち退くことを承知すると、それまでどこに行ったか分からなかった大事な二品がひょっこり と姿を現します。

お坊「忘れていたがこの百両、落とせし金の償いに。死んだ二人へ俺が香典。」
お嬢「向後(きょうこう)悪事は思い切る、証拠は要らぬこの脇差し。これは兄貴へ置き土産。」
和尚「すりゃ百両にこの脇差し。」
お坊「ハテ、心得ぬその一腰。似寄りし寸に優れし金あぢ。」
和尚「ヤヤ、焼き刃にありあり。三匹猿。」
お坊「それぞまさしく庚申丸。どうしてこれを。」
お嬢「いつぞや百両盗みし折、途中で手に入るこの一腰。」
和尚「思ひ掛けなく今ここへ。」
お嬢「落とせし金に。」
お坊「失ふ短刀。」
和尚「二品そろう上からは、お嬢は金を久兵衛どのへ。お坊は刀を実家へ早く。」
両人「そんならこれより。」

もつれにもつれた因果応報の糸がここで急に解けます。この場面をどう読めば良いでしょうか。それは、三人の吉三郎が互いの罪を認め・互いを許し合うことによって、因果応報の論理の展開を止めたから なのです。これで圧倒的な力であれほどドラマの登場人物たちを縛り・引き回していた因果応報の理が、急にその力を失います。すると求めていた百両と庚申丸が姿を現 わすのです。それはお坊吉三が安森家の惣領息子・お嬢吉三が八百屋久兵衛のひとり息子というルーツを遂に取り戻したということです。どうにもできなかった因果応報の理の展開を、彼らは自分の意志で止めた のです。これこそ「三人吉三」のなかで黙阿弥が 書きたかったことではないでしょうか。「通客文里恩愛噺」では文里女房・おしずの恩愛の力が因果の律を断ち切ります。「侠客伝吉因果譚」では義兄弟の絆が因果の律を断ち切るのです。

「大川端」のお嬢が観客に訴えている気分とは「私は自分がどういう人間なのかが分からない・私は一体何者なのか・私の本質はどこにある のか・私は何をするために生まれてきたのか」という疑問であるということは先に書いた通りです。安森家の惣領息子・八百屋久兵衛のひとり息子に戻ったお坊とお嬢は、その答えを遂に見つけたのです。しかし、時すでに遅くふたりには追っ手が迫っていました。(この稿つづく)

(H23・3・11)


○役者は60過ぎてから

先月亡くなった平成の名女形・四代目中村雀右衛門は、十三代目仁左衛門もそうでしたが、最晩年の十年くらいがひときわ輝やいた印象に思われました。これも地道な修行の賜物であったと思います。ところで雀右衛門は出征のブランクなどあって女形としての修行が普通より遅く、後に岳父となる七代目松本幸四郎の勧めで女形として本格的に再スタートしたのが27歳の時であったそうです。(当時は大谷友右衛門といいました。)その時に雀右衛門は幸四郎から「60になるまではものにならないよ」と言われたそうです。岳父のこの言葉を胸に雀右衛門は修行を重ねてきたそうですが、この逸話を芸談として読むと、幸四郎が雀右衛門に対して「お前は女形としてのスタートが遅いから・ものになるまで時間が掛かる・だからそのこと覚悟して焦らずじっくり修行しなさい」とアドバイスしたように聞こえないこともありませんし、雀右衛門は謙虚な方でしたから・本人もそのような感じでこの逸話を語ったかも知れませんけれども、必ずしもそうでないと思うのですねえ。一般論として役者というものは60過ぎてからが勝負なのです。実はこれは歌舞伎役者に限りません。もちろんそうでない領域もありますけれど、音楽の世界でも・指揮者でもピアニストでも60過ぎて本物かそうでないかが決まるものだと思います。だから吉之助は幸四郎の言葉を「役者というのは60過ぎて本物かそうでないかが決まる・女形の修行のスタートの早い遅いは関係ない・役者は一生掛けて芸の勝負なのだから頑張れ」という風に読みたいと思います。

とは言え役者にも様々な一生があるわけです。長生きして最晩年に輝く方もいますし、そうでない場合もあるでしょう。早世する方もいらっしゃいます。「役者は60過ぎてからが勝負」というのはもちろん一般論であって、 誰が勝った負けたという比較の話ではないことは当然のことです。吉田松陰が処刑される直前にしたためた遺書「留魂録」には『人の寿命には定まりがない。農事が四季を巡って営まれるようなものではないが、人間の一生にもそれに相応しい春夏秋冬があると言える。十歳にして死ぬ者には、その十歳の中に自ずから四季がある。二十歳には自ずから二十歳の四季が、三十歳には自ずから三十歳の四季が、五十、百歳にも自ずから四季があるのである』というようなことが書かれていますが、同じようにどんな役者の芸にもその一生のなかに自ずから四季があるわけです。それにしても「60になるまではものにならないよ」という岳父の言葉を胸に秘めて、その通り最晩年に輝いて見せた雀右衛門は幸せでしたね。歌舞伎も40年見続けていると (毎月欠かさず見てきたわけではないが)そのような役者の芸の四季の巡りを味わうことが出来るようになるもので、そういうことがつくづく有難いと思います。「観客としての楽しみも60過ぎてから」かな?そう思ってこれからも歌舞伎を見続けていきたいですね。

(H24・3・4)


○四代目雀右衛門追悼

今月23日に・人間国宝・四代目中村雀右衛門さんが亡くなったとのことです。ここしばらくは舞台に立たず・昨年1月歌舞伎座での出演(1日のみ)が最後であったそうです。それにしても歌舞伎座閉場以来、吉之助が長年目にしてきた・というよりも歌舞伎を教わってきた役者さんが次々と消えていくのは大変寂しいことです。

雀右衛門といえば確かに若々しい舞台という印象がありました。普段でも革ジャン・ジーパン・サングラスでオートバイでご出勤という方でしたから、これが舞台の女形姿と結びつかないところもなかなか興味深いギャップでしたが、よく考えてみれば六代目歌右衛門とは3歳ほどしか歳が離れていなかったのですねえ。昭和期は歌右衛門の陰にかくれて・美しいけれどもどこか寂しげが印象がつきまとっておりましたが。昭和55年(1980)3月歌舞伎座での第1回雀右衛門の会のことを思い出します 。昼夜に演りたかった演目をずらり並べて・壮観でありました。舞台も充実していました。あの辺りから雀右衛門がグッと頭をもたげてきたということだったと思います。歌右衛門が舞台に立たなくなった後の平成歌舞伎は、確かに雀右衛門と芝翫が立女形として守ったということが言えると思います。雀右衛門は出征や一時期映画に行っていたということもあって・女形としてのスタートが比較的遅かったそうです。そのハンデを意識しつつ・それをバネにして修行を続けてきたということはあると思いますが、その舞台の若々しい印象というのはそういうところから出るという気がします。芸というものを客観視できるということでしょうか。思い出す舞台はいろいろあるのですが、「金閣寺」の雪姫・「毛谷村」のお園・富十郎との「二人椀久」の松山などなど。ご冥福をお祈りします。

(H24・2・25)


○黙阿弥の因果論・その革命性:その7

「自分が置かれている今のこの状況は嫌だ」と言い出しながら、次の瞬間に彼は、「さっき言ったことはホンの出来心でした」と言ってしまう。「自分は絶対変わるんだ」と言いながら、「いやいやそんなことをしてしまったら・自分は一体どうなってしまうのだろう ・そんな怖いことはできない」と言って、彼はいとも簡単に自己否定してしまう。これが黙阿弥の七五調の揺れるリズムの本質です。

「三人吉三・大川端」でのお嬢吉三の有名な「月も朧に白魚の・・・」の場面で考えて見ます。お嬢吉三は娘の格好をしたて盗みを働く悪党ですが、幼い時にかどわかされ、旅役者の一座の女形として育ち、そこから道をはずれて盗賊になったという設定になっています。お嬢は実の父親を覚えていますが、今の自分の身の上を知ったらさぞ嘆くであろうということで会わずにいます。つまり、お嬢はルーツを喪失し・同時に性別も喪失した人間ということになります。(最後にお嬢は父親と再会しますが、ルーツを取り戻した時に死ぬことになるのです。)

さらにこのお嬢という役は初演では美貌で有名な幕末の名女形八代目半四郎(当時は三代目粂三郎)が演じたもので、五代目半四郎という悪婆の役を得意とした家に生まれて・その前年には「十六夜清心」でイガグリ頭のおさよで強請をしてみたりしたのですが、今度は女姿の悪党を演らせてみようという趣向であったのでした。悪婆については別稿「源之助の弁天小僧を想像する」で、悪婆という役どころは女形につきまとう陰湿で鬱屈した気分をパッと発散させると同時に・そのことで女形本来の性質である善人に立ち返っているという折口信夫の説を取り上げました。ツラネを高らかに詠い上げる行為は本来ならば立役の行為です。そのような女形の身にあるまじきことをすることで「悪婆は改めて自分の本質が善人であるという意識に立ち返ろうとする」ということです。つまり、女形という存在は、男なのか・女なのか、はたまた女を騙った男なのか・男を騙った女なのか・どれが真実が分からない・あるいはそのどちらでもあるのか、という 疑問がそこから見えてきます。 ですからお嬢という役を悪婆の範疇で考える必要があるのです。

これらのことを上述の黙阿弥の七五調の揺れるリズムの本質と結び付けて考えれば、お嬢吉三が訴えている気分が何なのか分ってきます。「大川端」のお嬢が観客に訴えている気分とは、「私は自分がどういう人間なのかが分からない・私は一体 何者なのだろうか・私の本質はどこにあるのだろうか・私は何をするために生まれてきたのだろうか」という疑問なのです。その答えはいろんな形を取りながら・浮いては消え・消えては浮かびするのですが、そのどれを選択して良いのか彼には分からない・あるいは選択することが彼は怖いのです。だから答えは決して明確な形を取ることはありません。

「大川端」のお嬢のトーン(声)をどこに置けば良いのか、娘を装っているお嬢、二つ目は「月も朧に白魚の・・・」とツラネを語るお嬢、三つ目はお坊に男の正体を見極められてからのお嬢、その局面においてお嬢はどのようなトーンを取れば良いのか、これは意外と難しいようです。これはお嬢の本質に係わる問題ということになります。平成21年の玉三郎の場合は声の作り方が局面において 連関が取れずバラバラの印象になってしまいました。性のチャンネルの切り替えのことを意識し過ぎるとこうなるわけです。ここはあまり考え過ぎず地声に近い感じに基調を取って・口調でこれを仕分ける、つまりトーンはあまり動かさないのが普通は良ろしかろうと思います。つまり、ひとりの人間のなかのいろいろな様相を浮かび上がらせるという考え方です。

しかし、表現にはいろいろな可能性があるわけで、とても技巧的なやり方ですが、三つのトーンを使い分けて・それでひとりの人間像を浮かび上がらせるというやり方も当然あり得ると思います。今回(平成24年1月国立劇場)での福助のお嬢はそのやり方に近いと思いますが、なかなかうまい感じに行っていて感心しました。それは全体の演技が写実で一貫しているからです。このお嬢は声を作り過ぎ・表情作り過ぎだと感じる方が多分いらっしゃると思います。福助にはちょっと露悪趣味的なところがあって・「将来の歌右衛門がこんなことやって・・」と目をひそめられるのが嬉しいみたいなところがなくもなく、感触は若干ドライで・倒錯的な雰囲気にちょっと乏しいところがあります。しかし、このお嬢には瞬間的にオオッと思うようなグロテスクな様相を見せながらも・美しい印象を決して損なわないところに不思議な魅力があります。「 わたしは一体誰でしょう」という感覚が確かにあるのです。お嬢が正体を現して「(俺は)盗賊さ、ほんに人が怖いの」と言う時、声をグッと太く出すのがやり過ぎと感じる方も多いようですが、敢てその変化の衝撃に掛けるところも福助らしいところです。したがって吉之助は福助のお嬢は、声を作り過ぎ・表情作り過ぎという点を含めて、平成のお嬢吉三として優れたもののひとつと思います。恐らく役どころとして福助の体質に最も似合うものでしょう。

月も朧に白魚の・・・」とツラネを語る場面は、平成13年渋谷コクーンでの所演にも多少似たところはありますが、それよりはるかに出来が良いものに仕上がっています。まず福助は下を向いて(つまり川面に揺れる ユラユラと月の光を見て)ツラネをしゃべっています。ツラネもコクーンの時のダラダラ調よりずっと良いものです。芝居っ気が若干強過ぎてゴツゴツした感触で、滑らかさが足りない感じが確かにあるので、音楽的感触が乏しいとしてこれを不満に思う方もいるだろうと思います。吉之助は写実性を重視するので気になりませんがね。まだ練り上げる余地はあるとは思いますが、しかし、この七五のリズムは揺れの感覚が確かにあるもので、写実の感覚を 意識して敢て歌わなかったという点もひとつの見識として吉之助は評価をしたいと思います。

もうひとつ福助のお嬢の優れた点は、ツラネの半ばで「御厄払いませう、厄落とし」という声が入るところで、サッと身を屈めて刀を声の方向に向け、次いで「ナーンだ、厄落としの声か・・」という心でニヤリと笑うという仕草をしっかり取ることです。 さらに厄落としの声を受けて「おおほんに今夜は節分か・・・」となるわけですから、ここは芝居の箇所なのです。つまりオペラで言うならばこれは完全なるアリア(詠唱)の形になっていない(なれない)ということです。その破綻が黙阿弥の工夫なのです。世話場のなかでツラネの場面は 自然と音楽的・様式的な感覚の方向に引っ張られるものです。そこを瞬間的に写実の方に強く引き戻す作用をするのが厄落としの声の役目です。厄落としの声は、気持ちよく七五のリズムに乗っているお嬢の気分にサッと冷や水を掛けるように聞こえます。お嬢は何奴が来たのかと瞬間的に反応して 刀をそちらへ向けるのです。そこにお嬢のまた別の様相 ・心の暗闇が浮かび上がります。もともと七五調は時代と世話・様式と写実の微細な揺れであるのですが、この厄落としの場面ではそれがひときわ大きく揺らぐ、そのような瞬間であるのです。このようなことは黙阿弥のト書きにはまったく書いてないことですが、しかし、台本を音楽的な感覚で読むならば、厄落としの声に対してお嬢が このような反応を示すことは目に見えるように分かることです。それは七五のリズムの揺れの感覚に合致するのです。つまりそれは「わたしは一体何者なのでしょう」という感覚なのです。(この稿つづく)

(H24・2・13)


○黙阿弥の因果論・その革命性:その6

黙阿弥の七五調は音楽的であるとよく言われます。吉之助もそのことに異論はないですが、同時に世話物というものは写実に根差しているのだということも忘れないで欲しいと思うのですねえ。そう考えるならば、黙阿弥の七五調のなかで音楽的であることと・写実であることの折り合いをどう付けるか、これが大事なことであるはずです。

黙阿弥の七五調の魅力は台詞を朗々と歌うところにあると仰る方は多くいらっしゃいます。台詞を歌うという時に、意識されているのは節回し(音程を伴った台詞回し)でしょう。「黙阿弥は江戸の生世話に音楽的要素を盛り込むことで、本来写実であるべき世話物を情緒的・様式的な感覚に堕落させた」という 考え方に立つならば、そうなるのも当然です。台詞に節回しを付ければつけるほど、台詞は音曲に似て・写実から離れます。しかし、吉之助に言わせるならば、それは黙阿弥の台詞が音楽的であると同時に写実であろうとする努力を始めから放棄するようなものなのです。それは写実の芝居を目指すことをやめて、ダル〜い二拍子の様式的な感覚に浸るということです。こうして現在の歌舞伎で見られるダラダラの七五調が生まれたのです。これが「歌舞伎らしい」と思い込んでしまったわけです。

しかし、音楽を構成する要素には節回し(旋律)だけではなく・拍子(リズム)もあるのです。不思議なことに歌舞伎では台詞の調子の良し悪しをリズムに関連して論じることがほとんどありません。台詞廻しに写実の斬り込みを入れる・すなわち言葉を粒立たせるために、台詞のリズムにもっと着目しなければなりません。(別稿「アジタートなリズム〜歌舞伎の台詞のリズムを考える」をご参照ください。)黙阿弥の七五調については名優の台詞回しが録音で数多く残されていますが、そのなかでお手本にすべきは六代目菊五郎だと思います。六代目菊五郎の七五調の台詞は、七が早く・五がゆっくりとなる変拍子・揺れるリズムであることを、模範的 と言っても良いほど正しく表現できています。まず大事なことは、一音一音の刻みでリズムの差を計ろうとせず、七と五のユニットで大掴みすることです。七・五のユニットが同じ長さということを念頭に入れて・六代目菊五郎の弁天小僧の台詞を聴けば、実に台詞のリズムが小気味好く耳に入ることに気が付くと思います。そして五の部分が若干たっぷりと聴こえるはずです。これが正しい黙阿弥の七五調のリズムです。

現在の歌舞伎で見られるダラダラの七五調に慣れた耳には、六代目菊五郎の七五調は乾いて・サバサバとし過ぎて・芝居っ気が足りないように聞こえて、十五代目羽左衛門に言い回しの方がたっぷりと芝居らしくて良いと感じる向きが多いだろうと思います。しかし、どちらが世話本来の・写実に根差した言い回しであるかと言えば、六代目菊五郎であることは明らかなのです。そこから黙阿弥の芝居を組み立て直していく必要があります。ご承知の通り五代目菊五郎のの役どころは六代目菊五郎と十五代目羽左衛門に引き継がれたわけですが、遠藤為春は次のように証言しています。

『団十郎のものというとどういうものか大抵崩れてますな。(五代目)菊五郎のものの方は割と崩れてませんね。これは、やっぱり六代目(菊五郎)のせいでしょうかね。』(遠藤為春聞書:「私の見た名優」:昭和32年「演劇界」連載)

ということは、五代目菊五郎・さらに遡ってその師である四代目小団次の芸を想像するならば、(十五代目羽左衛門ではなくて)六代目菊五郎から辿らねばならないということなのです。昭和10年代半頃のことだと思いますが、六代目菊五郎が「十五代目羽左衛門の黙阿弥の台詞廻しは世話でなくて・あれは時代世話だ」という趣旨の発言をして物議を醸したことがあったそうです。十五代目羽左衛門の台詞が間違いだとまでは言わなかったようですが、「親父(五代目菊五郎)の言いまわしと違う」というニュアンスが確かにあったようです。遺された録音を聴いてみれば六代目菊五郎の言いたかったことはよく分かります。十五代目羽左衛門の台詞はダラダラ調というわけではないですが、全体 が高調子であり(音羽屋は代々低調子であった)、七のユニットに比重が掛かって・様式的な・つまり時代の感覚に傾斜していると思えるからです。これは世話ではなく・時代世話だと批判したくなる六代目菊五郎の気持ちは吉之助にはよく理解できます。十五代目羽左衛門の七五調は間違い とは言えませんが、役者の味が優先するところの・まあ七五調のバリエーションの許容範囲と考えるべきで、これをお手本とするわけには行きません。現代のダラダラ調の七五調が十五代目羽左衛門の流れから来ていることは明らかであるからです。ですから 黙阿弥の台詞を正しい七五調に戻すためには、黙阿弥の台詞が音楽的であると同時に写実であろうとすることの、その正しい意味を考えなければなりません。(この稿つづく)

(H24・2・11)


○黙阿弥の因果論・その革命性:その5

村上春樹の小説の主人公たちは日々の生活のなかで何となく居心地の悪さを感じており・「自分は変わらなければいけない」とは思っているのです。しかし、自分がどうして変わらなければならないか・どういう風に変わりたいのかが、全然分らないのです。だから動けない・動かない。そこに予想もしない事件が起きて やむを得ず彼は動くのですが、やっているうちに自分でも分って動いているような気分になっているが、実は彼は何も分かっていない。そこに誰か(他者)がやってきて、「やっと分かったわね」と言う。しかし、本当は彼は何も分かっていないのです。

一方、黙阿弥のいわゆるアウトローの主人公たちも、普通の善良な市民であったのが何か事件が起きて・突然目覚めたように悪党に変心します。そして自分の意志で動いて自由を謳歌しているような気分に浸るのですが、最後に因果応報の律に絡め取られて破滅します。その時、他者が登場して「これで君もやっと分かっただろう」と耳元で囁くのです。しかし、こんな破目になってしまったけれども・自分があのままで良かったとは到底思えない・ 自分がどうすれば良かったのかはやっぱり分からないということなのです。ですから吉之助は、黙阿弥と村上春樹の間に時代を越えた不思議な共通点を感じます。そのように見るならば、黙阿弥の因果応報の律 というのは、黙阿弥がそれを本気で信じている・いないとは関係ないところで、明らかに村上春樹が言うところの「装置」(物語の筋を展開させるための仕掛け)として劇のなかに機能している ということなのです。

村上文学を日本文学史の流れのうえに確かに捉えることが出来ると思いますし、幕末の閉塞した気分の何かしらが現代の何かと共通したものがあるに違いありません。そのひとつは、「歌舞伎素人講釈」のなかで何度も触れていますが、「揺れる気分・揺れるリズム」に現れます。揺れる気分とは、変わりたいけど・変われない、変わりたいけど・どうして良いか分からない、だから動かないのだけれど・今の自分はイヤだ・このままで良いとは思わない、変わりたいけど・変わるのは怖い、だからやっぱり動かない・・・というようなユラユラした宙ぶらりんの気分です。ですからちょっとしたきっかけで外部から ポンと押されると、それが小さい力であったとしても、主人公は簡単に動かされてしまうのです。

そのような揺れる気分はリズムならばどういう形になって現れるでしょうか。次第に高まりながら・しかし高まり切れずに、また沈静していくリズム。落ち着いて終わるように見えながら、しかし 終息しきれずにまた高まっていくリズムです。つまり、大きくなったり・小さくなったり、早くなったり・遅くなったり、そのような変化を小刻みに繰り返すリズムなのです。クラシック音楽で言うならば、典型的なものは19世紀ロマン派の舟歌(バルカローレ)のリズムだと言えるでしょう。オッフェンバックの「ホフマンの舟歌」、ショパンの舟歌を挙げておきます。(注:揺れる気分の表出は多様であり、ひとつに限定されるものではありません。例えばワルツの三拍子も揺れる気分のリズムです。)歌舞伎のなかで現れる揺れる気分を表す 代表的なものは、もちろん黙阿弥の七五調の台詞のリズムです。その代表的なものがお嬢吉三の「月も朧に白魚の・・・」であることは言うまでもありません。(これについては別稿「アジタートなリズム」の黙阿弥の七五調の項目をご覧下さい。)黙阿弥の七五調のリズムは七が早く・五がゆっくりの変拍子(結果として七と五の節の長さは同じ)だということを、「歌舞伎素人講釈」では主張しています。

お嬢吉三が「月も朧に白魚の・・・」というツラネを朗々と発する時、お嬢は大川(隅田川)の川面にユラユラと映える月の明りを見ているのだということを忘れてはなりません。大抵のお嬢吉三役者 は空の上のお月様を見る気分で上を向いて台詞をしゃべっていますね。これではリズムがダラダラ調になってしまうのも仕方ないところです。しかし、「月も朧に白魚の・・・」の台詞のリズムが、川の流れでユラユラしている月の明りをイメージしていることが分かって いるならば、台詞のリズムは変わってくるのです。そうなれば当然のことながらお嬢は下を向いて・つまり川面を向いて台詞をしゃべらなければならないのです。

黙阿弥の七五調が舟歌(バルカローレ)のリズムに似てくることは実に不思議な符合だと言わねばなりませんが、それはもちろん19世紀末西欧の精神状況が、ある面において幕末江戸の 閉塞的な状況ととても良く似ていることを示しています。名ピアニスト・エドウィン・フィッシャーがショパンのリズムについて書いた見事な文章を引きます。

『彼(ショパン)はルバート(奪うが如く)に演奏した。だが、同一タクトの終わらぬうちに「奪われたるもの」を補償した。そして決してタクトを乱さなかったのである。(中略)リズムが基礎的なものとして厳格に秩序づけられているならば、限りなく急速に変様し、電光のごとく奪われては消えるあらゆる魂の動きが、ただ肌目の細かい鋭敏な心の人のみに許されたあの魂の動きが、その上に輝き出ることができるのである。実際、彼の目は誇りに、いや愛に輝いていたのに、君がちょっと厚かましい目付きをしただけで途端に彼のこころは傷付けられてしまう。たった今、彼は内心をちらりとのぞかせた、と、もう次の瞬間には騎士的な身振りで、あれはほんのちょっとした冗談でしたと釈明するのである。』(エドウィン・フィッシャー:「音楽を愛する友へ」〜ショパン)

先ほど黙阿弥の七五調のリズムは、七が早く・五がゆっくりの変拍子(結果として七と五の節の長さは同じ)であると書きました。これを上記のフィッシャーの見方で黙阿弥の七五調を読み直してみます。「七五」でひとつのセットと捉えるならば、このリズムは七で奪われた(ルバートされた)ものを五で補償すると考えて良いのです。あるいは逆に、五でルバートされるために・七であらかじめその余地を作っておくと考えても良いです。揺れのリズムは、そのような魂の揺れを内的に持っているということです。基調となるリズムを意識させるために七と五の節は同じでなければならないのです。従って、フィッシャーの表現を借りれば、黙阿弥の七五調は次のように言うことができ ます。「自分が置かれている今のこの状況は嫌だ」と言い出しながら、次の瞬間に彼は、「さっき言ったことはホンの出来心でした」と言ってしまうのです。「自分は絶対変わるんだ」と言いながら、「いやいやそんなことをしてしまったら・自分は一体どうなってしまうのだろう ・そんな怖いことはできない」と言って、彼はいとも簡単に自己否定してしまうのです。黙阿弥の七五調のリズムが表現するものは、主人公の魂の揺らぎなのです。(この稿つづく)

(H24・2・5)


○黙阿弥の因果論・その革命性:その4

歌舞伎を見ていると、元禄の近松門左衛門の方が幕末の黙阿弥よりも感触が新しい感じがすると思います。黙阿弥は暗くてジメジメして、何となくカビ臭い感じさえします。時代を考えれば 黙阿弥の方がずっと現代に近いのに、これは奇妙なことです。近松でも「心中天網島」に因果論が出て 来たりしますが、黙阿弥と違って・因果論が前面に出てきて登場人物を力づくで振り回すような印象がしません。登場人物が意志的に動いている感じがします。(別稿「たがふみも見ぬ恋の道」をご参照ください。)近松の因果論は、主人公を取り巻くどうにもならない状況があり・それに対する主人公の意志的行動があって・その結果としての報いがあるということです。原因と結果 がはっきりしていて、同じような因果論であっても印象が随分と明晰です。一方、黙阿弥の場合は、主人公の意志のどうにもならないところで・状況が突如捻じ曲げられて、しかもその因果が前世の報いだったり・犬の報いだったりしますから、それが非合理・非科学的なものに思えて印象はますます暗く湿ったものになります。

このように近松が新しく見えて黙阿弥が古く見える原因は、ひとつには江戸期には近松の世話物の多くがもっぱら改作で上演されてきたもので・近松オリジナルは明治以後の比較的新しいレパートリーであるということが関係している と思います。近松の世話物は明治以後に半ば新作に近い感覚で上演されてきたのです。一方、黙阿弥の 方は歌舞伎の定番として上演頻度も高かったわけで、その分黙阿弥物は手垢にまみれて古色が付いています。だから黙阿弥の方が古臭く見えるのです。しかも役者にも観客にも「黙阿弥なんてこんなもの・・・」というようなダルいイメージが定着しています。そうやってさえいればとりあえず「歌舞伎らしく」見えるという感覚の中核に黙阿弥が位置付けされているのです。(別稿「いわゆる「歌舞伎らしさ」を考える」をご参照ください。)けれどもそのような現行の歌舞伎の舞台の印象だけで黙阿弥を論じても仕方がないと思いますねえ。

時代を考えるならば、明治維新がすぐそこまで迫っている幕末・ほとんど近代と言って良い位置にある黙阿弥のドラマは、それ相応に・明晰な印象に見るべきであると吉之助は思うのです。(巷間の見方はまったく逆ですね。黙阿弥を「最後の江戸」・言ってみれば近代以前の感性の最後の生き残りのように見ているのです。)黙阿弥の「装置」としての因果論に、 もっと積極的な意味を見出さねばなりません。黙阿弥は因果応報の理を固く信じているからこそ、「そっちがそう来るならば俺はこれを装置として逆に芝居に利用してやるぞ」と思ったに違いないのです。当時の人々の世界観に照らし合わせて因果応報の理ということが、前世の報い・犬の報いも超自然の非合理な存在ではなく、逆に明晰で合理的な存在であったということを前提に考える必要があります。(この稿つづく)

(H24・1・24)


○黙阿弥の因果論・その革命性:その3

『(村上)「あの「源氏物語」の中にある超自然というのは、現実の一部として存在したものなんでしょうかね。」(河合)「どういう超自然ですか?」(村上)「つまり怨霊とか・・・。」(河合)「あんなのはまったく現実だと僕は思います。」(村上)「物語の装置としてではなく、もう完全に現実の一部としてあった?」(河合)「ええ、もう全部あったことだと思いますね。だから、装置として書いたのではないと思います。」(村上)「でも現代の我々 は、そういうの一つの装置として書かざるを得ないのですね。」(河合)「だから、いまはなかなか大変なんですよ。」』(村上春樹x河合隼雄:対談「村上春樹、河合隼雄に会いにいく」)

作家村上春樹と心理学者河合隼雄両氏の対談の一部です。昔の人は怨霊の存在とか・親の罪業が子に報いる因果の律など、そのような超自然の非合理な力を信じていた・迷信みたいなものを信じて生きていたと思 っている方が現代においては多いと思います。ですから現代人は「源氏物語」のなかの六条御息所の生霊の話など読んでも、そういうものは「装置」であると・つまり筋(ストーリー)を展開させるためのある種のツール・方便であると云う風に読んでしまい ます。 現代文学の場合であると、現代の常識(一応科学的合理的な世界とされている)に沿ったところで筋は紡がれていくもので、その枠組みが行き詰まった時にその状況を意識的にぶち壊す ツールがどうしても必要になる場合があるということで、村上氏はこのことを「装置」と言っています。例えば「ねじまき鳥クロニクル」に出てくる主人公の壁抜けもそのようなものでしょう。(別稿「村上春樹・または黙阿弥的世界・その2」をご参照ください。)

しかし、河合先生は平安時代の人々にとって怨霊の存在はまったく現実であっただろうと言うのです。吉之助はこんなことを考えます。怨霊の存在とか・親の罪業が子に報いる因果の律 というものは昔の人々の世界観の一部としてあったものでした。つまり当然のものとしてあったもので、ですから昔の人々はそのようなものを通じて世界や人生というものを実感として理解したのです。ということはそれらは超自然の非合理な存在であったのではなく、当時の人々にとって全く逆にとても明晰で合理的な存在であったということなのです。そういえば折口信夫もこんなことを書いていますね。

『現今の人々は、魂祭りと言えば、すぐさま陰惨な空気を考えるようであるが、われわれの国の古風では、これは陰惨な時ではなくして、非常に明るい時期であった。』(折口信夫:盆踊りの話・折口信夫全集・第2巻)

当時の人々にとってお岩さまの怪談話でさえ陰惨で暗いものではなく・明晰で合理的なものであった、そのようなことが想像できます。もちろん当時の人々にとってもお岩さまは怖かったはずです。しかし、それはお岩さまが祟るから怖いのであって、霊魂の存在が怖いわけではなかったのです。当時の人々にとって、霊魂の存在は疑うことが出来ない ことでした。昔の人はお岩さまの怨霊が出て来るだけの正当な理由があって伊右衛門に祟るという理屈をちゃんと理解していたのです。だから伊右衛門が誅されるべき男であることは当然 のことであり、そのためにその世界が正義と不義の尺度が明確な「忠臣蔵」に仕組まれたのです。南北の「東海道四谷怪談」や「盟三五大切」はそのような明晰な世界観のもとで作られているわけです。(別稿「世界とは何か」をご参照ください。)

ですから話を戻すと・「源氏物語」の六条御息所の生霊の話を読む時に、当時の人々は人間の心のなかに潜む業(ごう)の浅ましさとそれが引き起こす結果の当然の帰結として理解したに違いありません。黙阿弥の場合でもそうです。「弁天小僧・蔵前」で弁天小僧が浜松屋幸兵衛の実子だと分かり・さらに宗之助が日本駄右衛門が実子と分かってしまうと、観客は「何じゃ、それは・・」と笑い出してしまうと思います。現代人 の目にはそれが筋を無理矢理にこじつけて結末に持って行くためのベタな「装置」に見えてしまうのです。確かに黙阿弥はそこの道理を深く掘り下げて描写していません。だから舌足らずのように見えてしまうわけですが、駄右衛門や弁天小僧が生き別れた親や子供に再会し・泥棒の我が身を恥じて「面目ない」と嘆くところに、運命の悪戯の恐ろしさ・その背景にある因果の律を黙阿弥が深く感じ取っていたことが想像できますし、これは当時の観客も同様であったに違いありません

黙阿弥は因果応報の理を固く信じ、これを終生、処世の方便・信条としていました。しかし、だから因果応報のドラマを黙阿弥を書いたと考えるのでは話が単純に過ぎます。芝居という人生を誣(し)いる 芸能を生業(なりわい)とするところの黙阿弥を、世相を冷静に見詰めるリアリストとしての黙阿弥を考えるならば、劇のなかの「装置」としての因果応報のことも考えておかねばなりません。このことは「源氏物語」作者である紫式部についても質的に相違があれど同じことが言える はずですが、今はそのことは置きます。幕末江戸の・もうすぐそこに明治維新が迫っているプレ近代の終末期に生きた黙阿弥においては、世界を・そして人生を誣(し)いる劇作において「装置」を駆使するという場面が 必然的に起きて来るのです。因果応報の理を固く信じているからこそ、これを越えたところで・装置としてこれを逆に劇作に利用してやろうという発想が出てくるのです。黙阿弥物の因果応報の理には、反義的にとてもラジカルな意味があると言わねばなりません。(この稿つづく)

(H24・1・15)


○黙阿弥の因果論・その革命性:その2

「三人吉三」は安政7年1月市村座初演であるので・初春狂言ということになりますが、大川端の七五調のツラネが「歌舞伎らしくて華やかです」なんて言うけれど、侠客伝吉因果譚を主筋とした現在の通しであると全体に因果応報の暗い趣が強くて、初春狂言という感じがあまりしないのが本当のところだと思います。しかし、初演本を見ると序幕大詰に和尚吉三の見た夢の場として「吉例曽我 対面」がさりげなく出て来ます。場所を地獄の閻魔王宮に仕立てたところが趣向です。黙阿弥は初春狂言の約束を踏まえているわけです。この夢の場面は現在では顧られることがありません 。曽我の趣向が形骸化したもので取るに足らないと考えられているようです。しかし、正月早々・しかも国立劇場で泥棒さんの芝居を演るのなら、この場面を端折ってでもやってみるのも一興かも知れません。

三人吉三廓初買 (新潮日本古典集成)(安政7年1月市村座初演本所収)

吉之助がそんなことを考えるのは、「対面」の夢から醒めた和尚吉三の述懐に、父伝吉の所業が・おとせと十三郎の畜生道へ報いたことへの言及があり、さらに『この世で悪いことをする時は、死んで地獄の報いを受けると、仏の教へを人に見せ、善を勧むる罪滅ぼし。己がかういう姿(坊主の姿)になったを、ふたりの吉三(お嬢とお坊)が聞いたなら、しみつたれた根性、笑うであろうがどうぞして、彼らふたりも盗みをやめさせ、誠の人間にしたいものだ』とあるからで、夢見が和尚吉三のその後の行動 を暗示していることが明らかだからです。

黙阿弥という人は酒も煙草もやらず女遊びもせず、とくに信心に凝ることもなかった超真面目人間でした。醒めた眼でさまざまな人生を観察しながら芝居作りに励む職人気質、そんな人物像が浮かんできます。しかし、黙阿弥は因果応報の理だけは固くこれを信じ、これを終生、処世の方便・信条としていたそうです。黙阿弥がそのような信条に至った大きなきっかけのひとつが、安政2年(1855)10月2日に起こった大地震であったと 言われています。いわゆる安政の大地震によって江戸の街のあちこちで家屋の倒壊・火災が起こり、死亡者13万人以上・負傷者10万人以上とも言われる大きな被害がもたらされました。一面焼け野原の光景を見て黙阿弥も、「俺もここまでは漕ぎ付けたが、厄年には向うし、財産(しんしょう)震いをするのか」と落胆せざるを得なかったと云います。(河竹繁俊「河竹黙阿弥」)。(写真館「安政大地震と白浪狂言」をご参照ください。)

因果応報の律とは、如何なるものでありましょうか。坪内逍遥は「文芸と教育」のなかで『所謂因果とは徳川期の小説・脚本に具通せる一種の観念にて、その源は小乗仏教に所謂三世因果の説に出でたり、泰西に謂うフェタリズム(宿命論)とその経行も結果も似たれども、まったく其の因縁を殊にせるもの也。例えば、前世の業因が後の世に応報して罪無き子孫が無残なる死を遂ぐるが如き、(中略)一種超自然の因果ありてこの人間界を支配すという観念を基本となし、専ら之に因りて筋を立つるもの、之を総名して因果物語風といふも不可なるべし』と書いています。

因果応報については逍遥の説明に尽くされていますが、要するに、その子には何も罪もないのに親の前世の罪の報いを受けるとか、 非業の死を遂げた人の怨念が何の関係のない人に取り憑くとか、そのような理不尽とも無慈悲とも不可解とも思える・超自然の働きのことを言っているわけです。逍遥の指摘する通り・因果応報は小乗仏教の三世因果の考え方から出ているのですが、因果応報が徳川期の芝居のなかに入り込む時、それがドラマツルギー・あるいは趣向としてどのような意味を持つのかをもう少し考えてみたいと思います。(この稿つづく)

(H24・1・9)


○黙阿弥の因果論・その革命性:その1

平成24年1月国立劇場:「三人吉三巴白浪」

松本幸四郎(和尚吉三)、中村福助(お嬢吉三)、市川染五郎(お坊吉三)

(お嬢)「浮き世の人の口の端に」(和尚)「かくいふ者があつたかと」(お坊)「死んだ後まで悪名は」(お嬢)「庚申の夜の語り種」(和尚)「思へばはかねへ」(三人)「身の上じゃなあ」

黙阿弥の「三人吉三廓初買」(安政7年1月市村座初演)のなかの割り台詞です。三人の吉三郎はいわゆるアウトロー(悪党)です。アウトローと云うと「権力に背を向けてひとり我が道を行く」という感じで、何だかカッコいいと感じる方もいらっしゃるようです。上記の台詞について「自分たちが悪党であることを世間に誇る気持ちが感じられる ・自分たちの所業を世間に知らせたいと思っているのである」と書いてある評論(名前はあえて伏す)がありました。そういう風に読む方もいるんだなあと思いました。

語り種になるのは「悪名」だと彼らは言っているんですけどねえ。これは「あいつらは悪い奴だ、親不孝者だ、人間の屑だ」と後の世まで言われるということです。これは「どうせ俺たちは何をしたって浮かばれないんだ、俺たちの人生は何だったんだ」という嘆息の台詞なのではありませんか。幕末期(四代目小団次との提携時代)の黙阿弥の白浪物の主人公は、閉塞した状況を打開しようとして必死でもがきます。しかし、 身分社会のなかでは、意気がって見せたところで泥棒になるくらいが関の山です。そして結局、状況に絡めとられてきます。なまじっか強引に状況を変えようとしたから・状況に仕返しされたのです。そこに幕末のどうしようもない閉塞感・袋小路に入った時代へのいらだちがあります。

この黙阿弥の主人公たちのあがきを「革命への萌芽」であると読むことができるでしょうか。これは決して「ない」とは言えません。白浪物に「世直しもの」の要素があるということは別稿「小団次の西洋」において触れた通りです。しかし、所詮は盗賊のことではあります。あの謹厳実直な黙阿弥が盗賊の所業を賛美することは決してないのです。「このままでは嫌だ・なにかを変えたい」という気分を世間に醸し出した点において・確かに盗賊は「世直しの神」でした。しかし、やはり そこまでであったのです。そこに白浪物の無力感がありました。

結果から見れば、結局、明治維新が「下からの変革」ではなかったことは確かなことです。時代へのいらだちを抱きつつも、小団次も黙阿弥もその解決を見出すところまでは行きませんでした。そのことを責めることはできません。そこまでで精一杯であったと思います。だが、民衆の無力感は明治以降の歴史を見れば民衆がずっと引きずってきた根本的な問題であったと思います。そしてこの問題は平成の今になっても解決が出来ていません。

ですから吉之助は「三人吉三」のことを「悪党 (アウトロー)の魅力だ・これがエンタテイメントさ」と明るくアッケラカンと割り切る気にとてもなれません。そんな単純なものではないと思っています。慶応2年(1866)3月、芝居は「色気など薄く、なるたけ人情に通ぜざるように致すべし」とのお達しを受けた小団次がこれを聞いて一晩で面相が変わり憤死してしまったことでも分かるように・間違いなく小団次の腹のなかにふつふつと煮えたぎる時代への暗い怒りがあったに違いありません。注を付けておくと「暗い怒り」というのは、直接的には 封建体制への怒りということになるのかも知れませんが・必ずしもそれだけではなく、人生の不条理とか・自分の運の悪さとか・意気地のなさとか、そのようなものに対する怒りも含むものです。

ところで、平成21年・22年のベストセラーと言えば村上春樹氏の「1Q84」でした。その「1Q84」批評のなかで特に吉之助の興味を引いたのが佐々木敦氏の文章でした。居心地の良い自我のなかで自足していた「僕」が思いがけない事件によって外界へ自己を展開することを強いられていく・そのようなパターンが村上文学だと世間では思われているが・実はそうではないと佐々木氏は言うのです。村上文学の「主人公=僕」はひとの気持ちが分からない人間である。自分が外界に対して不感症であることに本人は気が付いていて、これではいけないと思う。そこで主人公は色々するのだが、やっぱり彼は変ることはないと佐々木氏は言います。(別稿「村上春樹・または黙阿弥的世界」をご参照ください。)

『なぜ彼は変れないのか。それはつまり、実のところ、彼には何故「これではいけないか」のかさえ、本当はまったく分かっていないからだ。それが「人の気持ちが分からない」ということなのである。だから彼には、分かった振りをしてみる・分かったことにしてみる、ということしか出来ない。そうすると何だか自分でも、分かったような・分かっているような気がしてくるから不思議だ。そしてここがポイントなのだが、そこに誰か(他者)がやってきて、こう言ってくれるのである。「やっと分かったわね」と。でも本当は、彼は分かってなどいないし、分かりたい気持ちがあったとしても、どうしても分かれないのだ。』(佐々木敦:「リトル・ピープルよりレワニワを」 〜「村上春樹・「1Q84」をどう読むか」・河出書房新社に所収)

この文章を読んで吉之助が感じたことは「これは黙阿弥とまったく同じじゃないか」ということでした。黙阿弥の主人公も、何だか漠然と「今の自分ではいけない」と感じていて・何とか変りたいと感じているのですが、何をしたらいいのか彼は全然分からないのです。それで何とはなしに日々を過ごしているのですが、そこに突発的な事態が起こって・状況は彼にとって非常にマズい方向に傾いていきます。「どうしてこうなっちゃうの」とボヤきながら、彼は否応なしに決断せざるを得ない状況に追い込まれます。大抵の場合彼は泥棒になっちゃうのです。結局は破滅する破目になるのですが、その時に他者が登場して「これで君もやっと真実が分かっただろ」と言うのです。でも彼は自分があのままでいて良かったとはとても思え ません。ホントは自分が何をしたかったのか・何をするべきだったかも死ぬ間際までやっぱり分からない。疑問は最後まで重く残ったまま終わる。 自分があのままでいて良かったとはどうしても思えない。それが幕末期の黙阿弥のドラマなのです。時代背景もシチュエーションももちろん全然違いますが、そこに村上春樹と黙阿弥の世界の共通点があるのです。だから平成の今なぜ黙阿弥か?と云うのならば、絶対そこが突破口になるはずだと吉之助は思います。小団次・黙阿弥提携作品の持つ「底知れぬ暗さ」を思い起こしてみたいと思 うのです。(この稿つづく)

(H24・1・4)



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