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歌舞伎の雑談5(平成16年1月ー6月)


○佐藤忠男著「長谷川伸論」について

映画の原作になった文学作品(小説・戯曲)数は、作家では長谷川伸が圧倒的に多いのだそうです。いわゆる股旅物というジャンルになる「沓掛時次郎」・「瞼の母」などは映画だけではなく、大衆演劇・あるいは素人芝居でも盛んに上演されたものでした。国民的に愛された作家だと言ってよろしいでしょう。逆に言いますと、長谷川伸は「博徒が主人公の人情劇作家」というイメージのせいで安く見られていること無きにしもあらずで・真正面に論じるのはちょっと気恥ずかしいというところがあります。本サイトにしても真山青果は取り上げても(いかにもインテリっぽい)・長谷川伸は後回しになっていたわけです。しかし、「一本刀土俵入」とか「刺青奇遇」は六代目菊五郎が初演した新歌舞伎の名作なんですよね。

岩波現代文庫から映画評論家・佐藤忠男氏の「長谷川伸論・義理人情とは何か」という本が出ました。主として映画を題材にした作家論でありまして、映画の股旅物と西部劇との関連(これが意外なことに大いに関連がありそうなのです)とかも興味深いのですが、義理人情の考察についても大いに教えられるところのある本でした。長谷川伸作品の主人公の行動は明治・大正期の「かぶき的心情」のひとつの発露として出たものだということがよく分ります。「長谷川伸論」は、そのまま日本人論にもなっているのです。この本を読んで、がぜん長谷川伸をサイトで取り上げてみたくなりました。

なお、佐藤忠男氏には「忠臣蔵・意地の系譜」(朝日新聞社)という・これも非常に参考になる著書があります。いわゆる歌舞伎研究畑からの視点とはちょっと違うユニークな論考であります。これも併せて・ご一読をお勧めします。

(H16・6・23)


○近松の改作物について

メルマガでは近松門左衛門の「心中天網島」をシリーズで取り上げております。これまでメルマガで取り上げなかったのが不思議なくらいの名作です。そう言えば「吃又」 ・「梅忠」・「油地獄」なども「歌舞伎素人講釈」ではまだ取り上げていません。その理由は近松物は歌舞伎・文楽ではもっぱら改作物で上演されてきた経過があるので、歌舞伎の近松を論じるのに原作で論じていいものかどうか・ちょっと迷っていたせいでした。住大夫がこのようなことを言っています。

『語る大夫かて迷うてます。迷うてますけど、そう理屈どおりにいきまへん。「女殺油地獄・河内屋内」なんかは原作とはずいぶんかけ離れていて、「駄作や」と指摘されます。「原作でやれ、原作でやれ」と言われても、近松ものは原作どおりでは芝居にならないのです。だれぞが脚色しているわけです。それを学者さんや評論家の方は「原作どおりにやれ」と言われるのです。』(竹本住大夫:文楽のこころを語る・文芸春秋刊)

文楽の大夫や歌舞伎役者から見ると、「近松の原作通り」というのはホントに演りにくくて仕方ないようです。近松の文体が「字余り・字足らず」であるということではなくて、芝居を演るうえでの根本的なドラマ性において・近松の段取りが演りにくいと感じられるようです。例えば登場人物の心理の推移がサッササッサと進むので・演じる側からすると描写が十分でないように感じて・突っ込んで演じさせてくれないという不満を感じさせるとか、筋の運びに無駄がなさ過ぎて・筋の遊びが欲しくなるとかいうことだろうと思います。こういうことは文章を読んでいるだけでは分らない・芝居を実際に演じてみて初めて分ることなのでしょう。

他にも理由がありそうです。近松の生きていた時代の観客にとっては同時代人として共有されていた(それゆえに回りくどい説明など不要であった)「時代的心情」が後世の人々になかなか共感しにくいものであったということなどです。名作であればこそ・近松作品は改作によって時代の好みに添ったアレンジをされつつ・後世の人々に親しまれてきたということなのです。改作されるにはされるだけの・それなりの理由があったということも理解せねばなりません。一概に 改作を「駄作」だと決め付けるわけにもいかない気がします。

そういうわけで、原作で近松を論じると「歌舞伎の近松」を論じていることにならないのではないかという不安があったわけです。しかし、いろいろ考えた末に、原作一辺倒ということではなく・とにかく原作を読み込んだ上で・そこから歌舞伎の舞台を考えるのが正しい筋道であろうという心境にようやく至りました。幸い近松の世話物浄瑠璃に関しては注釈付きの本が数多く出版されています。これを機会に近松の浄瑠璃にも接していただければと思います。

(H16・6・10)


○玉三郎の桜姫

以前どこかで書いたと思いますが、吉之助が歌舞伎を本格的に見始めたきっかけは玉三郎でありました。昭和50年(1975)6月に改築前の新橋演舞場での「桜姫東文章」で・玉三郎の桜姫を初めて見まして、思えばこのあたりから吉之助は歌舞伎に次第に興味を持つようになったわけです。

南北の「東文章」は因果の律と運命の変転で筋が入り組んだ・精巧なおもちゃ箱を見るような非常に面白い作品ですが、桜姫に玉三郎という役者を得て・初めてその魅力を明らかにしたようなお芝居なのです。お姫言葉と女郎言葉をチャンポンに使いながら・その性格の裏表をカチャカチャとチャンネルを切り替えるように描き分ける・玉三郎の巧みさには恐れ入りました。

変な言い方ですが、桜姫という役は「体臭」があっては駄目なのです。桜姫と風鈴お姫の人格はひとりの肉体に宿るふたつの「記号」です。記号は交じり合うことはありません。入れ替わり・立ち替わり現れるだけで、そこに何の関連もないのです。(つまり、多重人格ということになりましょうか。)歌右衛門も雀右衛門も難儀したというこの役を、玉三郎は難なく演ってのけてしまうのですね。恐いもの知らずということもあったかも知れません。こういう役は考え過ぎると返って良くないような気がします。その数年後の再演の桜姫の舞台も 吉之助は見ていますが、それからずっと久しくこ れほどの当り役を演らなかった・ということは、玉三郎にもそれなりの理由があったのではないでしょうか。

来月(7月)歌舞伎座において「東文章」が上演され、玉三郎が実に19年ぶりに当り役の桜姫を演じるそうです。19年の歳月を経て・玉三郎が桜姫をどう演じるか・大いに期待したいと思います。しかも昭和50年上演の時以来の序幕「江ノ島児ヶ淵の場」からの上演というの も有難いことです。これにより「東文章」の全体がよく理解出来ましょう。この桜姫は、玉三郎ファンでなくても見る価値が十分にあるというより・歌舞伎ファンの方には今後のために是非見て置くようにとお奨めをしたいと思います。

写真館「桜姫の聖性」もご参考にしてください。

(H16・6・6)


○歌舞伎を見る眼

前回のなかにし礼氏に続き、今回は作詞家として時代を代表するヒットメーカーであり・小説家でもある阿久悠氏のご発言をご紹介します。「近頃はいい歌 ・時代を代表する歌がなくなった」と言われますが、その理由について阿久氏はこう言っています。

『今の歌手たちが歌わされているのではなく、歌っているという意識が強いのはいいことなんだけど、書くのも考えるのも歌うのも自分というので、全部自分になってしまう。「私」万能主義で、自意識の外へ出ることができないんです。それでなぜ好かれるかと言うと、歌がいいんじゃなくてそのタレントの存在。その存在が好きな人はどんな歌であっても買うんですよ。これが一番困るんです。そのファンがあの子は好きだけど、今の歌は良くないねということであってくれれば、うんと違うものになっていくんですけどね。』(阿久悠:週刊文春・平成16年6月3日、阿川佐和子との対談)

ところで、歌舞伎は「役者の味」でするもので・役者の魅力が第一だといわれます。これは確かにその通りで・役者と観客は馴れ合いの関係で成り立っているというのもある部分は事実ですが、その役者さんが演るなら何をやっても大好き・芝居で演ることは何だって許しちゃうとなると、そこに意外と「落とし穴」があるかも知れないのです。自分と同レベルで馴れ合っちゃって・境目がなくなっちゃう、高めあう・触発されるということがないというのは現代に共通した問題であるように思われます。歌舞伎や歌謡曲に限った話じゃないですね。

観客が「あの役者は好きだけと・今の演技は良くないね」と言える眼を持ちたいものだと思います。歌舞伎と・作品と・芸の本質をしっかりと見詰めて行きたいと思います。その方向を「歌舞伎素人講釈」はこれからも貫いていきたいと思っています。(注:ご時節柄、海老蔵丈のことを言っていると誤解されそうですので、付け加えますが上記文章は海老蔵丈とは全く関係ございません。)

(H16・6・3)


○近松門左衛門の文章

メルマガ第126号では近松門左衛門の「心中天網島」を取り上げております。ところで、作詞家として稀代のヒットメーカー・今は小説家のなかにし礼氏が、七五調の日本語について次のように語っておられるのを目にしました。

『日本の歌は七五調のリズムで構成されることが多い。けれど僕は、七五調で表現し切れずにこぼれている様々なものを、そのリズムを使わないことによって救い上げたかった。七五調は、おめでたい語調なんです。たった今、人を殺しても、七五調で見得を切ればセーフという感覚が日本語にはある。悪党だって「知らざあ、言って聞かせやしょう」と節を付ければ、何となく格好がついてしまう。七五調が持つ、そうした神がかり的な部分には頼らないと決めたんです。』(なかにし礼:日経ビジネス・2004年4月12日号・編集長インタビュー)

「たった今、人を殺しても、七五調で見得を切ればセーフ」というのは興味深い表現です。 歌舞伎の世話物でも、そういう場面では客席から思わず掛け声が掛かります。心地良いかも知れませんが、その演技からリアリティは失われてしまっているということも少なくありません。「表現」というのは表面を綺麗に整えようとするベクトルを常に持つものでして、その方向自体は表現の完成を目指すもので・必ずしも悪いものではないのですが、うっかりすると・そうした落とし穴にはまり込んでしまう場合があるわけです。

近松の文章は、今の文楽の太夫さんには「字余り・字足らずで語りにくい」ということで評判がよろしくないそうです。近松の文章には「・・・じゃわいな」とか調子を整える詞があまりないのです。読むといいのだけれど・節を付けて語ると、ちょっと・・・ということになるのです。これにはいろいろ理由が考えられると思いますが、ひとつには・近松の文章は表現を必要最小限に削ぎ落とし・写実を追求しようとするために、意識的に語調を整えることを拒否しているようなところがあるようです。この問題はいずれ機会があれば考えてみたいと思っています。

(H16・5・28)


○「かぶき的な何か」

海老蔵襲名興行中の団十郎の突然の病気休演の報に劇界に激震が走りました。早期の発見ということですし・最近はいい薬もあるそうですし、とにかく養生に努めていただきたいと思うばかりです。団十郎の・あの骨太いキャラクターは他に得難いものがありますし、決して無理はなさらないようにお大事にしていただきたいです。

ところで、今月の新海老蔵の襲名披露で歌舞伎十八番の内・「暫」が出ています。善男善女があわやという時に「暫く」と声が掛かって豪傑が登場して悪人どもをバッサリ、という単純な芝居です。筋が単純なだけに、かえってそこが難しいのです。主人公(鎌倉権五郎)だけではなく登場人物すべてに言えることですが、うまく見せようとか・理屈を考えてみてもどうにもなりません。登場人物のキャラクターがはっきり色分けされていて、ただ並列しているだけのような芝居です。そこに元禄歌舞伎の・初期の歌舞伎の雰囲気があるわけでしょう。郡司先生も仰っる通り、原形質的な「かぶき的なもの」が伝えられている演目は「暫」とか「対面」というような・誠に頼りないものしか残っていないわけです。

その「かぶき的な何か」を考えて行かねばならないわけですが、これはなかなかつかみ難いものです。「暫」については「お上の悪事をバッサリと斬るスーパーマン・庶民のヒーロー」みたいなことがよく言われます。「暫」という芝居が顔見世芝居の定型になっていったことを考えると・それも一面には違いないですが、そう簡単なものでもないようです。「身分問題から見た歌舞伎十八番」でも触れましたが、そのなかに初代団十郎の屈折・鬱屈した感情が含まれているのです。そうした感情がひとつの形象となって・あの鎌倉権五郎の奇々怪々な派手な化粧・衣装になるのでありましょうか。

「暫」という芝居の「時代離れした大らかさ・単純さ」を楽しむのも・もちろん結構なことですが、「かぶき的な何か」を考える時には「時代への憤懣・やり場のない怒り」みたいなものを想像してみたいものです。思えば現代においても「暫く!」と叫びたいことがいっぱいあるではありませんか。そういったところに案外と歌舞伎十八番が現代に通じるもの があるかも知れないと思います。

(H16・5・22)


○政岡の引き裂かれた状況

メルマガ125号「引き裂かれた状況」において「伽羅先代萩」を取り上げております。我が子を主君の身替りにするという話は、例えば「寺子屋」も「熊谷陣屋」もそうなのですが、「先代萩」の場合は「飯炊き」において千松が忠義に嬲られるシーンがあるのと・主人公の政岡が女性であることで「忠義の犠牲」という印象がひときわ強く・重いものになります。

ところで、ひと頃、歌舞伎の女形不要論ということが盛んに言われたことがありました。「女形なんて不自然だ・女優が自然に演じるべきだ」という考え方です。吉之助が歌舞伎を初めて見た(30年前)前進座での「俊寛」では千鳥を女優さんが演じておりました。お名前を忘れてしまいましたが、なにせ初めて歌舞伎を見たものだから「違和感」など感じるはずがない。可憐な千鳥でありました。

歌舞伎で女優さんが演じることは確かに全体のトーンが違ってくることはあるでしょうが、台本を多少改訂すれば「忠臣蔵」のお軽や「曽根崎」のお初は女優でも十分にできると 吉之助は思います。しかし、政岡は女優ではできないと思います。政岡は女形が演らねばならない役です。政岡は「女性」ではないのです。

このことは「先代萩」の成立論・あるいは女優の技術論とはまったく関係がないもので、純粋に「政岡」という役が背負っているものの重さから来るものです。政岡は妻とか・母親という立場を越えたところで・ある社会的な重さを背負わされており、「女性」という自己の否定を迫られています。ここに政岡の引き裂かれた状況があります。生身の女性が演じるより・男性が演じる方がはるかにそのイメージが強烈に観客に焼き付くのです。同様のことは玉手御前にも言えることだと思っています。

吉之助は「その瞬間に政岡はフッと歓喜の表情を浮べたのではないか」と書きました。これは政岡が「狂っている」という見方もできますが、政岡の引き裂かれた状況から見れば、それは当然のことで「狂っていない」と言うことも可能だと思います。そうでなければ(つまり親が確信を以て我が子を殺すのでなければ)、犠牲になった我が子が浮かばれないではないかとも思います。当時の人にとって「忠義」とはそれほどに重いものだったのだなあということを思います。ともかくも、こういうことを考えさせる「先代萩」はつくづく重い作品であると思うのです。

(H16・5・15)


○「団十郎は左はせぬものなり」

四代目団十郎は、代々荒事を得意とした団十郎のなかではちょっと毛色の変わった人だったようです。四代目は背が高く・足が長くて細面・やせぎすで、荒事より敵役として名をなした役者でした。四代目 は「修行講」という・演技の研究会を主宰していました。この集まりで息子の五代目が「忠臣蔵」の定九郎を今風の浪人姿で演じてみてはどうだろうかという案を提出したのです。それを聞いた父・四代目は「それは人の悪き武家の生写(しょううつし)といふものなり。団十郎は左(さ)はせぬものなり」と言ったので、この件は沙汰やみになってしまいました。

ご存知の通り、現行の「忠臣蔵」の定九郎は黒の紋付・朱鞘の大小・博多献上の帯という粋な浪人姿であります。この型は明和3年(1766)に初代中村仲蔵が演じて大当りさせたのが最初のことで・これは落語「中村仲蔵」でも有名な話です。しかし、本当のところは上述の通り・そのアイデアはもともと五代目団十郎のもので、ボツになってしまったのを仲蔵が譲ってくれと言ってきたので五代目があげたと云うことだそうです。(別稿「仲蔵の定九郎の型はなぜ残ったのか」をご参照ください。)

ここで考えたいのは定九郎のことではなくて・「団十郎は左はせぬものなり」と言った四代目団十郎の言葉の意味です。息子の提出したアイデアが時流を見抜いた傑出したものであったことは、後の仲蔵の大当りによって証明されています。しかし、父親は「団十郎はそのような当てる行為はせぬものだ・団十郎は堂々と我が王道を行くべきだ」と言い切ったのです。荒事を家の芸とした市川宗家にあって・四代目は不幸にして荒事の仁ではなかったのですが、四代目は「団十郎はかくあるべし」という「家の心」を息子にしっかりと伝えたのです。

「団十郎はかくあるべし」とは何でありましょうか。細部のことにこだわらず・不器用であっても・大らかに・かつ大胆に観客の心を掴み取る・その勢いと重量感、ということでありましょう。そこにこそ荒事の 心・市川家の心があると思います。いよいよ5月歌舞伎座から十一代目市川海老蔵襲名興行が始まります。新海老蔵が市川家の新たな頁を刻んでいくことを期待します。

(H16・4・30)


「言わずに・聞かずに・・」

本日のメルマガ124号「内蔵助の初一念とは何か」では「元禄忠臣蔵・大石最後の一日」における「初一念」の問題を取り上げております。メルマガでは最後の日の内蔵助の心境が段階的に澄み切っていく過程を検証しましたが、文章の流れの都合で割愛した部分を補足しておきたいと思います。

内蔵助は、おみのを死なせたくないという気持ちと・磯貝十郎左衛門を迷わせたくないという気持ちから、最初のうちは世間一般の大人の分別で以ておみのに対しています。しかし、そのような通り一遍の論理ではおみのを説得できないのです。それほどにおみのの決意は固い。おみのとの対話のなかで・内蔵助は十郎左衛門とおみのの「初一念」を思い知り、ついに内蔵助はおみのに十郎左衛門を会わせます。

しかし、この時点ではまだおみのは死ななくても済んだかも知れないという気がします。内蔵助にもその期待があったと思います。それが一転して・おみのが自殺に突き進んでいくことになるのです。(注:自殺に追い込まれたのではなく・ある使命感を以て自発的に「初一念」に殉じる)その場面を見てみます。まず、おみのと十郎左衛門との対面のシーンです。

(おみの)「十郎左さまの御肌身に、あの琴爪が・・・今の今まで、お持ち下されたという・・それだけで、おみのはお嬉しうござります。その上の御尋ねは、もはや御無用に存知ます。」(磯貝)「おみの殿・・・」(おみの)「十郎左さま・・・」(内蔵助)「・・聞くなというのか。言うなというのか。聞かずに通してくれるか。言わずに通してくれるか。それはわしから頼むことじゃ。ふふふ、はははは。」

ここで内蔵助の言うように「言わずに・聞かずに」ふたりの対面が終っていれば、おみのは死ななかったかも知れないという気がします。十郎左衛門への思いを胸に秘めて・ひっそりと生きていったであろう、という期待もあったと思います。そう内蔵助は 期待していたのではないでしょうか。ところが十郎左衛門が口走ってしまうのです。そこを青果はさりげなく・まったくドラマチックに描いていないのですが、しかし、この場面は芝居の重要な転換点なのです。

(磯貝)「御親父杢之進さまにも・・・十郎左は婿に相違ござらぬ、婿でござると・・・申し上げて下され。」(おみの)「はい・・・」(内蔵助・・十郎左をへだてて)「おみの殿、さらば。」(おみの)「お頭さま。」内蔵助、ジッとおみのを見下ろして・・・。(第二場幕)

内蔵助は内心「しまった」と思ったのではないでしょうか。それでこれ以上会わせるのはまずいと十郎左衛門をそっと遠ざけます。十郎左衛門が「婿でござる」と言ってしまったことは、それが十郎左衛門の誠なのであるし・責めるわけにはいきません。このひと言でおみのは多分死ぬことになるだろうと、内蔵助は思うのです。それがおみのの「初一念」の貫徹ならば仕方がないという思いも内蔵助にはあります。ジッとおみのを見下ろす内蔵助の姿にそうした内蔵助の複雑な思いが見えてこなければならないでしょう。

(H16・4・25)


○「散りかかるさまの面白うて寝られぬ」

メルマガ123号「勘九郎のマイル・ストーン」において「鏡獅子」を取り上げております。そのなかで、前シテ・お小姓弥生の踊りの歌詞「時しも今は牡丹の花の、咲くや乱れて散るわ散るわ、散りくるわ散りくるわちりくるわ、ちりちりちり散りかかるさまの面白うて寝られぬ」の部分を取り上げました。 ここでの花は、歌詞にあります通り、牡丹の花です。

二代目市川翠扇(九代目団十郎の娘)は、この箇所について「まず牡丹の高さを心に描いて、そうして眼の付け所がその牡丹の咲いている脇、その高さにならなければなりません。ですのにどうかしますると、眼の付け所が余り高すぎて、牡丹の花を見る心持ちがなく、何か大きな樹の花(例えば桜のようなもの)でも見るような有様になる恐れがあります。」と語っており、稽古の時に団十郎から「そんな高い牡丹があるか」とよく叱られたとも語っています。

この箇所の踊り手さんの視線を見ますと、目線が上に行っていて・上から舞い落ちてくる花びらを追っている「こころ」である方が少なくないようです。これは翠扇も指摘しているように、歌詞からすると正しい解釈ではないのです。牡丹はそう背の高い花ではないし、その花びらも肉が厚くて・ヒラヒラと落ちる ようなものではありません。だから、牡丹の花が散っているさまを見ているのではないので、今にも散りかかろうとする牡丹の花を見て、はらはらする心持ちを現すものなのです。

しかし、目線を上に持っていって・上から舞い落ちる桜の花びらを追うような仕草をしたくなる踊り手の心理もよく分かるのです。「咲くや乱れて散るわ散るわ、散りくるわ散りくるわちりくるわ、ちりちりちり散りかかるさまの面白うて寝られぬ」という歌詞は、 ボタッと落ちそうな重い花びらを描いているようには感じられない・やはり桜のような軽い花びらをどうしてもイメージさせてしまうように思われます。

そこで獅子物舞踊の祖先である初代瀬川菊之丞の「百千鳥道成寺」の歌詞をご覧下さい。 この「百千鳥道成寺」の歌詞がほぼそのまま「英執着獅子」に取り入れられ、さらに「枕獅子」・「鏡獅子」に影響しているのです。

「時しも今は牡丹の花の咲くや乱れて、散るわ散りくるわ。散りかかるようでおいとしうて寝られぬ。花見て戻ろ花見て戻ろ。花にはうさも打ち忘れ。人目忍べば恨みはせまじ。」(「百千鳥道成寺」)

初期の道成寺には後シテの場面を獅子の狂いで演じたものがあったのですが、それがふたつのテーマにやがて分化していきます。一方は「京鹿子娘道成寺」に代表される道成寺物舞踊、もうひとつが「英執着獅子」に 代表される獅子物舞踊なのです。その過程で「道成寺」における花は桜、「獅子」における花は牡丹にイメージが収攬されていく、そのような流れを想像するわけです。

「百千鳥道成寺」の「咲くや乱れて、散るわ散りくるわ。散りかかるようでおいとしうて寝られぬ」という歌詞に類似のものは、「京鹿子娘道成寺」の歌詞には見出せません。しかし、その 歌詞の内的な「花のイメージ」が「京鹿子娘道成寺」の桜満開の舞台に結実していくように思われるのです。

以上のことは吉之助の推論に過ぎません。 学術的に検証するならば、いろんな時代の作品の歌詞を比較検討してみる必要がありましょうが、それは専門家の方のお仕事。こういうことを想像してみるのは楽しいですね。

(後記)写真館:「六代目菊五郎の鏡獅子」もご参照ください。

(H16・4・10)


○荒事の親指

本日(4月4日)、成田山新勝寺において新之助のお練りが行なわれ、いよいよ本格的に十一代目海老蔵襲名への段取りが始まります。ところで、新海老蔵襲名興行のチラシを見ますと、新之助が三宝を片手に・右足を踏み出して「睨んでご覧にいれます」の見得のポーズをとっておりますね。その踏み出した右足の親指が立っております。荒事の心得として「足の親指をおっ立てろ」というのがあります。それで「対面」の曽我五郎でも・長袴の下の見えないところにおいても・足の指を立てろということが言われるわけです。その口伝を新之助は忠実に守っているのです。

ところで、荒事の役が「親指」をおっ立てるというのは、「矢の根」の曽我五郎が矢の根を研ぐために・砥石が動かないように石に足の親指を掛けてその滑りを止めたという写実の形から来ているものだそうです。それが、矢の根を研ぐわけでもない・他の荒事の役にも応用されていったのです。そのピーんと張った「矢の根」の五郎の感じが勇ましかったのですかね。武智鉄二は、見えない長袴のなかで親指を立てようが立てまいがどうでもいい、そんなことは荒事の根本とは関係がない、こういう口伝は写実の考えが様式化のなかで流転して・これさえ守っていれば荒事の根本が守られていると思って安心するという・役者の精神安定の効果しかないと辛辣な皮肉を書いております。(武智鉄二:「芸は死なない」・昭和46年)

確かに武智の言いたいことは分かる気がします。荒事というのは一種の神事であって・荒事の見得の場合は何よりも安定感が大切、つまり大地をしっかり両足で踏みしめることが大切であると思うのです。それが農耕民族の神事の根本でありましょう。ところが、「足の親指をおっ立てる」ということは足の重心をちょっと上げるということなので、これでは大地をしっかりと踏み込めないことになります。これは荒事の見得の根本から外れることに違いありません。確かに何か間違っているよう な気もします。じつは伝承芸能の口伝のなかにも・こうしたものがたまにあるのです。口伝であっても・実はちょっと違っているものもあるんだよということは観客は知っておいてもいいかも知れません。

とは言え、「足の親指をおっ立てろ」というのが荒事の口伝として現に伝わっているわけですから、市川宗家としてはこれは守らねばなりません。新之助さんはしっかり親指をおっ立ててください。新しい海老蔵の誕生を期待しております。

(H16・4・4)


俳優の肉体は記号である

毎日新聞・3月14日(日)での書評欄において渡辺保先生が、シェークスピア研究家・演劇集団「円」の演出家として活躍している安西徹雄氏の本「彼方からの声〜演劇・祭祀・宇宙」(筑摩書房)を紹介し、そこで1995年に「シェークスピアと歌舞伎」というシンポジウムでの安西氏の発言の思い出を書いています。

シンポジウムで、歌舞伎の女形は女性差別だと言って騒ぎ出した英国の女性研究者がいたのだそうです。問題の本質に関係ないところで騒ぐ・程度の低い手合いがどこにもいるものですね。周囲がいろいろ言っても彼女は納得しない。その議論を、安西氏 のボソッと言った発言が封じ込んでしまったのです。安西氏はこんなことを言ったそうです。

『男性の俳優が女性を演じることなど、それほどの問題ではない。能や歌舞伎の役者は動植物はむろん石にもなる。だいたい俳優は人間である必要さえない。文楽では木と布と紙で作られた人形で十分ではないか。』

欧米の俳優学校では、「君は風だ、風になれ」とか・木になれ、机になれ・椅子になれ、とか言って演技術を叩き込まれるそうです。ミュージカル「コーラス・ライン」の「I feel nothing.(何も感じない)」という歌は、「風になれったって、どうすりゃいいのよォ」という・そうした俳優学校の訓練に苦しむ生徒の姿を描いています。俳優の肉体は素材・記号に過ぎない。そこまで現代演劇思想は行っているのです。たかが男が女になる位のことが何のことだい・・・そう言われりゃ、さすがの女性研究者もグウの音も出なかったでしょう。

「俳優の肉体は記号に過ぎない」というのは真(まこと)のことです。しかし、それでも個性が立ち現れる、芸が立ち現れる。そこに演劇の本質があるのです。そのことは文楽の人形を見れば分かります。同じ人形であっても・遣い手によって描かれるものは異なるではありませんか。

「歌舞伎を考える場合にも、これを記号論にまで還元する必要がある」ということはつねづね考えるところなので、安西氏のご発言は吉之助にも刺激的・かつ示唆的に感じられました。

(H16・3・20)


○「遅れて書いた劇評」

ご存知だと思いますが、歌舞伎学会の学会誌に「歌舞伎・研究と批評」というのがあって年2回の発行です。つまり、この学会誌にはその年の半年分の劇評が載るのですが、遅いものだとそれが舞台に掛かって約半年遅れで載るということになるわけです。「半年遅れでは困る・せめて年4回の発行にしたい」という声も会員の間では多いそうですが、いろいろ事情があって実現しないそうです。

吉之助は半年遅れの劇評であっても別にちっとも構わないと思うのです。劇評を書かれる側の方は何か非常に急いておられるようなのが面白いなあと思いました。「半年遅れの劇評では読者も舞台を忘れてしまって気が抜けてしまうし、興行や制作をしている人たちにもピンとこないから、なかなか読んでもらえない」と心配らしいのです。なるほどそういう考え方もあるんだなと思いました。

要するに劇評を書かれる方は、それが興行に係わる人(役者や制作者)にであれ・純粋な観客にであれ何らかの影響力を持ちたいと願うものなのでありましょうか。しかし、百年ほど前のことですが、正宗白鳥がこう書いております。

『劇評は昔も今も大差なく、劇評の力で劇界に進歩を来たしたことも、また将来かかる望みもないようである。 』

これは白鳥の予言通りで、百年後の現代も状況は悪くなったとしても少しも改善されているようには思えません。それならば劇評家の方には、劇評で何らかの影響を及そうなどと・くれぐれ思い給うなよと申し上げたいです。歌舞伎なんて時代離れした悠長なもんじゃありませんか、歌舞伎四百年の歴史のなかで半年遅れが何でありましょうか。歌舞伎を論じるならば、むしろ「我が読者は百年後にいる」くらいの気概が欲しいものです。

劇評を書く人たちが「劇評は鮮度が大事・時事性が大事・遅れてしまうと読んでもらえない」と信じているというのはおかしなことです。むしろ 吉之助は、舞台を見た感想を1年でも10年でも寝かして・考え抜いて、それから劇評を書く事だってあっていいと思いますがね。そういう劇評の方がずっと重いだろうし読む価値があると思うのですが。しかし、そういう「遅れて書いた劇評」を読んだことはないですね。

まあ、劇評家のことはどうでもいいのです。 「歌舞伎素人講釈」の読者の方には、現実の・目の前の舞台だけがすべてでないことを知っていただきたいと思います。舞台で見た感想を自分のなかに貯めて・じっくりと暖めて・発酵させていただきたいと思います。そうした時に、記憶のなかで舞台の感想は微妙に変化していくでしょう。美化されていくこともあるし、誇張されていくこともある、細部を忘れて、記憶が薄れていくこともある。それはそれでいいのです。成るがままにしておけばよろしい。あるいは後でほかの舞台を見て・本を読んだりして、感想が修正されたり・勘違いに気付いたりということもありましょうが、それによって見方はさらに深いものになるでしょう。そうやって自分だけの「遅れて書いた舞台感想」を育てていけばいいのです。

それならば、昔の劇評を読んでみる方が、むしろずっと役に立つのです。時間のフィルターが掛って、読む価値のあるものと・そうでないものがはっきり見えてくるからです。時が経っても色褪せないものこそ「本物」なのです。自分の見てない・ずっと昔(何年前でも結構)の雑誌「演劇界」でも古本屋で探してきて・その劇評を読んでみるのがよろしいと思います。そうやって 古い劇評を読めば、新しい舞台も古い舞台も時間の軸が喪失していって、自分が見てない舞台さえも自分のなかで同次元になっていくのです。そうなれば、何だって自分の経験になるのです。

(H16・3・8)


○戸板康二著「歌舞伎への招待」について

戸板康二氏の「歌舞伎への招待」(正・続)が岩波現代文庫から復刻されました。戦後まもなく出版されて歌舞伎指南の古典となった名著です。戸板氏の批評の魅力は、まず中庸と節度を保った・その批評態度、そして独特の品格を持つ文章 であると言えましょう。文章に説教臭さがなくて・重ったるさがありません。戸板氏晩年のベストセラーに「ちょっといい話」という本がありますが、「座談の名手」と言われた戸板氏のスタイルがここでも生きています。

戸板氏の批評は、 文章においても・批評の立場においても、物事の白黒をはっきり付けて容赦がない武智鉄二の批評とは、あらゆる点で対照的であったと言えるでしょう。ある時に戸板氏が「岡(鬼太郎)さんは文章が下品。僕の理想は三宅(周太郎)先生である。」と書いていたのを読んだことがあります。戸板氏にしては随分はっきり書いたなあと思って強く印象に残っています。たぶん、戸板氏は武智の文章は下品であると思っていただろうと思います。 吉之助は「武智鉄二の弟子」を自称している位ですから、若い頃は戸板氏の批評は「ぬるい」と思っていた時期が確かにありました。しかし、今こうして自分の文章をサイトやメルマガにしたためている身になりますと、批評眼ももちろんですが・文体という点においては戸板氏の文章は教えられることが多いという気がしています。つまり、その文章の品格ということです。「品格」ということは大事なことです。

この「歌舞伎への招待」2冊を読んでも、そのなかに込められた歌舞伎の薀蓄がどれほどのものであるか、仮に似たようなものを自分が書くとすれば・・・などと考えると、このような本が誰にでも書けるものではないことを痛感します。鑑賞眼のバランスがとれていて・じつにスマートに歌舞伎の見方を教えてくれます。しかも、文章に品格があって・内容が重くならないのです。この2冊を読めば・他の歌舞伎の指南書は読まなくていいと言ってもよいと思うほどです。是非ご一読をお勧めしたいと思います。

歌舞伎への招待 (岩波現代文庫)

続 歌舞伎への招待 (岩波現代文庫)

(H16・2・27)


○かぶき的ではない「勧進帳」

ちょっと前(昨年11月)のNHKBS2の歌舞伎の番組を見ていたら視聴者の人気投票があって、確か「勧進帳」がトップでありました。(他の作品の順位は失念。)ホウ、「勧進帳」ですか。当然のような結果ではありますが、吉之助はガッカリしたような気がしました。「勧進帳」を歌舞伎の代表作だというのはちょっと・・・という気が吉之助にはするからです。もっともこの番組の投票は「あなたの好きな歌舞伎は?」という質問であって、「歌舞伎を代表する作品は何か?」と聞いているわけではないのですがね。

郡司先生が次のような発言をされています。『「勧進帳」というのは最も歌舞伎的でないものですよ。それが一番浮上して第一線を占めているという、つまり歌舞伎の歴史始まって以来の事件ですよ、これは。』(郡司正勝・合評「三大歌舞伎」・「歌舞伎・研究と批評」第16号)

「勧進帳」は最も歌舞伎的でないものだ、という郡司先生のご発言の意味がお分かりでしょうか。七代目団十郎が創始し・九代目団十郎が完成した「勧進帳」は、歌舞伎の高尚化・能に近づくこと・そして体制に取り入れられることを志向したものでした。(「身分問題からみた歌舞伎十八番・その3「勧進帳」/その4「天覧歌舞伎」をご参照ください。)権力 に背を向けて・あえて野に下ろうとする精神を「かぶき的精神」とするならば、「勧進帳」の精神はある面においてまさに対極にあるものなのです。

それじゃあ最も歌舞伎的な作品は何であるか。郡司先生はそれは「曽我対面」とか「暫」とか、そんなまことに頼りないものしかないと言っています。だから、歌舞伎にとって義太夫狂言は本道ではないのだけれど、歌舞伎を維持する力というのは「型を維持する力」なのであるから、「型もの」である義太夫狂言を守っていかねばならない・それだけが現代の衰弱した歌舞伎の最後の砦であると先生は仰っています。

前述の人気投票の順位は忘れましたが、いわゆる「型もの」の義太夫狂言の順位は低かったと思いました。これを義太夫狂言への関心が低いという風に読むならば、これは結構大きな問題を含んでいるのじゃないかと思います。「守らねばならない」ものを (役者はもちろんですが)観客も意識しなければならない・そういうことを啓蒙せねばならない時代になったということです。不肖「歌舞伎素人講釈」もそういう役割を意識せねばならないなと思っております。

(H16・2・11)


○「たちまち変わる御装い」

ひと昔ほど前の雑誌をパラパラめくっておりましたら、誰の劇評だか忘れましたが、「義経千本桜・鮓屋」の場で「たちまち変わる御装(おんよそお)い」と竹本が語っているにもかかわらず、維盛を演じる役者の弥助から維盛に変わる(つまり世話から時代に変わる)変わり目がキッパリしないと評しているのを見つけました。批評をする時には目を付けるポイントというのがありまして、そこをああだらこうだら書くと何だか批評らしくなる箇所というのがあるものです。(別にこの方の劇評をクサシしてるわけではありませんが。)この維盛の変わり目などはまさにそういう箇所ですね。

「鮓屋」の「たちまち変わる御装い」という 竹本の文句はじつは歌舞伎の入れ事で、丸本にはないのです。いつ頃から入ったものかは分かっていません。偏痴機論ですが、この入れ事ができた背景は、維盛役者の変わり目が誰もがキッパリしなかったからではないか・だからいっその事竹本で説明しちゃえということだったのではないかと吉之助は邪推してい るのです。

この弥助から維盛への変わり目ですが、キッパリしないのは無理もない気がします。衣装もメーキャップも変わるわけじゃないし、ちょっとした表情や身のこなしで変化を見せなければならないのです。少し前屈み気味にしなを作っていたのを背筋をしゃんとする程度の変化なのですが、正確に言うなら「たちまち変わる御気色」といった表現の方が正しいかも知れません。「そこを見せるのが芸だろ」と言うこともできるかも知れませんが、渡海屋の銀平から知盛への変化とは全然違います。見た目の変化が少ないし・はんなりした風情の色の変化があればそれでよいのじゃないかと思います。キッパリしなくてもいいのです。あとは竹本が説明してくれるのですから 。

実際、維盛と弥助のイメージの落差はそう大きくないのです。知盛と違って、維盛はかつての平家の栄光を取り戻したいというような意志を持っているわけではなく、そういう復活の意志を自ら捨て去った人間であるからです。それでもお育ちの良さが自然と滲み出てくるわけです。維盛と弥助の役において、その共通した性根が押さえられているならばそれでよろしいのではないかと思っています。

(H16・2・2)


○写実の「弁天小僧」?

丸本という原典が存在する浄瑠璃作品と違って、歌舞伎オリジナル作品の場合はもともとが役者にはめて書かれていて・上演の度に書き換えられるのが普通です。どれが原典なのか はっきりしないところが歌舞伎オリジナル作品を論じる時にちょっと躊躇するところです。

ところで、国立国会図書館のサイトの「近代デジタルライブラリー」で明治期に出版された書物を見ることができて重宝しますが、ここで河竹黙阿弥を検索すると明治21年11月発行の「弁天小僧」 の脚本(歌舞伎新報社刊)を見ることができます。この脚本を見ますと、現行台本と随分と違うのですね。

『(弁)こう兄貴、もう化けてもいかねえ、おらァ尻尾を出してしまうよ。(南)ええ、この野郎、しっこしのねえ。もうちっと我慢すりやァいいに。(幸)さては女と思ったは。(宗)騙りであったか。(皆々)ヤアヤア。(弁)知れたことよ。金が欲しさに騙りに来たのだ。秋田の部屋ですっかり取られ、塩噌(えんそ)の銭にも困った所から一本ばかり稼ごうと損料物の振袖で役者気取りの女形、うまくはまった狂言もこう見出されちゃあ訳はねえ、ほんの只今のお笑い草だ。(逸)たくみし騙りが現れてもびくともせぬ大丈夫、ゆすりかたりのその中でも定めて名ある者であろうな。(弁)知らざァ言って聞かせよう以前を言やァ江ノ島で年季勤めの稚児ヶ淵岩本院で講中のまくら探しも度重なりとうとう島を追い出されそれから若衆の筒もたせ名さえゆかりの弁天小僧菊之助という小若衆さ。(南)その相 ずりの尻押しは、生まれが漁師に浪の上、板子一枚その下は地獄と名に呼ぶ暗闇も居所定めぬ南郷力丸、面を覚えて貰いやしょう。』

この本には「著者:吉村新七(もちろん黙阿弥の本名です)、発行者:吉村いと(黙阿弥の長女です)」と表記されています。黙阿弥は明治26年没ですから、黙阿弥の目が入っているものだろうと思います。黙阿弥が定本として遺そうとしたものなのかどうかは分かりませんが、ここでは弁天小僧や南郷力丸の有名な長台詞が半分くらいになって、全体のトーンもあの音楽的な七五調の滔々とした流れとはちょっと違います。サッパリして読んでいてリアルな感触があって、なるほどこれが元 なのかな・・と感ずるところがあります。これで黙阿弥を論じるとちょっとイメージが変わるのじゃないかと思いました。

しかし、それでは現行台本はどういう過程で・どういう典拠で固まってきたものなのでしょうか。上演の過程で捨て台詞などかなり書き加えられたものなのでしょうか。本書は学術的にはどう位置付けられているのでしょうか。いろいろと疑問が出てきます。(しかし国立劇場上演資料集の参考文献には本書の記載なし。)こういう専門的なことは「歌舞伎素人講釈」の論じるところではないのですが、ご専門の研究者の方に是非ご教授いただきたいものです。

(H16・1・29)


○「鎌倉三代記」の面白さ

今月(1月)歌舞伎座で「鎌倉三代記・絹川村閑居の場」を上演しています。予備知識なしでこのお芝居を初めて見た方はこの芝居をどうお感じでしょうか。この芝居のどこが面白いんだ?と思うのじゃないでしょうか。「絹川村閑居」だけ見ていると、前の筋が分からないので何が起きているのか理解できないのじゃないでしょうか。この場割りではそれも無理 はないと思います。こういう芝居がよく一幕物として残っているなあというのが正直なところです。

「絹川村閑居」は三浦之助・高綱・時姫の三人のキャラクターが魅力的で・いかにも時代物の重さのある場なのですが、一幕物として見た場合の筋の完結性が乏しくて、このままで生き残るのはチト苦しいなあと思います。 前半の藤三郎が登場する場面が少なすぎてキャラクターが生きてこない・だから高綱の正体を現す衝撃度が小さいと思います。あれ同じ人物なの?という感じがしますね。前段の「入墨・局使者・米洗い」の場をアレンジして半通しの脚本を整備する必要があるように思います。

「鎌倉三代記」は筋が入り組んでいるとは言え、本当は非常に面白い作品なのです。この「鎌倉三代記」は明和7年(1770)5月竹本座初演の浄瑠璃作品ですが、これは前年・明和6年12月に初演された「近江源氏先陣館」の続編として作られていて、筋が密接につながっている のです。

「近江源氏先陣館・盛綱陣屋」で佐々木盛綱が首実検する弟高綱の首は偽首ですが、「絹川村閑居」で藤三郎と名乗って登場するオドケ者が実は高綱その人です。つまり、この場は「盛綱陣屋」の種明かしになっているのです。高綱は、「面体われに見まがふばかり似たるを幸ひ、価をくれて命を買ひ取り、去年石山の陣にて、北條家を欺きし、佐々木が贋首こそかの藤三郎」と言っています。そして、今また高綱は藤三郎 を名乗り、北条時政に近づきこれを討とうと企んでいます。

身替りになって死んだ藤三郎の妻おくるは、高綱に協力してこの場に登場します。「わたしが夫は水呑百姓、かつかつのすぎわいさへ、長の病気の貧苦の中、不相応な御恩のお貢、金銀に命は売らねど、夫も元は侍の端くれ、生れ付いて臆病で弓引くことも叶はぬ非力、わが身を悔むこの年頃、誰あらう佐々木様に面ざし似たが仕合せで『討死の数に入るは一生の本望』と、にこにこ笑うて行かれた顔。いま見るやうに思はれて、あなたのお顔を見るにつけ、思ひ出されて懐しうござりまする」と彼女は言っています。 吉之助はこれを聞くと盛綱が首実検する時の偽首の顔が浮かんできます。英雄豪傑の活躍のかげには、こうした名も無い者たちの犠牲がつねにあるものです。作者・近松半二はそういう所にも眼差しを注いでいるわけです。

「近江源氏先陣館」と「鎌倉三代記」は、文楽では二作品が半通しで続けて上演されることがありますが、こうして前作との関連性を持って見ると「絹川村閑居」は非常に面白い 芝居であることが分かる はずです。人形と違って無理なところもあるかも知れませんが、歌舞伎でもこういう半通しの試みをやってもらえないかなと思っておるのですが。

(H16・1・22)


○「十六夜清心・百本杭」の難しさ

今月(1月)歌舞伎座の夜の部を見てまいりました。「十六夜清心・百本杭の場」は、やはり現代の役者には難しいのだろうと思いました。新之助は役の性根がつかめていないようで、かなり モタついた感じです。前半は鼻にかかった甘ったるい声を作って・二枚目の甘い雰囲気 を出そうとしていますが、それだけではどうにもなりません。それが「ちょっと待てよ・・」と変心の場面になると、待ってましたとばかりに声を太くして・本来の不良っぽさを発散するのはいいのですが、これも変化があざとい感じです。 幕切れの花道を走り去る姿にはその魅力の一端を覗かせてくれましたが。

これは新之助のせいもありますが、受け継がれている歌舞伎の役の解釈(型)に大いに問題があるのです。清心を二枚目の甘ったるい役に仕上げて・幕切れの変心の落差を見せることで面白 くしようという「下心(したごころ)」が強すぎるのです。これについては別稿「稲瀬川・百本杭はなぜ可笑しい」でも触れましたから、そちらをご参照ください。

「十六夜清心」は安政6年(1859)1月市村座での初演・十六夜役は美貌で知られた八代目半四郎・清心役は四代目小団次でした。小団次は鬼瓦のような風貌で決して二枚目とは言えませんでした 。そうすると・あの清元の「梅柳中宵月」の場面も、よく言われるような情緒纏綿たる絵面の舞台であったのだろうかという疑問が湧いてくるのです。後に盗賊に変心してしまうような娑婆っ気とふてぶてしさが必要だとすれば、前半の和事のつっころばしみたいな・虫も殺さぬお人よしの弱々しさを二枚目の雰囲気にしている役作りが清心にふさわしいとはどうも思えないのです。また「百本杭」での求女との割り台詞を聞いていますと、求女の高調子の声に 音楽的に対照させて・清心はもっと低い太い声質を要求されている ことは明らかです。現行の清心の鼻にかかった高調子の声では割り台詞がハーモニーを以て響いて来ないのです。本来の「十六夜清心・百本杭」はもっと写実なものであっただろうと思えてなりません。

「十六夜清心」は演出(型)を根本的に洗い直してみる時が来ているように思われます。 このままでは、この芝居はリアリティの無い・情緒だけの芝居だと誤解されたまま終ってしまうとそんな気がしてなりません。このことは別の機会に考えてみたいと思います。

(H16・1・15)


○玉三郎のお嬢吉三への期待

ここ2年くらいの玉三郎の手がける役々を見ていますと、「椿説弓張月」の白縫姫とか「曽我綉侠御所染」の時鳥 ・「お染の七役」など若い時の当り役を総浚いしようとしている感があります。この歳になって・この年齢だけにできることをすべて再確認しておこうという意図があるようにも思われます。そのせいか、玉三郎がそろそろ、あの最大の当り役・「桜姫東文章」の桜姫・風鈴お姫を久しぶりに演るのではないかという期待もファンの間では出ているようです。そうなれば、何を置いてもこれは見なければなりませんね。

ところで、その玉三郎が来月(2月)歌舞伎座において「三人吉三巴白浪」のお嬢吉三を初役にて演じるというニュースが入ってきました。吉之助はこれに密かに期待しているのです。やっと真女形のお嬢吉三が見られそうな気がするからです。

現行の歌舞伎で見られるお嬢吉三のイメージは十五代目羽左衛門が作り上げたもので、美しい娘が盗賊の正体を現して・ぐっと太い男の声になって「月も朧に白魚の・・・」と朗々と詠うという性転換の落差を売り物にしています。性のチャンネルの切り替えが鮮やかで・ある意味では健康的なのです。しかし、安政7年(=万延元年・1860)1月市村座での初演のお嬢吉三は八代目半四郎(当時は粂三郎)でありました。半四郎は美しい嫋々とした真女形でした。真女形の役としてのお嬢吉三のイメージについては、別稿「吉祥院の面白さ」で触れましたから、そちらをお読みください。

吉之助の想像するような・真女形のお嬢吉三のイメージを玉三郎がはたして具現化してくれるでしょうか。くれぐれも「月も朧に白魚の・・・」で太い男の声を無理に作ろうなんてしないで下さいね。そんなことをしな くても性倒錯の美がきっと出せるはずです。期待しております。

(H16・1・10)


○仇討ち狂言の「やつし」と「予祝性」

メルマガでは現在、「吉之助流・仇討ち論」シリーズをお届けしております。仇討ち狂言を従来とはちょっと違った視点から斬ってみようという試みです。

ところで「仇討ち論」の原稿を書く前に、歌舞伎の雑誌などで仇討ち狂言を取り上げた記事をいくつか読んでみました。それらを見ると、どれにも例えば「したたかな悪の魅力」・「討たれる者の残酷の美」などという言葉がならんでおります。追う側というよりも追われる側(いや、返り討ちをする側という方がより正確ですが)の悪人の方に興味が行っている記事が圧倒的に多いようです。いずれにせよ仇討ち狂言について真正面に向き合っている論文が非常に少ないように思われました。

確かに仇討ち狂言における魅力の大きな部分は悪役でしょう。例えば五代目幸四郎の演じる「絵本合法衢(えほんがっぽうがつじ)」の左枝大学之助のような立敵、あるいは四代目友右衛門の演じる「敵討天下茶屋聚(かたきうちてんがちゃやむら)」の安達元右衛門のような敵役です。観客の興味がそっちの方に向くのは仕方のないところです。

それでは、お上の手前があるから勧善懲悪のパターンを仕方なくはめているけれども・仇討ち狂言の本質は「悪の賛美」にあるということになるのでしょうか。既成の「善人」を打ち負かす・新しい価値観を持った「悪人」・・そこに 作者の意図があり・社会変革の萌芽を見ることができる のでありましょうか。こうした見方も確かにひとつの視点としては面白いとは思います。しかし、これでは「江戸時代に仇討ちがどうしてはやったか・仇討ち狂言がどうして民衆にもてはやされたか」という仇討ち狂言の本質を論じたことにならないでしょう。

「絵本合法衢」は五代目幸四郎(つまり大学之助)が主役だから・主役が芝居の主題を担っている・・と考えるならば、そういう見方にならざるを得ないのも分かります。 しかし、主役が芝居の主題を担わない場合だってあるのです。確かに「義経千本桜」の主役は知盛・権太・忠信であり、「勧進帳」の主役は弁慶です。しかし、これらの芝居の主題を担っているのは義経なのですよ、誤解している人が多いようですが。(これは見取り上演ばかりの弊害かも知れませんね。)

これが別に日本だけのパターンであるとも思いません。唐突な例かも知れませんが、映画の「ターミネーター」シリーズを挙げましょうか。この映画の主役はシュワルツネッガー演じるターミネーター・あるいは敵役のターミネーターでしょうが、あれは映画の筋から言えば狂言回しに過ぎないのです。テーマは追われる親子が担っているのです。何て言いましたか・将来は人類を破滅から守るべき運命を背負っている少年ということでしたね。それじゃこの映画の主題は何でしょうか。「近い将来 に人類は破滅の危機に見舞われる」?・・そういう風に読むのも結構。しかし、吉之助なら「来るべき時は必ず来る・ 成るように必ず成る・運命は決して変わらない」と読みますね。 将来が明るいか・暗いかは関係ないのです。未来は自分たちが作るのですから、明るい未来を作ろうと私たちが思えば未来は必ず明るいものになるのです、たとえその途中が厳しい道であったとしてもです。仇討ち狂言の本質 が「悪の魅力」だと言う方は、きっと映画「ターミネーター」からも暗いメッセージしか読めないでしょうね。それは筋の枝葉だけを見ているからです。

仇討ち狂言を考えるならば、その骨格を成している「勧善懲悪」のパターンの持つ意味を考えなければ、仇討ち狂言を論じたことにはなりません。たとえ現代人の眼からは陳腐に思えても、このパターンの意味を考えてみなければ仇討ち狂言の本質は見えません。その鍵は間違いなく「やつし」と「予祝性」ということにあります。

「吉之助流・仇討ち論」はこの「やつし」と「予祝性」を軸にして展開していきます。今後の展開をご期待ください。(別稿「曽我狂言の「やつし」と「予祝性」」をご参照ください。)

(H16・1・4)


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