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五代目勘九郎のマイル・ストーン

平成14年(2002)1月・歌舞伎座・「春興鏡獅子」

五代目中村勘九郎(十八代目中村勘三郎)(小姓弥生・後に獅子の精)

      (参考比較)昭和10年・歌舞伎座・「春興鏡獅子」
       六代目尾上菊五郎(小姓弥生・後に獅子の精)・小津安二郎監督作品


1)アポロンとディオ二ッソス

昭和57年、再開場したばかりの新橋演舞場での若手花形中心による「忠臣蔵」通しのことでした。この時、勘九郎は初役で勘平を勤めました。「五段目」での蓑を着た勘九郎の勘平が暗闇の中を手探りでそろそろと獲物(勘平は猪を 鉄砲で撃ったと思っている)を探 しながら進む場面でした。この場面を三階席で見ていた吉之助の前の光景が、いつの間にやら勘三郎の勘平に変わってしまいました。舞台の板の目までも歌舞伎座に変わってしまったのです。ハッとして周囲を見回すと、やっぱりそこは演舞場でした。勘九郎を見ているうちに 何だか勘三郎を見ているような錯覚に陥ってしまったわけです。 もしかしたら仕事で疲れていたのかも知れません。当時は勘三郎はまだまだ健在でありましたけれど、吉之助はもしこういう現象が何十年後かに勘九郎の勘平で起こったならば「きっと泣いちゃうなあ・・」などと思ったものでした。しかし、現在までのところ、歌舞伎の舞台を見ていて・このような体験は、吉之助はこの一回だけです。

最近の歌舞伎役者は世襲が多いですから、息子が先代(父親)に姿が似ている・声が似ているというのはもちろん多いことです。しかし、吉之助が思うには「芸質が似ている」ということ以上に、 それよりも・良くも悪くも・彼らが生きている時代の違いを意識させられる方が多いのです。やっぱり父は父・息子は息子だなあと思う方が多いわけです。

一方、勘九郎は「つながり」を・時代を超えて過去とつながる何物かを意識させる数少ない役者です。吉之助が勘九郎に密かに期待する命題は、「アポロンとディオ二ッソスは同じ肉体に宿るか」ということです。すなわち六代目菊五郎と・三代目歌六の二人の祖父の血筋を受け継ぎ、その異なった芸風をひとつのものにできるかということです。 これは余人には到底不可能な命題なのですが、勘九郎にはこれを期待したいのです。

「アポロンとディオ二ッソスは同じ肉体に宿るか」という命題は、もしかしたら六代目菊五郎に傾倒した父・勘三郎にも言えることであったかも知れません。しかし、勘三郎の場合はお手本( 岳父・六代目菊五郎本人)が目の前にいましたし、いろいろ指導もしてくれたわけです。勘九郎の場合はそれは遺伝子のなかにあるのですから父親より有利であるともいえますが、お手本は目の前にはいない。そうなると意識してお手本を追い求めなければなりません。

勘九郎にとっての「鏡獅子」はおそらく祖父・六代目菊五郎へ一歩一歩近づくためのマイル・ストーンでありましょう。菊五郎の当り芸はもちろん数多いのですが、「鏡獅子」は勘九郎にとって特別 な存在だろうと思います。それは、お手本・つまり菊五郎の映画「鏡獅子」が遺されているからです。勘九郎は「鏡獅子」を踊る時には芸に対して謙虚になります。普段が謙虚でないと言っているのではないのですが、眼前にある (具体的な)祖父の映像に対して勘九郎は否応なしに謙虚にならざるを得ないのです。まあ「鏡獅子」の場合は映像があるからよろしいのです。問題はお手本がない場合なのですが・・・。

昨今の勘九郎の活動を見ていると、勘九郎は萬屋(三代目歌六)の血の方が濃さそうにも思われます。別にそれをどうのこうの言うつもりもないですが、コクーン歌舞伎に平成中村座に野田歌舞伎と大車輪の 活躍を見ていますと、もう少し「本道」の方に精を出してくれないかナ、とは言いたくなります。つまり、六代目菊五郎の遺産をしっかりと継承して欲しいのです。本人にそれをおろそかにしている意識はないと思いますが、もっと もっとそれを前面に出してもらいたい。これが同世代人としての(吉之助の方が少し若いですが)期待を込めたお願いであります。


2)勘九郎にとっての「鏡獅子」の重さ

「春興鏡獅子」(明治26年)は、九代目団十郎が娘(二代目市川翠扇)が十二歳の時に「枕獅子」を練習しているのを見て思いつき・傾城を御小姓に変えて「鏡獅子」を仕立てたものと言われています。団十郎は立役ですから、優美な小姓が一転して・後シテで勇壮な獅子に姿を変えて豪快に毛を振り回す・そのイメージの変化とその落差がこの作品の「売り」なのです。

「鏡獅子」を踊る時に六代目菊五郎は動物園に行ってライオンの動きを観察したのだそうで、映画「鏡獅子」を見ると後シテの最初の方・本舞台中央での首の振りあたりにその成果が現れているようです。本当は「石橋」の獅子はライオンではなくて・想像上の動物であるのですが、菊五郎が大真面目にライオンを観察したというのが何となく微笑ましい。しかし、立役である九代目団十郎の創始した「鏡獅子」の後シテにはライオンの勇壮なイメージが混入しているのは確かなのです。その点で 女形の獅子物舞踊の系譜から見れば、「鏡獅子」はなるほど明治期に出来た最後期の作品で・ちょっと異色な部分があると言えます。(別稿「獅子物舞踊のはじまり」をご参照ください。)だから「鏡獅子」というのは七代目梅幸も得意にしていましたが、真女形はどうしても後シテ は不利になります。「鏡獅子」はどちらかと言えば「立役のための獅子物舞踊」なのです。

さて、本稿で取り上げるのは、平成14年1月歌舞伎座での勘九郎の「鏡獅子」の舞台ビデオです。菊五郎の映画「鏡獅子」(昭和10年制作)は、菊五郎が50歳の脂の乗り切った頃の映像です。一方、平成14年時点での勘九郎は47歳でしょうか。ほぼ同じくらいの年齢になって・勘九郎がこの作品をどう演じるかが興味の焦点です。この時の舞台は当時の劇評を見るとなかなか好評であったようなので期待してビデオを見ました。

本稿は六代目菊五郎と比較しているのですから・当然吉之助の採点は厳しくなるということでお読みください。勘九郎は確かにしっかり踊っていますが、正直申せば六代目菊五郎を継ぐ芸とすると・まだ まだ物足りない。後シテは元気が良くて・毛は振り過ぎと言いたいくらいですから、まだ良いといたしましょう。ここには「立役のための鏡獅子」の面白さが生きています。問題は前シテの小姓弥生です。

勘九郎の踊りのうまさには定評がありますし、この「鏡獅子」でも・身体の軸が多少ブレるところがあって・身体をクネクネさせるところが少し 気にはなるけれど、これだけしっかり踊れれば大したものでしょう。全体に「神妙に踊っております」という雰囲気が漂っています。それはいいのですが、振りをソロリソロリとさらっているような感じがします。踊りに斬れが見えない。もっと踊りが浮き立つようであって欲しいのです。

六代目菊五郎の踊りを見ますと、踊りの振りというのは「流れ」ではなくて・「決め」であるということが分かると思います。例えば、「右手を前に差し出す」という振り、それは右手を差し出すという動作(流れ)が問題ではないのです。右手を前に出し切った時の形を「決める」ことが問題なのです。その形が決まるのは一瞬のことで、次はその右手を例えば左に振るという動作だとすれば、右手はそちらの方へ振られます。しかし、決まった時の形(右手を前に出し切った時の形)が観客の目に残るのです。だから、踊りの振りというのは「一瞬のポーズの決め」から次の「決めのポーズ」へ移って行くものです。「形を決める」・「抜く」・「形を決める」の連続であるのです。それ を確かに「流れ」として捉えることもできますが、極端に言えば決めの形さえ決まるならば、その過程の流れはどのようであってもよいと言えるのです。右手を差し出した手を出し切った時にキッと決める、そしてその形を観客に瞬間で印象つけて・サッと別の動きに移る。観客は流れるような踊りのなかに、彫像のような印象を確かに見るのです。

勘九郎の小姓弥生の踊りは、この振りの「決め」が十分でないのです。演っていることは同じようなのに、一瞬の形の美しさが観客の印象に残らない。だから、踊りがキリッと引き締まって見えないのです。勘九郎は踊りを流れで捉えているように思いますが、これが分かってくれば振りに自然と緩急がついて来るはずです。


3)「散りかかるさまの面白ろうて寝られぬ」

あと気になるのは、本人は流し目にしているつもりかも知れませんが、顎が上がり過ぎの時がある。これは、もう少し顎を引いた方がよろしい ようです。例えば、「(牡丹の花の) 咲くや乱れて散るわ散るわ散りくるわ散りくるわ、ちりくるわちりちりちり散りかかるさまの面白ろうて寝られぬ」の部分。二代目市川翠扇はこの部分の振りについてこう語っています。

『まず牡丹の高さを心に描いて、そうして眼の付け所がその牡丹の咲いている脇、その高さにならなければなりません。ですのにどうかしますると、眼の付け所が余り高すぎて、牡丹の花を見る心持ちがなく、何か大きな樹の花(例えば桜のようなもの)でも見るような有様になる恐れがあります。それが私が父(九代目団十郎)から稽古されました時に、手のさばきや身体のこなしとかがどうしても、牡丹を見ている感じがなく、咲き乱れた桜でも仰ぎ見ているような風に見えると言われ、歌詞の「散るは散るは」の処などは、あまり軽過ぎて、桜の花でもちらちらと散るような感じが出ていけない。そんな高い牡丹があるか、とよく言われました。いったいここは牡丹の花が散ってはなりません処でして、今にも散りかかろうとする牡丹の花を見て、はらはらする心持ちを現したいのであります。そこで、その散るようで散らずにいるのを見ながら、ついに引かされて、風にそよぐ花びらのように、自分の身体を動かすのでありたいのでありますから、第一にそれを心得て踊らねばならないのであります。(中略)まった く自分が花であるか、また自分が咲き乱れて今や散ろうとする花を見ている自分であるか、そこが自分自身にもはっきりしない、というような心持ちでありたいと思うのであります。』(二代目市川翠扇:「鏡獅子」・「演芸画報」・昭和5年10月)

この部分の振りは、咲き乱れている花に見とれている自分が・花と一体化しているわけです。「ちりちりちり散り・・」で扇子を前に差し出す 振りは花びらを扇子で受け止める心でありましょうが、その花びらは桜のように軽いものではなくて・大きくて重たい牡丹の花びらなのです。菊五郎の目線は低く・差し出す扇子の上の花びらに行っています。そして扇子を風に見立てて・花びらをもてあそんで楽しむのです。それに較べると勘九郎の差し出す扇子 の位置は高過ぎます。その目線ははるかな高みから降りかかってくる花びらを追っているように見えます。その花びらは軽くて・桜のようです。勘九郎はもっと顎を引いて、花びらをしっかり目の前の扇子で受け取らないと。

この部分は、その花びらを牡丹の大きな花弁と見るか・桜のような軽い花弁に見るか、というような解釈の問題であると見ることもできます。(歌詞は確かに「牡丹」なんですがね。)それならば勘九郎がどう踊ろうと・それは勘九郎の解釈 ということでいいのでありましょうが、 しかし、勘九郎の場合はしっかり祖父・菊五郎の解釈を受け継いでもらいたい。勘九郎にはその責務があるということを申し上げたい。(これについては歌舞伎の雑談「散り掛かるさまの面白しろうて寝られぬ」をご参照ください。)

勘九郎の「鏡獅子」の踊りを見ていると、彼にとっての「鏡獅子」の重さがひしひしと感じられるようです。「プレッシャー」ということかも知れません。今回の舞台は心なしか表情がふだんより硬いよう にも思えて、ちょっと「菊五郎を意識し過ぎ」のような感じ もしました。コクーンや平成中村座での嬉々とした表情の勘九郎ではありません。イヤ、そこでの勘九郎が真面目じゃないと言っているのではないのです。平成中村座での勘九郎は萬屋(三代目歌六)の血が騒ぐという感じなのでありましょう。しかし、「鏡獅子」での音羽屋(六代目菊五郎)の血 を要求される時には、これは理性を研ぎ澄ませて掛からねばなりません。そして、そのなかに熱さがなければなりません。

吉之助は勘九郎の「鏡獅子」を、その初演から何度か見ています。同世代の観客として、勘九郎が「鏡獅子」を通して六代目菊五郎に一歩一歩近づいていく過程は、吉之助自身とも重なっているのです。そのマイル・ストーンとしての彼の「鏡獅子」にはこれからも注目していきたいと思います。

(H16・4・11)

(付記)

文中の六代目菊五郎の「鏡獅子」については、別稿「菊五郎の鏡獅子・その発想のワープ」・写真館:「六代目菊五郎の鏡獅子」をご参照ください。


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写真 c松竹、2012年5月、平成中村座、髪結新三


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