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身分問題から見た「歌舞伎十八番」

その1:「暫」と「不動」


1)「歌舞伎十八番」への疑問

歌舞伎の入門書などをみると「荒事の主人公は江戸庶民のスーパー・ヒーローだ。」と書いてあります。市川宗家(団十郎家)は代々が荒事を得意とし、歌舞伎役者の家系のなかでも特別の存在とみなされてきました。「歌舞伎十八番」は市川家の「家の芸」たる荒事芸を中心として七代目団十郎が制定したものです。

初代団十郎の荒事は金平浄瑠璃(きんぴら、「公平」とも書く)から発しますが、曽我兄弟など御霊信仰の登場人物を取り込むことにより次第に江戸町民の反権力、町人自立の精神を反映したものに変化してきたものとされています。その筋はいたって単純なものですが、そのなかで主人公が弱きを助け強きをくじくのを見て江戸の町人は彼らの代表だと感じたのだといいます。

吉之助がそうした「庶民の反権力の象徴が荒事である」という考え方に最初に疑問を持ったのは、歌舞伎十八番のうち「暫(しばらく)」を見てからのことです。善男善女が悪人に引き据えられ、あわやという時に「しばらく」と叫びつつ主人公が登場し危機を救うという筋で、江戸歌舞伎では毎年十一月の顔見世興行の冒頭で必ず演じられたものです。へそ曲がりの吉之助にはそれが体制擁護の芝居に見えました。

「悪人にも三分の理あり」と考える吉之助は、こうした悪人と善人を単純に分けた芝居をみるとどうもいけません。どちらがホントに正しいか分かったものではない、それに主人公(鎌倉権五郎景政)の奇々怪々な扮装は何か、などと考えたりしました。もっとも「悪人が退治されてお家は安泰、めでたしめでたし」という芝居は歌舞伎では当たり前のことで、これだけだとまだ「歌舞伎十八番の反動的性格」を論議するには至りません。

その疑問が決定的なものになったのは「不動」を見た時でした。この芝居ー正確に言えば「不動」は単独で演じられるものでないので「幕」と言うべきでしょうがーはじつに奇怪な芝居です。団十郎扮する不動明王がただじっと座っているだけの芝居なのです。それを見た観客が不動様を拝んだり賽銭を投げたりします。しかし自らが信仰する不動様を演じて、観客に拝ませ賽銭を投げさせる役者の気持ちはどういうものなのでしょうか。役者の屈折した意識を感じるのは、吉之助だけでしょうか。

これは河原者と呼ばれて差別されてきた歌舞伎役者たちの反発が江戸庶民に対して屈折した形で現れたものではないでしょうか。四代目団十郎の有名な句に「錦着て畳の上の乞食かな」とあるのも、彼らの意識が身分差別の撤廃という方向へは向かわず、体制に追随して豪奢な生活をしてその憂さを晴らそうしているように思えないでしょうか。さらに「勧進帳」に見られる能様式の模倣も、武家の式楽たる能を借りて自らを権威付けしようとするもので逆に言えば歌舞伎役者のコンプレックスの所産でないでしょうか。

このような「歌舞伎十八番」の奥底に潜む身分制度に関わる問題を検証しようというのが本論の目的です。


2)初代市川団十郎

初代市川団十郎の父は甲州出身で、異名を「菰(こも)の十蔵」と呼ばれた侠客であったといいます。さらにさかのぼると武士で後北条家の家来であったという説もありますが、これは甲州の出ということ以外は疑わしいようです。「菰の十蔵」というのは十蔵が非人出身なのでお菰(コジキ)の意味でそう呼ばれたものと思われます。さらに十蔵が甲州出身であることを考えると、「勧進帳」などに見られる飛六法なども狩猟民の得意とする跳躍芸の一種と考えられるし、隈取は迷彩色ではないか、「車引」の松王などで刀を三本差しにすることなどもやはり猟師の風俗から発するものと考えられるのです。(このことは別の機会に考えてみたいと思います。)

十蔵は甲州から出てしばらく下総に住んだのち、江戸和泉町に住み着いたといわれています。和泉町は江戸三座のひとつ中村座のあった堺町の隣町です。初代団十郎は自然と役者の世界に入ったものでしょう。団十郎の初舞台は十四歳のときで「四天王稚立(してんのう・おさなだち)」の坂田公時で顔を紅と墨で化粧し、まさかりを担いで大立廻りを演じ評判をとりました。その後、団十郎は曽我五郎、不破伴左衛門など「十八番」に加えられる役どころを次々に演じていきます。団十郎は元禄5年には給金二百五十両をとる江戸一番の役者になっています。

その団十郎に転機を与えたであろう出来事が元禄7年に起きました。この年、団十郎は京へ上り村山座で荒事を演じました。結果はあまりかんばしいものではありませんでした。京の観客には団十郎の荒事はおおざっぱで気ぜわしいものに見えたようです。この時に団十郎は京一番の歌舞伎役者で「和事」の名手坂田藤十郎の住まいを訪ねるのです。

「歌舞伎事始(かぶきじし)」によれば、藤十郎は団十郎を座敷に待たせたままなかなか出てきませんでした。団十郎がイライラし出した頃に、藤十郎は着流し姿で庭を隔てた向かいの座敷に姿をあらわし、床の間に花を生けてまたそのまま入ってしまったといいます。これは非人団十郎と同席するのを藤十郎が拒否したとみるべきでしょう。

この話には続きがあって、怒って席を立とうとする団十郎の前に髪を結い直し着物をあらためた藤十郎が現れて団十郎の気を飲むことになっています。しかし、これは作り話めいていて疑わしい感じがします。団十郎はその翌日に、藤十郎の芝居を見ずに江戸に帰ってしまったというのですから、団十郎の怒りようは察するに余りあります。江戸に帰った団十郎は、「藤十郎存生のうちは京へ役者登すまじとなり」と言ったといいますから凄まじい怒りようです。つまり江戸歌舞伎の首領たる団十郎が江戸の役者連中に「今後は京へ行くな、藤十郎とは付き合うな」と号令を発したわけです。

その後の団十郎の演目(三升屋兵庫の筆名で脚本も書いた)にその心境の変化が現れてきます。元禄10年2月中村座の「大福帳参会名護屋(だいふくちょうさんかいなごや)」で「暫」の始まりと言われる鎌倉権五郎を演じ、さらに5月中村座の「兵根元曽我(つわものこんげんそが)」で不動明王を演じることになります。


3)「暫」と「不動」

鎌倉権五郎は後三年の役で十六歳で出陣し矢で片目を射られながら奮戦した剛の者として知られました。権五郎の「五郎」は「御霊(ごりょう)」に通じ、また額を射ぬかれて死んだ平将門のイメージと重なり合うことから御霊信仰の対象とされたのです。

ちなみに将門を祭る神田明神の「神田」は片目という意味の「カンチ」に由来します。言うまでもなく平将門は関東武士の首領として京都の中央集権に反抗した反体制の象徴であり、江戸町民の自立精神をあおる存在でありました。

それだけに江戸幕府は神田明神の扱いには細心の注意を払ってきました。まず江戸幕府は「神田祭り」を江戸庶民の祭礼化することで町民を取り込み、体制への懐柔を図りました。「神田祭り」を、山王権現の祭礼と並ぶ天下祭りと位置付け、神輿が江戸城内に繰り込むことを特別に許したのです。

次に江戸幕府が行なったことは将門の霊を押さえるための神(仏)を育てることでした。山王権現はもともとは比叡山延暦寺の守護神、比叡山の地主の神であり家康が招致したものですが、それは家康の江戸入府以前からの土着の神である神田明神に対抗させるのが目的であったことは言うまでもありません。

成田不動尊もまた江戸幕府から神田明神に対抗させることを期待された神仏なのです。団十郎は以前から熱心に成田不動尊を信仰していましたが、江戸幕府から見ると団十郎が江戸町民に成田山信仰をあおることは好都合だったわけです。

この「不動」は大評判で、成田近郊からの信者たちが連日つめかけ、不動明王の姿をした舞台の団十郎に投げられた賽銭は毎日十貫文に上ったと言います。団十郎の屋号「成田屋」はこのときから始まったというほどの大当たりだったのです。

さらに演じる側の団十郎の心理を考察してみましょう。「暫」において団十郎は本来は反体制的な要素をはらむ御霊を演じるように見せながら、じつは体制鎮護の芝居を演じたのかも知れません。「暫」での権五郎は江戸町民のヒーローの姿をとりつつも、実は体制存続を脅かす人間を退治する警察官なのです。

さらに「兵根元曽我」で演じられる「不動」では、団十郎は自ら不動を演じ江戸町民をひざまずかせ賽銭を投げさせ拝ませるという行動に出ました。これは団十郎が身分差別の屈辱を江戸町民にぶつける形で不満解消をしているとしか思えません。ここに団十郎の屈折した心理と憤懣を読むことができる でしょう。

団十郎が身分差別への憤りをこのような形でぶつけざるを得なかったことは当時の社会状況からすればいたしかたなかったと思います。しかし、こうしたなかで本来は江戸町民の御霊信仰のなかに潜むはずの荒事の反権力的な精神が団十郎によって次第に骨抜きにされていったことも事実だと思います。


4)初代団十郎の死

初代団十郎について「古今役者論語魁(ここんやくしゃろんごさきがけ)」に次のような逸話が見られます。

初代団十郎がさる大名屋敷の宴席に呼ばれた時のこと、そこで「巷で評判の荒事とやらをやって見せよ」と言われたそうです。団十郎は固辞しましたが、「どうしてもやって見せよ」とのことで仕方なく腹を決め、着物の両肌を脱いで襦袢姿になり「景清」の謡を語りながらひとさし舞い、座敷の襖障子をバリバリと蹴破って大見得をしてみせました。呆気にとられる人々を尻目に団十郎は平伏して「これが荒事でございます」と言ったといいます。

この逸話を伝える作者は「大名を怖がっていては荒事はできない」と話を締めくくっています。庶民には胸のすくような痛快な逸話ではあります。が、同時に身分制度に歯ぎしりする団十郎の思いを感じずにはいられません。

初代団十郎は宝永元年2月19日、市村座の「移徒十二段(わたましじゅうにだん)」に出演中に同じ座の役者生島半六に刺されて舞台で死にました。この理由について半六の私行を団十郎に意見されたのを恨んでの凶行だとの説もありますが、真相は分かっていません。ただ先の藤十郎との一件をみても団十郎の気性は苛烈で潔癖であり、座中に敵は少なくなかったと思われるところがあります。

今でも歌舞伎での役者の序列は厳しいものがありますが、ことに江戸時代の歌舞伎の座中での身分差別の構造はいわば時代の社会の縮図であったと言っていいでしょう。いやむしろ被差別階層での内部差別であるだけにより厳しいものがあったかも知れません。身分制度への反発は屈折した形でより弱い者への差別にしばしば向かうことがあります。役者の世界もまた同様です。これはあくまで憶測ですが、そうした座中での身分差別に起因したトラブルが団十郎の死につながったと考えられないこともないでしょう。

(参考文献)

武智鉄二:伝統演劇の朗誦法(定本武智歌舞伎第1巻)

戸板康二:歌舞伎十八番


 

 

 

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