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吉之助の雑談34(平成30年7月〜12月)


○八島語りについて・その5

このように後年の「道行初音旅」補綴は、八島語りの形式を借りて謡曲「八島」の詞章「思いぞ出ずる壇ノ浦の」を取り入れているのです。しかし、謡曲が長門国壇ノ浦としているところを、浄瑠璃では讃岐国檀の浦に置き変えた為に、若干不具合が生じているように思われます。それもこれも「千本桜」大序冒頭で浄瑠璃(丸本)作者が「天子安徳帝。八島の波に沈み給へば」と規定したからです。そこで改めてどうして作者はそのような大虚構を大前提に置いたのかを考えてみたいのです。

そこには恐らく中世から近世初頭にかけて民間に膾炙した、源氏と平家が交代して政権を担うと云う俗説、いわゆる「源平交代史観」が関係しています。源平交代史観とは、平安末期に政権を担ったのが平家、平家を討って鎌倉初期に最初の武家政権(鎌倉幕府)を確立したのが源氏、その源氏が三代で滅びて幕府の実権を担ったのが北条氏(平家)、さらに室町幕府を開いたのが足利氏(源氏)と、源氏と平家が交互に 交代して担うと云う歴史認識です。中世期の因習を破壊しようとした織田信長が桓武平氏を自称したのは不思議に思いますが、これも源氏の嫡流である足利氏に取って代わる自らの政権奪取の正当性を主張するためでした。徳川家康 が江戸幕府を開くに当たり清和源氏新田流を名乗ったのも、それゆえです。そして現代においては年末恒例の紅白歌合戦にまで尾を引いています。それでは源平交代史観は「千本桜」のどの辺に出て来るでしょうか。それは二段目「大物浦」で傷ついた平知盛が義経に対して言い放つ台詞を見れば分かります。

「ムヽさてはこの数珠をかけたのは、知盛に出家とな。エヽけがらはし/\。そも四姓(しせい)始まつて、討つては討たれ討たれて討つは源平の習ひ。生き代はり死に代はり、恨みをなさで置くべきか」

知盛は「討つては討たれ討たれて討つは源平の習ひ」と言っています。源平交代史観が確立するのは実はずっと後世のことですから、知盛は未来の歴史認識を語っているのです。しかし、江戸期の浄瑠璃作家にとってこれは常識の範疇です。そして、それは謡曲「八島」にも描かれた修羅道に落ちた義経の苦しみにも重なって来るでしょう。そこに見えるイメージは、寄せては返す波の如く、終わったかと思えばまた繰り返される源氏と平家の戦いの日々、果てしのない修羅の苦しみなのです。

ここまで考えればどうして浄瑠璃(丸本)作者が「千本桜」大序冒頭で「天子安徳帝。八島の波に沈み給へば」と規定したのか、その意図が見えて来ます。「千本桜」のなかで、作者は源氏と平家の争いが長門国壇ノ浦合戦で決着したと云う形を わざと取りませんでした。「平家物語」の通り壇ノ浦で平家が滅びましたとしてしまえば、浄瑠璃の世界観はそこで一旦閉じてしまいます。事実、「千本桜」丸本も、「平家の一類討ち滅ぼし、四海太平民安全。五穀豊穣の時を得て、穂に穂栄ゆる秋津国繁昌ならびなかりけり」と云う締めの詞章で目出度く締められています。時代物浄瑠璃の古典的な感覚からすれば、普通はこれで十分なのです。何もわざわざ平家が八島で滅んだなどと虚構する必要などまったくないはずです。

ですから「四海太平民安全。五穀豊穣」云々という結句は、実は形式的なことに過ぎないのです。作者が「千本桜」で敢えて平家は八島で滅んだと云う虚構を前提にしたと云うことは、作者が時代浄瑠璃の古典的に閉じた感覚をどこかで破綻させようと云う意図であったに違いありません。つまり作者は、世阿弥が謡曲「八島」終盤で「思いぞ出ずる壇ノ浦の」という詞章を使用することで意図的に時間軸を混乱させたのと同じ効果を狙ったのです。作者は源平合戦を讃岐国八島合戦で「寸止め」の形にすることで、「千本桜」全体を義経を主人公(シテ)とする勝ち修羅の形にして見せました。「千本桜」では壇ノ浦合戦は永遠に訪れません。だから「千本桜」は完全に閉じてはいないのです。これ以後も源氏と平家の争いは決着が付くことがなく、それは永久運動のイメージとなるのです。これからも戦いの日々は繰り返される。この世の修羅の苦しみは決して果てることがないのです。

この世の修羅の苦しみは、源氏と平家の間にだけ起こるものではありません。それは源義経と兄・頼朝との間にも起こります。源平合戦で華やかな活躍を見せた義経は兄に疎まれ、京都を追われ吉野も追われ、やがて奥州平泉で寂しく生涯を終えることになりますが、「千本桜」ではそこまでは描いていません。頼朝は征夷大将軍となって鎌倉幕府を開きますが、これも三代で途絶えてしまいます。「平家物語」の「奢れる者は久しからず、ただ春の夜の夢の如し」という有名な詞章は、ただ平家にだけ向けられたものではありません。「平家物語」を語り継いだ琵琶法師たちは、源氏のその後の運命も承知したうえで、これを語っています。それはこの世の有り様を語っているのです。

(H30・12・12)


○八島語りについて・その4

ところで、「八島語りの研究」のなかで折口は指摘していませんが、吉之助は、 八島語りの形が古くから在ったと云う折口の推測が適用できる箇所が、謡曲「八島」にはもうひとつあると考えています。それは終わり近くの、後シテ(義経の亡霊)が言う「思いぞ出ずる壇ノ浦の」という詞章のことです。つまり後の文楽関係者が「道行初音旅」補綴で引用した箇所です。当該箇所は、義経の亡霊が有名な義経の弓流しの語り、修羅道の戦いの有り様(カケリ)を舞ったところで出て来ます。

『また修羅道の鬨(とき)の声、矢叫びの音震動せり。「今日の修羅の敵(かたき)は誰そ、なに能登の守教経とや、あらものものしや手並(てなみ)は知りぬ。思いぞ出づる壇ノ浦の、その舟戦(ふないくさ)今ははや、その舟戦今ははや、閻浮(えんぶ)に帰る生死(いきしに)の、海山一同に震動して、舟よりは鬨の声、陸(くが)には波の盾、月に白むは、剣の光、潮(うしお)に映るは、兜の星の影』(謡曲「八島」)

謡曲「八島」はこの後、「春の夜の波より明けて、敵(かたき)と見えしは群れいる鴎(かもめ)、鬨(とき)と聞こえしは、浦風なりけり高松の、浦風なりけり高松の、朝嵐(あさあらし)とぞなりにける」で締められます。だから場面は八島(高松の地)に間違いありません。それでは義経の亡霊が言う「思いぞ出ずる壇ノ浦の」と云うのは、讃岐国八島の檀の浦のことでしょうか。そうではなくて、明らかにこれは長門国壇ノ浦のことを 指していると聞こえます。(ちなみにこれは吉之助だけの解釈ではなくて、小学館の「日本古典文学全集・謡曲集2」でも当該箇所は 山口県下関市の壇ノ浦を指すと校註しています。)

義経の亡霊の述懐に現れるのは、まさに舟戦の光景です。しかし、八島合戦は源氏方の陸からの奇襲で始まったのですから舟戦ではありません。 舟戦なのは、八島の次の、長門国壇ノ浦合戦の方です。そこで壇ノ浦合戦のことを見れば、合戦の勝負はもはや決し、平家の一門が次々と海に飛び込むなかで、教経は「ならば敵の大将と刺し違えん」と舟から舟へと飛び移り、敵を薙ぎ払いつつ、義経の姿を探し回ります。教経がようやく義経を探し出して、組み付こうとしたその瞬間、義経は飛び上がって舟から舟へ飛んで逃げ去ってしまいます。これが有名な義経の八艘飛びです。「今日の修羅の敵は誰そ、なに能登の守教経とや、あらものものしや手並は知りぬ」で義経の亡霊の脳裏にある光景は、教経が義経を目がけて向かってくるその場面に違いないと聞こえます。

つまり八島合戦から見れば未来になる長門国壇の浦合戦の光景が義経の亡霊の述懐のなかに入り混じっており、ここでは時系列が交錯しています。しかし、義経の亡霊にとってみれば、どちらも等しく過去の出来事ですから、記憶が入り混じることに不思議はないでしょう。義経の亡霊には未来がはっきり見えているのです。

「また修羅道の鬨(とき)の声」、「今日の修羅の敵は誰そ」、「思いぞ出づる壇ノ浦の」と云う詞章の流れのなかで、聴き手が思い浮かべるイメージは、寄せては返す波の如く、終わったかと思えばまた繰り返される戦乱の日々、果てしのない修羅の苦しみと云うことです。このイメージのなかに義経の亡霊は佇(たたず)んでいます。現行の修羅物の多くは、シテが修羅道に落ちてからの苦しみをあまり強く描いておらず、そのなかでは謡曲「八島」は修羅道に落ちた義経の苦しみが描写されている方だとされています。それは 終わり近くの「思いぞ出づる壇ノ浦の」と云う詞章が作り出す「未来永劫の修羅の道」のイメージから来るのです。 (観世信光作と伝わる謡曲「船弁慶」も同様の発想で書かれたことも明らかです。)ですから古くから伝わる八島語りのなかに「思いぞ出ずる壇ノ浦の」の詞章が出て来ることが普通に在った と思われます。 同様に義太夫の「道行初音旅」に「思いぞ出ずる壇ノ浦の」の詞章が挿入されたのも、恐らくそんなことが背景にあったのでしょう。(この稿つづく)

(H30・12・7)


○八島語りについて・その3

「道行初音旅」の「思いぞ出ずる壇ノ浦の」の詞章は、世阿弥作と伝えられる謡曲「八島」幕切れ近くの、後シテ(義経の亡霊)の「今日の修羅の敵(かたき)は誰そ、なに能登の守教経とか、あらものものしや手並(てなみ)は知りぬ、思いぞ出ずる壇ノ浦の」から 来ています。現行の浄瑠璃床本では、この部分を取り 上げて初演時の丸本にない詞章(入れ事)を創作しているわけです。「道行初音旅」ではこの詞章の後に錣引(しころびき)の描写が続きますが、「八島」での錣引 の挿話は前シテ(漁師)の述懐のなかで語られるものですから、幕切れの「思いぞ出ずる壇ノ浦の」と錣引との関連はありません。このことは後でもう一度検討することとして、ここでは「八島」の本文をちょっと見てみたいと思います。

旅の僧が讃岐国八島の浜で塩屋(塩を焼く海人の家)に一夜の宿を借ります。そこに年老いた漁師(前シテ)が現れ、その昔この地で起った源平合戦の物語を始めます。

『鐙(あぶみ)踏ん張り鞍笠(くらかさ)に突っ立ち上がり、一院(いちいん)の御使(おんつかい)、源氏の大将検非違使五位の尉(じょう)、源の義経と、名乗り給いし御骨柄、あっぱれ大将やと見えし、今のように思い出でられて候』(謡曲「八島」)

現行の修羅物の多くは世阿弥の作になるそうです。そのなかでも「今のように思い出でられて候」と云うのは、特殊な書き方であるそうです。この詞章について折口信夫は「八島語りの研究」(昭和14年2月)のなかで、あたかもその場所に居合わせた者が語っているかのように書いている、なるほど「八島」の語りをして歩く者があるならばそういう風にするだろう、言い換えれば、世間に昔からそんな物語の仕方があったのだと分かるように作者が書いている、つまり謡曲「八島」以前に古い「八島」の語りの形が伝わっていたのだと推測しています。

古い八島語りの形があったと云う、この根拠として もうひとつ折口が挙げるのは、漁師(前シテ)が悪七兵衛景清と三保谷の四郎の錣引を語り、続いて佐藤継信の戦死の場面を語る箇所です。この描写は要領だけで済まされて、さらに続く平家方で能登守教経の侍童菊王丸の死も何の説明もなく突如現れます。菊王丸は教経の矢を受けて倒れた継信の首を取ろうと近付きますが、駆けつけた弟・忠信が応戦して傷つき、舟に戻されて亡くなります。この経緯がまったく省かれています。詞章も場面を早回しにしたみたいで、何となく流れがぎこちない。これは継信や菊王丸の討たれは聴き手の誰もが知っている挿話だから、長々しい説明は不要だという前提に立っていると云うのです。こういう言い回しが昔から伝わっていたのかも知れません。その箇所を引きます。

『これ(景清と三保谷の錣引)を覧じて判官、御馬を汀にうち寄せ給えば、佐藤継信、能登殿の矢先に かかつて、馬より下(しも)にどうと落つれば、舟には菊王も討たれければ、ともにあはれとおぼしけるか、舟は沖へ陸(くが)は陣へ、相退(あいびき)に引く汐の・・』(謡曲「八島」)

八島合戦は、錣引や、継信・菊王の戦死の他にも、義経の弓流し(謡曲「八島」では後段に登場します)、那須与一の扇の的など戦物語として興味ある挿話が豊富で、華やかなイメージがあります。それでいてそこはかとなくあはれなイメージもあるのです。これは遡って一の谷合戦での、敦盛熊谷組討ちにも適用されますが、とりわけ八島合戦は戦物語の代表的なもので、戦の話をしても必ず八島になるほど、昔は人気がありました。室町期には「八島」は幸若舞の演目として民間に広まりました。能でも「八島」は勝ち修羅と云って、祝言に属し縁起が良いものとされています。勝ち修羅は勝ち戦の武将をシテとしたもので「八島」・「田村」・「箙」の三曲のみです。それ以外の修羅物は負け修羅ですから、「八島」は縁起が良い演目なのです。歌舞伎でも、例えば「素襖落」のなかで太郎冠者が那須与一の扇の的を踊るのが踊り手の見せ所となっていますが、実は狂言の「素襖落」にはこの場面がありません。これは明治期になって松羽目舞踊に成った時に挿入されたものです。このように何の関係もないどうでも良いところに、ふっと八島合戦が出てきたりします。八島は縁起が良い から、そこに八島合戦が出て来る必然があるのです。

「道行初音旅」ではせっかくの静御前と狐忠信の道行きとしてウキウキした華やいだ気分が欲しいところなのに、丸本の詞章であると、義経の鎧を見た忠信は八島で戦死した兄・継信のことをふと思い出してしんみりしてしまいます。これでは 景事としては何だか面白くないと、後世の文楽の関係者は感じたのでしょう。そこで伝統の八島語りのスタイルを借りて、豪快でちょっとユーモラスなところもある錣引の場面を挿入してみたと云うことだろうと思います。(この稿つづく)

(H30・12・6)


○八島語りについて・その2

「千本桜」で気になる箇所は、他にもあります。それは四段目の「道行初音旅(吉野山)」です。静御前と忠信の道行きは、やがて中盤で八島合戦物語となり、忠信が「思いぞ出ずる壇ノ浦の」と言う場面があります。ここで「壇ノ浦の」という詞章を聞くと、ちょっとギクッとしないでしょうか。しかも続いて語られるのが、八島合戦の挿話として有名な、悪七兵衛景清と三保谷の四郎の錣引(しころびき)、続いて忠信の兄・継信の戦死であって、どちらも壇ノ浦の戦いの挿話ではないのですから、どうしてこうなったのか、混乱してしまいます。しかし、これには何か理由がありそうです。

実はとても興味深いことですが、八島(屋島)にも壇ノ浦という場所があるのです。正確には讃岐国ダンノウラは「檀ノ浦」と書いて、漢字が木扁であって・土扁ではありません。(ただし浄瑠璃床本には「壇ノ浦」とあります。)音が同じ為に、両者がしばしば混同されているそうです。だから上記「吉野山」で忠信が言うところの「壇ノ浦」は讃岐国檀ノ浦のことを指し、長門国壇ノ浦ではないとされています。現在の屋島は地続きとなっていますが、当時の屋島は独立した島でした。平家は海側からの 舟による攻撃のみを予想していましたが、源義経率いる源氏方は裏をかいて陸側から奇襲を掛けて、敗走する平家方との間で屋島と庵治半島の間の檀ノ浦浜辺りが主戦場となったようです。

「なるほどそういうことだったか」と納得してしまえば話しはそれで終わりですが、吉之助は尚も気に掛ります。それならば「安徳帝は八島の海に沈み給うた」と大虚構を打ち出す意味はどこにあったのかと云うことです。例え八島に壇ノ浦があったにせよ、耳で聞く語り物浄瑠璃としては、紛らわしいことをしたものだなあと思います。二段目「大物浦」を見ると、ここには典侍局に抱かれて安徳帝があわや入水と云う場面があって、これは長門国壇ノ浦での安徳帝入水と重ねられていることは明らかですが、二段目では壇ノ浦という語句が注意深く避けられています。例えば義経は知盛に対して「その方、西海にて入水と偽り、帝を供奉し此所に及び」と 、西海として何処とも取れるように曖昧にぼかしており、壇ノ浦とは言っていません。この使い分けが当然ではなかろうかと思って調べてみると、丸本の「道行初音の旅」には「思いぞ出ずる壇ノ浦の」の詞章がやはりないのです。(丸本とは浄瑠璃の初演時に出版された台本・つまり原典です。)これは延享四年初演時にはない詞章で、後世に挿入された詞章であったわけです。いつの時期の改変であったかまでは分かりません。

但し書きを付けますが、本稿は「道行初音旅」に「思いぞ出ずる壇ノ浦の」の詞章があるのが間違いだと言っているのではなく、観客の混乱を招きかねないのに、なおかつ後世の文楽の 誰かがわざわざそのような詞章の入れ事をしたくなった、その事情を考察しているのです。そこで現行の浄瑠璃床本を見ることにします。

『「げにこの鎧を給はりしも、兄継信が忠勤なり。誠にそれよ来(こ)し方の、思いぞ出づる壇の浦の、海に兵船平家の赤旗、陸(くが)に白旗、源氏の強者(つわもの)。『あら物々しや』と夕日影に長刀(なぎなた)を引きそばめ、『何某(なにがし)は平家の侍、悪七兵衛景清』と、名乗り掛け/\、薙ぎ立て/\薙ぎ立つれば、花に嵐の散々ぱつと、この葉武者、『言ひ甲斐なしとや方々よ、三保谷の四郎、これにあり』と、渚に丁ど討つてかゝる、刀を払う長刀の、えならぬ振舞ひいづれとも、勝り劣りも波の音、打ち合ふ太刀の鍔元より、折れて引く汐返る雁。勝負の花を見捨つるかと、長刀小脇にかい込んで、兜の錣(しころ)を引掴み、後へ引く足よろ/\/\、向ふへ行く足たじ/\/\、むんずと錣を引き切つて、双方尻居(しりい)にどつかと座す。『腕の強さ』と言ひければ、『首の骨こそ強けれ』と『ハヽヽヽヽヽヽ』『ホヽヽヽヽヽヽ』笑ひし後は入り乱れ、手繁き働き兄継信、君の御馬の矢表に駒を掛け据ゑ立ち塞がる、「オヽ聞き及ぶその時に、平家の方には名高き強弓(つよゆみ)、能登の守教経と名乗りもあへずよつ引いて、放つ矢先は恨めしや、兄継信が胸板にたまりもあへず真っ逆様」、あへなき最後は武士の、忠臣義士の名を残す』(「道行初音旅」・現行浄瑠璃床本 、なお歌舞伎の舞踊「吉野山」もほぼこれに準拠した詞章です。)

上記のなかで、赤字部分が初演時の丸本にない詞章(入れ事)です。有名な悪七兵衛景清の錣引の場面を挿入して、前後の詞章が若干アレンジされています。「道行初音の旅」では、義経の鎧を見た忠信が、八島で戦死した兄・佐藤継信のことをふと思い出すのが核心ですから、錣引の場面は本来あってもなくても良いはずです。ここでの継信戦死は淡々と事実だけ簡潔に描写されています。これと比べると挿入された錣引の詞章が随分と長めです。これもバランス的に奇妙なことです。しかし、或る事情から、ここに錣引の場面を挿入してみたくなったのでしょう。恐らくそこに八島合戦物語・いわゆる八島語りのお約束があるようなのです。(この稿つづく)

(H30・12・4)


○八島語りについて・その1

『忠なるかな忠、信なるかな信、勾践(こうせん)の本意を達す陶朱(とうしゅ)公、功なり名遂げて身退く。五湖(ごこ)の一葉の波枕。西施の美女を伴ひし。例(ためし)をこゝに唐(から)倭(やまと)、四海漸く穏やかに、寿(ことぶき)永き年号も、短く立つて元暦と命(みことのり)も革(あらたま)り。閉ざさぬ垣根卯の花の、皆白旗(しらはた)と時めきて、武威はますます盛んなり。宝祚(ほうそ)八十一代の天子安徳帝。八島の波に沈み給へば。後白河の法皇政(まつりごと)を執(とり)行(おこな)わせ給ふ。』

「義経千本桜」丸本・大序の冒頭です。大序の冒頭部と云うのは、浄瑠璃の世界定めを行う大事な詞章で、何時ごろの時代の設定であるか、どのような物語を語り始めようとしているのか、いろんな情報がここに込められていますが、本稿では以下の箇所に焦点を当てて考えてみたいのです。すなわち「宝祚八十一代の天子安徳帝。八島の波に沈み給へば」の詞章のことです。

宝祚とは皇位のことです。安徳帝は第81代天皇ですが、時は元暦2年/寿永4年3月24日(西暦1885年4月25日)、長門国壇ノ浦の戦い(現在の山口県下関市)で母方祖母・二位の尼に抱かれて入水しました。これ が栄耀栄華を誇った平家が滅亡に至った治承・寿永の乱(いわゆる源平合戦)の最後の戦いでした。元暦/寿永と元号が併記されているのは、寿永3年4月16日に朝廷が元暦に改元したけれども、平家方が相変わらず寿永を使用し続けたことに拠ります。平家が滅びた壇ノ浦の戦い の後、元号が元暦に一本化されたということです。「短く立つて元暦と命も革り」という文句は、その辺の事情が反映されています。ちなみに元暦という元号は、元暦2年8月14日に文治へ改元がされました。したがって詞章にある通り、元暦年間は実質的にまことに短かったのです。

ところが浄瑠璃作者は「宝祚八十一代の天子安徳帝。八島の波に沈み給へば」と、妙なことを言い始めます。安徳帝は八島(=讃岐国屋島、現在は香川県高松市)の海に沈み給うた、つまり平家は八島の戦いで滅んだと云うのです。しかし、 屋島の次の戦いである壇ノ浦の戦いで平家が滅んだということは誰でも知っている歴史的事実です。「昔の人はそういうところの知識が好い加減なので、あまり深く気にしなかったのだろう」などど考えるのは大きな間違いで、古くは遊芸の琵琶法師が語った「平家物語」や近くは講談などによって平家滅亡の物語は 「もののあはれ」を詠うものとして当時の庶民の教養として在ったものでした。「八島の波に沈み給へば」と云われれば誰でも「アレッ?何か変だぞ」と思わないはずがありません。もしそれを不思議に感じないの であれば、そこに作者と観客との間に暗黙に通じる或る認識があったに違いないのです。だから、これは明らかに浄瑠璃作者が確信犯的にそうしたのです。そもそも「千本桜」自体が「死んだはずの平家の三人の公達、知盛・維盛・教経が実は生きていた」という大胆極まる歴史虚構を前提に据えた時代浄瑠璃です。ですから浄瑠璃作者は「平家は八島の戦いで滅んだ」と虚構することで何かを意図したと考えなければなりません。本稿ではこのことを考えて行きます。(この稿つづく)

(H30・12・2)


○「歌舞伎の見方」講座:見ていない舞台の劇評こそ読むべきこと

芝居を見れば、その時の感動を何かで確かめたくなる、或いは誰かと共有したくなる、そう云うことで、新聞や雑誌で劇評を読む・或いはインターネットで劇評を検索してみることも多いと思います。吉之助は理由あってこれを「観劇随想」と呼んで・「劇評」と位置付けしていませんが、本サイトを訪問くださるお客様もやはり直近の芝居のことが気になられるようで、吉之助の観劇随想 でも直近の記事の閲覧が圧倒的に高いようです。これはごく自然のことで、だから吉之助もサイトのアクセスを高める為に、直近の芝居の記事を書くのを心掛けるようにしています。ただし自分の歌舞伎の見方を深めたいと思っている方には、自分の見た芝居の劇評を読むのも結構ですが、むしろ見てない舞台の劇評・できればずっと昔の劇評を読むことをしていただきたいと思いますねえ。

「見てない舞台の劇評」と云うと、見てない舞台など自分にはイメージが出来ないし、ましてや劇評家が書いていることを信用して良いかも判断出来ないし、そんなもの読んでも仕方がありませんと 仰る御方が少なくないようです。しかし、そう仰る御方は、自らの想像力を駆使して 劇評を読む努力をしてないのです。見てない舞台の劇評を読む時には、読み手は想像力をフルに働かせなくてはなりません。読み手は書き手(劇評家)の目(フィルター)を通して、その舞台を見る(読む)のです。これは劇評でなくとも、小説を読む時であっても同じことではないでしょうかね。大事なことは、「この人がそう書くのならば、その役者はどんなに素晴らしかったか」と想像して劇評を読むことなのです。

明治の芝居を生(なま)で見た遠藤為春は「(九代目)団十郎の助六は良かった・誰も 団十郎の足元に及ばない・それはもう大変な違いだ」とそれしか言いませんでした。どこが良かったとか、ここが違うとか具体的なことは指摘しないで、ただ「違う、全然違う」だけ。こう云うのをせせら笑っているようでは、歌舞伎の見方が深くなることは絶対ありません。「これは違う」と叫ぶだけで、古老はその役目を十分果たしているのです。生で団十郎を見た人がそう言うのだから、きっとそうなのだろう、言うことは一応聞いておこう、それにしてもそんなに素晴らしかった団十郎の助六とは一体どんなものだったのかな?と考える方だけが、芸談や劇評から果実を得ることが出来ます。 ましてや少しでも具体的なこと、思索の手掛かりになるヒントをちょっとでも書いてくれている劇評があれば、なおさら有難いことです。

昔の劇評など古い雑誌「演劇界」のバックナンバーなどで古書店で探さないと手に入るものではないですが、面白そうな記事があれば、読んでみれば良いと思います。昭和30年〜40年代の「演劇界」は、芸談も豊富であるし、この頃はまだまだ個性的な書き手が揃っていましたから、とても興味深いです。またこれも古書店で探さなければなりませんが、国立劇場が上演の度に発行している上演資料集に収録されている劇評は、関連資料も整理されているので、これはとても効率が良いです。そのなかで「この人なら自分のセンスに近そうだ 、この人の書くことなら信じられる」と思える劇評家が見つかれば、その方を自分の師匠とすれば良いと思います。そこから見方を拡げて行けば宜しいでしょう。

このところ吉之助も過去の舞台映像を見直して観劇随想 を少しづつ増やすことをしていますので、過去の観劇随想も併せてご覧ください。劇評は、見ていない舞台の劇評こそ読むべきこと。これを読んで想像して楽しめば、見てない舞台も見たようなものです。

(H30・11・29)


○「歌舞伎の見方」講座:観劇日記を付ける

「観劇はその時その時を愉しめば良いので理屈ではない」と云うのは、まあそれはそれで結構だと思います。そういう芝居の愉しみ方も、もちろんありです。しかし、理屈が分かって来れば、芝居はもっと面白くなるのじゃないでしょうかね。

ところで「歌舞伎素人講釈」は理屈で芝居を見ようと云うサイトです。しかし、吉之助は「みんなに理屈を教えてやろう」と思って啓蒙のためにこのサイトを書いているわけではないのです。
吉之助は自分の勉強の為にサイトの記事を書いています。19年間サイトを書いていても「こんなことさえ分からない」と恥じ入ることばかりです。吉之助自身がまだまだ理屈を学ぶ途上にあり、現時点で吉之助が学び取った(と自分では思っている)ものをサイトでお裾分けしているだけのことです。批評家と云うのは「自分が分かった(ような)ことを書いている」と思っている方は多いと思います。まあ確かに分かったことしか書けないわけですが、実は、批評家は「自分がここまでしか分かっていない、こんなことさえ分かっていない」ということをさらけ出しているのです。書くというのは、恥ずかしい行為なんです。そういうことが分かっていれば、おいそれとは批評を書けぬものですが、それでも批評を書こうとするのは、やっぱり吉之助のなかにやむにやまれる何かがあるのでしょうねえ。しかし、吉之助もサイトの記事を日々書く作業を通じて、自分の芝居の見方が着実に深化していることを感じています。

そういうわけで、自分の歌舞伎の見方を深めたいと思っている方には、芝居を見た後・お家に帰った後に、観劇日記(観劇メモ)を付けることをお勧めしたいです。別に劇評みたいに書こうとすることはありません。サイトやブログで公開する必要もありません。寸評でも箇条書きでも、スタイルは何でも良いのです。自分のためのメモ代わりに、観劇日記を書けば良いのです。これは自分の歌舞伎の見方を深めるために絶大な効果があること請け合いです。

もちろん観劇日記も、ある種の批評行為に違いありません。それは自分がどこまで分かっていて、どこからが分からないかを自己確認する行為なのです。歌舞伎を見れば、出来が良いとか悪いとか、面白いとかそうでもないとか、誰でも感想がいろいろ浮かぶものです。そこまでは誰でも同じです。しかし、「楽しかった・面白かった」だけであると、フワフワした印象を語っているだけのことです。(まあそれもそれで効用はあるでしょうが)更に芝居のどこが楽しかったか、役者の誰某の演技のどこが良かったとか、 どうしてそのように感じたかとか、詳細を具体的に突き詰めて書かないと、他人には「ああ、そうですか」だけのことで終わってしまいます。文章を書くという作業は、芝居の印象を明確なものにし、客観的な形を与えてくれます。そうすることで印象は思想となるのです。大事なことは、印象を反芻するが如くに、自分の印象を文章として正しく表現できているか、書いたものを何度も読み直して、より適切な表現があると思えば何度でも書き直すことです。そのような作業を経ることで、感想は曖昧でフワフワした印象ではなくなり、輪郭がはっきりした奥行きのあるものに変わって行きます。自分の印象の核心がどこにあるかを自分なりに掘り下げて行けば、歌舞伎の何が自分を惹き付けているかもクリアになってくるし、最終的に「自分はどういう人間か」というところまで見詰める機会になります。いわば歌舞伎は例題なのであって、観劇日記を付けることを通じて書き手は自分探しをするようなものです。

もうひとつの効用は、上記のような作業を経て付けた観劇日記は、例えメモ程度のものであっても、何年か後に読み直した時に「あの時はこうだった」と、当日の舞台の印象 が紐を引っ張り出すみたいにスルスル蘇って来るということです。これは不思議なことですが、ウンウン唸って文章を書くことが、舞台の印象を脳の記憶中枢に落とし込む作業になっているのでしょう。観劇日記が記憶のタグになると云うわけです。したがって観劇日記は貯まれば貯まるほど、自分にとっての(自分だけの)宝物になります。お試しあれ。

ところで先ほど「観劇日記をサイトやブログで公開する必要はない」と書きましたが、公開すれば全然別の展開もあり得ると思うので、もしその気がお有りならば、ご自身のサイトを持つことをお勧めしたいところです。

(H30・11・26)


○平成30年11月平成中村座:「 源平布引滝〜実盛物語」

十八代目勘三郎七回忌追善ということで、久し振りに平成中村座を見て来ました。仮設劇場の平成中村座は収容人数が836席だそうで、これは金毘羅歌舞伎の金丸座(収容人数は凡そ730席)をひと回り大きくした感じになります。金毘羅歌舞伎の時もそうでしたが、この平成中村座で見ても、やっぱり歌舞伎はこの程度のサイズの劇場で見るのが本来 の形なのだなあと思います。役者の息遣いが生々しく伝わって来るし、芝居の手作り感がよく分かります。こういうことは歌舞伎座のような大きい入れ物だと、どうしても感じ難くなります。現代の 採算重視の興行形態では仕方がないことだと思いますが、それだけに平成中村座のような小空間での芝居体験は、江戸時代の劇場の疑似感覚を味わえるだけでも貴重なことです。

さて勘九郎の実盛は、これで三演目だということです。前回は勘九郎は平成25年(2013)5月明治座で実盛を演じました。この時の勘九郎の実盛は教えられた型をきっちり勤めようという感じが強くて、ちょっと暗い印象がし たものでした。実は吉之助は、この点は父である故・十八代目勘三郎の実盛についても、似たような印象を持っています。勘三郎は法界坊や野田歌舞伎ではあれほど軽妙で自在な演技を見せたのにも係わらず、これが型ものになると一転して「型を守って真面目にやってます」と云う感じが強くなって、印象が妙に重ったるくて暗かったのです。襲名時の盛綱なども同様で、晩年になるほど、そうした印象が強くなってきました。これについては別稿「勘三郎の法界坊」で触れたのでそちらをお読みいただきたいですが、役者・勘三郎の芸を考える時の、とても大事なポイントであると思っています。これは勘三郎のようなサラブレッドで周囲から伝統の歌舞伎を背負うことを期待され続けて来た人だけが感じる重圧であったと思います。ですから勘三郎は表向きにはパッと明るくて天真爛漫な人柄に見えたと思います(その評価はそれはそれで正しいにしても)が、内面は結構思い詰める真面目なところがあったと思います。恐らく勘九郎は気質的にそのような父・勘三郎の真面目なところを受け継いでいるのでしょう。もちろんこれは美質と云うべきであるし、また役者としての美質とせねばなりません。そこから勘九郎なりの実盛を掘り下げてもらいたいと思います。

「平家物語」での実盛の死は、後世の人々が「武士たる者の理想の死に方だ」と讃えたものでした。歌舞伎の実盛は爽やかな生締役の代表的なものとされます。しかし、バッと華やかなだけの実盛では、深味が足りなくてちょっと困る。「実盛物語」の実盛は、24年後に加賀国篠原で太郎吉に討たれる陰惨な運命を背負っている (その運命を実盛は自ら定める)のですから、横顔にどこか暗い陰りが差しているのです。そこに「もののあはれ」があるのです。しかし、だからと云って暗い実盛も、やはり困ります。だから華やかさと暗さの、そのどちらもが必要です。役が持つ華やかさと暗さとの塩梅が、実盛という役の難しいところになります。

角度を変えて見るならば、実盛という時代物の役が持つ暗さ(武士の死すべき運命の重圧、武士はそのような運命と一体化した存在として概念化されます)というものは、実は「物語り」とか、竹本の三味線のリズムに乗った、人形に似せたギクシャクして不自然な、型もの的な動きとなって表れます。だから勘三郎の、伝統の重圧から来る暗さというものが、 実盛の本質とどこか重なって来るものがあるのです。しかし、残念ながら、ちょっと暗さが勝ち過ぎたところがありました。役が持つ華やかさと暗さとの塩梅が大事なのです。息子である勘九郎の実盛についても、そこのところが課題となると思います。

今回(平成30年11月平成中村座)の三演目になる勘九郎の実盛ですが、だいぶ練れた感じになって来たし、役の大きさも出て来たと思います。しかし、やはり真面目さが立つ感じがあるのは、そこは勘九郎だなあと思いますねえ。実盛と云う役の、本質的な暗さを捉えていることは、そこは良い点であるのです。もうひとつパッとした華やかさが加われば、いい実盛になると思います。何と云いますかねえ、もっとご機嫌に演じればいいのです。

ひとつ工夫の余地があるのは、義太夫狂言のリズム感だと思います。台詞について云えば、時々台詞の末尾を大きく張り上げて引き伸ばすところが聞こえます。そういうところで義太夫のリズムから外れて、役のキリリとした印象が崩れます。これが勘九郎の実盛を重い印象にしています。「物語り」での竹本との掛け合いは、まるまる糸に乗ってしまってはいけませんが、まったく離れてしまっては面白さが出ません。付かず離れず、そういうところに「物語り」の当意即妙の面白さがあるのですから、そこで義太夫のリズムを利用しない手はないのです。まあそんなことなど考えますが、時代物役者としての勘九郎の成長が感じられた舞台であったと思います。

(H30・11・15)


○平成30年11月歌舞伎座:「隅田川続俤〜法界坊」

猿之助は芸達者ですから、初役の法界坊が面白いものになることは容易に予想が付くことです。吉之助の危惧は、猿之助の法界坊が、十八代目勘三郎の法界坊(串田和美演出)のようなおちゃらけた代物にならないかということでした。幸い、これは杞憂に終わったようです。猿之助の法界坊は 動きも軽快てアドリヴも効いて観客を盛んに沸かせていましたが、法界坊に必要な汚ならしさ・厭らしさもあって、法界坊の疎外感はそれなりに表現できていました。 まあこれは演出とか役者の持ち味とかいろんな要素が関連すると思います。(もうちょっと抑えても良いかとは思いますが)今後もこの程度におふざけを抑えてくれるならば、これはこれで結構だと思います。法界坊は猿之助の当たり役になることでしょう。

勘三郎の法界坊は、当時(平成17年8月歌舞伎座)のチラシの文言にあったように「皆に汚いと罵られれても 、どこか憎めない愛くるしい法界坊」でした。ホントは汚くないんだ・ホントの心はピュアなんだと言いたいのでしょう。しかし、憎めない愛くるしい法界坊では疎外されているとは言えません。疎外されている法界坊と言うのならば、汚らしくて嫌われていて・本人は逆にそれを恨みに思って・世を呪っていて・それでも生き抜く欲望はギラギラと人一倍強いのが法界坊なのです。(別稿「先代勘三郎の法界坊」を参照ください。先代とは十七代目のこと。)まあ勘三郎の法界坊もこの芝居のひとつの形を極めたものと云えますし、恐らく勘三郎の代表的な役としてこれからも永く記憶されるべきものです。しかし、吉之助のなかの法界坊のイメージは、もっと暗いものです。

大喜利「双面」(今回の浄瑠璃外題は「双面水澤瀉」)を見ると、いつも野分姫のことを哀れに感じてしまいます。この世話物のなかで、野分姫は何だか浮いた存在だと思います。実際、この芝居の隅田川の世界という時代構図はまったく作劇上の方便にしか過ぎないものです。世話の芝居に時代の要素(野分姫)がひょっこり顔を出すと、それまで軽快に流れていた芝居が面倒な方向によじれて行くようで ちょっと迷惑な感じがあります。手代要助(実は吉田松若)もどちらかと云えばお組の方に惹かれているようで、野分姫のことが煙ったそうです。野分姫は法界坊から「俺がお前を殺すのは要助に頼まれたからだ」ということを言われて、要助を恨みながら死んでいきます。その恨みのため野分姫は怨霊となるわけです。法界坊の言ったことは嘘ですけれど、要助にとって野分姫が疎ましかったことは事実なので、まったくの嘘だとも言い切れない。つまり野分姫は 何となく除け者扱いされているわけで、そこにやはり疎外されている法界坊との共通項が出て来ます。こう考えて初めて「双面」で死んだ野分姫と法界坊の霊が合体して出て来ることの意味が分かると思います。つまり野分姫と法界坊は或る意味似た者同士なのです。しかし、野分姫は殺されてもなお疎外されて、あんなに嫌っていた法界坊と合体させられるというのは、何ともおぞまし く、また哀れなことではありませんか。

ドラマ的には法界坊は端敵ですから、本来は殺されたらそれっきりになる程度の人物なのです。(この点は大事なことなので、強調しておきたいと思います。)けれども法界坊にはまだ強い怨念が残っています。法界坊の怨念は個人に対するものというよりはこの世の生そのものに対して、もしかしたら自分自身をも含めたこの世のすべてに対してです。だから疎外感を共通項にして、野分姫の怨霊に憑り付いてその実体を乗っ取るように法界坊の怨霊が合体して出現すると云うことです。逆に言えば、法界坊の疎外感はそれほどに強いということです。「双面」で野分姫の霊が法界坊へ切り替わる瞬間に、疎外された者たちのこの世への怨念が牙を剥きます。吉之助は作者(奈河七五三助)がどんな思いでこのようなドッペルゲンガーの怨霊を創造したのかということをとても不思議に感じます。実は「双面」の趣向は、それまでに長い系譜があるものです。これは一人の発想だけで生まれたものではない。恐らく背景に疎外された者たちの怨念の歴史がこもっていそうですが、これについてはいずれまた別の機会に考えることにします。

「双面」では野分姫と法界坊が合体した怨霊は容貌がお組とそっくりで、可憐な娘と醜悪な破戒坊主を描き分けるところが見どころとされますが、こういうところで猿之助の女形の経験が生きて来ます。描き分けると云うよりは、見ようによってどちらにも見える両性具有のグロテスクさです。その辺のところ猿之助はケレン味を込めずきっちり踊っています。きっちり踊っているから、描くべきものが自然と立ち現れるという感じです。いい「双面」であったと思います。

(H30・11・8)


○平成30年10月歌舞伎座:「助六曲輪初花桜」・その2

仁左衛門が名乗りの長台詞で聴かせる歯切れの良いリズム感、緩急の良さ、或いは「抜かねえか」で意休に受けてグッと腰を落として決める形は荒事の骨法を律儀なくらいしっかり踏まえたものでした。(勘九郎だけでなく、海老蔵にもこれをよく見ておいて欲しいくらいのものです。) 前節で吉之助が「実直な印象」と書いたのは、そこのところです。本来ならば助六に「実直」という評言は似合わないはずです助六は若衆の芸で、相手を有無を云わせず唐竹割りにぶった斬る力強さと単純さが売りだからです。その若さ・単純さ 或いは大らかさは、或る意味で役の薄っぺらさにも通じると思います。当然のことながら、そういうところは仁左衛門の助六にはない。一方、仁左衛門の助六は肚がある印象がします。思うところがあって遊里で喧嘩三昧を仕掛けているという肚です。その肚で意休に突っかかって行く。助六なんて理屈でやる役じゃないと思ってましたが、これはこれでひとつの助六の在り方を見る気がしました。そんなところに仁左衛門らしさが出ているのかも知れませんね。

七之助の初役の揚巻は、仁左衛門の助六の横に立つと太夫の貫禄に不足するのは仕方ないところですが、楽日に見たせいか大分練れてきて健闘している印象ではありました。しかし、太夫としてはもっと濃厚な色気と憂いが欲しいところです。声がよく通るのは七之助の良い点ですが、サラッとした綺麗さで硬く感じられるのはそのせいもあります。もう少し声を落として台詞廻しに粘りを付ける工夫が必要だろうと思います。(同じ月の「義民伝」のおさんの世話女房も、その辺の工夫でもっと良く出来ると思います。)勘九郎の白酒売りは、これも真面目な印象がしてまだ硬いところはありますが、一生懸命柔らかさを出そうとしていて好感が持てます。

それにしても舞台で七之助と勘九郎、仁左衛門・玉三郎(満江)と四人並ぶと、何だか十八代目勘三郎のことが自然と思い出されて、故人のために良い追善の舞台になったなあと気がしました。

(H30・11・5)


○平成30年10月歌舞伎座:「助六曲輪初花桜」・その1

仁左衛門が助六を初めて演じたのは、昭和58年(1983)3月歌舞伎座(揚巻は玉三郎)でありました。思えばもう35年も前のことですねえ。あの時には「江戸歌舞伎を代表する助六を、選りによって上方の役者に演じさせるとは何事か」と抗議した人がいたとかいなかったとか。さすがに今時はそんなことを言う方はいないと思います。今や仁左衛門(当時は孝夫)も押しも押されぬ歌舞伎の大看板役者となりました。しかし、当時の仁左衛門の助六を思い返すと、優美ではあるけれども、いささか描線が脆弱に感じられた助六であったかなと思います。当時も仁左衛門の台詞廻しの巧さは定評がありました。もちろん助六の台詞も流麗なものでした。しかし、台詞の意味や感情を細やかに表現すればするほど、その上手さのために却って荒事としての助六の骨太さが損なわれ るように感じられたのです。それより役の本質を大きく掴んで、細かいところにこだわらず、大らかに役を演じた方が、やはり助六はうまく行くのです。その辺に江戸と上方の芸風の微妙な差異ということもあるのかなということを、当時は思ったものでした。

このところの仁左衛門の役々は流麗さが増している印象で、そこに近年の仁左衛門の円熟があると吉之助は理解をしています。そういうわけで今回(平成30年10月歌舞伎座)の仁左衛門の、久し振りの助六については、吉之助のなかに35年前の記憶が残っていますから、まあ優美な助六ではあろうけれどどんなものかな?と云うところで、さほど大きな期待をせずに舞台を見たということを、まず最初に告白しておきます。千秋楽の舞台を見ると、もちろん予想通り優美な助六ではあったけれど、仁左衛門がその優美な印象を意識的に内に押し込んで、本格の「荒事の助六」を演じようとしていたことに、素直に感動すると同時に、いささかびっくりもさせられました。仁左衛門がこれだけ腹に力を込めて台詞のリズムを刻むように言い、下半身に力を入れて 腰を落として荒事の形をしっかり決めるということは、普段の仁左衛門の役々ではそうないことです。前半の助六は実直な印象さえしました。無理して助六を勤めているということは、よく分かりました。実際74歳で助六を勤めたのは、仁左衛門が最年長記録になるそうです。

インタビュー仁左衛門が語ったことに拠れば、仁左衛門が初演時(35年前)の助六を教わったのは十七代目勘三郎であったそうです。息子の十八代目は、いつか自分が助六をやる時は仁左衛門の兄さんから教えてもらいたいと言っていたとのことです。 残念ながら十八代目が助六を勤める機会は永遠になくなってしまったわけですが、今回、十八代目勘三郎七回忌追善で助六を演じるに当たり、勘九郎・七之助に十八代目の思いを伝えたいと云う、仁左衛門の気迫が伝わって来る舞台になりました。(この稿つづく)

(H30・10・31)


○平成30年10月歌舞伎座:「義経千本桜〜吉野山」

別稿「舞踊の振りの本質」のなかで、踊りの本質とは、例えば「右手を横に振る」と云う振り付けがあったとして、右手を差し出してこれを横に持っていく動作が振りなのではなく、右手を出し切って・指先を伸ばして右を指す、その形を瞬間的に決めて、見る者に これを印象付けることだと云うことを論じました。つまり踊りとは、形を決める・その形から抜けて・次の形をまた決めると云う繰り返しとリズムなのです。

ジャック・ラカンは、「眼差しそれ自体が動きを終結させるだけでなく、凍結させる。眼差しが身振りを完成させる、しかし、大事なことは、それは終わりではなく・同時に始まりでもある」と言いました。 まだラカンは「主体が身振りを中断して止まる時、彼は死体と化しているのです」とも 言いました。ということは、踊りのなかで振りを続けながら、つまり形を決める・形を抜くということを繰り返しながら、踊り手はそのなかで絶えず生と死の繰り返し、再生のリズムを表現しているということです。モーリス・ベジャールがよく云うところの「エロス・タナトス(生と死)」ということです。これが舞踊の本質なのです。しかし、踊り手が形を決める(振りを中断する)時間はコンマ以下のほんの瞬間的なものです。これを見事に決められる踊り手は、残念ながらそう多くはいません。

別稿「舞踊の振りの本質」でも触れましたが、十八代目勘三郎の踊りは躍動感はありましたが、振りの形をしっかり取れないところが 画竜点睛を欠く趣きでありました。もちろん高得点であることを認めたうえでのマイナス要素ですから、誤解のないように。しかし、それが勘三郎の踊りが勢いがあっても粗いという印象に繋がってきます。端正な踊りという印象になって来ないのです。そこが吉之助が十代目三津五郎の踊りの方を評価する根拠です。まあ勘三郎の場合は舞踊家の踊りではなく、役者の踊りであったと云えば、そういうことです。

ところでこのところの玉三郎の踊りですが、昔とちょっと様相が変わって来たように思われます。水が絶えず流れて決して同じ形を取ることがないように、振りがユラユラと絶えず揺れているイメージなのです。良く云えば「流麗」ということになるのでしょうか。悪く云うならば、振りが明確な形を成すことがないまま、次の振りのなかに埋もれてしまっているイメージです。そのような印象がこの2〜3年の間に次第に強まっています。吉之助が 最近の玉三郎の踊りを見て感じる割り切れない思いは、そこにあります。「揺れる」というイメージは確かに現代の一面を切り取ってはいるのでしょう。玉三郎の舞踊の今日性はそういうところにあるのかも知れませんが、何と云ったら良いでしょうか、美しいものが浮遊している感覚と云うことでしょうかねえ。しかし、これは舞踊とは異質なものに感じられます。

こういう踊りは「楊貴妃」だとか「幽玄」だとか玉三郎のための演目ならば、「坂東玉三郎の美の世界」ということでまあ許されると思います。吉之助も長年の玉さまファンとしてこれらの演目はそのように見ていますが、古典舞踊であると あまり好ましいことに思われないのです。特に若手と一緒に踊る時には気を付けなければならないと思います。晩年の歌右衛門も「かさね」などで当時の若手であった吉右衛門や団十郎らとよく共演しましたが、若手と一緒に踊る時はそうでない時よりもずっと気を使うし疲れると言っていました。若手と共演するということは、指導(手本を見せる・役者としての生き様を見せる)という意味を当然含むからです。今月の「助六」ですが、仁左衛門の助六も、普段の仁左衛門より明らかに腹や下半身に力を込めて意識して荒事の演技を心掛けていることが明らかでした。さぞ疲れただろうと思いますが、それが中村屋の遺児ふたりに本格の「助六」というものを教えようという心意気というというものでしょう。「吉野山」での静御前のパートは、さほどきついものではないと思います。吉之助は玉三郎が気を抜いているとは決して思いませんが、もう少し振りをしっかり取った踊りを意識的にしてもらいたいのです。これでは若手に対する手本として好ましい在り方ではないように思われます。

勘九郎の忠信ですが、振りに関して云えば、形が決まらず印象に残らない点において、玉三郎と似た感じがするのは気のせいでしょうかね。と云うか勘九郎の持ち味である踊りの躍動感が、いつもより足りない気がします。狐忠信の性根の表出に気が行っているような感じです。踊りはしっかりしていますが、そのため勘九郎の生真面目さが目立って、パッとした華やかさに欠ける感じです。しかし、場面は花の「吉野山」なのですから、華やかさは必須です。

吉野山」の忠信は狐ですから、忠信が関心があるのは静の持っている初音の鼓です。両親の皮で出来ている鼓ですから、これを慕って忠信が現れるだけのことです。しかし、静としてみれば「この人、私に気があるのか知らん」 と見える。義経という彼氏があるとは云え、危害がないならば、女性としてはまんざら悪い気分でもない。そのようなチグハグな二人の道行なのです。吉野山」の舞台を見て「この二人は出来ている」と言った御方が居ったそうな。もしそう見えたのならばその踊りは良くなかったでしょうが、かと云ってホンワカ・ムードが乏しいのも、これはこれで困りますが。ともあれ勘九郎の忠信は主従関係を忘れず、彼の関心は鼓であるということは、明確に分かる忠信でしたね。 これは良い点です。

(H30・10・27)


○マウリツィオ・ポリーニ・ピアノ・リサイタル・2018・その2

今回(平成30年11月7日・サントリー・ホール)でのポリーニを聴いてちょっとびっくりしたのは、最初は何の雑音が響いているのかと思ったのですが、ピアノを弾きながらポリーニが盛んに唸る(と云うか声を出して歌うというべきか)ことでした。ライヴ録音を聴くと昔のポリーニも興が乗った場面で唸ることは時折あったと思います。しかし、これまではこんなに盛んに唸ることはなかったと思います。今回はもうグレン・グールド並みに唸っていました。それだけ音楽の内面への没入が激しかったのだろうと思います。ここにポリーニの演奏の在り方が変わって来たことが察せられます。要するに第三者的な客観性で演奏の細部にまで目を配って全体を制御しようという姿勢よりも、音楽に没入して内面から制御する姿勢に変化して来たということでしょう。しかし、ポリーニが変わらずポリーニであることは、大曲においてかつきりした構成感が維持されている ことからも明らかです。そこにポリーニの理性が感じられます。一方、小曲においては余分が力が抜けてポリーニの新たな境地が見えてきた思いがします。前回の来日公演でも、小川のせせらぎが太陽の光に反射してキラキラして見えるような場面が聴こえたけれども、プログラム冒頭のシューマンのアラベスクや、アンコール2曲目のショパンの子守唄では、さらにその傾向が顕著になってきたと思われました。独特の軽さと明るさを感じさせて、ホントに心に沁み入る響きでありました。

演奏は素晴らしかったです。時折技術的に危なそうな場面は確かにありましたが、目立つ大きなミスは聞こえませんでした。それどころか弾いているうちにだんだん乗って来たのか、オオッさすがと思わせる目も覚める技巧、ダイナミクスの大きな変化を聴かせて、しかも構成がビシッと決まる。これでなければポリーニではない。 シューマンの第3番のソナタ、ショパンの第3番のソナタでは、「ポリーニも いささか御歳を召した」なんてイメージを吹き飛ばす出来になりました。この出来にはご本人もご満悦だったと見えて、アンコールはショパンのスケルツオ第3番、これも難曲ですが、スケールが大きい仕上がりになりました。しかし、この頑張り過ぎが祟って「腕の疲労か抜けない」ということになってしまって、その後のリサイタルの日程が変更になったり・プログラムを軽い曲目に変更する事態になってしまったのはお気の毒であったけれども、7日のリサイタルでのポリーニは「俺もまだ老いてはいない」という気概を見せ付けた気分だったでしょうか。

しかし、今後のポリーニの方向は、恐らく小曲における軽さ・深みの追求と云うところにあるのだろうと思います。全盛期に技巧で鳴らしたピアニストに対しては、音楽ファンは往年のイメージをどうしても期待してしまいますし、ご本人もその落とし穴にはまりやすいものです。それで音楽が崩れてしまうことも多いものです。しかし、晩年のホロビッツが飄々とした洒脱な芸を聴かせましたけれども、あんな風に純粋に「音楽する歓び」を表現するのも決して悪くないことです。全盛期のホロヴィッツはピリピリして神経質な感じもしましたけれど、晩年のホロヴィッツは「あの10年の隠遁生活は何だったのだろうか」と思うような人が変わった好々爺ぶりでした。ポリーニも約50年ストイックに頑張って来たのだから、もうそろそろ自分のために音楽しても良いのではないかな、それがポリーニならばファンもそれを許すと思うのですそんなことをリサイタルを聴きながら思ったものでした。

ちなみに当日(7日)のプログラムは下記の通りでした。
シューマン     アラベスク op.18
                   アレグロ ロ短調 op.8
                   ピアノ・ソナタ第3番 ヘ短調 op.14 「管弦楽のない協奏曲」
ショパン       二つのノクターン op.55
                  ピアノ・ソナタ第3番 ロ短調 op.58
(アンコール)
ショパン      スケルツオ第3番 嬰ハ短調 op.39
                   子守唄 変二長調 op.57

(H30・10・27)


○マウリツィオ・ポリーニ・ピアノ・リサイタル・2018・その1

去る11月7日にサントリー・ホールでのマウリツィオ・ポリーニ(76歳)のリサイタルを聴いて来たので、ここにメモ風に記しておくことにします。日本で予定された3回のリサイタルのうちの第1日目です。 このところのポリーニは必ずしも体調が良いとは言えないようで、キャンセルが少なくないようです。今回も来日直前の北京でのリサイタルがキャンセルになったそうです。 幸い7日の東京でのリサイタルは予定通り行われて、これは素晴らしい出来となりました。しかし、その後のポリーニは「腕の疲労が思うように抜けない」という事態になってしま ったらしくて、残りの2回のリサイタルはプログラムが腕に負担の少ない曲に変更になったり、日程が変更されたりと、ファンにとって大変心配な事態となってしまいました。逆に言えば、7日のリサイタルは持てる力を出し切ったということなのかも知れないので、7日のリサイタルを聴けた吉之助は幸いでありましたねえ。結果的には18日・21日の二回のリサイタルは無事行われたので、日本の音楽ファンもホッとしたことと思います。

ところで前回の来日公演は2016年4月のことでした。まず歩き方がヨボヨボおぼつかなくて、歳にしては外見がえらく老け込んだ印象であったことに ちょっと驚きましたが、演奏についても歳月を感じずにはいられませんでした。ところどころに技術的な綻びが見られたことは仕方ないことです。そんなところをあげつらって、「ポリーニも老けたなあ」なんて分かったようなことを言うつもりは毛頭ありません。歳を取れば誰だっていつかは体力・技術のピークを過ぎて下降線を辿る時期に直面することになります。その代り歳を取ればそれを補って余りある趣きや深みが出て来るものです。古くは晩年のケンプやルービンシュタインがそうでした。ホロビッツの場合は深みというのとはちょっと違ったかも知れませんが、晩年には独特の洒脱な味わいが加わったものでした。そこでポリーニが70代に差し掛かって、どのような芸境の変化を遂げるかということに興味が出て来るのです。しかし、2016年の来日公演を聴いたところでは、なかなか微妙だなあという気がしました。相変わらず構えは立派なのだけれど(ポリーニはもともと構成力が抜群にしっかりしたところが特質だと云っても良い)、ところどころに聴こえる綻びが晩年の深い味わいと云うところに必ずしも繋がってこない。それだけにうら寂しさがつのるという感じで、かつて「ミスター・パーフェクト」と呼ばれた方だけに、そこが辛いところだなあと思いました。聴き手が勝手に期待してしまう全盛期のポリーニの印象がそのように感じさせると云うところも多分にあったと思います。

そういうわけで2016年来日リサイタルは2回聴きましたが、どちらも何となく割り切れない気分で、「もうポリーニは聴かなくても良いかもなあ」ということをチラッと思ったりしたものでした。しかし、今回(2018年)来日リサイタルをやっぱり聴くことに決めたのは、吉之助もそれなりに歳取って来て (まだ老けたつもりはないけれども)、自分の問題として「晩年をどう実りあるものにするか」ということを次第に考えるようになってきたからだろうと思います。パーフェクトで はなくなってきたポリーニがどのように老いと向き合うか、どのように芸が枯れて行くか、彼の生き様をしっかり確認しおきたいと思ったのです。ポリーニは1960年ショパン・コンクール優勝者(当時18歳)ですが、その後10年ほど「自分はまだ若く・研鑽の必要がある」ということで表立った演奏活動は行わず、本格的なデビューは1970年代の初めでした。独グラモフォンでのデビュー録音の、ストラヴィンスキーの「ペトルーシュカ」からの三楽章を聴いた時の鮮烈な衝撃は、今でも耳のどこかに残っています。それはちょうど吉之助がクラシック音楽を聴き始めた時期に当たり、吉之助の音楽歴とポリーニのキャリアが重なって来るわけです。吉之助はどちらかと云えば管弦楽とオペラ中心の音楽歴ですが、もちろんポリーニは常にチェックしていた存在です。そう云うわけなので、今回リサイタルを聴く目的は、もちろん曲(シューマン・ショパン)を聴くということもありますが、むしろポリーニの生き様を聴くということでした。(この稿つづく)

(H30・10・23)


○平成30年10月歌舞伎座:「三人吉三巴白浪〜大川端」・その2

今月(平成30年10月)歌舞伎座の「大川端」はお嬢に七之助・お坊に巳之助・和尚に獅童という配役で、将来20年後くらいの歌舞伎の行方を想像しながら見ましたが、ちょっと物足りない出来です。もっとももう少し上の世代の「大川端」似たような出来でしたから、彼らだけが特別に物足りないわけではないですが。

七之助のお嬢吉三は、見たところでは平成26年6月コクーン歌舞伎の時と印象が さほど違いがないように思われます。七之助は地声が太くないので、女から男へ変わるところがきっぱりしないのはまあ仕方ないとしても、問題はそこにあるのではないです。七之助の芸質は父・勘三郎の立役の兼ねるお嬢とは異なりますから、 中村屋と云っても必ずしも父と同じやり方を継ぐ必要はないですが、世話の骨法は守ってもらいたいのです。前述した通り「月も朧に・・」をアリアとして「大川端」のなかで屹立した位置に置くという行き方はあるのです。その行き方を取るにしても、そのためには前後の段取りをしっかり世話に取らねばなりません。そこを地道に世話で整えてこそアリアが際立つのです。それでないと中村屋の芸ということにならないと思いますがねえ。そこのところをしっかり考えてやって欲しいと思います。台詞の息の緩急を、七五調の揺れるリズムに乗せることで、七五調の台詞を写実に聞かせることが出来るのです。台詞をサラサラと調子良く流しているように聞こえるけれども、これでは早いテンポのダラダラ調です。多分本人はこれで歌っているつもりだと思いますが、そもそも黙阿弥の七五調が歌うものだという思い込みに問題があります。「大川端」全体をこの感覚で一様に通しているから、アリアが際立って来ない のです。

「大川端」が物足りないのは、もちろんお嬢だけのせいではありません。お坊にも和尚にもそれぞれ問題があります。大和屋は伝承がしっかりした家系だと思っていますが、巳之助の台詞廻しも七之助によく似た印象なのも、ちょっとがっかりですねえ。十代目三津五郎のお坊の良い映像が残っていますから、これを見て巳之助も よく研究して欲しいと思います。一方、獅童の和尚の七五調も、勢いがあるように 聞こえるけれども、こちらはパサパサの散文調で、他の二人と違った意味でこれも 大いに問題があります。台詞のテンポが早くなることは現在の 平成歌舞伎の傾向としてあるもので、テンポが遅かった昭和50年代からテンポが揺り返しているということです。そこに間延びしてしまった台詞を活性化させたいという意図が働いていることは事実ですが、台詞の息ということを考えないでテンポだけを早くしてみても、様式的にはますます写実から離れて形骸化してしまいます。これを解決するためには、台詞の緩急を体現する抑揚の研究が必要です。

三人三様それぞれ「大川端」は様式美で見せる芝居だと云う決め込みがあるように思います ねえ。逆に、こういう芝居こそ形骸化しないように、しっかり人間を描くように心掛けないと、黙阿弥物はますます現代から縁遠いものになってしまうと思いますがねえ。「大川端」は本来歌舞伎役者なら当然出来て然るべき基礎問題とでも云うべきものですが、今やこれが最も難しいものになってしまったようです。

(H30・10・18)


○平成30年10月歌舞伎座:「三人吉三巴白浪〜大川端」・その1

今月(平成30年10月)歌舞伎座は十八代目勘三郎七回忌追善ということで、「三人吉三〜大川端」では勘三郎の次男・七之助がお嬢吉三を勤めました。勘三郎の「三人吉三」と云うと、吉之助にとってはコクーン歌舞伎での和尚の印象が強烈です。(勘三郎はコクーンで 平成13年・平成19年と和尚を二回勤めました。)それは兎も角、よく考えてみると勘三郎の仁からすれば 和尚よりもお嬢の方がもっと本役だと思えるのに、どうして勘三郎は当たり役になりそうなお嬢をあまり勤めなかったのですかねえ。勘三郎は平成6年2月明治座でお嬢をたった 一回だけ勤めました。残念ながら吉之助はこの舞台を見ていませんが、さぞかし勘三郎のお嬢は良かっただろうと思います。勘三郎は七代目梅幸からお嬢の型を教わったそうです。梅幸のお嬢については別稿「七代目梅幸のお嬢吉三〜三人吉三の古典的な感触」で取り上げましたが、要するに勘三郎にとって祖父に当たる六代目菊五郎の系譜です。杭に足をかけて決ま るところから「月も朧に・・」のツラネまで芝居の一連の手順を流れのなかで淀みなく見せて、ツラネを独立したシーンとしてあまり突出させるところがない、或る意味において これは芝居っ気がちょっと薄いお嬢なのです。しかし、生世話の骨法と云うのは実はこういうところにあるということを感覚で分からせてくれるお嬢でもありま した。つまり「当てに行くのではなく、こういうところをサラッと流すのが粋なのだよ」と云う役者の心意気なのです。

まあこれは「月も朧に・・」のシーンを「大川端」の芝居のなかでどう位置付けるかという考え方(演出)の違いであるので、どちらが正しいとか・間違いだとか云うことではないのです。「月も朧に・・」は感情が高められた台詞などではなく、 その前後の芝居の流れのなかで乖離したシーンであり、決して埋もれることがあってはならぬという考え方ももちろんあります。むしろこの行き方を取ることの方が多いと思います。これはバロック的な考え方なのですが、この行き方が魅惑を発するためには前後の流れが正しく写実に(つまり世話の様式に)取れていなければなりません。それでないとシーンの印象が屹立してこないからです。実際やってみると「大川端」で十全な出来の舞台が あまり見られないのは、結局、「月も朧に・・」前後の生世話の感覚が舞台上で正しく 表出されていなかったからに違いありません。つまりお嬢だけのことではなく、これは全体の世話のアンサンブルの問題なのです。

コクーン歌舞伎で勘三郎が和尚を勤めたことについては、いくつか背景があったと思います。勘三郎がお嬢を勤めても面白いものが出来たに違いないですが、当時和尚を本役で勤められる役者が他にいなかった。一方、お嬢については福助と云う適任がいたと云うことだと思います。福助のお嬢は六代目菊五郎の系譜とは異なりますが、まったく別の行き方として興味深い側面を見せたお嬢でした。(これについては別稿「黙阿弥の因果論・その革命性」をご覧ください。)それにしても祖父六代目菊五郎を尊敬し・その芸を現代に蘇らせることを心底願っていた勘三郎ならば、もう何度かお嬢を演じて本役として極めて欲しかったと、そこは残念に思いますねえ。(この稿つづく)

(H30・10・16)


○平成30年9月歌舞伎座:新作歌舞伎舞踊「幽玄」・その6

鼓童に対して厳しいことを書いたかも知れませんが、吉之助は駄目と言っているのではありません。鼓童は太鼓で能を演じるわけではないし、歌舞伎をやるのでもないのだから、本格にやる必要はないし、真似になればニセモノになってしまいます。だから鼓童は鼓童の音楽をやれば良いのです。そのなかで鼓童なりの幽玄を探せば良いのです。

ところで今回(平成30年9月歌舞伎座)の「幽玄」の舞台を見て、ひとつ興味深く感じたことは、鼓童の太鼓が作り出す響きが、モノクロームな印象を吉之助のなかに呼び起こしたことです。能楽は独特の色彩を持っていますし、歌舞伎下座音楽になればさらに派手な色彩になります。これをモノクロームな印象で塗りかえようとする鼓童の太鼓の響きは、墨絵の舞台を見ている感覚に吉之助を誘いました。 これは或る意味では舞台上で起きていることと方向性が正反対なのです。色とりどりの衣装で歌舞伎役者が華やかに登場しますが、舞台に見えている視覚的な色彩も役者の動きも、次第に墨絵のように淡く感じられて来ます。これは太鼓の響きの魔術であるかな。 ここに鼓童なりの幽玄の取っ掛かりがあるかも知れませんね。

『(能楽師の方が云う幽玄ということではなく)幽玄の解釈は人によりそれぞれ違うので、それが幽玄ですという風に定義できないんですけど、通り過ぎて行った時にああっと残像が残るような、過ぎ去ってから印象が残っていく世界。誰がどう云う風に出て来たとか、どうやって盛り上げたとか、どういう劇的な衝撃があったとか、と云うことが何もない世界。物語もあるんだか無いんだか分からない世界。・・』(坂東玉三郎:ドキュメンタリー「坂東玉三郎・鼓童・魂の音」・平成29年7月1日放送、BSジャパン制作より)

玉三郎が言いたいことは、言い換えれば「無」の世界、心の底から静かに浮かびあがってくる想念(イメージ)ということでしょうか。「幽玄」第三部「道成寺」は、そのような玉三郎の考えがよく表れたものとなりました。ここでの玉三郎は、「娘道成寺」を断片的に踊るようでいてそのようでもなく、何を踊っているのだろうと思っているうちに時間が流れて行きます。 「娘道成寺」に拠っているのですから筋の流れは確かにあるのですが、所作自体も意味があるようでいて、ないようなものです。筋の流れから所作の意味を汲み取ろうとしても何も出て来ません。これは悪い意味で云っているのではありません。玉三郎 は「娘道成寺」をなぞるつもりは全然ないと思います。しかし、無の心で見ていれば、舞台の暗がりから白拍子花子のイメージがぼんやり浮かびあがって来ます。玉三郎の「娘道成寺」は何度も見ました。玉三郎の花子の華やかなイメージは吉之助の記憶のなかにしっかり残っていますが、眼前の舞台から受ける印象はモノクロームです。花子のイメージが浮かんでは消え、消えては浮かびます。だからここにあるものは、花子のイメージの浮遊です。敢えて云えば、それは「華やかな空虚」でありましょうか。これが幽玄に通じるということかな。恐らく玉三郎がここで考えたことは、一般的な意味で云うところの歌舞伎舞踊とはまったく違っていて、純粋な身体表現として舞踊の所作が何を表現できるかと云うことなのです。本作においてそれを実験したことの意義は確かに在ったと思います。(関連記事として別稿「芝居と踊りと〜日本舞踊を考えるヒント」もご参考にしてください。)

(H30・11・13)


○平成30年9月歌舞伎座:新作歌舞伎舞踊「幽玄」・その5

四代目鶴沢清六が、或る講座で義太夫の魅力を教えるという企画に招かれて、清六が三味線を弾いて、集まった約百人の聴講生に義太夫を唱和してもらったことがあったそうです。その時の経験を清六は武智鉄二に「武智さん、義太夫というもんは、百人に教えるということはできまへん。やってられまへんで」と語ったそうです。義太夫というものは、師匠と弟子が一対一で稽古するのが原則です。合唱みたいに百人が義太夫を一斉に語ろうとすると、大勢ではまず声が混濁してよく聞こえません。これを綺麗に聞こえるように整えようとすると、間が均(なら)されてリズムが重くなってしまって、結果として義太夫が本来の間合いにならないのです。(この逸話は、吉之助編「武智鉄二 歌舞伎素人講釈」の「間とは何か」のなかで紹介されています。)

「邦楽にはアンサンブルがない」と武智は言います。邦楽では大人数で合奏するということがあまりなくて、基本的には少人数でやるものです。奏者の阿吽の呼吸で互いに息を合わせる行き方で十分間合いが取れたのです。だから改まった概念としてのアンサンブルが邦楽にはなかったのです。しかし、多人数で間合いを合わせるとなれば、同じようには出来ません。相互の十分な打ち合わせが必要になります。少人数と多人数では、拍(リズム)の取り方が全然異なるのです。多人数の場合に拍を合わせる時に手っ取り早いのは、拍の打ちを定間に取って縦の線を揃えることです。そうすると西洋音楽的な作りになって、義太夫が義太夫のように聴こえなくなって来ます。清六が指摘していることは、そう云うことなのです。

鼓童の太鼓は多人数でリズムがビシッと揃って、縦の線が正確に決まっています。アンサンブルがばっちり決まっています。もちろんこれは厳しい訓練の賜物で、素晴らしいことです。しかし、邦楽が持つ間合いの揺らぎ、拍と拍の間にある空虚さとでも云うか、拍を厳密に取らないことから生まれる余白・余裕というもの が、ここではあまり感じられません。鼓童の太鼓では、むしろ無音の空間をひたすら音のブロックで埋め尽くしていこうとする緊張感、或いは切迫感とでも云いましょうか。それはそれで心地良い感覚ですけれども、吉之助の耳には、これがいささか西洋音楽的に聴こえるのです。吉之助の西洋音楽脳では、定間で割り切れないリズムの曖昧さ・揺らぎを、むしろ邦楽的だと感じます。そういうものがどこか幽玄の世界に通じるのだろうと思うのですが。 (アインザッツをぴったり合わせたくない主義のフルトヴェングラーが世界で最も人気があるのが日本であると云うのも同じことです。)

恐らく太鼓を多人数で一斉に打つところに、或るジレンマが潜んでいるのです。このことは今回(平成30年9月歌舞伎座)の「幽玄」での鼓童の団員たちによる謡いを聞けば、露わに分かります。あれは謡いではなく、ほとんど「合唱」に聞こえます。似非的な謡曲世界を現出するに留まっています。しかし、それは鼓童の団員が能に慣れていない・謡いが下手だと云うことではないのです。もともと耳の感覚の鋭い方々なのですから、決してそういうことではない。そもそも謡いを多人数でやろうとする所に落とし穴があるのです。謡いを多人数でやると、例えば「幽玄」メイキングのTVドキュメンタリーで「獅子頭」を「シー・シ・ガ・シ・ラ」とリズムを叩いてみんなで声を揃えて練習する場面があったけれども、こういう練習は前述の清六が百人の聴講生を相手にしたのと同じことになるので、結局、謡いが定間に入ってしまうことになります。その辺を玉三郎さんはどう聞いたかな?だから「幽玄」での謡いは、数人のパートを交錯させて仕立てた方が、正しく謡いの態を成したはずです。

鼓童は太鼓集団なのですから、太鼓を多人数で一斉に打つシーンは迫力ある聞かせ所・見せ所で、当然そこは譲れないところだと思います。それならば少人数やソロパートで打つ場面は、敢えて許せる範囲で定間を崩していく工夫が必要ではないでしょうか。例えば「幽玄」の第三部「道成寺」で三人のソロが交互に演奏を見せる場面は、実に見事な演奏ですが、打つリズムが定間で割り切れて、これはまさに西洋音楽的なパーカッション・パフォーマンスなのです。しかも三人がまったく同じ打ち方を聴かせるのでは、面白くなりません。ここは三人三様、即興性を加えてリズムを崩す・ずらす・いなす、そういう工夫をして欲しいわけです。それで和の感覚に近くなるのではないか。和太鼓を使えばそれだけで和(日本的)だと云うわけには行かないのです。

その意味においては「幽玄」の第二部「石橋」は、それが幽玄であったかということをちょっと置くとすれば、カブキ・ショーとして見応えがあってなかなか面白いものでした。ここでは鼓童の多人数で一斉に打ち出すリズムの迫力が渦巻いて、歌舞伎の若手役者たちの懸命の 獅子の毛振りと相まって、定間の音楽が見事な効果を挙げていたのです。(この稿つづく)

(H30・10・11)


○平成30年9月歌舞伎座:新作歌舞伎舞踊「幽玄」・その4

「幽玄」と共に、もうひとつ考えなければならないことは、「日本的なるもの」とは何かということです。今回(平成30年9月歌舞伎座)の新作歌舞伎舞踊「幽玄」は、昨年(平成29年5月)にオーチャード・ホ―ルで初演された「幽玄」を基にしたもので(残念ながら吉之助はこの舞台を見ていません)、歌舞伎座で上演するに当たり若手歌舞伎役者を動員して歌舞伎仕様に手直ししたものであるそうです。玉三郎に拠れば、鼓童に「幽玄」という演目が生まれたのは、次の新作に何か良いか?という話になった時、メンバーが「日本のものがやりたい」と言ったのが発端であったそうです。この話はちょっと興味深い。和太鼓というのは日本古来からの楽器ですから、鼓童がやっているのは当然日本の音楽だからです。

『僕にとって見たら、和太鼓をやっているのに、日本のものがやりたいというのは、一体どの方向性を言っているの?ということが、まず第一(の疑問)だった。ということは様式的な世界なのかなあと考えて、じゃあこっち(「幽玄」)。みんなも「えっ?僕たち違うことを言ってるのに・・」と思っているかも知れないけれども、もういいの、そこは。(もう決めちゃったのだから。)』(坂東玉三郎:ドキュメンタリー「坂東玉三郎・鼓童・魂の音」・平成29年7月 1日放送、BSジャパン制作より)

太鼓集団「鼓童」の活動を十分承知しているわけではありませんが、和太鼓という日本の伝統的な楽器のなかに現代に通用する表現の無限の可能性を見出して行こうというコンセプトの集団であると吉之助は理解しています。鼓童の音楽は、日本の伝統的な音楽を踏まえつつ、或る意味においてインターナショナルな感覚を取り入れていると云うことだと思います。日本のなかの現代を捉えるとすればそうならざるを得ないのです。(つまり日本の伝承芸能はすべて、江戸と明治・昭和の間で大きな亀裂を生じているからです。)鼓童の演奏を聴くと、そのよく訓練された卓越した技能には感嘆させられます。

しかし、こういう風に書くと鼓童の方にはどう思われるか分かりませんが、和太鼓を使ったパーカッション・パフォーマンスだなあという印象がします。パーカッションと云っているのは、西洋的な感覚での打楽器ということ。但し書きを付けますが、吉之助は鼓童を貶めているつもりは全然ありません。リズムがビシッと揃って、縦の線が正確に決まっています。こういうことは多人数の演奏の時には必須です。アンサンブルが実に見事に決まっています。これならば鼓童が海外で評価が高いのは、当然のことだと思います。こういう演奏は、或る意味において西洋音楽脳で割り切りやすい。外国人にも理解しやすい音楽なのです。逆に言うならば、西洋音楽脳で割り切れない要素(そこに邦楽の特異な要素があると思うですが)が、鼓童の演奏はちょっと少ないように吉之助には思われるのです。 吉之助が西洋音楽脳であることは、サイトのクラシック音楽コーナーをご覧になればお分かりのことだと思います。吉之助の耳には鼓童の演奏は定間に入り過ぎに聴こえます。変な言い方だが、西洋音楽的に上手過ぎるのです。まさにそれが鼓童がインターナショナルな評価を得ている所以です。

鼓童の団員たちも現代のグローバル化の流れのなかに生きているわけですから、その影響を受けざるを得ません。街を歩けば、聞こえて来るのは西洋音楽(J-ポップだって西洋音楽ですから)ばかりで、邦楽なんてほとんど聞こえてこないご時世なのです。日本の伝統に発しながらも、自分たちの音楽が次第に日本から離れてしまっているみたいな不安を、
彼ら自身も何となく感じているので はないか。だから彼らから「日本のものがやりたい」という声が出て来るのです。自分のなかにある原点(日本)をもう一度見詰め直したいという気持ちでしょうか。(この稿つづく)

(H30・10・9)


○平成30年9月歌舞伎座:新作歌舞伎舞踊「幽玄」・その3

幽玄を定義するのは難しいですが、ここで吉之助は、終わった後にしみじみ感じる余韻・残渣のようなものと定義しておきたいと思います。例えば太鼓をドーンと一度叩くと、革の振動が唸りになって残るので、そこに響きの余韻がしばし残ります。或いは劇場の反響によって響きの余韻が残ります。恐らくそれはコンマ何秒という程度の、瞬間と云っても良いほどの短い時間です。幽玄とは、演劇的には「間」が作り出す美学だと云えます。現在ある静寂のなかに、かつて音が存在したことの名残りが感じられるでしょう。そこでイメージされるものは人それぞれですが、かつて在った音の存在を強く意識する場合もあるし、逆に現在の静寂の方を強く意識する場合もあると思います。それにとって醸し出される感情は、時と場合によって様々です。そういう余韻をしみじみ味わう態度が、古の「もののあはれ」に通じます。或いは「般若心経」の「空即是色 、空即是色」の境地にも通じます。これが演劇的な幽玄です。

そう考えると響きの余韻を十分に味わうためには、テンポはなるべく遅い方(間合いが長いということ)が好ましいということが云えるかも知れません。太鼓を一度ドーンと叩くと余韻が感じられますが、太鼓をドンドンドン・・・と続けざまに叩くと余韻がけし飛んでしまうからです。能のテンポが遅いのは、余韻の表出に重きを置くせいでしょう。世阿弥の時代の能は現在より随分テンポが早かったと云われますけれど、テンポが次第に遅くなっていくことと能の様式化は、恐らくパラレルな現象なのです。テンポが遅い方が、演技を幽玄なイメージに仕立てやすいからです。

幽玄にするためにテンポを遅くすることになると、これは本末転倒なのですが、これは演劇でも音楽でも、しばしば陥りやすい落とし穴です。と云うのは、名人と云うのは大抵歳を取っているもので、歳を取ると体力の関係で誰でもテンポは次第に遅くなるものです。だから名人の演技はテンポが遅いことが多い。これを表層的に模倣すると、しだいにテンポが遅くなって行く、そういう傾向があるものです。したがって演劇でも音楽でも長い歴史を見て行くと、次第にテンポが微妙に遅くなったり・反動(揺り返し)のようにまたテンポが早くなったり、そういうことを大体四十年(二世代)サイクルくらいで繰り返すものです。

一方、先ほど「太鼓をドンドンドン・・・と続けざまに叩 くと余韻がけし飛んでしまう」と書きましたけれど、これも太鼓を打ち終えて束の間の静寂を作り出すならば、そこに響きの余韻が現出するわけで、これは手法次第であろうと思います。能における幽玄・歌舞伎 における幽玄があるのならば、太鼓における幽玄と云うものだって在って良いはずです。

ここで太鼓を幽玄の考察の引き合いに出したのは、もちろん今回(平成30年9月歌舞伎座)の、玉三郎演出の新作歌舞伎舞踊「幽玄」の主役が太鼓集団「鼓童」であるからです。と云うのは鼓童の出し物に幽玄をテーマにすると聞いて、「玉三郎もなかなか皮肉な課題を与えたものだなあ」というのが、吉之助の最初の感想だったからです。鼓童にとって、太鼓を打ち鳴らして響きで静寂を埋め尽くすのが自分たちの仕事だという感覚があると思います。「祭り」とか「再生」なんて主題だと、如何にも自分たちの領分だという気分になると思います。しかし、そこに幽玄ということを持ち出されると、彼らはちょっと戸惑うのではないか。太鼓を打ち鳴らしつつ静寂を生み出さないと「幽玄」は出て来ない。そうすると「太鼓を叩いて太鼓を叩かず」みたいな禅問答になってしまう。そのような皮肉な課題を玉三郎は鼓童に与えたと思うのですが、これは吉之助のうがち過ぎでありましょうかね。まあそのような舞台に仕上がっていたかというと、吉之助にはどうもそのようには見えなかったということも確かなのですけれども、太鼓で幽玄を表現すると云うのは、これはなかなか難しい課題ではあります。(この稿つづく)

(H30・10・5)


○平成30年9月歌舞伎座:新作歌舞伎舞踊「幽玄」・その2

現在では「幽玄」は能の根本理念だと考えられていますが、ホントにそうなのか?世阿弥の時代は東山文化の時代で、外来文化(当時の外国とは中国のことです)が尊重された時代でした。外来文化の襲来のなかで、その影響を拒否し、日本の農耕文化の美意識を主張したのが、世阿弥であったわけです。その後、江戸期の能は武家の式楽となってきます。武智鉄二は「能のなかに幽玄の理念がそれほど強固に存在したかどうか 、実は疑問だ」として、こんな例を挙げています。

『明治時代、梅若万三郎や梅若六郎(後の梅若実)という若手の人気役者が出たが、その時分の観客は、いまの歌舞伎と同じように型所へ来ると、「ヨーヨー」、「待ってました」という掛け声をかけたという。これは幽玄の理念を強制する現代の能楽が、終曲の拍手さえ禁止する態度とまるで違って いる。(中略)しかし、「天狗もの」や「鬼もの」まで拍手を厳禁するというのはまったくどうかと思う。万三郎と六郎が「蝉丸」を演じて「げに逆髪の影映る」という「一の松」での型所で、「ヨーヨー」と声をかけ、しばし拍手が鳴りやまなかったという明治期の能のあり方のほうが、健全だったように思う。とにかく、幽玄の理念が世阿弥によって能に打ち建てられたが、能に太閤能やキリシタン能という現実的な政治要素が入って来て、ひと晩に十何番もの能が演じられるようになると、幽玄の理念は置き忘れられていったとしか考えられない。』(武智鉄二:「幽玄」〜その二面性・昭和52年)

このことと併せて思い至るのは、世阿弥の有名な「風姿花伝」も世に知られるようになったのは明治42年(1909)に吉田東伍が学会に発表してからのことで、それまでは奈良金春宗家の秘伝書として伝わっていたものだったということです。世間ではその存在すら知られていなかったのです。つまり「幽玄」は能の根本理念だという考え方が世間に浸透したのは、そんなに昔のことではなかったのです。 (別稿「歌舞伎の危機的状況」で歌舞伎が伝承芸能を自認したのは大正期以後のことだと書きましたが、このことは能においても同様です。)

中世末期から安土桃山期に至って、能のなかからも幽玄という考え方はいつしか失われ、江戸期においては歌舞伎にも音楽にも幽玄の理念はない。なぜそうなったかと云うと、それは三味線楽器の出現が根本的に幽玄の理念を破壊したと武智は推測しています。では江戸期には幽玄の美意識が完全になくなったのかと云うとそうではなく、それは三味線によって崩壊したところから幽玄的なものを取り返そうという動きになって現れる。中世期の幽玄は、 江戸期には「侘び」とか「渋い」という考え方に取って代わって受け継がれる。そういう美意識が生まれたのは、派手なもの、かぶ(傾)いているものに対する民族的な抵抗みたいなものだと武智は云います。

ここまでの流れを整理すると、能のなかにも日本伝来の農耕文化の美意識を主張する幽玄の概念と、外来文化の派手なもの、かぶ(傾)いているものとの対立があった と云うことですが、江戸期の歌舞伎ではこれが、その名も示す通り、幽玄から離れる方向へ一段と傾斜するのです。これと並行した形で演劇の写実化が進行します。しかし、幽玄の美意識は「侘び」とか「渋い」という呼び方でどこかに しつこく残っているということです。

今回(平成30年9月歌舞伎座における、玉三郎による新作歌舞伎舞踊「幽玄」は、能に取材し、さらに歌舞伎に関連付ける形で構成されています。だから能にとって幽玄とは?歌舞伎にとって幽玄とは?という問いが、とても重要になります。今回の新作歌舞伎舞踊の骨格として「幽玄」のキーワードがどのように機能するかを考える為に、武智のこの考察が役に立ちます。(この稿つづく)

(H30・10・2)


○平成30年9月歌舞伎座:新作歌舞伎舞踊「幽玄」・その1

「幽玄」というのは、なかなか言葉で表現しにくい概念です。演劇的にはもちろん能の世阿弥の概念として有名ですが、もっとはるか昔から日本人の美意識とした在ったものだと考えられます。武智鉄二は、その起源を農耕民族としての日本人の精神的姿勢から来るものだとします。それに拠れば水田稲作に要する二百日余りのうち、種を播くとか・田植え・刈り取りとか云う肉体労働は実は十日そこそこの短期間で済む、あとの時間は稲の生育を見守り、雑草が生えればそれを除去し、水がなくなればただちに水を補うなどの作業で、それはいわば観察のための忍耐であり、それが精神の緊張の持続を必要とするとするのです。だから腰を入れた基本姿勢、横隔膜を下げて息を詰める、精神緊張のための技術は、農耕民族としての日本人の原初生産性から来るもので、それが日本人の幽玄性への高い評価につながって行くと云うわけです。(武智鉄二:「幽玄」〜その二面性・昭和52年)

和歌における幽玄思想を体現するものとしてよく挙げられるのは、例えば「新古今和歌集」での藤原定家の

見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮

だそうです。この歌では、まず花(桜)や紅葉の華やかな色のイメージを提出しておいて、これを「なかりけり」で否定してかき消してしまう、そして「浦の苫屋の・・」で水墨画みたいなモノクロームな印象に変えてしまう、しかし最初の色のイメージはまだ脳裏のどこかに残っていますから、それが或る余韻の感情を引き起こすということだと思います。

定家は鎌倉初期の歌人ですが、これが室町初期の世阿弥につながっていくのは、演劇運動としての幽玄思想の発現が室町期へずれこんだだけのことであって、世阿弥の能の民族的性格は疑いのないことだと武智は云っていますが、さらに面白いことを武智は指摘しています。侘びとか渋いとか云うのは幽玄的な考え方であるが、そういう美意識が生まれたのは、派手なもの、かぶいて(傾いて)いるものに対する民族的な抵抗の現われだと云うのです。(この稿つづく)

(H30・9・28)


○歌舞伎の危機的状況(?)・その5

ここまでの文章の流れからすると「今の若手は伝統を受け取る態度を正すべき」みたいな感じで本稿を締めるように見えるかも知れませんが、吉之助には別にそう云う気持ちはないです。年寄りになるとどうしても「昔は良かった、昔の良さがどんどん失われて行く、現代は駄目だ」みたいな嘆きを言いたくなる気分に陥りがちです。しかし、最近フトしたことから吉之助は、若い人に「今の世の中は駄目だ、今の若者は可哀想だ」 などと決して言ってはいけないと思うようになりました。若者の将来に夢をもたせてやらねばなりません。若者だって一生懸命生きているのだし、年寄りよりこれから生きてかなきゃならぬ時間はずっと長いわけですから、将来に希望が持てるように出来ればと思います。歌舞伎だって同じことです。

ただ一言だけ申し上げたいのは、現代に歌舞伎が置かれている状況を理念的に研ぎ澄ませることは是非していただきたいということです。多くの方(役者だけではなく劇評家・研究者もですが)が、出雲のお国のかぶき踊り以来、歌舞伎は伝統の受け渡しを続けつつ、ここまで一様な発展を遂げて来たと、伝統の流れは変わらずずっと続いているイメージを持っているように思います。歴史を見れば歌舞伎はいくつかの存亡の危機を経て・それを乗り越えて現在の歌舞伎があるのです。歌舞伎史にはいくつかの節目があり、そこに明らかな断層があるのです。江戸時代のことはちょっと置きますが、とりあえず明治36年(1903)の九代目団十郎・五代目菊五郎の死によってどの後の歌舞伎がどう変化したか(つまりほぼ大正から戦前昭和の時代)、それと昭和20年8月の敗戦により日本人の精神 状況がどう変化したか・その後の戦後昭和の歌舞伎がどう変わったかということについて、歌舞伎の方々は歴史認識を持つべきです。こういう点がいい加減に放置されたままであるから、歌舞伎の現状について正しい認識がされません。前述した通り、歌舞伎が自らを伝承芸能であると認識したのは、そんな昔のことではないのです。それは大正か昭和の初め頃のことです。この認識がないと伝統論議が始まりません。昨今は歌舞伎の新作やら異分野芸能とのコラボやら色んな試みがされていますが、方向性はバラバラです。この認識があるならば、方向性はある程度定まって来ると思いますがねえ。いつまでも「歌舞伎では何でもありです」なんて言っているようでは、庇を貸しているつもりがいつか母屋を取られます。日本の歴史が教えていることは、こういう時には縮み戦略が宜しいようです。(菅原道真の遣唐使廃止、江戸期の鎖国など)自分の足元を踏み固めることから始めてもらいたいですね。

『日本人っていうのは今までずっと、やらないよかやった方がいいという発想があるのね。つまり自分をクリエイティヴにするために何かを拒絶するという発想は非常に少ないよ。そう思わない?だからああいう風なことはやらない方がいいということの論理がしっかりしてないと思うんだな。』(谷川俊太郎:武満徹との対談:「音楽現代」1975年4月)

吉之助は、歌舞伎の若手が伝統ということを真剣に考えていないとは思っていません。型を守ろう、教えられたことをその通り勤めようと云う気持ちは、歌舞伎の世界に育った者ならばみんな強く持っているに違いない。当然、これからも歌舞伎を守っていこうという気概はあると思います。だけれども「 この時代に在って歌舞伎の伝統の何を守る、どういうスタンスで守る」ということは、明確にしておかねばなりません。 そうなれば先輩からの教え・アドバイスも、その受け取り方が変わって来るのではないでしょうか。

いつもの癖で話が観念的になりすぎたかも知れません。こういう話題は結論が出るはずもないので、ここらで終わることにいたしましょうかね。

(H30・9・24)


○歌舞伎の危機的状況(?)・その4

このように演技の段取りを「型」たらしめるものは、伝統を受け取る後輩たちの気持ちなのです。このことは別稿「型の概念の転換」で触れました。江戸の世においては、役者がどんな大胆な冒険をしたとしてもそれは歌舞伎でありました。それが型として残るか残らないかは、極端に言えば観客に受けたか受けなかったかで決まりました。「そんなことをするのは歌舞伎じゃない」という議論はあり得ませんでした。面白い・面白くないという議論はあったでしょうが。何をしたってそれは歌舞伎であったのです。 一子相伝のような考え方ももちろんありましたが、昔は父親がこう演ったからと言って何が何でも息子がその通りを演らねばならぬというものでもなかったのです。「お父さんそっくり」なんて掛け声が掛かるからその通り演っていますという程度のものであったかも知れません。良いものなら真似る、自分の仁に合わなければ別のことを工夫して演ってみるというのが型でした。

ところが明治36年九代目団十郎の死以降に「型」の概念が決定的に変わるのです。「先達から教えられた通りに神妙に勤めております」というものが「型」となるのです。歌舞伎の参考書など読むと、○○郎はこうやった、△△助はああやったということを列記しています。昔の歌舞伎には色々な型があった、しかし 近年は型がひとつかふたつに固定化してしまって残念だなんて書いてあります。これは当たり前のことで、昔は極端に云えば役者の数だけ型があったのです。そういう古い時代の「型」の概念と、九代目団十郎の死以降の新しい「型」の概念をごちゃまぜにして考えていると、九代目団十郎の死以降・つまり大正から昭和の流れのなかで、急速に型が整理されていくことの意味が分からなくなってしまいます。

「先達から教えられた通りに神妙に勤めております」というものが「型」となるということは、精神的故郷であった江戸から歌舞伎から切り離されて、歌舞伎が「伝承芸能」という性格を露わにしてきた(そうしないと変わりゆく時代から歌舞伎を守ることが出来なかった)ということを示すものです。同様なことが能狂言にも文楽にも云えます。これは同じ時期(大正から昭和)に柳田国男・折口信夫らによって「民俗学」が成立していく過程 、或いは柳宗悦の民藝運動などとまったくパラレルな現象だと考えるべきです。ですから平成の現代においては、歌舞伎役者は伝承芸能における「型」の意味をとことん研ぎ澄ませなければなりません。○○郎はこうやった、△△助はああやった、それならばこんな型があったっていいじゃんという次元ではないところで、伝承芸能としての「型」の議論をせねばなりません。

九代目団十郎の頃と平成の現代が異なるのは、九代目団十郎は確かに「俺は後世の規範となる型を残す」とか「弁慶をやるならば、この型を守ってやってくれ」とか言わなかったけれども、昭和・平成の役者たちは、先輩から「型」として固定された演技の段取りを教わり、「この型でやらなければ弁慶じゃない」という考え方を有無を云わせず叩きこまれるということです。型を型たらしめるのは伝統を受け取る後輩たちの気持ち次第だと云っても、 現代の歌舞伎役者の立場からみれば、これは確かに精神的にきついでしょう。伝統を受け取る側の自由度が極端に狭いからです。教えられた演技の段取りをただなぞらされている気分になってしまう、これは無理もないことです。

そう云う気分に陥らないためには、受け取る側は身体のなかで、「型」をそれが生成した時の状態にまで還元せねばなりません。そして型の創造のプロセスを追体験せねばなりません。こうすれば「型」はお仕着せではなく、彼の血肉となります。 そうなれば伝統ほど強いものはない。ここで「型とは形じゃないよ、心だよ」というお決まりの文句になるわけですが 、これが結局正しいのです。しかし、これが一番難しいことでもあるのですがね。(この稿つづく)

(H30・9・19)


○歌舞伎の危機的状況(?)・その3

実は吉之助は、伝統という観点からは先輩のことよりも、伝統を受け取る側(後輩)の問題の方が重いと考えています。

先日、市川団十郎家の芸についてお話しをする機会があったのですが、調べていて改めて感じたことは、団十郎家が神格化されていくのはもちろん代々の団十郎の芸・業績が優れていたということもありますが、後世の民衆(歌舞伎関係者・観客も含む)が市川家の存在を特別なものと思い、その記憶を持ち上げたところから起きたと云うことです。例えば「劇聖」と呼ばれる九代目団十郎の件ですが、九代目団十郎は、「勧進帳」でも「熊谷陣屋」でも、やる度にどこかを変えて演じたと云われています。現在我々が九代目の型だと言って有難がっているものは、九代目が演じた弁慶や熊谷直実の、最後 の舞台で演じた演技の手順・段取りのことを指しています。ここで疑って掛れば、もしかしたら最後の型より も・もっと良いものが過去の九代目の型のなかにあったかも知れないと考えることもできます。文献に残ってないから・我々が知らないだけかも知れません。あるいはもう何年か九代目が長生きしてさらにもう一回弁慶を演じてたならば、そっちの型が残って、今我々が記憶している型は消えていたと考えることも出来ます。実はそういうことを考えることは「型」の意味を考える場合には意味がないのです。型の懐疑論としてなら意味はありますがね。

九代目団十郎は「俺は後世の規範となる型を残す」とか、「弁慶をやるならば、この型を守ってやってくれ」とか言ったことは決してなかったと云うことです。九代目がやった通りにやらなければ弁慶じゃないと云う風にしたのは、九代目に続いた後輩たちでした。九代目を劇聖として神格化したのは、九代目本人ではない。それをしたのは、七代目幸四郎や十五代目羽左衛門・六代目菊五郎・初代吉右衛門と云った後輩たちでした。

つまり伝統という観点からは、次のことが言えます。役の解釈・演技の手順は最初から「型」として生まれ、守るべき規範として次代に手渡されると云うことは決してないのです。これを受け継ぐ者(後輩)がこれを守るべき大切なものだと認めて、同じように勤めようと心掛けるから、それが次第に「型」になって定着して行くのです。このサイクルが世代を越えて延々を続いていくところから、歌舞伎の伝統が生まれるのです。皮肉なことを云えば、「これが九代目の型でございます・九代目の通りに勤めております」と九代目を持ち上げていれば、何だか九代目と同じになったような気分になる、観客もそう云うのを有難がるということでもある。団十郎家の神格化のプロセスは、それです。

ですから歌舞伎の危機的状況について考える時に一番大事なことは、伝統を受け取る側(後輩)の意識ということです。玉三郎の発言に対して、若手役者たちはどういうことを感じているのか知りたいなあと吉之助が思うのは、そこのところです。(この稿つづく)

(H30・9・14)


○歌舞伎の危機的状況(?)・その2

歌舞伎の危機的状況について、伝統を伝える側(先輩)の問題としてこれを考えてみることにします。定高、阿古屋、政岡など、玉三郎以外に伝えられる者がいなくなっていると云うのはその通りだと思いますが、例えば政岡についてみれば、玉三郎に続いて歌舞伎の立女形を支えるべき世代(と云っても玉三郎とは5・6歳しか歳が違わないのですが)、 本興行では、時蔵は本年4月歌舞伎座で政岡を演じたのが初役で、雀右衛門はまだ政岡を演じたことがないのです。伝承のことを考えると、これは大変にまずい事態です。(共に沖の井、松島では何度も「先代萩」に出ているから、政岡の手順は承知しているとは思います。)こういうのは 興行の都合や巡り合わせがあるから仕方ないところはありますが、本来は彼らにもっと早く政岡を演じる機会を与えてやりたかった気がしますねえ。

玉三郎は実力があったと云うこともありますが、結構早い時期(平成7年10月歌舞伎座、45歳)に政岡を演じているので、この点では玉三郎は恵まれていたわけです。六代目歌右衛門も15歳から21歳くらいまで(昭和の初めごろ)新宿の新歌舞伎座での青年歌舞伎で、その後の当たり役のほとんどの役を初役で経験しています。これは父である五代目歌右衛門(当時俳優協会会長)の指導によるものでしたが、これが後に歌右衛門が天下を取ることにつながっています。やはり見るよりも聞くよりも、実際に演じてみるのが一番強いのです。

ですから伝承芸能ということを考えると、ある程度のサイクルを以てこの演目は繰り返し上演しておきたいとか、そろそろこの大役は誰其れに経験させておきたいとか、若手歌舞伎の機会を増やすとか(正月の浅草歌舞伎はあるけれどもそれ以外にも)、意識的にそう云う伝承プログラムを頭の片隅に置きながら演目建てをしていくことが必要になってくると思いますねえ。伝承では演じさせることが大事なのです。まあ実際問題としてそれをやろうとしても興行上難しいことが多いであろうことは容易に想像が出来ますが、現在の歌舞伎の危機的状況は 、ここ40年間にこうした努力をして来なかったツケが回って来たとも云えるわけです。(この稿つづく)

(H30・9・11)


○歌舞伎の危機的状況(?)・その1

少し前(平成30年6月28日)のことですが、玉三郎が本年10月末に熊本・八千代座で催される「映像x舞踊公演」について都内で記者会見を行い、そのなかで八千代座公演を2020年で30周年になるのを区切りに打ちきりにするつもりだと明らかにして、「八千代座に限らず、私ができるのもあと数年でしょう。みっともない形では出ていきたくない。脇(役)は別ですが、その覚悟で挑みます」とまで発言したそうです。これは随分思い切った発言でちょっとびっくりするところがあるのだけれど、さらに玉三郎は歌舞伎の危機的状況ということにまで言及したそうです。その要旨は次のようなものです。

『若い人が勉強会など稽古する時に、教えてもらう先輩が減ってしまった。若い方が大局の意味を理解せず、本意が伝わらないものになるのが心配である。定高、阿古屋、政岡など、私(玉三郎)以外に伝えられる者がいなくなっている。映像は発達したけれど、どう伝えるかが大変な問題。今、私が話しておかないと分からなくなってしまう。そういう意味では層が薄くなった。気楽にやるものではないし、危機的状況かも知れない。』

吉之助が歌舞伎を見始めた昭和50年代(1975年頃)には、六代目歌右衛門や十七代目勘三郎はまだまだ元気でしたけれども、映画やテレビやその他の娯楽に押されて歌舞伎座の客席がガラガラの時代でした。竹本や三階の不足はその頃から云われていましたし、吉之助も「二十一世紀に入る頃には多分歌舞伎は興行的に駄目になってるだろう、だから今のうちに歌右衛門や勘三郎の芸を目に焼き付けておこう」と思って必死に舞台を見たものでした。あれから四十数年が経って、歌舞伎は依然として興行的に成り立っています。あの頃の若手花形が今の幹部役者たちです。現在の状況は彼らが頑張って来た成果であるとも言えます。(あるいは歌右衛門他昭和の大幹部たちが頑張って芸を次世代に渡した結果であるとも云えるかも知れません。)

あの頃のことを思えば吉之助は現在の歌舞伎座の盛況ぶりは信じられない気がしますが、たまに(しばしばと云うほど多くはないけれども)特に義太夫狂言や黙阿弥物において若手役者の舞台を見ていて首筋に寒い風が吹くような気分になることはあります。危機的状況がひたひた と確実に近づいていたことにふと気付いた瞬間です。実際には歌舞伎の危機的状況は潜在的にずっと続いていたわけで、我々は客席の埋まり具合だけ見てそのことを考えないでいた(問題から目を背けていた)ということなのです。だから玉三郎が歌舞伎の危機的状況という発言に「ああ確かにそうだねえ」と肯かされると同時に、遂に現場からそういう発言が出始めたかと云う思いがします。

ただ最近数年の玉三郎の活動を見ていると、(恐らくご本人の体力的な問題が関係しているのだろうが)徐々に歌舞伎から距離を置き始めたように感じることが多々あります。それと今回の玉三郎の「歌舞伎の危機」発言との関連はどうなのかと思うところがあるので、もう少し深く玉三郎の真意を聞いてみたいと思うのです。最近NHKとタイアップして「伝心〜玉三郎かぶき女形考」という番組を制作して、玉三郎が伝えたい役の「技」と「心」を映像を交えて伝える試みもしています(現時点では「娘道成寺」と「阿古屋」の2回が放送済み)が、これが玉三郎の「次世代への伝言」と云う意図もあるのでしょう。

もうひとつ気になるのは、この玉三郎発言を聞いて若手役者たちはどういうことを感じているのだろうか。その辺を知りたいのですが、あれから約2ヶ月が経ちましたが、それらしい反応が何か報道されているのでしょうかね。

まあそれらのことはちょっと置くとして、玉三郎が歌舞伎の危機的状況で提起する問題は実はふたつあって、ひとつは「伝統を伝える側(先輩)」の問題、もうひとつは「伝統を受け取る側(後輩)」の問題ということになるかと思います。(この稿つづく)

(H30・9・8)


○平成30年8月歌舞伎座:「盟三五大切」・その4

凄惨な大量殺人を犯した源五兵衛が結局仇討ちの仲間に迎え入れられるのは、源五兵衛(=数右衛門)が仇討ちに参加する気持ち(つまり忠義の気持ち)を最後まで捨てなかったことを由良助が認めたと云うこと だろうと思います。幸四郎の白塗りの源五兵衛は、女狂いの放埓の時もどこかに仇討ちのことが頭の片隅にあって決して楽しめないと云う風に見えました。「今の自分は決して本来の自分ではない」という気分がそこにあるわけです。つまり源五兵衛のなか の忠義の心を認めたからこそ、由良助は最後に数右衛門を迎え入れたのです。このロジックを素直に認めたくない方は少なくないと思いますが、大量殺人の件は死んでいく三五郎が引き受けたことで、もはや源五兵衛の罪ではなくなってい ます。「五大力」の世界の惨劇は降りしきる雪に浄められて、この後に忠義の御旗が高く掲げられます。「武士たる者こうあるべし」、「忠義たる者こうあるべし」と云うのは、確かに建前のことかも知れません。しかし、これらは否定されるべきものとは吉之助は思いませんねえ。昔も今も程度はともあれ、人間誰でも社会に生きるなかでは何らかの建前を背負いつつ苦しみながら生きているのです。その時に「生とは何か、人が生きることとはどういうことか」ということが香辛料のように胸にツーンと来ます。この俺もそんな世界に生きているのだと、「盟」の幕切れは、そのようでありたいですね。

幸四郎の源五衛門以外の役にも触れておきます。獅童の三五郎は仁の役であるし、なかなか好演していますが、時に様式っぽく・つまり時代っぽく見える場面があります。これはもっとバラ描きに持って行った方がよろしいでしょう。三五郎は数右衛門を世話の方に・つまり「五大力」の世界の方へ強く引っ張る役なのですから、演技はもっと生世話を意識した方が良いのです。しかし、幕切れの出刃を腹に突きた懺悔の述懐はよく出来ました。

七之助の小万は、夫の忠義の為に身を捧げる健気な女房だとすればそんなものかも知れません。これは昭和51年国立小劇場での玉三郎もそんな感じがしましたが、色仕掛けで数右衛門を騙すのが申し訳ない気持ちがどこかにあるように見えました。しかし、貞女 のイメージばかりでは、「盟」のドラマに小万が積極的に関与しない印象になります。小万は周囲から「妲己の小万」(妲己とは男をたらし込む毒婦という意味です)と呼ばれる女なのですから、小万はそれが夫の為とか忠義とか云うことは別にしても、色に掛けて金づるになる男からいくらかでも金を巻き上げようというしたたかさ・図太さがもっと欲しいところです。それがないと数右衛門が色に迷わないでしょう。しかし、大詰め・四谷鬼横町での、赤子と共に殺される哀切さはよく出来ました。

家主弥助は初演では五代目幸四郎が兼ねた役で、本来は数右衛門役者が兼ねるところに安手な面白さが出るわけです。弥助一役だけだと、これだけで滑稽で笑わせようと云うことになるので難しくなるでしょう。中車の弥助は頑張っているけれども、生世話の 軽妙さを出すというところにまでは行っていないようでした。

別稿「南北の感触を探して」のなかで、吉之助 の「南北ものは、ベテランが演じるよりも、歌舞伎らしさにべったり染まっていない若手が演じる方が面白い」という仮説を紹介しました。平成26年2月歌舞伎座での「心謎解色糸」の時は、若手が演じていながら、何だか感触が黙阿弥っぽく伸びた感じで、最近の若手は妙に老成してるなあ・・と嘆息してしまう出来でした 。しかし、今回の「盟」は素直な出来でなかなか面白く、どうやら仮説通りの出来となったようです。ひとつには「盟」は二番目狂言で脚本が程よい長さで密度が高く、場面をさほど刈り込まなくてもほぼそのまま上演できたせいだろうと思います。だから南北の意図があまり歪められていないのです。幸四郎以下全員台詞を七五に割る風 もそれほど強くなく、南北の台詞がテンポ良く素直に流れる感じがしました。 いわゆる歌舞伎らしさにべったり染まっていないことが、良い方向に作用しています。テンポが早ければ台詞がそれで生世話になるわけではないですが、 ちょっと棒にしゃべった方がいくらかバラ描きの感触に近くなると云うことなのです。

(H30・9・6)


○平成30年8月歌舞伎座:「盟三五大切」・その3

今回(平成30年8月歌舞伎座)の「盟」が良かったのは、「五大力」の世界の小万の縁切りを発端とした源五兵衛の凄惨な殺しが幕切れに至って「忠臣蔵」の世界へ収斂(しゅうれん)されていく劇的構造をしっかりと示すことが出来たことです。これは前述した通り、縁切りされた後の源五兵衛の虚無の心情を幸四郎がよく表現できているからですが、もうひとつは「こりゃこうのうては叶うまい」という台詞をカットしてしまわずに、実感を以て言えたという点にあります。

真相を知って自ら腹を切る三五郎に対して「こりゃこうのうては叶うまい」と言う源五兵衛の台詞について、源五兵衛が「主人を騙した不忠の家来など腹を切って当然だ」と切り捨てている、実に許し難い台詞であるということを言う方が結構いらっしゃいますねえ。しかし、その前後の源五兵衛の台詞をよくお読みいただきたいと思います。順番に抜き出してみるとこうなります。

○『(小万の首を抱きかかえて)堪えてくれよ、誤った。其方ばかりか水子まで、其方が見る前あのしだら。殊に連れ添う三五郎、身どもへ忠義を却って恨み、今更思えば恥ずかしい。いかなる過去の悪縁にて、実義(じつぎ)の夫婦、幼な子まで、あの有り様は何事ぞ。これみな武士のあるまじき、女に迷いし白痴(たわけ)ゆえ。その言い訳には腹切るぞ』

源五兵衛は腹切ろうとするも了心に止められ、両者揉み合ううち、桶のなかから出刃にて腹を切った三五郎が転げ出る。

○『(腹を切った三五郎を見て)こりゃこうのうては叶うまい

○『(腹切った三五郎の懺悔の述懐を聞き)その志しあるならば、死ぬに及ばぬものなるを、あったら若者見殺しに・・』

この流れを見れば、源五兵衛が「主人を騙した三五郎など腹を切って当然だ」と切り捨てているのでないことは一目瞭然ではないでしょうか。それでは源五兵衛はどういうつもりでこの台詞を云ったのでしょうか。源五兵衛は、三五郎を忠義の家来だと認めています。忠義の家来が知らぬこととは云いながら主人を騙してしまったと知ったならば、もはや生きてはいられまい。すぐさま彼は腹を切るであろう。三五郎が腹を切るのも彼が忠義であればこそ。真相を知った三五郎がそうせざるを得なかったことを俺は心底理解するぞ、忠義の家来とはそういうものだと、源五兵衛は心に深く感じ入っているのです。ここでは源五兵衛は完全に元の数右衛門の人格に却っています。逆に云えばこのことは、三五郎が腹を切った今、主人たる源五兵衛(=数右衛門)にとっても、家来の忠義にどう応えるか、「こりゃこうのうては叶うまい」と云える行動が 求められるのです。もちろん源五兵衛は、そのことを心底分かっています。だから「こりゃこうのうては叶うまい」と云う台詞は、封建論理に生きる男たちに突き付けられた非常に厳しい呻きのようなものです。歌舞伎のドラマは、みんな「武士たる者こうあるべし」、「男たる者こうあるべし」と云うドラマなのではありませんか。

源五兵衛は残忍非道な殺しを犯して塩治浪士の名を汚したわけですから、源五兵衛も一緒に腹切って死んでしまうという選択肢もあると思います。しかし、これについてはこの後、三五郎が「あなたの多くの人殺し、それもこの身に引き受けて、旦那は永らえ敵討ち・・』と頼んでいます。三五郎にこう言われてしまえば 、源五兵衛はもう死ぬわけに行きません。三五郎夫婦は主人数右衛門に忠義を行うつもりであった(実際には惨劇を呼ぶ結果となってしまいましたが)のだから、三五郎・小万夫婦の気持ちを無にしない為に、源五兵衛は大星由良助と共に高師直館へ討ち入りして立派にその名を挙げねばなりません。それが夫婦への供養にもなるのです。こうして「五大力」の世界が「忠臣蔵」の世界へ一気に転換してしまいます。このような見事なドンデン返しがあったかと驚いてしまいます。後から振り返ってみれば、「忠臣蔵」のなかで数右衛門は四十七士の一人に数えられるべき人物ですから、この幕切れによって源五兵衛は「かく在るべしと云う位置に収まるわけです。「五大力」の世界で彷徨っていた「忠臣蔵」の登場人物が再び元の世界へ戻ったのです。

今回の幸四郎の源五兵衛が良かったのは、このような「忠臣蔵」への世界転換を 正しく描き出すことができたからです。これならば源五兵衛を白塗りにしたことの意義は十分にあったと云うべきです。この稿つづく)

(H30・9・2)


○平成30年8月歌舞伎座:「盟三五大切」・その2

「五大力」の世界から発する源五兵衛は薩摩武士です。当時の江戸の人々から九州武士は田舎武士・野暮の典型と見なされていました。だから本来粋を解さないイメージの田舎武士が深川芸者に入れ込むミスマッチの面白さが源五兵衛という人物を考える時の第1のポイントです。一方、「忠臣蔵」の世界から発する数右衛門は、塩治義士四十七人のなかで無骨者・粗忽者とされている人物です。これが第2のポイントです。ですから南北が「五大力」の世界を「忠臣蔵」の世界に綯い交ぜした時、薩摩源五兵衛実は不破数右衛門としたのはまったく無理のない発想です。野暮な無骨者と云うのが「盟」の源五兵衛の性根になって来るわけです。ここからは白塗りの源五兵衛のイメージは浮かんできません。「盟」初演時の源五兵衛を演じたのは、実悪の名人と云われた五代目幸四郎でした。この時の五代目幸四郎は四谷鬼横町の場で家主弥助も兼ねましたから、源五兵衛の化粧は薄肉であったことが明らかです。

歌舞伎で昭和51年8月国立劇場で再演されて以降、「盟」の上演頻度は高くはありませんが、源五兵衛は白塗りで演じられることが多かったようです。例えば平成20年11月歌舞伎座での仁左衛門の時がそうであったし、今回(平成30年8月歌舞伎座)の幸四郎の源五兵衛も白塗りです。白塗りであると、源五兵衛は色男・モテ男になってしまいます。粋も洒落っ気も解する男になってしまいます。仁左衛門も幸四郎も弥助を兼ねてはいないし、吉之助は別に源五兵衛は薄肉であるべしと言い張るつもりはないですが、歌舞伎では顔の色を変えることは役の性根を変えることを意味するのですから、もし 本来薄肉であるのを敢えて白塗りに変えるならば、源五兵衛の性根を色男としてどう捉え直し、それで「盟」の新たな意味を見出すことが出来たかどうかというところを問いたいと思います。仁左衛門の場合は源五兵衛がフニャとした柔い性格になり、さらに大詰めの「こりゃこうのうては叶うまい」という核心の台詞をカットしてしまった為、幕切れがまったく締まらない出来になってしまいました。人の良い男が女に狂って騙されて怒り狂ったあげくの「愛の悲劇」と云うところでしょうかね。これでは南北が最後を討ち入り出立の場面にして「忠臣蔵」の世界に返したことの意味がまったく見い出せないことになります。

幸四郎ならば白塗りが似合うのは当然として、源五兵衛が仁左衛門の時のような柔い出来になってしまうことを危惧しましたが、幸いこれは杞憂に終わりました。幸四郎の源五兵衛は、特に縁切りされた後の怒りの感情の表出がよく出来ました。熱くカッカと身体を震わせてストレートに怒るのではなく(薄肉の源五兵衛ならばそうなるでしょう)、底知れぬ虚無の闇に引きずり込むような、冷たく静かな怒りを感じさせます。ここで白塗りの幸四郎の横顔がよく映えま した。低く抑えた凄みのある口調もなかなか宜しい。この後半の源五兵衛の演技を高く評価したいと思いますが、翻って前半を見ると、虚無の闇が前半後半を通じて源五兵衛の心を深く支配していることが分かって、これが非常に興味深いところです。恐らく幸四郎の源五兵衛については、前半の演技に於いて小万への思いを断ち難い執着の強さがいささか弱いという批判が出ることでしょう。これは源五兵衛を白塗りの色男にしてしまったから、そのように見えてしまうのも無理ないところかと思います。しかし、後半から翻って前半を見直せば、幸四郎の白塗りの源五兵衛はちょっと捻ったプロセスで源五兵衛の本質を鋭く突いていたことが分かってきます。

源五兵衛は小万という女を深く愛していることは明白ですが、その愛に完全に浸り切ることは決して出来ないのです。それは源五兵衛の心の片隅に討ち入りのことが常に在るからです。源五兵衛は決して討ち入りの使命を忘れてはいません。だから小万を愛していても、どこか虚ろな気分になってしまう。かと云って討ち入りの為に愛を諦めてしまうということも、決して出来ないのです。なお源五兵衛のなかに「今はこの愛に浸っていたい」という思いが強い。小万への愛があるからこそ、源五兵衛は由良助の決断(討ち入りの決行)を待ち続けることが出来るのです。源五兵衛の気分は、そのようなとても中途半端で、あやふやで、とても危険な状態にあります。それでも源五兵衛はかろうじて精神のバランスを保っていたのですが、一旦このバランスが崩れてしまうと源五兵衛はもう平静を保つことが出来ません。三五郎・小万夫婦の騙されてこの愛を失ったと知った時、この時点では討ち入りは依然決行されるかどうか全く分からない状況ですから、源五兵衛はもうとても当てのない討ち入りを待ち続けることが出来ません。源五兵衛はもはや二つとも失ってしまった気分なのです。そこから源五兵衛の凄惨な殺しが始まります。この稿つづく)

(H30・8・31)


○平成30年8月歌舞伎座:「盟三五大切」・その1

「盟三五大切」は文政8年(1825)9月25日江戸中村座での初演。これより2か月前、中村座では「東海道四谷怪談」が初演されて二か月続きの大当たりでした。「盟」を同じく忠臣蔵の世界に取りさらに四谷怪談後日談としたのは、前作の大当たりの余勢を買おうということでした。しかし、「続歌舞伎年代記」に「四谷怪談より続きたる趣向近年になくおもしろき作なれども入りかひなく10月14日舞納なり」とあ る通り、興行は早めに打ち切られました。作品の評価は高かったのですが、お客の入りが非常に悪かったのです。これは前作でお岩を演じた人気役者・三代目菊五郎が大宰府参詣に出立というので退座して「盟」には出ていなかったとか、11月顔見世興行の前月なのでもともと条件が悪かったとか理由はいろいろ考えられるにしても、源五兵衛の殺しがあまりに凄惨に過ぎて観客にとっては気が悪過ぎたというのがやはり一番大きな要因であったと思わざるを得ません。

残忍な殺人を犯した源五兵衛・実は不破数右衛門が、仲間の迎えを受けて高家討ち入りに出立してしまう幕切れをどう見るかというところが、本作評価の分かれ目になると思います。源五兵衛は破滅するどころか、最後に塩治義士として讃えられる身になってしまいます。この点については別稿「世界とは何か」で詳しく論じたのでそちらをお読みいただきたいので、ここでは結論だけ繰り返しますが、要するに「仮名手本忠臣蔵」も「四谷怪談」も「盟」も、同じ「忠臣蔵」の世界の枠組みのなかで仕組まれているのですから、どちらも共通した視点で読まなければならないということです。江戸時代の人々にとって「忠孝」と云うのは、それが無くなってしまったらもはや「人」ではないと云うほど、封建倫理道徳の根本にあるもので した。忠義に対する疑いはそこに微塵もないのです。だから忠義を貫くために人はどう生きなければならないか、どう在らねばならないかということを問題にせねばなりません。忠義であり続けるために、言い換えれば人が「人」であり続けるために、人はどれほど無理をし苦労をし我慢をしなければならないかということです。時には忠義を貫くために心ならずも悪事に手を染めてしまうことだってあるかも知れません。忠義のためにとことん堕ちてしまうことだってあるのです。そこにそれぞれの生き様があるのです。良い悪いではなく、それがその人の有り様だと云うことのみです。 戯作者南北が描いているものは、そういうものです。南北は、生の実相を冷酷なほど冷静に見つめています。ですから「四谷怪談」や「盟」で問われていることとは、「生とは何か、人が生きることとはどういうことか」ということなのです。そのように「四谷怪談」や「盟」を読んでみては如何でしょうか。

源五兵衛(数右衛門)の女狂いは、同じ時期の山科に在る由良助の放埓と同じく、計略から始まったものか・本心から始まったものか、どちらか分かりません。さらに源五兵衛の場合には、由良助の 本心が読めないという事情が加わります。由良助が本当に仇討ちをする気があるのかないのか、周囲の誰もが疑っていました。或る者は由良助の放埓に怒って去って行き、或る者は貧苦にあえいだあげくやはり仇討ちの仲間から去って行きます。そこに人それぞれの生き様があります。(それぞれのレベルに於いてと云うことではあるが)みんな必死で生きようとしているのです。源五兵衛の心の闇も、いつまで仇討ちの決行を待っていれば良いか分からない、宙ぶらりん状態がいつまで続くのかと云う苛立ちから来るものです。源五兵衛がそのような苛立ちを忘れられるのは、ただ小万と一緒の時だけでした。源五兵衛が心底小万を愛していたことは疑いありません。そこに源五兵衛の真実があるわけですが、そのような心の闇を三五郎と小万の夫婦に付け込まれたのです。だからこそ源五兵衛の怒りは一層暗く救いようの無いものになります。この稿つづく)

(H30・8・29)


〇十八代目勘三郎七回忌

十八代目勘三郎が亡くなったのは平成24年(2012)12月5日のことで、享年57歳でした。本年(平成30年)10月歌舞伎座は、勘三郎の「七回忌追善」興行と云うこと だそうです。もうそんなに歳月が流れましたか、月日が経つのは早いものだと感じます。演目の方は「どういう理由でこれが追善に選ばれたのかな?」と思うものもありますけど、それぞれ二人の遺児(六代目勘九郎、二代目七之助)が重要な役どころを一生懸命勤めるということですから、いい追善興行にしてもらいたいと思います。

テレビで「中村勘三郎・芸の神髄」と云う七回忌特番を放送していたのでそれを見たのですが、何をやってもエネルギッシュで熱くて真剣で、決して力を抜くことのなかった役者でした。このオーラで周囲を巻き込んで、一大歌舞伎ムーヴメントを巻き起こしていたわけです。21世紀に入ってからの約十年間の歌舞伎は、確かに勘三郎を中心に動いていたと思います。「次は勘三郎は何をやるつもりか」という興味と期待がありました。いい役者・上手い役者はこれからも出るだろうけれど、時代と密着してこれだけ熱い流れを作り出せる役者はもう再び出るかどうか分かりません。今生きていれば63歳になるわけですが、歌舞伎はどんなことになってたか、失われた穴がとてつもなく大きいことに改めて愕然とする思いです。

吉之助は勘三郎と同世代で、仕事で神経をすり減らして身体を壊した経験があるので、勘三郎の八面六臂振りには舞台を見ていて勘三郎が感じているストレスの強さが思いやられて、「あまり無理をするな、もう少し抑えるくらいでちょうどいいんだ」と言いたいことが多く、それだけに勘三郎が倒れた時には非常に悔しい気がしたものでした。多分止めても聞かなかったと思いますが、誰か止めて欲しかったなあと今でも思います。だから吉之助は勘三郎の死は同期の戦死だと思っていますが、特番でのいくつか映像を改めて見ても、当時見た時の印象が確認できます。テンション が高くて勢いに任せるところがあって、そこが勘三郎の魅力だということはよく分かったうえで言うのだが、もう少し余裕が欲しい感じがします。ホントはもう少し理性のコントロールが付いた方が良いのです。長く続けていくためには、いつも目一杯の芸というのが良いわけでは決してないです。しかも勘三郎の場合は、古典歌舞伎からコクーン歌舞伎・新作歌舞伎まで活動の幅が広過ぎた。しかし、そのことも含めて勘三郎はこの時期でなくては出来ない全力の芸を見せてくれたことを、吉之助は認めたいと思います。それにしても強烈に印象に残る役者でしたねえ。

六十代に入った勘三郎は、どんな芸の境地を見せてくれたでしょうか。今となってはこれは想像するしかないことですが、さすがの勘三郎も「この歳になったらやっぱ疲れるね、これからは抑えた演技をしなきゃちょっと持たないな」などと言ってるのではないか。そのようなちょっと芸が枯れを見せ始めたところの勘三郎の舞台が見られないことを寂しく思います。

山本吉之助:「十八代目中村勘三郎の芸

(H30・8・20)


○平成30年7月歌舞伎座:「源氏物語」・その9

本稿冒頭で触れた通り、戦後昭和に至るまで歌舞伎は「源氏」とは疎遠でした。その理由のひとつは、歌舞伎の表現では源氏の色好みの性格を十分に描けなかったことにあると思います。源氏を具体的な形で舞台に現出しようとすると、どうしても何かとりこぼしてしまう。江戸の戯作者或いは役者は彼らの鋭い「勘」でこのことに気付いて意識的に「源氏」という題材を避けたように思われるのです。歌舞伎が源氏を描こうとすると、田舎源氏の光氏のように、二元構図で「引き裂かれた」性格の源氏になってしまいます。それは歌舞伎がバロック的な性格を持つ演劇であるからです。(バロックの概念については別稿「かぶき的心情とバロック」をご覧ください。)

今回(平成30年7月歌舞伎座)の「源氏」での、「源氏が光と闇のなかに生きている」という解釈は、歌舞伎らしい解釈で興味深いものがあります。しかし、言葉尻りを捕えるようで申し訳ないですが、「闇」と云うと邪悪な(evil)・悪魔的な(demonic)な語感がしますねえ。これはバロック・オペラが挿入されて、カトリック的な倫理感覚が入り込んでいるせいもあると思います。「闇」では源氏の性格にマッチしないと思います。源氏に本来そのような邪悪な性格はないのです。光と闇のせめぎ合いのなかで闇に堕ちていくなんてことはありません。また舞台で海老蔵の源氏が描こうとしているものも、そのようなものではないと思います。ここは「陰」と呼ぶべきでしょう。その方が語感がぴったり来ます。

源氏の性格はニュートラルなものです。源氏は自分が放つ光について関与しません。自分が放った光がどこかに陰を作り出すなんてことは、夢にも考えていない。光が反射する明るい部分、或いは光が作り出した陰の暗い部分に感応して、源氏はユラユラ揺れます。光の君であっても、人間世界のなかではいろんな卑俗なものに振り回されます。そんななかで源氏は人に疎まれたり、惑わされたり、間違いを犯したり して、絶えず揺れていますが、そのような源氏の揺れる有り様が「あはれ」を現出するというのが、宣長の「もののあはれ」論です。このような宣長の見方は、反バロック的なものだと云えると思います。(言い換えるならば新古典的なのです。)歌舞伎のバロックとは方向が正反対になりますが、これも江戸的な感性の両極を見せているものです。

ですから「源氏が光と陰のなかに生きている」と云うのならば吉之助は納得しますけれども、それでも歌舞伎のなかで源氏を描こうとすると何かを取りこぼすと云うパラドックスのなかに、再び入り込んでしまうかも知れません。このパラドックスは 源氏にどうしてもつきまとうものだと思いますが、歌舞伎が志向するものは具象性なのですから、歌舞伎で「源氏」を取り上げる意義は、やはり人間・源氏の「実」を描くことでなければならないと思います。

ここで折口が十一代目団十郎に言った「海老蔵君が持っている天子に対する想像をば、舞台の上で彫刻する他ない」というアドバイスをもう一度思い返してみたいのです。昭和26年の十一代目団十郎の「舟橋源氏」の成功は、人間宣言によって天皇が庶民の近くに下りて来て、これでやっと源氏の「実」が描ける時が来たという確信が(興行側にも世間にも)あったからこそ成ったのです。ホントに源氏の「実」が正しく描けたかどうかは分かりません。多分それはなかなか難しかったと思いますが、当時の雰囲気としては「それが出来る時が来た」という確信と云うか期待があった。だからこそ、松竹も役者もこの思い切ったプロジェクトに乗れたということで す。十一代目団十郎が描こうと努めたものは、そのような人間・源氏であったと思います。このことを現・十一代目海老蔵もちょっと頭に入れておいて欲しいと思います。

世の中も変わって、天皇と庶民との関係も変わって来た平成30年の現在において、我々は同じような確信が持てるでしょうか。これはなかなか難しい問いだと思いますが、海老蔵も海老蔵なりの勘で以て平成の天子の「実」を彫刻してもらわねばなりません。そのためには、源氏のニュートラルな性格、ユラユラ揺れるけれども決して堕ちることがな く、神に近づこうと常に向上を目指す、確固とした芯を持った性格、そのような人間・源氏の「実」を描き出すしかないのです。今回の「源氏」では、海老蔵は人間・源氏を描くことは音楽に任せようと云う考え方だったと思います。こうならざるを得ない事情を吉之助を理解はしますが、総合伝統芸能ショーならばこれでも良いでしょう。しかし、歌舞伎が主体的に芯を取って「源氏」を芝居にしようと云うのであれば、やはり源氏の「実」を描くことに努力してもらわねばならぬと思います。

(H30・8・18)


○平成30年7月歌舞伎座:「源氏物語」・その8

平安の時代から「源氏」は民衆に愛好されて来ましたが、一方で僧侶などお堅い方面では「男女の色恋や不倫関係を描いて、道徳的に見てまことに怪しからん物語である」という声が根強くあったわけです。江戸期には「色好み」に漢語の「好色」が当てられて、儒学者は源氏のことを好色で不道徳な人物だと非難しました。本居宣長は「物語とは、人の情のありのままを書き記し、読む人に人の情とはこういうものだと分からせるもので、それが「もののあはれ」ということだ」と反論しましたけれど、当時は「源氏」を「色好み=好色」の構図で割り切る読み方の方がはるかに多かったのです。まあ一般にはその方が源氏の理解がしやすかっただろうと思います。

このように、モラル(道徳)とインモラル(不道徳)の狭間で引き裂かれる、抑えても抑さえきれない思いに流されてしまうと云う風に、「源氏」を二元構図で読むのは、或る意味でとても江戸的な感性だと云えます。同時にこれはかぶき的な感性でもあります。歌舞伎のドラマは、どれも最大限に生きようとして死す、或いは義理と人情の柵でもがき苦しむと云う引き裂かれた感情のドラマばかりなのです。

例えば幕末の柳亭種彦の合巻「偐紫田舎源氏」は、「源氏」を室町時代の「東山の世界」に仮託した御家騒動物です。将軍足利義政の妾腹の子・光氏(みつうじ)は、将軍の地位を狙う山名宗全を抑さえるために、好色遍歴を装いながら、政争で紛失してしまった足利家の重宝の行方を探し求めます。だから光氏の女性遍歴は生来の好色な性格に拠るのではなく、お家再興という目的があるからやむにやまれずやっていることです。「好色」のインモラル(不道徳)な要素がそこに強く意識されています。「不道徳であることは分かっているが、やりたくてやっているわけじゃない、正義のためにやっていることなんだ」という申し訳の下で、光氏はモラルとインモラルとの間に引き裂かれているのです。だから余計に淫靡なお愉しみが増すということでもあります。 だから光氏の女性遍歴は、あまりに江戸的な、そしてあまりに歌舞伎的な「源氏」の受容であるのです。この読み方では源氏の本質的なところを取りこぼしてしまうと云うことは前述した通りですが、江戸期の歌舞伎が「源氏」を描こうとすれば、結局、この方法しか手はなかったと云うことです。

余談になりますが、宣長の「もののあはれ」論も、「源氏」の物語をありのままに虚心に読むべきだということを繰り返し主張しているわけですが、裏返せば背後にインモラル(不道徳)な要素が強く意識されているからなので、これを雑念として排除しようとストイックに努めていると云うことなのです。だから 方法論は異なるけれども、宣長の「もののあはれ」論も、まったく江戸的な感性の所産だということです。

ところで「源氏」と云うと、観客はどうしても絵面の色模様を期待してしまうものです。しかし、今回(平成30年7月歌舞伎座)の海老蔵による「源氏」のことですが、舞台に源氏の色模様がほとんど見えません。例えば「葵の上」の場面ならば、それは六条御息所の怨念の背景にあるもので「源氏」を承知している観客ならば説明しなくても分かるものです。源氏の色模様のイメージは観客の脳裏のなかで想像してもらえばそれて良いということなのです。ここでは源氏の好色の、インモラル(不道徳)な要素はサラッと触れるだけでほとんど見えません。色模様を描くことを敢えて拒否したとも言えそうです。これは海老蔵が「源氏」をあれこれ試行錯誤した末に見出した「見識」であると言っておきましょう。海老蔵がこうしたかった気持ちは分かる気がします。しかし、その結果、ドラマは歌舞伎よりも能の方に強く寄った感触になってしまいました。この辺はまだ工夫の余地がありそうです。

一方、今回の「源氏」では別の角度から二元構図の活路を見出そうとしているようです。それは源氏が光と闇のなかに生きているという解釈です。源氏は幼くして母(桐壷の更衣)と死別し、父(桐壷帝)から遠ざけられて育ちました。そこに源氏の心の闇があり、人々から「光」と讃えられていても、その光は人々の心のなかに闇を生み、その闇に自分もまた苛まれて闇に堕ちていく、そのような物語として「源氏」を描こうと云うわけです。源氏は光と闇の二元構図に引き裂かれているということです。「抑えようとしても内面から湧き出る感情のままに動かされる」という気分が、ここにもあります。これはこれとしてひとつの歌舞伎的な「源氏」の視点であることは確かです。歌舞伎の場合はやっぱりこうならざるを得ないかなあと云うことも思いますね。

ここで今回の舞台が「光」と「闇」 の二元構図にどれだけ象徴的な重さを与えることが出来たかということが問題になると思います。残念ながら、それは十分ではなかったと思います。白の衣装の光の精霊(ザッカリー・ワイルダー)と、黒の衣装の闇の精霊(アンソニー・ロス・コンタンツォ)と云う、二人のバロック・オペラ歌手が登場しました。歌唱はなかなかのものでしたが、対立する二つのテーゼを観客に印象付けるには至りませんでした。しかし、これは歌手のせいではありません。周囲で「 字幕がないから外国語の歌詞が分からない」とお客がぶつくさ言う声が聞こえました。何だか雅びな感覚だけはあるが、白と黒の精霊の歌唱にどういう意味が持たされているのか判然としない。歌唱だけが浮き上がって、ドラマに絡んで来ない。海老蔵の源氏は哀し気な表情で佇んでいるだけでドラマがよく見えて来ない。だから観客は解釈の手掛かりをオペラの歌詞に求めたくなるのです。これでは本末転倒です。海老蔵の源氏が自分の心象風景を独白(もちろん日本語で良い)で語り、これに情感描写の形でオペラ歌手が掛け合う(もちろんイタリア語で結構)形にでもした方が良いかも知れません。源氏の方から積極的にオペラに絡んで行って、その実、源氏の台詞でオペラの歌詞を説明してしまうようにするとか、作劇技法に更なる工夫が必要なのです。歌舞伎にオペラを絡めたところは確かに海老蔵らしい飛んだ発想ではあるのだけれど、どうせやるのならばそこまでやらないと、ただ材料を並べて見せただけでは化学反応はなかなか起きないものです。この稿つづく)

(H30・8・16)


○平成30年7月歌舞伎座:「源氏物語」・その7

「源氏を完全に行おうとするならば、海老蔵君(=十一代目団十郎)が持っている天子に対する想像をば、舞台の上で彫刻する他ない」という折口のアドバイスは、民衆の心のなかの皇室への「近しさ」があったからこそ成立したものでした。「舟橋源氏」初演の昭和26年当時の民衆にはまだ天皇=現人神の感覚が依然として強くあったわけですが、天皇が戦後の人間宣言によって近いところに降りてくださったという「近しさ」があったのです。これが源氏を演じる時の取っ掛かりとなるものです。「舟橋源氏」での十一代目団十郎の光源氏の成功は、もちろん団十郎のいい男振りということもありますが、脚本家・役者・観客のなかに共有された皇室への精神的な近しさがなければ実現出来なかったものです。それから約70年の歳月が経ちました。今回の「源氏」の平成30年とは民衆と皇室との精神的な関係つまり「近しさ」の感覚が微妙に変わって来ているでしょう。当然脚本家・役者・観客の「源氏」への受け止めも変わって来ざるを得ません。

十一代目団十郎の源氏はどんなものであったかを改めて想像してみる必要があります。残念なことにあれほど話題になった舞台であるのに「舟橋源氏」での団十郎の映像は遺されていないようです。断片でも良いから、見てみたいものですが。仕方がないので、同時期の舞台で「竹取物語」からインスピレーションを得た加藤道夫の「なよたけ」映像を参考にしたいのですが、手元にあるのは昭和31年3月歌舞伎座の舞台映像です。(ちなみに「なよたけ抄」初演は「舟橋源氏」初演の3ヶ月後になる昭和26年6月新橋演舞場。)この映像から類推するに、当時の「舟橋源氏」については時代絵巻を見るようだとの証言が多いようだけれども・生(なま)の舞台を見た方の印象としてそれはそれとして、団十郎の源氏は決して情緒的なところに堕したものではなく、しっかり人間・光源氏の「実」を描こうと努めたものであったと吉之助は想像したいのです。(これは大事な点だと思いますが、団十郎のいい男振りは例えば切られ与三郎でも甘さよりは強さが目に付いたものでした。)

この点、今回(平成30年7月歌舞伎座)での海老蔵の源氏は、確かに姿形は祖父に似ているけれども(海老蔵も似てる似てると云われることにそろそろ辟易しているであろうが)、印象は祖父とかなり違うものではないかと思います。海老蔵の源氏は伏し目がちでもの憂げに台詞を語って甘ったるく、ほとんど人間・光源氏の「実」を描いてはいません。むしろ開き直って源氏を情緒的に描くことに徹している印象を受けます。感情の襞を説明するところは音楽に任せているのです。なにしろ「人間浄瑠璃」ですから。しかし、祖父とは「違う」ということを、吉之助は海老蔵が駄目だという意味で言うのではありません。その「違い」に、約70年の歳月を経た、脚本家・役者・観客の「源氏」の受け止め方の変化を見るわけです。これについては いろんな議論が出来るところだと思います。

吉之助の印象をちょっと記しておきますが、歌舞伎というものは本質的に「現世の芸能」であって、表現は写実的・具象的な方向を志向するものだと吉之助は考えます。具象的な方向とは、それまで神への奉げ物の性格を強く残していた「芸能」が民衆の元へ降りていくということを意味します。海老蔵が今回の舞台に「総合伝統芸能」の実現を考えているのならば、日本の伝統芸能のなかでの歌舞伎の位置付け(役割)を明確にしておく必要があります。能狂言でも文楽でもない、歌舞伎の役割がそこにあるからです。写実化・具象化が歌舞伎の役割です。つまり「源氏」を民衆の「実」で描くことが歌舞伎の役割となるべきです。芝居の本筋を担うべき源氏を音楽に任せて情緒的に描き(本稿で長々書いた通り、そうならざるを得ない難しさを吉之助は痛いほど理解していますが)、この世 あらざる存在である龍王を「これこそカブキの見せ場だ」と云わんばかりに車輪に演じれば演じるほど、吉之助は舞台から肝心の歌舞伎が奥に引っ込んでしまった気がします。龍王がまるで源氏の生霊の如くに見えてしまいます。それはドラマが現世の視点・民衆の視点に根ざしていないからです。これでは能にお株を取られてしまっても仕方がないところです。

元禄の初代団十郎の荒事はそれが庶民の立場に根ざしているから歌舞伎なのです。隈取りしてるから、見得があるから歌舞伎になるのではない。そこの論理(ロジック)が錯綜していると思いますがねえ。 歌舞伎の役割をそこに見ますか?これは今回の「源氏」だけに限ったことではなく、「ワンピース」など 最近の新作歌舞伎についても同様なことが云えると思いますね。
この稿つづく)

(H30・8・8)


○平成30年7月歌舞伎座:「源氏物語」・その

今回(平成30年7月歌舞伎座)の「源氏」 では、謡いやバロック・オペラなど異ジャンルの芸能 のコラボで音楽的要素を強調し、さらに最新のプロジェクション・マッピング技術で役者の動きに連動させた映像演出によって舞台面に動的な要素が加えられて、舞台面は華やかで美しく、映像ショウとしてなかなかのものに仕上がりました。それはそうとしても、いろんな要素をてんこ盛りにした結果、肝心の歌舞伎が奥に引っ込んじゃった気がしますねえ。春宮を見詰める光源氏(海老蔵)は憂いを帯びた表情で「哀しそうに」台詞を言うけれども演技は形骸化しており、「哀しみ」の表出はほとんど音楽に任された感があります。もっともこれは海老蔵は最初から承知の上だったようです。平成26年4月京都南座の「源氏」の時にも海老蔵はこんなことを語っています。

『世界最古のラブストーリー(「源氏」)が日本にあり、それを歌舞伎や能楽という日本の古典芸能の人間がやり、情緒を外国語で説明するというわけです。(注:カウンターテナーによる歌唱のことを指している。)オペラの力を借りて、光源氏や女性たちの進境をオペラ歌手に外国語で語ってもらい、我々(歌舞伎役者)は人形になる・・・。簡単に言うと歌舞伎方式文楽ということかな。今、僕は、歌舞伎役者がやる文楽方式を狙って、これを企画しているわけです。人間浄瑠璃だね。(笑)』(市川海老蔵:平成26年4月京都南座・「源氏物語」公演プログラム)

「人間浄瑠璃」とは言い得て妙で、海老蔵らしい自虐的表現ですね。つまり歌舞伎役者は敢えて木偶に徹し、情感や主題は音楽(謡いやバロック・オペラ、義太夫・長唄など)から感じ取っていただきましょうと云うことなのです。意地悪く見れば、 海老蔵が人間・光源氏を描くことを放棄して情緒的な表現へ逃げたと批判されかねないところです。しかし、海老蔵はこれを当然ポジティヴに捉えているはずです。吉之助がこれを「理解できる気がする」とする理由は、これは詰まるところ、舞台上に人間・光源氏を具体的な形で表現することの難しさから来るものであるからです。どんなに試みても、「光の君」の輝き・大きさ・深さは捉えがたい。無理にそれをしようとすれば、それはどうしても情緒的なものに傾いて、あやふやなものになってしまう。何かを取り落としたような、中途半端なもどかしさを感じてしまう。ならばいっそのこと情感を説明することは音楽に任せてしまえばどうか。海老蔵は初めて光源氏を演じて以来、こんなことをずっと考え続けていたのでしょう。その難しさに思い悩んだ末に、海老蔵がひねり出した解決策がこれ(人間浄瑠璃)です。当たっているかどうかは別にして、これもひとつの解答ではあるのです。吉之助はそこに役者・海老蔵の真正直さを感じてしまうのです。

「これは歌舞伎なのか?」という問いが出て来るかも知れませんが、その問いはとりあえず保留にしておきます。海老蔵はもっと遠くを見ているようです。吉之助が今回の舞台を見た印象では、海老蔵が考えているのは歌舞伎だけのことではなく、恐らく彼が思い描いているイメージは「総合伝統芸能」みたいなものでしょう。それはいろんなジャンルの芸能、芸術的要素を統合して、ひとつの舞台にまとめあげることです。その意味では、なかなかよく混じっていたと思います。しかし、まだ混沌の状態に留まっている印象で、吉之助にはその先にある「歌舞伎の未来」がよく見えて来ません。しかし、まあこういうことは何度か試みてみなければ事の成否は云えぬものです。(この稿つづく)

(H30・8・4)


○平成30年7月歌舞伎座:「源氏物語」・その

海老蔵が光源氏を初めて演じたのは、平成12年(2000)5月歌舞伎座での「源氏」(瀬戸内寂聴訳、当時は七代目新之助)のことでした。これは同年1月新橋演舞場での「助六」と共に、その後の新之助(海老蔵)人気を決定付けたものです。ただし海老蔵自身は 光源氏を演じながら、どこかに居心地の悪さと云うか、もどかしさを強く感じていたようです。後年、海老蔵はこんなことを回想しています。

『(当時)右も左も分からない若い役者が、何も考えずに言われるがまま、ただ伏し目がちに立っているだけの自分がいました。・・・美しい光の君、それだけ。でもそうしていることに意味があるということをお客様は感じてくれたのかも知れず、結果的には大成功でした。』(市川海老蔵:平成26年4月京都南座・「源氏物語」公演プログラム)

海老蔵は感性がとても真っ直ぐな役者だなあと思います。海老蔵が光源氏を演じてもどかしさを感じる気持ちが、吉之助にはよく分かります。「光の君」のイメージを舞台上に現出させることはなかなか難しいことなのです。海老蔵のもどかしさは、そこから来ます。人間・ 光源氏」は漠然として掴み難い。これを具体的なものにしようと思えば思うほど、逆に演技は情緒的な方向へ陥ってしまう、手元から 光源氏がスルリと抜け落ちてしまう気がする、そこが 光源氏を演じることの難しさです。

もちろんこれは役者の問題だけではなく、「源氏」を脚本にすることの難しさでもあります。もうひとつ皇室と庶民の精神的関係も、祖父が初演した昭和26年と平成の時代のそれとは微妙に異なります。だから当然観客の「源氏」の受け止め方も変わって来るでしょう。光源氏は祖父・父と三代続く成田屋の大事な役ですから、海老蔵は光源氏という役と真剣に向き合わざるを得ません。普通ならば満員御礼・結果オーライで何となくスルーしてしまいそうなところを海老蔵はいい加減に出来ないのでしょう

この光源氏を演じることのもどかしさを何とか解決したいと、海老蔵は真剣に考えたと思います。海老蔵は平成12年から17年まで瀬戸内寂聴訳で従来型の「源氏」を数回ほど演じ、数年の空白があった後、海老蔵は平成26年(2014)4月京都南座においてカウンターテナーのオペラ歌手と共演すると云う、新しいスタイルの「源氏」を世に問いました。今回(平成30年7月歌舞伎座)の「源氏」もそのコンセプトの延長線上にあるものです。今回はオペラ歌手だけでなく能楽師も招いて、異ジャンルの芸能とのコラボレーションをさらに強調した「源氏」となっています。これを可能にした海老蔵の企画力 ・実行力は大したものです。

今回の「源氏」を現時点での海老蔵の結論と考えますが、吉之助は「源氏」を舞台化することの難しさを改めて痛感させられました。満員の客席はよく反応して、拍手も盛大なものでした。「舞台がとにかく綺麗!もう一度見たい」と感激していた観客が多かったと思います。ただし吉之助は批評家でありますから、いろんな芸能をてんこ盛りした舞台に圧倒されつつも、或る種醒めた目で舞台を見ざるを得ないので、少しその辺を書きますが、ここには人間・光源氏」は見えなかったと思います。光の君の印象はあるけれども、具体的な人間ドラマは見えて来ない。と云うよりも海老蔵は「人間・光源氏」を表現し尽くすことは到底無理なことだとして、まったく別の方向から印象として表現することで光源氏に迫ろうとしたということかなと思います。そのために徹底的に利用されたのが、オペラや謡(うたい)さらに長唄・義太夫などの音楽的要素です。海老蔵がこうせざるを得なかったのが吉之助にも何となく理解できる気がします 。(この稿つづく)

(H30・7・22)


○平成30年7月歌舞伎座:「源氏物語」・その4

輝かしい「光の君」のイメージを舞台上に現出させることはなかなか難しいことなのです。これは歌舞伎だけのことではありません。先行芸能である能には「葵上」とか「夕顔」とか「源氏物」と云える作品がありますけれど、「葵上」でも「夕顔」でも源氏は舞台に出て来ません。シテの語りで投影されるイメージのなかに源氏は描かれます。歌舞伎は能よりも具象性・写実性の方に寄った芸能ですから難しいと思いますが、もし能に「人間・光源氏」を突っ込んで描いた作品があったとすれば、或いはそれを取っ掛かりに して歌舞伎にも源氏を描いたものが出たかも知れません。しかし、結局、それは出なかったのです。歌舞伎のそれは草双紙的な「偐紫田舎源氏 」の足利光氏(みつうじ)の類型的な色男のイメージに留まりました。色男とか和事とか、そのような定型のパターンに当てはめただけでは、光源氏の表現は十分でないのです。

歌舞伎にとって「源氏」の最初の直截的な劇化である「舟橋源氏」の初演は昭和26年(1951)3月歌舞伎座のことで、光源氏を勤めたのは九代目海老蔵(後の十一代目団十郎)でした。これは戦後歌舞伎の最大のスター・「花の海老さま」人気を決定付けたものでした。「舟橋源氏」初演に際し折口はこのように書いています。

『源氏というのは天子の御子であって、臣下に降った人だということになっておりますけれども、信仰と物語風に見れば、天子と同格者なんです。源氏という人は、その時代の理想的な生活を、理想的に書き写したものなんですから、これの型は天子より他にありません。(中略)ですから源氏には、昔の人が持っておった天子の姿というものが具体的に現れているわけです。今度の芝居が、市川海老蔵君が完全に源氏を行おう、演じようと思ったら、市川海老蔵君が持っている天子に対する想像をば、舞台の上で彫刻する他ない。もし話す機会があったら、注意して上げて下さるように、戸板康二君に依頼しておいたのですが、海老蔵君には届きましたでしょうか。役者というものは敏感ですから、恐らくそういうことを感じているかも知れません。また感じてくれなければ、源氏の生活・性格は正確には出ません。こういう歴史的な意義のあるものなのです。』(折口信夫:「源氏物語における男女両主人公」・昭和26年9月)

天皇人間宣言が出されたのは、昭和21年(1946)1月1日のことでした。これ以前は「天皇が現人神である」とされた時代でした。この流れは平安の時代から変わらず、ずっと続いて来たものです。民衆には「天皇=現人神」の感覚が依然強く残っていました。「舟橋源氏」初演(昭和26年)時点での観客は(もちろん折口も九代目海老蔵も含めて)すべて戦前の生まれです。戦前には「源氏」は古典文学の最高峰として重く見る動きがある一方で、「源氏」は皇室をスキャンダラスに描いたもので不敬であるとする見方もあって、このため演劇分野では「源氏」の劇化が出来ませんでした。事実、警察の介入で「源氏」上演が差し止めを喰った事件なども起きました。ですから「舟橋源氏」初演(昭和26年)も、天皇人間宣言がなければ到底実現できなかったものです。舞台上に「人間・光源氏」が登場したことに、当時の観客はそこに戦後の新しい皇室の新鮮なイメージを重ねたに違いありません。「舟橋源氏」以後、宝塚でも映画でも「源氏物」が続々制作されて行きます。「舟橋源氏」の成功は、戦後日本の復興が始まる昭和26年という時代と切り離せないものです。

「海老蔵君が持っている天子に対する想像をば、舞台の上で彫刻する他ない」と折口が言った意味を改めて考えたいのですが、これは天皇人間宣言のことを考えて初めて理解が出来ます。これまでの歌舞伎は、光源氏という人物を具体的なイメージとして舞台上に描き出すことが出来ませんでした。歌舞伎は「源氏」を劇化する手法をこれまで持 たなかったのです。もし劇化の手掛かりとなるとすれば、それは平安の時代からこれまで民衆の心のなかに綿々と育まれてきた「天皇」のイメージだけです。戦前の「天皇」は現人神でありましたけれども、精神的な意味においては民衆に近しい存在でもあったと思います。このイメージを研ぎ澄まして形象化して、舞台上に「人間・光源氏」を表現するしか方法はありません。人間宣言によって歌舞伎にようやくその機会が巡ってきたのであるから、九代目海老蔵(=十一代目団十郎)は自らの直感においてそれを行わねばならぬ、もしかしたら九代目海老蔵は畏れ多いこととそれを躊躇するかも知れないが、それしか方法はないと折口は言うのです。

ここで本稿はやっと本題に入るわけですが、昭和26年と平成30年と時代は違えども、祖父(九代目海老蔵)と同じような課題が、孫である当代(十一代目)海老蔵にも課せられて来ると、吉之助は思うわけです。(この稿つづく)

(H30・7・22)


○平成30年7月歌舞伎座:「源氏物語」・その3

光源氏が持つ、捉えがたい人物の大きさとか奥行きの深さ、徳の高さのようなもの、こういうものは、一様のイメージで言い表すことが難しいものです。いろいろな人物が自分の言葉でそれを表現しようと 試みましたが、例えば折口はこれを「色好み」と呼びました。色好みと云うと、漢語の「好色」と混同されて、近代人はこれを道徳的に良くないことのように考えてしまいがちですが、昔の人は決してそうは考えなかったと折口は言っています。

『色好みというのはいけないことだと、近代の我々は考えておりますけれど、源氏を見ますと、人間の一番立派な美しい徳は色好みである、ということになっております。少なくとも、当代第一、当時の世の中でどんなことをしても人から認められる位置にいる人にのみ認められることなのです。そうでない人がすると、色好みに対しては、「すき心」とか「すきもの」とか云うような語を使いました。(中略)光源氏という人は、昔の天子に対して日本人の我々の祖先が考えておった一種の想像の花ですね。夢の華と申しましょうか。その幸福な幻影を平安朝のあの時分になって、光源氏という人にかこつけて表現したわけであります。(中略)色好みということは、国を富まし、神の心に叶う、人を豊かに、美しく華やかにする、そう云う神の教え遺したことだと考えておった。』(折口信夫:「源氏物語における男女両主人公」・昭和26年9月)

吉之助が思うには、色好みと云うことを男女の性愛に限定して考えるべきではなく、この世の森羅万象が引き起こす「もののはあはれ」の感情、それは嬉しいこともあり悲しいこともあるわけですが、それらのものに感応する 柔らかな心を持っていることが色好みと云うことです。源氏はそのような徳を持つ人物なのです。しかし、源氏も生身の人間ですから至らないところはあります。時には間違いも起こします。また宮中で起る、醜い政治の争いやドロドロした人間関係のいざこざに巻き込まれて苦しまねばなりません。このような数々の苦しみを経て、源氏は生来持ち合わせた徳を磨いて行きます。別の見方をすれば、源氏は神に近づいていく為に、それに見合った数々の試練を与えられると考えることが出来ます。折口はこのようにも言っています。

『人によっては、光源氏を非常に不道徳な人間だと言うけれども、それは間違いである。人は常に神に近づこうとして、様々な修行の過程を積んでいるのであって、そのためにはその過程々々が省みる毎に、過ちと見られるのである。始めから完全な人間ならば、その生活に向上のきざみはないが、普通の人間は、過ちを犯した事に対して厳しく反省して、次第に立派な人格を築いて来るのである。光源氏にはいろんな失策があるけれども、常に神に近づこうとする心は失っていない。この事はよく考えてみるがよい。(中略)源氏物語は、男女の恋愛ばかりを扱っているように思われているだろうけれど、我々はこの物語から、人間が大きな苦しみに耐え通してゆく姿と、人間として向上してゆく過程を学ばねばならぬ。源氏物語は日本の中世に於ける、日本人の最も深い反省を書いた、反省の書だと言うことが出来るのである。』(折口信夫:「反省の文学源氏物語」・昭和25年7月)

恐らくこう書きながら、折口はもどかしさを若干感じたかも知れません。折口も近代人ですから、「反省」というような言葉を使わざるを得ないからです。もし反省と云う行為が何かの倫理基準に基づいて行われるならば、その時点でそれは何か不純なものを孕むのです。一方、「色好み」というのは、ただ感じ取るだけです。何が美しいか・何が美しくないかを感じる取るところから、反省が生まれます。美しいならば、それが正しいことなのです。ですから折口が云う「反省」と云う行為も、感じ取ることです。折口が言いたかったことは、そういうことです。(この稿つづく)

(H30・7・20)


○平成30年7月歌舞伎座:「源氏物語」・その2

歌舞伎には「世界」という概念があります。作劇の根本にある枠組みが、世界によって決まります。いろんな区分の仕方がありますが、江戸期の戯作者が「源氏」を歌舞伎にしようとすれば、多分これは「王代物」ということになると思います。しかし、王代物と云うのは時代の幅がとても広いものです。大雑把なもので、「昔むかしその昔」と云うものはみんな王代物になってしまうようです。大化の改新の大和時代も王代物になるし(例えば「妹背山婦女庭訓」)、平安時代も王代物に含まれて来ます。(例えば「競伊勢物語」) 朝廷の事件・右大臣菅原道真失脚を史劇として真正面から描けず、三つ子の兄弟の物語に仕立てて描かなければならなかった「菅原伝授手習鑑」のことを思い起こせば、歌舞伎のドラマ化の発想が分かると思います。だから「源氏」も王代物ということになりますが、 江戸期の民衆にとってそれはあまりに時代がかけ離れ過ぎていて、お公家さんの生活というものを真正面から想像することが難しかったのです。昭和26年の「舟橋源氏」初演に際して、折口信夫はこんなことを書いています。

『歌舞伎芝居において、今度初めて行われる源氏物語の芝居なんか、どの世界にも入らない。入らなくても、それは仕方がない。分類の土台になる知識のなかになかったのですから。(中略)それならば、今までの役者はどうしておったか。例えば六代目菊五郎のような直観力の鋭敏であった人でも、どう説明したところで、王朝--源氏物語が書かれ、その小説のモデルになった人々に生きておった、そういう時代をば、思い浮かべることが出来なかったのです。つまり教養がなかったからでもありますが、教養があったって分からない。我々は初等教育から大学・大学院教育にいたるまで、長い間、歴史を教わってきましたけれど、打ち明けた話が、本道のことは頭に入っていない。(中略)だから我々だって、あなた方だって、本道の歴史教育を受けて来たにもかかわらず、果たして源氏の世界が分かっているかということになると、問題です。我々の先輩、我々の同輩の書かれました、色々な源氏の研究を見ましても、例えば光源氏の性格は、我々が今まで自由に考えて来たようなものであったかどうか疑わしい。だから我々が本気になってかかってみたって、本道の源氏の姿をば出せるかどうか疑わしい。(中略)だけども歌舞伎役者には特殊の「勘」というものがある。直感力というものがありまして、教えられていないことを悟る。(中略)それでもやっぱり平安朝のものは駄目だった。それを「勘」で引き出すことは役者にも出来なかった。(中略)だから、私は今度の芝居をまだ見ておりませんが、我々の知識で総合して持っている考え方と、大変合わないところが出て来るのではないかと思っているのです。』(折口信夫:「源氏物語における男女両主人公」・昭和26年9月・吉之助が文章の流れを若干整えました。 )

折口の言わんとすることが分かりにくいかも知れないので、吉之助が補足しますと、我々の歴史観というのは、或る種の「型」にはまったもの(何らかのイデオロギーと云う色眼鏡を通して見るということ)で、光源氏という人物像を、正しく描き出しているかどうか分からない。しかし、書物で読んで光源氏を解釈するのと、役者が舞台で光源氏を演じるということとは、筋道が全然違います。だから、たとえ平安の知識を持ち合わせていなくても、役者が、(例えば六代目菊五郎のような)鋭敏な「勘」を持ち合わせた役者が、知識を飛び越えて直感で、そのことを舞台上で具現化することを期待したいところである。しかし、やっぱりそれも難しいことなのだろうと、折口は云うのです。大きな要因としては、歌舞伎が「源氏物語」を理解するための方法論、それにふさわしい 「源氏物語」の世界観を持ちあわせなかったからです。

そこで吉之助が改めて感じるのは、「源氏」で紫式部が描いた光源氏という人物は、絶世の美男子・モテ男・色男という一通りのイメージで括れる単純な人物ではないと云うことです。光源氏は、捉えがたい人物の大きさ、奥行きの深さを持っているのです。その捉えがたいものを、本居宣長は「もののあはれ」と呼び、折口信夫は「色好み」と呼びました。それでも光源氏 をまだまだ十分捉え切れていないと折口は感じています。舞台上に輝かしい「光の君」のイメージを現出させることは、なかなか難しいことなのです。逆に云えば光源氏がそのように掴み難い人物であるからこそ、江戸の歌舞伎は源氏の「世界」を作り出すことが出来なかったということでもあります。 (この稿つづく)

(H30・7・18)


○平成30年7月歌舞伎座:「源氏物語」・その1

昨年秋のことですが、吉之助は「源氏物語と歌舞伎」というテーマでお話をさせていただく機会がありました。実は吉之助は元々「源氏」について詳しいわけではありませんでした。と云うのも、「源氏」ほど日本人の心に大きな影響を与え続けてきた古典文学はないと断言して良いくらいなのに、歌舞伎では「源氏」から直接的に取材した芝居と言えば、戦後の作家・舟橋聖一の脚色による、いわゆる「舟橋源氏」(昭和26年 3月歌舞伎座初演、九代目海老蔵による光源氏)以後の一連の「源氏」新作物しかないからです。江戸時代の歌舞伎の「源氏」は、「源氏」は「源氏」でも翻案になる、幕末の柳亭種彦の合巻「偐紫田舎源氏(にせむらさきいなかげんじ)」の劇化くらいのものだったのです。(初期の近松門左衛門に「今源氏六十帖」などの作品がないわけではないが、これらも主筋としては御家騒動物で、あくまで文献上残っているというのみ。)しかも、これも上演機会が極端に少ない。吉之助も「田舎源氏露東雲(いなかげんじつゆのしののめ)」(通称「古寺」)を一度見た切りです。いずれにせよ古典歌舞伎に「源氏」物と呼べるようなジャンルは存在しないも同然でした。だから吉之助もこれまで「源氏」を勉強する必要性があまりなかったのです。

しかし、「源氏物語と歌舞伎」と云うテーマを戴いて「源氏」と正面から向き合ってみると、古典歌舞伎に「源氏」物と云うジャンルが存在しないことが、改めて不思議なことに思われるのです。江戸時代になって、それまで貴族や上流階級の教養であった「源氏」が庶民階級に下りて来て、世間に広まっていきます。実に多くの「源氏」解釈本が、江戸時代に書かれました。そのなかで最も有名なものが、「もののあはれ」論で有名な、本居宣長の「紫文要領」・「源氏物語玉の御櫛」であることは言うまでもないですが、その宣長も伊勢松阪の町人出身の学者でした。江戸期の庶民にとって「源氏」は決して縁遠いものではなかったのです。それなのに歌舞伎はどうして「源氏」を取り上げることがなかったのか。或いは取り上げることを阻害する要素が何かあったのか。その理由を突き詰めて行けば、それは歌舞伎の本質を考えることにもなり、「源氏」の本質を考えることにもなるであろう。そのような目論見を立てて吉之助はお話をしたつもりですが、当日は面白く聞いていただけたのであれば幸いです。ここで本稿で改めてそのアウトラインをなぞってみることにします。(この稿つづく)

(H30・7・15)


○谷崎潤一郎・「瘋癲老人日記」朗読録音のこと・その2

「瘋癲老人日記」冒頭での谷崎の朗読は、主人公の日記を読むと云う「心」なのか、感情を込めず淡々とした語り口ですが、聴きなれてくると飄々としたなかに滑(ぬめ)った味わいがあってこれが面白い。女性にアライヤダ〜と云われると、二ーッと嬉しそうな顔をする、これは助平爺さんの風なのです。本作が口述筆記で書かれたことは、よく知られています。口述筆記の時もこれと同じ感じだったとは思いませんが、出来上がった原稿を読んでいるから、そういうところが二重映しに出て来るのかも知れません。朗読の眼目は主人公・督助が息子の嫁の颯子(さつこ)とのやり取りということになりますが、録音の颯子役がお気に入りの女優・淡路恵子(これは谷崎の指名によるそうです)であったこともあって、谷崎の声も実に楽しそうです。

『「ソンナニ恐々拭カナイデ、モット手ニカヲ入レテシッカリト。ア、オ爺チャン左ガ駄目ナノネ、右ノ手デ一生懸命キュー/\トッテヨ」
咄嗟ニ予ハタオルノ上カラ両肩ヲ掴ンダ。ソシテ右側ノ肩ノ肉ノ盛リ上リニ唇ヲ当テ、舌デ吸ッタ、ト、思ッタ途端ニ左ノ頬ニ
「ピシャッ」
ト下平手打チヲ喰ッタ。
「オ爺チャンノ癖ニ生意気ダワ」
「コノクライハ許シテクレルンダト思ッタンダ」
「ソンナコト絶対ニ許サナイワヨ、浄吉ニ云附ケテヤルカラ」
「御免々々」』(谷崎潤一郎:「瘋癲老人日記」)

上記の場面はサラッとして、厭らしい感じが全然ありません。お姉さんにいたずらを叱られて、舌をペロッと出してキャッキャ喜んでいる子供みたいな感じです。下平手打ちの音の後、台本にない「アッ」と云う小さい谷崎の声が入っています。なかなか芸が細かい。(笑) これも興味深い。可愛いエロ爺さんですね。

ところで「瘋癲老人日記」は巷間「息子の嫁に性欲を覚える性的不能老人の倒錯を日記形式で描いた小説」とされています。なにせ「変態作家」の谷崎潤一郎ですから。衆人の興味がそちらの方へ向くのは当然かも知れませんが、本作について論じた文芸評論を読むと、谷崎の変態趣味 (谷崎は脚フェチであった)を論じたものばかり目につきます。(介護小説という切り口の批評があったのはなかなか新鮮な視点でしたが、本稿には関連しません。)しかし、本作冒頭が「助六」観劇と五代目訥升の揚巻のことから始められていることを、文芸評論家の方々はどのようにお考えなのでしょうかねえ。颯子を筋に絡ませるためだけに、谷崎が嫁と一緒に歌舞伎を観に出かける場面を設定したに過ぎないとお考えなのでしょうか。そうではなくて、谷崎が冒頭部で歌舞伎・女形について長々書いていることは、本作のその後の展開のために大きな意味を持つと吉之助は思うのですが、そういうことは気にならないのでしょうか。「吉野葛」や「春琴抄」でもそうですが、谷崎文学と伝統芸能との係わりを考慮しながら「瘋癲老人日記」を読んでみると、ちょっと違う視点から面白い分析が出来ると思うのですがねえ。というわけで近いうちに「瘋癲老人日記」について吉之助の考察を披露する予定にしております。まずはそのため口上左様。


(H30・7・11)


○谷崎潤一郎・「瘋癲老人日記」朗読録音のこと・その1

先日ふとしたことから昭和37年(1962)5月に谷崎潤一郎が自作の「瘋癲老人日記」を朗読した放送録音(朝日放送・TBSラジオ共同制作)があると聞いて入手したのですが、とても面白く聴きました。ちなみに「瘋癲老人日記」は、雑誌「中央公論」に昭和36年11月から昭和37年5月にかけて連載されたものですが、放送録音台本は小説の前半部分を谷崎が再構成したものとなっており、時間は約77分です。

『十六日。………夜新宿ノ第一劇場夜ノ部ヲ見ニ行ク。出シ物ハ「恩讐の彼方へ」「彦市ばなし」「助六曲輪菊」デアルガ他ノモノハ見ズ、助六ダケガ目的デアル。勘弥ノ助六デハ物足リナイガ、訥升ガ揚巻ヲスルト云ウノデ、ソレガドンナニ美シイカト思イ、助六ヨリモ揚巻ノ方ニ惹カレタノデアル。婆サント颯子ト同伴。浄吉モ会社カラ直接駆ケツケル。(中略)勘弥ノ助六ハ初役デアロウガ、ヤハリドウモ感心出来ナイ。勘弥ニ限ラズ、近頃ノ助六ハ皆脚ニタイツオ穿ク。時々タイツニ皺ガ寄ッタリシテイル。コレハ甚ダ感興ヲ殺グ。アレハ是非素脚ニ白粉ヲ塗ッテ貰イタイ。訥升ノ揚巻ハ十分満足シタ。コレダケデモ来タ甲斐ガアルト思ッタ。福助時代ノ昔ノ歌右衛門ハイザ知ラズ、近頃コンナ美シイ揚巻ヲ見タコトハナイ。』(谷崎潤一郎:「瘋癲老人日記」)

「瘋癲老人日記」の冒頭部分です。カタカナ交じりの文体がちょっと読み難いですね。読者にじっくり 文字を読ませるため、谷崎は意図的にこの文体を採用しているのです。五代目訥升は後の九代目宗十郎のことで、当時27歳。贔屓にしていた六代目菊五郎が昭和24年7月に亡くなってから、谷崎は一時歌舞伎への関心を失いかけていましたが、この時期には若手女形・訥升の美しさに熱を上げていたようです。

小説には谷崎の実体験が多く取り入れられています。新宿第一劇場・夜の部の「助六曲輪菊」は、昭和35年(1960)6月公演でした。「恩讐の彼方へ」は二代目猿之助(初代猿翁)の僧了海、「彦市ばなし」は三代目段四郎 の彦市の演し物ですが、文中にある通り谷崎はこれを見ず、お目当ての訥升が出る「助六曲輪菊」だけ見たようです。これは当時の谷崎の体調では 劇場の椅子に長時間座っていられなかったということがあったようです。「助六」の配役は十四代目勘弥の助六、意休は五代目(高砂屋)福助、白酒売は八代目宗十郎、揚巻が五代目訥升でした。ちなみに文中に「福助時代ノ昔ノ歌右衛門」とあるのは、五代目歌右衛門のことです。

小説中にも記述がありますが、後日、谷崎は同じ月の昼の部にも行ったようで、訥升が出演した「心中天網島」のみを見ています。この時の演目「心中天網島」は、治兵衛が三代目団子(後の三代目猿之助・二代目猿翁)、孫右衛門が二代目猿之助、小春が訥升と云う配役でした。「瘋癲老人日記」のなかで主人公(卯木督助)が芝居を見に行く記載は、以上の2回だけになります。(この稿つづく)

(H30・7・8)


○「春琴抄」の口三味線のこと

口三味線と云うのは、チントンシャンというような、三味線の口唱法のことです。西洋音楽のような厳密な音階を示すものではありませんが、一定の法則があって、例えば一の糸を弾(はじ)くとドンといい、撥ですくうとロンという、擬声語です。音色、リズム、音の高さを日本語で置き換えたようなもので、三味線の譜を覚えるには、口三味線で覚えるのが、一番手っ取り早いのだそうです。

例えば「羽根の禿」でぽっくりを脱ぐ合方
チンレンチンチリレンチレテチーンテツーン チントツテーントン

三味線を手にしたことのない吉之助には、なかなか難しい。ところで谷崎潤一郎の「春琴抄」(昭和8年)には、主人公春琴が佐助の三味線を教える場面があります。(別稿「芸道小説としての春琴抄」を参照ください。)

『春琴は日によって機嫌のよい時と悪い時とがあり口やかましく叱言を云うのはまだよい方で黙ってめたまま三のをぴんと強く鳴らしたりまたは佐助一人に三味線を弾かせ可否を云わずにじっと聴いていたりするそんな時こそ佐助は最も泣かされた。ある晩のこと茶音頭の手事を稽古していると佐助のみが悪くてなかなか覚えない幾度やっても間違えるのに業をやして例のごとく自分は三味線を下に置き、やあチリチリガン、チリチリガン、チリガンチリガンチリガーチテン、トツントツンルン、やあルルトンと右手で激しくきながら口三味線で教えていたがついには黙然としてしてしまった。』(「春琴抄」)

ここで「チリチリガン」という口三味線が出て来ますが、口三味線の約束には「ガン」なんてツボはないそうです。だから「春琴抄」のこの場面を読むと、三味線のお師匠さんは「ガンなんて書くのは、谷崎さんは三味線をよくご存じではないのでは?」と言いたくなるそうです。しかし、谷崎は昭和2年から大阪の音曲界の権威、菊原琴治検校について日々三味線の稽古に励んでいて、素人の手習いにしてはなかなかの技量に達していたとの証言もあります。昭和9年時点ならだいぶ上達していたでしょう。 谷崎が口三味線の約束を全然知らなかったとも思えません。吉之助としては、谷崎は分かってはいても或る音をどうしても「ガン」と表現したかったから敢えてそう書いたと考えたいのですが、別に根拠があるわけではないです。ただ「チリチリガン、チリチリガン」と書かれると、春琴の稽古の熱さ、佐助の下手さに春琴がイライラしている様子が伝わって来るようです。

根拠になるかは分かりませんが、三代目大隅太夫が晩年に「吃又」の稽古をつけた時に、「ここに土佐の末弟・・」のところで三味線を「トーン」と弾くのを止めて、「そこは(二代目)団平師匠はゴーンと弾かはった、ゴーンと弾いてんか」と相三味線に執拗に言ったという話があります。 「三味線にゴーンなんてツボはおまへん」と言うと、それっきり見放されるのだそうです。まあこの逸話も大隅は三味線弾きじゃないからゴーンと言うのだといえば、それまでのことですがね。

だから口三味線の約束は約束として置いて、その音をガンとかゴーンとか表現したくなるという瞬間も時にはあるのじゃないかと吉之助は思うわけです。

(H30・7・1)


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